ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
江戸の庶民が暮らした「裏長屋」驚きの実態とは?th-cam.com/video/dav4UNttbMg/w-d-xo.html混浴はなぜ江戸時代に突然無くなってしまったのか?th-cam.com/video/RGZb_xl_DCk/w-d-xo.htmlチャンネル登録で応援お願いします🙇♀1クリックで登録できます⇒th-cam.com/channels/sWtIGrbeC4GgsZdpsJedig.html
6:10 家光は3代将軍ダルォ!?
@@ウィンガーディアムレヴィ男さん そうだよ(便乗)
蕎麦切りを開発してくれた人とあの濃いつけ汁を開発した人に感謝しかないなぁ
こいのは藪系ですね。
濃いのは身体に悪いけどな、特に糖分ダイエットに向かないんだよな、汁のせいで俺ぁ汁3の蕎麦湯7位薄くても食えるからいいけど…
長野県在住です。今、蕎麦の花が満開ですよ!蕎麦の花の花言葉は「あなたを救う」。やせた土地でもすぐに収穫できる事から来た花言葉でしょうか…
駅のホームで食べるかき揚げ蕎麦はなんであんなに美味いのだろうか…
サラリーマンしてた時の朝ゴハンは立喰いでした!うどんとソバを気分で替えてたので、おばちゃんに今日はどっち?って聞かれてました(笑)
立ち食いならコロッケを沈めてくたくたにして食べるコロッケそばも捨てがたい
なんでしょう、逆二八と言われるあのモサモサの麺がめちゃくちゃうまいんです…
駅の"ホーム"で蕎麦、、、?🤔
関西人の私は阪神尼崎の駅ナカ立ち食いを思い出します。美味いですよ(*^_^*)
TV時代劇の中村吉右衛門版の鬼平犯科帳のエンディング時に流れる映像の最後ら辺に出てくる二八蕎麦の屋台が本当に美味そうだったな
あの番組確実に飯テロだよ。グルメ番組かよ。
鬼平自身は、たまにうどんも食べてたよ。
長七郎江戸日記も忍者の六さんの蕎麦屋台で長七郎たちがよく蕎麦啜ってたね~。後は漫画だけど「そば屋・幻庵」面白いし読んでて腹が減ってくる。リイド社のウェブコミックでも無料配信してるのでぜひご一読を。
@@南華面読斎なんかめんどくさい ういーす1
素晴らしい!また見ます!頑張ってください
ありがとうございます!
古民家の天井裏から蕎麦の種の俵が見つかった話、なんか泣ける。ご先祖様の用心に感謝。
想像を絶する程の辛い思いをしたんでしょうね…
学生時代に天たまそばをよく食べてたなあ。そばを食べ終えて、天ぷらのかけらと卵が入ってる汁を飲むのがすごい好きだった
麺つゆの塩分と糖分比率はポカリと同じだそうです。身体が欲するイオンバランスだから美味しいのか!と聞いたとき納得しました。
中年以降になると、塩分摂取の抑制から、麺類の汁を飲む事は「禁止」になりますよ。
うまそう!!😊
蕎麦は東北地方でも年3回収穫出来て他の作物が嫌う痩せた土地が好みと言う凄い作物。東欧でも蕎麦入りのソーセージがあったり、王様が税金をかけなかったせいで盛んに栽培されたとか
フランスの北西ブルターニュも、痩せた土地だから蕎麦が栽培されます。クレープは元々、この地域の蕎麦を使ったもので(*^_^*)
@@schimitch3277ガレットですかね卵とか塩系の味付けがおいしいんですよね
みんなよく知ってるなぁ
ロシアのカーシャも蕎麦。
@@sunami808 「”蕎麦の”カーシャ」と言うように原料を形容する単語を付けなず、「カーシャ」と単純に言うと蕎麦とは限らない。カーシャというとリゾットやお粥みたいなタイプの料理の事であり、米や麦や燕麦、珍しい例で言うと黍などを使う場合もある。
小麦は高温多湿な気候と相性が悪く、梅雨が来るまでに収穫しないと品質が悪化します。従って、秋に撒いて梅雨前に収穫って運営です。東日本そして日本海側だと雪に閉ざされてしまうので、小麦が取れなかったのも影響してると思います。夏季よりも冬季の降水量に依存してる作物ですが降雪だとダメらしいですね。それでウドンから蕎麦に切り替わったのかなと思います。
埼玉を含む東京都の武蔵野界隈は小麦の生産地でうどんを食べたし、江戸でうどんが食べられてた理由でもある。他にも米が取れない山梨県がほうとう文化が生き残った理由でもある。
最近の日本海側の稲作地が軒並み蕎麦か大豆の耕作地に変わってます。補助金が出るからなのですが、ほったらかしで育つ蕎麦はかなり栽培されてますね〜蕎麦は花がちょっと臭いんですけどね
@@koinuya7756
発祥の地、長野県では基本真冬でも暖かい蕎麦は食わず、冷たいザル蕎麦を年中食べていますちなみにザル蕎麦に付け汁をあまりつけないで蕎麦自体を味わい噛まずに飲むとかいうのは、エセ通の東京都民が知ったかぶって言い出したのであって、実際のザル蕎麦の食べ方は食べる人が好きなだけ付け汁に浸し、美味しいと思って噛んだり飲んだりして喉越しや噛応えでコシを楽しんで食べるのが正しい食べ方です
元蕎麦屋店長です。すごく勉強になりました!
蕎麦の方がうどんよりビタミン類が含まれてて、ビタミン不足に有効だから食べられてたんですね。そんな動画をスパゲティを食べながら見てました。
😂
必殺、仕事人で夜中に中村主水が担ぎ棒の屋台で蕎麦を食べているシーンがありました。あのドラマの好いところは江戸情緒を良く再現している所なんですよね。
どうしてフィクションではなく「再現している」と言い切れるのですか?
池波正太郎先生は食べ物にも造詣の深い方でした池波先生の小説読んでると腹が減ってくるんだよなぁ梅安料理ごよみの料理はよく再現して食べてましたよ
@@まんごすちん-h5tどうして「再現していないフィクション」と思うのですか?
そばの値段が高騰したが幕府が値上げを認めなかったため、それまで蒸篭に普通に盛り付けて提供していた蕎麦屋が量を減らすために蒸篭をひっくり返して底にそばを盛った。だからいまだにざるそばはなぜか蒸篭の底に盛り付けられている。
育った地域はウドン文化だったけど以前からそば大好きでした。知ってか知らずかそこそこ栄養もあるし後から知ったけど食物繊維も豊富でお腹にはあっさり優しくグー👍カロリー摂りたい時はウドンだけどやっぱそばはうまい!
安いかけそばだと「真ん中にネギがちょっと」のイメージがあるがあれは江戸の屋台が「ウチはまっとうな店ですよ(前の客の「食い残し」使い回してないですよ)」のアピールから、と聞いたことがある同様に「割りばし」も「前の客が使ったのを再利用してませんよ」のアピールになるから庶民に普及したとか
家光(1604-1651)の時代に小麦をつなぎに使う方法が伝わったとありますが、家光が生まれるより前の文献(定勝寺文書、1574)で蕎麦切りの存在は確認できます。発明はそれよりも前と考えられます。小麦はあくまでつなぎの一種として後から加わったものでしょう。
イメージ画像のつもりかも知れませんが神田やぶは明治の創業です江戸時代から江戸市中で営業している蕎麦屋さんは一軒もありません麻布の更科や浅草の尾張屋などは全て江戸市外ですね江戸市中では店舗を構える蕎麦屋は無かったのです江戸市中で最も恐れられたのは火事です、だから屋内で火を使う飲食店は江戸市内にはありません全て屋外で調理する屋台です蕎麦、うどん、鰻、天ぷらなどすべて屋台ですまた深夜営業の屋台は江戸市中にもありましたが町木戸は閉まっているので隣町の屋台に食べに行く とはいきませんでした
シチュー食べたくなった。
め早
ほんと適当だなこういう動画
なんで蕎麦屋御三家のうちで最も古い砂場を出さないのかわからない。マイナーな尾張屋を出すくらいならなんでかな。砂場砂場は、暖簾分けの系譜をたどっても良いなら、秀吉の時代の大阪まで遡れる。江戸時代にすでに存在していた「砂場」のうち、「南千住砂場」は2018年現在も営業中。かつて存在した店舗巴町砂場東京都港区の虎ノ門(旧・芝西久保巴町)にて、1839年から2017年まで営業していた。江戸時代に記録がある「久保町すなば」が移転して存続したもの(なお、巴町砂場と、糀町から分岐した虎ノ門大坂屋砂場は、非常に近いところにある)。更科「永坂更科の蕎麦」寛政年間(1789 - 1801)に、信州更級出身の布屋太兵衛が、麻布永坂に「信州更科蕎 麦処布屋太兵衛」の看板を掲げたのが始まり。将軍家 の「御前そば」になったことで、その名が広まった。「品目御膳さらしなそば 麻布区永坂町拾三番地 更科本店布屋堀井松之助 電話新橋千四百四十番」と書かれた折り紙が書き写されている。- 清水春風著『東京名物百人一首』明治40年8月「永坂更科の蕎麦」より抜粋1824年(文政7年) - 『江戸買物独案内 飲食之部』、名物そば屋(御膳蕎麦処)18軒に、「信州 更科蕎麦所 麻布永坂高いなりまえ 布屋太兵衛」が挙げられている。御膳蕎麦とは、将軍家御用を承わり、江戸城中の愛顧を受けていたので、「御膳蕎麦」を創製、またこの一家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した。1848年(嘉永元年) - 『江戸名物酒飯手引草』には、120軒のそば屋の中の「更科」の屋号6軒中に「更科生そば麻布永坂町布袋屋太兵衛」と誤って挙げられている。蓮玉庵マイナーだけど上野の蓮玉庵個人的に食べによく行く。1859年(安政6年) - 信州出身の久保田八十八が現在地に、そば屋「蓮玉庵」として創業。「蓮玉庵」は創業1859年(安政6年)としているが、1925年(大正14年)出版された『食行脚 東京の巻』によれば、創業1862年(文久2年)と記されている。相違しているが、いずれにしても江戸時代後期の創業である。長寿庵ある意味一番メジャー元禄17年(1704年)京橋五郎兵衛町に「長寿庵」開業享保2年 (1717年)焼失 復興年代不詳 5代目惣七 宗七に改名明治5年(1872年)焼失により銀座竹川町に移転(銀座7丁目)明治8年(1875年)6代目「宗七」倉橋姓を名乗る明治10年(1877年)采女町に栗田作次郎初めてののれんわけ(采女会)明治30年(1897年)采女町長寿庵より吉田寅次郎のれんわけ(十日会)明治32年(1899年)麻布四之橋に村奈嘉与吉、のれんわけ(四之橋会)増田屋(釣瓶蕎麦)寛保二年(1742年)江戸時代中期、浅草吉原五十間口(現日本橋人形町)に「釣瓶蕎麦(つるべそば)」と「若松屋幸助」と云う蕎麦屋があった。明和五年(1768年)江戸時代後期、「若松屋幸助」の店を譲り受けた増田屋次郎介が、「釣瓶蕎麦」共に継承し、同九年、伏見町(現台東区千束四丁目)にのれん分け店「釣瓶蕎麦」と「増田屋清吉」と云う蕎麦屋が開店し、浅草名物となった。これが「増田屋」の名称の起源となり、創祖は「増田屋次郎介」である。安永四年(1775年)初代増田屋次郎介の店を、次郎介から半次郎が家業を継ぎ、さらに、天明三年(1783年)半四郎へと名義が変わった。他にもある。
@@RK-py7lv / 有力なコメント内容、ありがとうございます。「他にもある」とのことですが、続きをご紹介頂ければ嬉しい。
なんかめちゃ為になるし、面白い🎉ありがとうございます😊
蕎麦って、うまい店とそうじゃない店の落差が他の食べ物より大きい気がするなあ
15:14 二八そばが主流だけど、江戸前としては、やはり挽きぐるみの十割そばがいいなあ。美味い店だと本当に十割そば美味い。ちなみに「ざるそば」は海苔がかかってる蕎麦で、当時も今も蕎麦っ食いは「もりそば」を好むとある(池波正太郎)
そばつゆにみりんが入っているのを、ざるそばとするところもありますね。つまり、海苔で差別化したのではなく味で差別化してました。あと昔は、ざるとせいろで差別化していたところもあったらしい。他所から抜粋ざるそばが生まれた時代ではざる蕎麦は当時高価であった「みりん」が入っている事とされていました。つまりプレミアだったわけですね。今ではほとんどプレミアがありませんので、差をつけるという意味で海苔が乗ってきたわけですね。
江戸の蕎麦は周りに材料がそろってたから発展したとも聞く、蕎麦は群馬県、醤油は千葉県銚子、鰹節は静岡県、天ぷらは江戸前、野菜や薬味は練馬とかから入って来るので安く提供出来たと聞いている
家光は3代です
確かにその通りですがイエミツーサーンは父親ディスってたので本人的には2代目なんでしょう、お守りに二世権現と書かれた紙が入っていた程ですから。
@@nasia7650 仕事できなさそう…本人はどう思っていたとかどーでもいい^^ user-oh2id4qc3sのコメントは「一般的に家光は3代目だよー」ってコメントだぞっ☆ 本人どうとかしらんがな
投稿者が家光だったんだろ
家光は父親とどうというより大の家康崇拝で、日光の東照宮に墓があるくらいですから、二世権現とは、将軍の代々とは関係なく東照宮に祀られた二人目、というくらいな意味でしょう。少しヤボかもしれませんが、真面目に考えてみました😊
実の父母は?弟の忠長を3代将軍にしようとしてなかったけ?神君家康が却下したけど。。家光は家康と春日局との子と噂されてたんじゃなかった?当時?だから秀忠も家光も互いに避けてたんじゃないかな。。
水飢饉で、米の作れぬ讃岐に小麦を更にうどんの製法を伝えたお大師さま故に讃岐独自の讃岐うどんが生まれ九州から伝わり全国に伝たわった日本うどんとは別の物になった
天井裏の蕎麦種って何百万もする骨董品より感動するわ
江戸幕府二代将軍は家光じゃなくて秀忠だぞ
俺もそこ気になった
家光は3代将軍だな
誰か突っ込んでるかチェックしててよかった
明智 家光秀忠
長野県・木曽に「そば切り発祥の地」があります、山間なのでそば粉に自然薯やとろろ葵をつなぎにしたもので、この地が中山道にあったので、出稼ぎの人員や原料となる蕎麦粉、そして旅人や参勤交代と共に江戸へと入っていったという話もあります
[そばがき]を食せるのは私が知る限りその地区店のみ。
面白いのは、戦後に広まった東京の「中華そば」も発祥は長野から来た蕎麦屋が、蕎麦つゆをかえしに応用したラーメンであること。古い中華そば屋は、茹で担当を窯前といい、盛り付け担当をおてこという。
@@kawasakikr-1s315 正確には木曽路.確か塩尻市
美味しんぼで山岡サンが作ってたのが印象に残ってますね、ソバガキ。私は松本に観光に行った際、立ち寄ったソバ屋で食べました。
蕎麦がきは素朴な食べ方なので、プロが作るような綺麗な細工するのでなく単に食べるだけなら蕎麦粉買ってきて熱湯で練れば食べられますちょっと小腹満たしに良いです
落語の時ソバやソバ清他にも蕎麦の話だったりアクセントだったり海外の蕎麦粉の使った料理とか普段食べないのにたべたくなります喬太郎師匠が推し
蕎麦やうどんが食べたくなる動画でした。家にないので、とりあえずカップヌードルで我慢します。
会社の食堂で360円ほどでかけ蕎麦が当たり前に食べられるのホント感謝…今となっては駅の立ち食い蕎麦ではそんな価格では食べられない
そんな高いの?関西はまだそんなもんですよ?
@@gentmoto7381田舎はそば安くていいよね本当にありがたい
寒い日に立ち食い蕎麦屋に入って出てきた丼で手を温めてフーフーしながら蕎麦をすする風流だよなぁ
これを見ながら食べる蕎麦が最高に美味い
日本だと麺にしてる蕎麦だけどフランスのガレットやロシアのカーシャも美味しいですね
フランスの子供が小麦粉のガレットの方が好きと言っていてちょっと残念に思いましたイタリア、ブータン、朝鮮半島あたりだとそば粉を使う麺がありますね
カーシャはウラジオストクで日本にも行ってると言う船員さんが「これは蕎麦だよ」って教えてくれた。オートミールよりもカーシャの方が好みですね
@@sunami808 カーシャと単純に言うと温かい粥あるいはリゾット状の料理の事で、必ずしも蕎麦とは限らない。「”蕎麦の”カーシャ」と原料を形容するワードが付いてれば蕎麦だが、麦とか、燕麦(オートミールと同じ)とか、米とか色々なものがカーシャにされるなお、日本でも麺にする技術が伝来するより前の古い時代だとカーシャに似たものにして食ってた例もあるという
蕎麦はすするというより、手繰るという表現が好きです。
江戸時代の蕎麦の大喰い記録は山口屋吉兵衛さん(38歳)の二八そば並盛り63杯せいろに盛っているから63皿かな。
蕎麦が食べたくなった! 今まで知らなかった事を勉強できる良い動画をありがとう
すっかり蕎麦腹になってしまいました。仕事帰りにたち蕎麦に寄って帰ろうと思います❤美味しい動画ごちそうさまでした😊
いくつか動画を観ましたが、類似他チャンネルと比べて洞察力や情報量、構成が素晴らしい。締めの言葉も胸が熱くなる内容で涙が出そうになりました。全体的にサムネと内容が合っていない気がするので、官能的な感じより知性に訴えるようなサムネにしたら、もっと伸びるチャンネルだと思います。
ありがとうございます!ご意見参考にさせていただきます
この動画には、多くの間違いがあります。信じ込まないようにお願いします。この動画の間違いは、コメント欄で指摘されていますので、確認して下さい。
蕎麦打ち何ヶ月も練習したけど、すげー難しい。水加減が一番難しい
いやー見てたら食べたくなりますねー(ズズッ
時代劇とか時代小説でよく出てくるそば屋って旨そう。😊熊さん八っつぁんが仲良くそば食ってそう。
蕎麦の主役は麺以上に汁だと思います。1640年代頃に関東圏で醤油の生産が軌道に乗った事で、現代に続く蕎麦文化が花開いたと言えます。→醤油以前は味噌等で食していたそうです。
おつゆじゃいつも苦労する。という都都逸があるくらいだもんね。
一部の地域やお店では今でも味噌と大根でそばを食べる文化が残ってますね味醂や砂糖を使うようになったのも随分時代が下ってからのようなので先人の試行錯誤に感謝しています
蕎麦はイイ、どこに出しても恥ずかしくない。だが…
@@so8661山岡さんは黙っててもろてw
駅そば良く食べます。寒い日の温かいそばとつゆ美味しいです。山田うどんでもそば派です。
貝柱のあられそばだっけ?初めて知った、凄く旨そう♪
落語でも蕎麦、うどんの食べる仕草を扇子の小道具1つで表現して美味しい味わいを出してお客さんに見せるのは芸の真骨頂の1つ
その当時の「めんつゆ」はどんな味だったのかなぁ?かけそばともりそばのつゆの味が気になる。興味あるなぁ・・・
しょうゆの製法が確立した頃位にそばが流行ったと聞くなあ。花巻としっぽくは落語で聞いたことあったけど、あられは初めて聞くわ。でも、あられ美味しそう。ああ、こういうの聞くとそばが食べたくなってきたな。近所に立ち食いソバが欲しい…
今時期浅草尾張屋のあられ蕎麦高いらしい
うちは祖父のころから麺類と言えば冷麺でしたが、蕎麦も好きです。時々、茶蕎麦を無性に食べたくなります。
14:20〜天保の飢饉の時代の人のリアルな心が現代に形として残ってるって凄いね
蕎麦は身体が欲するんよな、わさびも合うし湿度の高い日本にはあのさっぱりが最高よ
蕎麦食べたくなってきた
海釣りの帰りに無性に天ぷら蕎麦が食べたくなります。その天ぷら蕎麦も、本格的な蕎麦屋のではなく、立ち食い蕎麦屋のが無性に食べたくなるのです、不思議と。以前隣り合わせになった方も、、、釣りの帰りに立ち食い蕎麦屋の天ぷら蕎麦が食べたくなる。それも無性に。俺病気なのかな?とおっしゃってました。自分も全く同じです!と答えたら、同志がいた!と、嬉しそうな顔しておられました。この無性に、ってのが、相当強い欲求であります。
世界中の国に何かしら麺があるのって面白いヒモ状にして食べたら美味しいって思い付いた人がそれぞれの国にいたってことだもんね
うまいという事ももちろんあると思うけど、そもそもは保存が目的だったと聞いたことがある。細長くすればよく乾燥するので保存に都合がいいし、茹で時間が短いので燃料をあまり使わなくて済むという事らしい。
未来では今の牛丼も江戸時代の蕎麦みたいに語られるのかね
今まで蕎麦の何が美味いのか分からなかったが最近家族で信州の新蕎麦食べに行ってバカ美味かった。それから蕎麦好きになった。
あの.-家光は三代ですが😢
うどんよりすぐに茹で上がるのが、忙しくせっかちな江戸庶民に愛された。
そうめんは?
@@JeanCocteau7そうめんは作る手間がうどんとは段違いだし、値段的に庶民の食べ物になれなかったんじゃないかな。
@@JeanCocteau7温水「そうめんは八奈見さんのように太るかr」八奈見「太ってません!」
博多商人はもっとせっかちなので予め下茹でしたうどん玉を温めるだけのうどんが定着した。ごぼうを揚げたものや魚のすり身を揚げたものを添えるとバランスも良い、というわけで。特にごぼうは揚げておいても食感があまり変わらない。
素麺は延ばす時に油を使うんですが、博多のうどんはそうめん並みにグルテンの性質を出した生地を薄く伸ばして切ります。下茹でして置いて温めて湯切りし、つゆを張った器へ入れるので、柔らかいがコシがあるものとなっています。
切り蕎麦は室町時代後期からあったと言われてますよ。長野善光寺で振舞ったという記録が残ってますし、江戸3大蕎麦屋の一つ「砂場」は大阪城築城をする時に、砂場のちかくで開業したからですね。
富士そば大好きです❤
都心は蕎麦屋優勢だが、武蔵野うどんとか、西東京と埼玉はうどん文化ですよね。あれは何でかね。因みに信州でも一部地域以外では「米が取れないから蕎麦」って考えが根深く、山奥の蕎麦屋は都会からの移住者だったりする。蕎麦自慢はお里が知れる、なんて諺もある。蕎麦どころの米コンプレックス。
なんか蕎麦が食いたくなってきた高い蕎麦じゃなくて立ち食いの駅蕎麦
1年前に都内から地方に引っ越してきて、近所に富士そばみたいな安価な蕎麦屋が無いのに今気づきました
私は、蕎麦は冷たく、うどんは温かい方が好きです。蕎麦:もりそば、ざるそば、桜そばうどん:カレーうどん、なべ焼きうどん、ちくわ天うどん
伊達時代村で食べた江戸の蕎麦を再現したとする味噌蕎麦が美味しかった。
つなぎに自然薯は逆に贅沢w
お好み焼きとかね
@@パントマイマー-e3s んまい!何でそんなに 美味いの?w お好み焼き考えた人天才!w
@@sur-515ptaud 細かいキャベツを入れた人も自然薯入れた人もソース作った人もマヨネーズかけて見た人も鰹節作った人も全員天才すぎるww
地元は基本自然薯そばだから普通だと思ってた
逆にキナ粉は蕎麦より粘性無いのにどうしてつなぎになるのだろう。昔からそう記述してる文献があるけども、いまいち信じられない
福島住みの蕎麦大好き人間です。なんであんなに蕎麦は美味いのだろうか…歴史を知ると蕎麦のありがたみがわかってより嬉しくなりますな。ちなみに自分は更科系の十割が一番好きですだ。縦1ミリ、横3ミリくらいで透き通ってるのにしっかりとコシのある蕎麦が大好物だっぺ。江戸時代の蕎麦を食べてみてえ。つゆも気になるだ。
蕎麦はビタミンが結構豊富だからこそ、白米ばかりの江戸では人気があったんですね。何か分かります。確か時代劇でも、昼行灯の同心(婿養子)が蕎麦屋でザルを啜るシーンがよくありましたが、あれも家での粗食を補う意味もあったんですかね?
2日に一回はお蕎麦食べてます。祖先に感謝。
立川談春が話していた、師匠の談志の年越しうどんのはなし結構好きなんだよな。
因みにラーメンを日本で最初に食べた人は“水戸黄門"でした、当時は(汁そば)と呼ばれていたそうでした。
駅の待合室側とホーム側 どっちにも立ち食いカウンター席が有る駅そば屋が有って 冬の寒い時にホーム側で食べる 七味をガンガンに振りかけた熱々の掛け蕎麦 美味かったなぁ...
時代劇とかの屋台で蕎麦をよく見るけど想像より高くてビックリ
そばが麺状の食品になったのは1574年、長野県にある定勝寺の古文書に書かれているものが初見と言われてもいますね
ラーメンとうどんは汁を味わうけど、蕎麦は麺を味わうような感覚なんだよなぁー
パスタが広く食べられるようになったのは、バブル期のイタ飯ブームの辺りからだと思います。それまではパスタではなくスパゲティとして認知され、メニューもミートソースかナポリタンくらいしか一般的でなかったのが、この時期に雨後の筍の如く乱立したイタリア料理屋のおかげで様々な種類のパスタやその食べ方が日本の食文化に定着したのではないかと…。
バブル期に流行ったのは正しい。ただしスパゲティという形でミートソースやナポリタンが主流だったのは戦後の話で、戦前の頃にはパスタ類は伝来しており、多様なソース(ただし、伝来時の先入観のためかトマトソース系が多い)のものが高級なレストランでは食えたただし、デュラム小麦のみを特定して使うという形態でもなかったので食感は今のものとは異なり、スパゲティそのものは「うどんに似たもの」としてパスタ類としてはマカロニの方が評価が高かった戦後になって、アメリカの影響でスパゲティは家庭でも茹でる人が居るけど、主に洋食屋で食える食事として庶民化された(根本的にはイタリア系移民がアメリカに伝来させた)。一方で、トマト缶などを使った簡便なレシピが広まり、ナポリタンやミートソースなど簡便なレシピが一般化、一方で凝った作り方をするレシピは一度後退するという事態に。
深夜営業だと、夜通し行灯をともしていると、油代もめっちゃかかりそう
〈なぜ江戸時代はうどんより蕎麦が人気だったのか?〉明日の天気予報をするとき、壁や障子めがけてぶん投げるとき、うどんだと皆貼り付かず落ちてしまい、予想が皆雨になるから。
12:29 早起きは三文の得。渋すぎる。
歴史とは関係ないが温かいそば、うどんを食べる時にはぜひ長野市善光寺の七味唐辛子を使ってくだされ!!
何かの文献に「ラーメンを初めて食べたのは水戸光圀」って書いてあった
蕎麦屋の屋台は歌舞伎の髪結い新三や法界坊に登場しますし落語(時そば)が有名です、うどんは助六に登場して福山のかつぎという出前持ちがけんどんばこという今でいうおかもちみたいなものに入れて出て来ます、助六がくわんぺら門兵衛の頭に胡椒をかけてうどんをぶっかける場面がありますがこれは江戸時代うどんに胡椒を薬味としてかけていた時代があったそうです
胡椒は唐辛子に人気をとられて和食ではマイノリティになっちゃったそうですね地域によっては唐辛子の仲間でも胡椒と呼ぶ文化が残っているのはその名残なのかと
時代劇でそばを食べてるのを見ると、お蕎麦が無性に食べたくなる癖がある。一番、おいしそうに食べるのは、中村主水と何でも屋のお加代。
いやぁ面白かったです 蕎麦が外来と言う事は中国大陸から渡り鳥にくっついて来たのかな?なんて考えると感慨深いよね 残念ながら僕はアレルギーで蕎麦は食べられませんが
圧倒的に蕎麦派だけど西側のうどん食べてから「うどんも美味しい」って事が分かった
ラーメンよりも蕎麦が好き!
明治初期の新聞のコラムに【近頃、蕎麦の屋台が激減して鍋焼きうどんの屋台ばかりになってしまった】と記述があります。東京で鍋焼きうどんって、少しそぐわないけど流行ってしまったンですね(^_^;)
関係ないですが、タイトルをみて「どんより」という言葉を使った文章、のネタを思い出してしまいましたw
素晴らしいまとめ方でした。
動画には全く触れられていませんが、蕎麦に対して長く税金がかからなかったのが原因かと。米を作る農家さんの小遣い稼ぎだったのです。山梨や長野には江戸を支える蕎麦畑が沢山ありました。値段が安くて腹を満たす、そりぁ人気も出ます。※地方歴史家さんとの対談で知りました。
幕府領では貴重な藩の特産物として栽培し「農民は蕎麦食うな」というお触れが出てた。その分、年貢減免みたい。
そばが食べたくなったけど、金欠で食べられない貧乏学生です😢
乾麺の蕎麦でも美味しいよ。めんつゆにネギを入れて。ワサビ、焼きのりも好し。ざる蕎麦で。最後にゆで汁を入れて 蕎麦湯で。
つ「ゆで太郎」
6:10 江戸幕府2代将軍は徳川秀忠なんだが…
このころから深夜営業のファフトフードがあったのが凄いなぁ。夜、出歩く人が意外と居たのかな?
時々、夜中にお腹すいたなーなんて思いながら目が覚めちゃう事なんて誰しもあるだろそんで、当時は各家庭に調理する設備も無ければ、冷凍食品みたいな便利な保存食も無いから時々気まぐれに外に出て夜食を食べに行く。そういう気まぐれを覚える人は全体の少数派なのかもしれないけど、江戸みたいな人口密集地なら立派な商売になるってわけよ
立ち食いそばが一番好き
蕎麦屋入ってサムネの半裸の達磨大師みたいな人いたらそっと帰ります😂
年間ほぼざるそば、夜食は温かいそばのパターンで食べてます。セットのカツ丼食べても締めはツルッとそばで締める派。
時代劇のように武士が帰宅途中に屋台で蕎麦を食べるということは無かったという
悲しい……現実。
ピーチいい声過ぎる
蕎麦アレルギーなので年越しは必ずおうどんでした。日本人なのにかなちぃ😢
アレルギーは我慢して食べ続ければ治るよ。命の危険もあるけど。今の時代アレルギー食物は食べさせるなってありますけど、アレルギーの食物を運良く死なずに食べ続ければ治ります。これが進化です。
そばはうどんと違ってクセがあるから地廻り醤油やカツオ出汁を使う、味の濃いつゆと出会って真価を発揮できた だから西では定着しなかったという話もあるよね (逆に関西は北前船の昆布や硬水と相性が良かった説
九州ですが自分だけ蕎麦派で寂しいです
街灯のない江戸時代に深夜に出歩けた治安の良さにちょっと驚いている
そりゃ町民はな。強力な体制で農民を押さえつけていた。直訴をし続ければ、いずれ死刑になるほどな。
な。
@@Kawasaki_Heavy_Industries_ltd. なるほどな
@@Kawasaki_Heavy_Industries_ltd. 。。。。。。
@@Kawasaki_Heavy_Industries_ltd. 元コメの人かわいそうなのでそういうのはやめましょうね
江戸の庶民が暮らした「裏長屋」驚きの実態とは?
th-cam.com/video/dav4UNttbMg/w-d-xo.html
混浴はなぜ江戸時代に突然無くなってしまったのか?
th-cam.com/video/RGZb_xl_DCk/w-d-xo.html
チャンネル登録で応援お願いします🙇♀1クリックで登録できます⇒th-cam.com/channels/sWtIGrbeC4GgsZdpsJedig.html
6:10 家光は3代将軍ダルォ!?
@@ウィンガーディアムレヴィ男さん そうだよ(便乗)
蕎麦切りを開発してくれた人とあの濃いつけ汁を開発した人に感謝しかないなぁ
こいのは藪系ですね。
濃いのは身体に悪いけどな、特に糖分
ダイエットに向かないんだよな、汁のせいで
俺ぁ汁3の蕎麦湯7位薄くても食えるからいいけど…
長野県在住です。今、蕎麦の花が満開ですよ!蕎麦の花の花言葉は「あなたを救う」。
やせた土地でもすぐに収穫できる事から来た花言葉でしょうか…
駅のホームで食べるかき揚げ蕎麦はなんであんなに美味いのだろうか…
サラリーマンしてた時の朝ゴハンは立喰いでした!
うどんとソバを気分で替えてたので、おばちゃんに今日はどっち?って聞かれてました(笑)
立ち食いならコロッケを沈めてくたくたにして食べるコロッケそばも捨てがたい
なんでしょう、逆二八と言われるあのモサモサの麺がめちゃくちゃうまいんです…
駅の"ホーム"で蕎麦、、、?🤔
関西人の私は阪神尼崎の駅ナカ立ち食いを思い出します。美味いですよ(*^_^*)
TV時代劇の中村吉右衛門版の鬼平犯科帳のエンディング時に流れる映像の最後ら辺に出てくる二八蕎麦の屋台が本当に美味そうだったな
あの番組確実に飯テロだよ。グルメ番組かよ。
鬼平自身は、たまにうどんも食べてたよ。
鬼平自身は、たまにうどんも食べてたよ。
長七郎江戸日記も忍者の六さんの蕎麦屋台で長七郎たちがよく蕎麦啜ってたね~。
後は漫画だけど「そば屋・幻庵」面白いし読んでて腹が減ってくる。
リイド社のウェブコミックでも無料配信してるのでぜひご一読を。
@@南華面読斎なんかめんどくさい
ういーす1
素晴らしい!また見ます!頑張ってください
ありがとうございます!
古民家の天井裏から蕎麦の種の俵が見つかった話、なんか泣ける。ご先祖様の用心に感謝。
想像を絶する程の辛い思いをしたんでしょうね…
学生時代に天たまそばをよく食べてたなあ。
そばを食べ終えて、天ぷらのかけらと卵が入ってる汁を飲むのがすごい好きだった
麺つゆの塩分と糖分比率はポカリと同じだそうです。
身体が欲するイオンバランスだから美味しいのか!と聞いたとき納得しました。
中年以降になると、塩分摂取の抑制から、麺類の汁を飲む事は「禁止」になりますよ。
うまそう!!😊
蕎麦は東北地方でも年3回収穫出来て他の作物が嫌う痩せた土地が好みと言う凄い作物。東欧でも蕎麦入りのソーセージがあったり、王様が税金をかけなかったせいで盛んに栽培されたとか
フランスの北西ブルターニュも、痩せた土地だから蕎麦が栽培されます。クレープは元々、この地域の蕎麦を使ったもので(*^_^*)
@@schimitch3277ガレットですかね
卵とか塩系の味付けがおいしいんですよね
みんなよく知ってるなぁ
ロシアのカーシャも蕎麦。
@@sunami808 「”蕎麦の”カーシャ」と言うように原料を形容する単語を付けなず、「カーシャ」と単純に言うと蕎麦とは限らない。
カーシャというとリゾットやお粥みたいなタイプの料理の事であり、米や麦や燕麦、珍しい例で言うと黍などを使う場合もある。
小麦は高温多湿な気候と相性が悪く、梅雨が来るまでに収穫しないと品質が悪化します。
従って、秋に撒いて梅雨前に収穫って運営です。東日本そして日本海側だと雪に閉ざされてしまうので、小麦が取れなかったのも影響してると思います。夏季よりも冬季の降水量に依存してる作物ですが降雪だとダメらしいですね。それでウドンから蕎麦に切り替わったのかなと思います。
埼玉を含む東京都の武蔵野界隈は小麦の生産地でうどんを食べたし、
江戸でうどんが食べられてた理由でもある。
他にも米が取れない山梨県がほうとう文化が生き残った理由でもある。
最近の日本海側の稲作地が軒並み蕎麦か大豆の耕作地に変わってます。
補助金が出るからなのですが、ほったらかしで育つ蕎麦はかなり栽培されてますね〜
蕎麦は花がちょっと臭いんですけどね
@@koinuya7756
発祥の地、長野県では基本真冬でも暖かい蕎麦は食わず、冷たいザル蕎麦を年中食べています
ちなみにザル蕎麦に付け汁をあまりつけないで蕎麦自体を味わい噛まずに飲むとかいうのは、エセ通の東京都民が知ったかぶって言い出したのであって、実際のザル蕎麦の食べ方は食べる人が好きなだけ付け汁に浸し、美味しいと思って噛んだり飲んだりして喉越しや噛応えでコシを楽しんで食べるのが正しい食べ方です
元蕎麦屋店長です。すごく勉強になりました!
蕎麦の方がうどんよりビタミン類が含まれてて、ビタミン不足に有効だから食べられてたんですね。
そんな動画をスパゲティを食べながら見てました。
😂
必殺、仕事人で夜中に中村主水が担ぎ棒の屋台で蕎麦を食べているシーンがありました。
あのドラマの好いところは江戸情緒を良く再現している所なんですよね。
どうしてフィクションではなく「再現している」と言い切れるのですか?
池波正太郎先生は食べ物にも造詣の深い方でした
池波先生の小説読んでると腹が減ってくるんだよなぁ
梅安料理ごよみの料理はよく再現して食べてましたよ
@@まんごすちん-h5tどうして「再現していないフィクション」と思うのですか?
そばの値段が高騰したが幕府が値上げを認めなかったため、それまで蒸篭に普通に盛り付けて提供していた蕎麦屋が量を減らすために蒸篭をひっくり返して底にそばを盛った。
だからいまだにざるそばはなぜか蒸篭の底に盛り付けられている。
育った地域はウドン文化だったけど以前からそば大好きでした。知ってか知らずかそこそこ栄養もあるし後から知ったけど食物繊維も豊富でお腹にはあっさり優しくグー👍カロリー摂りたい時はウドンだけどやっぱそばはうまい!
安いかけそばだと「真ん中にネギがちょっと」のイメージがあるが
あれは江戸の屋台が「ウチはまっとうな店ですよ(前の客の「食い残し」使い回してないですよ)」のアピールから、と聞いたことがある
同様に「割りばし」も「前の客が使ったのを再利用してませんよ」のアピールになるから庶民に普及したとか
家光(1604-1651)の時代に小麦をつなぎに使う方法が伝わったとありますが、家光が生まれるより前の文献(定勝寺文書、1574)で蕎麦切りの存在は確認できます。発明はそれよりも前と考えられます。小麦はあくまでつなぎの一種として後から加わったものでしょう。
イメージ画像のつもりかも知れませんが神田やぶは明治の創業です
江戸時代から江戸市中で営業している蕎麦屋さんは一軒もありません
麻布の更科や浅草の尾張屋などは全て江戸市外ですね
江戸市中では店舗を構える蕎麦屋は無かったのです
江戸市中で最も恐れられたのは火事です、だから屋内で火を使う飲食店は江戸市内にはありません
全て屋外で調理する屋台です
蕎麦、うどん、鰻、天ぷらなどすべて屋台です
また深夜営業の屋台は江戸市中にもありましたが町木戸は閉まっているので隣町の屋台に食べに行く とはいきませんでした
シチュー食べたくなった。
め早
ほんと適当だなこういう動画
なんで蕎麦屋御三家のうちで最も古い砂場を出さないのかわからない。マイナーな尾張屋を出すくらいならなんでかな。
砂場
砂場は、暖簾分けの系譜をたどっても良いなら、秀吉の時代の大阪まで遡れる。
江戸時代にすでに存在していた「砂場」のうち、「南千住砂場」は2018年現在も営業中。
かつて存在した店舗
巴町砂場
東京都港区の虎ノ門(旧・芝西久保巴町)にて、1839年から2017年まで営業していた。江戸時代に記録がある「久保町すなば」が移転して存続したもの(なお、巴町砂場と、糀町から分岐した虎ノ門大坂屋砂場は、非常に近いところにある)。
更科
「永坂更科の蕎麦」
寛政年間(1789 - 1801)に、信州更級出身の布屋太兵衛が、麻布永坂に「信州更科蕎 麦処布屋太兵衛」の看板を掲げたのが始まり。将軍家 の「御前そば」になったことで、その名が広まった。「品目御膳さらしなそば 麻布区永坂町拾三番地 更科本店布屋堀井松之助 電話新橋千四百四十番」と書かれた折り紙が書き写されている。
- 清水春風著『東京名物百人一首』明治40年8月「永坂更科の蕎麦」より抜粋
1824年(文政7年) - 『江戸買物独案内 飲食之部』、名物そば屋(御膳蕎麦処)18軒に、「信州 更科蕎麦所 麻布永坂高いなりまえ 布屋太兵衛」が挙げられている。御膳蕎麦とは、将軍家御用を承わり、江戸城中の愛顧を受けていたので、「御膳蕎麦」を創製、またこの一家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した。
1848年(嘉永元年) - 『江戸名物酒飯手引草』には、120軒のそば屋の中の「更科」の屋号6軒中に「更科生そば麻布永坂町布袋屋太兵衛」と誤って挙げられている。
蓮玉庵
マイナーだけど上野の蓮玉庵
個人的に食べによく行く。
1859年(安政6年) - 信州出身の久保田八十八が現在地に、そば屋「蓮玉庵」として創業。「蓮玉庵」は創業1859年(安政6年)としているが、1925年(大正14年)出版された『食行脚 東京の巻』によれば、創業1862年(文久2年)と記されている。相違しているが、いずれにしても江戸時代後期の創業である。
長寿庵
ある意味一番メジャー
元禄17年(1704年)京橋五郎兵衛町に「長寿庵」開業
享保2年 (1717年)焼失 復興
年代不詳 5代目惣七 宗七に改名
明治5年(1872年)焼失により銀座竹川町に移転(銀座7丁目)
明治8年(1875年)6代目「宗七」倉橋姓を名乗る
明治10年(1877年)采女町に栗田作次郎初めてののれんわけ(采女会)
明治30年(1897年)采女町長寿庵より吉田寅次郎のれんわけ(十日会)
明治32年(1899年)麻布四之橋に村奈嘉与吉、のれんわけ(四之橋会)
増田屋(釣瓶蕎麦)
寛保二年(1742年)江戸時代中期、浅草吉原五十間口(現日本橋人形町)に「釣瓶蕎麦(つるべそば)」と「若松屋幸助」と云う蕎麦屋があった。
明和五年(1768年)江戸時代後期、「若松屋幸助」の店を譲り受けた増田屋次郎介が、「釣瓶蕎麦」共に継承し、同九年、伏見町(現台東区千束四丁目)にのれん分け店「釣瓶蕎麦」と「増田屋清吉」と云う蕎麦屋が開店し、浅草名物となった。
これが「増田屋」の名称の起源となり、創祖は「増田屋次郎介」である。
安永四年(1775年)初代増田屋次郎介の店を、次郎介から半次郎が家業を継ぎ、さらに、天明三年(1783年)半四郎へと名義が変わった。
他にもある。
@@RK-py7lv / 有力なコメント内容、ありがとうございます。「他にもある」とのことですが、続きをご紹介頂ければ嬉しい。
なんかめちゃ為になるし、面白い🎉
ありがとうございます😊
ありがとうございます!
蕎麦って、うまい店とそうじゃない店の落差が他の食べ物より大きい気がするなあ
15:14 二八そばが主流だけど、江戸前としては、やはり挽きぐるみの十割そばがいいなあ。美味い店だと本当に十割そば美味い。
ちなみに「ざるそば」は海苔がかかってる蕎麦で、当時も今も蕎麦っ食いは「もりそば」を好むとある(池波正太郎)
そばつゆにみりんが入っているのを、ざるそばとするところもありますね。つまり、海苔で差別化したのではなく味で差別化してました。あと昔は、ざるとせいろで差別化していたところもあったらしい。
他所から抜粋
ざるそばが生まれた時代ではざる蕎麦は当時高価であった「みりん」が入っている事とされていました。つまりプレミアだったわけですね。今ではほとんどプレミアがありませんので、差をつけるという意味で海苔が乗ってきたわけですね。
江戸の蕎麦は周りに材料がそろってたから発展したとも聞く、蕎麦は群馬県、醤油は千葉県銚子、鰹節は静岡県、天ぷらは江戸前、野菜や薬味は練馬とかから入って来るので安く提供出来たと聞いている
家光は3代です
確かにその通りですがイエミツーサーンは父親ディスってたので本人的には2代目なんでしょう、お守りに二世権現と書かれた紙が入っていた程ですから。
@@nasia7650 仕事できなさそう…
本人はどう思っていたとかどーでもいい^^ user-oh2id4qc3sのコメントは「一般的に家光は3代目だよー」ってコメントだぞっ☆ 本人どうとかしらんがな
投稿者が家光だったんだろ
家光は父親とどうというより大の家康崇拝で、日光の東照宮に墓があるくらいですから、二世権現とは、将軍の代々とは関係なく東照宮に祀られた二人目、というくらいな意味でしょう。少しヤボかもしれませんが、真面目に考えてみました😊
実の父母は?弟の忠長を3代将軍にしようとしてなかったけ?神君家康が却下したけど。。家光は家康と春日局との子と噂されてたんじゃなかった?当時?
だから秀忠も家光も互いに避けてたんじゃないかな。。
水飢饉で、米の作れぬ讃岐に小麦を
更にうどんの製法を伝えたお大師さま
故に讃岐独自の讃岐うどんが生まれ
九州から伝わり全国に伝たわった日本うどんとは別の物になった
天井裏の蕎麦種って何百万もする骨董品より感動するわ
江戸幕府二代将軍は家光じゃなくて秀忠だぞ
俺もそこ気になった
家光は3代将軍だな
誰か突っ込んでるかチェックしててよかった
明智 家光秀忠
長野県・木曽に「そば切り発祥の地」があります、山間なのでそば粉に自然薯やとろろ葵をつなぎにしたもので、この地が中山道にあったので、出稼ぎの人員や原料となる蕎麦粉、そして旅人や参勤交代と共に江戸へと入っていったという話もあります
[そばがき]を食せるのは私が知る限りその地区店のみ。
面白いのは、戦後に広まった東京の「中華そば」も発祥は長野から来た蕎麦屋が、蕎麦つゆをかえしに応用したラーメンであること。
古い中華そば屋は、茹で担当を窯前といい、盛り付け担当をおてこという。
@@kawasakikr-1s315 正確には木曽路.確か塩尻市
美味しんぼで山岡サンが作ってたのが印象に残ってますね、ソバガキ。
私は松本に観光に行った際、立ち寄ったソバ屋で食べました。
蕎麦がきは素朴な食べ方なので、プロが作るような綺麗な細工するのでなく単に食べるだけなら蕎麦粉買ってきて熱湯で練れば食べられます
ちょっと小腹満たしに良いです
落語の時ソバやソバ清
他にも蕎麦の話だったりアクセントだったり
海外の蕎麦粉の使った料理とか
普段食べないのにたべたくなります
喬太郎師匠が推し
蕎麦やうどんが食べたくなる動画でした。家にないので、とりあえずカップヌードルで我慢します。
会社の食堂で360円ほどでかけ蕎麦が当たり前に食べられるのホント感謝…
今となっては駅の立ち食い蕎麦ではそんな価格では食べられない
そんな高いの?
関西はまだそんなもんですよ?
@@gentmoto7381田舎はそば安くていいよね本当にありがたい
寒い日に立ち食い蕎麦屋に入って出てきた丼で手を温めてフーフーしながら蕎麦をすする
風流だよなぁ
これを見ながら食べる蕎麦が最高に美味い
日本だと麺にしてる蕎麦だけどフランスのガレットやロシアのカーシャも美味しいですね
フランスの子供が小麦粉のガレットの方が好きと言っていてちょっと残念に思いました
イタリア、ブータン、朝鮮半島あたりだとそば粉を使う麺がありますね
カーシャはウラジオストクで日本にも行ってると言う船員さんが「これは蕎麦だよ」って教えてくれた。オートミールよりもカーシャの方が好みですね
@@sunami808 カーシャと単純に言うと温かい粥あるいはリゾット状の料理の事で、必ずしも蕎麦とは限らない。
「”蕎麦の”カーシャ」と原料を形容するワードが付いてれば蕎麦だが、麦とか、燕麦(オートミールと同じ)とか、米とか色々なものがカーシャにされる
なお、日本でも麺にする技術が伝来するより前の古い時代だとカーシャに似たものにして食ってた例もあるという
蕎麦はすするというより、手繰るという表現が好きです。
江戸時代の蕎麦の大喰い記録は山口屋吉兵衛さん(38歳)の
二八そば並盛り63杯
せいろに盛っているから63皿かな。
蕎麦が食べたくなった! 今まで知らなかった事を勉強できる良い動画をありがとう
すっかり蕎麦腹になってしまいました。仕事帰りにたち蕎麦に寄って帰ろうと思います❤美味しい動画ごちそうさまでした😊
いくつか動画を観ましたが、類似他チャンネルと比べて洞察力や情報量、構成が素晴らしい。
締めの言葉も胸が熱くなる内容で涙が出そうになりました。
全体的にサムネと内容が合っていない気がするので、官能的な感じより知性に訴えるようなサムネにしたら、もっと伸びるチャンネルだと思います。
ありがとうございます!
ご意見参考にさせていただきます
この動画には、多くの間違いがあります。信じ込まないようにお願いします。
この動画の間違いは、コメント欄で指摘されていますので、確認して下さい。
蕎麦打ち何ヶ月も練習したけど、すげー難しい。水加減が一番難しい
いやー
見てたら食べたくなりますねー(ズズッ
時代劇とか時代小説でよく出てくるそば屋って旨そう。😊
熊さん八っつぁんが仲良くそば食ってそう。
蕎麦の主役は麺以上に汁だと思います。
1640年代頃に関東圏で醤油の生産が軌道に乗った事で、現代に続く蕎麦文化が花開いたと言えます。
→醤油以前は味噌等で食していたそうです。
おつゆじゃいつも苦労する。という都都逸があるくらいだもんね。
一部の地域やお店では今でも味噌と大根でそばを食べる文化が残ってますね
味醂や砂糖を使うようになったのも随分時代が下ってからのようなので先人の試行錯誤に感謝しています
蕎麦はイイ、どこに出しても恥ずかしくない。だが…
@@so8661山岡さんは黙っててもろてw
駅そば良く食べます。寒い日の温かいそばとつゆ美味しいです。
山田うどんでもそば派です。
貝柱のあられそばだっけ?初めて知った、凄く旨そう♪
落語でも蕎麦、うどんの食べる仕草を扇子の小道具1つで表現して美味しい味わいを出してお客さんに見せるのは芸の真骨頂の1つ
その当時の「めんつゆ」はどんな味だったのかなぁ?
かけそばともりそばのつゆの味が気になる。
興味あるなぁ・・・
しょうゆの製法が確立した頃位にそばが流行ったと聞くなあ。
花巻としっぽくは落語で聞いたことあったけど、あられは初めて聞くわ。でも、あられ美味しそう。
ああ、こういうの聞くとそばが食べたくなってきたな。近所に立ち食いソバが欲しい…
今時期浅草尾張屋のあられ蕎麦高いらしい
うちは祖父のころから麺類と言えば冷麺でしたが、蕎麦も好きです。
時々、茶蕎麦を無性に食べたくなります。
14:20〜天保の飢饉の時代の人のリアルな心が現代に形として残ってるって凄いね
蕎麦は身体が欲するんよな、わさびも合うし湿度の高い日本にはあのさっぱりが最高よ
蕎麦食べたくなってきた
海釣りの帰りに無性に天ぷら蕎麦が食べたくなります。
その天ぷら蕎麦も、本格的な蕎麦屋のではなく、立ち食い蕎麦屋のが無性に食べたくなるのです、不思議と。
以前隣り合わせになった方も、、、
釣りの帰りに立ち食い蕎麦屋の天ぷら蕎麦が食べたくなる。
それも無性に。
俺病気なのかな?
とおっしゃってました。
自分も全く同じです!
と答えたら、同志がいた!
と、嬉しそうな顔しておられました。
この無性に、ってのが、相当強い欲求であります。
世界中の国に何かしら麺があるのって面白い
ヒモ状にして食べたら美味しいって思い付いた人がそれぞれの国にいたってことだもんね
うまいという事ももちろんあると思うけど、そもそもは保存が目的だったと聞いたことがある。
細長くすればよく乾燥するので保存に都合がいいし、茹で時間が短いので燃料をあまり使わなくて済むという事らしい。
未来では今の牛丼も江戸時代の蕎麦みたいに語られるのかね
今まで蕎麦の何が美味いのか分からなかったが最近家族で信州の新蕎麦食べに行ってバカ美味かった。それから蕎麦好きになった。
あの.-家光は三代ですが😢
うどんよりすぐに茹で上がるのが、忙しくせっかちな江戸庶民に愛された。
そうめんは?
@@JeanCocteau7
そうめんは作る手間がうどんとは段違いだし、値段的に庶民の食べ物になれなかったんじゃないかな。
@@JeanCocteau7
温水「そうめんは八奈見さんのように太るかr」
八奈見「太ってません!」
博多商人はもっとせっかちなので予め下茹でしたうどん玉を温めるだけのうどんが定着した。ごぼうを揚げたものや魚のすり身を揚げたものを添えるとバランスも良い、というわけで。特にごぼうは揚げておいても食感があまり変わらない。
素麺は延ばす時に油を使うんですが、博多のうどんはそうめん並みにグルテンの性質を出した生地を薄く伸ばして切ります。下茹でして置いて温めて湯切りし、つゆを張った器へ入れるので、柔らかいがコシがあるものとなっています。
切り蕎麦は室町時代後期からあったと言われてますよ。長野善光寺で振舞ったという記録が残ってますし、江戸3大蕎麦屋の一つ「砂場」は大阪城築城をする時に、砂場のちかくで開業したからですね。
富士そば大好きです❤
都心は蕎麦屋優勢だが、武蔵野うどんとか、西東京と埼玉はうどん文化ですよね。あれは何でかね。因みに信州でも一部地域以外では「米が取れないから蕎麦」って考えが根深く、山奥の蕎麦屋は都会からの移住者だったりする。蕎麦自慢はお里が知れる、なんて諺もある。蕎麦どころの米コンプレックス。
なんか蕎麦が食いたくなってきた
高い蕎麦じゃなくて立ち食いの駅蕎麦
1年前に都内から地方に引っ越してきて、近所に富士そばみたいな安価な蕎麦屋が無いのに今気づきました
私は、蕎麦は冷たく、うどんは温かい方が好きです。
蕎麦:もりそば、ざるそば、桜そば
うどん:カレーうどん、なべ焼きうどん、ちくわ天うどん
伊達時代村で食べた江戸の蕎麦を再現したとする味噌蕎麦が美味しかった。
つなぎに自然薯は逆に贅沢w
お好み焼きとかね
@@パントマイマー-e3s んまい!何でそんなに 美味いの?w お好み焼き考えた人天才!w
@@sur-515ptaud 細かいキャベツを入れた人も自然薯入れた人もソース作った人もマヨネーズかけて見た人も鰹節作った人も全員天才すぎるww
地元は基本自然薯そばだから普通だと思ってた
逆にキナ粉は蕎麦より粘性無いのにどうしてつなぎになるのだろう。昔からそう記述してる文献があるけども、いまいち信じられない
福島住みの蕎麦大好き人間です。
なんであんなに蕎麦は美味いのだろうか…
歴史を知ると蕎麦のありがたみがわかってより嬉しくなりますな。
ちなみに自分は更科系の十割が一番好きですだ。
縦1ミリ、横3ミリくらいで透き通ってるのにしっかりとコシのある蕎麦が大好物だっぺ。
江戸時代の蕎麦を食べてみてえ。
つゆも気になるだ。
蕎麦はビタミンが結構豊富だからこそ、白米ばかりの江戸では人気があったんですね。何か分かります。
確か時代劇でも、昼行灯の同心(婿養子)が蕎麦屋でザルを啜るシーンがよくありましたが、あれも家での粗食を補う意味もあったんですかね?
2日に一回はお蕎麦食べてます。
祖先に感謝。
立川談春が話していた、師匠の談志の年越しうどんのはなし結構好きなんだよな。
因みにラーメンを日本で最初に食べた人は“水戸黄門"でした、当時は(汁そば)と呼ばれていたそうでした。
駅の待合室側とホーム側 どっちにも立ち食いカウンター席が有る
駅そば屋が有って 冬の寒い時にホーム側で食べる 七味をガンガンに
振りかけた熱々の掛け蕎麦 美味かったなぁ...
時代劇とかの屋台で蕎麦をよく見るけど想像より高くてビックリ
そばが麺状の食品になったのは1574年、長野県にある定勝寺の古文書に書かれているものが初見と言われてもいますね
ラーメンとうどんは汁を味わうけど、蕎麦は麺を味わうような感覚なんだよなぁー
パスタが広く食べられるようになったのは、バブル期のイタ飯ブームの辺りからだと思います。
それまではパスタではなくスパゲティとして認知され、メニューもミートソースかナポリタンくらいしか一般的でなかったのが、この時期に雨後の筍の如く乱立したイタリア料理屋のおかげで様々な種類のパスタやその食べ方が日本の食文化に定着したのではないかと…。
バブル期に流行ったのは正しい。ただしスパゲティという形でミートソースやナポリタンが主流だったのは戦後の話で、
戦前の頃にはパスタ類は伝来しており、多様なソース(ただし、伝来時の先入観のためかトマトソース系が多い)のものが高級なレストランでは食えた
ただし、デュラム小麦のみを特定して使うという形態でもなかったので食感は今のものとは異なり、スパゲティそのものは「うどんに似たもの」としてパスタ類としてはマカロニの方が評価が高かった
戦後になって、アメリカの影響でスパゲティは家庭でも茹でる人が居るけど、
主に洋食屋で食える食事として庶民化された(根本的にはイタリア系移民がアメリカに伝来させた)。
一方で、トマト缶などを使った簡便なレシピが広まり、ナポリタンやミートソースなど簡便なレシピが一般化、一方で凝った作り方をするレシピは一度後退するという事態に。
深夜営業だと、夜通し行灯をともしていると、油代もめっちゃかかりそう
〈なぜ江戸時代はうどんより蕎麦が人気だったのか?〉明日の天気予報をするとき、壁や障子めがけてぶん投げるとき、うどんだと皆貼り付かず落ちてしまい、予想が皆雨になるから。
12:29 早起きは三文の得。渋すぎる。
歴史とは関係ないが温かいそば、うどんを食べる時にはぜひ長野市善光寺の七味唐辛子を使ってくだされ!!
何かの文献に「ラーメンを初めて食べたのは水戸光圀」って書いてあった
蕎麦屋の屋台は歌舞伎の髪結い新三や法界坊に登場しますし落語(時そば)が有名です、うどんは助六に登場して福山のかつぎという出前持ちがけんどんばこという今でいうおかもちみたいなものに入れて出て来ます、助六がくわんぺら門兵衛の頭に胡椒をかけてうどんをぶっかける場面がありますがこれは江戸時代うどんに胡椒を薬味としてかけていた時代があったそうです
胡椒は唐辛子に人気をとられて和食ではマイノリティになっちゃったそうですね
地域によっては唐辛子の仲間でも胡椒と呼ぶ文化が残っているのはその名残なのかと
時代劇でそばを食べてるのを見ると、お蕎麦が無性に食べたくなる癖がある。
一番、おいしそうに食べるのは、中村主水と何でも屋のお加代。
いやぁ面白かったです 蕎麦が外来と言う事は中国大陸から渡り鳥にくっついて来たのかな?なんて考えると感慨深いよね 残念ながら僕はアレルギーで蕎麦は食べられませんが
圧倒的に蕎麦派だけど
西側のうどん食べてから「うどんも美味しい」って事が分かった
ラーメンよりも蕎麦が好き!
明治初期の新聞のコラムに【近頃、蕎麦の屋台が激減して鍋焼きうどんの屋台ばかりになってしまった】と記述があります。東京で鍋焼きうどんって、少しそぐわないけど流行ってしまったンですね(^_^;)
関係ないですが、タイトルをみて「どんより」という言葉を使った文章、のネタを思い出してしまいましたw
素晴らしいまとめ方でした。
動画には全く触れられていませんが、蕎麦に対して長く税金がかからなかったのが原因かと。米を作る農家さんの小遣い稼ぎだったのです。山梨や長野には江戸を支える蕎麦畑が沢山ありました。値段が安くて腹を満たす、そりぁ人気も出ます。
※地方歴史家さんとの対談で知りました。
幕府領では貴重な藩の特産物として栽培し「農民は蕎麦食うな」というお触れが出てた。その分、年貢減免みたい。
そばが食べたくなったけど、金欠で食べられない貧乏学生です😢
乾麺の蕎麦でも美味しいよ。
めんつゆにネギを入れて。ワサビ、焼きのりも好し。
ざる蕎麦で。
最後にゆで汁を入れて 蕎麦湯で。
つ「ゆで太郎」
6:10 江戸幕府2代将軍は徳川秀忠なんだが…
このころから深夜営業のファフトフードがあったのが凄いなぁ。夜、出歩く人が意外と居たのかな?
時々、夜中にお腹すいたなーなんて思いながら目が覚めちゃう事なんて誰しもあるだろ
そんで、当時は各家庭に調理する設備も無ければ、冷凍食品みたいな便利な保存食も無いから時々気まぐれに外に出て夜食を食べに行く。
そういう気まぐれを覚える人は全体の少数派なのかもしれないけど、江戸みたいな人口密集地なら立派な商売になるってわけよ
立ち食いそばが一番好き
蕎麦屋入ってサムネの半裸の達磨大師みたいな人いたらそっと帰ります😂
年間ほぼざるそば、夜食は温かいそばのパターンで食べてます。セットのカツ丼食べても締めはツルッとそばで締める派。
時代劇のように武士が帰宅途中に屋台で蕎麦を食べるということは無かったという
悲しい……現実。
ピーチいい声過ぎる
蕎麦アレルギーなので年越しは必ずおうどんでした。日本人なのにかなちぃ😢
アレルギーは我慢して食べ続ければ治るよ。命の危険もあるけど。今の時代アレルギー食物は食べさせるなってありますけど、アレルギーの食物を運良く死なずに食べ続ければ治ります。これが進化です。
そばはうどんと違ってクセがあるから地廻り醤油やカツオ出汁を使う、味の濃いつゆと出会って真価を発揮できた
だから西では定着しなかったという話もあるよね (逆に関西は北前船の昆布や硬水と相性が良かった説
九州ですが自分だけ蕎麦派で寂しいです
街灯のない江戸時代に深夜に出歩けた治安の良さにちょっと驚いている
そりゃ町民はな。
強力な体制で農民を押さえつけていた。直訴をし続ければ、いずれ死刑になるほどな。
な。
@@Kawasaki_Heavy_Industries_ltd.
なるほどな
@@Kawasaki_Heavy_Industries_ltd.
。。。。。。
@@Kawasaki_Heavy_Industries_ltd.
元コメの人かわいそうなのでそういうのはやめましょうね