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姜維の小説amazonとpixiv両方で読んでます。おもしろいです
本当にありがとうございます(´;ω;`)嬉しいから固定にしちゃお(ぇ
司馬懿「儂ももう高齢。曹操様や偉大なる先輩方のやり残した中華統一がまだ成し遂げてないのに若造共と権力争いしてる暇はない!一時的に儂が権力掌握して中華統一をなそう」息子二人「ようやく父上は愚昧な皇帝一派に見切りをつけられた司馬家がこれから天下をとるのだ!」ってアンジャッシュのすれ違いコントみたいな感じだったのでは、とふと思った司馬懿は曹操時代の優秀な先輩方と仕事してたから天下統一してないのに権力争いしてるのに嫌気はさしてたんじゃないかな、と
まとめとは、こういうふうにやるんだよ、という見本のような動画ですね。
褒められ慣れていないせいか、とてもむず痒い思いをしております(笑)
呉の人気がどうたらというより、うぷ主の説明が面白いから人気が出たんだと思います(呉の滅亡)
めちゃんこ嬉しいです(´;ω;`)
曹氏の右腕の夏侯氏が実はそこまで盤石ではなかったのが痛いよなあ
曹操が地方名士層を頼らざるを得なかった時点で難しいですよね。そもそも曹操自体がその儒教的価値観のシステムの中で評価されて名士となったわけですし…しかも、後漢における清流派の本場出身の荀氏、鍾氏、陳氏を引き込んだ時点でね、もうね……
確かに言われてみればそうですね。うーん、どれだけでも遡れてしまいますね……(笑)
呉は凄い見やすかったから、当然です。楽しい動画なら長い方が良いです。
ありがとうございます
14:15そういえば、曹叡には曹丕の子じゃないっていう説があったりしますよね。曹叡はちょいちょい悪く言われる風潮があるな〜。
曹叡が悪くないと、司馬氏の正統性も薄くなっちゃうから……なんて説も
知らない乱や変が横山三国志だけでは伝わり切れないのですね…
良くも悪くも劉備陣営の主観的な物語ですので
曹魏は曹操が親征を好んだこともあり、「地方軍が他国や異民族からの防衛を担当し、皇帝(かその代理の者)が一番強力な中央軍を率いて攻撃を担当する」という軍制を取っていた。この制度には「中央軍を握られたら地方に対抗できる軍が居ないので、あっさりと乗っ取りを許す」という問題があった。この欠点をいち早く指摘したのは司馬朗だったが、実際に魏を乗っ取ったのが弟の司馬懿とその子司馬師、司馬昭だったのは皮肉。
その結果が汝南軍の反乱であった感じですね
在り来たりのコメですが、非常に分かりやすかったです。目の前のモヤが晴れていくみたいに疑問が解けてスッキリしました
初コメです。いつも楽しく見ていますので応援してます。ところで呉の動画が好評だったとのところですが自分としては二宮の変っていう言葉はゲームで知ってたけど中身を知らない的な感じが良かったと思うので、そんな感じで実はあれはシリーズをたまにやったらいいかもと思いました。長文失礼しました。
流れで長文失礼って書いたけど思ったより長文じゃなかったので失礼しませんでした。
23:49皇帝が誰に謀反を起こすんだ?
〇曹叡の軍事センスの高さ◎登山家のやらかし
やめてください(by.馬謖ファン)(笑)
なんでや!川が近くて良い山だったんやで!!欠点は孤山ってとこで囲まれると兵站が終わるだけやぞ!
馬謖はなぜ登山に走ったのか?それはそこに山があったからw
しかし水という当たり前には欠けてた自分の隣にウォーターサーバーとタンク山積みしてないといかんまたは湧き水
6:50 今でも結構革新的な考え方ですな。
うぽつです! 呉の滅亡だけでなく魏の滅亡も取り上げて下さり嬉しいです。形は違えど魏も主君vs臣下の構図からは逃れられなかったのですね…。呉のように元々強かったのではなく、紆余曲折の末にひっくり返されてしまったと。
最初の頃は地方軍も曹氏、夏侯氏でちゃんと握ってましたからね
曹操は皇帝にならなかったのは、皇帝を名乗ると、他の英雄たちも皇帝を名乗るかのうせいがあるため・・・そのため皇帝になるチャンスがあってもなれなかった・・・
曹操は人事の天才だとも思います。他の国では王の有力配下同士が意見が割れて、角突合う状況にまでなってしまうことがあったようですが、曹操の魏ではそれこそone teamだったような。もっとも曹操は問題が大きくなる前に部下を粛正もよくしていたようですが、それでも有能な部下たちは決して思うところを委縮せずに伝えていたと思います。このような環境を作ったという点も含めて天才だと思います。
そうそう(曹操)、まさにその通り。
粛清!!!
一方弱いくせに全てを自分でやらなきゃ気が済まない劉備さんよ…。笑
魏の明君曹丕、曹叡。呉の将来を嘱望された太子・孫登は早世し、劉禅が長生きしたのは歴史の皮肉だと感じますね。余談ですが、曹操は信長と司馬懿は家康とやってることが似てますね笑主さんの動画は30分超えても長いと感じません。年末に総集編的な動画1時間チャレンジ希望します笑
ちゃんとみてくれますよね?(圧)
劉禅は暗殺するより傀儡にしたほうが便利。
@@KOUMEI_NO_WANADA 2時間動画でも観ますよ笑
@@lemonsoup1920 主さんの劉禅動画を見ると、演義ほど無能な人間って感じはしなかったですが、曹丕や曹叡、孫登と比較するとちょっと物足りない感じがするんですよね。黄皓の言いなりになってた話も本当かどうか…
曹操の子孫が短命てのもあるけど、曹叡より前に司馬懿が亡くなっていたら、曹叡を継ぐ太子が20超えていたらわからなかったね。軍事の名君だったのに、孔明が亡くなると曹叡が建築と女に走って。それまで儒家の名君だったのに、統一したら司馬炎が贅沢と女に走った挙げ句太子が…。緊張が解けたんかな?
司馬氏は名士の代表者として国政の頂に立ったわけで、そうなると各地の有力者にも配慮しないといけなくなり、アホみたいに婚姻を結ばなくてはいけなくなったみたいな話もありますね。
@@KOUMEI_NO_WANADA 司馬懿が8人兄弟だったのはこういう交流を広げ一族を広げるには役立ったのかも。
素晴らしい
やっぱ司馬炎って名前が強そうなんだよなぁ……魏を燃やしちゃうんだもんなぁ……
中二心をくすぐりますよね(笑)
その炎は自分も燃やすことにw
司馬炎の息子は中国史上できの悪い皇帝。
曹叡最晩年から曹芳の間、倭国の一部から朝貢があるも、司馬懿のクーデター直前くらいから朝貢の記録がなくなり、派遣されていた役人も帰っていることからも、魏国内が分裂に近い状態で外交どころではなくなっていたのではないかなと思いますね。三国志の著者も蜀漢と西晋に仕えた人で、魏の正統性を担保しつつ司馬一族を良く書かなかった可能性もあり、曹叡が仮に毒殺であっても病死になるだろうし、曹髦の件も成済一人に弑逆の罪を押し付けて殺しているが、司馬昭の見解がそのまま乗っていたりもするので何ともですし、中国史は基本的には後の王朝が作るから、どうしても滅亡間近の皇帝は悪く書かれてしまうからね。
5:32くらいからの曹丕と曹植の説明、逆じゃないですか?
司馬昭は三國志の中で1番好き悪辣ながらも、それでいて多大な功績を残してるのか凄い!
歴史に「If」は禁句なれど、こう思わずにはいられない。せめて曹叡がもう少し生きていたなら、と。この動画とは別に「三国で最も早く滅んだのは魏である」と唱える学説を聞いたことがあるけど、同感である。
このチャンネルは面白いと思います曹操が好きなので曹魏の乗っ取りは悲しいですよね😭曹操が1番後を継がせたかったのは曹仲でも、この曹仲が早死にしちゃったんですよそれで迷ってたところに賈詡が袁紹のことを考えてたとコメントしたため、曹丕に継がせることになったって言われてますよね皇帝の謀反ってのも酷いですよね
いくら曹操でも、社会には勝てなかった……
呉の滅亡動画が好評だったのは、ドロドロの人間模様が実は好きって人が結構多いからじゃないかと。
昼ドラ理論……(笑)
魏国成立以降の優秀な一族の曹真曹休は曹操時代の遺産だもんなぁ…それ以降一族で誰も優秀なのが現れなかったのが魏の痛いところやね曹操にとっての曹仁みたいな優秀で尚且つ血が遠くて争いにはならないみたいな人材はいなかったんだろうか…
曹丕の代で多くの有力な皇族は力を削がれてますからね。若手で有力だったのは、パッと思いつく限りでは夏侯覇くらいだったんじゃないかなぁと(゜ω゜)
@@KOUMEI_NO_WANADA 夏侯一族いましたね…そう言われると先程の例は夏侯惇の方が適切かもしれないですね曹操が最も厚遇している家臣が一族ですもんね…
曹爽が曹休ぐらい有能であれば、このような事態を招かなかったかもしれませんね。
司馬懿の功績が圧倒的すぎた……(゜ω゜)
クーデター直後にはまだチャンスがあったのに司馬懿の約束にすがって降伏してしまった・・・
そもそも織田信長の時代(1550〜あたり)ですら人間50〜と謳われていたのに70過ぎまで生きる司馬懿や劉禅が凄すぎる
孫権ほどじゃないにしても曹操もそこそこ長生きだったのに孫権とは逆に後継者が2代続けて早逝だったのがねぇ。流石の賈 詡もそこまでは読めないし
こればかりは神で無い限り分からないことですので(´-ω-`)
孔明も好きですが、司馬懿…かっこいいですねぇ…(小並感
めちゃんこ有能なんですよねぇ、ほんとに
司馬氏が国号を晋を選んだのは封爵の関係もあるだろうけど皮肉もあるのかな(戦国時代の魏は晋から派生)
コメントが皮肉に溢れておる……(笑)
そして戦国時代の晋のように分裂しているのも面白いですよね(`・ω・´)
音声だけで聞いていた自分。16:38の「対蜀漢の総司令であった曹真が~」のくだりの「対蜀漢」を「大食漢」と聞き違え、「確かに曹真は太ってたらしいから、大食漢だったんだろうなぁ。生活習慣病だったのかなぁ」と失礼なことを考えた。なんかごめん曹真。
曹操が皇帝にならなかったのは個人的には項羽の二の舞いを避けようとしたからと思ってます。仮にも漢に仕えていたから取って代わると収拾がつかなくなると思ったからかな?
やっぱり曹丕と曹叡の早世は痛いよなぁ。司馬懿、動きます。
ずっと司馬懿のターン
曹丕が40歳、曹叡が36歳ですからね😭
魏帝の後見人が曹爽ではね、、
おまけにそのあとの補佐が曹爽。オワタ…曹爽がもっと謙虚ならまた違う道もあったのかどうか曹叡が早死にした時点で、もう決まってた気もするが
魏に変わった晋の早期崩壊は司馬炎が「儒学の価値観に則って」嫡子の司馬衷を廃位しなかった事が響いたとも言えますよね。これが曹一族なら「あんな頭おかしい奴皇太子にしちゃダメだろ!年長とか関係あるか!」って瞬時に廃してたんだろうなと思えてくるのも皮肉なことです。
そうなんですよね、皮肉が効きすぎているというかなんというか……(笑)
発端は曹叡が早く亡くなったことだと思います。司馬懿は、曹叡に信頼されていてそれに答えて公孫淵の叛乱討伐も全力でしてましたし、後継者とその地位を固める時間があれば大きく変わっていたのではないでしょうか?
やっぱり、曹叡の期間がキーになってる感じがしますよねぇ……
曹叡36歳…オヤジの曹丕40歳…
呉の滅亡好評だったんですね!よくまとまってて見やすかったしリクエストしてみて良かったw後漢もそうだけど皇帝の早世による政争が響きますね。その点、滅ぼされる側の蜀漢は劉禅が在位40年で、国内のゴタゴタは殆ど無かったのが曹魏や孫呉と違くて興味深い。
蜀漢はパワーが内側じゃなくて外に剥き出しって感じですから、大きな政争を行えなかったみたいなイメージがあります(笑)
夏侯玄のことを詳しく取り上げてほしい・・・
リクエストはFANBOX限定となっていまして、申し訳ありません('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA Pixivは行ったことがないのでどうやっていいか分からずここにリクエストしてしまいました。申し訳ありません
世説新語の曹植の『七歩成詩』のエピソードエピソード自体は曹丕がそこまでの事(『七歩歩く間に漢詩が作れなければ処刑』w)するかと思うけど(粛清やるにしても言いがかりが強引すぎ。回りくどいし)紹介されている曹植がたちどころに読んだ(とされる)漢詩が皮肉も効いてる上涙も誘う(豆と豆がらを自身と曹丕の関係にたとえて無理難題を吹っ掛けられたことに対してもうまく切り返している)傑作だと思う
でもその後も容赦なく冷遇を続ける曹丕たん(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 昔はここで『曹丕は深く恥じ入った』とあるのを「反省して心を入れ替えた」の意味だと思ってたけどたぶんやり込められて『「ギャフン」となった』程度の意味なんかなあと思った(;´Д`) まあエピ自体噂話の類なんでしょうが
司馬懿仲達が、侵攻した八方向からの侵攻を八路軍です。中国兵を八路軍と言いました。
感謝
曹操が帝位に就けば、劉備の漢朝復興ロマンが勢い付く可能性もあったからからなぁ。魏自体が漢朝との二重政体だったから内部にリスクを抱えていたんじゃないかなぁ?まぁ、曹操のことだからそんな事は承知で敢えて帝位に付かなかったのかと。
自分は儒学云々に関しては余り関係ないかな、と思っているんですよ。だって儒学の徒筆頭とされる荀彧は郭嘉のような品行に問題ある人物を推薦していますし、彼及び息子は曹植派だったようです。司馬懿も九品中正法の改悪はしていますが、自身は鄧艾のような寒門出の人物を引き立てていますしね。何だかんだ司馬懿の代までは儒学一辺倒ではなかったと思う。大きく変わったのは賈充からだと思っています。
後になればなるほどガチガチになっていくって感じですかね(゜ω゜)
まるで、司馬懿は徳川家康ですなぁ。覇王信長(曹操)、黄金太閤秀吉(曹丕、曹叡)より長生きして、力をつけて、耐えて、反逆して、真の天下を得る。長寿はやはり、ものをいいます。本当に恐ろしい儒教の本を読むと、今日本国内にある問題が見えてきます。いやぁ今回は司馬一族(名士)の息の長い簒奪手段がよくわかるないようです。脱帽。
え?違うよ!豊臣秀吉(曹操)
なるほど才あるものは多少問題があっても取り立てるという曹操の方針は現代で言うと当たり前のように思えるけど、儒教の影響が強すぎる当時は革命的だったのかもね。また後継者をそれなりに有能な曹丕でなくて曹植に譲ろうかと迷ったのも曹操が重視したのが文学という事ならば話が通りますね。まあ推測の域は出ないですが、こういった推論ができるのも歴史の面白い所ですね。
後漢では皇帝を凌ぎかねない権臣に対しては宦官というストッパーがあった。事実閻顕や梁冀は権力、軍事力は宦官に勝りながらも宮廷クーデターで斃れた。竇武、何進は簒奪を目指した権臣ではなかったけど宦官に勝てなかった。比較して魏には宮廷において宦官の影がほとんど見られない。前王朝を反省して宦官を置かなかったのかな。曹操は宦官の孫なのに。司馬一族が我が物顔に振舞えたのも宮廷内で宦官の掣肘がなかったからのような気がする。曹叡以後の皇帝は司馬氏に一方的にいじめられて気の毒だ。
曹丕の代で、宦官が権力を持たないような制度を作ってますね。これも儒学名士層による働きでしょう。儒者からとにかく忌み嫌われていたのが宦官なので(笑)
高平陵の政変は「司馬師の、司馬師による、司馬師の為のクーデター」と言ってもいい。晋の実質上の建国の父は、司馬師。司馬懿は、司馬師の後継の為に担ぎ出されただけに過ぎません。司馬師が名実共に司馬懿の後継者として認知され、司馬家の当主となって実権を握っている事は、その後の人事で如実に現れています。司馬懿は実質太傅に留任しているだけ、司馬師は散騎常侍・中護軍から衛将軍に昇進しているのです。叔父の司馬孚は官吏の長である尚書令から、大臣である司空→太尉と異動になっていますが、実権は司馬師に握られていました。司馬師は249年から251年までの間に、苛烈なリストラと世代交代を進めています。司馬懿と同世代であった王凌・孫礼・胡質・杜恕・孫資・郭淮らを引退失脚に追い込んでいるのです。司馬師時代になると、胡遵・諸葛誕・毌丘倹・王昶・陳泰などが台頭してきました。太原の名士であった王凌粛清の影響もあってか并州で反乱が起きた際、司馬師自身が鎮圧に乗り出し、その後の晋国の基盤を築いています。司馬師が呉の機先を制して仕掛けた東興の戦い・諸葛恪が攻め込んできた合肥新城の戦いで総大将を務めていないのは、それ故です。武断政治家である司馬師は、その果断さ故、時に非情とも思える決断をしています。それが、先妻の兄である夏侯玄の処断です。その裏には、毌丘倹の要請を受けて、司馬師に無断で、夏侯玄が勅書の代筆を担当する中書令の李豊と張皇后の父張緝に働きかけ、太尉司馬孚を出馬させた事にあります。流石に、司馬師も叔父で天下の信望を得ている人格者の司馬孚を処断する訳にはいかず、代わりに名士である夏侯玄を斬らざる得ませんでした。諸葛恪来襲の国難に対して、毌丘倹・夏侯玄も処罰は覚悟の上だったのです。夏侯玄を殺した事を、儒学者から「義兄殺し」と非難されました。史料では、躍起になって正当化しています。「皇帝殺し」の司馬昭は、賈充の傀儡で優柔不断。果断な司馬師とは、雲泥の差です。毌丘倹の反乱も、戦功粉飾を問われて放棄した文欽の管理責任を口実に急襲しなければ、諸葛恪を道を塞いで防ぎ切った毌丘倹を簡単に撃破出来なかったでしょう。
夏侯玄が謀反で捕らえられたのはまあわかるのですが、曹芳が加担した疑いがあるので廃立??謀反というと臣下が主君に対するイメージありますが、実態は夏侯玄の司馬氏排除が失敗し、曹芳も加担の疑いありと廃立したということでしょうか?
文帝曹丕と明帝曹叡がもう少し長命だったら、魏王朝は長期安定政権に成れたと思いますよ。
ですねぇ(゜ω゜)
曹操は帝位に就くタイミングがなかったんじゃなくて付く気はなかったんじゃないかなぁ‥なんとなくだけどそんな気がするな
司馬懿は日本でいうと徳川家康だな…(  ̄- ̄)???
スリーキングダムなどで触れられてましたが、曹操はそもそも偉大すぎた皇帝などにならずとも、漢400年の歴史ともどもで利用し尽くせたから必要ないそれだけの偉業も成し遂げて、実績も積み重ねすぎたぐらいですし魏に関しては、曹丕が皇族粛清しすぎ、曹丕曹叡が早世しすぎなのが致命的ですね
曹魏王朝滅亡は曹操の赤壁大敗で建国前から決まっていた様な物なので、これが正に3世紀中華版豊臣王朝のようなもので、カリスマ政権的要素の強い政権であり、曹操・曹丕・曹叡と三代が没した後の皇帝はカリスマ要素が薄いと、王朝失格の烙印が押された様な印象を受けるので、だから日本の天皇制では、カリスマ性よりも、長幼の序列を採っているし、大御所徳川家康が2代将軍秀忠に3代将軍は必ず嫡子家光を次期将軍に指名するよう命じたのも、家康も三國志を読んで学んだと思うのでは、「信長・秀吉みたく曹操のように己の思うがまま政権を作っても、乗っ取られたらカリスマもへったくれもない」と。
後日司馬懿達のやり口が英雄達に一刀両断されていますよね。せこい方法で権力を盗んだと・・・
長生きして功績を挙げ続けた結果なんだよなぁ……(笑)
司馬懿は73歳と三国時代では正に古稀と言える長寿だったけど、弟の司馬孚は93歳まで生きたから驚き(´・ω・`)
司馬昭「3は成済が勝手にやったことです」 僕自身は曹丕・曹叡が長生きしても早晩魏は滅んでいたと思っていて、この2人やっぱり統治下手だったと思うんですよ。皇帝なのにしょっちゅう都を離れてるうえに(というか治世の半分以上いないんじゃないか?)、家臣の諫言聞かないし。頭は切れるけど人望がないというかなあ。
人望はもう、うーん、どうしようもない(笑)
中國の徳川家康という印象
いろいろ理由があるだろうが司馬一族が魏を乗っ取れたのは曹丕、曹叡と二代連続で皇帝が短命だったからだろう。もし曹丕が長生きして政権が安定すれば司馬懿も手が出せなかったはずだ。
天下を取るために、最も必要なのは、長生きする事なのかもしれない。徳川家康は自分で薬を調合するぐらいの健康マニアだったし。
司馬懿も天下を取りにいかなければ子孫の悲劇も防げただろうに!
たぶん、天下取りを意識し始めたのは司馬師(笑)
命と身分を保証すると降伏せよと魏からの密書に同意して、蜀が降伏しました。その為、劉備玄徳の墓の横に阿斗の墓が、あり、劉備玄徳の墓をお参りしたら、阿斗の墓に唾やオシッコかける、ならわしがあります。
クーデターの時に曹爽が降伏せずに徹底抗戦してれば魏は続いたかもしれん
その機に乗じて呉蜀が動けるか!……なんか厳しそうだな(ぁ
ほうぼうな状態の両国が腐っても大国である魏に叩ける余裕があるやら…
呉は後継者争いの真っ只中、蜀も姜維が今がチャンスと思ってても費イが乗るかどうか?
あの曹操でも司馬懿にはホント警戒してましたから我慢強さ 強かさで司馬懿に敵う者無し
曹丕曹叡が呉の大都督並の早死してたのがね
一番才能がある奴が一番おいしい所を持って行ったという意味では、魏は曹操が目指した才能主義の国にちゃんとなってたことじゃない
司馬懿がクーデターを起こした時、曹爽が自身の権限をフル活用すれば勝算はあったかも。金持ちでいれるなら降伏してもいいボンクラ発言をかまし、知恵袋の桓範から曹真将軍は立派だったがお前らは豚や牛から生まれたのかと吐き捨てられた。
簒奪者が司馬懿ならゆるせるんだよなぁ。しかし孫の司馬炎てめーはだめだ!!
曹操と曹丕でも同じこと思ってそうな人多そう(ぇ
曹伾、曹叡の早死にが痛すぎたな。曹真、曹休も。曹丕より優秀な息子も早く泣くなってるし
曹魏の終焉…葬儀の日取りはいつ?
これはちょっと、ポイント高いな(ぇ
@@KOUMEI_NO_WANADA いつもと何が違うんだ…
道徳の成績がよければ評価されるって、まさに令和社会の姿な気がする。ポリコレ最強。
曹丕が、せめて曹叡が長生きすればね‥つーかそう考えると張郃の死も司馬懿の数少ない失策と思ってたけど‥もしかして謀殺‥?いやまさかね。でも司馬懿ならそんな考えはあったろうね実行したかは分からないけど
曹丕と曹叡が長生きしていたら魏の国は滅びなかった筈。司馬一族の天下や簒奪も無かっただろう。後、曹真の息子達が駄目駄目だった事も原因の1つです。此れが魏のしくじりかな?
易姓革命と言う概念が既に間違ってますね。やっぱ儒教ってダメだわ。
権力者が良いように解釈していくので、またややこしい。これは儒教に限らず、どんな思想でも、宗教でも。達磨仙人がいってたのはこういうことなのやもしれませんな。
司馬師は高齢の曹拠を押してたらしいけど何でなんだろ?傀儡なら若い皇族選べばいいのに
親司馬氏であったかもしれないですし、何かしらのハンデを抱えていたのかも……なんて。その辺りはもう少し考察しないとですね
郭嘉やろ!誰よりも最初に!
郭嘉が生きていたら赤壁勝っていたのでは...と、つい考えてしまうもし勝っていたら全く違う歴史になるだろう
@@おーきにへいへい 正史の状況だと正直郭嘉生きてても厳しいというか赤壁の戦いで負けたのって冬で疫病感染が凄かったとかもあるし
@@ポンタ-t9r 確かにそうですね。それでも郭嘉がいたらと、思ってしまいます。
@@おーきにへいへい 曹操は郭嘉が居たら「結果が違った」って言い方してるしニュアンス的に「郭嘉がいたら勝てた」というよりも「郭嘉がいたらここまでの大敗はなかった」って方だと思った個人的に
@@ポンタ-t9r 確かにそれが1番可能性ありそうですね。ただ、私が郭嘉大好きなものでバイアスかかってます☆
三国志とあうか寿命長くない?日本は織田信長の時代で人生五十年だよな?
1コメ
ワッショイ!
曹操が司馬仲達を登用したのが間違いだったと思うよ。
司馬懿が居なければ恐らく、涼州は取られてたんじゃないかなぁ、とも思う(笑)少なくとも第一次北伐の結果は異なったものになっていたでしょう。
えっ😱💥ご存知ない?死せる孔明、生きる仲達を走らす❗️孔明亡きあと、阿斗のちの劉禅の嫁張飛の娘夏侯淵の娘、を調略して、司馬懿仲達の孫が曹操一族を乗っ取りました。この時代に魏志倭人伝は、曹丕の時ですよ!
姜維の小説amazonとpixiv両方で読んでます。おもしろいです
本当にありがとうございます(´;ω;`)
嬉しいから固定にしちゃお(ぇ
司馬懿「儂ももう高齢。
曹操様や偉大なる先輩方のやり残した中華統一がまだ成し遂げてないのに若造共と権力争いしてる暇はない!
一時的に儂が権力掌握して中華統一をなそう」
息子二人「ようやく父上は愚昧な皇帝一派に見切りをつけられた
司馬家がこれから天下をとるのだ!」
ってアンジャッシュのすれ違いコントみたいな感じだったのでは、とふと思った
司馬懿は曹操時代の優秀な先輩方と仕事してたから天下統一してないのに権力争いしてるのに嫌気はさしてたんじゃないかな、と
まとめとは、こういうふうにやるんだよ、という見本のような動画ですね。
褒められ慣れていないせいか、とてもむず痒い思いをしております(笑)
呉の人気がどうたらというより、うぷ主の説明が面白いから人気が出たんだと思います(呉の滅亡)
めちゃんこ嬉しいです(´;ω;`)
曹氏の右腕の夏侯氏が実はそこまで盤石ではなかったのが痛いよなあ
曹操が地方名士層を頼らざるを得なかった時点で難しいですよね。
そもそも曹操自体がその儒教的価値観のシステムの中で評価されて名士となったわけですし…
しかも、後漢における清流派の本場出身の荀氏、鍾氏、陳氏を引き込んだ時点でね、もうね……
確かに言われてみればそうですね。
うーん、どれだけでも遡れてしまいますね……(笑)
呉は凄い見やすかったから、当然です。楽しい動画なら長い方が良いです。
ありがとうございます
14:15
そういえば、曹叡には曹丕の子じゃないっていう説があったりしますよね。
曹叡はちょいちょい悪く言われる風潮があるな〜。
曹叡が悪くないと、司馬氏の正統性も薄くなっちゃうから……なんて説も
知らない乱や変が横山三国志だけでは伝わり切れないのですね…
良くも悪くも劉備陣営の主観的な物語ですので
曹魏は曹操が親征を好んだこともあり、「地方軍が他国や異民族からの防衛を担当し、皇帝(かその代理の者)が一番強力な中央軍を率いて攻撃を担当する」という軍制を取っていた。この制度には「中央軍を握られたら地方に対抗できる軍が居ないので、あっさりと乗っ取りを許す」という問題があった。この欠点をいち早く指摘したのは司馬朗だったが、実際に魏を乗っ取ったのが弟の司馬懿とその子司馬師、司馬昭だったのは皮肉。
その結果が汝南軍の反乱であった感じですね
在り来たりのコメですが、非常に分かりやすかったです。目の前のモヤが晴れていくみたいに疑問が解けてスッキリしました
初コメです。いつも楽しく見ていますので応援してます。
ところで呉の動画が好評だったとのところですが自分としては二宮の変っていう言葉はゲームで知ってたけど中身を知らない的な感じが良かったと思うので、そんな感じで実はあれはシリーズをたまにやったらいいかもと思いました。
長文失礼しました。
流れで長文失礼って書いたけど思ったより長文じゃなかったので失礼しませんでした。
23:49皇帝が誰に謀反を起こすんだ?
〇曹叡の軍事センスの高さ
◎登山家のやらかし
やめてください(by.馬謖ファン)(笑)
なんでや!川が近くて良い山だったんやで!!
欠点は孤山ってとこで囲まれると兵站が終わるだけやぞ!
馬謖はなぜ登山に走ったのか?それはそこに山があったからw
しかし水という当たり前には欠けてた
自分の隣にウォーターサーバーとタンク山積みしてないといかん
または湧き水
6:50 今でも結構革新的な考え方ですな。
うぽつです! 呉の滅亡だけでなく魏の滅亡も取り上げて下さり嬉しいです。
形は違えど魏も主君vs臣下の構図からは逃れられなかったのですね…。
呉のように元々強かったのではなく、紆余曲折の末にひっくり返されてしまったと。
最初の頃は地方軍も曹氏、夏侯氏でちゃんと握ってましたからね
曹操は皇帝にならなかったのは、皇帝を名乗ると、他の英雄たちも皇帝を名乗るかのうせいがあるため・・・
そのため皇帝になるチャンスがあってもなれなかった・・・
曹操は人事の天才だとも思います。他の国では王の有力配下同士が意見が割れて、角突合う状況にまでなってしまうことがあったようですが、曹操の魏ではそれこそone teamだったような。もっとも曹操は問題が大きくなる前に部下を粛正もよくしていたようですが、それでも有能な部下たちは決して思うところを委縮せずに伝えていたと思います。このような環境を作ったという点も含めて天才だと思います。
そうそう(曹操)、まさにその通り。
粛清!!!
一方弱いくせに全てを自分でやらなきゃ気が済まない劉備さんよ…。笑
魏の明君曹丕、曹叡。呉の将来を嘱望された太子・孫登は早世し、劉禅が長生きしたのは歴史の皮肉だと感じますね。
余談ですが、曹操は信長と司馬懿は家康とやってることが似てますね笑
主さんの動画は30分超えても長いと感じません。
年末に総集編的な動画1時間チャレンジ希望します笑
ちゃんとみてくれますよね?(圧)
劉禅は暗殺するより傀儡にしたほうが便利。
@@KOUMEI_NO_WANADA
2時間動画でも観ますよ笑
@@lemonsoup1920 主さんの劉禅動画を見ると、演義ほど無能な人間って感じはしなかったですが、曹丕や曹叡、孫登と比較するとちょっと物足りない感じがするんですよね。
黄皓の言いなりになってた話も本当かどうか…
曹操の子孫が短命てのもあるけど、曹叡より前に司馬懿が亡くなっていたら、曹叡を継ぐ太子が20超えていたらわからなかったね。
軍事の名君だったのに、孔明が亡くなると曹叡が建築と女に走って。
それまで儒家の名君だったのに、統一したら司馬炎が贅沢と女に走った挙げ句太子が…。
緊張が解けたんかな?
司馬氏は名士の代表者として国政の頂に立ったわけで、そうなると各地の有力者にも配慮しないといけなくなり、アホみたいに婚姻を結ばなくてはいけなくなったみたいな話もありますね。
@@KOUMEI_NO_WANADA
司馬懿が8人兄弟だったのはこういう交流を広げ一族を広げるには役立ったのかも。
素晴らしい
やっぱ司馬炎って名前が強そうなんだよなぁ……
魏を燃やしちゃうんだもんなぁ……
中二心をくすぐりますよね(笑)
その炎は自分も燃やすことにw
司馬炎の息子は中国史上できの悪い皇帝。
曹叡最晩年から曹芳の間、倭国の一部から朝貢があるも、司馬懿のクーデター直前くらいから朝貢の記録がなくなり、派遣されていた役人も帰っていることからも、魏国内が分裂に近い状態で外交どころではなくなっていたのではないかなと思いますね。
三国志の著者も蜀漢と西晋に仕えた人で、魏の正統性を担保しつつ司馬一族を良く書かなかった可能性もあり、曹叡が仮に毒殺であっても病死になるだろうし、曹髦の件も成済一人に弑逆の罪を押し付けて殺しているが、司馬昭の見解がそのまま乗っていたりもするので何ともですし、中国史は基本的には後の王朝が作るから、どうしても滅亡間近の皇帝は悪く書かれてしまうからね。
5:32くらいからの曹丕と曹植の説明、逆じゃないですか?
司馬昭は三國志の中で1番好き
悪辣ながらも、それでいて多大な功績を残してるのか凄い!
歴史に「If」は禁句なれど、こう思わずにはいられない。せめて曹叡がもう少し生きていたなら、と。この動画とは別に「三国で最も早く滅んだのは魏である」と唱える学説を聞いたことがあるけど、同感である。
このチャンネルは面白いと思います
曹操が好きなので
曹魏の乗っ取りは悲しいですよね😭
曹操が1番後を継がせたかったのは曹仲
でも、この曹仲が早死にしちゃったんですよ
それで迷ってたところに賈詡が袁紹のことを考えてたとコメントしたため、曹丕に継がせることになったって言われてますよね
皇帝の謀反ってのも酷いですよね
いくら曹操でも、社会には勝てなかった……
呉の滅亡動画が好評だったのは、ドロドロの人間模様が実は好きって人が結構多いからじゃないかと。
昼ドラ理論……(笑)
魏国成立以降の優秀な一族の曹真曹休は曹操時代の遺産だもんなぁ…
それ以降一族で誰も優秀なのが現れなかったのが魏の痛いところやね
曹操にとっての曹仁みたいな優秀で尚且つ血が遠くて争いにはならないみたいな人材はいなかったんだろうか…
曹丕の代で多くの有力な皇族は力を削がれてますからね。若手で有力だったのは、パッと思いつく限りでは夏侯覇くらいだったんじゃないかなぁと(゜ω゜)
@@KOUMEI_NO_WANADA
夏侯一族いましたね…
そう言われると先程の例は夏侯惇の方が適切かもしれないですね
曹操が最も厚遇している家臣が一族ですもんね…
曹爽が曹休ぐらい有能であれば、このような事態を招かなかったかもしれませんね。
司馬懿の功績が圧倒的すぎた……(゜ω゜)
クーデター直後にはまだチャンスがあったのに司馬懿の約束にすがって降伏してしまった・・・
そもそも織田信長の時代(1550〜あたり)ですら人間50〜と謳われていたのに
70過ぎまで生きる司馬懿や劉禅が凄すぎる
孫権ほどじゃないにしても曹操もそこそこ長生きだったのに孫権とは逆に後継者が2代続けて早逝だったのがねぇ。流石の賈 詡もそこまでは読めないし
こればかりは神で無い限り分からないことですので(´-ω-`)
孔明も好きですが、司馬懿…かっこいいですねぇ…(小並感
めちゃんこ有能なんですよねぇ、ほんとに
司馬氏が国号を晋を選んだのは封爵の関係もあるだろうけど皮肉もあるのかな(戦国時代の魏は晋から派生)
コメントが皮肉に溢れておる……(笑)
そして戦国時代の晋のように分裂しているのも面白いですよね(`・ω・´)
音声だけで聞いていた自分。16:38の「対蜀漢の総司令であった曹真が~」のくだりの「対蜀漢」を「大食漢」と聞き違え、「確かに曹真は太ってたらしいから、大食漢だったんだろうなぁ。生活習慣病だったのかなぁ」と失礼なことを考えた。なんかごめん曹真。
曹操が皇帝にならなかったのは個人的には項羽の二の舞いを避けようとしたからと思ってます。
仮にも漢に仕えていたから取って代わると収拾がつかなくなると思ったからかな?
やっぱり曹丕と曹叡の早世は痛いよなぁ。司馬懿、動きます。
ずっと司馬懿のターン
曹丕が40歳、曹叡が36歳ですからね😭
魏帝の後見人が曹爽ではね、、
おまけにそのあとの補佐が曹爽。
オワタ…曹爽がもっと謙虚ならまた違う道もあったのかどうか
曹叡が早死にした時点で、もう決まってた気もするが
魏に変わった晋の早期崩壊は司馬炎が「儒学の価値観に則って」嫡子の司馬衷を廃位しなかった事が響いたとも言えますよね。
これが曹一族なら「あんな頭おかしい奴皇太子にしちゃダメだろ!年長とか関係あるか!」って瞬時に廃してたんだろうなと思えてくるのも皮肉なことです。
そうなんですよね、皮肉が効きすぎているというかなんというか……(笑)
発端は曹叡が早く亡くなったことだと思います。
司馬懿は、曹叡に信頼されていてそれに答えて公孫淵の叛乱討伐も
全力でしてましたし、後継者とその地位を固める時間があれば
大きく変わっていたのではないでしょうか?
やっぱり、曹叡の期間がキーになってる感じがしますよねぇ……
曹叡36歳…オヤジの曹丕40歳…
呉の滅亡好評だったんですね!
よくまとまってて見やすかったしリクエストしてみて良かったw
後漢もそうだけど皇帝の早世による政争が響きますね。
その点、滅ぼされる側の蜀漢は劉禅が在位40年で、国内のゴタゴタは殆ど無かったのが曹魏や孫呉と違くて興味深い。
蜀漢はパワーが内側じゃなくて外に剥き出しって感じですから、大きな政争を行えなかったみたいなイメージがあります(笑)
夏侯玄のことを詳しく取り上げてほしい・・・
リクエストはFANBOX限定となっていまして、申し訳ありません('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA Pixivは行ったことがないのでどうやっていいか分からずここにリクエストしてしまいました。申し訳ありません
世説新語の曹植の『七歩成詩』のエピソード
エピソード自体は曹丕がそこまでの事(『七歩歩く間に漢詩が作れなければ処刑』w)するかと思うけど(粛清やるにしても言いがかりが強引すぎ。回りくどいし)
紹介されている曹植がたちどころに読んだ(とされる)漢詩が皮肉も効いてる上涙も誘う(豆と豆がらを自身と曹丕の関係にたとえて無理難題を吹っ掛けられたことに対してもうまく切り返している)傑作だと思う
でもその後も容赦なく冷遇を続ける曹丕たん(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 昔はここで『曹丕は深く恥じ入った』とあるのを
「反省して心を入れ替えた」の意味だと思ってたけど
たぶんやり込められて『「ギャフン」となった』程度の意味なんかなあと思った(;´Д`)
まあエピ自体噂話の類なんでしょうが
司馬懿仲達が、侵攻した八方向からの侵攻を八路軍です。中国兵を八路軍と言いました。
感謝
曹操が帝位に就けば、劉備の漢朝復興ロマンが勢い付く可能性もあったからからなぁ。魏自体が漢朝との二重政体だったから内部にリスクを抱えていたんじゃないかなぁ?
まぁ、曹操のことだからそんな事は承知で敢えて帝位に付かなかったのかと。
自分は儒学云々に関しては余り関係ないかな、と思っているんですよ。
だって儒学の徒筆頭とされる荀彧は郭嘉のような品行に問題ある人物を推薦していますし、彼及び息子は曹植派だったようです。
司馬懿も九品中正法の改悪はしていますが、自身は鄧艾のような寒門出の人物を引き立てていますしね。
何だかんだ司馬懿の代までは儒学一辺倒ではなかったと思う。大きく変わったのは賈充からだと思っています。
後になればなるほどガチガチになっていくって感じですかね(゜ω゜)
まるで、司馬懿は徳川家康ですなぁ。覇王信長(曹操)、黄金太閤秀吉(曹丕、曹叡)より長生きして、力をつけて、耐えて、反逆して、真の天下を得る。長寿はやはり、ものをいいます。
本当に恐ろしい儒教の本を読むと、今日本国内にある問題が見えてきます。いやぁ今回は司馬一族(名士)の息の長い簒奪手段がよくわかるないようです。脱帽。
え?違うよ!豊臣秀吉(曹操)
なるほど才あるものは多少問題があっても取り立てるという曹操の方針は現代で言うと当たり前のように思えるけど、儒教の影響が強すぎる当時は革命的だったのかもね。また後継者をそれなりに有能な曹丕でなくて曹植に譲ろうかと迷ったのも曹操が重視したのが文学という事ならば話が通りますね。まあ推測の域は出ないですが、こういった推論ができるのも歴史の面白い所ですね。
後漢では皇帝を凌ぎかねない権臣に対しては宦官というストッパーがあった。事実閻顕や梁冀は権力、軍事力は宦官に勝りながらも宮廷クーデターで斃れた。竇武、何進は簒奪を目指した権臣ではなかったけど宦官に勝てなかった。比較して魏には宮廷において宦官の影がほとんど見られない。前王朝を反省して宦官を置かなかったのかな。曹操は宦官の孫なのに。司馬一族が我が物顔に振舞えたのも宮廷内で宦官の掣肘がなかったからのような気がする。曹叡以後の皇帝は司馬氏に一方的にいじめられて気の毒だ。
曹丕の代で、宦官が権力を持たないような制度を作ってますね。
これも儒学名士層による働きでしょう。儒者からとにかく忌み嫌われていたのが宦官なので(笑)
高平陵の政変は「司馬師の、司馬師による、司馬師の為のクーデター」と言ってもいい。晋の実質上の建国の父は、司馬師。
司馬懿は、司馬師の後継の為に担ぎ出されただけに過ぎません。司馬師が名実共に司馬懿の後継者として認知され、司馬家の当主となって実権を握っている事は、その後の人事で如実に現れています。司馬懿は実質太傅に留任しているだけ、司馬師は散騎常侍・中護軍から衛将軍に昇進しているのです。
叔父の司馬孚は官吏の長である尚書令から、大臣である司空→太尉と異動になっていますが、実権は司馬師に握られていました。
司馬師は249年から251年までの間に、苛烈なリストラと世代交代を進めています。司馬懿と同世代であった王凌・孫礼・胡質・杜恕・孫資・郭淮らを引退失脚に追い込んでいるのです。司馬師時代になると、胡遵・諸葛誕・毌丘倹・王昶・陳泰などが台頭してきました。
太原の名士であった王凌粛清の影響もあってか并州で反乱が起きた際、司馬師自身が鎮圧に乗り出し、その後の晋国の基盤を築いています。司馬師が呉の機先を制して仕掛けた東興の戦い・諸葛恪が攻め込んできた合肥新城の戦いで総大将を務めていないのは、それ故です。
武断政治家である司馬師は、その果断さ故、時に非情とも思える決断をしています。それが、先妻の兄である夏侯玄の処断です。
その裏には、毌丘倹の要請を受けて、司馬師に無断で、夏侯玄が勅書の代筆を担当する中書令の李豊と張皇后の父張緝に働きかけ、太尉司馬孚を出馬させた事にあります。流石に、司馬師も叔父で天下の信望を得ている人格者の司馬孚を処断する訳にはいかず、代わりに名士である夏侯玄を斬らざる得ませんでした。諸葛恪来襲の国難に対して、毌丘倹・夏侯玄も処罰は覚悟の上だったのです。
夏侯玄を殺した事を、儒学者から「義兄殺し」と非難されました。史料では、躍起になって正当化しています。「皇帝殺し」の司馬昭は、賈充の傀儡で優柔不断。果断な司馬師とは、雲泥の差です。
毌丘倹の反乱も、戦功粉飾を問われて放棄した文欽の管理責任を口実に急襲しなければ、諸葛恪を道を塞いで防ぎ切った毌丘倹を簡単に撃破出来なかったでしょう。
夏侯玄が謀反で捕らえられたのはまあわかるのですが、曹芳が加担した疑いがあるので廃立??謀反というと臣下が主君に対するイメージありますが、実態は夏侯玄の司馬氏排除が失敗し、曹芳も加担の疑いありと廃立したということでしょうか?
文帝曹丕と明帝曹叡がもう少し長命だったら、魏王朝は長期安定政権に成れたと思いますよ。
ですねぇ(゜ω゜)
曹操は帝位に就くタイミングがなかったんじゃなくて付く気はなかったんじゃないかなぁ‥なんとなくだけどそんな気がするな
司馬懿は日本でいうと徳川家康だな…(  ̄- ̄)???
スリーキングダムなどで触れられてましたが、曹操はそもそも偉大すぎた
皇帝などにならずとも、漢400年の歴史ともどもで利用し尽くせたから必要ない
それだけの偉業も成し遂げて、実績も積み重ねすぎたぐらいですし
魏に関しては、曹丕が皇族粛清しすぎ、曹丕曹叡が早世しすぎなのが致命的ですね
曹魏王朝滅亡は曹操の赤壁大敗で建国前から決まっていた様な物なので、これが正に3世紀中華版豊臣王朝のようなもので、カリスマ政権的要素の強い政権であり、曹操・曹丕・曹叡と三代が没した後の皇帝はカリスマ要素が薄いと、王朝失格の烙印が押された様な印象を受けるので、だから日本の天皇制では、カリスマ性よりも、長幼の序列を採っているし、大御所徳川家康が2代将軍秀忠に3代将軍は必ず嫡子家光を次期将軍に指名するよう命じたのも、家康も三國志を読んで学んだと思うのでは、「信長・秀吉みたく曹操のように己の思うがまま政権を作っても、乗っ取られたらカリスマもへったくれもない」と。
後日司馬懿達のやり口が英雄達に一刀両断されて
いますよね。せこい方法で権力を盗んだと・・・
長生きして功績を挙げ続けた結果なんだよなぁ……(笑)
司馬懿は73歳と三国時代では正に古稀と言える長寿だったけど、弟の司馬孚は93歳まで生きたから驚き(´・ω・`)
司馬昭「3は成済が勝手にやったことです」
僕自身は曹丕・曹叡が長生きしても早晩魏は滅んでいたと思っていて、この2人やっぱり統治下手だったと思うんですよ。皇帝なのにしょっちゅう都を離れてるうえに(というか治世の半分以上いないんじゃないか?)、家臣の諫言聞かないし。頭は切れるけど人望がないというかなあ。
人望はもう、うーん、どうしようもない(笑)
中國の徳川家康という印象
いろいろ理由があるだろうが司馬一族が魏を乗っ取れたのは曹丕、曹叡と二代連続で皇帝が短命だったからだろう。もし曹丕が長生きして政権が安定すれば司馬懿も手が出せなかったはずだ。
天下を取るために、最も必要なのは、長生きする事なのかもしれない。徳川家康は自分で薬を調合するぐらいの健康マニアだったし。
司馬懿も天下を取りにいかなければ子孫の悲劇も防げただろうに!
たぶん、天下取りを意識し始めたのは司馬師(笑)
命と身分を保証すると降伏せよと魏からの密書に同意して、蜀が降伏しました。
その為、劉備玄徳の墓の横に阿斗の墓が、あり、劉備玄徳の墓をお参りしたら、阿斗の墓に唾やオシッコかける、ならわしがあります。
クーデターの時に曹爽が降伏せずに徹底抗戦してれば魏は続いたかもしれん
その機に乗じて呉蜀が動けるか!
……なんか厳しそうだな(ぁ
ほうぼうな状態の両国が腐っても大国である魏に叩ける余裕があるやら…
呉は後継者争いの真っ只中、蜀も姜維が今がチャンスと思ってても費イが乗るかどうか?
あの曹操でも司馬懿にはホント警戒してましたから
我慢強さ 強かさで司馬懿に敵う者無し
曹丕曹叡が呉の大都督並の早死してたのがね
一番才能がある奴が一番おいしい所を持って行ったという意味では、魏は曹操が目指した才能主義の国にちゃんとなってたことじゃない
司馬懿がクーデターを起こした時、曹爽が自身の権限をフル活用すれば勝算はあったかも。金持ちでいれるなら降伏してもいいボンクラ発言をかまし、知恵袋の桓範から曹真将軍は立派だったがお前らは豚や牛から生まれたのかと吐き捨てられた。
簒奪者が司馬懿ならゆるせるんだよなぁ。しかし孫の司馬炎てめーはだめだ!!
曹操と曹丕でも同じこと思ってそうな人多そう(ぇ
曹伾、曹叡の早死にが痛すぎたな。
曹真、曹休も。
曹丕より優秀な息子も
早く泣くなってるし
曹魏の終焉…葬儀の日取りはいつ?
これはちょっと、ポイント高いな(ぇ
@@KOUMEI_NO_WANADA いつもと何が違うんだ…
道徳の成績がよければ評価されるって、まさに令和社会の姿な気がする。
ポリコレ最強。
曹丕が、せめて曹叡が長生きすればね‥つーかそう考えると張郃の死も司馬懿の数少ない失策と思ってたけど‥もしかして謀殺‥?
いやまさかね。でも司馬懿ならそんな考えはあったろうね
実行したかは分からないけど
曹丕と曹叡が長生きしていたら魏の国は滅びなかった筈。司馬一族の天下や簒奪も無かっただろう。後、曹真の息子達が駄目駄目だった事も原因の1つです。此れが魏のしくじりかな?
易姓革命と言う概念が既に間違ってますね。やっぱ儒教ってダメだわ。
権力者が良いように解釈していくので、またややこしい。これは儒教に限らず、どんな思想でも、宗教でも。
達磨仙人がいってたのはこういうことなのやもしれませんな。
司馬師は高齢の曹拠を押してたらしいけど何でなんだろ?傀儡なら若い皇族選べばいいのに
親司馬氏であったかもしれないですし、何かしらのハンデを抱えていたのかも……なんて。その辺りはもう少し考察しないとですね
郭嘉やろ!誰よりも最初に!
郭嘉が生きていたら赤壁勝っていたのでは...と、つい考えてしまう
もし勝っていたら全く違う歴史になるだろう
@@おーきにへいへい 正史の状況だと正直郭嘉生きてても厳しいというか
赤壁の戦いで負けたのって冬で疫病感染が凄かったとかもあるし
@@ポンタ-t9r 確かにそうですね。それでも郭嘉がいたらと、思ってしまいます。
@@おーきにへいへい 曹操は郭嘉が居たら「結果が違った」って言い方してるしニュアンス的に「郭嘉がいたら勝てた」というよりも「郭嘉がいたらここまでの大敗はなかった」って方だと思った個人的に
@@ポンタ-t9r 確かにそれが1番可能性ありそうですね。
ただ、私が郭嘉大好きなものでバイアスかかってます☆
三国志とあうか寿命長くない?日本は織田信長の時代で人生五十年だよな?
1コメ
ワッショイ!
曹操が司馬仲達を登用したのが間違いだったと思うよ。
司馬懿が居なければ恐らく、涼州は取られてたんじゃないかなぁ、とも思う(笑)
少なくとも第一次北伐の結果は異なったものになっていたでしょう。
えっ😱💥ご存知ない?
死せる孔明、生きる仲達を走らす❗️
孔明亡きあと、阿斗のちの劉禅の嫁張飛の娘夏侯淵の娘、を調略して、司馬懿仲達の孫が曹操一族を乗っ取りました。この時代に魏志倭人伝は、曹丕の時ですよ!