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生き証人の肉声が残ってるなんて凄いですね。ちなみこれが録音されたのは東京オリンピックが開催された1964年で小原さんは80代だったとか、手足の何かしらを失い戦争に次ぐ戦争と大変な激動の時代生き抜かれてこうして貴重な肉声を残してくれたことに敬意を表します
小原さんの声が聞けただけでも貴重ですね。もし生きていたら、いろいろ話してみたかった。
「教科書になる知恵」は普通にあったんですよね、地元の人々の暮らしの中に…
冬になると映画「八甲田山」を観ます。毎年。最初はただの準備不足とトップの判断ミスだったんじゃないか?と思っていましたが、加藤幹春さんのお話を聞くと、風の防ぎ方が不味かったということですね。明治時代、ナイロンもなく難しい課題です。加えて、この訓練をしなければいけないほど、日本が追い詰められた状態だったことを、だんだんと理解できるようになりました。明治時代。明治浪漫というイメージでしたが、明治時代は、まだ日本自体が貧しく、その上強国に囲まれ、国の存続さえ危ぶまれるたいへんな時代だったと気づいたのはごく最近です。まだ行ったことのない八甲田山雪中行軍遭難資料館ですが、必ず行きたいと思います。
幸畑の資料館は子供にも見せられますが、銅像茶屋(鹿鳴庵)無き現在は青森自衛隊の防衛館(要予約)をも是非見学される亊をお奨めします。
毎年既に5回青森を訪れるようになり、今年は酸ヶ湯温泉旅館に宿泊し、一般に八甲田山と言われているのが本来は八甲田と呼ぶことを知りました。また雪中行軍についてはその事故時代は知っていましたが当時の内情を今回初めて知り涙が出てきました。今もその教訓が生かされてているんですね。確か記念碑があると思いますのでいつか、できれば来年訪れ意図せず命を落とした人たちの魂に祈りを捧げたいです。青森好きです。
記念碑巡りならまず青森高校の通り(部隊は現在の青森高校から出発しました)から幸畑の墓地(資料館もあります)と、後藤伍長の銅像がおすすめですお天気のいい日を狙って行ってくださいどちらも自衛隊の方たちが冬季訓練の際に欠かさずお参りする場所で、銅像の所からの市街地の眺めは素晴らしいですお土産屋さんがあったんですが、閉店してしまったようなので、余裕があれば茅野茶屋で長生きのお茶を飲んでいってください「1杯飲めば3年、2杯飲めば6年、3倍飲めば死ぬまで生きる」と言われていますw
銅像茶屋(鹿鳴庵)無き今、青森駐屯地内の防衛館(要予約)にも是非足を運んでください。貴重な史料(御遺品)も見学出来ます。
@@銘苅梓-o2r さん返事が遅くなり申し訳ありません🙇♂️特にお茶は3杯飲みたいです!
@@toshi2628 さんお返事遅くなり申し訳ありません🙇♂️事前予約が少しハードル高いですが、情報ありがとうございます😊
確かに悲惨な事故でしたね。その時期になると、青森の放送局では毎年この話題にふれてます。現代でも冬国をなめて、きちんとした装備もしない車で来ている人もいますからね。
私も元北部方面隊の自衛官です!隣に上富良野演習場が有ります、冬季訓練でマイナス30度の中極寒に耐え訓練していました!八甲田はまだ、明治になり、軍隊は脆弱な装備で革靴でなく、わら靴をはいていました!防寒用具はないにひとしい状況に有ります!そんな中極寒の寒冷地訓練は多くの犠牲者をだしてました!亡くなられた方に哀悼の意を捧げます!八甲田の英霊に敬礼!
……自分だったら嬉しいの?無謀な訓練で何日も雪山をさ迷った挙げ句手足を失って一生寝たきりになった時に「貴方の行為は立派です! まさに英雄!」とか言われたら。
@@ああああ-c6i 当時四肢切断の生存者は軍神扱いで年金もたっぷり、嫁希望者が殺到、村長にまでなった人もいた。当時は普通に暮らしてても食うや食わずで飢え死にもあり得た時代だから、今の価値観だけでどうにも言えない。五体満足の生存者は日露戦争の激戦地にやられて戦死だし・・・
亡き父が第二次世界大戦に向かう前、八甲田山雪中行軍をさせられ山中で野営していた際、兵隊の足音だけが聞こえて眠れなかったと戦友数人が話していたと語った事を思い出しました。明治の雪中行軍で亡くなられた英霊ではないかと言う事になり、翌朝、訓練部隊全員で黙祷を捧げたそうです。
ただのアホやろ
それ、創作話ですよ。死んだ霊は地上に残れません。人間だけが成仏出来ないと思い込んでる
전범 자랑 안하나?우리 할배는 A급 전범다제우리 할배는 위안부 100명과 했다제
빠가야로 풍속의 자녀들아
うーんなんかの空耳だと思うよ人間ってそうじゃないか?と思っていると、そんなものが見えたり聞こえたりするから。八甲田遭難を仮に知らなかったら、恐らく聞こえてないと思いますよ😅
心から、ご冥福をお祈り申し上げます。
私も小説と、映画を見た何年後に青森八甲田山に行き、慰霊の歩兵像を見た時、こんな場所で尊い命がなくなったのかと感無量でした。
昨年10月末に八甲田山雪中行軍遭難資料館に行きました。装備に問題がなかったと動画では話されていますが現代の装備とは比べものにはなりません。墓苑にはお線香をあげてる方がいらしゃいました。
昨日紅葉を見ながら遭難慰霊碑を見てきました。わずか124年前の出来事なんですよね。当時は気象科学情報もなく最悪状況下での出来事だったと思いますね。慰霊碑のある所は見渡す限り紅葉が綺麗で眼下には海や町並みが見えよい場所でしたね。ご冥福をお祈りしました。
安らかに、、、 合掌
2022年1月23日が雪中行軍開始の日から120年に成りますね。
何か美化されてる感じがする…
5:11 「露営の方法が悪かった」とあるが、青森に無知な者ならば「青森県民は子供の頃からかまくらを作るのに慣れている」と思うもの。いずれにせよ、露営の時に「かまくら」でも作っただけでも、悲劇は防げたのではないか。
地元の兵士は少なかったようですね。
139名!が岩手県民よ…今日観て来たもの…
とても悲しい出来事ですが、日本を守るためにこのような訓練まで行い、日露戦争に備えたことに対し、感謝の言葉しかありません。安らかにお眠りください。
こういうの見るとリスク承知で自ら危険な雪山に登っていく冒険家の皆さんってすごいなぁと。毎回、旅立つ前に相当の覚悟を決めているんだろうな…自分にはとても出来ない
10年程前に、紅葉の酸ヶ湯温泉から、八甲田に登りました。紅葉は色濃く素晴らしかったし、八甲田は登りやすいキレイな山でした。東北の冬山は危険ですね
まるでとげのある綺麗なバラのようですよね八甲田は本当に美しい所なんですが、冬は今でもコースを外れたボーダーの遭難事故が絶えませんあと、夏山の緑の鮮やかさも素晴らしいし、田代高原の風に吹かれて波のようになる草の靡きも素晴らしいです下調べさえすれば小学生でも登れる山なので、あまり怖いイメージは持ってほしくないです雲の中に突っ込んだりしますが🤣山頂から見る景色の美しさは言葉では言い表せません
助かった人でも凍傷で切断した人がほとんど
昔だとかた️⭕️って言われたよね
凍傷が原因で手足切断まで…と初めて知ったときかなりショックだった
あまり知られていませんが、明治天皇はこの雪中行軍遭難の報告を受け非常にショックを受け、御自分で行軍の絵をかいて、シンプルな絵でしたが、西陣の職人に転写させ布起こしさせ、お布団を仕立てられて、崩御までずっと、そのお布団で毎晩休まれていたそうです。現物が京都の皇室ゆかりの寺院に現存します。
何処のお寺か知りたいです
@@真由美遠山 京都大聖寺門跡です。皇族の姫宮や摂関家の姫君が代々門主を務めました。観光寺院ではないので非公開です。
どこのお寺だろうと思ったら家の近所でビックリ。昨年上皇陛下がお見えになったので皇室にゆかりのあるお寺なんだなと思っていましたが、そのような物も現存しているんですね。
@@maron_delicious そうですね…多分、10年に一度くらいあるかないかの特別公開なんですが、その度にさまざまな皇族の遺愛の品を展示されています。香淳皇后の子供の頃遊んだお人形とか、江戸時代に夭折された姫宮の豪華な刺繍の赤い振袖とか、明治天皇が普段座っておられた菊の御紋のついたベルベットの椅子とか。ほんと色々保存されてるのすごいと思います…。
興味のおありの方があるかもしれませんので、忘れないうちに書いておきます。(長文失礼します。)撮影禁止でした、雪中行軍の絵のお布団の柄ですが、まず、大きな短冊に、明治天皇が絵を筆で描かれました。額に入れて現存します。そのままでは縦長なので、現代風にいうとコピーを4枚ほど作り、並べるとだいたい、お布団で寝た時の、首から腰辺りをおおうサイズになります。筆跡に忠実に、西陣の職人はそうやって布団の図柄にしました。絵は、枝葉のない木の幹が何本か描かれ、その間に馬に乗った将兵が一人うしろを振り向いており、下の方にはやはり木々の間に徒歩の兵隊たちが列をなして歩いているデザインです。4枚にすれば、兵の数は4倍になり、布団が雪山になります。顔も丸に目鼻とシンプルな筆致ですが、明らかに軍服、軍帽とわかる姿でした。但し、雪中行軍では外套?上着や雪支度をしてあるでしょうし、騎馬の兵もいなかったかもしれませんし、そもそもこんな林があったかもわかりません。それでも、雪国の山々を知らない明治天皇が、一生懸命自分で想像して描いた兵の姿です。兵を悼むには十分です。こうして、八甲田の兵は宮中で絵姿になり、崩御まで明治天皇に近侍し続けました。明治時代当時は、世界は、領土を奪ったもの勝ちの弱肉強食、帝国主義の時代、植民地を持つ国が一等国、それ以外は植民地になる順番を待つ身でした。インドは植民地にされ、イギリスはインドの綿花職人の両手首を切って歩きました、自国の綿花を売るためです。人種差別もあり、アジアアフリカの有色人種の植民地にはひどい扱いでした。アジアで庶民地にならなかったのは日本とタイだけです。(タイは巧みな八方美人外交で英仏を翻弄し、それでも領土を多少失いながら持ちこたえました)そんな時代に、貧しい日本をちょんまげの時代から急速に近代化させ、いち早く軍隊を整備し、工業を興させ、日本を植民地化させなかった明治天皇は、歴史上の人物は評価が分かれるのが常ながら、海外でも名君として紹介されることが多いです。今のような開かれた皇室ではない時代でしたので、天皇の歌ひとつを公表するのは切腹覚悟とかいう時代でした。お布団の柄なんてとんでもないです。列強に対し、強い主君である必要があった方が、絵師に命じることもせず、ひっそりと自分で描いた雪山の兵の布団にくるまって、亡くなるまで失った兵を悼んでいた事実は、自由な現代だから表に出せるのだと思います。戦争中の明治天皇の御製「いくさ人(兵隊)いかなる野辺に明かすらむ(どこで野営をしてるだろうか)蚊の声しげくなれるこの夜を(夜、蚊にさされたりしてなければよいが)」また、「大変気の弱い繊細な宮なので、君主が務まるか心配だ」と明治天皇が皇太子時代、実の母上の手紙の記録も残っています。繊細な君主の一面があったようです。ともあれ、この八甲田の雪中行軍の悲劇は、明治天皇に生涯消えぬ強烈なトラウマを与えました。
行軍訓練自体は意味はありました。日露戦争でこの経験があらゆる箇所で活用。実は他隊が前年に訓練頓挫してそのリベンジの意味合いが強かった。福島大尉の弘前隊は準備段階から用意周到で徹底。愚将山口率いる青森5連隊は準備期間僅か4日。神成大尉と倉石大尉は優れた将校で彼らが率いていたら199名もの犠牲は絶対出ませんでした。山口は未知の領域を舐め、現地人の進言を軽視し、寒さに耐えきれないと夜間行軍を決行し取り返しのつかない惨劇を招いた
隊員に雪山の経験がほとんど無かったというのが命取り
高倉健さん主演で映画を見ました✋
徳島大尉の役がピッタリでしたね、また男泣きするシーン。実感こもっていましたね。雪の進軍の時の朝日を含め、晴れ晴れした様子がよかったです。
地元の人が止めろと言ったら止めましょう。ディアトロフ峠事件もそうだけど。
動き回って帰り道を探すよりも穴を掘って風から逃げて温存したほうがいいってことか。さらに言えば中隊で動くよりもバラバラで下山目指して1人でも遭難の報告を先に入れるべきなのか。現代だったらまた別の方法があるか?例えば定時連絡を3時間に1回入れます。半日連絡が無かったら100%遭難。ヘリが遭難者を探すんだったらバラバラにならないほうがいいか。
高倉健さんの、映画で、みました。見ごたえがあり、いろいろ、人生に考えさせられる、映画でした、
映画では山口少佐は明治の頑固爺さん的に描かれているが実際は優しい部分があって、昼頃の休止の時吹雪と気温の低下で永井軍医が凍傷の危険があるから行軍中止を進言して神成大尉や山口少佐も中止にしようとしたが見習い下士官たちの猛反対で意見がまとまらずなんと山口少佐は折れてしまい行軍を続ける判断をしていまい悲劇が始まって言われている!
実録映画では山口少佐は無能な人ではないですよね。東宝映画は脚色過剰です。
新田氏の本と映画は軍隊に対して批判的立場に偏っています、同じ日本人なのに!太平洋戦争の日本軍よりまともでした。
見習い下士官に猛反対され折れた挙げ句、部隊をほぼ全滅させた。つまり指揮官として無能という事。
この加藤さんって研究してる人は初日は穴を掘って風を凌いだと言ってるけれどなぜか天幕を持って行っておらず冷たい空気が逆に流れ込むようになって耐えられず、このままでは凍傷になってしまうと数時間で真夜中に引き返した。あと着るもの食べ物には問題なかったと言ってるが綿素材の肌着で凍って体に貼り付いて体温を奪ったという検証がされている。食べ物は新雪だと沈む2本足のソリで大きな釜を運んだが、吹雪でただの屋根の無い穴では火がついては消えるの繰り返しで米が炊けず、おにぎりや餅を持参した者も多かったが凍って食べられず捨てたということ。色んな研究があるものですね。
食べ物は昼食用の握り飯は背嚢に入れていた兵士のは石のように凍り付いて食べれなかった証言があり、鳴沢での夕食は炊事版は雪を掘り続けても地面にたどり着けず、雪の上で火を炊いてどんどん沈んでしまいまともにコメが炊けず夜中の2時ごろに生煮えの米を1人飯盒半分くらいしか出来なかった。食べ物には問題がありました!
小原さんの話に出てくる「水野中尉」とは水野忠宜中尉のこと。元紀州藩附家老で新宮藩主で鬼水野の異名を持っていた水野忠幹男爵の嫡男です。世が世ならお殿様になる人だったこともあり兵卒からは非常に人気があったことからその死は大きな影響があったみたいですね。
何事も完璧な準備ですね!!成仏出来ずに未だに銅像の周りにさ迷う軍隊の亡霊!!早く静まり全員成仏して欲しいですね!!
自分達が信頼してた上官達が後付けの「リーダー論」とやらで無能呼ばわりされてる故に浮かばれないんだと僕ら(仲間達)は感じてます。しかも元陸自5連隊の左官だった伊藤某の『消された真実』と云う本では聯隊長はおろか師団長をも酷評してる様なので益々成仏出来ないんだと思います。
この行軍計画自体が不明瞭でした。初日に田代へ到達したあと、どうするのか?田代で野営するつもりだったのか?三本木まで行くのか?それとも帰営するのか?田代には小さな小屋があるだけ。もしそこに辿り着いたとして、やはり吹雪の中を露営するしかありませんでした。目的がソリでの輸送が可能かどうかの試験ならば小峠・大峠で数時間遅れたので即刻中止して帰営するのか正解でした。馬立場での軍議がすべての悲劇の始まりですね。ここで中止していたら、おそらくは全員無事に帰営していたでしょう。
3:20 「天は我々を見捨てた」的な発言、本当に言ってたんだ
冬の普段の日でも こちらからしたら凄い😮❤
最近陰陽師の橋本京明氏が今も尚八甲田山で雪中行軍の練習を続けてた霊達に訓練は終わった事を身を呈して教えてました。。顔中が凍って寒そうだったのを念を唱えて溶かしてあげてました。責任者の霊が解散を命令してたのでもう心霊騒ぎは無いと思います。
戦争で亡くなるならまだしも、無謀な訓練でこれほどの兵士が亡くなるなんて、ほんっとーに無計画な人の命をなんとも思わない上層部のおかげで、どれほどの人間が無駄死にしたことか・・・
一泊二日じゃないだろ。服装も問題ありだったし、食べ物も凍ってダメだった。
この時、すでに誰も責任を取らない幹部達の図式があって、昭和まで続いた。
一日目と二日目は距離は近い。同じ場所をさ迷ってたって事か
上司が無能かつまともな判断ができなかったからこういった悲劇が起きた
うちが小学生くらいに映画見たんだけど、演技力がすごくて今また見たいって思ってる。WikipediaとかTH-camで調べまくってる。普通に考えて1泊2日で往復は無理なのに、事前の練習?で上手くいったから決行したとか、その他諸々過酷すぎてほんとに怖い。不謹慎だけど興味深いよね。皮膚が凍ってたから注射針が刺さらなかったとか。
コメント欄で服装や食糧の不備をいう人が多いけど、八甲田事件の4年前、新発田の歩兵16連隊が明治31年2月に厳冬期の磐梯山麓通過を含む8日間の雪中行軍を成功させているから服装や食糧は実際問題ないよ。この時のレポートは北海道の部隊に大きく評価されて参考にされているけど、それ以上の情報共有がなされなかったみたいだから、むしろそっちが問題の本質だろうね。
時代。今からならなんとでも言えるしマウントも取れる。1902年なんてまだ日本における軍隊の近代化がこれからという時期。ドヤる者をあの時代へ当時と同じ環境ハンデを持たせてから放り込んだら何も出来ないだろ
直接原因は事前のリサーチ不足なのだが撤退を決めてから2日目に迷走して体力を失ったことが力尽きた原因なんだよな。
佐藤特務曹長のあの一言及びそれを少佐が鵜呑みにしなかったら(思考がしっかりしてたら)彷徨は免れたかも。
おにぎり凍ったり長靴すら支給されてない状態でも、食べ物も衣服も問題なかったの???
案内を申し出た村人に「金目当てか」と怒鳴りつけた部隊はほぼ壊滅。「案内人殿に敬礼」した部隊はほぼ無傷。まさに因果応報ですな。
案内人へ敬礼!あれはドラマだよ。本当は、福島隊を案内した村人を八甲田山中でおき去りにし、なおかつ他言したら追いかけるぞ!と脅しまでかけて解放したのが真相
案内人に敬礼どころか、二人の案内人が凍傷になるほどにこき使って、後遺症で生涯寝たきりになったそうだが、その補償は全くしないどころか、口止めをしたというのが真実当時の陸軍というのはそういうものだった
映画で高倉健さんのこのシーンに一番感動して号泣でした、しかし後になって違うって知りました、言葉がありません
それいつもの壺ウヨの捏造ネタなんで😅
@@wrs1586本当にそれ、知りたくなかった
八甲田山耐寒訓練は災厄な結果を招きましたね。訓練とは言えやるべきではなかったですよね。嫌とも言えないですし、悲しい過ぎます。
映画の撮影も大変だったでしょう😢
そりゃ「吹雪の日に撮影しなきゃ意味ねぇ」ってことで吹雪いてる日を選んで叩き起こされるわ、「凍ってなきゃだめだ」ってんでエキストラ並べて頭上から水ぶっかけて「凍ったら撮影行くぞ」とかやるわ、雪崩のシーンではダイナマイト仕掛けてガチの雪崩起こすわ……。
@@antigoneification今の時代には生では撮影できませんねー本当に凍傷になった人もいたんじゃないかと危惧しますCGができてよかったです
雪中行軍だとスピードが遅くなり危険性も増えるから、どの冬戦争も攻める側に不利。 だからソ連軍が夏を選んだのは合理的だったことになる。
ソ連の満州侵略の事を言ってるとしたら、歴史を知らないね。ソ連は夏を選んだんじゃなく、Xデーが8月しかないから侵攻したんだぜ。
下士官は衣服に問題あったでしょう
確認したが、ロシアでマイナス40度にもなる町では一般市民の外出は命懸けとか。ましてや雪山で方向が全く不明な中でどこまで耐えきれるのか?各個人のキャパにも大きくされようが、基本として「山に人が歩く道はない」の発想が必要なのではないか?要は道は手探りなのだ。毎日上っているお山でも、猛吹雪になれば一歩も前進できない。ただ現代はGPSがあるので状況はかなり違うだろうがね。山をなめるとひどい目に会うよ。あと八甲田はごちゃごちゃ言わずに、同一条件下で再現してみればいいでしょう。ただ命懸けで再現する奴なんかいるのかな?
装備も問題だったろ。下士官には粗末な防寒具しかなく将校には毛皮のコートがあったし。凍傷対策も全く不十分だった
着るものには大いに問題あったと思いますよ
まあ、当時としてみたらってことですかね。。
生還できた人は不幸中の幸いでした。亡くなられた方は亡くなっても尚訓練していたとか。橋本京明先生が供養していました。顔が凍ってたから、溶かしてあげて楽にしてあげてました。上の人が解散命令出したので、もう訓練してないと思います。
やはり全てにおいて、この土地に詳しい道案内がいなかったから死んでしまった…。道案内がいた隊は、そのガイドのいうことを聞いて全員生還してます。かわいそうだよね。今でいえば、パワハラだらけの命令が絶対な軍隊の中で、部下は嫌でもいうこときいてさ。死んでからも連れまわされているようにしか見えなくて…。いい加減、家族の元に魂を返してあげたいよね。ただの上司の判断ミスを天が我らを見放したってたいそうな言葉で言い表してほしくないし、それで先祖が亡くなっていたらなおさら。
民間の案内人は人質を取られて脅されたり、雪山に置いていかれたりして、重度の凍傷を負い、後遺症が残っています。大した保証もされず、口止めされたらしいです。
@@わろたわろた-o3h うわぁ!そりゃひどい!変な美談なんかよりそのような真実をこの動画はもっと強調してほしかったですね!
衣服に問題無い???俺はあったと思うけどなあっ 70年代とて今と比べりゃ 防寒着など良い物は少なかった 鈴鹿サーキットでの観戦73年ころだったがよく覚えている 風が冷たく車に戻った時の安堵感当時はまだまだ今のような防寒着など無かった時代 衣服の問題も大きいと思うよ綿下着とて汗で濡れ乾かなく逆にそれが冷水になり更に苦しむ今の繊維は汗とよく取り また即乾く繊維とか何とかだろ?サッカーユニフォームなどそれが明治だぞ 明治時代 昭和30年代には青鼻垂らした子供など至る所に居たよねそれが明治時代だぞ そりゃ苦しかったろうて
昔の軍服は制服みたいなものであったしかも雪中行軍する時はもう-10度以上とされていて第5連隊の不注意でもあった
当時の服とか見れるから機会があったら行ってみれば良い🤚確か県病で誰だったか暗殺された生き残りいたはず違ったらスマンそれに使用した拳銃🔫も あったと思います
@@パチは八百長 暗殺されて、どうやって生き残るのかな? 死ななければ暗殺とは言わないし、死んだら生き残りとはいわないし。。。わからん。
@@bogeyman10us11 書き方悪かった🤚暗殺されたのが有力犯人は生き残ったうちの1人かもしれない
こりゃー貴重すぎ
軍医が注射しようにも皮膚が凍ってて針が入らなかったと何かで聞いた。
神成大尉に気付け薬を打とうとして「針が折れた」話ですね。そして「口腔内に打ったら一言唸って絶命した」と。
他の動画観てると服装かなり軽装を伺わせる表現だけど、どうなんだろ?
当時の服とか観覧出来る記念館?で見たけど考えられんくらい質素なペラペラな服だった
食べ物は全て凍って歯が立たなかったと聞きますが?
おにぎりが凍って歯がたたなくて捨てたとかありましたね。
地元の人が止めた上で強行したって聞いたけど、もしそれが本当なら教科書が生かされませんでしたね、地元民の声とかなによりの教科書やろに
貴方が仮にその時代に生まれて同じ事言えますか?
@@user-qm7dx9hs5b 実際地元の人とめたんでしょ?立場によって変わるかな軍の人間なら言えなかったやろし、地元の人なら言ってたやろし
この時爆弾低気圧が近づいていたみたいですね。旭川で-41度記録したから相当寒かったはず。ホワイトアウトで前見えなかったはず。お国の為とはいえ気の毒です。。😢😢安らかに旅立たれる時を願います。m(_ _)m
この日の旭川のー41 度は令和の今になっても日本の最低気温の記録です。旭川と青森では地域は離れていますが、150年に1度以上の最悪の気象条件だったのではないでしょうか?
なんでそんなムリをする羽目になったか関係者以外も反省の必要があるでしょうよ
アナウンスは「幸運から生還」ではなく「行軍から生還」ではないでしょうか?
いや良い話みたいな終わり方してるけどマジで最悪な結末だから?
弘前隊は主に日本海側の雪国出身者中心だったことで万全の服装、体制で慎重に進軍したけど、青森隊は東北でも雪がさほど積もらない太平洋側や北関東出身者だったせいいか雪を甘く見ていたのが一番の失敗だな。青森隊の惨状で弘前隊の成功については触れることが不謹慎でタブーになっていたとか。
弘前隊は事前調査から準備も用意周到で立派でしたよね。記録読みましたが、地元民も絶対に山に入らない時期だったそうです。道中、雪に埋もれた銃剣?のようなものをみかけたそうです。報告したところ、みなかったことにして先を急ごうという命令があり、遭難者を救助するほどの余裕があるわけないので、(冷たいようですが)やはり限界を知るという意味で英断だったとありました。無事に戻れたのはいろいろな判断の積み重ねだと思います。
その弘前隊もマタギにかなり酷いことしてますけどね
ロシアと事を構える為の訓練!!冬のロシアは、極寒零下の大陸だから、冬の厳しさを体感する為に、行軍したが遭難してしまった!!
山登りで天候が読めない人が山に登ると遭難します、登山家なら誰もが知っている天候の怖さ当時の兵隊は気合で何とか出来ると本気で思っていたのでしょうだから戦争にも負けたのでしょうね、軍隊に悪い軍隊は無い、悪いのは隊長、指揮官である
上司が無能だと下は大変だよね( ´Д`)=3
この事件から8年後に、陸軍は当時来日中だったオーストリア=ハンガリー帝国陸軍のレルヒ少佐を教官に、高田第58連隊(新潟)や旭川第7師団(北海道)でスキーの指導を始めたそうですが、こういう悲劇を防ぐため(あるいは本当の意味での来るロシアとの戦争に備えるため)にも行軍の前にスキー競技を取り入れる等の策を講じていれば青森連隊の将兵は大勢の犠牲者を出さずに全員生還できたのではないですかね?
これ人災なんです。余りに準備と経験の足りない指導者のせいだった。現地に自分も行きました。
映画にもなりました。
想定外のトラブルには勇気を持って退却するのが上司の心得なんだけど。現場では厳しいのかなあ。
下士官が反対したとありました
冬の青森空港は降雪強風、悪天候による欠航が多い。青森第五連隊遭難現場を含む、山を開墾して造成した祟りとも噂され、余りの就航率の低さから「天は我々を見離した空港」という、不名誉なアダ名まで付いてしまった。祟りではなく、こんな歴史的大事件が起きた、過酷な自然環境の場所にしか、現空港を造成する場所がなかったためだ。自然は恐ろしい。
今でも死んだことを知らずに彷徨う兵が行軍していると聞きます。今でもです。あと100年経っても成仏できないのでしょうか?
其の手の話は信じないが、本当だとしても夏の晴天日には帰路を見つけ兵舎に戻ったことでしょう。
地元の者です。さすがに冬は雪で行けませんが、夏でも夜は行きません。一度だけ夜に若気の至りで彼女とドライブした事がありますが、帰り道怖くてバックミラーを一度も見れませんでした。
映画「八甲田山」は大人の事情?で美化されすぎ。上がマヌケだと大惨事になる事を全然学んでないw
昔ビデオレンタルの時代に借りて見たことがあります。確か訓練中に隊員逹が次々と倒れ凍死し、最後に隊長が(天は、我を見放したか。)と言い残し死んでいた話しですよね。別の動画で八甲田山の話しやっていました。(漫画、実話です。)村人逹に冬の山は、危険だから止めろとか、入るなら案内人を付けろ。とかいろいろ忠告や提案されたのに無視して八甲田山に入り訓練をしてたら、そりゃあ天も見放したくなりますよね。救助隊に救助されたおかげで全滅はしなかたけど、結構いたはずの隊員の数が何百人いや何十人に減ったようです。なんも変哲のない山でもなめて掛かると取り返しのつかないことになって最後に死ぬという教訓だそうです。自然って穏やかに見えても怖い!
教科書となるべきものがあったらって‥地元の人の話しを聞かない人たちに教科書を与えても無駄では?
逆に同じ日に八甲田越えした弘前隊は成功してるんだよな。
4:05この「神様」は一神教的
今日観に行って来たよ!ソリが1番のガンだったのね…
霊能者橋本京明さんがTH-camで行軍の霊を慰められてましたね。
霊なんて居ないので、霊能者はインチキですね
@@忖度絶対しないマン 一人一人思ってることに違いがあって良いと思います。
くだらねぇ❗いるなら見せろ(笑)
霊能芸人(笑)を名乗るなら渋々納得してあげるかなていうか慰めるだけなら誰でも出来るのでは?
@@忖度絶対しないマン 宗教と同じで救われるなら個人の考えでに任せて結論出さなくていいと思う。ただ高額な御布施、脅しのような物はちょっとね。大槻教授が宜保愛子の認める所は高額なギャラを拒んでいた所だそうです。織田無動と江原、細木は高いよ!
距離もないので1泊2日の田代温泉までの遠足くらいの気持ちで軽装の兵が多かったらしいですね。本来なら野営用の天幕は携行している物ですが、隊としても油断していたと言われています。あまりにも近い距離での演習だった為に面子が潰れると初期に引き返す事が出来なかった事がすべての始まりでした。映像としてはあまり価値のない様に思いました。
真の敵は無能な味方なり
小原伍長の証言や実録映画では山口少佐は無能ではない。東宝映画では徹底して愚かな人物として描かれている。山口少佐の名誉回復を望みたい。
山口は間違いなく無能です。山口は何度も遭難回避できた場面で3度も選択決断を失敗した愚者。小原氏の証言も二転三転。生還者の阿部氏や村松氏や後藤氏らとの証言も食い違いがある。山口は兵の体感温度が限界に達してると帰営を進言した永井軍医を完全無視。更には村人の忠告も叱り飛ばす横暴さ。幹部らとの協議でも慎重過ぎると進言を否定し敗北主義を嫌い行軍強行。夜間行軍は自殺行為と忠告も寒さに耐えきれず移動命令を出し犠牲者多数。挙げ句に4回仮死状態になりその度に倉石らが苦労して焚火し蘇生させ背負った。倉石が気温が高い谷底の移動を勧めても「もう死ぬからいい」と一点張り。捜索隊に発見時は山口だけ毛布2枚を被り部下らは自分の衣類を破り彼に巻き付けて7名が凍死。その側で胡座をかいてた山口は地面と凍結して持ち上がらず鉈で衣類を切った。神成は後藤に全て自分の責任にあると言い切ったが山口は尊い部下に救われながら責任追及を恐れて自決
雪国育ちからしたらフラグ踏み過ぎに感じるわ
大尉の有名な言葉「天は我を見放したか」
4:15
一番役に立ったのはロウソク。マッチだと火が付かない。焚火すら困難。ロウソクで餅を炙り弘前隊員は助かった。現代の近代装備でも八甲田行軍は至難です。自衛隊や登山者でも行軍コースには参る。日本観測史上最大の寒波日に決行したのが最大の過ち!弘前隊は夏に13時間の行軍演習を行い案内人も付けたのが成功の要因。あと深夜に動いてしまった青森隊と違い福島大尉が隊員に寝たら死ぬぞと声掛け&体を踏む!を徹底。その案内人数名も迷うほどの地獄でした。青森隊はマタギの村人の忠告を拒否し独断で深夜寒さに耐えきれず移動を命じて犠牲者を増やした山口が戦犯。気温が高い谷底に移動させ無闇に動くなと9名を救った倉石大尉がMVP。
「悔しくてたまらない」とか言いながら、顔にやけてね?怖いんやけど。
なんか幽霊でも取り憑いているんじゃないですかこの人、本当怖い・・・
ニヤニヤ顔しながら喋ってるよね?
秋田犬でも寒くて氏ぬわ
多くの教訓を残したと言ってるけど、一番の問題が教訓にもなってないよなあ~それで、第二次大戦で同じ原因で悲惨な事になったやん。で、多分自衛隊でも・・・・特に海自。
そもそも今の日本は国防を疎かにしてますからね、教訓以前の問題
悔しくてたまんないですね(笑いながら言う事か?)
靴下って指5つに別れてるの増えてるが、別れてないほうが保温性いいのか?
靴下なんざどうでもいい。大事なのは靴
映画のキャストに大竹まことがいたので何度も見返してだけど、結局見つけられなかった。別人かな?
本人言わく物資ソリを押して"早く田代温泉で一杯やりてぇ!"と言ってた人がそうみたいです
@@八尋-z9e ありがとうございます。早速ビデオで見て見ます。
大竹さんは、一番はやく裸になって凍死した人です。
先月、八甲田神社と幸畑の遭難者陸軍墓地に行って来たよ。
大竹まことさんはおなかに何か巻き付けて居けていて、露営から出る時大声をだして裸になってしまい凍死した人です。その光景は連隊全員が見ていました。やはり役者が一枚上ですね。
兵隊さんはワラジだけで、小原さんだけロングブーツだったから助かったらしい
靴って大事ですね
@@leimau2739 そうですね
わらじ…だけ…本当ですか???
@@かぐや姫-j3d さん本当の話らしいですよ
@@masa0626 わらじではなく、わらでできた雪沓というものです。それと、ロングブーツで助かったのは倉石大尉です。
倉石大尉がロングブーツ(長靴)なのは偶然、お土産か何かで東京から送ってくれたからです!
更に革手袋も装備してた様ですね。
小説の通りだとしたら、山口が殺したことになるんだよね。奴が居なければ成功していただろう
後藤房之助さんって俺の先祖やん!ヤ━━(*」´ェ`)」━━ン
ロシア軍が上陸しても、部隊単位の八甲田山越えて迎撃できないということか。ロシア軍は氷点下30度くらいでも進撃してくるかもしれない。
こういう話はどうも美談にしたがる傾向がある。どうしようもない大失敗談として語り継ぐべき。
そうだよな。だからこそ二度と繰り返してはならないと戒められるのに、英霊だと美談にしたがるヤツらがいる限り、また同じ愚行が繰り返される。
どこが美談なんだ?この戦訓があったからこそ満州における戦闘で防寒対策が徹底され、数倍もの敵を駆逐し勝利できたのだから語り継がれて当然
ずいぶん昔に、ドラマを見たわ。自分不器用、って、有名な俳優さんが出演の。声が震えてて、表情とナンダか一致しないのが、誤解を招きそうだけど。。。語ることが未だに困難なのよね、たぶん。。。
生き証人の肉声が残ってるなんて凄いですね。
ちなみこれが録音されたのは東京オリンピックが開催された1964年で小原さんは80代だったとか、手足の何かしらを失い戦争に次ぐ戦争と大変な激動の時代生き抜かれてこうして貴重な肉声を残してくれたことに敬意を表します
小原さんの声が聞けただけでも貴重ですね。もし生きていたら、いろいろ話してみたかった。
「教科書になる知恵」は普通にあったんですよね、地元の人々の暮らしの中に…
冬になると映画「八甲田山」を観ます。毎年。
最初はただの準備不足とトップの判断ミスだったんじゃないか?と思っていましたが、
加藤幹春さんのお話を聞くと、風の防ぎ方が不味かったということですね。
明治時代、ナイロンもなく難しい課題です。
加えて、この訓練をしなければいけないほど、日本が追い詰められた状態だったことを、だんだんと理解できるようになりました。
明治時代。
明治浪漫というイメージでしたが、明治時代は、まだ日本自体が貧しく、その上強国に囲まれ、国の存続さえ危ぶまれるたいへんな時代だったと気づいたのはごく最近です。
まだ行ったことのない八甲田山雪中行軍遭難資料館ですが、必ず行きたいと思います。
幸畑の資料館は子供にも見せられますが、銅像茶屋(鹿鳴庵)無き現在は青森自衛隊の防衛館(要予約)をも是非見学される亊をお奨めします。
毎年既に5回青森を訪れるようになり、今年は酸ヶ湯温泉旅館に宿泊し、一般に八甲田山と言われているのが本来は八甲田と呼ぶことを知りました。また雪中行軍についてはその事故時代は知っていましたが当時の内情を今回初めて知り涙が出てきました。今もその教訓が生かされてているんですね。確か記念碑があると思いますのでいつか、できれば来年訪れ意図せず命を落とした人たちの魂に祈りを捧げたいです。青森好きです。
記念碑巡りならまず青森高校の通り(部隊は現在の青森高校から出発しました)から幸畑の墓地(資料館もあります)と、後藤伍長の銅像がおすすめです
お天気のいい日を狙って行ってください
どちらも自衛隊の方たちが冬季訓練の際に欠かさずお参りする場所で、銅像の所からの市街地の眺めは素晴らしいです
お土産屋さんがあったんですが、閉店してしまったようなので、余裕があれば茅野茶屋で長生きのお茶を飲んでいってください「1杯飲めば3年、2杯飲めば6年、3倍飲めば死ぬまで生きる」と言われていますw
銅像茶屋(鹿鳴庵)無き今、青森駐屯地内の防衛館(要予約)にも是非足を運んでください。
貴重な史料(御遺品)も見学出来ます。
@@銘苅梓-o2r さん
返事が遅くなり申し訳ありません🙇♂️
特にお茶は3杯飲みたいです!
@@toshi2628 さん
お返事遅くなり申し訳ありません🙇♂️事前予約が少しハードル高いですが、情報ありがとうございます😊
確かに悲惨な事故でしたね。
その時期になると、青森の放送局では毎年この話題にふれてます。
現代でも冬国をなめて、きちんとした装備もしない車で来ている人もいますからね。
私も元北部方面隊の自衛官です!隣に上富良野演習場が有ります、冬季訓練でマイナス30度の中極寒に耐え訓練していました!八甲田はまだ、明治になり、軍隊は脆弱な装備で革靴でなく、わら靴をはいていました!防寒用具はないにひとしい状況に有ります!そんな中極寒の寒冷地訓練は多くの犠牲者をだしてました!亡くなられた方に哀悼の意を捧げます!八甲田の英霊に敬礼!
……自分だったら嬉しいの?
無謀な訓練で何日も雪山をさ迷った挙げ句手足を失って一生寝たきりになった時に「貴方の行為は立派です! まさに英雄!」とか言われたら。
@@ああああ-c6i 当時四肢切断の生存者は軍神扱いで年金もたっぷり、嫁希望者が殺到、村長にまでなった人もいた。
当時は普通に暮らしてても食うや食わずで飢え死にもあり得た時代だから、今の価値観だけでどうにも言えない。五体満足の生存者は日露戦争の激戦地にやられて戦死だし・・・
亡き父が第二次世界大戦に向かう前、八甲田山雪中行軍をさせられ山中で野営していた際、兵隊の足音だけが聞こえて眠れなかったと戦友数人が話していたと語った事を思い出しました。明治の雪中行軍で亡くなられた英霊ではないかと言う事になり、翌朝、訓練部隊全員で黙祷を捧げたそうです。
ただのアホやろ
それ、創作話ですよ。
死んだ霊は地上に残れません。人間だけが成仏出来ないと思い込んでる
전범 자랑 안하나?
우리 할배는 A급 전범다제
우리 할배는 위안부 100명과 했다제
빠가야로 풍속의 자녀들아
うーん
なんかの空耳だと思うよ
人間ってそうじゃないか?と思っていると、そんなものが見えたり聞こえたりするから。
八甲田遭難を仮に知らなかったら、恐らく聞こえてないと思いますよ😅
心から、ご冥福をお祈り申し上げます。
私も小説と、映画を見た何年後に青森八甲田山に行き、慰霊の歩兵像を見た時、こんな場所で尊い命がなくなったのかと感無量でした。
昨年10月末に八甲田山雪中行軍遭難資料館に行きました。
装備に問題がなかったと動画では話されていますが現代の装備とは比べものにはなりません。
墓苑にはお線香をあげてる方がいらしゃいました。
昨日紅葉を見ながら遭難慰霊碑を見てきました。わずか124年前の出来事なんですよね。当時は気象科学情報もなく最悪状況下での出来事だったと思いますね。慰霊碑のある所は見渡す限り紅葉が綺麗で眼下には海や町並みが見えよい場所でしたね。ご冥福をお祈りしました。
安らかに、、、 合掌
2022年1月23日が雪中行軍開始の日から120年に成りますね。
何か美化されてる感じがする…
5:11 「露営の方法が悪かった」とあるが、青森に無知な者ならば「青森県民は子供の頃からかまくらを作るのに慣れている」と思うもの。いずれにせよ、露営の時に「かまくら」でも作っただけでも、悲劇は防げたのではないか。
地元の兵士は少なかったようですね。
139名!が岩手県民よ…今日観て来たもの…
とても悲しい出来事ですが、日本を守るためにこのような訓練まで行い、日露戦争に備えたことに対し、感謝の言葉しかありません。安らかにお眠りください。
こういうの見るとリスク承知で自ら危険な雪山に登っていく冒険家の皆さんってすごいなぁと。
毎回、旅立つ前に相当の覚悟を決めているんだろうな…自分にはとても出来ない
10年程前に、紅葉の酸ヶ湯温泉から、八甲田に登りました。紅葉は色濃く素晴らしかったし、八甲田は登りやすいキレイな山でした。東北の冬山は危険ですね
まるでとげのある綺麗なバラのようですよね
八甲田は本当に美しい所なんですが、冬は今でもコースを外れたボーダーの遭難事故が絶えません
あと、夏山の緑の鮮やかさも素晴らしいし、田代高原の風に吹かれて波のようになる草の靡きも素晴らしいです
下調べさえすれば小学生でも登れる山なので、あまり怖いイメージは持ってほしくないです
雲の中に突っ込んだりしますが🤣山頂から見る景色の美しさは言葉では言い表せません
助かった人でも凍傷で切断した人がほとんど
昔だとかた️⭕️って言われたよね
凍傷が原因で手足切断まで…と初めて知ったときかなりショックだった
あまり知られていませんが、明治天皇はこの雪中行軍遭難の報告を受け非常にショックを受け、御自分で行軍の絵をかいて、シンプルな絵でしたが、西陣の職人に転写させ布起こしさせ、お布団を仕立てられて、崩御までずっと、そのお布団で毎晩休まれていたそうです。現物が京都の皇室ゆかりの寺院に現存します。
何処のお寺か知りたいです
@@真由美遠山 京都大聖寺門跡です。皇族の姫宮や摂関家の姫君が代々門主を務めました。観光寺院ではないので非公開です。
どこのお寺だろうと思ったら家の近所でビックリ。昨年上皇陛下がお見えになったので皇室にゆかりのあるお寺なんだなと思っていましたが、そのような物も現存しているんですね。
@@maron_delicious そうですね…多分、10年に一度くらいあるかないかの特別公開なんですが、その度にさまざまな皇族の遺愛の品を展示されています。香淳皇后の子供の頃遊んだお人形とか、江戸時代に夭折された姫宮の豪華な刺繍の赤い振袖とか、明治天皇が普段座っておられた菊の御紋のついたベルベットの椅子とか。ほんと色々保存されてるのすごいと思います…。
興味のおありの方があるかもしれませんので、忘れないうちに書いておきます。(長文失礼します。)撮影禁止でした、雪中行軍の絵のお布団の柄ですが、まず、大きな短冊に、明治天皇が絵を筆で描かれました。額に入れて現存します。そのままでは縦長なので、現代風にいうとコピーを4枚ほど作り、並べるとだいたい、お布団で寝た時の、首から腰辺りをおおうサイズになります。筆跡に忠実に、西陣の職人はそうやって布団の図柄にしました。絵は、枝葉のない木の幹が何本か描かれ、その間に馬に乗った将兵が一人うしろを振り向いており、下の方にはやはり木々の間に徒歩の兵隊たちが列をなして歩いているデザインです。4枚にすれば、兵の数は4倍になり、布団が雪山になります。顔も丸に目鼻とシンプルな筆致ですが、明らかに軍服、軍帽とわかる姿でした。但し、雪中行軍では外套?上着や雪支度をしてあるでしょうし、騎馬の兵もいなかったかもしれませんし、そもそもこんな林があったかもわかりません。それでも、雪国の山々を知らない明治天皇が、一生懸命自分で想像して描いた兵の姿です。兵を悼むには十分です。こうして、八甲田の兵は宮中で絵姿になり、崩御まで明治天皇に近侍し続けました。明治時代当時は、世界は、領土を奪ったもの勝ちの弱肉強食、帝国主義の時代、植民地を持つ国が一等国、それ以外は植民地になる順番を待つ身でした。インドは植民地にされ、イギリスはインドの綿花職人の両手首を切って歩きました、自国の綿花を売るためです。人種差別もあり、アジアアフリカの有色人種の植民地にはひどい扱いでした。アジアで庶民地にならなかったのは日本とタイだけです。(タイは巧みな八方美人外交で英仏を翻弄し、それでも領土を多少失いながら持ちこたえました)そんな時代に、貧しい日本をちょんまげの時代から急速に近代化させ、いち早く軍隊を整備し、工業を興させ、日本を植民地化させなかった明治天皇は、歴史上の人物は評価が分かれるのが常ながら、海外でも名君として紹介されることが多いです。今のような開かれた皇室ではない時代でしたので、天皇の歌ひとつを公表するのは切腹覚悟とかいう時代でした。お布団の柄なんてとんでもないです。列強に対し、強い主君である必要があった方が、絵師に命じることもせず、ひっそりと自分で描いた雪山の兵の布団にくるまって、亡くなるまで失った兵を悼んでいた事実は、自由な現代だから表に出せるのだと思います。戦争中の明治天皇の御製「いくさ人(兵隊)いかなる野辺に明かすらむ(どこで野営をしてるだろうか)蚊の声しげくなれるこの夜を(夜、蚊にさされたりしてなければよいが)」また、「大変気の弱い繊細な宮なので、君主が務まるか心配だ」と明治天皇が皇太子時代、実の母上の手紙の記録も残っています。繊細な君主の一面があったようです。ともあれ、この八甲田の雪中行軍の悲劇は、明治天皇に生涯消えぬ強烈なトラウマを与えました。
行軍訓練自体は意味はありました。日露戦争でこの経験があらゆる箇所で活用。実は他隊が前年に訓練頓挫してそのリベンジの意味合いが強かった。福島大尉の弘前隊は準備段階から用意周到で徹底。愚将山口率いる青森5連隊は準備期間僅か4日。神成大尉と倉石大尉は優れた将校で彼らが率いていたら199名もの犠牲は絶対出ませんでした。山口は未知の領域を舐め、現地人の進言を軽視し、寒さに耐えきれないと夜間行軍を決行し取り返しのつかない惨劇を招いた
隊員に雪山の経験がほとんど無かったというのが命取り
高倉健さん主演で映画を見ました✋
徳島大尉の役がピッタリでしたね、また男泣きするシーン。実感こもっていましたね。雪の進軍の時の朝日を含め、晴れ晴れした様子がよかったです。
地元の人が止めろと言ったら止めましょう。ディアトロフ峠事件もそうだけど。
動き回って帰り道を探すよりも穴を掘って風から逃げて温存したほうがいいってことか。さらに言えば中隊で動くよりもバラバラで下山目指して1人でも遭難の報告を先に入れるべきなのか。現代だったらまた別の方法があるか?例えば定時連絡を3時間に1回入れます。半日連絡が無かったら100%遭難。ヘリが遭難者を探すんだったらバラバラにならないほうがいいか。
高倉健さんの、映画で、みました。見ごたえがあり、いろいろ、人生に考えさせられる、映画でした、
映画では山口少佐は明治の頑固爺さん的に描かれているが実際は優しい部分があって、昼頃の休止の時吹雪と気温の低下で永井軍医が凍傷の危険があるから
行軍中止を進言して神成大尉や山口少佐も中止にしようとしたが見習い下士官たちの猛反対で意見がまとまらずなんと山口少佐は折れてしまい行軍を続ける判断を
していまい悲劇が始まって言われている!
実録映画では山口少佐は無能な人ではないですよね。東宝映画は脚色過剰です。
新田氏の本と映画は軍隊に対して批判的立場に偏っています、同じ日本人なのに!太平洋戦争の日本軍よりまともでした。
見習い下士官に猛反対され折れた挙げ句、部隊をほぼ全滅させた。つまり指揮官として無能という事。
この加藤さんって研究してる人は初日は穴を掘って風を凌いだと言ってるけれどなぜか天幕を持って行っておらず冷たい空気が逆に流れ込むようになって耐えられず、このままでは凍傷になってしまうと数時間で真夜中に引き返した。
あと着るもの食べ物には問題なかったと言ってるが綿素材の肌着で凍って体に貼り付いて体温を奪ったという検証がされている。
食べ物は新雪だと沈む2本足のソリで大きな釜を運んだが、吹雪でただの屋根の無い穴では火がついては消えるの繰り返しで米が炊けず、おにぎりや餅を持参した者も多かったが凍って食べられず捨てたということ。
色んな研究があるものですね。
食べ物は昼食用の握り飯は背嚢に入れていた兵士のは石のように凍り付いて食べれなかった証言があり、
鳴沢での夕食は炊事版は雪を掘り続けても地面にたどり着けず、雪の上で火を炊いてどんどん沈んでしまい
まともにコメが炊けず夜中の2時ごろに生煮えの米を1人飯盒半分くらいしか出来なかった。食べ物には問題がありました!
小原さんの話に出てくる「水野中尉」とは水野忠宜中尉のこと。
元紀州藩附家老で新宮藩主で鬼水野の異名を持っていた水野忠幹男爵の嫡男です。
世が世ならお殿様になる人だったこともあり兵卒からは非常に人気があったことからその死は大きな影響があったみたいですね。
何事も完璧な準備ですね!!
成仏出来ずに未だに銅像の周りにさ迷う軍隊の亡霊!!
早く静まり全員成仏して欲しいですね!!
自分達が信頼してた上官達が後付けの「リーダー論」とやらで無能呼ばわりされてる故に浮かばれないんだと僕ら(仲間達)は感じてます。
しかも元陸自5連隊の左官だった伊藤某の『消された真実』と云う本では聯隊長はおろか師団長をも酷評してる様なので益々成仏出来ないんだと思います。
この行軍計画自体が不明瞭でした。
初日に田代へ到達したあと、どうするのか?
田代で野営するつもりだったのか?
三本木まで行くのか?
それとも帰営するのか?
田代には小さな小屋があるだけ。
もしそこに辿り着いたとして、やはり吹雪の中を露営するしかありませんでした。
目的がソリでの輸送が可能かどうかの試験ならば小峠・大峠で数時間遅れたので即刻中止して帰営するのか正解でした。
馬立場での軍議がすべての悲劇の始まりですね。
ここで中止していたら、おそらくは全員無事に帰営していたでしょう。
3:20 「天は我々を見捨てた」的な発言、本当に言ってたんだ
冬の普段の日でも こちらからしたら凄い😮❤
最近陰陽師の橋本京明氏が今も尚八甲田山で雪中行軍の練習を続けてた霊達に訓練は終わった事を身を呈して教えてました。。
顔中が凍って寒そうだったのを念を唱えて溶かしてあげてました。
責任者の霊が解散を命令してたのでもう心霊騒ぎは無いと思います。
戦争で亡くなるならまだしも、無謀な訓練でこれほどの兵士が亡くなるなんて、ほんっとーに無計画な人の命をなんとも思わない上層部のおかげで、どれほどの人間が無駄死にしたことか・・・
一泊二日じゃないだろ。
服装も問題ありだったし、食べ物も凍ってダメだった。
この時、すでに誰も責任を取らない幹部達の図式があって、昭和まで続いた。
一日目と二日目は距離は近い。同じ場所をさ迷ってたって事か
上司が無能かつ
まともな判断ができなかったから
こういった悲劇が起きた
うちが小学生くらいに映画見たんだけど、演技力がすごくて今また見たいって思ってる。WikipediaとかTH-camで調べまくってる。普通に考えて1泊2日で往復は無理なのに、事前の練習?で上手くいったから決行したとか、その他諸々過酷すぎてほんとに怖い。不謹慎だけど興味深いよね。皮膚が凍ってたから注射針が刺さらなかったとか。
コメント欄で服装や食糧の不備をいう人が多いけど、八甲田事件の4年前、新発田の歩兵16連隊が明治31年2月に厳冬期の磐梯山麓通過を含む8日間の雪中行軍を成功させているから服装や食糧は実際問題ないよ。この時のレポートは北海道の部隊に大きく評価されて参考にされているけど、それ以上の情報共有がなされなかったみたいだから、むしろそっちが問題の本質だろうね。
時代。今からならなんとでも言えるしマウントも取れる。
1902年なんてまだ日本における軍隊の近代化がこれからという時期。
ドヤる者をあの時代へ当時と同じ環境ハンデを持たせてから放り込んだら何も出来ないだろ
直接原因は事前のリサーチ不足なのだが撤退を決めてから2日目に迷走して体力を失ったことが力尽きた原因なんだよな。
佐藤特務曹長のあの一言及びそれを少佐が鵜呑みにしなかったら(思考がしっかりしてたら)彷徨は免れたかも。
おにぎり凍ったり長靴すら支給されてない状態でも、食べ物も衣服も問題なかったの???
案内を申し出た村人に「金目当てか」と怒鳴りつけた部隊はほぼ壊滅。「案内人殿に敬礼」した部隊はほぼ無傷。まさに因果応報ですな。
案内人へ敬礼!あれはドラマだよ。
本当は、福島隊を案内した村人を八甲田山中でおき去りにし、なおかつ他言したら追いかけるぞ!と脅しまでかけて解放したのが真相
案内人に敬礼どころか、二人の案内人が凍傷になるほどにこき使って、後遺症で生涯寝たきりになったそうだが、その補償は全くしないどころか、口止めをしたというのが真実
当時の陸軍というのはそういうものだった
映画で高倉健さんのこのシーンに一番感動して号泣でした、しかし後になって違うって知りました、言葉がありません
それいつもの壺ウヨの捏造ネタなんで😅
@@wrs1586
本当にそれ、知りたくなかった
八甲田山耐寒訓練は災厄な結果を招きましたね。訓練とは言えやるべきではなかったですよね。嫌とも言えないですし、悲しい過ぎます。
映画の撮影も大変だったでしょう😢
そりゃ「吹雪の日に撮影しなきゃ意味ねぇ」ってことで吹雪いてる日を選んで叩き起こされるわ、「凍ってなきゃだめだ」ってんでエキストラ並べて頭上から水ぶっかけて「凍ったら撮影行くぞ」とかやるわ、雪崩のシーンではダイナマイト仕掛けてガチの雪崩起こすわ……。
@@antigoneification
今の時代には生では撮影できませんねー
本当に凍傷になった人もいたんじゃないかと危惧します
CGができてよかったです
雪中行軍だとスピードが遅くなり危険性も増えるから、どの冬戦争も攻める側に不利。
だからソ連軍が夏を選んだのは合理的だったことになる。
ソ連の満州侵略の事を言ってるとしたら、歴史を知らないね。ソ連は夏を選んだんじゃなく、Xデーが8月しかないから侵攻したんだぜ。
下士官は衣服に問題あったでしょう
確認したが、ロシアでマイナス40度にもなる町では一般市民の外出は命懸けとか。ましてや雪山で方向が全く不明な中でどこまで耐えきれるのか?各個人のキャパにも大きくされようが、基本として「山に人が歩く道はない」の発想が必要なのではないか?要は道は手探りなのだ。毎日上っているお山でも、猛吹雪になれば一歩も前進できない。ただ現代はGPSがあるので状況はかなり違うだろうがね。山をなめるとひどい目に会うよ。あと八甲田はごちゃごちゃ言わずに、同一条件下で再現してみればいいでしょう。ただ命懸けで再現する奴なんかいるのかな?
装備も問題だったろ。下士官には粗末な防寒具しかなく将校には毛皮のコートがあったし。凍傷対策も全く不十分だった
着るものには大いに問題あったと思いますよ
まあ、当時としてみたらってことですかね。。
生還できた人は不幸中の幸いでした。亡くなられた方は亡くなっても尚訓練していたとか。橋本京明先生が供養していました。顔が凍ってたから、溶かしてあげて楽にしてあげてました。上の人が解散命令出したので、もう訓練してないと思います。
やはり全てにおいて、この土地に詳しい道案内がいなかったから死んでしまった…。道案内がいた隊は、そのガイドのいうことを聞いて全員生還してます。かわいそうだよね。今でいえば、パワハラだらけの命令が絶対な軍隊の中で、部下は嫌でもいうこときいてさ。死んでからも連れまわされているようにしか見えなくて…。いい加減、家族の元に魂を返してあげたいよね。ただの上司の判断ミスを天が我らを見放したってたいそうな言葉で言い表してほしくないし、それで先祖が亡くなっていたらなおさら。
民間の案内人は人質を取られて脅されたり、雪山に置いていかれたりして、重度の凍傷を負い、後遺症が残っています。
大した保証もされず、口止めされたらしいです。
@@わろたわろた-o3h うわぁ!そりゃひどい!
変な美談なんかよりそのような真実をこの動画はもっと強調してほしかったですね!
衣服に問題無い???俺はあったと思うけどなあっ 70年代とて
今と比べりゃ 防寒着など良い物は少なかった 鈴鹿サーキットでの観戦
73年ころだったがよく覚えている 風が冷たく車に戻った時の安堵感
当時はまだまだ今のような防寒着など無かった時代 衣服の問題も大きいと思うよ
綿下着とて汗で濡れ乾かなく逆にそれが冷水になり更に苦しむ
今の繊維は汗とよく取り また即乾く繊維とか何とかだろ?サッカーユニフォームなど
それが明治だぞ 明治時代 昭和30年代には青鼻垂らした子供など至る所に居たよね
それが明治時代だぞ そりゃ苦しかったろうて
昔の軍服は制服みたいなものであったしかも雪中行軍する時はもう-10度以上とされていて第5連隊の不注意でもあった
当時の服とか見れるから
機会があったら行ってみれば良い🤚
確か県病で誰だったか暗殺された生き残りいたはず
違ったらスマン
それに使用した拳銃🔫も あったと思います
@@パチは八百長 暗殺されて、どうやって生き残るのかな? 死ななければ暗殺とは言わないし、死んだら生き残りとはいわないし。。。わからん。
@@bogeyman10us11
書き方悪かった🤚
暗殺されたのが有力
犯人は生き残ったうちの1人かもしれない
こりゃー貴重すぎ
軍医が注射しようにも皮膚が凍ってて針が入らなかったと何かで聞いた。
神成大尉に気付け薬を打とうとして「針が折れた」話ですね。
そして「口腔内に打ったら一言唸って絶命した」と。
他の動画観てると服装かなり軽装を伺わせる表現だけど、どうなんだろ?
当時の服とか観覧出来る記念館?で見たけど
考えられんくらい
質素なペラペラな服だった
食べ物は全て凍って歯が立たなかったと聞きますが?
おにぎりが凍って歯がたたなくて捨てたとかありましたね。
地元の人が止めた上で強行したって聞いたけど、もしそれが本当なら
教科書が生かされませんでしたね、
地元民の声とかなによりの教科書やろに
貴方が仮にその時代に生まれて同じ事言えますか?
@@user-qm7dx9hs5b 実際地元の人とめたんでしょ?
立場によって変わるかな
軍の人間なら言えなかったやろし、地元の人なら言ってたやろし
この時爆弾低気圧が近づいていたみたいですね。旭川で-41度記録したから相当寒かったはず。ホワイトアウトで前見えなかったはず。お国の為とはいえ気の毒です。。😢😢
安らかに旅立たれる時を願います。m(_ _)m
この日の旭川のー41 度は
令和の今になっても日本の最低気温の記録です。旭川と青森では地域は離れていますが、150年に1度以上の最悪の気象条件だったのではないでしょうか?
なんでそんなムリをする羽目になったか関係者以外も反省の必要があるでしょうよ
アナウンスは「幸運から生還」ではなく「行軍から生還」ではないでしょうか?
いや良い話みたいな終わり方してるけどマジで最悪な結末だから?
弘前隊は主に日本海側の雪国出身者中心だったことで万全の服装、体制で慎重に進軍したけど、青森隊は東北でも雪がさほど積もらない太平洋側や北関東出身者だったせいいか雪を甘く見ていたのが一番の失敗だな。
青森隊の惨状で弘前隊の成功については触れることが不謹慎でタブーになっていたとか。
弘前隊は事前調査から準備も用意周到で立派でしたよね。記録読みましたが、地元民も絶対に山に入らない時期だったそうです。道中、雪に埋もれた銃剣?のようなものをみかけたそうです。報告したところ、みなかったことにして先を急ごうという命令があり、遭難者を救助するほどの余裕があるわけないので、(冷たいようですが)やはり限界を知るという意味で英断だったとありました。無事に戻れたのはいろいろな判断の積み重ねだと思います。
その弘前隊もマタギにかなり酷いことしてますけどね
ロシアと事を構える為の訓練!!冬のロシアは、極寒零下の大陸だから、冬の厳しさを体感する為に、行軍したが遭難してしまった!!
山登りで天候が読めない人が山に登ると遭難します、登山家なら誰もが知っている天候の怖さ
当時の兵隊は気合で何とか出来ると本気で思っていたのでしょう
だから戦争にも負けたのでしょうね、軍隊に悪い軍隊は無い、悪いのは隊長、指揮官である
上司が無能だと
下は大変だよね( ´Д`)=3
この事件から8年後に、陸軍は当時来日中だったオーストリア=ハンガリー帝国陸軍のレルヒ少佐を教官に、高田第58連隊(新潟)や旭川第7師団(北海道)でスキーの指導を始めたそうですが、こういう悲劇を防ぐため(あるいは本当の意味での来るロシアとの戦争に備えるため)にも行軍の前にスキー競技を取り入れる等の策を講じていれば青森連隊の将兵は大勢の犠牲者を出さずに全員生還できたのではないですかね?
これ人災なんです。余りに準備と経験の足りない指導者のせいだった。現地に自分も行きました。
映画にもなりました。
想定外のトラブルには勇気を持って退却するのが上司の心得なんだけど。現場では厳しいのかなあ。
下士官が反対したとありました
冬の青森空港は降雪強風、悪天候による欠航が多い。
青森第五連隊遭難現場を含む、山を開墾して造成した祟りとも噂され、余りの就航率の低さから「天は我々を見離した空港」という、不名誉なアダ名まで付いてしまった。
祟りではなく、こんな歴史的大事件が起きた、過酷な自然環境の場所にしか、現空港を造成する場所がなかったためだ。自然は恐ろしい。
今でも死んだことを知らずに彷徨う兵が行軍していると聞きます。今でもです。あと100年経っても成仏できないのでしょうか?
其の手の話は信じないが、本当だとしても夏の晴天日には帰路を見つけ兵舎に戻ったことでしょう。
地元の者です。
さすがに冬は雪で行けませんが、夏でも夜は行きません。一度だけ夜に若気の至りで彼女とドライブした事がありますが、帰り道怖くてバックミラーを一度も見れませんでした。
映画「八甲田山」は大人の事情?で美化されすぎ。上がマヌケだと大惨事になる事を全然学んでないw
昔ビデオレンタルの時代に借りて見たことがあります。確か訓練中に隊員逹が次々と倒れ凍死し、最後に隊長が(天は、我を見放したか。)と言い残し死んでいた話しですよね。別の動画で八甲田山の話しやっていました。(漫画、実話です。)村人逹に冬の山は、危険だから止めろとか、入るなら案内人を付けろ。とかいろいろ忠告や提案されたのに無視して八甲田山に入り訓練をしてたら、そりゃあ天も見放したくなりますよね。救助隊に救助されたおかげで全滅はしなかたけど、結構いたはずの隊員の数が何百人いや何十人に減ったようです。なんも変哲のない山でもなめて掛かると取り返しのつかないことになって最後に死ぬという教訓だそうです。自然って穏やかに見えても怖い!
教科書となるべきものがあったらって‥地元の人の話しを聞かない人たちに教科書を与えても無駄では?
逆に同じ日に八甲田越えした弘前隊は成功してるんだよな。
4:05この「神様」は一神教的
今日観に行って来たよ!ソリが1番のガンだったのね…
霊能者橋本京明さんがTH-camで行軍の霊を慰められてましたね。
霊なんて居ないので、霊能者はインチキですね
@@忖度絶対しないマン 一人一人思ってることに違いがあって良いと思います。
くだらねぇ❗
いるなら見せろ(笑)
霊能芸人(笑)を名乗るなら渋々納得してあげるかな
ていうか慰めるだけなら誰でも出来るのでは?
@@忖度絶対しないマン 宗教と同じで救われるなら個人の考えでに任せて結論出さなくていいと思う。ただ高額な御布施、脅しのような物はちょっとね。大槻教授が宜保愛子の認める所は高額なギャラを拒んでいた所だそうです。織田無動と江原、細木は高いよ!
距離もないので1泊2日の田代温泉までの遠足くらいの気持ちで軽装の兵が多かったらしいですね。
本来なら野営用の天幕は携行している物ですが、隊としても油断していたと言われています。
あまりにも近い距離での演習だった為に面子が潰れると初期に引き返す事が出来なかった事がすべての始まりでした。
映像としてはあまり価値のない様に思いました。
真の敵は無能な味方なり
小原伍長の証言や実録映画では山口少佐は無能ではない。東宝映画では徹底して愚かな人物として描かれている。山口少佐の名誉回復を望みたい。
山口は間違いなく無能です。
山口は何度も遭難回避できた場面で3度も選択決断を失敗した愚者。小原氏の証言も二転三転。生還者の阿部氏や村松氏や後藤氏らとの証言も食い違いがある。山口は兵の体感温度が限界に達してると帰営を進言した永井軍医を完全無視。更には村人の忠告も叱り飛ばす横暴さ。幹部らとの協議でも慎重過ぎると進言を否定し敗北主義を嫌い行軍強行。夜間行軍は自殺行為と忠告も寒さに耐えきれず移動命令を出し犠牲者多数。挙げ句に4回仮死状態になりその度に倉石らが苦労して焚火し蘇生させ背負った。倉石が気温が高い谷底の移動を勧めても「もう死ぬからいい」と一点張り。捜索隊に発見時は山口だけ毛布2枚を被り部下らは自分の衣類を破り彼に巻き付けて7名が凍死。その側で胡座をかいてた山口は地面と凍結して持ち上がらず鉈で衣類を切った。神成は後藤に全て自分の責任にあると言い切ったが山口は尊い部下に救われながら責任追及を恐れて自決
雪国育ちからしたらフラグ踏み過ぎに感じるわ
大尉の有名な言葉「天は我を見放したか」
4:15
一番役に立ったのはロウソク。マッチだと火が付かない。焚火すら困難。ロウソクで餅を炙り弘前隊員は助かった。現代の近代装備でも八甲田行軍は至難です。自衛隊や登山者でも行軍コースには参る。日本観測史上最大の寒波日に決行したのが最大の過ち!弘前隊は夏に13時間の行軍演習を行い案内人も付けたのが成功の要因。あと深夜に動いてしまった青森隊と違い福島大尉が隊員に寝たら死ぬぞと声掛け&体を踏む!を徹底。
その案内人数名も迷うほどの地獄でした。青森隊はマタギの村人の忠告を拒否し独断で深夜寒さに耐えきれず移動を命じて犠牲者を増やした山口が戦犯。気温が高い谷底に移動させ無闇に動くなと9名を救った倉石大尉がMVP。
「悔しくてたまらない」とか言いながら、顔にやけてね?怖いんやけど。
なんか幽霊でも取り憑いているんじゃないですかこの人、本当怖い・・・
ニヤニヤ顔しながら喋ってるよね?
秋田犬でも寒くて氏ぬわ
多くの教訓を残したと言ってるけど、一番の問題が教訓にもなってないよなあ~
それで、第二次大戦で同じ原因で悲惨な事になったやん。
で、多分自衛隊でも・・・・
特に海自。
そもそも今の日本は国防を疎かにしてますからね、教訓以前の問題
悔しくてたまんないですね(笑いながら言う事か?)
靴下って指5つに別れてるの増えてるが、別れてないほうが保温性いいのか?
靴下なんざどうでもいい。大事なのは靴
映画のキャストに大竹まことがいたので何度も見返してだけど、結局見つけられなかった。別人かな?
本人言わく物資ソリを押して"早く田代温泉で一杯やりてぇ!"と言ってた人がそうみたいです
@@八尋-z9e ありがとうございます。早速ビデオで見て見ます。
大竹さんは、一番はやく裸になって凍死した人です。
先月、八甲田神社と幸畑の遭難者陸軍墓地に行って来たよ。
大竹まことさんはおなかに何か巻き付けて居け
ていて、露営から出る時
大声をだして裸になってしまい凍死した人です。その光景は連隊全員が見ていました。やはり役者が一枚上ですね。
兵隊さんはワラジだけで、小原さんだけロングブーツだったから助かったらしい
靴って大事ですね
@@leimau2739 そうですね
わらじ…だけ…本当ですか???
@@かぐや姫-j3d さん本当の話らしいですよ
@@masa0626 わらじではなく、わらでできた雪沓というものです。それと、ロングブーツで助かったのは倉石大尉です。
倉石大尉がロングブーツ(長靴)なのは偶然、お土産か何かで東京から送ってくれたからです!
更に革手袋も装備してた様ですね。
小説の通りだとしたら、山口が殺したことになるんだよね。奴が居なければ成功していただろう
後藤房之助さんって俺の先祖やん!ヤ━━(*」´ェ`)」━━ン
ロシア軍が上陸しても、部隊単位の八甲田山越えて迎撃できないということか。ロシア軍は氷点下30度くらいでも進撃してくるかもしれない。
こういう話はどうも美談にしたがる傾向がある。どうしようもない大失敗談として語り継ぐべき。
そうだよな。
だからこそ二度と繰り返してはならないと戒められるのに、英霊だと美談にしたがるヤツらがいる限り、また同じ愚行が繰り返される。
どこが美談なんだ?この戦訓があったからこそ満州における戦闘で防寒対策が徹底され、数倍もの敵を駆逐し勝利できたのだから語り継がれて当然
ずいぶん昔に、ドラマを見たわ。自分不器用、って、有名な俳優さんが出演の。
声が震えてて、表情とナンダか一致しないのが、誤解を招きそうだけど。。。語ることが未だに困難なのよね、たぶん。。。