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コメント欄が本編以上に熱い!本編 それだけみなさんの興味の真ん中ですからね!古墳の歴史的な流れが分かりやすく解説されていて秀作です。特殊器台から埴輪へと考察すると箸墓を含め前方後円墳の成り立ちがうっすら見えてきますね!奈良盆地を中心に考えがちですけどもっと広範囲で考察する必要があるいい例です。卑弥呼のノボリがはためく箸墓古墳の駐車場。興味本意でも構わないです。話題が盛り上がって調査の後押しになればいいんですけど…
大人の事情でおまんまの食い上げとか要らないから、日本の歴史を正しく整理してほしいです。
僕もそう思います。ほんと、ただただ、真実の歴史が知りたいです
気付きをいただきましてありがとうございます。邪馬台国と大和王権は別なんだと思います。
布留式の始まりを4世紀中頃まで降らせると安本美典氏の説に近くなりますが王莽の新の時代に造幣された貨泉と伴う河内の亀井遺跡の大和Vの始まりから庄内期の始まりまで250年以上続いたことになりそれはそれで現実的ではありません
関川さんの世界情勢から見た邪馬台国ってのはちょっとどうかと思うんだけど、その他の出土品を考古学的に分析した話は大いに共感できる。出土品って事実だけを元に分析した話って信頼性が高いと思う。
最近、後円部と前方部で築造時期に50年ぐらい差がある前方後円墳を知って、俺の中で箸墓古墳卑弥呼陵墓説が再浮上中
特殊埴輪が一部にしか設置されてないことも方部と円部の建設時期が違うことの裏付けになるか。
その話を聞いて王朝交代があった時に後発勢力が元々あった円墳に方墳をつけたして先発勢力を受け継いだ正統な後継者だ!なんてアピールしたとかそんなのを想像した。
あまり古墳とされていないものの、さらに古い前方後円墳があるんですよね
魏志倭人伝の記述と日本書紀崇神記の記述が対応していると言われているね。
継体天皇の墓と治定された太田茶臼山古墳が考古学的にはありえないことがわかった(今城塚古墳とされる)例がありますからね。仁徳天皇陵も大仙陵古墳という名前になってしまった。纏向遺跡は三世紀に突如として現れて四世紀になると生活の痕跡が無くなることから吉備から呼び寄せられた倭迹迹日百襲姫命のために渡来人パワーで急遽作られた都で彼女の死と共に遺棄されたのではないでしょうか。
世の中に陵墓は調査できないと思ってる人いるみたいだけど、宮内庁がやって報告書も出してますからね
土器は後から置かれたとも考えられる。
なんにしろ、掘ってみないと始まらない。古墳はどんどん調査しないといけません
祭祀が行われているお墓以外はどんどん調査すればいい
卑弥呼の墓には奴婢100人が殉葬されているんだから、種類に関係なく埴輪が出土するのはおかしい。
もしかしたら、卑弥呼の墓はどこかの城や砦の土台になってるか、なってたかも知れない。少し小高い丘でちょうど良かったかも。それで壊されて。だから見つからない。今ある古墳だって砦等に使われたとか話は有るしね。鎌倉以降は単なる小山としか認識してないでしょ?
卑弥呼の墓は見つかっていますよ!古墳マップで三柱山古墳を調べて下さい^_^
大ニュースです!💧しかし、どのチャンネルさんも、騒いでいません!?💧
@@AKIHIKO-uz7wf さん おっしゃるとおりですよ。ほとんど皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っているので、信じないのです。でも日本書紀の正体は藤原不比等による勝者の歴史書です。古事記は9世紀の宮廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出したもので、正史に古事記の記録もないし、日本書紀が古事記を参照した形跡もないのです。普通ならば偽書扱いにするところ、日本最古の天皇の歴史書という刷り込みがあるので気づけないのだと思います。古事記は不比等が隠した3世紀の日本建国やその後の歴史改ざんを、藤原氏に悟られないようにして暴露する暗号書だったのです。これを解けば空白の四世紀で隠された二人の天皇も、倭の五王の正体も判明します。ちなみに今、話題沸騰の富雄丸山古墳の被葬者は隠された天皇のひとりでしたよ(^_-)-☆詳しくは刮目天の古代史ご参照ください(;^ω^)体を
@@AKIHIKO-uz7wf さん 今お返事を長々と書いたところ誰かに消されてしまいました。消された内容の詳細は刮目天の古代史をご参照ください(;^ω^)
ブログでしたら、拝見させて頂いています。吉田神道と日本書紀、そして藤原氏との関係を述べない古代史チャンネルには、疑問を感じています。😊
桜井市は地道に考古学からの検証に努めておられます奈良はみな商売下手ですしかしそれが誇りでもあります
箸墓古墳は3世紀末、大和姫の陵とされており、2世紀の卑弥呼の陵はホケノ山古墳との言い伝えもある。
最古の前方後円墳千葉市原の神門遺跡、多くの住居後のない奈良盆地に邪馬壹国はないのでは?
「箸」墓古墳だけれど形状がスプーンみたいだねと思った学生時代(遠い目)
崇神天皇陵が4世紀中頃から後半ならその後の応神天皇や仁徳天皇まで半世紀もないことになってしまいますけど?流石に短すぎでは?
邪馬台国畿内説の考古学者は、箸墓古墳が卑弥呼の墓では無いとされたら予算が取れなくなるので箸墓古墳の年代を繰り上げたりして必死に3世紀の築造にしているんだ。しかし、箸墓古墳から埴輪が出土した時点で卑弥呼の墓では無いでしょう。周囲に殉葬墓があれば間違いないと思います。
いい動画をありがとうございます。箸墓の被葬者は、御存じのとおり、『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記された大物主(大国主)の妻とされた人物ですので、卑弥呼の墓ではないと記紀が明言していますね。この姫の名前の意味はヤマトとトビ(トビヒコとも呼ばれた大国主命)を恨んで何度も何度も唱える気の毒なお姫様ということで、史実をもとに作られた名前ですよ(^_-)-☆。ちょっと長くなって恐縮ですが、以下の話です(;^ω^)247年の卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ、和邇氏の祖神)の死後の内戦を勝利した大国主久々遅彦(豊岡市久久比神社祭神、奴国最後の王スサノヲの子孫、狗奴国の官狗古智卑狗)が外交上卑弥呼の宗女として同じムナカタ海人族の姫巫女台与を女王に立て、纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼(スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ、記紀の崇神天皇)を裏切って対立しました。日本列島の大半を支配した山陰・丹波を根拠地とするムナカタ族を束ねる王なので、記紀では出雲の大国主命と呼んだのです。最終的に大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)と台与(記紀の神功皇后)が狗奴国(旧奴国)勢に討たれて日本が統一されました。しかし、280年に西晋に呉が滅ぼされると、台与を討った仕返しで狗奴国は追討されると恐れました。久々遅彦と台与の間の王子ホムダワケを祭祀王として呼び寄せて両親の鎮魂をさせました。記紀では崇神天皇紀の大田田根子の話です。そして狗奴国を卑弥呼・台与の後継国ということにして纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにし、父を桜井市外山(トビ)茶臼山古墳で、母を箸墓で改葬しました。応神天皇の父とされた仲哀天皇は、その父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、杜撰な作り話です。記紀で熊襲征伐のために九州遠征し、神託を疑ったために崩御したとされた仲哀天皇は倭国追討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、ニギハヤヒ大王の子孫)で、大国主勢に殺された人物です(九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳で葬られたと推理しました)。跡を継いだ尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、日本武尊のモデル)が大国主・台与らを討って日本を統一した人物です(遠征の途中で戦死し沼津市高尾山古墳で葬られたと推理しています)。記紀で景行天皇の九州遠征の話になっています。崇神天皇四道将軍から応神天皇即位までの約350年の話が3世紀後半の史実だったのです(倭国大乱から統一戦争までの詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。と言う訳で、たった13歳で大国主の妃にされ、最後はヤマトに殺された可哀そうなお姫様ですので、ヤマトとトビ(大国主)を恨んで、その名を何度も何度も唱えるお姫様という名前にされています。詳しくは「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」もご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
箸墓古墳はももそひめの墓ではありません。ももそひめの墓は香川県(阿波倭国)にあります。箸墓古墳は土師氏のお墓です。
大物主の巫女なのにそんなに三輪から離れて大丈夫か?
日本書紀に、祟神天皇の在位は短かったとあります。この短い期間に前方部を作ったと考えています。祟神天皇の功績は、それ以前の誰かの摂政時代のものですよ。
箸墓は卑弥呼より新すぎるからダメ
整備や管理によるものかも知れないが、箸墓古墳は近接の纏向古墳群よりも新しい時代のものと見受けられる。卑弥呼を結び付けるのはちょっと無理がありそう。
卑弥呼の墓は円墳だから前方後円墳の箸墓古墳とは形状が異なりますね
箸墓古墳なんですが、邪馬台国云々は別として、倭迹々日百襲姫命の墓っていうのが自分としては疑問なんですよね。何でたかが巫女にあんな大きな墓が必要なのか。巫女が重要な存在なら他にも巫女を祀る古墳があってもいいのにないし。
古墳は副産物であって大事なのは物資を運ぶための運河の水です。大きな市場には大きな池が必要になります。
巫女王の墓ですから巨大なんですよ。この箸墓の別名は大市墓、モモソヒメの別名も神大市姫と言います。古来市は女性の意味でもありましたから。
必要なのは運河に流す水のため大きなため池が必要なのです。古墳は副産物です。
@@かかしやまだの この辺りは山の辺りから勝手に田原本方面の標高が低い場所に向かって水は流れますよ。また古墳周りの濠は基本的に神仙思想的には海に浮かぶ弥山を表現されたもの、だと思います。それは水銀朱や鏡が供えられる事からも言えるはずです。そもそもこの辺りには元々初瀬川、大和川があるのに水運は困る事はありませんから。
ご存命中は卑弥呼と呼ばれ、薨去されたのちの名が倭迹迹日百襲姫てあり、箸墓古墳は後世移転改葬したものという解釈は可能でしょうか。築造年代を推測する別のアプローチとして、後円部直径が古韓尺(26.7cm)の600倍の160mであることや、築造計画で選定されたであろうその地の緯度の分析もあると思いますがどうでしょう。
そんな主張は奇想天外で、めちゃくちゃを言っている。薨去の漢字やその言葉の使用は、ずっと後の時代。時間軸が前後の区別なく使っており、、ごっちゃ混ぜで、デタラメを主張している。これは、先の大戦が、日本人全員に、全然反省出来ていないからである。そればかりで無く、1連の武力侵略戦争の犠牲者を、無駄死にさせている。だから、日本人は、全くダメなのである。 欧米人の連合国が、日本人に憲法九条を与えたのは、納得である。
薨去という言葉を使ったのはミスでしょうね✨所謂、言葉尻りを取られてしまった😵💧ようです。😊
卑弥呼様は天孫降臨した天孫族ではありません??💧邪馬台国は、継体天皇の系譜には連ならないようです。つまり、皇統譜からは除外されています。😅
箸墓が卑弥呼の冢だという考古学的な根拠は特に無いのだし、違う可能性の方がはるかに高いでしょうね。記紀も同程度に信憑性が疑わしいのだけど。陳寿は卑弥呼が死んでから大いに冢を作ったとするので、完成時期がいつだかは分からないし、そこでどのような祭祀が行われたのかも分からない。墳丘の形状や埴輪などは後世に幾らでも変更・付け足しが出来るものなので、とりあえず緻密に発掘調査しない事には想像しか出来ないでしょう。
埴輪の納期はやべぇな。
倭迹迹日百襲姫命→邪馬台迹迹日百襲姫命なんてね。
百襲姫は役職名ですから、卑弥呼でなくてもいい。この墓にはトヨが葬られてると考える。
野見宿祢。古式相撲の立ち合いで当麻蹴早を殺してるって話を聞くと、殉葬を良くないと言ったのに違和感が・・・。
歴史学者は自分のご飯のために都合の良い主張するのではなく自国の本当にあった事実を解明したいって思わないものなのだろうか
箸墓古墳は、卑弥呼の古墳ではありません。この度キンドル版誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。関心があればそちらをご覧下さい
宮内庁が、何があろうと絶対に 掘らせない、調査させない。どうしようもない。
明確な管理者がいるのに先祖の墓掘ってもいいですよとはならんやろ。学術のためには何をやっても許されるわけではないんだよ
発掘作業の費用は誰が負担するのでしょうか??💧レーザーによる空撮は、クラウドファンディングだからお願いできたのです。😅
未だ決定打が無くて専門家でも意見が分かれてるような内容の教科書記述がほぼ一人の人間の影響に寄ってる臭そうなのはヤバいと思う
畿内説って南と東を間違えたというのを根拠の一つにしているが、それだったら末ろ国の末と未のほうがよっぽど間違えると思うな。まつろじゃなくてみつろだとしたらその音に似ているのはいつも=出雲かもね
これは個人的な意見しかないけど卑弥呼は弥生時代の日本人がヒミコ様とは呼んでないと思う。これは魏の中国人が付けたものと思う。当時は相手を自分の下に見た名前の付け方をするから。だから頭に「卑」を付けたりする。右2文字は日本語の音に近いので日本語の音でミコは巫女、神子、皇女、親王、美湖。。他にもあるけど(当時は日本まだ漢字が明確にはないので音でしか伝えられないから)この辺の音だけで伝えてミコ→弥呼と当て字で書かれたと思う。日本ではミコ様だった?この音に近い人が卑弥呼と思う。
万葉集では天皇や皇太子のことを"日の御子"と歌う和歌が多くある
@@kei.suzuki >万葉集では天皇や皇太子のことを"日の御子"と歌う和歌が多くあるなるほど。それなら「ひのみこ」と弥生人は説明していたかもしれない。しかし当時の日本の使いが魏の人に「彼女の名はヒノミコと呼ばれています~」と音で伝えても聞き取る側に中国語の音ではヒノミコという発音がない。(今でもない)ヒミコ(卑弥呼=beimihu)の音はベイミフォーなのでミコ=ミフォーは音が近いがベイは全然違う。「ヒノミコ」と音で聞いてベイミフォーと言うのは不自然なので卑弥呼の卑は後付けと感じる。万葉集の時代はもう漢字が浸透していたので文字で記録ができるけど邪馬台国時代はまだ伝来直後なので日本に卑弥呼(或いは近い音)の文字が発見されないのは仕方ないかもしれない。それと万葉集の時代に逆に中国から巫女=卑弥呼と記述されていたことを知って、文字の意味が良くないこともわかって卑→日にして記録したかもしれない。漢字(形)は中国から伝わったが読み方(音)は日本人が独自に付けたのだろう。
卑弥呼の墓は円墳。よって箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。
うぷ主様すいません。「箸墓古墳は4世紀に・・・」っていうのは、実際に箸墓古墳を発掘した人間が誰もおらん以上チトコバ断定できないと思います。この問題は宮内省が古墳の発掘許可を出さない限り解決不可能じゃないんですかね~( ^ω^)
埴輪が殉葬の変わりに始まって、卑弥呼の墓は殉葬があり、橋墓古墳には埴輪があるなら別の人の墓では?
私もそう思いますよ。でも何故か箸墓が卑弥呼の墓だと言うんです。余談ですが私の実家に近くに前方後円墳があり、今は半分以上崩れてますが周りから埴輪ではなく土器の欠片がよく出たみたいです。古墳時代前期と言われてます。
とりあえず・・絹だして?特産品でしょ?無いの・・
鉄も出なさすぎですしね
そもそも邪馬台国という大国が畿内の狭い地域に収まっているという考えが間違いかと…伊都国ですら糸島市から福岡市西部が範囲と想定されるので、単純にその70倍の面積で考えるよう認識を改めないと何も分からないのでは。
邪馬台国の女王・卑弥呼様は、九州の地の、何処かに眠っていらっしいます。
卑弥呼の前・次の王が男だったとあるし、ここが崇神天皇だったということですかねえ。
納期!
卑弥呼は「王」として ”金印” を下賜されていますが、倭迹迹日百襲姫は「王」では有りませんから、そもそもの間違いをなぜ都合がよいほうにスルーしたがるのか?それに、いきなり完成された大型の箸墓の出現は、年代からしても不自然です。箸墓よりも古い形態のものが、3世紀のものと、捉えるのが常道ではないですか?因みに、全国には前方後円墳に移行してゆく前段階の古墳が発見されていますが、畿内のが遡って古く比定される、おかしな現象があります・・・
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓だよ?
「卑弥呼がワイらの記録にない…おかしい…ええい!神功皇后を卑弥呼にしたろ」と干支を2運(120年)繰り下げた大和政権と、近畿の考古学者が同じことをやってるわけで草しか生えない
箸墓古墳の被葬者は孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に崩御され箸墓古墳に葬られました。 倭母母曽毘売命は初代邪馬台国女王です。 二代目の邪馬台国女王は崇神天皇の皇女の豊鋤入毘売命です。 三代目の邪馬台国女王は垂仁天皇の皇女の倭毘売命です。
😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅
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宮内庁は、そろそろ発掘解禁してもらいたい。
魏志倭人伝を読みますと卑弥呼の墓として大きな塚を作る径百歩と、卑弥呼の宮殿も城柵を厳かに設けて奴婢千人が仕えておりと、どちらも意外と描写が詳細ですので、中国からの使者が実際に見て記録した情報の可能性が高いと考えます😅つまり箸墓が卑弥呼の墓だとしたら魏の使節は纏向まで行ったことになるわけですが、魏志倭人伝を読む限りでは行ったのは伊都国あたりまでで、纏向まで行ったような描写がほぼないので、私は行ってないと考えます。そもそも遠すぎますし伊都国で贈り物を届けて帰ればいいだけでわざわざ纏向まで行く必要もなければ行く労力も半端ないので可能性として低いかと。あと不弥国から邪馬台国までの間にある国が投馬国しかないのも実際に行ってないので伝聞の可能性が高いと考えます😅というわけでおそらく箸墓は卑弥呼の墓ではない可能性のほうが高いと私は考えますが、炭素年代のような科学的な手法がもっと発達して正確な年代を割り出せるようになれば、箸墓が卑弥呼の墓である可能性も高まるとは思ってます。かなりざっくりと考えればこのような結論になるかと😅
昔から納期優先で品質を落としてたのね
ヤマトトトミモモソ姫。ヤマトとトミは百代、姫。ヤマト以前のトミ、盾形鏡と蛇行剣の円墳のトミの関係者です。卑弥呼は関係なし。
箸墓古墳が卑弥呼のお墓と云う証拠はどこにもない!憶測で言っており、全く問題にならない!
土師氏の墓です😅
死んだ後にお墓作るのでは?
死ぬまではため池をつくった残土
邪馬台国はヤマト国なのである。その場所は現在の奈良県桜井市にあたる。
吉備式の特殊基台が出ていることについて、被葬者が吉備の出身者だった場合or吉備とのつながりが強い人だった場合が考えられると思う、因みに吉備の楯築墳丘墓に埋葬されている人は女性の公算が高く、またシャーマン的な性格を持った人だとされている、まあ真実はわかりません 後これ都市伝説程度に思ってくれれば良いのだけど、箸墓古墳は方墳の上に築造されているのかも(^-^; 発掘が出来ない以上あくまで妄想w
元伊勢籠神社に残されていた海部氏系図によると、ヤマトトヒモモソヒメの別の名前が日女命ですからね。卑弥呼である事は間違いないですよ。但し巫女王としての役職名前の可能性もあります。それに墳丘部からの出土品は吉備由来の三世紀中頃に見られる、宮山遺跡群の特殊器台も大量に確認されてますから、モモソヒメが瀬戸内方面で活躍した逸話とも整合性は取れています。箸墓と呼ばれてはいますが大市墓とも呼ばれていました。ヤマトトヒモモソヒメの別名には神大市姫ともありますので、これも文献資料との整合性は取れています。
すでに解読し機内説を崩壊させた人がいるんだけど機内説論者が多く論文を出しても載らないよう妨害されているらしい自費出版やKindleでしか発表できない状態にあるのが現状でしょう
埴輪が出土っていっても古墳の中からじゃないし築造よりちょっと後に誰かが有難迷惑でボンッて置けばそれだけでこの見方じゃ年代狂う要素になるからなぁw言っちゃえば埴輪自体誰が何の目的で作って置いたのかすら正確には解らない訳だし。当時の子供が悪戯に作ったってわかりゃしないw結局中ほじくれない以上古墳が邪馬台国の資料になる事はない
倭迹迹日百襲姫命が箸で・・・亡くなった、即ち短命。長寿ではなく、倭人伝との記述似合わない。この時点で卑弥呼は除外。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり、 19:00 第10代崇神天皇を中心として政治及び祭祀が行われていました。 紀元前60年に橿原神宮で初代神武天皇が即位されて以来、歴代天皇がいらっしゃいました。 そして都が京都に遷都されるまでの間歴代天皇が大和政権を持続させてきました。 邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 二代目女王卑弥呼は第10代崇神天皇の皇女の豊鋤入毘売命です。 三代目女王は第711代垂仁天皇の皇女の倭毘売命です。
「箸墓古墳は四世紀」とすれば全ての矛盾だらけの答えをバッサリと解決する。
邪馬台国畿内説の第一人者、石野博信氏の発言「ホケノ山古墳の埋葬者は阿波の出身者である可能性が非常に高い」ホケノ山古墳、箸墓古墳が阿波の萩原2号墳墓、西山谷2号墳墓を真似て作られていることは科学的に証明されている。邪馬台国の葬法に該当するのは阿波式石棺、九州の甕棺墓のみ。弥生期に水銀朱の発掘、精製をしていたのは阿波のみ。よって、箸墓古墳は阿波から奈良へ進出した阿波海人族あるいは阿波忌部の墓ではないかと。可能性として奈良の土着の豪族の墓とも考えられますね。つまり、いわゆる卑弥呼の墓ではないということです。
阿波式石棺は石棺の研究初期の1910年代に使われていた言葉で形状ではなく石材に着目して緑泥片岩が使われているのは阿波地域だけでそれを元に呼ばれたのですが、形状としては特異なものではなく全国的に分布しているのが知られるようになって、研究初期段階の呼称として使われなくなっていったそうです。邪馬台国の埋葬方法は有棺無槨で萩原2号墳墓は木槨があり該当しませんが、西山谷2号墳墓は竪穴式石室とすれば該当し、竪穴式石槨と解釈すれば該当しません。阿波式石棺を邪馬台国の埋葬方法と合致するとした場合、阿波式石棺と同じ形状の箱式石棺と竪穴式石室は全国的に分布しているので埋葬方法で特定するのは困難になります。
邪馬台国は奈良時代のちょっと前なのでそんなに前ではありませんよ。
500年もちゃうで
箸墓古墳が卑弥呼の墓は無理スジにもほどがある。ふと思ったんですけど、卑弥呼の墓って邪馬台国にあるんですかね?なんか邪馬台国は熊本北部福岡南部で、卑弥呼の墓は宇佐っぽいんですけど
案外、古墳とすら認識されていない場所な気がする。
徳川家康を祀る東照宮は、最大時には百か処ほどありましたから、卑弥呼様の廟は一つだけとは限らないのです。😊
大和王権の前方後円墳がある纏向の地下に、邪馬台国の遺跡があるって信じていた人たちがいたんでしょう。しかし、50年掘っても、弥生の王国の痕跡も出てこなかったので、都合の良い昔のC14方式の年代推定で、箸墓を邪馬台国の時代まで遡らせてしまったのですね。でも、その前の時代に何もないことには変わりない。大和王権ってなにもないところに、発生しているようで。C14の推定もIntcal20に更新されてしまって、箸墓は4世紀の可能性も復活したし。
コメント欄が本編以上に熱い!
本編 それだけみなさんの興味の真ん中ですからね!
古墳の歴史的な流れが分かりやすく解説されていて秀作です。
特殊器台から埴輪へと考察すると箸墓を含め前方後円墳の成り立ちがうっすら見えてきますね!
奈良盆地を中心に考えがちですけどもっと広範囲で考察する必要があるいい例です。
卑弥呼のノボリがはためく箸墓古墳の駐車場。
興味本意でも構わないです。話題が盛り上がって調査の後押しになればいいんですけど…
大人の事情でおまんまの食い上げとか要らないから、日本の歴史を正しく整理してほしいです。
僕もそう思います。
ほんと、ただただ、真実の歴史が知りたいです
気付きをいただきましてありがとうございます。
邪馬台国と大和王権は別なんだと思います。
布留式の始まりを4世紀中頃まで降らせると安本美典氏の説に近くなりますが王莽の新の時代に造幣された貨泉と伴う河内の亀井遺跡の大和Vの始まりから庄内期の始まりまで250年以上続いたことになりそれはそれで現実的ではありません
関川さんの世界情勢から見た邪馬台国ってのはちょっとどうかと思うんだけど、その他の出土品を考古学的に分析した話は大いに共感できる。
出土品って事実だけを元に分析した話って信頼性が高いと思う。
最近、後円部と前方部で築造時期に50年ぐらい差がある前方後円墳を知って、俺の中で箸墓古墳卑弥呼陵墓説が再浮上中
特殊埴輪が一部にしか設置されてないことも方部と円部の建設時期が違うことの裏付けになるか。
その話を聞いて王朝交代があった時に後発勢力が元々あった円墳に方墳をつけたして先発勢力を受け継いだ正統な後継者だ!なんてアピールしたとかそんなのを想像した。
あまり古墳とされていないものの、さらに古い前方後円墳があるんですよね
魏志倭人伝の記述と日本書紀崇神記の記述が対応していると言われているね。
継体天皇の墓と治定された太田茶臼山古墳が考古学的にはありえないことがわかった(今城塚古墳とされる)例がありますからね。
仁徳天皇陵も大仙陵古墳という名前になってしまった。
纏向遺跡は三世紀に突如として現れて四世紀になると生活の痕跡が無くなることから吉備から呼び寄せられた倭迹迹日百襲姫命のために渡来人パワーで急遽作られた都で彼女の死と共に遺棄されたのではないでしょうか。
世の中に陵墓は調査できないと思ってる人いるみたいだけど、宮内庁がやって報告書も出してますからね
土器は後から置かれたとも考えられる。
なんにしろ、掘ってみないと始まらない。
古墳はどんどん調査しないといけません
祭祀が行われているお墓以外はどんどん調査すればいい
卑弥呼の墓には奴婢100人が殉葬されているんだから、種類に関係なく埴輪が出土するのはおかしい。
もしかしたら、卑弥呼の墓はどこかの城や砦の土台になってるか、なってたかも知れない。
少し小高い丘でちょうど良かったかも。
それで壊されて。
だから見つからない。
今ある古墳だって砦等に使われたとか話は有るしね。
鎌倉以降は単なる小山としか認識してないでしょ?
卑弥呼の墓は見つかっていますよ!古墳マップで三柱山古墳を調べて下さい^_^
大ニュースです!💧しかし、どのチャンネルさんも、騒いでいません!?💧
@@AKIHIKO-uz7wf さん おっしゃるとおりですよ。ほとんど皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っているので、信じないのです。でも日本書紀の正体は藤原不比等による勝者の歴史書です。古事記は9世紀の宮廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出したもので、正史に古事記の記録もないし、日本書紀が古事記を参照した形跡もないのです。普通ならば偽書扱いにするところ、日本最古の天皇の歴史書という刷り込みがあるので気づけないのだと思います。古事記は不比等が隠した3世紀の日本建国やその後の歴史改ざんを、藤原氏に悟られないようにして暴露する暗号書だったのです。これを解けば空白の四世紀で隠された二人の天皇も、倭の五王の正体も判明します。ちなみに今、話題沸騰の富雄丸山古墳の被葬者は隠された天皇のひとりでしたよ(^_-)-☆
詳しくは刮目天の古代史ご参照ください(;^ω^)
体を
@@AKIHIKO-uz7wf さん 今お返事を長々と書いたところ誰かに消されてしまいました。消された内容の詳細は刮目天の古代史をご参照ください(;^ω^)
ブログでしたら、拝見させて頂いています。吉田神道と日本書紀、そして藤原氏との関係を述べない古代史チャンネルには、疑問を感じています。😊
桜井市は地道に考古学からの検証に
努めておられます
奈良はみな商売下手です
しかしそれが誇りでもあります
箸墓古墳は3世紀末、大和姫の陵とされており、2世紀の卑弥呼の陵はホケノ山古墳との言い伝えもある。
最古の前方後円墳千葉市原の神門遺跡、多くの住居後のない奈良盆地に邪馬壹国はないのでは?
「箸」墓古墳だけれど形状がスプーンみたいだねと思った学生時代(遠い目)
崇神天皇陵が4世紀中頃から後半ならその後の応神天皇や仁徳天皇まで半世紀もないことになってしまいますけど?流石に短すぎでは?
邪馬台国畿内説の考古学者は、箸墓古墳が卑弥呼の墓では無いとされたら予算が取れなくなるので箸墓古墳の年代を繰り上げたりして必死に3世紀の築造にしているんだ。
しかし、箸墓古墳から埴輪が出土した時点で卑弥呼の墓では無いでしょう。周囲に殉葬墓があれば間違いないと思います。
いい動画をありがとうございます。箸墓の被葬者は、御存じのとおり、『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記された大物主(大国主)の妻とされた人物ですので、卑弥呼の墓ではないと記紀が明言していますね。
この姫の名前の意味はヤマトとトビ(トビヒコとも呼ばれた大国主命)を恨んで何度も何度も唱える気の毒なお姫様ということで、史実をもとに作られた名前ですよ(^_-)-☆。
ちょっと長くなって恐縮ですが、以下の話です(;^ω^)
247年の卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ、和邇氏の祖神)の死後の内戦を勝利した大国主久々遅彦(豊岡市久久比神社祭神、奴国最後の王スサノヲの子孫、狗奴国の官狗古智卑狗)が外交上卑弥呼の宗女として同じムナカタ海人族の姫巫女台与を女王に立て、纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼(スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ、記紀の崇神天皇)を裏切って対立しました。日本列島の大半を支配した山陰・丹波を根拠地とするムナカタ族を束ねる王なので、記紀では出雲の大国主命と呼んだのです。最終的に大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)と台与(記紀の神功皇后)が狗奴国(旧奴国)勢に討たれて日本が統一されました。
しかし、280年に西晋に呉が滅ぼされると、台与を討った仕返しで狗奴国は追討されると恐れました。久々遅彦と台与の間の王子ホムダワケを祭祀王として呼び寄せて両親の鎮魂をさせました。記紀では崇神天皇紀の大田田根子の話です。そして狗奴国を卑弥呼・台与の後継国ということにして纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにし、父を桜井市外山(トビ)茶臼山古墳で、母を箸墓で改葬しました。
応神天皇の父とされた仲哀天皇は、その父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、杜撰な作り話です。記紀で熊襲征伐のために九州遠征し、神託を疑ったために崩御したとされた仲哀天皇は倭国追討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、ニギハヤヒ大王の子孫)で、大国主勢に殺された人物です(九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳で葬られたと推理しました)。跡を継いだ尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、日本武尊のモデル)が大国主・台与らを討って日本を統一した人物です(遠征の途中で戦死し沼津市高尾山古墳で葬られたと推理しています)。記紀で景行天皇の九州遠征の話になっています。崇神天皇四道将軍から応神天皇即位までの約350年の話が3世紀後半の史実だったのです(倭国大乱から統一戦争までの詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。
と言う訳で、たった13歳で大国主の妃にされ、最後はヤマトに殺された可哀そうなお姫様ですので、ヤマトとトビ(大国主)を恨んで、その名を何度も何度も唱えるお姫様という名前にされています。詳しくは「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」もご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
箸墓古墳はももそひめの墓ではありません。ももそひめの墓は香川県(阿波倭国)にあります。箸墓古墳は土師氏のお墓です。
大物主の巫女なのにそんなに三輪から離れて大丈夫か?
日本書紀に、祟神天皇の在位は短かったとあります。この短い期間に前方部を作ったと考えています。祟神天皇の功績は、それ以前の誰かの摂政時代のものですよ。
箸墓は卑弥呼より新すぎるからダメ
整備や管理によるものかも知れないが、箸墓古墳は近接の纏向古墳群よりも新しい時代のものと見受けられる。卑弥呼を結び付けるのはちょっと無理がありそう。
卑弥呼の墓は円墳だから前方後円墳の箸墓古墳とは形状が異なりますね
箸墓古墳なんですが、邪馬台国云々は別として、倭迹々日百襲姫命の墓っていうのが自分としては疑問なんですよね。
何でたかが巫女にあんな大きな墓が必要なのか。
巫女が重要な存在なら他にも巫女を祀る古墳があってもいいのにないし。
古墳は副産物であって大事なのは物資を運ぶための運河の水です。大きな市場には大きな池が必要になります。
巫女王の墓ですから巨大なんですよ。この箸墓の別名は大市墓、モモソヒメの別名も神大市姫と言います。古来市は女性の意味でもありましたから。
必要なのは運河に流す水のため大きなため池が必要なのです。古墳は副産物です。
@@かかしやまだの この辺りは山の辺りから勝手に田原本方面の標高が低い場所に向かって水は流れますよ。また古墳周りの濠は基本的に神仙思想的には海に浮かぶ弥山を表現されたもの、だと思います。
それは水銀朱や鏡が供えられる事からも言えるはずです。
そもそもこの辺りには元々初瀬川、大和川があるのに水運は困る事はありませんから。
ご存命中は卑弥呼と呼ばれ、薨去されたのちの名が倭迹迹日百襲姫てあり、箸墓古墳は後世移転改葬したものという解釈は可能でしょうか。築造年代を推測する別のアプローチとして、後円部直径が古韓尺(26.7cm)の600倍の160mであることや、築造計画で選定されたであろうその地の緯度の分析もあると思いますがどうでしょう。
そんな主張は奇想天外で、めちゃくちゃを言っている。
薨去の漢字やその言葉の使用は、ずっと後の時代。時間軸が前後の区別なく使っており、、ごっちゃ混ぜで、デタラメを主張している。これは、先の大戦が、日本人全員に、全然反省出来ていないからである。
そればかりで無く、1連の武力侵略戦争の犠牲者を、無駄死にさせている。
だから、日本人は、全くダメなのである。 欧米人の連合国が、日本人に憲法九条を与えたのは、納得である。
薨去という言葉を使ったのはミスでしょうね✨所謂、言葉尻りを取られてしまった😵💧ようです。😊
卑弥呼様は天孫降臨した天孫族ではありません??💧邪馬台国は、継体天皇の系譜には連ならないようです。つまり、皇統譜からは除外されています。😅
箸墓が卑弥呼の冢だという考古学的な根拠は特に無いのだし、違う可能性の方がはるかに高いでしょうね。
記紀も同程度に信憑性が疑わしいのだけど。
陳寿は卑弥呼が死んでから大いに冢を作ったとするので、完成時期がいつだかは分からないし、そこでどのような祭祀が行われたのかも分からない。
墳丘の形状や埴輪などは後世に幾らでも変更・付け足しが出来るものなので、とりあえず緻密に発掘調査しない事には想像しか出来ないでしょう。
埴輪の納期はやべぇな。
倭迹迹日百襲姫命→邪馬台迹迹日百襲姫命なんてね。
百襲姫は役職名ですから、卑弥呼でなくてもいい。
この墓にはトヨが葬られてると考える。
野見宿祢。古式相撲の立ち合いで当麻蹴早を殺してるって話を聞くと、殉葬を良くないと言ったのに違和感が・・・。
歴史学者は自分のご飯のために都合の良い主張するのではなく自国の本当にあった事実を解明したいって思わないものなのだろうか
箸墓古墳は、卑弥呼の古墳ではありません。この度キンドル版誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。関心があればそちらをご覧下さい
宮内庁が、何があろうと絶対に 掘らせない、調査させない。どうしようもない。
明確な管理者がいるのに先祖の墓掘ってもいいですよとはならんやろ。学術のためには何をやっても許されるわけではないんだよ
発掘作業の費用は誰が負担するのでしょうか??💧レーザーによる空撮は、クラウドファンディングだからお願いできたのです。😅
未だ決定打が無くて専門家でも意見が分かれてるような内容の教科書記述が
ほぼ一人の人間の影響に寄ってる臭そうなのはヤバいと思う
畿内説って南と東を間違えたというのを根拠の一つにしているが、
それだったら末ろ国の末と未のほうがよっぽど間違えると思うな。
まつろじゃなくてみつろだとしたらその音に似ているのはいつも=出雲かもね
これは個人的な意見しかないけど
卑弥呼は弥生時代の日本人がヒミコ様とは呼んでないと思う。
これは魏の中国人が付けたものと思う。
当時は相手を自分の下に見た名前の付け方をするから。
だから頭に「卑」を付けたりする。
右2文字は日本語の音に近いので
日本語の音でミコは巫女、神子、皇女、親王、美湖。。他にもあるけど
(当時は日本まだ漢字が明確にはないので音でしか伝えられないから)
この辺の音だけで伝えてミコ→弥呼と当て字で書かれたと思う。
日本ではミコ様だった?
この音に近い人が卑弥呼と思う。
万葉集では天皇や皇太子のことを"日の御子"と歌う和歌が多くある
@@kei.suzuki
>万葉集では天皇や皇太子のことを"日の御子"と歌う和歌が多くある
なるほど。
それなら「ひのみこ」と弥生人は説明していたかもしれない。
しかし当時の日本の使いが魏の人に
「彼女の名はヒノミコと呼ばれています~」と音で伝えても
聞き取る側に中国語の音では
ヒノミコという発音がない。(今でもない)
ヒミコ(卑弥呼=beimihu)の音は
ベイミフォーなので
ミコ=ミフォーは音が近いがベイは全然違う。
「ヒノミコ」と音で聞いて
ベイミフォーと言うのは不自然なので
卑弥呼の卑は後付けと感じる。
万葉集の時代はもう漢字が浸透していたので文字で記録ができるけど
邪馬台国時代はまだ伝来直後なので
日本に卑弥呼(或いは近い音)の文字が発見されないのは仕方ないかもしれない。
それと万葉集の時代に逆に中国から巫女=卑弥呼と記述されていたことを知って、文字の意味が良くないこともわかって卑→日にして記録したかもしれない。
漢字(形)は中国から伝わったが
読み方(音)は日本人が独自に付けたのだろう。
卑弥呼の墓は円墳。
よって箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。
うぷ主様すいません。「箸墓古墳は4世紀に・・・」っていうのは、実際に箸墓古墳を発掘した人間が誰もおらん以上チトコバ断定できないと思います。この問題は宮内省が古墳の発掘許可を出さない限り解決不可能じゃないんですかね~( ^ω^)
埴輪が殉葬の変わりに始まって、卑弥呼の墓は殉葬があり、橋墓古墳には埴輪があるなら別の人の墓では?
私もそう思いますよ。
でも何故か箸墓が卑弥呼の墓だと言うんです。
余談ですが私の実家に近くに前方後円墳があり、今は半分以上崩れてますが周りから埴輪ではなく土器の欠片がよく出たみたいです。古墳時代前期と言われてます。
とりあえず・・絹だして?特産品でしょ?無いの・・
鉄も出なさすぎですしね
そもそも邪馬台国という大国が畿内の狭い地域に収まっているという考えが間違いかと…
伊都国ですら糸島市から福岡市西部が範囲と想定されるので、単純にその70倍の面積で考えるよう認識を改めないと何も分からないのでは。
邪馬台国の女王・卑弥呼様は、九州の地の、何処かに眠っていらっしいます。
卑弥呼の前・次の王が男だったとあるし、ここが崇神天皇だったということですかねえ。
納期!
卑弥呼は「王」として ”金印” を下賜されていますが、
倭迹迹日百襲姫は「王」では有りませんから、
そもそもの間違いをなぜ都合がよいほうにスルーしたがるのか?
それに、
いきなり完成された大型の箸墓の出現は、年代からしても不自然です。
箸墓よりも古い形態のものが、
3世紀のものと、捉えるのが常道ではないですか?
因みに、全国には前方後円墳に移行してゆく前段階の
古墳が発見されていますが、
畿内のが遡って古く比定される、おかしな現象があります・・・
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓だよ?
「卑弥呼がワイらの記録にない…おかしい…ええい!神功皇后を卑弥呼にしたろ」と干支を2運(120年)繰り下げた大和政権と、近畿の考古学者が同じことをやってるわけで草しか生えない
箸墓古墳の被葬者は孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に崩御され箸墓古墳に葬られました。
倭母母曽毘売命は初代邪馬台国女王です。
二代目の邪馬台国女王は崇神天皇の皇女の豊鋤入毘売命です。
三代目の邪馬台国女王は垂仁天皇の皇女の倭毘売命です。
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宮内庁は、そろそろ発掘解禁してもらいたい。
魏志倭人伝を読みますと卑弥呼の墓として大きな塚を作る径百歩と、卑弥呼の宮殿も城柵を厳かに設けて奴婢千人が仕えておりと、どちらも意外と描写が詳細ですので、中国からの使者が実際に見て記録した情報の可能性が高いと考えます😅
つまり箸墓が卑弥呼の墓だとしたら魏の使節は纏向まで行ったことになるわけですが、
魏志倭人伝を読む限りでは行ったのは伊都国あたりまでで、纏向まで行ったような描写がほぼないので、
私は行ってないと考えます。そもそも遠すぎますし伊都国で贈り物を届けて帰ればいいだけでわざわざ纏向まで行く必要もなければ行く労力も半端ないので可能性として低いかと。
あと不弥国から邪馬台国までの間にある国が投馬国しかないのも実際に行ってないので伝聞の可能性が高いと考えます😅
というわけでおそらく箸墓は卑弥呼の墓ではない可能性のほうが高いと私は考えますが、
炭素年代のような科学的な手法がもっと発達して正確な年代を割り出せるようになれば、箸墓が卑弥呼の墓である可能性も高まるとは思ってます。
かなりざっくりと考えればこのような結論になるかと😅
昔から納期優先で品質を落としてたのね
ヤマトトトミモモソ姫。ヤマトとトミは百代、姫。ヤマト以前のトミ、盾形鏡と蛇行剣の円墳のトミの関係者です。
卑弥呼は関係なし。
箸墓古墳が卑弥呼のお墓と云う証拠はどこにもない!憶測で言っており、全く問題にならない!
土師氏の墓です😅
死んだ後にお墓作るのでは?
死ぬまではため池をつくった残土
邪馬台国はヤマト国なのである。
その場所は現在の奈良県桜井市にあたる。
吉備式の特殊基台が出ていることについて、被葬者が吉備の出身者だった場合or吉備とのつながりが強い人だった場合が考えられると思う、因みに吉備の楯築墳丘墓に埋葬されている人は女性の公算が高く、またシャーマン的な性格を持った人だとされている、まあ真実はわかりません 後これ都市伝説程度に思ってくれれば良いのだけど、箸墓古墳は方墳の上に築造されているのかも(^-^; 発掘が出来ない以上あくまで妄想w
元伊勢籠神社に残されていた海部氏系図によると、ヤマトトヒモモソヒメの別の名前が日女命ですからね。卑弥呼である事は間違いないですよ。但し巫女王としての役職名前の可能性もあります。
それに墳丘部からの出土品は吉備由来の三世紀中頃に見られる、宮山遺跡群の特殊器台も大量に確認されてますから、モモソヒメが瀬戸内方面で活躍した逸話とも整合性は取れています。
箸墓と呼ばれてはいますが大市墓とも呼ばれていました。ヤマトトヒモモソヒメの別名には神大市姫ともありますので、これも文献資料との整合性は取れています。
すでに解読し機内説を崩壊させた人がいるんだけど機内説論者が多く論文を出しても載らないよう妨害されているらしい
自費出版やKindleでしか発表できない状態にあるのが現状でしょう
埴輪が出土っていっても古墳の中からじゃないし築造よりちょっと後に誰かが有難迷惑でボンッて置けばそれだけでこの見方じゃ年代狂う要素になるからなぁw
言っちゃえば埴輪自体誰が何の目的で作って置いたのかすら正確には解らない訳だし。当時の子供が悪戯に作ったってわかりゃしないw
結局中ほじくれない以上古墳が邪馬台国の資料になる事はない
倭迹迹日百襲姫命が箸で・・・亡くなった、即ち短命。長寿ではなく、倭人伝との記述似合わない。この時点で卑弥呼は除外。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり、 19:00 第10代崇神天皇を中心として政治及び祭祀が行われていました。
紀元前60年に橿原神宮で初代神武天皇が即位されて以来、歴代天皇がいらっしゃいました。
そして都が京都に遷都されるまでの間歴代天皇が大和政権を持続させてきました。
邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
二代目女王卑弥呼は第10代崇神天皇の皇女の豊鋤入毘売命です。
三代目女王は第711代垂仁天皇の皇女の倭毘売命です。
「箸墓古墳は四世紀」とすれば全ての矛盾だらけの答えをバッサリと解決する。
邪馬台国畿内説の第一人者、石野博信氏の発言
「ホケノ山古墳の埋葬者は阿波の出身者である可能性が非常に高い」
ホケノ山古墳、箸墓古墳が阿波の萩原2号墳墓、西山谷2号墳墓を真似て作られていることは科学的に証明されている。
邪馬台国の葬法に該当するのは阿波式石棺、九州の甕棺墓のみ。
弥生期に水銀朱の発掘、精製をしていたのは阿波のみ。
よって、箸墓古墳は阿波から奈良へ進出した阿波海人族あるいは阿波忌部の墓ではないかと。
可能性として奈良の土着の豪族の墓とも考えられますね。
つまり、いわゆる卑弥呼の墓ではないということです。
阿波式石棺は石棺の研究初期の1910年代に使われていた言葉で形状ではなく石材に着目して緑泥片岩が使われているのは阿波地域だけでそれを元に呼ばれたのですが、形状としては特異なものではなく全国的に分布しているのが知られるようになって、研究初期段階の呼称として使われなくなっていったそうです。
邪馬台国の埋葬方法は有棺無槨で萩原2号墳墓は木槨があり該当しませんが、西山谷2号墳墓は竪穴式石室とすれば該当し、竪穴式石槨と解釈すれば該当しません。
阿波式石棺を邪馬台国の埋葬方法と合致するとした場合、阿波式石棺と同じ形状の箱式石棺と竪穴式石室は全国的に分布しているので埋葬方法で特定するのは困難になります。
邪馬台国は奈良時代のちょっと前なのでそんなに前ではありませんよ。
500年もちゃうで
箸墓古墳が卑弥呼の墓は無理スジにもほどがある。ふと思ったんですけど、卑弥呼の墓って邪馬台国にあるんですかね?なんか邪馬台国は熊本北部福岡南部で、卑弥呼の墓は宇佐っぽいんですけど
案外、古墳とすら認識されていない場所な気がする。
徳川家康を祀る東照宮は、最大時には百か処ほどありましたから、卑弥呼様の廟は一つだけとは限らないのです。😊
大和王権の前方後円墳がある纏向の地下に、邪馬台国の遺跡があるって信じていた人たちがいたんでしょう。しかし、50年掘っても、弥生の王国の痕跡も出てこなかったので、都合の良い昔のC14方式の年代推定で、箸墓を邪馬台国の時代まで遡らせてしまったのですね。でも、その前の時代に何もないことには変わりない。大和王権ってなにもないところに、発生しているようで。C14の推定もIntcal20に更新されてしまって、箸墓は4世紀の可能性も復活したし。