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こういう横断的な考察動画は為になって面白い!
投げ銭ありがとうございます。今後とも頑張ります。感謝です。
150年て相当長い期間で、江戸時代の末期から令和時代までが150年なんだよね
古代も現代も、150年でまるで別の国の様にガラッと変化したね。
邪馬台国九州説とは、邪馬台国吸収説だ。とか昔高校の恩師が言ってたなぁ。
この五胡十六国時代~南北朝時代には、、王朝が入れ替わり立ち代わりしてて、記録があったけれど失われたんじゃないかと思ってる。旧唐書のあたりまで「倭国」「日本国」が存在してて、いわゆる九州王朝のようなものがあったように感じております。というか、倭国は連合政権のような気がするんですよね。その中で「吉備」「出雲」「畿内」「九州」「伽耶」などと有力豪族が「合議」してたのでは?と最近考えております。「国造」の設置が時代によってもバラバラのモザイク状になってるのは、大和王権は「参加型」の政権だったからでは?国津神天津神のような区分も、参加した豪族たちが祀ってた「神」をどんどん取り入れた証拠かと。もっと言えば、邪馬台国の時代もたぶん「合議制」。この空白の時代に、大和王権が主導権を握っていったかと思っております。
合議なんて現代的な物を太古の昔にやっていたわけないでしょw
@@夢待翔太 さま魏志倭人伝『共立一女子為王名日卑彌呼』「一女子を共立して王と為す名を卑弥呼と言う」「共立」された王がいるってことは「自立ではない」ってこと。誰が卑弥呼を王にした?『復立卑彌呼宗女壹與年十三為王』「卑弥呼の宗女台与13歳を立てて王と為す」13歳の「台与」を王にしたのは誰?それは「話し合い」(合議)で決めたんじゃないのかね?自ら立つ王がいたら、共立、復立とは書かれないで「自立」と書かれてたはず。
合議をしてたのはヤマト王権中枢の豪族たちで、吉備や出雲のような外様豪族は、使者を送ってやり取りしてたんだろうな
4世紀日本の資料は一応、七支刀と広開土王碑がある。
中国側が五胡十六国の大動乱の真っ只中だからなあ
このころ北九州の大工さんと畿内の大工さんが使っていた物差し尺度が違いますね。
面白いデス。もっと教えて欲しいです。
ほぼ同意
やっぱりれーしさんは頭の良い人だな。自分は近畿或いは大和王権派ですが最近はれーしさんの王朝変遷説あるいは邪馬台国地方勢力説は凄く整理出来ていて無駄がなくさらになるべく多くの文字資料が掬われる良い説だと考えています。今回も面白く知的興奮がありました。感謝
なかなか面白い考察ですが、邪馬台国と大和王権を全く繋がりのない別個の政権と捉えているのは疑問です。なぜ神武東征が日本書紀に記されているのかを考えると、2つの政権はつながっていたと考える方が合理的と思います。つまり、邪馬台国の卑弥呼達の子孫が九州北部から宮崎(日向)に逃れ、大和に入って大和を制圧し、大和王権となったと考えるとすっきりしますし、産能大の安本教授が指摘しているように古代の天皇(大君)の治世は一代当たり10年少しと統計学から推定されていることを踏まえれば、欠史8代も100年ほどの期間であり、神武から15代の応神までの治世期間は150年~200年となって中国、朝鮮などでの記録ともそれほど齟齬が生じません。また、作家の松本清張氏が指摘されたように、福岡の甘木地方の地名と奈良の桜井あたりの地名と相互の位置関係が奇妙なほど一致していること、甘木地方の地名が神話の高天原に出て来る地名と類似性が高いこと、邪馬台国と奈良の大和の音が近いことを考え合わせると、九州にあった邪馬台国の支配者の末裔が奈良に移り、大和王権の礎を築いたと考えるべきではないかと思います。
魏が大月氏国と並んで親魏倭王としたのは、遠交近攻の戦略に基づくのかな?
有力な説として、大月氏との国交を回復させた曹真の功績に対抗して、邪馬台国の朝貢に繋がった司馬懿の功績を大きくするために邪馬台国の国力を盛った。というのを聞いたことがあります。
空白の150年でヤマト王権が九州の平定を行い支配者が変わったのはありそうですね
[宋書倭国伝] 478年 倭の五王の5番目の武は 「 従来の道は百済を経由すべく…」と行ってるので常に百済ルートを使って来たことが伺えますまた「東方のまつろわぬ者共を征する事55カ国、西方の刃向かう者共を征服する事66カ国、海北に渡って平定する事95カ国…」と言ってるので九州王朝説では整合性取れなくなってしまうんですよね海北側の国が多いのは南宋に毎回上奏して来た通り、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治権である六国諸軍事を任命されたからとも思えます(2番目)珍は倭の隋ら13人を正式に平西・征虜・冠軍・輔国将軍を求め文帝は同じように聞き入れた451年 (3番目)済に23人を将軍や郡長官に任命したともあります日本式で、より新しい古墳が多数見つかってますし
整合性は充分取れてるんじゃないですかね?海北の95ヶ国は弁韓の事でしょうから、ここでいうクニは今の集落サイズでしょう。仮に筑紫平野~吉野ヶ里あたりに倭の中心があったとすれば、西方にそれだけのクニは充分あります。むしろ大和からみるなら数が少なすぎる。サイズ感からすれば西方には500~1000国くらいあるでしょう。九州からみるなら本州側を海を渡った北方としても良いですし、方角だけでは特定出来ませんね。
@@yonyon-i6z 別に九州説でも良いんですが、集落なら余計に東の数が少なすぎるのが不自然ですねまあ古代の征服者なので何とでも吹聴しそうですが
@@cvsq-xy8fo それは影響範囲が狭ければなんら問題無いと思いますよ要するに弁韓+九州北部周辺の地方政権が倭の五王のクニだとすれば整合性が取れてます。東方の極限が大分県西部、西方がギリギリ長崎県に掛かるくらいですかね弁韓で95ヶ国とするなら110ヶ国は規模的に福岡県くらいじゃないとサイズ感があいませんしねヤマトタケルの時点でも九州には別勢力があった事が示唆されてますし、継体天皇の時点でも筑紫は実質的に別のクニ(王は岩井)なわけですから、この時点で既に大和の政権が九州周辺を併呑している方がおかしいです。倭の五王の後裔が岩井(血が繋がってるかどうかは別として)っていう話であれば、どこにも矛盾は無いですね。
富雄丸山古墳の副葬品の発見が最近この時代を考察するのには大きいのではないでしょうか。蛇行剣は九州中心に発掘されることから九州の影響を考えてしまいますし、鼉龍文盾形銅鏡の鋸歯文は隼人の盾を想起します。もし富雄丸山古墳の被葬者が南九州の有力者であったとしたら、神武東征のモデルをそこに見出すことができます。あくまで可能性にすぎませんが。
富雄丸山古墳の蛇行剣は現時点で日本最古ですから、影響の方向は畿内→九州、あるいは九州←大陸→畿内でしょう
大和と倭は別のクニだと思っています。
ヤマト王権と邪馬台国は別と考えた方がやはり自然ですよね、継続性があるという考えもあるみたいですが
結局この時代は記紀の内容が信用ならないので、考古学に頼るしかないのよね
新羅百済は倭を大国として敬った、ってあるからなあ。国力の差はあって、外交にもそれは現れてたってことだろう。
この時代の中国は五胡十六国時代だから日本の盟主(統一国家ではなく相対的な権力体制である豪族連盟)は中国のどの国と手を結ぶか?見極めが困難だったと思う。手を結ぶ相手を間違えるとライバル国(狗奴国だけでなく畿内、畿内より遠方の東日本なども含め)との立場が逆転する。手を結ぶ相手の見極めは明治維新でもヨーロッパのどの国と手を結ぶかで特に憲法草案の視点で難しい問題だったからね。
近畿と九州だけで考えてるけどなんで関東勢力は忘れられてるんだ考古学的には関東に巨大勢力圏があるはずだけど
出雲も鉄器だし 九州北部と繋がってた説
勉強になります。今回の説明では神武東征はないように思えました。工学博士芸人 遼子規キンジロウ
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 紀元前60年に橿原神宮で初代神武天皇が即位されて以来、奈良県に大和政権があり歴代天皇がいらっしゃいました。 又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
ぜんぜん知識は無いのですが;;、内容を聞いていると邪馬台国が鉄を作れなくなった?:鉄の鉱脈って何処?;そこを抑えられたのかな~?;(朝鮮半島の伽耶?;)という印象だけは感じてきます^^;;;または、鉄の技術者が減ったとか、、^^;;;
この時期五胡十六国時代なので日本なんかに構ってる暇なかったんだろうな
エンドカードがいいね
日本の天皇が中国側の記録にあるような一文字で表す名前を使ったと記紀に記録されていないのは、倭の五王としての日本の天皇の治績を記紀が意図して残さなかったからだと思う。これは倭の五王の外交の基本が中華王朝への従属を前提としたものであったのに対し、記紀が編纂された時代の日本の外交の基本は時の中華王朝と対等の関係を築こうとした一世代前の聖徳太子らの方針の延長線上にあったからだ。つまり記紀を編纂した時代の日本の朝廷の人々にとって、中華王朝に朝貢し、その冊封体制下に組み込まれていた倭の五王の存在は甚だ不都合であったため、倭の五王が使った一字名とともに意図して記紀に残されなかったのだと思われる。
5:14あたり、さらりと「卑弥呼は狐奴国の卑弥弓呼と不和であり・・」ってなってるけど、「卑弥弓呼」って、誰?!!
三角縁神獣鏡の研究から、九州説を採ることは極めて難しくなってます
何があったのかも興味ありますが、すでに周辺国には普及していた「字」というものを今の日本人の先祖が全員フルシカトしていたのが分からない。開示請求をしても海苔みたいな公文書が返ってくるお国柄と言えばそれまでだけど、自分的には権力側でない人の中に字を覚えて使おうと誰一人、誰一人として自主的に思わなかったのは世界最大のミステリーだ。
大和が、九州地方を吸収した?九州地方が、大和を含む日本を吸収した?どちらに、合理的な思考が、あるのだろうか?❤
言語学、考古学の両面から邪馬台=ヤマトであることはもう確定しつつありますよ。100年後には間違いなく定説になっている。富雄丸山古墳からまた新たに銅鏡の発見もありましたし。
私の中学時の歴史教科書には邪馬台国に(やまと)と書かれていましたね。
もともと中国の史書にも露骨にそう書いてあるし笑
最近の教科書は既に邪馬台国=ヤマトとなってるそうですね
まあそもそも江戸時代まではヤマト国と呼んでいて新井白石がヤマタイコクと呼ぶとしたってのが始まりという話もありますから。
言語学的にはヤマトとは読めないですけどね魏だと古代漢音~中古音なのでザマタイ、ジャマタイ、ジャバタイあたりのどれかにしかなりません。
自分の考えとかなり近くて嬉しいです。大和王権の勢力の拡大時期、大和王権と邪馬台国の関係は動画のとおりではないかと思います。邪馬台国と大和王権ってどう考えても別ですよね。
日本書紀によると元々畿内大和には出雲系の日高見国があり、ナガスネヒコがいたようです。そこに300年頃九州の邪馬台国が卑弥呼の死後トヨの時代に畿内に東遷して大和朝廷となったのではないでしょうか。ニギハヤ匕とか天日槍とかは邪馬台国の事ではないでしょうか。その後400年頃南九州の熊本の狗奴国から神武天皇即ち応神天皇がやって来たのではないでしょうか。
倭国は北部九州、倭国より以東は倭の別種なり。畿内の大和王権は崇神天皇から(286年即位)
日本書紀は藤原不比等史観
空白の150年は、実は空白ではありません。古事記・日本書紀に書いてあります。「出雲の国譲り、天孫降臨、神武の東征などがありました」と書いてあります。わかりやすく言うと、九州の勢力が東に領土を広げていった、ということです。
私の考察は記紀の時代の学者が箔付けようとして無関係の九州の邪馬台国から天皇政権が続いてますよって匂わせをしたということです。古代(儒教)の価値観だと古ければ古いほど良いので、対外的なアピールとして中国の記録と天皇政権を結び付けようとしたのでしょう。
逆だと思います。記紀の作者は明らかに魏志倭人伝をわざと無視しています。それは当時の天皇周辺の考えとして、大和王権と邪馬台国は別だと考えていたのだと思います。
@@shangtian-i3c蘇我入鹿の記述にこいつ董卓より悪人というニュアンスがあるので編纂者は知らないはずがないと考えられる
卑弥呼と卑弥弓呼。弓が追加されているのは何故?💡弓を扱う軍事を担当する世俗的国王が、祭祀王の卑弥呼様の弟であると思われる⁉️😊
半島で重装騎兵を運用できるとは思えないけど。
高句麗を朝鮮半島の国家の一部と捉えるか、中華北方の辺境国家と捉えるかで認識が変わるかも知れません(実際、中国と韓国の間では認識違いで揉めています)。
つーか、日本側の資料が信頼できないなら、中国側の資料だってほとんどの期間が空白では?w
空白なんだから空白で良い
倭は、九州だべ。大和は奈良県だべ。邪馬台国は沖縄、奄美大島だべ。沖縄から九州経由して奈良へ東征。
中国まで見るのなら大月氏国と北九州が比類する訳ない。You Tube動画だけで女王国が、東日本だと分かる。出雲や越も含めた東日本ね。You Tuberならもっと想像力を働かせよう。
こういう横断的な考察動画は為になって面白い!
投げ銭ありがとうございます。今後とも頑張ります。感謝です。
150年て相当長い期間で、江戸時代の末期から令和時代までが150年なんだよね
古代も現代も、150年でまるで別の国の様にガラッと変化したね。
邪馬台国九州説とは、邪馬台国吸収説だ。とか昔高校の恩師が言ってたなぁ。
この五胡十六国時代~南北朝時代には、、王朝が入れ替わり立ち代わりしてて、記録があったけれど失われたんじゃないかと思ってる。
旧唐書のあたりまで「倭国」「日本国」が存在してて、いわゆる九州王朝のようなものがあったように感じております。
というか、倭国は連合政権のような気がするんですよね。
その中で「吉備」「出雲」「畿内」「九州」「伽耶」などと有力豪族が「合議」してたのでは?と最近考えております。
「国造」の設置が時代によってもバラバラのモザイク状になってるのは、大和王権は「参加型」の政権だったからでは?
国津神天津神のような区分も、参加した豪族たちが祀ってた「神」をどんどん取り入れた証拠かと。
もっと言えば、邪馬台国の時代もたぶん「合議制」。この空白の時代に、大和王権が主導権を握っていったかと思っております。
合議なんて現代的な物を太古の昔にやっていたわけないでしょw
@@夢待翔太 さま
魏志倭人伝
『共立一女子為王名日卑彌呼』「一女子を共立して王と為す名を卑弥呼と言う」
「共立」された王がいるってことは「自立ではない」ってこと。誰が卑弥呼を王にした?
『復立卑彌呼宗女壹與年十三為王』「卑弥呼の宗女台与13歳を立てて王と為す」
13歳の「台与」を王にしたのは誰?
それは「話し合い」(合議)で決めたんじゃないのかね?
自ら立つ王がいたら、共立、復立とは書かれないで「自立」と書かれてたはず。
合議をしてたのはヤマト王権中枢の豪族たちで、吉備や出雲のような外様豪族は、使者を送ってやり取りしてたんだろうな
4世紀日本の資料は一応、七支刀と広開土王碑がある。
中国側が五胡十六国の大動乱の真っ只中だからなあ
このころ北九州の大工さんと畿内の大工さんが使っていた物差し尺度が違いますね。
面白いデス。もっと教えて欲しいです。
ほぼ同意
やっぱりれーしさんは頭の良い人だな。自分は近畿或いは大和王権派ですが最近はれーしさんの王朝変遷説あるいは邪馬台国地方勢力説は凄く整理出来ていて無駄がなくさらになるべく多くの文字資料が掬われる
良い説だと考えています。今回も面白く知的興奮がありました。感謝
なかなか面白い考察ですが、邪馬台国と大和王権を全く繋がりのない別個の政権と捉えているのは疑問です。なぜ神武東征が日本書紀に記されているのかを考えると、2つの政権はつながっていたと考える方が合理的と思います。つまり、邪馬台国の卑弥呼達の子孫が九州北部から宮崎(日向)に逃れ、大和に入って大和を制圧し、大和王権となったと考えるとすっきりしますし、産能大の安本教授が指摘しているように古代の天皇(大君)の治世は一代当たり10年少しと統計学から推定されていることを踏まえれば、欠史8代も100年ほどの期間であり、神武から15代の応神までの治世期間は150年~200年となって中国、朝鮮などでの記録ともそれほど齟齬が生じません。また、作家の松本清張氏が指摘されたように、福岡の甘木地方の地名と奈良の桜井あたりの地名と相互の位置関係が奇妙なほど一致していること、甘木地方の地名が神話の高天原に出て来る地名と類似性が高いこと、邪馬台国と奈良の大和の音が近いことを考え合わせると、九州にあった邪馬台国の支配者の末裔が奈良に移り、大和王権の礎を築いたと考えるべきではないかと思います。
魏が大月氏国と並んで親魏倭王としたのは、遠交近攻の戦略に基づくのかな?
有力な説として、大月氏との国交を回復させた曹真の功績に対抗して、邪馬台国の朝貢に繋がった司馬懿の功績を大きくするために邪馬台国の国力を盛った。というのを聞いたことがあります。
空白の150年でヤマト王権が九州の平定を行い支配者が変わったのはありそうですね
[宋書倭国伝]
478年 倭の五王の5番目の武は 「 従来の道は百済を経由すべく…」と行ってるので常に
百済ルートを使って来たことが伺えます
また「東方のまつろわぬ者共を征する事55カ国、西方の刃向かう者共を征服する事66カ国、海北に渡って平定する事95カ国…」と言ってるので九州王朝説では整合性取れなくなってしまうんですよね
海北側の国が多いのは南宋に毎回上奏して来た通り、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治権である六国諸軍事を任命されたからとも思えます
(2番目)珍は倭の隋ら13人を正式に平西・征虜・冠軍・輔国将軍を求め文帝は同じように聞き入れた
451年 (3番目)済に23人を将軍や郡長官に任命した
ともあります
日本式で、より新しい古墳が多数見つかってますし
整合性は充分取れてるんじゃないですかね?
海北の95ヶ国は弁韓の事でしょうから、ここでいうクニは今の集落サイズでしょう。
仮に筑紫平野~吉野ヶ里あたりに倭の中心があったとすれば、西方にそれだけのクニは充分あります。
むしろ大和からみるなら数が少なすぎる。サイズ感からすれば西方には500~1000国くらいあるでしょう。
九州からみるなら本州側を海を渡った北方としても良いですし、方角だけでは特定出来ませんね。
@@yonyon-i6z
別に九州説でも良いんですが、集落なら余計に東の数が少なすぎるのが不自然ですね
まあ古代の征服者なので何とでも吹聴しそうですが
@@cvsq-xy8fo それは影響範囲が狭ければなんら問題無いと思いますよ
要するに弁韓+九州北部周辺の地方政権が倭の五王のクニだとすれば整合性が取れてます。東方の極限が大分県西部、西方がギリギリ長崎県に掛かるくらいですかね
弁韓で95ヶ国とするなら110ヶ国は規模的に福岡県くらいじゃないとサイズ感があいませんしね
ヤマトタケルの時点でも九州には別勢力があった事が示唆されてますし、継体天皇の時点でも筑紫は実質的に別のクニ(王は岩井)なわけですから、この時点で既に大和の政権が九州周辺を併呑している方がおかしいです。
倭の五王の後裔が岩井(血が繋がってるかどうかは別として)っていう話であれば、どこにも矛盾は無いですね。
富雄丸山古墳の副葬品の発見が最近この時代を考察するのには大きいのではないでしょうか。
蛇行剣は九州中心に発掘されることから九州の影響を考えてしまいますし、鼉龍文盾形銅鏡の鋸歯文は隼人の盾を想起します。
もし富雄丸山古墳の被葬者が南九州の有力者であったとしたら、神武東征のモデルをそこに見出すことができます。あくまで可能性にすぎませんが。
富雄丸山古墳の蛇行剣は現時点で日本最古ですから、影響の方向は畿内→九州、あるいは九州←大陸→畿内でしょう
大和と倭は別のクニだと思っています。
ヤマト王権と邪馬台国は別と考えた方がやはり自然ですよね、継続性があるという考えもあるみたいですが
結局この時代は記紀の内容が信用ならないので、考古学に頼るしかないのよね
新羅百済は倭を大国として敬った、ってあるからなあ。国力の差はあって、外交にもそれは現れてたってことだろう。
この時代の中国は五胡十六国時代だから日本の盟主(統一国家ではなく相対的な権力体制である豪族連盟)は中国のどの国と手を結ぶか?見極めが困難だったと思う。手を結ぶ相手を間違えるとライバル国(狗奴国だけでなく畿内、畿内より遠方の東日本なども含め)との立場が逆転する。
手を結ぶ相手の見極めは明治維新でもヨーロッパのどの国と手を結ぶかで特に憲法草案の視点で難しい問題だったからね。
近畿と九州だけで考えてるけど
なんで関東勢力は忘れられてるんだ
考古学的には関東に巨大勢力圏があるはずだけど
出雲も鉄器だし 九州北部と繋がってた説
勉強になります。今回の説明では神武東征はないように思えました。工学博士芸人 遼子規キンジロウ
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
紀元前60年に橿原神宮で初代神武天皇が即位されて以来、奈良県に大和政権があり歴代天皇がいらっしゃいました。
又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
ぜんぜん知識は無いのですが;;、内容を聞いていると邪馬台国が鉄を作れなくなった?:
鉄の鉱脈って何処?;そこを抑えられたのかな~?;(朝鮮半島の伽耶?;)という印象だけは感じてきます^^;;;
または、鉄の技術者が減ったとか、、^^;;;
この時期五胡十六国時代なので日本なんかに構ってる暇なかったんだろうな
エンドカードがいいね
日本の天皇が中国側の記録にあるような一文字で表す名前を使ったと記紀に記録されていないのは、倭の五王としての日本の天皇の治績を記紀が意図して残さなかったからだと思う。これは倭の五王の外交の基本が中華王朝への従属を前提としたものであったのに対し、記紀が編纂された時代の日本の外交の基本は時の中華王朝と対等の関係を築こうとした一世代前の聖徳太子らの方針の延長線上にあったからだ。つまり記紀を編纂した時代の日本の朝廷の人々にとって、中華王朝に朝貢し、その冊封体制下に組み込まれていた倭の五王の存在は甚だ不都合であったため、倭の五王が使った一字名とともに意図して記紀に残されなかったのだと思われる。
5:14あたり、
さらりと「卑弥呼は狐奴国の卑弥弓呼と不和であり・・」ってなってるけど、「卑弥弓呼」って、誰?!!
三角縁神獣鏡の研究から、九州説を採ることは極めて難しくなってます
何があったのかも興味ありますが、すでに周辺国には普及していた「字」というものを今の日本人の先祖が全員フルシカトしていたのが分からない。
開示請求をしても海苔みたいな公文書が返ってくるお国柄と言えばそれまでだけど、自分的には権力側でない人の中に字を覚えて使おうと誰一人、誰一人として自主的に思わなかったのは世界最大のミステリーだ。
大和が、九州地方を吸収した?九州地方が、大和を含む日本を吸収した?どちらに、合理的な思考が、あるのだろうか?❤
言語学、考古学の両面から邪馬台=ヤマトであることはもう確定しつつありますよ。100年後には間違いなく定説になっている。
富雄丸山古墳からまた新たに銅鏡の発見もありましたし。
私の中学時の歴史教科書には邪馬台国に(やまと)と書かれていましたね。
もともと中国の史書にも露骨にそう書いてあるし笑
最近の教科書は既に邪馬台国=ヤマトとなってるそうですね
まあそもそも江戸時代まではヤマト国と呼んでいて新井白石がヤマタイコクと呼ぶとしたってのが始まりという話もありますから。
言語学的にはヤマトとは読めないですけどね
魏だと古代漢音~中古音なのでザマタイ、ジャマタイ、ジャバタイあたりのどれかにしかなりません。
自分の考えとかなり近くて嬉しいです。
大和王権の勢力の拡大時期、大和王権と邪馬台国の関係は動画のとおりではないかと思います。
邪馬台国と大和王権ってどう考えても別ですよね。
日本書紀によると元々畿内大和には出雲系の日高見国があり、ナガスネヒコがいたようです。そこに300年頃九州の邪馬台国が卑弥呼の死後トヨの時代に畿内に東遷して大和朝廷となったのではないでしょうか。ニギハヤ匕とか天日槍とかは邪馬台国の事ではないでしょうか。その後400年頃南九州の熊本の狗奴国から神武天皇即ち応神天皇がやって来たのではないでしょうか。
倭国は北部九州、倭国より以東は倭の別種なり。畿内の大和王権は崇神天皇から(286年即位)
日本書紀は藤原不比等史観
空白の150年は、実は空白ではありません。
古事記・日本書紀に書いてあります。
「出雲の国譲り、天孫降臨、神武の東征などがありました」
と書いてあります。
わかりやすく言うと、九州の勢力が東に領土を広げていった、ということです。
私の考察は記紀の時代の学者が箔付けようとして無関係の九州の邪馬台国から天皇政権が続いてますよって匂わせをしたということです。古代(儒教)の価値観だと古ければ古いほど良いので、対外的なアピールとして中国の記録と天皇政権を結び付けようとしたのでしょう。
逆だと思います。
記紀の作者は明らかに魏志倭人伝をわざと無視しています。
それは当時の天皇周辺の考えとして、大和王権と邪馬台国は別だと考えていたのだと思います。
@@shangtian-i3c蘇我入鹿の記述にこいつ董卓より悪人というニュアンスがあるので編纂者は知らないはずがないと考えられる
卑弥呼と卑弥弓呼。弓が追加されているのは何故?💡弓を扱う軍事を担当する世俗的国王が、祭祀王の卑弥呼様の弟であると思われる⁉️😊
半島で重装騎兵を運用できるとは思えないけど。
高句麗を朝鮮半島の国家の一部と捉えるか、中華北方の辺境国家と捉えるかで認識が変わるかも知れません(実際、中国と韓国の間では認識違いで揉めています)。
つーか、日本側の資料が信頼できないなら、中国側の資料だってほとんどの期間が空白では?w
空白なんだから空白で良い
倭は、九州だべ。大和は奈良県だべ。邪馬台国は沖縄、奄美大島だべ。沖縄から九州経由して奈良へ東征。
中国まで見るのなら大月氏国と北九州が比類する訳ない。
You Tube動画だけで女王国が、東日本だと分かる。出雲や越も含めた東日本ね。You Tuberならもっと想像力を働かせよう。