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2:44 これも有名なC57
サハ165さん、いつもご視聴いただき有難うございます。大宮に保管されている135号ですね。たまたまあったのを挿入したので、特段の意図はなかったんです。
正直今走ってる電車より貴重
函館の五稜郭機関区の近くに住んでいたので 中学生の頃よく 五稜郭機関区に遊びに行っていました D52は たくさん おりました 中でも468号機が 大好きで 最終番機ということで人気でしたある時 仲良くなった機関士の人に 468号のキャブに乗せてもらい 少し走ってくれました 感激でした夕方になると 急行ニセコを引いてきた C62が入ってきます まれにですが つばめのマークの 2号機も来ることもありました その時またまた キャブに乗せてもらいました 今では 考えられない事です
ご視聴頂きありがとうございます。五稜郭は何度か行きましたが、子供たちが運転席に乗っけてもらい構内走っていました。これには微笑ましさを通り越し、嫉妬しましたね。2号機には職員さんが載せてくれました。地上から登ると高いんですよね。お土産に石炭を貰いました。一つは燃やして香りを楽しみ、最後の一個はまだ持っています。急行用の練炭です。私が見た子供たちは貴殿だったかも知れませんね!
童謡『汽車ポッポ』(作曲/草川信、作詞/富原薫)は、御殿場線を走るD52の姿を見て富原氏が作詞した曲です。戦前の作詞なので戦後に歌詞の一部が変更されています。
hamasanTubaさん、ご視聴頂きありがとうございます。D52かどうか存じなかったのですが、御殿場線をモチーフにしたと聞いたことがあります。
D52 ヨ→コキ→ワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムコキワムワフ!
サハシ165さん、ご視聴頂きありがとうございます。D52すごいですよねぇ!
すごい!パワーがえげつない!😊
普段から特大パワー発動してますねwww!
D52 第二弾 楽しく拝見しました。私は相模原市淵野辺駅至近の鹿沼公園にて、静態保存機 D52 235(138)の補修を行なっているボランティア団体「相模原D52 保存会」の会員で「METAL235」と申します。138号機としても紹介いただき会員の1人として御礼申し上げます。毎月第2日曜、第4日曜日には補修作業(自由参加)と併せて12:00、15:00に長笛3回の吹鳴を行なっております。(雨天中止)運転台の操作撮影などもご協力できますので、機会がありましたらご来場ください。
ご視聴頂きありがとうございます。D52の保存会の会員様からコメント頂き恐縮です。野外展示なのでサビや塗装の劣化にたいそう気を配られておられることでしょうね。神奈川はD52を大切にされる方々が多くいつも感心しています。お役に立てるがどうかわかりませんが、皆様に大切にされているD52に是非再会したいです。
15~6才の頃に国府津機関区や谷峨駅辺りでD52を追いかけていたのが懐かしいです。当時は国府津機関区の詰所に口頭で許可を貰い、扇形車庫内にも入れたし、テンダ-に上がって写真を撮れました。懐かしい想い出です。
ご視聴頂きありがとうございます。中学生・小学生の所謂撮り鉄さんが増えたのはカメラや感光材料の普及によるものだったのでしょうね。
国府津にD52が多く居た理由は,戦時中に東海道線が爆撃や艦砲射撃で通行不能になった場合の迂回路として使用する為だった様です。現実にブルートレイン誕生後(何年だったか忘れましたが),東海道線が台風か何かで通れ無くなり,沼津から御殿場経由(D52牽引)で国府津まで来て東京へ帰ってきた,という話を聞いた事が有ります。
ご視聴頂きありがとうございました。コメントありがとうございます。戦時中の御殿場線の目的はその通り迂回路としての戦略的位置ですね。しかしながら、戦後もしばらく放置していたのは何か釈然としませんし、東海道線の予備として20輌ものD52を置いておかなくてもいいのでは?という疑問ですね。
@@Yukkuri-Lab 恐らく,半分以上は休車又は不良車だったと思われます。鉄道ファンの先達に伺いますと「(京都の)梅小路機関区の引込み線(現梅小路公園)や山陰線の二条・嵯峨駅に錆だらけの使えないD52やC53が並んでいたのを憶えている」との事でした…。昭和21年頃の梅小路の配置表を見ると確かにD52やD51が何両も配置されていましたから,国府津区も似た様な状況だったのかも…。
配置表にxがつぃているの走っております。可動率もD52は低く持て余してしまうから一時的に置いておいたのかもしれませんね。私は戦後の使われ方だったらD51で十分だったろうと思います。
国内のSLを人間で例えるならミカド=ボディビル軍団パシフィック=女性アスリート集団ハドソン=男性アスリート集団みたいな感じですかね?
ご視聴いただきありがとうございます。私は、蒸気を女性に例えるのはちょっと感覚に合わなくて。みんな男性ですね。
昭和43年の話が出ましたが吹田第一機関区にD5228、D52142の2両が健在で城東貨物線を走っていて、この2両が本州最後のD52となりました翌年の昭和44年3月頃に2両とも五稜郭機関区に転属(142号機は集煙装置を外される)北海道での使用期間は短くその年の9月から10月に掛けて2両とも廃車となりました。※吹田はD51に統一、D52は検査期限切れまで北海道での使用だったと推測されます
ご視聴頂きありがとうございます。城東貨物線と梅田貨物線でしたね。本州最後の点なのですが、御殿場線電化開業が昭和43年4月27日でラストランの72号が7月1日だったそうです。吹田のD52が本州最後になるわけですね。
D52形、戦後ボイラー改修工事車は、御殿場線と山陽本線瀬野ー八本松間の瀬野八峠越えに使われた。晩年は、北海道函館本線の貨物列車牽引で終焉を迎えた。
やはりD52の最大の見せ場は瀬野八だったのでしょう。
D52は軍需輸送の為に各メーカーに材料と番号を割り当てて敗色濃い戦況下の中、突貫工事で製造、予定では493両でしたが、207両が未完、結果的に183両分の欠番になった模様です。戦後は状態不良車を廃車、改造して160両に減車されています。御殿場線での運転終了後も暫くは国府津に扇形庫が残っていて、機関車も留置されていた事を良く覚えています。戦争時代の落し子のような悲劇的な部分が多数あった機関車だと言えますが、素晴らしい機関車だった事は間違いないでしょう。
ご視聴頂きありがとうございます。戦後は旅客需要が激増しましたから、作りすぎないで良かったのかもしれませんね。国府津は東京に近いせいもあり出かけることも多く、車内からも良く見えましたので、いつも横を通るたびに和やかな気持ちになったことを覚えています。ここだけは変わらんなぁという感覚ですね。いつの間にか破壊されましたが。
@@Yukkuri-Lab 様へ今となっては御殿場線沿線に比較的状態が良い保存機があるのがせめてもの慰めですね。
御殿場線周辺はD52に愛着を持っている方々が多いですね。圧縮空気で動くものもありますし。一台ぐらい戦時形があれば色々な意味でさらに嬉しいのですが、無理ですよね。
大型でマイナーでありながらも保存機が結構残っているのはいいですね。
石井さん、ご視聴頂きありがとうございます。D52の保存機は見たことが無いのですが、圧縮空気で動くのは一度見たいです。
D52、九州でも走ってたはずなのにあまり印象がないので貴重な写真ありがとうございます。D51で不足する貨物輸送に対応するための戦時設計の蒸気機関車、それまでの保守的な設計と違い最初から燃焼室付きとボイラー容量だけでなく燃焼効率も重視、さらにD51で問題になっていたリアヘビー問題も改善してます。ボイラー性能の良さがC62にも引き継がれてます。D51に隠れて地味な存在ですが現場での評価は良かっただけに残念な機関車ではあります…
Mr. Yattsun さん、ご視聴頂きありがとうございます。D52は九州を走っていたのでしょうか?D52はボイラー性能の良さとストーカー装備(例外あり)で長大編成にぴったりの機関車だったです。形態的にD51の大きな機関車の感じがするので、戦時形のD52が好きです。
@@Yukkuri-Lab 確か少数ほど門司機関区に6両ほど配備されD52 333号機(門デフ)79号機など鹿児島本線に配属されて走ってたようで雑誌で写真見たことありますよ。
本当ですね。Webで記事を見ました。全くノーマークでした。小倉付近を走っているD52がありました。C59が走れるのですからD52も可能なんでしょうね。
@@Yukkuri-Lab 九州も門司~長崎は山陽本線並みに軌道強化してたので甲線で走れる蒸気機関車を使えたようです。実際は貨物需要の関係で門司~鳥栖間での運用が主だったと思われます…
D52を見たのは、梅小路が初めてです残念ながら動いている姿は映像でしか知りません…父からは、北海道のD52の勇姿を聞いてはいましたが、やはり自分の体で感じたいものですが、夢のまた夢でしょう。
ご視聴頂きありがとうございます。蒸気機関車はC12でもD52でも汽笛は同じですし迫力は同じです。C62がもてはやされるのはそのスピードじゃないかと思います。もちろん超大編成の貨物を引っ張るD52はすごいですが、すごさだけなら奥中山のD51x3の1000トン牽引がありますものね。
残念ながら生きているD52には会ったことが無いです。小郡までの475系急行つくしの車窓から、柳井か柳井港の機関区跡にたたずむ1両を見たのが最初の出会い。城東貨物線の蛇草信号場へ写しに行ったら、吹田のカマ2両はわずか数日の差で渡道。昭和49年の夏の北海道、さすがに上下線の間に立つ撮影者は居ませんでしたが、今なら非常制動場合によっては・・・と言うぐらいのところでの撮影が当たり前でしたね。但し、今とは列車数も速度も違うし、ダイヤだけはしっかり頭に。
ご視聴頂きありがとうございます。吹田のD52はそれは残念でしたね。昭和49年はそんな感じだったでしょうか。撮影場所は今から思えばめちゃめちゃだったかも。私が嫌だったのは撮影者同士が怒鳴りあうところ。たかが蒸気の写真じゃんと思っていましたし、今でも同じ思いです。
中々、良い作品。です随所に、思い出す、気づく画面が有り〜私的には、「とても好きな」動画です。
ご視聴頂きありがとうございます。嬉しいコメントいただき勇気づけられます。しかしファンの方だけに受けるようではだめだそうです。
そうですかぁ〜1つの、「手法❓」ですが所蔵の画像と周辺の、変化とかの 解説も取り入れ「幅 歴史感」を、持たせたら〜どうですか❓まぁ、「賛否両論」有るかと思いますが、頑張って下さい💪応援🎉してます👍🎵❤
ご提案ありがとうございます。私もそれ大賛成です。ただ時間とお金がかかるので、今のところ近隣しかできないです。これからもよろしくお願いいたします。
そうですネ🎵情報収集、年代別の「情勢や背景」の説明と、編集。が、かなり時間が掛ると思います。次回の配信📡期待❤してます👍🎵
D52…生まれ在所が山陽本線で電化が最後になった区間だったので蒸機原体験がC62・D52・C59 でした。そのせいかD51・C57は中型機関車位に思ってました(^^);御殿場線や函館本線のD52は生憎体験できませんでしたが山陽本線のD52ははっきり覚えています。特に上下の貨物列車(当時の山陽本線の貨物列車はとにかく長い編成でした)が擦れ違うと本当に空がかげるほどでした(^^);おそらく鉄道90周年(1962/昭和37年)の記念で永年勤続者表彰の記念品かと存じますが、C621・D521・D601の揃い踏みの写真がJNRマークの入った立派な額縁入りで飾られたものが小学校時代の複数のクラスメイト宅(いずれも御尊父が国鉄職員)にありました。
ご視聴頂きありがとうございます。私自身昭和41年ごろでしょうか広島でD52を見ました。それが山陽の唯一のD52で以前動画にも使いました。昔は機関車の写真を撮るのは少なかったです。ですから、次回D52をやるときは山陽の写真を借りてこないとまとまりませんな。D52はボイラーの性能が突出して出来が良いので、優れた機関車だとは思いますが、ちょっとやり過ぎのスタイルで、戦時形の控えめな形が好きです。
やっぱりデカいですね。👀残念ながら、梅小路でしか見たことが有りません。😅💦正面からマジマジと見ると、ボイラー最前部が角張っているために、前面投影面積が大きく見えて、C62よりも太く感じました。😂💦動画を拝見すると、「非電化区間に乗り入れるから」、という理由以外での配置や運転が意外と多かったのですね。🧐超重量級の、長大貨物列車を牽引する姿を見てみたかったです。😌
ご視聴頂きありがとうございます。D52が走っていても遠くから見るとD51とそう変わりません。速いわけではないですしね。でも1200tを東海道でけん引できたのはD52だけですし、電気からのバトンタッチがちゃんとできたのはD52だったので、通して輸送力向上に役立ったのは間違いありません。山陽本線が電化できても、ELが無かったのですが、D52があれば困らなかったのですよね。
@@Yukkuri-Lab 様、返信ありがとうございます。山陽本線が電化してもELが無かった、というのは、やっぱりお金の問題だったのでしょうか?🙄時期的には、確か新幹線建設にお金が掛かっていた頃でしょうし、国鉄が赤字になり始めた頃でしたっけ。🧐
電化したけど、ELや電車が間に合わなかったと言うことだと思います。新幹線計画はありましたが、タイミング的にはまだ早い段階だと思いますね。また車両メーカーでも製造能力がありますので、その辺りが事情ではないかと思います。
赤ん坊の頃に御殿場線で牽引客車に乗ったそうですが、物心付いてませんでした。梅小路で実物を見てあまりの巨大さに驚いたものです。しかし最近のゆっくり事情は大変ですね。
ご視聴頂きありがとうございます。御殿場線を最近じっくりみたわけではないのですが、昔の情景を思い出させる駅の情景が残っているようですね。ゆっくりですが、継続含め検討しています。
室蘭線の石炭列車の場合、「積車となる岩見沢→室蘭は緩い下り勾配が連続するのでD52型単機で1200tが牽引可能だった」と昔の「鉄道ジャー〇ル」で見た気がする。
ご視聴頂きありがとうございます。石炭列車はあれは全部同じ重量なので、引き出せれば走ることができ、9600でも1000トン引っ張れたと思います。
@@Yukkuri-Lab 室蘭線ではD51単機で2400t石炭列車を牽引したそうです😀引き出せば惰性で室蘭までいけるかもしれませんが、引き出すのがたいへんですよね。DLでは単機で引き出せないと思いますし、壊れちゃいますね😅
D52形か・・・御殿場線迂回「特急つばめ」、山陽本線 瀬野八での補機(特に貨物の重連補機)を真っ先に連想しました。
ご視聴頂きありがとうございます。第三回目は山陽本線のD52をやってみたいと思います。瀬野八はかもめがD52が連結を自動で切り離して、客車のトレーンマークが去っていく写真がいつも頭にこびりついています。
えっ!(歓喜)これは首を長くして待つしかない!「かもめ」補機のD52形といえばテンダーにヘッドマークがついていましたね。個人的には貨物列車のみ見られたD52形重連後部補機が一番好きです。・・・瀬野八の補機と聞いて真っ先にD52形を連想するのは私だけ?
ご期待に沿えるように頑張ります。瀬野八ですがC59の補機運用もあったのですが、イメージで創作してみたいと思います。
えっ!?C59も補機やってたんですか!?初めて知りました!ちなみに電機ではS37年6月から「さくら」を牽引してきたEF60-500が153系「宮島」の後補機を時折、務めていたらしいです。
先日、京都鉄道博物館に行ったらD52とトキ900を紹介した新聞記事がありましたね。最も材料節約の点ばかり強調してましたが。D52に関しては函館本線でのお別れイベント等は無かったと記憶しています。蒸機機関区側に行ったらC622が炭水車しかなく前部はどこ?・・・と思ってたら検査場で結構なレベルでバラされてました。大規模修繕かな?
ご視聴頂きありがとうございます。やはりD52のお別れ等はなかったですね。組合闘争が盛んでそれどころじゃなかったのかもしれませんね。梅小路ですが、2ヶ月前に行った時はC57が検修庫にいましたが、今度はC62なんですね。
自分の見間違いか記憶違いでなければ、函館でD52のお別れ運転やっていたような気がします。お別れ運転の時は大沼駅の転車台でD52の撮影会?をやっていたような...。
ご視聴頂きありがとうございます。そうなんですね!是非その姿を見たいのですが、写真等ご存知の情報あれば教えていただきたいです。大沼の撮影会はC62-2でありましたね。
@@Yukkuri-Lab 返信遅れて申し訳ありません。昨日、函館でD52のお別れ運転をやったようなと書き込みをしましたが勘違いでした。申し訳ないです。自分がお別れ列車と勘違いしたのは北海道鉄道開通90周年 快速 大沼号です。これは1970年(昭和45年)11月にD52 468号機で客車数両を牽引して函館から大沼まで走りました。それで、特別なヘッドマークをつけたD52 468号機が大沼駅の転車台で撮影会を実施したようです。この列車の走る様子はNHKでも見れますね。書籍だと「星野勲写真集 あのころの道南・下北を旅する」という本にもこの列車を牽引したD52 468号機を大沼駅にて撮影した写真が掲載されています。
わざわざ訂正のご連絡までいただき恐縮です。なぜ函館口で蒸気お別れがなかったのか?知りたいものです。やはり組合との協議でうまくいかなかったためでしょうか。
パワーはあるけど軸重が重すぎて運用できる 路線が限定されてしまうD51の方が使いがってよく 日本中どこでも見れたけどD52は線路規格が一番上のところだけしか 運用出来なかったうえにC62やD62改造されたし 電気機関車やディーゼル機関車の方が扱い易く 機関士1人でよく電気や燃料があればいくらでも走行できるから効率よく スピードアップにも繋がるし長距離運用もでますし 蒸気機関車の時代は終わりなってしまった先週の大雨で線路の被害は酷く いま現在奥羽本線大館~鷹ノ巣、五能線五所川原~岩舘、津軽線蟹田~三厩など一部区間が運休したり その他でも列車の本数を減らしたりしています当然日本海側を行く貨物列車もほとんどが 運休しており太平洋側を経由してコンテナを運んでいます復旧時期はまだ未定で1ヶ月以上掛かるかもしれませんその代わりいいこともあって 田んぼアートを見るため弘南鉄道を使用したら平賀駅構内にE331の前にキ104が連結され状態で止まっておりましたまさかあの名コンビが見れるとは思っていなかったので滅茶苦茶興奮しました
いつもご視聴頂きありがとうございます。確かに軸重重いのですが、D62改造すると線路の点検は必要ですが、青森まで持って行けたし、山陽の大量廃車は避けられたかもしれません。その後のDD51の大量廃車と言うのは、将来の貨物量や輸送量の読み違いだったのですが、無煙化時期を遅らせてた時の財務効率をシミュレーションする中でD62改造をインプットしたらどうだったのか、気になります。東北の水害復旧は旅客のことだけ頭にあったのですが、貨物も走れないのですね。輸送コストやリードタイムに影響はあるのでしょうか?いやトラックの方が安上がりで早かったとかになってさらに貨物が減るとまずいですね。
駒込の撮影場所はおそらく駅の東方あたりじゃないでしょうか。右後方に陸橋らしきものが見えますがあれが山手線最後の踏切で有名な第二中里踏切だと思います。
ご視聴頂きありがとうございます。ヒントをいただき本当にありがとうございます。亡き係累が撮影したもので、前回忙しさにかまけて調べないうちに動画に使用してしまい気になっておりました。
結局D52がD62よりも、ながく使用されました。しかしC62.D52.D62は、ボイラーが太くイカツイですね。
ご視聴頂きありがとうございます。D62は電化を控えている東北だったので残念でした。奥中山で使うために線路を強化するならば要らないよと言うことだったのですね。ボイラー太くて押し出しがいいのですが、前から見ると車軸が細いのでかなりアンバランスです。
5:21 御殿場線に戦後D52が配備された理由として、御殿場に米軍の戦車を貨物で輸送するにあたってD51だと力不足だったが、余剰となっていたD52を運用してみたら効果抜群だったので配備した、という記述をネットで見たことがあります。生田緑地に保存されているD51 408がかつて御殿場線でD51三重連の一員だった、と「デゴイチものがたり」で読んだこともありますが、もし御殿場線にD51三重連が残っていたら…と想像するのも面白いものです。
ご視聴頂きありがとうございます。興味深いお話をお知らせいただき感謝いたします。戦車ですが、米軍の戦車だと国鉄の路線の車両限界に引っかかりませんか?61式戦車が自衛隊の鉄道部隊の関係で幅を車両限界の3m以下にしたことは有名な話ですが、米軍の戦車はもっと大きいのではなかろうか?と思ってしまいました。丹那トンネル後の御殿場線の重連の存在は初めて知りました。
@@Yukkuri-Lab ご返信ありがとうございます。その記事には米軍の戦車を輸送した方法についても記載がありまして、やはり米軍の戦車は建築限界に引っかかるとのことで七つのトンネルがある国府津〜御殿場ではなく沼津〜御殿場ルートで輸送したそうです。
なるほど。米軍輸送というのは納得いく話ですね。
@@Yukkuri-Lab さん実際米国は大型機関車の運用を好みますからね。D51ではこんなローカル線用の機関車で俺らのシャーマンやパーシング運べるわけがない特にパーシングはタイガーハンターの重戦車。D51では絶対牽引不能と考えたのでしょうね。
@@Degoichi_498 さん実は戦車というものは高さ方向は敵に見つかりにくくする目的で低く設計されているので軽便規格の日本でも高さ方向はそのままクリアできるのですが幅方向になると履帯を交換してやっとトンネル区間でもクリアする。これがシャーマン戦車でしたがタイガーハンターのパーシングはタイガーⅡさえ一撃で粉砕する強力なぜ主砲を搭載する為幅方向も広くなっており履帯を変える程度ではトンネル区間走行が不可能でした。
1:47辺りの岩場は礼文―大岸間の旧線ですね。道道に転用される前の映像ですからかなり貴重です。
ご視聴頂きありがとうございます。ここは当時の撮影ガイドでのおすすめポイントですね。
可愛そうといえばそうなのかもしれませんね。現場では信頼されているものの重量級が災いして転属線区が限られていたため行き先がなくなり一斉廃車のイメージがすごくあります。
ご視聴頂きありがとうございます。動画のテーブルの通り一斉廃車すごいですね。その分電気機関車が新製投入されたのでしょうが、このころは鉄道業界はかなり活況だったのでしょうか。
貨物用最大のマンモス機主に御殿場線、山陽本線室蘭本線の印象が強い!梅小路で初対面した時は走る姿を見れなくて残念無念に思ったのも事実!
ご視聴頂きありがとうございました。確かにでかくて圧倒されますが、走っている姿はD51そのものという印象しかないですよ。だから戦時形が好きなのです。
終戦直後の御殿場線で沼津と国府津の両機関区にD52が手厚く配備されていたこと、山手貨物線を驀進していたD52がいたこと、今度は何やら熱くなってきてしまいました。戦時設計から原設計へ復元されると傑作機だった!という逆転劇というか名誉挽回のストーリーを、やっぱり信じたくなります。
ご視聴頂きありがとうございます。D52はボイラーの設計がとても良い機関車だったと第一回目で解説しました。わたしは初期計画通りに製造できればやはり素晴らしい機関車だったと思います。御殿場線はパワーに余裕があるからD51より石炭消費が少なかった説もありましたが、やはり22両はおかしいですよね。東京にも大阪の城東貨物線のようなD52の活躍場所があったのは意外で面白かったと思います。
@@Yukkuri-Lab 様 御殿場線のD52大量配備の謎、皆様のコメントを読んでなるほど~と思いました。それ以外の理由がもしあるなら、国府津~熱海間は地震・津波災害にも豪雨による土砂災害にも脆弱性が高く、新幹線計画も当てにはできなかったという状況ゆえではないかと考えています。
御殿場線の御殿場駅に、D52飾ってありますね、沼津市の公園にもね
シリンダー部と煙突位置がズレたような姿は迫り出した力を感じます。この押し出しが魅力的です。峠越えより平坦部を長い貨物列車を牽引が主体で、当時の撮り鉄に、どのように見られていたのか。やはり本機は写真は少ないのですね。戦時型は無骨で古生代の恐竜を思わせるデザイン、重連で見たい罐でした。
ご視聴頂きありがとうございます。煙突の位置がユニークですよね。戦時型が恐竜を思わせるというコメントは戦時形にピッタリです。函館・室蘭のD52とC62x2の山線と日程の関係でどちらかとなれば、D52は劣勢でしたね。やはりD51と遠くから見てあまり違いはないですし。スピードも変わりないですし。消滅する時もそれほど騒がれた記憶もありません。
D52かっこいい!
ご視聴頂きありがとうございます。戦時形と通常形どちらがお好みですか?
C53同様京都でみたのが初めてだったけどやっぱでかいな…ー
ご視聴頂きありがとうございます。D52は梅小路きてから継子扱いされているように感じています。最近だとほとんど注目されないですね。
@@Yukkuri-Lab なんであのデカブツが埋もれるんだろ…
いつも同じところに置かれて、日干しも必要ではないかと思います。
@@Yukkuri-Lab それもそうですかね
確かに御殿場線と山陽本線だけでこれだけの数のD52が配置されたのが不思議です。魅力あるD52ですが改善前までは乗務員の方は怖かったかと思います。S20には209号機が東海道線でボイラー爆発事故を起こしその後も連続してボイラー爆発事故が起き乗務員の方が亡くなれております。S25までに状態不良により50両以上のD52が廃車されています。
ご視聴頂きありがとうございます。D52だけではなくD51も同じ爆発事故ありましたね。現在のELの配置状況を調べていないのですが、当時としても小郡の配置はすごいのではないでしょうか。これに東北本線のD62も入れるとかなり頼りにされていたと思っています。C62の種車としてだけでなく。
@@Yukkuri-Lab小郡 には確かトップナンバーが所属していたかと。
動画の中の昭和40年の小郡の配置には1号機は載っていますね。その後すぐ休車で記念物化していますね。
@@Yukkuri-Lab さん実際三河島事故の後水戸機関区からはこんな欠陥機関車(D51)に乗せておいて事故ったら俺らの責任?ふざけるな!と言う声が動労から噴出し今すぐこんな欠陥機関車追放してD52やD62寄越せ!それがダメなら最低でも島をクビにしろ!とストライキや遵法闘争ちらつかせて猛抗議した結果1、貨物線も電化して電気機関車に切り替える2、田端操車場から三河島駅を通らず直接隅田川貨物駅に行ける連絡線を作る。3、島秀雄を懲戒免職にして任命した十河総裁共々国鉄から永久追放する。案を動労に提示して実行する事でストを回避しています。
D52は御殿場や山北の保存機を撮影したけど大きさ迫力ありますね、地元東北なので改造でもD62を1両でも残してほしかったです。
ご視聴頂きありがとうございます。私はD62はD52以上に素晴らしい出来の機関車だと思っています。函館本線に配備すべきだったと。
出発進行。場内信号良し・・・・って一体どの位置で何を確認してるの?
ご視聴頂きありがとうございます。すみません。私は機関士さんの正確な合図と信号の確認方法を知りませんので、フィクションとしてご覧いただければと思います。
@@Yukkuri-Lab 場内信号機は駅構内の入り口を示すもので、これを確認するのは原則当該停車場入線時です。発車の際確認するのは出発信号機です。巷間言われる[出発進行]は出発信号機が進行現示(即ちG信号)の意味で、当然ながら[出発減速][出発注意][出発警戒][出発停止]も有り得ます。
@@SleeperExpressJNR ↑イベント等で駅員等が「出発進行!」と言うのが引っ掛かるオッサン😁
迫力ある感じがカッコイイなぁ〜
ご視聴頂きありがとうございます。わたしはD52もD51も戦時形が大好きです。
それめちゃくちゃ分かるよ
D52やはり迫力有りますね✨D51にスタイルこそ似ては居ますが巨大なボイラーとゴツゴツしたスタイルは目を引きますね😆SLのマンモスですよ☺️
ご視聴頂きありがとうございます。ボイラーは巨大ですが、煙室前端がRがないので、C62ほどは大きくは私には感じません。横から見ると煙突の位置とかがとても違和感あって魅力的に感じます。
D52はEF59の登場まで瀬野八で補機を務めていましたが、走行開放はどのように行っていたのでしょうか?
ご視聴頂きありがとうございます。圧縮空気でシリンダーを動かして自動連結器のレバーを持ち上げる仕組みで、私のC59特集で機構の動きがわかる動画があります。梅小路のC59-164を前から見るとその装置が付いているので良く分かります。
戦時中は、鉄道施設、港湾施設等の撮影は厳しく取り締まってたせいか📕にも決戦型D52の写真にお目にかかる機会が無い。
ご視聴頂きありがとうございます。そうですね。戦後に残ったものも写真に残るものは少ないです。動画でも言いましたが460号機は最後まで戦時形のスタイルを残していました。
実はD52は戦時型で限界設計という事だけでなく日本の機関車設計史上異色な一面があります。D52以前の日本の機関車はスモールエンジンポリシーと言って必要最小値の能力を持たせ、想定能力以上の使用には重連三重連で対応すると言う考え方でしたがD52は性能に余裕を持たせ、多少想定以上の仕業にも対応出来るようにするラージエンジンポリシーで設計されてます。また戦後のC62はこのD52のボイラーを流用していますがこれは外国では標準設計ポリシーと言ってボイラーなどのキーパーツは旅客貨物問わず共通のものを採用する方式をGHQが日本に教えた結果できたものです。こう言う点でD52やC62は日本機関車史上異色な機関車です。ちなみに戦後の電気機関車も殆ど全てがスモールエンジンポリシーで設計されておりラージエンジンポリシーで設計されたのはEH10EF66EF200この3形式だけです。この内ラージエンジンポリシーのメリットをこれでもかこれでもかとフルに発揮したのはEF66だけです。実は日本の電気機関車は低速で重量貨物列車牽引を行う事にほぼほぼ特化した設計故に苦手としていた仕業がふたつあり、いずれも東海道本線が絡んでます。一つは最高時速100キロ以上、牽引トン数1000トン以上の高速重量貨物列車牽引。これはEF66とEF200、後のEF210以降の機関車以外では対応できず、EF65だと最高時速を95キロ以下に落とすか、重連にするか、牽引トン数を500トン以下に落とすかでしか対応できません。もう1つは高速重量旅客列車牽引え、そんなの日本にあったっけ、と言うでしょうがこれは東京ー九州間ブルートレインのことです。九州ブルトレは牽引トン数が500トンを超え、しかも高速貨物列車と違い最高速度付近の走行時間が長い、と言うEF65には最早無理筋の仕業です。高速重量貨物列車は最高速度こそ100キロメートル、時にはそれ以上ですが、実際には停車駅が少ないので大体時速70キロメートル前後で走行する事が多く、最高速度でぶっ飛ばすのは本数が多い上に新快速や特別快速に追い回され退避可能駅まで必死に逃げる事を強いられる姫路ー米原間や西岐阜ー豊橋間ぐらいです。まあこの区間でも宮原貨物線や稲沢線の区間でゆっくり走ってモーターを冷やす事は出来ますが。ところが九州ブルトレはこのモーター冷却区間が無いに等しく、更に米原ー姫路間は深夜でも結構本数があるのでゆっくり走る余裕もなく、更にここでのんびり走ったら九州や首都圏でラッシュに引っかかり、特に平塚ー東京間は超過密ダイヤの上にろくに金も払わないくせに「俺らが飯のタネだから黙って俺らの言う事を聞け」と言う会社の金で豪遊しサボって昼寝するのが国会議員並みに得意なサラリーマンと言うクズ種族のお陰でスジも引けなくなるのでその前に必死に辿り着くためにのんびり走行は許されません。この為EF65時代は機関車に相当な無理をし、時には騙し騙し運転してやっと成り立つ仕業でした。本来EF66はこの仕業にはつかない前提での設計でしたが牽引トン数が30トン増やす事になり、最早EF65で誤魔化したら速度ダウンどころか機関車に深刻なダメージを与える事にもなるのでEF66に切り替えたのですが、このラージエンジンポリシーがもたらすポテンシャルの絶対的な余裕と言うメリットをフル活用しています。ただしEF200はラージエンジンポリシーの弊害である過剰性能が裏目に出たのですがもしこれを九州ブルトレ牽引に充当していたら、EF66以上の最高速度と圧倒的な牽引力の余裕を活かしてEF66でさえ不可能だった新快速と並行ダイヤを組む事が可能になり、博多を夕方18時30分ごろに出発して翌朝7時30分頃までに東京に到着する事も可能でしたね。よく電気設備ガーと言いますが、これは重通勤区間は基本EF200の重連でもなんとか対応出来るだけの電力容量はありますしないなら重通勤対応名目で設備強化すれば良いだけ。それが出来ないのは金も出さず口だけ出す日本のサラリーマンと言うがん細胞のおかげ
古家さん、ご視聴頂きましてありがとうございます。詳細な解説を頂きましてとても嬉しいです。ラージエンジンポリシーのC62のことは、C62-1の動画→ th-cam.com/video/yrYoLWa6-m0/w-d-xo.html で触れておりますので、是非ご覧いただきまたコメントください。EF65のブルトレですが、確か500番台が専用だったと記憶しておりビルの上から毎日夕方見ていました。EF66に変わってがっかりしてそれから見なくなりました。
D52どうしても、木製デフ、木製炭庫、カマボコドームの戦時設計をイメージしてしまいます。
ご視聴頂きありがとうございます。プラスしてランボードも木でした。D51もそうですが、なぜかとても好きなんですよね。戦時形は。C11だとちょっとなのですが。
今回もお疲れ様です。やっぱり自分が1番好きな機関車の第2弾は興味深いですね。D52で1番重装備なのって何号機でしょうか?それと戦時型と戦後改造型どちらが好みですか?僕は戦時型ですかね。B20とかとNゲージで並べると見応えがありますね。
ご視聴頂きありがとうございます。一番重装備は集煙装置をつけた吹田の340とか405でしょうか。重油タンクのほうが重いかもしれません。わたしは圧倒的に戦時型動画の417のタイプがすきです。通常形だとD51やC58みたいで。
室蘭線と函館線の超重量貨車がD52に重いならほかの機関車では無理ですか?D51ならめいいっぱい圧力上げて上手な機関士さんが運転して渾身の力で何とか引き出せますか?DD51は重連でしょうか?
プさん、ご視聴頂きありがとうございます。D52に重い場合は重連という手があります。実際に函館本線で出くわしたことがあります。DD51は単機ばかりだったとおもいますが、DL化の後のことは知りません。D52xD51という重連もありました。
@@Yukkuri-Lab この時代鉄道貨物が多かったのでしょうね。最強D52が必要だった時代ですね☺
今も函館本線・室蘭はかなり貨物量多いのでしょうか?
やはり、巨大な機関車は迫力があっていいですな御殿場線は30‰を超える勾配区間があるので、単機で運用できるⅮ52形が好まれたのでしょうな
いつもご視聴頂きありがとうございます。御殿場線はご承知の通り定数も低いですしD51で十分だったと思うのですが。
@@Yukkuri-Lab 日本全国どこでも活躍できるⅮ51と、相応の線路等級のある路線でないと使えないD52ですからね御殿場線はⅮ50が活躍していたので、大型機関車用の設備を有効利用する意味もあったのかもしれません
確かに、D50はD51より長いので、転車台にD52が入れる余地はありますね!
ここで止まったら引き出すのが辛いって言っていましたが、D52が辛いのならD52以外のカマは引き出せないでしょう!DD51は重連総括できたので重宝されたと思いますが、D52と同じことは誰もできません😀
ご視聴いただきありがとうございます。もしあそこで止まったらD 52でも大変なことになるでしょう。応援が必要かもしれません。そういえばD52の走っていた区間ではD51の重連はなかったとですね。
D52ってとことん不幸な気がします。D52に限らず無煙化が5年遅れたらかなり変わっていたでしょうね。
ご視聴頂きありがとうございます。第一次オイルショックで無煙化を遅らせる計画を始めるとか始めたとか新聞記事を読んだことがあり、小躍りしたことを覚えています。いずれにせよ、御殿場線電化とD52廃車は規定路線でしたが、北海道は蒸気だらけのままだったでしょうね。それがかえって後年DD51大量廃棄を避けられたかもしれません。
@@Yukkuri-Lab DD51って大量廃棄されたのですか?あまりイメージがないのですが。
DD51だけでなく、DE10もDD16も破棄というよりJR引き継がれず廃車ですね。一部は海外に無償譲渡されたりして、海外で使われずに朽ちたのもありました(タイ)
@@Yukkuri-Lab 電車、気動車化で機関車がいらなくなったかれですか?譲渡された車両が使われないで朽ちていくのは辛いです。キハ183は大丈夫だと思いますが。
👍️
ご視聴頂きありがとうございます。Goodサインありがとうございます。
そりゃ助手怒りますわ
ご視聴頂きありがとうございます。ところで機関助士ですが、動画作っていて、すべて機関助手としていたのですが、例の名作”ある機関助士”のタイトルで助手ではなく助士なんだぁ!と全部書き換えました。どちらでもいいのかなぁと思うのですがどうなんでしょう。
@@Yukkuri-Lab その作品で あぁ~、阿保の撮りぃ!言ってましてね
あっ!何か言っていたと思いましたが、そんなことを言っていたとは聞き取れませんでした!
初めてNゲージでD52を手に入れてD51やC62辺りと較べた印象として「建築限界ギリギリ迄何が何でも拡大化して一馬力でも大きく」みたいな設計陣の執念みたいのは模型からでも伝わって来た。後戦時中仕様の木製デフやら背の低いテンダーやらも異色そのもの。EF13や63系電車にD52とB20、何れも誕生経緯にWW2が深く関わった車輌だけど、戦争無き昭和10年代と云う「歴史IF」を敢えて考察した場合、生まれもしなかった車輌、無いが故に生まれた我々にとっては「幻の車輌」は如何程有ったのか気になる処。
ご視聴頂きありがとうございます。1回目のD52特集でそのあたりのことを詳しくやりましたので、是非合わせてごらんください。大東亜戦争が無ければ、電化も早く進行したことでしょうから、ひょっとしたらD52はともかくとして、C62等のハドソンは無かったかもしれないなと思っています。
2:44 これも有名なC57
サハ165さん、いつもご視聴いただき有難うございます。大宮に保管されている135号ですね。たまたまあったのを挿入したので、特段の意図はなかったんです。
正直今走ってる電車より貴重
函館の五稜郭機関区の近くに住んでいたので 中学生の頃よく 五稜郭機関区に遊びに行っていました D52は たくさん おりました 中でも
468号機が 大好きで 最終番機ということで人気でした
ある時 仲良くなった機関士の人に 468号のキャブに乗せてもらい 少し走ってくれました 感激でした
夕方になると 急行ニセコを引いてきた C62が入ってきます まれにですが つばめのマークの 2号機も来ることもありました その時
またまた キャブに乗せてもらいました 今では 考えられない事です
ご視聴頂きありがとうございます。
五稜郭は何度か行きましたが、子供たちが運転席に乗っけてもらい構内走っていました。これには微笑ましさを通り越し、嫉妬しましたね。
2号機には職員さんが載せてくれました。地上から登ると高いんですよね。お土産に石炭を貰いました。一つは燃やして香りを楽しみ、最後の一個はまだ持っています。急行用の練炭です。
私が見た子供たちは貴殿だったかも知れませんね!
童謡『汽車ポッポ』(作曲/草川信、作詞/富原薫)は、御殿場線を走るD52の姿を見て富原氏が作詞した曲です。
戦前の作詞なので戦後に歌詞の一部が変更されています。
hamasanTubaさん、ご視聴頂きありがとうございます。D52かどうか存じなかったのですが、御殿場線をモチーフにしたと聞いたことがあります。
D52 ヨ→コキ→ワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムワムコキワムワフ!
サハシ165さん、ご視聴頂きありがとうございます。
D52すごいですよねぇ!
すごい!パワーがえげつない!😊
普段から特大パワー発動してますねwww!
D52 第二弾 楽しく拝見しました。
私は相模原市淵野辺駅至近の鹿沼公園にて、静態保存機 D52 235(138)の補修を行なっているボランティア団体「相模原D52 保存会」の会員で「METAL235」と申します。138号機としても紹介いただき会員の1人として御礼申し上げます。
毎月第2日曜、第4日曜日には補修作業(自由参加)と併せて12:00、15:00に長笛3回の吹鳴を行なっております。(雨天中止)
運転台の操作撮影などもご協力できますので、機会がありましたらご来場ください。
ご視聴頂きありがとうございます。D52の保存会の会員様からコメント頂き恐縮です。野外展示なのでサビや塗装の劣化にたいそう気を配られておられることでしょうね。神奈川はD52を大切にされる方々が多くいつも感心しています。
お役に立てるがどうかわかりませんが、皆様に大切にされているD52に是非再会したいです。
15~6才の頃に国府津機関区や谷峨駅辺りでD52を追いかけていたのが懐かしいです。
当時は国府津機関区の詰所に口頭で許可を貰い、扇形車庫内にも入れたし、テンダ-に上がって写真を撮れました。懐かしい想い出です。
ご視聴頂きありがとうございます。中学生・小学生の所謂撮り鉄さんが増えたのはカメラや感光材料の普及によるものだったのでしょうね。
国府津にD52が多く居た理由は,
戦時中に東海道線が爆撃や艦砲射撃で通行不能になった場合の迂回路として使用する為だった様です。
現実にブルートレイン誕生後(何年だったか忘れましたが),東海道線が台風か何かで通れ無くなり,
沼津から御殿場経由(D52牽引)で国府津まで来て東京へ帰ってきた,という話を聞いた事が有ります。
ご視聴頂きありがとうございました。コメントありがとうございます。
戦時中の御殿場線の目的はその通り迂回路としての戦略的位置ですね。
しかしながら、戦後もしばらく放置していたのは何か釈然としませんし、東海道線の予備として20輌ものD52を置いておかなくてもいいのでは?という疑問ですね。
@@Yukkuri-Lab
恐らく,半分以上は休車又は不良車だったと思われます。
鉄道ファンの先達に伺いますと
「(京都の)梅小路機関区の引込み線(現梅小路公園)や山陰線の二条・嵯峨駅に錆だらけの使えないD52やC53が並んでいたのを憶えている」との事でした…。
昭和21年頃の梅小路の配置表を見ると確かにD52やD51が何両も配置されていましたから,国府津区も似た様な状況だったのかも…。
配置表にxがつぃているの走っております。可動率もD52は低く持て余してしまうから一時的に置いておいたのかもしれませんね。
私は戦後の使われ方だったらD51で十分だったろうと思います。
国内のSLを人間で例えるなら
ミカド=ボディビル軍団
パシフィック=女性アスリート集団
ハドソン=男性アスリート集団
みたいな感じですかね?
ご視聴いただきありがとうございます。私は、蒸気を女性に例えるのはちょっと感覚に合わなくて。みんな男性ですね。
昭和43年の話が出ましたが
吹田第一機関区にD5228、D52142の2両が健在で
城東貨物線を走っていて、この2両が本州最後のD52となりました
翌年の昭和44年3月頃に2両とも五稜郭機関区に転属
(142号機は集煙装置を外される)北海道での使用期間は短く
その年の9月から10月に掛けて2両とも廃車となりました。
※吹田はD51に統一、D52は検査期限切れまで北海道での使用だったと推測されます
ご視聴頂きありがとうございます。城東貨物線と梅田貨物線でしたね。本州最後の点なのですが、御殿場線電化開業が昭和43年4月27日でラストランの72号が7月1日だったそうです。吹田のD52が本州最後になるわけですね。
D52形、戦後ボイラー改修工事車は、御殿場線と山陽本線瀬野ー八本松間の瀬野八峠越えに使われた。
晩年は、北海道函館本線の貨物列車牽引で終焉を迎えた。
やはりD52の最大の見せ場は瀬野八だったのでしょう。
D52は軍需輸送の為に各メーカーに材料と番号を割り当てて敗色濃い戦況下の中、突貫工事で製造、予定では493両でしたが、207両が未完、結果的に183両分の欠番になった模様です。
戦後は状態不良車を廃車、改造して160両に減車されています。
御殿場線での運転終了後も暫くは国府津に扇形庫が残っていて、機関車も留置されていた事を良く覚えています。
戦争時代の落し子のような悲劇的な部分が多数あった機関車だと言えますが、素晴らしい機関車だった事は間違いないでしょう。
ご視聴頂きありがとうございます。戦後は旅客需要が激増しましたから、作りすぎないで良かったのかもしれませんね。
国府津は東京に近いせいもあり出かけることも多く、車内からも良く見えましたので、いつも横を通るたびに和やかな気持ちになったことを覚えています。ここだけは変わらんなぁという感覚ですね。いつの間にか破壊されましたが。
@@Yukkuri-Lab 様へ
今となっては御殿場線沿線に比較的状態が良い保存機があるのがせめてもの慰めですね。
御殿場線周辺はD52に愛着を持っている方々が多いですね。圧縮空気で動くものもありますし。一台ぐらい戦時形があれば色々な意味でさらに嬉しいのですが、無理ですよね。
大型でマイナーでありながらも保存機が結構残っているのはいいですね。
石井さん、ご視聴頂きありがとうございます。D52の保存機は見たことが無いのですが、圧縮空気で動くのは一度見たいです。
D52、九州でも走ってたはずなのにあまり印象がないので貴重な写真ありがとうございます。
D51で不足する貨物輸送に対応するための戦時設計の蒸気機関車、それまでの保守的な設計と違い最初から燃焼室付きとボイラー容量だけでなく燃焼効率も重視、さらにD51で問題になっていたリアヘビー問題も改善してます。ボイラー性能の良さがC62にも引き継がれてます。D51に隠れて地味な存在ですが現場での評価は良かっただけに残念な機関車ではあります…
Mr. Yattsun さん、ご視聴頂きありがとうございます。D52は九州を走っていたのでしょうか?
D52はボイラー性能の良さとストーカー装備(例外あり)で長大編成にぴったりの機関車だったです。
形態的にD51の大きな機関車の感じがするので、戦時形のD52が好きです。
@@Yukkuri-Lab
確か少数ほど門司機関区に6両ほど配備されD52 333号機(門デフ)79号機など鹿児島本線に配属されて走ってたようで雑誌で写真見たことありますよ。
本当ですね。Webで記事を見ました。全くノーマークでした。小倉付近を走っているD52がありました。
C59が走れるのですからD52も可能なんでしょうね。
@@Yukkuri-Lab
九州も門司~長崎は山陽本線並みに軌道強化してたので甲線で走れる蒸気機関車を使えたようです。実際は貨物需要の関係で門司~鳥栖間での運用が主だったと思われます…
D52を見たのは、梅小路が初めてです
残念ながら動いている姿は映像でしか知りません…
父からは、北海道のD52の勇姿を聞いてはいましたが、やはり自分の体で感じたいものですが、夢のまた夢でしょう。
ご視聴頂きありがとうございます。蒸気機関車はC12でもD52でも汽笛は同じですし迫力は同じです。C62がもてはやされるのはそのスピードじゃないかと思います。もちろん超大編成の貨物を引っ張るD52はすごいですが、すごさだけなら奥中山のD51x3の1000トン牽引がありますものね。
残念ながら生きているD52には会ったことが無いです。
小郡までの475系急行つくしの車窓から、柳井か柳井港の機関区跡にたたずむ1両を見たのが最初の出会い。
城東貨物線の蛇草信号場へ写しに行ったら、吹田のカマ2両はわずか数日の差で渡道。
昭和49年の夏の北海道、さすがに上下線の間に立つ撮影者は居ませんでしたが、今なら非常制動
場合によっては・・・と言うぐらいのところでの撮影が当たり前でしたね。
但し、今とは列車数も速度も違うし、ダイヤだけはしっかり頭に。
ご視聴頂きありがとうございます。吹田のD52はそれは残念でしたね。
昭和49年はそんな感じだったでしょうか。撮影場所は今から思えばめちゃめちゃだったかも。私が嫌だったのは撮影者同士が怒鳴りあうところ。たかが蒸気の写真じゃんと思っていましたし、今でも同じ思いです。
中々、良い作品。です
随所に、思い出す、気づく画面が有り〜
私的には、「とても好きな」動画です。
ご視聴頂きありがとうございます。嬉しいコメントいただき勇気づけられます。しかしファンの方だけに受けるようではだめだそうです。
そうですかぁ〜
1つの、「手法❓」ですが
所蔵の画像と周辺の、
変化とかの 解説も取り入れ「幅 歴史感」を、持たせたら〜
どうですか❓
まぁ、「賛否両論」有るかと思いますが、
頑張って下さい💪
応援🎉してます👍🎵❤
ご提案ありがとうございます。私もそれ大賛成です。ただ時間とお金がかかるので、今のところ近隣しかできないです。
これからもよろしくお願いいたします。
そうですネ🎵
情報収集、年代別の「情勢や背景」の説明と、編集。が、かなり時間が掛ると思います。
次回の配信📡期待❤してます👍🎵
D52…生まれ在所が山陽本線で電化が最後になった区間だったので蒸機原体験がC62・D52・C59 でした。そのせいかD51・C57は中型機関車位に思ってました(^^);
御殿場線や函館本線のD52は生憎体験できませんでしたが山陽本線のD52ははっきり覚えています。特に上下の貨物列車(当時の山陽本線の貨物列車はとにかく長い編成でした)が擦れ違うと本当に空がかげるほどでした(^^);
おそらく鉄道90周年(1962/昭和37年)の記念で永年勤続者表彰の記念品かと存じますが、C621・D521・D601の揃い踏みの写真がJNRマークの入った立派な額縁入りで飾られたものが小学校時代の複数のクラスメイト宅(いずれも御尊父が国鉄職員)にありました。
ご視聴頂きありがとうございます。私自身昭和41年ごろでしょうか広島でD52を見ました。それが山陽の唯一のD52で以前動画にも使いました。
昔は機関車の写真を撮るのは少なかったです。
ですから、次回D52をやるときは山陽の写真を借りてこないとまとまりませんな。
D52はボイラーの性能が突出して出来が良いので、優れた機関車だとは思いますが、ちょっとやり過ぎのスタイルで、戦時形の控えめな形が好きです。
やっぱりデカいですね。👀
残念ながら、梅小路でしか見たことが有りません。😅💦
正面からマジマジと見ると、ボイラー最前部が角張っているために、前面投影面積が大きく見えて、C62よりも太く感じました。😂💦
動画を拝見すると、「非電化区間に乗り入れるから」、という理由以外での配置や運転が意外と多かったのですね。🧐
超重量級の、長大貨物列車を牽引する姿を見てみたかったです。😌
ご視聴頂きありがとうございます。D52が走っていても遠くから見るとD51とそう変わりません。速いわけではないですしね。でも1200tを東海道でけん引できたのはD52だけですし、電気からのバトンタッチがちゃんとできたのはD52だったので、通して輸送力向上に役立ったのは間違いありません。山陽本線が電化できても、ELが無かったのですが、D52があれば困らなかったのですよね。
@@Yukkuri-Lab 様、
返信ありがとうございます。
山陽本線が電化してもELが無かった、というのは、やっぱりお金の問題だったのでしょうか?🙄
時期的には、確か新幹線建設にお金が掛かっていた頃でしょうし、国鉄が赤字になり始めた頃でしたっけ。🧐
電化したけど、ELや電車が間に合わなかったと言うことだと思います。新幹線計画はありましたが、タイミング的にはまだ早い段階だと思いますね。また車両メーカーでも製造能力がありますので、その辺りが事情ではないかと思います。
赤ん坊の頃に御殿場線で牽引客車に乗ったそうですが、物心付いてませんでした。
梅小路で実物を見てあまりの巨大さに驚いたものです。
しかし最近のゆっくり事情は大変ですね。
ご視聴頂きありがとうございます。御殿場線を最近じっくりみたわけではないのですが、昔の情景を思い出させる駅の情景が残っているようですね。
ゆっくりですが、継続含め検討しています。
室蘭線の石炭列車の場合、「積車となる岩見沢→室蘭は緩い下り勾配が連続するのでD52型単機で1200tが牽引可能だった」と昔の「鉄道ジャー〇ル」で見た気がする。
ご視聴頂きありがとうございます。石炭列車はあれは全部同じ重量なので、引き出せれば走ることができ、9600でも1000トン引っ張れたと思います。
@@Yukkuri-Lab 室蘭線ではD51単機で2400t石炭列車を牽引したそうです😀引き出せば惰性で室蘭までいけるかもしれませんが、引き出すのがたいへんですよね。DLでは単機で引き出せないと思いますし、壊れちゃいますね😅
D52形か・・・
御殿場線迂回「特急つばめ」、山陽本線 瀬野八での補機(特に貨物の重連補機)を真っ先に連想しました。
ご視聴頂きありがとうございます。第三回目は山陽本線のD52をやってみたいと思います。瀬野八はかもめがD52が連結を自動で切り離して、客車のトレーンマークが去っていく写真がいつも頭にこびりついています。
えっ!(歓喜)これは首を長くして待つしかない!
「かもめ」補機のD52形といえばテンダーにヘッドマークがついていましたね。
個人的には貨物列車のみ見られたD52形重連後部補機が一番好きです。
・・・瀬野八の補機と聞いて真っ先にD52形を連想するのは私だけ?
ご期待に沿えるように頑張ります。瀬野八ですがC59の補機運用もあったのですが、イメージで創作してみたいと思います。
えっ!?C59も補機やってたんですか!?初めて知りました!
ちなみに電機ではS37年6月から「さくら」を牽引してきたEF60-500が153系「宮島」の後補機を時折、務めていたらしいです。
先日、京都鉄道博物館に行ったらD52とトキ900を紹介した新聞記事がありましたね。
最も材料節約の点ばかり強調してましたが。
D52に関しては函館本線でのお別れイベント等は無かったと記憶しています。
蒸機機関区側に行ったらC622が炭水車しかなく前部はどこ?・・・と思ってたら検査場で結構なレベルでバラされてました。大規模修繕かな?
ご視聴頂きありがとうございます。やはりD52のお別れ等はなかったですね。組合闘争が盛んでそれどころじゃなかったのかもしれませんね。梅小路ですが、2ヶ月前に行った時はC57が検修庫にいましたが、今度はC62なんですね。
自分の見間違いか記憶違いでなければ、函館でD52のお別れ運転やっていたような気がします。
お別れ運転の時は大沼駅の転車台でD52の撮影会?をやっていたような...。
ご視聴頂きありがとうございます。そうなんですね!是非その姿を見たいのですが、写真等ご存知の情報あれば教えていただきたいです。大沼の撮影会はC62-2でありましたね。
@@Yukkuri-Lab
返信遅れて申し訳ありません。
昨日、函館でD52のお別れ運転をやったようなと書き込みをしましたが勘違いでした。申し訳ないです。
自分がお別れ列車と勘違いしたのは北海道鉄道開通90周年 快速 大沼号です。これは1970年(昭和45年)11月にD52 468号機で客車数両を牽引して函館から大沼まで走りました。
それで、特別なヘッドマークをつけたD52 468号機が大沼駅の転車台で撮影会を実施したようです。
この列車の走る様子はNHKでも見れますね。書籍だと「星野勲写真集 あのころの道南・下北を旅する」という本にもこの列車を牽引したD52 468号機を大沼駅にて撮影した写真が掲載されています。
わざわざ訂正のご連絡までいただき恐縮です。
なぜ函館口で蒸気お別れがなかったのか?知りたいものです。やはり組合との協議でうまくいかなかったためでしょうか。
パワーはあるけど軸重が重すぎて運用できる 路線が限定されてしまう
D51の方が使いがってよく 日本中どこでも見れたけど
D52は線路規格が一番上のところだけしか 運用出来なかったうえにC62やD62改造されたし
電気機関車やディーゼル機関車の方が扱い易く 機関士1人でよく電気や燃料があればいくらでも走行できるから
効率よく スピードアップにも繋がるし長距離運用もでますし 蒸気機関車の時代は終わりなってしまった
先週の大雨で線路の被害は酷く いま現在奥羽本線大館~鷹ノ巣、五能線五所川原~岩舘、津軽線蟹田~三厩など
一部区間が運休したり その他でも列車の本数を減らしたりしています
当然日本海側を行く貨物列車もほとんどが 運休しており太平洋側を経由してコンテナを運んでいます
復旧時期はまだ未定で1ヶ月以上掛かるかもしれません
その代わりいいこともあって 田んぼアートを見るため弘南鉄道を使用したら
平賀駅構内にE331の前にキ104が連結され状態で止まっておりました
まさかあの名コンビが見れるとは思っていなかったので滅茶苦茶興奮しました
いつもご視聴頂きありがとうございます。
確かに軸重重いのですが、D62改造すると線路の点検は必要ですが、青森まで持って行けたし、山陽の大量廃車は避けられたかもしれません。その後のDD51の大量廃車と言うのは、将来の貨物量や輸送量の読み違いだったのですが、無煙化時期を遅らせてた時の財務効率をシミュレーションする中でD62改造をインプットしたらどうだったのか、気になります。
東北の水害復旧は旅客のことだけ頭にあったのですが、貨物も走れないのですね。輸送コストやリードタイムに影響はあるのでしょうか?いやトラックの方が安上がりで早かったとかになってさらに貨物が減るとまずいですね。
駒込の撮影場所はおそらく駅の東方あたりじゃないでしょうか。右後方に陸橋らしきものが見えますがあれが山手線最後の踏切で有名な第二中里踏切だと思います。
ご視聴頂きありがとうございます。ヒントをいただき本当にありがとうございます。亡き係累が撮影したもので、前回忙しさにかまけて調べないうちに動画に使用してしまい気になっておりました。
結局D52がD62よりも、ながく使用されました。しかしC62.D52.D62は、ボイラーが太くイカツイですね。
ご視聴頂きありがとうございます。D62は電化を控えている東北だったので残念でした。奥中山で使うために線路を強化するならば要らないよと言うことだったのですね。
ボイラー太くて押し出しがいいのですが、前から見ると車軸が細いのでかなりアンバランスです。
5:21 御殿場線に戦後D52が配備された理由として、御殿場に米軍の戦車を貨物で輸送するにあたってD51だと力不足だったが、余剰となっていたD52を運用してみたら効果抜群だったので配備した、という記述をネットで見たことがあります。
生田緑地に保存されているD51 408がかつて御殿場線でD51三重連の一員だった、と「デゴイチものがたり」で読んだこともありますが、もし御殿場線にD51三重連が残っていたら…と想像するのも面白いものです。
ご視聴頂きありがとうございます。興味深いお話をお知らせいただき感謝いたします。戦車ですが、米軍の戦車だと国鉄の路線の車両限界に引っかかりませんか?61式戦車が自衛隊の鉄道部隊の関係で幅を車両限界の3m以下にしたことは有名な話ですが、米軍の戦車はもっと大きいのではなかろうか?と思ってしまいました。
丹那トンネル後の御殿場線の重連の存在は初めて知りました。
@@Yukkuri-Lab
ご返信ありがとうございます。
その記事には米軍の戦車を輸送した方法についても記載がありまして、やはり米軍の戦車は建築限界に引っかかるとのことで七つのトンネルがある国府津〜御殿場ではなく沼津〜御殿場ルートで輸送したそうです。
なるほど。米軍輸送というのは納得いく話ですね。
@@Yukkuri-Lab さん
実際米国は大型機関車の運用を好みますからね。
D51では
こんなローカル線用の機関車で俺らのシャーマンやパーシング運べるわけがない
特にパーシングはタイガーハンターの重戦車。D51では絶対牽引不能
と考えたのでしょうね。
@@Degoichi_498 さん
実は戦車というものは高さ方向は敵に見つかりにくくする目的で低く設計されているので
軽便規格の日本でも高さ方向はそのままクリアできるのですが
幅方向になると履帯を交換してやっとトンネル区間でもクリアする。
これがシャーマン戦車でしたが
タイガーハンターのパーシングはタイガーⅡさえ一撃で粉砕する強力なぜ主砲を搭載する為幅方向も広くなっており
履帯を変える程度ではトンネル区間走行が不可能でした。
1:47辺りの岩場は礼文―大岸間の旧線ですね。
道道に転用される前の映像ですからかなり貴重です。
ご視聴頂きありがとうございます。ここは当時の撮影ガイドでのおすすめポイントですね。
可愛そうといえばそうなのかもしれませんね。現場では信頼されているものの重量級が災いして転属線区が限られていたため行き先がなくなり一斉廃車のイメージがすごくあります。
ご視聴頂きありがとうございます。動画のテーブルの通り一斉廃車すごいですね。その分電気機関車が新製投入されたのでしょうが、このころは鉄道業界はかなり活況だったのでしょうか。
貨物用最大のマンモス機
主に御殿場線、山陽本線
室蘭本線の印象が強い!
梅小路で初対面した時は
走る姿を見れなくて残念
無念に思ったのも事実!
ご視聴頂きありがとうございました。確かにでかくて圧倒されますが、走っている姿はD51そのものという印象しかないですよ。だから戦時形が好きなのです。
終戦直後の御殿場線で沼津と国府津の両機関区にD52が手厚く配備されていたこと、山手貨物線を驀進していたD52がいたこと、今度は何やら熱くなってきてしまいました。戦時設計から原設計へ復元されると傑作機だった!という逆転劇というか名誉挽回のストーリーを、やっぱり信じたくなります。
ご視聴頂きありがとうございます。D52はボイラーの設計がとても良い機関車だったと第一回目で解説しました。わたしは初期計画通りに製造できればやはり素晴らしい機関車だったと思います。
御殿場線はパワーに余裕があるからD51より石炭消費が少なかった説もありましたが、やはり22両はおかしいですよね。東京にも大阪の城東貨物線のようなD52の活躍場所があったのは意外で面白かったと思います。
@@Yukkuri-Lab 様 御殿場線のD52大量配備の謎、皆様のコメントを読んでなるほど~と思いました。それ以外の理由がもしあるなら、国府津~熱海間は地震・津波災害にも豪雨による土砂災害にも脆弱性が高く、新幹線計画も当てにはできなかったという状況ゆえではないかと考えています。
御殿場線の御殿場駅に、D52飾ってありますね、沼津市の公園にもね
シリンダー部と煙突位置がズレたような姿は迫り出した力を感じます。この押し出しが魅力的です。峠越えより平坦部を長い貨物列車を牽引が主体で、当時の撮り鉄に、どのように見られていたのか。やはり本機は写真は少ないのですね。戦時型は無骨で古生代の恐竜を思わせるデザイン、重連で見たい罐でした。
ご視聴頂きありがとうございます。煙突の位置がユニークですよね。戦時型が恐竜を思わせるというコメントは戦時形にピッタリです。函館・室蘭のD52とC62x2の山線と日程の関係でどちらかとなれば、D52は劣勢でしたね。やはりD51と遠くから見てあまり違いはないですし。スピードも変わりないですし。消滅する時もそれほど騒がれた記憶もありません。
D52かっこいい!
ご視聴頂きありがとうございます。戦時形と通常形どちらがお好みですか?
C53同様京都でみたのが初めてだったけどやっぱでかいな…ー
ご視聴頂きありがとうございます。D52は梅小路きてから継子扱いされているように感じています。最近だとほとんど注目されないですね。
@@Yukkuri-Lab なんであのデカブツが埋もれるんだろ…
いつも同じところに置かれて、日干しも必要ではないかと思います。
@@Yukkuri-Lab それもそうですかね
確かに御殿場線と山陽本線だけでこれだけの数のD52が配置されたのが不思議です。魅力あるD52ですが改善前までは乗務員の方は怖かったかと思います。S20には209号機が東海道線でボイラー爆発事故を起こしその後も連続してボイラー爆発事故が起き乗務員の方が亡くなれております。S25までに状態不良により50両以上のD52が廃車されています。
ご視聴頂きありがとうございます。D52だけではなくD51も同じ爆発事故ありましたね。現在のELの配置状況を調べていないのですが、当時としても小郡の配置はすごいのではないでしょうか。これに東北本線のD62も入れるとかなり頼りにされていたと思っています。C62の種車としてだけでなく。
@@Yukkuri-Lab小郡 には確かトップナンバーが所属していたかと。
動画の中の昭和40年の小郡の配置には1号機は載っていますね。その後すぐ休車で記念物化していますね。
@@Yukkuri-Lab さん
実際三河島事故の後水戸機関区からは
こんな欠陥機関車(D51)に乗せておいて事故ったら俺らの責任?ふざけるな!
と言う声が動労から噴出し
今すぐこんな欠陥機関車追放してD52やD62寄越せ!
それがダメなら最低でも島をクビにしろ!
とストライキや遵法闘争ちらつかせて猛抗議した結果
1、貨物線も電化して電気機関車に切り替える
2、田端操車場から三河島駅を通らず直接隅田川貨物駅に行ける連絡線を作る。
3、島秀雄を懲戒免職にして任命した十河総裁共々国鉄から永久追放する。
案を動労に提示して実行する事でストを回避しています。
D52は御殿場や山北の保存機を撮影したけど大きさ迫力ありますね、地元東北なので改造でもD62を1両でも残してほしかったです。
ご視聴頂きありがとうございます。私はD62はD52以上に素晴らしい出来の機関車だと思っています。函館本線に配備すべきだったと。
出発進行。場内信号良し・・・・って一体どの位置で何を確認してるの?
ご視聴頂きありがとうございます。すみません。私は機関士さんの正確な合図と信号の確認方法を知りませんので、フィクションとしてご覧いただければと思います。
@@Yukkuri-Lab 場内信号機は駅構内の入り口を示すもので、これを確認するのは原則当該停車場入線時です。発車の際確認するのは出発信号機です。巷間言われる[出発進行]は出発信号機が進行現示(即ちG信号)の意味で、当然ながら[出発減速][出発注意][出発警戒][出発停止]も有り得ます。
@@SleeperExpressJNR ↑イベント等で駅員等が「出発進行!」と言うのが引っ掛かるオッサン😁
迫力ある感じがカッコイイなぁ〜
ご視聴頂きありがとうございます。わたしはD52もD51も戦時形が大好きです。
それめちゃくちゃ分かるよ
D52やはり迫力有りますね✨
D51にスタイルこそ似ては居ますが巨大なボイラーとゴツゴツしたスタイルは目を引きますね😆
SLのマンモスですよ☺️
ご視聴頂きありがとうございます。ボイラーは巨大ですが、煙室前端がRがないので、C62ほどは大きくは私には感じません。横から見ると煙突の位置とかがとても違和感あって魅力的に感じます。
D52はEF59の登場まで瀬野八で補機を務めていましたが、走行開放はどのように行っていたのでしょうか?
ご視聴頂きありがとうございます。圧縮空気でシリンダーを動かして自動連結器のレバーを持ち上げる仕組みで、私のC59特集で機構の動きがわかる動画があります。梅小路のC59-164を前から見るとその装置が付いているので良く分かります。
戦時中は、鉄道施設、港湾施設等の撮影は厳しく取り締まってたせいか📕にも決戦型D52の写真にお目にかかる機会が無い。
ご視聴頂きありがとうございます。そうですね。戦後に残ったものも写真に残るものは少ないです。動画でも言いましたが460号機は最後まで戦時形のスタイルを残していました。
実はD52は戦時型で限界設計という事だけでなく
日本の機関車設計史上異色な一面があります。
D52以前の日本の機関車はスモールエンジンポリシーと言って必要最小値の能力を持たせ、想定能力以上の使用には重連三重連で対応する
と言う考え方でしたが
D52は性能に余裕を持たせ、多少想定以上の仕業にも対応出来るようにするラージエンジンポリシーで設計されてます。
また戦後のC62はこのD52のボイラーを流用していますが
これは外国では標準設計ポリシーと言って
ボイラーなどのキーパーツは旅客貨物問わず共通のものを採用する
方式をGHQが日本に教えた結果できたものです。
こう言う点でD52やC62は日本機関車史上異色な機関車です。
ちなみに戦後の電気機関車も殆ど全てがスモールエンジンポリシーで設計されており
ラージエンジンポリシーで設計されたのは
EH10
EF66
EF200
この3形式だけです。
この内ラージエンジンポリシーのメリットをこれでもかこれでもかとフルに発揮したのはEF66だけです。
実は日本の電気機関車は低速で重量貨物列車牽引を行う事にほぼほぼ特化した設計故に苦手としていた仕業がふたつあり、いずれも東海道本線が絡んでます。
一つは最高時速100キロ以上、牽引トン数1000トン以上の高速重量貨物列車牽引。
これはEF66とEF200、後のEF210以降の機関車以外では対応できず、EF65だと最高時速を95キロ以下に落とすか、重連にするか、牽引トン数を500トン以下に落とすか
でしか対応できません。
もう1つは高速重量旅客列車牽引
え、そんなの日本にあったっけ、と言うでしょうが
これは東京ー九州間ブルートレインのことです。
九州ブルトレは牽引トン数が500トンを超え、しかも高速貨物列車と違い最高速度付近の走行時間が長い、と言うEF65には最早無理筋の仕業です。
高速重量貨物列車は最高速度こそ100キロメートル、時にはそれ以上ですが、実際には停車駅が少ないので大体時速70キロメートル前後で走行する事が多く、最高速度でぶっ飛ばすのは本数が多い上に新快速や特別快速に追い回され退避可能駅まで必死に逃げる事を強いられる姫路ー米原間や西岐阜ー豊橋間ぐらいです。まあこの区間でも宮原貨物線や稲沢線の区間でゆっくり走ってモーターを冷やす事は出来ますが。
ところが九州ブルトレはこのモーター冷却区間が無いに等しく、更に米原ー姫路間は深夜でも結構本数があるのでゆっくり走る余裕もなく、更にここでのんびり走ったら九州や首都圏でラッシュに引っかかり、特に平塚ー東京間は超過密ダイヤの上にろくに金も払わないくせに「俺らが飯のタネだから黙って俺らの言う事を聞け」と言う会社の金で豪遊しサボって昼寝するのが国会議員並みに得意なサラリーマンと言うクズ種族のお陰でスジも引けなくなるのでその前に必死に辿り着くためにのんびり走行は許されません。
この為EF65時代は機関車に相当な無理をし、時には騙し騙し運転してやっと成り立つ仕業でした。
本来EF66はこの仕業にはつかない前提での設計でしたが
牽引トン数が30トン増やす事になり、最早EF65で誤魔化したら速度ダウンどころか機関車に深刻なダメージを与える事にもなるのでEF66に切り替えたのですが、
このラージエンジンポリシーがもたらす
ポテンシャルの絶対的な余裕
と言うメリットをフル活用しています。
ただしEF200はラージエンジンポリシーの弊害である過剰性能が裏目に出たのですが
もしこれを九州ブルトレ牽引に充当していたら、EF66以上の最高速度と圧倒的な牽引力の余裕を活かして
EF66でさえ不可能だった
新快速と並行ダイヤを組む
事が可能になり、博多を夕方18時30分ごろに出発して翌朝7時30分頃までに東京に到着する事も可能でしたね。
よく電気設備ガー
と言いますが、これは重通勤区間は基本EF200の重連でもなんとか対応出来るだけの電力容量はありますし
ないなら重通勤対応名目で設備強化すれば良いだけ。
それが出来ないのは
金も出さず口だけ出す日本のサラリーマンと言うがん細胞のおかげ
古家さん、ご視聴頂きましてありがとうございます。詳細な解説を頂きましてとても嬉しいです。
ラージエンジンポリシーのC62のことは、C62-1の動画→ th-cam.com/video/yrYoLWa6-m0/w-d-xo.html で触れておりますので、是非ご覧いただきまたコメントください。
EF65のブルトレですが、確か500番台が専用だったと記憶しておりビルの上から毎日夕方見ていました。EF66に変わってがっかりしてそれから見なくなりました。
D52
どうしても、木製デフ、木製炭庫、カマボコドームの戦時設計をイメージしてしまいます。
ご視聴頂きありがとうございます。プラスしてランボードも木でした。
D51もそうですが、なぜかとても好きなんですよね。戦時形は。C11だとちょっとなのですが。
今回もお疲れ様です。やっぱり自分が1番好きな機関車の第2弾は興味深いですね。D52で1番重装備なのって何号機でしょうか?それと戦時型と戦後改造型どちらが好みですか?僕は戦時型ですかね。B20とかとNゲージで並べると見応えがありますね。
ご視聴頂きありがとうございます。一番重装備は集煙装置をつけた吹田の340とか405でしょうか。重油タンクのほうが重いかもしれません。わたしは圧倒的に戦時型動画の417のタイプがすきです。通常形だとD51やC58みたいで。
室蘭線と函館線の超重量貨車がD52に重いならほかの機関車では無理ですか?D51ならめいいっぱい圧力上げて上手な機関士さんが運転して渾身の力で何とか引き出せますか?DD51は重連でしょうか?
プさん、ご視聴頂きありがとうございます。
D52に重い場合は重連という手があります。実際に函館本線で出くわしたことがあります。DD51は単機ばかりだったとおもいますが、DL化の後のことは知りません。
D52xD51という重連もありました。
@@Yukkuri-Lab この時代鉄道貨物が多かったのでしょうね。最強D52が必要だった時代ですね☺
今も函館本線・室蘭はかなり貨物量多いのでしょうか?
やはり、巨大な機関車は迫力があっていいですな
御殿場線は30‰を超える勾配区間があるので、単機で運用できるⅮ52形が好まれたのでしょうな
いつもご視聴頂きありがとうございます。御殿場線はご承知の通り定数も低いですしD51で十分だったと思うのですが。
@@Yukkuri-Lab 日本全国どこでも活躍できるⅮ51と、相応の線路等級のある路線でないと使えないD52ですからね
御殿場線はⅮ50が活躍していたので、大型機関車用の設備を有効利用する意味もあったのかもしれません
確かに、D50はD51より長いので、転車台にD52が入れる余地はありますね!
ここで止まったら引き出すのが辛いって言っていましたが、D52が辛いのならD52以外のカマは引き出せないでしょう!DD51は重連総括できたので重宝されたと思いますが、D52と同じことは誰もできません😀
ご視聴いただきありがとうございます。もしあそこで止まったらD 52でも大変なことになるでしょう。応援が必要かもしれません。そういえばD52の走っていた区間ではD51の重連はなかったとですね。
D52ってとことん不幸な気がします。D52に限らず無煙化が5年遅れたらかなり変わっていたでしょうね。
ご視聴頂きありがとうございます。第一次オイルショックで無煙化を遅らせる計画を始めるとか始めたとか新聞記事を読んだことがあり、小躍りしたことを覚えています。いずれにせよ、御殿場線電化とD52廃車は規定路線でしたが、北海道は蒸気だらけのままだったでしょうね。それがかえって後年DD51大量廃棄を避けられたかもしれません。
@@Yukkuri-Lab DD51って大量廃棄されたのですか?あまりイメージがないのですが。
DD51だけでなく、DE10もDD16も破棄というよりJR引き継がれず廃車ですね。一部は海外に無償譲渡されたりして、海外で使われずに朽ちたのもありました(タイ)
@@Yukkuri-Lab 電車、気動車化で機関車がいらなくなったかれですか?譲渡された車両が使われないで朽ちていくのは辛いです。キハ183は大丈夫だと思いますが。
👍️
ご視聴頂きありがとうございます。Goodサインありがとうございます。
そりゃ助手怒りますわ
ご視聴頂きありがとうございます。ところで機関助士ですが、動画作っていて、すべて機関助手としていたのですが、例の名作”ある機関助士”のタイトルで助手ではなく助士なんだぁ!と全部書き換えました。どちらでもいいのかなぁと思うのですがどうなんでしょう。
@@Yukkuri-Lab その作品で あぁ~、阿保の撮りぃ!言ってましてね
あっ!何か言っていたと思いましたが、そんなことを言っていたとは聞き取れませんでした!
初めてNゲージでD52を手に入れてD51やC62辺りと較べた印象として「建築限界ギリギリ迄何が何でも拡大化して一馬力でも大きく」みたいな設計陣の執念みたいのは模型からでも伝わって来た。
後戦時中仕様の木製デフやら背の低いテンダーやらも異色そのもの。
EF13や63系電車にD52とB20、何れも誕生経緯にWW2が深く関わった車輌だけど、戦争無き昭和10年代と云う「歴史IF」を敢えて考察した場合、生まれもしなかった車輌、無いが故に生まれた我々にとっては「幻の車輌」は如何程有ったのか気になる処。
ご視聴頂きありがとうございます。1回目のD52特集でそのあたりのことを詳しくやりましたので、是非合わせてごらんください。
大東亜戦争が無ければ、電化も早く進行したことでしょうから、ひょっとしたらD52はともかくとして、C62等のハドソンは無かったかもしれないなと思っています。