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とても懐かしい思いで楽しく拝見させていただきました。ありがとうございます。私が小田急を利用していた1984年から1989年は、新宿駅の分割案内板はA~Dまであり、Aは後ろ4両が18M車、Bは後ろ4両が20M車、Cは後ろ6両が18M車、Dは後ろ6両が20M車だったと思います。急行は、「前6両が箱根湯本行き、後ろ4両が江の島行き」、「前6両が小田原行き、後ろ4両が各停の江の島行きや藤沢行き、相模大野どまり」、「相模大野まで急行、相模大野から前6両が各停本厚木行き、後ろ4両は藤沢行き」など、他にも色々な行き先がありました。新百合ヶ丘発車後に、前6両と後ろ4両それぞれ別々の車内放送があったのも懐かしいです。相模大野での切り離しの際、前6両小田原方面行きの運転士さんと車掌さんが慌ただしく交代していたのも目に焼き付いています。
コメントありがとうございます。お楽しみいただきありがとうございました。分割のパターンは多くの方がコメントされていましたが、車内放送を分けて実施されていたというのはこのコメントをいただくまで忘れておりました。ありがとうございます。分割併合前後の慌ただしさは相模大野の名物的光景でしたね。まだ一桁年齢でしたが、一生懸命観察していたのを覚えています。ありがとうございました。
とても分かり易く、資料や動画を組み合わせてナレーションを入れて製作に大変なご苦労をされたことと思います。今回の動画に車型が入ったらもう何か月も掛かるものになってしまいそうですね。次回作も楽しみにしております。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただきとても励みになります。次回作も面白いものが作れるよう努めます。ありがとうございました。
超大作、超高評価、懐かしいです!大野化け泣き別れ両方江ノ島線各停がエモい。地上時代の経堂が8両対応だったので、新宿発着10両準急は平日朝ラッシュ以外は少なく、自然と分割併合は少なかったですね。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただき嬉しいです。これからも面白い動画を作っていきますのでよろしくお願いいたします。相模大野で両方江ノ島線に行く電車は少々記憶があり、子供ながらとても注目していました。もっと本数が多いかと思っていたのですが、各停本厚木+各停藤沢の組み合わせが意外にも多くありました。経堂も大きく駅が変わりましたね。当時大人だったら映像を頻繁に撮影していたのかなと思います。
田舎から出てきたばかりの当時、相模大野での併合は衝撃でした相模大野に着いたかなと気を抜いた瞬間に車両後方から突き上げるような衝撃。立ってる人はみんなヨレっとなってた
コメントありがとうございます。分割併合は興味深いですが、旅客扱い中に連結すること自体が確かに頻繁となるとリスクも伴いますから、現場は大変だったでしょうね。私もよく連結する側の編成から前の景色を見ていました。
懐かしい、江の島線沿線に住んでいたので、何時も後ろ4両に乗ってました。
コメントありがとうございます。私も幼少期は江ノ島線ユーザーで、4両の電車が懐かしいです。
小田急沿線民で今となれば懐かしいので高い評価しました。分割でこんなのが有りました…急行相模大野行で前6両が相模大野止で後4両が相模大野から各駅停車片瀬江ノ島行というトンでもないものが土休日の昼間に1本有りました(これに乗って自宅最寄り駅まで乗ったことあった)。
コメントありがとうございます。1990年土休日ダイヤの新宿13:50発急行相模大野行きが、相模大野から前6両相模大野どまり、後4両各駅停車片瀬江ノ島行きでした。カウント漏れでした。ありがとうございます。続編の集計で訂正版を出そうと思います。ありがとうございます。ちなみに、この90年ダイヤの土休日日中には、小田原行の急行の後ろ6両相模大野どまりもありました。
@@OdakyuDiagram ちなみに化け急でも相模大野から全車両が各駅停車本厚木行になる場合は町田発車後に幕を回しますが、前6両が各駅停車片瀬江ノ島行等で後4両相模大野止の場合は相模大野到着後に切り離し作業をしている最中に幕を変えていました。京急も日中の快特が12両運転だった頃でも新逗子(現・逗子葉山)又は浦賀始発の4両で品川止の編成の場合は小田急みたいに普通金沢文庫と表示して金沢八景発車後に快特品川と幕を回していたが、のちに始発駅の時点で終着駅の行先(品川)になりました。余談だが、羽田空港のD特4両は始発駅の時点で普通羽田空港と表示していました(品川・羽田空港発の快特・特急の新逗子・浦賀も同様)。
コメントありがとうございます。これ懐かしいです・・・!記入いただいた化け急の場合、案内放送も、相模大野駅の接近放送にも関わらず「急行相模大野行がまいります」という放送だった記憶があります。後ろが当駅止まりの場合は、各駅停車片瀬江ノ島行10両編成、後ろ4両当駅止まり、という案内でいいような気がしますが、これをやっていなかったのは理由があったのかもしれませんね。京急もそうですよね。記憶にあるのはそのあたりの12両快特で、その後羽田行の特急が増結される時代があったと思いますが、その時点では最終行き先になっていました。それがD特急ですね!一方、朝の特急金沢文庫→快特品川は今も始発時点行先表示ですよね。本当にその辺のパターンが多様で面白いです。
90年代~2000年代初期、特に快速急行が出る直前くらいの時期は分割併合する列車が多く色々複雑だったんですね…逆10連(6連と4連が逆につながれてる)があるのは初めて知った!
コメントありがとうございます。私も時刻表を見て色々発見が多かったです。
僕が物心ついた頃には通勤車の分割併合はなくなっていたので、分割併合全盛期の小田急を見てみたかったです。趣味的にとても面白かったんだろうなと思います。
コメントありがとうございます。お楽しみいただければ幸いです。もっと動画があればよいのですが、私自身も子供だったので、残念ながら記録はほぼ皆無です。
素晴らしいです。調査・編集、本当にお疲れ様でした。そしてところどころでVVVFソフト改修前の1000型映像が入っていて良きですね。自分は92年から96年まで新宿でバイトしていました。この動画を見ながら、当時のことを思い出していました。記憶違いもあるかもしれませんが・逆10両がかろうじて1~2本残っていた(バイト中のダイヤ改正で廃止。ちなみに新宿での分割案内板はE)・江ノ島急行が独立したことにより、急行湯本+急行江ノ島は土休日に僅か残るのみ・後ろ4両海老名止まり登場(その前は大野でしか分割は無かった)・海老名止まり登場により、大野で化けて海老名で分割する珍化け急登場(急行相模大野行き、相模大野から各停小田原行き、後ろ4両海老名止まり。1日1本)・急行秦野行き、急行本厚木行き、相武台前停車の急行、6両の準急(いずれも1日1本)・当時の新宿の前6+後4の分割案内板はBだった(他駅は既にAになっていた)。分割案内板と言えば、やっぱBでしょ(笑)・新宿での整列乗車の案内は「足元ランプの点滅している所」「足元ランプの連続点灯している所」・車両関係では、1000型にようやく10両固定(90番台)と8両固定(80番台)が登場し、2600型の一部が組み替えられて8両化、それ以外は6両か4両しか無かった。ちなみに1000型ワイドドア車は運用が固定されていたため駅員が「今度の電車の後ろ4両は幅広ドア車で参ります」等と放送していた。・経堂が8両対応だったため、直通準急とラッシュ時の10両準急は通過(もちろん急行は停まるわけない)・直通準急は本当に僅かしか走ってなかった。直通車は1000型に置き換わっていた。ちなみに準急幕は「黒地に黄色文字」・特急ははこね・あしがら・さがみ・あさぎり・えのしまの時代。まだホームウェイ・サポートの名称は無し。はこねは町田通過でしたが、途中でスーパーはこねが登場したことで町田停車に。EXE就役前だったため特急の分割併合は無し。NSEが全車健在だった。この動画で映っていたものもありましたね。本当に懐かしいです。これだけ分割併合や種別変更が多かったのに、小田急の車両側面の行先表示は初見殺しでしたよね。「前6急行小田原+後4急行相模大野」になっていても、この大野表示が「大野止まり」なのか「大野から各停に化ける」のかがわからないし、前述の珍化け急の場合「前6急行相模大野+後4急行相模大野」大野から先は「前6小田原+後4海老名」になるという、どこまで行けるかが全くわからないシロモノでした。西武の2000系なんて、たいして分割併合もしないのに「急行拝島・西武遊園地(この車両は拝島ゆき)」とか「急行飯能(この車両は小手指どまり)」とか用意してたのを見ると、小田急もっと頑張ってほしいと思いながらバイトしてました(笑)動画UP本当にありがとうございました。もしこの時代の駅自動放送の映像・音声をお持ちでしたら、ぜひUPして頂けますか?長文失礼致しました。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただきとても嬉しく思います。90年代前半に新宿駅をご利用だったということは、本当に過渡期をご存じなのですね。とても興味深いです。最後の映像・音声なのですが、残念ながらもっとも古いものがこのチャンネルで公開している2001年前後のものでして、その時は子供が親からビデオカメラを借りて遊びで撮影していた程度だったので、分割併合を撮影したものはないんですよね。とても悔やまれます…申し訳ございません。ただ、実家のホームビデオとかに普段の様子が残されているかもしれないので、何かの機会にここに公開できるかもしれません。相模大野化けは面白く複雑でした。小田急はお客もプロなので、急行相模大野行きを見ても、相模大野で終わるわけないと、多くの人がわかっている感じがわかるのも、また面白かったですね。大野化け急の晩年は伊勢原行という印象ですが、あれも、急行相模大野と表示されている=伊勢原かな?くらいに慣れきっていました笑分割Bというのは初耳でした。昔の資料が多い「AGUINET」さんの掲示板を見るともしかしたら写真があるかもしれませんね。BとEがあったとは。89年以前は中型車両もいたとのことで、さらに複雑だったでしょうね。急行10両、小田原/海老名各停は懐かしいです。かろうじて目視した記憶があります。夕方16時台に4両に分割される江ノ島急行が10分間隔で続く時代もありましたね。3100形の特急電車はよく親と一緒に早朝に親戚のいる地方に出かける時に使っていました。早朝の町田始発のあしがら号、懐かしいです。孤高の存在の急行秦野と本厚木も懐かしいです。準急秦野と伊勢原も懐かしいですね。6両編成の準急は始発の相模大野4時55分しか知りませんでした。くだりもあったのですね。本当に色々懐かしんでいただき、こうしてコメントもいただき、ありがとうございました。次の動画制作の糧になります。今後ともよろしくお願いいたします。
丁寧にコメント頂きありがとうございます!そうですね、まさに過渡期でしたね。複々線工事はようやく喜多見~和泉多摩川間が先行して始まった頃で、たしかバイトの最後の時期に成城の待避線が無くなって急行が特急の5分前を先行するダイヤになりました(遊園で特急に抜かれる。従って新宿から生田へ行く場合は、経堂で抜いた各停が来るのを待つしかなく、非常に不便)。そのあと小田急ユーザーではなくなってしまったので、複々線がどんどん出来上がっていく過程や全線10両化の流れは全然わからなくて、気付けば分割併合廃止になってて驚きました。コロナ蔓延前に東京に行った時に、朝ラッシュ時の複々線を堪能してみようと、快急で大野から新宿まで乗りましたが、途中徐行することは殆どなく、あまりの速さに驚きました(笑)複線時代は6分間に急行2各停1のダイヤで、たしか鶴川・成城・経堂でしか各停を抜かない「地獄の平行ダイヤ」でしたからね(笑)大野→新宿で15分くらい時短してるのではないでしょうか?まさに隔世の感がありますね。分割・化け急のパターンは大きく4パターンで①分割も化けもしない これが一番オーソドックスであるべきなのに、早朝の全区間6両の急行、全車両大野で入庫する急行、平日1本の本厚木行き急行など、ほんの僅かしか設定が無い。②分割するが化けない 後4両が大野か海老名で入庫するパターン、土休に僅か残っていた前6急行湯本+後4急行江ノ島のパターン。これも全体からみると少数派。③分割しないが化ける 大野から全車両各停本厚木行きになるパターン。初見殺しではあるけど、まだ優しいパターン。でも夕方から夜間にかけて設定されるのみで、そんなに多くはない。④分割も化けもする これが一番多い(笑)さらに⑤新松田~小田原間各駅に停まる急行(通称「●(赤丸)急行」)⑥相武台前に停車する急行(1日1本)いずれも表示は「急行」なので、これらを組み合わせて運転される小田急の急行は本当に初見殺しで、まさに「客もプロ」じゃないと務まりません(もちろんバイトもこれをマスターしないと案内できないので、私のような小田急ユーザーはよかったですが、他路線の方は苦労されてました笑)分割Bのさらにストップ寄りに分割Aがありました。これは中型車が走っていた頃の名残で、後4両が中型車の場合は分割Aを使い、20m車4両の場合は分割Bだったのです。私がバイトの頃は2400型も既に引退済でしたが、分割Bがあまりに定着していたからでしょうか、ずっとBのまま使い続けていました。ちなみに分割Cは前5+後5の場合、分割Dは後6両が中型車の場合だったと思います。(C、Dも既に未使用だったので、間違って記憶してるかもしれません)逆10両も無くなり、分割と言えばBオンリーになったわけです。自動放送の記録は無いとのことですね。私自身もなんで録音しておかなかったのかと、本当に悔やまれます。「分割案内板B」「この準急電車は経堂にも停まります」特急ホームの「ご乗車の際、特急券にハサミを入れますので、御銘銘お持ちの上、順序よくご乗車下さい」とか、今でも耳に焼き付いていますが(笑)今回も長文失礼致しました。今後の動画も楽しみにしております。頑張って下さい!
コメントありがとうございます。このコメントがそのまま続編の材料になります。本当にありがとうございます。朝ラッシュは本当に驚きです。私も町田~新宿が55分だった時代を知っているので、快速急行が5分間隔に40分で新宿までほぼ減速なしで走るのには違和感ありまくりでした。下北沢付近の詰まりのイメージなど、今となっては過去のものになっていますからね。鶴川から経堂まで無退避の朝ラッシュは凄まじいですね。96年は1534列車が町田と新宿を59分で走行していました。長後と成城でしか各駅停車を追い越さない便もありました。下りダイヤの経堂から新百合ヶ丘まで無退避ってのもすごいですよね。そして新宿発の下りパターン。急行が●かどうか含めるとまだまだ出てきそうですね。先ほども別の方からコメントでさらに他の分割パターンを教えていただいたところです。まだまだありそうなので、時間ができたら図書館でアーカイブを見てみようと思います。化け列車の周知は沿線民にはかなり浸透していたように感じました。特に大野行の急行はなんらかの延長があるだろうとかなりの人が読んでいたように記憶しています。中型車含めた80年代の分割は6種類と複雑ですね。準急や各駅停車の分割もあったと聞きました。記録できる時代に記録していなかったのが悔やまれるほどに、印象的な輸送形態でしたね。ありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします。
本厚木に住んでいましたが、何気なく乗った急行相模大野行きが、本当に相模大野止まりだと逆にビックリしたのを思い出しました。えっ、大野で降りなきゃダメなの?この相模大野行き?みたいな。
コメントありがとうございます。私もまったく同じ感覚で利用していました。本当の相模大野行きというのは少数派でしたよね。
こんばんは。「小田急線の分割併合」というテーマでの動画投稿,ありがとうございます。興味深く視聴させていただきました。「分割案内板Aを境に前6両が急行箱根湯本行き,後4両が各停片瀬江ノ島行き」というアナウンスは小田急線の急行列車では大定番でした。その一方,逆組成の分割併合は記憶が無かったので,貴重な資料をありがとうございます。次回の「分割併合パターンを集計してみた」動画も楽しみに待っております。
こんばんは。ご視聴ありがとうございます。コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただきとても励みになります。次回作も面白いものが作れるよう努めます。急行と各駅停車の異方面分割が多かったですよね。懐かしいです。ありがとうございました。
すばらしい動画をUPをありがとうございます!自分が、大学生の時に駅務補助バイトをしていた時のパターンがすべてありました!懐かしい!!ホーム町田寄り分割案内版Aを境に、前6輌が・・・行、後4輌が・・・行・・・という放送(をしていた事もあって)が記憶に蘇って来ました。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただき嬉しいです。駅でお仕事されていたのですね。当時は複雑な運転形態と頻繁な分割併合、ご案内など、本当にお疲れ様でした。懐かしんでいただければ幸いです。ありがとうございます。
他の動画も、拝見させていただいております。今後とも期待しております。別にコメントされている方とも、一緒に仕事したなぁなんて本当に懐かしいです。2段窓車(N6とか4000形、あとVVVF誘導障害テスト前の1000形も)が登山線に入れないとか、後ろ4輌入庫で髪の毛をドアに挟まれてる女性が動けなくなってたり(下北沢で挟まれた。大野2番だと開かない。ドアコック使用。)、上り増結出庫タイミングで下りが遅れるので信号所から手動介入してもらう裏技とか、連結器が外れなくて大騒ぎになったりとか、やはり分割併合は大変でしたね。体験としては、貴重なのですが、システムとしては苦肉の策だったのが解説で良くわかりました。
お返事いただきありがとうございます。下北沢以遠はずっと左側ですから、分割が2番ホームだとそのまま相模大野入庫になりますね。連結器の故障なんていうのも確かにありますね。今はちょっとしたトラブルが目立つくらいですが、当時は故障や誤乗、ドアの左右が偏っていたりするなど、いろんなリスクをかかえながらの運転だったのだなと改めて思います。これを1日に200回くらいやっていたと思うと物凄い現場のご苦労やお手間があったのでしょうね。お話お伺いできてとても興味深かったです。今後とも当チャンネルをよろしくお願いいたします。
素晴らしいまとめですね!こんなに色々あったなんて知りませんでしたよ。私の想い出として、80年代前半(小学5~6年生の時)に急行新松田行きというものがあり、相模大野で後4両切り離し、前6両は新松田から各停小田原行きというものがありました(2200系ブツ6だった)。塾帰りの夕方に新宿から乗ったことがあります。後に栢山~足柄が「一部急行列車も停車」となりましたが、その前の時代に急行小田原行きだとここを通過してしまうのでとりあえず新松田行きにしてそこから各停に化けるという策だったのですね。それと箱根湯本行きがHE車全盛期に後ろの電車に乗れば冷房車に当たるというのはある種常識でうちの母でも知ってました!懐かしい想い出です。
コメントありがとうございます。お楽しみいただきとても嬉しく思います。急行の新松田以遠停車駅は電車により異なり、路線図上でも一部列車が停車または通過と案内されていましたが、新松田で種別変更する時代もあったのですね。このあたりは種別変更や運用の変遷とも関連がありそうで、とても興味深いです。ありがとうございます。
新宿駅での乗車位置も編成毎に異なり特に、18m車両と20m車両の連結があり乗車位置番号を採用していました。ダイヤが乱れると、新宿駅の駅員1人が、向ヶ丘遊園まで行き、車型を確認して、新宿駅の放送室に連絡して、乗車位置の案内をしていました。
コメントありがとうございます。本当にパターンが複雑だったのですね。
個人的に海老名止まりの分割案内放送が好きでした
コメントありがとうございます。長年の分割形態でしたね。
昔1978年頃、通学で新宿から帰る時2400形前4両箱根湯本行(非冷房車)で帰りました。たま~に2400形4両で先頭車だけ冷房の試作車があり乗れたらラッキーでしたね。それと、4000型のディスクブレーキ車もありました。
コメントありがとうございます。大型車以外の組み合わせがあった時代はさらに複雑だったと伺っています。最近、83年と85年の時刻表を古本屋さんで入手したので、順次特集していきたいです。
●急行は今みたいに新松田で種別変えなかった
コメントありがとうございます。停車パターンと通過パターンがありましたね
小学生の頃までは箱根急行があって分割案内板Aを境に、前6両が〜の放送をよく聞いて当時はどうなってるんだろうと思っていました一度箱根に家族で行った時に風祭でドアコックで3000形がドアを開けていたのが思い出に残っていますが…記録を取れるような年ではなかったですね小田急線沿線で育った父は当時はもっと分割が複雑だったと言っていましたが、ダイヤ位置ともに複雑だったんでしょうね
コメントありがとうございます。記録をもっととっておけばよかったと、私も後悔しております。当時は日常の景色がとても面白かったですからね。すべての急行が分割していたと考えると、今とは大きく異なることがわかります。ご視聴ありがとうございました。
昔画像で見た事があったが湯本行きが中型4両限定で逆10が多くあった頃前4両箱根湯本後ろ6両江ノ島というの存在したらしいです。
コメントありがとうございます。このパターンは多かったようですね。冷房の急行箱根湯本行きの時代が長かったと伺っています。
89年から90年代、本厚木に住み込みしていた時に東急田園都市線の中央林間から小田急江ノ島線に乗り換え、相模大野で乗り換えて小田急小田原線で本厚木に向かう時、相模大野で新宿方面に各駅停車の4両編成でした。84年から89年までは急行が中央林間に止まらず、各駅停車で相模大野までいきました。片瀬江ノ島、藤沢発の各駅停車で相模大野から急行新宿行きは覚えていました。乗り換えは4番線から1番線で急行小田原行きでホーム中程分割案内盤Aを堺で前6両に乗り、本厚木まで、急行相模大野止まりで全車両、各駅停車本厚木行きで本厚木から折り返し回送電車で海老名の車庫止まりに乗りました。懐かしいです。あと、9000系の急行電車、6両編成と5000系の急行電車の併合は相模大野、海老名で見たかつたのですが、本厚木から当時、向ヶ丘遊園まで特急ロマンカーで急いでいたため併合のところは見えませんでした。
コメントありがとうございます。懐かしいエピソードをご紹介いただきありがとうございました。当時は小田原・江ノ島のどちらも分割と種別変更が当たり前で、そうじゃないものが少数派だったと聞いています。行き先や停車駅を確認しながら乗車するのが小田急沿線の文化というか、傾向だったのでしょうね。分割併合中に特急が追い越していくのも、当時を象徴する場面と言えそうですね。興味深いお話をありがとうございました。
いま考えると『急行:片瀬江の島』、『急行:箱根湯本』はもうないし、、、一昔前は『あさぎり号:沼津行き』もあったけどあの車両がないからさみしいなぁ、、、、。
コメントありがとうございます。箱根湯本急行もいつのまにかなくなっていた印象がありますね。大きく変わったのは20世紀最後ですが、2000年代は当たり前がなくなった10年でしたね。
分割案内板Bもありましたよね
コメントありがとうございます。逆10両が存在していた時期に見られたようです。
朝9時台の下りの逆10両は、その前運用の江ノ島線からの上り同士連結が逆になってしまうために起こってましたねえ。今思うとなんであんなイレギュラーをさせていたのか疑問だなぁ。何度か逆10両の小田原行きに乗ったが大野から本厚木間は地獄の混雑だった。。。9:02 に出てくる新宿から6両で下る急行は学生時代たまに乗っていた。1989年まで新宿7時台最初の急行までが6両でこれがとんでもない混雑だった。1990年まではどうもそれまでの輸送体系にこだわっているのか随所で輸送力不足が露呈してた。ご紹介あった通り、1990年前後はあまりに分割併合パターンが多く、一度ダイヤが乱れ出すと収拾つかないし、誤乗も頻発し、やりすぎ感が強かった。ただ、今思うと、「小田原方面からかぶりつきで急行に乗ってきて、大野で連結、運転士がバタバタ降りて、無人になった運転室を眺めながら町田に向かって走り、町田手前で無人の運転室に鳴り響く停車確認のブザー合図」 その感じが好きだった。。。
コメントありがとうございます。朝ラッシュ終わりのこの運用。とても面白いですよね。ちょうどこの時間は上り準急も本厚木で逆増結している例がありました。興味深いです。下りの6両急行は7時台にまで及んでいたのですね。短い急行と言えば、夏季臨時の江ノ島線単独急行は、特段増結の記載がなかったので、新宿まで6両編成だったのかなと思います。私も晩年ですが、相模大野で増結する電車の後ろ側で景色を見ていた記憶があります。懐かしいコメントをいただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
90年代前半の大和駅では10両がどんどん来る相鉄がある一方4両6両ばかりの小田急(しかも4両の急行もあり)は肩身が狭かった。しかも本線に入るとノロノロ運転。いまや立場が逆転したようにすら見える。
コメントありがとうございます。小田急江ノ島線は長編成化と優等列車20分サイクル化が大きいですね。
自分が学生時代小田急沿線に住んでいた時は分割案内板Aを境にが当たり前だった。海老名から前6両は急行箱根湯本行き後4両は海老名止まり、相模大野から前6両は急行片瀬江ノ島行き後4両は各駅停車藤沢行きが当たり前だった。大学卒業のあたりで小田原まで10両が増えて海老名分割から新松田分割が増え始めた
コメントありがとうございます。非常に懐かしいです。ご視聴いただきありがとうございました。
箱根湯本始発の準急もあり、こちらは新松田で前4増結でした。
コメントありがとうございます。ご視聴いただきありがとうございました。
相模大野には、分割案内板Bってのもあった。前4両、後ろ6両パターンが日に数本存在した。1992〜93年には、江ノ島線上り平日16時代に前6両に4両が併合するパターンも存在していた。
コメントありがとうございます。逆10両は90年代前半にはまだまだ見られたようですね。
18m車両2両を5組連結の10両があり、通称ぶつじゅうと、言われていました。ぶつじゅうの時の分割は、どこで切り離しするか?駅員の案内が大変でした旧4000形による、5両+3両がありました。
コメントありがとうございます。車両については詳しくなく申し訳ございません。補足いただきありがとうございます。
20:59このパターンの中には、相武台前で急行を待避して、相模大野でその急行に追いついて連結する運用もありました。
コメントありがとうございます。手元にないのが1994年の時刻表なので、もしかしたらそこに掲載があるかもしれません。補足いただきありがとうございます。たしかに各駅停車がおいついて連結、というのを見た記憶がありました。
小田急の分割併合…物心ついたころは箱根急行の最晩年だった気がします。まだ4両が電直車しかなく、8000形は6両ばかりが更新され、3000形も6両が32本そろって、小田急は80周年を迎えいよいよ新時代に移行・・・そんな感じだった気がします
コメントありがとうございます。仰る通り、箱根直通急行が廃止される頃はまだ10両固定編成も少なかったですね。
@@OdakyuDiagram ちなみに2007年時点では平日は145本,休日141本が、途中駅で分割併合を行っていたようです。
分割案内板Bはいつぐらいまで使用されてたんですかね?
コメントありがとうございます。逆10両の末期までこれがあったようです。
オール2200形又は2300形の10両編成をぶつ10と言っていました。
各停4+4も分割あった
コメントありがとうございます。各駅停車の分割は90年代を見る限り確認できませんでしたが、あったのですね。補足いただきありがとうございます。
2400形4両+20m車両6両の連結もあり、異なる形式の連結もありました。
コメントありがとうございます。2400形が箱根湯本方面の急行に使用されていた時代のことをウィキペディアで知りました。ありがとうございます。
自分が新宿を通っていた30年ほど前は分割案内板Bで小田原・江ノ島方面急行が6-4分割が一般的でした。
コメントありがとうございます。最終的に残った6両4両の場合、新宿の案内板はBだったと別の方もコメントをくださいました。A以外の案内板があったとは、本当に興味深いです。
運行パターンがダイヤ改正毎に変わるので、乗客、駅員、乗務員もダイヤを覚えるのが大変でした。
コメントありがとうございます。パターンが本当に多様でした。
現在も4両+6両があれば、前4両箱根湯本行、後6両小田原止まりが可能です。でもほとんどが10両固定になりましたので、無理になりました。
新宿〜新松田間各駅停車10両対応したから、4+6の各駅停車小田原、藤沢行きが出て欲しい
コメントありがとうございます。昔は分割併合が活発でしたね。
今ではあり得ない、分割切り離し、連結が日常的に行われていました。現在は、EXE、EXEα、MSEの特急のみになりました。連結の際は、旗降りの代わりに誘導信号を採用しています。近鉄では、いまだに旗降りをしています。
コメントありがとうございます。近鉄の例を補足いただきありがとうございます。
RSEが7連だから特急停車駅は7兩ホームではないのか?2:04 風祭は対向ホームになるまで小型3両ホーム、板橋・入生田は6兩ホーム(湯本は7兩)
コメントありがとうございます。細かい知識がなくて申し訳ございません。特急電車のことは頭にありませんでした。補足いただきありがとうございます。
新宿駅の分割案内板Bは初代4000系の5連+5連を分割するためのものだと思っていた(事実は知らない)
昔は秦野じゃなくて大秦野だったなぁ〜
コメントありがとうございます。大秦野や大根の時代もあったようですね。80年代の時刻表で確認できました。
今でも、EXE&EXEαとMSEが分割、併合しています。現在は、特急の停車駅パターンが20種類以上あります。
下りでは、銀色車両と白色車両の連結の際、前4両白色の車両が急行箱根湯本行、後4両銀色の車両が新松田から各駅停車小田原行です。と案内している相模大野駅の駅員がいました。
コメントありがとうございます。アイボリー車体が多かった時代ならではですね。
6:42日本語と英語があってない
コメントありがとうございます。ご指摘ありがとうございます。確認漏れがありました。申し訳ございません。ありがとうございました。
分割併合は小田急の隠れた文化だったのにねロマンスカーですら将来廃止されそう
コメントありがとうございます。特急も増えたり減ったりですね。土日日中のはこね・えのしま号がなくなると本格的に廃止かもしれません。
はこね号、えのしま号メトロはこね号、メトロえのしま号は、存在されると思います。
コメントありがとうございます。メトロ系統は単独運転するほどダイヤに余裕がないですから、分割併合が残りそうですね。
とても懐かしい思いで楽しく拝見させていただきました。ありがとうございます。
私が小田急を利用していた1984年から1989年は、新宿駅の分割案内板はA~Dまであり、Aは後ろ4両が18M車、Bは後ろ4両が20M車、Cは後ろ6両が18M車、Dは後ろ6両が20M車だったと思います。
急行は、「前6両が箱根湯本行き、後ろ4両が江の島行き」、「前6両が小田原行き、後ろ4両が各停の江の島行きや藤沢行き、相模大野どまり」、「相模大野まで急行、相模大野から前6両が各停本厚木行き、後ろ4両は藤沢行き」など、他にも色々な行き先がありました。
新百合ヶ丘発車後に、前6両と後ろ4両それぞれ別々の車内放送があったのも懐かしいです。
相模大野での切り離しの際、前6両小田原方面行きの運転士さんと車掌さんが慌ただしく交代していたのも目に焼き付いています。
コメントありがとうございます。お楽しみいただきありがとうございました。分割のパターンは多くの方がコメントされていましたが、車内放送を分けて実施されていたというのはこのコメントをいただくまで忘れておりました。ありがとうございます。分割併合前後の慌ただしさは相模大野の名物的光景でしたね。まだ一桁年齢でしたが、一生懸命観察していたのを覚えています。ありがとうございました。
とても分かり易く、資料や動画を組み合わせてナレーションを入れて製作に大変なご苦労をされたことと思います。
今回の動画に車型が入ったらもう何か月も掛かるものになってしまいそうですね。次回作も楽しみにしております。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただきとても励みになります。次回作も面白いものが作れるよう努めます。ありがとうございました。
超大作、超高評価、懐かしいです!
大野化け泣き別れ両方江ノ島線各停がエモい。
地上時代の経堂が8両対応だったので、新宿発着10両準急は平日朝ラッシュ以外は少なく、自然と分割併合は少なかったですね。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただき嬉しいです。これからも面白い動画を作っていきますのでよろしくお願いいたします。相模大野で両方江ノ島線に行く電車は少々記憶があり、子供ながらとても注目していました。もっと本数が多いかと思っていたのですが、各停本厚木+各停藤沢の組み合わせが意外にも多くありました。経堂も大きく駅が変わりましたね。当時大人だったら映像を頻繁に撮影していたのかなと思います。
田舎から出てきたばかりの当時、相模大野での併合は衝撃でした
相模大野に着いたかなと気を抜いた瞬間に車両後方から突き上げるような衝撃。立ってる人はみんなヨレっとなってた
コメントありがとうございます。分割併合は興味深いですが、旅客扱い中に連結すること自体が確かに頻繁となるとリスクも伴いますから、現場は大変だったでしょうね。私もよく連結する側の編成から前の景色を見ていました。
懐かしい、江の島線沿線に住んでいたので、何時も後ろ4両に乗ってました。
コメントありがとうございます。私も幼少期は江ノ島線ユーザーで、4両の電車が懐かしいです。
小田急沿線民で今となれば懐かしいので高い評価しました。
分割でこんなのが有りました…
急行相模大野行で前6両が相模大野止で後4両が相模大野から各駅停車片瀬江ノ島行というトンでもないものが土休日の昼間に1本有りました(これに乗って自宅最寄り駅まで乗ったことあった)。
コメントありがとうございます。1990年土休日ダイヤの新宿13:50発急行相模大野行きが、相模大野から前6両相模大野どまり、後4両各駅停車片瀬江ノ島行きでした。カウント漏れでした。ありがとうございます。続編の集計で訂正版を出そうと思います。ありがとうございます。ちなみに、この90年ダイヤの土休日日中には、小田原行の急行の後ろ6両相模大野どまりもありました。
@@OdakyuDiagram ちなみに化け急でも相模大野から全車両が各駅停車本厚木行になる場合は町田発車後に幕を回しますが、前6両が各駅停車片瀬江ノ島行等で後4両相模大野止の場合は相模大野到着後に切り離し作業をしている最中に幕を変えていました。京急も日中の快特が12両運転だった頃でも新逗子(現・逗子葉山)又は浦賀始発の4両で品川止の編成の場合は小田急みたいに普通金沢文庫と表示して金沢八景発車後に快特品川と幕を回していたが、のちに始発駅の時点で終着駅の行先(品川)になりました
。余談だが、羽田空港のD特4両は始発駅の時点で普通羽田空港と表示していました(品川・羽田空港発の快特・特急の新逗子・浦賀も同様)。
コメントありがとうございます。これ懐かしいです・・・!
記入いただいた化け急の場合、案内放送も、相模大野駅の接近放送にも関わらず「急行相模大野行がまいります」という放送だった記憶があります。後ろが当駅止まりの場合は、各駅停車片瀬江ノ島行10両編成、後ろ4両当駅止まり、という案内でいいような気がしますが、これをやっていなかったのは理由があったのかもしれませんね。
京急もそうですよね。記憶にあるのはそのあたりの12両快特で、その後羽田行の特急が増結される時代があったと思いますが、その時点では最終行き先になっていました。それがD特急ですね!
一方、朝の特急金沢文庫→快特品川は今も始発時点行先表示ですよね。本当にその辺のパターンが多様で面白いです。
90年代~2000年代初期、特に快速急行が出る直前くらいの時期は分割併合する列車が多く色々複雑だったんですね…
逆10連(6連と4連が逆につながれてる)があるのは初めて知った!
コメントありがとうございます。私も時刻表を見て色々発見が多かったです。
僕が物心ついた頃には通勤車の分割併合はなくなっていたので、分割併合全盛期の小田急を見てみたかったです。趣味的にとても面白かったんだろうなと思います。
コメントありがとうございます。お楽しみいただければ幸いです。もっと動画があればよいのですが、私自身も子供だったので、残念ながら記録はほぼ皆無です。
素晴らしいです。
調査・編集、本当にお疲れ様でした。
そしてところどころでVVVFソフト改修前の1000型映像が入っていて良きですね。
自分は92年から96年まで新宿でバイトしていました。
この動画を見ながら、当時のことを思い出していました。
記憶違いもあるかもしれませんが
・逆10両がかろうじて1~2本残っていた(バイト中のダイヤ改正で廃止。ちなみに新宿での分割案内板はE)
・江ノ島急行が独立したことにより、急行湯本+急行江ノ島は土休日に僅か残るのみ
・後ろ4両海老名止まり登場(その前は大野でしか分割は無かった)
・海老名止まり登場により、大野で化けて海老名で分割する珍化け急登場(急行相模大野行き、相模大野から各停小田原行き、後ろ4両海老名止まり。1日1本)
・急行秦野行き、急行本厚木行き、相武台前停車の急行、6両の準急(いずれも1日1本)
・当時の新宿の前6+後4の分割案内板はBだった(他駅は既にAになっていた)。分割案内板と言えば、やっぱBでしょ(笑)
・新宿での整列乗車の案内は「足元ランプの点滅している所」「足元ランプの連続点灯している所」
・車両関係では、1000型にようやく10両固定(90番台)と8両固定(80番台)が登場し、2600型の一部が組み替えられて8両化、それ以外は6両か4両しか無かった。ちなみに1000型ワイドドア車は運用が固定されていたため駅員が「今度の電車の後ろ4両は幅広ドア車で参ります」等と放送していた。
・経堂が8両対応だったため、直通準急とラッシュ時の10両準急は通過(もちろん急行は停まるわけない)
・直通準急は本当に僅かしか走ってなかった。直通車は1000型に置き換わっていた。ちなみに準急幕は「黒地に黄色文字」
・特急ははこね・あしがら・さがみ・あさぎり・えのしまの時代。まだホームウェイ・サポートの名称は無し。はこねは町田通過でしたが、途中でスーパーはこねが登場したことで町田停車に。EXE就役前だったため特急の分割併合は無し。NSEが全車健在だった。
この動画で映っていたものもありましたね。
本当に懐かしいです。
これだけ分割併合や種別変更が多かったのに、小田急の車両側面の行先表示は初見殺しでしたよね。
「前6急行小田原+後4急行相模大野」になっていても、この大野表示が「大野止まり」なのか「大野から各停に化ける」のかがわからないし、前述の珍化け急の場合「前6急行相模大野+後4急行相模大野」大野から先は「前6小田原+後4海老名」になるという、どこまで行けるかが全くわからないシロモノでした。
西武の2000系なんて、たいして分割併合もしないのに「急行拝島・西武遊園地(この車両は拝島ゆき)」とか「急行飯能(この車両は小手指どまり)」とか用意してたのを見ると、小田急もっと頑張ってほしいと思いながらバイトしてました(笑)
動画UP本当にありがとうございました。
もしこの時代の駅自動放送の映像・音声をお持ちでしたら、ぜひUPして頂けますか?
長文失礼致しました。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただきとても嬉しく思います。90年代前半に新宿駅をご利用だったということは、本当に過渡期をご存じなのですね。とても興味深いです。
最後の映像・音声なのですが、残念ながらもっとも古いものがこのチャンネルで公開している2001年前後のものでして、その時は子供が親からビデオカメラを借りて遊びで撮影していた程度だったので、分割併合を撮影したものはないんですよね。とても悔やまれます…申し訳ございません。ただ、実家のホームビデオとかに普段の様子が残されているかもしれないので、何かの機会にここに公開できるかもしれません。
相模大野化けは面白く複雑でした。小田急はお客もプロなので、急行相模大野行きを見ても、相模大野で終わるわけないと、多くの人がわかっている感じがわかるのも、また面白かったですね。大野化け急の晩年は伊勢原行という印象ですが、あれも、急行相模大野と表示されている=伊勢原かな?くらいに慣れきっていました笑
分割Bというのは初耳でした。昔の資料が多い「AGUINET」さんの掲示板を見るともしかしたら写真があるかもしれませんね。BとEがあったとは。89年以前は中型車両もいたとのことで、さらに複雑だったでしょうね。急行10両、小田原/海老名各停は懐かしいです。かろうじて目視した記憶があります。夕方16時台に4両に分割される江ノ島急行が10分間隔で続く時代もありましたね。
3100形の特急電車はよく親と一緒に早朝に親戚のいる地方に出かける時に使っていました。早朝の町田始発のあしがら号、懐かしいです。孤高の存在の急行秦野と本厚木も懐かしいです。準急秦野と伊勢原も懐かしいですね。6両編成の準急は始発の相模大野4時55分しか知りませんでした。くだりもあったのですね。
本当に色々懐かしんでいただき、こうしてコメントもいただき、ありがとうございました。次の動画制作の糧になります。今後ともよろしくお願いいたします。
丁寧にコメント頂きありがとうございます!
そうですね、まさに過渡期でしたね。
複々線工事はようやく喜多見~和泉多摩川間が先行して始まった頃で、たしかバイトの最後の時期に成城の待避線が無くなって急行が特急の5分前を先行するダイヤになりました(遊園で特急に抜かれる。従って新宿から生田へ行く場合は、経堂で抜いた各停が来るのを待つしかなく、非常に不便)。
そのあと小田急ユーザーではなくなってしまったので、複々線がどんどん出来上がっていく過程や全線10両化の流れは全然わからなくて、気付けば分割併合廃止になってて驚きました。
コロナ蔓延前に東京に行った時に、朝ラッシュ時の複々線を堪能してみようと、快急で大野から新宿まで乗りましたが、途中徐行することは殆どなく、あまりの速さに驚きました(笑)
複線時代は6分間に急行2各停1のダイヤで、たしか鶴川・成城・経堂でしか各停を抜かない「地獄の平行ダイヤ」でしたからね(笑)
大野→新宿で15分くらい時短してるのではないでしょうか?
まさに隔世の感がありますね。
分割・化け急のパターンは大きく4パターンで
①分割も化けもしない
これが一番オーソドックスであるべきなのに、早朝の全区間6両の急行、全車両大野で入庫する急行、平日1本の本厚木行き急行など、ほんの僅かしか設定が無い。
②分割するが化けない
後4両が大野か海老名で入庫するパターン、土休に僅か残っていた前6急行湯本+後4急行江ノ島のパターン。これも全体からみると少数派。
③分割しないが化ける
大野から全車両各停本厚木行きになるパターン。初見殺しではあるけど、まだ優しいパターン。でも夕方から夜間にかけて設定されるのみで、そんなに多くはない。
④分割も化けもする
これが一番多い(笑)
さらに
⑤新松田~小田原間各駅に停まる急行(通称「●(赤丸)急行」)
⑥相武台前に停車する急行(1日1本)
いずれも表示は「急行」なので、これらを組み合わせて運転される小田急の急行は本当に初見殺しで、まさに「客もプロ」じゃないと務まりません(もちろんバイトもこれをマスターしないと案内できないので、私のような小田急ユーザーはよかったですが、他路線の方は苦労されてました笑)
分割Bのさらにストップ寄りに分割Aがありました。
これは中型車が走っていた頃の名残で、後4両が中型車の場合は分割Aを使い、20m車4両の場合は分割Bだったのです。
私がバイトの頃は2400型も既に引退済でしたが、分割Bがあまりに定着していたからでしょうか、ずっとBのまま使い続けていました。
ちなみに分割Cは前5+後5の場合、分割Dは後6両が中型車の場合だったと思います。(C、Dも既に未使用だったので、間違って記憶してるかもしれません)
逆10両も無くなり、分割と言えばBオンリーになったわけです。
自動放送の記録は無いとのことですね。
私自身もなんで録音しておかなかったのかと、本当に悔やまれます。
「分割案内板B」「この準急電車は経堂にも停まります」特急ホームの「ご乗車の際、特急券にハサミを入れますので、御銘銘お持ちの上、順序よくご乗車下さい」とか、今でも耳に焼き付いていますが(笑)
今回も長文失礼致しました。
今後の動画も楽しみにしております。
頑張って下さい!
コメントありがとうございます。このコメントがそのまま続編の材料になります。本当にありがとうございます。
朝ラッシュは本当に驚きです。私も町田~新宿が55分だった時代を知っているので、快速急行が5分間隔に40分で新宿までほぼ減速なしで走るのには違和感ありまくりでした。下北沢付近の詰まりのイメージなど、今となっては過去のものになっていますからね。
鶴川から経堂まで無退避の朝ラッシュは凄まじいですね。96年は1534列車が町田と新宿を59分で走行していました。長後と成城でしか各駅停車を追い越さない便もありました。下りダイヤの経堂から新百合ヶ丘まで無退避ってのもすごいですよね。
そして新宿発の下りパターン。急行が●かどうか含めるとまだまだ出てきそうですね。先ほども別の方からコメントでさらに他の分割パターンを教えていただいたところです。まだまだありそうなので、時間ができたら図書館でアーカイブを見てみようと思います。
化け列車の周知は沿線民にはかなり浸透していたように感じました。特に大野行の急行はなんらかの延長があるだろうとかなりの人が読んでいたように記憶しています。中型車含めた80年代の分割は6種類と複雑ですね。準急や各駅停車の分割もあったと聞きました。記録できる時代に記録していなかったのが悔やまれるほどに、印象的な輸送形態でしたね。
ありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします。
本厚木に住んでいましたが、何気なく乗った急行相模大野行きが、本当に相模大野止まりだと逆にビックリしたのを思い出しました。
えっ、大野で降りなきゃダメなの?この相模大野行き?みたいな。
コメントありがとうございます。私もまったく同じ感覚で利用していました。本当の相模大野行きというのは少数派でしたよね。
こんばんは。
「小田急線の分割併合」というテーマでの動画投稿,ありがとうございます。
興味深く視聴させていただきました。「分割案内板Aを境に前6両が急行箱根湯本行き,後4両が各停片瀬江ノ島行き」というアナウンスは小田急線の急行列車では大定番でした。
その一方,逆組成の分割併合は記憶が無かったので,貴重な資料をありがとうございます。
次回の「分割併合パターンを集計してみた」動画も楽しみに待っております。
こんばんは。ご視聴ありがとうございます。コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただきとても励みになります。次回作も面白いものが作れるよう努めます。急行と各駅停車の異方面分割が多かったですよね。懐かしいです。ありがとうございました。
すばらしい動画をUPをありがとうございます!自分が、大学生の時に駅務補助バイトをしていた時のパターンがすべてありました!懐かしい!!
ホーム町田寄り分割案内版Aを境に、前6輌が・・・行、後4輌が・・・行・・・という放送(をしていた事もあって)が記憶に蘇って来ました。
コメントありがとうございます。そのようなお言葉をいただき嬉しいです。駅でお仕事されていたのですね。当時は複雑な運転形態と頻繁な分割併合、ご案内など、本当にお疲れ様でした。懐かしんでいただければ幸いです。ありがとうございます。
他の動画も、拝見させていただいております。今後とも期待しております。別にコメントされている方とも、一緒に仕事したなぁなんて本当に懐かしいです。2段窓車(N6とか4000形、あとVVVF誘導障害テスト前の1000形も)が登山線に入れないとか、後ろ4輌入庫で髪の毛をドアに挟まれてる女性が動けなくなってたり(下北沢で挟まれた。大野2番だと開かない。ドアコック使用。)、上り増結出庫タイミングで下りが遅れるので信号所から手動介入してもらう裏技とか、連結器が外れなくて大騒ぎになったりとか、やはり分割併合は大変でしたね。体験としては、貴重なのですが、システムとしては苦肉の策だったのが解説で良くわかりました。
お返事いただきありがとうございます。下北沢以遠はずっと左側ですから、分割が2番ホームだとそのまま相模大野入庫になりますね。連結器の故障なんていうのも確かにありますね。今はちょっとしたトラブルが目立つくらいですが、当時は故障や誤乗、ドアの左右が偏っていたりするなど、いろんなリスクをかかえながらの運転だったのだなと改めて思います。これを1日に200回くらいやっていたと思うと物凄い現場のご苦労やお手間があったのでしょうね。お話お伺いできてとても興味深かったです。今後とも当チャンネルをよろしくお願いいたします。
素晴らしいまとめですね!こんなに色々あったなんて知りませんでしたよ。
私の想い出として、80年代前半(小学5~6年生の時)に急行新松田行きというものがあり、相模大野で後4両切り離し、前6両は新松田から各停小田原行きというものがありました(2200系ブツ6だった)。塾帰りの夕方に新宿から乗ったことがあります。後に栢山~足柄が「一部急行列車も停車」となりましたが、その前の時代に急行小田原行きだとここを通過してしまうのでとりあえず新松田行きにしてそこから各停に化けるという策だったのですね。
それと箱根湯本行きがHE車全盛期に後ろの電車に乗れば冷房車に当たるというのはある種常識でうちの母でも知ってました!懐かしい想い出です。
コメントありがとうございます。お楽しみいただきとても嬉しく思います。
急行の新松田以遠停車駅は電車により異なり、路線図上でも一部列車が停車または通過と案内されていましたが、新松田で種別変更する時代もあったのですね。このあたりは種別変更や運用の変遷とも関連がありそうで、とても興味深いです。ありがとうございます。
新宿駅での乗車位置も編成毎に異なり特に、18m
車両と20m車両の連結があり乗車位置番号を採用
していました。
ダイヤが乱れると、新宿駅の駅員1人が、向ヶ丘
遊園まで行き、車型を確認して、新宿駅の放送室
に連絡して、乗車位置の案内をしていました。
コメントありがとうございます。本当にパターンが複雑だったのですね。
個人的に海老名止まりの分割案内放送が好きでした
コメントありがとうございます。長年の分割形態でしたね。
昔1978年頃、通学で新宿から帰る時2400形前4両箱根湯本行(非冷房車)で帰りました。
たま~に2400形4両で先頭車だけ冷房の試作車があり乗れたらラッキーでしたね。
それと、4000型のディスクブレーキ車もありました。
コメントありがとうございます。大型車以外の組み合わせがあった時代はさらに複雑だったと伺っています。最近、83年と85年の時刻表を古本屋さんで入手したので、順次特集していきたいです。
●急行は今みたいに新松田で種別変えなかった
コメントありがとうございます。停車パターンと通過パターンがありましたね
小学生の頃までは箱根急行があって分割案内板Aを境に、前6両が〜の放送をよく聞いて当時はどうなってるんだろうと思っていました
一度箱根に家族で行った時に風祭でドアコックで3000形がドアを開けていたのが思い出に残っていますが…記録を取れるような年ではなかったですね
小田急線沿線で育った父は当時はもっと分割が複雑だったと言っていましたが、ダイヤ位置ともに複雑だったんでしょうね
コメントありがとうございます。記録をもっととっておけばよかったと、私も後悔しております。当時は日常の景色がとても面白かったですからね。すべての急行が分割していたと考えると、今とは大きく異なることがわかります。ご視聴ありがとうございました。
昔画像で見た事があったが湯本行きが中型4両限定で逆10が多くあった頃前4両箱根湯本後ろ6両江ノ島というの存在したらしいです。
コメントありがとうございます。このパターンは多かったようですね。冷房の急行箱根湯本行きの時代が長かったと伺っています。
89年から90年代、本厚木に住み込みしていた時に東急田園都市線の中央林間から小田急江ノ島線に乗り換え、相模大野で乗り換えて小田急小田原線で本厚木に向かう時、相模大野で新宿方面に各駅停車の4両編成でした。84年から89年までは急行が中央林間に止まらず、各駅停車で相模大野までいきました。片瀬江ノ島、藤沢発の各駅停車で相模大野から急行新宿行きは覚えていました。乗り換えは4番線から1番線で急行小田原行きでホーム中程分割案内盤Aを堺で前6両に乗り、本厚木まで、急行相模大野止まりで全車両、各駅停車本厚木行きで本厚木から折り返し回送電車で海老名の車庫止まりに乗りました。懐かしいです。あと、9000系の急行電車、6両編成と5000系の急行電車の併合は相模大野、海老名で見たかつたのですが、本厚木から当時、向ヶ丘遊園まで特急ロマンカーで急いでいたため併合のところは見えませんでした。
コメントありがとうございます。懐かしいエピソードをご紹介いただきありがとうございました。当時は小田原・江ノ島のどちらも分割と種別変更が当たり前で、そうじゃないものが少数派だったと聞いています。行き先や停車駅を確認しながら乗車するのが小田急沿線の文化というか、傾向だったのでしょうね。分割併合中に特急が追い越していくのも、当時を象徴する場面と言えそうですね。興味深いお話をありがとうございました。
いま考えると『急行:片瀬江の島』、『急行:箱根湯本』はもうないし、、、一昔前は『あさぎり号:沼津行き』もあったけどあの車両がないからさみしいなぁ、、、、。
コメントありがとうございます。箱根湯本急行もいつのまにかなくなっていた印象がありますね。大きく変わったのは20世紀最後ですが、2000年代は当たり前がなくなった10年でしたね。
分割案内板Bもありましたよね
コメントありがとうございます。逆10両が存在していた時期に見られたようです。
朝9時台の下りの逆10両は、その前運用の江ノ島線からの上り同士連結が逆になってしまうために起こってましたねえ。今思うとなんであんなイレギュラーをさせていたのか疑問だなぁ。何度か逆10両の小田原行きに乗ったが大野から本厚木間は地獄の混雑だった。。。
9:02 に出てくる新宿から6両で下る急行は学生時代たまに乗っていた。1989年まで新宿7時台最初の急行までが6両でこれがとんでもない混雑だった。1990年まではどうもそれまでの輸送体系にこだわっているのか随所で輸送力不足が露呈してた。
ご紹介あった通り、1990年前後はあまりに分割併合パターンが多く、一度ダイヤが乱れ出すと収拾つかないし、誤乗も頻発し、やりすぎ感が強かった。
ただ、今思うと、「小田原方面からかぶりつきで急行に乗ってきて、大野で連結、運転士がバタバタ降りて、無人になった運転室を眺めながら町田に向かって走り、町田手前で無人の運転室に鳴り響く停車確認のブザー合図」 その感じが好きだった。。。
コメントありがとうございます。朝ラッシュ終わりのこの運用。とても面白いですよね。ちょうどこの時間は上り準急も本厚木で逆増結している例がありました。興味深いです。下りの6両急行は7時台にまで及んでいたのですね。短い急行と言えば、夏季臨時の江ノ島線単独急行は、特段増結の記載がなかったので、新宿まで6両編成だったのかなと思います。私も晩年ですが、相模大野で増結する電車の後ろ側で景色を見ていた記憶があります。懐かしいコメントをいただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
90年代前半の大和駅では10両がどんどん来る相鉄がある一方4両6両ばかりの小田急(しかも4両の急行もあり)は肩身が狭かった。しかも本線に入るとノロノロ運転。いまや立場が逆転したようにすら見える。
コメントありがとうございます。小田急江ノ島線は長編成化と優等列車20分サイクル化が大きいですね。
自分が学生時代小田急沿線に住んでいた時は分割案内板Aを境にが当たり前だった。海老名から前6両は急行箱根湯本行き後4両は海老名止まり、相模大野から前6両は急行片瀬江ノ島行き後4両は各駅停車藤沢行きが当たり前だった。大学卒業のあたりで小田原まで10両が増えて海老名分割から新松田分割が増え始めた
コメントありがとうございます。非常に懐かしいです。ご視聴いただきありがとうございました。
箱根湯本始発の準急もあり、こちらは新松田で前4増結でした。
コメントありがとうございます。ご視聴いただきありがとうございました。
相模大野には、分割案内板Bってのもあった。前4両、後ろ6両パターンが日に数本存在した。
1992〜93年には、江ノ島線上り平日16時代に前6両に4両が併合するパターンも存在していた。
コメントありがとうございます。逆10両は90年代前半にはまだまだ見られたようですね。
18m車両2両を5組連結の10両があり、
通称ぶつじゅうと、言われていました。
ぶつじゅうの時の分割は、どこで切り離
しするか?駅員の案内が大変でした
旧4000形による、5両+3両がありました。
コメントありがとうございます。車両については詳しくなく申し訳ございません。補足いただきありがとうございます。
20:59
このパターンの中には、相武台前で急行を待避して、相模大野でその急行に追いついて連結する運用もありました。
コメントありがとうございます。手元にないのが1994年の時刻表なので、もしかしたらそこに掲載があるかもしれません。補足いただきありがとうございます。たしかに各駅停車がおいついて連結、というのを見た記憶がありました。
小田急の分割併合…物心ついたころは箱根急行の最晩年だった気がします。
まだ4両が電直車しかなく、8000形は6両ばかりが更新され、3000形も6両が32本そろって、小田急は80周年を迎えいよいよ新時代に移行・・・そんな感じだった気がします
コメントありがとうございます。仰る通り、箱根直通急行が廃止される頃はまだ10両固定編成も少なかったですね。
@@OdakyuDiagram ちなみに2007年時点では平日は145本,休日141本が、途中駅で分割併合を行っていたようです。
分割案内板Bはいつぐらいまで使用されてたんですかね?
コメントありがとうございます。逆10両の末期までこれがあったようです。
オール2200形又は2300形の10両編成をぶつ10と
言っていました。
コメントありがとうございます。ご視聴いただきありがとうございました。
各停4+4も分割あった
コメントありがとうございます。各駅停車の分割は90年代を見る限り確認できませんでしたが、あったのですね。補足いただきありがとうございます。
2400形4両+20m車両6両の連結もあり、
異なる形式の連結もありました。
コメントありがとうございます。2400形が箱根湯本方面の急行に使用されていた時代のことをウィキペディアで知りました。ありがとうございます。
自分が新宿を通っていた30年ほど前は分割案内板Bで
小田原・江ノ島方面急行が6-4分割が一般的でした。
コメントありがとうございます。最終的に残った6両4両の場合、新宿の案内板はBだったと別の方もコメントをくださいました。A以外の案内板があったとは、本当に興味深いです。
運行パターンがダイヤ改正毎に変わるので、
乗客、駅員、乗務員もダイヤを覚えるのが
大変でした。
コメントありがとうございます。パターンが本当に多様でした。
現在も4両+6両があれば、前4両箱根湯本行、
後6両小田原止まりが可能です。
でもほとんどが10両固定になりましたので、
無理になりました。
コメントありがとうございます。ご視聴いただきありがとうございました。
新宿〜新松田間各駅停車10両対応したから、4+6の各駅停車小田原、藤沢行きが出て欲しい
コメントありがとうございます。昔は分割併合が活発でしたね。
今ではあり得ない、分割切り離し、連結が日常
的に行われていました。
現在は、EXE、EXEα、MSEの特急のみになりま
した。
連結の際は、旗降りの代わりに誘導信号を採用
しています。
近鉄では、いまだに旗降りをしています。
コメントありがとうございます。近鉄の例を補足いただきありがとうございます。
RSEが7連だから特急停車駅は7兩ホームではないのか?
2:04 風祭は対向ホームになるまで小型3両ホーム、板橋・入生田は6兩ホーム(湯本は7兩)
コメントありがとうございます。細かい知識がなくて申し訳ございません。特急電車のことは頭にありませんでした。補足いただきありがとうございます。
新宿駅の分割案内板Bは初代4000系の5連+5連を分割するためのものだと思っていた(事実は知らない)
コメントありがとうございます。ご視聴いただきありがとうございました。
昔は秦野じゃなくて大秦野だったなぁ〜
コメントありがとうございます。大秦野や大根の時代もあったようですね。80年代の時刻表で確認できました。
今でも、EXE&EXEαとMSEが分割、併合していま
す。
現在は、特急の停車駅パターンが20種類以上あ
ります。
コメントありがとうございます。ご視聴いただきありがとうございました。
下りでは、銀色車両と白色車両の連結の際、
前4両白色の車両が急行箱根湯本行、
後4両銀色の車両が新松田から各駅停車小田原行
です。
と案内している相模大野駅の駅員がいました。
コメントありがとうございます。アイボリー車体が多かった時代ならではですね。
6:42日本語と英語があってない
コメントありがとうございます。ご指摘ありがとうございます。確認漏れがありました。申し訳ございません。ありがとうございました。
分割併合は小田急の隠れた文化だったのにね
ロマンスカーですら将来廃止されそう
コメントありがとうございます。特急も増えたり減ったりですね。土日日中のはこね・えのしま号がなくなると本格的に廃止かもしれません。
はこね号、えのしま号
メトロはこね号、メトロえのしま号
は、存在されると思います。
コメントありがとうございます。メトロ系統は単独運転するほどダイヤに余裕がないですから、分割併合が残りそうですね。