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いゃ〜、この回、何回も見てしまいます、先生の神回です❗️凄い、全てがつながって、全てが、今に繋がった、凄い❗️、、コメント入れズにはいられません、凄い❗️
ありがとうございます。楽しんでもらえて嬉しいかぎりです。
さそ
先生いつも楽しく拝見させて頂きます ありがとうございます!地元大津です ①松禅院の光秀灯籠 元来松禅院は阿闍梨修行の休息場所のため 灯籠目的でたくさんの人が来院するため 延暦寺の倉庫に隠したと聞いてます!②坂本城二の丸入口に東南寺があります その裏に明智塚があります洛城の際 秀満(佐馬の助)が 目録付きで豊臣軍の堀秀政に明智家宝をわたしますが 光秀の脇差はわたさず 殿の形見で切腹する旨を伝え 秀政が ならば切腹後 脇差をこの場に埋葬し 貴殿の供養にするという美談が伝わってます 二人は道三の家臣時代 すごく信頼関係があったと伝わります!③西教寺の伝記秀満の妻は光秀の長女 嫡男 太郎五郎は変後 土佐の才谷に逃れる 250年後 才谷梅太郎は坂本と名乗り 長崎の造船所を亀山社中と命名する 偶然にしては偶然すぎます!歴史は調べるほどに 関連性があり 本当におもしろいですね!
面白かったです。明智光秀は反逆者のイメージで見られがちでしたが、本能寺の変が起きた当時から明智光秀がヒーローと思う人達の、生きて家康と共に天下を取ったという願望から生まれた伝説だったと思います。
人気武将の証ですね。
市橋先生の話が一番面白く為になります。最高の歴史解説だと思います。
ありがとうございます😀次回もよろしくお願いします
先生、素晴らしい持論で最初から最後まで鳥肌が立ちました🤗いろんな角度から歴史を紐解くのは本当にロマンがありますね!先生の考え方、推論のされ方裏付けもあるので素晴らしいです!これからも時々番外編お願いします🙇♂️
私も今まで光秀=天海と思ってました。が、今回先生のお話を聞いて天海=左馬之助と思えるようにたりました。これだから歴史は面白いですね。今後の展開が楽しみです。
弥平次(左馬之助)が天海…この説は楽しくなりますね。明智と徳川に関わりがあったというのは興味深いです😆🎵🎵
先生のこの説、非常に興味深くて、これはあるな!と思える素晴らしいお話でした!こういう寄り道は大歓迎ですので、これからもバンバンお願いします
先生、ロマン溢れるご見解をご披露下さり誠にありがとうございました。先生のような方に歴史を教わることができる生徒諸君が羨ましい限りです。(笑い)是非、秀満=天海という先生のご見解を含めた「明智光秀論」を本にしてご出版頂きたく存じます。
不忍池が琵琶湖に見立てられていたとは😳上野に興味が出てきました!おかげで大阪から関ヶ原をこえるのがこわくなくなりましたわ😆
左馬之助さん大好きです!なんだかロマンがあっていいですよね!想いふけってます。先生、友里さん、いつもありがとうございます。
こちらこそ、いつもご視聴ありがとうございます。😀
🤗楽しい^ ^先生ありがとうございます。喜多院、寛永寺を心新たに散歩します。コロナ明けには坂本から比叡山にも足を運びたいです😊
このチャンネル見てると色んな歴史の場所に行きたくなりますね。話も面白いです!チャンネル登録させてもらいました。これからも動画楽しみにしております。
いや〜こういうロマンあふれる話大好物です。確かに歴史の真実を求めるのは大事だとは思いますがこういった夢のある話は楽しくてしょうがないからね。それにしても左馬之助が天海説には思わずニヤリとさせられました。同い年だし春日局と面識があっても不思議じゃない。また新たな古文書の発見で真実が明らかになるといいですね。
色々、想像するのも楽しいですよね。
続きが楽しみです。次回もよろしくお願い致します。
うわ!面白い〜後でゆっくり視聴します^ - ^先生の声は『眠る時』にとても心地よいですね♪♪ありがとうございます^ - ^
ゆっくり見てください😀ありがとうございます。
明智秀満天海説は割とよく見かける説ではあるが、今回の動画の説明で結構な信憑性が出てきたんじゃないかって思う。
素晴らしい分析です。アタリだと思います。
ありがとうございます。😀
明智光秀の娘(玉)が生んだ細川忠利は小倉藩39万石から肥後熊本藩54万石に加増されたが徳川氏としての明智光秀に対する御礼だったのかも。
こういう説、他の武将にもあったらぜひ教えてください。新たに出てきた資料から見えてくる真実も知りたいですし、先生の調査に基づく愚?説も知りたいです。これまでの説が覆されたり、納得のいく新説は、見ていて本当に痛快で面白いです。頑張ってください。
この説支持します♫
年齢的に天海=光秀は有り得ないが、秀満など光秀の縁者だった可能性はある。家康は光秀のお陰で信長の暗殺から救われ、謀反に加担していた。命を救われた恩義と、山崎の戦いに加勢できなかった悔恨から、春日局を秀忠に嫁がせ、その子に「家光」を名乗らせるなど、明智一族を厚遇したと考えれば、江戸時代に光秀の名誉回復を狙った『明智軍記』が創作された事なども説明が付く。
信長が家康を暗殺しようとした事は確定ではないし、春日局は秀忠に嫁いでない。希望的観測に過ぎない。
歴史は個人が希望的観測ができる事が面白い。
明智光秀と天海は別人という事が筆跡鑑定で分かっているそうです。秀満=天海は非常に興味深い話ですね。
毎回楽しく視聴してます😉戦国時代が興味あり、凄く納得がいくお話ですね👍
北九州市に住んでる者です。小倉城は今も健在で桜の花祭りの頃です。でも黒田藩福岡城は今はなき跡しかないですね。細川氏の運の強さをつくづく感じてます。あの時光秀に加勢していたら、小倉城も熊本城もなかったかと思います。!‼️
事実は小説よりも奇なりとも言うし、あり得るかもですね。謎を解くように史料にあたるのもまた歴史の楽しみ方の一つですね。とても興味深くお聴きしました。
明智左馬之助秀光=鬼武者!!のイメージ(ゲーム🎮)ですが、とても面白く現実味のある説ですよね!!
ありがとうございます!
大変面白く動画を見させていただきました。 春日局がお久しぶりですといったのが、もしかすると天海が秀満であれば合点がいきますね。
歴史学会の外にこそ史実のヒントあり。ありがとうございます。
明智左馬之助=天海……真偽はともかくとして、とてもロマンのある話です。面白かった!
ありがたいです!☺️
歴史の謎の真相とかは証明してるのではなく、聞いてる人を納得させるだけでいいので、結構なんでもあり
一次資料で史実を明確にするのも、たくさんの資料から推測するロマンも歴史の面白さ。
色んな諸説があって良いと思う。それぞれの『光秀公』を想い浮かべて語り合う。素晴らしいことだし、光秀公の魂も現世に生きてると俺個人的には思いたい。
面白かったです。先生の説は説得力があって信憑性がありますね。
ほ
😊
天海=光秀はよく聞くけど、光秀じゃなくて秀満説というのも面白いですね彼も自害して果てたそうですが、実は生きてて天海として生きたというのも面白い。それらしい資料が出て来ないか楽しみです。
光秀が天海かどうかを議論する前に、本能寺の変において光秀が考えた勝算を考察するべきだと思います。それが説明されない限り本能寺の変は永遠にミステリーのままだと思います。光秀の勝算を考察する上で二つの重要な軸があると思います。一つは軍事的勝算、もう一つが大義名分の勝算でしょう。大義名分の方は二つしか可能性がなく、天皇か将軍義昭しかありません。それか天皇と将軍義昭の両方か。これは書状などの新しい発見を待つしかないかもしれません。さてもう一つの軍事的勝算については明智憲三郎氏の考察がやはり説得力があると思います。明智憲三郎氏の説明を要約すると光秀首謀の家康共謀説です。憲三郎氏は著書の中で本能寺の変後、家康が甲斐の滝川一益を攻めていることを指摘していて、これは家康の織田家に対する明らかな敵対行為だと指摘しています。それにも関わらず清洲会議後も家康は秀吉から攻められていません。なぜなのか?それは元々光秀が信長から家康暗殺を命令されていたのではないかというのが憲三郎氏の仮説です。信長は家康を暗殺するはずが光秀と家康に結託されて自分が暗殺されてしまった。秀吉もそのことはわかっていて、光秀は倒したもののさすがに家康まで倒す力はなかったので近江まで来た家康は光秀討伐のために来たものという扱いにして戦わないことにした。そして家康の甲斐侵攻という敵対行為は不問にした。これなら光秀の軍事的勝算と大義名分の両方をきちんと説明できる。光秀があえて不利な山崎の戦いに賭けた理由は大義名分にこだわったからだとわかる。当然、大義名分を捨てて坂本城なり安土城に撤退する選択肢もあった。歴史にifはないがもし光秀が坂本城か安土城に撤退していれば家康の救援が間に合い、事態収拾に時間がかかるものの秀吉の時代は来ないまま徳川政権になったでしょうね。こうして考えるとやはり個人的には光秀は天海になったと考えるのが妥当だと思います。家康は豊臣滅亡にこだわっていなかったと思います。関ヶ原から10年以上大阪城を放置してるから。豊臣滅亡にこだわったのは他ならぬ天海でした。方広寺の鐘銘に難癖付けて謀叛の意志ありとこじつけるなんて執念以外の何物でもありません。光秀本人が天海じゃなかったらここまで執念燃やさないでしょう?
@@zetec000 全くその通りですよね。現代にたとえていうなら菅首相が屋台の焼き鳥屋で隣に座った無名の坊主と意気投合したからと言って翌日、官房長官に大抜擢するようなもんです。幼なじみの今川氏真ですら飼殺しにしたくらいだから旧知の仲でかつ実績も十分な人物でしかも信用できる人物じゃないとおかしいんですよね。譜代大名ですら何人もとりつぶしにしている家康がそこまで信頼する人物は限られてくる。そう考えると明智憲三郎氏の仮説『本能寺の変は元々家康暗殺計画だった』説が説得力があるんですよね。そうだとすると家康は自分がもたもたしてる間に命の恩人の明智一族を滅亡させてしまったという強い後悔があったはずだから光秀が生き延びていればせめてもの償いに大抜擢してもおかしくない。ちなみに本能寺の変の際、もう一人暗殺される予定だった人物がいてその人物は予定通り死んでいる。それが穴山梅雪。彼は家康と一緒に堺見物していて家康と一緒に光秀に暗殺される予定だったが、実際には家康の伊賀越えの途中で死んでいる。たぶん家康が殺したと考えられている。穴山梅雪は武田の正統な後継者を自称していて、信長が彼を殺して甲斐を完全に支配下におく予定だったが実際には家康が彼を殺して甲斐に侵攻した。つまり、家康が甲斐の滝川一益を抑えている間に畿内を固めて近江の長浜城を落とせば秀吉は長期戦に耐えられなくなる。大阪の信孝は長宗我部と挟み撃ちにすればいい。越前の柴田は上杉とにらみあって何もできない。これで家康が最大勢力になれば収拾がつく。これが光秀の軍事的勝算だったんじゃないですかね?ちなみに明智憲三郎氏は光秀=天海説には否定的です。ただ、光秀は生き延びたとは考えているんですよね。晒された首は顔の皮が剥がれた上に腐敗が酷くて判別不能だった。つまり光秀が死んだというのは秀吉の大本営発表に過ぎない。それなのに明智憲三郎氏が否定的なのはたぶん光秀=天海とまで主張してしまうと自説がキワモノ扱いされて相手にされなくなることを恐れたのかもしれません。
家康は滝川一益を攻めてませんよ?因みに甲斐国は信忠の家老河尻秀隆領です。家康は北条の侵攻と武田遺臣の反乱で放棄され空白となった旧武田領を切り取っただけです。漁夫の利を得た形ですね。
先生❗️まさかの番外編大サービスありがとうございます♬ 岐阜(美濃)にも十兵衛が落ち延びた説があるみたいです〜👍
そうなんですね!
キリンが来るの番外編やってくんないですかね?天海光秀が家康の軍師になって小牧長久手の戦いで秀吉に勝つ話を見たい。
光秀=天海説が好きなのですが、先生のお話を聞くと、左馬之助=天海説に納得させられてしまいました。光秀と天海は筆跡も違った、という話もネット上ではありましたので。もし明智縁者の方であれば、日光の明智平も明け地からの繋がりもあるのかな、と思いました。坂本と大津の資料館行ってみたいと思います。
弥平次説は私も以前に想像してましたよ。でも慈眼堂のことは初めて知りました。さらに探究をお願い致します。家光の光の由来の話しも何卒よろしく。
天海と家康が初対面の時、約四時間二人だけで話し合った‼️と、徳川実記にありますね😃芦名の一族では、それは無理ですね
じゃあ数々の寺に残ってる天海の過ごした跡はどうなるの?その時明智光秀は信長の元にいたよ?
@@まかいチャンネル 明智光秀ではないのかも知れませんね。ただ、初対面の人に対して、密室で二人だけで四時間も話すことの難しさを考えてみたら、そのように思った次第です。
結論から言うの好き
ところで、なぜ不忍池って名前になったんですかね?琵琶湖になぞらえたとして、なぜ不忍池なんでしょう?
秀満説…たしかに有りですね。今度坂本に行ってきます~
坂本の山手に母側のご先祖様代々の墓地があり絶対行って探してきます。あの辺りは沢山お寺がありますね。
おもしろいです。最近、別なyoutubeで根拠がない歴史動画見てがっくりしてたところ、この動画で根拠がありながらの新説は興味深いし面白いです。まったく歴史も詳しくないのですが明智云々の出自は陰陽師のような気がするのですがいかがでしょう?天海だとしたら光秀が天皇家に近い感じと江戸に結界をはるなどなんとなく陰陽師ぽいかな・・・なんて想像してます。
あっ、大大大ファンです
徳川家光さんの光って明智光秀さんの光と何か関係あるのですかね、家光さんの乳母のお福さんのお父さんも明智光秀さんの家臣だったんですよね。
遠山の金さんもその家系だった気がする。明知遠山の出だったと思う。明智が明知に変わってるけど。なぜ信長に謀叛を犯した人が江戸幕府の奉行になれたのか?。もしかしてそういう事なのかな?。
・・・こういう説は好きですね。
思わぬ衝撃の天海! なんちゃってw
久能山 富士山 世良田 日光このレイラインも面白いよ🌟
ちなみ僕は天海は3人いたと思っています。前半期は初代天海、中期は戦から逃れ出家した光秀公がどこかのタイミングで初代天海の後を継いだ。後半期は光秀の息子の光慶が継いだ。の流れだと思います!天海中期までは明智の匂わせは全然なかったのに後半期あたりから明智の匂わせが出てきます。将軍二代目秀忠、3代目家光も天海が名付け親と言われています。憶測ですが、中期の天海=光秀公は天海として生きていたので過去のことは残していませんが、光慶は父の偉大さを歴史に刻みたく光秀の文字とってを秀忠、家光になずけたりしたのではないかなと思っています😳
僕は浜崎さんの家臣になりたいです!
9:09にアシスタントか誰かの声が入ってるのは気のせいですかね?
松弾院ではなく、横の長寿院に石灯籠はあったそうです。噂が噂を呼び現在は非公開だそうです。そこのお坊さんが言っていたそうです。その他にも二台目長寿院主の俗名が光秀。慶長20年は豊臣家が滅亡した年。慈眼和尚が祀ってあるなど共通点はかなりあります。偶然にしては偶然すぎるなと思います。まぁ全てネット情報ですが笑何が真実かは分かりませんが、生存出家説が本当なら光秀が長寿院で天海になるまでの修行をし豊臣家が滅亡した年に光秀か光秀と関わった人が贈ったと思うとロマンがありますね😊
合戦の絵を描く人っていうのは両軍から陣地の情報をもらってから描くのですか?それとも合戦が終わった後に誰かに聞いて想像しながら描くのですか? 合戦中に描くのも危険な気もするしわかりません…
こんにちは。合戦の絵は大名等から屏風等の依頼があったうえで作られると思います。題材が題材なので、どの様な内容にするかなどは依頼人と綿密な打ち合わせのうえ構想を練りOKが出て着手すると思いますが…追加、合戦に出た人に聞いたり見た人に聞いたり色々な人達に聞いたりリサーチしたと思います。
@@supika-virgo ご返信ありがとうございます^_^ なるほど、大名等からの依頼だったのですね。合戦の絵はほんとに絵の中の情報が多くて自分としてはとても興味深かったです
鬼武者の秀満が天海という説もありますよね。かごめかごめの話といい明智家と関係ありそうな気もします。あくまでもロマンですが。
納得
お二人の掛け合いがドラマになりそうで凄い!
徳川家光に拝謁し現在の筑西市新治の知行地を管理する様になったのが4男利宗ですが、それをお膳立てしたのが旧斎藤本家出自の春日局(斎藤お福)です。お福が江戸へ召し上げられる前に、お寺にあった系図や古文書等は全て焼却したそうです。因って出自を意図的に隠したと思われます。稲葉と斎藤は美濃国時代には互いに嫁が嫁いだほぼ同族同士です。斎藤利三は美濃出自白樫城で現在も墓守が居ます。利三墓所は京都極楽寺で絵師の海北氏が弔ってくれたそうです。分家である私も辿ってみましたが、謎が多く意図的に隠された故、真相は闇ですね。
もしかしたら...光秀が生きていた場合、本物の天海と入れ代わった...史実通りでも、もうひとつの説の、本能寺の前に信長の家康暗殺を、光秀が家康に伝え逃がしたのではないか
何時も楽しく拝見させて頂いてます。ありがとうございます^_^初コメです。光秀は天海じゃないのか問題ずっときになっていて 違っても光秀であって欲しい感がありました。弥平次さん説は嬉しいです。お話しをお聞きしていて、家康公なら、そのお仲間の方々なら弥平次さんを説得し、後に側近天海和尚になられた しっくり来ました^_^もう一つ、光秀と天海の仕事ぶりが全てそっくりですよね。因みに北斗七星麒麟に似てませんか^_^嬉しくて思わずコメントしました。ありがとうございます^_^
仮に家康のところに面会に来た僧侶が秀満か光秀のどちらかだったと仮定しましょう。そうしたらどちらであるにせよ家康はいくらかの所領を与えて明智家再興を提示するんじゃないかな。その場合、秀満と光秀はそれぞれどんな返答をするか?もし、秀満だったら各地に逃がした光秀の実子の潜伏先を全部だいたい知っているはずだから彼らを探し出して彼らに明智家再興させるように願い出るんじゃないでしょうか?仮にもし秀満が天海のような役割を申し出たところで家康も全く実績のない秀満なら丁重に断るでしょうね。なんせ乱世ですから。人情だけで宰相になんか採用するわけがありません。しかし、光秀だったら実子たちが生きていることを全く知らず全滅したと思っているはずだし、今さらこの年で自分一人だけ領地をもらったところでしょうがないと考えるんじゃないでしょうか?だとしたら光秀なら覆面宰相として徳川政権確立に尽力して家康に天下を取らせ、豊臣を滅亡に追い込みたいと考えるんじゃないでしょうかね?光秀の申し出を聞いた家康も快諾するんじゃないでしょうか?なんせあのハチャメチャな信長政権を軍事・統治両面で一手に支えて一気に天下を取らせた辣腕政治家武将なんですから。徳川家臣団の中にもそんな人材はいません。あの無欲な光秀ならそういうこと考えそうです。そう考えると天海=秀満は残念ながらあり得ないと思うんですよね。光秀の年齢を理由に天海ではないという説は根強いですけど、光秀は生年不明で、実は通説よりずっと若いという説もあって信長より少し年下という説もある。美濃にいた頃はまだ元服前くらいの可能性があり、麒麟がくるの中でも明智城落城時点で当主は叔父の光安という設定で落城の際に光秀に当主を譲るというストーリーだった。明智城落城が1556年だからこの頃が元服適齢期だったとしたら確かに光秀は信長より少し若いくらいの年回りになる。これなら天海=光秀でも全くおかしくない。そういう理由で天海は光秀以外に該当者がいないと思います。
光秀公と天海僧正の筆跡を鑑定した所、別人ではあるが血縁関係がある可能性は高いとか言ってたな。
素敵なお話ありがとうございましたm(_ _)m🍀かなり前ですが、『新説歴史ミステリー』というテレビ番組でこの内容(天海=光秀)をやっていて非常に興味深かったので面白かったです。市橋先生の✨新説の新説(左馬之助説)✨一押しです👍🍀🎵浜崎さんもいつも素敵な合いの手ありがとうございます🤗🌸🌸🌸
嬉しいコメント、ありがとうございます。😀
もし弥平次なら筆跡とか照合できないですかね♪
光秀と天海の筆跡鑑定を行ったところ、別人ではあるが、似ている字もあり、親子兄弟のように近い関係が考えられるという事です。弥平次秀満の書状は5通ほど発見されているそうで、素人目には似ているかもしれないという感想ですが、こちらも鑑定されて欲しいですね。
光秀の従弟秀光の生まれ年と天海の逆算生まれ年が一致しているのではないでしょうか?
お二人の楽しい解説に拍手します、なお先生と美しいホストの正式なお名前は、どこかに表示されたほうがいいと思いますよ。歴史ってこんなにユニークだったんですね。
ご視聴ありがとうございます。😀名前などは、チャンネルの概要ページに書いてあります。よろしくお願いします。
蛇足ですが比叡山焼き討ちは光秀が進言し、坂本で家臣団初の城持ちに成ったというお話を聞いたような。
天海の墓って家光を祭ってある日光の太猶院にもあったと思います。
光秀から坂本龍馬までの流れも解説して下さい。
小名木先生の信長、光秀、秀吉の名トリオによる「本能寺のヤラセ」説が最も説得力があリます。全ての謎が解けますね。堅物の歴史学者や作家では発想もつかない凄い推理だと思いますね。信長が考えそうなことだし、あの名トリオなら「歴史上の大事件」を演出することができるだろう。天海は秀満だと思いますね。とにかく、明智家の者だろう。光秀も山崎の合戦後にすぐ死んではいないと思います。
昔、喜多院の目の前に住んでいたことがあったけど、全く知らなかった・・・。
これは明智がひらけたか、なかなかの説ですね天海上人の没年は確かとおもわれるので光秀本人であると118歳近くとなりかなり難しい秀満説はたいへんに興味深い、途中で上人と入れ替わったのかもしれないぜひとも直筆を探しだして天海上人と比べられたし本能寺にて家康を討つ謀略があったとする説、そして春日局光秀と家康にとの間にもまだなにか隠されたものがありそうですね
確か明智サマノスケ説は昔やっていたゲームの設定でもありました
灯籠に光秀と刻むのであれば、当時は謀反人の汚名の代名詞をあえて刻むとは思えず、苗字、村名を刻印し、更には寺の台帳に記録する。高価な物だから子孫にも代々伝え誉れとします。子孫が絶えたか、まさか通りすがり??ありえません^_^
マンガ化される
いつも楽しみに見ています!先生の愚説に一票です!笑
明智光秀は、山家(山窩)ですよね💕
織田信長も死んでないとも言われてたんだよね。なぜかというと信長の死体が見当たらなかったんだよね。明智光秀は山崎の戦いで負けて逃避行してるときに、落ち武者狩りにあって死んだとも言われてるんだよね。だけど本当は落ち武者狩りあって殺されたのは、影武者であって光秀は生き延びて、天海和尚であるとも言われてるんだよね。どこから産まれてどこから出てきたかもわからないんだよね。
いいですね👍そうゆのどんとんやって欲しいですね😅今度謙信が女だったどうかもうやってほしいです😅❗️
検討しまてみます😀
@@history-channel ありがとうございます😁👍👍❗️
先生❗たまに回り道してください‼️
左馬之助と言ったら鬼武者の主人公
久能さんの元康は阿部に斬られたのは徳川本家も近寄らない話。日光の徳川家康は甘利信恒で本当の神君で、武田信虎か甘利晴吉の子です。
光秀が山崎の合戦を生き延びようと、信長が本能寺の変ぐ生きていたとしても、どっちにしろ四百年前に死んでることは変わらないのに生き延びていて欲しいと願う日本史ロマン。
麒麟がくるの最後は色んな説を上手い事使ってた
天海の筆跡鑑定したら、明智秀満の字に似てると何処かでみたような。私はある程度は明智家と関係あると思いますね。
5:50 この随身様は誰なの? なんで織田木瓜を付けているの?
そうだったのか!
とても僕のあっていない考察ですが聞いてください。南光坊天海が明智光秀なのだとしたら大阪城燃やすのを徳川家康に指示したのではないかと思われます。でも大阪城は生き残りましたのでそれだけマシですよね。ちなみに安土城って現代にあれば国宝だったんですね。
ちなみに光秀はあっさり秀吉に打ち取られたことから考えました
天海=明智秀満説は、あり得ると思います。明智光秀本人の本能寺の変の後の生存説の成立は厳しいですが、あまり著名ではなく秀満、それも光秀の娘婿で義理の息子ですから、反逆者の汚名も軽く、また、秀吉も、秀満の助命については、そういう観点では、寛容な武将だからこそ、容認したと思います。
日本の歴史において不可思議なことがいくつかあるなかで、明智光秀〔秀満を含めて〕=天海はその最たるものです。こういうことはありえない、とか単なる都市伝説だと片付けてる意見が多すぎます。それが頭の良い人の見方、冷静な見方と言わんばかりです。しかし、これだけの状況証拠が揃っているのをどのように説明するのでしょうか?もう少し先入観をなくして素直に考えて頂ければ真実が見えてくるのではないでしょうか!
(๑•̀ㅂ•́)و✧ 光秀と息子で天海上人を演じた説に一票!
慈眼堂は知ってたけど、東照宮まであるのですね、、今度行ってみよう。歴史は浪漫、、その通りですね😊
左馬助(金城武)
古くは義経、信長、光秀。何処も後世の人達の願望なのだろう。歴史は諸説あり。ロマンあり。
天海=明智佐馬之助これが正解でしょう!
関ヶ原の石田三成がいた場所には陣営後がないみたい。
さくやみなみ著「縄文を創った男たち」の話が有力だと思いました。明智光秀は実は…!あとは読んでのお楽しみ!(^^)
いゃ〜、この回、何回も見てしまいます、先生の神回です❗️凄い、全てがつながって、全てが、今に繋がった、凄い❗️、、コメント入れズにはいられません、凄い❗️
ありがとうございます。楽しんでもらえて嬉しいかぎりです。
さそ
先生いつも楽しく拝見させて頂きます ありがとうございます!
地元大津です
①松禅院の光秀灯籠 元来松禅院は阿闍梨修行の休息場所のため 灯籠目的でたくさんの人が来院するため 延暦寺の倉庫に隠したと聞いてます!
②坂本城二の丸入口に東南寺があります その裏に明智塚があります洛城の際 秀満(佐馬の助)が 目録付きで豊臣軍の堀秀政に明智家宝をわたしますが 光秀の脇差はわたさず 殿の形見で切腹する旨を伝え 秀政が ならば切腹後 脇差をこの場に埋葬し 貴殿の供養にするという美談が伝わってます 二人は道三の家臣時代 すごく信頼関係があったと伝わります!③西教寺の伝記
秀満の妻は光秀の長女 嫡男 太郎五郎は変後 土佐の才谷に逃れる 250年後 才谷梅太郎は坂本と名乗り 長崎の造船所を亀山社中と命名する 偶然にしては偶然すぎます!
歴史は調べるほどに 関連性があり 本当におもしろいですね!
面白かったです。明智光秀は反逆者のイメージで見られがちでしたが、本能寺の変が起きた当時から明智光秀がヒーローと思う人達の、生きて家康と共に天下を取ったという願望から生まれた伝説だったと思います。
人気武将の証ですね。
市橋先生の話が一番面白く為になります。
最高の歴史解説だと思います。
ありがとうございます😀
次回もよろしくお願いします
先生、素晴らしい持論で最初から最後まで鳥肌が立ちました🤗いろんな角度から歴史を紐解くのは本当にロマンがありますね!先生の考え方、推論のされ方裏付けもあるので素晴らしいです!これからも時々番外編お願いします🙇♂️
私も今まで光秀=天海と思ってました。が、今回先生のお話を聞いて天海=左馬之助と思えるようにたりました。これだから歴史は面白いですね。今後の展開が楽しみです。
弥平次(左馬之助)が天海…この説は楽しくなりますね。明智と徳川に関わりがあったというのは興味深いです😆🎵🎵
先生のこの説、非常に興味深くて、これはあるな!と思える素晴らしいお話でした!
こういう寄り道は大歓迎ですので、これからもバンバンお願いします
先生、ロマン溢れるご見解をご披露下さり誠にありがとうございました。先生のような方に歴史を教わることができる生徒諸君が羨ましい限りです。(笑い)是非、秀満=天海という先生のご見解を含めた「明智光秀論」を本にしてご出版頂きたく存じます。
不忍池が琵琶湖に見立てられていたとは😳上野に興味が出てきました!
おかげで大阪から関ヶ原をこえるのがこわくなくなりましたわ😆
左馬之助さん大好きです!なんだかロマンがあっていいですよね!想いふけってます。先生、友里さん、いつもありがとうございます。
こちらこそ、いつもご視聴ありがとうございます。😀
🤗楽しい^ ^先生ありがとうございます。喜多院、寛永寺を心新たに散歩します。コロナ明けには坂本から比叡山にも足を運びたいです😊
このチャンネル見てると色んな歴史の場所に行きたくなりますね。話も面白いです!チャンネル登録させてもらいました。これからも動画楽しみにしております。
いや〜こういうロマンあふれる話大好物です。確かに歴史の真実を求めるのは大事だとは思いますがこういった夢のある話は楽しくてしょうがないからね。それにしても左馬之助が天海説には思わずニヤリとさせられました。同い年だし春日局と面識があっても不思議じゃない。また新たな古文書の発見で真実が明らかになるといいですね。
色々、想像するのも楽しいですよね。
続きが楽しみです。次回もよろしくお願い致します。
うわ!
面白い〜
後でゆっくり視聴します^ - ^
先生の声は『眠る時』に
とても心地よいですね♪♪
ありがとうございます^ - ^
ゆっくり見てください😀ありがとうございます。
明智秀満天海説は割とよく見かける説ではあるが、今回の動画の説明で結構な信憑性が出てきたんじゃないかって思う。
素晴らしい分析です。
アタリだと思います。
ありがとうございます。😀
明智光秀の娘(玉)が生んだ細川忠利は小倉藩39万石から肥後熊本藩54万石に加増されたが
徳川氏としての明智光秀に対する御礼だったのかも。
こういう説、他の武将にもあったらぜひ教えてください。
新たに出てきた資料から見えてくる真実も知りたいですし、先生の調査に基づく愚?説も知りたいです。
これまでの説が覆されたり、納得のいく新説は、見ていて本当に痛快で面白いです。
頑張ってください。
この説支持します♫
年齢的に天海=光秀は有り得ないが、秀満など光秀の縁者だった可能性はある。家康は光秀のお陰で信長の暗殺から救われ、謀反に加担していた。命を救われた恩義と、山崎の戦いに加勢できなかった悔恨から、春日局を秀忠に嫁がせ、その子に「家光」を名乗らせるなど、明智一族を厚遇したと考えれば、江戸時代に光秀の名誉回復を狙った『明智軍記』が創作された事なども説明が付く。
信長が家康を暗殺しようとした事は確定ではないし、春日局は秀忠に嫁いでない。
希望的観測に過ぎない。
歴史は個人が希望的観測ができる事が面白い。
明智光秀と天海は別人という事が筆跡鑑定で分かっているそうです。
秀満=天海は非常に興味深い話ですね。
毎回楽しく視聴してます😉戦国時代が興味あり、凄く納得がいくお話ですね👍
北九州市に住んでる者です。小倉城は今も健在で桜の花祭りの頃です。でも黒田藩福岡城は今はなき跡しかないですね。細川氏の運の強さをつくづく感じてます。あの時光秀に加勢していたら、小倉城も熊本城もなかったかと思います。!‼️
事実は小説よりも奇なりとも言うし、あり得るかもですね。謎を解くように史料にあたるのもまた歴史の楽しみ方の一つですね。とても興味深くお聴きしました。
明智左馬之助秀光=鬼武者!!のイメージ(ゲーム🎮)ですが、とても面白く現実味のある説ですよね!!
ありがとうございます!
大変面白く動画を見させていただきました。 春日局がお久しぶりですといったのが、もしかすると天海が秀満であれば合点がいきますね。
歴史学会の外にこそ史実のヒントあり。ありがとうございます。
明智左馬之助=天海……真偽はともかくとして、とてもロマンのある話です。
面白かった!
ありがたいです!☺️
歴史の謎の真相とかは証明してるのではなく、聞いてる人を納得させるだけでいいので、結構なんでもあり
一次資料で史実を明確にするのも、たくさんの資料から推測するロマンも歴史の面白さ。
色んな諸説があって良いと思う。
それぞれの『光秀公』を想い浮かべて語り合う。素晴らしいことだし、光秀公の魂も現世に生きてると俺個人的には思いたい。
面白かったです。
先生の説は説得力があって信憑性がありますね。
ほ
😊
天海=光秀はよく聞くけど、光秀じゃなくて秀満説というのも面白いですね
彼も自害して果てたそうですが、実は生きてて天海として生きたというのも面白い。
それらしい資料が出て来ないか楽しみです。
光秀が天海かどうかを議論する前に、本能寺の変において光秀が考えた勝算を考察するべきだと思います。それが説明されない限り本能寺の変は永遠にミステリーのままだと思います。
光秀の勝算を考察する上で二つの重要な軸があると思います。一つは軍事的勝算、もう一つが大義名分の勝算でしょう。大義名分の方は二つしか可能性がなく、天皇か将軍義昭しかありません。それか天皇と将軍義昭の両方か。これは書状などの新しい発見を待つしかないかもしれません。さてもう一つの軍事的勝算については明智憲三郎氏の考察がやはり説得力があると思います。明智憲三郎氏の説明を要約すると光秀首謀の家康共謀説です。憲三郎氏は著書の中で本能寺の変後、家康が甲斐の滝川一益を攻めていることを指摘していて、これは家康の織田家に対する明らかな敵対行為だと指摘しています。それにも関わらず清洲会議後も家康は秀吉から攻められていません。なぜなのか?それは元々光秀が信長から家康暗殺を命令されていたのではないかというのが憲三郎氏の仮説です。信長は家康を暗殺するはずが光秀と家康に結託されて自分が暗殺されてしまった。秀吉もそのことはわかっていて、光秀は倒したもののさすがに家康まで倒す力はなかったので近江まで来た家康は光秀討伐のために来たものという扱いにして戦わないことにした。そして家康の甲斐侵攻という敵対行為は不問にした。
これなら光秀の軍事的勝算と大義名分の両方をきちんと説明できる。光秀があえて不利な山崎の戦いに賭けた理由は大義名分にこだわったからだとわかる。当然、大義名分を捨てて坂本城なり安土城に撤退する選択肢もあった。歴史にifはないがもし光秀が坂本城か安土城に撤退していれば家康の救援が間に合い、事態収拾に時間がかかるものの秀吉の時代は来ないまま徳川政権になったでしょうね。
こうして考えるとやはり個人的には光秀は天海になったと考えるのが妥当だと思います。家康は豊臣滅亡にこだわっていなかったと思います。関ヶ原から10年以上大阪城を放置してるから。豊臣滅亡にこだわったのは他ならぬ天海でした。方広寺の鐘銘に難癖付けて謀叛の意志ありとこじつけるなんて執念以外の何物でもありません。光秀本人が天海じゃなかったらここまで執念燃やさないでしょう?
@@zetec000 全くその通りですよね。現代にたとえていうなら菅首相が屋台の焼き鳥屋で隣に座った無名の坊主と意気投合したからと言って翌日、官房長官に大抜擢するようなもんです。幼なじみの今川氏真ですら飼殺しにしたくらいだから旧知の仲でかつ実績も十分な人物でしかも信用できる人物じゃないとおかしいんですよね。譜代大名ですら何人もとりつぶしにしている家康がそこまで信頼する人物は限られてくる。そう考えると明智憲三郎氏の仮説『本能寺の変は元々家康暗殺計画だった』説が説得力があるんですよね。そうだとすると家康は自分がもたもたしてる間に命の恩人の明智一族を滅亡させてしまったという強い後悔があったはずだから光秀が生き延びていればせめてもの償いに大抜擢してもおかしくない。
ちなみに本能寺の変の際、もう一人暗殺される予定だった人物がいてその人物は予定通り死んでいる。それが穴山梅雪。彼は家康と一緒に堺見物していて家康と一緒に光秀に暗殺される予定だったが、実際には家康の伊賀越えの途中で死んでいる。たぶん家康が殺したと考えられている。穴山梅雪は武田の正統な後継者を自称していて、信長が彼を殺して甲斐を完全に支配下におく予定だったが実際には家康が彼を殺して甲斐に侵攻した。
つまり、家康が甲斐の滝川一益を抑えている間に畿内を固めて近江の長浜城を落とせば秀吉は長期戦に耐えられなくなる。大阪の信孝は長宗我部と挟み撃ちにすればいい。越前の柴田は上杉とにらみあって何もできない。これで家康が最大勢力になれば収拾がつく。これが光秀の軍事的勝算だったんじゃないですかね?
ちなみに明智憲三郎氏は光秀=天海説には否定的です。ただ、光秀は生き延びたとは考えているんですよね。晒された首は顔の皮が剥がれた上に腐敗が酷くて判別不能だった。つまり光秀が死んだというのは秀吉の大本営発表に過ぎない。それなのに明智憲三郎氏が否定的なのはたぶん光秀=天海とまで主張してしまうと自説がキワモノ扱いされて相手にされなくなることを恐れたのかもしれません。
家康は滝川一益を攻めてませんよ?
因みに甲斐国は信忠の家老河尻秀隆領です。
家康は北条の侵攻と武田遺臣の反乱で放棄され空白となった旧武田領を切り取っただけです。
漁夫の利を得た形ですね。
先生❗️まさかの番外編大サービスありがとうございます♬ 岐阜(美濃)にも十兵衛が落ち延びた説があるみたいです〜👍
そうなんですね!
キリンが来るの番外編やってくんないですかね?
天海光秀が家康の軍師になって小牧長久手の戦いで秀吉に勝つ話を見たい。
光秀=天海説が好きなのですが、
先生のお話を聞くと、左馬之助=天海説に納得させられてしまいました。光秀と天海は筆跡も違った、という話もネット上ではありましたので。
もし明智縁者の方であれば、日光の明智平も明け地からの繋がりもあるのかな、と思いました。
坂本と大津の資料館行ってみたいと思います。
弥平次説は私も以前に想像してましたよ。でも慈眼堂のことは初めて知りました。さらに探究をお願い致します。家光の光の由来の話しも何卒よろしく。
天海と家康が初対面の時、約四時間二人だけで話し合った‼️
と、徳川実記にありますね😃
芦名の一族では、それは無理ですね
じゃあ数々の寺に残ってる天海の過ごした跡はどうなるの?その時明智光秀は信長の元にいたよ?
@@まかいチャンネル 明智光秀ではないのかも知れませんね。
ただ、初対面の人に対して、密室で二人だけで四時間も話すことの難しさを考えてみたら、そのように思った次第です。
結論から言うの好き
ところで、なぜ不忍池って名前になったんですかね?琵琶湖になぞらえたとして、なぜ不忍池なんでしょう?
秀満説…
たしかに有りですね。
今度坂本に行ってきます~
坂本の山手に母側のご先祖様代々の墓地があり絶対行って探してきます。あの辺りは沢山お寺がありますね。
おもしろいです。
最近、別なyoutubeで根拠がない歴史動画見てがっくりしてたところ、この動画で根拠がありながらの新説は興味深いし面白いです。
まったく歴史も詳しくないのですが明智云々の出自は陰陽師のような気がするのですがいかがでしょう?天海だとしたら光秀が天皇家に近い感じと江戸に結界をはるなどなんとなく陰陽師ぽいかな・・・なんて想像してます。
あっ、大大大ファンです
徳川家光さんの光って明智光秀さんの光と何か関係あるのですかね、家光さんの乳母のお福さんのお父さんも明智光秀さんの家臣だったんですよね。
遠山の金さんもその家系だった気がする。明知遠山の出だったと思う。明智が明知に変わってるけど。なぜ信長に謀叛を犯した人が江戸幕府の奉行になれたのか?。もしかしてそういう事なのかな?。
・・・こういう説は好きですね。
思わぬ衝撃の天海! なんちゃってw
久能山 富士山 世良田 日光
このレイラインも面白いよ🌟
ちなみ僕は天海は3人いたと思っています。
前半期は初代天海、中期は戦から逃れ出家した光秀公がどこかのタイミングで初代天海の後を継いだ。後半期は光秀の息子の光慶が継いだ。の流れだと思います!
天海中期までは明智の匂わせは全然なかったのに後半期あたりから明智の匂わせが出てきます。
将軍二代目秀忠、3代目家光も天海が名付け親と言われています。
憶測ですが、中期の天海=光秀公は天海として生きていたので過去のことは残していませんが、光慶は父の偉大さを歴史に刻みたく光秀の文字とってを秀忠、家光になずけたりしたのではないかなと思っています😳
僕は浜崎さんの家臣になりたいです!
9:09にアシスタントか誰かの声が入ってるのは気のせいですかね?
松弾院ではなく、横の長寿院に石灯籠はあったそうです。噂が噂を呼び現在は非公開だそうです。
そこのお坊さんが言っていたそうです。
その他にも二台目長寿院主の俗名が光秀。
慶長20年は豊臣家が滅亡した年。
慈眼和尚が祀ってあるなど共通点はかなりあります。偶然にしては偶然すぎるなと思います。まぁ全てネット情報ですが笑
何が真実かは分かりませんが、生存出家説が本当なら光秀が長寿院で天海になるまでの修行をし豊臣家が滅亡した年に光秀か光秀と関わった人が贈ったと思うとロマンがありますね😊
合戦の絵を描く人っていうのは両軍から陣地の情報をもらってから描くのですか?それとも合戦が終わった後に誰かに聞いて想像しながら描くのですか? 合戦中に描くのも危険な気もするしわかりません…
こんにちは。
合戦の絵は大名等から屏風等の依頼があったうえで作られると思います。
題材が題材なので、どの様な内容にするかなどは依頼人と綿密な打ち合わせのうえ構想を練りOKが出て着手すると思いますが…
追加、合戦に出た人に聞いたり見た人に聞いたり色々な人達に聞いたりリサーチしたと思います。
@@supika-virgo ご返信ありがとうございます^_^
なるほど、大名等からの依頼だったのですね。合戦の絵はほんとに絵の中の情報が多くて自分としてはとても興味深かったです
鬼武者の秀満が天海という説もありますよね。かごめかごめの話といい明智家と関係ありそうな気もします。あくまでもロマンですが。
納得
お二人の掛け合いがドラマになりそうで凄い!
ありがとうございます。😀
徳川家光に拝謁し現在の筑西市新治の知行地を管理する様になったのが4男利宗ですが、それをお膳立てしたのが旧斎藤本家出自の春日局(斎藤お福)です。お福が江戸へ召し上げられる前に、お寺にあった系図や古文書等は全て焼却したそうです。因って出自を意図的に隠したと思われます。稲葉と斎藤は美濃国時代には互いに嫁が嫁いだほぼ同族同士です。斎藤利三は美濃出自白樫城で現在も墓守が居ます。利三墓所は京都極楽寺で絵師の海北氏が弔ってくれたそうです。分家である私も辿ってみましたが、謎が多く意図的に隠された故、真相は闇ですね。
もしかしたら...光秀が生きていた場合、本物の天海と入れ代わった...史実通りでも、もうひとつの説の、本能寺の前に信長の家康暗殺を、光秀が家康に伝え逃がしたのではないか
何時も楽しく拝見させて頂いてます。
ありがとうございます^_^
初コメです。
光秀は天海じゃないのか問題
ずっときになっていて 違っても光秀で
あって欲しい感がありました。
弥平次さん説は嬉しいです。
お話しをお聞きしていて、
家康公なら、そのお仲間の方々なら
弥平次さんを説得し、後に側近天海和尚
になられた しっくり来ました^_^
もう一つ、光秀と天海の仕事ぶりが全てそっくりですよね。
因みに北斗七星麒麟に似てませんか^_^
嬉しくて思わずコメントしました。
ありがとうございます^_^
仮に家康のところに面会に来た僧侶が秀満か光秀のどちらかだったと仮定しましょう。そうしたらどちらであるにせよ家康はいくらかの所領を与えて明智家再興を提示するんじゃないかな。その場合、秀満と光秀はそれぞれどんな返答をするか?
もし、秀満だったら各地に逃がした光秀の実子の潜伏先を全部だいたい知っているはずだから彼らを探し出して彼らに明智家再興させるように願い出るんじゃないでしょうか?仮にもし秀満が天海のような役割を申し出たところで家康も全く実績のない秀満なら丁重に断るでしょうね。なんせ乱世ですから。人情だけで宰相になんか採用するわけがありません。
しかし、光秀だったら実子たちが生きていることを全く知らず全滅したと思っているはずだし、今さらこの年で自分一人だけ領地をもらったところでしょうがないと考えるんじゃないでしょうか?だとしたら光秀なら覆面宰相として徳川政権確立に尽力して家康に天下を取らせ、豊臣を滅亡に追い込みたいと考えるんじゃないでしょうかね?光秀の申し出を聞いた家康も快諾するんじゃないでしょうか?なんせあのハチャメチャな信長政権を軍事・統治両面で一手に支えて一気に天下を取らせた辣腕政治家武将なんですから。徳川家臣団の中にもそんな人材はいません。あの無欲な光秀ならそういうこと考えそうです。
そう考えると天海=秀満は残念ながらあり得ないと思うんですよね。
光秀の年齢を理由に天海ではないという説は根強いですけど、光秀は生年不明で、実は通説よりずっと若いという説もあって信長より少し年下という説もある。美濃にいた頃はまだ元服前くらいの可能性があり、麒麟がくるの中でも明智城落城時点で当主は叔父の光安という設定で落城の際に光秀に当主を譲るというストーリーだった。明智城落城が1556年だからこの頃が元服適齢期だったとしたら確かに光秀は信長より少し若いくらいの年回りになる。これなら天海=光秀でも全くおかしくない。
そういう理由で天海は光秀以外に該当者がいないと思います。
光秀公と天海僧正の筆跡を鑑定した所、別人ではあるが血縁関係がある可能性は高いとか言ってたな。
素敵なお話ありがとうございましたm(_ _)m🍀
かなり前ですが、『新説歴史ミステリー』というテレビ番組でこの内容(天海=光秀)をやっていて非常に興味深かったので面白かったです。市橋先生の✨新説の新説(左馬之助説)✨一押しです👍🍀🎵
浜崎さんもいつも素敵な合いの手ありがとうございます🤗🌸🌸🌸
嬉しいコメント、ありがとうございます。😀
もし弥平次なら筆跡とか照合できないですかね♪
光秀と天海の筆跡鑑定を行ったところ、別人ではあるが、似ている字もあり、親子兄弟のように近い関係が考えられるという事です。
弥平次秀満の書状は5通ほど発見されているそうで、素人目には似ているかもしれないという感想ですが、こちらも鑑定されて欲しいですね。
光秀の従弟秀光の生まれ年と天海の逆算生まれ年が一致しているのではないでしょうか?
お二人の楽しい解説に拍手します、なお先生と美しいホストの正式なお名前は、どこかに表示されたほうがいいと思いますよ。歴史ってこんなにユニークだったんですね。
ご視聴ありがとうございます。😀
名前などは、チャンネルの概要ページに書いてあります。よろしくお願いします。
蛇足ですが比叡山焼き討ちは光秀が進言し、坂本で家臣団初の城持ちに成ったというお話を聞いたような。
天海の墓って家光を祭ってある日光の太猶院にもあったと思います。
光秀から坂本龍馬までの流れも解説して下さい。
小名木先生の信長、光秀、秀吉の名トリオによる「本能寺のヤラセ」説が最も説得力があリます。
全ての謎が解けますね。
堅物の歴史学者や作家では発想もつかない凄い推理だと思いますね。
信長が考えそうなことだし、あの名トリオなら「歴史上の大事件」を演出することができるだろう。
天海は秀満だと思いますね。とにかく、明智家の者だろう。
光秀も山崎の合戦後にすぐ死んではいないと思います。
昔、喜多院の目の前に住んでいたことがあったけど、全く知らなかった・・・。
これは明智がひらけたか、なかなかの説ですね
天海上人の没年は確かとおもわれるので光秀本人であると118歳近くとなりかなり難しい
秀満説はたいへんに興味深い、途中で上人と入れ替わったのかもしれない
ぜひとも直筆を探しだして天海上人と比べられたし
本能寺にて家康を討つ謀略があったとする説、そして春日局
光秀と家康にとの間にもまだなにか隠されたものがありそうですね
確か明智サマノスケ説は昔やっていたゲームの設定でもありました
灯籠に光秀と刻むのであれば、当時は謀反人の汚名の代名詞をあえて刻むとは思えず、苗字、村名を刻印し、更には寺の台帳に記録する。高価な物だから子孫にも代々伝え誉れとします。子孫が絶えたか、まさか通りすがり??ありえません^_^
マンガ化される
いつも楽しみに見ています!
先生の愚説に一票です!笑
ありがとうございます。😀
明智光秀は、山家(山窩)ですよね💕
織田信長も死んでないとも言われてたんだよね。なぜかというと信長の死体が見当たらなかったんだよね。明智光秀は山崎の戦いで負けて逃避行してるときに、落ち武者狩りにあって死んだとも言われてるんだよね。だけど本当は落ち武者狩りあって殺されたのは、影武者であって光秀は生き延びて、天海和尚であるとも言われてるんだよね。どこから産まれてどこから出てきたかもわからないんだよね。
いいですね👍そうゆのどんとんやって欲しいですね😅今度謙信が女だったどうかもうやってほしいです😅❗️
検討しまてみます😀
@@history-channel ありがとうございます😁👍👍❗️
先生❗たまに回り道してください‼️
左馬之助と言ったら鬼武者の主人公
久能さんの元康は阿部に斬られたのは徳川本家も近寄らない話。日光の徳川家康は甘利信恒で本当の神君で、武田信虎か甘利晴吉の子です。
光秀が山崎の合戦を生き延びようと、信長が本能寺の変ぐ生きていたとしても、どっちにしろ四百年前に死んでることは変わらないのに生き延びていて欲しいと願う日本史ロマン。
麒麟がくるの最後は色んな説を上手い事使ってた
天海の筆跡鑑定したら、明智秀満の字に似てると何処かでみたような。
私はある程度は明智家と関係あると思いますね。
5:50 この随身様は誰なの? なんで織田木瓜を付けているの?
そうだったのか!
とても僕のあっていない考察ですが聞いてください。
南光坊天海が明智光秀なのだとしたら大阪城燃やすのを徳川家康に指示したのではないかと思われます。でも大阪城は生き残りましたのでそれだけマシですよね。ちなみに安土城って現代にあれば国宝だったんですね。
ちなみに光秀はあっさり秀吉に打ち取られたことから考えました
天海=明智秀満説は、あり得ると思います。明智光秀本人の本能寺の変の後の生存説の成立は厳しいですが、あまり著名ではなく秀満、それも光秀の娘婿で義理の息子ですから、反逆者の汚名も軽く、また、秀吉も、秀満の助命については、そういう観点では、寛容な武将だからこそ、容認したと思います。
日本の歴史において不可思議なことがいくつかあるなかで、明智光秀〔秀満を含めて〕=天海はその最たるものです。こういうことはありえない、とか単なる都市伝説だと片付けてる意見が多すぎます。それが頭の良い人の見方、冷静な見方と言わんばかりです。しかし、これだけの状況証拠が揃っているのをどのように説明するのでしょうか?もう少し先入観をなくして素直に考えて頂ければ真実が見えてくるのではないでしょうか!
(๑•̀ㅂ•́)و✧ 光秀と息子で天海上人を演じた説に一票!
慈眼堂は知ってたけど、東照宮まであるのですね、、今度行ってみよう。歴史は浪漫、、その通りですね😊
左馬助(金城武)
古くは義経、信長、光秀。
何処も後世の人達の願望なのだろう。
歴史は諸説あり。
ロマンあり。
天海=明智佐馬之助これが正解でしょう!
関ヶ原の石田三成がいた場所には陣営後がないみたい。
さくやみなみ著「縄文を創った男たち」の話が有力だと思いました。明智光秀は実は…!
あとは読んでのお楽しみ!(^^)