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学生時代、真冬の日光、中禅寺湖の湖畔で雪中訓練をやらされたことがありました膝まで積もった雪の中、走らされたり橇を引かされたりしていたら晴天から突然の吹雪に数メートル先の友達も見えない中先生が「その場を動くな中禅寺湖に落ちるぞ」と言って全員その場に立ってひたすら吹雪に耐えていました吹雪が止んだのは1時間後、全員雪だるま状態でした、危険なので訓練は中止になりました、全員無事帰れたのは先生の冷静な判断でした視界がきかない中パニックになっていたら本当に湖に落ちる者がいたと思います、指揮官の冷静な判断は重要です
この事故は当時の時代背景と村人の忠告を聞いていれば起きなかった事故だろうなって思うのと今でもこの八甲田山がこの事故で亡くなった兵士の霊が出る心霊スポットになってる
慰霊の為に現在の陸上自衛隊青森第五普通科連隊は(日本陸軍の歩兵連隊と同じ場所で連隊番号と同じなのは唯一で有る)八甲田山雪中行軍を行い無理は絶対しないを鉄則して現在でも雪中行軍による遭難者は出して居ない。
@@73moto だが、雪のない時期に行軍していてガス中毒で死者を出しているよ。
@@73moto三重県久居に駐屯する第33普通科連隊も同じ駐屯地で旧陸軍と同じ部隊番号でした。歩兵第三十三連隊です。
100メートル歩くのに3時間という表現に言葉が出なかった
今でも、青森の冬はきつい。
小学校の図書室にあった「ほんとうにあったこわいはなし」ってシリーズの本で「八甲田山死の行進」ってタイトルで取り上げられてたのを思い出した。読んだのはもうだいぶ前のことなのに握り飯が凍り付いて食べられなくなっていたこととか覚えてる。懐かしい。
動画、ありがとうございます。
八甲田雪中行軍遭難事件はあまりにも悲惨な遭難事故だという話は聞いた事があるが、ここまでひどいとは思わなかった。装備の貧弱さや雪中行軍への備えや危険性の認識が不十分だった事、山中を突破するのに必要な地図が無かった事などは時代背景を考えれば仕方がないとは思うが、現地に土地勘のある人を連れてこなかった事、待機部隊の対応が遅れに遅れた事はまごう事なき人災であり、擁護のしようがない…。しかし、将校たちが危険性を判断し、訓練を中止しようとしたのを見習士官たちが止めて訓練続行を主張したのは意外だった。将校たちは長年の経験からヤバそうな雰囲気を感じ取っていたのだろうか。
地図は既に陸軍省参謀本部が全国地図を作成していたので存在しているはずだ。持って行ってなかったとなればこれは軍のミスだろう。
今じゃGPSとかで簡単に現在値が分かるけど、当時はそんなものや地図すらない状況で生活してた人たち、本当にすごい
冬季寒冷地で苦戦したのでロシアに備えて訓練するというのは頷けるが、まさか訓練場所の青森市というか八甲田そのものがロシアを凌ぐ世界屈指の豪雪地獄だったってのが……
新田次郎の小説で読んで知りまたが読み終えた後はげっそりした気持ちになりました
映画「八甲田山」は傑作です。雪山での過酷な撮影が出演者の鬼気迫る演技を引き出したのかもしれません。ただ、原作は新田次郎さんの小説「八甲田山 死の彷徨」であり、史実と違う脚色が少なからずあるので注意が必要です
同じ作者の「聖職の碑」も遭難を扱った凄い作品ですよね。
あまりの酷寒に兵士役のエキストラから脱落者が出たくらい、過酷な撮影現場だったそうです
ああ、こんな役者さんが出てたのか今更感いっぱいに成れる
@@ケワタガモv9fこちらは1913年8月末に長野県上伊那郡中箕輪村立中箕輪尋常高等小学校高等科2年生(現箕輪町立箕輪中学校2年生)が、中央アルプス(木曽山脈)の最高峰木曽駒ヶ岳への修学旅行登山中に、台風による暴風雨に遭遇して起きた「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」が題材になっています。
雪豪から一番最初に飛び出して凍死する隊員役は無名時代の大竹まことさんです。
もう一方の反対側から行軍した部隊?は遭難する事もなく踏破してるのでやっぱりこっちの部隊に何かしら問題があったんだろうね
雪山の怖さは経験しないと分からないんだよね。経験がないと、なんとか行けると思えてくるんだよ。
ご先祖様に八甲田山の生き残りがいると聞いたことがあります。祖母の話なので記憶も曖昧かと思いますがいつか本格的に調査してみたいと思います。
生存者で五体満足は士官のみで下士官兵は凍傷による手足の切断に成ったが、士官は装備品は自費調達で官給品の下士官兵よりも質が良く、映画八甲田山で加山雄三が演じた士官は映画や史実で生き残りその士官は当時は珍しいゴム長靴を履いて居て凍傷を防げた。
なんか太平洋戦争の敗因と似通った理由で遭難しているような気がする。下調べも準備も大してせずに楽観的な見通しで物事を実施してすぐに行き詰まり終いは精神論で切り抜けようとするが当然上手く行かず壊滅的な被害を出してしまう。面子ばかり気にして原因の究明もやらずになあなあで済ませる。
全く同感です。これでは天も見放すはず。
陸軍というプライドがあったがために八甲田という山の情報が無い状態で入ったのと、大隊長が雪中行軍指揮官の指揮権を奪って勝手な行動をとったがために取り返しのつかない事態になった。また、事前訓練の時の天候がよかったがために冬用の生地の厚い軍服で汗をかいたために薄手の小倉の軍服を着用した兵士がいたということ。兵士でもしっかりと防寒対策をした者は生き残っています。陸上自衛隊第5普通科連隊では毎年冬になると歩兵第五聯隊が踏破する予定だった八甲田をスキーや雪上車、アキオというソリを引いて行軍する訓練が行われています。
行軍隊の責任は初めから大隊本部で、意思決定権は大隊本部から派遣された山口少佐にある。神成大尉は山口少佐から行軍指揮を任されただけ。山口少佐が「行け」と言えば神成大尉は従うしかない。神成大尉が献策しても受けるかどうかは山口少佐次第。
地元の案内人や村人の言うことは聞いておいて間違いがない。地元の人は住んでいる土地の厳しさを身に染みて知っているから。過酷な土地では時には家族すら失うからね。しかしこの頃から旧日本軍の過剰なまでのプライドの高さが気になる。
日本人の組織論は、とかく精神論が前に出過ぎて上手く機能しない事が多いが、昔も今も変わらない所に問題があると思う。
お役所仕事。軍隊も巨大なお役所で、官尊民卑で硬直きわまりない。減点主義なので虚勢を張って、しかも無責任。日本人が作り出す組織が陥りがちな欠点がフルラインナップで出ている。研究材料としては貴重。
ほぼ同時期に八甲田山雪中行軍をした弘前連隊は計画通りに完了しています。一言でいうなら、用意周到と杜撰の差でしょうか。
そうですね。事前に現地近くの部落へ行き、地元の古老達から意見を聞いたり、事前準備をシッカリと行って居るんですよね。対して5連体は、31連隊が既に弘前を出発したしたと言う事で、焦りがあり事前準備が疎かになってしまったんでしょうね。指揮系統の混乱もありましたしね。この行軍にオブザーバーとして、大隊長以下の10数名の将校、下士官らが参加ししてるんですが、指揮権は中隊長なのか?大隊長が指揮する中隊なのか?その辺の曖昧さがあり、当日、余計に混乱する要因になったのでしょうね。
@@西村和夫-p3cちなみにその弘前歩兵第31連隊の雪中行軍隊は福島泰蔵大尉以下37名➕従軍記者1名の計38名という少数精鋭でもあった事や、行軍中は麻縄で全員をつないでいたことなどが、隊の統率を取ることが出来て八甲田山走破に成功(八甲田に入る前に負傷し途中で帰らせた1名を除く)した要因にも繋がったともいわれています。もっとも八甲田山走破の時は、さしもの弘前隊もあわや遭難寸前だったり、案内人として雇ったマタギ8人をメチャクチャ酷使した末に危険地帯を踏破したら「ご苦労さん、ハイさようなら」とサッサと捨てて自分たちだけで行軍を続けたりと、あまり褒められたものではありませんでしたが😅
おれ真夏に八甲田いったことある。お盆でも死ぬほど寒いぞ。冬に行くなんて正気ではない
兵隊の装備にスコップは必需品なイメージだが、当時はまだ貴重品だったんだな。
塹壕戦が始まる前、機関銃が登場する前だからかな
それはww1の経験からですよ。コレは日露戦争前の事故ですからね
生き残った兵士は英雄として讃えられて嫁希望が殺到したそうやね。
手足失ったのに何が幸いするかわからんものですな。
@@ガングート-b6c 中には村会議員に推薦されたものもいる。
人力資源管理論や経営学で 題材になる映画です。「日本陸軍という 比較的大きな組織で統制の取れた人的資源であるのになぜこういった事故が起きるのか」①集団心理による安心感での準備不足→誰かが何かするだろう②上下関係の厳しい組織図にある意見のあきらめ→上が何とかするだろう③組織外の人的資源の情報を回収しない→軍人は軍人以外の意見を聞かないリーダーが責任取るのは当たり前でリーダーの責務を遂行することの方が大事リーダーは失敗した時の経験を活かすため生き残らないとだめ。日本人 まっすぐ 問題があると上の人はすぐやめるが本当に責任があるリーダーであれば辞めずに解決してからされ という話
近所の神社の忠魂碑に、この行軍で亡くなった方の名前があった。ド田舎の村なのに途方もない確率を引き当ててしまった方が二名もいたことに大いに驚いた。忠魂碑は結構あちこち見ているが、このようなケースは他に見た事がない。
青森聯隊には宮城県の兵が主に集められていたのだが、、、
青森のJKが、八甲田山も、知事が被害を大きくさせた青森空襲も、洞爺丸台風も知りませんでした。日本の教育はそんなもんです。
沖縄の中学生がオレの爺様のまた従兄弟の名前は聞いたことがあると言ってたけどな。ひめゆり部隊の生き残りの方は実際にあったことがあり声をかけていただいたと言われたことがある。オレが身内だと言ったら大変驚ろかれていたけどね。
『原爆投下』も『東京大空襲』も『真珠湾攻撃』もかろうじて単語だけは聞いたことがある程度で、5W1Hは知らない若者たちがほとんど。もちろん『日中戦争』も『韓国併合』も知らないから……
映画『八甲田山』中々悲惨な映画だった。
撮影も過酷なものだったみたいですね
北大路さんの棺桶話アタマ下がります
高倉健さんが女性案内人(秋吉久美子さん)と別れる時に「案内人殿に、かしらァ~右ッ‼️」と感謝の敬礼👮を捧げるシーンは、史実どころか原作小説にもなく、あの映画だけのオリジナルシーンだと、最近になって初めて知りました😮😲
不慣れな登山で、かなりの軽装での強行したのが不運。指揮官に問題がある。
だいたい著名さでは群を抜く新田次郎本が元に解説されることが多くて、その悲惨さが語り継がれているんだが…平成になって、後継部隊にあたる青森の陸自普通科連隊で勤務された方が、退官後に検証本を出された。さらに明らかになった実態は、もっと悲惨だった😵
映画見に行きました。泣け手泣けて涙が止まりませんでした
一面に雪が積もってる中、前が見えない猛吹雪では道が見えなくなり、車でも追突されない場所に停車する。
実録小説は100ページほどなのですぐ読める。ここでの教訓は、ゴム長靴最強!ということ。
ウィキペディア「八甲田山雪中行軍遭難事故」の項によると、当時のゴム長靴は舶来品で今でいうファッションブーツ👢みたいなものだったそうで、倉石一(くらいしはじめ)大尉がこれを履いて参加したのは本当に偶然だったそうですね😅ちなみにこの倉石大尉が映画「八甲田山」で加山雄三さんが演じた倉田大尉のモデルとなっています。
この八甲田山雪中行軍遭難事故でもそうですが、同じく新田次郎氏の同名小説を原作にした映画「聖職の碑」(せいしょくのいしぶみ)の題材となった長野県中央アルプス木曽駒ヶ岳大量遭難事故(1913年8月末、修学旅行登山中に台風による暴風雨に遭遇、校長とOB、生徒の計11名が亡くなる)でも予算の関係で案内人を雇えなかった事が大きな要因のひとつとなりました。さらにそのちょうど100年後2013年7月に同じ中央アルプス檜尾岳付近で起きた韓国人登山ツアー遭難事故(4人が亡くなる)も、日本の旅行代理店から再三勧告されていた日本人ガイドを付けなかった事が大きな要因のひとつになったといわれています。やはり地元の人たちの意見に耳を貸したり、案内人(ガイド)を付ける事は大切なのですね。
オレが、聖職の碑の遭難地行ったとき、旅行者の係に、一番のベテランのガイドを付けてくれと言った。現地に行ったらやってきたのは80過ぎた爺様。平地を歩くときヨタヨタしていたので、爺さん大丈夫かと思っていたら、何のことはない、山道入ったらスタスタ歩いていて追いつけないほどだった。後で聞いたら案内人組合の会長さんだった。まあ、確かにベテランだったわな。
複数ある原因と当事者の責任の所在の曖昧さが招く部隊の損耗は大東亜戦争まで続いています。コレは大日本帝国陸軍の宿痾かもしれません。作戦計画の立案から実施に携わった参謀は作戦の成否に責任を取らず現場の兵士達が犠牲になります。部隊の責任者はとても軽い処分で済まされる。今の日本にもこの悪しき慣習が残っている、そんな気がします
ロクに地図のない場所に部隊を行軍させる、ってWW2に南方戦線で繰り返されるわけだけど、この悲劇は教訓として活かされてなかったんだな。
ガダルカナル攻防戦ですね?
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。ハインリッヒの法則よろしく、不備に次ぐ不備。起こるべくして起こった惨劇ですね。ですが、彼らが身を挺して教訓を示してくれたと思わなければ、失われた命が報われないです。
本当にそうですね…自分自身「なるようになる」と根拠なく楽観的になって、痛い目に遭ったことが何度もあります…これだけ悲惨な事故が起きている訳ですから、貴重な教訓とさせて頂きたいと思います。
平地の地吹雪でもかなりしんどいんだぜ😓
確か逆方向から八甲田山経由で青森目指した弘前連隊は村人の先導もあって無事に青森に到着。行軍中、遭難している青森連隊の死体や人影を見てみないフリしたとか。
遭難者を見たとかいうのは新田次郎の小説や映画の話で実際がどうかはなんとも言えない。仮に見ていたとしても自分達の行動に精一杯で、手を差し伸べることはできないでしょう。
🐜も円を描きながら死ぬまで回るのもあるから恐ろしい
知恵袋で質問見つけたけど当時飛行船で八甲田山を乗り越えて人員輸送する計画があったらしい。
現在の視点からしかみてない映画も小説も脚色されている事も忘れずにその当時の兵隊は尊敬の対象であり兵隊達もその自負を強く持っていた例えば村人に先導させたら訓練にならないし軍隊行動にならない装備や地図が不備なのも当時の貧しい状況では仕方ない開国からまもないのに近代化をここまでやったこと自体が奇跡なんだし至らない所があるのは当然この悲劇を参考にする事は大切だが、良し悪しは当時の基準で判断すべき
本当にそう。現代の価値基準で当時を測ろうとする人間があまりに多すぎる。しかも感情論が大量に含まれているし
不案内の土地を行くのに、地元民の道案内を断るなんて、現代の常識はもちろん、当時としても論外だろう?
1:55もう凍ってるんだけど何これはチョツトマツテ
やっぱり人災じゃん
超の悪天候とその中のホワイトアウト(吹雪で周りが見えなくなること)とリングワンダリング(円形彷徨)だろうか? 今は行軍隊の予定ルートの多くは整備された県道となっているが当時も「夏歩き慣れたルートを冬に歩く」程度の認識しかなく、計画は山に不慣れの神成大尉が2週間前に計画し、それを東京出身の山田大隊長が承認し師団長で不敗将軍と言われた立見尚史が最終決済した。立見将軍も直前まで台湾にいたため雪山が全くわからなかった。 責任追求や再発防止を当時の軍がまともにやらなかったとは言え軍隊時代にも五連隊は二回ほど八甲田の冬期踏破を成功させた。戦後も現在の自衛隊がほぼ同じルートで冬季訓練を行っている。二重三重の安全策をとってはいても隊員に言わせると「何度も死にかかった」程の難所でもあるのだ。
地元住民の道案内は、悪天候で拒否していた住民を軍が無理やり挑発して、住民側も犠牲者が出たって話もあるけど真相はどうなんだろう?
ほぼ同時に実施した弘前31連隊の方ね。映画で高倉健がいた方。映画では美化されているが(案内人に一同敬礼して別れたんだっけ?)、実際はかなり酷い扱いだったみたいだし。
冬山に対する知識不足、準備不足、楽観視、そして固執的な思考による悲劇。この計画の目的は田代温泉に行くことではなく、冬の八甲田を越えて八戸方面へ進軍できるかどうかの検証。結果論でしかないが、大部隊の移動も物資輸送も不可能とわかった時点で速やかに帰営すれば大惨事にはならなかっただろう。忍耐は必要としてもこれは戦闘ではなく訓練なのだから。当時の道具で雪山を歩くのであれば、ワラ製の深靴にかんじきとスカル(かんじきの大きいもの)を履き、先頭が交代しながらスコップ(蝋を塗って。木製でもいい)で雪をかき分けて進むしかないが、胸まで埋まるようではムリだろう。履いたらものは濡れるし凍るから火で乾かさないといけないし、視界不良で帰路がわからなくなる前に帰営する以外に選択肢はないようだ。
八甲田山の遭難と日露戦争での教訓で防寒装備に対しては研究して支那事変から終戦までの防寒装備の質はソ連や北欧の軍隊の防寒装備と引けを取らない程でドイツ軍や米軍よりも上だった。
寒冷地行動に関して基本的な知識、経験が欠如している中で雪中行軍を強行した軍の無責任さが事件の最大原因。同じようなミスは昭和18年8月ニューギニアのサラワケット越えでも繰り返されている。
酷すぎる…ヒューマンエラーが。これは天も見放すレベル。この頃からもう日本陸軍の問題点(現代のブラック容認?)の萌芽が見られる。
誰も殺めず日本国の為に戦った英雄達に感謝しかない
弘前第八師団長は立見尚文でしたが、師団長は勅任官なので彼は明治帝にこの遭難事故を報告したが何の処分も受けなかった。当時はロシアとの戦争準備段階だったので処罰より陸軍組織を訓練強化する方針だった。立見は戊辰、西南、日清戦争から負け知らずで東洋一の用兵家と云われ処罰するのは躊躇われた。後に立見は日露戦争で第八師団を率いて大活躍をすることになる。
危なそうなら、引き返す。鉄則です。でも事故は起きないと話題にならないんだよね。
映画の八甲田山は、カラー映画の意味が最もない映画だったな。ほとんどの場面が白黒と変わらないから。
元々、帝政ロシアとの戦争時における寒冷地での問題点を見つけるための目的が、連隊を組んで出征させた根拠が不明であることです。問題点を見つけるなら、少人数で対策取れたのが、210人を編成させて八甲田へ向かわせたのは危険なのは当然ではないのか?🤔
いつの時代も同じ無能で判断力の無いリーダーが集団を殺す。
軍歌は雪の進軍かな
失敗が確実なのに誰も止めようと言い出さない当たりが失敗し続ける国民性
現代の装備でも遭難する事が有るのに、冬山を舐めた結果だろうな。
この事件もこのチャンネルが扱うと一味違うな。他であまり見ない情報を含んでるし分析もよい。
5:48 このbgmの名前教えてください!!心に染みる曲が好きだからすごく気になります
ガイドを雇わなかったことが致命傷。
作戦はいつもお偉が立て死ぬのは下っ端
こんな出来事印象に残らないわけない
こういう時の為に乾パンとかビスケットとかを糧食にしてるのではないだろうか。
徳川についた藩士が多かったとの都市伝説
まさに白い地獄です。
それに兵隊と下士官の服違う兵隊はペラペラな軍服にレインコート並、下士官は毛の暖かい軍服だし毛のコート来ているし防寒はある程度あったと思う膀胱冷らせ飯氷らせ体力失ったと思う
身も蓋もないことを言うと、武器もろくにない軽装の兵隊が100人やそこら冬山を越えられたところで、戦争では大した意味がない。
太平洋側から日本海側に山越えで移動できるかどうかの実験なので、成功していれば実戦では大部隊が移動することになる。交通手段を切断された場合このような抜け道で移動できるかどうか事前に確認しておく意義は大きいのだよ。
そもそも青森連隊の方は人数が多すぎた。なので準備もよりお粗末になった、と思う。
吹雪には、負けます😂
事故当時にスキー板があれば、少しは違ったかもしれませんね
山を登るのにスキー板など何の役にも立たない。
ワラの深靴にカンジキとスカルを履けば多少は
ガイドなしでの行軍とか無理だ
部屋が寒過ぎて家で遭難しそうです😅
それに比べ、弘前連隊は準備していたため、遭難しなかった。
幻覚の温泉が本物だったら助かったのかな
将校たちの喜ぶかおが目に浮かぶ「問題点が分かってよかった」「やってよかった」称賛しているきがする
案内人つけなかった❗雪山を嘗めてかかった天罰、その後証人たちは最前線に送られ抹殺されてる
🧊🥶🧊
山を越える考え間違いなのでは平地を行くべきと思う、敵に飛行機ある訳じゃないし
これ、用意の杜撰さとか、情報の欠如とか、いろいろな問題点が指摘されているものの、いずれも現在の視点であって、しかも普通の山登りの感覚で語られている。あと、八甲田山麓の物資の運搬経路の探索を目的とされているけど、私が聞いている目的は大陸での戦闘を見据えた実験的なものということであった。もしそれが本来の目的であれば、現代のようにだれでも行けるようなところまで準備を万端整えていたら、実験にも訓練にもならないだろう。今のような天気予報があるわけでもないし。この試みが現代的感覚から無謀だったとしても、当時のロシアとの戦争を控えた切迫した状態を思えば、指揮官とか組織をそこまで中傷すべきもなのだろうか、と思う。この試みからいくつも教訓が得られたからこそ日露戦争に活かされ、勝利することができた、と思いたい。
例えば船や飛行機に乗る場合、階級に関係なく艦長や機長の指示に従うと思うけど、登山の場合も経験豊かな人が隊長になって階級に関係なく下山までは隊長の指示に従うべきじゃね?
軍の指揮系統はそうなっていない。指揮官の力量次第。
いつも下士官兵卒が無駄死にするのは、将官士官の保身や出世や先入観のため。
私がびっくりしたのは、確かに帝国陸軍が吹雪なんかに負けてはいけないという考えはもっともだけれど、案内人を断ったことですね。雪道をなめていたというのが真相でしょうかね?この事件から、長岡外史中将は、オーストリアから教官を招いて、スキーを採用したようですが、役に立ったんでしょうか?地図がないということは、陸地測量部の怠慢だったともいえる話ですね。おそらく、準備不足があったことは、大いなる失態でしたね。連帯本部も怠慢でしたね。簡単な訓練という認識があったんでしょうね。
そもそも「勇ましいイベント」やりたかっただけでしょ。事故にならなくても天候の当たり外れで意味が薄いような。真面目に山地の極寒豪雪の研究なら各集落・山小屋に兵士を少数づつ駐屯させて春までずっと毎日担当拠点間の行軍・観測した方がいろんな知識・ノウハウを得られると思うが。
アベノミクスと維持現緩和。遭難は今も続いている。
こんなええ加減な事でよくロシアに勝てたな。
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学生時代、真冬の日光、中禅寺湖の湖畔で雪中訓練をやらされたことがありました
膝まで積もった雪の中、走らされたり橇を引かされたりしていたら晴天から突然の吹雪に
数メートル先の友達も見えない中先生が「その場を動くな中禅寺湖に落ちるぞ」と言って全員その場に立ってひたすら吹雪に耐えていました
吹雪が止んだのは1時間後、全員雪だるま状態でした、危険なので訓練は中止になりました、全員無事帰れたのは先生の冷静な判断でした
視界がきかない中パニックになっていたら本当に湖に落ちる者がいたと思います、指揮官の冷静な判断は重要です
この事故は当時の時代背景と村人の忠告を聞いていれば起きなかった事故だろうなって思うのと今でもこの八甲田山がこの事故で亡くなった兵士の霊が出る心霊スポットになってる
慰霊の為に現在の陸上自衛隊青森第五普通科連隊は(日本陸軍の歩兵連隊と同じ場所で連隊番号と同じなのは唯一で有る)八甲田山雪中行軍を行い無理は絶対しないを鉄則して現在でも雪中行軍による遭難者は出して居ない。
@@73moto だが、雪のない時期に行軍していてガス中毒で死者を出しているよ。
@@73moto三重県久居に駐屯する第33普通科連隊も同じ駐屯地で旧陸軍と同じ部隊番号でした。歩兵第三十三連隊です。
100メートル歩くのに3時間という表現に言葉が出なかった
今でも、青森の冬はきつい。
小学校の図書室にあった「ほんとうにあったこわいはなし」ってシリーズの本で「八甲田山死の行進」ってタイトルで取り上げられてたのを思い出した。
読んだのはもうだいぶ前のことなのに握り飯が凍り付いて食べられなくなっていたこととか覚えてる。
懐かしい。
動画、ありがとうございます。
八甲田雪中行軍遭難事件はあまりにも悲惨な遭難事故だという話は聞いた事があるが、ここまでひどいとは思わなかった。装備の貧弱さや雪中行軍への備えや危険性の認識が不十分だった事、山中を突破するのに必要な地図が無かった事などは時代背景を考えれば仕方がないとは思うが、現地に土地勘のある人を連れてこなかった事、待機部隊の対応が遅れに遅れた事はまごう事なき人災であり、擁護のしようがない…。
しかし、将校たちが危険性を判断し、訓練を中止しようとしたのを見習士官たちが止めて訓練続行を主張したのは意外だった。将校たちは長年の経験からヤバそうな雰囲気を感じ取っていたのだろうか。
地図は既に陸軍省参謀本部が全国地図を作成していたので存在しているはずだ。持って行ってなかったとなればこれは軍のミスだろう。
今じゃGPSとかで簡単に現在値が分かるけど、当時はそんなものや地図すらない状況で生活してた人たち、本当にすごい
冬季寒冷地で苦戦したのでロシアに備えて訓練するというのは頷けるが、まさか訓練場所の青森市というか八甲田そのものがロシアを凌ぐ世界屈指の豪雪地獄だったってのが……
新田次郎の小説で読んで知りまたが読み終えた後はげっそりした気持ちになりました
映画「八甲田山」は傑作です。雪山での過酷な撮影が出演者の鬼気迫る演技を引き出したのかもしれません。ただ、原作は新田次郎さんの小説「八甲田山 死の彷徨」であり、史実と違う脚色が少なからずあるので注意が必要です
同じ作者の「聖職の碑」も遭難を扱った凄い作品ですよね。
あまりの酷寒に兵士役のエキストラから脱落者が出たくらい、過酷な撮影現場だったそうです
ああ、こんな役者さんが出てたのか
今更感いっぱいに成れる
@@ケワタガモv9f
こちらは1913年8月末に長野県上伊那郡中箕輪村立中箕輪尋常高等小学校高等科2年生(現箕輪町立箕輪中学校2年生)が、中央アルプス(木曽山脈)の最高峰木曽駒ヶ岳への修学旅行登山中に、台風による暴風雨に遭遇して起きた「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」が題材になっています。
雪豪から一番最初に飛び出して凍死する隊員役は無名時代の大竹まことさんです。
もう一方の反対側から行軍した部隊?は
遭難する事もなく踏破してるので
やっぱりこっちの部隊に何かしら問題があったんだろうね
雪山の怖さは経験しないと分からないんだよね。
経験がないと、なんとか行けると思えてくるんだよ。
ご先祖様に八甲田山の生き残りがいると聞いたことがあります。
祖母の話なので記憶も曖昧かと思いますがいつか本格的に調査してみたいと思います。
生存者で五体満足は士官のみで下士官兵は凍傷による手足の切断に成ったが、士官は装備品は自費調達で官給品の下士官兵よりも質が良く、映画八甲田山で加山雄三が演じた士官は映画や史実で生き残りその士官は当時は珍しいゴム長靴を履いて居て凍傷を防げた。
なんか太平洋戦争の敗因と似通った
理由で遭難しているような気がする。
下調べも準備も大してせずに
楽観的な見通しで物事を実施して
すぐに行き詰まり終いは精神論で
切り抜けようとするが当然上手く行かず
壊滅的な被害を出してしまう。
面子ばかり気にして原因の究明も
やらずになあなあで済ませる。
全く同感です。
これでは天も見放すはず。
陸軍というプライドがあったがために八甲田という山の情報が無い状態で入ったのと、大隊長が雪中行軍指揮官の指揮権を奪って勝手な行動をとったがために取り返しのつかない事態になった。
また、事前訓練の時の天候がよかったがために冬用の生地の厚い軍服で汗をかいたために薄手の小倉の軍服を着用した兵士がいたということ。
兵士でもしっかりと防寒対策をした者は生き残っています。
陸上自衛隊第5普通科連隊では毎年冬になると歩兵第五聯隊が踏破する予定だった八甲田をスキーや雪上車、アキオというソリを引いて行軍する訓練が行われています。
行軍隊の責任は初めから大隊本部で、意思決定権は大隊本部から派遣された山口少佐にある。
神成大尉は山口少佐から行軍指揮を任されただけ。
山口少佐が「行け」と言えば神成大尉は従うしかない。
神成大尉が献策しても受けるかどうかは山口少佐次第。
地元の案内人や村人の言うことは聞いておいて間違いがない。地元の人は住んでいる土地の厳しさを身に染みて知っているから。過酷な土地では時には家族すら失うからね。しかしこの頃から旧日本軍の過剰なまでのプライドの高さが気になる。
日本人の組織論は、とかく精神論が前に出過ぎて上手く機能しない事が多いが、昔も今も変わらない所に問題があると思う。
お役所仕事。
軍隊も巨大なお役所で、官尊民卑で硬直きわまりない。
減点主義なので虚勢を張って、しかも無責任。
日本人が作り出す組織が陥りがちな欠点がフルラインナップで出ている。
研究材料としては貴重。
ほぼ同時期に八甲田山雪中行軍をした弘前連隊は計画通りに完了しています。
一言でいうなら、用意周到と杜撰の差でしょうか。
そうですね。事前に現地近くの部落へ行き、地元の古老達から意見を聞いたり、事前準備をシッカリと行って居るんですよね。対して5連体は、31連隊が既に弘前を出発したしたと言う事で、焦りがあり事前準備が疎かになってしまったんでしょうね。指揮系統の混乱もありましたしね。
この行軍にオブザーバーとして、大隊長以下の10数名の将校、下士官らが参加ししてるんですが、指揮権は中隊長なのか?大隊長が指揮する中隊なのか?その辺の曖昧さがあり、当日、余計に混乱する要因になったのでしょうね。
@@西村和夫-p3c
ちなみにその弘前歩兵第31連隊の雪中行軍隊は福島泰蔵大尉以下37名➕従軍記者1名の計38名という少数精鋭でもあった事や、行軍中は麻縄で全員をつないでいたことなどが、隊の統率を取ることが出来て八甲田山走破に成功(八甲田に入る前に負傷し途中で帰らせた1名を除く)した要因にも繋がったともいわれています。もっとも八甲田山走破の時は、さしもの弘前隊もあわや遭難寸前だったり、案内人として雇ったマタギ8人をメチャクチャ酷使した末に危険地帯を踏破したら「ご苦労さん、ハイさようなら」とサッサと捨てて自分たちだけで行軍を続けたりと、あまり褒められたものではありませんでしたが😅
おれ真夏に八甲田いったことある。お盆でも死ぬほど寒いぞ。冬に行くなんて正気ではない
兵隊の装備にスコップは必需品なイメージだが、当時はまだ貴重品だったんだな。
塹壕戦が始まる前、機関銃が登場する前だからかな
それはww1の経験からですよ。コレは日露戦争前の事故ですからね
生き残った兵士は英雄として讃えられて嫁希望が殺到したそうやね。
手足失ったのに何が幸いするかわからんものですな。
@@ガングート-b6c 中には村会議員に推薦されたものもいる。
人力資源管理論や経営学で 題材になる映画です。
「日本陸軍という 比較的大きな組織で統制の取れた人的資源であるのになぜこういった事故が起きるのか」
①集団心理による安心感での準備不足→誰かが何かするだろう
②上下関係の厳しい組織図にある意見のあきらめ→上が何とかするだろう
③組織外の人的資源の情報を回収しない→軍人は軍人以外の意見を聞かない
リーダーが責任取るのは当たり前で
リーダーの責務を遂行することの方が大事
リーダーは失敗した時の経験を活かすため生き残らないとだめ。
日本人 まっすぐ 問題があると上の人はすぐやめるが
本当に責任があるリーダーであれば辞めずに解決してからされ という話
近所の神社の忠魂碑に、この行軍で亡くなった方の名前があった。
ド田舎の村なのに途方もない確率を引き当ててしまった方が二名もいたことに大いに驚いた。
忠魂碑は結構あちこち見ているが、このようなケースは他に見た事がない。
青森聯隊には宮城県の兵が主に集められていたのだが、、、
青森のJKが、八甲田山も、知事が被害を大きくさせた青森空襲も、洞爺丸台風も知りませんでした。
日本の教育はそんなもんです。
沖縄の中学生がオレの爺様のまた従兄弟の名前は聞いたことがあると言ってたけどな。ひめゆり部隊の生き残りの方は実際にあったことがあり声をかけていただいたと言われたことがある。オレが身内だと言ったら大変驚ろかれていたけどね。
『原爆投下』も『東京大空襲』も『真珠湾攻撃』もかろうじて単語だけは聞いたことがある程度で、5W1Hは知らない若者たちがほとんど。
もちろん『日中戦争』も『韓国併合』も知らないから……
映画『八甲田山』中々悲惨な映画だった。
撮影も過酷なものだったみたいですね
北大路さんの棺桶話
アタマ下がります
高倉健さんが女性案内人(秋吉久美子さん)と別れる時に「案内人殿に、かしらァ~右ッ‼️」と感謝の敬礼👮を捧げるシーンは、史実どころか原作小説にもなく、あの映画だけのオリジナルシーンだと、最近になって初めて知りました😮😲
不慣れな登山で、かなりの軽装での強行したのが不運。指揮官に問題がある。
だいたい著名さでは群を抜く新田次郎本が元に解説されることが多くて、その悲惨さが語り継がれているんだが…
平成になって、後継部隊にあたる青森の陸自普通科連隊で勤務された方が、退官後に検証本を出された。
さらに明らかになった実態は、もっと悲惨だった😵
映画見に行きました。泣け手泣けて涙が止まりませんでした
一面に雪が積もってる中、前が見えない猛吹雪では道が見えなくなり、
車でも追突されない場所に停車する。
実録小説は100ページほどなのですぐ読める。ここでの教訓は、ゴム長靴最強!ということ。
ウィキペディア「八甲田山雪中行軍遭難事故」の項によると、当時のゴム長靴は舶来品で今でいうファッションブーツ👢みたいなものだったそうで、倉石一(くらいしはじめ)大尉がこれを履いて参加したのは本当に偶然だったそうですね😅ちなみにこの倉石大尉が映画「八甲田山」で加山雄三さんが演じた倉田大尉のモデルとなっています。
この八甲田山雪中行軍遭難事故でもそうですが、同じく新田次郎氏の同名小説を原作にした映画「聖職の碑」(せいしょくのいしぶみ)の題材となった長野県中央アルプス木曽駒ヶ岳大量遭難事故(1913年8月末、修学旅行登山中に台風による暴風雨に遭遇、校長とOB、生徒の計11名が亡くなる)でも予算の関係で案内人を雇えなかった事が大きな要因のひとつとなりました。さらにそのちょうど100年後2013年7月に同じ中央アルプス檜尾岳付近で起きた韓国人登山ツアー遭難事故(4人が亡くなる)も、日本の旅行代理店から再三勧告されていた日本人ガイドを付けなかった事が大きな要因のひとつになったといわれています。やはり地元の人たちの意見に耳を貸したり、案内人(ガイド)を付ける事は大切なのですね。
オレが、聖職の碑の遭難地行ったとき、旅行者の係に、一番のベテランのガイドを付けてくれと言った。現地に行ったらやってきたのは80過ぎた爺様。平地を歩くときヨタヨタしていたので、爺さん大丈夫かと思っていたら、何のことはない、山道入ったらスタスタ歩いていて追いつけないほどだった。後で聞いたら案内人組合の会長さんだった。まあ、確かにベテランだったわな。
複数ある原因と当事者の責任の所在の曖昧さが招く部隊の損耗は大東亜戦争まで続いています。コレは大日本帝国陸軍の宿痾かもしれません。
作戦計画の立案から実施に携わった参謀は作戦の成否に責任を取らず現場の兵士達が犠牲になります。
部隊の責任者はとても軽い処分で済まされる。
今の日本にもこの悪しき慣習が残っている、そんな気がします
ロクに地図のない場所に部隊を行軍させる、ってWW2に南方戦線で繰り返されるわけだけど、この悲劇は教訓として活かされてなかったんだな。
ガダルカナル攻防戦ですね?
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。
ハインリッヒの法則よろしく、不備に次ぐ不備。起こるべくして起こった惨劇ですね。
ですが、彼らが身を挺して教訓を示してくれたと思わなければ、失われた命が報われないです。
本当にそうですね…
自分自身「なるようになる」と根拠なく楽観的になって、痛い目に遭ったことが何度もあります…
これだけ悲惨な事故が起きている訳ですから、貴重な教訓とさせて頂きたいと思います。
平地の地吹雪でもかなりしんどいんだぜ😓
確か逆方向から八甲田山経由で青森目指した弘前連隊は村人の先導もあって無事に青森に到着。
行軍中、遭難している青森連隊の死体や人影を見てみないフリしたとか。
遭難者を見たとかいうのは新田次郎の小説や映画の話で実際がどうかはなんとも言えない。仮に見ていたとしても自分達の行動に精一杯で、手を差し伸べることはできないでしょう。
🐜も円を描きながら死ぬまで回るのもあるから恐ろしい
知恵袋で質問見つけたけど当時飛行船で八甲田山を乗り越えて人員輸送する計画があったらしい。
現在の視点からしかみてない
映画も小説も脚色されている事も忘れずに
その当時の兵隊は尊敬の対象であり兵隊達もその自負を強く持っていた
例えば村人に先導させたら訓練にならないし軍隊行動にならない
装備や地図が不備なのも当時の貧しい状況では仕方ない
開国からまもないのに近代化をここまでやったこと自体が奇跡なんだし至らない所があるのは当然
この悲劇を参考にする事は大切だが、良し悪しは当時の基準で判断すべき
本当にそう。現代の価値基準で当時を測ろうとする人間があまりに多すぎる。しかも感情論が大量に含まれているし
不案内の土地を行くのに、地元民の道案内を断るなんて、現代の常識はもちろん、当時としても論外だろう?
1:55もう凍ってるんだけど何これはチョツトマツテ
やっぱり人災じゃん
超の悪天候とその中のホワイトアウト(吹雪で周りが見えなくなること)とリングワンダリング(円形彷徨)だろうか? 今は行軍隊の予定ルートの多くは整備された県道となっているが当時も「夏歩き慣れたルートを冬に歩く」程度の認識しかなく、計画は山に不慣れの神成大尉が2週間前に計画し、それを東京出身の山田大隊長が承認し師団長で不敗将軍と言われた立見尚史が最終決済した。立見将軍も直前まで台湾にいたため雪山が全くわからなかった。 責任追求や再発防止を当時の軍がまともにやらなかったとは言え軍隊時代にも五連隊は二回ほど八甲田の冬期踏破を成功させた。戦後も現在の自衛隊がほぼ同じルートで冬季訓練を行っている。二重三重の安全策をとってはいても隊員に言わせると「何度も死にかかった」程の難所でもあるのだ。
地元住民の道案内は、悪天候で拒否していた住民を軍が無理やり挑発して、住民側も犠牲者が出たって話もあるけど真相はどうなんだろう?
ほぼ同時に実施した弘前31連隊の方ね。映画で高倉健がいた方。映画では美化されているが(案内人に一同敬礼して別れたんだっけ?)、実際はかなり酷い扱いだったみたいだし。
冬山に対する知識不足、準備不足、楽観視、そして固執的な思考による悲劇。この計画の目的は田代温泉に行くことではなく、冬の八甲田を越えて八戸方面へ進軍できるかどうかの検証。結果論でしかないが、大部隊の移動も物資輸送も不可能とわかった時点で速やかに帰営すれば大惨事にはならなかっただろう。忍耐は必要としてもこれは戦闘ではなく訓練なのだから。当時の道具で雪山を歩くのであれば、ワラ製の深靴にかんじきとスカル(かんじきの大きいもの)を履き、先頭が交代しながらスコップ(蝋を塗って。木製でもいい)で雪をかき分けて進むしかないが、胸まで埋まるようではムリだろう。履いたらものは濡れるし凍るから火で乾かさないといけないし、視界不良で帰路がわからなくなる前に帰営する以外に選択肢はないようだ。
八甲田山の遭難と日露戦争での教訓で防寒装備に対しては研究して支那事変から終戦までの防寒装備の質はソ連や北欧の軍隊の防寒装備と引けを取らない程でドイツ軍や米軍よりも上だった。
寒冷地行動に関して基本的な知識、経験が欠如している中で雪中行軍を強行した軍の無責任さが事件の最大原因。同じようなミスは昭和18年8月ニューギニアのサラワケット越えでも繰り返されている。
酷すぎる…ヒューマンエラーが。これは天も見放すレベル。
この頃からもう日本陸軍の問題点(現代のブラック容認?)の萌芽が見られる。
誰も殺めず日本国の為に戦った英雄達に感謝しかない
弘前第八師団長は立見尚文でしたが、師団長は勅任官なので彼は明治帝にこの遭難事故を報告したが何の処分も受けなかった。当時はロシアとの戦争準備段階だったので処罰より陸軍組織を訓練強化する方針だった。
立見は戊辰、西南、日清戦争から負け知らずで東洋一の用兵家と云われ処罰するのは躊躇われた。後に立見は日露戦争で第八師団を率いて大活躍をすることになる。
危なそうなら、引き返す。鉄則です。でも事故は起きないと話題にならないんだよね。
映画の八甲田山は、カラー映画の意味が最もない映画だったな。ほとんどの場面が白黒と変わらないから。
元々、帝政ロシアとの戦争時における寒冷地での問題点を見つけるための目的が、連隊を組んで出征させた根拠が不明であることです。
問題点を見つけるなら、少人数で対策取れたのが、210人を編成させて八甲田へ向かわせたのは危険なのは当然ではないのか?🤔
いつの時代も同じ
無能で判断力の無いリーダーが集団を殺す。
軍歌は雪の進軍かな
失敗が確実なのに誰も止めようと言い出さない当たりが失敗し続ける国民性
現代の装備でも遭難する事が有るのに、冬山を舐めた結果だろうな。
この事件もこのチャンネルが扱うと一味違うな。他であまり見ない情報を含んでるし分析もよい。
5:48 このbgmの名前教えてください!!心に染みる曲が好きだからすごく気になります
ガイドを雇わなかったことが致命傷。
作戦はいつもお偉が立て
死ぬのは下っ端
こんな出来事
印象に残らないわけない
こういう時の為に乾パンとかビスケットとかを糧食にしてるのではないだろうか。
徳川についた藩士
が
多かったとの
都市伝説
まさに白い地獄です。
それに兵隊と下士官の服違う
兵隊はペラペラな軍服にレインコート並、下士官は毛の暖かい軍服だし毛のコート来ているし防寒はある程度あったと思う膀胱冷らせ飯氷らせ体力失ったと思う
身も蓋もないことを言うと、武器もろくにない軽装の兵隊が100人やそこら冬山を越えられたところで、戦争では大した意味がない。
太平洋側から日本海側に山越えで移動できるかどうかの実験なので、成功していれば実戦では大部隊が移動することになる。交通手段を切断された場合このような抜け道で移動できるかどうか事前に確認しておく意義は大きいのだよ。
そもそも青森連隊の方は人数が多すぎた。なので準備もよりお粗末になった、と思う。
吹雪には、負けます😂
事故当時にスキー板があれば、少しは違ったかもしれませんね
山を登るのにスキー板など何の役にも立たない。
ワラの深靴にカンジキとスカルを履けば多少は
ガイドなしでの行軍とか無理だ
部屋が寒過ぎて家で遭難しそうです😅
それに比べ、弘前連隊は準備していたため、遭難しなかった。
幻覚の温泉が本物だったら助かったのかな
将校たちの喜ぶかおが目に浮かぶ
「問題点が分かってよかった」「やってよかった」
称賛しているきがする
案内人つけなかった❗雪山を嘗めてかかった天罰、その後証人たちは最前線に送られ抹殺されてる
🧊🥶🧊
山を越える考え間違いなのでは平地を行くべきと思う、敵に飛行機ある訳じゃないし
これ、用意の杜撰さとか、情報の欠如とか、いろいろな問題点が指摘されているものの、いずれも現在の視点であって、しかも普通の山登りの感覚で語られている。
あと、八甲田山麓の物資の運搬経路の探索を目的とされているけど、私が聞いている目的は大陸での戦闘を見据えた実験的なものということであった。
もしそれが本来の目的であれば、現代のようにだれでも行けるようなところまで準備を万端整えていたら、実験にも訓練にもならないだろう。
今のような天気予報があるわけでもないし。
この試みが現代的感覚から無謀だったとしても、当時のロシアとの戦争を控えた切迫した状態を思えば、指揮官とか組織をそこまで中傷すべきもなのだろうか、と思う。
この試みからいくつも教訓が得られたからこそ日露戦争に活かされ、勝利することができた、と思いたい。
例えば船や飛行機に乗る場合、階級に関係なく艦長や機長の指示に従うと思うけど、登山の場合も経験豊かな人が隊長になって階級に関係なく下山までは隊長の指示に従うべきじゃね?
軍の指揮系統はそうなっていない。指揮官の力量次第。
いつも下士官兵卒が無駄死にするのは、将官士官の保身や出世や先入観のため。
私がびっくりしたのは、確かに帝国陸軍が吹雪なんかに負けてはいけないという考えはもっともだけれど、案内人を断ったことですね。雪道をなめていたというのが真相でしょうかね?この事件から、長岡外史中将は、オーストリアから教官を招いて、スキーを採用したようですが、役に立ったんでしょうか?地図がないということは、陸地測量部の怠慢だったともいえる話ですね。おそらく、準備不足があったことは、大いなる失態でしたね。連帯本部も怠慢でしたね。簡単な訓練という認識があったんでしょうね。
そもそも「勇ましいイベント」やりたかっただけでしょ。事故にならなくても天候の当たり外れで意味が薄いような。真面目に山地の極寒豪雪の研究なら各集落・山小屋に兵士を少数づつ駐屯させて春までずっと毎日担当拠点間の行軍・観測した方がいろんな知識・ノウハウを得られると思うが。
アベノミクスと維持現緩和。
遭難は今も続いている。
こんなええ加減な事でよくロシアに勝てたな。
だいたい著名さでは群を抜く新田次郎本が元に解説されることが多くて、その悲惨さが語り継がれているんだが…
平成になって、後継部隊にあたる青森の陸自普通科連隊で勤務された方が、退官後に検証本を出された。
さらに明らかになった実態は、もっと悲惨だった😵