By Nipponshoki, tsukushi's capital is in shikoku. Mimana is on the east of shimonoseki and on the northwest of shikoku, ie. somewhere around Yamaguchi. To say, kyushu and shikoku and yamaguchi etc belonged to ancient Korea. Ancient Japan was on the east of shikoku. Shikoku was part of Korea, shikoku was outside of Japan.
良質な動画をアップしていただきましてありがとうございます。広開土王碑をよくぞ残してくださいました。本当に感謝しかありませんね。
高句麗の南方面に倭人の国があったというのが最近の言語学の主流です。高句麗の南下によって同族が攻められたら連戦連敗でも戦うでしょ。朝鮮半島の中部から鴨緑江南部にかけて日本語で解釈できる地名がありましたが、新羅の半島統一によって新羅語に書き換えた事がわかっています。これを半島日本語といいます。帯方郡、楽浪郡でつかわれていたのは日本語だったのです。倭人とはその当時広範囲にわたって居住したいたのです。
12000~7000年前まで半島が無人になり、その後に住み着いたのが縄文人で九州と行き来してたこともわかってる。縄文土器の型式が九州と半島で同時期で一致するからとか。
その行き来は続いてたんでしょう。魏志倭人伝でも壱岐・対馬の島民が九州と半島へ交易に行ってる。海峡の両側に倭人がいたんだろうね。
倭国と韓半島を考察するうえで7300年のアカホヤ大噴火による倭人の大移動があったことは重要です。
アカホヤ大噴火の大移動によって韓半島及び中国大陸にも倭人の大移動がありました。
新羅、百済、任那などにも大挙倭人の大移動がありました。
中国大陸にも多数の倭人の大移動がありました。
18:35 とんでもない話ですね…。妄想で研究がストップするなんて。
お隣の歴史は「ファンタジー」ですからね。
この碑文、ロゼッタストーンみたいに漢文と高句麗語の仮名のようなものを
併記して書いてくれていれば、扶余系言語と日本語に関連があったのかどうかを
調べることができたのに惜しい。日本語の奈良時代の発音が推測できるのも、
万葉仮名が使われていたことが大きい。
大王四神記だったっけ?ヨン様のヤツあれですよね、まぁファンタジーでしたけど
中国の記録と合わせてみても三韓征伐があったとされている時期でなくてその後に倭軍が出兵したとみるほうがはるかに確からしいですから
日本書紀が記した三韓征伐ってなんだったんだろうってのがより謎になるような気がします
いつも大変面白い動画を有り難う御座います。中国史も朝鮮半島の歴史も難しくて、ややこしいので、分かりやすい動画にして頂き本当に助かります(* ´ ▽ ` *)任那にも、とても興味が有りますので是非宜しくお願いいたします😆✨💖
ネットでもそうだが、言ったもん勝ちってのはあるよなぁ。
すぐさま反論出来るような状況にならない限り、その意見はずっとそのまま残るからなぁ。
で、広開土王碑は、高句麗視点を差し引いても素晴らしいと言わざるを得ないですね。
言う人は簡単に思い付きで言えるけど、反論する人は様々な資料を読み込んで矛盾点を探さないと反論出来ない。
先に言った人は数秒で終わりですが、反論する人は数ヶ月掛かります。
それでようやく反論出来ても、先に言った人の支持者や仲間が「こうゆう資料が有るよ」とか「私の知り合いに実際に見たと言う人が」と言えばそれで反論は振り出しに戻る。
支持者や仲間が嘘を言っても構わない。
自分達への反論を封じれれば良いから。
酷い時はもう嘘とバレてるのに「新資料が見付かった、決定的な証拠だ。反論は許さない」と何度も同じのを出して来る。
「いや、それ前に出して嘘ってバレたじゃん」って感じ。
もう40年も前のことですけれども、大学生の時に、李氏の碑文改ざん説を否定する卒論を書いたことを思い出しました。当時も李氏の説を疑問視する学者さんは多かったと記憶しています。
当時の倭国にそんな力が有るはずがないニダ!って結論ありきで改ざん説を出しただけだからね。
歴史の授業で「今日の授業は百済ない国の百済です」ってバカにされた「恨」らしいよ。凄く根もってた。たしかこの人。
歴史研究には政治的主張は邪魔以外の何物でもない、いい加減にしてほしいですね。
国によっては政治・歴史教育を牛耳っていることはもってのほかですが、
我が国にも一定数は存在すると思われるので跋扈させないよう、こころしなければ。
@@カプリチョーソ国を問わず、
歴史は言わずもがな、科学分野でさえ
結局研究者もスポンサーや名声がある程度必要で世俗の政治と全く無関係にはいられないんだと思います。
なので、個人的には学識ある方々のお話も話半分で聞いてます。
@@ksmsepk607さん、おっしゃる通りですね、お話は関わる人々によっては程度の差こそあれ割り引く部分もあろうかと思います。ただ考古学での炭素同位体年代分析やヒトゲノム解析・言語学などでほぼ結果が明らかになっていて裏付けられている部分については信頼に足ると思っています。
このチャンネルも日本書紀・広開土王碑・三国史紀の各文献間の矛盾について論評するだけでは埒が明かないので、考古学その他の物証と、どの程度の整合性が取れるのかまで踏み込んでもらえれば、ワンランク上の動画内容・視聴者コメントになり得るのに非常にもったいないと感じます。
@@カプリチョーソお仕事でもない趣味で作っている方の動画に「もったいない」はよろしくない言葉遣いかなと。あなたがこの周辺について詳しいなら、このご発言こそがもったいなく。
好太王「百済も新羅も日本の属領、ソースは俺」
「隋書」 「新羅 百濟皆以倭爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。
並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す
とあり、新羅と百済が、共に、大国にして宝物の多い倭を尊敬し、常に使いを通わせていたとの記述と思われる。
倭の五王は百済王
宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。
井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。
安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。
安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。
直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。
森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。
上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。
河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。
瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。
私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。
*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。
宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名
「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王]
「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王]
「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君]
「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王]
「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)
・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。
「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
倭国の国力がわかる。倭国=高句麗>>百済、新羅みたいな勢力図が見える。
白村江の戦いで唐軍がない場合の戦力はどんな感じになるかで想像できるね。
百済の王がアホで、それまで百済を軍事と内政両方で支えていた重臣を殺しちゃったんだよね。
それで人心が離れちゃった。
唐が来なければ日本だけでも勝てたと思うけど、百済を再構築しても内乱で荒れ、結局最後は新羅か高句麗に併合されてたと思う。
高句麗を朝鮮の国ではないという考え方(中国視点の東北工程並感覚)なら、広開土王の時代から刀伊の入寇を経て、中国東北部のツングース系大陸勢力と日本系列島の勢力の対立が朝鮮半島を緩衝地帯としてあり、清王朝(ツングース系女真族)との日清戦争やその後の大陸進出もその延長線と言えるのかもね。朝鮮出兵でも女真系の勢力と加藤清正が戦ってたらしいし。
確かに高句麗は朝鮮民族の国かというと疑問が生じますよね。
朝鮮の歴史書はその後数世紀たってから編纂されたものだし
漢にしても魏にしても抽選半島北部には出先機関を設けていたし。
後、清正はオランカイには偵察にいってますが戦闘は生じていないような
@@仁志飯野 さん、朝鮮民族というのは少なくとも高麗時代にその領域で形成された概念でしょう。動画中に提示されていた「三国史紀」のころに。
まぁ高句麗の最初の都である丸都は鴨緑江の北にありますからね。
その時点で推して知るべしです。
高校の時の歴史教師が、文化の遅れた日本が朝鮮半島を侵略するのは不可能と言ってたな~
これ好き。記紀を含めて各国の記述がほぼ正しい地域史があり得ると
考えます。例えば対馬、或いは薩摩支配下の琉球、江戸時代の北海道
明治以降の樺太、現在の北方四島。
倭寇でも時期で構成が変わりますし
海軍護衛船が同時に海賊であるのは歴史的に言えば普通の事。
現代でも複数国籍を認めている国はありますし、両属やグレーゾーンがなければ国同士の関係が成り立たないのは現代でも変わらない。
それだけ海を渡って戦える国力が有ったのが凄いな。造船、操船技術とか含め
白村江の戦で負けるまでは、朝鮮出兵は続くと
対岸に任那という拠点を築いていたにしても継続的に海を越えて兵を送り平壌まで攻め込むって、相当な国力と後背の安全が無いとできないはず。
ブリタンニアに進出したローマみたいだ(ローマの場合はガリアを越えてからの渡海になるので更に大変だが)。
しかも並行して巨大古墳をポンポン作っていたと・・・
高句麗の首都って国内城ってとこだったんですね・・・・今の吉林省だとか
^_^まあチャイナ、いまの中国ですね。
まあ、平壌が抜けなく、痛み分けで、撤退したあたり何でしょうね。
高麗以降だと、王が逃げ出すイメージしかない平壌だけど、南北どちらともの防衛の要だし
日本書紀・三国史紀・広開土王碑に記されている内容には、わざわざ創作してまでウソは書かれていないような気がします。
ただ単にそれぞれの自国側の個別の戦闘での勝利は記載し、敗戦はいっさい記載していない。また最終的に戦争?の戦略的勝敗も明確ではない。
倭(日本)にとっては後年の白村江の戦いでの敗戦まで勢力が存在し続けているので、結局は各勢力の伸長・縮小がありつつも割拠状態が長く続いていたのだと推測します。
負けについては書かない
歴史あるある
@@user-qw5qh1wg8w さん、動画は「3者とも勝利って?WHY?」「誰かウソついているのでは?」風の発信でしたが、提示されていた文献では単に、都合のいいことを書き、都合の悪いことは書いていないだけ。詳細・事実は結果(利害関係者ではない主体の手による文献や考古学的発見)でしか、明らかにはならないように思います。
広開度王碑に、さんざん
【倭が倭が】と書いてるのは強くてしつこい証拠でしょうね。百済なんかとくにゴミ扱いで書いてるんだよね。
石碑イコール半永久的に残る物、て考えたからヘタな事は書かず、事実を述べて隠すべきは記述せず😅、ウソは書かない。
そんな貴重な石碑なんだと思う。書物とか紙は燃やしたら消えるからね。
朝鮮南部は倭国と高句麗に両属してた説もあると思う。
野戦で倭軍を撃退出来たが南部の山地や城塞に籠もった倭軍を殲滅する事が出来ず白紙講和で終了あたりかな?
受験時『作為(391)あった好太王』で年号を覚えたが、今は「作為なかった好太王」なのかな❓🤔
神功皇后は三韓(弁韓、馬韓、辰韓)を制圧したが高句麗に負けたことは書いてない。
高句麗は北上してきた倭国軍を撃退した。
整合性あるよね!
高句麗って満州族が中心になって作った国でいいんだよね?
そう言うとすごく怒る人がいるんだけど・・・。
所謂、東北工程問題で韓国が「高句麗・渤海は朝鮮の王朝、朝鮮族は広い満州で活躍していた‼」みたいな主張をして中国が「高句麗・渤海は中国東北部の地方政権だろ、というか朝鮮なんて中国の移民の国(箕子朝鮮)だろ‼」とブチ切れてるとか…
全く怒りはしませんが、ちょっと可笑しい♪
時系列が逆です、満州族は高句麗滅亡後のはるか千年以上経た時代の民族です。高句麗遺民の一部が渤海を建国し、渤海滅亡後にその遺民の一部が女真族になり、金を建国。金滅亡後も女真族として存在し続け、後金を建国し、その後身の清の時代に「満州族」と称したというのが私の認識です。
@@アレクシオス-p7t さん、ほんと馬鹿馬鹿しいケンカですね。
過去に存在した国家・民族を明確な物証・根拠ないままに国益がらみで無理やり、現在の国家に結びつけようとするから不自然なんです。歴史研究という学問には両国は邪魔でしかない。
扶余族などツングース系狩猟民が中心となって建国したのではないかと思います。
重騎兵を運用する強国のイメージ。「馬の日本史」では馬を育てるには火山地帯の副産物としての黒ボク土からなく野原が必要らしく。火山の殆どない朝鮮半島南部では大規模に馬を飼えなかったと、日本や高句麗は火山地帯やステップを抱えたお陰で騎兵の運用が大規模に行えた。と書いてありました。そう思うと高句麗を唐と滅ぼして倭と唐を半島から追い出した新羅すげえな。
現代にもなってなお、歴史改ざんを堂々とやらかす連中・・・
20世紀初頭迄野ざらしだったんだよね😅
中国の学者が詳細に調査した結果
この碑は一言一句改変されてないそうです。
倭兵は一万ですから渡海した主力は数千。
五万 三万 五や三はたくさん日本の八と同じ意味。
かこいいチルノちゃんに戻ってる( ^ω^)
三国史記が出来たのは西暦1145年だから信憑性が低い
高句麗も百済も新羅も伽耶もみんな日本に逃げてくる。
百済と高句麗は同族ですけど、百済は戦争下手
広開土王って韓国ドラマになっていた
ヨン様主演のアレ? 四神とか?
@@岡村浩司 イ・テゴン主演のほうです
高句麗って、半島南部は一切関わり無いのよね。その後の渤海の建国者(名前忘れた)もね(こっちも韓国ドラマになってたわ)
@@Super_Noisy_Dora さん、それ「大祚栄」。
推測だけで歴史を語るなんて学者じゃないね。たぶん自分だったら改ざんする、という卑しい心があるからだろう。
高句麗王は666年に日本に渡って来て日本に居ついて、今も日高市は高句麗の郷だよ。
高麗郡をつくった時のリーダーが「高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)」という人で、日高市にはゆかりの建物があります。
日高市の高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
若光は、666年(天智5年)高句麗よりのつかい(戦いの援軍をお願いするため)として、日本へやってきました。
しかし、668年(天智7年)高句麗がほろび、帰れなくなってしまいました。
703年(大宝3年)、日本の朝廷より「高麗王」の姓を与えらえました。その時から「高麗王若光」と名のることになりました。
日本と朝鮮半島のどちらが勝ったかということより陸続きである東日本を征服する前に大和政権が海を渡って半島に介入していたということが重要。当時西日本の人々は半島を外国と考えていなかったということだ。高句麗と朝鮮半島南部の支配をめぐって争っていたということになる。この後飛鳥時代まで半島や大陸との外交関係は日本政府の最重要課題だった。これからも日本に半島から渡ってきて定着した人が西日本にはかなりいたということになる。当時は半島より東日本の方が大和政権にとって外国だった。
半島から日本へ?
縄文期には、人が住んでないんだし、北の山脈を越えてやってくるのは、海を渡るより容易じゃないだろ
出土品の示す時系列からでも、日本から、半島に渡った方が多そうだよね
ま、その出戻りはいただろうけどね
In fact, Osaka castle was burned down in AD 400, by the Nipponshoki, at the same year of the war.
7300年前のアカホヤ大噴火の歳に倭国から韓半島に渡った倭人が韓半島に定住して任那ができました。
By Nipponshoki, tsukushi's capital is in shikoku.
Mimana is on the east of shimonoseki and on the northwest of shikoku, ie. somewhere around Yamaguchi.
To say, kyushu and shikoku and yamaguchi etc belonged to ancient Korea.
Ancient Japan was on the east of shikoku.
Shikoku was part of Korea, shikoku was outside of Japan.
朝鮮半島で高句麗と戦っていたのは九州の倭国だろ。
半島南部の前方後円墳をどう解釈するかですね。南鮮が発掘後に破壊したり、埋戻ししてることから、日本の勢力が半島に進出していた証拠なんでしょう😅
朝鮮半島南部から九州をはじめとした日本本土にまたがる勢力を有していた「倭」では。
@@岡村浩司さん、「半島南部の前方後円墳をどう解釈するか 」考古学・学術的には建造時期(日本国内3~7世紀、朝鮮半島5・6世紀)から結果は出ています、詳細は橿原考古学研究所さん参照。
現在政治的に韓国政府がどのようにとらえ、教育・文化などに関する政策を含めて政策全般に反映させるのかは別問題!
結局は高句麗が滅ぶと日本に王族達は亡命して来るんだよね。
何時もそうだけど、国が無くなると嫌いな【倭人】の国に来る
のは何故ですかね。”嫌い・嫌い・も好きの内” ですかね!
それ、百済のことではないのですか? 豊璋のことでは?
倭の五王時代は、百済も南朝に朝貢しており、倭王の百済支配権は認められていません。
まあ400年当時の倭国は鉄や馬の自国生産が始まったばかりで、既に重装騎兵で構成されていた高句麗にかなうわけがないんだよね
遺構で言えばもっと早い段階で製鉄は始まっている。
千葉県の沖塚遺跡では200年代に既に製鉄が行われていた証拠が出ている。
「白髮三千丈」のクラスの誇大表現。あの時代に倭国が数万人の兵を送り込めるわけがない。倭国の人口何人だ?。石碑自体が「俺の考えた最強キャラ」の妄想小説
McEvedy & Jones (1978) による各地域別人口推定値によると西暦400年代は
日本が150万人、朝鮮半島が50万人ですね。
白村江で倭は三万を投入してる。唐軍13万と新羅軍5万に粉砕されたけど。
■■=加羅??
読めなくなった時点で、都合が悪いから改ざんしたんでは??
広開土王の石碑は真実です☝️