筑豊本線・若松―原田の今と昔 D50・D60蒸気機関車は無煙化最後まで頑張りました

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  • เผยแพร่เมื่อ 13 ก.ย. 2024
  • 一番印象に残る路線でした。特に直方駅は跨線橋に立っていると、引っ切り無しに蒸気機関車列車が行きかい、顔が真っ黒になるくらいでした。
    かつて日本最大規模の産炭地を走る筑豊本線です。蒸気機関車が活躍した筑豊本線、起点若松、終点原田間66.1Kmをたどって見ました。沿線は数多くの炭坑支線や貨物支線を用していたが全て廃止になっています。現在は若松~折尾、折尾~桂川、桂川~原田と運転系統が三分割されています。よって、本線と名前は付いているが、全線直通運転はなくなっています。特に折尾~桂川は電化されており、篠栗線で直方~博多間の直通運転で福岡近郊区間になっています。
    蒸気機関車終焉が近づいてきたとき、若松機関区のD50蒸気機関車、直方機関区D60蒸気機関車は最後まで活躍をしていました。
    若松は石炭を船で京阪神に送るための積出港、直方は筑豊炭田の石炭を若松や門司港へ送り出す石炭貨物車集積場で、蒸気機関車の煙・匂いがモウモウとしていた時代です。

ความคิดเห็น • 13

  • @ハラダミサコ
    @ハラダミサコ 9 วันที่ผ่านมา

    昭和23年生まれですから、大変懐かしく拝見しました。小学生のスケッチ大会は機関区でした。

  • @green_line
    @green_line 12 วันที่ผ่านมา

    昔の直方機関区は懐かしいです。私も1971年頃から構内で写真を撮ってましたが、もうその時期はほとんどの蒸気(D60数両、C11等)が廃車になって構内の角に列べてありました。生き残っていたのがC11 329やD60数両、9600形が数両です。ちなみに原田駅にはターンテーブルはあったのでしょうか?

    • @sen-sr.
      @sen-sr.  12 วันที่ผ่านมา +1

      記憶をたどる、全てが懐かしいです。筑前山家には転車台は無かったです。ホーム原田方面に支線があって、貨車が留置されていた記憶があります。転車台は原田駅筑豊本線ホーム先端川にありました。丁度中学2年生の時、母に連れらC55牽引列車に乗り、蒸気機関がたくさんいるのが珍しく、列車から見ていたら転車台台が目に入りました。列車やホームから、当時買って貰ったハーフサイズのカメラで撮ったのですが、全てボケボケの写真で何となく形だけは分かります。当時、ホームでの駅弁の売り子さんなども写っており、今では考えられないことです。

    • @green_line
      @green_line 12 วันที่ผ่านมา +1

      @@sen-sr. 原田駅に転車台があったのですね。貴重な情報ありがとうございます。国土地理院の昔の航空写真を見ても写ってないので疑問に思ってました。それで筑豊本線の原田駅からの上り(直方行き貨物や客車)は蒸気がバック運転でなかったのですね。

  • @user-xq4lv7de7d
    @user-xq4lv7de7d 6 หลายเดือนก่อน

    石炭保存館から見た直方駅は壮大でした。昭和45年に横浜から引っ越し 天草51号で 新大阪~直方 😅 それから5年後にかもめで修学旅行で京都まで 
    この時期までが一番の思い出です。懐かしい動画を見えて ありがとうございました。昨年、30年ぶり直方駅から折尾経由で東京迄帰りましたが 西鉄のバスターミナルも無いし 商店街も閑散で寂れた駅で 寂しく思えましま。😢

    • @sen-sr.
      @sen-sr.  6 หลายเดือนก่อน

      直方機関区は本当に壮大でしたね。1970年頃までは蒸気機関車の華やか時代でした。特にD60は全国で最後まで残り、活躍していた姿を思い出します。その地区に住んでいたとは、何と素晴らしい事です。当時、筑豊訪問に合わせて、五木寛之の青春の門「筑豊篇」は、筑何度も読んだ思い出があります。

  • @f4802
    @f4802 2 หลายเดือนก่อน

    懐かしい駅ばかりです、その内の「筑前山家」、S18年の暮れ佐世保から父が戦地(ラバウル)に赴く事になり急遽、実家に疎開(豊前川崎)でした。
    母方の実家も佐世保から熊本・川尻に疎開、S19年(当時10歳)祖母に会う為、川尻行きを決めました、が切符(本線経由)は何処の駅も購入は難しかったですね。
    豊前川崎から後藤寺〜新飯塚〜筑前山家で下車、此処から筑紫駅(西鉄電車)まで歩き〜大牟田でした、熊本までは貨物車(無蓋車)によじ登り寒さとの戦いでしたね、深夜の熊本駅前で浮浪者の焚き火に加わり夜明けを待ち、郊外電車?の線路を歩き「川尻横丁まで」ました。
    線路は道案内でしたからね、祖母に会い、ばたんきゅうで、祖母の着物が治療代やブドウ糖注射代になり忘れられない出来事でした。

    • @sen-sr.
      @sen-sr.  2 หลายเดือนก่อน

      豊前川崎から川尻までの移動は、当時の状況からだと一言では言い表わせないほど苦労をしたのですね。私には戦後生まれなので線路を歩いたり無蓋車に乗ったりの移動は、写真でしか見たことがないので、貴重な話をありがとうございます。
      私の母が他の祖母が後藤寺の隣の舟尾の石鉱山住宅の長屋に住んでいましたので、子供の頃行ったことがあります。今長屋がどうなっているか、今回TH-camをアップするために舟尾駅を訪れたにですが、鉱山はあったのに広い地域にあった長屋は全てなくなっていました。

  • @kw6644
    @kw6644 ปีที่แล้ว +1

    貴重な写真の数々ありがとうございます。筑豊本線は蒸気列車の密度が高く最高でした。直方機関区の写真羨ましく思います。直方は厳しく機関区に立入る事が出来ず陸橋から1日中見ていました。陸橋は今でも変わらずあるのでしょうか。

    • @sen-sr.
      @sen-sr.  ปีที่แล้ว +2

      私の頃は大丈夫でしたが、終焉が近づくにつれて機関区に入れなくなったと聞いています。飯塚寄りにある3・4箇所の陸橋は残っています。陸橋の上からもひっきりなしにやってくる蒸気機関を私も撮っていました。ただ煙で煤だらけになった思い出があります。同じ思いの方がいらっしゃい嬉しいです。このあと後藤寺線・田川線もまとめ中ですので、宜しくお願いします。

  • @user-xx2ur1dg4n
    @user-xx2ur1dg4n 8 หลายเดือนก่อน +1

    見ました。やすお😂

  • @sueipas
    @sueipas ปีที่แล้ว

    バックミュージックが似合ってない、やはり昭和のSLには演歌でしょ

    • @sen-sr.
      @sen-sr.  ปีที่แล้ว

      なるほど、そうか、演歌ですか、それもありですね😊頑張ります