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NHKで昔見たけど光秀は天皇の居る京都を防衛しなければならず、また山崎は天皇の直轄地だったのでここにも陣を張ることが出来なかった。色々と制約されてがんじがらめの光秀と自由に作戦を立てて進軍出来る秀吉では初めから勝負は決っていたと。
馬謖「この明智という者は兵法を知らぬと見える。『高きによって低きを見るは勢いすでに破竹の如し』という戦術の基本すら分からんとは・・・」
草
よ、有名登山家‼️(笑)
秦嶺山脈と天王山では山の規模が違い過ぎる。
正解なのが悲しい。
戦場マップが石亭の戦いに似ていると思いました。隘路に誘い込まれて大敗した石亭の戦い、隘路を塞がずに大敗した山崎の戦い、面白いですね。
トラシメヌス湖畔の戦いも似てるような
個人的ですが秀吉の進軍先が不確定だったから中途半端な布陣になったのかなと光秀の絶対目標は「京都(朝廷)を奪われない」だからここは何としても死守しなくちゃいけない只、秀吉の進軍ルートがわからない、後世の自分達は結果が分かるから天王山に布陣すればいいのにと考えるけど当時の光秀は少数精鋭の山越えで西から京都に急襲の可能性もあるし淀川渡って南からグルッと迂回して奇襲も考えなければならないそうなると天王山は京都から遠すぎて裏に回られたら京都は護れなくなる、折衷策で手前の勝龍寺で対応したかったんではと思う。所謂攻め場所を決められない防衛の不利
日本の戦国現地ロケ出来るの大きいですね~♪京阪利用しても、通過のみだけにロケされた写真、大変参考になり面白く観れました!また、このような構成で、是非お願いいたします!
実際に現地に行っての考察が素晴らしい
「兄者が勝って俺が負けることはないのよ」私が秀長ファンになった堺屋さんの小説のクライマックスなので印象深いです。秀長晩年までを描いた物語も見てみたいですけどなかなかないですねー。藤堂高虎とのエピソードとかも創作ではほぼ語られないしもったいない。
29:29 勢力イメージがとてもわかりやすいです!ぜひ秀吉vs柴田勝家の賤ケ岳の戦いも特集してほしいです!①なぜ秀吉と勝家が対立したか?②勝家は前田利家を調停役として派遣するほど、織田家同士の内紛をさけようとしていたが、秀吉はいかに前田利家を篭絡したか?とっても面白くなると思います!
天王山の戦い(山崎の戦い)とファイナルファイトと重ねた解説がお見事すぎて
当時の里山は殆ど禿げてたって考えれば現在とは山の扱いは違ってくるでしょう。明治あたりの写真でも人家近くの山は殆ど木が生えてなくて面白いです。街道より尾根を伝った方が移動が速かったりしたそうです。山を重要な資源として使っていた当時は、それ自体が現在の常識とは違うんでしょうね。
『鬼と人と』は本当に傑作だと思う戦国関連の小説は数多くあるが、あれほど当事者の心事を詳らかに表現した物はない最後の暦と時間の話も他にはない視点で面白い
突発的に謀反をした、その後情報処理に追われた、結果戦は圧倒的不利になったもうここまで来ると光秀はもう碌してたとしか思えない…w初めから正常な判断をしていなかったのかもしれません。ファイナルファイトの謎が解けてスッキリした!奇抜な前振りに合点がいく説明に感服致しました。
信長の忍びの作者が描いた黒田官兵衛の漫画で秀吉が光秀に、信長様から何を学んだと怒っていたのがこの布陣
勝竜寺城を拠点にかなり長い土塁が築かれていた事が最近の発掘で判明しています。光秀は土塁によった鉄砲による長篠の戦いの再現を狙っていたのではと思います。戦いが6月13日の夕方から始まったのは、羽柴方が天候…当日は雨だったを重視した為と言われています。翌日以降、天候が回復する兆しがあった…明智の鉄砲が使えない内に戦いを始めた…というのが最新の説ですね。
朝の段階では、まだ秀吉軍で揃ってない部隊がいて、来るのを待ってたんだろう。悪天候なら尚更移動が大変。
秀吉も長篠の戦いに参加して一部始終を知ってるんだが・・。手の内バレバレだぞ光秀。
昔は『天王山の戦い』と言われていたので、『関ヶ原』と同じように歴史が変わる勝負どきの名称として『天王山』が使われていましたっけ。歴史の名称が変わると言葉の用法も変わる、感慨深い回でした。
歴史が変わると言うよりは、首位決戦三連戦みたいな、勝つと大きい戦いのことだな。一発決戦の時は以外と使わない。
@@戸田賢司プロ野球では終盤の首位争いの直接対決を天王山と呼びますね!逆に最下位争いは天保山なんて呼んだり……
光秀が正確な情報を持たず判断を誤ったんだろうけど、秀吉が不確かで乏しい情報を頼りに正確な判断をし続けた事が異常なんだよな。
この時の秀吉のキレっぷりは、アレキサンダー大王、ハンニバル、韓信達にも引けをとらないと思う。
山崎の戦いから賤ヶ岳の戦いまではキレッキレなんですがその反動か晩年があまりに残念ですね
@@hirokage9427 晩年についても最近は異説が出てきているようです。国内政策はともかく、対外政策についてはやはりキレッキレだったんじゃないかという考察があるようですね。他チャンネルなのですが、世界史視点から見た朝鮮出兵を解説している動画などはすごく納得できました。
@@manekineko0912 それ面白そうですね。私も見てみたいです😆
秀吉の兵力が同数、もしくはやや劣るぐらいなら、光秀の判断も間違いじゃないんだよね。隘路をあえて通過させ、撤退を困難にさせた上で迎え撃つ。やっぱ正確な情報を持ってなかったというのが真相だろうな。
面白い考察やったですね。明智光秀にもわんちゃん勝てる可能性もあって羽柴秀長、黒田官兵衛に突っ込めって話を聞いてなるほどって思いましたわ。黒田官兵衛の策略で天王山には毛利家の旗もあったって話なので明智光秀の目から見て毛利家の旗がどう見えてたのかとか想像したら面白くなってしまいました
毛利の旗は、やるだけやってみる小細工というか、相手が動揺すればよし、気にしなくても別に困らないからな。
ファイナルファイトはドラムカンやタイヤなどの障害物を背にしたり、2Pプレイで互いに背中合わせになることで回り込まれる確率がグッと低くなり楽にプレイ出来るのですが明智軍は天王山を確保して障害物とするか、細川や筒井を味方にして2Pプレイにするべきだったということですね。
羽柴はナンバー2の秀長が優秀だったのはホントに強いトコだと思う。だからこそ成り上がった側面はあると思うのに秀吉の後継者問題はホントに残念だったですわね
ルイスフロイスの日本史では明智光秀は鳥羽に布陣し、投降する者を待ちながら秀吉の出方を伺っていたしかし、投降する者が居ないので高槻を包囲する為に接近開始摂津勢は羽柴勢が遠くない場所まで来ているのを知って出陣し大山崎まで進む大山崎内に高山、山の手を中川、川沿いを池田が進軍大山崎に近づいた明智勢に対し、高山勢が銃撃、突撃し大損害を与えるこの衝突が終わる頃に中川、池田が到着さらに織田、羽柴勢も間近に迫っていたのもあって明智勢が退却光秀は勝竜寺城に篭っていて、退却した味方が合流羽柴勢に包囲され、夜間に都まで聞こえる程の銃撃戦光秀は夜明けに坂本城目指して脱出日が明けて勝竜寺城も明け渡し翌日逃げ散った明智勢の掃討開始短時間で千以上の首級があげられる隠れ潜んでいた光秀が農民に坂本まで連れてく様に頼むも刺し殺されるとなっていますねこれによると、光秀の初動が遅いのは摂津勢の降伏を待っていたみたいです当時雨天だったようで、町中で雨を避けられた高山勢が雨の中進軍してきた明智勢を一方的に攻撃できたみたいです大山崎まで進軍したものの、制圧できなかった事で隘路を生かせず勝敗が決した感じですね
2年前の『大河ドラマ駒』では、この山崎の合戦がカットされていました。とても驚きです。
光秀は油座がある大山崎を戦場にしたくなかった。大山崎を塞がなかったのは戦略的判断っていうのを聞いたことあるなぁ
私もそう考察した記事を読んだ覚えがありますそうとでも考えないと明智光秀の行動は腑に落ちないんですよね
あとは山崎と天王山を押さえる担当だった高山右近と中川清秀が寝返ったからかなー?(明智子孫代表さんがそういった説を唱えてたなー
主がおっしゃる、光秀は山崎の戦いで短期決戦を狙った説は納得出来ますね。秀吉軍は強行軍で疲弊していた、と自分の都合の良い読みをしていたのかも。流石の考察。あまり詳しくない私がこの動画を見ると、光秀に内応した中川清秀と高山右近が山崎の隘路を封鎖した(光秀側から見ると)様にも、一瞬ですが見えるんですよね。浸透襲撃さんの動画を見ていると、考え方が柔軟になる気がします。
信長を討ち取った達成感&交渉してた増援の見込みがなく、ここを凌いでも長期的に考えて自分の将来を悟ったことによる事によるモチベ低下等もあったのかも…
明智光秀がダメだった原因を予想・山崎で戦うのはダメと朝廷に言われた・秀吉が「自分は明智軍の援軍です!」てノリで近くまできた・実は既に光秀は死んでいて、統率が取れなかった
織田、羽柴連合がやけに戦死者が多いのは長距離移動の後の疲弊とかもあるんだろうな。後、光秀視点だとこの速度で秀吉が戻れたなら柴田や徳川もこちらにくるんじゃないか、もしくは死体を確認出来ていない信長が生存していて朝敵化させられるんじゃないかと考え始めたせいで思い切りがつかなかったのかもしれない。
秀長公の扱いの良さに期待さぜるを得ない
のぶやぼで本能寺直後の光秀プレイで色々かつかつでのスタートで秀吉家康勝家とかガンガン攻めて来るのピンチなの面白かったわ
これを見て言えることは、信長の視野の広さと情報網の正確さと腕の長さ※どこにでも潜り込むことができるこれらの部分が如何に重要だったか。という所だと思う信長の部下でそれを理解していたのが、光秀ではなく秀吉だったということ
19:30 秀吉ともあろうものが真っ直ぐ隘路を突っ切ってくるわけもないし、明智軍の展開していない淀川の下流で南側に別動隊を渡河させて、大山崎で明智軍を引きつけつつ別動隊と連携して京都の西側南側から明智軍の包囲にかかるでしょうな。
自転車で、京都行く時ここを毎回見て想像するの好きなんだよなぁ
山崎は確かに隘路だが、対岸の八幡方面から来た場合、要衝は淀になる。現在の国道1号線、24号線方向から京に入られると山崎を固めても無駄と思われる。だから淀や勝竜寺を固めたんだと思う。そもそも一箇所抑えて守れる都なら歴代足利将軍も苦労はないかも。都防衛ってだけでもう光秀に勝機はなかったんではないかな
当時の淀城は三角州に構築された水城でもあったので、巨椋池の水上戦闘?ないし制海権(湖だけど)を確保した方が自ずと京都を手中に収めるでしょうね。陸路の大阪街道を秀吉が選択したのは、巨椋池での水上戦は不利なので陸戦で侵攻したのかも知れませんね
前提として山崎に秀吉が全軍で来る事があるから、他のルートからも進軍していると山崎でパンチしている光秀が背後を突かれる。筒井順慶とか目と鼻の先で敵になる可能性もあるし
敵の進路を確定させる為、敢えて山崎の隘路を開けておき、必ずそちらに進軍するように仕向けたのでは?円明寺川の状態は現代とは違う可能性が高いので、川前の湿地帯で待ち構えて砲撃しようと考えたのかも。光秀は織田方の各軍団を一撃で倒さなければ自分が危ないので博打を打ったのだと思います。
光秀は家康を安土に呼んだ時に懐柔できなかったのが痛かったな。その点秀吉はその後の賤ヶ岳戦で利家に呼応するように事前に懐柔できてる。下準備の能力差が出てるな
その辺りからも、本能寺が突発的にやったモノだったんじゃないか、という話になりますよね。……というよりここで家康に打診して説得に失敗し、信長に報告を入れられたりしたら、目も当てられないことになりそうだけど(笑)
昔の川は水運に使うためにわざと川幅や水深が大きくなるように調整していた。特に小川はわざとグネグネ迂回させたりとにかく水がたまって川舟が通るようにしていた。鉄道や自動車輸送の発達した現在ではこんなことをやっても意味がないし大雨で氾濫しやすいだけなのですっかりやらなくなったが。
二つの砦を改修した理由は砦を支城にして京都まで引き込んで戦うつもりだったが公家を説得出来なかったとかだと思います。京都は西側から攻めやすくやや撤退しにくい隘と挂が混ざったような地形なので楠木正成も京都に足利高氏を引き込むつもりが後醍醐天皇の気が変わったとかで兵庫に行かされてたはず
すごく大変だと思うのですが、大阪夏の陣の解説を聞いてみたいです
羽柴秀吉「皆さん、拙速してますか?私は拙速しています」
7:20 当時の天王山については明るくありませんが、昔の山は人家に近ければ燃料獲得の為に伐採され、ハゲているのが基本なので、視界については問題なかったかもしれません。
本能寺の変後、すぐに家臣団との戦闘にはならないと思って、近畿に影武者を置いて自分は味方集めに奔走していたら秀吉が来ちゃって影武者が出陣する羽目になったとか…そんな妄想をしたくなるくらい悪手をとっていますね(もちろん、結果だけを見た素人の感想ですが)
諸所の事情は置いといて、神速で接敵されてその後がぐだぐだな動きで事実上の自滅したっていう辺り、どこかの登山家の人によく似てますね。具体的に名前が浮かばないんですが、同じように行軍速度が決戦の勝敗を分けたものって結構あった気がします。
そして、まだ初陣を飾った所の東北の覇者伊達政宗と九州の雄島津家。
余りにも遅すぎる……
地元のゲリラが邪魔していて天王山含む現地入り出来なかったとかかな城を改修したのも明智の権威を示して地元の抵抗を弱めようしていたとか
明智軍が天王山や大山崎を先に兵を入れたけど秀吉が大軍を連れて来たので前線の兵が逃亡または降伏してしまい。やむなく勝竜寺城まで防衛線を下げたとか。
かなり強引に考えるならば、光秀のほうは短期決戦しなければならない理由があった、とかですかね。隘路を塞いで万一長期戦になったらマズイと。だから不利を承知で平地での会戦で博打を賭けて秀吉を討ち取るしかなかった。・・・にしても側面展開させてから一発逆転狙いの中央突撃みたいな動きもないし、ホント何をしたかったんでしょうねぇ
すごい面白かった。要するに、明智軍が天王山を先に抑えてしまうと明智軍に有利になりすぎて、敵(羽柴軍)がこのタイミングで戦ってくれなくなるから、あえて明智軍に不利な状況をつくった(天王山を羽柴方へ渡した)ってことなんですね。仮にもしこれで明智軍が勝ってたら、羽柴軍をうまく誘引した明智光秀強しとなるのでしょうが、そういうのって紙一重なような気がしてきました。
確か天王山の登り始めたところにある、寺の石の一つは秀吉が腰かけたといわれている石があった気がします。戦国時代当時の様子はわかりませんが、鎌倉室町期に石清水八幡宮の保護をうけていた油座があったので、そこらへんとのいざこざを光秀は嫌ったのかな?
ついファイナルファイトを見ちゃって、聞いてないからもう一回見てもらえるという
なんで2日もあったのに天王山取りに行かなかったんやがなんで一ヶ月もあったのに夏休みの宿題終わらせてなかったんやと何故かw変換されてしまいましたww宿題包囲網…もう大分前の話なのになぁ…なんでこんな負け戦にしてしまったのか、当時の明智方の記録が残ってればもっとわかるんだろうけど、どっかの民家かなんかに残ってないかなぁ…気になる……
「兄者が勝って俺が負ける事はないのよ」 同じく堺屋太一さんの『豊臣秀長』の最終盤のセリフですね(だったかな?)「いかがいたしましょうや、上様」で終わる『鬼と人と』の光秀と好対照ですね。共に悪魔的な存在に仕えながらも、終生それを喜びとし続けた秀長と、苦痛と苦悩に塗れて大爆発してしまった光秀。『秀吉―夢を超えた男』も合わせた堺屋太一さんの信長三部作(と言っていいと思う)は、娯楽小説としては淡々としていて読者の感情をドライブする感は薄いですが、詳細な時代情勢と、それが如何にロジカルで無慈悲な意思で激変し統合されていったのかという部分を、平易な文で楽しく解りやすく読ませてくれますね。
光秀は短期決戦を望んでたのでは?柴田、家康など周りは敵だらけの中で長く京都を空けるわけにもいかず、毛利、北条、上杉の援軍も期待できない。秀吉の兵数を実際よりも少なく見積もっていた場合に限るが、強行軍で来た敵に有利な条件を与えて平地に引っ張り出して叩きたかった、という可能性はどうでしょうか?もし秀吉・信孝コンビを粉砕出来れば細川・鈴木などの日和見連中が味方につくかもしれない、畿内が安全になれば上杉・北条と連携して家康・柴田を挟撃できると考えると短期決戦の可能性はないこともないのでは?
前編からのBGMがリベール王国のリシャール大佐が反乱を起こしたことで開かれたダンジョンのBGM・・・ この曲大好きです
今回も乙でした 私事ながら先日小谷城を見てきまして、姉川古戦場との距離が近いことに気が付きました 賤ヶ岳の戦いの参考として姉川の戦いも解説いただけると幸いです
小谷城の麓で狼藉→浅井軍が出てくる→姉川の戦いが流れなんだから近いだろうな。遠かったら狼藉に気付けない。
この配信がくるまで軍師ニキ達の考察コメ読んで待っていました。集中して視聴したいのでフライングコメします。
動画お疲れ様でした。明智軍は城でずっと軍議してたんじゃないですかね。で、気づいたら天王山取られてて「まだ先鋒隊だろう」と奪回に向かったら秀吉本体も来てて突っ込むべきか引くべきかずっと狼狽してた、と妄想してます。
明智さんが本能寺の変を起こした理由も、山崎の戦いでの戦術・戦略もサッパリ分かりませんが。歴史上のミステリーとして永遠に名前が残りました。……不謹慎かもしれませんが『戦国時代』がもっと面白くなる要素を作った立役者ですね。
ファイナルファイト、天地を喰らう2、エイリアンvsプレデターと、あとダンジョン&ドラゴンズ?とか言うのも面白かった。カプコンじゃないかもしれませんが
光秀、寝てなかったんやろなぁナンバー2というか腹心というか相棒というか、そういう立場の人間の名前が動画でもほとんど出てこない(特に内政)状況で天下人タスクを連日こなす羽目になったわけだし、実質ワンオペ連勤、パンクするのも仕方なしって感じに見えますね。
秀吉「俺も馬上で居眠りして落馬したんだが」。
いつか機会がありましたら、沖田畷の戦いをお願いします。九州の戦国の流れを大きく変える戦場ですけど、耳川の合戦ほどには解説されてない印象です。しかし山崎の古戦場、神戸の震災の後で京都競馬場に通ってた頃を思い出します。ライデンリーダーの豪脚やライスシャワーのラストラン・・・
大河「秀吉」で光秀が「わしは天下を取りたかったのかのう…」「全部信長が決めてたんだなあ」って奥さんにぼやく所軍師、参謀がもてはやされて、大将は泰然自若としていればいいと言う日本の組織に、それはそれでうまくいく状況を、先人に作ってもらえたからだって堺屋さんが言いたかったのかも知れないですね自分自信の価値基準を持たない有能なだけの人たちは、むしろ誰にもまして、絶対欠かせない最高意思決定を下せなくなる…
包囲されない、敵が正面からしか来ないという状況で戦う考え方を身に着けると多くのゲームが一気に簡単になるよねファイナルファイトのような2Dゲームもそうなのね。これを知らないと囲まれるような場所に突っ込んでやられて、操作技術や装備やラグのせいだと考える
というわけで3Dロボゲでは引き撃ち機体が無難ですよね
山崎の街を戦場としなかったのは、そういう禁制を出していたからだとか、宿場町である山崎を戦場にすると戦後の西国支配がしにくくなるからだとか、そう言われている
うぷ主撮影の表記登山してむっちゃかわいいです(*´ω`*)
動画のテンポが良すぎて最高に面白かったです。光秀のとった行動については謎な所も多いですが隘路で戦わなかった理由は動画内でも触れていた通り、そこである程度、秀吉をシバかないと勝家や家康など各方面の勢力から挟まれるからだと思います。(こっちのほうが覆しようのない詰みなのかと)光秀が半ば突発的に謀反を起こしたのは私も賛成ですがその後の各判断についてはおかしくなっていたというよりは彼なりの計算の上での行動かと。秀吉と並ぶほどの才覚を持ち信長に評価されていた武将だと思っています。今後の動画も楽しみにしています。あとファイナルファイトは神
非常に面白い考察でした😅👍🌟余談ですが、本能寺の変は当時の日付で6月2日、この時代は太陰暦ですから1日は必ず新月です。強力なライバルたちは遠くで戦中、本能寺で警備が少ない状態の信長、更に月がなく真っ暗なので夜襲がかけやすいと、二度と同じレベルのチャンスが来ないような条件が偶然にそろったために、光秀は準備不足でも謀反を決意したのかも・・・といった考察も読んだ事があります。ところで、羽柴秀長って銀河英雄伝説でいうと、キルヒアイスみたいな感じ?🤭
高山右近と中川清秀が光秀に呼応する書状をすでに送っていて天王山を抑えたから光秀は味方だと思っていたら、2人が秀吉軍をスルーさせて山崎に展開させたもんだから、無策のまま両軍衝突したんじゃないの?
山崎の戦いこそ本当の意味での「織田と室町幕府の戦い」だよなあ。どっちも皮肉にも織田家臣団vs室町幕臣で、信長も義昭もそこに居ないのに。
前回でチラッと触れられてた大山崎資料館で聞いた話なんですが、油座の関係でそこは中立地帯みたいな扱いだったので光秀は山崎に陣を敷けなかった説があったと。逆に秀吉は知ったこっちゃねえと言う感じだったので優位を取れたみたいな説があるという話を聴きました。
油座は最終的に秀吉が潰すからな。
光秀、事前計画がまるっきりなかったというのは、伝わります。「秀吉が来た!家康取り逃がした!じき勝家も南下してくる!」とパニック起こしてうずくまっているところを、家臣団がここまで引っ張ってきたか?天王山奪取 に行かなかった理由として、高山中川が「天王山はお任せあれ!」とか光秀に吹き込んでいた可能性もある。
前の動画にも同じようなコメントをしましたが、やっぱり天王山を空けておいてそこに引き付け、淀川から水路で戦力投入を企図してたんじゃないかなぁと思うのですがどうでしょうか?だとしたらがら空きの天王山、改修した城とかも説明がつくと思うのですが…
面白かったです。隘路で少数精鋭が大軍を迎撃といえばテルモピュロイの戦いのようにかなり有利に戦えたはずですよね。いつか小牧・長久手の戦いの考察も見たいです。
光秀が大山崎に兵を置かなかった理由の一つに経済が関係してる説もあります。大山崎では鎌倉時代から荏胡麻の栽培とそれを原料とした精油の製作が盛んでした。それらを経営してたのが大山崎油座で足利幕府に資金を援助すぐらい経済が活発で京にも大変影響がありました。山崎は淀川の流域に船場も設けてあり、全国の情報もここに集ます。さらには平安時代から京の貴族は山崎に別荘を用意して夏の避暑地としていました。このような古代からつづく由緒ある政治と経済と文化の中心地でもあったため光秀は戦火を避ける為に兵を置かなかったのでしょう。
雨を生かした火縄連射不可時の縦列陣よろしく日本海海戦ばりの丁字戦術からの包囲戦ですね。陣形が長篠破り(川がまるで連吾川)みたいな図形になっていて、羽柴+丹羽信孝が兵数的に倍化した時点で明智は勝ち目が一気に減ります。割と戦略的に大返しと山崎が起きたのに納得!そして秀長が有能すぎる…
「あ~、勢いだけでやらかしてしもたな、あ、あれ、やらなあかんこと多すぎ、え、どないしたらええのん?え?羽柴が来た?とりあえず行かなあかんわなぁ」という混乱説。『鬼と人と』でも、「教えてください、信長さま(だったかな?)」と言わせているね。
この隘路は町になっていてかつ大山崎油座というかなりの経済力を持つ座があり光秀はそこから多額の献金を受け町で戦闘をしないという契約を結んでしまったためここを戦場に選べなかったというのが現在の定説のようですね
当時の植生は薪集めでかなり透けてただろうから天王山も森じゃなくてほとんど地肌が見えてたはず
この山崎の戦いの後の情勢で個人的に興味深いのは、信長の実質的な後継者となった秀吉に対して織田信長とは敵対関係にあった毛利、上杉がほとんど交戦する事無く臣従していくのに、逆に(一時的にも)良好な関係にあった徳川、長宗我部、北条、ついでに島津等とは大規模な交戦状態になる事ですね。
言われてみれば確かに…織田に劣勢だった経験が余計なプライドを捨てさせたのかな
徳川はともかく、北条と長曽我部は、本能寺のどさくさに紛れて織田家全体にケンカを売ってるからな。関白になるまでの秀吉は織田家の大老みたいな立場なんだから、シメルしかない。
秀吉も天王山を先に獲られる危うさはわかっていたはずで、光秀の謎判断に期待するようなタマではない。よって、光秀を勝龍寺城近辺に縛る方策を打っていたはず。円明寺川を用いた水計を警戒させたとか、別方面から明智軍を攻める軍が来る流言や密書を掴ませたとか、私の浅知恵ではわからないような駆け引きがあり、光秀の思考を縛ったのではなかろうか。
家康が橙という違和感以外とても面白い動画やった。(家康=狸=マミゾウという固定概念)次は賤ヶ岳古戦場に行けたら写真オナシャス!
水軍で後方に回り込まれるのを恐れて前にでなかったのでは?敵に水上戦力がいないこと確認して決戦を決断したけどその時には全てが遅かったとか
近江にいた蒲生氏郷が何もできなかったとしても絶妙にめんどくさい存在だったかも(近江方面の抑えに重要な駒の明智光春回したんだし)
個人的には、動画でも説明されている戦略的失敗を戦術で覆すために野戦にしたかったというのが実際のところなのかなと思います。いくら丹羽や織田信孝が合流したり、秀吉が強行軍で山崎まで戻ってきても、そのまま布陣して戦闘になったら兵士が疲労していて戦えずに負けるって思ってしまいそうな気もします。そもそも長距離の行軍をしていてそのまま戦闘して勝ててしまう秀吉側が尋常じゃなかったっていうことだったのではないでしょうか?
最前線で戦っているのは摂津衆だから疲労は無い。
中川・高山・池田は摂津衆だけど、羽柴秀長は長距離行軍をして来た。だから、秀長の部隊は疲労で動けなかった。まさに命がけのブラフだ。もし、後方にいた光秀の本陣が秀長の陣に突撃していたら、歴史は変わっていたかも。
@@KR-ls4pd 突っ込んだ先が強行軍で疲れきった部隊なのか、現地でかき集めた戦える部隊なのか、マサに博打ですねえ撤退するのに必要な戦力を残すって安全策が最悪の選択になる不思議
ぶっちゃけ光秀何しとん?って感じですね、秀長は当時は秀吉の後継者でしたし多少はね
戦国考察は単発シリーズであっても、やって頂けると嬉しいです。
天海大僧上の存在が、歴史の不思議だと思います。
光秀の軍は他の人の歴史解説で聞いた限りでは鉄砲を多く配備していて正面火力が高いが欠点として湿気に非常に弱く梅雨の時期に前日から天王山に展開して居たら火薬が湿気る可能性が高く又、仮に次の日まで湿気なかったとしても雨が降る可能性が高いので秀吉側は『雨が降るまで待つ』ということも可能です。そう考えると光秀は火薬が湿気るのを嫌ってギリギリまで屋根がある勝龍時城から動けなかったのでは無いのでしょうか?
後、ここからは憶測ですが3〜4万人の兵糧を輸送する為にある程度纏まった数の船を秀吉が持って来たとしたらその船を使って戦闘が開始した時、裏から奇襲を仕掛けることも可能なので隘路の不利をある程度和らげる事ができる。対して光秀は鉄砲の利点を捨てて利の薄くなった隘路を取るか、利の薄くなった隘路を捨てて鉄砲の利点を生かすかの二者択一に迫られた結果、鉄砲の利点を存分に生かす方を取ったと考えると、当日までの光秀軍の動きは決しておかしな動きではないと思います。長文失礼しましたm(*_ _)m
すばらしい動画をありがとうございます22:08 なぜ光秀は不利な戦術をとったのか?「センゴク一統記」というコミックの4巻では・明智光秀はあえて大山崎で市街地戦をして市民を巻き込むことを避けた・不利を承知のうえで、部下の反対を押し切って 「次の時代の萌芽である」として大山崎の街を戦火から避けたと表現されていましたたしかに得心のいくものでもあるので、ぜひ読んでいただきたいです
隘路を塞いで出て来る敵を叩くのは時間がかかって柴田勝家や徳川家康、織田信雄らがいつ来るかわからない光秀にとっては取りにくいでしょうし秀吉らが後退して態勢を立て直している間に彼らがやって来て挟撃される事も有りえます。それならば敢えて平地に織田軍を進出させ秀吉&信孝を一気に倒そうと考えてもおかしくはないと思います。織田軍が両翼を伸ばして行く過程で秀吉&信孝目指して全軍を押し込んでたら秀吉&信孝は後ろが隘路なので後退しにくいので捕捉&討ち取りが出来ていたかもしれません。成功していれば中立状態の筒井&細川も光秀に味方するかもという期待もあったでしょう。ただそれをやる前に池田恒興が攻撃して津田信春が敗れたのが前線部隊へ波及し潰走させられたのではないかと。
どこから調達出来たのか知りませんが光秀は鉄砲隊を大量に展開する予定だったけど当日は雨天で火薬が湿気って使い物にならなかった説もありましたね。
織田家中で明智が一番鉄砲を抱えていたと何かで読んだ気がします
@@wai-hasegawa 本人が鉄砲名人ですしね。。。
6月に雨天を想定してない時点で、光秀が名将から単なる間抜けに転落するのでやめてくれ。
マンガ「センゴク」だっけな?何かの解説だと明智は山崎での市街地戦をして街を荒廃させたら市民の支持を(しいては天皇の支持も)失うのを恐れて市街地から遠い場所を戦場にした。みたいな明智を美化した感じがあったのですが、それを否定する解説も聞いてみたいです。今回も面白かったです!!
光秀の殺し間戦法めっちゃ好きだったわー
「センゴク」光秀は、300年ぐらい未来を見ちゃって足元すくわれちゃった...あの連載が完結すると、も~ヤンマガ買うことないな。
今、センゴク完結記念キャンペーンやってますし、見直すいい機会ですね
大山崎の寺社も有力だったようですし。
@@中村毅彦-d4e 自分もセンゴクが読みたくて購入してましたわ。関ケ原編って言うか上田城での真田昌幸の話をもっと詳しくやって欲しかったです。あと2回でしたっけか?
昔大山崎駅近くのウイスキー工場見学の時に、阪急のこの駅使いました。ホームから見えていた山が天王山だったとは、気づかんかったです。
この辺は個人的な感覚なんですがやっぱり光秀程の優秀な人が本能寺後グダグダっぷりを発揮したのは、通説に無いなにかがあったように感じてそこにロマンが産まれる・・・と思うんですよねぇ黒田官兵衛と誰かが陰謀してた説や朝廷が信長を暗殺して何も知らない光秀に罪を擦り付けた説とか好き。家康は火事場泥棒的なムーブはまあアレなんだけど、武田滅亡ワリとすぐ後に関東管領の一益が消えた事で旧武田領が上杉北条徳川の切り取り合戦草刈り場となった状況ではまあそうなるなって。家康「天目山で自害した武田勝頼の血縁を探して保護するのじゃ。人の出生は神仏の御手技であり血縁を断つなど神仏がお許しにならぬ。」信心深く徳の高いお方じゃなぁ!
うぽつです。確かセンゴクだと松田が山崎出身で山崎を戦場にしたくないって言って山崎で戦わない判断した気がします。
無双シリーズでも囲まれるとフルボッコされるのは似てると思った。まあ真三国無双2しかやったことないけど。慣れてきたし、ハードモードやってみようかなぁって思ったら、ボコされそうになって逃げて敵を一直線の少ない塊に分けてから倒す。という方法で戦ってたことを思い出したw
明智光秀が山崎を確保しなかつたのは、当時、堺周辺に展開していた九鬼嘉隆率いる織田水軍を恐れたのかもしれませんね。当時の淀川・木津川・巨椋池の水深はわかりませんが、小早や関船なら大阪湾から侵入可能で大鉄砲や鉄砲の射撃を明智勢は食らいます。水深があったと仮定したら大砲を装備した安宅船や鉄甲船も侵入してきて明智軍は射撃や砲撃でボコボコにされます。現に、第三次長島侵攻では織田水軍は安宅船で遡上し強襲上陸や安宅船からの射撃や砲撃で一揆軍を攻撃してます。仮に九鬼水軍や織田水軍が参戦した状態で山崎方面に進出しすぎると、水軍が巨椋池を制圧し、明智方は袋のネズミになる恐れもあります。しかし、警戒していた水軍が現れず、山崎や天王山を取られていたので負けました。長期戦になると、柴田勝家が南下してきて秀吉と勝家に挟み撃ちにされるので、明智方はこの戦いは短期決戦にしたかったのだと思われます。
光秀は、外交で仲間を集められると思っており、その返事を待っていたが、全て裏切られたという事は無いんですかね?
淀川と水軍を使った後方への機動を警戒するとああいう布陣になるのでは
戦場に(四国攻めで船を準備していたであろう)丹羽と信孝が見えなければ後方機動を警戒せざるをえないはず。
秀長殿の有能さには頭が上がらないぜ
ああ、これは井陘の戦いにおける井陘口・・・。僕ぁ光秀さん疲労困憊説を推すね。
長曾我部元親をバットマンと言うかw信長に「あれは鳥なき島の蝙蝠」※周りが弱いから強く見えるだけ、大したことないとあんまり脅威には思われてなかった方。土佐の出来人とか色々と勇猛果敢な逸話もあるのに・・・・・でも晩年長男に死なれてからは三好長慶と同じようなルートになってしまった残念な人でもある
光秀側は思った以上に本能寺の変が成功した、そしてその後の折衝が上手く行かなすぎて動きがかなり鈍かった説。
NHKで昔見たけど光秀は天皇の居る京都を防衛しなければならず、また山崎は天皇の直轄地だったのでここにも陣を張ることが出来なかった。色々と制約されてがんじがらめの光秀と自由に作戦を立てて進軍出来る秀吉では初めから勝負は決っていたと。
馬謖「この明智という者は兵法を知らぬと見える。『高きによって低きを見るは勢いすでに破竹の如し』という戦術の基本すら分からんとは・・・」
草
よ、有名登山家‼️(笑)
秦嶺山脈と天王山では山の規模が違い過ぎる。
正解なのが悲しい。
戦場マップが石亭の戦いに似ていると思いました。
隘路に誘い込まれて大敗した石亭の戦い、隘路を塞がずに大敗した山崎の戦い、面白いですね。
トラシメヌス湖畔の戦いも似てるような
個人的ですが秀吉の進軍先が不確定だったから中途半端な布陣になったのかなと
光秀の絶対目標は「京都(朝廷)を奪われない」だからここは何としても死守しなくちゃいけない
只、秀吉の進軍ルートがわからない、後世の自分達は結果が分かるから天王山に布陣すればいいのにと考えるけど当時の光秀は少数精鋭の山越えで西から京都に急襲の可能性もあるし淀川渡って南からグルッと迂回して奇襲も考えなければならない
そうなると天王山は京都から遠すぎて裏に回られたら京都は護れなくなる、折衷策で手前の勝龍寺で対応したかったんではと思う。所謂攻め場所を決められない防衛の不利
日本の戦国
現地ロケ出来るの大きいですね~♪
京阪利用しても、通過のみだけにロケされた写真、大変参考になり面白く観れました!
また、このような構成で、是非お願いいたします!
実際に現地に行っての考察が素晴らしい
「兄者が勝って俺が負けることはないのよ」
私が秀長ファンになった堺屋さんの小説のクライマックスなので印象深いです。
秀長晩年までを描いた物語も見てみたいですけどなかなかないですねー。
藤堂高虎とのエピソードとかも創作ではほぼ語られないしもったいない。
29:29 勢力イメージがとてもわかりやすいです!
ぜひ秀吉vs柴田勝家の賤ケ岳の戦いも特集してほしいです!
①なぜ秀吉と勝家が対立したか?
②勝家は前田利家を調停役として派遣するほど、織田家同士の内紛をさけようとしていたが、秀吉はいかに前田利家を篭絡したか?
とっても面白くなると思います!
天王山の戦い(山崎の戦い)とファイナルファイトと重ねた解説がお見事すぎて
当時の里山は殆ど禿げてたって考えれば現在とは山の扱いは違ってくるでしょう。明治あたりの写真でも人家近くの山は殆ど木が生えてなくて面白いです。街道より尾根を伝った方が移動が速かったりしたそうです。山を重要な資源として使っていた当時は、それ自体が現在の常識とは違うんでしょうね。
『鬼と人と』は本当に傑作だと思う
戦国関連の小説は数多くあるが、あれほど当事者の心事を詳らかに表現した物はない
最後の暦と時間の話も他にはない視点で面白い
突発的に謀反をした、その後情報処理に追われた、結果戦は圧倒的不利になった
もうここまで来ると光秀はもう碌してたとしか思えない…w
初めから正常な判断をしていなかったのかもしれません。
ファイナルファイトの謎が解けてスッキリした!
奇抜な前振りに合点がいく説明に感服致しました。
信長の忍びの作者が描いた黒田官兵衛の漫画で秀吉が光秀に、信長様から何を学んだと怒っていたのがこの布陣
勝竜寺城を拠点にかなり長い土塁が築かれていた事が最近の発掘で判明しています。光秀は土塁によった鉄砲による長篠の戦いの再現を狙っていたのではと思います。戦いが6月13日の夕方から始まったのは、羽柴方が天候…当日は雨だったを重視した為と言われています。翌日以降、天候が回復する兆しがあった…明智の鉄砲が使えない内に戦いを始めた…というのが最新の説ですね。
朝の段階では、まだ秀吉軍で揃ってない部隊がいて、来るのを待ってたんだろう。悪天候なら尚更移動が大変。
秀吉も長篠の戦いに参加して一部始終を知ってるんだが・・。手の内バレバレだぞ光秀。
昔は『天王山の戦い』と言われていたので、『関ヶ原』と同じように
歴史が変わる勝負どきの名称として『天王山』が使われていましたっけ。
歴史の名称が変わると言葉の用法も変わる、感慨深い回でした。
歴史が変わると言うよりは、首位決戦三連戦みたいな、勝つと大きい戦いのことだな。一発決戦の時は以外と使わない。
@@戸田賢司プロ野球では終盤の首位争いの直接対決を天王山と呼びますね!
逆に最下位争いは天保山なんて呼んだり……
光秀が正確な情報を持たず判断を誤ったんだろうけど、秀吉が不確かで乏しい情報を頼りに正確な判断をし続けた事が異常なんだよな。
この時の秀吉のキレっぷりは、アレキサンダー大王、ハンニバル、韓信達にも引けをとらないと思う。
山崎の戦いから賤ヶ岳の戦いまではキレッキレなんですがその反動か晩年があまりに残念ですね
@@hirokage9427 晩年についても最近は異説が出てきているようです。
国内政策はともかく、対外政策についてはやはりキレッキレだったんじゃないかという考察があるようですね。
他チャンネルなのですが、世界史視点から見た朝鮮出兵を解説している動画などはすごく納得できました。
@@manekineko0912 それ面白そうですね。
私も見てみたいです😆
秀吉の兵力が同数、もしくはやや劣るぐらいなら、光秀の判断も間違いじゃないんだよね。隘路をあえて通過させ、撤退を困難にさせた上で迎え撃つ。やっぱ正確な情報を持ってなかったというのが真相だろうな。
面白い考察やったですね。明智光秀にもわんちゃん勝てる可能性もあって羽柴秀長、黒田官兵衛に突っ込めって話を聞いてなるほどって思いましたわ。黒田官兵衛の策略で天王山には毛利家の旗もあったって話なので明智光秀の目から見て毛利家の旗がどう見えてたのかとか想像したら面白くなってしまいました
毛利の旗は、やるだけやってみる小細工というか、相手が動揺すればよし、気にしなくても別に困らないからな。
ファイナルファイトはドラムカンやタイヤなどの障害物を背にしたり、
2Pプレイで互いに背中合わせになることで回り込まれる確率がグッと低くなり楽にプレイ出来るのですが
明智軍は天王山を確保して障害物とするか、細川や筒井を味方にして2Pプレイにするべきだったということですね。
羽柴はナンバー2の秀長が優秀だったのはホントに強いトコだと思う。
だからこそ成り上がった側面はあると思うのに秀吉の後継者問題はホントに残念だったですわね
ルイスフロイスの日本史では
明智光秀は鳥羽に布陣し、投降する者を待ちながら秀吉の出方を伺っていた
しかし、投降する者が居ないので高槻を包囲する為に接近開始
摂津勢は羽柴勢が遠くない場所まで来ているのを知って出陣し大山崎まで進む
大山崎内に高山、山の手を中川、川沿いを池田が進軍
大山崎に近づいた明智勢に対し、高山勢が銃撃、突撃し大損害を与える
この衝突が終わる頃に中川、池田が到着
さらに織田、羽柴勢も間近に迫っていたのもあって明智勢が退却
光秀は勝竜寺城に篭っていて、退却した味方が合流
羽柴勢に包囲され、夜間に都まで聞こえる程の銃撃戦
光秀は夜明けに坂本城目指して脱出
日が明けて勝竜寺城も明け渡し
翌日逃げ散った明智勢の掃討開始
短時間で千以上の首級があげられる
隠れ潜んでいた光秀が農民に坂本まで連れてく様に頼むも刺し殺される
となっていますね
これによると、光秀の初動が遅いのは摂津勢の降伏を待っていたみたいです
当時雨天だったようで、町中で雨を避けられた高山勢が雨の中進軍してきた明智勢を一方的に攻撃できたみたいです
大山崎まで進軍したものの、制圧できなかった事で隘路を生かせず勝敗が決した感じですね
2年前の『大河ドラマ駒』では、この山崎の合戦がカットされていました。
とても驚きです。
光秀は油座がある大山崎を戦場にしたくなかった。大山崎を塞がなかったのは戦略的判断っていうのを聞いたことあるなぁ
私もそう考察した記事を読んだ覚えがあります
そうとでも考えないと明智光秀の行動は腑に落ちないんですよね
あとは山崎と天王山を押さえる担当だった高山右近と中川清秀が寝返ったからかなー?(明智子孫代表さんがそういった説を唱えてたなー
主がおっしゃる、光秀は山崎の戦いで短期決戦を狙った説は納得出来ますね。秀吉軍は強行軍で疲弊していた、と自分の都合の良い読みをしていたのかも。流石の考察。
あまり詳しくない私がこの動画を見ると、光秀に内応した中川清秀と高山右近が山崎の隘路を封鎖した(光秀側から見ると)様にも、一瞬ですが見えるんですよね。
浸透襲撃さんの動画を見ていると、考え方が柔軟になる気がします。
信長を討ち取った達成感&交渉してた増援の見込みがなく、ここを凌いでも長期的に考えて自分の将来を悟ったことによる事によるモチベ低下等もあったのかも…
明智光秀がダメだった原因を予想
・山崎で戦うのはダメと朝廷に言われた
・秀吉が「自分は明智軍の援軍です!」てノリで近くまできた
・実は既に光秀は死んでいて、統率が取れなかった
織田、羽柴連合がやけに戦死者が多いのは長距離移動の後の疲弊とかもあるんだろうな。
後、光秀視点だとこの速度で秀吉が戻れたなら柴田や徳川もこちらにくるんじゃないか、もしくは死体を確認出来ていない信長が生存していて朝敵化させられるんじゃないかと考え始めたせいで思い切りがつかなかったのかもしれない。
秀長公の扱いの良さに期待さぜるを得ない
のぶやぼで本能寺直後の光秀プレイで色々かつかつでのスタートで秀吉家康勝家とかガンガン攻めて来るのピンチなの面白かったわ
これを見て言えることは、信長の視野の広さと情報網の正確さと腕の長さ※どこにでも潜り込むことができる
これらの部分が如何に重要だったか。という所だと思う
信長の部下でそれを理解していたのが、光秀ではなく秀吉だったということ
19:30 秀吉ともあろうものが真っ直ぐ隘路を突っ切ってくるわけもないし、明智軍の展開していない淀川の下流で南側に別動隊を渡河させて、大山崎で明智軍を引きつけつつ別動隊と連携して京都の西側南側から明智軍の包囲にかかるでしょうな。
自転車で、京都行く時ここを毎回見て想像するの好きなんだよなぁ
山崎は確かに隘路だが、対岸の八幡方面から来た場合、要衝は淀になる。現在の国道1号線、24号線方向から京に入られると山崎を固めても無駄と思われる。だから淀や勝竜寺を固めたんだと思う。そもそも一箇所抑えて守れる都なら歴代足利将軍も苦労はないかも。都防衛ってだけでもう光秀に勝機はなかったんではないかな
当時の淀城は三角州に構築された水城でもあったので、巨椋池の水上戦闘?ないし制海権(湖だけど)を確保した方が自ずと京都を手中に収めるでしょうね。陸路の大阪街道を秀吉が選択したのは、巨椋池での水上戦は不利なので陸戦で侵攻したのかも知れませんね
前提として山崎に秀吉が全軍で来る事があるから、他のルートからも進軍していると山崎でパンチしている光秀が背後を突かれる。筒井順慶とか目と鼻の先で敵になる可能性もあるし
敵の進路を確定させる為、敢えて山崎の隘路を開けておき、必ずそちらに進軍するように仕向けたのでは?円明寺川の状態は現代とは違う可能性が高いので、川前の湿地帯で待ち構えて砲撃しようと考えたのかも。光秀は織田方の各軍団を一撃で倒さなければ自分が危ないので博打を打ったのだと思います。
光秀は家康を安土に呼んだ時に懐柔できなかったのが痛かったな。その点秀吉はその後の賤ヶ岳戦で利家に呼応するように事前に懐柔できてる。下準備の能力差が出てるな
その辺りからも、本能寺が突発的にやったモノだったんじゃないか、という話になりますよね。
……というよりここで家康に打診して説得に失敗し、信長に報告を入れられたりしたら、目も当てられないことになりそうだけど(笑)
昔の川は水運に使うためにわざと川幅や水深が大きくなるように調整していた。
特に小川はわざとグネグネ迂回させたりとにかく水がたまって川舟が通るようにしていた。
鉄道や自動車輸送の発達した現在ではこんなことをやっても意味がないし大雨で氾濫しやすいだけなのですっかりやらなくなったが。
二つの砦を改修した理由は砦を支城にして京都まで引き込んで戦うつもりだったが公家を説得出来なかったとかだと思います。
京都は西側から攻めやすくやや撤退しにくい隘と挂が混ざったような地形なので
楠木正成も京都に足利高氏を引き込むつもりが後醍醐天皇の気が変わったとかで兵庫に行かされてたはず
すごく大変だと思うのですが、大阪夏の陣の解説を聞いてみたいです
羽柴秀吉「皆さん、拙速してますか?私は拙速しています」
7:20 当時の天王山については明るくありませんが、昔の山は人家に近ければ燃料獲得の為に伐採され、ハゲているのが基本なので、視界については問題なかったかもしれません。
本能寺の変後、すぐに家臣団との戦闘にはならないと思って、近畿に影武者を置いて自分は味方集めに奔走していたら秀吉が来ちゃって影武者が出陣する羽目になったとか…
そんな妄想をしたくなるくらい悪手をとっていますね(もちろん、結果だけを見た素人の感想ですが)
諸所の事情は置いといて、神速で接敵されてその後がぐだぐだな動きで事実上の自滅したっていう辺り、どこかの登山家の人によく似てますね。具体的に名前が浮かばないんですが、同じように行軍速度が決戦の勝敗を分けたものって結構あった気がします。
そして、まだ初陣を飾った所の東北の覇者伊達政宗と九州の雄島津家。
余りにも遅すぎる……
地元のゲリラが邪魔していて天王山含む現地入り出来なかったとかかな
城を改修したのも明智の権威を示して地元の抵抗を弱めようしていたとか
明智軍が天王山や大山崎を先に兵を入れたけど秀吉が大軍を連れて来たので前線の兵が逃亡または降伏してしまい。やむなく勝竜寺城まで防衛線を下げたとか。
かなり強引に考えるならば、光秀のほうは短期決戦しなければならない理由があった、とかですかね。
隘路を塞いで万一長期戦になったらマズイと。
だから不利を承知で平地での会戦で博打を賭けて秀吉を討ち取るしかなかった。
・・・にしても側面展開させてから一発逆転狙いの中央突撃みたいな動きもないし、ホント何をしたかったんでしょうねぇ
すごい面白かった。
要するに、明智軍が天王山を先に抑えてしまうと明智軍に有利になりすぎて、敵(羽柴軍)がこのタイミングで戦ってくれなくなるから、あえて明智軍に不利な状況をつくった(天王山を羽柴方へ渡した)ってことなんですね。
仮にもしこれで明智軍が勝ってたら、羽柴軍をうまく誘引した明智光秀強しとなるのでしょうが、そういうのって紙一重なような気がしてきました。
確か天王山の登り始めたところにある、寺の石の一つは秀吉が腰かけたといわれている石があった気がします。戦国時代当時の様子はわかりませんが、鎌倉室町期に石清水八幡宮の保護をうけていた油座があったので、そこらへんとのいざこざを光秀は嫌ったのかな?
ついファイナルファイトを見ちゃって、聞いてないからもう一回見てもらえるという
なんで2日もあったのに天王山取りに行かなかったんや
が
なんで一ヶ月もあったのに夏休みの宿題終わらせてなかったんや
と何故かw変換されてしまいましたww
宿題包囲網…もう大分前の話なのになぁ…
なんでこんな負け戦にしてしまったのか、当時の明智方の記録が残ってればもっとわかるんだろうけど、どっかの民家かなんかに残ってないかなぁ…気になる……
「兄者が勝って俺が負ける事はないのよ」 同じく堺屋太一さんの『豊臣秀長』の最終盤のセリフですね(だったかな?)
「いかがいたしましょうや、上様」で終わる『鬼と人と』の光秀と好対照ですね。
共に悪魔的な存在に仕えながらも、終生それを喜びとし続けた秀長と、苦痛と苦悩に塗れて大爆発してしまった光秀。
『秀吉―夢を超えた男』も合わせた堺屋太一さんの信長三部作(と言っていいと思う)は、娯楽小説としては淡々としていて読者の感情をドライブする感は薄いですが、詳細な時代情勢と、それが如何にロジカルで無慈悲な意思で激変し統合されていったのかという部分を、平易な文で楽しく解りやすく読ませてくれますね。
光秀は短期決戦を望んでたのでは?柴田、家康など周りは敵だらけの中で長く京都を空けるわけにもいかず、毛利、北条、上杉の援軍も期待できない。
秀吉の兵数を実際よりも少なく見積もっていた場合に限るが、強行軍で来た敵に有利な条件を与えて平地に引っ張り出して叩きたかった、という可能性はどうでしょうか?もし秀吉・信孝コンビを粉砕出来れば細川・鈴木などの日和見連中が味方につくかもしれない、畿内が安全になれば上杉・北条と連携して家康・
柴田を挟撃できると考えると短期決戦の可能性はないこともないのでは?
前編からのBGMがリベール王国のリシャール大佐が反乱を起こしたことで開かれたダンジョンのBGM・・・ この曲大好きです
今回も乙でした 私事ながら先日小谷城を見てきまして、姉川古戦場との距離が近いことに気が付きました 賤ヶ岳の戦いの参考として姉川の戦いも解説いただけると幸いです
小谷城の麓で狼藉→浅井軍が出てくる→姉川の戦いが流れなんだから近いだろうな。遠かったら狼藉に気付けない。
この配信がくるまで軍師ニキ達の考察コメ読んで待っていました。
集中して視聴したいのでフライングコメします。
動画お疲れ様でした。明智軍は城でずっと軍議してたんじゃないですかね。
で、気づいたら天王山取られてて「まだ先鋒隊だろう」と奪回に向かったら秀吉本体も来てて突っ込むべきか引くべきかずっと狼狽してた、と妄想してます。
明智さんが本能寺の変を起こした理由も、山崎の戦いでの戦術・戦略もサッパリ分かりませんが。
歴史上のミステリーとして永遠に名前が残りました。
……不謹慎かもしれませんが『戦国時代』がもっと面白くなる要素を作った立役者ですね。
ファイナルファイト、天地を喰らう2、エイリアンvsプレデターと、あとダンジョン&ドラゴンズ?とか言うのも面白かった。カプコンじゃないかもしれませんが
光秀、寝てなかったんやろなぁ
ナンバー2というか腹心というか相棒というか、そういう立場の人間の名前が動画でもほとんど出てこない(特に内政)状況で天下人タスクを連日こなす羽目になったわけだし、実質ワンオペ連勤、パンクするのも仕方なしって感じに見えますね。
秀吉「俺も馬上で居眠りして落馬したんだが」。
いつか機会がありましたら、沖田畷の戦いをお願いします。九州の戦国の流れを大きく変える戦場ですけど、
耳川の合戦ほどには解説されてない印象です。
しかし山崎の古戦場、神戸の震災の後で京都競馬場に通ってた頃を思い出します。ライデンリーダーの豪脚やライスシャワーのラストラン・・・
大河「秀吉」で光秀が「わしは天下を取りたかったのかのう…」「全部信長が決めてたんだなあ」って奥さんにぼやく所
軍師、参謀がもてはやされて、大将は泰然自若としていればいいと言う日本の組織に、
それはそれでうまくいく状況を、先人に作ってもらえたからだって堺屋さんが言いたかったのかも知れないですね
自分自信の価値基準を持たない有能なだけの人たちは、むしろ誰にもまして、絶対欠かせない最高意思決定を下せなくなる…
包囲されない、敵が正面からしか来ないという状況で戦う考え方を身に着けると多くのゲームが一気に簡単になるよね
ファイナルファイトのような2Dゲームもそうなのね。
これを知らないと囲まれるような場所に突っ込んでやられて、操作技術や装備やラグのせいだと考える
というわけで3Dロボゲでは引き撃ち機体が無難ですよね
山崎の街を戦場としなかったのは、そういう禁制を出していたからだとか、宿場町である山崎を戦場にすると戦後の西国支配がしにくくなるからだとか、そう言われている
うぷ主撮影の表記
登山してむっちゃかわいいです(*´ω`*)
動画のテンポが良すぎて最高に面白かったです。光秀のとった行動については謎な所も多いですが隘路で戦わなかった理由は動画内でも触れていた通り、そこである程度、秀吉をシバかないと勝家や家康など各方面の勢力から挟まれるからだと思います。(こっちのほうが覆しようのない詰みなのかと)光秀が半ば突発的に謀反を起こしたのは私も賛成ですがその後の各判断についてはおかしくなっていたというよりは彼なりの計算の上での行動かと。秀吉と並ぶほどの才覚を持ち信長に評価されていた武将だと思っています。
今後の動画も楽しみにしています。あとファイナルファイトは神
非常に面白い考察でした😅👍🌟
余談ですが、本能寺の変は当時の日付で6月2日、この時代は太陰暦ですから1日は必ず新月です。強力なライバルたちは遠くで戦中、本能寺で警備が少ない状態の信長、更に月がなく真っ暗なので夜襲がかけやすいと、二度と同じレベルのチャンスが来ないような条件が偶然にそろったために、光秀は準備不足でも謀反を決意したのかも・・・といった考察も読んだ事があります。
ところで、羽柴秀長って銀河英雄伝説でいうと、キルヒアイスみたいな感じ?🤭
高山右近と中川清秀が光秀に呼応する書状をすでに送っていて天王山を抑えたから光秀は味方だと思っていたら、2人が秀吉軍をスルーさせて山崎に展開させたもんだから、無策のまま両軍衝突したんじゃないの?
山崎の戦いこそ本当の意味での「織田と室町幕府の戦い」だよなあ。
どっちも皮肉にも織田家臣団vs室町幕臣で、信長も義昭もそこに居ないのに。
前回でチラッと触れられてた大山崎資料館で聞いた話なんですが、
油座の関係でそこは中立地帯みたいな扱いだったので光秀は山崎に陣を敷けなかった説があったと。
逆に秀吉は知ったこっちゃねえと言う感じだったので優位を取れたみたいな説があるという話を聴きました。
油座は最終的に秀吉が潰すからな。
光秀、事前計画がまるっきりなかったというのは、伝わります。「秀吉が来た!家康取り逃がした!じき勝家も南下してくる!」とパニック起こしてうずくまっているところを、家臣団がここまで引っ張ってきたか?天王山奪取 に行かなかった理由として、高山中川が「天王山はお任せあれ!」とか光秀に吹き込んでいた可能性もある。
前の動画にも同じようなコメントをしましたが、やっぱり天王山を空けておいてそこに引き付け、淀川から水路で戦力投入を企図してたんじゃないかなぁと思うのですがどうでしょうか?
だとしたらがら空きの天王山、改修した城とかも説明がつくと思うのですが…
面白かったです。隘路で少数精鋭が大軍を迎撃といえばテルモピュロイの戦いのようにかなり有利に戦えたはずですよね。
いつか小牧・長久手の戦いの考察も見たいです。
光秀が大山崎に兵を置かなかった理由の一つに経済が関係してる説もあります。
大山崎では鎌倉時代から荏胡麻の栽培とそれを原料とした精油の製作が盛んでした。
それらを経営してたのが大山崎油座で足利幕府に資金を援助すぐらい経済が活発で京にも大変影響がありました。
山崎は淀川の流域に船場も設けてあり、全国の情報もここに集ます。
さらには平安時代から京の貴族は山崎に別荘を用意して夏の避暑地としていました。
このような古代からつづく由緒ある政治と経済と文化の中心地でもあったため光秀は戦火を避ける為に兵を置かなかったのでしょう。
雨を生かした火縄連射不可時の縦列陣よろしく日本海海戦ばりの丁字戦術からの包囲戦ですね。陣形が長篠破り(川がまるで連吾川)みたいな図形になっていて、羽柴+丹羽信孝が兵数的に倍化した時点で明智は勝ち目が一気に減ります。割と戦略的に大返しと山崎が起きたのに納得!そして秀長が有能すぎる…
「あ~、勢いだけでやらかしてしもたな、あ、あれ、やらなあかんこと多すぎ、え、どないしたらええのん?え?羽柴が来た?とりあえず行かなあかんわなぁ」という混乱説。『鬼と人と』でも、「教えてください、信長さま(だったかな?)」と言わせているね。
この隘路は町になっていてかつ大山崎油座というかなりの経済力を持つ座があり光秀はそこから多額の献金を受け町で戦闘をしないという契約を結んでしまったためここを戦場に選べなかったというのが現在の定説のようですね
当時の植生は薪集めでかなり透けてただろうから天王山も森じゃなくてほとんど地肌が見えてたはず
この山崎の戦いの後の情勢で個人的に興味深いのは、信長の実質的な後継者となった秀吉に対して織田信長とは敵対関係にあった毛利、上杉がほとんど交戦する事無く臣従していくのに、逆に(一時的にも)良好な関係にあった徳川、長宗我部、北条、ついでに島津等とは大規模な交戦状態になる事ですね。
言われてみれば確かに…
織田に劣勢だった経験が余計なプライドを捨てさせたのかな
徳川はともかく、北条と長曽我部は、本能寺のどさくさに紛れて織田家全体にケンカを売ってるからな。関白になるまでの秀吉は織田家の大老みたいな立場なんだから、シメルしかない。
秀吉も天王山を先に獲られる危うさはわかっていたはずで、光秀の謎判断に期待するようなタマではない。
よって、光秀を勝龍寺城近辺に縛る方策を打っていたはず。
円明寺川を用いた水計を警戒させたとか、別方面から明智軍を攻める軍が来る流言や密書を掴ませたとか、私の浅知恵ではわからないような駆け引きがあり、光秀の思考を縛ったのではなかろうか。
家康が橙という違和感以外とても面白い動画やった。(家康=狸=マミゾウという固定概念)
次は賤ヶ岳古戦場に行けたら写真オナシャス!
水軍で後方に回り込まれるのを恐れて前にでなかったのでは?
敵に水上戦力がいないこと確認して決戦を決断したけどその時には全てが遅かったとか
近江にいた蒲生氏郷が何もできなかったとしても絶妙にめんどくさい存在だったかも(近江方面の抑えに重要な駒の明智光春回したんだし)
個人的には、動画でも説明されている戦略的失敗を戦術で覆すために野戦にしたかったというのが実際のところなのかなと思います。いくら丹羽や織田信孝が合流したり、秀吉が強行軍で山崎まで戻ってきても、そのまま布陣して戦闘になったら兵士が疲労していて戦えずに負けるって思ってしまいそうな気もします。そもそも長距離の行軍をしていてそのまま戦闘して勝ててしまう秀吉側が尋常じゃなかったっていうことだったのではないでしょうか?
最前線で戦っているのは摂津衆だから疲労は無い。
中川・高山・池田は摂津衆だけど、羽柴秀長は長距離行軍をして来た。
だから、秀長の部隊は疲労で動けなかった。まさに命がけのブラフだ。
もし、後方にいた光秀の本陣が秀長の陣に突撃していたら、歴史は変わっていたかも。
@@KR-ls4pd 突っ込んだ先が強行軍で疲れきった部隊なのか、現地でかき集めた戦える部隊なのか、マサに博打ですねえ
撤退するのに必要な戦力を残すって安全策が最悪の選択になる不思議
ぶっちゃけ光秀何しとん?って感じですね、秀長は当時は秀吉の後継者でしたし多少はね
戦国考察は単発シリーズであっても、やって頂けると嬉しいです。
天海大僧上の存在が、歴史の不思議だと思います。
光秀の軍は他の人の歴史解説で聞いた限りでは鉄砲を多く配備していて正面火力が高いが欠点として湿気に非常に弱く梅雨の時期に前日から天王山に展開して居たら火薬が湿気る可能性が高く又、仮に次の日まで湿気なかったとしても雨が降る可能性が高いので秀吉側は『雨が降るまで待つ』ということも可能です。そう考えると光秀は火薬が湿気るのを嫌ってギリギリまで屋根がある勝龍時城から動けなかったのでは無いのでしょうか?
後、ここからは憶測ですが3〜4万人の兵糧を輸送する為にある程度纏まった数の船を秀吉が持って来たとしたらその船を使って戦闘が開始した時、裏から奇襲を仕掛けることも可能なので隘路の不利をある程度和らげる事ができる。対して光秀は鉄砲の利点を捨てて利の薄くなった隘路を取るか、利の薄くなった隘路を捨てて鉄砲の利点を生かすかの二者択一に迫られた結果、鉄砲の利点を存分に生かす方を取ったと考えると、当日までの光秀軍の動きは決しておかしな動きではないと思います。
長文失礼しましたm(*_ _)m
すばらしい動画をありがとうございます
22:08 なぜ光秀は不利な戦術をとったのか?
「センゴク一統記」というコミックの4巻では
・明智光秀はあえて大山崎で市街地戦をして市民を巻き込むことを避けた
・不利を承知のうえで、部下の反対を押し切って 「次の時代の萌芽である」として大山崎の街を戦火から避けた
と表現されていました
たしかに得心のいくものでもあるので、ぜひ読んでいただきたいです
隘路を塞いで出て来る敵を叩くのは時間がかかって柴田勝家や徳川家康、織田信雄らがいつ来るかわからない光秀にとっては取りにくいでしょうし秀吉らが後退して態勢を立て直している間に彼らがやって来て挟撃される事も有りえます。それならば敢えて平地に織田軍を進出させ秀吉&信孝を一気に倒そうと考えてもおかしくはないと思います。
織田軍が両翼を伸ばして行く過程で秀吉&信孝目指して全軍を押し込んでたら秀吉&信孝は後ろが隘路なので後退しにくいので捕捉&討ち取りが出来ていたかもしれません。成功していれば中立状態の筒井&細川も光秀に味方するかもという期待もあったでしょう。
ただそれをやる前に池田恒興が攻撃して津田信春が敗れたのが前線部隊へ波及し潰走させられたのではないかと。
どこから調達出来たのか知りませんが
光秀は鉄砲隊を大量に展開する予定だったけど
当日は雨天で火薬が湿気って使い物にならなかった説もありましたね。
織田家中で明智が一番鉄砲を抱えていたと何かで読んだ気がします
@@wai-hasegawa 本人が鉄砲名人ですしね。。。
6月に雨天を想定してない時点で、光秀が名将から単なる間抜けに転落するのでやめてくれ。
マンガ「センゴク」だっけな?
何かの解説だと
明智は山崎での市街地戦をして街を荒廃させたら市民の支持を(しいては天皇の支持も)失うのを恐れて市街地から遠い場所を戦場にした。みたいな明智を美化した感じがあったのですが、それを否定する解説も聞いてみたいです。
今回も面白かったです!!
光秀の殺し間戦法めっちゃ好きだったわー
「センゴク」光秀は、300年ぐらい未来を見ちゃって足元すくわれちゃった...あの連載が完結すると、も~ヤンマガ買うことないな。
今、センゴク完結記念キャンペーンやってますし、見直すいい機会ですね
大山崎の寺社も有力だったようですし。
@@中村毅彦-d4e 自分もセンゴクが読みたくて購入してましたわ。関ケ原編って言うか上田城での真田昌幸の話をもっと詳しくやって欲しかったです。あと2回でしたっけか?
昔大山崎駅近くのウイスキー工場見学の時に、阪急のこの駅使いました。ホームから見えていた山が天王山だったとは、気づかんかったです。
この辺は個人的な感覚なんですが
やっぱり光秀程の優秀な人が本能寺後グダグダっぷりを発揮したのは、通説に無いなにかがあったように感じてそこにロマンが産まれる・・・と思うんですよねぇ
黒田官兵衛と誰かが陰謀してた説や朝廷が信長を暗殺して何も知らない光秀に罪を擦り付けた説とか好き。
家康は火事場泥棒的なムーブはまあアレなんだけど、武田滅亡ワリとすぐ後に関東管領の一益が消えた事で旧武田領が上杉北条徳川の切り取り合戦草刈り場となった状況ではまあそうなるなって。
家康「天目山で自害した武田勝頼の血縁を探して保護するのじゃ。人の出生は神仏の御手技であり血縁を断つなど神仏がお許しにならぬ。」
信心深く徳の高いお方じゃなぁ!
うぽつです。確かセンゴクだと松田が山崎出身で山崎を戦場にしたくないって言って山崎で戦わない判断した気がします。
無双シリーズでも囲まれるとフルボッコされるのは似てると思った。まあ真三国無双2しかやったことないけど。
慣れてきたし、ハードモードやってみようかなぁって思ったら、ボコされそうになって逃げて敵を一直線の少ない塊に分けてから倒す。
という方法で戦ってたことを思い出したw
明智光秀が山崎を確保しなかつたのは、当時、堺周辺に展開していた九鬼嘉隆率いる織田水軍を恐れたのかもしれませんね。
当時の淀川・木津川・巨椋池の水深はわかりませんが、小早や関船なら大阪湾から侵入可能で大鉄砲や鉄砲の射撃を明智勢は食らいます。水深があったと仮定したら大砲を装備した安宅船や鉄甲船も侵入してきて明智軍は射撃や砲撃でボコボコにされます。現に、第三次長島侵攻では織田水軍は安宅船で遡上し強襲上陸や安宅船からの射撃や砲撃で一揆軍を攻撃してます。
仮に九鬼水軍や織田水軍が参戦した状態で山崎方面に進出しすぎると、水軍が巨椋池を制圧し、明智方は袋のネズミになる恐れもあります。しかし、警戒していた水軍が現れず、山崎や天王山を取られていたので負けました。長期戦になると、柴田勝家が南下してきて秀吉と勝家に挟み撃ちにされるので、明智方はこの戦いは短期決戦にしたかったのだと思われます。
光秀は、外交で仲間を集められると思っており、その返事を待っていたが、全て裏切られたという事は無いんですかね?
淀川と水軍を使った後方への機動を警戒するとああいう布陣になるのでは
戦場に(四国攻めで船を準備していたであろう)丹羽と信孝が見えなければ後方機動を警戒せざるをえないはず。
秀長殿の有能さには頭が上がらないぜ
ああ、これは井陘の戦いにおける井陘口・・・。僕ぁ光秀さん疲労困憊説を推すね。
長曾我部元親をバットマンと言うかw
信長に「あれは鳥なき島の蝙蝠」※周りが弱いから強く見えるだけ、大したことない
とあんまり脅威には思われてなかった方。土佐の出来人とか色々と勇猛果敢な逸話もあるのに・・・・・
でも晩年長男に死なれてからは三好長慶と同じようなルートになってしまった残念な人でもある
光秀側は思った以上に本能寺の変が成功した、そしてその後の折衝が上手く行かなすぎて動きがかなり鈍かった説。