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多くは我田引水的な発想とは思いますが、これだけ色々な説があるとは。わざわざ調べて動画にした主さんに敬意を表します👍
佐賀県民ですけど、今の唐津から佐世保あたりまで肥前国松浦(まつら)郡でした。
直線距離で無く実走行距離だと思っています。沖縄·ジャワ島だと九州に上陸せず海岸線を船移動すると思います?水行は海岸線(河川沿い)を行進、私は宇佐地方ではと思っています。
説が多すぎて邪馬台国が陰謀論みたいになってきてるの草
学者だけが論じていた邪馬台国のことをみんなが論じるようになったきっかけは宮崎康平でしょうね。歌「邪馬臺」もいいかも。
邪馬台国関連から脱線しますが、「魏志倭人伝の信頼性」について引き合いに出されやすい「明史『日本伝』」の解説をお願いします。
地震での被害が甚大な能登半島ですが、、90度回転地図なら侏儒國→珠洲 ?輪島 →倭島 ?という、ゆるい邪馬台国ネタでした 😊
親魏倭国王の金印がでる奇跡でもおこらんかぎり永遠に分からないと思うよ天皇陵を全部調査してもわからんだろうな
まぁ、冷静に考えて、長旅をする人達が、太陽の方角とか、、間違えるわけないよね??ないと思うのは俺だけ??子供でもわかると思うんだけど( ̄σ・ ̄)ホジホジ
方角の見方は、時代によって違うと文献の見方がかわるね、と………………なると、関西説と九州説が決着が……………つくわけでもなさそうです。ただ関西説が強くなるかな。
個人的には、邪馬台(ヤマト)国と大和(おおやまと)は別物ではなかったのでしょうか。「九州の山門=邪馬台(ヤマト)国」である説が濃厚なのではないでしょうか。当時、九州にも「ヤマト」と発音するクニが存在し、奈良の大和とは別物の国家が形成されていた。邪馬台国の「倭」というのは、山門のことを指す。「倭種」は奈良方面の日本人(倭人)を表す。当時文字がなかった日本では、「山門」と「大和」を文字で区別する必要がなく、また交流も少なかったことから特に問題はなかったと思われる。主に、魏国と交流があったのは山門(邪馬台国)であり、呉国と交流があったと考えられるのは狗奴国。そして、卑弥呼が収めていたのは山門(邪馬台国)であり、魏国との交流により権威付けを得ていた。
筑紫平野だと思いますよ。北に伊都国比定地(糸島)があり南に狗奴国比定地(球磨)がある。海(海産物)と平野(稲作)で多くの人口を養える。奴隷160人を献上した面土国比定地の吉野ケ里(目達原)に近いので更に発展して大国になった可能性がある(帥升から倭国大乱を経て卑弥呼擁立までおおよそ8~90年と見る)。魏から下賜されたと思われる金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が唯一出土した日田にも近い。
筑紫平野の邪馬台国と熊本平野の狗奴国と争うという構図は理解しやすいですね。邪馬台国は卑弥呼亡き後の混乱は台与により収まったが国力的には衰退していて南九州を中心とした太平洋側で大きく勢力を伸ばし台頭してきた日向(現在の宮崎から鹿児島にまたがる地域)に狗奴国など九州にあった他の国々とともに飲み込まれていき、日向は後に神武天皇の伝説として残された東征を行ったとすると記紀に邪馬台国の記述が無いことも南九州にニニギノミコト以下皇祖神に関する史跡が集中していることも説明がつくからこのような可能性もあったのではと考えています。ついでにニニギノミコトの天孫降臨が高千穂峰で八幡神が最初に流れついたのが大隅と現在の鹿児島なので中国から南西諸島経由で北上し日本に上陸した進んだ中国文化を持った人が日向を建国した可能性も考えてます。正直地元とは言え鹿児島だと天上の国高天原から降り立つには土地も肥えているわけでもないし日本の中央からも離れていると良い条件ではありません(実際東征で出て行きましたし)、これも南西諸島経由で来たのなら最初の大きな陸地ということなら納得しやすいと考えたわけです。
日本に上陸して、日本側がどう言ってようとも、太陽が出て沈む方角や星の位置で、90度やら180度やらの矛盾に気づく。しょうもない説を言わないほうがいい。紀元前21世紀の夏王朝(伝説的な時代)から方位を知る技術があり、紀元前11世紀から始まった周代には、太陽と日影の観測を用いた天文学が急速に進歩しました。この時代には、「土圭(どけい)」という簡単な日時計のような装置が使われており、日影を観測することで東西南北を確認する技術が確立されていたと考えられています。さらに、紀元前2世紀の前漢時代になると、太陽や星の位置を利用した「司南(しなん)」のような羅針盤も登場し、より精密な方角の測定が可能だった。
魏の時代には「周碑算経」などの天文観測に基づく手法を記した書もあり、観測地点の間の距離を比較的正確に把握することが出来ましたね。太陽で出来る影の長さを利用するので正確性を求めるとしばらく留まって繰り返し測定が必要ですが地図作成ならともかく邪馬台国までの行程における距離の目安なので誤差は本来の測定に比べて大きい可能性はあっても余里の範疇でしょうね。帯方郡から邪馬台国までの総距離一万二千里のうち末廬国に到着してから二千余里しかなく、対馬ー壱岐の間が千余里など短里が使われていたことも明らかで九州説以外を取ると距離の問題を解決できない。末盧国(松浦)から東松浦半島を舟で回って伊都国に入りそこから陸路で奴国(福岡市、春日市)を経由して筑紫平野に観測しながら入ったとすると二千余里は筑紫平野のどこかになります。(日田も距離的にはクリアできそうですけどその場合、日田が邪馬台国なのではなく筑紫平野を治める卑弥呼の住む首都のようなものでしょうか)
そうはいっても陳寿は倭国を指して「當在會稽東冶之東」と書いています。実際はそこは沖縄の南海上で国など存在しない。三国志より後に書かれた後漢書東夷伝には「其地大較在會稽東冶之東」とあります。「おおむね会稽の東冶の東にあり」で推測文となっており、この時代に倭国のはっきりした位置を知らなかった証左です。
@@Mxumin1 返信に感謝申し上げます。漢・魏時代の会稽は南方地域の統治の拠点であり、東海岸の都市の中で、倭国の概要の位置を示す際のランドマークとして選ぶことは自然であり、九州あたりの地を指して東と書いても全く不思議でもなんでもありませんね。
@@nasubichannel さすがに九州を東冶県のざっくり東と表現するようでは距離方角を精密に測定しているとはとても言えないですね。会稽郡の郡治は山陰県(今の紹興市)で、これならギリギリ屋久島あたりに該当しますが、陳寿はあえて東冶と限定しています。東冶県は現在の福建市ですからほぼ台湾の緯度です。また後漢書東夷伝にはその続きに「與朱崖儋耳相近」とあります。朱崖郡、儋耳郡は今の海南島ですので誤差の範囲を超えて方位を全く誤っていることは明白です。
@@Mxumin1 ぐぬぬ、、、
方角間違いの総集編ですね。それぞれ解決済みの話ですね。😅また西高と東高の位置が違う事はよくある事です。何はともあれ、伊都国の位置はほぼ方角通りで確定している。まぁ「南が東」は無いわなぁ。
魔理沙ちゃん、霊夢ちゃん、妖夢ちゃんこんにちは🎉よろしくです✨
四国だと思うんですけどね~~~^^;どうなんでしょうね~?
辰砂採掘遺跡、欠史八代関連の神社等、阿波から日本が始まっていると思います。
これって昔、飛鳥昭雄 氏が言ってた古地磁気学の事じゃね?大昔日本は二つに分かれていて地殻変動で西日本は反時計回りに東日本は時計回りに反転してフォッサマグナでぶつかっている、と言う説、
末盧国松浦を今の唐津とすれば、(そこは福岡県じゃなくて)、肥前佐賀県。その東南500里の伊都国は佐賀平野になり、勿論ここも肥前佐賀県。つまり倭人伝最初の舞台、末盧国・伊都国・奴国・不彌国は、どうみても佐賀県だよね。
『北』を日本人が何と呼ぼうが、中国(や朝鮮)の人は『北』を北と書くはずなのだけどな。もしかして魏志倭人伝を日本人が書いたとか思ってない?
「女王国の北の伊都国」で女王の所在地は筑紫平野で決まりです。簡単です。
高千穂町、天岩戸神社が天皇家の天孫降臨の地で、高天原ならば。高千穂町の西の山都町の幣立神社は狗奴国の天孫降臨の地であり、高天原ですね。南の霧島の縦鉾は隼人族の天孫降臨の地ですね。つまり、高千穂町の天岩戸神社と山都町の幣立神社の宗教的な対立があって、戦争になったのではないでしょうか?卑弥呼vs卑弥弓呼の戦いですね。映画化したら面白いかもですね。
行基図をあてにすれば、奈良に着く様な。
多くは我田引水的な発想とは思いますが、これだけ色々な説があるとは。わざわざ調べて動画にした主さんに敬意を表します👍
佐賀県民ですけど、今の唐津から佐世保あたりまで肥前国松浦(まつら)郡でした。
直線距離で無く実走行距離だと思っています。沖縄·ジャワ島だと九州に上陸せず海岸線を船移動すると思います?水行は海岸線(河川沿い)を行進、私は宇佐地方ではと思っています。
説が多すぎて邪馬台国が陰謀論みたいになってきてるの草
学者だけが論じていた邪馬台国のことをみんなが論じるようになったきっかけは宮崎康平でしょうね。歌「邪馬臺」もいいかも。
邪馬台国関連から脱線しますが、「魏志倭人伝の信頼性」について引き合いに出されやすい「明史『日本伝』」の解説をお願いします。
地震での被害が甚大な能登半島ですが、、
90度回転地図なら
侏儒國→珠洲 ?
輪島 →倭島 ?
という、ゆるい邪馬台国ネタでした 😊
親魏倭国王の金印がでる奇跡でもおこらんかぎり
永遠に分からないと思うよ
天皇陵を全部調査してもわからんだろうな
まぁ、冷静に考えて、
長旅をする人達が、太陽の方角とか、、間違えるわけないよね??
ないと思うのは俺だけ??
子供でもわかると思うんだけど( ̄σ・ ̄)ホジホジ
方角の見方は、時代によって違うと文献の見方がかわるね、と………………なると、関西説と九州説が決着が……………つくわけでもなさそうです。ただ関西説が強くなるかな。
個人的には、邪馬台(ヤマト)国と大和(おおやまと)は別物ではなかったのでしょうか。
「九州の山門=邪馬台(ヤマト)国」である説が濃厚なのではないでしょうか。
当時、九州にも「ヤマト」と発音するクニが存在し、奈良の大和とは別物の国家が形成されていた。
邪馬台国の「倭」というのは、山門のことを指す。「倭種」は奈良方面の日本人(倭人)を表す。
当時文字がなかった日本では、「山門」と「大和」を文字で区別する必要がなく、また交流も少なかったことから
特に問題はなかったと思われる。
主に、魏国と交流があったのは山門(邪馬台国)であり、呉国と交流があったと考えられるのは狗奴国。
そして、卑弥呼が収めていたのは山門(邪馬台国)であり、魏国との交流により権威付けを得ていた。
筑紫平野だと思いますよ。
北に伊都国比定地(糸島)があり南に狗奴国比定地(球磨)がある。
海(海産物)と平野(稲作)で多くの人口を養える。
奴隷160人を献上した面土国比定地の吉野ケ里(目達原)に近いので更に発展して大国になった可能性がある(帥升から倭国大乱を経て卑弥呼擁立までおおよそ8~90年と見る)。
魏から下賜されたと思われる金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が唯一出土した日田にも近い。
筑紫平野の邪馬台国と熊本平野の狗奴国と争うという構図は理解しやすいですね。
邪馬台国は卑弥呼亡き後の混乱は台与により収まったが国力的には衰退していて南九州を中心とした太平洋側で大きく勢力を伸ばし台頭してきた日向(現在の宮崎から鹿児島にまたがる地域)に狗奴国など九州にあった他の国々とともに飲み込まれていき、日向は後に神武天皇の伝説として残された東征を行ったとすると記紀に邪馬台国の記述が無いことも南九州にニニギノミコト以下皇祖神に関する史跡が集中していることも説明がつくからこのような可能性もあったのではと考えています。
ついでにニニギノミコトの天孫降臨が高千穂峰で八幡神が最初に流れついたのが大隅と現在の鹿児島なので中国から南西諸島経由で北上し日本に上陸した進んだ中国文化を持った人が日向を建国した可能性も考えてます。
正直地元とは言え鹿児島だと天上の国高天原から降り立つには土地も肥えているわけでもないし日本の中央からも離れていると良い条件ではありません(実際東征で出て行きましたし)、これも南西諸島経由で来たのなら最初の大きな陸地ということなら納得しやすいと考えたわけです。
日本に上陸して、日本側がどう言ってようとも、太陽が出て沈む方角や星の位置で、90度やら180度やらの矛盾に気づく。
しょうもない説を言わないほうがいい。
紀元前21世紀の夏王朝(伝説的な時代)から方位を知る技術があり、
紀元前11世紀から始まった周代には、太陽と日影の観測を用いた天文学が急速に進歩しました。
この時代には、「土圭(どけい)」という簡単な日時計のような装置が使われており、
日影を観測することで東西南北を確認する技術が確立されていたと考えられています。
さらに、紀元前2世紀の前漢時代になると、太陽や星の位置を利用した「司南(しなん)」のような羅針盤も登場し、より精密な方角の測定が可能だった。
魏の時代には「周碑算経」などの天文観測に基づく手法を記した書もあり、観測地点の間の距離を比較的正確に把握することが出来ましたね。
太陽で出来る影の長さを利用するので正確性を求めるとしばらく留まって繰り返し測定が必要ですが地図作成ならともかく邪馬台国までの行程における距離の目安なので誤差は本来の測定に比べて大きい可能性はあっても余里の範疇でしょうね。
帯方郡から邪馬台国までの総距離一万二千里のうち末廬国に到着してから二千余里しかなく、対馬ー壱岐の間が千余里など短里が使われていたことも明らかで九州説以外を取ると距離の問題を解決できない。
末盧国(松浦)から東松浦半島を舟で回って伊都国に入りそこから陸路で奴国(福岡市、春日市)を経由して筑紫平野に観測しながら入ったとすると二千余里は筑紫平野のどこかになります。(日田も距離的にはクリアできそうですけどその場合、日田が邪馬台国なのではなく筑紫平野を治める卑弥呼の住む首都のようなものでしょうか)
そうはいっても陳寿は倭国を指して「當在會稽東冶之東」と書いています。実際はそこは沖縄の南海上で国など存在しない。三国志より後に書かれた後漢書東夷伝には「其地大較在會稽東冶之東」とあります。「おおむね会稽の東冶の東にあり」で推測文となっており、この時代に倭国のはっきりした位置を知らなかった証左です。
@@Mxumin1 返信に感謝申し上げます。漢・魏時代の会稽は南方地域の統治の拠点であり、東海岸の都市の中で、倭国の概要の位置を示す際のランドマークとして選ぶことは自然であり、九州あたりの地を指して東と書いても全く不思議でもなんでもありませんね。
@@nasubichannel さすがに九州を東冶県のざっくり東と表現するようでは距離方角を精密に測定しているとはとても言えないですね。会稽郡の郡治は山陰県(今の紹興市)で、これならギリギリ屋久島あたりに該当しますが、陳寿はあえて東冶と限定しています。東冶県は現在の福建市ですからほぼ台湾の緯度です。また後漢書東夷伝にはその続きに「與朱崖儋耳相近」とあります。朱崖郡、儋耳郡は今の海南島ですので誤差の範囲を超えて方位を全く誤っていることは明白です。
@@Mxumin1 ぐぬぬ、、、
方角間違いの総集編ですね。
それぞれ解決済みの話ですね。😅
また西高と東高の位置が違う事はよくある事です。
何はともあれ、伊都国の位置はほぼ方角通りで確定している。
まぁ「南が東」は無いわなぁ。
魔理沙ちゃん、霊夢ちゃん、妖夢ちゃんこんにちは🎉よろしくです✨
四国だと思うんですけどね~~~^^;どうなんでしょうね~?
辰砂採掘遺跡、欠史八代関連の神社等、阿波から日本が始まっていると思います。
これって昔、飛鳥昭雄 氏が言ってた古地磁気学の事じゃね?大昔日本は二つに分かれていて地殻変動で西日本は反時計回りに東日本は時計回りに反転してフォッサマグナでぶつかっている、と言う説、
末盧国松浦を今の唐津とすれば、(そこは福岡県じゃなくて)、肥前佐賀県。
その東南500里の伊都国は佐賀平野になり、勿論ここも肥前佐賀県。
つまり倭人伝最初の舞台、末盧国・伊都国・奴国・不彌国は、どうみても佐賀県だよね。
『北』を日本人が何と呼ぼうが、中国(や朝鮮)の人は『北』を北と書くはずなのだけどな。
もしかして魏志倭人伝を日本人が書いたとか思ってない?
「女王国の北の伊都国」で女王の所在地は筑紫平野で決まりです。簡単です。
高千穂町、天岩戸神社が天皇家の天孫降臨の地で、高天原ならば。
高千穂町の西の山都町の幣立神社は狗奴国の天孫降臨の地であり、高天原ですね。
南の霧島の縦鉾は隼人族の天孫降臨の
地ですね。
つまり、高千穂町の天岩戸神社と山都町の幣立神社の宗教的な対立があって、戦争になったのではないでしょうか?
卑弥呼vs卑弥弓呼の戦いですね。
映画化したら面白いかもですね。
行基図をあてにすれば、奈良に着く様な。