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庄内、酒田市には西郷隆盛をたたえる南洲神社があります。江戸で戦争のきっかけをつくるべく挑発行為をし、実際に庄内にも攻め込んできた薩摩藩、その西郷隆盛をたたえる神社を建立するあたりは、庄内人の人の良さ感じます。
なおかつ移り住んだ商人が山形屋を興します。その山形屋は鹿児島では別格のデパートです。
会津若松市と萩市に代表されるように戊辰戦争の遺恨は今なお続いていますが、官軍と賊軍という対立関係にありながら、後に友好的な関係になるのは面白く感じます。薩摩藩も江戸での挑発行為に負い目を感じてたのかなと思います。
Chikar kozu様勝手ながら、私の意見を追加させて頂きます。仰る通り、庄内人の人の良さも有ると思いますが、決して馬鹿では無いでしょうから、長州が庄内藩を潰そうとするのに対して、西郷隆盛が庄内藩を寛大な処分て済ます様に指示にした事を庄内藩の当時の方々は感じていたからでは無いですか?コレと同じ様に、元幕府軍側の東北地方の方々が比較的、西郷隆盛に好意的なのは、西郷隆盛がそれらの藩を解体を目指していなかったからでは無いですか?このサイトでは、薩摩が槍玉に上がっている様に感じますが、時間の関係なのかも知れませんが、チョコチョコ背景とかが抜けていて、薩摩が他の藩に利用された件が抜かれているみたいに私には感じます。日本人はそうそう馬鹿では無いですから、実際のその土地の人々のその後の感情や、意識から考えるのも必要かと思います。余計な事でしたら、済みませんでした。
西郷隆盛は著作を残しませんでした。西郷の遺訓を集めた南洲翁遺訓は庄内の人たちが西郷の言葉を思い出しながら書かれたものです。ご存じのとおり、庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたので、戦が終われば苛烈な裁きが下されると覚悟していました。しかし、西郷の指示で寛大な裁きが下されました。それを契機に庄内藩士と西郷や薩摩藩士との交流が生まれたのです。とくに有名なのは庄内藩の菅実秀で、彼は西郷に師事し、西郷の死後に南洲翁遺訓をまとめる中心人物となります。そもそも江戸の薩摩藩邸を焼き討ちの原因となった江戸での攪乱工作ですが、実は大政奉還が成立したので京都の薩摩藩から江戸の薩摩藩に攪乱工作の中止命令が出されました。しかも何度もしつこく重ねて攻撃を自重しろと命令されていました。(吉井耕輔書簡 二十五日付、十一月十九日付、十二月十日付)。つまり、江戸薩邸浪士の騒動は、吉井からの「鎮静にしていろ」という通達を無視した不逞浪士の暴発だったのであり、これを裏付けるのが、西郷の書簡である西郷が慶応四年一月一日付けで国許にいる蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、「(焼き討ち事件の報を受けて)大いに驚駭《きょうがい》いたし候仕合いに御座候。……江戸において諸方へ浪士相|起《た》ち動乱に及び候趣に相聞かれ候間、必ず諸方へ義挙いたし候事かと相察せられ申し候。……爰許《こころもと》にて壮士の者暴発致さざる様御達し御座候得共、いまだ訳も相分からず、……其の内決して暴動は致さざる段御届け申し出で置き候儀に御座候。……百五十人計り罷り居り候て決して暴挙いたす賦《つもり》とは相見得ず、京師の暴動に依り如何様共致すべくとの様子にて、乙名敷《おとなしく》罷り在り候趣は近比《ちかごろ》迄相聞こ得《え》居り候処、……残念千万の次第に御座候」。 事件発生の情報を知らされた西郷が、「残念千万」とごく親しい人物に対して書き送ったことは軽視しえない。
こんばんは。豊臣の終焉の時の秀頼と大坂城、時代は巡って慶喜と大坂城、皮肉なものですね。錦の御旗を見た慶喜はどんな気持ちだったのでしょうか?
まじか…だと思います。
ありがとうございます。
先生は事実をもとに感想を述べられているだけなのにそこを否定するのはどうなんでしょうか。事実でないことは批判されることですが感想までサムネに書けないんですかね。
知略と言って仕舞えばそれまでですが、西郷も、それなりな事してますね。。。これから先江戸でも、東北でも相当な事を西軍はしてますしね。そんな事が続いたから、新撰組や旧幕府方の闘いが、今でも心情的に人気があるんでしょうね。
戊辰戦争での政権交代時、死亡率0.3%、フランス革命時の死亡率13%であり、極めて静かな政権交代でした。
局長、近藤勇は京都で甲府で酒飲み失敗しました。板橋の近藤勇の墓は近くにあったので子供の頃行ったことあります。酒で失敗する人は繰り返す、酒は良いものを程々に😌
この鳥羽・伏見の戦いの裏で少数ながら大活躍したのが大村藩です。薩摩と親しく当時の藩主純熈が長崎奉行に任ぜられた事もあり小藩ながら強力な最新銃兵隊を有していました。大村藩は戦闘が始まると僅か50名の銃兵隊を大津に派遣しました全国に名高い大村藩の銃兵隊が進出したと聞いて近江の諸藩が雪崩を打って官軍側に付きました。更に佐幕派の首魁と見られた彦根藩も大津に出向き官軍に付きます。大久保利通は余程嬉しかったのか、岩倉具視へ琵琶湖ルートの糧道が確保された事を特筆した手紙を送っていますこの大津占領は糧道確保だけでなく、当時の大幹線東海道中山道確保したことになります。幕府軍は鳥羽・伏見の戦いの敗戦の後、組織だった撤退が出来なくなり険阻な大和道や紀州・海上を使って三々五々と撤退することになり、軍組織が崩壊します。幕府の抵抗力は鳥羽伏見の戦いの敗戦よりこういう敗軍後の行動で大きく減衰します結局、大村藩の銃兵隊は戦闘に参加しなかったものの少数で戦略要地を確保したことを官軍に高く評価され2万8千石の石高に対し3万石の加増(賞典録)を受けることになりました。これは薩長土に次ぐ4番目の評価です。派手な戦闘ばかりに目が行きがちですが、こういう戦いもものすごく重要だったりします
天皇に逆らう気持ちがないからね戦士したら悲劇のヒーローだったのに悪者にされてしまった。
慶喜の大阪城からの撤退は、織田信長の「金ケ崎の退き口」のような心境だったでしょうか。
よしのぶ逃げたのは英仏に対する牽制?みたいな大河ドラマを思い出しました。
事実が曲解してます。新撰組の人斬りとかは、OKなんですか?
そんな西郷も西南戦争で壮絶に散り、新撰組も戊辰戦争で近藤土方が壮絶に散りました。明治維新の立役者大久保も暗殺され、結局なんとなく勝ったのは慶喜なのかなと思う。
容堂は個人的に好きになれない。土佐藩は、旧長宗我部の郷士達がいたから倒幕へ向かった。但し、鄕士はほぼ全滅。唯一、上士の板垣退助のみ倒幕の考えあり、上士の後藤などどっちもどっちと。但し板垣は政治能力よりも武人として評価する。私の考えです。
貧乏だった庄内藩は本間家を登用して財政改革に成功していたから武器も最新だった。また本間家は小作農民を良く指導していたから領民と藩主は関係が良好だった。武士が威張っていた會津は領民に見放され狭い城に立て籠もって戦うことしかできなかった。庄内藩は領民と藩主が一体だったので、新政府軍が庄内藩と全面戦争をすれば庄内藩は領民の助けでゲリラ戦で徹底抗戦出来た。西郷どんはそれを良く知っていた。また本間家が新政府に30万両を献金したのも庄内藩が寛大な措置となった要因です。
先生。こんにちは。本日も楽しく拝見させて頂きました。昔のことですが、米南北戦争の英雄ユリシーズ・グラント将軍(リンカーンの2代後の大統領)の伝記をアメリカのドラマで観たことがあります。明治の岩倉使節団が謁見してますが、岩倉具視から直接『戊辰の役はcivil war(市民革命)であり、貴国の南北戦争と同じ目的であった。』というくだりが印象的でした。先生は、この戊辰戦争は市民革命と同等とお考えでしょうか?私は、これは、天皇家(日本国)の経済基盤を得るため遮二無二大久保が仕掛けたのでは?と思います。王政復古時、新政府には200両しかなかった、と別の日本の書籍に書いてありました。だとすると、国家経済基盤を得るための戦争のように思えるのですが、先生のお考えは如何ですか?教えてください。
王政復古って慶喜外しのクーデターでは?私見では慶喜を完全排除する必要があったのか甚だ疑問。
岩倉西郷大久保はそのつもりでした。しかしそれ以外の越前や土佐などのその他の勢力は中立かまたは慶喜よりでした。慶喜は王政復古の大号令が出されることも事前に越前殿から知らされていた。しかしそのことを慶喜は身内の会津と桑名には秘密にしていました。そして岩倉西郷大久保と土佐越前が激しく対立したのです。
幕末のイギリス・フランス・オランダ・アメリカ・ロシアなどの欧米列強の影響について、徳川慶喜公が戊辰戦争に負けた後は恭順して降伏するわけですが臆病風に吹かれたとの評価がたまに見られますが残念に思います。私は徳川幕府軍と薩摩・長州の新政府軍が仮に長期戦になれば欧米列強に狙われて日本の植民地化の可能性はあったと考えています。江戸無血開城も西郷隆盛と勝海舟の武士としての話し合いが戦争回避になったと言われていますが、薩摩藩に対してイギリス公使パークスが抗議をしたのが相当影響したと言われています。当時の藩主の方々が国際情勢を熟知していた事が日本を救ったと思います。
藩体制にした時点でもう幕府は終わりみたいなところありますよね。外国がバックアップもあり怖いもんなしです。幕府にもフランスがついていましたがね。
英國公使が如きが指し図する問題では御座いませんね。🙇
勝海舟に、体よく甲府城に厄介払いされたんだな。
市橋先生、お疲れ様です!とても勉強になりますよ!次が、楽しみですヨ!あの人物が出るからですヨ!楽しみ楽しみです!
先生の史実に沿った解釈、説明にはいつも敬服して居ます。残り少ない人生。先人達の創り上げた日本。大切に育てて欲しい。
錦の御旗が現存していないということは、偽物だった可能性は高いかもしれませんね。本物であれば是が非でも保存したでしょうし。まぁいずれにしても、勝てば官軍です。
錦の御旗は朝廷が管理してる旗を貸してるわけじゃ無くて、その時代その時代で錦の御旗を出していいよと言われた勢力が旗を用意してそれが錦の御旗になるんです。旗のデザインなんざ何でもいいし、事前に用意したものでも急遽作ったものでも何でもいい薩長が作ったものは帝の許可を頂いてるので完全に疑いようなく本物です
玉松操が岩倉具視命令で、偽造したんだよな。
慶喜の突然の逃亡の原因を創ったのが8代吉宗。吉宗が自分の血筋のみを将軍にするために創った御三卿が原因。ところが、後に、御三卿に、絶対将軍になっては駄目な水戸藩から養子、すなわち慶喜が入った。幕府創業者家康は、幕府と朝廷が対立した場合、徳川家を残すため朝廷に味方する水戸藩を設立。このため、水戸藩は、幕府初期から公武合体状態で、慶喜の母も皇族。こんな家で育った慶喜が錦旗を見たらどうなるか。吉宗は、幕府滅亡の原因を創っていたのである。
孝明天皇が暗殺されて天皇と謁見できなくなったからー
長州藩「朝敵認定されたけど戦ったぜ」会津藩「朝敵認定されたけど戦ったぜ」東北諸藩「朝敵認定されたけど戦ったぜ」江藤新平、前原一誠他「朝敵認定されたけど戦ったぜ」西郷「朝敵認定されたけど戦ったぜ」慶喜「朝敵になるの嫌だから逃げるぜ」なぜなのか
長州「薩摩が助けてくれるから戦う」会津「奥羽が助けてくれるから戦う」東北「夷狄が助けてくれるから戦う」前原「居場所がなくなったから戦う」江藤「ちょうどいい機会だから戦う」西郷「全国の不平士族のために戦う」慶喜「味方が助けてくれないどころか脅してくるし、というか戦いたくなかったし、こいつらのために命を張る義理もないから戦わない」
学校の授業では分からなかったことがわかりました。何となく全体像が掴めて来ました。明治維新って、英語だとMEIJI REVOLUTIONなんだそうですね。
「市民革命」と捉えられているようですね。少しニュアンスが異なると思うんですが。
ある種の革命を諸外国に比べ圧倒的に人的物質的犠牲が少ない稀な戦い。故に文明開化が一気に出来たのでは?
小田原藩はこの後、幕府軍優勢の噂を聞いて再度幕府側に寝返ります。勿論、東海道から陸続と官軍が押し寄せ幕府軍はあっさり箱根の関を明け渡す事になりました。小田原藩のこの態度は官軍を激怒させ、官軍には鉄砲の弾を一発も打っていないのに11万石から7万石へと4万石も没収されてしまいます。更に当主忠礼も強制引退で最後の藩主として忠良が立ちます。恐らく実際に戦闘していないのに、一番処罰がキツイ藩だったのではないでしょうか。忠良は賊軍扱いされたのが余程悔しかったのか、西南戦争に政府軍として従軍し熊本の地で戦死します現代からするとなんとも馬鹿らしく見えますが、将軍の庭とも言われた関東の諸藩にとって(特に譜代)将軍の力に対する信仰と西国諸藩との情報格差が見える逸話だと思います。後の東北諸藩の悲劇もこういう前提を見ないといけないんですよね
そうですか。ありがとうございました。ここまで詳細なことは知りませんでした。大久保氏、大変だったんですね。
@@市橋章男 これが無ければ表高11万石なので伯爵になる可能性も有ったのですが、子爵止まりでした。まぁ、叙爵は内高計算なので、幕末まで宝永噴火の後遺症に悩んでいた小田原藩が伯爵を叙爵できたかは分かりませんが
残念、近藤勇。詰め甘過ぎた。💢何やってんだよー🍶🍸🍺🍻
薩長テロ集団吉田松陰はテロの親玉
薩摩の乱暴なやり方に驚きました。命を軽く見過ぎですね。いくらなんでもとんでもないことです。
先生、サラッと言いましたよね、私は聞き逃してはおりません.「近藤勇が勇んで出てきた」.
いつも綺麗です!
地元が桑名ですが、鳥羽伏見の戦い直後、桑名の国元ではエラい混乱ぶりだったようです。鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍主力として戦っていたので当然朝敵に指名され、桑名は京都から近く江戸への進軍ルート上にあり、近い内に新政府軍が来るのは確実でした。そんな情勢で、意思決定する藩主は慶喜によって江戸に拉致、主力軍は大阪で散り散りになり国元にまともな戦力が無い、お隣の津藩は新政府側に寝返っているという状況。藩論を統一できず、くじ引きをした結果、「藩士全員で江戸に行き藩主に決めてもらう」という無謀な結果に決まりかけましたが、下士の代表が同志を集めて反対を表明、結果的に恭順論に傾いて、無血開城となりました。恭順に反発した藩士は各地で新政府軍と戦っており、その時に散々に新政府軍を打ち負かした戦上手の人物が、後に旧幕府軍出身者で唯一の陸軍大将となっています。
明治維新までの流れって、知れば知るほど単なるテロリズムなんですよねまかり間違っても腐敗した政権を打倒するとかそんな真っ当な話ではない
やはり幕末は面白いですね!現在の政治家にも流れがあるので、批判が来ているようですが、徳川側からしたら薩摩、長州は在日チンピラになりますよね。外国イギリスとの関係性もお願いいたします。フリーメーソンについて触れないと真実の歴史は見えてこないかと。偽物御旗で寝返るとは腰抜けの藩ばかりですね。最後まで戦った会津、長岡などこれからの時代にはもう一度繁栄してほしいですね。
旗の重さが現代と違いますから仕方無い事なのかもしれませんね。
こ、こんどうさん……
いつも楽しく拝見されて頂いております。私は在米二十数年の者です。Imperial Troopsについてです。英和辞典では「帝国軍」になるかもしれませんが、「Emperor(天皇)の軍」だというニュアンスだと思います。現在の君主で「Emperor」と公式に呼ばれているのは「日本の天皇」だけです。イギリスでもタイでもアラブ諸国でもありません。こちらでは「Emperor」というワードで(かなり最初に)浮かぶイメージは「日本の天皇」ではないかと思います。「日本は『Emperor(天皇)』が居る国」というだけで、諸外国から一目置かれているというメリット(?)を日本人はもっと知ったほうがいいと思います。
私の曾祖父は一万石の小大名でしたが大名自ら脱藩して徳川さんの為に最後までかんぐんに抵抗しました。
井上源三郎のことですね。
幕府への不平不満が蔓延してたのかな?井伊直弼と岸田さん何か似てる?🦆
命が惜しかったからに決まってます
竜馬暗殺も西郷隆盛とは先週のお話今回のお話で西郷隆盛のイメージダウンかな🤔
大きな嘘を平気でつく人間が政治に現れると、国民は大きな不幸に見舞われる。
今の日本
山岡鉄舟を裏話とするのであれば真日本人ではない。
慶喜は、頭いいいし、頭の回転も速いし、口も立つし、決断力も、度胸もあるんだけど。いざという時、逃げちゃうんだよね。こらえ性がない。頭がいい人がやりがちだけど、余計なひと言をいって、余計な敵をつくる。人徳がないw慶喜が将軍だったおかげで、内戦が最小限で済んだとも言えるが、、もっと人間性の高い人が将軍だったら、公武合体的な、明治維新もあったかもね。
井上源三郎さんですね!
そうそう。思い出しました。ありがとうございます。
徴兵制を現代でやるなんて如何に意味のないことか。
薩摩藩と長州藩は関ヶ原の恨みを265年後に返したんだね。ロマンがあるなぁ
薩摩藩は、関ヶ原の戦いの際にも、どうにか逃げ帰りましたし(犠牲は多いにしても、相手の多勢の鶴翼の陣から味方の大将を逃し切ったのは、歴史上無い事をでしたから)、そして、その後も領地も安堵してましたから、どちらかと言うと、元鎌倉武士で鹿児島に地頭として任じられた島津家としては、勝敗は時の運ですから、既に十分に、一矢報いているので、当時でも、「してやったり!」って感じでは無いでしょうか?(笑)それに、江戸時代の置いては、薩摩藩は、朝廷や幕府ともかなり結びついてきてましたから、久光の個人的意見は知れませんが、薩摩藩全体としては恨みなんて無いと思いますが…。それを表すのは、薩摩側は、幕府軍を穏便に処罰する方向にしようとしてますよねぇ〜。(笑)それに、その後も何処かとは違って、権力に固執してませんし…。(笑)他の所はどう考えていたかは私は分かりませんが…。(笑)
島津は,藩主が病気で、薩長同盟を聞き、大義ある徳川に申し訳無い。長州(朝鮮系)と土佐(中国)だけか?日本人の大名は薩摩だけじゃないか?と嘆いていたと聞いています。関ヶ原の時も、家康は、いずれ長州は恨んで何かをするだろうからと、薩摩の島津だけは見逃して恩をうってやれと。長州が何かした時には、島津と前田で挟撃させる為に、お咎め無しにしたんですよね。島津の60万石が欲しくて薩摩は長州に背乗りされただけです。薩長、土佐、加賀で約250万石。徳川と奥州列藩同盟で、約1000万石。幕府軍が負ける訳がないです。
悪どいと言えば悪どいんだけど、豊臣然り徳川然り薩長然り、権力を奪わんとする奴らのやり方なんていつもそんなものでしょ。
imperialはemperor(天皇)の、という形容詞です。官軍は天皇の軍なのでこの表記は何の問題もありません。
卑劣という表現がなされていますが、戦においてはこれを武略というのでしょう。勝たねばならないのですから。西郷隆盛は武力行使を決意するまであらゆる葛藤と戦い迷いも見せていますが、いざ腹を括ったあとは勝つために手段を選ばない覚悟をみせる漢でした。つまりはもはや武力行使するしかない状況になってしまった時代の流れが彼をそうさせたと捉えています。
私感ですが、岩倉具視の嘘旗でしょうね。(^.^)
俺が慶喜でも逃げてる
足利尊氏が立派に見えますよ錦の御旗にビビらず武士の世を守り抜いたその後の混乱を招いたかもしれないが家臣や諸侯を置き去りにし自分だけ逃げた慶喜よりマシ
足利尊氏が反逆悪者にされたのは天皇明治以降皇国史感の薩長閥政権によってだよな
@@ドミニオンパワー 足利尊氏の逆賊扱いは、江戸時代からだけど?もっと言えば、徳川光圀の水戸学ね。悪い事は何でも薩長のせいにする人は、嘘付きばかり。
@@tamenobukuji7732 その水戸学のなれの果てが薩長の建前尊皇攘夷だろう?
@@ドミニオンパワー 日本語分からないか?「足利尊氏の逆賊扱いは、江戸時代からだけど?もっと言えば、徳川光圀の水戸学ね。」100回読んどけ。
結局、薩摩も長州も実権を握りたかったんだろうね。その後、海軍は薩摩が、陸軍は長州が力をつけ大東亜戦争でも対立し日本は敗戦した…。
大東亜戦争の時は、東条・板垣大将・石原中将などの、東北出身者で固められてたんだけど?
市橋先生今晩は。肺癌治療もお休み。私はやや佐幕派なんですが新政府軍が新日本を作ったのは確かですが武士を無くすのが難題と知っていた勝海舟は本当の幕末の英雄だと思っております。
確かに薩摩藩邸を根城にしていたみたいですが、実際江戸を騒がしていたのは、薩土密約が有り、それを利用した土佐や水戸のヤカラでは無かったですか?まぁ〜、薩摩藩は、当時は久光だから、利用され放題なのに、分かって無いですからねぇ〜。(笑)
火蓋は切って落としちゃだめ!
わかりやすいですね。
逃亡のお話ですが、その前日の慶喜の有名な演説について明言されてないのはなぜですか?前日の1月5日、大坂城大広間にて、慶喜の決死の大演説が幕臣たちの前で行われた。そこには会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、その他重臣、老中、若年寄などがいました。諸君よ、心して聞いてもらいたい。我らは決して朝廷に敵対しようとしてこの戦を起こしたのではない。我らが目指したのは、朝廷にはびこり、君を我がものに操ろうとする奸臣を排除することだった。しかし、不幸にして敗戦はすでに決定的となり、賊軍とのそしりを受け、我が陣営はいま危機に瀕している。だが、正義は我らにある。必ず天の照覧があるに違いない。この上は、この大坂城で敵を迎え撃ち、断固死守しようではないか。たとえ、この城が燃え墜ち、私が死んだとしても、江戸城にいる忠臣たちが私の志を継いでくれるに違いない。諸君よ。ここは奮起一発、どうか全力を尽くしてもらいたい。私とともに国家に尽くそうではないか!『会津戊辰戦史』この慶喜の決死の決意に胸を打たれて、感激のあまりにすすり泣く者もいました。そこにいる皆が慶喜と大坂城で死することを誓ったことでしょう。
結局、逃げてますやん。
@@ufo3315 そうです
腰抜け徳川慶喜 リーダー失格
なんかこれ古い研究内容のままですよね?そもそも江戸の薩摩藩邸を焼き討ちの原因となった江戸での攪乱工作ですが、おっしゃる通り、大政奉還が成立したので討幕の密勅は取り下げられて、それと同時に攪乱工作にも中止命令が出されのです。薩摩の小松帯刀は慶喜に大政奉還することを進言しており、またその大政奉還を朝廷側が受け入れるように調整役として奔走した。しかし薩摩側では慶喜を信用してないし、大政奉還を受けるとは限らない。なので受けなかった場合を想定してたのだろう。その時のための江戸攪乱作戦であり、そして討幕の密勅も同時進行で用意したのである。しかし、慶喜も朝廷も大政奉還を受け入れ成立した。なので今すぐ薩摩が武力的な行動をする必要はなくなったのだ。そして京の薩摩藩から江戸に攪乱工作の中止命令が出されました。しかも何度もしつこく重ねて攻撃を自重しろと命令が出されました。(吉井耕輔書簡 二十五日付、十一月十九日付、十二月十日付)。つまり、江戸薩邸浪士の騒動は、吉井からの「鎮静にしていろ」という通達を無視した不逞浪士の暴発だったのであり、これを裏付けるのが、西郷の書簡である。西郷が慶応四年一月一日付けで国許にいる蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、「(焼き討ち事件の報を受けて)大いに驚駭《きょうがい》いたし候仕合いに御座候。……江戸において諸方へ浪士相|起《た》ち動乱に及び候趣に相聞かれ候間、必ず諸方へ義挙いたし候事かと相察せられ申し候。……爰許《こころもと》にて壮士の者暴発致さざる様御達し御座候得共、いまだ訳も相分からず、……其の内決して暴動は致さざる段御届け申し出で置き候儀に御座候。……百五十人計り罷り居り候て決して暴挙いたす賦《つもり》とは相見得ず、京師の暴動に依り如何様共致すべくとの様子にて、乙名敷《おとなしく》罷り在り候趣は近比《ちかごろ》迄相聞こ得《え》居り候処、……残念千万の次第に御座候」。事件発生の情報を知らされた西郷が、「残念千万」とごく親しい人物に対して書き送ったことは軽視しえない。つまり戦がしたくて工作が成功したなんてのは真っ赤な嘘です。そもそも普通に考えてこの戦力差で戦に勝てると思いますか?京都にいる薩摩兵と仲間の長州兵で約4千名程度で、対する旧幕府方の兵は一万5千ですよ?。京都御所内では慶喜の政略に負けて、岩倉西郷大久保は四面楚歌状態。岩倉は慶喜の政権入りを認めるしかないと覚悟、西郷は何事もうまくいかず、もう国に帰りたいと泣き言を言い出す始末。しかしそこで岩倉と西郷の尻を叩いたのが大久保だ。このままでは全て水泡に帰すぞと言って二人を説得した。
奇兵隊は思ったより近代的な組織てあり戦地では全く自己完結できる自衛隊と言える。山口県には数ヵ所の諸 隊の駐屯所があるがまさに自衛隊と同じ訓練内容や教育内容であった。つまり、長州兵は他藩兵と違い兵站、工作、医療部隊を持ち、戦地で掠奪暴行蛮行の類いをする必要のない部隊である。明治維新で得をしたのは長州?薩摩?いや慶喜、勝海舟、榎本武揚と旧幕臣である。明治維新で江戸は天皇を迎えることに成功し、帝都東京となり、保守的な抵抗勢力の幕臣をなんなき廃除でき多くは新政府の官僚となり、東京は今は世界一の経済都市と発展している。天寿を全うしたした慶喜て海舟の笑いが聞こえるくらいである。つまり幕府の計画倒産させた感がある。戊辰戦争時の不可解な幕府の負け戦も納得できる。会津の松平容保も怪しい。超封建的な会津藩の家臣を見事廃除し面子を保つという離れ業をしたとしかおもえない。秋山悌三などを長州に密通させ、優秀な会津の青年山川健太郎らを前原や奥寺に託している。容保も嫡子の出産を落城最中長州の従軍医の山根孝中に委ねているし、別の息子は山田顕義の弟の養子にだしている。自身は東照宮の宮司となるというお見事というほかない。徳川宗家ものっとったのでは?会津戦争は真実が伝わってていない面が多々ある。全く隣国と同じで被害者ビジネスをしている。世良修蔵の暗殺事件の歪曲と捏造は武士として人間としてあり得ない行為であり、真逆な話を捏造した東北人のいうことは私は絶対信じない。
僕は明治天皇の外祖父の公家の中山忠能の7親等の子孫です。倒幕の勅は15才の即位したばかりの明治天皇がだしますが祖父の公家中山忠能が藤原北家の流れの公家なので藤原忠能とサインしました。鳥羽伏見の作戦会議では劣勢になったら明治天皇と中山忠能は長州に退却する作戦迄たてていました。中山忠能は長州に長年肩入れしていた尊皇攘夷はの公家で明治天皇の外祖父でもあり知られていない幕末明治の立役者です。娘中山慶子は明治天皇の実母であり孝明天皇の側室。明治天皇←中山慶子←中山忠能→正親町公薫→牧野弥栄→池のカウ→亀井志満→亀井貞一→亀井清→旧姓亀井江口敏天皇陛下万歳🙌
「卑劣」「卑怯」という言葉は使用しないでいただきたい(発信者側の主観が強すぎるかと思います)その時代にはその時代の価値観があります。遥か昔から現状を大幅に変える改革に痛みはある程度あるもの。現代に生きる我々が、先人達が作ってきた、行ってきた事に対して100%理解できていない(完全に資料が揃っていなければその時代を生きたわけでもない)状態にもかかわらず非難するのはいかがなものかと。あの時代に維新を行った人間たちのすべての人間が同じ想い(富国強兵し万民平等で差別のない世にする)だったわけではないと思いますが、現状の日本が先進国として今の地位を築いてこれたのもその時の苦しい選択、尊い犠牲の上に成り立っています。現代に生きる我々は、改革派保守派に関わらず先人たちを敬い、先人達から学び(どういう考えで改革,保守だったのか)、先の日本を思いどう行動(選択)することが寛容かと存じます。
失礼しました。サムネイルを変更します。
@@history-channel 迅速なご対応ありがとうございます。今後も実のあるわかりやすい配信を期待しております。
サムネイル、今日中に変更します。
故意に江戸市中での金品強奪、殺人などの犯罪を支援し、かつその実行犯を薩摩藩邸に匿ったことは、卑劣行為 でしょう⁉️😄
佐幕派なので長州はともかく、最初から敵なので。でも、薩摩のやってることは好きではないです。
政権を返したなら、土地も返すべきである、慶喜いなくても、国を統べる力が無くなったのだら、潔く、腹でも切って、辞退しべきである、戦いは、汚いもなにもない、力が無いのだから
このタイトルこそ卑劣すぎではないですかね?薩摩で生まれ育ち、教育を受け、話を聞いてきた人間としては、正直赦せないものがあるくらい酷い難癖に思う。もし、そうなら、画像にある南洲翁の言葉を遺訓として、いくら助けられたとは言え、庄内の方々も、あれほどに熱心に語り継いではくれなかったのでは無いのか。司馬史観では無いが、これもまた一方的な物言いにしか聞こえない。あまりにも薩摩を侮蔑し過ぎである。
私もこのタイトルは気持ちが痛みます。市橋先生の動画には似合わないと思います。激しいタイトルにしなくても良いのではないでしょうか?
私は、タイトルは難癖ではないと思います。「大政奉還」後、京都を去った幕府軍を挑発することを目的として、西郷さんは、江戸を騒擾化するために薩摩藩士だけではなく、倒幕、尊皇攘夷派の浪士を全国から多数招き入れたとの記録があります。彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助の指示を受け、放火、掠奪、暴行などを繰り返して幕府を挑発しました。その他、思想とは無縁の無宿人、もいたました。 彼らは「薩摩御用盗(ごようとう)」と呼ばれ、大店を次々に襲って、家人らを殺害し、大金を強奪したとの記録もあります。さらに江戸城の二の丸にも放火しています。つまり、江戸の薩摩藩邸を根城にして悪逆非道の限りをつくしたのです。これらの事は江戸幕府最後の火盗改頭の戸田正意の日記にも書かれてます。つまり、薩摩藩がテロリストを支援していたという事ですね。 薩摩の芋侍たちが江戸っ子に忌み嫌われていたのは、事実です。😔😔
@@栄二一型 一方的な物言いに荷担するのですね。残念です。そういうことも薩摩の人間は、人によって多かれ少なかれ、(現代目線で)良いことも悪いことも聞き、習います。その上で、一方的に南洲翁に擦り付け侮蔑するのはいただけないと申しているのです。遺訓として言葉を語り継いでくださった庄内の方々への愚弄でもありましょう。そして、司馬史観のように思い込みも交えた個人的なものと言う言い訳で、やっていいことでもありません。その当時を片方の目線だけで騙るのではなく、金や武器、人の流れ、当時の日本を取り巻く海外も国内もの事情、そういうものを俯瞰して解説していただきたい。貴方も私も誰も彼もその歴史の地続きに居ることを忘れてはいけないでしょう。
@@alfalfa9223 加担などしてません。歴史上確認出来る事実を述べているだけです。現在確認出来る史実に感情を挟むとフィクションになってしまいます。明治維新の元勲の多くは天誅に加担した人も多く、けして偉人ではありませんでした。
庄内、酒田市には西郷隆盛をたたえる南洲神社があります。江戸で戦争のきっかけをつくるべく挑発行為をし、実際に庄内にも攻め込んできた薩摩藩、その西郷隆盛をたたえる神社を建立するあたりは、庄内人の人の良さ感じます。
なおかつ移り住んだ商人が山形屋を興します。その山形屋は鹿児島では別格のデパートです。
会津若松市と萩市に代表されるように戊辰戦争の遺恨は今なお続いていますが、官軍と賊軍という対立関係にありながら、後に友好的な関係になるのは面白く感じます。薩摩藩も江戸での挑発行為に負い目を感じてたのかなと思います。
Chikar kozu様
勝手ながら、私の意見を追加させて頂きます。
仰る通り、庄内人の人の良さも有ると思いますが、決して馬鹿では無いでしょうから、長州が庄内藩を潰そうとするのに対して、西郷隆盛が庄内藩を寛大な処分て済ます様に指示にした事を庄内藩の当時の方々は感じていたからでは無いですか?
コレと同じ様に、元幕府軍側の東北地方の方々が比較的、西郷隆盛に好意的なのは、西郷隆盛がそれらの藩を解体を目指していなかったからでは無いですか?
このサイトでは、薩摩が槍玉に上がっている様に感じますが、時間の関係なのかも知れませんが、チョコチョコ背景とかが抜けていて、薩摩が他の藩に利用された件が抜かれているみたいに私には感じます。
日本人はそうそう馬鹿では無いですから、実際のその土地の人々のその後の感情や、意識から考えるのも必要かと思います。
余計な事でしたら、済みませんでした。
西郷隆盛は著作を残しませんでした。西郷の遺訓を集めた南洲翁遺訓は庄内の人たちが西郷の言葉を思い出しながら書かれたものです。
ご存じのとおり、庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたので、戦が終われば苛烈な裁きが下されると覚悟していました。しかし、西郷の指示で寛大な裁きが下されました。それを契機に庄内藩士と西郷や薩摩藩士との交流が生まれたのです。とくに有名なのは庄内藩の菅実秀で、彼は西郷に師事し、西郷の死後に南洲翁遺訓をまとめる中心人物となります。
そもそも江戸の薩摩藩邸を焼き討ちの原因となった江戸での攪乱工作ですが、実は大政奉還が成立したので京都の薩摩藩から江戸の薩摩藩に攪乱工作の中止命令が出されました。しかも何度もしつこく重ねて攻撃を自重しろと命令されていました。(吉井耕輔書簡 二十五日付、十一月十九日付、十二月十日付)。
つまり、江戸薩邸浪士の騒動は、吉井からの「鎮静にしていろ」という通達を無視した不逞浪士の暴発だったのであり、これを裏付けるのが、西郷の書簡である
西郷が慶応四年一月一日付けで国許にいる蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、「(焼き討ち事件の報を受けて)大いに驚駭《きょうがい》いたし候仕合いに御座候。……江戸において諸方へ浪士相|起《た》ち動乱に及び候趣に相聞かれ候間、必ず諸方へ義挙いたし候事かと相察せられ申し候。……爰許《こころもと》にて壮士の者暴発致さざる様御達し御座候得共、いまだ訳も相分からず、……其の内決して暴動は致さざる段御届け申し出で置き候儀に御座候。……百五十人計り罷り居り候て決して暴挙いたす賦《つもり》とは相見得ず、京師の暴動に依り如何様共致すべくとの様子にて、乙名敷《おとなしく》罷り在り候趣は近比《ちかごろ》迄相聞こ得《え》居り候処、……残念千万の次第に御座候」。
事件発生の情報を知らされた西郷が、「残念千万」とごく親しい人物に対して書き送ったことは軽視しえない。
こんばんは。
豊臣の終焉の時の秀頼と大坂城、時代は巡って慶喜と大坂城、皮肉なものですね。
錦の御旗を見た慶喜はどんな気持ちだったのでしょうか?
まじか…
だと思います。
ありがとうございます。
先生は事実をもとに感想を述べられているだけなのにそこを否定するのはどうなんでしょうか。事実でないことは批判されることですが感想までサムネに書けないんですかね。
知略と言って仕舞えばそれまでですが、西郷も、それなりな事してますね。。。これから先江戸でも、東北でも相当な事を西軍はしてますしね。そんな事が続いたから、新撰組や旧幕府方の闘いが、今でも心情的に人気があるんでしょうね。
戊辰戦争での政権交代時、死亡率0.3%、フランス革命時の死亡率13%であり、極めて静かな政権交代でした。
局長、近藤勇は京都で甲府で酒飲み失敗しました。
板橋の近藤勇の墓は近くにあったので子供の頃行ったことあります。
酒で失敗する人は繰り返す、酒は良いものを程々に😌
この鳥羽・伏見の戦いの裏で少数ながら大活躍したのが大村藩です。薩摩と親しく当時の藩主純熈が長崎奉行に任ぜられた事もあり小藩ながら強力な最新銃兵隊を有していました。大村藩は戦闘が始まると僅か50名の銃兵隊を大津に派遣しました
全国に名高い大村藩の銃兵隊が進出したと聞いて近江の諸藩が雪崩を打って官軍側に付きました。更に佐幕派の首魁と見られた彦根藩も大津に出向き官軍に付きます。大久保利通は余程嬉しかったのか、岩倉具視へ琵琶湖ルートの糧道が確保された事を特筆した手紙を送っています
この大津占領は糧道確保だけでなく、当時の大幹線東海道中山道確保したことになります。幕府軍は鳥羽・伏見の戦いの敗戦の後、組織だった撤退が出来なくなり険阻な大和道や紀州・海上を使って三々五々と撤退することになり、軍組織が崩壊します。幕府の抵抗力は鳥羽伏見の戦いの敗戦よりこういう敗軍後の行動で大きく減衰します
結局、大村藩の銃兵隊は戦闘に参加しなかったものの少数で戦略要地を確保したことを官軍に高く評価され2万8千石の石高に対し3万石の加増(賞典録)を受けることになりました。これは薩長土に次ぐ4番目の評価です。派手な戦闘ばかりに目が行きがちですが、こういう戦いもものすごく重要だったりします
天皇に逆らう気持ちがないからね
戦士したら悲劇のヒーローだったのに
悪者にされてしまった。
慶喜の大阪城からの撤退は、織田信長の「金ケ崎の退き口」のような心境だったでしょうか。
よしのぶ逃げたのは英仏に対する牽制?みたいな大河ドラマを思い出しました。
事実が曲解してます。
新撰組の人斬りとかは、OKなんですか?
そんな西郷も西南戦争で壮絶に散り、新撰組も戊辰戦争で近藤土方が壮絶に散りました。
明治維新の立役者大久保も暗殺され、結局なんとなく勝ったのは慶喜なのかなと思う。
容堂は個人的に好きになれない。土佐藩は、旧長宗我部の郷士達がいたから倒幕へ向かった。但し、鄕士はほぼ全滅。
唯一、上士の板垣退助のみ倒幕の考えあり、上士の後藤などどっちもどっちと。但し板垣は政治能力よりも武人として評価する。私の考えです。
貧乏だった庄内藩は本間家を登用して財政改革に成功していたから
武器も最新だった。
また本間家は小作農民を良く指導していたから領民と藩主は関係が良好だった。武士が威張っていた會津は領民に見放され狭い城に立て籠もって戦うことしかできなかった。
庄内藩は領民と藩主が一体だったので、新政府軍が庄内藩と全面戦争をすれば庄内藩は領民の助けでゲリラ戦で徹底抗戦出来た。西郷どんはそれを良く知っていた。
また本間家が新政府に30万両を献金したのも庄内藩が寛大な措置となった要因です。
先生。こんにちは。本日も楽しく拝見させて頂きました。昔のことですが、米南北戦争の英雄ユリシーズ・グラント将軍(リンカーンの2代後の大統領)の伝記をアメリカのドラマで観たことがあります。明治の岩倉使節団が謁見してますが、岩倉具視から直接『戊辰の役はcivil war(市民革命)であり、貴国の南北戦争と同じ目的であった。』というくだりが印象的でした。先生は、この戊辰戦争は市民革命と同等とお考えでしょうか?私は、これは、天皇家(日本国)の経済基盤を得るため遮二無二大久保が仕掛けたのでは?と思います。王政復古時、新政府には200両しかなかった、と別の日本の書籍に書いてありました。だとすると、国家経済基盤を得るための戦争のように思えるのですが、先生のお考えは如何ですか?教えてください。
王政復古って慶喜外しのクーデターでは?
私見では慶喜を完全排除する必要があったのか甚だ疑問。
岩倉西郷大久保はそのつもりでした。しかしそれ以外の越前や土佐などのその他の勢力は中立かまたは慶喜よりでした。
慶喜は王政復古の大号令が出されることも事前に越前殿から知らされていた。しかしそのことを慶喜は身内の会津と桑名には秘密にしていました。
そして岩倉西郷大久保と土佐越前が激しく対立したのです。
幕末のイギリス・フランス・オランダ・アメリカ・ロシアなどの欧米列強の影響について、徳川慶喜公が戊辰戦争に負けた後は恭順して降伏するわけですが臆病風に吹かれたとの評価がたまに見られますが残念に思います。私は徳川幕府軍と薩摩・長州の新政府軍が仮に長期戦になれば欧米列強に狙われて日本の植民地化の可能性はあったと考えています。江戸無血開城も西郷隆盛と勝海舟の武士としての話し合いが戦争回避になったと言われていますが、薩摩藩に対してイギリス公使パークスが抗議をしたのが相当影響したと言われています。当時の藩主の方々が国際情勢を熟知していた事が日本を救ったと思います。
藩体制にした時点でもう幕府は終わりみたいなところありますよね。
外国がバックアップもあり
怖いもんなしです。
幕府にもフランスがついていましたがね。
英國公使が如きが指し図する問題では御座いませんね。🙇
勝海舟に、体よく甲府城に厄介払いされたんだな。
市橋先生、お疲れ様です!とても勉強になりますよ!次が、楽しみですヨ!あの人物が出るからですヨ!楽しみ楽しみです!
先生の史実に沿った解釈、説明にはいつも敬服して居ます。
残り少ない人生。
先人達の創り上げた日本。
大切に育てて欲しい。
錦の御旗が現存していないということは、偽物だった可能性は高いかもしれませんね。本物であれば是が非でも保存したでしょうし。まぁいずれにしても、勝てば官軍です。
錦の御旗は朝廷が管理してる旗を貸してるわけじゃ無くて、その時代その時代で錦の御旗を出していいよと言われた勢力が旗を用意してそれが錦の御旗になるんです。旗のデザインなんざ何でもいいし、事前に用意したものでも急遽作ったものでも何でもいい
薩長が作ったものは帝の許可を頂いてるので完全に疑いようなく本物です
玉松操が岩倉具視命令で、偽造したんだよな。
慶喜の突然の逃亡の原因を創ったのが8代吉宗。吉宗が自分の血筋のみを将軍にするために創った御三卿が原因。ところが、後に、御三卿に、絶対将軍になっては駄目な水戸藩から養子、すなわち慶喜が入った。幕府創業者家康は、幕府と朝廷が対立した場合、徳川家を残すため朝廷に味方する水戸藩を設立。このため、水戸藩は、幕府初期から公武合体状態で、慶喜の母も皇族。こんな家で育った慶喜が錦旗を見たらどうなるか。吉宗は、幕府滅亡の原因を創っていたのである。
孝明天皇が暗殺されて天皇と謁見できなくなったからー
長州藩「朝敵認定されたけど戦ったぜ」
会津藩「朝敵認定されたけど戦ったぜ」
東北諸藩「朝敵認定されたけど戦ったぜ」
江藤新平、前原一誠他「朝敵認定されたけど戦ったぜ」
西郷「朝敵認定されたけど戦ったぜ」
慶喜「朝敵になるの嫌だから逃げるぜ」
なぜなのか
長州「薩摩が助けてくれるから戦う」
会津「奥羽が助けてくれるから戦う」
東北「夷狄が助けてくれるから戦う」
前原「居場所がなくなったから戦う」
江藤「ちょうどいい機会だから戦う」
西郷「全国の不平士族のために戦う」
慶喜「味方が助けてくれないどころか脅してくるし、というか戦いたくなかったし、こいつらのために命を張る義理もないから戦わない」
学校の授業では分からなかったことがわかりました。何となく全体像が掴めて来ました。
明治維新って、英語だとMEIJI REVOLUTIONなんだそうですね。
「市民革命」と捉えられているようですね。少しニュアンスが異なると思うんですが。
ある種の革命を諸外国に比べ圧倒的に人的物質的犠牲が少ない稀な戦い。故に文明開化が一気に出来たのでは?
小田原藩はこの後、幕府軍優勢の噂を聞いて再度幕府側に寝返ります。勿論、東海道から陸続と官軍が押し寄せ幕府軍はあっさり箱根の関を明け渡す事になりました。小田原藩のこの態度は官軍を激怒させ、官軍には鉄砲の弾を一発も打っていないのに11万石から7万石へと4万石も没収されてしまいます。更に当主忠礼も強制引退で最後の藩主として忠良が立ちます。恐らく実際に戦闘していないのに、一番処罰がキツイ藩だったのではないでしょうか。忠良は賊軍扱いされたのが余程悔しかったのか、西南戦争に政府軍として従軍し熊本の地で戦死します
現代からするとなんとも馬鹿らしく見えますが、将軍の庭とも言われた関東の諸藩にとって(特に譜代)将軍の力に対する信仰と西国諸藩との情報格差が見える逸話だと思います。後の東北諸藩の悲劇もこういう前提を見ないといけないんですよね
そうですか。ありがとうございました。ここまで詳細なことは知りませんでした。大久保氏、大変だったんですね。
@@市橋章男
これが無ければ表高11万石なので伯爵になる可能性も有ったのですが、子爵止まりでした。まぁ、叙爵は内高計算なので、幕末まで宝永噴火の後遺症に悩んでいた小田原藩が伯爵を叙爵できたかは分かりませんが
残念、近藤勇。詰め甘過ぎた。
💢何やってんだよー🍶🍸🍺🍻
薩長テロ集団
吉田松陰はテロの親玉
薩摩の乱暴なやり方に驚きました。命を軽く見過ぎですね。いくらなんでもとんでもないことです。
先生、サラッと言いましたよね、私は聞き逃してはおりません.「近藤勇が勇んで出てきた」.
いつも綺麗です!
地元が桑名ですが、鳥羽伏見の戦い直後、桑名の国元ではエラい混乱ぶりだったようです。
鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍主力として戦っていたので当然朝敵に指名され、桑名は京都から近く江戸への進軍ルート上にあり、近い内に新政府軍が来るのは確実でした。
そんな情勢で、意思決定する藩主は慶喜によって江戸に拉致、主力軍は大阪で散り散りになり国元にまともな戦力が無い、お隣の津藩は新政府側に寝返っているという状況。
藩論を統一できず、くじ引きをした結果、「藩士全員で江戸に行き藩主に決めてもらう」という無謀な結果に決まりかけましたが、下士の代表が同志を集めて反対を表明、結果的に恭順論に傾いて、無血開城となりました。
恭順に反発した藩士は各地で新政府軍と戦っており、その時に散々に新政府軍を打ち負かした戦上手の人物が、後に旧幕府軍出身者で唯一の陸軍大将となっています。
明治維新までの流れって、知れば知るほど単なるテロリズムなんですよね
まかり間違っても腐敗した政権を打倒するとかそんな真っ当な話ではない
やはり幕末は面白いですね!現在の政治家にも流れがあるので、批判が来ているようですが、徳川側からしたら薩摩、長州は在日チンピラになりますよね。外国イギリスとの関係性もお願いいたします。フリーメーソンについて触れないと真実の歴史は見えてこないかと。偽物御旗で寝返るとは腰抜けの藩ばかりですね。最後まで戦った会津、長岡などこれからの時代にはもう一度繁栄してほしいですね。
旗の重さが現代と違いますから仕方無い事なのかもしれませんね。
こ、こんどうさん……
いつも楽しく拝見されて頂いております。私は在米二十数年の者です。
Imperial Troopsについてです。
英和辞典では「帝国軍」になるかもしれませんが、「Emperor(天皇)の軍」だというニュアンスだと思います。
現在の君主で「Emperor」と公式に呼ばれているのは「日本の天皇」だけです。イギリスでもタイでもアラブ諸国でもありません。
こちらでは「Emperor」というワードで(かなり最初に)浮かぶイメージは「日本の天皇」ではないかと思います。
「日本は『Emperor(天皇)』が居る国」というだけで、諸外国から一目置かれているというメリット(?)を日本人はもっと知ったほうがいいと思います。
私の曾祖父は一万石の小大名でしたが大名自ら脱藩して徳川さんの為に最後までかんぐんに抵抗しました。
井上源三郎のことですね。
幕府への不平不満が蔓延してたのかな?
井伊直弼と岸田さん何か似てる?🦆
命が惜しかったからに決まってます
竜馬暗殺も西郷隆盛とは先週のお話
今回のお話で西郷隆盛のイメージダウンかな🤔
大きな嘘を平気でつく人間が政治に現れると、国民は大きな不幸に見舞われる。
今の日本
山岡鉄舟を裏話とするのであれば真日本人ではない。
慶喜は、頭いいいし、頭の回転も速いし、口も立つし、決断力も、度胸もあるんだけど。
いざという時、逃げちゃうんだよね。
こらえ性がない。
頭がいい人がやりがちだけど、余計なひと言をいって、余計な敵をつくる。
人徳がないw
慶喜が将軍だったおかげで、内戦が最小限で済んだとも言えるが、、もっと人間性の高い人が将軍だったら、公武合体的な、明治維新もあったかもね。
井上源三郎さんですね!
そうそう。思い出しました。ありがとうございます。
徴兵制を現代でやるなんて如何に意味のないことか。
薩摩藩と長州藩は関ヶ原の恨みを265年後に返したんだね。
ロマンがあるなぁ
薩摩藩は、関ヶ原の戦いの際にも、どうにか逃げ帰りましたし(犠牲は多いにしても、相手の多勢の鶴翼の陣から味方の大将を逃し切ったのは、歴史上無い事をでしたから)、そして、その後も領地も安堵してましたから、どちらかと言うと、元鎌倉武士で鹿児島に地頭として任じられた島津家としては、勝敗は時の運ですから、既に十分に、一矢報いているので、当時でも、「してやったり!」って感じでは無いでしょうか?(笑)
それに、江戸時代の置いては、薩摩藩は、朝廷や幕府ともかなり結びついてきてましたから、久光の個人的意見は知れませんが、薩摩藩全体としては恨みなんて無いと思いますが…。
それを表すのは、薩摩側は、幕府軍を穏便に処罰する方向にしようとしてますよねぇ〜。(笑)
それに、その後も何処かとは違って、権力に固執してませんし…。(笑)
他の所はどう考えていたかは私は分かりませんが…。(笑)
島津は,藩主が病気で、薩長同盟を聞き、大義ある徳川に申し訳無い。長州(朝鮮系)と土佐(中国)だけか?日本人の大名は薩摩だけじゃないか?と嘆いていたと聞いています。関ヶ原の時も、家康は、いずれ長州は恨んで何かをするだろうからと、薩摩の島津だけは見逃して恩をうってやれと。長州が何かした時には、島津と前田で挟撃させる為に、お咎め無しにしたんですよね。島津の60万石が欲しくて薩摩は長州に背乗りされただけです。薩長、土佐、加賀で約250万石。徳川と奥州列藩同盟で、約1000万石。幕府軍が負ける訳がないです。
悪どいと言えば悪どいんだけど、豊臣然り徳川然り薩長然り、権力を奪わんとする奴らのやり方なんていつもそんなものでしょ。
imperialはemperor(天皇)の、という形容詞です。官軍は天皇の軍なのでこの表記は何の問題もありません。
卑劣という表現がなされていますが、戦においてはこれを武略というのでしょう。勝たねばならないのですから。
西郷隆盛は武力行使を決意するまであらゆる葛藤と戦い迷いも見せていますが、いざ腹を括ったあとは勝つために手段を選ばない覚悟をみせる漢でした。
つまりはもはや武力行使するしかない状況になってしまった時代の流れが彼をそうさせたと捉えています。
私感ですが、岩倉具視の嘘旗でしょうね。(^.^)
俺が慶喜でも逃げてる
足利尊氏が
立派に見えますよ
錦の御旗にビビらず
武士の世を守り抜いた
その後の混乱を
招いたかもしれないが
家臣や諸侯を置き去りにし
自分だけ逃げた
慶喜よりマシ
足利尊氏が反逆悪者にされたのは天皇明治以降皇国史感の薩長閥政権によってだよな
@@ドミニオンパワー 足利尊氏の逆賊扱いは、江戸時代からだけど?もっと言えば、徳川光圀の水戸学ね。
悪い事は何でも薩長のせいにする人は、嘘付きばかり。
@@tamenobukuji7732 その水戸学のなれの果てが薩長の建前尊皇攘夷だろう?
@@ドミニオンパワー 日本語分からないか?
「足利尊氏の逆賊扱いは、江戸時代からだけど?もっと言えば、徳川光圀の水戸学ね。」
100回読んどけ。
結局、薩摩も長州も実権を握りたかったんだろうね。
その後、海軍は薩摩が、陸軍は長州が力をつけ大東亜戦争でも対立し日本は敗戦した…。
大東亜戦争の時は、東条・板垣大将・石原中将などの、東北出身者で固められてたんだけど?
市橋先生今晩は。肺癌治療もお休み。私はやや佐幕派なんですが新政府軍が新日本を作ったのは確かですが武士を無くすのが難題と知っていた勝海舟は本当の幕末の英雄だと思っております。
確かに薩摩藩邸を根城にしていたみたいですが、実際江戸を騒がしていたのは、薩土密約が有り、それを利用した土佐や水戸のヤカラでは無かったですか?
まぁ〜、薩摩藩は、当時は久光だから、利用され放題なのに、分かって無いですからねぇ〜。(笑)
火蓋は切って落としちゃだめ!
わかりやすいですね。
逃亡のお話ですが、その前日の慶喜の有名な演説について明言されてないのはなぜですか?
前日の1月5日、大坂城大広間にて、慶喜の決死の大演説が幕臣たちの前で行われた。
そこには会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、その他重臣、老中、若年寄などがいました。
諸君よ、心して聞いてもらいたい。
我らは決して朝廷に敵対しようとしてこの戦を起こしたのではない。
我らが目指したのは、朝廷にはびこり、君を我がものに操ろうとする奸臣を排除することだった。
しかし、不幸にして敗戦はすでに決定的となり、賊軍とのそしりを受け、我が陣営はいま危機に瀕している。
だが、正義は我らにある。必ず天の照覧があるに違いない。
この上は、この大坂城で敵を迎え撃ち、断固死守しようではないか。
たとえ、この城が燃え墜ち、私が死んだとしても、江戸城にいる忠臣たちが私の志を継いでくれるに違いない。
諸君よ。ここは奮起一発、どうか全力を尽くしてもらいたい。私とともに国家に尽くそうではないか!
『会津戊辰戦史』
この慶喜の決死の決意に胸を打たれて、感激のあまりにすすり泣く者もいました。そこにいる皆が慶喜と大坂城で死することを誓ったことでしょう。
結局、逃げてますやん。
@@ufo3315 そうです
腰抜け徳川慶喜 リーダー失格
なんかこれ古い研究内容のままですよね?そもそも江戸の薩摩藩邸を焼き討ちの原因となった江戸での攪乱工作ですが、おっしゃる通り、大政奉還が成立したので討幕の密勅は取り下げられて、それと同時に攪乱工作にも中止命令が出されのです。
薩摩の小松帯刀は慶喜に大政奉還することを進言しており、またその大政奉還を朝廷側が受け入れるように調整役として奔走した。
しかし薩摩側では慶喜を信用してないし、大政奉還を受けるとは限らない。なので受けなかった場合を想定してたのだろう。その時のための江戸攪乱作戦であり、そして討幕の密勅も同時進行で用意したのである。
しかし、慶喜も朝廷も大政奉還を受け入れ成立した。なので今すぐ薩摩が武力的な行動をする必要はなくなったのだ。そして京の薩摩藩から江戸に攪乱工作の中止命令が出されました。しかも何度もしつこく重ねて攻撃を自重しろと命令が出されました。(吉井耕輔書簡 二十五日付、十一月十九日付、十二月十日付)。
つまり、江戸薩邸浪士の騒動は、吉井からの「鎮静にしていろ」という通達を無視した不逞浪士の暴発だったのであり、これを裏付けるのが、西郷の書簡である。
西郷が慶応四年一月一日付けで国許にいる蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、「(焼き討ち事件の報を受けて)大いに驚駭《きょうがい》いたし候仕合いに御座候。……江戸において諸方へ浪士相|起《た》ち動乱に及び候趣に相聞かれ候間、必ず諸方へ義挙いたし候事かと相察せられ申し候。……爰許《こころもと》にて壮士の者暴発致さざる様御達し御座候得共、いまだ訳も相分からず、……其の内決して暴動は致さざる段御届け申し出で置き候儀に御座候。……百五十人計り罷り居り候て決して暴挙いたす賦《つもり》とは相見得ず、京師の暴動に依り如何様共致すべくとの様子にて、乙名敷《おとなしく》罷り在り候趣は近比《ちかごろ》迄相聞こ得《え》居り候処、……残念千万の次第に御座候」。
事件発生の情報を知らされた西郷が、「残念千万」とごく親しい人物に対して書き送ったことは軽視しえない。
つまり戦がしたくて工作が成功したなんてのは真っ赤な嘘です。そもそも普通に考えてこの戦力差で戦に勝てると思いますか?京都にいる薩摩兵と仲間の長州兵で約4千名程度で、対する旧幕府方の兵は一万5千ですよ?。京都御所内では慶喜の政略に負けて、岩倉西郷大久保は四面楚歌状態。岩倉は慶喜の政権入りを認めるしかないと覚悟、西郷は何事もうまくいかず、もう国に帰りたいと泣き言を言い出す始末。しかしそこで岩倉と西郷の尻を叩いたのが大久保だ。このままでは全て水泡に帰すぞと言って二人を説得した。
奇兵隊は思ったより近代的な組織てあり戦地では全く自己完結できる自衛隊と言える。山口県には数ヵ所の諸 隊
の駐屯所があるがまさに自衛隊と同じ訓練内容や教育内容であった。つまり、長州兵は他藩兵と違い兵站、工作、医療部隊を持ち、戦地で掠奪暴行蛮行の類いをする必要のない部隊である。
明治維新で得をしたのは長州?薩摩?いや慶喜、勝海舟、榎本武揚と旧幕臣である。明治維新で江戸は天皇を迎えることに成功し、帝都東京となり、保守的な抵抗勢力の幕臣をなんなき廃除でき多くは新政府の官僚となり、東京は今は世界一の経済都市と発展している。天寿を全うしたした慶喜て海舟の笑いが聞こえるくらいである。つまり幕府の計画倒産させた感がある。
戊辰戦争時の不可解な幕府の負け戦も納得できる。会津の松平容保も怪しい。超封建的な会津藩の家臣を見事廃除し面子を保つという離れ業をしたとしかおもえない。秋山悌三などを長州に密通させ、優秀な会津の青年山川健太郎らを前原や奥寺に託している。容保も嫡子の出産を落城最中長州の従軍医の山根孝中に委ねているし、別の息子は山田顕義の弟の養子にだしている。
自身は東照宮の宮司となるというお見事というほかない。徳川宗家ものっとったのでは?
会津戦争は真実が伝わってていない面が多々ある。全く隣国と同じで被害者ビジネスをしている。世良修蔵の暗殺事件の歪曲と捏造は武士として人間としてあり得ない行為であり、真逆な話を捏造した東北人のいうことは私は絶対信じない。
僕は明治天皇の外祖父の公家の中山忠能の7親等の子孫です。
倒幕の勅は15才の即位したばかりの明治天皇がだしますが祖父の公家中山忠能が藤原北家の流れの公家なので藤原忠能とサインしました。
鳥羽伏見の作戦会議では劣勢になったら明治天皇と中山忠能は長州に退却する作戦迄たてていました。
中山忠能は長州に長年肩入れしていた尊皇攘夷はの公家で明治天皇の外祖父でもあり知られていない幕末明治の立役者です。娘中山慶子は明治天皇の実母であり孝明天皇の側室。
明治天皇←中山慶子←中山忠能→正親町公薫→牧野弥栄→池のカウ→亀井志満→亀井貞一→亀井清→旧姓亀井江口敏
天皇陛下万歳🙌
「卑劣」「卑怯」という言葉は使用しないでいただきたい(発信者側の主観が強すぎるかと思います)その時代にはその時代の価値観があります。遥か昔から現状を大幅に変える改革に痛みはある程度あるもの。現代に生きる我々が、先人達が作ってきた、行ってきた事に対して100%理解できていない(完全に資料が揃っていなければその時代を生きたわけでもない)状態にもかかわらず非難するのはいかがなものかと。あの時代に維新を行った人間たちのすべての人間が同じ想い(富国強兵し万民平等で差別のない世にする)だったわけではないと思いますが、現状の日本が先進国として今の地位を築いてこれたのもその時の苦しい選択、尊い犠牲の上に成り立っています。現代に生きる我々は、改革派保守派に関わらず先人たちを敬い、先人達から学び(どういう考えで改革,保守だったのか)、先の日本を思いどう行動(選択)することが寛容かと存じます。
失礼しました。サムネイルを変更します。
@@history-channel
迅速なご対応ありがとうございます。
今後も実のあるわかりやすい配信を期待しております。
サムネイル、今日中に変更します。
故意に江戸市中での金品強奪、殺人などの犯罪を支援し、かつその実行犯を薩摩藩邸に匿ったことは、卑劣行為 でしょう⁉️😄
佐幕派なので
長州はともかく、最初から敵なので。
でも、薩摩のやってることは好きではないです。
政権を返したなら、土地も返すべきである、慶喜いなくても、国を統べる力が無くなったのだら、潔く、腹でも切って、辞退しべきである、戦いは、汚いもなにもない、力が無いのだから
このタイトルこそ卑劣すぎではないですかね?薩摩で生まれ育ち、教育を受け、話を聞いてきた人間としては、正直赦せないものがあるくらい酷い難癖に思う。もし、そうなら、画像にある南洲翁の言葉を遺訓として、いくら助けられたとは言え、庄内の方々も、あれほどに熱心に語り継いではくれなかったのでは無いのか。司馬史観では無いが、これもまた一方的な物言いにしか聞こえない。あまりにも薩摩を侮蔑し過ぎである。
私もこのタイトルは気持ちが痛みます。市橋先生の動画には似合わないと思います。激しいタイトルにしなくても良いのではないでしょうか?
失礼しました。
サムネイルを変更します。
私は、タイトルは難癖ではないと思います。
「大政奉還」後、京都を去った幕府軍を挑発することを目的として、西郷さんは、江戸を騒擾化するために薩摩藩士だけではなく、倒幕、尊皇攘夷派の浪士を全国から多数招き入れたとの記録があります。彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助の指示を受け、放火、掠奪、暴行などを繰り返して幕府を挑発しました。
その他、思想とは無縁の無宿人、もいたました。
彼らは「薩摩御用盗(ごようとう)」と呼ばれ、大店を次々に襲って、家人らを殺害し、大金を強奪したとの記録もあります。さらに江戸城の二の丸にも放火しています。つまり、江戸の薩摩藩邸を根城にして悪逆非道の限りをつくしたのです。
これらの事は江戸幕府最後の火盗改頭の戸田正意の日記にも書かれてます。
つまり、薩摩藩がテロリストを支援していたという事ですね。
薩摩の芋侍たちが江戸っ子に忌み嫌われていたのは、事実です。😔😔
@@栄二一型
一方的な物言いに荷担するのですね。残念です。
そういうことも薩摩の人間は、人によって多かれ少なかれ、(現代目線で)良いことも悪いことも聞き、習います。その上で、一方的に南洲翁に擦り付け侮蔑するのはいただけないと申しているのです。
遺訓として言葉を語り継いでくださった庄内の方々への愚弄でもありましょう。
そして、司馬史観のように思い込みも交えた個人的なものと言う言い訳で、やっていいことでもありません。
その当時を片方の目線だけで騙るのではなく、金や武器、人の流れ、当時の日本を取り巻く海外も国内もの事情、そういうものを俯瞰して解説していただきたい。
貴方も私も誰も彼もその歴史の地続きに居ることを忘れてはいけないでしょう。
@@alfalfa9223
加担などしてません。
歴史上確認出来る事実を述べているだけです。
現在確認出来る史実に感情を挟むとフィクションになってしまいます。
明治維新の元勲の多くは天誅に加担した人も多く、けして偉人ではありませんでした。