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(第349話)【玉置神社(熊野三山奥の院)に観るウケヒの象り】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
8月に久しぶりに玉置山へ行ってきました。
20年ほど前頃から時々お邪魔してはいましたが、
出雲の伝承の日本史を知って以来は、玉置神社と云えば熊野川を本宮あたりから八咫烏に道案内されながら遡って行った第一次物部の人々が後に熊野物部となって奉賽した神社なのだ。
とのイメージが張り付いていて、しばらくご無沙汰だった私です。
なぜ急に行きたくなったのかは、行ってみればわかるだろう的な安易であやふやな動機でした。
来るたびに風景が違って見えるのは玉置ではいつものこと。
にしても今回は、何度も来ていながら視えていなかったもの、気がつかなかった事のオンパレード。
まず玉置山とは、熊野の奥の院である。
それは、現在の和歌山、三重、奈良、いずれから見ても奥の院だったということ。
物部色の強い場所のはずが、ご祭神はことごとく国津神であること。
というより主祭神は国常立命イザナギイザナミ命で神世の根源神。
さらには地主明神の天御柱、国御柱、と稲荷の倉稲魂。(ここに僅か渡来系が見えています)
そして出雲社。
役小角が鎮めたとの伝説、山頂玉石社のご祭神は大己貴命。
その真下にBC37年に真王水神が祀られていたとのこと。
天孫系はほぼ見当たりませんよね。
玉置山においてエネルギー的強さで観るならば、やはり枕状溶岩の磐座だろうと思います。
これはもう神社以前の最古の祭祀形態である磐座と水源のあるところ。
実際、菊理姫の磐座からは水の痕跡があります。
と、そこにおられる山の神大山祇。
今回あらためて感じた、
物部勢と先住民の融合痕跡祭祀地と云える熊野三山の奥の院は、やはり国津神である出雲の神。
さらにはそれ以前からの縄文祭祀であり、そしてそれはすなわち宇宙の根源神であるのだな、ということでした。
見渡すかぎりの深山幽谷の風景の中、縦横無尽にはり巡らされている奥がけ道がそこここに見え隠れしています。
修験の開祖は役小角と言われていますが、山の中にいて感じることは、さらなる奥の奥があるはずだ、ということです(^^)
前回までの宇佐にしても、八幡神の由来が導入されたばかりの仏教との神仏習合にあったことにも似ていて、役行者の時代の修験も、神仏習合を大きく拡大することとなりましたね。
しかしその奥にあるものの重要要素は失われることなく神祀りの象りとして目の前にずっとあるのだな。
そう感じました次第です。
皆さまいつもご視聴くださいましてありがとうございます😊
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มุมมอง: 271

วีดีโอ

(第348話)【宇佐家伝承⑯安徳帝の行方!そして時代のキーマンとは】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 61516 ชั่วโมงที่ผ่านมา
古伝が語る古代史、最終章に書かれた宇佐家の平家物語。 順序を逆に最後からお話させていただきます。 数ある安徳帝身代わり説はこれまでも様々あったわけですが、宇佐宮を中心に厳島と太宰府が両翼となる平家一門の一大同盟が出来上がっていたことを鑑みれば最後まで側で見届けることとなり、しいては安徳帝の身代わりに子息を立てねばならなくなった公通さんの心中はいかに、、と。 しかし、自らに直接降りた八幡神の神託が具体的にそれを命じるものであったという、なんともやるせない事態だったとのこと。 しかし、公康氏は、 顧みれば有為転変、栄枯盛衰は世の習いとはいえ、応神天皇が宇佐から初めて中央に進出し、大和朝廷の基を開いてより千年を経た12世紀〜13世紀にわたって、応神皇統は安徳天皇言仁親王の都落ちによって宇佐に落ちのび宇佐公公仲となられたということは、八幡神の神深慮とはいえ八幡大神は12世紀より千年前に宇佐を...
(第347話)【宇佐家伝承⑮壇ノ浦に沈んだ安徳帝とは…‼️】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
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皆さまからいただきます、それぞれの視点からのコメントを楽しく拝見しながら、参考にさせていただいています! いつもありがとうございます😊 宇佐家伝承、あの後に読み進めてみますと、なんと。 最後の章は驚くべき内容でありました。 そこには、もう一つの【平家物語】が記されておりましたことにとても衝撃を受けました。 しかもそれは、客観的な誰かが伝えてきた平家栄枯盛衰の物語りではなく、なんと滅亡したその時その瞬間も常に身近に寄り添っていた親族としての運命を共にした宇佐宮大宮司家が自家に語り継いだ生々しいものだったからです。 これまでもまことしやかに言われてきた安徳帝は本当に三種の神器と共に壇ノ浦に沈んだのか!? 誰かが身代わりとなり、帝はその後もどこかに生きておられたのではないか? ではその身代わりとは!? 様々な説もありますようですが、 ここに、 宇佐家伝承 古伝が語る古代史 その最終章には ...
(第346話)【宇佐家伝承⑭正史も宇佐家もが抱える豊玉姫の憂鬱】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
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続けています宇佐家伝承の話と、前回の川上村東川の烏川(からすかわ)神社盆踊りとが、微妙にリンクし合っているかの風景がゆらゆらと見えている。 そんな楽しさを味わっております(^^) 皆さまから頂戴します興味深いコメント群をご紹介しながらの今日のお話とさせていただきますね♪ 吉備が宇佐族の古い神都だった。 その前には山城の稲荷山にいた。 また、宗像三女神がなぜ宇佐の祖神なのか。 コメント欄にていただきました内容がとてもスッキリと説明して下さっていました。 アタカタス命が宗像家を創設した理由や、その後も内実は宇佐王家のままだった。 これは大変参考になります。 おそらくは、大和における磯城家と似た状況であったろうと。 森さま、ありがとうございます! 宇佐公康氏曰く、古伝では景行天皇が神武天皇の兄として伝わっていること。 宇佐から発祥の放生会という仏の祀りの起源が、大活躍された景行天皇が関東で...
(第345話)【川上村唯一現存の盆踊り、烏川神社(十二社神社)のノスタルジックな夏】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
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突然ですが。 ここは《もう一つの八咫烏神社》と、密かに考えています。 吉野郡川上村大字東川(うのかわ) そうです、うのかわ という場所にある 烏川神社(十二社神社)。 とても印象的だと思って見ていました。 偶然に盆踊りがあることを知り、夕闇に紛れてお邪魔してみます。 ご祭神は 国常立命 国狭槌命 豊斟渟命(トヨクムノミコト) 泥土煎命(ウヒジニノミコト) 沙土煎命(スヒジニノミコト) 大戸之道命(オオトノジノミコト) 大苫辺命(オオトマベノミコト) 面足命(オモダルノミコト) 惶根命(カシコネノミコト) 伊弉諾命 伊弉冊命 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命 彦火火出見命 天津日高彦火瓊瓊杵命 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト) 神武天皇を案内した八咫烏を祀る神社のようです。 場所が場所だけに信憑性ありすぎですね(^^) 少し薄暗くなった19時、太鼓の音、真ん中の...
(第344話)【宇佐家伝承⑬9000年前山城稲荷山にウサ族はいた!時は流れつつ縄文女神たちの興亡と融合ストーリー】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
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前回343話にいただきました興味深いコメントを拝見しながら、それについての私が思うところです。 ※動画中、五十鈴依姫がタギシミミに嫁いだと言っておりますが間違いです。 正しくは沼河耳でした。 ご訂正をありがとうございます。 【玉依姫について】の向日葵さまから頂戴しました内容は、動画を撮った後に拝見し、またもや驚きながらなんとも言えない愉しさを味わっております(^^) それです、まさにその通りなのではないかと感じていまして。 nihontaroさまの、宗像三女神の時代巾の問題や、五十鈴依姫のお話等含めて、ざっとこの2000年間に巡る歴史的動向の背景部分の深い深いところにあるものはもしかしたら、やはり縄文なのではないか。 本当はもっと前からですが。 どうも各氏族ごとの興亡物語りの一番根底にある核が、縄文母系最強女神たちによる、循環を円滑にさせるための潤滑代理戦のように見えて来たりしていま...
(第343話)【宇佐家伝承⑫300年世襲された水利管理者の祖が豊玉だった!】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 40128 วันที่ผ่านมา
前回も楽しいコメントをありがとうございます😊 そこからどんどんお話が進んで行きそうになりますが、今は引き続き宇佐家伝承続きと参ります。 宇佐公康氏の推考によれば4c〜5c初頭に宇佐家の系図で豊玉という人物がいます。 この方が当時の豊前平野の灌漑用水、そして水利管理を一手に担った大地主としての宇佐公池守の最初なのだろうと書かれているところに目が留まりました。 宇佐にとってはかけがえの無い御名前である豊玉。 かの豊玉姫のそれをそのまま冠した方は時代から見てもウジノワキノイラツコの大事件の後、讃岐や故郷の国東に戻った一族の中でも抜きん出た方だったかも知れないなと、公康氏の書かれる宇佐押人の三代め、すなわち応神天皇の曾孫にあたるとの記述から感じました。 それにしましてもやはり興味深いのは。 いただきましたコメントにありましたように宇佐と中津平野には最も貴船神社が集中しているとの意味合いです。...
(第342話)【宇佐家伝承⑪常世織姫の墳墓に建つ貴船神社の謎!】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 599หลายเดือนก่อน
古伝が語る古代史の続きです。 宇佐家において、最重要人物である応神天皇(宇佐押人) の母君は神功皇后ではなく、伊予越智宿禰の女常世織姫であり、織姫という称号も物部氏族あるいは天孫神武氏族の高貴な姫を呼ぶ時の尊称なのである、と書かれます。 ところが、宇佐家伝承ではこの姫の墳墓が貴船神社の社地であると。 古くから宇佐家が社司を務め、貴船さまと呼ばれ祈年祭、新嘗祭、神幸祭を斎行していた。 京都の貴船神社からいつの頃にか宇佐市橋津字上築(あげつき)に勧請された貴船神であると考えられるとのこと。 そこでふと思うことです。 貴船の元々は、伝説では玉依姫が水神を祀り祭祀されたのが始まりである。 玉依姫と、常世織姫 玉依姫と、豊玉姫 実在した磯城家の祖である三島ミゾクイミミの姫としての玉依姫。 実在した宇佐豊国の姫としての豊玉姫の属性を最初から持つ伊予物部の常世織姫。 この場所において、古い縄文の二...
(第341話)【天津神の奥にいる国津神の威力がわかる場所!】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 324หลายเดือนก่อน
※動画中、国城神社、国城山をクニシロと言っていますが間違いです。 正しくはクニギ神社、クニギ山と呼ぶそうです。 和歌山県橋本市からです。 紀ノ川流域は奈良とは近く、日常の生活圏内でもありましてよく来ています。 いつも下から見上げていた印象的な山にある木の佇まいとその場所を訪ねて登ってみました(^^) ここは国城山の国城神社。 登ってみるまで神社があることさえ知らず、予備知識ゼロのままの動画ですが、 面白い‼️ 個人的にとても好みな神祀り♪♪♪ ご祭神は五社大明神 天照皇大神 三宝大荒神 八幡大明神 春日大明神 愛宕大明神 後世の人々が、絢爛豪華な大明神という称号のご祭神を歓ばれた情景が浮かびながらも。 その昔神代の時代、この場所に大樹の姿として顕れ、祀られた「国主の神」 これこそ正史の神話等等で書かれる国津神であり、ヤマツミであり、以前の動画で話していました縄文と融合合体した「クズ神...
(第340話)【宇佐家伝承⑩常世思想と常世織姫、そして豊家の墓(ホケノ山古墳)】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 1.4Kหลายเดือนก่อน
またもや前段話が長くなり、宇佐の伝承がなかなか進みません💧笑。 書いてくださってますコメントが面白すぎて! ありがとうございます♪ 先日、天理大学附属天理参考館にての企画展 布留遺跡の歴史  -物部氏より前から後まで- を見てきました。 古代には湖だった奈良盆地では、古い遺跡等はほとんどが東の大和高原の中にあり、盆地内とされる布留遺跡の旧石器(遺物のみ)、 縄文早期から遺構を伴う各時代の痕跡の様相には他とは異なる大和においての特殊性がある場所なのではないか、? と、注目して見ています。 しかも場所は宇佐伝承でも再三出てきます東遷した物部にとっての大和においての聖地である石上神宮が見降ろす場所です。 一帯は最後の磯城王朝家太田から和邇にかけて連なり、大和にては最古級の祭祀遺跡と言ってもいい「布留」です。 そこには縄文中後期の立石、石棒、翡翠大珠等。 縄文系ワニと縄文系ウサはおそらくここ...
(第339話)【宇佐家伝承⑨宇佐神宮上宮はニ之御殿だけが正道である!】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 640หลายเดือนก่อน
宇佐家伝承 古伝が語る古代史 続きです。 八世紀初頭に造営された一之御殿、祭神は応神天皇。 しかし古伝では大神比義の心眼に現れた竹葉に乗った童子は例により武内宿禰と神功皇后との不義密通により生まれ早世した誉田天皇ではなく、真の応神天皇は神武天皇と宇佐都媛との間に生まれた宇佐都臣が越智宿禰の女常世織姫との間に生まれた宇佐押人命のことである。 そしてニ之御殿は比売大神。 このニ之御殿だけが正道な祭祀が行われていると公康氏は記します。 古来からの宇佐の母系祖神を御許山から勧請したニ之御殿の地下には宇佐稚屋(宇佐都臣)の墳墓の石棺蓋が御量石と呼ばれ、「ニ之御殿の位置をうごかすことは絶対にまかりならぬ」 との口伝が伝わるとのこと。 ですが出雲の伝承本によれば、二之御殿 には安芸国で亡くなった豊玉姫を後に葬り祀っているとあったと思います。 となれば、地下の御量石とは豊玉姫その人の眠る石棺の蓋だと...
(第338話)【宇佐家伝承⑧宇佐神宮鎮座地について と、長い前置きの巻】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 8392 หลายเดือนก่อน
続きです。 ではありますが、前置きがほとんどの回となりました。 皆さまからいただきます反応のあれこれがとても楽しく興味深く、 いつもご視聴下さいましてありがとうございます😊 336話でのコメント欄は、この動画を撮りました後に拝見いたしました。 過去動画コメントについてはいつもお知らせいただきありがとうございます♪ 様々な観方は、歴史のみならず日常の中で起きる小さな出来事にまで同じことが言えると思います。 それについての長い前置きと。 私は宇佐家伝承を読むまで知らなかった宇佐神宮鎮座地亀山が、宇佐都臣の墳墓であったとのところ、 古伝が語る古代史の続きです。 皆さまいつもご視聴下さいましてありがとうございます(^^) アトリエELCAFLORA 橿原市白橿町1-28-11 TEL FAX 0744-27-3585 09027050358 ・ELCAFLORAファッション展示販売 ・オーダ...
(第337話)【宇佐家伝承⑦神武天皇とは誰なのか!】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 8572 หลายเดือนก่อน
⭐️ELCAFLORAからのお願い⭐️ アトリエにお越しの際には必ず事前にご連絡をいただきます様よろしくお願い申し上げます。 アトリエELCAFLORA 橿原市白橿町1-28-11 TEL FAX 0744-27-3585 携帯  09027050358 SNSからのご予約も承っております⭐️ お待ちしておりますね😊 ゆったりですが、宇佐家伝承の続きです。 宇佐家の当主が強く非難する武内宿禰と神功皇后、前回までの話でありました。 特に武内宿禰に対する憎しみともとれる程の強い非難の言葉の裏にあるであろう日向(葛城)襲津彦への恨みが、公康氏そして宇佐家伝承の内には渦巻いていたのだろうと私が確信したのは、昭和のこの時代において著名な歴史学の大家方が唱えた武内宿禰架空の人物説を否定されている文面を見てからでした。 なぜなら宇佐家当主であれば知っていた、と考える方が自然だと思うからです。 やは...
(第336話)【宇佐家伝承⑥武内宿禰は悪逆無道である‼️】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 1.2K2 หลายเดือนก่อน
宇佐家伝承 古伝が語る古代史には、かなり激しめな言葉が続きます。 今回は抜粋しながら読ませていただく箇所が多いのは、宇佐公康氏の時代、照らすものは記紀であり、真相を語ることなく真実を明らかにする為に苦肉の策で伝えられたであろう宇佐の古伝に心打たれるところがあるからです。 以前のコメントにもありましたが、 二度の物部東遷を一つにとして正史が書かれた為神武天皇と言える方が誰だかわからない事態となり、景行天皇の弟とする以外なかったり、豊城入彦一族が下毛野上毛野に居住した理由を、統治に行かせたことになっていたり。 ※動画中、継体天皇が神武天皇の兄となっていたり、、と言い間違っています。 正しくは景行天皇が神武天皇の兄になっていたり、、です。 宇佐公康氏の時代に、出雲の伝承が表に出ていたらどうだったろうか、、と、何度も思います。 まぎれもない皇統である宇佐であるのに、これほどややこしく、激しめ...
(第335話)【菟田という場所とお能と阿紀神社】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記
มุมมอง 4392 หลายเดือนก่อน
宇佐家伝承を今中休みしております。 前回訪れた宇陀市阿紀神社でのお能と、阿紀神社能舞台、そして菟田松山城(秋山城)にまつわる個人的なお話です(^^) 初めて観た幽玄なお能の世界。 なんだろ、、これは。 そう感じたことをなんともタイムリーに別チャンネルさま(トゥーランド さん)で解説して下さったのには驚きました! あの、虚を見据える視線は明後日を観る。 その先から自分を観る。 まさに! 鏡板の松を背に、まるで天中から吊り下げられ、自分の軸を地に繋ぎ降ろす。 まさに!  でした。 三山 みつやま というお能を観せていただきました。 大和三山のあの三つ山の、天智天皇の歌で知られる香久山、耳成、畝傍の妻争いの話です。 観ているうちに、これも何やら別のストーリーを三山で表している暗喩なのか。。 お能の深さにハマりそうです♪ アトリエELCAFLORA 橿原市白橿町1-28-11 TEL FAX...
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ความคิดเห็น

  • @yoshi-min6875
    @yoshi-min6875 18 ชั่วโมงที่ผ่านมา

    玉置神社ご紹介で出光マークのお話ですね。 間違ってるかも知れませんが、個人的には繋がりました。 出光マークの女神は赤い玉のようですね。 そこに白い3本ライン。 三女神でもあり、白三(はくさん)です。 赤と白でしたら「ウサ」でもあります。 ククリ・・九九離 9+9=18⇔9×9=81 循環システムです。 足し算は「地球」掛け算は「宇宙」とみています。 縄文から弥生への変わり目なのかな?と。 ここから下は消しますね 玉置山山頂は別名「沖見嶽」 数年前、7月に登ったのですが、渇水で手水舎が使えずそのまま何もせず登りました。 頂上は長居できないぐらいの熱気でした。 地中の水蒸気がこの頂上から噴き出してるのかな?と。 その帰り道、「うわ~ここ通るの?」と思うぐらいのトンネルがあり、 出る時「コツン」と音がしたんですね。 特段気にはしなかったのですが、翌日からフロントガラスに蜘蛛の巣上の亀裂が入っていきました。 どうやら飛び石がフロントガラスに当たっていたようです。 新車10か月です。フロントガラス張替です😭 手を清めず登ったからだーー!!とずっと自責の念に駆られていたのですが(ちっちゃいですね) (つい先日、夫の友人から電話があり、「玉置さんは怖くて行けない・・・」って言ったばかりなんですね。) ようやく別の意味が分かりました。 自分勝手に玉置さんを誤解していたんですね。それが解けたのでありがとうございます😊 「修験」なんです。役行者の時代より古いというワードで氷塊しました😊 また整理できたら書かせていただきますね。 8/1は倭姫世記の書き写しを始めました(愛知デジタル図書館の原文) ちょうど、真名鶴の話を前回書いたのですが、その次に来る話が仏教の話なんです。 そこに「優婆塞」が出てきます。優婆塞とは役小角。 「しらひとこくみ」もそこに出てきます。 まだ出てくる名前だけを拾っている状態なので内容まではわかりませんが・・・ 倭姫世記は宗教の流れが書いてあるようです。 御杖代の倭姫に真名鶴・・・杖「モーセ」に飛んでる「マナ」 そこに登場する「伊佐波登美命」・・・138・13(イザヤ・トミ) まだ大雑把ですが。 世界宗教観に詳しい人なら何かわかるかも知れませんね。 8/10は古座の一枚岩の目の前で川遊びをしていました 綺麗な日輪が出ていましたよ😊

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 7 นาทีที่ผ่านมา

      YOSHI MIN さま わたしの観ていた最終地点はそこです。 そこへ行くまでが 山あり谷ありで、 逸話が多すぎて、 まだまだ途中で ウロウロしています。 同じものに 向かっていると思います。❣️

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 วันที่ผ่านมา

    今更ですが、モーゼの兄アロンがもっていた杖はアーモンドの木の枝で、一番近いのが桜の木の様です。  旧約聖書民数記16:1-49;17:1-11;26:10。 ユダヤ三種神器アロンの杖、十戒、マナの壺がアークに収められて日本に来たとか何とか。 日本では、草薙の剣、村雲さんですね。

  • @user-en8jx8sw3y
    @user-en8jx8sw3y 4 วันที่ผ่านมา

    びっくり(゚o゚)/宇佐八幡のルーツが、京都の岩清水!伏見稲荷😮

  • @yoshi-min6875
    @yoshi-min6875 4 วันที่ผ่านมา

    第三御殿神宝盗難事件・三河守・源頼政で、疑問が一つ解けました。 ただ、歴史の事実はわからないが根本にあります。 あくまで推測で経過をたどっているということでお願いします😌 向日葵さんとの続きですが、 竹葉瀬と入れ替わったホムタワケ(おそらく【イザサワケ大神】【御食津大神】) 倭姫世記に出てくる【伊佐波登美命①】鎮座地が「伊雑宮」近く。 伊雑宮をウィキると「神宝強奪事件②」があります。 各地でやっていたのかもしれません。 中世以降は「伊佐波登美命と玉柱命」2柱を祀るとあります。 ここには稲をくわえた真名鶴伝承があります。 【御食③】です。 三河湾にある「八百富神社」 三河守④となった藤原俊成が、 安徳天皇⑤の養和元年3月18日(1181)の創建 八百富神社HP所蔵宝物の絵馬に「琴」が手渡されています (神功皇后・天皇・琴)←欲しかったのは琴だったのでしょうか 「琴」は二人の「王」を意味します。事代主も匂います。 竹富島に祭られている祭神 宇迦之御魂神・大国主神・豊玉彦命 千歳神社 / 藤原俊成卿 【伊佐波登美命①】が出てくる箇所は「千田・千穂・千税」千のオンパレードです。 「田」は稲で「歳神」を含んでいる場合があります。 【天都告刀に「千税八百税余り」と称へ白して仕奉る】←八百・税とは米です。 安徳天皇・神功皇后・垂仁時代(豊玉彦)・大国主・・・ずっとつづいているようです。 **** 十三代「成務大王」の代に、 「天日別命」の末裔の「度会氏」は、 各「御食国」で祭祀されていた 「元豊受神社」を 「伊勢外宮」に集結し 一括祭祀される様にして、 外宮の祭祀官に任じられた。 **** 成務天皇時代に大規模な神祭りを行うよう整えていたようですね。 そして神功皇后の時代になりますね。 ①~⑤が今回のお話での合致点でした。 私は三河湾は別の視点から重要箇所だとみていました。 が、何分、私の世界観なので通じない🥲 上記の記述が出てきたのでやはり合っていたんだと確認できました。 それは「サコクシロ五十鈴宮」です。 以前、一つの解釈とだけ書いた記憶があります。 分けますね。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 3 วันที่ผ่านมา

      ホツマツタエで出てくる「サコクシロ」 池田満氏著ホツマ辞典では 大宇宙の源・創世の祖アメミオヤ・宮中の賢所・ウヂのミヤをも指すようだが 難解であり後考を待つ。だそうです。 私が考える「サコクシロ」は単なる物差しということでお願いします。 ①サコクシロ→35946→35・9・46→み・け・わ(ワの御食)  中央の9を6にひっくり返します  「み・か・わ」・・・三河 (後程出します) ②サ・・・古代は神を表現していました。11番目のかなです。2柱を意味します。  コク・・黒  シロ・・白  黒(6)白(9)の二柱になります。 ③大黒・柏・・ちょっと難しいのですが  元は「大黒・大白」 だ(61)い(5)こ(7)く(8)=81 光・国体番号 だ(61)い(5)は(26)く(8)=100 百の鏡ですね。 一字だけ相違しています は(26)こ(7)=33 ①に戻って頂いて、 「9」は奇数の白で「御食」・・米 「6」は偶数の黒で「柱」・・大黒柱(人柱) この大黒柱を「大白」に刺します・・・・柏になります。 か(6)し(15)わ(46)ら(41)=108 81の光を百の鏡で反射しているイメージです「1鏡8」 1(あ)0(ー)8(く) 3つ以上意味が重なるのは個人的に正解としています。 続きます。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 3 วันที่ผ่านมา

      グーグルマップ写真版で伊勢湾を見ると 向かい合う男性(?)が見えます(これが見えないと理解できないと思います) 伊勢の方を「イセヒコ」愛知の方を「アイチタロー」とします。 私にはがっつり伊勢湾を守っている。としか見えません。 特に、アイチタローの鼻(長すぎ)。 これはカニの爪にもなります。 ここの中の「三河湾」を注目して数年。 何を守っているんだろう?と。 今回の動画のお話でやっと繋がりました。 ミケワが「9」の御食 ミカワが「6」の柱になります。 柱は「三河」にあり。 竹富島の橋を陸に向かって進むと「御鍬(おくわ)神社」があります。 ここの主祭神が「伊雑大神」です。 「御鍬さまの信仰で神宮の御田植初め神事より出たもので、その時に使う忌鍬を諸国に祀り、農の豊穣を祈った」 「鍬」・・・柱 この横に「金毘羅さん」が祀られています。 金・・・き(10)ん(1)=11 平・・・八十一=81(大黒) 竹富島から目につく「子安大師像」(以前どこかで書いています) 小高い山の上にあるので目立ちます。 「金剛寺」です(金剛山を匂わせていますね) ここには生目大明神も祀られています。 少し離れた場所に「八劔神社」があり、熱田神宮から勧請されています。 「寛治3年(西暦1089年)の創建と伝えられ、 一時期は荒廃していたものを建久元年(西暦1190年) 源頼朝の命を受け安達藤九郎盛長は奉行となりて社殿の造営に任した」 何らかの形で劔の儀式もされていたようですね。 八百富神社の主祭神「竹富弁財天(市杵島姫命)」は 江州竹生島弁財天から勧請 竹生島弁財天は「芸州厳島大明神也」とあります。 伊勢の真名鶴伝承は敦賀気比から鶴丘八幡へと移っていったようですね。 nihontaro9さんが「鶴丘八幡宮」を出してこられたので素晴らしい嗅覚だと思っていました。 ざっと書き出したので粗削りです。 掘ればザクザクでてきます。 平は81 第81代安徳天皇 き(10)み(35)な(21)か(6)=72(カタカムナの穴) 面白い勉強となりました。 改めて、本を紹介してくださって有難うございました😄 イセヒコの鼻ぺちゃなのは・・・IRUKAでしょうね(太陽信仰)

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 3 วันที่ผ่านมา

      ​@@yoshi-min6875さま 三河国を出していただき、 ありがとうございます♪ 前回動画のコメントの 天日別命に追い出されて、 風となった 【伊勢津彦(級長津彦)】は どういうことだったのか… と言うお話に 関わっています。 級長津彦は 伊勢湾を渡り、 渥美半島を抜け、 豊川を遡ってゆくと、 天龍川に合流し、 そこから諏訪湖へ入ります。 伊勢と諏訪は このルートでつながっており、 三河国を横断しているのです。 これは サヌカイトや黒曜石の ルートでもあり、 縄文時代から 人の往来があったと思われます。 伊豆速布留神が タケミナカタの子になってゆく ルートです。 伊勢と諏訪とは ずっとつながりが あったということですね。 渥美半島は 語源が【安曇】であり、 信州を拠点とする海人族の 一つの交易ルートでも あったようですね。 ここからは 後で消します。 母はこの奥三河の山間部で育ち、 渥美半島へ嫁ぎました。 奥三河は加茂郡で、 徳川家と同じく、 賀茂氏の領地でありましたが、 安藤なので、 大彦族でもあります。 三河安藤氏については、 『続群書類従』第七輯上 「安藤系図」では 津軽の安藤氏の嫡流であるように 記載している。 徳川家に仕え、 子孫は紀州徳川家の付家老家 (維新立藩で田辺藩主)、 磐城平藩主などとなった。 分家に旗本阿久和安藤家がある。 と、ありますので、 遡れば、 津軽まで行くようです。 十三湊ですね。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 2 วันที่ผ่านมา

      ​@@yoshi-min6875さま うちの祖父も 胃癌だったと思います。 徳助と言う名です。 その後を追うように、 叔母も胃癌で亡くなりました。 仲子と言いました。 台風、国東半島を 通りましたね。 最近の台風は マウスで画面誘導しているような おかしな動きをしていますね。 SHAN SHAN とは 🐼の名前みたいです。 うちの三匹いる犬のうち、 一匹がパンダ🐼と言う名です。 鵜鷺犬🐼です。 娘は今日、 チャイナ サウザン エアライン で、 【広州白雲空港】経由で オーストラリアへ発ちました。 一ヶ月ほど旅行して、 その後、日本へ寄って 帰る予定です。 昨日、東京のホテルを 予約したのですが、 上野のカプセルホテルを とりました。 和風のおしゃれな感じで、 外国人受けするところです。 カプセルホテルなんて、 サラリーマンの休息のために できたところだったのに、 随分かわったなと思いました。 流石にベッドは狭いですが、 昔、夜行列車でとった クシェットも、 これくらい狭かったな と思い出します。 写真を見ると、 コインランドリーのようにも、 宇宙船のようにも見え、 サナギの中で眠るようです。 こんな体験も なかなかできないので、 若いうちならいいでしょう。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま ね。周りを見れば出てるでしょ😊 娘さんの行程面白いですね。 エアライン・・鶴岡八幡宮のHPに鶴丸紋がドン!と出ています。 鶴マークはJAL に対してのANA(穴です) 改めて不忍池を見てみると、月ですね(以前言いましたっけ?もう覚えてませんが) そこに祀られているのは「八臂弁財天」と「大黒天」 (個人的に、なんで弁天さまに武器を持たせるのか☹と残念な気になっていました) 江ノ島にある「八臂弁財天」は 「源頼朝が鎌倉に幕府を開くとき、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため」に作られたとあります。 頼朝→→家康へと流れていますね。 「家康は数え6歳で今川氏への人質として、駿府への護送。 その途中の「田原」城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、 尾張国の織田信秀へ送られた。」 面白いですよね。一人二役を背負っていますね(陰陽) 「竹千代」ですしね。「竹」が二人を意味します。 「ケケ」・・「ケ」は「九」番目のカナ。 5歳と7歳の間の「6歳」・・・6は「か」でもあります。 やはり家康さんが終止符を打つ役目だったのでしょうね。 「田原」で行き先が変わったというのも面白いです。 「か」と「た」も交換なんですよ~~。 ずっと前に向日葵さんがみつけてくれた「か」→「た」 これこそ暗号でした(それはまた後日で) 日光東照宮奥の宮にある鶴と亀 鶴は口ばしと足を縛られています。 もう、飛ばないように、言わないようにでしょうか🤭 鶴は千年・・・・柱・栓 亀は万年・・・・百の合わせ鏡 2023大河ドラマ「どうする家康」 最終回だけ見ました。最後に何をうったえるのか気になって・・。 最後は「ウサギ」でした🤗

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 5 วันที่ผ่านมา

    【円通寺】は 確かに宇佐神宮の鳥居から 参道をまっすぐ北へ 行ったところに建てられていますね。 鎌倉時代初期1243年に 神子栄尊(じんしえいそん)という 僧が開山し、 宇佐宮の大宮司であった 【宇佐公仲】により創建された… とあります。 宇佐家の系図を見ますと、 公仲は公房の跡を継いで、 大宮司家が続いていますね。 大切に護られて来たことが 感じられます。 元々、日本の玄関口であった 九州北部は、 いにしえから多くの渡来人が上陸し、 大陸へ渡る遣唐使船なども ここで航海の安全を祈願してから 出港していたことからも、 この一帯(宗像も含め)が 常に海の向こうとつながっており、 宋貿易に重きを置いた平家が 重要視したのも 当然であったと分かります。 縄文時代から 繁栄していたウサ族の 婿になることで、 九州での足がかりをつかんだ 徐福ニギハヤヒ勢力は、 菟狭津媛に婿入りした 神武天皇を彷彿させます。 火明系の母体が 【三島の玉依姫・タタラ五十鈴姫】 であれば、 ニギハヤヒ系の母体は、 【宇佐の市杵島姫・豊玉姫】で あったわけです。 菟狭津媛の逸話も いくつもの時代が重なり、 レイアーがかかっていますね。 【菟狭津媛】という 全てを含む名にしたことは 大きな意味があります。 出光興産創業者 【出光佐三】の遠祖も、 宇佐神宮の大宮司を 勤めた家柄のようです。 宇佐神宮大宮司【出光公和】は 宇佐朝臣公通から数えて17代目。 【海賊と呼ばれた男】として、 【日章丸】をイランへ送り、 多くの困難の中、 イランとの石油貿易を やり遂げたことは 宋貿易に関わった宇佐家や、 遠くメソポタミアまで 行って帰って来た 日本人の先祖となった人たちの 大航海が蘇ります。 出光佐三自体は 宗像三女神を 深く崇拝していたようですが、 元々、宇佐の姫たちであれば、 同じことですね。 平家も 高野新笠の先祖は 海を渡ってやって来たわけで、 常に海との関わりを 持っていた人たちで あったであろうと思います。

  • @user-ze6gh3iy7z
    @user-ze6gh3iy7z 5 วันที่ผ่านมา

    宇佐の伝承の本はAmazonで2冊出てるんですが、片方が3万円もう片方が2万円 …俺にはポチッとボタンを押せませんでした〜 😢

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 5 วันที่ผ่านมา

      健次さま 皆さん 図書館で借りられています。

    • @user-ze6gh3iy7z
      @user-ze6gh3iy7z 5 วันที่ผ่านมา

      ​@@Himawari-f4l  あぁ~図書館ですか〰😂 何か小学校以来久しぶりに聞きました😂 なるほどです〰有り難うございます〜

  • @koicya59
    @koicya59 5 วันที่ผ่านมา

    安徳天皇は生きてた!すごい事ですね。おどろき! 死なせる訳にはいかなかったんでしょうね。 宇佐は宋貿易してたんですか。 私は前から宇佐神宮の建築資金はどこから出てるのか?疑問でした。 そうですかあ…宇佐には貿易があったんですね。 大昔から海の民族だったんですね。 宇佐家はどこから渡ってきたのでしょうか? 豊国とはどこから来たのか興味があります。 なぜなら豊国の方言は荒っぽいからです。 博多や熊本とは言葉が違うから興味があります、 知ってる方も多いのでしょうが、もしわかったらまた動画にしてください 8:58 それから、緒方コレキヨ?は緒方町では偉人あつかいですよ。 また大神という地名駅もあります 興味津々な動画でした。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 5 วันที่ผ่านมา

      7410wmさま こんにちは。 はじめまして。 九州の方でしょうか?! 最近、九州系の方のコメントが増えて 嬉しいです。 現地のこと 肌感覚、 色々教えてくださいね。 よろしくお願いいたします。

  • @yoshi-min6875
    @yoshi-min6875 6 วันที่ผ่านมา

    前半はシリアスで後半は柏原・三輪山伝説笑っちゃいました(大変面白かったです) さら~~と上っ面だけ書いておきます。 ご神託で我が子を差し出す。 神功皇后もそうだったのかも知れませんね。 祇園祭・御柱祭・モーセーの流れと似ていますね。 「通りゃんせ」の意味がコレだったのかも・・ 七五三・・・男の子は3歳・5歳(7歳がキーです)       女の子は3歳・7歳(5歳がキーです・五十鈴姫) 壇ノ浦⇔ダンノダイラ(平) ダ(61)ン(10)=71 ウラなので「17」 外宮に豊受大神を祀ったのが 雄略天皇22年7月7日←もう、暗号ですね。 うまく説明できませんが、宇佐と伊勢が繋がっていたということです。 本を貸してくださった方、ありがとうございます。 ご紹介してくださったMitsukoさん、ありがとうございます。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 6 วันที่ผ่านมา

      YOSHI MIN さま 【一柱の人柱】になったのですね。 神さまになった ということでしょう。 幼いほど、 その効力があるのかも 知れません。 純粋なままの心 親の痛み 宇佐と伊勢はつながっていますね。 宇佐神宮ー気比神宮ー伊勢神宮 応神天皇は 気比で名を交換しますが、 この【イザサワケ大神】が 神功皇后の御子であると思います。 【御食津大神】です。 神さまのお食事になられた ということです。 それが 【鼻の傷ついた入鹿魚(いるか)】 です。 海の鹿→供え物ですね。 神功皇后の御子が どのように亡くなったのか 気になります。 気比⇋多気 【豊受大神⇋御食津大神】

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 6 วันที่ผ่านมา

      YOSHI MIN さま ダンの平 ダンの裏 【磯城王朝の滅亡】    →三輪山から伊勢へ 【平家の滅亡】    →厳島から八幡神へ その本質であるご祭神が 姿を変えてゆく様子が 伺えます。 元々、同じなんですが 時代の変遷とともに 新たな要素を含み リニューアルです。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 6 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま 今ちょうど、倭姫世記の原文と現代文・伊勢125社付け合わせで 五十鈴宮設営後の巡幸の箇所にきています。 そこでkazuさんがタイミングよく真名鶴伝承を書いて下さいました(346話) ここ、おかしいのです。 伊勢125社では、伊雑宮管轄の佐美長神社( 三重県志摩市磯部町恵利原)に真名鶴伝承があるようです。 倭姫世記には佐美長神社は出てきません。 代わりに出てくるのが 「伊佐波登美神(伊佐波登美神宮)」(伊佐波登美命鎮座地・三重県志摩市磯部町上之郷324) それともう一つ 「八握穂社旧跡」( 三重県多気郡明和町山大淀)←ここだけ場所が離れています。 まだ深く追求していませんがどうやら「3つ」重なっているようです。 真名鶴=稲穂=大年=御食津・・・・敦賀(「つる」がと言いたい?) 倭姫世記には 「伊佐波登美神宮造り奉り皇大神為摂宮 伊雑宮此レ也」とあり←匂います 伊佐波登美命鎮座地には勝負神として丸い石が置いてあります。 女神物語 弥生神代の考察ブログさんより 「志摩の祭祀7 伊射波神社ー伊佐波登美尊・玉柱屋姫命ーの謎」 まだちゃんと読んでいませんが 「玉柱」「「二地浦贄」と気になるワードが出ています。 関係があるのでしょうか・・・? 今の所ここまでです(途中経過です) 追伸 気比神宮は曙町です。

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 6 วันที่ผ่านมา

    出雲は負けたふりして裏でいろいろ暗躍してるなあ。源平合戦は伊勢対出雲でもあるのかな

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 7 วันที่ผ่านมา

    宇佐の伝承のお話に源氏側の話で恐縮ですが、おだまきの話で、ググッて出てきたのが静御前の話です。 「しづやしづ賤のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな」 静、静と繰り返し私の名前を呼んでくださった、あの昔に今一度戻りたいものです。苧環おだまきのように。 苧環に巻かれた糸が繰り出されるように、たえず繰り返して思ってくれるすべはもうないのでしょうか。 と、鎌倉鶴岡八幡の舞殿と言われますが、拝殿の渡り廊下で頼朝の前で、静御前が義経を思い、詠ったと伝えられています。歌は知っていましたが、ようやく意味を知ることができました。静御前って、白拍子と言われて、出雲御国を思わせる気がします。シズを3回掛けたり、自らを賤しい身分と言っていたりして、もしかしたら出雲系だったのかも。 苧環というと紫色の花を思われる方もおられるでしょうけど、機織りの際に紡いだ糸は中が空洞の四角い木枠に巻き付けます。この「糸巻き」のことを「苧環おだまき」というそうです。 ある方のブログにて 安徳天皇と宇佐公仲は同年の従兄弟であった。 宇佐神宮では、宇佐公仲と称した安徳天皇が1214年に大宮司となり、以降は子孫が大宮司を務めたと云う。 宇佐神宮は、宇佐神宮の大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義(おおがひぎ)の子孫の大神氏が務めたが、平安時代中頃から菟沙津彦 (うさつひこ) らの子孫である宇佐氏に譲り、宇佐氏一族の宮成氏、到津(いとうづ)氏、岩根氏、安心院(あじむ)氏が大宮司を世襲した。その後、一族で大宮司を争うことになる。 鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。両家が交互に大宮司を継いだ。一時、宇佐氏一族の出光氏も大宮司となったことがある。 宇佐神宮は現代まで到津氏が継承し祭祀を行っていたのですね。 壇ノ浦の前に葦屋浦の戦いがあったことを始めて知りました。あちら立てれば此方が立たずで、キーマンの豊後国の豪族緒方惟栄が舟を持たず陸路のみで兵糧が尽き九州に渡れずに憔悴し切っていた、勝手に縁を感じている源範頼公率いる平家追討軍に兵船82艘の献上により、壇ノ浦での平家滅亡に繋がった様です。皮肉なものですが、何か出雲と宇佐や物部の上になったり下になってたりしながらのウケヒの繰り返しだったのかも知れないと思いました。もう一度機会をみて鶴岡八幡宮の平家池にお参りしてこようと思います。最近では嘘の様に、すっかり見違えるほど明るくなったんですよ。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 7 วันที่ผ่านมา

      nihontaro さま 源氏も平家も 苧環に巻かれていたなんて 面白いですよね。😆 紫のあの花が大好きで、 うちの庭でも 春になると咲き乱れます。 どうしてこの花が 糸巻き▢に観えるのだろう… と不思議でしたが。 だって、 花は五角形ですしね。 ですが、 静御前の凛とした美しさを 感じるお花だとは 思っていました。💟

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 6 วันที่ผ่านมา

      向日葵🌻様、 勝手に静御前が身近に感じられるようになりました。 応神天皇も、継体天皇もいろんな説がありますが、まさに将棋の駒の様に歴史をつないできたのですね。 昨日あたりの茂木先生がゲストのある方の動画で、天皇家の起源について解説されていた様に、何度も絶えたのではないか?と言われていても、絶えた事がなかったことに驚きます。だんだん詳細も明らかになってくるのでしょうね。 宇佐家の口伝面白いです🤣 大河ドラマ化されないかなあ^^

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 6 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l🌻様 確かに、花の形を見ると、糸巻きとは似てはいないですよねw。自分もそう思います(笑) 花の由来は、外形の形が似ているのではないらしく、花弁の内部の構造が中空で空いているので、糸巻きを連想させるから、糸巻きの苧環と呼ばれているらしい。です。 花の名前はすぐわかりやすい物も有りますが、へーって感じの花も多いですねw。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 さま みなさま 「しづ」ありましたーーー!! 「二荒山神社 志津宮」 祭神・大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命 ここに、大真名子・小真名子山があります。 倭姫世記にも「真名胡」という文字が見受けられます。 「あの昔に今一度戻りたい」ってこのお三方の時代なんじゃ・・・ 二荒山とくれば、徳川家康に豊城入彦命です。 ここに鶴岡八幡が絡んでくる。 やはり・・・ 出所は八千矛・アジさんなんです。 でも全然パーツが足りてません😅

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 วันที่ผ่านมา

      @@yoshi-min6875 様、 えー! 志津宮ですか。 本当にあったんですね。 やはり静御前は西出雲系かw? 調べてみたいと思います。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y 7 วันที่ผ่านมา

    東は多分、 栗村山常隆寺。 常隆寺山(伊勢の森) ~伊勢久留麻神社(甘南備は愛宕(阿田(天神)子=サルタ彦大神)山)  (本来は幸神、サルタ彦大神(愛宕神)。同じ幸の神の太陽の女神、大日霎貴尊が今の祭神。 三輪山と言うよりはありし日の 敏達天皇の幸魂宮(大王宮)の西結界。 )

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y 7 วันที่ผ่านมา

    五斗垣内遺跡や少し北のスピ系で有名な 岩上神社の西麓の 舟木遺跡 等、当時国内最大規模と言われる 鉄器(要するに武器かと)工房の稼働時代が 出雲伝承の 第一次物部侵攻~ 第2次物部侵攻、 物部イクメ大王、 垂仁天皇(リアル神武)の全国制覇。 (実は関東以南の西日本だけ。北日本には強力な 【日本国】(大彦の子孫が建国)が有った) した時代と全く同じなのは 偶然とはおもえません? 徐福の渡来~第一次物部侵攻(結果的には失敗に帰した) ~第2次物部侵攻、 物部イクメ大王(垂仁天皇)の全国制覇 が ダイジェスト版として イザナギの国生み神話に、 具体的には ニニギ(徐福)の天孫降臨~神武東征、天皇即位 のメルヘンになったと理解しています。 この際、淡路島が大和攻略の前線基地となっいたのではなかろうか? 国生み神話?の 淡路島~始めて、、、 ↑は第一次物部侵攻を示唆。 神功を終えて、淡路島に帰還、 は、 第2次物部侵攻の結果、 全国制覇を成した物部イクメ大王が どうやら九州から 物部王家の先祖夫妻のご遺体を 物部大王宮の有る 後の石上神宮の真西、淡路島北端の 岩屋(洞窟)に改葬して石屋神社とし、 西の結界とした話かと。 粗末な洞窟に物部王朝の 祖先をいつまでも置くわけにも行かないので 先ずは 石の寝屋古墳に改葬。 更に三代成務天皇は 対岸の明石郡垂水に 物部様式の壮麗な 前方後円墳、 五色塚古墳を築造してそちらに改葬。 五色塚古墳の中心線は 明らかに 対岸の岩屋、三対山を向いて築造されていますから 最終的に 持統天皇が伊勢神宮を今の形に整備したのに併せて 飛鳥宮を中心に 東西同じ距離に淡路島の多賀に 古墳を築造して伊弉諾神社としたのかと 因みに、伊弉諾神宮本殿下には 古墳に有った石棺が収まり、 中には(正体不明な)お二方のご遺体が今も鎮まります。 あと所謂、近畿を結界する 逆五芒星神霊結界のそれぞれの神社には漏れなくイザナギとイザナミが鎮座します (伊弉諾神宮の本殿下のお二方、まさか、徐福(イザナギ)と 市杵島姫(イザナミ)では無いですよね?)

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 7 วันที่ผ่านมา

    なんという…😱 凄い展開をありがとうございます。 緒方惟栄の三輪山伝説は、 大神比義を調べていたとき、 コメントに書いた覚えがあります。 この逸話で、 大神比義が大神神社から 出た人であると 確信したのですが、 緒方惟栄自体が どんな人であったかは、 時代が飛んでいて、 その背景までは つながっていませんでした。 正に、平家から源氏へと 決定打を打ち込み、 世の流れをひっくり返した人ですね。 三輪山伝説の威力 🐍 正に、【柏原】‼️ 安徳天皇が身代わりとなった 公通の子として、 宇佐で生涯を終えたと聞いたとき、 応神天皇が戻っていらっしゃった と思いました。 最後、公康氏も 同じようにまとめていらして、 感慨深いです。 将棋の駒のように、 幼い子どもたちが入れ替えられ、 別人としての生涯を 送ってゆく… 最後は仏門に入り、 平家と宇佐を背負って、 菩提を弔う生活であったのも、 天が与えた役割であったように 感じます。 それにしても、 緒方惟栄の逸話は、 【兎🐰と鰐🐊】の神話は、 また、繰り返されていたのだと、 クスっと笑みがこぼれます。 連続ドラマを観ていたようです。 最後が一番、強烈でした。 長い間、 素敵な時間をありがとうございました。 Oさん 本の提供をありがとうございました。

    • @user-ze6gh3iy7z
      @user-ze6gh3iy7z 5 วันที่ผ่านมา

      もしかして、これが上宮太子から繋がる話なんでしょうか⁇?    思い過ぎるかなぁ〜😂

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 5 วันที่ผ่านมา

      ​@@user-ze6gh3iy7zさま 続いていますね。 もっと前から、 縄文時代から繰り返されていると 思います。 歴史は続いているのですよ。(⁠^⁠^⁠)

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 8 วันที่ผ่านมา

    皆様、最大規模の台風が来ています。とのことで、 現在は雨雲レーダーだと目が消えていますが、大雨にお気をつけください。 宇佐や安徳天皇と直接関係するかどうかアレですが、 関東最大級で、もしかしたら三内丸山遺跡にも匹敵するかもしれないくらい大規模な埼玉県北本市に所在する縄文時代から古墳時代にかけての デーノタメ遺跡が国の史跡への指定が答申されている。ようです。 凄い時代だと思います。 ん、北本って、自分にとっては、 北本市は、遺跡のすぐそばに、安徳天皇の敵方源頼朝さんの弟で源氏軍の大手大将だった源範頼公が配流されたお寺と幼稚園や、 尾張国蒲郡を治めた別名「蒲冠者」から名のついた日本五大桜の一つで天然記念物の石戸蒲桜の近くです。 範頼公の住居跡とされる菊理姫を祀る石戸神社を囲むような雑木林や竹林の日の光と風を集めたような雰囲気が素敵な場所なので、 また行きたくなりました。北本凄いじゃんw。って感じです。😁 【ゆっくり解説 】国内最大級の集落群、デーノタメ遺跡の謎!! th-cam.com/video/xuo4kMYXKs8/w-d-xo.html

    • @kazu-358
      @kazu-358 8 วันที่ผ่านมา

      Nihontaroさま 豆の栽培をしてたのですね。ニワトコって自然にはえてたのか、栽培してたのか。ベリージャムやベリー酒も作ってたって。枝豆で一杯やってたんでしょうか。 今年の暑さで、西洋ニワトコの葉が焼けて心配でした。今は台風🌀☔️が心配💦Nihontaroさんもお気をつけ下さいね

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 7 วันที่ผ่านมา

      ハイ kA z uさん、ありがとうございます。 大豆は品種改良までしてたようですね。稲は出ていない様なので、余計な事ですが中鴨神社の宮司さんや結び大学の小名木先生が動画で言われていた九州から稲作が伝わるのに長く時間が掛かったので東日本は稲作を最初拒んでいたのではないかという説は有りそうです。大祓祝詞に書かれている様に元々日本の西と東では、大倭国と日高見国の全く別々の国だった様なので、特に東の方は当時縄文海進の寒冷化前の温暖で別に稲作米がなくてもほかに食べる事には不自由しなかったのでそんなに困らなかったのかも。 そうすると稲作って不思議ですね。古事記では高皇産霊の命を受けた天照大神の勅で稲作をする為に日本に天孫邇邇芸さんが降りたのが、稲作に適さない九州の日向か高千穂だったから、その子孫が神武東征をしたとなっている様ですが、それは実際に正しかった様ですけど、ではそもそも稲作を伝えに来たはずなのに、何でわざわざ稲作に適さない九州に?日本米種の稲作は地質以外に、今でも米処が寒暖の差が激しい雪国新潟や東北なのからも分かる様に暑い気候は元々適さないのです。 出雲伝承では高皇産霊の高木神はタクハタチヂヒメなので記紀の天孫降臨の邇邇芸さんとは、高木神の子徐福の子で、天香具山五十猛さんの事だったのでは?(^^) いつか近いうちにデーノタメ遺跡見に行ってみたいです♪

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 6 วันที่ผ่านมา

      追伸です。 豆の話で、稲ではなくてどうして豆だったのか、と思いましたが、どうやら稲も豆も相反せずに、土を豊かにするために豆の菌が重要で、土が豊かな例えば熊本菊池川あたりでは、稲作の採れ高も多かった。とこが納得できました。 山口智子の風穴⁉︎ 自然農法で生まれる産土(うぶすな)の酒 熊本編13 m.th-cam.com/video/-3fncP-yEFY/w-d-xo.html

    • @kazu-358
      @kazu-358 6 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 さま ご紹介ありがとうございます。拝見しました。肥料が香りや味になる、言われてみればその通りですよね。 納豆菌の農業利用もTH-camrさんが紹介されてますね。病気を治すまでは無理なようですが、予防と同時に元気に育つとか。家庭でも作れますが、製品も売られてます。大昔の知恵が、現代に甦ったんですね。 ハーブオイル由来の虫除けで、ペットや子供にも安全な庭作りとか、豊かさの基準が変わってきた感じです

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 9 วันที่ผ่านมา

    山蔭表さんも沖縄の安徳帝の外に出せない話で動画UPされていましたね。開示する時代なんだと思います。凄いシンクロ!

  • @kazu-358
    @kazu-358 9 วันที่ผ่านมา

    トキジク日記の前話の鬼👹関連、続けてるのですが隠れてしまいます。六甲の神呪寺などコメントしてます。ご興味あれば、新しい順で。

    • @kazu-358
      @kazu-358 8 วันที่ผ่านมา

      潮満珠と潮干珠と真名井御前と空海さんのお話、前に出てたような…精神的な繋がりだったんじゃないか云々…重複してしまってたらごめんなさい。

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 10 วันที่ผ่านมา

    直接、宇佐とは 関係ないのですが、 YOSHI MIN さまから いただいているお題の 《伊勢》について、 この方から入ってみます。 【伊勢津彦】とは… 一世紀頃、 「吉野丹生族」の一枝 「丹生多久豆命」が 新しい丹生鉱脈を求めて 「中央構造線断層帯」に沿って東進し、 紀伊半島東部(現・多気郡)を 縦貫する「多気断層帯」域に入植し、 丹生採鉱、精錬を生業とする 「伊勢丹生族」として土着した。 一方、「紀の大伴氏族」の祖 「建甕槌命」の子孫で 「太田命」が統率する「太田部」や 「大御気主命」が統率する 製塩開拓を生業とする 「伊勢磯部」や「伊勢鴨部」が 「紀の国」に土着した。 [登美(賀茂)家のことですね。] 「太田部」は「伊勢丹生族」と共に 「丹生」採掘や精錬を行った。 「伊勢磯部」や「伊勢鴨部」は 「製塩」や「海産物漁」や 交易を行った。  九代「開化大王」の代に、 「太田命」の三代孫の 「彦久良為命」が 紀伊半島東部(現・三重県)の 開拓を始め、 伊勢の先住弥生人 「伊勢丹生族」や「伊勢磯部」や 「伊勢鴨部」を支配下に治め、 櫛田川流域以南の伊勢の地を 開拓領有し、 伊勢の地を支配する 【伊勢津彦命】として土着した。 「朝廷」は「御食国」拡大の為に 「伊勢国」多気郡相可(おうが)に 「中臣氏」族の 「相鹿津臣命」 (おうがつとみのみこと)を派遣した。 「相鹿津臣命」は 「伊勢津彦命」の娘「弥豆佐久良姫」 (みずさくらひめ)を娶り、 「伊勢津彦命」を支配下に治め、 「伊勢国」度会の地を 「御食国」として領有すると共に、 伊勢神宮建立用地として 「伊勢津彦命」の所領地宇治山田原を 「大王家」の所領地とした。 「相鹿津臣命」は「天日別命」 (あまのひわけのみこと)の姓と 「伊勢国造」の職を賜り、 「度会氏」の始祖となった。  十代「崇神大王」の代に、 「伊勢神宮」建立が始まるが、 「天日別命」の子「大若子命」 (別名「建興束命」)は 父の経歴を引き継いで 神宮建立を勧請し、 神宮建立を司る大臣職「五大夫」 (①阿部臣の祖「建沼河別命」、 ②和珥氏の祖「彦国押命」、 ③物部氏の祖「十千根命」、 ④大伴氏の祖「建日命」、 ⑤中臣氏の祖「大鹿島命」)の 一員に任じられ、 建設の最高責任者を務めた。 そして神宮建立なって、 落慶祭事の神主を務め、 「神迎え」神事に際して 「幡」を奉って「天照大神」を 「神迎え」したので、 「大幡主命」の称号を賜った。 弟若子命」は 献納宮地の代地として賜った 信濃の地に移住し、 神宮の「御食地」として開拓をした。 さらに「信濃国」をはじめ 北陸諸国を「御食国」として 開拓を進め 「信濃国造」に任じられた。 十三代「成務大王」の代に、 「天日別命」の末裔の「度会氏」は、 各「御食国」で祭祀されていた 「元豊受神社」を 「伊勢外宮」に集結し 一括祭祀される様にして、 外宮の祭祀官に任じられた。 十五代「応神大王」の代には 神宮所領地を磯部地区にも拡大して 「磯部氏」を名乗る様になった。 そして「磯部氏」は 「度会神主」となった。 〜🐦️〜🐦️〜🐦️〜 どなたかのブログです。 伊勢津彦と天日別命の関係が そういうことか〜 とすっきりしましたので、 長いですが上げておきます。 伊勢津彦とは 元々、吉野の縄文系の丹生族に、 磯城王朝の賀茂家が 重なったものですね。 鉱脈からだったのですね。 外宮は 中央構造線上にありますし。 「紀の大伴氏の祖」とありますが、 思いっきり、 クシヒカタの子孫たちですね。 《丹生・製塩・海産物》を 生業として、 【伊勢磯部】(磯城) 【伊勢鴨部】と 名前がそのまま その素性を物語っています。 櫛田川と言われる意味も 納得です。 9代開化天皇の御代、 【太田命の3代孫】ということは、 第二次物部東征時でしょうか。 この地をまとめた 【彦久良為命】が 【伊勢津彦】となり、 新たに入って来た 【相鹿津臣命】は 伊勢津彦命の娘【弥豆佐久良姫】 (みずさくらひめ)を娶って、 伊勢津彦を配下におきます。 「相鹿津臣命」は 【天日別命】 (あまのひわけのみこと)の姓と 伊勢国造の職を賜った… ということですね。 伝承では、 天日別命が 伊勢津彦と戦い 追い出したように 伝えられていますが、 毎度お馴染みのウケヒですね。 そして、この天日別命の子が 【大若子命】で、 《五大夫》と同列に 加えられます。 この五大夫は 実際にその時にいた人たちではなく、 時代がバラバラなので、 日本を作った代表氏族が まとめられていると思います。 ここに大彦族が入れてあるのも 流石ですね。 中臣、更に 大若子(度会)が加えられますが、 忌部がいないことも 意味深ですね。 そして、大若子命は 【大幡主命】と言う名を 賜ります。 この子孫が 度会氏として 外宮でお祀りを続けてゆく一族です。 磯部氏→度会氏 となります。 思い切り磯城王朝系というのが、 わかりますね。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 9 วันที่ผ่านมา

      向日葵さま ありがとうございます🤣 倭姫世紀の背景が伺えます。 前回のコメントの続きですが、 宇治山田神社で御食を奉った時のメンバーが 「出雲神の子出雲建子命、伊勢都彦神、櫛玉命、 並びにその子大歳神、桜大刀命、山神・大山罪命、朝熊水神たち」 【桜大刀命】・・「弥豆佐久良姫」のようですね。 この宇治山田神社が「伊勢津彦」の邸宅だったのですね。 そこに現はれ参上したのが太田命。 高千穂の逆矛は3つの諸刃を束ねて一つになっているようです。 すると、残りの一つは「叢雲の劔?」 サコクシロ宇遅宮にあった「昔授くるサカホコギ」とは・・・・ 伊勢と三輪は同体・・ひっくるめて磯城王朝でしょうか。 「相鹿津臣命」(おうがつとみのみこと)・・中臣ですか。 「大神比義命」(おおがひぎのみこと) 祭祀が得意な中臣っぽいですね。 しかも「大神」→おおみわ 掘れば沢山出てきそうですね。 暗号が沢山🤩 「宇」ウダ? 「摩」薩摩? 「志摩」そのまんまですね(志木?) 「遅」地 早速印刷しました。 ありがとうございます🤗

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 9 วันที่ผ่านมา

      ​​​@@yoshi-min6875さま 面白いでしょう。 すっきりまとまっています。 史実ではありませんが、 (神宮が整備されたり、 豊受さんが迎えられるのは、 もっと後の時代なので) 本質は捉えていると思います。 縄文時代から 【吉野〜宇陀〜多気】 中央構造線に沿って、 丹生族が管轄しており、 同じ一族が抑えていたと思います。 そこへやって来る太田族。 第一次東征時ですね。 太田田根子の父・建飯賀田須命      →伊勢磯部へ… 太田田根子の叔父・阿田賀田須命      →伊勢鴨部へ… その次の世代に 【彦久良為命】が 皆をまとめ、 開拓を広げ、 【伊勢津彦】と呼ばれる。 更に、第二次東征時にやって来る 【相鹿津臣命】 (おうがつとみ) 【津】は『の』という意味なので、 【大神(おうが)の登美】 三輪山が取られてしまって、 脱出して来たのかも 知れませんね。 この相鹿津臣命が 地元の豪族・伊勢津彦家に 婿入りします。 2人とも明らかに同族ですが、 相鹿津臣命は 【天日別命】と呼ばれ、 【神武天皇から派遣された】と 正史に記されます。 【派遣された】という 例の表記です。 この神武天皇は 3世紀の東征ですね。 天日別→【皇室から別れた】     ということですね。 どちらも磯城王朝の血筋ですが、 表向き天孫族でも、 実態は出雲色が濃く、 伊勢津彦の別名が 【出雲建子命】 【天櫛玉命】【櫛玉命】 などと言われるのも納得です。 これを書き残したのは おそらく度会氏の誰かだろうと 思いますが、 【伊勢中臣】です。 【建甕槌命】の子孫と 記述されているところが ニクイですね。 まあ、実際そうですが。 賀茂家から伊勢中臣がでます。 多気町【相鹿】には、 【相鹿上神社】 (おおかがみじんじゃ)があります。 大鏡⁈ ご祭神は【天児屋根命】 実際は争いがあって、 追い出され、 シャッフルが起こりながら、 新しい次元へと進んでゆきます。 【五大夫】は その中で争っている人たちで、 また、その氏族の代表を 記してあるに過ぎません。 ですが、 みんなで仲良く協力して 神宮の創建に臨んだ様子が 描かれています。 このやり方を 正史が貫いたことにより、 それが現象化してゆきます。 相鹿津臣命の子 【大若子命】が責任者として、 五大夫とともに 内宮・外宮を整えてゆくと 記されます。 実情は、 三輪山を追い出された人たちの中に 姫巫女に先だち、 太陽の女神と姫巫女を お迎えできる土地を探し、 受け入れる準備をしていた人が いたのでしょう。 神武東征と伊勢が つながる理由です。 神武天皇のヤマト入りと 太陽の女神が追い出されるのは セットなのです。 【第一次・第二次東征】と、 【倭姫の巡幸】の3重構造です。 複雑に色が混ざり合い、 万華鏡のような景色が 浮かんできます。 三輪山からまっすぐ東へ…☀️ そして、この【大若子命】が 重要になってゆきます。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 8 วันที่ผ่านมา

      ​@@yoshi-min6875さま あれれ… 書き加えたところが 消えていますね。 まあ、いいや。 新しく送ります。 丹生族に太田族が加わるところが ミソだと思うのですね。 第一次東征時、 八咫烏として 熊野から宇陀を通り、 現地の丹生族と 交流があったのかも 知れませんね。 八咫烏➕️ウマシマジ軍 八咫烏➕️丹生族 伊勢へ向かう太田族 三輪山を落とす東征軍 東へ逃れる太陽の女神 時間的にも違う いくつもの要因が レイヤーのように重なり、 【うまし国 神風の伊勢】が 導き出されています。 【メビウスの輪】状態です。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 8 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま 倭姫、伊勢125社を付け合わせると面白くて(内宮末社に鴨下神社がちゃんとあります) まだまだいっぱいお宝が出てきます。 沢山ありがとうございます。頭に叩き込みます😀 大淀川・・・ 柏原には生目古墳群が、そこから川を下ると 橘橋・小戸之橋・阿波岐原森林公園へと繋がります。 阿蘇の草千里ヶ丘・・・「千」「鎖」(鎖ちぎったのかも) そこには「馬」が沢山います。 東征の理由の一つは、九州は台風が多いからでしょうね。

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 8 วันที่ผ่านมา

      @@yoshi-min6875 様、 @Himawari-f4l さま 東征の理由は、台風が多いのと、他に思いつくのは ①火山灰地帯で、根が土深く入らない為、水はけが良い地表に根を張るサツマイモやカボチャなどの栽培には適しますが  地中深くに根を張る必要が有る水耕栽培には地質が適さないこと、 ②火山噴火やそれに伴う地震が多発すること。 ③もともと火山だらけで川ずたいの平地が限られていること。 などの地理的条件に加えて、 ④大陸や半島から最も距離が近く、常に影響を受けざるを得ない場所だったこと や ⑤縄文時代から、人口密度が大和から東側の東日本の方が多かったので、東日本の境界クナトともいうべき  位置にあるヤマトを東征の拠点としたかった。 などの事情もある様に思います。 九州宮崎に自分の名前の地名があるとは、知りませんでした。😆 有難うございました。

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 10 วันที่ผ่านมา

    【宇佐公通と平清盛】 太宰府を抑え、 瀬戸内から九州〜沖縄へ 宗との貿易ルートを 制覇してゆく中で、 重要拠点にあった宇佐神宮と 蜜月になっていったのは、 自然なことでしょう。 氏神を厳島神社に変えたのも、 海路の要所となり、 場所的な効果もあったと思います。 市杵島姫は 宇佐の氏神でもあり、 平家と宇佐の二人三脚が 平家の栄華を彩る 絵巻物のように 美しく織りなしてゆきます。 平家の急激な没落に、 側で伴走した宇佐家。 安徳天皇の従兄弟にあたる 公通の子が身代わりとなって、 海に沈んだのなら、 天叢雲剣も 安徳天皇とともに 何処かに落ち延びたのでしょうね。 元より、それも依り代であり、 オリジナルは熱田にありますが。 海を自在に往来した平家と、 土地にこだわった源氏。 平安の海幸・山幸も 山幸の勝利で終わります。 豊玉姫の子孫である 公通氏の御子は 龍宮へ戻ったのでしょう。

    • @kazu-358
      @kazu-358 9 วันที่ผ่านมา

      向日葵さま 皆様 安徳天皇になって剣を取り戻そうとしたが失敗した説もあるのは、そういう事ですよね 安徳天皇の身代わりであった事を教えて下さったので、ググってみたら、これまた複数のパターンがあるのですね。落ち延びた先や、安徳天皇御陵も複数あり… 気になる伝承もあったので、宇佐の伝承ではどうなってるのか、続きが待ち遠しいです

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 9 วันที่ผ่านมา

      @@kazu-358 さま 剣を取り戻す⁈ って、どういう意味ですか?! そういうお話は 聞いたことないので、 もう少し、詳しく教えてください。 誰が、誰から⁈

    • @kazu-358
      @kazu-358 9 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま 以前、ヤマタノオロチと九頭竜が同じか別か、伝承を探してコメントしたのですが、再度ググると「源平盛衰記」と「平家物語」でした。物語性が強いと思われますが、まあなんにせよ物語ですよね。 私もこんがらがってました。すみません。ヤマタノオロチがヤマトタケルから取り戻そうとして失敗、安徳天皇になって取り戻した、という流れです。 物語にしても、安徳天皇になって取り戻したとは?と思っていたのです。生き延びた事がベースにあるのかな?と。今回の動画でコメントしてるので、よければそちらも読んでみて下さいね。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 9 วันที่ผ่านมา

      ​​@@kazu-358さま ありがとうございます♪ 書いてありましたね。 お読みしました。 要するに、 【ヤマタノオロチ】が、 スサノヲによって持ち出された剣を 【天皇家】から取り戻す… ってことでしょうか?! 安徳天皇が ヤマタノオロチになっても、 自身が天皇家でもあるので、 堂々巡りのようですが… 要するに、 子孫に渡さなかったと 言いたいのでしょうかね。 ですが、 天皇家にあるのは依り代で、 オリジナルはずっと 尾張氏が持っているので、 あまり意味がないと思いますね。 なくなっても また依り代を作って、 オリジナルから分霊をすれば良いだけです。 オリジナルが 盗まれてしまった事件こそ、 重大事だったでしょう。 ですが、 戻って来ていますし、 その道中に 草薙剣へと変わる芽生えが 出来ていましたね。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 9 วันที่ผ่านมา

      @@kazu-358 さま Kazu さんのコメントは 隠れているので、 こちらに続けますね。 貴重なコメント ありがとうございます♪ 人王八十八代 八歳の帝… と、八が重なっていますね。 メッセージです。 事実がどうかではなく、 潜象の動きです。 【八千矛・八重波津身】ですね。 時代が反転することを 暗示しています。 【八岐大蛇】❇️こそ、 【八千矛・八重波津身】でしたね。 剣を取り戻すのではなく、 ⌛️が反転するのです。 安徳天皇は第81代天皇で、 第88代は後嵯峨天皇です。 ここから天皇家が 2つに別れます。 分裂と統合の繰り返しが、 【循環する命】ですので、 なるべくしてなったものです。 【八千矛・八重波津身】です。 凄い情報を ありがとうございます♪♪

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 10 วันที่ผ่านมา

    平時子が 華々しく目立つように 安徳天皇を抱きかかえ、 海に沈んだ様子は、 平家物語でも大きく語り継がれ、 わざわざ宣伝しているようです。 今で言う メディアの誘導報道のようですが、 それによって 目をそらせている間に、 本当の安徳天皇は 何処かに隠されていったように 感じます。 安徳天皇が落ち延びた伝説も とても沢山あるのも、 撹乱させているようです。 本当に大事なものは 隠してある… 貴人のお墓なんかも そういうのありますね。 沢山の噂をあえて流す。 宇佐家の伝承では 安徳天皇はどちらへ行ったのでしょう。 続きが楽しみです。 こんなお説もあります。 th-cam.com/users/shortsT7yqWyZVPg0?si=xDNQ4bAVcm0yXvEC

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 9 วันที่ผ่านมา

      @Himawari-f41様 返信したコメントがまた潜象の世界でかくれんぼして遊んでいるようです。 安徳天皇が壇ノ浦の合戦で亡くなられたのが、1185年で、その15年前に 源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる源為朝という弓の名手が伊豆大島に流されて 1170年に亡くなって、実は琉球に流れて琉球王朝の祖になった。という 大彦さんみたいなヒーロー伝説があって、面白いです。系図も残されているのだとか。 安徳天皇が8歳で亡くなり、実は亡くなったのが宇佐の御曹司で、 そのまま琉球に流れ落ちて、為朝さんか、その子孫に救われ琉球王朝となった。 のが15年後のことだとすれば、何となく、それも無きにしも非ず?なのかと想像するとちょっと面白いですね。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 9 วันที่ผ่านมา

      ​@@nihontaro9さま あれあれ⁈ 為朝の返信をしましたが、 消えてしまいました⁈ 為朝のお話は とても有名で、 琉球王朝の祖とされていますよね。 ところが 安徳天皇のお話は ほとんど世に出てないそうなんです。 このお話をされている 動画の方はご子孫だそうで、 ずっと安徳天皇を お祀り続けているそうです。 動画がショートで 断片的なので、 詳しくは分かりませんが、 何となく、 為朝は安徳天皇を隠すために 公に流された情報のように 感じました。 沖縄はアジアにおけるハブ港であり、 宋との貿易で栄華を誇った一族が、 その権力を手放すとき、 新天地として踏み出す場所には ふさわしく思います。 日本列島という土地に 執着しなければ、 さらなる飛躍もできるでしょう。 本土にいては すぐに落人狩りに見つけられます。 琉球においても 身分は隠した方が 良かったのだろうと思います。 源氏だと広めておけば、 追手が来ることも ないだろうと。 なので、 あえて為朝だと広めた可能性も ありますね。 本当のことは 分かりませんが、 宇佐の伝承は どう伝えられているのでしょう。 続きが楽しみです。

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 9 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l 様、 本当に不思議ですよね。 自分の書いたコメントを2度も消すような真似はしておりません。まあこのコメントもきえるかもですがw

  • @kazu-358
    @kazu-358 11 วันที่ผ่านมา

    ヤマタノオロチが安徳天皇になり、霊剣を取り戻そうとした伝承は、そこから出たんでしょうか 平家物語では、スサノオ命に伐られたヤマタノオロチの霊剣を、人王八十八代の後に八歳の帝となって取り戻し、竜宮へ沈まれた。 源平盛衰記では、七、八才の子供を抱えた大蛇が剣を咥えていたとか。霊剣はもともと竜宮の物で、ヤマタノオロチは大蛇の次男だった。大蛇は伊吹山でヤマトタケル命から剣を取り戻そうとするが失敗、安徳天皇になって取り戻した。 安徳天皇は落ち延び、剣山に霊剣を納めたというのも、生き延びたエピソードなのでしょうか。宇佐の御曹司は影武者だったということでしょうか。 今日たまたまウマシマジさん関連で、甘美内宿禰が兄の武内宿禰を廃そうと天皇に讒言、武内宿禰と似た壱伎直祖の真根子が身代わりとなって自刃したエピソードを目にし、「まねこ」って…と。

    • @kazu-358
      @kazu-358 10 วันที่ผ่านมา

      安徳天皇がいまわのきわまで召された形見の御衣を、母の徳子が御本尊前にまつる「幡(ばん)」に縫ってお布施として奉納し、その幡『安徳天皇御衣幡』が長楽寺に現存するようです。 清水寺に遠足に行った時、自由時間に近くを散策して入ったお寺に、安徳天皇が召されていたお着物が展示されていたのです。お寺の名前も覚えていないのですが、清水寺のすぐそばだったと記憶してます。 ググってるのですが、地図検索が苦手な私はまだそのお寺にたどり着けない😅 六波羅は平家一門の家が軒を連ねる場所で、平家都落ち後は、源頼朝に与えられたとか 助けられた徳子さんを後白河法皇が訪ね、「あなたは生きながらにして六道を見たのですね」と涙を流した……🙄 本当なら閻魔庁への往路である六波羅が「タヒの六道」と言われるのは何とも皮肉です

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 11 วันที่ผ่านมา

    いやあ~ 凄い展開になって来ましたね。 わたしもいつもまた聞きで、 公康氏の本は読んでいないのですが、 このお話は初耳です。 平家と宇佐… 【平野神社】 出て来ましたね。 《平家》の『平』は 《平野》の『平』だったのですね。 以前、コメントをまとめようとして、 そのままになっていたものです。 桓武天皇の母 【高野新笠】の両親の祖を お祀りしています。 父→和乙継(やまとのおとつぐ)   祖は百済の武寧王 母→土師真妹(はじのまいも)   祖は野見宿禰   =東出雲王家 ご祭神 第一殿:今木皇大神ー主神    (いまきのすめおおかみ ) 第二殿:久度大神(くどのおおかみ) 第三殿:古開大神(ふるあきのおおかみ) 第四殿:比売大神(ひめのおおかみ) 【今木皇大神】が 父方の祖神です。 百済の血統ですね。 ところがこの神さま、 【イマキ】とは、 【イ(クメ)➕️(ミ)マキ】 ではないですか?! 【皇大神】ですので、 皇室につながる方です。 母方の祖神は 【久度大神】 【クナドの大神】ですよね。 【竈(くど)】と言っても、 サイノカミのサイヒメを表します。 出雲王家を表しますね。 古開(ふるあき)は 分かりません。 比売大神は例のごとく、 個人名を出せない女神さまですね。 比売大神も意味深です。 【イクメ➕️ミマキ】皇大神とは 物部の血統を暗示します。 物部王朝の成務天皇が 神功皇后に見捨てられた後、 半島に渡り、 百済の傭兵隊長として 活躍したというお話が ありましたね。 百済王からも かなり信頼を得、 百済の太子からお礼の品として、 【七支刀】が贈られたという あのお話です。 成務王は 栄山江付近に住みつき、 その地で亡くなったと 伝えられており、 日本式の前方後円墳が 多く見られるのは、 成務王かその子孫たちだと 考えられます。 百済王からかなり 信頼を得ていたとすれば、 百済王家とも 婚姻関係があっても おかしくありません。 【今木皇大神】が 物部王家を暗示するのであれば、 イクメ・ミマキ両王の子孫である 成務王の血統が 百済王の系譜に 入っていた可能性も 濃くなりますね。 高野新笠の父が 百済王の子孫であると 主張しているのに、 【和(やまと)氏】というのは 何だか不思議でしたが、 百済王の血統に ヤマト大王家の血筋が 入っていたのなら納得です。 そして、 このご祭神の凄いのは、 百済王 物部王朝 そして、出雲王家と その融合の豊かさです。 それが、 平安遷都という ちゃぶ台返しとも言える 大きな反転を決行した 桓武天皇の御代の意味になります。 砂時計⌛️がまたひっくり返り、 新たな次元へと 昇華した時代であり、 それは、 いくつもの氏族の 融合を果たすことで、 成り立ったものだと感じます。 桓武天皇の別名は 【天國押撥御宇『柏原』天皇】 もう一人の神武天皇ですね。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 10 วันที่ผ่านมา

      桓武天皇が 母方をお祀りしたのが 【平野神社】➖️ 父方をお祀りしたのが 【交野天神社】✖️ 父・光仁天皇を祀るために 【郊祀壇(こうしだん)】を設けた とされています。 北極星⭐️や 北斗七星 天の川などが この周辺に位置するように 磐座群が沢山残されていますね。 元々は貴船神社があったところで、 玉依姫ですね。 三島溝杭耳の本拠地です。 貴船神社が遷されて、 交野天神社が置かれたようですが、 現在の貴船神社の場所が、 継体天皇の【樟葉宮】のようです。 時代の節目節目に 浮き上がって来る場所ですね。 【桓】 ①しるしとして立てた木。 また、まわりにめぐらした木。 ②いさましいさま。 ぐるぐるめぐるさま。「桓表」 ぐるぐると廻る いくつもの時代が この場所へ集結され また、出てゆきます。 光仁天皇の皇后・井上内親王と 他戸親王が廃されたことにより、 山部親王(桓武)が立太子され、 その御母【和(やまと)新笠】は 孝謙天皇の名を 引き継ぐことになります。 孝謙・称徳天皇の別名は 【高野(姫)天皇】 御陵は【高野陵】 (奈良市高の原) 高野新笠の諡は 【天高知日之子姫尊】 もう一人の高照姫… 《天智》も見えます。 平野神社ーーーー近江神宮 同緯度です。 天智帝に戻った皇統… 近江神宮の側には 【宇佐山古墳群】があります。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 10 วันที่ผ่านมา

      【宇佐山13号墳】からは、 石棺内側とおなじく朱に塗られ、 真っ赤な色をした頭蓋骨が 残っています。 そのほかの骨は 全く分解され なくなっていますので、 赤い髑髏だけがポツンと現れ、 なんとも不思議な空間と なっています。 先日見た 村上隆さんの髑髏だらけの作品を 思い出しました。 宇佐神宮の朱塗りのお社が チラつきます。 古墳時代中期前半(約1600年前)に 造られた13号墳は、 琵琶湖を見下ろす標高157mに 作られています。 場所的に言って、 海部氏関係でしょうか?! 神功皇后とのつながりも 気になります。

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 10 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l🌻様、 交野神社、なんとも面白い不思議な場所ですね。 少し前のコメントで木内鶴彦さんの動画を紹介した記憶があるのですが、その説によると、交野神社が北極星の位置で、そこから織り姫星(こと座のベガ)の位置を正確に測った誰かがいたのです。そこに機物神社が建てられた。ようです。向日🌻さんのコメントにあったように、和気神社、交野天神社、鏡伝池は南北に一直線に位置して同じ子午線の経度に並んでいるようです。地図を見て思ったのですが、機物神社、交野山、妙見宮、磐船神社は、オリオン座の位置に重なる気がします。誰が図って建てたのでしょう?徐福でしょうか?秦氏でしょうか?子孫の物部氏でしょか?面白いです。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 9 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 さま わたしが感じるのは、 徐福よりもっともっと以前から、 この地には天体が 配置されていたと思います。 お社ができるのは、 かなり後世ですが、 お社とはその多くが、 奥宮の遥拝所であるので、 磐座が既にあったと思います。 天体はその磐座に配置され、 それは縄文時代の ラピュタ人ではないかな〜 と思った次第です。 近くの神野山・鍋倉渓は はっきりと夜空が表現され、 その技術があったことを 示しています。 交野天神社が出来たのは 桓武天皇の御代で、 作られたと思いますが、 その地には貴船神社があったとされ、 やはり縄文の玉依姫が ずっとこの地を抑えていたんだなと。 縄文からの【お印】は、 磐座としても あるんだろうと思います。 この辺り、 凄い巨石がゴロゴロしているので。

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 11 วันที่ผ่านมา

    源氏の大将殿、頼朝さんの奥方様北政所北条政子さんの父親の北条時兼さんは、平氏本家本流だったので、皮肉なものですね。いずれも祖先は百済系平家と新羅系源氏で天皇家からの臣籍降下といえど、他人の国来てまで殺しあって何してくれてんの。ですが、自分も、祖先に出は平家の家臣で平家没落後源氏に奉職した太郎さんが祖先におられるみたいなので、不思議なものだと思います。 聞いたところによると 昔、筑紫に太郎という大名がいた。大将殿(源頼朝)の御勘気を受けて、鎌倉の由比ヶ浜の土の牢に十二年の間押し込められた。太郎の稚児は、昼も夜も法華経を読んだので、そらに覚えるほどになった。やがて、十二の年に苦心して筑紫を逃げ出して、鎌倉というところへ尋ね着いた。 鶴岡八幡宮の御前にまいって、伏し拝んでいうには「八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土において法華経をお説きになった教主釈尊です。衆生の願いをかなえられるために、神とお現れになったとお聞きします。いま、私の願いをかなえてください。父親は生きているのでしょうか。」といって、法華経を読み続けたので、参詣にきていた人々も、帰ることを忘れてしまった。次の日、また御経を御聴聞されていると、西の御門で人が騒いだ。「どうしたのか」と聞けば、「今日は囚人が首を斬られるのだ」と大声でいっていた。その時稚児は「ああ、我が親か。我が身のなげきのごとく思われる」と涙ぐんでしまった。大将殿はそれを不審に思われて、「和児はいかなる者か、ありのままに申せ」と仰せになったので、稚児は、今までのことを一々申し上げた。  大将殿は梶原景時を呼び寄せて「太郎という囚人を連れてまいれ」と仰せになると、梶原は「ただ今、首を斬るために由比ヶ浜に連れていったところです。今はもう、斬ってしまっているかもしれません」と答えたので、この稚児はふしころびながら泣いた。大将殿が「梶原、自ら走っていって、まだ斬っていなかったら、連れてまいれ」と仰せられたので、梶原は急いで由比ヶ浜へ駈けつけて行った。いまだ行きつかぬうちに大声で叫んで制止したのは、まさに頸を斬ろうとして刀を抜いた時であった。大将殿は「法華経の功徳は昔から様々に伝え聞いていたけれども、自分も身に当たることが二つある。一つは亡き親父(源義朝)の御首を太政入道(平清盛)に斬られて、走湯(いず)山の妙法尼より法華経を読み、高雄の文覚房が親父の首を持って来て見せたうえ、(平家打倒の挙兵を勧めたので)仇を討つことができただけでなく、日本国の武士の大将となることができた。これはひとえに法華経の御利益である。二つには、この稚児が親を助けたことは不思議である。太郎というやつは、けしからぬ者と思っていた。あまりの憎さに十二年まで土の牢に入れておいたが、このような不思議があった。そのため、法華経の御利益というのはありがたいことである。頼朝は武士の大将として多くの罪が積もっているけれども、法華経を信じ申し上げているので、悪道に堕ちることはないであろう、と思っている」と涙ぐまれた。 系図があるわけでは無いので、あくまで勝手な想像ですが、他人事とは思えません。

  • @yoshi-min6875
    @yoshi-min6875 11 วันที่ผ่านมา

    なんとまあ・・・ 安徳天皇の身代わりが宇佐の御曹司(7歳) ホムタワケ(7歳)の代わりの竹葉瀬 因果は巡るのですね。 大人の都合で幼子が犠牲になるのはやるせないですね🥺

  • @user-um7hg8ie7o
    @user-um7hg8ie7o 11 วันที่ผ่านมา

    エルカフローラ ミツコ様 大変興味深いご考察を頂きました。 たまにしか拝聴出来ていないのですが、お話しを伺う度ごとにいつも新しい気付きを与えられて、大変聴き入ってしまっています。 誠に有り難うございました。 先日、古代史の学びを目的として、奥阿蘇(高森)を訪ねて参りました。 阿蘇は草壁皇子(日下部氏)の故郷であるらしく、山奥深い隠れ里にひっそりと地元住民に祀られている矢津田御霊神社を訪ねて参りました。 皇位継承で犠牲になった方々(重要士族)の御霊を弔う聖地であるらしいです。石碑には、祭神として桓武天皇の一族である吉備内親王、侘戸親王の母、光仁天皇、早良親王、伊予親王の母、桓武天皇皇子、とあり、その具体的な表記に、参加者一同驚きの感情を頂きました。  また豊玉姫命に関してですが、もう一社、 奥阿蘇にある永野祖母嶽神社を訪ねて参りました。“日向三代”(コノハナサクヤヒメ、ホヲリノミコト(山幸彦)、ウガヤフキアエズノミコト)と言われる歴代の神々とその妃神が祀られており、阿蘇系の神が入っていないという不思議な神社です。  そこの石碑に記されている祭神は、以下の通りです。 (祭神) 日子穂々手見命・豊玉比咩命・鵜茅葺不合命・天依比古命・吾平媛命・花房姫命・木花開耶姫。祖母岳大明神の下宮、八方に八王神と申し奉る肥後永野その一である。  伝承祖母山には豊玉姫命、武雄霜凝彦命二柱の神を崇めまつるという。神武天皇の神の祖母にまします。(中略)年毎に四月四日を祭日として登山、隣国より多し。然るに清浄の霊山なれば婦女の登山を許したまわず。故に重井野というに下宮をあがめ、神殿・拝所を祀り奉る。(野尻美名録)  つい先日の日曜日に現地に出向き、直接拝見したばかりで、今朝エルカフローラのミツコ様の豊玉姫命に関する御説を伺い、当時の様子についての想いを馳せて、タイムトリップ楽しみました。 いつもありがとうございます。またよろしくお願いします。🙏😌

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 12 วันที่ผ่านมา

    葛木御歳神社さんのお話で、どこかで、見たような情景だなと浮かんだのが、 ELCAFLORA Mitsukoさんの絵で「天なる香具山酔夢譚」でした。(自分の勝手なイメージです) 春過ぎて夏来たるらし白埴と 赤埴恋しと泣沢女神 ははかの花もちりぬれば 今は泡沫埴安の池 しろたえのにぎてさやけき玉振りの 神代事受くウカの神みては 物語の舞台は、大和の香具山 埴安の池で おそらくこれは、 持統天皇(2番) 『新古今集』夏・175 春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の  衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)からの歌でしょうか? 持統天皇の息子草壁皇子は帝位を践むことなく、朱鳥3年(689年)27歳で亡くなってしまいます。 この時、草壁皇子の息子、軽皇子は6歳。草壁皇子の母・鵜野讃良皇后が持統天皇として即位、 軽皇子の成長を待つこととなりました。 おそらくこの時の情景だと思いますが、 自分には、蛇が香語山で、涙をこぼしているのが、母上の高照姫のようにも見えます。 白埴は水で孫の村雲を、赤埴は火で夫の火明と、息子香語山五十猛を表しているような気がします。 伊弉冉命が加具土命を産まれた怪我が元で、根の神の中の国に神去り給ひき。 根の神の中の国に神去り給ひき。ここに伊邪那岐神泣き給ひければ、その涙になりませる神、泣沢女神(なきさわのめかみ) 宇陀は柿本人麻呂が、万葉集巻1 48番歌「ひむがしの野にかぎろひの立つ見へて かへり見すれば月かたぶきぬ」という有名な歌を詠んだ地。 天香久山の土を取って来て、それで土器を作り、天津神を祀るならば、刃に血を塗ることもなく大和平定を果たすことができると伝えられ、 その通りにした結果、お告げ通りになった。また崇神天皇の世に反乱を企てた武埴安彦命の妻吾田媛は、決起前に天香久山の土を取ろうとしたとされ、 天香久山を押さえることが大和支配につながると考えられていた。 武埴安彦命は大彦命の異母兄弟とされています。 (大嘗祭 おおにえのあえの祭り は、白埴(今上の国津神蘇生)と赤埴(前王天津神の土)で作られた土器で、 天津神の天照大御神(国津神幸姫大神の転身である天津神)を祭るという、ここから来ているのかもしれません) 赤埴は室生の龍穴神社を宇陀市榛原の赤埴に遷祀、赤埴明神と称した。 香具山の北麓には占いを司る櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とし、境内の波波枷の木が占いに用いられてきた天香山(あまのかぐやま)神社がある。 これも縁が深い気がします。 いつか参拝してみたいです。 (伊弉冉命が幸姫大神であるならば、日の神、火の神を産まれたのが原因で、亡くなったりしませんよね。仮想の死からの蘇生で代替わりの意味かも)

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 12 วันที่ผ่านมา

      nihontaro さま 絶好調ですね。 どんどんコメントが 湧いて出てきますね。 偶然ですが、 わたしも昨日、 埴安彦を考えていました。 このエピソードは 一体誰のことなのか、 何の意味があるのか、 わからなかったですが、 何となく輪郭が観えて来た気がします。 ただ、YOSHI MIN さまからも お題をいただいていて、 そちらもあちこち膨らんでいるので、 収拾がつかない状態です。😅 【天なる香語山酔夢譚】は 絵はがきとの出会いから、 幾度も幾度も nihontaro さんとセットで、 新たなる意味合いが 重ねられてゆきますね。 常に進化してゆくようです。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 11 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま みなさま 出てきましたね。 五十猛の「天なる香具山酔夢譚」 ずっと以前、向日葵さんとのやり取りで 五十鈴姫ー五十猛でバランスの合うようなことを書いていましたが これだけではパーツ不足でした。 ちょうどkazuさんと鬼をお話ししていました。 「69」 6→か・偶数・陰・潜象・六甲姫・瀬織津姫 9→け・奇数・陽・現象・九鬼・修験道 「【かけ】まくも かしこみ・・・・・」 6が五十鈴姫、9が五十猛に配置できます。 五十猛の歳神信仰・・歳神信仰を隠れ蓑に父の作った鏡術(?)を守っていきます。 これがどれだけ大切だったのかは、伊勢神宮を見ればわかりますね。 6の陰を感知していた私だけでは不十分、頭がお花畑の世界です😅 9の陽が出てきたので表に出せる時が来たのかな?と(でも何をどうやってかわかりません😂) 泣いてる女性が高照姫・・・30年前の記憶が見事にはまりました(ありがとうございます) 饒速日の息子 出雲口伝→五十猛 古事記→ウマシマジ 向日葵さん、振り回してごめんなさいね🥲 でも向日葵さんじゃないと綺麗にまとめられない😅 ウマシマジ、ヤバシ・・・(ウマシマジの方に書き込みしますね)

    • @kazu-358
      @kazu-358 11 วันที่ผ่านมา

      ​​@@yoshi-min6875さま 皆様 ウマシマジさんが難しくて傍観してました。こちらに流れを台無しにせず書けそうなので少しコメントします。 息子さんなのですよね…饒速日命の。 名古屋市の物部神社にウマシマジさんが祀られてました。尾張の聖地詣でのつもりが、なぜここに?だったのです。境内に、要石が石神様として祀られてたのが印象的だったのですが、石上神宮の奥宮の神祭りと似てるように思えて…要石ではなかったように思いますが。 ウマシマジさんって美味しそうなお名前ですが、他にも、饒速日命の孫の味饒田命(うましにぎたのみこと)や、 孝元天皇の孫の甘美内宿禰(うまちうちのすくね、味師内宿禰とも)もウマシが付くのですね。そして味という字が誰かを思い出す… ウマシマジさんの続き、読ませて頂きますね😊 歳神信仰という隠れ蓑🤭確かに、ニギハヤヒさん大歳神説は(幸ノ神信仰が源だとすれば)、異論ありそうです。だから一代ずれた五十猛さん大歳、村雲さん御年神説があるのでしょうか。でも幸ノ神信仰にただすなら、女性神に相当するのは?ですね

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 10 วันที่ผ่านมา

      nihontaro さま みなさま あれあれ… nihontaro さん、 埴安彦について 書いてくれてなかったですか?! コメント、削除しました⁈ 大筋でわたしも同じ考えです。 わたしがやっていたのは、 その裏付けを古事記や 日本書紀の記述で 辻褄が合うかどうか 突き合わせてみる作業です。 YOSHI MIN さんとのお話から、 全部つながっているんですよ。 広がりすぎて 戻る道を見失うけれど…😅 あのコメントにも 何かあった記憶が… よかったら また、書いておいてくださいね。 Kazuさん 大歳神が五十猛なのは、 【大歳神の父がスサノヲ】だからです。 ここが起点。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 10 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま みなさま ウマシマジ・アジさん、大年はどこかで繋がってくると思います。 私も広がりすぎて・・・ 今日もう一つの獅子の口に行ってきました(烏川神社でGOサインだと思いました) 難波八坂神社です。 用事ついでのたまたま今日だったのですが828でしょ。 獅子→四四・・・口の中に「八」があるんですよね~~。 (四国もこれです) これが「いとく」と繋がってるのでますます混乱です😩 それはまた後々にということで、現在判明したものをお知らせしておきます。 **** ホツマツタエ 「またサルタ 昔授くる サカホコギ 美しき鈴 ハイキタチ カカンノンテン 時待ちて 道現わせよ」 倭姫世紀では今の宇治山田神社・那自賣神社にいる時、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現われ 「さこくしろ宇遅の国」から来たということでその地を見に行くとそこには 天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったと。 **** それが今の内宮です。 逆太刀・・・二荒山・大国主の太刀 逆矛・・・・高千穂・石切劔箭神社・・・ニニギ・饒速日・可美真手命(ウマシマジ) 金鈴・・・・五十鈴 ホツマツタエでは何のことかサッパリでしたが倭姫世紀に載っていました😄

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 13 วันที่ผ่านมา

    以前の271話に向日葵🌻さんから、北方の東方面から渡来したブリヤート人とクナト王達の素敵なコメントがありましたが、今日もう一方の西方から渡来した人達のルーツについての様な動画を見ました。 宇佐にも物部にも、また出雲にとっても重要な人物でありながら隠さなければならなかった徐福について、出雲の伝承では、とても重要と言いつつ、渡来以前の詳細がイマイチ書かれていない様に思えるのですが、徐福が生まれた徐族の系譜について、釈迦族に繋がり、釈迦との繋がりもあった。と紹介している古本屋えりなさんの動画が出て興味深く見ました。色々な繋がりが明かされる時代なのでしょうね。 日本人と釈迦【親戚説】 m.th-cam.com/video/2Zy6eEzqkfs/w-d-xo.html

  • @ponzu1087
    @ponzu1087 13 วันที่ผ่านมา

    今自分達の古代の常識を一旦ゼロにするべきですね。多くは明治政府の国家神道による捏造が常識になってます。古事記を見れば島根、長野の話が出るはずがないです。 皆、最初に自分の読んだ本、学校で教えられた事を基準で話してるのではないでしょう?自分の歴史観が何を基準にしてるのか?「それは間違っている!」と言う前に自分の常識を疑う。まずは明治政府を疑う、何故明治4年に杵築大社を出雲大社に名前を変えたのか??出雲大社を杵築大社に名前を戻すだけで日本人の歴史観は変わると思います。

  • @AwaNuko
    @AwaNuko 14 วันที่ผ่านมา

    景行天皇の同母弟に、「稚城瓊入彦命」という方がいます。 宇佐口伝では、応神天皇が「押人」で、その父が「稚屋」だったので、 稚の字のついた「稚城瓊入彦命」を「神武天皇」とみなしている、 気がいたします。 ちなみに、「稚城瓊入彦命」の姉が「倭姫」だったりします。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 14 วันที่ผ่านมา

      @@AwaNuko さま 倭姫と 倭建はセットですね。☯️

  • @user-ze6gh3iy7z
    @user-ze6gh3iy7z 14 วันที่ผ่านมา

    だいたい宇佐の伝承が分かったようなぁ~ 何回もこのシリーズを見て理解しようと思います。宗像家は何処に行っちゃったのか、後越乃國と出雲、宇佐の関係が気になりますね。越乃國と富家は関係が可也濃いと思っています〜

    • @user-fw5jy1zf7y
      @user-fw5jy1zf7y 12 วันที่ผ่านมา

      @@user-ze6gh3iy7z 知人に正に宗像さんが いらっしゃいます。 ご出身は旧吉備国に相当するあの辺り。 この方、どうやら本宗家に近い家系の様で なんと、 伝家伝世の 勾玉と平縁円形青銅鏡を 家宝としていらっしゃいます。 私感ですが、 二つを持って宮中に参内すれば それなりに遇されるのではないかしらん? 他に、 本来なら阿波忌部の 本家本宗筋だった。 と言う 知人の奥さま(故人)がいらっしゃいました。 涼やかな目鼻立ちと 面持ちは 正に皇室 ((出雲神族。第二出雲王朝)。 上皇陛下、今上陛下や敬宮愛子内親王殿下など)と あい通じる(同じ)モノがありました。 (そう言えば、今の愛子内親王殿下と良く似ていらっしゃいました) 因みに、彼女の曾祖じい様は正に本宗家として 皇室の一大事には宮中に参内して祭儀を取り仕切る仕来たり (阿波忌部の本宗家が参内しないと祭儀は始まらないらしい) だったとか? 一族内のタブーに触れた事により本宗家としての権利一切を剥奪され 追放された云々。 と聞き及びます。 ↑の話は、彼女の葬儀 (忌部神社の宮司自らによる 神葬祭) で初めて知りました。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 11 วันที่ผ่านมา

      @@user-fw5jy1zf7y さま いいね5つ押したいです。ありがとうございます。

    • @user-ze6gh3iy7z
      @user-ze6gh3iy7z 8 วันที่ผ่านมา

      ​@@user-fw5jy1zf7y 岩光さん、お疲れ様です。阿波忌部に関して興味深い動画が出ていたんでコレどうなんだろうって… 中臣と藤原が勢力を増して来て忌部氏は朝廷祭祀の座から排除されていったと、忌部広成は、古語拾遺を平城天皇に訴えたが状況変わらず、歴史の表舞台から消えていった。これって岩光さんの言っていた、忌部が物部って… 物部になってしまった〰😮

    • @user-fw5jy1zf7y
      @user-fw5jy1zf7y 8 วันที่ผ่านมา

      @@user-ze6gh3iy7z ある時、 本宗の富さん(今は関東在)に直接 お話しを伺った方(元出雲王家、富家口伝を公言する許可を得る傍ら)~ 漏れ聴こえ(ブログ?) の話では、 忌部家は 出雲(神)族で有るにも関わらず (世渡りの為に) 時には渡来系を装い、 また、時には出雲族と言う 一貫性や矜持がなく、 ちょっと困ったところが有ったらしい。

    • @user-ze6gh3iy7z
      @user-ze6gh3iy7z 8 วันที่ผ่านมา

      @@user-fw5jy1zf7y  あらまぁ〰      (⁠ノ゚⁠0゚⁠)⁠ノ⁠~

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 15 วันที่ผ่านมา

    yoshi-minさんの以前の328話の転法輪寺のコメントで東川宮司さんのブログを初めて見始めました。 ムササビのムー君の保護日記の記事まで書いておられるんですね。むささび保護のボランティア登録までされておられるとか。 頭が下がります。高尾山でもボランティアでムササビ観察会を今年3年ぶりに再会する予定ですが、 自分たちはただ下から飛翔の様子をじっと眺めるだけなので、保護し飼育するのは大変だと想像します。 東日本だと、飼育した例は、たしか、長野県辺りの家庭で飼育したのが、1,2件ぐらいと、あとは、 ムササビで有名な先生の居られる関係の大学付属高校・中学の生物部で飼育した位のようなので、 とても貴重な例だと思います。ブログの情報をありがとうございます。 あと、御歳神社さんのホームページに、 ご祭神 御歳神(みとしのかみ)…大年神の御子神 相殿  大年神(おおとしのかみ)…須佐之男命の御子神   高照姫命(たかてるひめのみこと)…大国主命の御子神 御歳神って、五十猛さんのことかと思いましたが、ちゃんと書いてますね。(最初から読めばよかった。) 須佐之男命(徐福)火明の御子神大年神五十猛命の御子神の御歳神・・・村雲さんですね。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      nihontaro さま ですよ。 天村雲→水 天香山→土 高照姫→日 の、【子・父・祖母】が 仲良くお祀りされています。 御歳山には 【日・土・水】の磐座がありますね。 御歳大神とは皇神ですから、 初代大王です。 剣です。 草薙剣が避難した 飛騨の水無神社も 御歳大神がご祭神です。 ミナシノオオカミ ミトシノオオカミ 大國魂神も御歳神です。 村雲である裏付けは どこまでも出て来ます。 そして、あの位置ですね。(⁠^⁠^⁠) と、1人で確信しているわたしです。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 さま そうそう、 こちらでもお馴染みのワードが 沢山、出ていましたよね。 太郎さんは 幅が物凄い広いので、 あまりにもヒットが多すぎて、 コメントするには エネルギー不足になるので、 黙っています。 猪目って、 本当にカタカムナ的に言っても、 核の中心なんですよね。 核←亥・ヰ・ゐ・🐗 矢的🎯は いつも言ってるやつですね。 【鏡と剣】です。 富雄丸山古墳の 銅鏡と蛇行剣もそうだし、 今、YOSHI MIN さんと沸騰中の 伊勢でも、 的矢湾🎯があって、 その奥が伊雑宮です。 矢的⇋的矢 最初からペアになってましたね。 神風の伊勢です。🍃 東川宮司さまが 白い猪とは 豚のことだったと言われていて、 なるほどと思ったのですが、 ヤマトタケルが出会った神さまが 豚🐷だったら なんかイメージが狂います。😅

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 14 วันที่ผ่านมา

      向日葵🌻様、 ようやくライブ配信前の対談動画を全部見終わりました。宮司さんのまあ早口なことw。幾つか聞き取れずw。そして大人の学校さん、流石に知識豊富ですね。高尾張村とか忌部氏との繋がりなど、お馴染みのキーワードが色々出てきてましたが、面白かったのが、ヤマトは矢と的の意味だったと思う。根の国に猪目洞窟があり、そこがあの世の境界なんじゃ。とか、yoshi-minさん的な見方で葛城、葛木の葛はツルと読むので、ツル、ギの意味だろうと言われ、宮司さんも面白ーい❗️と盛り上がって、そう!その通り。だからアメノムラクモノツルギなんです!って思わず言ってしまいました。 出雲口伝のこれはと言うクダリを紹介してください。とお願いされてもいるので、何かやんわりと言向する良い言い方はありませんか?

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 14 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 さま 向日葵さま 向日葵さんのおっしゃる通り、高照姫・香語山・村雲がお祀りされているようです。 出雲口伝によると、 五十猛は歳神(サイノカミ)信仰に感銘を受け名を「大年」としたようです。(122) その後、籠神社裏の小高い山「香語山」に住んだので、山の名前にちなんで「カゴヤマ」と変えたとあります(127) 五十猛の大年神があるとするとその奥にはサイノカミ(歳神)があります。 長い時が流れ神社はすたれていきます。 「大年神(五十猛)・御歳神(村雲)」の(人がいた)意味が忘れ去られます。 行事(信仰形態)は残っているので日や水・稲の信仰だということがわかります。 宮司さんが、女神だというのはサイノカミを感得されているのでは?と推測します。 本質が残っていたということになりますね。 わかる方が選ばれたのでしょうね。 なので私は御歳神は女神で間違いないと思っています。 ここに村雲を隠したのでしょう。 こちらの神社も2重構造になっているようですね。 出雲口伝により蘇りですね。 五十猛は次々と名前を変えています。←口伝が丁寧にちゃんと教えてくれています。 これは父、徐福に倣ってのことでしょうね。 「火明」「饒速日」・・どこから持ってきたんだか🙄

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 14 วันที่ผ่านมา

      @@yoshi-min6875 さま nihontaro さま わたしは 三柱全て重なって、 サイヒメだと感じるのですね。 サイヒメの二重構造 【五十鈴姫のサイヒメ】 →東(王家)の三輪山 【村雲のサイヒメ】 →西(王家)の御歳山 ちょうど夏至ラインぐらいでは ないですかね⁈ 白雲岳からは 春分秋分ラインになりますが、 本当に見えるかどうかは、 現地に立たないと 分かりませんが… 御歳神社に 高照姫がおられる意味ですね。☀

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 15 วันที่ผ่านมา

    書きたくても書けない宇佐家豊玉姫の憂鬱、面白いですね。何だか不比等さんや小人さん人麻呂さんの心痛が察せられて本当にご苦労です。ありがとうございますって感じがします。 ところで出雲の口伝でさえも書けなかっただろう繋がりで、ヤマトに物部を引き入れた太田タネヒコさんが八咫烏だとすると、その太田タネヒコとは誰?何者?と言う疑問が出てきます。登美家の分家の太田家の当主で出雲系という事までは伝承からわかりますが、では本当は誰なのでしょう?。その時代の太田家はヤマトに太田古墳群を作った程のいわば実質天皇家と同じ位の実力を持っていたと推測でき、またタネヒコのネコやヒコとは天皇の大王を示す名前であることから、以前森さんもコメントされていた様に、磯城王家の当時の大王ご本人様だったのではないでしょうか?もちろんそんな事は出雲の口伝でさえも書けない事なので、太田タネヒコとなり、記紀やホツマツタヱでは、オオタタネコと書かれたのではないか?当時の大王が誰か調べてみると面白いですね🤣。多分孝元天皇あたりではないかと想像します。 女王卑弥呼の墓と噂の箸墓古墳の大市墓は、地元の人達は、古墳の形がまるで猫が寝そべって顔を洗っている様に見える事から、ネコ塚と呼んでいるそうです。数年前にヤタガラスの娘さんのブログから教えていただきました。それを読んでから、もうそうとしか見えなくなってしまいました。この辺りも面白いですね🤣

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 さま どういう意味ですか?!🤔 大王だったら そのまま書けばいいじゃん… と思うのですが。 何か問題ありですか?! 大田田根子が実質上の大王ではなくて、 本当の大王だったら、 大田田根子の子孫は 何故、大王家を受け継いてゆかず、 賀茂家を継いでゆくのでしょうか?! わたしのイメージでは 平安時代の摂関家のように、 政治の一切の権限を握っていた 藤原氏のような存在が 大田田根子だったような 気がしています。 幼い天皇は 大事に敬われて、 窓ぎわに置かれている… みたいな。 大田田根子の時代は 大王は幼くはなかったでしょうが、 大王家を継いだのは ちゃんとその血統の人だったんでは⁈ 実質上の大王だったけれど、 大王家の血統には 入らないので、 《根子》と記したと思ってますが。 元より、 大王家より、 登美家の方が 本当は重要であったかも 知れません。

    • @user-ze6gh3iy7z
      @user-ze6gh3iy7z 14 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l   向日葵先生、日本太郎さん、 これつて…  クシヒカタ君の家系と関係は???  何だか匂いますなァ〰🤔

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 16 วันที่ผ่านมา

    大人の学校でも出雲の伝承を取り上げていましたね。普通に話題に取り上げられる様になってきたと思います。コメント復活したみたいで嬉しいです😆

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      nihontaro さま 東川宮司さまも 大人の学校に出られてましたね。

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 15 วันที่ผ่านมา

      向日葵🌻様、 ハイ! 色々シンクロしだしていますね。潜象の繋がりのお話が出た高照丸の吉備鉄との融合の件も、御歳神社境内でコンサートしていた方が歌われていた時に、木から大きな青大将の蛇🐍が落ちて、その蛇は、偶然東川宮司さんが高照丸の納められていた箱📦が鴨居の上から発見され、そこに入っていたそうです。それで、コンサートの歌手の方のお父さんか叔父さんが、吉備の有名な刀鍛冶の方だったそうで、高照丸復活プロジェクトが行われる事になったとか。もうちょっと偶然とばかりは言えない気がします^^

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 さま 確か、熱田神宮にも関係していた 刀鍛冶さんでしたよね。 あのみ〜さん🐍は 村雲の化身ですね。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y 16 วันที่ผ่านมา

    古事記。 そもそも、 天武天皇が嘘偽りのない国の有り様、成り立ちの正史(国史)を作る事を 企画なさって 数次の王朝交代に絡み 関係氏族(の代表者)たちを分け隔てなく 国史編纂委員会のメンバーに招聘、任命して 国史編纂の作業に入った迄は良かったものの、 当然というか各氏族が抱えていた憤懣、 抑えていた怨執、遺恨 やった殺られた、 騙し騙され足を掬われた等々が 炸裂❗ また、船頭多くして船、岡に揚がる を地で行ってしまい せっかくの国史編纂は 空中分解。 やむを得ず断念を余儀なくされ、 天武天皇存命中は再開する事は叶わなかった。 時は移ろい、 天武天皇(大海皇子)の実の姪で 皇后の ササラ姫皇子が 女帝、持統天皇となり、 亡き夫君、天武天皇(大海皇子)の 国史編纂~完成のへ遺志を継いで 名義上の責任者には 皇族の舎人親王を、 編纂作業の実務責任者には 藤原 史(フヒト)を任命して 国史(後の古事記)編纂を公に宣命なさった。 実務責任者に任命された 藤原 史(フヒト)さんは 巷間言われる様な狡猾な悪人とは真逆の クソ真面目が官服を着て歩いている 等と揶揄された 非常に有能な官吏、 能吏だったという。 フヒトさん。 新女帝に 国史編纂作業の実務責任者に選任されて、 我が国(大倭国)も 中華歴代の王朝の出来事をありのままに単体と記した 記年体により、 先ずは 最初の王国(国)である 出雲(出芽)王国の成立した紀元前660年の 菅の八耳命の事から書き起こして、、、 と構想に胸を暑くし膨らませていた矢先に、 なにやら宮中から急な御召し。 訝りながらも急ぎ参内すると、、、 他方、 持統天皇が即位して 天皇(国家の元首)として 当然知っておくべき 国の歴史、成り立ちや有り様を 和歌の天才、また、歴史博士!との声も高い (天武天皇の未承認のご落胤) 柿本人麻呂公(出自は綾部(漢部)家~柿本家に養子入り)よりの ご進講を受けた後に事件が、、、 柿本人麻呂公~受けた歴史の内容が 先般、我が身に降り掛かった 身内同士による 醜く浅ましく 凄懺で血生臭い 権力闘争 (壬申の乱) とオーバーラップ。 深窓のやんごとなき ご令嬢の女帝のオツムの許容量がパンク(w) 嫌じゃ嫌じゃ、このような話は金輪際 見たくも聞きたくもない! と陰に込もってしまった。 おお。 フヒトか急な事ではあるが よう参った。 実は、そなたに命じている国史の件じゃが、 妾(朕)は 編纂にあたり 耳目に爽やかで 清らかな善き言葉や文章を 特に撰び 事に当たる事を希望(命令)します。 ここに 後の古事記が 歴史書ではなく メルヘンな絵空事のおとぎ話の偽書となる 【撰善言】の勅命が下された。 この勅命に フヒトさん。 自分が温めていた壮大な構想が全てダメになった事を悟り 目の前が真っ暗になり暗澹たる気分になりました。 それでも 国史(古事記)は完成させねばならない 一大事。 悶々とするなか 捻りだしたのが 編纂の基本方針となる 万世一系の皇室に統治された (他国に阿ったり(朝貢)、 影響などされた事の無い) 自主独立国 と言う絵空事。 この基本方針と 撰善言。方式に則って、、、 他方、 国史(古事記)編纂 が知られてはアチコチから横やりや妨害が入る為、極秘にされた。 執筆者には 歴史博士の柿本人麻呂が フヒトにより軟禁されて外界と完全に隔離された環境下で 絵空事の嘘八百を 強制的に執筆させられた。 歴史博士と迄言われた 柿本人麻呂公。 いかに屈辱的で有った事か? しかし、静かな反抗をあまた織り込んで 後世の頭の良い人たちに 真実の歴史を発掘するよすがとしたらしい。 また、和歌の天才と謳われた彼の事、 古事記の和歌のほとんどは彼の創作とか その最大の示唆(暗喩)が 神武天皇が紀元前660年に奈良盆地で即位した! の大嘘の1文。 紀元前の奈良盆地は水浸し! 広大な古奈良(大和)湖が存在した事は 現代、科学的学術的に証明された事実。 歴史博士と謳われた柿本人麻呂公の事。 そんな事は承知の上だったのでは?

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 15 วันที่ผ่านมา

      岩光さま 大変楽しく読まさせて頂きました。 人麻呂公、仕込んでます(意図的と神がかり両方揃ったのだと思います) 今、倭姫世記を読んでいてそこにウマシマジの名前が浮かび上がってきました(前回動画コメントしてあります) 試しに古事記を覗いてみると、やはり、ちゃんと「神風の伊勢・伊那佐山・宇麻志麻遅命・言向け平和し~~天の下治らしめしき」 とありました(久米歌) ひまわりさんも見つけていらっしゃると思います(今、深堀り中です) いずれ、ひまわりさんからわかりやすい解説があると思います😄 まだパーツが全然足りていないと思いますが・・ この久米歌の少し前に「汝は誰ぞ」「僕は国つ神名は名は○○」と繰り返されます。 倭姫世記がこのパターンの連続なんです。 付け合わせて読めという暗示です。 古事記の「嘘」の正体は 歴史の事実をパーツごとに分解してずらして並べているからでは?と思います。 紀元前660年「出雲」から「奈良」に移動させている。 「嘘」を乗り越えて真実(?)を見出す時期が今なんじゃないかと。 出雲口伝がその口火を切ったんじゃないかと思います。 不比等は私利私欲より国のことばかり考えていたんじゃないかと思っています。 結構好きなキャラクターです😊

    • @user-fw5jy1zf7y
      @user-fw5jy1zf7y 15 วันที่ผ่านมา

      @@yoshi-min6875 ウマシマヂ という人は実在しません。 第一次物部進攻で 大和を席巻した物部王家の二人のリーダー(兄弟)の内、 どちらが物部のトップだったかが古事記編纂の当時には不詳。 仕方なく、架空のウマシマヂを捏造した という。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 15 วันที่ผ่านมา

      @@user-fw5jy1zf7yさま 確かに、ウマシマヂは架空の人物かもしれません。 そうなるとそこには天種子命のように重大な出来事が下地にあると思います。 架空となれば興味がより一層増しますね。 そちらの筋も検討してみます😊 ありがとうございます。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      ​​@@user-fw5jy1zf7y 岩光さま YOSHI MIN さま いつも豊かなコメント ありがとうございます♪ そうなんです!! 矛盾している箇所ほど、 メッセージなのです。 その裏に隠された 意味を発見してね… という合図です。 言葉の魔術師・人麻呂の 素晴らしい感性ですね。 YOSHI MIN さんの言われるように、 分かっていて書いたもの、 降りて来たもの、 両方あると思います。 古事記には何一つ 無駄なことは書いていないのですよ。 出雲口伝を読んで それが良く分かりました。 古事記と出雲口伝は 同じことが書かれています。 凸凹になっていて、 カチャっと見事にはまります。 物凄い書です。 出雲口伝では 徐福がスサノヲとして 描かれているとしか 書かれていませんが、 明らかに【須賀八耳王】としても 描かれていますよね。 スサノヲの妃の【奇稲田姫】、 その父・足名椎には 【稲田宮主須賀之八耳神】と言う名が 与えられています。 つまり、【八耳王と徐福】という 2人を重ねて物語が創られているという 二重構造になっています。 古事記には スサノヲの系譜が記されていて、 その後、六代目に 大国主が登場します。 ですが、神話では 大国主はスサノヲの娘を 正妻に迎えているので、 このお話と系図には 大きな矛盾が生じます。 矛盾していることが メッセージなのです!! 古事記は大国主の後も 系図を続け、 無名な神さまがズラズラと続き、 【十七世神】 (とおあまりななよのかみ) と、わざわざ書かれていますが、 実際には15柱しか書かれていません。 現代語訳では、 何故、15柱しか書かれていないのに、 17世というのか不明… などと注)があったりします。 これは出雲口伝を読んだ方なら、 すぐ分かるはずです。 17代の出雲主王の系譜です。 二柱足りないのは、 八耳王がスサノヲになっていたことと、 2代3代が兄がつくだけで 同じ名前だったので、 一柱となっていたからです。 出雲王国や出雲王とは書かずに、 しっかりそれを アピールしています。 分かる人が読めば、 その意図することが 理解できるように書いてあるのです。 万事この調子です。 そして、 【八千矛・八重波津身事件】も しっかり描かれているのですよ。 【国譲り】と【八岐大蛇】です。 国譲りのキャラクターたち せまられる方は 大国主(八千矛) 事代主(八重波津身) タケミナカタ せまる方は タケヒナドリ タケミカヅチ(穂日) フツヌシ(徐福) でしょ。 【八岐大蛇】とは 岐神→くなとがみ ですから、 【八岐】=【八衢】❇️です。 《八衢彦・八衢姫》の 出雲族を指します。 大蛇も蛇神を信仰する 出雲族のことですね。 大きいので、出雲王を指します。 それをスサノヲが 【天羽々斬剣】という 十束剣で斬るのです。 剣こそ徐福を表します。 そして、その名が 羽々斬り→【ハハ斬り】ですよ。 八八→【八千矛・八重波津身】 を斬ったというのです。 すると、大蛇の尾から 天叢雲剣が出て来ます。 これは、 2人の王が亡くなることで、 【天村雲】という 初代ヤマト大王が誕生し、 黄泉がえりをして 新たなステージへと昇華したことを 表します。 古事記のテーマは 【ウケヒ】というムスビと 【黄泉がえり】という循環です。 サイノカミと同じ本質です。 そして、 天叢雲剣を受け継いでいったのは 村雲の子孫である尾張氏。 大蛇の「尾が割れて」 天叢雲剣が現れています。 【尾割り→尾張】 スサノヲは 大蛇を退治して歌を詠みます。 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を そしてスサノヲは言うのです。 あ〜スガスガシイ… ですので、このお歌は、 八耳王が稲田姫と 出雲王国を創建したことを 意味しています。 ですが、スサノヲは二重構造で 徐福も表しますので、 徐福の時代の歌ともとれます。 出雲大社はその裏に 【八雲山】という巨大な磐座があり、 ここが八千矛王の埋葬地の 遙拝所としてお祀りされていた と言われます。 出雲大社と神魂神社には 【八雲の図】と言う天井画があり、 出雲大社 七つ 神魂神社 九つ と、雲が一つ移動していますね。 これは、西王家の村雲が 東王家の五十鈴姫の元へ 婿入りしたことを暗示します。 事代主は国譲りをしたあと、 古事記には 逆手を打って青柴垣にお隠れになった と記されます。 青柴垣とはヤマトの三輪山周辺の 山並みを言います。 黄泉の国へ旅立って、 三輪山へ行ったと言うのです。 その八重垣の中には 村雲の妻がいました。 【八千矛・八重波津】の死が ヤマト政権の誕生を生み出したのです。 つまり、このスサノヲのお歌は、 出雲王国創建と ヤマト政権創建の 2つの物語を歌っているのです。 2つの違う時代の 違う王朝を重ねて、 2つがつながっていることも 表現しています。 実際にヤマト政権とは 出雲王家の分家でしたね。 書けないことを描くチカラ… 人麻呂の能力の凄さに 毎回唸ります。 万事がこの調子です。 全て意味を持った表記なのです。 編纂当時は 意味が分かる人たちが 結構いたと思います。 永い年月が経つうちに 分からなくなったその意味も、 出雲口伝の登場で 黄泉がえりをしていると 思います。 凄い時代になりました。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 14 วันที่ผ่านมา

      ​@@user-fw5jy1zf7y 岩光さま もしかして、 お知らせ通知が届いていないかも 知れませんが、 コメントを送ってあります。↑ 見えていないと、 通知も届かないのですが、 岩光さまのコメント自体も、 隠れているコメントなので、 こちらで確認できません。 もし、見えていなければ 新しい順にしてみてください。 見えないコメントが出てきます。 岩光さまのコメント欄も そのようにして見ています。 YOSHI MIN さま 神風の伊勢・伊那佐山は 古事記で見つけたのですが、 【うまし国】が見つかりません。 もしかして、日本書紀の 是神風伊勢国、則常世之浪重浪帰国也、傍国可怜国也、欲居是国 この記述ですか?! 《常世之浪重浪帰国》 《永遠に続く国》という 凄い言葉ですね。 重浪→【しきなみ】 と読むのも興味深いです。 常世の浪・重浪 どちらもトーラスの中央部の ことですね。 伊勢の【ヰ】です。 【眞名井】に繋がる井戸です。 宇摩志阿斯訶備比古遅神の 生命力と重なります。 【甘美内宿禰】 (うましうちのすくね)が 武内宿禰の弟なんですよね。 そして、伊勢といえば、 【風】なんですよね〜 シナツヒコ🌬️ タツタ大社の神でもあります。 【龍】です。 浪とは、 風によって起こるものですね。 五瀬と宇摩志麻遅 五→五十 トーラスの中央で、 五十鈴と同じです。 瀬→浪 御陵は竈山神社 【竈】も 火と水が重なるところですね。 妹背(イモセ)→イセ イツセ→イセ 【五瀬と宇摩志麻遅】のセットが 【神風の伊勢】ですかね⁈ 【マジにウマい】ウマシマジ

  • @kazu-358
    @kazu-358 16 วันที่ผ่านมา

    鬼の語源は、姿が見えないもの「隠(おん)」が転じたそうで古代、「穏」と呼ばれた山の民。その語源が残っているのが長野県の戸隠や、奈良県の桜井市東部にある吉隠(よなばり) という説が「縄文」、「鬼」の2ワードでググると出て来ます。修験道の鬼も、ほんの2、3ググって苦もなく出て来た情報です。なのに六鬼はいない。いない理由は一応あったし、向日葵さんのコメントの✡️にアッと思いましたが、いないと言われるとかえって気になる、本当にいなかったのか… 鬼六という、目の玉を欲しがる鬼はいましたが…(鬼太郎を想像しちゃいました。鬼太郎のお母さんって「岩」さんなのですね)やっぱり六鬼さん、いなかったのかな 国東半島で、旧正月に六郷満山の寺院で行われていた、火祭りの修正鬼会に登場する鬼は、悪鬼ではなく祖先が姿を変えたものだそうですね。仏教とくっついて、弥勒信仰とも関係性あるそうな 隠岐島の鬼伝説も気になります。外敵にそなえ、島の周囲を囲ってたとか。いつの頃のお話しなのでしょう また『保元物語』に、源為朝が鬼の子孫と称する人と会話をし、隠蓑(かくれみの)隠笠(かくれがさ)、浮履(うきぐつ)といった神通力を有する宝物を所持していることが描写されているとか。忍者の道具みたいですよね。 飛鳥の、箕笠を被った「鬼」を思い出しました。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 15 วันที่ผ่านมา

      kazuさま 確証はないのですが、六鬼がいないのは九鬼と陰陽になるから? 「69」←陰陽図 すごく単純ですが個人的には「ありかも~~」です。 追伸  kazuさん、六鬼がいないのが気になるようでしたら探しまくってください。 あれば「そうか」に落ち着きます。 が・・・ なければ「6の【か】」に繋がる可能性が出てきます。 日抱神事の「か」(巫女)です←勝手に名付けてます。

    • @kazu-358
      @kazu-358 15 วันที่ผ่านมา

      ​​​​​​@@yoshi-min6875さま 巫女さんは6で「か」なのですね。ありがとうございます。後鬼さんは女性ですが、修験道に発展して女人禁制になったからでしょうか。 ☯️と6、9、陰陽五行にすでにアラビア数字が用いられてるのですね。 役行者さんは、六甲を日本行者の七修行場の一として開發したとか、鬼ナンバーは2つ数字が多いし、六鬼さん、いない可能性が高いかなと。 赤岩尾神社さんによると、藤原千方将軍伝説では、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼という四鬼の怪人を従え、どんな武器も弾き返す鋼のような体を持つ「金鬼」、強風を繰り出し敵を吹き飛ばす「風鬼」、水を操り洪水を起こして敵を溺れさせる「水鬼」、姿、気配を消して敵に突如襲いかかる「隠形鬼」、四人の怪人は忍者の原型と考えられているとか。どんな技だったのだろうと、想像してしまいます。 ちなみに、名張(なばり)の名前の由来は「隠れ里」の「隠」を、なばる、と呼んだ事に由来するようです。

    • @kazu-358
      @kazu-358 15 วันที่ผ่านมา

      のどかな飛鳥の景色と、伝えられる歴史とのギャップ、箱を開ければ赤いものが吹き出すようなという表現は、何とも的を獲てますね。それも飛鳥の魅力なのですよね 宇佐の伝承本を読んで下さってありがとうございました。豊玉姫と豊玉彦のくだり。やはりそうだったのかと。 夫がいた姫様達の類似点 日向神話との類似点 重蔵神社に残る系図 スセリヒメの母や子供が語られないこと 八上比売は大穴牟遅神の最初の妻であったが、須勢理毘売を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰った。そのため、その子を名づけて木俣神またの名を御井神という。 ならまちの猿田彦神社、なぜ市杵島姫と猿田彦さんが祀られているのか ようやく意味がわかったような気がします。アマテラスさんは幸神の太陽の女神、だけでは、天照大御神とスサノオ命の和解の意味がわからなかったのです TOLANDさんの宗像三女神やスセリヒメの動画も拝見して、もう2年も前にTH-camで伝えておられたんだなと。皆様のコメントやトキジク日記でのやり取りを経て、理解出来たのだと思います。 かぐや姫は罪を犯して追放されたとは、あんまりではありませんか?私の解釈が間違ってなければですが…

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 12 วันที่ผ่านมา

      @@kazu-358 さま 六甲が六鬼の代わりなのかも・・・・ 六甲姫を囲む1~9鬼 九鬼(くかみ)が「アチマリカム」と唱える意味もわかるような気がします。 アラビア数字は世界共通になったのは比較的新しい数字といえると思いますが それ以前からどこかで使われていたモノだと思います。 世に出てきたんでしょうね。 Mitsukoさんは宇陀で蓋をあけちゃったようですね。 そこから吹き出てきたピースを私たちは拾い集めているような気がします😁

    • @kazu-358
      @kazu-358 12 วันที่ผ่านมา

      @@yoshi-min6875 さま 六甲の六、気になってました。「隠」された姫ですよね。 天川村洞川から移住して唐樋の村を取り仕切ったのが四鬼家(磯城とは関係ないてすよね?)なのに、吉野は五鬼で、吉野の方が番号が後なんだなあ…とか、細かい事でフリーズして進んでませんでした。ありがとうございます。 多聞寺の本尊は、吉祥天、毘沙門天(紫雲に乗るとか)と善弐師童子で、 多聞寺は、宇陀の枝垂れ桜で有名な後藤又兵衛さんの息子さんが、又兵衛さんの一周忌に建てたのですね。 泣いた赤鬼より 「なにか、ひとつの、めぼしいことをやりとげるには、きっと、どこかで、いたい思いか、損をしなくちゃならないさ。だれかが、ぎせいに、身がわりに、なるのでなくちゃ、できないさ。」 アチマリカム、アキル文字で書かれているのですね。(ちなみに、以前テレビで、京都の金比羅山に立っている阿比留文字の石碑を見た時は、戸惑いを感じました)

  • @yoshi-min6875
    @yoshi-min6875 16 วันที่ผ่านมา

    私もインフォメーション楽しみにしております☺ 絵を見ているだけでも楽しいのですが、お洋服やバックになって色が入ると また印象がガラリとかわるので「おおー!」とワクワクしてみております☺ ヒマワリさんとのやり取りで滋賀の「稲部遺跡」をちょうど見ていたところです。 彦根市HPより 稲部遺跡群(稲部遺跡・稲部西遺跡)は、彦根市稲部町・彦富町、JR稲枝駅西側一帯に所在し、旧愛知川である文禄川に面した微高地上に立地します。弥生時代終末から古墳時代初頭(3世紀)の大規模かつ拠点的な集落遺跡です。西に隣接する稲部西遺跡とあわせた稲部遺跡群としては、遺跡の広がりは東西約500m以上、南北約200m以上と推定されます。 これまでの発掘調査では、文禄川の南岸に居住域があり、主に弥生時代終末から古墳時代初頭の竪穴建物、掘立柱建物、周溝付建物、大溝、方形区画溝、柱列、井戸などを確認しています。出土品としては、土器、石器、木製品、石器、銅鏃などがあります。土器では、外来系土器の数は少なく、大和、山陰、北陸、東海などからの搬入品あるいは模倣品が含まれます。手工業生産関連では、青銅器鋳造・鍛冶に関連する遺構・遺物、製作途中の木製品が出土しています。2019年には矢を入れる武具である靫(ゆき)が導水施設とみられる溝から出土し、重要遺物として注目されます この遺跡を見つけたのは「高彦根筋」からです😅

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 17 วันที่ผ่านมา

    小墾田ブルーのワンピース👗 烏川神社の盆踊りの ゆらゆらと揺れる提灯そのものですね。 なんとまあ、 凄い現象化です。 個人的に、 エメラルダスがとても好きです。 実物を手にとってみたいです。 アタカタスが何故、 九州に分家を造ったのか、 三姉妹の母は誰だったのか、 わたしもこの疑問が晴れたのは、 森さんのコメントからでした。 ずっと以前、 ある方のコメントで… とご紹介しましたが、 ご本人登場で嬉しく思います。 出雲も宇佐も、 そのことについては 語っていないのが不思議ですが、 当時の状況と その後の展開から推測すると、 それが一番、腑に落ちますよね。 宇佐家は 市杵島姫以前から栄えていたはずで、 市杵島姫が祖神となるのは いわゆる中興の祖でしょう。 この意味は、 徐福族と一緒になったことで、 全く別次元へと昇華した 宇佐家となったということです。 この内情が書けない宇佐の もどかしさ。 豊玉姫にしろ、 市杵島姫にしろ、 応神天皇にしろ、 書けないものばかりで 本当に消化不良の宇佐家です。 【ウガヤフキアエズ王朝】として 主張したい気持ちも分かります。 今回の内容は、 ちょうど昨日、 リアル神社さんにコメントしたことと 完全合致の内容となりました。 宇佐神宮や足一騰宮、 宮島の御山神社、 出雲の朝山神社を 紹介している動画です。 シンクロしていますね。

    • @malkotoisu9730
      @malkotoisu9730 16 วันที่ผ่านมา

      出雲口伝みたいにぶっちゃければよかったのにな

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      ​@@malkotoisu9730 さま ですね〜😆 ただ、宇佐家は一応、 政権内勢力だったから…。 正史編纂や 当時の中央の官僚に、 下毛君だったか、 宇佐家の人が加わっているんですよ。 本人たちも 書いてはまずいと思っていたでしょうね。 富家の方は アウトサイダーだし、 あくまで、 情報収集の重要性と それによる分析で 生き抜いて来たところが ありますね。 歴史が語り継がれているうちは、 まだその王国は生きていると思います。 この口伝が 2000年以上、 膨大な情報として 語り継がれたことで、 現在、ぶっちゃけちゃうことが できるわけで、 宇佐の方は ぶっちゃけたくても、 断片しか残っていなかったようですね。

    • @malkotoisu9730
      @malkotoisu9730 15 วันที่ผ่านมา

      ​@@Himawari-f4l 出雲から奈良を奪った加害者だというぶっちゃけられない心理もあるのかな

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 15 วันที่ผ่านมา

      @@malkotoisu9730 さま それは特に 物部にあるでしょうね。 宇佐と物部は 表裏一体ですから、 宇佐もそうなんだと思いますが、 絶対に書けなかったのは 徐福(市杵島姫)と 豊玉姫でしょうね。 日本の独立が かかっていましたから。

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 17 วันที่ผ่านมา

    今の政治家も日本を守るために断腸の思いで他国にひざまづいてるんだと思いたい

    • @nihontaro9
      @nihontaro9 15 วันที่ผ่านมา

      やっと返信が現れました。そうですよ。 国のために働く高市さんは、絶対いい思いしても良いと思うんです。他は、、もう何も言う事はありません。

    • @malkotoisu9730
      @malkotoisu9730 15 วันที่ผ่านมา

      @@nihontaro9 おれはだれにも期待はしない。へんにしょい込んで安倍さんみたいになると気の毒だし

  • @user-ze6gh3iy7z
    @user-ze6gh3iy7z 19 วันที่ผ่านมา

    川上村⁇? 信州の川上村ですか⁇?

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 19 วันที่ผ่านมา

      健次さま 奈良県吉野郡 川上村東川です

    • @user-ze6gh3iy7z
      @user-ze6gh3iy7z 19 วันที่ผ่านมา

      @@yoshi-min6875 奈良にも有るんですね川上村が、了解です。有り難うございます。

  • @yoshi-min6875
    @yoshi-min6875 20 วันที่ผ่านมา

    前回のアワヌコさんの動画コメントの吉備の土器について ウィキの元伊勢一覧で吉備地方に「伊勢」という対象名が数か所あります。 吉備だけにしかない「伊勢」の名前。 豊来入姫の巡幸地なのですが、なんでこんなに飛んだのかな~?と謎なのですが・・ 「吉備」を訴えているような気がしますね。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 20 วันที่ผ่านมา

      YOSHI MIN さま 東征軍は吉備を通って 吉備王国を滅ぼしています。 出雲口伝の記述だと 豊国軍は 豊玉姫の療養のために 宮島におり、 吉備王国を滅ぼしたのは 物部勢のようですが、 豊姫もいたかも知れませんね。 一緒にか、その後か‥ どちらにしても、 ヤマト入りする前の 通り道だと思います。 阿蘇(熊本弁)では、 【結う】を【吉備る】 と言うようです。 葛木御歳神社の【新高照丸】🗡️は 御歳山の砂鉄と 吉備の鉄で造られるようです。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 19 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま 唐古鍵遺跡から伊勢遺跡(滋賀)と纏向遺跡(奈良)に二手に分かれたと推測していたのですが・・ 吉備の「伊勢」は和歌山の名草という説があるということですが、 葛城御歳神社さんの吉備鉄も使うということなので 個人的には吉備も関係あるのだなと。 御歳神社の新しいご朱印が刀を持つ女性ですが、中心が「赤」ですね。←赤玉持ってますよ。 思わぬところでつながりました。 ありがとうございます😄 あ、うさぎは白地に赤(目)ですね🤗

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 18 วันที่ผ่านมา

      ​@@yoshi-min6875さま 吉備・名草は 豊姫の東征ルートを 豊鍬入姫の巡幸に 入れてあると思います。 【毛見郷🐰濱宮】です。 宇佐→安芸→吉備→紀伊→ヤマト と通ったと想像しています。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 17 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま 豊鍬入姫の巡幸 ①笠縫邑(大和) ②吉佐宮(丹波) ③伊豆加志本宮(初瀬あたり) ④奈久佐濱宮(紀国) ⑤名方濱宮(吉備) ⑥御室嶺上宮(三輪山) ④奈久佐濱宮(紀国)が物部一次東征のような気がするんです。 ①笠縫邑 ②吉佐宮(0次) ③伊豆加志本宮 ④奈久佐濱宮(1次) ⑤名方濱宮(2次) ⑥御室嶺上宮 【毛見郷濱宮】・・出雲伝承によるとイツセの父はヒコナギサタケ 古事記ではウガヤフキアエズとされていますね。 イツセの母は玉依姫。 イツセ・ウマシマジの母もウサ系になるのでしょうか(全くわかりませんが) (一番初めにウサの香りを感じたのは濱宮でした。また戻ってきちゃいました😱) 頭がごちゃごちゃなのでうまく説明ができませんが・・

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 17 วันที่ผ่านมา

      ​​​​@@yoshi-min6875さま 【イツセの母が玉依姫】とは 神武天皇の母のことですね。 神話のお話です。 ウマシマジの母ではないですね。 この玉依姫は タタラ五十鈴姫の母のことです。 【村雲の義母】 =【初代天皇の母】 正史は 第二次東征から 時間を遡って表記されているので、 山幸から海幸へ バトンタッチをしています。 第二次東征→ゼロ次東征 イツセの父の ヒコナギサタケは 神話でもありますが、 実際の人間でもあり、 第一次東征時の人です。 この場合、神話とは別の人です。 この【ヒコナギサタケ】が 神話で 豊姫の子につけられるのは、 物部の王子であると 主張しているように思えます。 彦火火出見は ニギハヤヒ徐福の子ですが、 神話では 山幸彦と神武天皇に その名がつけられます。 では、山幸彦の父が 徐福かといえば、 時代が違うので、 現象では違います。 ですが、徐福の子孫という意味で、 潜象では筋が通ります。 神武天皇は何人もいます。 ★イツセと兄弟の神武天皇 (ウマシマジ) ★彦ナギサタケの父の 神武天皇(イニエ) ★彦ナギサタケと 兄弟の神武天皇(イクメ) 母はそれぞれ違います。 【彦ナギサタケウガヤフキアエズ】 という名は 正史が作った名だと思います。 実際に生きた彦ナギサタケは 【ウガヤフキアエズ】とは 言われていなかったと 思います。 【ウガヤフキアエズ朝】 という名で呼ばれるように なったのも、 正史編纂後です。 徐福族の筑紫と融合した 縄文時代からの歴史のある豊国を そのまま記することができなったので、 【ウガヤフキアエズ朝】と 言っていると思います。 ウガヤフキアエズの妃が 玉依姫と正史に記されたので、 歴代のウガヤフキアエズの妃も 玉依姫となったと思います。 役職名です。 玉依姫は宇佐だけでなく、 どの地方にもいたと思います。 【巫女】という意味です。 時代をクルクル回りながら、 行ったり来たりして 伝承が創られていきます。 答えは幾重にも重なっており、 どこから何を見るか…です。 物部と宇佐は 徐福以来ずっと、 ウケヒを重ねているので、 イツセもウマシマジも 当然、宇佐の血筋であり、 宇佐と物部は最初から 表裏一体です。

  • @user-uk6ns2ur4t
    @user-uk6ns2ur4t 20 วันที่ผ่านมา

    ちなみに竈山神社内にあった松風幼稚園にわたしは通っていました😊

  • @user-uk6ns2ur4t
    @user-uk6ns2ur4t 20 วันที่ผ่านมา

    知らないのも無理はないです 地元で、名草山のふもとに住む者でも、知らない人が多いです わたしもその1人です 親父の代でもまともに伝承されてないなしいし 私たちには全く教えてなかったのですから😂 わたしは知るキッカケがあり知りましたが 何故か大阪きら嫁いできた母は少しは知ってたみたいで おぼろげに覚えているのは、山を少し掘れば、土偶などが出てくるみたい みたいな事を言っていました

  • @yoshi-min6875
    @yoshi-min6875 21 วันที่ผ่านมา

    稲光が印象的でした。 東川(うのかわ)がドンピシャのタイミングでした。 東とは十二支では「卯(うさぎ)」です。 「う(ノ)かわ」で「卯川」が隠れていたようです。 「昴」のようです。(東の太陽で日出る所かもしれませんね) 伊勢神宮内宮摂社「棒原神社・天須波留女御魂」 農耕神とも言われているようです。 農耕神・・味鋤高彦根命(雷神) 天なるや弟棚機の項がせる玉の御統(みすまる)~~~~ 五百箇御統(いおつみすまる)は昴とも表現されています。 東の空に昴が出る頃、天の川は北東~南西にかけて出ています。←弟棚機 倭姫巡行とは違うコースになりますが 照巣→→→四社神社(宇陀御杖村)→→御杖神社→→棒原神社→→江神社(伊勢市二見町) 〇四社神社・・酢の香り(Mitsukoさんが以前、照巣で嗅いだ香りはこれでしょうか) 〇江神社・・祭神・長口女命(天須波留女命の娘)     ・・「江之姫」と言い、弁才天と同じ神です。←宗像三女神がにおいます。 私なら東に昇る太陽をめがけてこの一直線コースをたどります。 倭姫命世記の五十鈴宮編はホツマツタエを参考にして書かれたようです。 いくつかの時代が折り重なっているようです。 ちょうどこのタイミングで私が見ているブログで「USA」を掲載されています。 まだ途中経過でどんな展開になるのかわかりませんがご紹介しておきます。 「雲は完璧な姿だと思う」 2024.8.13・8.17「USA」 皆さん、色々な角度からコメントされていますね。 とても勉強になります。 ありがとうございます😄

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 20 วันที่ผ่านมา

      YOSHI MIN さま 東川宮司さまも 【東=兎】とおっしゃっていました。 《兎の川》ですね。 月の兎・日の兎 日の兎は星なんですね。 【棒原神社】 どうして「スギハラ」と 読めるのか不思議。 やはり、【棒=鋤】ですかね⁉ 【棒(ぼう)=昴(ぼう)】🌟 【江神社】の 長口女命→弁財天 大歳御祖神 宇迦之御魂神 弁財天を市杵島姫とすると、 全部、徐福関係になりますね。 内宮→日 外宮→月 棒原神社・江神社→星 3つ揃いましたね。 倭姫は 籠神社へよっていないですね。 籠神社に伝承される 天照大御神とは 豊鍬入姫のことですね。 ひとり二役。☀🌕️ 天照大御神と豊受大神が 一緒に籠神社に滞在した 伝承があります。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 20 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま 皆様 棒・・鋤、あると思います。 私個人の目印としてのとらえ方になりますが、 棒(すぎ)・・杉 もう一つの読み方として「おいはら」と読むそうです。 お(5)い(2)・・52(反転) 下宮のせんぐう館入口には豊受大神宮正殿の上に北極星と星々(円になってる)の映像がありました。 もう、普通に出ているんだと思いました。 下宮正殿を向くと北極星を拝む形になります。 月夜見宮がある理由がこれかな?と(外宮が月なら月が二つになっちゃいます) 倭姫についてはまだまだパーツ集めの段階で時系列がごちゃごちゃです。 持統天皇時代・垂仁天皇時代・物部一次東征時代・それ以前が混ざっているような感じです。 イニエ大王が大和に来てないとなると、崇神天皇時代に起こったとされる出来事に違和感を感じます。 (この時代にオオタタネコが出てくるので) ちょっと沼ってます😂 以前お伝えした外宮内の伊我理・井中神社の大きな女性の顔があると書きました。 ようやくわかりました。 倭姫です。瀧原宮の看板にアニメ調の倭姫が描かれています。 よく似ているでしょ🤭

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 20 วันที่ผ่านมา

      @@yoshi-min6875 さま 【杉】ですか… そうかも🦆ですね。 豊受さんは北極星ですね。 きっちり、北を拝する位置です。 月夜見宮は 1時ぐらいの傾斜です。 ついでに見ると、 何と、内宮・月讀宮も ピッタリ真北🌟です。 凄い計算されていますね。 倭姫宮は若干ずれています。 月讀宮は お社が4つありますが、 ⽉読宮 ⽉読尊 ① ⽉読荒御魂宮 ⽉読尊荒御魂 ② 伊佐奈岐宮 伊弉諾尊 ③ 伊佐奈弥宮 伊弉冉尊 ④ 境内にある 【葭原神社(あしはらじんじゃ)】が 興味深いです。 佐佐津比古命(ささつひこのみこと) 宇加乃御玉御祖命 (うかのみたまのみおやのみこと) 伊加利比賣命(いかりひめのみこと) ウカノミタマは 海部の宇賀魂で、 御祖神🌟であり、 豊受さんになりますが、 【伊加利比賣】がいらっしゃる。 とすると、 佐佐津比古とは 村雲でしょうか?! 瀧原宮の姫の絵 似てますね。(⁠^⁠^⁠)

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 20 วันที่ผ่านมา

      ​@@yoshi-min6875さま 古事記の構図を整理すると、 天孫降臨から神武東征までは、 第二次東征→第一次東征 と時間を遡り、 第一次東征中に 村雲の家族が登場します。 ヤマトで即位してからは、 村雲の逸話になり、 第一次東征の ヤマト入り以降の逸話は (大彦と大田田根子) 崇神天皇の項に、 第二次東征の ヤマト入り以降の逸話は (沙本毘古・沙本毘売と 田道間守🍊) 垂仁天皇の項に 書かれています。 ちゃんと意識的に 分けてありますね。 だから、フトニ王の時代の大彦が 崇神天皇の御代に登場するのですね。 ストンと落ちました。 長髄彦は 第一次・第二次東征時 両方いますが、 この方はどちらも 神武東征の項になりますね。 ですので、 時間がかなり交差していて、 メビウスの輪のような 不思議な空間となっています。 欠史八代の出来事は そのほとんどが、 神武東征までの逸話か、 崇神・垂仁天皇の項に 描かれているので、 あのようにぽかっと空白に なっています。 ここに書かなかったことは、 吉備の逸話が そのままフトニ王の項に、 大彦の子孫と 武内宿禰の子孫は 第8代孝元天皇の項に、 第9代開化天皇の項には 日子坐王の子孫が 無茶苦茶詳しく記されています。 これらは マッチした時代のところへ 記述してありますね。 小説家や 台本作家の視点で 古事記を見ると、 すごくきっちり構成されていることが 分かります。 これも 出雲口伝があって 分かることですが…。

    • @yoshi-min6875
      @yoshi-min6875 19 วันที่ผ่านมา

      @@Himawari-f4l さま 古事記の整理ありがとうございます。 頑張って落とし込みます。 内宮も真北ですね。 天武・持統天皇朝にお社を創建との考え方もありそうですが(道教) これは、あくまで私見ですが、 内宮は南中の太陽ということでしょうか。 一番高く照らす太陽。 「高照姫」に繋がってきちゃうんですよね~~。 ああ、だから葛城御歳神社と内宮が同じ感じがしたんだと合致しました。 佐佐津比古命、可能性ありでしょうね。 まだ断言はできませんが、引き出しにいれておいてください😀

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y 21 วันที่ผ่านมา

    富の鳥鳴海命 出雲(出芽)王国の 第9代大穴持 (オホナモチ。主王。帝。) 先般渡来した 徐福(彦ホアカリ)と 配下二千人の海童等渡来人たちが起こしたクーデターにより 出雲王国は震撼。 八代大穴持の 神門(郷戸)八千矛命や 同副王(少名彦(コトシロ主))の 富の八重波津身命 らがそのクーデターの初手に ほぼ同時期に相次いで暗殺されると言う 驚天動地の大事件等から 跋扈するヤカラの渡来人たちとの共住を忌避した 出雲神族(王族)や 出雲人の半数が 出雲を後にして各地に散開していった。 この正に出雲王国危急存亡の秋(トキ)に 既定路線で有ったとは言え、 第9代大穴持に 富家の鳥鳴海命が即位して 自ら陣頭指揮をして体勢の立て直しと ヤカラの渡来人たちに対する巻き返しを 謀り 見事にクーデター勢を鎮圧、平定為さった。 因みに、副王の少名彦には 神門(郷戸)家の嗣子、 (味鋤)高彦命が就任した。 記紀が記した様に、 父王、八千矛命の突然の崩御や クーデターに 未だ若年で有った為か、 泣き暮らし為す術を知らなかったのでは? 要するに役立たずだった。 本来、副王の少名彦の責務として 出雲王国軍を照覧し統帥、指揮して クーデター勢力を制圧、鎮圧平定しなければ成らない所なのですが、

  • @nihontaro9
    @nihontaro9 22 วันที่ผ่านมา

    偶然だと思いますが、地名が中鴨🦆社 葛城御歳神社の宮司さんのお名前と同じで、社名は同じ読み方の烏川神社さんなのですね。珍しい読み方だと思っていました。 烏繋がりで例えば八咫烏の別称が仮に鵜の学名Phalacrocoracidaeは、烏の英名「cormorant shags」中世ラテン語の鵜「Cormorant ・corvus marinus 」に由来するらしい。(「海のカラス」の意)や、ラテン語ウルガタ訳では,鵜であることを示すためにメルグルス(「潜る者」)という語が使われています。鵜(Phalacrocorax)はペリカン科の鳥の類縁です。だそう。 また『古事記』上つ巻「大国主の神が天つ神に葦原中国を譲るとき、祝いの言葉を申し上げた櫛八玉神(饒速日?奇日方?トキジク日記の潜象神?)は、鵜に姿を変え、海の底に潜り、底の赤土を口でくわえてきて、たくさんの平らな皿を作り、海藻の茎を刈って板と杵を作って火を起こしました。宣るに、「私がキリ出した火🔥は、高天原では、神産巣日御祖命(神産巣日神)の宮殿に煤が垂れ下がるまで焚き上がる火であり、云々♪。忌部小人さんと柿本人麻呂さんは、出雲熊野大社の火切り臼火切り杵神事をこの様に官史に残していたのですね。 鵜(pelican)は鴨(goose) 🦆の意味も含まれるらしいので、まさに鳥さんだらけです。烏にも鴨にも繋がる西方からのユダヤ子孫饒速日🔥と、(北方)大和の東のドラビタ子孫の櫛火🔥方が両方でアマテルクニテル・・・クシタマ・・で大和の大元の始まりである天(海🏖)村雲を讃えている気がしてw、ここは向日葵🌻さんと同感です。何しろ歌の歌詞にも 西も東も分かれぬ娘〜♪ さても優しい巡礼姿〜♪ これって誰のことでしょうか? 村雲のお后の踏鞴五十鈴姫さんでしょうか。それとも饒速日のお后の市杵嶋姫さんでしょうか? 良い雰囲気ですね。 物部を大和へ引き入れた八咫烏の太田タネ彦が呼ばれたのが、なぜ金鵄の方ではなく烏だったのか、この辺からも来ている気がします。鳶は海中には潜らないのでしょうw。 御祭神がぎょうさんの十五柱なのに、十二社と呼ばれる謂れがあるのでしょうね。勤務先の会社のある新宿近くの中央公園にも十二社神社があるので楽しみです。

  • @Himawari-f4l
    @Himawari-f4l 22 วันที่ผ่านมา

    山あいに響く 長老のまったりとした歌声と 太鼓の音♪ 躍る村人の掛け声も 1/fのゆらぎを感じます。 盆踊りも 現代風に進化してゆく中で、 昔ながらの調べと響きを そのまま残している このような光景は 貴重になりましたね。 前半の暗闇の中で 虚ろに光る提灯の灯りが 神隠しにでも遭うように 別次元へといざないます。 【烏川神社】 天照大御神以前の神さまが ぞろぞろと沢山 お祀りされているのも 興味深いですね。 烏川とは 【八咫烏】と【鵜飼い】を かけているのでしょうか?! 葛木御歳神社の宮司さまは この地【東川(うのかわ)】との 御縁があるのでしょうね。 東へ東へ 東征をした神武天皇 更に約束の地を目指すシオンの民 そして、ドラビタ族🌱 渡れぬ川を渡り 新天地に根を張った人たちですね。 初代大王をお護りするお役目を 担っておられる宮司さまだと、 勝手に思っています。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y 22 วันที่ผ่านมา

    年代のカウント方法がちょっと変です。 出雲の伝承では 約4000年前に クナト王に誘われ率いられた インド先住のドラビタ族のクナ国の移民団が シベリア(バイカル湖)経由の北回りで 渡来した云々。 出雲が伸長しやがて王国となった。 他方、 先住民であった宇佐族は圧されて北九州地方に逼塞した。 それから暫く経って 北九州地方を支配していた 宇佐王家(宗家)を 出雲王国が言向け(説得)した事から 出雲王国に編入して 北九州地方が出雲王国の班図となって、 宇佐王家の惣領姫と 出雲王国の第6代大穴持(オホナモチ) 神門(郷戸)八束水臣津野の 親王、(神門)アタカタス命が 宇佐に下り、 宇佐王家(宗家)の惣領姫 (仮に)宇佐津姫命 (宇佐の姫さまくらいの意味でしか無い) と婚姻して 出雲王国との一応の主従関係から 出雲王国(神門王家)の分家、 胸肩(宗像)王家を 創設した。 (しかし、内実は 宇佐王家のママだった) この2世代目が 所謂、宗像三女神。 (神。は、王家王族を指す尊称) 時代は紀元前三世紀頃 九千年は 一年2倍暦に因るもので 実際には4500年程度ではないか知らん?

  • @hoakarikusitama6573
    @hoakarikusitama6573 23 วันที่ผ่านมา

    現在探求中ですが、伊邪那岐の「火」子はカグツチですが、別に「水」の子があってこれが貴船神でその系譜に天火明命があって水祭祀を継承した可能性があるように思えます。

    • @Himawari-f4l
      @Himawari-f4l 23 วันที่ผ่านมา

      hoakari kusutama さま ヒルコ💧はいかがですか?!

  • @AwaNuko
    @AwaNuko 23 วันที่ผ่านมา

    『吉備の弥生時代』という本に、搬入土器 (他地域からもたらされた土器)の動きという図が 出ています。 弥生時代後期後半(2世紀末)は、吉備に、 讃岐、山陰、畿内、ついで、東海、関東、 九州東北部~西部瀬戸内海から、土器が 搬入されています。 古墳時代(3世紀から)には、 讃岐、山陰、畿内、ついで、北陸、東海、 九州東北部~西部瀬戸内海、九州西北部、 九州南部に変わっています。 Wikipediaの「毛野」のページに、 「毛野を含む古墳時代の主な勢力」という図が あるのですが、卑弥呼の時代以前は、 主な勢力の中心にあったのが、 吉備だったという感じです。 楯築弥生墳丘墓は、間違いなく 孝霊天皇の墓だったと思います。 古のウサ族の神都は、歴史から消されてしまった。 そんな気がします。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y 24 วันที่ผ่านมา

    ネコ。 根子は、 (出雲系)大王(天皇)の称号の一つ。 大日本国天皇陛下の ヤマト言葉の 御称号が正に 大倭根子(日子)皇命。 ですから、 大田田根子。 も、大和王国(地方政権)の大王(天皇)。 偽書の古事記の天皇系図では 孝元天皇。 伝承では 三輪大王。 と呼ばれたとか。 大和王国の 登美王朝の初代大王(天皇)

  • @yamachandiy3669
    @yamachandiy3669 24 วันที่ผ่านมา

    国東にいらしたことが有るんですね。いかがでしたか?  国東半島は日本遺産で『鬼が仏になった里』とアピ―ルしていますが 豊後高田市や国東市にある修正鬼会(しゅじょうおにえ)と言う祭りもあり 鬼が現代まで息づいています。確かに鬼国です。 滝はないですが近くに日本一大きな摩崖仏のある熊野という地区もありますので紀国を想像してみるのも面白いですね。  国東半島には 山神社 山祇社などの大山祇命倭祀る神社が多いのですが 八坂神社 祇園社などスサノオ(出雲系神々)を祀る神社も多いんですよ。半島付け根には杵築(以前は木付又は木附)市が在りますが八坂川 天村川 等の川や鴨川の地名。古代史好きの心をクスグル名が沢山有りますし また出雲との繋がりをも想像してしまいますよね。