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馬謖の話を聞いていつも思うんですが、この敗戦を経験値として馬謖を一からやり直させればと思う、沢山の犠牲が出てしょうがないとは言え処刑してしまったらそれこそ蜀のマイナスじゃないか?馬謖が生きてたらもっと面白い事になってたかもただし孟達と魏延テメー等は許さない今回は馬謖がどう言う性格なのか、目を瞑れば見えてくるそんないい動画でした、いいねボタンが連打できるならマウス壊れるぐらい押してますやっぱりクオリティが段違いなんだよなぁ
確かに惜しいとは思いますが残念ながら古今東西の事例を見てみると戦時下での敵前逃亡はほぼほぼ高確率で死刑になりますからね(少なくとも私の知る限り兵卒以上の階級で死刑にならなかった人はいませんからね処罰がうやむやになった事例としては大戦末期の旧軍や湾岸やイラク戦争時のイラク軍がありますが尤も両者共に其の頃には組織其の物が実質的に機能不全&崩壊寸前で其れ処ではなかった事もありますが)皇族に不幸か慶事でもない限り大赦にありつく事はほぼ不可能でしょう。ましてや孔明は良くも悪くも法に関しては厳格にして公正な人ですからね(安易な大赦の乱発を戒めていましたからね)
@@浅倉慎太郎-t6o ですよね、戦国の世に甘い現代の考えなんて通用しませんよね、頭では分かっているんですが今回の動画を見て成長した馬謖を見てみたいと思ってしまいました正に泣いて馬謖をKILL私も社会的地位が中間あたりに差し迫って自分より若い人間が失敗しそれを乗り越える為に知恵を出し成功を掴むさらに新しい知識で新鮮な風を送り込む、自分も感化され仕事を頑張るという時代に居るからの発想なのでしょう孔明の決断は想像を絶する苦しみだったにに違いありません
@@もみぢ-d9x レス有り難う御座います。馬謖を敵前逃亡させずに済む方法があるとすれば榴弾砲(できれば自走式が望ましい)を最低でも十二門と対物狙撃銃最低百丁対人狙撃銃が最低でも百五十丁AKアサルトライフル最低二百丁と水をたっぷり入れたタンクローリー(16Klがベスト)を最低でも16台程必要でしょう。勿論あの時代にそんな物等在りはしませんが。
蜀漢の強さは出師表のようなプロパガンダ戦略による所が大きいと思うので、土壇場で逃げる上級士官を生かしておくと国民が徴兵に応じなくなる可能性が大いにあると思います。
ここでもリスナーさん同志で三国志を語り合って頂いて嬉しいです。私の意見としては王平の活躍がトドメだったと思います。相手の張郃も昔は張飛に負けて逃げ出してるので
馬謖は公明の相談役に徹していれば輝いていた人材だったんだろうね部隊の指揮官はやらせちゃいけない役割だったわけで
長かったけど一気見してしまった。面白かった。馬謖は今でこそ「蜀漢ワンダーフォーゲル部部長」とかネタにされるけれど、個人的にはずっと気になってた。諸葛亮に気に入られ論じ合った馬謖が、そんな間抜けな失態をするのかな、と。この動画で胸のつかえが取れた気がする。馬謖も布陣を「そう指揮した」のではなく、「そうせざるを得なかった」と考えるのが自然なのだろうね。背景や考察もすごくためになりました。最後の孔明にあてた手紙、思い出に乗せて後事を任せていて潔い。
自分にとって新しい視点での解説だったので非常に面白かったです。なんだかんだで1時間もあった動画だったんですね。あっという間でした。
ほんとだ1時間ある!!内容に引き込まれすぎて体感20分位に感じた
長い動画にお付き合い頂きありがとうございました!
見ごたえのある動画でした。演義の記述より深くそして合理的な解説で納得です。戦いに関しては、張郃の経験が上だったということですね。動画では紹介されていませんでしたが、馬謖を処断する際、蒋琬が驚いて諫めた逸話もありましたが、それだけ馬謖の才は、万人から期待されていたと言うことも出来そうですね。もし馬謖が生きていたら、蜀の運命はどう変わっていたかなぁ。魏を打倒することは国力から考えて無理だったでしょうけど、後年の姜維が無理をし過ぎて、国力を消耗させる展開とは違った流れになっていたかも知れませんね。
戦って魏を打倒するのは国力が続かないでしょうね~だからこそ諸葛亮は、まず謀を討ち、交を討ち、次に兵を討ち、城攻めをしなかったんですよね~まさに孫子の理想通りの戦い方だったんですが、北伐開始から7年の寿命しかなかったのが残念でした
諸葛格と同じ末路が見えてしまう
詳細な地形の確認と日数の計算に基づく考察はとても面白かったです。馬謖の視点からすれば、荊州を守っていたはずの張コウが自軍に倍する兵力で目と鼻の先の隴関に迫っているとの報告を受けたら、いったいどこまで戦略が見破られていたのか、後詰はどこまで来ているのか、とパニックになりますよね。しかもあまりにも早い孟達敗北の報もそろそろ届いている頃だとすると、全てが敵の掌中だと感じてもおかしくない。そう考えると西涼三郡の動向も怪しいし、平地に陣取って敗北必死の時間稼ぎをしても将兵の無駄死にで意味がない可能性さえ考えられる。諸葛亮さえも同じように考えて次の手を打つことなく直ちに退却したのかもしれないですよね。
俯瞰で全ての事象を見れない以上は、目の前に出てきた事態から想像するしか無いわけで、戦場の霧に怯えるのも宜なるかな、という感じですね
リクエストした馬謖を動画化してくれてありがとうございます!傲慢さや慢心で自滅したように思われがちな馬謖ですが、決して舐めプしたわけじゃなく、ギリギリの状況で戦った結果の敗戦ですから、戦犯扱いやネタ武将扱いは可哀そうですね。こうした馬謖観が広がってくれたら嬉しいです。関羽と馬謖の二名はやたら戦犯扱いされますが、演義以降の影響なのか、個人の性格のせいで負けたように言われがちですが、どちらも敗戦は結果論であり、思った以上にギリギリの状況を戦い抜いているんですよね。
私の個人的な感想ですが、みな自分の出来る範囲で頑張った結果だろう、と思っているので、簡単に切って捨てずに、どうしてそうなってしまったのか?を考えるようにしてます
「曹操軍の長所は軍の速さ」みたいなのをどこかで知った記憶があるその速さを見誤ったのが蜀軍、そしてその速さを受け継いでいたのが̪宿将の張コウや司馬懿なんだろうな
ある意味馬謖の判断は合理的だった可能性もあると言うのは盲点でしたいろんな想定が重なった上に余りにも張コウが凄すぎたのですね
私の勝手な想像ですが張郃「うむ、兵法に叶っている。完璧だ。ただ、私が”攻めない”という一点を除いてな」という感じだったりして。
馬謖が大好きなのでこの動画とてもありがたかったです。馬謖が何を思ったかは諸説ありますが、装甲猫さんの解釈とてもリアルだと思いました。
ありがとうございます。実は街亭の戦いの戦闘の部分がアッサリだったのは、以前の魏延と楊戯解説のように補完する解説がある予定だったんです。そこで何故馬謖が王平の諫言を聞かなかったか、を明かす予定だったんですよ~
この話面白いねぇ。確かに人間は最初の方針に拘ってしまう事はある。元々城塞に寄って戦う事を前提としていたので、それが不可能になった時に無意識に城塞に代わる立てこもれる場所を探してしまったのかもなぁ
見応えのある解説動画でした。馬謖を街亭に派遣する人選の件の考察に唸らされました。そして、馬謖を派遣せざるを得ない蜀の状況の厳しさが伺えました。馬謖の才は疑いのないものですが、実戦経験の少なさからのイレギュラーからの失態ですが、王平の意見に耳を傾けていれば最終的な結果は違っていたのかと感じます。
ありがとうございます。そうですね、王平の諫言に従っていたらあっさり負けることはなかったと思います。張郃伝自体に汲道を断った事で大破した、と明記してあるので水を絶たれなかったら結果は変わったでしょうね
ただ、常識的に平地で張コウと戦ってどうにかなるとは思えなかったんじゃないかなと思います。吉川英治の三国志を初めて読んだときに一番に感じたのは、山に登るのは良いとして、何故水源の確保を怠ったんだろうということでしたが、今回の動画の地図を見て、中途半端な兵数を配備しても水源確保は叶わなかっただろうなと納得しました。
長いけど気付いたら見終わってた。馬謖好きなので面白かった。
楽しんで頂けて何よりです!
いつものように資料と地理に基づいた考察、とても面白かったです。正史以外の視点で見る馬謖というのもとても興味深いですね
ありがとうございます。
考察面白かったです。街亭は魏延たちに任せてもっと経験を積んでいったなら姜維との二枚看板になっていたかもしれないですね
孔明没後に総司令官・馬謖、実戦指揮官・姜維というコンビ。ロマンですね~
面白い考察でしたやはり抜擢した孔明の失策としか言えないですよね兵法軍略に強くても実戦経験がどれだけあったのか…ほぼ初陣だったのではと陸遜なんかは賊の討伐やら経験してからの抜擢ですからね愛弟子に大きな戦果を与えたかったのかもしれませんが…
実は馬謖が街亭で王平の進言を聞かなかったのには理由があって、王平には諫言する理由があって…ヒントは地形です。言いたいけど、動画で解説するネタだし図入りじゃないと分からないと思うので続きをお待ち下さい。
34:55から流れる合戦BGM?のようなのは何というタイトルなんだろうか?如何にもこれから大戦が始まるぞって感じで格好良い馬謖はどうしても三国志演義からのイメージで独断専行で山に登って自滅した迷将に感じてしまうのだけど(自分も横山三国志が三国志の入門で長年そう思ってた)、魏側の神速な対応で街亭にて防衛線を築く前に張コウと戦わざるを得ない流れになってしまったという状況だったというのも動画の内容の濃さから説得力があります勉強になりました
いつも楽しく動画拝見させて頂いております。正史準拠の主様の解説は本当に勉強になりますし面白いですね。今作で一番感心したのは馬謖抜擢の箇所。確かに魏延か呉禕ならと私も思っていましたが納得のいく解説で目から鱗でした。調整が得意な孔明ならではの理由ですよね。今後も動画楽しみにしております。ありがとうございました。
ありがとうございます。馬謖が親しい間柄だったから抜擢した、という見方は単純に過ぎて、当時の人間の判断を軽く見過ぎな気がして色々と考えてみました。
夷陵の戦いでは軍が壊滅して指揮官が戦死していますが、街亭の戦いでは指揮官が処刑されていることが全てを物語っていますね。
コメントありがとうございます。
ようやく全編見れました!面白かったです(総評)日付から、前後の各軍の所在地を割り出すとか、どんだけですか笑労苦が、視聴者の楽しみに直結する、良い動画でした。確かに、他の方が仰るように、成長した馬謖は見てみたかったですね。馬良もですが。…惜しいかな、蜀(by王累)
ありがとうございます。自分が好きでやってるので労苦では無いんですけど褒められると嬉しいです。
新説なのに説得力がありますね!
ありがとうございます!新説って認識はなかったですけど
失敗だけでは処刑とまで重い刑罰に至らないはずです命令違反と言っても現場判断が基本なのでそこまで重くなくやはり処刑とまで言わしめる行動は敵前逃亡かと思われます街亭の戦いでは将官の死亡が確認されてないところを見ると兵卒を捨てて将官のみでの逃亡が処刑の理由ではないでしょうか劉備も最後は自分の身かわいさに逃げる奴だと見抜いていたのでは
確かに上級将校級の人間が敵前逃亡ともなれば如何に馬謖が惜しむべき人材だったとしても今後の事を考慮すると看過出来ない事案ですね。
そういう側面もきっとあったと思います。全員が敗走していれば言い訳も出来ますが、王平がしっかりやってるから言い訳も出来ないという。例えば相手の張郃にしろ、張飛に大破されて身辺数十騎で逃走してますが処断はされてませんから、ケース・バイ・ケースの見本だと思います。
@@装甲猫 そういう意味では馬謖の場合は白灰黒の三段階の内グレイゾーンに微妙に届かない黒と判定されてしまったのかも知れませんね。(其れでなくとも大きな敗け戦は言い方は悪いですが明確な「"生贄"」を渇望する空気が生まれますからね。)其れにもしも蜀軍内に「彼の荊州失陥の折、関羽将軍は子息の関平殿と共に其の一命を以て立派に其の罪を償われた!!なのに何故?馬謖は兵を見棄てて逃げ帰って来たのか?」等という批判が噴出したとしたら孔明も馬謖を「"生贄"」(言い方は悪いですが)に差し出す他はなかった事でしょう。
生贄とまでは言えませんが、孔明は法家的な思考の持ち主のようなので、周囲の不満が無くても処刑したかもですね。
劉備も妻子すら戦場に置いて逃げるタイプなので自分と同じ匂いを馬謖に感じたのでしょう。また、呂布に信用ならん奴と罵倒された際も、両者とも方便や裏切りのプロですが一枚上手が生き残りました。活眼は生き残れば良く磨かれる能力ですし、似た性格の人物の指摘は案外鋭いのかもしれません。
うぽつです。南蛮の反乱や劉備の遺言の謎など盛り沢山の内容で面白かったです。馬謖の命取りは若さだったのかもしれませんね。将軍たちの後始末をして退却した王平と比較されてしまったのも哀しい。
王平はなんであんなに強いのか。この後も歴戦の宿将である張郃を正面から撃退してますからね~
46:40あたりの登った山が盆地的なのが意外でした。兵の布陣としては一理あるなと。山は象形文字通り鋭角なイメージがあるのでそこに大軍を布陣するなんてと、と思った所がありましたが印象が大分変わりました。やはり史に名を残す天才達の話ですから、馬謖なりに理由があったと色々考えさせられました。勿論、ミスもあるとは思います。一方、結果から失敗を馬鹿にするより、内容を分析する大切さを改めて感じました。ありがとうございます。
基本スタンスとして、才をもって史に名を残すほどの人物だから、その行動にはなにか考えがあったハズ、と思ってますので~
登山家っていう汚名好きすぎる
三国一の登山家ですから(笑
鄧艾を差し置いて…
あ~鄧艾いましたね~三国志トランプで登山家の格好にされてたし
魏延だったら街亭で時間稼ぎができたと思います。北伐失敗の根本原因は、孔明と魏延の相性が悪かったというところに行き着いてしまいますね。
いつも三国以外の史書や当時の文化や地理も視点に置いてるのが凄い。どこかで猫殿が本当にタイムスリップして見てみたい場面や戦い、会って喋ってみたい人物とかをガチ解説してみて欲しい。
ありがとうございます。猫はさばいばりいます。猫はサバイバリティが低いのでタイムスリップしたらすぐに死にそうです(笑
馬謖が選ばれた経緯がずっと謎だったのですが、魏延達を指名出来なかった説明に納得しました。
あくまで一解釈に過ぎませんが、無理やり抜擢した、で思考停止するより、一歩踏み込んで考えてみました。
劉備が漢中攻略において夏侯淵は討ち取ったが張郃を逃してしまったことに対して悔やんだこと、孔明に対し馬謖の危うさに忠告したことこれら劉備の懸念が最悪の形で結びついてしまったのが街亭の戦いだなと感じました
やっと見れました!今回も終始為になる素晴らしい動画でした。劉備にも結構気に入られていて、だからこそ馬謖の実力を危ぶんだのでしょう。それを踏まえて「馬謖は確かに孔明の懐刀として素晴らしい能力を待っているが、指揮官の能力は無かったな」と私は思いました。それこそ戦場の霧(良い言葉を1つ覚えました!)であり指揮官は想定外の事が起きた際にその真価が問われると思います。馬謖はパニックになり王平の言う事も聞かず、一方のチョウコウは神速で行軍したり馬謖を持久戦で壊滅させたり、まさに名将というに相応しいと感じます。馬謖にもう少しだけでも指揮官としての能力があれば、また違ったでしょうけどね…
馬謖は単純に「実戦指揮能力が無かった」で片付けられやすい街亭の戦いの秘密が、本当は次の動画で明らかになる予定だったんですけどね~
最近一生動画見てます!馬謖大戦犯のイメージしかなかったですがちゃんと理解すると同情の余地が沢山あって孔明が泣いた気持ちがとてもよく分かりましたよ
コメントありがとうございます。良ければ今後ともよしなに
別の方向から馬謖に光を当てての解説、とても興味深く拝見しました。楽しかったですなるほど、あまりにも孔明の手腕が見事なため魏に全力の対応をさせてしまった、ということか新しい視点ありがとうございました「
あくまで私の個人的な考察ですが楽しんで頂けたなら何よりです。
別の史書では、牢屋の馬謖わ馬謖の友達が逃がしてしまい(2度もともある)捕まり処刑されたともありますね。
そちらは向寵動画で解説してみました!
まあ一つ言えることは馬謖は軍人より内政、外交。事務など文官向きの人だったんでしょう劉備の入蜀にも従軍していますがもしかしたら秘書官あたりの事務方が主な仕事だったのかもしれません。孔明も馬謖を北伐などに参加させず成都で内政に尽力させるのがベストだったと思います。
いつも睡眠,作業の際に楽しく聞いております。リクエストなのですが、禰 衡について知りたくまた、解説していただけたら嬉しいです!
馬謖は孔明が軍事の中心になってから戦に従軍していたイメージ、ほうとう、法正達等他の軍師と共に戦に出て経験を積めば稀代の名軍師にもなれたと思います。
素養は悪くなかったと思いますよね
初めて拝聴しましたが、とても面白かったです。高評価・チャンネル登録しました!解説希望で曹一族を希望します。曹仁・曹洪・曹真・曹休・曹彰らをお願いします。
コメント&リクエストありがとうございます!
登山家とかネタキャラ扱いだけど今回はそうなった考察はそれをやむ無しと思った素晴らしい考察だ
ありがとうございます!
1800年後の海の向こうの国で登山家として名を遺すことになろうとは・・・
当人も夢にも思わなかったでしょうね(笑
周囲への配慮と期待をこめて馬謖なんだけど、指揮官としての実戦経験の少なさが、馬謖の判断を狂わせて、孔明の策を完遂する事に執着してしまったのか。孔明の選択肢を狭めたことを考えると、黄権をはじめ有能な将兵の多くを夷陵で失った事が痛すぎる。
馬謖って太平洋戦争の日本軍みたい。プラン通りの場合は完璧に進めるけど、崩れた時に修正できないところなんかまさにそうだねえ!ミッドウェーを連想しちゃった・・・
一部の天才的な軍師や逆に天災的な愚者を除けば戦場の読み合いや駆け引きってのは相対的なものであって、仮に張郃が凡将で馬謖の作戦通りに進み街亭で快勝していたら、馬謖が名将として讃えられる別の未来があったのかも・・・まあアドリブや機転が利かない、勝負どころでパニックになるというのは戦場における将軍としては致命的だから、もしそれで大任を任されるようになっていたとしてもいつかはボロ出してさらに取り返しのことをしてた可能性の方が高いか劉備も馬謖のそういう点、逆境や苦境に陥ると頭が働かなくなって自滅していくというのを危惧してたのかもね・・・劉備自身が逆境から這い上がってきたからそういうのに敏感そうだし
相対的なものっていうのは本当にそうですよね
読みが鋭い
自分は他の動画もみて疑問に思ったのでおしえて下さい。4:02~荊州従事が事務官となっていますが他の動画では秘書官となってました。どっちが正しいのですか?それとその根拠はなんですか?26:11~孔明が祁山に本営を置いたとしてますが他の動画では祁山を攻撃しているとなっていました。孔明は祁山陥落させたのですか?そうだとしたら根拠はなんですか?27:00~刺史が巡察をするのは8月とのことですが根拠はなんですか?35:10~他の動画では馬謖の率いた兵は多くて1万くらいといってましたが2万とする根拠はなんですか?35:58~街亭の位置は張家川回族自治県とする説もあるそうですがそこではないのですか?38:32~他の動画では列柳城の位置はさっぱり分からないとしていました。何を根拠に列柳城の位置を決めたのですか?以上、分からないのでおしえて下さい。
え~と、なかなか難しい問いですね。細かくは抜粋した史料を開かないといけないので、とりあえずスグに答えられる範囲で>荊州従事が事務官従事は「事に従う」(事務処理をする)から転じた役名なので事務官としてます。秘書官だと治中従事とかが当たると思います。出典は続漢書百官志などですね。>孔明が祁山に本営諸葛亮は祁山を攻略して本営を置いたと思います。理由はいくつかあって、蜀の侵攻に備えが出来ていないこと、諸葛亮本隊の攻撃を防いだとするなら郝昭のように守将の名が残る筈であること。郭淮が全く救援に向かっていないこと、後の魏の詔勅の記録などからです。>刺史が巡察これも続漢書百官志に記載があります。>馬謖の率いた兵は将軍は五部を領するというのが同じく百官志にあり「部」が大体三国志の記録だと千人前後でちょうど王平の兵数と同じくらいです。そして馬謖の下に配属された将軍は最低で四名いますので、2万前後と推察が出来ます。逆に1万とする根拠が不明です。>街亭の位置は張家川回族自治県そこは地図中の隴県の位置なので街亭ではありえません。水経注、元和郡県志、読史方輿紀要など複数の参考文献より、街亭の位置は略陽県の近傍を指しており、街亭古戦場近辺で恐らく合っているはずです。>他の動画では列柳城の位置は実は確かにこれは確定的ではありません。列柳城は史書に記録がなく、柳城、あるいは柳県、柳城県の可能性など、様々に調べた結果、複数の史書から県城の位置とそれを繋ぐ道を比定し、その上で上邽の郭淮と位置関係、さらに盧弼の記録により秦安県(動画中地図の顕親県南側)の東北の柳城として図示しました。以上、になります。ご満足いただけたでしょうか?もしも各参考文献の巻数まで知りたい場合はまたコメントを下さい。
同時期に同じテーマの動画を見てみると、動画作成者の考え方が良くわかります。
色んな方の動画をみて頂けると私の不足分も補完されるので何よりですね
@@装甲猫 th-cam.com/video/aPHCqtnSNvI/w-d-xo.html たまたま同日に馬謖の話が取り上げられたのですが、テイストがかなり異なりますね。
わざわざ教えて頂いてありがとうございます!後で見てみますね
もしかすると綿竹や成都の何れか又は両方でヒヤリハットな事案があったのかも知れませんね。
可能性はありますね~
@@装甲猫 返信、有り難う御座います。大惨事が報じられる際よくハインリッヒの法則(1件の大惨事の背景には表沙汰にならなかった29件の軽微な事故と300件のヒヤリハットが潜んでいる)が引き合いに出されますがおそらく劉備も馬謖が其れ(例えば後の街亭の大敗の予兆となる様な事象)を度々やらかしたのを目撃又は体験していたのかも知れませんね。
あるいは大言壮語する馬謖の発言で劉備の嗅覚が「現場はそれほど簡単じゃねえよ」と見抜いたのかも知れません
今回もお疲れ様でした!大変楽しく見させていただきました。王平ってそんな感じだったんですね…てっきり将軍位のひとつやふたつ持っているものかと…確かに王平がしっかりとしていただけに他の将軍達がいろんな意味で際立ってしまいますな。馬謖よりも王平の方が気になってしまいましたw次回も楽しみにしております
いつもコメントありがとうございます。王平は演義の影響で副将とか副官とかされることが多いですけど、この時点では単なる一部隊長なんですよ。だから軍議での発言力も大きくなかったと思われます。残念なことですが…でも、この後で盪寇将軍に位が上がって、馬謖の後の参軍について活躍をしていくようになります。王平もいつかやりたいですね~
そもそも上けいの横通って街亭に行くのが怖いよね隴関、隴の城抑えるって街道抑えるってのがそもそももむずい。あと全ての魏の動き早い。
いつも楽しく拝見させて頂いてます。いや…、ホント馬謖不運過ぎたんだなぁと思いました。魏の初動がドンピシャだったり、その場において最善とされる策を取ったらそれが裏目に出るわで…。戦場の霧と言う要素を根底にした考察・説明非常に勉強になりました!
楽しんで頂けたなら何よりです。
こうして色々な動画で戦闘の流れを教えて頂くにつれ、陳宮の「行軍してきた部隊が安定する前に強襲しましょう」の策を選択するのがどれだけ度胸が必要なのか分かった気がします(*´ω`*)それにしてもこの馬謖動画はものすごく説得力に満ちていて、「ああ、きっとそうだ。そうに違いない」と思わずにはいられません
鄧方って季漢ホシンサンで結構上の方にいた気がします。具体的な活躍はどうだったんだろうとかあと官職の昇進ばかり羅れるしてある人物も多く活躍が謎な人も多いですよね。エピソードもそれどうやって知った?当事者しか分からんやろ?的なの多いですし客観性を少しでも持ちたいし散逸した書物とかほんと見てみたいですよね。何よりもっとぶっ飛びエピソードとかもあったんだろうな
鄧方はかなりの重要人物ですね。少なくとも楊戯が季漢輔臣賛を著した時には十指に入る人物だった事が伺えます。諸葛亮、許靖、関羽、張飛、馬超、法正、龐統、黄忠、董和、鄧方、なので。陳寿曰く記録が失われており伝を作れなかった、としてますね。劉備が益州南部の異民族対応を委ねたほどなので、よほどだったと思うんですけどね。
@@装甲猫 そうなんですね。流石、お詳しいです。鄧方、残念。蜀は史官いなかったって言いますもんね。異民族討伐と言えば前に挙げられてた張嶷もとても面白かったです。自分は猫さんの解説が待てなくてちくま全巻購入して今読んでる最中です。すごい面白いです。演義に無い人物(最近は三国志14で美麗半身画が描かれ登場した人物も多くなったお陰でイメージし易くなりましたので)演義に登場しない人物も個人的に興味を持って読む気になりました。あとやはり演義とのギャップ、たまに入るハイショウシの面白い注。たまに官職、地名で目が混乱しますが大変面白く読み進めております。しかしキカンホシンサンや注で入る書物は当時の記述ですもんね考えただけで身震いするほどの興奮ものです。長文すいません。お体に気をつけて投稿応援してます!
今、お読みだったら呂乂とか読むと、まだこんな人物が残ってたのか~ってなると思いますよ
@@装甲猫 返信ありがとうございます。呂ガイですね。見てみます( ^ω^ )
ただの運搬持ちとしか思ってなかったです 笑
曹真軍が少ない、については多分本人は郿で全体をにらみながら趙雲達の方へ派兵していたから、ならあり得るかなと張郃はさすがに夏侯淵戦術の一翼を担っていただけあって、機動力が半端ない、と言うのもあったでしょうね囲碁とかでも意表を突かれた一手で、そこまで良い勝負だったのにgdgdになってしまうこととかがありますからね
結局、戦術って言うのは意図以外の事態が起こった時の修正力の高さが重要になってきますからね。曹操や張郃や徐晃等、魏の名将と呼ばれる連中はこの修正力が非常に高かった。一方諸葛亮とかは事前準備能力は非常に高いけど、戦場での修正力にはそこまででもなかった、とは思いますね。
実は趙雲が負けた、としてるのは蜀側だけで、本来は誇っていいハズの魏側は箕谷の戦いをなかったかのようにしてるんですよね。魏の詔勅とかでも箕谷には触れてない。これはどういう事なのか?と考えると自ずと見えてくるかな、と思ってます。
@@装甲猫 敢えてひねくれた解釈をすれば、これに関しては趙雲の名前が通っていなかった、と言うのもあるかもしれません。曹真本人が向かっていない一戦場の戦いを、わざわざクローズアップしないといけないのって趙雲が蜀側にとっては重要な人物だったから蜀の史書に乗るのはわかりますが、と言う風にも見れなくはないです。ここまで書いてて思いましたが、趙雲のエピって魏側の史書内でどこか書かれることありましたっけ。
!?これは目から鱗です!確かに高翔は魏側の記録でも出てきますが、趙雲は出てきませんね!当たり前のように趙雲>高翔で判断してましたが、これは再検討する必要がありそうですね!
趙雲降格してるから失敗が無かったはヤバイと思います。それだと誰も諸葛亮や趙雲の後釜になりたくなくなると思います。趙雲が退却の手際の良さを評価されたのは馬謖と対比して敗戦の対応は間違えなかったと言うのをクローズアップしてるんだと思います。これが馬謖の一番の悲運もしくは落ち度だと思います趙雲、馬謖共に作戦通りもしくは戦略目標が達成できてないのは諸葛亮の作戦が綿密すぎて計算外のことを想定してないからじゃないかなと。まあ地形が悪いから連絡スムーズに出来ないからだと思いますけど後々軍を分けての作戦は事実上やってないと思いますし
危険な前線でなく安全な本陣で戦略を語らせれば的確な答えを出せるタイプだったのかな?諸葛亮の副官で経験を積み、晩年は姜維の副官という人生だったらと妄想してしまいますあと石田三成とイメージが被るところがあるような気もしますね
そうかも知れませんね。馬謖は街亭で戦う、という無理をしたのが不運でした。
どの様な状況であっても臨機応変に対応するには経験がものを言う。張郃は地形、敵の配置を見て、急いでいるにもかかわらず時間のかかる持久戦を選んだが、これが経験というものだろう。馬謖は机上の作戦立案は優れていたんだろうが、実戦経験が乏しく、想定外の事態に対処する能力は張郃とは比べものにならない。重要拠点の防衛はまだ無理なわけで、全責任は馬謖を選んだ諸葛亮にある。まあ馬謖も敵前逃亡さえしなければ死罪にはならなかっただろうが。
そもそも張郃が早すぎるのが不運でしたね。籠城戦なら戦い方はパターン化されるので馬謖でも十分やれたでしょう。でも張郃が来るのを予測できなかったのを攻めるのも人智を超えた能力を求めるようなもので酷な感じもします
亮進無所據、退軍還漢中から馬謖の目的は拠点の構築、防御にあると思うんだ安定方面の取次も任務に入ってるかもしれないが、それは馬謖向きの任務でしょう魏延呉懿を用いなかったのは、両名を敵主力との決戦に使いたかったからで、険阻に拠って守るだけなら馬謖でも務まるだろうって目論見かもね列柳城の高翔だってそこまでの名将良将ではないですし予想よりも早く多く強い敵が来て、作戦が破綻したのが敗因かな馬謖が仮に王平の意見を入れて布陣したとして張コウが抑えの兵を残して郭淮と合流したら、やっぱり馬謖は処罰される気がするなんかもう詰んでるよねw
まさに同感です。張郃が来てるのを知ってたら諸葛亮は自身であたったかも知れません。城に籠もっての籠城戦ならある意味パターン化されてるので馬謖でいける、と思ったんでしょう。戦場の霧を思い起こさないと、張郃が5万の兵を率いてきてるのに馬謖を起用したのか、そもそも張郃が来てることを知らずに馬謖を起用したか、で見方はガラリと変わると思います。
馬謖は補佐系向けの人物だからその約に徹するべきで司令官向けの人間では無いから。これだったら魏延や姜維などを街亭の守備の司令官にするべきでした。
難しいのは馬謖が街亭で敗れるまでは有能な人物という事で衆目が一致していたところでしょうか。姜維は新参、呉懿は宿将だけど劉備麾下での実績なし、魏延は急進派で命令を守るかどうか不安。となると簡単な判断ではなかったのかな?と思ったり。まあ後出しならなんとでも言えるんですが、確かに魏延なら大敗はしなかったと思いますね。
劉備にも気に入られていたり単なる登山家と片付けられない馬謖の人となりが勉強になりました!あと、荊州閥益州閥みたいな図式も尤もらしいけどそんなに単純でもないよなぁと思っていたので同じようなお話があってちょっと嬉しかったですw
ありがとうございます。私は派閥抗争自体は否定しませんが、安易に単純化して本質を隠してしまう事も多いと思ってるもので~
@@装甲猫 派閥があったとしても国家転覆とかそういう領域にまでは伸ばしていないと思いますね。諸葛亮時代にそういった派閥はほぼ諸葛亮を筆頭とする挙国一致体制で改善されていただろうし、その後の時代に関しては出身地よりも北伐が派閥のキーワードになっていたはずですしね。
三国志の解説動画、楽しませていただいておりますm(_ _)mチャット内で「諸葛亮はとにかく人事調整に苦労して~」という話を目にしましたが、他の国や武将達の人事調整、管理など苦労話、成功例などあったら是非とも教えてください。
コメントありがとうございます。他の国では目立って誰々が苦労した、的なのはあまりなかったように思います。魏も呉も君主が方針を示すので「主に文句があるのか」的に出来るのに比べて、諸葛亮は全て同僚ですので気を使わないといけないんでしょう。例えば動画に出てた張裔にすら諸葛亮は「私が他の人間に期待するのを君は我慢してくれないのか?」と手紙を残してます。本当に胃が痛そうです(笑
@@装甲猫 返信ありがとうございますm(_ _)m。他国は主君対家臣、諸葛亮は対同僚…言われてみればその通りですね。「阿斗(劉禅)ちゃんが人事調整しない~」とチャットにありましたが、君主が何もかも優秀な部下に任せるというのは良い話……だけで終るものではないのですね…諸葛亮サン胃ニ穴ガ空キソウ……次の作品も楽しみにしています!
阿斗ちゃんはそれはそれで信用できる人間に任せる、という点で度量があるんですよね。例えば諸葛亮が死んだ後に、「家臣に多大な権力を握られてて、主の身も危うい所でした。」と言った讒言者に激怒して処刑したりとか、阿斗ちゃんもやる時はやるんです。
@@装甲猫 阿斗ちゃん…支えてくれる人さえいれば出来る子だったのか。というか、諸葛亮さんが死んだ後にそんなこと言うやつがいたんですね。同僚に気を遣って頑張ったのに……(T_T)
いつも楽しく見せていただいています可能なら傅彤傅僉親子のどちらかの紹介をしてください
楽しんで頂けて何よりです。傅彤・傅僉は烈士というべき人達ですよね。リクエストノートに追加しておきますね。
@@装甲猫 返信ありがとうございますあの2人の最期が格好良くて好きなんです
私もカッコいいと思います!
諸葛亮も馬謖も、経験が足りなかったってのが、結果として出てしまった話だよね。例えば劉備が馬謖の立場なら、山に登るか麓に陣を張るか……少ない自軍を更に分けてゲリラ戦術をしたかも。戦略を練るのは上手でも、戦術まで落とし込めてない辺りに、限界あったのかな。北伐の失敗は諸葛亮の責任が大きいって思っている。
惜しむらくは王平が主将で馬謖が副将であったなら守り抜いたかも知れない。知識と応用力が災いした戦いだと思う。結果論ですけどね。
本当は馬謖は王平解説とセットで、街亭の戦いを王平の視点から解説する予定だったんですけどね。
佐々成政と並ぶ登山家(なんの成果も得られませんでした)馬謖はもう少し副将として戦場の経験を積められていたならと思います。劉備みたいなワンマンじゃない人の所(趙雲あたりがよかったかも)ところで高翔の名をここ(列柳後詰)以外でほとんど聞いたことがないのですが、実際にはどのような方だったのでしょうか。
日本アルプスを越えた男ですね~高翔は何気に武官では五指に入る高官ですね~漢中争奪戦でも陽平関を守ってましたし
動画投稿お疲れ様です。今回も楽しく、興味深く拝見させていただきました。早速ですが、投稿のネタがかぶるというのはやむを得ないと思います。投稿される方々、そのれぞれの解釈、意見が分かれるところは視聴者側としては総じて面白い部分だと思います。大切なのは色々な方が意見、考えを出して三国志というコンテンツを盛り上げることが全体の活性化につながると思いますので、クレームなどには負けず、持論を展開していただきたいです。さて、今回の件で気になった「派閥」の件ですが、本当に存在したかどうかは現代日本人の僕らには確認しようがありません。しかし、元々益州で仕事をしていた人にとって後から参入してきた荊州から来た人々は異質に見えたのではないか? 益州という仕事場が外から離れた村社会のような職場であったとすれば、外から来る人々の間に自然に軋轢が「派閥」という明確な単語を使わなくてむ生まれるのではないか? こう考えると現代の仕事、職場などでも起こりえる事なので非常に共感しやすい、受け入れやすい概念なのではないか、と思います。次回の動画も楽しみにしていますので、無理をされずご検討ください。
なるほど、おっしゃる意味はよくわかります。私自身も北伐賛成、反対、中立、と色々とあったと思います。今後も気付きがあれば是非ご教示をお願いします。
@@装甲猫 コメントありがとうございます。僕の言ってることは何らかの物証を持ってこうかもしれない、ではなく「そんな気がする」程度の内容です。教示などとんでもないですwこちらこそ、今後も勉強させていただければ幸いです!
ではお互いに勉強させて頂くということで宜しくお願い致します
質問です。曹真は趙雲と、張郃は馬謖と対峙していた・・・、孔明と対峙していたのは誰なのでしょう??蜀側からとは別に魏側から見た孔明の北伐戦線も見てみたいです。あっちこっちで火の車だったのでしょうか?
諸葛亮は恐らく祁山素早く陥落させると本営を置いて各地に部隊を派遣して宣撫を行っていたと思われます。次の王平紹介動画で解説しますが、馬謖を送り出した時点では、魏の援軍の規模も誰が率いて来るかも不明の状態なので、魏側の手札を確認してから動く予定だったと思います。詳しくは王平解説の図をご確認下さい。
なるほど。ささっと進軍しちゃえばいいのに、と思ってしまたワタシは素人ですね・・・。
孔明の立場が弱かったのでしょうね。荊州を失い蜀だけになった以上、旧劉璋家臣、もともと蜀の地にいた人々の力が相対的に強くなっていく。孔明の手先となりそうな荊州の人々は早死したりして少ない上に自らの地を失っている。この状態で無理に愛弟子を抜擢ししくじったら愛弟子は死ぬしかないでしょう。
手駒が少なかったというのはそうでしょうね
夷陵の戦いの時点ですでに趙雲以外の五虎将は死んでいるしね。一族の2代目からまあまあ体制を立て直した魏や、子飼いの武将に防衛ラインを託すことができた呉と違って、蜀漢はこのあたりが世代交代の際に断絶していて本当なら魏軍相手に大戦争なんて仕掛けられる状態じゃなかったのよね。
馬謖の一番の失敗は味方を置いて逃げたことでしょうね。戦に負けるのどんな有能な武将でもあること、冷静になり撤退戦を上手く指揮をすれば処刑されることもなく降格で済んだかもしれない。馬謖を軍団推挙しないといけない程に、信頼できる戦のできる武将が蜀にいなかっのかもしれません。夷陵の戦いの大敗は大きかったのでしょう。相手が魏軍でも戦上手の張郃というのも不運ですね。馬謖が生きていたら諸葛亮も、もう少し長生きできたのかもしれません。
そうですね。同感です。撤退戦を上手く出来ていれば道は開けていたと思います。他の方のコメントでも書いたのですが、私の推察では馬謖は将軍達に対する作戦指導はしても実際に兵を指揮するのは配属された将軍達だったので、そういう完全な指揮権を持っていなかったという要因もあったかもしれません。
机上の空論では勝てない。実戦の経験をもっと積ませておけばよかった。
22:49 祭日や忌日をわざと狙って・・・つい最近でも3月11日の東日本大震災10周年当日にロシア軍9機が領空侵犯して航空自衛隊がスクランブルしてましたね
私は正月なんかに出陣するのを知った時に咄嗟に真珠湾攻撃を週末に行ったのを思い出しました
形にはまれば最強だが変幻自在の術をもたぬのはまるでわしのようではないかw
イリョウの戦いで馬謖を連れていけば面白かったかも。
夷陵…役に立ったかなあ?
某考察動画で第一次北伐で馬謖がアホだったから負けたいう感じで結局講談調かよとガッカリしてたんですがそんな講談調が占める三国志関連動画で本動画が一番現実的で良質な物だと思います端的に言えば第一次北伐で蜀は奇襲に対し魏が即応する事態を想定しておらず馬謖は山に追い立てられたんろうと
すいませ~ん。こちらのコメントもTH-camのシステムに引っかかって保留されてました(汗随分と遅くなって申し訳ありません。馬謖はアホではないですね。襄陽耆旧記の記事が本当なら兵の人気もあったし、蒋琬など他の人物からも評価されていましたので。その内に戦史シリーズで北伐解説もやる予定ですが、当初の目論見では、魏には兵はあっても将がいない状態になるはずだったんですよ~
@@装甲猫 自分は歴史軍事系を主に見てますが、かつてC-POMって人のチャンネルがデタラメ吹いてたんで厳しく指摘したら正誤そっちのけでコメントバンされた事があるのでそのせいなのかも
ご教授ありがとうございますただやはり疑問に思うのは、『印綬は形式的なものでその上下関係は考慮する必要がない』というお考えと『参軍であれば、相手が誰であろうと、たとえ別組織であっても、軍令を下せる権限がある』というお考えはいささか行政における組織.秩序統制に矛盾を生じるものではないか?という疑問を抱きます。軍事機構は秩序を以て統制される事で、その機構組織と兵力は始めて戦力として機能成立します。ゆえに、機構組織の円滑な運用において上の命を下に達するためはその階級が持つ資格は下官に対して(基本的には)絶対でなければなりませんなので例えば征北将軍が率いる軍機構内においては、上官の命は下官にとっては抗い難いものでなければなりませんそれを目に見える形で顕し担保したものが印綬です貴卿がご存知の通り、印綬とは皇帝大権をその当該懸案事項において担当する職事官に権限を施行させるためのものです百官公卿表訳注の言を借りるなら席次格式によりその者の身分を担保し当該指揮の機構組織内における序列が定まる事で、遅滞なく運用する事を目的とします。これがすなわち印の材質とその形状、そして綬の持つ意味です職事官の官職名は、当該政策事項における皇帝大権の代理施行者である事を示すと同時にそれが職掌である事を明文化させたもの。これが印に彫られた官職名ですまた上意の具体的な内容を竹簡に記したいわゆる"信"を当該職事官の印で泥封する事により、その行政効力は始めて符命として有効となりこれらの仕様以て秩序とし、上意下達を遅滞なく遂行せしめる事で軍事機構組織は始めて運用でき政治目的を達成できると言えましょう信の様式が竹簡から紙に移るまでの間は、この手順用法のまま軍令形式は保たれます。また一部は西晋初期まで竹簡符命による軍令様式であったと言えます少なくとも漢末~三国志時代は軍令はまだ竹簡による符命で印綬による軍機の構運用を担保施行していたと言えます。ゆえに、その当該機構組織内において印綬における上下の序列は絶対的で抗いがたいものでなければ組織は組織たりえず、それが基本でなければなりません。また、ある機構組織の中間管理職者が、別機構の組織の管理職者に直接命令を下す事は出来ません解りやすく極端な事例を例にすると曹魏皇帝親征があったとして(現実には、起こり得ませんが)衛将軍府南宮衛尉寺の衛司馬や参軍、もしくは幕僚総長たる鎮軍大将軍の軍司馬や参軍が征西府の軍司馬や参軍に、直接軍令を下す事はありえません。一度、話を南宮衛尉や衛将軍や鎮軍大将軍に上申し、軍僉議にかけ皇帝の親裁が下るもしくは組織トップ同士の要請という形を取り、はじめて征西府に大命もしくは符命が下る、もしくは要請が通り発兵となる…いずれにせよこのような遠回りの形をとる事になります。これが組織と組織の関係の原則です。そうでなければ秩序は成り立たずまたそのような秩序がなければ『承制』などにみられ る特例制度を設ける必要もありません。承制は行政人事のだけの特例なので、軍事とは関係ありませんが、原則がシッカリ機能しているからこそ逆に融通が効かず、原則を特例により省く事で柔軟性を高める必要がある、その事を特例は意味します。魏武帝と馬騰連合による郭援攻めも同じであるといえます。もし貴卿のおっしゃる事が正しいのであるならば司徒府の長史や従事中郎や参軍ら幕僚がアゴで、別機構組織の銀青武官たる征西将軍の馬騰や征西府の軍司馬らに直接符命を下していた事になります。それが当該戦役において現実に起こり得ると判断してよいのものなのでしょうか?そもそも柔軟な官職運用を行う曹魏でさえも当時の参軍には軍事指揮権は無いのでは?張飛の下弁侵攻に対して、わざわざ魏武帝が、騎都尉曹休に対して曹洪軍の参軍事を兼帯させ太祖謂休曰「汝雖参軍,其實帥也」と釘をさすものでしょうか?ただの参軍にはもともと、軍令を下す権限が無いから"お前が全軍の指揮をとれ"とワザワザ釘を差した上で全軍指揮権のお墨付きを与えなければならなかった状況を鑑みると、やはり参軍は軍事におけるオブザーバーであって指揮権は無いと判断するのが自然では?指揮権があるならば、このように改めてお墨付きを与える必要は無いと考えるのが自然だと思います。これらにの事由を以て拙者は疑問と考えます。ゆえに、参軍が所属とは別組織の軍機構に将軍校尉を頭ごなしにで直接符命を下したり、機構トップの将軍に直接符命を下す権限は原則無いと考えます。李漢北伐軍で丞相府参軍が別組織の軍.部曲や将軍に符命を下せたのは(または、下せたように見えるのは)作戦立案と遂行軍令を丞相府で行っており、長史を筆頭とする丞相府幕僚がそれを担っていたためである事丞相府幕僚達は丞相府官属官職とは別に、銀青官職の本官に補任、二官兼帯されており、(馬謖は太守解官の記述はないので、兼帯ならば銀青職事官)別組織の独立各軍.部曲を率いる銀青武官と丞相府幕僚は同格である事。また各軍.部曲のトップである銀青武官も、丞相府内の官属官職を兼帯させられ丞相府内に縛られている事この事により丞相府幕僚は、軍僉議を名目に、又は丞相忠武侯の名義で、各軍部曲に働きかけができるようになりなし崩し的に幕僚より直接符命を下せるように見える現象を現代の我々が目にする事に至った特異な事例です。なので史実と諸事情を考えるに本来大夫の身分である参軍が、『兼帯無しの参軍の身分だけであっても、またたとえ別組織であっても、参軍と言う官に就きさえすれば、誰彼問わず格上の諸卿亜卿の銀青武官でさも符命を下す権限がある…』と言う事は原則から逸脱するのではないか?あくまで、李漢北伐軍の連合組織内で起こった特種特異な事例もしくは忠武侯諸葛亮や主君の符命による別した特例によるものであると拙者は愚考します。
コメントありがとうございます。すいません。どうも話が食い違って、ちょっと私がしてる話とは違うかなぁという気がします。>『印綬は形式的なものでその上下関係は考慮する必要がない』繰り返しになりますが、以前にお話したように、印綬の格の上下で指揮権は担保されず、あくまで職に付属する職能として有る、という事です。そのための証としての印綬については仰る通りなので繰り返す必要もないかと思います。だから印綬の格でいえば金印紫綬を貰った列侯は、格下である銀印青綬の官吏に命令権があるか?答えは否。命令はその職を持った者からしか出せない。という事ですね。>『参軍であれば、相手が誰であろうと、たとえ別組織であっても、軍令を下せる権限がある』これについては主張した覚えがないので、全く分からないです。そもそも先述の通り「指揮権は職能として担保される」というのが私の考えの根本なので、正否でいえば、私は否と答えますが…。また参軍に諸将を率いた類例は数多くある事は指摘の必要もなくご存知かと思いますので、参軍は軍職である、という当初の話とも特に変わっていないと思うのですが…。
鄭問之三國誌というゲームの馬謖の能力が「まさしく」といった感じで無能ではないが有能でもなく、つかいどころを間違えれば意味がないといった点でよく表せれてるな~と。統率7 知謀25と作戦立案は得意だけど前線指揮には…という
浸透襲撃さんところで紹介してますよね~なかなか面白そう
馬謖が斬られた本当の理由は、街亭の戦いで負けたときに亡命しようとしたかららしいです。
馬謖の死に際しての記述が関連人物の伝によってまばらなのはなんなんでしょう…?馬謖のみを処刑したような記述もあれば、馬謖を含めた将軍を処刑、格下げした、という記述もありますし。馬謖の伝では獄に下ろされてそのまま亡くなったような表現になっているのに、向朗伝では逃亡を図ったと記述されていて混乱してしまいます。
そうですね、複雑なので今回は一番オーソドックスな説を採用しました。逃亡説については以前に向寵紹介動画の中で触れてますのでそちらをご参照頂ければと思います。
第一次北伐の時点でもっとベテランの武将がいれば、魏延や呉懿の意見にこだわる必要がなく馬謖を起用せずとも済んだのかもしれないな。泣いて馬謖を斬るは、本当に人材不足だった蜀漢に対する諸葛亮の無念さだよな。
何にしろ夷陵での敗戦が痛かったですね。あの時に蜀の人材がごっそりいなくなりましたから…
諸葛亮と馬謖は9歳違いで、諸葛亮没時に生きていたら44歳かぁ。生きていたら、蜀漢の人事どうなっていたんだろ?
まさか馬謖の正史を知って涙するとは思いませんでした
ありがとうございます。目論見通りです(笑
実戦経験がほぼない若手の頭でっかちちゃんを起用して案の定大失敗というところでしょうか社長である劉備はその点をズバリ見抜いていたけど孔明は直属の部下可愛さでその点を正しく見抜けなかったみたいな現代の企業でもよくある話のような気もします
地図、地形を見ると馬謖のこれまでの偏見が変わるが王平の意見を取り入れなかった器量の狭さが馬謖の不幸を招いた。要は「人の助言は素直に聞きましょう。」という教訓。ありがとう、馬謖サヨナラ、馬謖
実は馬謖は軍略に通じていたがために、王平の諫言を受け入れない明確な理由があったんですよ~まあ生兵法は、というやつなんですが(笑
馬謖は軍略練る事は出来てもいざ自分がその場に居た場合は全く生かせない。戦国時代のホウケンと一緒。あらかじめ決まった事は出来るけど柔軟に対処は出来ない。兵学者だったんだろうと思われます。兵を捨てて逃げ出すのは最悪。運が悪かったと言うよりは資質の問題だったと思う。経験積んでいたとしても疑問に思う。劉備の見る目は確かだと思う。人生経験を余すことなく生かしてる。孔明は文官は確かだけど、軍事に関しては微妙と感じちゃいますね。前線に立たずに居たら果たしてどうだったのか。もしかしたら違った結果になっていた可能性も有る気もするけど。
兵学者だった、というのは確かにそうかも知れませんね。諸葛亮は文官は確かだけど軍事に関しては、というのも同じくです。だからこそ、劉備が武を諸葛亮が文で車の両輪のようになれたんでしょうね。当初予定の通りの天下三分の計が実施できていたら、と思います。
この時、確か馬謖は40歳近かったんでしたっけ。若手というには歳をとってるけど、蜀の人員の少なさを考慮すれば、この配線を糧にして行った方が後々の蜀漢の戦役に・・・役立つかなあ・・・。そもそも国力の差が・・・。
敗戦によって大きく成長ってバトル物の王道ですね~
一番アカンのは地理的条件(都から遠い)。劉備建材時の人材は魏や呉に劣るとは言い切れないと思っているので、巴蜀を統治するのに適した人材が政治軍事共に少なかったんじゃないかと。あとここで出てくる鄧方って鄧芝の関係者なのかなぁ。同じ荊州出身者だし。
いえ、出身郡が違うので鄧芝とは違う一族だと思います。陳寿は記録が残ってないので伝が作れなかったと書いてるんですが、季漢輔臣賛では法正・龐統・黄忠・董和の次に書かれており全体としてもベスト10に入る重要な人材です。南中の反乱を考察する時には外せない一級の人材ですね。
正直なところ、俺は馬謖が死んだのは自業自得だと思うな。確かに計算外の要素が多くあったのは事実かも知れないが、一番の問題は自分が計算外の事態になった時にキチンと対応する能力がない事を自覚していなかった事。(もしくは想定外の事態の発生リスクを認識していなかった事)己を知らないのに、蜀の国運を賭けた大任を安易に引き受けた時点で馬謖の限界は見えていた。諸葛亮にもやはり責任があると言わざるおえない。個人的には馬謖は外交官に向いていて将軍の適性はなかったと思う。
手厳しい評価ですね。ですが一理あると言わざるを得ないです。国家を背負った戦争である以上、「予想外でした」では済まされませんからね。
@@装甲猫 世の中全般に言える事ですが、重要な事柄を行おうとするときは常に「最悪」を考えて行動した方がいいと思います。馬謖の件は自分にとっても当てはまる可能性がある事なんで、注意していきたいですね。
アルピニスト登場…!?
登場です(笑
魏延か呉懿に任せるべきでした。
索敵を怠り、前提条件が崩れた事の報告及び軌道修正を出来てないので、やはり軍事に置いては無能でしょう。調略に長けてるのなら、前提条件の確認を何よりも重んじると思うんすけどねぇ…。
次の解説動画を観て頂くと「それで王平の諫言を聞かなかったのか~納得。」となる予定(私の中では)なんですけどね馬謖。
張郃はさすが飛将軍だなあ(三国志13脳)
張郃は名将、間違いない
劉備も夏侯淵より彼の御首を欲しがって…つまりは恐れていたぐらいでしたからね…。
あの発言は半分は本音、半分は強がりなんじゃないかとは思いますけどね。絶対、心のなかでは大喜びだったと思いますよ~長年負け続けた曹操相手に会心の勝利でしたし(笑
馬謖が街道を封鎖せず敢えて山上に布陣したのは、魏軍を引きつけて諸葛亮の率いる本隊に楽をさせようと考えたからかもしれない。
その考察、私も支持します。馬謖が王平の進言の意味を理解できない訳もなく、孔明とて街亭を重視して軍を派遣させたわけだから、孔明からの援軍を頼んでの布陣だと考えます。しかし肝心の孔明が援軍を出す所か一切本陣から動かず、高翔が郭淮に打ち破られている際も孔明は軍を動かしていない(記述ないだけかも知れないけど)。もし孔明が即座に状況を判断して魏延や呉懿を援軍に派遣していれば魏軍は挟撃される形になるので、結果はまた異なったんじゃないかなあと思います。
楽出来たのは、魏軍でした…結果的には。
こちらでも意見の交換がされてる。嬉しいです。モッチー2643さん私も馬謖は諸葛亮本隊のために無理してた、と思います。オコジョ番長さん諸葛亮の対応について一応弁護してあげると、馬謖が街亭についてから隴関方面に偵察を送り、事態を諸葛亮本隊に知らせるまで、4日~7日前後掛かるんです。伝令馬が一日に進めるのは大体50キロ前後で、だから街道沿いに換え馬を用意してるんですが、蜀軍の進撃路は整備された街道ではないので。だから報告を受けたあとに諸隊を集めて援軍が進発して間もなくには敗報が届いたと思います。また列柳城にいたはずの高翔は野戦で撃破されてるので、馬謖の敗退を知り、救援に向かったか後退したかの途中で敗れてるんです。だからこういう時間的な余裕が与えられなかった馬謖が悲運の一つなんですよ~
因みに此れに付いては面白い考察が在りましてもしも孔明の命令通りに布陣していたら史実より早い日数で潰滅していたかも知れないという説があるそうです。(何故そうなるのかは今一つ解りませんでしたが)あと王平の諫言を却下したのは王平が元魏の降将で異民族出身者という経歴から彼に猜疑心を抱いていたのではないかという説があるそうです。
おお、そんな説があるんですか!それは是非聞きたいですね!…いや、ちょっと待って下さい、それもしかして孫子関係あります?あったら私と同じ解釈でネタバレになるかも知れないんで言わないで下さい(笑諫言した王平にも考えがあり、用いなかった馬謖にも考えがあり、両方納得できる考察を用意してるんで。
馬謖と並べて語られることも多い机上の秀才・趙括も、丁寧に史料を紐解いて考察していけば彼なりの理が見えてくるのかな?とは言え張コウがかわいく思えるような正真正銘の怪物が相手ではどうにもなりようがないだろうけど。
そうですね〜基本的には実施する前に失敗する作戦というのは存在しないので、やる前には十分に理があったんじゃないでしょうか?
かなり馬謖に同情的ですね。成程一つ一つ検証すれば単に馬謖が将として無能だったとは言えないし、孔明に対する孝心?が彼の判断を狂わせたという見方もできなくもありませんね。自分はあるネット記事?で馬謖が斬られたのは収監後、守衛に頼んで魏に逃亡を図ったのが理由だというのを見てかなり彼の印象悪くしてますが。確かに敵前逃亡ではないですがこれは蜀の国是として許されない反魏への逃亡なので孔明はどうする事もできませんよね。楊儀も費イに魏に下っていたらと嘯いたのが決定打みたいですし。そういう意味で泣いて馬謖を斬るの孔明の心情は彼への同情ばかりではないように思えます。まぁ、自分の読んだ記事の内容が何を元にしてるのかはちょっとわかりませんが。
コメントありがとうございます。たぶん、そのネタのもとは私の動画の向寵の方に出てますので興味があればご観覧下さいませ~まあ、ネットの情報で特にソース元を明かしてないものは、ほぼほぼ誇張が入ってますよ~馬謖が魏へ逃亡したなんて嘘ですし(笑
なかなか見ごたえのある面白い解説でした。ただ、派閥はないっていうのだけはものすごい違和感ですね。私はずっとフリーランスで外で働いたのは、バイトと派遣位しかないので、社員として内部で社内観察したことがない身ではあるのですが…派閥がないなんてことはありうるのか?というのが疑問です。人間関係は、ちゃんと考える者、考えない者がいる時点で術の人が平等なんてありえないし、能力差は出てしまいます。だから、考えない者は考える人に付き従うのが自然だと思います。そうなると自然に派閥ってできるのではないでしょうか?現代の会社内部での派閥の出世とか、政治の世界でも宏池会など派閥はあります。荊州閥、益州閥というのは、劉備が荊州にいたころに配下に加わったもので構成されていて、益州閥は元々劉璋に属していた者たちで構成されていて、それらの派閥が争い合っていたと考えるのが自然だと思うんですよね。現に当時の三国志世界でも、呉では孫策が豪族を殺しまくっていたから、孫権は最後まで、それらの豪族を心から信頼することができないのを呂蒙が理解していたから、自分の後釜は陸遜といっていたにも関わらず、死に際には陸遜ではなく朱然を後任に推したっていう。長々と室れしました。
コメントありがとうございます。う〜んと、仰ってるのは派閥というよりはグループという奴だと思います。正確にいうと派閥というのは政治や地縁などで結びついた排他的な対立集団なわけです。この場合は政治派閥という事になりますが、それを形成するには主導者・主張・構成員が最低限必要なわけですが、派閥説はこれらを具体的に説明して無いんですよね。つまり「⚪︎⚪︎が旗手となって××らが属した集団がこれこれこういう主張から△△らの派閥と対立した。その根拠は史書のこの部分である」という具体性のある指摘が無いんですよ。簡単に言うとクラスの中で仲の良い者同士のグループが幾つか出来ている状態って当たり前だと思いますけど、これを派閥抗争って言わないと思いませんか?
@@装甲猫 さん。他の動画も観て改めてやっぱり知識量がすごくて全く敵わないなと思いました。今回のテーマである馬謖のことは一旦おいておいて、派閥の話をします。馬謖のところはその通りかなぁと思います。同じことを言ってしまいますが、現代でも自民党は一枚岩ではありません。これは自民党に限らずどこの政党も同じだと思います。だから、派閥がないって思えることが不思議なんです。書いてないからない、説明してないからないのではないか?というのは…う~ん、素直すぎるというか人を信じやすい日本人らしい考え方だなと思いました。でも、説明というか派閥があるらしきことは書いてありますよ。劉備が負けた時に諸葛亮はこんなことを言っています。”法正どのが生きていれば、陛下(劉備)の東征を止められただろう。もし止められなくとも、今回のような大敗はしなかっただろう”ということは、劉備と諸葛亮の晩年は相当間柄は微妙だったのではないか。相談される立場にもいない。だから、劉備は諸葛亮を信じ切ることはできなかった…が、蜀の中を見渡すと諸葛亮しか後事を託せる人物はいない。荊州閥の諸葛亮に後事を託しながらも、それの抑えとして益州閥の李厳を立てた。その証拠に、劉備が諸葛亮に後事を託した言葉で有名な”君、自ら取るべし”は、君が取って代わってくださいという意味ではなく”あなたが正しいと思うやり方でやってください”という意味で言ったという。三国志の時代だって、政治ですし、国を運営しているんだから全てが一枚岩で動いているというのはあり得ないと思うんです。仲のいい同士のグループだけで国の運営ってできるのかなぁという…というのは全部読んだ本の受け売りなんですけど。三国志にあまり詳しくない一意見でした。とても、動画の質が高く、おそらく三国、中国史系の動画ではNo.1だと思っていて楽しみです。今後も解説動画が出てくるのを楽しみにしています。
心のこもった返信ありがとうございます。そうですね、私も一枚岩であったとは思っていないです。誤解を与えてしまったようで申し訳ありません。先の末尾に書いたように、考え方がそれぞれ違ったりするのは当然と認識しているので、つい書き損ねてしまいます。私としては一枚岩派でも派閥抗争派でもなく中庸派と言いますでしょうか、派閥だけに(笑それぞれ目的や考え方は違いつつも、大局的には和合していた、というスタンスですね。何故なら法正にしろ、李厳にしろ、益州人士の主流派ではない、という点が抜けていると思うんです。李厳が益州に来たのは208年、実に劉備が来る僅か5年前であり、法正は張松に推薦されて荊州の使者になるまで大した職にもつかず士大夫層には干されてました。もし益州閥なるものが存在して地縁をもとに結束するなら張裔の方が妥当でしょう。地縁ではなく政治主張をもとに結束するならば、そのための主張とは何か?その主張に与したのは誰で何故与するのか?が派閥抗争有り派から具体的に明示されないといけないかと思います。なので国内にはそれぞれにグループは有り、当然お互いに出世やポスト競争なんかもあったでしょうけれど、国政を左右するほどの派閥抗争と言えるものは無かった、と断じている次第です。
劉備と諸葛亮の間柄についてですが、ご指摘のような意見は目にした事があります。が、これはむしろ逆だと思います。何故なら劉備は自身が出征した後の代行権を諸葛亮に預けて出征したんです。むしろ劉備が諸葛亮を信用していた、という証左になると思います。劉備は軍事的な諮問対象としては法正の方を重んじており、法正なら軍事的見地から説得してくれるかも知れず、法正が生きていれば当然その参謀として同行させるだろうから大敗はしない、と考えたのだと思います。
@@装甲猫 さん返信遅れてしまいました…すみません。なるほどです。確かにそうですね。法正は諸葛亮にも小人と思われていたっぽいですもんね。確かにそういわれるとそうかもしれないです。
私が思うのは、馬謖は司令官、その下に将軍達、王平は副将、なら将軍達何してたんでしょ?揃って敵前逃亡カマす所から察するにイエスマンしかいなかったとすれば、これも馬謖の運の無さとなるのでしょうか?
コメントありがとうございます。疑問にお答えすると、実は王平を「副将」としてるのは演義とそれの派生で植え付けられた勘違いなんです。司令官:馬謖実戦指揮官:将軍達実戦部隊長:王平他20人くらいというイメージです。
細かいけど須くの意味間違ってると思う
ホントだ。ありがとうございます。こうやってリスナーさんの指摘を受けられるのはありがたいですね。
馬謖逃亡のエピが入ってないやん?
確か…向朗のトコにでしたか。むしろ軍兵捨ててトンズラが死を早めた…。
コメントありがとうございます。その話しは以前の動画でやっちゃったんですよ~
それですね
@@装甲猫 そうでしたか!ありがとうございますそうそう、向朗が逃亡に手を貸してしまいそれが元で一時期失職してしまうんですよね~この逃亡も斬刑になった一因かと…
まさにその通りの解釈を向寵動画で紹介してますので宜しかったらどうぞ。
敗北だったら処刑まで行かなかったんだろうけどね。
出たw三国志時代きっての登山家w
三国一ですね
馬謖の話を聞いていつも思うんですが、この敗戦を経験値として馬謖を一からやり直させればと思う、沢山の犠牲が出てしょうがないとは言え処刑してしまったらそれこそ蜀のマイナスじゃないか?
馬謖が生きてたらもっと面白い事になってたかも
ただし孟達と魏延テメー等は許さない
今回は馬謖がどう言う性格なのか、目を瞑れば見えてくるそんないい動画でした、いいねボタンが連打できるならマウス壊れるぐらい押してます
やっぱりクオリティが段違いなんだよなぁ
確かに惜しいとは思いますが残念ながら古今東西の事例を見てみると戦時下での敵前逃亡はほぼほぼ高確率で死刑になりますからね(少なくとも私の知る限り兵卒以上の階級で死刑にならなかった人はいませんからね処罰がうやむやになった事例としては大戦末期の旧軍や湾岸やイラク戦争時のイラク軍がありますが尤も両者共に其の頃には組織其の物が実質的に機能不全&崩壊寸前で其れ処ではなかった事もありますが)皇族に不幸か慶事でもない限り大赦にありつく事はほぼ不可能でしょう。ましてや孔明は良くも悪くも法に関しては厳格にして公正な人ですからね(安易な大赦の乱発を戒めていましたからね)
@@浅倉慎太郎-t6o ですよね、戦国の世に甘い現代の考えなんて通用しませんよね、頭では分かっているんですが今回の動画を見て成長した馬謖を見てみたいと思ってしまいました
正に泣いて馬謖をKILL
私も社会的地位が中間あたりに差し迫って自分より若い人間が失敗しそれを乗り越える為に知恵を出し成功を掴むさらに新しい知識で新鮮な風を送り込む、自分も感化され仕事を頑張る
という時代に居るからの発想なのでしょう
孔明の決断は想像を絶する苦しみだったにに違いありません
@@もみぢ-d9x レス有り難う御座います。馬謖を敵前逃亡させずに済む方法があるとすれば榴弾砲(できれば自走式が望ましい)を最低でも十二門と対物狙撃銃最低百丁対人狙撃銃が最低でも百五十丁AKアサルトライフル最低二百丁と水をたっぷり入れたタンクローリー(16Klがベスト)を最低でも16台程必要でしょう。勿論あの時代にそんな物等在りはしませんが。
蜀漢の強さは出師表のようなプロパガンダ戦略による所が大きいと思うので、土壇場で逃げる上級士官を生かしておくと国民が徴兵に応じなくなる可能性が大いにあると思います。
ここでもリスナーさん同志で三国志を語り合って頂いて嬉しいです。
私の意見としては王平の活躍がトドメだったと思います。
相手の張郃も昔は張飛に負けて逃げ出してるので
馬謖は公明の相談役に徹していれば輝いていた人材だったんだろうね
部隊の指揮官はやらせちゃいけない役割だったわけで
長かったけど一気見してしまった。面白かった。
馬謖は今でこそ「蜀漢ワンダーフォーゲル部部長」とかネタにされるけれど、個人的にはずっと気になってた。
諸葛亮に気に入られ論じ合った馬謖が、そんな間抜けな失態をするのかな、と。この動画で胸のつかえが
取れた気がする。
馬謖も布陣を「そう指揮した」のではなく、「そうせざるを得なかった」と考えるのが自然なのだろうね。
背景や考察もすごくためになりました。
最後の孔明にあてた手紙、思い出に乗せて後事を任せていて潔い。
自分にとって新しい視点での解説だったので非常に面白かったです。
なんだかんだで1時間もあった動画だったんですね。あっという間でした。
ほんとだ1時間ある!!内容に引き込まれすぎて体感20分位に感じた
長い動画にお付き合い頂きありがとうございました!
見ごたえのある動画でした。演義の記述より深くそして合理的な解説で納得です。
戦いに関しては、張郃の経験が上だったということですね。
動画では紹介されていませんでしたが、馬謖を処断する際、蒋琬が驚いて諫めた逸話もありましたが、それだけ馬謖の才は、万人から期待されていたと言うことも出来そうですね。
もし馬謖が生きていたら、蜀の運命はどう変わっていたかなぁ。魏を打倒することは国力から考えて無理だったでしょうけど、後年の姜維が無理をし過ぎて、国力を消耗させる展開とは違った流れになっていたかも知れませんね。
戦って魏を打倒するのは国力が続かないでしょうね~
だからこそ諸葛亮は、まず謀を討ち、交を討ち、次に兵を討ち、城攻めをしなかったんですよね~
まさに孫子の理想通りの戦い方だったんですが、北伐開始から7年の寿命しかなかったのが残念でした
諸葛格と同じ末路が見えてしまう
詳細な地形の確認と日数の計算に基づく考察はとても面白かったです。馬謖の視点からすれば、荊州を守っていたはずの張コウが自軍に倍する兵力で目と鼻の先の隴関に迫っているとの報告を受けたら、いったいどこまで戦略が見破られていたのか、後詰はどこまで来ているのか、とパニックになりますよね。しかもあまりにも早い孟達敗北の報もそろそろ届いている頃だとすると、全てが敵の掌中だと感じてもおかしくない。そう考えると西涼三郡の動向も怪しいし、平地に陣取って敗北必死の時間稼ぎをしても将兵の無駄死にで意味がない可能性さえ考えられる。諸葛亮さえも同じように考えて次の手を打つことなく直ちに退却したのかもしれないですよね。
俯瞰で全ての事象を見れない以上は、目の前に出てきた事態から想像するしか無いわけで、戦場の霧に怯えるのも宜なるかな、という感じですね
リクエストした馬謖を動画化してくれてありがとうございます!
傲慢さや慢心で自滅したように思われがちな馬謖ですが、決して舐めプしたわけじゃなく、ギリギリの状況で戦った結果の敗戦ですから、戦犯扱いやネタ武将扱いは可哀そうですね。
こうした馬謖観が広がってくれたら嬉しいです。
関羽と馬謖の二名はやたら戦犯扱いされますが、演義以降の影響なのか、個人の性格のせいで負けたように言われがちですが、どちらも敗戦は結果論であり、思った以上にギリギリの状況を戦い抜いているんですよね。
私の個人的な感想ですが、みな自分の出来る範囲で頑張った結果だろう、と思っているので、簡単に切って捨てずに、どうしてそうなってしまったのか?を考えるようにしてます
「曹操軍の長所は軍の速さ」みたいなのをどこかで知った記憶がある
その速さを見誤ったのが蜀軍、そしてその速さを受け継いでいたのが̪宿将の張コウや司馬懿なんだろうな
ある意味馬謖の判断は合理的だった可能性もあると言うのは盲点でした
いろんな想定が重なった上に余りにも張コウが凄すぎたのですね
私の勝手な想像ですが
張郃「うむ、兵法に叶っている。完璧だ。ただ、私が”攻めない”という一点を除いてな」
という感じだったりして。
馬謖が大好きなのでこの動画とてもありがたかったです。
馬謖が何を思ったかは諸説ありますが、装甲猫さんの解釈とてもリアルだと思いました。
ありがとうございます。実は街亭の戦いの戦闘の部分がアッサリだったのは、以前の魏延と楊戯解説のように補完する解説がある予定だったんです。そこで何故馬謖が王平の諫言を聞かなかったか、を明かす予定だったんですよ~
この話面白いねぇ。確かに人間は最初の方針に拘ってしまう事はある。元々城塞に寄って戦う事を前提としていたので、それが不可能になった時に無意識に城塞に代わる立てこもれる場所を探してしまったのかもなぁ
見応えのある解説動画でした。
馬謖を街亭に派遣する人選の件の考察に唸らされました。
そして、馬謖を派遣せざるを得ない蜀の状況の厳しさが伺えました。
馬謖の才は疑いのないものですが、実戦経験の少なさからのイレギュラーからの失態ですが、王平の意見に耳を傾けていれば最終的な結果は違っていたのかと感じます。
ありがとうございます。
そうですね、王平の諫言に従っていたらあっさり負けることはなかったと思います。
張郃伝自体に汲道を断った事で大破した、と明記してあるので水を絶たれなかったら結果は変わったでしょうね
ただ、常識的に平地で張コウと戦ってどうにかなるとは思えなかったんじゃないかなと思います。吉川英治の三国志を初めて読んだときに一番に感じたのは、山に登るのは良いとして、何故水源の確保を怠ったんだろうということでしたが、今回の動画の地図を見て、中途半端な兵数を配備しても水源確保は叶わなかっただろうなと納得しました。
長いけど気付いたら見終わってた。馬謖好きなので面白かった。
楽しんで頂けて何よりです!
いつものように資料と地理に基づいた考察、とても面白かったです。正史以外の視点で見る馬謖というのもとても興味深いですね
ありがとうございます。
考察面白かったです。街亭は魏延たちに任せてもっと経験を積んでいったなら
姜維との二枚看板になっていたかもしれないですね
孔明没後に総司令官・馬謖、実戦指揮官・姜維というコンビ。ロマンですね~
面白い考察でした
やはり抜擢した孔明の失策としか言えないですよね
兵法軍略に強くても実戦経験がどれだけあったのか…ほぼ初陣だったのではと
陸遜なんかは賊の討伐やら経験してからの抜擢ですからね
愛弟子に大きな戦果を与えたかったのかもしれませんが…
実は馬謖が街亭で王平の進言を聞かなかったのには理由があって、王平には諫言する理由があって…ヒントは地形です。
言いたいけど、動画で解説するネタだし図入りじゃないと分からないと思うので続きをお待ち下さい。
34:55から流れる合戦BGM?のようなのは何というタイトルなんだろうか?
如何にもこれから大戦が始まるぞって感じで格好良い
馬謖はどうしても三国志演義からのイメージで独断専行で山に登って自滅した迷将に感じてしまうのだけど(自分も横山三国志が三国志の入門で長年そう思ってた)、魏側の神速な対応で街亭にて防衛線を築く前に張コウと戦わざるを得ない流れになってしまったという状況だったというのも動画の内容の濃さから説得力があります勉強になりました
いつも楽しく動画拝見させて頂いております。
正史準拠の主様の解説は本当に勉強になりますし面白いですね。
今作で一番感心したのは馬謖抜擢の箇所。確かに魏延か呉禕ならと私も思っていましたが納得のいく解説で目から鱗でした。調整が得意な孔明ならではの理由ですよね。
今後も動画楽しみにしております。
ありがとうございました。
ありがとうございます。馬謖が親しい間柄だったから抜擢した、という見方は単純に過ぎて、当時の人間の判断を軽く見過ぎな気がして色々と考えてみました。
夷陵の戦いでは軍が壊滅して指揮官が戦死していますが、街亭の戦いでは指揮官が処刑されていることが全てを物語っていますね。
コメントありがとうございます。
ようやく全編見れました!
面白かったです(総評)
日付から、前後の各軍の所在地を割り出すとか、
どんだけですか笑
労苦が、視聴者の楽しみに直結する、良い動画でした。
確かに、他の方が仰るように、
成長した馬謖は見てみたかったですね。
馬良もですが。
…惜しいかな、蜀(by王累)
ありがとうございます。
自分が好きでやってるので労苦では無いんですけど褒められると嬉しいです。
新説なのに説得力がありますね!
ありがとうございます!新説って認識はなかったですけど
失敗だけでは処刑とまで重い刑罰に至らないはずです
命令違反と言っても現場判断が基本なのでそこまで重くなく
やはり処刑とまで言わしめる行動は敵前逃亡かと思われます
街亭の戦いでは将官の死亡が確認されてないところを見ると
兵卒を捨てて将官のみでの逃亡が処刑の理由ではないでしょうか
劉備も最後は自分の身かわいさに逃げる奴だと見抜いていたのでは
確かに上級将校級の人間が敵前逃亡ともなれば如何に馬謖が惜しむべき人材だったとしても今後の事を考慮すると看過出来ない事案ですね。
そういう側面もきっとあったと思います。全員が敗走していれば言い訳も出来ますが、王平がしっかりやってるから言い訳も出来ないという。
例えば相手の張郃にしろ、張飛に大破されて身辺数十騎で逃走してますが処断はされてませんから、ケース・バイ・ケースの見本だと思います。
@@装甲猫 そういう意味では馬謖の場合は白灰黒の三段階の内グレイゾーンに微妙に届かない黒と判定されてしまったのかも知れませんね。(其れでなくとも大きな敗け戦は言い方は悪いですが明確な「"生贄"」を渇望する空気が生まれますからね。)其れにもしも蜀軍内に「彼の荊州失陥の折、関羽将軍は子息の関平殿と共に其の一命を以て立派に其の罪を償われた!!なのに何故?馬謖は兵を見棄てて逃げ帰って来たのか?」等という批判が噴出したとしたら孔明も馬謖を「"生贄"」(言い方は悪いですが)に差し出す他はなかった事でしょう。
生贄とまでは言えませんが、孔明は法家的な思考の持ち主のようなので、周囲の不満が無くても処刑したかもですね。
劉備も妻子すら戦場に置いて逃げるタイプなので自分と同じ匂いを馬謖に感じたのでしょう。また、呂布に信用ならん奴と罵倒された際も、両者とも方便や裏切りのプロですが一枚上手が生き残りました。
活眼は生き残れば良く磨かれる能力ですし、似た性格の人物の指摘は案外鋭いのかもしれません。
うぽつです。
南蛮の反乱や劉備の遺言の謎など盛り沢山の内容で面白かったです。
馬謖の命取りは若さだったのかもしれませんね。
将軍たちの後始末をして退却した王平と比較されてしまったのも哀しい。
王平はなんであんなに強いのか。この後も歴戦の宿将である張郃を正面から撃退してますからね~
46:40あたりの登った山が盆地的なのが意外でした。兵の布陣としては一理あるなと。山は象形文字通り鋭角なイメージがあるのでそこに大軍を布陣するなんてと、と思った所がありましたが印象が大分変わりました。
やはり史に名を残す天才達の話ですから、馬謖なりに理由があったと色々考えさせられました。勿論、ミスもあるとは思います。
一方、結果から失敗を馬鹿にするより、内容を分析する大切さを改めて感じました。ありがとうございます。
基本スタンスとして、才をもって史に名を残すほどの人物だから、その行動にはなにか考えがあったハズ、と思ってますので~
登山家っていう汚名好きすぎる
三国一の登山家ですから(笑
鄧艾を差し置いて…
あ~鄧艾いましたね~
三国志トランプで登山家の格好にされてたし
魏延だったら街亭で時間稼ぎができたと思います。北伐失敗の根本原因は、孔明と魏延の相性が悪かったというところに行き着いてしまいますね。
いつも三国以外の史書や当時の文化や地理も視点に置いてるのが凄い。どこかで猫殿が本当にタイムスリップして見てみたい場面や戦い、会って喋ってみたい人物とかをガチ解説してみて欲しい。
ありがとうございます。猫はさばいばりいます。猫はサバイバリティが低いのでタイムスリップしたらすぐに死にそうです(笑
馬謖が選ばれた経緯がずっと謎だったのですが、魏延達を指名出来なかった説明に納得しました。
あくまで一解釈に過ぎませんが、無理やり抜擢した、で思考停止するより、一歩踏み込んで考えてみました。
劉備が漢中攻略において夏侯淵は討ち取ったが張郃を逃してしまったことに対して悔やんだこと、孔明に対し馬謖の危うさに忠告したこと
これら劉備の懸念が最悪の形で結びついてしまったのが街亭の戦いだなと感じました
やっと見れました!
今回も終始為になる素晴らしい動画でした。
劉備にも結構気に入られていて、だからこそ馬謖の実力を危ぶんだのでしょう。
それを踏まえて「馬謖は確かに孔明の懐刀として素晴らしい能力を待っているが、指揮官の能力は無かったな」と私は思いました。
それこそ戦場の霧(良い言葉を1つ覚えました!)であり指揮官は想定外の事が起きた際にその真価が問われると思います。
馬謖はパニックになり王平の言う事も聞かず、一方のチョウコウは神速で行軍したり馬謖を持久戦で壊滅させたり、まさに名将というに相応しいと感じます。
馬謖にもう少しだけでも指揮官としての能力があれば、また違ったでしょうけどね…
馬謖は単純に「実戦指揮能力が無かった」で片付けられやすい街亭の戦いの秘密が、本当は次の動画で明らかになる予定だったんですけどね~
最近一生動画見てます!馬謖大戦犯のイメージしかなかったですがちゃんと理解すると同情の余地が沢山あって孔明が泣いた気持ちがとてもよく分かりましたよ
コメントありがとうございます。
良ければ今後ともよしなに
別の方向から馬謖に光を当てての解説、とても興味深く拝見しました。楽しかったです
なるほど、あまりにも孔明の手腕が見事なため魏に全力の対応をさせてしまった、ということか
新しい視点ありがとうございました「
あくまで私の個人的な考察ですが楽しんで頂けたなら何よりです。
別の史書では、牢屋の馬謖わ馬謖の友達が逃がしてしまい(2度もともある)捕まり処刑されたともありますね。
そちらは向寵動画で解説してみました!
まあ一つ言えることは馬謖は軍人より内政、外交。事務など文官向きの人だったんでしょう劉備の入蜀にも従軍していますがもしかしたら秘書官あたりの事務方が主な仕事だったのかもしれません。孔明も馬謖を北伐などに参加させず成都で内政に尽力させるのがベストだったと思います。
いつも睡眠,作業の際に楽しく聞いております。
リクエストなのですが、禰 衡について知りたくまた、解説していただけたら嬉しいです!
馬謖は孔明が軍事の中心になってから戦に従軍していたイメージ、ほうとう、法正達等他の軍師と共に戦に出て経験を積めば稀代の名軍師にもなれたと思います。
素養は悪くなかったと思いますよね
初めて拝聴しましたが、とても面白かったです。
高評価・チャンネル登録しました!
解説希望で曹一族を希望します。曹仁・曹洪・曹真・曹休・曹彰らをお願いします。
コメント&リクエストありがとうございます!
登山家とかネタキャラ扱いだけど今回はそうなった考察はそれをやむ無しと思った素晴らしい考察だ
ありがとうございます!
1800年後の海の向こうの国で登山家として名を遺すことになろうとは・・・
当人も夢にも思わなかったでしょうね(笑
周囲への配慮と期待をこめて馬謖なんだけど、指揮官としての実戦経験の少なさが、馬謖の判断を狂わせて、孔明の策を完遂する事に執着してしまったのか。
孔明の選択肢を狭めたことを考えると、黄権をはじめ有能な将兵の多くを夷陵で失った事が痛すぎる。
馬謖って太平洋戦争の日本軍みたい。プラン通りの場合は完璧に進めるけど、崩れた時に修正できないところなんかまさにそうだねえ!ミッドウェーを連想しちゃった・・・
一部の天才的な軍師や逆に天災的な愚者を除けば戦場の読み合いや駆け引きってのは相対的なものであって、仮に張郃が凡将で馬謖の作戦通りに進み街亭で快勝していたら、馬謖が名将として讃えられる別の未来があったのかも・・・
まあアドリブや機転が利かない、勝負どころでパニックになるというのは戦場における将軍としては致命的だから、もしそれで大任を任されるようになっていたとしてもいつかはボロ出してさらに取り返しのことをしてた可能性の方が高いか
劉備も馬謖のそういう点、逆境や苦境に陥ると頭が働かなくなって自滅していくというのを危惧してたのかもね・・・劉備自身が逆境から這い上がってきたからそういうのに敏感そうだし
相対的なものっていうのは本当にそうですよね
読みが鋭い
ありがとうございます。
自分は他の動画もみて疑問に思ったのでおしえて下さい。
4:02~荊州従事が事務官となっていますが他の動画では秘書官となってました。どっちが正しいのですか?それとその根拠はなんですか?
26:11~孔明が祁山に本営を置いたとしてますが他の動画では祁山を攻撃しているとなっていました。孔明は祁山陥落させたのですか?そうだとしたら根拠はなんですか?
27:00~刺史が巡察をするのは8月とのことですが根拠はなんですか?
35:10~他の動画では馬謖の率いた兵は多くて1万くらいといってましたが2万とする根拠はなんですか?
35:58~街亭の位置は張家川回族自治県とする説もあるそうですがそこではないのですか?
38:32~他の動画では列柳城の位置はさっぱり分からないとしていました。何を根拠に列柳城の位置を決めたのですか?
以上、分からないのでおしえて下さい。
え~と、なかなか難しい問いですね。
細かくは抜粋した史料を開かないといけないので、とりあえずスグに答えられる範囲で
>荊州従事が事務官
従事は「事に従う」(事務処理をする)から転じた役名なので事務官としてます。秘書官だと治中従事とかが当たると思います。出典は続漢書百官志などですね。
>孔明が祁山に本営
諸葛亮は祁山を攻略して本営を置いたと思います。理由はいくつかあって、蜀の侵攻に備えが出来ていないこと、諸葛亮本隊の攻撃を防いだとするなら郝昭のように守将の名が残る筈であること。郭淮が全く救援に向かっていないこと、後の魏の詔勅の記録などからです。
>刺史が巡察
これも続漢書百官志に記載があります。
>馬謖の率いた兵は
将軍は五部を領するというのが同じく百官志にあり「部」が大体三国志の記録だと千人前後でちょうど王平の兵数と同じくらいです。そして馬謖の下に配属された将軍は最低で四名いますので、2万前後と推察が出来ます。逆に1万とする根拠が不明です。
>街亭の位置は張家川回族自治県
そこは地図中の隴県の位置なので街亭ではありえません。水経注、元和郡県志、読史方輿紀要など複数の参考文献より、街亭の位置は略陽県の近傍を指しており、街亭古戦場近辺で恐らく合っているはずです。
>他の動画では列柳城の位置は
実は確かにこれは確定的ではありません。列柳城は史書に記録がなく、柳城、あるいは柳県、柳城県の可能性など、様々に調べた結果、複数の史書から県城の位置とそれを繋ぐ道を比定し、その上で上邽の郭淮と位置関係、さらに盧弼の記録により秦安県(動画中地図の顕親県南側)の東北の柳城として図示しました。
以上、になります。ご満足いただけたでしょうか?
もしも各参考文献の巻数まで知りたい場合はまたコメントを下さい。
同時期に同じテーマの動画を見てみると、動画作成者の考え方が良くわかります。
色んな方の動画をみて頂けると私の不足分も補完されるので何よりですね
@@装甲猫 th-cam.com/video/aPHCqtnSNvI/w-d-xo.html
たまたま同日に馬謖の話が取り上げられたのですが、テイストがかなり異なりますね。
わざわざ教えて頂いてありがとうございます!
後で見てみますね
もしかすると綿竹や成都の何れか又は両方でヒヤリハットな事案があったのかも知れませんね。
可能性はありますね~
@@装甲猫 返信、有り難う御座います。大惨事が報じられる際よくハインリッヒの法則(1件の大惨事の背景には表沙汰にならなかった29件の軽微な事故と300件のヒヤリハットが潜んでいる)が引き合いに出されますがおそらく劉備も馬謖が其れ(例えば後の街亭の大敗の予兆となる様な事象)を度々やらかしたのを目撃又は体験していたのかも知れませんね。
あるいは大言壮語する馬謖の発言で劉備の嗅覚が「現場はそれほど簡単じゃねえよ」と見抜いたのかも知れません
今回もお疲れ様でした!
大変楽しく見させていただきました。
王平ってそんな感じだったんですね…
てっきり将軍位のひとつやふたつ持っているものかと…
確かに王平がしっかりとしていただけに他の将軍達がいろんな意味で際立ってしまいますな。
馬謖よりも王平の方が気になってしまいましたw
次回も楽しみにしております
いつもコメントありがとうございます。
王平は演義の影響で副将とか副官とかされることが多いですけど、この時点では単なる一部隊長なんですよ。
だから軍議での発言力も大きくなかったと思われます。
残念なことですが…
でも、この後で盪寇将軍に位が上がって、馬謖の後の参軍について活躍をしていくようになります。
王平もいつかやりたいですね~
そもそも上けいの横通って街亭に行くのが怖いよね
隴関、隴の城抑えるって街道抑えるってのがそもそももむずい。
あと全ての魏の動き早い。
いつも楽しく拝見させて頂いてます。
いや…、ホント馬謖不運過ぎたんだなぁと思いました。魏の初動がドンピシャだったり、その場において最善とされる策を取ったらそれが裏目に出るわで…。
戦場の霧と言う要素を根底にした考察・説明非常に勉強になりました!
楽しんで頂けたなら何よりです。
こうして色々な動画で戦闘の流れを教えて頂くにつれ、陳宮の「行軍してきた部隊が安定する前に強襲しましょう」の策を選択するのがどれだけ度胸が必要なのか分かった気がします(*´ω`*)
それにしてもこの馬謖動画はものすごく説得力に満ちていて、「ああ、きっとそうだ。そうに違いない」と思わずにはいられません
鄧方って季漢ホシンサンで結構上の方にいた気がします。具体的な活躍はどうだったんだろうとかあと官職の昇進ばかり羅れるしてある人物も多く活躍が謎な人も多いですよね。エピソードもそれどうやって知った?当事者しか分からんやろ?的なの多いですし客観性を少しでも持ちたいし散逸した書物とかほんと見てみたいですよね。何よりもっとぶっ飛びエピソードとかもあったんだろうな
鄧方はかなりの重要人物ですね。少なくとも楊戯が季漢輔臣賛を著した時には十指に入る人物だった事が伺えます。
諸葛亮、許靖、関羽、張飛、馬超、法正、龐統、黄忠、董和、鄧方、なので。
陳寿曰く記録が失われており伝を作れなかった、としてますね。
劉備が益州南部の異民族対応を委ねたほどなので、よほどだったと思うんですけどね。
@@装甲猫 そうなんですね。流石、お詳しいです。鄧方、残念。蜀は史官いなかったって言いますもんね。異民族討伐と言えば前に挙げられてた張嶷もとても面白かったです。自分は猫さんの解説が待てなくてちくま全巻購入して今読んでる最中です。すごい面白いです。演義に無い人物(最近は三国志14で美麗半身画が描かれ登場した人物も多くなったお陰でイメージし易くなりましたので)演義に登場しない人物も個人的に興味を持って読む気になりました。あとやはり演義とのギャップ、たまに入るハイショウシの面白い注。たまに官職、地名で目が混乱しますが大変面白く読み進めております。しかしキカンホシンサンや注で入る書物は当時の記述ですもんね考えただけで身震いするほどの興奮ものです。長文すいません。お体に気をつけて投稿応援してます!
今、お読みだったら呂乂とか読むと、まだこんな人物が残ってたのか~ってなると思いますよ
@@装甲猫 返信ありがとうございます。呂ガイですね。見てみます( ^ω^ )
ただの運搬持ちとしか思ってなかったです 笑
曹真軍が少ない、については多分本人は郿で全体をにらみながら趙雲達の方へ派兵していたから、ならあり得るかなと
張郃はさすがに夏侯淵戦術の一翼を担っていただけあって、機動力が半端ない、と言うのもあったでしょうね
囲碁とかでも意表を突かれた一手で、そこまで良い勝負だったのにgdgdになってしまうこととかがありますからね
結局、戦術って言うのは意図以外の事態が起こった時の修正力の高さが重要になってきますからね。
曹操や張郃や徐晃等、魏の名将と呼ばれる連中はこの修正力が非常に高かった。
一方諸葛亮とかは事前準備能力は非常に高いけど、戦場での修正力にはそこまででもなかった、とは思いますね。
実は趙雲が負けた、としてるのは蜀側だけで、本来は誇っていいハズの魏側は箕谷の戦いをなかったかのようにしてるんですよね。魏の詔勅とかでも箕谷には触れてない。
これはどういう事なのか?
と考えると自ずと見えてくるかな、と思ってます。
@@装甲猫
敢えてひねくれた解釈をすれば、これに関しては趙雲の名前が通っていなかった、と言うのもあるかもしれません。
曹真本人が向かっていない一戦場の戦いを、わざわざクローズアップしないといけないのって
趙雲が蜀側にとっては重要な人物だったから蜀の史書に乗るのはわかりますが、と言う風にも見れなくはないです。
ここまで書いてて思いましたが、趙雲のエピって魏側の史書内でどこか書かれることありましたっけ。
!?
これは目から鱗です!確かに高翔は魏側の記録でも出てきますが、趙雲は出てきませんね!
当たり前のように趙雲>高翔で判断してましたが、これは再検討する必要がありそうですね!
趙雲降格してるから失敗が無かったはヤバイと思います。それだと誰も諸葛亮や趙雲の後釜になりたくなくなると思います。
趙雲が退却の手際の良さを評価されたのは馬謖と対比して敗戦の対応は間違えなかったと言うのをクローズアップしてるんだと思います。これが馬謖の一番の悲運もしくは落ち度だと思います
趙雲、馬謖共に作戦通りもしくは戦略目標が達成できてないのは諸葛亮の作戦が綿密すぎて計算外のことを想定してないからじゃないかなと。まあ地形が悪いから連絡スムーズに出来ないからだと思いますけど
後々軍を分けての作戦は事実上やってないと思いますし
危険な前線でなく安全な本陣で戦略を語らせれば的確な答えを出せるタイプだったのかな?
諸葛亮の副官で経験を積み、晩年は姜維の副官という人生だったらと妄想してしまいます
あと石田三成とイメージが被るところがあるような気もしますね
そうかも知れませんね。馬謖は街亭で戦う、という無理をしたのが不運でした。
どの様な状況であっても臨機応変に対応するには経験がものを言う。張郃は地形、敵の配置を見て、急いでいるにもかかわらず時間のかかる持久戦を選んだが、これが経験というものだろう。馬謖は机上の作戦立案は優れていたんだろうが、実戦経験が乏しく、想定外の事態に対処する能力は張郃とは比べものにならない。重要拠点の防衛はまだ無理なわけで、全責任は馬謖を選んだ諸葛亮にある。まあ馬謖も敵前逃亡さえしなければ死罪にはならなかっただろうが。
そもそも張郃が早すぎるのが不運でしたね。籠城戦なら戦い方はパターン化されるので馬謖でも十分やれたでしょう。でも張郃が来るのを予測できなかったのを攻めるのも人智を超えた能力を求めるようなもので酷な感じもします
亮進無所據、退軍還漢中から馬謖の目的は拠点の構築、防御にあると思うんだ
安定方面の取次も任務に入ってるかもしれないが、それは馬謖向きの任務でしょう
魏延呉懿を用いなかったのは、両名を敵主力との決戦に使いたかったからで、険阻に拠って守るだけなら馬謖でも務まるだろうって目論見かもね
列柳城の高翔だってそこまでの名将良将ではないですし
予想よりも早く多く強い敵が来て、作戦が破綻したのが敗因かな
馬謖が仮に王平の意見を入れて布陣したとして
張コウが抑えの兵を残して郭淮と合流したら、やっぱり馬謖は処罰される気がする
なんかもう詰んでるよねw
まさに同感です。張郃が来てるのを知ってたら諸葛亮は自身であたったかも知れません。城に籠もっての籠城戦ならある意味パターン化されてるので馬謖でいける、と思ったんでしょう。
戦場の霧を思い起こさないと、張郃が5万の兵を率いてきてるのに馬謖を起用したのか、そもそも張郃が来てることを知らずに馬謖を起用したか、で見方はガラリと変わると思います。
馬謖は補佐系向けの人物だからその約に徹するべきで司令官向けの人間では無いから。これだったら魏延や姜維などを街亭の守備の司令官にするべきでした。
難しいのは馬謖が街亭で敗れるまでは有能な人物という事で衆目が一致していたところでしょうか。
姜維は新参、呉懿は宿将だけど劉備麾下での実績なし、魏延は急進派で命令を守るかどうか不安。
となると簡単な判断ではなかったのかな?と思ったり。
まあ後出しならなんとでも言えるんですが、確かに魏延なら大敗はしなかったと思いますね。
劉備にも気に入られていたり単なる登山家と片付けられない馬謖の人となりが勉強になりました!
あと、荊州閥益州閥みたいな図式も尤もらしいけどそんなに単純でもないよなぁと思っていたので同じようなお話があってちょっと嬉しかったですw
ありがとうございます。
私は派閥抗争自体は否定しませんが、安易に単純化して本質を隠してしまう事も多いと思ってるもので~
@@装甲猫 派閥があったとしても国家転覆とかそういう領域にまでは伸ばしていないと思いますね。諸葛亮時代にそういった派閥はほぼ諸葛亮を筆頭とする挙国一致体制で改善されていただろうし、その後の時代に関しては出身地よりも北伐が派閥のキーワードになっていたはずですしね。
三国志の解説動画、楽しませていただいておりますm(_ _)m
チャット内で「諸葛亮はとにかく人事調整に苦労して~」という話を目にしましたが、他の国や武将達の人事調整、管理など苦労話、成功例などあったら是非とも教えてください。
コメントありがとうございます。
他の国では目立って誰々が苦労した、的なのはあまりなかったように思います。魏も呉も君主が方針を示すので「主に文句があるのか」的に出来るのに比べて、諸葛亮は全て同僚ですので気を使わないといけないんでしょう。
例えば動画に出てた張裔にすら諸葛亮は「私が他の人間に期待するのを君は我慢してくれないのか?」と手紙を残してます。
本当に胃が痛そうです(笑
@@装甲猫 返信ありがとうございますm(_ _)m。
他国は主君対家臣、諸葛亮は対同僚…言われてみればその通りですね。「阿斗(劉禅)ちゃんが人事調整しない~」とチャットにありましたが、君主が何もかも優秀な部下に任せるというのは良い話……だけで終るものではないのですね…諸葛亮サン胃ニ穴ガ空キソウ……
次の作品も楽しみにしています!
阿斗ちゃんはそれはそれで信用できる人間に任せる、という点で度量があるんですよね。
例えば諸葛亮が死んだ後に、「家臣に多大な権力を握られてて、主の身も危うい所でした。」と言った讒言者に激怒して処刑したりとか、阿斗ちゃんもやる時はやるんです。
@@装甲猫 阿斗ちゃん…支えてくれる人さえいれば出来る子だったのか。というか、諸葛亮さんが死んだ後にそんなこと言うやつがいたんですね。同僚に気を遣って頑張ったのに……(T_T)
いつも楽しく見せていただいています
可能なら傅彤傅僉親子のどちらかの紹介をしてください
楽しんで頂けて何よりです。
傅彤・傅僉は烈士というべき人達ですよね。
リクエストノートに追加しておきますね。
@@装甲猫
返信ありがとうございます
あの2人の最期が格好良くて好きなんです
私もカッコいいと思います!
諸葛亮も馬謖も、経験が足りなかったってのが、結果として出てしまった話だよね。
例えば劉備が馬謖の立場なら、山に登るか麓に陣を張るか……少ない自軍を更に分けてゲリラ戦術をしたかも。
戦略を練るのは上手でも、戦術まで落とし込めてない辺りに、限界あったのかな。
北伐の失敗は諸葛亮の責任が大きいって思っている。
惜しむらくは王平が主将で馬謖が副将であったなら守り抜いたかも知れない。
知識と応用力が災いした戦いだと思う。結果論ですけどね。
本当は馬謖は王平解説とセットで、街亭の戦いを王平の視点から解説する予定だったんですけどね。
佐々成政と並ぶ登山家(なんの成果も得られませんでした)馬謖はもう少し副将として戦場の経験を積められていたならと思います。劉備みたいなワンマンじゃない人の所(趙雲あたりがよかったかも)ところで高翔の名をここ(列柳後詰)以外でほとんど聞いたことがないのですが、実際にはどのような方だったのでしょうか。
日本アルプスを越えた男ですね~
高翔は何気に武官では五指に入る高官ですね~
漢中争奪戦でも陽平関を守ってましたし
動画投稿お疲れ様です。今回も楽しく、興味深く拝見させていただきました。
早速ですが、投稿のネタがかぶるというのはやむを得ないと思います。投稿される方々、そのれぞれの解釈、意見が分かれるところは視聴者側としては総じて面白い部分だと思います。大切なのは色々な方が意見、考えを出して三国志というコンテンツを盛り上げることが全体の活性化につながると思いますので、クレームなどには負けず、持論を展開していただきたいです。
さて、今回の件で気になった「派閥」の件ですが、本当に存在したかどうかは現代日本人の僕らには確認しようがありません。しかし、元々益州で仕事をしていた人にとって後から参入してきた荊州から来た人々は異質に見えたのではないか? 益州という仕事場が外から離れた村社会のような職場であったとすれば、外から来る人々の間に自然に軋轢が「派閥」という明確な単語を使わなくてむ生まれるのではないか? こう考えると現代の仕事、職場などでも起こりえる事なので非常に共感しやすい、受け入れやすい概念なのではないか、と思います。
次回の動画も楽しみにしていますので、無理をされずご検討ください。
なるほど、おっしゃる意味はよくわかります。
私自身も北伐賛成、反対、中立、と色々とあったと思います。
今後も気付きがあれば是非ご教示をお願いします。
@@装甲猫
コメントありがとうございます。
僕の言ってることは何らかの物証を持ってこうかもしれない、ではなく「そんな気がする」程度の内容です。教示などとんでもないですw
こちらこそ、今後も勉強させていただければ幸いです!
ではお互いに勉強させて頂くということで宜しくお願い致します
質問です。曹真は趙雲と、張郃は馬謖と対峙していた・・・、孔明と対峙していたのは誰なのでしょう??
蜀側からとは別に魏側から見た孔明の北伐戦線も見てみたいです。あっちこっちで火の車だったのでしょうか?
諸葛亮は恐らく祁山素早く陥落させると本営を置いて各地に部隊を派遣して宣撫を行っていたと思われます。
次の王平紹介動画で解説しますが、馬謖を送り出した時点では、魏の援軍の規模も誰が率いて来るかも不明の状態なので、魏側の手札を確認してから動く予定だったと思います。
詳しくは王平解説の図をご確認下さい。
なるほど。ささっと進軍しちゃえばいいのに、と思ってしまたワタシは素人ですね・・・。
孔明の立場が弱かったのでしょうね。荊州を失い蜀だけになった以上、旧劉璋家臣、もともと蜀の地にいた人々の力が相対的に強くなっていく。孔明の手先となりそうな荊州の人々は早死したりして少ない上に自らの地を失っている。この状態で無理に愛弟子を抜擢ししくじったら愛弟子は死ぬしかないでしょう。
手駒が少なかったというのはそうでしょうね
夷陵の戦いの時点ですでに趙雲以外の五虎将は死んでいるしね。一族の2代目からまあまあ体制を立て直した魏や、子飼いの武将に防衛ラインを託すことができた呉と違って、蜀漢はこのあたりが世代交代の際に断絶していて本当なら魏軍相手に大戦争なんて仕掛けられる状態じゃなかったのよね。
馬謖の一番の失敗は味方を置いて逃げたことでしょうね。戦に負けるのどんな有能な武将でもあること、冷静になり撤退戦を上手く指揮をすれば処刑されることもなく降格で済んだかもしれない。馬謖を軍団推挙しないといけない程に、信頼できる戦のできる武将が蜀にいなかっのかもしれません。夷陵の戦いの大敗は大きかったのでしょう。相手が魏軍でも戦上手の張郃というのも不運ですね。馬謖が生きていたら諸葛亮も、もう少し長生きできたのかもしれません。
そうですね。同感です。撤退戦を上手く出来ていれば道は開けていたと思います。
他の方のコメントでも書いたのですが、私の推察では馬謖は将軍達に対する作戦指導はしても実際に兵を指揮するのは配属された将軍達だったので、そういう完全な指揮権を持っていなかったという要因もあったかもしれません。
机上の空論では勝てない。
実戦の経験をもっと積ませておけばよかった。
22:49 祭日や忌日をわざと狙って・・・
つい最近でも3月11日の東日本大震災10周年当日にロシア軍9機が領空侵犯して航空自衛隊がスクランブルしてましたね
私は正月なんかに出陣するのを知った時に咄嗟に真珠湾攻撃を週末に行ったのを思い出しました
形にはまれば最強だが変幻自在の術をもたぬのはまるでわしのようではないかw
イリョウの戦いで馬謖を連れていけば面白かったかも。
夷陵…役に立ったかなあ?
某考察動画で第一次北伐で馬謖がアホだったから負けたいう感じで結局講談調かよとガッカリしてたんですが
そんな講談調が占める三国志関連動画で本動画が一番現実的で良質な物だと思います
端的に言えば第一次北伐で蜀は奇襲に対し魏が即応する事態を想定しておらず馬謖は山に追い立てられたんろうと
すいませ~ん。
こちらのコメントもTH-camのシステムに引っかかって保留されてました(汗
随分と遅くなって申し訳ありません。
馬謖はアホではないですね。
襄陽耆旧記の記事が本当なら兵の人気もあったし、蒋琬など他の人物からも評価されていましたので。
その内に戦史シリーズで北伐解説もやる予定ですが、当初の目論見では、魏には兵はあっても将がいない状態になるはずだったんですよ~
@@装甲猫
自分は歴史軍事系を主に見てますが、かつてC-POMって人のチャンネルがデタラメ吹いてたんで厳しく指摘したら正誤そっちのけでコメントバンされた事があるのでそのせいなのかも
ご教授ありがとうございます
ただやはり疑問に思うのは、
『印綬は形式的なものでその上下関係は考慮する必要がない』
というお考えと
『参軍であれば、相手が誰であろうと、たとえ別組織であっても、軍令を下せる権限がある』
というお考えは
いささか行政における組織.秩序統制に矛盾を生じるものではないか?という疑問を抱きます。
軍事機構は秩序を以て統制される事で、その機構組織と兵力は始めて戦力として機能成立します。
ゆえに、機構組織の円滑な運用において上の命を下に達するためはその階級が持つ資格は下官に対して(基本的には)絶対でなければなりません
なので例えば征北将軍が率いる軍機構内においては、上官の命は下官にとっては抗い難いものでなければなりません
それを目に見える形で顕し担保したものが印綬です
貴卿がご存知の通り、印綬とは
皇帝大権をその当該懸案事項において
担当する職事官に権限を施行させるためのものです
百官公卿表訳注の言を借りるなら
席次格式によりその者の身分を担保し当該指揮の機構組織内における序列が定まる事で、遅滞なく運用する事を目的とします。
これがすなわち印の材質とその形状、そして綬の持つ意味です
職事官の官職名は、当該政策事項における皇帝大権の代理施行者である事を示すと同時にそれが職掌である事を明文化させたもの。
これが印に彫られた官職名です
また
上意の具体的な内容を竹簡に記したいわゆる"信"を当該職事官の印で泥封する事により、その行政効力は始めて符命として有効となり
これらの仕様以て秩序とし、上意下達を遅滞なく遂行せしめる事で軍事機構組織は始めて運用でき政治目的を達成できると言えましょう
信の様式が竹簡から紙に移るまでの間は、この手順用法のまま軍令形式は保たれます。
また一部は西晋初期まで竹簡符命による軍令様式であったと言えます
少なくとも漢末~三国志時代は軍令はまだ竹簡による符命で印綬による軍機の構運用を担保施行していたと言えます。
ゆえに、その当該機構組織内において印綬における上下の序列は絶対的で抗いがたいものでなければ組織は組織たりえず、それが基本でなければなりません。
また、ある機構組織の中間管理職者が、別機構の組織の管理職者に直接命令を下す事は出来ません
解りやすく極端な事例を例にすると
曹魏皇帝親征があったとして(現実には、起こり得ませんが)衛将軍府南宮衛尉寺の衛司馬や参軍、もしくは幕僚総長たる鎮軍大将軍の軍司馬や参軍が
征西府の軍司馬や参軍に、直接軍令を下す事はありえません。
一度、話を南宮衛尉や衛将軍や鎮軍大将軍に上申し、軍僉議にかけ皇帝の親裁が下るもしくは組織トップ同士の要請という形を取り、はじめて征西府に大命もしくは符命が下る、もしくは要請が通り発兵となる…いずれにせよこのような遠回りの形をとる事になります。
これが組織と組織の関係の原則です。
そうでなければ秩序は成り立たず
またそのような秩序がなければ『承制』などにみられ る特例制度を設ける必要もありません。
承制は行政人事のだけの特例なので、軍事とは関係ありませんが、
原則がシッカリ機能しているからこそ逆に融通が効かず、原則を特例により省く事で柔軟性を高める必要がある、
その事を特例は意味します。
魏武帝と馬騰連合による郭援攻めも同じであるといえます。
もし貴卿のおっしゃる事が正しいのであるならば
司徒府の長史や従事中郎や参軍ら幕僚がアゴで、別機構組織の銀青武官たる征西将軍の馬騰や征西府の軍司馬らに直接符命を下していた事になります。
それが当該戦役において現実に起こり得ると判断してよいのものなのでしょうか?
そもそも柔軟な官職運用を行う曹魏でさえも当時の参軍には軍事指揮権は無いのでは?
張飛の下弁侵攻に対して、わざわざ魏武帝が、騎都尉曹休に対して曹洪軍の参軍事を兼帯させ
太祖謂休曰「汝雖参軍,其實帥也」
と釘をさすものでしょうか?
ただの参軍にはもともと、軍令を下す権限が無いから
"お前が全軍の指揮をとれ"
とワザワザ釘を差した上で全軍指揮権のお墨付きを与えなければならなかった状況を鑑みると、
やはり参軍は軍事におけるオブザーバーであって指揮権は無いと判断するのが自然では?
指揮権があるならば、このように改めてお墨付きを与える必要は無いと考えるのが自然だと思います。
これらにの事由を以て拙者は疑問と考えます。
ゆえに、参軍が所属とは別組織の軍機構に将軍校尉を頭ごなしにで直接符命を下したり、機構トップの将軍に直接符命を下す権限は原則無いと考えます。
李漢北伐軍で丞相府参軍が別組織の軍.部曲や将軍に符命を下せたのは(または、下せたように見えるのは)
作戦立案と遂行軍令を丞相府で行っており、長史を筆頭とする丞相府幕僚がそれを担っていたためである事
丞相府幕僚達は丞相府官属官職とは別に、銀青官職の本官に補任、二官兼帯されており、(馬謖は太守解官の記述はないので、兼帯ならば銀青職事官)
別組織の独立各軍.部曲を率いる銀青武官と丞相府幕僚は同格である事。
また各軍.部曲のトップである銀青武官も、丞相府内の官属官職を兼帯させられ丞相府内に縛られている事
この事により丞相府幕僚は、
軍僉議を名目に、又は丞相忠武侯の名義で、各軍部曲に働きかけができるようになり
なし崩し的に幕僚より直接符命を下せるように見える現象を現代の我々が目にする事に至った特異な事例です。
なので
史実と諸事情を考えるに
本来大夫の身分である参軍が、
『兼帯無しの参軍の身分だけであっても、またたとえ別組織であっても、参軍と言う官に就きさえすれば、誰彼問わず格上の諸卿亜卿の銀青武官でさも符命を下す権限がある…』
と言う事は原則から逸脱するのではないか?
あくまで、李漢北伐軍の連合組織内で起こった特種特異な事例
もしくは忠武侯諸葛亮や主君の符命による別した特例によるものである
と
拙者は愚考します。
コメントありがとうございます。
すいません。どうも話が食い違って、ちょっと私がしてる話とは違うかなぁという気がします。
>『印綬は形式的なものでその上下関係は考慮する必要がない』
繰り返しになりますが、以前にお話したように、印綬の格の上下で指揮権は担保されず、あくまで職に付属する職能として有る、という事です。
そのための証としての印綬については仰る通りなので繰り返す必要もないかと思います。
だから印綬の格でいえば金印紫綬を貰った列侯は、格下である銀印青綬の官吏に命令権があるか?
答えは否。命令はその職を持った者からしか出せない。という事ですね。
>『参軍であれば、相手が誰であろうと、たとえ別組織であっても、軍令を下せる権限がある』
これについては主張した覚えがないので、全く分からないです。
そもそも先述の通り「指揮権は職能として担保される」というのが私の考えの根本なので、正否でいえば、私は否と答えますが…。
また参軍に諸将を率いた類例は数多くある事は指摘の必要もなくご存知かと思いますので、参軍は軍職である、という当初の話とも特に変わっていないと思うのですが…。
鄭問之三國誌というゲームの馬謖の能力が「まさしく」といった感じで無能ではないが有能でもなく、つかいどころを間違えれば意味がないといった点でよく表せれてるな~と。
統率7 知謀25と作戦立案は得意だけど前線指揮には…という
浸透襲撃さんところで紹介してますよね~なかなか面白そう
馬謖が斬られた本当の理由は、街亭の戦いで負けたときに亡命しようとしたかららしいです。
馬謖の死に際しての記述が関連人物の伝によってまばらなのはなんなんでしょう…?馬謖のみを処刑したような記述もあれば、馬謖を含めた将軍を処刑、格下げした、という記述もありますし。
馬謖の伝では獄に下ろされてそのまま亡くなったような表現になっているのに、向朗伝では逃亡を図ったと記述されていて混乱してしまいます。
そうですね、複雑なので今回は一番オーソドックスな説を採用しました。逃亡説については以前に向寵紹介動画の中で触れてますのでそちらをご参照頂ければと思います。
第一次北伐の時点でもっとベテランの武将がいれば、魏延や呉懿の意見にこだわる必要がなく馬謖を起用せずとも済んだのかもしれないな。泣いて馬謖を斬るは、本当に人材不足だった蜀漢に対する諸葛亮の無念さだよな。
何にしろ夷陵での敗戦が痛かったですね。
あの時に蜀の人材がごっそりいなくなりましたから…
諸葛亮と馬謖は9歳違いで、諸葛亮没時に生きていたら44歳かぁ。
生きていたら、蜀漢の人事どうなっていたんだろ?
まさか馬謖の正史を知って涙するとは思いませんでした
ありがとうございます。目論見通りです(笑
実戦経験がほぼない若手の頭でっかちちゃんを起用して
案の定大失敗というところでしょうか
社長である劉備はその点をズバリ見抜いていたけど
孔明は直属の部下可愛さでその点を正しく見抜けなかったみたいな
現代の企業でもよくある話のような気もします
コメントありがとうございます。
地図、地形を見ると馬謖のこれまでの偏見が変わるが王平の意見を取り入れなかった器量の狭さが馬謖の不幸を招いた。
要は
「人の助言は素直に聞きましょう。」
という教訓。
ありがとう、馬謖
サヨナラ、馬謖
実は馬謖は軍略に通じていたがために、王平の諫言を受け入れない明確な理由があったんですよ~
まあ生兵法は、というやつなんですが(笑
馬謖は軍略練る事は出来てもいざ自分がその場に居た場合は全く生かせない。
戦国時代のホウケンと一緒。
あらかじめ決まった事は出来るけど柔軟に対処は出来ない。
兵学者だったんだろうと思われます。
兵を捨てて逃げ出すのは最悪。
運が悪かったと言うよりは資質の問題だったと思う。
経験積んでいたとしても疑問に思う。
劉備の見る目は確かだと思う。
人生経験を余すことなく生かしてる。
孔明は文官は確かだけど、軍事に関しては微妙と感じちゃいますね。
前線に立たずに居たら果たしてどうだったのか。
もしかしたら違った結果になっていた可能性も有る気もするけど。
兵学者だった、というのは確かにそうかも知れませんね。
諸葛亮は文官は確かだけど軍事に関しては、というのも同じくです。
だからこそ、劉備が武を諸葛亮が文で車の両輪のようになれたんでしょうね。
当初予定の通りの天下三分の計が実施できていたら、と思います。
この時、確か馬謖は40歳近かったんでしたっけ。若手というには歳をとってるけど、蜀の人員の少なさを考慮すれば、この配線を糧にして行った方が後々の蜀漢の戦役に・・・役立つかなあ・・・。そもそも国力の差が・・・。
敗戦によって大きく成長ってバトル物の王道ですね~
一番アカンのは地理的条件(都から遠い)。
劉備建材時の人材は魏や呉に劣るとは言い切れないと思っているので、巴蜀を統治するのに適した人材が政治軍事共に少なかったんじゃないかと。
あとここで出てくる鄧方って鄧芝の関係者なのかなぁ。同じ荊州出身者だし。
いえ、出身郡が違うので鄧芝とは違う一族だと思います。
陳寿は記録が残ってないので伝が作れなかったと書いてるんですが、季漢輔臣賛では法正・龐統・黄忠・董和の次に書かれており全体としてもベスト10に入る重要な人材です。
南中の反乱を考察する時には外せない一級の人材ですね。
正直なところ、俺は馬謖が死んだのは自業自得だと思うな。
確かに計算外の要素が多くあったのは事実かも知れないが、一番の問題は自分が計算外の事態になった時にキチンと対応する能力がない事を自覚していなかった事。
(もしくは想定外の事態の発生リスクを認識していなかった事)
己を知らないのに、蜀の国運を賭けた大任を安易に引き受けた時点で馬謖の限界は見えていた。
諸葛亮にもやはり責任があると言わざるおえない。
個人的には馬謖は外交官に向いていて将軍の適性はなかったと思う。
手厳しい評価ですね。ですが一理あると言わざるを得ないです。
国家を背負った戦争である以上、「予想外でした」では済まされませんからね。
@@装甲猫 世の中全般に言える事ですが、重要な事柄を行おうとするときは常に「最悪」を考えて行動した方がいいと思います。
馬謖の件は自分にとっても当てはまる可能性がある事なんで、注意していきたいですね。
アルピニスト登場…!?
登場です(笑
魏延か呉懿に任せるべきでした。
索敵を怠り、前提条件が崩れた事の報告及び軌道修正を出来てないので、やはり軍事に置いては無能でしょう。調略に長けてるのなら、前提条件の確認を何よりも重んじると思うんすけどねぇ…。
次の解説動画を観て頂くと「それで王平の諫言を聞かなかったのか~納得。」となる予定(私の中では)なんですけどね馬謖。
張郃はさすが飛将軍だなあ(三国志13脳)
張郃は名将、間違いない
劉備も夏侯淵より彼の御首を欲しがって…つまりは恐れていたぐらいでしたからね…。
あの発言は半分は本音、半分は強がりなんじゃないかとは思いますけどね。絶対、心のなかでは大喜びだったと思いますよ~長年負け続けた曹操相手に会心の勝利でしたし(笑
馬謖が街道を封鎖せず敢えて山上に布陣したのは、魏軍を引きつけて諸葛亮の率いる本隊に楽をさせようと考えたからかもしれない。
その考察、私も支持します。馬謖が王平の進言の意味を理解できない訳もなく、孔明とて街亭を重視して軍を派遣させたわけだから、孔明からの援軍を頼んでの布陣だと考えます。しかし肝心の孔明が援軍を出す所か一切本陣から動かず、高翔が郭淮に打ち破られている際も孔明は軍を動かしていない(記述ないだけかも知れないけど)。もし孔明が即座に状況を判断して魏延や呉懿を援軍に派遣していれば魏軍は挟撃される形になるので、結果はまた異なったんじゃないかなあと思います。
楽出来たのは、魏軍でした…結果的には。
こちらでも意見の交換がされてる。嬉しいです。
モッチー2643さん
私も馬謖は諸葛亮本隊のために無理してた、と思います。
オコジョ番長さん
諸葛亮の対応について一応弁護してあげると、馬謖が街亭についてから隴関方面に偵察を送り、事態を諸葛亮本隊に知らせるまで、4日~7日前後掛かるんです。
伝令馬が一日に進めるのは大体50キロ前後で、だから街道沿いに換え馬を用意してるんですが、蜀軍の進撃路は整備された街道ではないので。
だから報告を受けたあとに諸隊を集めて援軍が進発して間もなくには敗報が届いたと思います。
また列柳城にいたはずの高翔は野戦で撃破されてるので、馬謖の敗退を知り、救援に向かったか後退したかの途中で敗れてるんです。
だからこういう時間的な余裕が与えられなかった馬謖が悲運の一つなんですよ~
因みに此れに付いては面白い考察が在りましてもしも孔明の命令通りに布陣していたら史実より早い日数で潰滅していたかも知れないという説があるそうです。(何故そうなるのかは今一つ解りませんでしたが)あと王平の諫言を却下したのは王平が元魏の降将で異民族出身者という経歴から彼に猜疑心を抱いていたのではないかという説があるそうです。
おお、そんな説があるんですか!
それは是非聞きたいですね!
…いや、ちょっと待って下さい、それもしかして孫子関係あります?
あったら私と同じ解釈でネタバレになるかも知れないんで言わないで下さい(笑
諫言した王平にも考えがあり、用いなかった馬謖にも考えがあり、両方納得できる考察を用意してるんで。
馬謖と並べて語られることも多い机上の秀才・趙括も、丁寧に史料を紐解いて考察していけば彼なりの理が見えてくるのかな?
とは言え張コウがかわいく思えるような正真正銘の怪物が相手ではどうにもなりようがないだろうけど。
そうですね〜
基本的には実施する前に失敗する作戦というのは存在しないので、やる前には十分に理があったんじゃないでしょうか?
かなり馬謖に同情的ですね。成程一つ一つ検証すれば単に馬謖が将として無能だったとは言えないし、孔明に対する孝心?が彼の判断を狂わせたという見方もできなくもありませんね。
自分はあるネット記事?で馬謖が斬られたのは収監後、守衛に頼んで魏に逃亡を図ったのが理由だというのを見てかなり彼の印象悪くしてますが。
確かに敵前逃亡ではないですがこれは蜀の国是として許されない反魏への逃亡なので孔明はどうする事もできませんよね。楊儀も費イに魏に下っていたらと嘯いたのが決定打みたいですし。そういう意味で泣いて馬謖を斬るの孔明の心情は彼への同情ばかりではないように思えます。まぁ、自分の読んだ記事の内容が何を元にしてるのかはちょっとわかりませんが。
コメントありがとうございます。
たぶん、そのネタのもとは私の動画の向寵の方に出てますので興味があればご観覧下さいませ~
まあ、ネットの情報で特にソース元を明かしてないものは、ほぼほぼ誇張が入ってますよ~
馬謖が魏へ逃亡したなんて嘘ですし(笑
なかなか見ごたえのある面白い解説でした。
ただ、派閥はないっていうのだけはものすごい違和感ですね。
私はずっとフリーランスで外で働いたのは、バイトと派遣位しかないので、社員として内部で社内観察したことがない身ではあるのですが…
派閥がないなんてことはありうるのか?というのが疑問です。
人間関係は、ちゃんと考える者、考えない者がいる時点で術の人が平等なんてありえないし、能力差は出てしまいます。
だから、考えない者は考える人に付き従うのが自然だと思います。
そうなると自然に派閥ってできるのではないでしょうか?
現代の会社内部での派閥の出世とか、政治の世界でも宏池会など派閥はあります。
荊州閥、益州閥というのは、劉備が荊州にいたころに配下に加わったもので構成されていて、益州閥は元々劉璋に属していた者たちで構成されていて、それらの派閥が争い合っていたと考えるのが自然だと思うんですよね。
現に当時の三国志世界でも、呉では孫策が豪族を殺しまくっていたから、孫権は最後まで、それらの豪族を心から信頼することができないのを呂蒙が理解していたから、自分の後釜は陸遜といっていたにも関わらず、死に際には陸遜ではなく朱然を後任に推したっていう。
長々と室れしました。
コメントありがとうございます。
う〜んと、仰ってるのは派閥というよりはグループという奴だと思います。
正確にいうと派閥というのは政治や地縁などで結びついた排他的な対立集団なわけです。
この場合は政治派閥という事になりますが、それを形成するには主導者・主張・構成員が最低限必要なわけですが、派閥説はこれらを具体的に説明して無いんですよね。
つまり「⚪︎⚪︎が旗手となって××らが属した集団がこれこれこういう主張から△△らの派閥と対立した。その根拠は史書のこの部分である」という具体性のある指摘が無いんですよ。
簡単に言うとクラスの中で仲の良い者同士のグループが幾つか出来ている状態って当たり前だと思いますけど、これを派閥抗争って言わないと思いませんか?
@@装甲猫 さん。
他の動画も観て改めてやっぱり知識量がすごくて全く敵わないなと思いました。
今回のテーマである馬謖のことは一旦おいておいて、派閥の話をします。
馬謖のところはその通りかなぁと思います。
同じことを言ってしまいますが、現代でも自民党は一枚岩ではありません。
これは自民党に限らずどこの政党も同じだと思います。
だから、派閥がないって思えることが不思議なんです。
書いてないからない、説明してないからないのではないか?
というのは…う~ん、素直すぎるというか人を信じやすい日本人らしい考え方だなと思いました。
でも、説明というか派閥があるらしきことは書いてありますよ。
劉備が負けた時に諸葛亮はこんなことを言っています。
”法正どのが生きていれば、陛下(劉備)の東征を止められただろう。
もし止められなくとも、今回のような大敗はしなかっただろう”
ということは、劉備と諸葛亮の晩年は相当間柄は微妙だったのではないか。
相談される立場にもいない。
だから、劉備は諸葛亮を信じ切ることはできなかった…が、蜀の中を見渡すと諸葛亮しか後事を託せる人物はいない。
荊州閥の諸葛亮に後事を託しながらも、それの抑えとして益州閥の李厳を立てた。
その証拠に、劉備が諸葛亮に後事を託した言葉で有名な”君、自ら取るべし”は、君が取って代わってくださいという意味ではなく”あなたが正しいと思うやり方でやってください”という意味で言ったという。
三国志の時代だって、政治ですし、国を運営しているんだから全てが一枚岩で動いているというのはあり得ないと思うんです。
仲のいい同士のグループだけで国の運営ってできるのかなぁという…
というのは全部読んだ本の受け売りなんですけど。
三国志にあまり詳しくない一意見でした。
とても、動画の質が高く、おそらく三国、中国史系の動画ではNo.1だと思っていて楽しみです。
今後も解説動画が出てくるのを楽しみにしています。
心のこもった返信ありがとうございます。
そうですね、私も一枚岩であったとは思っていないです。
誤解を与えてしまったようで申し訳ありません。
先の末尾に書いたように、考え方がそれぞれ違ったりするのは当然と認識しているので、つい書き損ねてしまいます。
私としては一枚岩派でも派閥抗争派でもなく中庸派と言いますでしょうか、派閥だけに(笑
それぞれ目的や考え方は違いつつも、大局的には和合していた、というスタンスですね。
何故なら法正にしろ、李厳にしろ、益州人士の主流派ではない、という点が抜けていると思うんです。
李厳が益州に来たのは208年、実に劉備が来る僅か5年前であり、法正は張松に推薦されて荊州の使者になるまで大した職にもつかず士大夫層には干されてました。
もし益州閥なるものが存在して地縁をもとに結束するなら張裔の方が妥当でしょう。
地縁ではなく政治主張をもとに結束するならば、そのための主張とは何か?
その主張に与したのは誰で何故与するのか?が派閥抗争有り派から具体的に明示されないといけないかと思います。
なので国内にはそれぞれにグループは有り、当然お互いに出世やポスト競争なんかもあったでしょうけれど、国政を左右するほどの派閥抗争と言えるものは無かった、と断じている次第です。
劉備と諸葛亮の間柄についてですが、ご指摘のような意見は目にした事があります。
が、これはむしろ逆だと思います。
何故なら劉備は自身が出征した後の代行権を諸葛亮に預けて出征したんです。
むしろ劉備が諸葛亮を信用していた、という証左になると思います。
劉備は軍事的な諮問対象としては法正の方を重んじており、法正なら軍事的見地から説得してくれるかも知れず、法正が生きていれば当然その参謀として同行させるだろうから大敗はしない、と考えたのだと思います。
@@装甲猫 さん
返信遅れてしまいました…
すみません。
なるほどです。
確かにそうですね。
法正は諸葛亮にも小人と思われていたっぽいですもんね。
確かにそういわれるとそうかもしれないです。
私が思うのは、
馬謖は司令官、その下に将軍達、王平は副将、
なら将軍達何してたんでしょ?
揃って敵前逃亡カマす所から察するにイエスマンしかいなかったとすれば、これも馬謖の運の無さとなるのでしょうか?
コメントありがとうございます。
疑問にお答えすると、実は王平を「副将」としてるのは演義とそれの派生で植え付けられた勘違いなんです。
司令官:馬謖
実戦指揮官:将軍達
実戦部隊長:王平他20人くらい
というイメージです。
細かいけど須くの意味間違ってると思う
ホントだ。ありがとうございます。こうやってリスナーさんの指摘を受けられるのはありがたいですね。
馬謖逃亡のエピが入ってないやん?
確か…向朗のトコにでしたか。
むしろ軍兵捨ててトンズラが死を早めた…。
コメントありがとうございます。
その話しは以前の動画でやっちゃったんですよ~
それですね
@@装甲猫 そうでしたか!ありがとうございます
そうそう、向朗が逃亡に手を貸してしまいそれが元で一時期失職してしまうんですよね~
この逃亡も斬刑になった一因かと…
まさにその通りの解釈を向寵動画で紹介してますので宜しかったらどうぞ。
敗北だったら処刑まで行かなかったんだろうけどね。
出たw
三国志時代きっての登山家w
三国一ですね