【歴史解説】ゆっくり大江戸89~城下町だけではない江戸時代の町々と町人たち~町人とはどのような身分であったのか?【江戸時代】
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- เผยแพร่เมื่อ 24 ส.ค. 2021
- 地方シリーズ第4弾。今回は町と町民についてを解説します
※この動画は東方Projectの二次創作であるゆっくりキャラを用いた解説動画です。またキャラ素材【ゆっくり魔理沙改】の改変素材を個人的に作成、使用していますのでご了承下さい
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やっぱりこの人の江戸文化の掘り下げとまとめ方が一番好きだなあ。
生きていく上で必要な知識ではないのかもしれないが
学びながら楽しく生活するための発見というか散歩してるような気分にさせてくれるゆっくりさんありがとうございます
普段ぼんやりとしか認識していない、町の概念や意味合いを、丁寧に解説してくれてほんとありがたいです
そういえば先進国の物流の進化で典型的に言われるのが『馬(馬車)』→『運河(水運)』→『鉄道』の順なんですが
日本も江戸時代に(海運は海洋国家として当然としても)水路による内陸水運まできっちり発展してたんですね🚢
こういった物流の基盤が江戸時代にすでにあったからこそ日本は資本主義にスムーズに移行できたと
学生時代の日本史で学びたかった!
かなり楽しかったはず。
私の実家周辺は縄文時代から人が定住していたそうです。
奈良時代には国分寺が建立されています(現在は史跡公園ですが)
ただし、都市から離れていたので、近年まで牧歌的な在郷村でした。
古い町並みとか、出来るだけ後世に残していけたらいいですね。
実際住んでいる方々の事情もあるので「可能な限り」ではあるのですが。
なるほど、六日町や十日町というのはそういうことなんですね。
小千谷は川が深い所にあり過ぎて半端
六日町、十日町より上流は河運が減ってますね
塩沢なんて、あそこから上流側は陸運ですしね
塩の積替とかがあっての地名
実は正式に町割りされて町奉行が置かれたような「領主側が認めた町」というのはとても少ないんですよね
村方でありながら自然発生的に町になった(一見町に見える)在郷町は実に多い
動画ありがとうございます。
城下町と在郷町との違いの解説勉強になります。在郷町の一つ宿場町は本来の意味では町の定義には入らないのですね。
長野について言えば、おそらく松本市のほうが本来であれば城下町の意味合いで県庁所在地にふさわしかったのでしょうけど、明治政府のいろいろな都合というところでしょうか。(47都道府県になるまではいろいろと藩を合併して、県を合併したりもしていますしね。)
前にもお話しましたが、町民の定義、町のいろいろとこうして見ると、他の歴史系動画と異なり人物とか政治に焦点を当てているのではなく、社会構造に焦点を当てている辺り本来の歴史学の視点という意味でありがたいと思っています。
初0回視聴。投稿お疲れ様です!
新潟市は良質な港と阿賀野川がある最高立地の港町ですね。地元が城下町なのですが、二ノ丸、三ノ丸,、鉄砲町、御免町など、城下町の名残りが残ってますね。
新潟市は信濃川阿賀野川の河口が合流していましたからね(江戸時代は合流していた)
実は旧市街は戦災を受けていないので江戸時代に町割りされたままの道路区画を見ることができます
現通船川があるから沼垂も成り立ってました
冒頭会話の霊夢の「お盆どころ(ではなかった)」が『紋所(もんどころ)』に聞こえてちょっとにやにやした(報告)
中国の古い歴史書を読むと「百姓」(ひゃくせい)というのは農家だけでなく庶民(国民?)全般を指す言葉だった。
長い歴史の中で最下層の人でも「姓」を持っていたから。
一方日本は農民等は「姓」を持てないけど、総称は「百姓」(ひゃくしょう)
色々違ってて面白い。
百職ですから
裏長屋に暮らす町民であろうとも人別帳でその身分を厳しく管理され、載っていない者は無宿人として狩り出され佐渡金山送り…というイメージですが、そうした公的管理より商売の組合とか親類縁者の繋がりこそが身分証明になっていた様子ですね。昔の人は何度も名を変える例がありますが、何らかのコミュニティーに属していなかったら混乱するばかりでしょう。
ちょっと前まで学校の文具からOA機器を一手に引き受ける街の文房具屋あったよな
動画の内容ももちろんだけど季節の挨拶も勉強になる
善光寺平、長野県長野市だけど、元々は松代城の城下町松代が真田十万石の中心で栄えていたが、大火で焼けて善行寺平へ移転したと聞いた記憶があります。
もっとも善光寺平は、信玄・謙信時代にはもうかなり栄えていて、農民が財産を持って避難する地域だったとか。
前々から思ってたけど、私の故郷と主の住まいは同じ地域な気がする。
あー、ヒグマのラーメン食いてーて
参勤交代で発展した宿場町はたくさん見た
面白いのが高瀬舟の終着地点で川沿いでも江戸期に発展した街もいくつか見た
やはり平和で争いが無いと何かが時間をかけて作られるのは面白い
城下町に近い存在である在郷町も一部の藩では存在していたみたいですね、地元は宮城なのですがその形式だったようなので
それなりの陪臣が所領に持った邸宅を中心に侍屋敷、足軽町、奉行所等が存在する、城代わりに奉行所を中心に据えた町だったそうです
ただ、その結果侍屋敷のあった辺りの住人がそれ以外の地域を見下す行動を取るようになり明治以降何度も衝突が起こったとか
何をするにも反対を繰り返し、結果として侍屋敷付近の発展が遅れ、今では侍屋敷地区の住人が不便さ等から大減少してしまいました
なおその状態でも他地区を見下して上から目線なのは変わっていないので、行政も放置を決め込んでしまいましたとさ
陣屋町っていう形式の1つでしょうかね
在郷町に当てはまるかは年貢が課せられていたかどうかになるので詳しくはわかりませんが
サクラ大戦の舞台の大正時代とかキャストも周りの人達も例えビフテキやカツレツが有っても、ついこの間の出来事っていう感じ。特に舞台で見る限りでは。偶然かもしれませんが最近趣味とも言えない興味がある事がが繋がる感覚が多くて不思議です。全ての動画に感謝です。
今から思えばタイミングとか運とかあって、同じ場所で同じ事をやっても同じ結果になるかは解らないですね。違う場所で他所と同じ事をやっても結果は解らないですね。
在郷町って経済活動を大都市と食い合ってて在郷町の人口が増えると城下町とか三都の人口が減ったりしたみたいな事を読みましたね
だから江戸時代後期だと農村経済の成長で大都市の地位は下がったとか
都市域で住める人数が決まってますからね
武将ばかりが全てではありませんから。
まあ、色々な人々を上げるこのチャンネルは
独自性があります。
日本型のまちの成り立ちが興味深いですね。勉強になりました。ありがとうございます。
私は、福岡市東区箱崎の出身ですが、この町も筥崎宮の門前町として、博多と比肩する商業都市として栄えました。
大内宿を俯瞰する写真は皆同じ構図なのには理由がある。町の北側にある小山にビューポイントがあり、皆そこから撮影するから。
他に見下ろせる場所など無い。
県庁所在地が城下町でなかった例だと、長野市の他にも、大津市、奈良市、京都市、神戸市、長崎市、横浜市、さいたま市(合併前は浦和市)、千葉市、新潟市、青森市、札幌市がありますね。(北海道は松前藩しかなかったから当たり前ですが)岐阜市、大阪市、那覇市は微妙なところかも。
大津、奈良、京都は都ですね。王城として計画的に都市整備がなされたところはまさに城下町でしょう。都市自体が城郭である中国の都城がモデルですし。大阪も都であり商都として発展しましたが、秀吉が大坂城下に町を整備した紛れもない城下町です。
@@user-vd1jw9nf8u 大阪は微妙で、石山本願寺が整備した寺内町&門前町でもあるんですよね
長野市は本来は長野県と筑摩県に分裂するはずでしたが火事で統合しましたね
筑摩県なら県庁所在地は松本市の筈でした
佃島って、まるっと江戸に移ったイメージだけど、
普通にいまでも大阪にあるんですよね。ちょっと災害とか心配な場所ですけど
火消しについて詳しく知りたいです!
ヒーローだし🦸♂️(もし投稿済みだったらごめんなさい)
エタ・ヒニンについて動画作るなら、是非、部落解放同盟の与太話を鵜呑みにしないで作ってほしい
「士農工商」が身分階層ではないように、「エタ・ヒニンが下層身分だった」というのも事実ではない
初コメです。楽しく動画拝見しています。江戸時代の温泉町(湯治⁇場)のこともうお話されていたら申し訳ないのですが興味があります。天領とかだったりしたのかな〜
これは町人や百姓ではないが、鉱山で栄えた町もなぁ。
例えば佐渡の金山、銀山もなぁ。銅山も全国各地になぁ。江戸時代の初めは金を輸出していろんなものを買った。
どうした意味で鉱山も次にお願いしたい。愛媛県には別子銅山があったが、別子には沢山の人が住んでいた。江戸時代だけでなく1973年に閉山するまでなぁ。
銅は金の輸出の後に主体となりオランダに輸出された。オランダはこの銅で大砲を作りなぁ。オランダも手間のかかる日本との貿易をやめようと考えた時期もあったみたいだが、日本はおそらく世界的な銅山が栄えていた。
同様に銀山もなぁ.各地に銀山がありなあ。江戸時代は鉱山が非常に重要だったなぁ。武士、町人、百姓とは違う意味でなぁ。長崎からの輸出品には鉱山がなあ。
確かに朝鮮とか(対馬市)かなぁ。薩摩からは特に琉球を介しての貿易。あるいは北海道(蝦夷地)の貿易もなぁ。日本は鎖国というにはなぁ。
ただオランダや清国とは長崎で幕府公認でなあ。
最近は学者さんではないかと思う。。
そうやったんか、◯丁目とかって気にせず使ってたけど境い目という意味やったんか
士農工商は結構、便宜的なものだったからなあ。
経済的には、上級武士、豪商、豪農、工、商、農、最下級武士、貧農などなど、みたいな順序だったし。農家の次男三男、、、は、商家に奉公に出たりしてたから。
武士の帰農もあるし、武士株というのもあるしね。
士農工商で表せるような、簡単な仕組みではなかったし、そこには時代ごとに人々の生活の事情やら、思惑やら、色々な複雑な状況が隠されているのですよ。
町は土地や経済などの基盤に対して人が集まって形成された
コロナ前まではそうでしたが、オンラインでの経済活動が今より増えてくると、土着という概念がどんどん薄れていくんでしょうね
今は最も顕在化しやすい墓や空き家問題(土地依存性が非常に強い)が取り上げられていますが、土着のコミュニケーション(地元の祭りとか)の存続が危うい
オンラインだとローカル、グローバルの概念も薄くなってくるので、どういう形になっていくか見えにくいですね
日本語自体が土着だけど、100年後はどうなっているのか…
うちの田舎で「ざいご」は差別的意味合いを持つ。田舎民から見ても田舎な地域というのは、みすぼらしい着物を着てみすぼらしい家に住んでたからだと思う。
昭和中期の話。
在郷から「ザイ」って言葉が来てるんだ
実家は田舎の村だったから近くの町からはザイ呼ばわりされて
でもその町も付近の大きな街からはザイ呼びで・・・の繰り返し
なんか子供心にとても嫌な言葉で残ってます。
うちの地元でも田舎をザイって言います。他にもジャイゴって言う方言もあるけど、在郷からきた言葉だとわかってまた勉強になりました。
曖昧だったんだね。町人と町、
距離の単位の町が有るから先に道路が1町ごとに出来て家が建築されてその通りに沿って住む商人たちが町人で長屋は通りに面して無いから町人で無いのかと思ってたなぁ。(´・ω・`)
我が家の先祖は城下町で刑事事件と興行を取り締まる検断屋敷 (身分は町人)
士農工商とは、おそらく武士から見てのその職業の重要性の評価の順位であって、農工商の間に身分的な意味での順位はなかったということではないでしょうか。江戸時代、幕府は儒学、特に朱子学を官学として武士にその勉学を推奨しました。朱子学においては商業の位置づけは最低というか、そもそも眼中になかったからです。日本が幸運だったのは、日本では朱子学は商業を賤業として武士が商業に手を染めることを戒めたにとどまり、商業自体に直接的には干渉せず、商人たちに商業を委ね、彼らの自治(=自由)に任せたことです。これによって江戸時代の日本は、東アジアでは唯一商業が発達した国になることができました。これに対して、中国の明・清、半島の朝鮮では、政治が封建制ではなく中央集権であったことも手伝い、国家の末端まで朱子学に基づく統治が行われました。それがこの地域で500年にわたって経済が長期低迷に陥ったことと無関係とは言えないと思われます。
使用BGMを教えて頂きたいです。🙇♂️
いつの時代も町民と農民が歴史や文化を作った
今回はちょっと 難しい、と言うか地味と言うか時代劇っぽくないと言うか、だったね。内容的に仕方ないけど。
町人キタ♪───O(≧∇≦)O────♪ー
イチコメ!頑張ってください。😉
8月25日に急に暑さが復活し、26日には東京で今年2回目の猛暑日になるなど、関東から関西にかけて猛暑日になる予報となっています。
9月から10月の予報でも、全国的に高めの予報となっています。
皆さん、ご注意ください。
歴史の教科書だと戦国大名の殺し合いばかりで、じゃあ、江戸時代のとき、どんな生活してたのとか全然分からない。
農村の農閑期は何してたの?とか農村の次男坊、三男坊はどうなっちゃったの?とか。
農村と寺との関係は?とか。
ミュンヘンオリンピック事件被害者への黙祷を忘れてはならない
あとは無観客開催
家持ち町人の娘マリサ
いずれ同和に触れるのですか…。チャンネル消滅や訴訟にならないよう、最上級に気をつけてください。
一言一句の失言、間違いも危険ですから、やらないのが一番だと思いますが、やるのならくれぐれもお気をつけて!
本題と関係ないけど御用達って、どう読んでも「ごようたつ」なのに、いつ頃から「ごようたし」って読み方出てきたんだろう?
元は「ごようたつ」が正しかったんだよね?
用達(ようたつ)と言う熟語に御をつければそういう考えだとおもうが、用を達する(用を済ませるの意)から変化したんだったら、ごようたしでも良いんじゃない?
ら
天ちゃんに徳がないから治世は悪くなる、昔から日本では政治家は徳治につとめたけど徳無き治世はまさに今がその時ですね。
使用BGMを教えて頂きたいです。🙇♂️