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似たような動画は沢山ありますが、私はあなたの三國志が一番好きです。料理を作りながら、Ziplocに入れ湯船につかりながらなど ラジオ感覚で聴いています。これからも楽しみに視聴させて頂きます👍
ありがとうございます。そう言っていただけて大変嬉しいです。これからも頑張ります!!!!!
分かりやすい動画でした
馬謖は、戦略を練り、謀略を駆使する能力には長けていたけれど、臨機応変が求められる前線の指揮官には、向かなかったのでしょうね。
孔明も然りだからね。
面白い動画でした三国志は劉備、諸葛亮、あと姜維を高く評価するために彼らの失策を他の人になすりつける傾向があります第一次北伐は魏の動向を甘く見過ぎた諸葛亮の戦略ミスが最大の敗因であり蜀軍が街亭に到着した時にはもう足止めの準備は間に合わず直接戦うしか無かったため有利な山頂に布陣せざるを得なかったという説もありますつまりその戦術自体はミスというほどではなくむしろすぐに戦いに突入せず補給を断つ作戦に出た張郃やそれを危惧した王平の戦術眼が優秀過ぎたと言えるでしょう諸葛亮も馬謖に敗戦の責任はあれど罪に問うほどではなく処刑の理由は動画の通り軍を捨てての敵前逃亡の罪だったみたいです劉備は馬謖のことを口先だけの男と考えており実際当時はその通りだったのでしょうが経験を積み実績が伴えば諸葛亮の見込んだ通り彼の後継者たり得る人物になっていたかもしれません諸葛亮だって若い頃はなんの地位もないのに自分をかつての大人物に劣らないと言っておりその時点では口先だけの人物でした馬謖が劉備に高く評価されてなかったのは事実、失敗して処刑されたのも事実だからといって彼の才能や可能性まで全否定されるのは何か違うなと感じてしまいます
馬謖の失敗は季漢と孫呉の連動した北伐をぶち壊すことなっちゃったのがね隴を失い、石亭で大敗北となったら魏国内で問題が立ち上がることになっただろう
馬謖の一件は、蜀漢にとって色々と惜しい出来事でしたよね。
街亭は何より城を放棄したのが痛い。 城を保持していれば、会戦で敗れたとしてもそこに籠もって敵の前進を遅らせる事ができたが、逆に敵に城を取られれば、敵の方がそこで態勢を立て直す暇を得られ、撃破しても決定的にならない馬謖が城に拠らずに南山に拠った事が書かれ、直後に汲道を断たれた事が書かれているので、三国志は城の放棄を原因としているように見えます。張郃にしても王平の千が威嚇しただけで恐れて攻められなかったくらいなので十分成功の可能性はあったのに
王平が威嚇して攻めれなかったと言うより大勢は決していたので張郃は無理して攻める時間よりも、郭淮と合流する方が重要だと考えてそれ以上責める必要はないと思っただろう。王平は敗残する兵を上手に纏めて奮闘したけど、その時点で街停の勝敗は決していた。
それだけ街亭の要衝が大事たったこと。天水など雍、涼州方面は占領したばかりで統治が脆弱たし。街亭が破れて圧倒的な兵力の魏軍が殺到したら、劣勢の蜀軍は占領地放棄して、それこそ撤退が遅くなるから輜重など軍事物資も捨てる有り様で「命あっての物種」で生存最優先で漢中に総撤退するしかなかったし。 趙雲は箕谷で曹真軍を陽動作戦で引き付けたのを殿軍をして無事撤退したからね だけどー。やっぱり諸葛亮の軍事限界点を破った張郃が凄いに尽きるね
たまに馬謖が負けなくても北伐は失敗してたって言う人いるけど、游楚とかは本人の言ってる通り魏の援軍を通さなければ放置で問題ない。徐邈とかが攻撃してきたのは普通に考えて恐らく張郃が合流した後。趙雲は曹真に負けても無事に撤退できてるから問題ない(そもそも曹真を止めるための囮で秦嶺山脈超えた後に曹真に勝ては無理)やっぱ馬謖が勝とうとせず愚直に時間を稼ぐことだけを考えていたら雍州西部と涼州はワンチャンマジであったと個人的には思いました。
「馬謖が負けなくても北伐は失敗していた」からといって「馬謖の負けは大きな問題ではなかった」は違いますもんねぇ。馬謖の敗北は「1%を0%にしてしまった」感じがします。
呉への対応もありますから、蜀に粘られると魏にとっては嫌な状況でしょうね(´∀`; )魏略には、蜀に対しての計略・備えはなく、諸葛亮が突如三郡を降したことにより朝廷、民衆は恐慌状態に陥ったとあるらしいから、これが本当なら呉の侵攻まで粘れていたら魏はガタガタになったかもですね!
劉備が馬謖を重用してはいけないって言ったのに
孔明は人選が下手くそ 魏延と楊儀を争わせたり馬謖に前線を任せたり
@@ChaCha-uf7ur劉備がカリスマ過ぎたんですよね。若い頃は傭兵団長でゲリラ戦各地で繰り返して生き抜いてきた歴戦の強者ですし、諸侯の元で転戦し苦労もしてきた分「人を見る目」はかなり確かだったのかもしれません三顧の礼まで若い頃隆中で半分ニート生活してた孔明との人間的な厚みの差が出た気がします
@@Dolce_Gava2ana 劉備が最も評価してたと言う法正がもう少し長生きした世界線を見てみたかったですね
@@ChaCha-uf7urそうですね、法正や黄権の蜀漢での活躍期間がもう少し長い世界線はかなり気になります。歴史にifは禁句とはよく言われるものですが、法正がいれば夷陵の被害も抑えられたかもしれませんし国力の疲弊も黄権を手放すこともなかったかもしれません。欲を言えば関羽と荊州を失う前に、関羽を上手くコントロールできる調整役や副官(外交のバランス感覚の良さ的に孔明。荊州に孔明、益州に法正という体制)があれば樊城と長安への2方面北上でどこまで劉備が切り込めたのか、など想像は膨らむばかりですねさすがに魏と蜀の国力差を覆すことは不可能でしょうが、差を縮めてもう少し抗えてたのかもしれませんね
@@Dolce_Gava2ana 劉備がもう少し生きていれば李厳もあんな落ちぶれ方しなかったでしょうし人の使い方で孔明は劉備には到底かないませんでしたね
馬謖の基本戦略としてその街停にある街泉外城を修復して敵援軍への備えとするのだっただろう。当初の孔明・馬謖の想定としては孟達の反乱から祁山へ布陣してそこから援軍を要請しても少数の援軍だったらともかく、大軍での援軍だったら時間もかかるし敵援軍に準備する時間は十分だと考えていたと思う。 ところが1月の上旬に孟達が反乱して、呼応して祁山に孔明が到着する。そして馬謖が街停に向かうのが228年の1月の下旬。それに対して張郃が大軍で荊州にたどり着いたのは2月の初め頃。 つまり孟達の反乱が収束してもない時点で既に孔明の多重の揺動を曹叡は予知して郭淮、曹真、さらに荊州にいた張郃を援軍として呼び寄せてもいる。さらに張郃は大軍にもかかわらず600キロと言う行軍距離をたった2、3週間で走破してしまっている。この速さゆえに、防備のための城を修復する時間的余裕が馬謖はなかったのだろう。 まともに歴戦の名将張郃の大軍相手に野戦で戦っても十中八九勝ち目はない。だからこそ高地に陣を張って張郃を迎え撃つ戦術だった。張郃は援軍として急いでいるので持久戦を選ぶはずはない、素通りしようものなら背後から張郃に攻撃でき、後背にいる高翔と連携して挟み撃ちにもできる。馬謖の戦術そのものは筋が通ってる。ところが張郃はあえてその時間のかかる持久戦を選んだ。 つまり孔明馬謖の戦略に対して曹叡張郃がそのはるか上をいく神対応をしていたことにおいて孔明の戦略が瓦解していた。決して馬謖が功名心とかで命令を違えることになっていたわけではないだろ。ただ魏延や趙雲のような経験豊かな将軍たちであれば同じ負けるにしても上手な負け方をしていただろうと思う。少なくと軍規に照らして処刑される事態にはならなかっただろう。
もう本当におっしゃる通りすぎてこの動画を見たり、三国志に興味があって街亭の真相が気になる人はこのコメントを見るべきだと思いました。曹叡のトップとしての的確な指示、曹真の総司令官としての判断、張郃の現場指揮官としての臨機応変さが孔明の計算を全部打ち砕いてるんですよね高所に陣取ること自体はわたしもそこまでひどい采配とは思わないですが水路を捨てたことが問題かと。そりゃ張郃からすればその水路確保して囲んでたら勝手に瓦解しますからね…援軍遅れてでも魏からしても蜀からしても要所である街亭叩いたほうが遥かに戦略的な成果ありますからね
@@Dolce_Gava2ana その様におっしゃられて嬉しい限り。 水源の問題に関して言えば、本来の砦となる街泉外城がその水源だったわけです。当たり前ですが城は水源を無視して構築するなど論外です。ただ、その街泉外城は数百年前のもので、利用するにしても城壁を修復にそれなりの時間が必要になる。もちろん本来の戦略ではそこを修復して魏の援軍に対応するわけですが、張郃がその時間的余裕を全く与えない状況を作ってしまったわけです。そうなると水源を守って野戦でガチンコするか水源を捨てでも有利な場所(高地)に布陣して対応するかになるんですよ。 王平が高地に布陣は間違ってると否定し、劉備はそもそも馬謖を用いてはいけないと言いました。劉備と言えば建国の英雄、王平はのちに蜀軍の中心的な存在となる存在で、後世の視点から両者と比較して、いかに馬謖が無策だったかのように言いますが、馬謖も無知であったわけではないです。野戦で張郃と戦ってもなんとかなるとは思えないでしょう。 そもそも北伐は馬謖と孔明が長い時間かけて構築した壮大な戦略です。魏は本来呉との戦いに集中していて、長安にはあの夏侯楙、皇帝は代替わりしたばかりで政治もまだ安定していない、さらに中国の正月祭りで忙しい、そこに陽動で趙雲、孟達で魏を混乱させ、その間に南安、安定、天水を削ぎ取る。これに対して夏侯楙の更迭からはじまり、長安に曹叡が辿り着いて、すぐに孔明には郭淮が、趙雲には曹真、孟達には司馬懿を当てて鎮圧し、更に張郃が神速で街亭をも突破してくる。この期間わずか1ヶ月半。一つ一つ連絡とりながら準備進めるとかしていたら孔明の思惑通りだったわけですが、曹叡はそういう凡庸な皇帝でなかった。曹叡だけでなく魏全体のこの対応の速さが孔明馬謖の想定外だったのでしょう。 では馬謖は本当に無能だったかといえばそれも違います。何より孔明が蜀で絶対的な存在になったのは、蜀建国から夷陵の戦いで蜀が滅亡の危機になるほどの大打撃を被り、それを再生させて、南蛮遠征を成し遂げ、そして出師表で北伐を敢行できる状況にまで蜀を回復させてることに成功したからです。そしてその間に孔明の傍で彼を支えてきたのが馬謖ですから、ここまでの馬謖の貢献を考えれば街亭で魏延や呉懿を押し退けての任務を与えられたのも周りはそれで納得できる部分だったわけです。少なくとも魏延や呉懿よりも孔明の戦略意図をしっかりと理解してるのは間違いないです。ただ結果的に大きな敗北になってしまってそれで処刑されてしまったので彼に名誉挽回のチャンスがなかったのが本当に惜しいところです。あの曹操だって馬謖と同じくらいの年齢の頃に徐州の大虐殺と領地の90パーセントを失う大失態してるわけですから。
@@Fahrenheit76 熟読させて頂きました。街亭の地理関係等、大変勉強になりました、ありがとうございます同じ荊州閥だから、というだけで馬謖を用いたとはさすがに思ってはいませんでしたが、外交や内政を側で支え最も孔明と意思疎通ができた人物だから抜擢されたというのは非常に参考になります若い頃苦労続きの劉備の人を見る目がいかに優れていたのか、魏延法正のような能力高くてもクセがあるタイプや孔明趙雲のような優等生タイプも見事にまとめ上げたカリスマ性を改めて感じました
面白いね❤最大限の賛辞を込めて 高説のとおり張郃が大軍を異例の進撃速度に街亭に迫り、馬謖は平地の陣屋で迎撃するは下策と判断。 索敵が容易で、敵大軍を高地から限定的に迎撃して短期決戦で必勝できる高地を選択した馬謖の戦術眼は、正しいし、それしか最善策ははなかった 進撃速度そのままでなく、馬謖が高地に陣取ってる馬謖軍を「短期決戦より持久戦で挑めば必ず勝つ」と張郃が冷静に看破して、馬謖軍の弱点を知り高地に干からびさせ大いに破った ご指摘どおり、張郃が諸葛亮の戦略を打ち砕いたと言っても過言ではない大殊勲。これは馬謖も諸葛亮の軍略智者も負けるしかないと思う だけどー、馬謖は最善の努力は街亭でしたし、馬謖以外でも無理ゲー。 なので馬謖君は何も悪くない。それを処断しちゃった諸葛亮ダメダメでしたー。 蜀軍の軍事限界点を見事張郃が機動力と冷静な戦略眼で撃破。曹武帝に「韓信がついた」の評価は正しかった❤ 追伸、キチンと考察したコメントお疲れ様でした❤とても価値あるコメント、明察でした
魏延を大将にして、副将で馬謖をつけて現場で学ばせるべき段階だったな。
馬謖の尊大な性格じゃ魏延とも合わないと思う…
いない所で孔明を小馬鹿にした事を言ってますし。自意識過剰では。
馬岱。は強かったですネ。ありがとうございます。
馬良、龐統、法正が長命で徐庶が劉備軍に残ってたら時代が少しは変わってたかもね。
孔明はお友達内閣で人材の使い方に偏りがありましたね。魏延みたいな叩き上げを評価しなかったのが致命的。
昔、コーエーの三国志で曹真って大して強くない凡庸な感じだったけど、戦で負けたことが無い将軍だったって話を聞いて驚いた。なんであんなに中途半端な扱いだったのよ。
所謂、三国演義の被害者と言われる人達の内の一人ですな。
馬謖(エッスイ郡の統治に失敗)の「心を攻めましょ」という発言を聞いたら、実地で防戦に当たってた呂凱なんかは鼻で笑いそう。お前が言うな!って感じで。街亭の指揮官に任命したの、その統治失敗の恥を雪ぐ機会(普通に街道に陣を敷いて防戦してたら負けることはなかった筈)を与えたらエライことになったみたいな感じに思えますね
この馬謖の逸話はちょっと解せないところもあるんよな。そもそも馬謖は「あえてそうした」ではなく「そうするしかなかった」という可能性もあるしね。戦場なんていつどうなるかわからないし、馬謖のみたところ(現場判断)では負け濃厚でそうやって時間を稼ぐしかなかった可能性もある。結果的に負けてしまったがそれが馬謖のせいなのかというのは実際にはわからない。もしかしたら大敗北を敗北程度にしたのが馬謖の功績の可能性もあるからねぇ。いままでの活躍からみて、ここだけダメというのはちょっとねぇ。
補給について軽んじる作戦を決行したってだけでもう軍属として仕事させるのはアウト、その場で負け戦でもやって撤退したとかなら死罪までは無かったかもしれないけど側近と一緒に敵前逃亡じゃねぇ・・・諸葛亮の流した涙はうれし涙じゃないかとも思える王平も大変だったろうし趙雲からしてみたらふざけんな!やろ、山越えしてあの曹真とかち合ってたんだから諸葛亮の思惑は謎ですが場数踏ませるために馬謖に命じたとしたら負け戦の責を問われるのは諸葛亮だと思う、その場合馬謖の敵前逃亡はもううってつけ
三国志の大惨敗について紹介してください。
リクエストありがとうございます。大惨敗、奇襲戦という切り口は思いつかなかったので取り入れさせていただきます!今後ともよろしくお願いします🙇♂️
この中で長コメントだけど的確に「張郃の軍略が、諸葛亮の軍事限界点を破った。ただ馬謖は最大限の戦術はした」の内容のあるから。詳しくはそっち見る方が凄く観る価値はあるよ❤
相手が名将なのに、兵を展開しづらい場所に兵力を一点集中させる場合は、一撃必殺の気概で挑むのが基本で、そんな気概も感じられないのに山上に兵を集中させたのは愚策ですよ(´∀`; )相手が凡将であれば、鍋島直茂の夜襲や楠木正成のゲリラ戦(撹乱戦)のように奇で戦えますが、相手が名将なので不可に近い。鶴翼の陣が優秀とされるのは、相手を包囲しやすく心理的に圧力をかけれるからです。名将達は基本、正で戦う場合は部隊を上手く扱ったり、猛将・名将に敵陣を突破させたりして側面背後を突かせるものです。兵力を山上に一点集中させて、どうやって敵より有利な戦況になるよう兵を展開させますか?関ヶ原の戦いのように、敵将を離反出来るとでも思いますか?三方ヶ原の戦いは、兵力に勝り、万全の体制で迎え撃ったと聞きますが?名将相手に、真正面から強攻するしかない状況を作り、逃げ場もない状況とかマジで愚策です(´∀`; )
んー?意味わからない。離反とかの意味不明な妄想長文はどうでもいいとして。 まず山岳に布陣するのは当然地の利の険を頼みにしたのは正攻法だし。この街亭の戦いで誤解されるところは、馬謖は多勢の張郃軍を山岳の限定された戦場で「短期決戦」で誘引して仕留めるしか手数がない。しかし張郃は馬謖の万全でない布陣(水源などの確保が困難など)を看破して長期戦で持ち込まれ、馬謖の布陣と企みを無力化された じゃあ仮に山岳ではない平地に馬謖が陣を引いたとしても、多勢に無勢の張郃軍に短期間で潰されるかもね 張郃軍が3日で600里の超スピードで進軍されて馬謖に迎撃の準備させる暇もないし。 寡兵で兵力分散して、平地と高地のハイブリッド陣地とかも上手くいくかわからない。 結局のところ馬謖は元より諸葛亮のここまでの軍事限界点が来ており、張郃軍が破綻させただけ。 まー仮説に過ぎないけど私はこうだと思っただけ とりあえず反駁するにしても、ケンカ売るやり方でマウント取る精神は感心しないね。私はそういう愚人嫌いなので。今度から気をつけなさいな
何時も楽しみにしています。南方反乱も馬謖が元々太守を務めていたなら孔明に尻拭いをしてもらったと言う事になるのでしょうか?
いつもありがとうございます。馬謖じゃなくても相当難しかったのでは、、、とも思いますが。おっしゃるとおりかと思います。
馬謖は司馬懿が油断にならない人物って言って、庇護流言で失脚させたのに、後に復帰した時、恐れるほどではないと言った。街亭の戦いでも、相手を舐めて取り返しのつかない失策をした。春秋戦国の趙活にそっくり。
そだね
南中の反乱程度なら馬謖でも対応できたが、司馬懿相手では荷が重すぎた。実戦の経験をじっくり積ませれば良かったのですが、人材不足でその余裕がなかったのが惜しまれる。
そ言えば、馬謖が斬られた本当の理由は、魏に亡命しようとしたからってどっかに書いてあったな。
有能な人でも一度の失敗でこういう事になるんだ!
元々魏と蜀では 力の差が 劉備が 襄陽取ってれば あまりにも理想主義的w
何で馬謖は水路が絶たれる可能性が高い山頂に布陣したのか?が解せない。そこの馬謖の真意はどうだったのだろうか?軍略に長けているのだから知っていただろうに。そこを解説出来る人はいないかな?功を焦ったとかそんな心理的な理由ではなくて。
なんかこれ、趙括の話と同じですね
この頃はもう駒が少なすぎる関羽も張飛も趙雲も落ちてしまって。うつ手がなかったのだと思えてならない。諸葛瑾でも来てくれるとよかったのになぁ。馬良ならば違っていただろう。オラオラ系の馬謖はビックマウスというふうにしか思えない夏侯覇を大将にしてもいいのに。魏延と馬謖は最悪だ
孟獲気になる
結局は孔明の人選ミス。生かして外交にでも使えば良いのに。
演義でわざわざ皇帝サンにコイツは口だけなんで使ったらダメよ、なんて孔明先生をこき下ろすように使われるけどね、史実ではその皇帝がしくじった夷陵のいわば尻ぬぐいを南征でするわけでそのアドバイスを孔明先生に行うのが馬謖さんだからね☺️孔明先生が馬謖さんを重要視していずれは後継にと考えてもなんら不思議ではない。だから箔をつけるために街亭の護りにつかせたんじゃないかなぁ。馬謖さんも頭の中では勝利への方程式が出来上がっていたんだろうね、今のインテリエリートみたいに😮💨(例えばシミュレーションゲーム〜兵法として)それを看破して曹真さんは叩き上げの張郃さんを送り込んだわけだから勝負は決まった…もし戦って討ち死にでもしてればまだ、マシかもしれないけれどなまじ生きて捕まり手引きされて逃げまた取っ捕まり…となれば誅されても仕方ない😱もし逃亡しなかったら命だけは助かったんだろうか。孔明先生のかすかな希望は失われた形になったんだなぁ…もしも街道に陣を張って魏を撃退できてたら将来が少しは変わったかもしれない。長くなり申し訳ない。
んーどのみち諸葛亮の北伐が無理ゲーだからね、街亭の戦いは張郃の軍略が蜀軍の軍事限界点を撃破したと言っても過言ではない。処断された馬謖が可哀想
@@萌出鶴ゆっきーさん 北伐自体が高度に政治的なゲームの一環だから今の私らにしてみればそもそもが無理ゲーなんだね。それを言ったらオシマイだし密室政治がいいわけじゃないが分かってるひとが少ない方が国が成り立つ。まぁ家柄もいいから逃亡に手を貸した仲間もいたけど失敗して誅されたから仕方ないのかな。
邪魔だからオラがチクり入れて斬らせた🎵
諸葛亮は案外大した事がない🤷
天下も取れてないのに三国志があまりにも人気であるがために過大評価されですね。
諸葛亮の置かれた立場的には大健闘なんだよなぁ
陳寿「ワイの親族処刑されたけどこの人蕭何クラスやろな。韓信クラスが蜀におったらなあ」裴松之「魏の重鎮の陳羣も司馬懿も孔明ニキには勝てへんやろな」張儼「管仲と同じかそれ以上ちゃうかな」張輔「楽毅より全然上。呂尚(太公望)クラスやで」司馬炎「ワイなんとか天下取ったけど孔明ニキおったらここまで苦労せんかったやろな」司馬懿「孔明ニキほんま天下の奇才や…」コメ主ニキ「諸葛亮は案外大した事ない」ワイ「!?」
孔明いなかったら、あんな倒産寸前の蜀なんか、滅んでました。北伐できる程の国力に出来た政治で充分凄い。孔明自身が一番勝てないの分かっていたでしょう。どの道、行動しなければ、滅びが早まった。
な
「孔明泣いて馬謖を切る❗」馬謖は天才か凡才か‼️(劉備は戦いに馬謖を持ち入るナ👀‼️これが的中❗やはり凡才では❗以上🍑9/29・金曜日
凡才ではない。少なくとも政治外交面においては北伐に至るまでの孔明の戦略を大いに助けていた。おそらく軍事以外においては姜維なんかよりも遥かに優れていた。そしてその軍事において初戦で想定外のことがいくつも重なり、その対応が悪手だったこと、その相手が魏でも最強クラスの張コウだったこと、その後に汚名返上の機会がなかった事が蜀としても大いに悔やまれる。
似たような動画は沢山ありますが、私はあなたの三國志が一番好きです。料理を作りながら、Ziplocに入れ湯船につかりながらなど ラジオ感覚で聴いています。これからも楽しみに視聴させて頂きます👍
ありがとうございます。
そう言っていただけて大変嬉しいです。
これからも頑張ります!!!!!
分かりやすい動画でした
馬謖は、
戦略を練り、謀略を駆使する能力には長けていたけれど、
臨機応変が求められる前線の指揮官には、向かなかったのでしょうね。
孔明も然りだからね。
面白い動画でした
三国志は劉備、諸葛亮、あと姜維を高く評価するために
彼らの失策を他の人になすりつける傾向があります
第一次北伐は魏の動向を甘く見過ぎた諸葛亮の戦略ミスが最大の敗因であり
蜀軍が街亭に到着した時にはもう足止めの準備は間に合わず
直接戦うしか無かったため有利な山頂に布陣せざるを得なかったという説もあります
つまりその戦術自体はミスというほどではなく
むしろすぐに戦いに突入せず補給を断つ作戦に出た張郃やそれを危惧した王平の戦術眼が優秀過ぎたと言えるでしょう
諸葛亮も馬謖に敗戦の責任はあれど罪に問うほどではなく
処刑の理由は動画の通り軍を捨てての敵前逃亡の罪だったみたいです
劉備は馬謖のことを口先だけの男と考えており
実際当時はその通りだったのでしょうが経験を積み実績が伴えば諸葛亮の見込んだ通り彼の後継者たり得る人物になっていたかもしれません
諸葛亮だって若い頃はなんの地位もないのに自分をかつての大人物に劣らないと言っており
その時点では口先だけの人物でした
馬謖が劉備に高く評価されてなかったのは事実、失敗して処刑されたのも事実
だからといって彼の才能や可能性まで全否定されるのは
何か違うなと感じてしまいます
馬謖の失敗は季漢と孫呉の連動した北伐をぶち壊すことなっちゃったのがね
隴を失い、石亭で大敗北となったら魏国内で問題が立ち上がることになっただろう
馬謖の一件は、蜀漢にとって色々と惜しい出来事でしたよね。
街亭は何より城を放棄したのが痛い。
城を保持していれば、会戦で敗れたとしてもそこに籠もって敵の前進を遅らせる事ができたが、逆に敵に城を取られれば、敵の方がそこで態勢を立て直す暇を得られ、撃破しても決定的にならない
馬謖が城に拠らずに南山に拠った事が書かれ、直後に汲道を断たれた事が書かれているので、三国志は城の放棄を原因としているように見えます。
張郃にしても王平の千が威嚇しただけで恐れて攻められなかったくらいなので十分成功の可能性はあったのに
王平が威嚇して攻めれなかったと言うより大勢は決していたので張郃は無理して攻める時間よりも、郭淮と合流する方が重要だと考えてそれ以上責める必要はないと思っただろう。王平は敗残する兵を上手に纏めて奮闘したけど、その時点で街停の勝敗は決していた。
それだけ街亭の要衝が大事たったこと。天水など雍、涼州方面は占領したばかりで統治が脆弱たし。街亭が破れて圧倒的な兵力の魏軍が殺到したら、劣勢の蜀軍は占領地放棄して、それこそ撤退が遅くなるから輜重など軍事物資も捨てる有り様で「命あっての物種」で生存最優先で漢中に総撤退するしかなかったし。
趙雲は箕谷で曹真軍を陽動作戦で引き付けたのを殿軍をして無事撤退したからね
だけどー。やっぱり諸葛亮の軍事限界点を破った張郃が凄いに尽きるね
たまに馬謖が負けなくても北伐は失敗してたって言う人いるけど、游楚とかは本人の言ってる通り魏の援軍を通さなければ放置で問題ない。
徐邈とかが攻撃してきたのは普通に考えて恐らく張郃が合流した後。
趙雲は曹真に負けても無事に撤退できてるから問題ない(そもそも曹真を止めるための囮で秦嶺山脈超えた後に曹真に勝ては無理)
やっぱ馬謖が勝とうとせず愚直に時間を稼ぐことだけを考えていたら雍州西部と涼州はワンチャンマジであったと個人的には思いました。
「馬謖が負けなくても北伐は失敗していた」からといって「馬謖の負けは大きな問題ではなかった」は違いますもんねぇ。
馬謖の敗北は「1%を0%にしてしまった」感じがします。
呉への対応もありますから、蜀に粘られると魏にとっては嫌な状況でしょうね(´∀`; )
魏略には、蜀に対しての計略・備えはなく、諸葛亮が突如三郡を降したことにより朝廷、民衆は恐慌状態に陥ったとあるらしいから、これが本当なら呉の侵攻まで粘れていたら魏はガタガタになったかもですね!
劉備が馬謖を重用してはいけないって言ったのに
孔明は人選が下手くそ 魏延と楊儀を争わせたり
馬謖に前線を任せたり
@@ChaCha-uf7ur劉備がカリスマ過ぎたんですよね。若い頃は傭兵団長でゲリラ戦各地で繰り返して生き抜いてきた歴戦の強者ですし、諸侯の元で転戦し苦労もしてきた分「人を見る目」はかなり確かだったのかもしれません
三顧の礼まで若い頃隆中で半分ニート生活してた孔明との人間的な厚みの差が出た気がします
@@Dolce_Gava2ana
劉備が最も評価してたと言う法正がもう少し長生きした世界線を見てみたかったですね
@@ChaCha-uf7urそうですね、法正や黄権の蜀漢での活躍期間がもう少し長い世界線はかなり気になります。
歴史にifは禁句とはよく言われるものですが、法正がいれば夷陵の被害も抑えられたかもしれませんし国力の疲弊も黄権を手放すこともなかったかもしれません。欲を言えば関羽と荊州を失う前に、関羽を上手くコントロールできる調整役や副官(外交のバランス感覚の良さ的に孔明。荊州に孔明、益州に法正という体制)があれば樊城と長安への2方面北上でどこまで劉備が切り込めたのか、など想像は膨らむばかりですね
さすがに魏と蜀の国力差を覆すことは不可能でしょうが、差を縮めてもう少し抗えてたのかもしれませんね
@@Dolce_Gava2ana 劉備がもう少し生きていれば李厳もあんな落ちぶれ方しなかったでしょうし
人の使い方で孔明は劉備には到底かないませんでしたね
馬謖の基本戦略としてその街停にある街泉外城を修復して敵援軍への備えとするのだっただろう。当初の孔明・馬謖の想定としては孟達の反乱から祁山へ布陣してそこから援軍を要請しても少数の援軍だったらともかく、大軍での援軍だったら時間もかかるし敵援軍に準備する時間は十分だと考えていたと思う。
ところが1月の上旬に孟達が反乱して、呼応して祁山に孔明が到着する。そして馬謖が街停に向かうのが228年の1月の下旬。それに対して張郃が大軍で荊州にたどり着いたのは2月の初め頃。
つまり孟達の反乱が収束してもない時点で既に孔明の多重の揺動を曹叡は予知して郭淮、曹真、さらに荊州にいた張郃を援軍として呼び寄せてもいる。さらに張郃は大軍にもかかわらず600キロと言う行軍距離をたった2、3週間で走破してしまっている。この速さゆえに、防備のための城を修復する時間的余裕が馬謖はなかったのだろう。
まともに歴戦の名将張郃の大軍相手に野戦で戦っても十中八九勝ち目はない。だからこそ高地に陣を張って張郃を迎え撃つ戦術だった。張郃は援軍として急いでいるので持久戦を選ぶはずはない、素通りしようものなら背後から張郃に攻撃でき、後背にいる高翔と連携して挟み撃ちにもできる。馬謖の戦術そのものは筋が通ってる。ところが張郃はあえてその時間のかかる持久戦を選んだ。
つまり孔明馬謖の戦略に対して曹叡張郃がそのはるか上をいく神対応をしていたことにおいて孔明の戦略が瓦解していた。決して馬謖が功名心とかで命令を違えることになっていたわけではないだろ。ただ魏延や趙雲のような経験豊かな将軍たちであれば同じ負けるにしても上手な負け方をしていただろうと思う。少なくと軍規に照らして処刑される事態にはならなかっただろう。
もう本当におっしゃる通りすぎてこの動画を見たり、三国志に興味があって街亭の真相が気になる人はこのコメントを見るべきだと思いました。
曹叡のトップとしての的確な指示、曹真の総司令官としての判断、張郃の現場指揮官としての臨機応変さが孔明の計算を全部打ち砕いてるんですよね
高所に陣取ること自体はわたしもそこまでひどい采配とは思わないですが水路を捨てたことが問題かと。そりゃ張郃からすればその水路確保して囲んでたら勝手に瓦解しますからね…援軍遅れてでも魏からしても蜀からしても要所である街亭叩いたほうが遥かに戦略的な成果ありますからね
@@Dolce_Gava2ana その様におっしゃられて嬉しい限り。
水源の問題に関して言えば、本来の砦となる街泉外城がその水源だったわけです。当たり前ですが城は水源を無視して構築するなど論外です。ただ、その街泉外城は数百年前のもので、利用するにしても城壁を修復にそれなりの時間が必要になる。もちろん本来の戦略ではそこを修復して魏の援軍に対応するわけですが、張郃がその時間的余裕を全く与えない状況を作ってしまったわけです。そうなると水源を守って野戦でガチンコするか水源を捨てでも有利な場所(高地)に布陣して対応するかになるんですよ。
王平が高地に布陣は間違ってると否定し、劉備はそもそも馬謖を用いてはいけないと言いました。劉備と言えば建国の英雄、王平はのちに蜀軍の中心的な存在となる存在で、後世の視点から両者と比較して、いかに馬謖が無策だったかのように言いますが、馬謖も無知であったわけではないです。野戦で張郃と戦ってもなんとかなるとは思えないでしょう。
そもそも北伐は馬謖と孔明が長い時間かけて構築した壮大な戦略です。魏は本来呉との戦いに集中していて、長安にはあの夏侯楙、皇帝は代替わりしたばかりで政治もまだ安定していない、さらに中国の正月祭りで忙しい、そこに陽動で趙雲、孟達で魏を混乱させ、その間に南安、安定、天水を削ぎ取る。これに対して夏侯楙の更迭からはじまり、長安に曹叡が辿り着いて、すぐに孔明には郭淮が、趙雲には曹真、孟達には司馬懿を当てて鎮圧し、更に張郃が神速で街亭をも突破してくる。この期間わずか1ヶ月半。一つ一つ連絡とりながら準備進めるとかしていたら孔明の思惑通りだったわけですが、曹叡はそういう凡庸な皇帝でなかった。曹叡だけでなく魏全体のこの対応の速さが孔明馬謖の想定外だったのでしょう。
では馬謖は本当に無能だったかといえばそれも違います。何より孔明が蜀で絶対的な存在になったのは、蜀建国から夷陵の戦いで蜀が滅亡の危機になるほどの大打撃を被り、それを再生させて、南蛮遠征を成し遂げ、そして出師表で北伐を敢行できる状況にまで蜀を回復させてることに成功したからです。そしてその間に孔明の傍で彼を支えてきたのが馬謖ですから、ここまでの馬謖の貢献を考えれば街亭で魏延や呉懿を押し退けての任務を与えられたのも周りはそれで納得できる部分だったわけです。少なくとも魏延や呉懿よりも孔明の戦略意図をしっかりと理解してるのは間違いないです。ただ結果的に大きな敗北になってしまってそれで処刑されてしまったので彼に名誉挽回のチャンスがなかったのが本当に惜しいところです。あの曹操だって馬謖と同じくらいの年齢の頃に徐州の大虐殺と領地の90パーセントを失う大失態してるわけですから。
@@Fahrenheit76 熟読させて頂きました。街亭の地理関係等、大変勉強になりました、ありがとうございます
同じ荊州閥だから、というだけで馬謖を用いたとはさすがに思ってはいませんでしたが、外交や内政を側で支え最も孔明と意思疎通ができた人物だから抜擢されたというのは非常に参考になります
若い頃苦労続きの劉備の人を見る目がいかに優れていたのか、魏延法正のような能力高くてもクセがあるタイプや孔明趙雲のような優等生タイプも見事にまとめ上げたカリスマ性を改めて感じました
面白いね❤最大限の賛辞を込めて
高説のとおり張郃が大軍を異例の進撃速度に街亭に迫り、馬謖は平地の陣屋で迎撃するは下策と判断。
索敵が容易で、敵大軍を高地から限定的に迎撃して短期決戦で必勝できる高地を選択した馬謖の戦術眼は、正しいし、それしか最善策ははなかった
進撃速度そのままでなく、馬謖が高地に陣取ってる馬謖軍を「短期決戦より持久戦で挑めば必ず勝つ」と張郃が冷静に看破して、馬謖軍の弱点を知り高地に干からびさせ大いに破った
ご指摘どおり、張郃が諸葛亮の戦略を打ち砕いたと言っても過言ではない大殊勲。これは馬謖も諸葛亮の軍略智者も負けるしかないと思う
だけどー、馬謖は最善の努力は街亭でしたし、馬謖以外でも無理ゲー。
なので馬謖君は何も悪くない。それを処断しちゃった諸葛亮ダメダメでしたー。
蜀軍の軍事限界点を見事張郃が機動力と冷静な戦略眼で撃破。曹武帝に「韓信がついた」の評価は正しかった❤
追伸、キチンと考察したコメントお疲れ様でした❤とても価値あるコメント、明察でした
魏延を大将にして、副将で馬謖をつけて現場で学ばせるべき段階だったな。
馬謖の尊大な性格じゃ魏延とも合わないと思う…
いない所で孔明を小馬鹿にした事を言ってますし。自意識過剰では。
馬岱。は強かったですネ。ありがとうございます。
馬良、龐統、法正が長命で徐庶が劉備軍に残ってたら時代が少しは変わってたかもね。
孔明はお友達内閣で人材の使い方に偏りがありましたね。
魏延みたいな叩き上げを評価しなかったのが致命的。
昔、コーエーの三国志で曹真って大して強くない凡庸な感じだったけど、戦で負けたことが無い将軍だったって話を聞いて驚いた。なんであんなに中途半端な扱いだったのよ。
所謂、三国演義の被害者と言われる人達の内の一人ですな。
馬謖(エッスイ郡の統治に失敗)の「心を攻めましょ」という発言を聞いたら、実地で防戦に当たってた呂凱なんかは鼻で笑いそう。お前が言うな!って感じで。
街亭の指揮官に任命したの、その統治失敗の恥を雪ぐ機会(普通に街道に陣を敷いて防戦してたら負けることはなかった筈)を与えたらエライことになった
みたいな感じに思えますね
この馬謖の逸話はちょっと解せないところもあるんよな。そもそも馬謖は「あえてそうした」ではなく「そうするしかなかった」という可能性もあるしね。
戦場なんていつどうなるかわからないし、馬謖のみたところ(現場判断)では負け濃厚でそうやって時間を稼ぐしかなかった可能性もある。
結果的に負けてしまったがそれが馬謖のせいなのかというのは実際にはわからない。もしかしたら大敗北を敗北程度にしたのが馬謖の功績の可能性もあるからねぇ。
いままでの活躍からみて、ここだけダメというのはちょっとねぇ。
補給について軽んじる作戦を決行したってだけでもう軍属として仕事させるのはアウト、その場で負け戦でもやって撤退したとかなら死罪までは無かったかもしれないけど側近と一緒に敵前逃亡じゃねぇ・・・諸葛亮の流した涙はうれし涙じゃないかとも思える
王平も大変だったろうし趙雲からしてみたらふざけんな!やろ、山越えしてあの曹真とかち合ってたんだから
諸葛亮の思惑は謎ですが場数踏ませるために馬謖に命じたとしたら負け戦の責を問われるのは諸葛亮だと思う、その場合馬謖の敵前逃亡はもううってつけ
三国志の大惨敗について紹介してください。
リクエストありがとうございます。
大惨敗、奇襲戦という切り口は思いつかなかったので取り入れさせていただきます!
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
この中で長コメントだけど的確に「張郃の軍略が、諸葛亮の軍事限界点を破った。ただ馬謖は最大限の戦術はした」の内容のあるから。詳しくはそっち見る方が凄く観る価値はあるよ❤
相手が名将なのに、兵を展開しづらい場所に兵力を一点集中させる場合は、一撃必殺の気概で挑むのが基本で、そんな気概も感じられないのに山上に兵を集中させたのは愚策ですよ(´∀`; )
相手が凡将であれば、鍋島直茂の夜襲や楠木正成のゲリラ戦(撹乱戦)のように奇で戦えますが、相手が名将なので不可に近い。
鶴翼の陣が優秀とされるのは、相手を包囲しやすく心理的に圧力をかけれるからです。
名将達は基本、正で戦う場合は部隊を上手く扱ったり、猛将・名将に敵陣を突破させたりして側面背後を突かせるものです。
兵力を山上に一点集中させて、どうやって敵より有利な戦況になるよう兵を展開させますか?
関ヶ原の戦いのように、敵将を離反出来るとでも思いますか?
三方ヶ原の戦いは、兵力に勝り、万全の体制で迎え撃ったと聞きますが?
名将相手に、真正面から強攻するしかない状況を作り、逃げ場もない状況とかマジで愚策です(´∀`; )
んー?意味わからない。離反とかの意味不明な妄想長文はどうでもいいとして。
まず山岳に布陣するのは当然地の利の険を頼みにしたのは正攻法だし。この街亭の戦いで誤解されるところは、馬謖は多勢の張郃軍を山岳の限定された戦場で「短期決戦」で誘引して仕留めるしか手数がない。しかし張郃は馬謖の万全でない布陣(水源などの確保が困難など)を看破して長期戦で持ち込まれ、馬謖の布陣と企みを無力化された
じゃあ仮に山岳ではない平地に馬謖が陣を引いたとしても、多勢に無勢の張郃軍に短期間で潰されるかもね
張郃軍が3日で600里の超スピードで進軍されて馬謖に迎撃の準備させる暇もないし。
寡兵で兵力分散して、平地と高地のハイブリッド陣地とかも上手くいくかわからない。
結局のところ馬謖は元より諸葛亮のここまでの軍事限界点が来ており、張郃軍が破綻させただけ。
まー仮説に過ぎないけど私はこうだと思っただけ
とりあえず反駁するにしても、ケンカ売るやり方でマウント取る精神は感心しないね。私はそういう愚人嫌いなので。今度から気をつけなさいな
何時も楽しみにしています。南方反乱も馬謖が元々太守を務めていたなら孔明に尻拭いをしてもらったと言う事になるのでしょうか?
いつもありがとうございます。
馬謖じゃなくても相当難しかったのでは、、、とも思いますが。おっしゃるとおりかと思います。
馬謖は司馬懿が油断にならない人物って言って、庇護流言で失脚させたのに、後に復帰した時、恐れるほどではないと言った。街亭の戦いでも、相手を舐めて取り返しのつかない失策をした。春秋戦国の趙活にそっくり。
そだね
南中の反乱程度なら馬謖でも対応できたが、司馬懿相手では荷が重すぎた。
実戦の経験をじっくり積ませれば良かったのですが、人材不足でその余裕がなかったのが惜しまれる。
そ言えば、馬謖が斬られた本当の理由は、魏に亡命しようとしたからってどっかに書いてあったな。
有能な人でも一度の失敗でこういう事になるんだ!
元々魏と蜀では 力の差が 劉備が 襄陽取ってれば あまりにも
理想主義的w
何で馬謖は水路が絶たれる可能性が高い山頂に布陣したのか?が解せない。
そこの馬謖の真意はどうだったのだろうか?軍略に長けているのだから知っていただろうに。
そこを解説出来る人はいないかな?
功を焦ったとかそんな心理的な理由ではなくて。
なんかこれ、趙括の話と同じですね
この頃はもう駒が少なすぎる関羽も張飛も趙雲も落ちてしまって。うつ手がなかったのだと思えてならない。諸葛瑾でも来てくれるとよかったのになぁ。馬良ならば違っていただろう。オラオラ系の馬謖はビックマウスというふうにしか思えない夏侯覇を大将にしてもいいのに。魏延と馬謖は最悪だ
孟獲気になる
結局は孔明の人選ミス。
生かして外交にでも使えば良いのに。
演義でわざわざ皇帝サンにコイツは口だけなんで使ったらダメよ、なんて孔明先生をこき下ろすように使われるけどね、史実ではその皇帝がしくじった夷陵のいわば尻ぬぐいを南征でするわけでそのアドバイスを孔明先生に行うのが馬謖さんだからね☺️孔明先生が馬謖さんを重要視していずれは後継にと考えてもなんら不思議ではない。だから箔をつけるために街亭の護りにつかせたんじゃないかなぁ。馬謖さんも頭の中では勝利への方程式が出来上がっていたんだろうね、今のインテリエリートみたいに😮💨(例えばシミュレーションゲーム〜兵法として)それを看破して曹真さんは叩き上げの張郃さんを送り込んだわけだから勝負は決まった…もし戦って討ち死にでもしてればまだ、マシかもしれないけれどなまじ生きて捕まり手引きされて逃げまた取っ捕まり…となれば誅されても仕方ない😱もし逃亡しなかったら命だけは助かったんだろうか。孔明先生のかすかな希望は失われた形になったんだなぁ…もしも街道に陣を張って魏を撃退できてたら将来が少しは変わったかもしれない。長くなり申し訳ない。
んーどのみち諸葛亮の北伐が無理ゲーだからね、街亭の戦いは張郃の軍略が蜀軍の軍事限界点を撃破したと言っても過言ではない。処断された馬謖が可哀想
@@萌出鶴ゆっきーさん 北伐自体が高度に政治的なゲームの一環だから今の私らにしてみればそもそもが無理ゲーなんだね。それを言ったらオシマイだし密室政治がいいわけじゃないが分かってるひとが少ない方が国が成り立つ。まぁ家柄もいいから逃亡に手を貸した仲間もいたけど失敗して誅されたから仕方ないのかな。
邪魔だからオラがチクり入れて斬らせた🎵
諸葛亮は案外大した事がない🤷
天下も取れてないのに三国志があまりにも人気であるがために過大評価されですね。
諸葛亮の置かれた立場的には大健闘なんだよなぁ
陳寿「ワイの親族処刑されたけどこの人蕭何クラスやろな。韓信クラスが蜀におったらなあ」
裴松之「魏の重鎮の陳羣も司馬懿も孔明ニキには勝てへんやろな」
張儼「管仲と同じかそれ以上ちゃうかな」
張輔「楽毅より全然上。呂尚(太公望)クラスやで」
司馬炎「ワイなんとか天下取ったけど孔明ニキおったらここまで苦労せんかったやろな」
司馬懿「孔明ニキほんま天下の奇才や…」
コメ主ニキ「諸葛亮は案外大した事ない」
ワイ「!?」
孔明いなかったら、あんな倒産寸前の蜀なんか、滅んでました。北伐できる程の国力に出来た政治で充分凄い。孔明自身が一番勝てないの分かっていたでしょう。どの道、行動しなければ、滅びが早まった。
な
「孔明泣いて馬謖を切る❗」馬謖は天才か
凡才か‼️(劉備は戦いに馬謖を持ち入るナ
👀‼️これが的中❗やはり凡才では❗以上🍑9/29・金曜日
凡才ではない。少なくとも政治外交面においては北伐に至るまでの孔明の戦略を大いに助けていた。おそらく軍事以外においては姜維なんかよりも遥かに優れていた。そしてその軍事において初戦で想定外のことがいくつも重なり、その対応が悪手だったこと、その相手が魏でも最強クラスの張コウだったこと、その後に汚名返上の機会がなかった事が蜀としても大いに悔やまれる。