戊辰戦争の悲劇 会津戦争はなぜ起きたのか?戊辰戦争 江戸城無血開城の裏にイギリスの圧力?なぜ徳川慶喜は救われた?「幕末シリーズ5」
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- เผยแพร่เมื่อ 30 พ.ย. 2021
- 旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争。旧幕府軍は「錦の御旗」の登場により、朝敵となってしまった。徳川慶喜は、徳川滅亡を避けるために、江戸城へ逃げた。そして江戸の町が戦火に包まれることを避けるために、勝海舟と西郷隆盛のよる話し合いが行われた。それにより、江戸城の無血開城が実現し、慶喜の切腹は免れた。しかし会津藩の松平容保は、新政府軍と戦う道を選んでしまい、悲惨な結末となってしまう。
〇会津戦争
慶応4年/明治元年(1868年)は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。
〇戊辰戦争
慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本最大の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、同政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなった。
幕末シリーズ
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05戊辰戦争 江戸城無血開城の裏にイギリスの圧力?会津戦争の悲劇はなぜ起きたのか?長州藩との遺恨
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市橋先生のお話が大好きで 毎日楽しく 聞いています。
私も 歴史が大好きに なりました。ありがとうございます。
会津藩が長岡や宇都宮での戦勝で強気になり会津戦争に突入したのでは無く、幾度も恭順したにもかかわらず、それが受入れられず已む無く戦争に突入となったもの。
江戸城無血開城により長州の振り上げていた拳の落とし所が会津に向かったという見方も出来る。会津藩の恭順の意を握り潰したのは長州ですから。
恭順するなら、他の幕府軍やら何やらを迎え入れるんじゃないとしか思わんな。
それは本当ですか?
会津藩は新潟を侵略してるし、恭順姿勢は上辺だけだったのは明らかです。
@@user-bs4bu6zr8q 容保、家老の首を早々に差し出していれば奥羽越戦争は起きなかった。京都での長州潰しはやり過ぎだろ。長州藩士と会津藩士では頭の良さが違いすぎる。
@@user-bs4bu6zr8q 会津藩は池田屋事件や蛤御門等、絶対に勝てる戦で有能な長州藩士何人殺害した?対価として最低松平容保らの首でしょ。
今日も楽しく拝見いたしました。
私も最近 慶喜 のイメージが変わってきました。
参勤による武家言葉(当時の標準語?)の普及は徳川幕府のおかげですね。
でも、西郷さんと勝さんの薩摩言葉と江戸言葉の掛け合いも聴いてみたい気持ちもあります。
ガトリング砲を戦で用いたのは、長岡藩ですね。南北戦争では、弾の消費が多く、値段も高かったため、北軍も南軍も正式採用していません。余剰兵器として上海に売りに出されていた物を河井さんが買付けたのですね。
日本陸軍(帝国陸軍)が機関銃を正式に用いるのは、日露戦争以降になります。😄
今週も肺癌治療はお休み。やはり私は佐幕派です。徳川家を護ろうと生きた人達は美しいと思います。勝海舟は小者を切って刀を封印。西郷を切るつもりだったとは驚きです。来週楽しみです。
面白かったです。
出来ればこの会談の時の山岡鉄舟
の逸話を聞きたかったです。
先生、お久しぶりです。本日も楽しく拝見させていただきました!先生にリクエストですが、尾張宗春も取り上げて頂きたいです。あと、戊辰から太平洋戦争までぜひ講義をお願いします!
市橋先生、お疲れ様です!本日も勉強になりましたよ!特に何方の後ろにもフランスとイギリスが、いた事にとても勉強になりました!次の講義も楽しみにしていますよ!
私の郷里、秋田は奥羽越列藩同盟の後、いち早くそれを破棄し、新政府軍(官軍)につきました。そのため庄内藩、南部藩に攻められ、激戦地になりました。官軍側についた諸藩の中で一番被害が多かったと言われています。戊辰戦争は今まで平和に暮らしていた東北諸藩を戦争に巻き込み、官軍と賊軍に分断し、後の世まで遺恨を残した悲しい出来事として記憶に刻まれています。秋田口の戦い(th-cam.com/video/X1ZsWx95tIk/w-d-xo.html)
本日のなるほど!歴史ミステリーを視聴させて戴きます
西郷隆盛と勝海舟の会話を攘夷と佐幕の関係性の流れをご教示してもらいさらに会話内容を知識や解説講義が幕末の理解を噛み砕けます
自分としては群雄割拠の時代や幕末に興味があります
侍の魅力が自分をその時へ吸い込みます
戊辰戦争が難しい
幕府が全面降伏しなかったので良かった
幕末の書物を読みますと戊辰戦争と上野戦争
江戸城無血開城と
会津戦争
奥羽列藩同盟
北海道
とても面白いです
納得できるので嬉しいであります
英語のいろんな文献も翻訳してしまって英語を覚えなくても新しい事も日本語で勉強と研究出来たというのも大きいですね
日本中で統一した教育が広がっていったのも近代の発展に貢献したのでしょう
赤い熊毛は赤熊(しゃぐま)と言います。その実は熊の毛ではなくヤクの毛を赤く染めたものです。赤熊の装飾で有名なのは龍造寺(鍋島)軍がありますね
この官軍の赤熊、元は徳川家康まで遡ります。『家康に過ぎたもの二つ有り、唐の頭に本多平八』と言われる内の唐(から)の頭がヤクの毛を兜の装飾品にしたものです。さて、官軍が江戸城を接収した時にこの唐の頭が軍需物資の一つとして大量に保管されていました。官軍はこれを流用し軍帽に赤熊の装飾を仕立て上げたわけです。ですのでドラマで鳥羽伏見の戦いで官軍が赤熊の装飾をしているのは、まぁ間違いなんですね
西郷と勝の交渉がうまくいくことは必然的です。
あまり知られてないですが、勝海舟は西郷の絶対的な存在である島津斉彬との面識がありました。斉彬がまだ江戸在住だったころ、勝は軍艦や貿易のことを尋ねられることがあり、斉彬から高額の稿料を支給されることも何度かあったようです。
「汝のことは伊勢に頼み置けり」と斉彬は勝に何度も言ったと言います。「伊勢」とは阿部正弘のことです。当時においてすでに勝は斉彬から一目置かれ、阿部もまた斉彬から勝の存在を知らされていたことになります。
「亡友帖」で勝は、鹿児島を訪れた際にその斉彬に会えた喜びを記しています。
「時に侯(斉彬のこと)、同所温泉に浴す。余の至るを聞き、単騎来接、甚だ気色あり。懇切優渥、余、其の知遇の辱きに感ず。」「侯曰く、今後自り、大いに国事に関係あるものは、書簡を以って足下に談ぜむ、他人をして知らしむるなかれ、是、足下の為に猜疑を避くなり」
つまり「今後、国事に関わることがあれば貴君宛てに手紙を書いて送る。そのことを誰にも明かさぬように。お主があらぬ疑いを受けないとも限らない故に」と斉彬から一人の友人として扱われ、以後頼りとするぞと宣言されたのです。勝は感激の極みを味わっていたに違いありません。
安政五年5月、勝は再び遠洋航海のため鹿児島を訪ねています。
斉彬が西郷に勝のことを「幕臣にも人あり」と話したとされる。両者は互いの存在を斉彬を通じて知ることになりました。そのことがどれほど大きな意味を持つことになるかは後の歴史が明らかにしてくれることになります。
薩摩弁は島津藩が幕府からの隠密に情報がもれぬよう独特の言葉にしたそうですね。赤熊は島津長州土佐と区別するために赤、黒、白に分かれていたのですな。
参考になりました。
近代史もやってもらえるんですか??楽しみにしてます
頭に被っている赤熊の色で藩を分けていましたね。薩摩は黒、長州は白、土佐は赤と。それと会津藩が京都に連れて行った藩士は一万ではなく千人です。
母親が長岡のうまれなのでもっと詳しく教えてほしいですね!教育に力入れていたようです。田中角栄も地元ですよね。米百俵も。
戊辰戦争、細かい解説ありがたいです。
いつも楽しく拝聴しています。「赤毛」は、たしかに三船敏郎主演ですが、監督脚本は岡本喜八で、黒澤明は、関与していません。早すぎた討幕運動として、偽官軍呼ばわりされ、討伐されてしまった相楽総三の赤報隊の話です。
市橋先生今晩は。
私は、昨今の歴史学者の一次資料重視に
対して、市橋先生の当時の民衆の気持ち
感性を重視する姿勢が大好きですよ。
学術的だけでなく、俗説を排除しない
考えに、共感共鳴いたします。
動画内で会津戦争がなぜ起こったかで長州藩の遺恨が持ち出していますが、
会津への攻撃は長州藩が決めた事ではなく、大総督府という司令部が決めた事です。
これは多くの専門家や京都大の教授も指摘されています。
会津藩は恭順を示していながらも、徳川家の家臣も書き込んで戦争継続を目論んでいたので、
そう単純な話ではないはずです。大総督府のトップは京都の公家達ですがほとんどが
お飾りみたいなもので、実際は西郷と林通顕の判断です。しかし西郷は
戦に参加していたのでほとんど林通顕の独断の可能性が高いです。
私もこの事について知るまで、市原先生と同じように京での長州藩中心とした志士側への
新選組の行動などが会津攻撃の理由だと思っていました。
るろ剣でも使ってましたね、敵方が。これに対抗するために元御庭番衆がかなり頑張りましたね
るろ剣は時代は明治ですが鬼滅と同じくかなり時代考証しっかりした作品なので歴史の勉強にも役立ちますし
ガトリング砲はラストサムライでも主人公たち侍衆を虐殺する武器として出てきました
先生、又見せて学ばせて頂きます。今日は会津の戊辰戦争です。私は岡崎に生まれた、その後、名古屋で育ち、東京に出て学び、主人の実家にとつぎました。福島です。福島にはお城が皆廃城に成っていました。三春、棚倉、主人の母の里の二本松、そして会津若松の鶴ヵ城。白虎隊と少年隊の二本松の事を知ったのは愚かですが無知を恥じますが、嫁いでからでした。なんと酷い攻撃を官軍は地方にしたのでしょう。胸に正視できないモヤモヤした思いが沸きました。白虎隊や二本松の若い子供のような少年が気の毒でした。多勢に無勢と戦の結果は分かっていたのに、大砲を撃ち込み城を崩し、罪ない人々を殺したのは、断じて恥ずべき行為です。五稜郭や西南戦争等の悲劇がその後おきて来ましたが、会津の不幸は藩主が京都守御職に徳川への義理立て、忠義を立てて起こったこと。家老の西郷頼母さんは反対していたのに砲撃と進軍の中に、武士道を今となっては示して戦うという意思を示したが
孝明天皇のゴシンカンを守って城を出たという。残された家族親族は皆が揃って自決。22名です。何故西郷さんは江戸を無血開場してから日本が安定するまで東北の戦場の是非を見守る為に指揮を取ってくださらなかったのかと、悲しくなりました。会津には三河に由来する地名が残り、三河武士の誉れを守り気高い人々が多くいた。せめて今の政府の長は、過ぎたこととは言え、会津や福島に訪問をして謝って頂きたいです。余りにも深く会津や東北を攻めすぎた。追い詰めたのです。今は立ち直っていますが、皆さまのご苦労を忘れないでください。皆尊いです。新渡戸稲造ほか八重さんも見ています。
優秀な人々でした。
いつも大変楽しく聴講しております。機会があれば是非二本松藩も取り上げください
当方 福島郡山育ち。当時県知事さんが松平さんで小中高と必ず会津に修学旅行ありました。知事さんが松平さんはやっぱり誇りだったかも。ただ郡山市民なので会津うざいもありましたw
郡山市と言えば大久保利通が今後の東北・北海道の開拓の範として、又巨大政庁内務省のテストケースとして作った安積疏水で出来た新設都市ですね
福島県の県都も本来は郡山市に移転の予定だったとか色々聞きます。この都市だけでも2時間ドラマを作れそうなぐらいに面白い街ですね
郡山で略奪虐殺放火をしていたのが会津藩士ですから、会津の押し売りはそれはうざい事でしょう。
参勤交代と方言の話が面白いです!そして勝海舟と西郷隆盛の会談はあくまでも政治的な交渉だったんですね。腹を割って熱く語り合ったわけではなかったと笑笑
そうすると天璋院の書状は江戸城無血開城にはどの程度役に立ったんでしょうか…?本当はあまり意味はなかったけど、「天璋院の手紙に心動かされて無血開城した心の熱い西郷隆盛」を創り出す印象操作にも感じてきました。
武田勝頼公と徳川慶喜公が一番大好き💓♥️❤️です。🎵
本名「高野五十六」さんが断絶していた山本家を継いで「山本五十六」になったみたいですね。
ガトリング砲、るろうに剣心でも触れられていますね。映画では第1作目での登場でしたでしょうか。作者の和月先生が長岡市出身ですので、インスパイアされたのではないかと思います。是非一度漫画も映画もご覧になってください!
奥羽列藩同盟の件が響いて、宇和島伊達家が侯爵に叙せられたのに対して仙台藩の伊達本家は伯爵に叙せられたんですね。
はじめまして 私は会津若松の近くに住んでいる 者です。
もと 小学校の教師をしていました。 三角のマークは 平安時代 藤原の道長に仕えていた
安部のはるあきら が宇宙を解いた 時の マークです つまり 宇宙エネルギーを 表したマークであると 考えられます。
私はてっきり内乱にして江戸を燃やしたら英国や仏国がこれ幸い、植民地化しようと攻めて来ることがわかっていたので、西郷は江戸城総攻撃をやめたのかなと思い込んでいました(;'∀')
ちなみにアシスタントの女性の方、僕の好きなタイプです(*'▽')
ガトリング砲ってやっぱ高価だったんですね。その当時の日本に5台もなかったって聞いてます。となると、日テレの年末時代劇「五稜郭」で旧幕府軍が新政府軍の旗艦甲鉄に体当たり攻撃仕掛けた時に旧幕府軍を迎え撃ったガトリング砲は、長岡藩から接収したものを使ったんですかね?
甲鉄のガトリング砲は 確か 薩摩藩が購入したものが
搭載されていた記憶が有ります
河井継之助は、病気で亡くなってはいませんヨ🤨長岡城攻防戦で、官軍の銃弾を受け負傷したところが、化膿して足の切断しか助からないと言われていましたが、手術をせず亡くなった🥺
「奥羽緒藩、皆敵と見て」あるいは「無論、弱国ニ藩は恐れるに在らず」と言う世良修蔵が大山格之助宛てに認めた書状を一個小隊長らしい人物が持参していたらしく、それを仙台藩、米沢藩、福島藩、二本松藩が捕らえた、との事。仙台での奥羽討伐軍の傍若無人な振る舞いに加えて更にこの書状拝借した仙台藩、米沢藩、福島藩、二本松藩は金沢屋と言う旅館で世良修蔵を捕らえ、阿武隈川付近で世良を処分する。
手紙は捏造されたと言うのが正しいでしょう。世良修蔵が報告にしては不必要な過激な文言を入れますかね。しかも、世良の人間性(実際はが問題なら、世良修蔵だけ監禁し、手紙について皆の前で詰問すれば良いものを、世良の他、少なくとも6名を惨殺したのか?さらに、會津に対し穏健派だった奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬が拉致・軟禁したのかその真意が説明できますか?朝廷が送り込んだ総督一行に対してはあまりにも非礼で、これって完全に宣戦布告ですよね。事実、会津戦争は、この直後、会津が西郷頼母(実戦経験もなく、近代戦を知らない)白河を攻めたことで始まっている。
そもそも、仙台藩が後日この手紙が偽造だったことを認めています。
即ち、仙台藩側は「会津藩が手を尽くして本物のように見せ掛けた(拵えた)世良修蔵の偽手紙に仙台藩を滅ぼすと書いてあったので、会津藩に味方すると決めて世良修蔵を殺害してしまったが、仙台藩には朝廷に背く意思はない」という趣旨の弁明をし、世良修蔵の名で書かれた1868年6月9日付けの大山格之助下参謀宛て密書は、会津藩が作成した偽手紙であったと述べている。ついでに、福島城下・金沢屋について遊廓・妓楼などと記した文献もあるが、実際には旅籠だったりと、無茶苦茶なのだが、これも戦後最大級の捏造史、会津観光史学の面々の作り話か?
慶喜が鳥羽・伏見の戦いで脅されてにげたのも、勝と西郷の無血開城などなかった。外国勢力銀行勢力に脅されて行われたことにした。今の中央区、江戸の土地が欲しかった。
無血開城が大政奉還
こう思う人もいますね
自分はこの考えなんです
江戸城攻撃が実現したら
大坂の陣や蛤御門を
超えるような修羅場に
なったかもしれない
松平容保が幸村みたいに
討ち死に覚悟で
敵陣に突っ込めるか?
篤姫や和宮は
淀みたいに
自害はしないでしょうね
慶喜は肩書きだけの
将軍で終わるは
変わりなさそう
こんばんは。
奥羽越列藩同盟って結構参加してる藩が多かったんですね。
これがうまく機能してたら日本はどうなっちゃったんでしょうね。
機能しようがしまいが、新政府軍とは戦力違いすぎるから潰されてるよ
映画「赤毛」の監督は黒澤明ではなく岡本喜八です。
目的は会津藩と庄内藩の謝罪恭順、徳川幕府の再興、蛤御門の変での長州藩の処分
日本語の意味を昔の
辞書で学ばねば、意思強くならん
胸に誠を刻み、大自然の愛や慈の法則に
そって生きようかな
江戸無血開城が西郷と勝との会談で決定したかのような話になっていますが、これは史実と異なります。現在の外交でもトップ同士が会談する前にすでに次官クラスで綿密に話し合われて調整が終わっているように(トップ同士の会談は儀礼的な意味合いが強い)、この時も事前に西郷と慶喜の勅使である山岡鉄舟の間で事前交渉が行われていて、このときに無血開城が決まりました。この二人の会談の後に官軍は攻めてこないということが江戸に伝わり、江戸の人々が安堵したという記録も残っています。後に勝は江戸無血開城の手柄がすべて自分にあるかのような報告書を提出しましたが、事実関係を知っている者が上申し、岩倉具視が嫌がる鉄舟に、後世には事実を伝えなければならないではないかと言い、この時の報告書を提出させています。慶喜も徳川家を救ったとして鉄舟に恩賞を与えていますが、勝には与えていません。
長州みたいに家老の首差し出して大人しく恭順してれば会津戦争は起きなかっただろうけど、鳥羽伏見なんか薩摩側から攻撃してきたわけだし、そんなことできないし、何より仙台、米沢他東北諸藩と旧幕府残党がいたわけだからワンチャン勝てるんじゃ?って思っても不思議ではないな。
時を同じくして薩摩藩·大山格之助と長州藩·世良修蔵の奥羽討伐軍が白石城に入城する。仙台藩と米沢藩に会津藩と庄内藩討伐を催促する。
戦後の天皇処理と似てますね
慶喜に先が見え過ぎたのでしょう。大乱世の時には少し鈍感な方が良いのかも。しかしまた、慶喜の先見の明が江戸を救ったのは事実。彰義隊と幕府軍が江戸で戦い内乱になる、という選択肢があり、もしそうなれば維新が挫折するばかりでなく日本が植民地化したかもしれない。
最近、日本がこの160年間やってきた開国近代化を支那がやっていたならどんなに楽だっただろうかと思わざるを得ない。
少子超高齢化はもう少し穏やかに訪れたのでは?
今日は12月8日ですが、未だに真珠湾80年などやっている。馬鹿馬鹿しい限りです。
五芒星、イスラエルのシンボルですね。神社の参道にあると聞いています。
「参勤交代は西国雄藩の財力を弱めるための徳川の陰謀」との俗説の誤りを他の江戸時代の研究者(欧州出身)も指摘した。付きそう家臣も他藩の城下町通過で視野見分を広めることができ、沿道の商家も発展した。「花のお江戸」で剣術師範・儒者・謡曲・俳諧などの師匠・名人に遭うことができ他藩士との接点が生じたことで、幕末期は多種多様な国策提言を通じて「日本人」意識が形成された。なお、長岡藩山本家について。牧野家の家老であったが後継ぎがおらず断絶したので、牧野伯爵が山本家再興を願って「高野五十六」に山本家を継がせて「山本五十六」になった。三河以来の重臣の子孫であったわけではないので念の為、記載したい。
イギリスに圧力をかけたのは勝海舟ですよ。
外国の赤い盾の手下です。坂本龍馬も彼らの手下の手下です。
会津といえば 白虎隊
15:35 これは国を焼かれてもしゃーないレベルのふざけた対応
大名の家臣の禄高はどうなっているのですか?
何人くらいいるのですか?
例えばーーー。
◯◯万石なら家臣は何人。
家老は何人で禄高はこのくらい。
奉行なら。
百石取りが何人、
二百石取りが何人とか
決まっているのですか?
大石内蔵助は確かーーー浅野53000石の筆頭家老で禄高1500石。
大石自身の家来(陪臣)は何人いたのですか?その禄高は?
大名は古は名田を多く有せるものの称なりしが、
あと転じて守護地頭の称となり、
徳川氏に及びては家禄万石以上のものを称す。
古事類苑13 p1663(国会図書館)
◯摂津微書 巻86-87
関白摂津分限帳
摂津寺社領
古事類苑41 産業部
p186 付農人
p189 松の落葉
によれば
百姓の名の由来が。
しかし班田収授の頃は◯◯と農民しかいなかったんですか?
藩士人名辞典(国会図書館)を見ると。
二本松藩十万七百石では。
家老が16人もいるんですね。
その知行は。
さらに
二本松藩史(国会図書館)
0:55
◯◯ p742 家中知行(戊辰当時)によると。
p740 兵制ーーーというのも。
いろいろーーー。
和歌山史要
p50あたりにもいろいろと。
職制ですか。
目付はこのような役割りをーーー。
とか。
町奉行はどうですか?
禄高は。
他の藩はどうですか?
まあいいか。
殿様の取り分は?
旗本ではどうなっているのですか、
適当な資料が?
国会図書館デジタルーーー
分限帳(沼田分限帳というのもあるようです)
検索条件を追加 クリック
タイトル 分限帳
検索。
他にも
藩史
県史
知行
で検索してもーーー。
ねずさんとコラボして欲しいな。
ねずさんとは、どんな方ですか?
@@history-channel さん
小名木善行さんの事です。
宜しくお願いします。
会津戦争?・・・其れは、春嶽、容堂、斉昭、敬親、が悪い?・・・幕末4大愚公だろう?もう、恭順を示していたのだから、討伐は必要なかった?
猿沢の池???
ありがとうございます。簡単に考えれば、京都で薩摩と会津が長州と戦い、幕府の長州征伐の仇を長州が薩摩が組んで幕府崩壊させて戊辰戦争で会津を討ち果たし、その後、新政府(長州)が西南戦争で薩摩を討ち果たす。戦いが長州の仇討ちが維新
masatoshiさん、それは違うと思います。明治政府の板垣退助らなどは朝鮮へ兵を出兵する案に対して、西郷隆盛は朝鮮への出兵ではなく、話し合いで解決するべきだと言って意見が分かれて揉めてしまい、それで西郷が意見が合わないなら、やめると薩摩へ帰ったのがきっかけです。別に長州藩は関係ありませんし長州藩が明治政府が牛耳ってるわけではないです。
こちらで詳しく解説されているので御覧になってみてください。
th-cam.com/video/L8jit59m-FE/w-d-xo.html
今も根深く残ってるみたいですよ。知り合いの夫婦が福島と京都出身なのですが福島に住んでいる旦那さんの親や親戚が猛反対で押し切って結婚して今も没交渉だそうです。話を聞くと京都だけではなく西日本を拒絶する感情があるとのこと
都市伝説です。今は全くありませんよ。
私の家系は会津武家ルーツですので近畿はダメだと教えられましたね。
特に祖父祖母に。
佐幕派の私の寝言ですが、明治維新さえ無かったら日本はもっとまともな国になってたと思う。
なぜ、会津戦争が始まったのかと言う解説、特に会津が勢いづいた理由として宇都宮戦争と北越戦争で政府軍が負けたというのは、ちょっとおかしいかもしれませんよ。
宇都宮戦争は1次と2次に分かれていたと解説されていますが、実際、1次と2次との間は4日しかなく、一次では政府軍の陣容が整う前の戦闘、正確には、旧幕府側は政府軍の倍近い兵力と最新鋭の装備を誇る伝習隊主体の部隊が、旧式の兵器が主体だった彦根藩と宇都宮両藩を退けただけの話で、4日後の1868年5月15日(西暦)に薩長の軍が到着すると、僅か一日で旧幕府軍は敗れたんですよ。そして、その1か月後の6月10日に会津は戦闘を開始しています。
それから、良く勘違いされる方も多いのですが、会津戦争(6月10日)は長岡戦争(戦闘前の小千谷会談は6月21日)より、先に始まっています。為参考乍ら、庄内藩が秋田に攻め込んだはそれよりかなり後の8月21日です。
従って、正しくは会津は宇都宮での惨敗を知っていたが、長岡の勝利は知らなかったのです。
そもそも、長州の松平容保への遺恨と言うのは会津観光史学的なロジックで、同かなとも思います。
事実は長州でなく、正式に明治新政府の通達に対して会津が罪を認めず、謝罪を拒否する回答書を示したことが、そもそも会津の悲劇の発端。世良修蔵(傲慢だったと言いうのも怪しい)だけでなく、見善太郎や後に斬られた松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎等6名を殺し、さらに奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬が軟禁し、仙台藩が新政府側と戦闘せざるを得ない状況を作り出した上で、白河口を先に攻めたのですから、、、。
②の仙台藩の説得の失敗もどうでしょうか?より正確には、会津はゼロ回答なのですから、仙台藩に非があるのではなく、松平容保による断固拒否が実態でしょうか?総督府は会津藩を寬典に処するの意思を伝え降伏を勧告するも、会津は返答を引き延ばした上、後日、文書で「謝罪仕間敷覚悟」(謝罪をするつもりはない覚悟)と返答したのですから。
松平容保はそもそも恭順もしていません。それどころか、優柔不断な面もありますが、慶喜の意に反し鳥羽伏見の戦いの原因(軍を動かした)をつくり、敗れると、上野彰義隊を支援し、宇都宮に兵を送り、世良修蔵の手紙を偽造(議論有)し仙台藩を巻き込み、白河に兵を進めて、会津戦争を始めたのです。藩祖の保科正之が「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく」とした徳川宗家の慶喜が恭順しているのにですよ! さらに非道は続きます。戦費を賄うために、領民に重税を課し、越後その他で略奪を繰り返し、幕末では断トツの額の贋金はつくるは、プロイセンに北海道を売ろうとしたり、とんでもないことばかりしでかしました。敗者に酷な言い方ですが、「最悪の暗君は松平容保」と八幡 和郎さんが仰る(2020.10.31 11:30 アゴラ )のも当然でしょう。
先生、会津は長州だけはゆるさないです。
お前何年前の話してんだ。じゃあお前自分の子孫にも長州人に対して憎しみを植え付けるのか?そんな事で未来志向の関係が築けるわけねえだろ。長州人の俺からあえて言わせてもらう。てめえみてーな会津人ヘドがでるわ
薩長がいなければ、広島、長崎に
原爆落ちるまで悲惨な戦争なんか、しなかったと
思います。はっはっは、軍事大系整理してみな。
すぐ、分かりますね。
米内光政、及川古志郎、斎藤実、板垣征四郎、山本五十六、石原莞爾、東條英機も父は岩手出身。
要は太平洋戦争を主導した軍主要軍人は賊軍出身者。
昭和軍部は賊軍出身者が牛耳っていたので陸大試験ではわざと意地悪な質問をして薩長出身の受験者を落とした。
間違いなく先の大戦で日本を焼け野原にしたのは長州のテロリストです。その流れな今も生きています。
薩長が大陸に進出しなければアメリカと戦争になることもなかったのは確か。
はっきり言って会津は徳川を見方したから結局はダメだった徳川よしのぶを処刑していれば戦争はなかったかもしれない。自分ならよしのぶを処刑していた
会津戦争?・・・其れは、春嶽、容堂、斉昭、敬親、が悪い?・・・幕末4大愚公だろう?もう、恭順を示していたのだから、討伐は必要ない?