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大変丁寧な動画ありがとうございます。興味がつきません。歴史書を紐解く楽しみを堪能しています。分かりやすい解説。聴きやすいお声嬉しいです🎶
丁寧な説明、本当にありがとうございました。興味がどんどん湧いてきます、
歴史を勉強していない自分に取っては、パッと見、淡々とつまらなそうな画の動画だけど、ちゃんと見ると『この主さんが作ってるその内容とその空気感が素晴らしいんだな』と感じました。他の動画だと、自分はこんなに歴史を興味深く見れないです。ありがとうございます!日本史シリーズは動画何本で集結するのか、楽しみです!(笑)
1:07 そもそも魏志倭人伝と言う書物自体が存在しないって事自体が驚きでした。先程魏志倭人伝(現代語訳)の書籍を図書館で予約したのですが、予習で視聴して良かったと感じました。
魏志倭人伝の意味やその内容全部を訳して頂き人生最高の出会い、まさにこれぞ邂逅、絶対の保存版、消えないで欲しい、それにしましてもまとめ方が上手すぎて感動感激です
非常によくまとまっているし、分かりやすく面白いです。私は魏志倭人伝が「倭人伝」であり「倭伝」ではないのは、陳寿を始めとした中国人が「倭」は邪馬台国だけではないことをよく理解していた為だと思います。韓条や濊条が国名を使っているのに「倭」だけは「倭人」としているのはそのせいです。なので、出だしに「旧百余国にして、漢の時に朝見するもの有り。今使訳通ずる所三十国なり。」と書かれているのだと思います。つまり「倭≠邪馬台国」だと言うことをちゃんと理解していたので倭人条なのです。そのせいで卑弥呼は「親魏倭王」の印しかもらえませんでした。魏に敵対して公孫氏につながる倭の別の国がおり、その国はこの時点では使訳が通じておらず詳細が不明だったからです。ちなみに狗奴国は邪馬台国には敵対していましたが、その国とは別なので多少の情報が有り、王名や官名が記載されています。日本側の記紀に邪馬台国の名が無いのは大和王権がその国の子孫だからではないでしょうか?(但し後年邪馬台国の一官の子孫である藤原氏が乙巳の変でその国の子孫を滅ぼしたので、日本書紀にはそれらしき記述が載ってしまいます。そのせいで日本書紀はかなりややこしくなっています。)
穏やかな語り口に惹かれて楽しく聴いています。知りたかった部分の歴史を淡々と丁寧に進めて下さる動画ありがとうございます。🎵
色々参考にさせて頂いてます。 原文には「無余」はなさそうですね。このあたりは、他の部分で解説されているように、一番言いたいこと「倭は会稽東冶の東にある」を記述するために、呉の敵である越が知っている歴史の話を持ってきて、それと同じ風習を持つ「倭」が今、お前ら(呉)の東にもあって、我々「魏」に朝貢してきたぞ。 ということなんでしょうね。
とても丁寧に作られていますね。落ち着いた色合いもいいです。有難うございました。
いつか魏志倭人伝を読んでみたいと考えていましたが、解説本を頼りにしても眠くなって頭に入らないと思います。しかし、運良くこの動画にヒットし説明を聞きましたが、物凄く頭に入ってきます。ありがとうございます。登録しましたので、今後しっかり視聴したいと思います。
凄く分かりやすい説明ありがとうございました。又 よく勉強されて頭が下がります。また 是非次回の説明を楽しみにしています。
御意! 正しい解釈でした。納得できます。地域の名前を記録に残す事は非常に大切ですね。当に言霊ですね。
こういうのは本当ワクワクする日本のここら辺の考古学は何故か派閥意識が強いけどやはり純粋な好奇心に勝る物は無いと思うわ
面白い。続けてみたくなる。
聴きやすく判りやすい動画でした✨ありがとうございます🙇
とても分かりやすい解説で良かったです。大和国の位置と日巫女の存在についての考察は楽しいですね。
先生 この時代に対馬海峡って どうやって渡っていたんですっか?沢山の返礼品を貰ったり何十人もの生口を贈ったりしていますがどんな船だったんでしょうか?
三国志が2つあるとは、知りませんでした。また倭人伝の解説本はいくつも出版されていますが、口頭で説明を聞くと納得しやすく研究心が湧いてきます。
魏志倭人伝の最初に100余国とあって女王国が30国くらいあるイメージですね。また敵対する国もあるし、邪馬壹国や卑弥呼が倭人の代表とは言い切れないと思いました。一番大きな国ではあるようです。後編も期待してます。追伸倭人の入れ墨をしている説明で海岸や島に住む海洋国集団だと思いました。漁師さんですよね。邪馬壹国も海岸沿いにあると思います。
解説、ありがとうございます。
分かりやすい 12も今から見させていただきます
かあかあくいか聞けばニカアベか佐兵衛金子明け白衣控えあか激いけ喜劇はへああ秋毛かけ秋か紅き赤秋以下明明忌明けきけけひけケアあか秋か赤々秋日ケアがエコかき揚げかあかあアイネかあかえねえか赤々赤々ああ聞け気合いあけ秋へあー把握かあ秋赤々秋あかああかはコカ赤坂世界劇赤々がああ墓秋ね鍵垢エア替えか墓聞けかけ赤きか墓秋はああくる柿かは毛は赤はけけ気はヒアはけえか秋藍系にかい比較は秋聴き取りあか激化か赤い鍵垢明けエアかあ墓赤か秋ケアあかねかいけか赤かはは過去き激帰依はなく気合測っておきああヒイカ機会あああかああか絵描きの買い気配中下は計けけ喜劇気合い墓赤い赤い証が会え秋明けは木秋あかああ姉かはかかあか朝から赤かあけああかけねあああああ気合いはかあいなさめせし
(27:00)郡支国とあるけど、都支国では?原書のコピーではそうなっています。
魏志倭人伝を、抜粋でなく、通して解説してもらったのは初めてです。非常に参考になります。ありがとうございます。ただ、これまで動画で蓄積した知識から、次の3点ばかり指摘させていただきます。1点目は、邪馬壹國をヤマタイコクと読むのは非常に怪しいということです。ヤマタイコクと呼んだのは江戸時代新井白石がオランダ通事の今村英成がそう読んだのを採用したのが初めてだそうで、それ以前はヤマトコクと呼んでいたそうです。大体、邪馬壹國の壹の字は、卑弥呼の後継者の壹与と同じ字が使われていると言います。なぜ一方を、タイと読み、他方をトと読むのかと、徳島説の人はいってます。私もオランダ通事の間違いだと思ってます。2点目は、邪馬壹國の家屋数7万戸についてです。7万戸ともなると人口は30万から35万人にもなります。当時の日本の全人口は60万人程度と推計されてますが、邪馬台国の人口が多すぎます。他の国にも5万戸とかあるので、邪馬壹國に特別なものがあるったとは考えられません。つまり、偏在する理由がないのです。やはり、中国得意の数字の盛りがここにもあると考えた方が良さそうじゃないですか?3番目に朱丹です。これも徳島説の人は、徳島でしか取れない水銀の一種と言います。刺青の顔料ですから、朱丹=水銀説が良さそうですけど。なお、徳島説の人は朱丹は人体に無害と言ってます。本当のところは分かりませんけど。追加でもう一つ。会稽というのは中国の会稽山とかですよね。中国戦国時代に呉があったところとか。呉は越に負けましたから、呉の民は海上に逃げ、一部が日本の九州北部にたどり着いたとかいう説です。この難民たちが水田稲作を伝えたという説にも展開しています。年代的にはBC500年(正確ではありません、確認してませんから)とかになりませんか?水田稲作と当時の中国日本の直接航路ということです意味がありそうですが、どうでしょうか?いつも長いコメントですみません。
「倭国にはショウガやみょうがはあるが・・・」とゆう実際に文から、大陸から実際に倭国に行った人じゃないとわからない内容な気がする
水行は海を行かない。海を水行する時はそう言っている。国の名前を日本語で読むから訳が分からなくなる。
楽しく観ています。「木綿」は(もめん)と読みます。
動画主さんに指摘や難癖をつける方についてちょっと疑問なのですが、何らかの出典や定説を元に解説をしているだけなので、動画主さんに色々言っても仕方ないのではないでしょうか?出典の著者に文句を言うべきです。動画主さんは一般的な定説から外れ過ぎないように気を付けて解説していると思いますので、それに対して本当はこうだぞと自分の認識(真偽不明)を一方的に押し付けるのは変です。
魏志倭人伝では、会稽東治(ち)の東ではないでしょうか?
そうです。東治の東ならば南九州が相当します。東冶は後漢書東夷伝の記述です。
そうです。会稽郡東冶は畿内論者トンデモ説です。会稽とは会稽山から発した地名。東治とは越が治めた東と解釈してます。畿内論者は後漢書の誤訳に引っ張られ、九州説叩きに多用したのでしょう。
@@yoshitome6648 畿内論者トンデモ説は言い過ぎでしょう。吉野ケ里遺跡で配布されている魏志倭人伝の原文・読み下し文・注釈(高島忠平氏監修)でも東冶の東としています。高島氏は九州説者なのにです。何か訳があるものと思われますが、その理由が記されていないので私には分かりません。このように原文と異なる解説をするのならばその理由を述べて欲しいですね。
@@河上宣道 さんこれは言い過ぎではありません。書いたことは確かなことです。例えばこの動画の作者も中立とはいえ、恐らく九州説寄りでしょう。それでも東冶です。完全九州説のジャパンFさんも東冶です。畿内説の旗頭が会稽郡東冶の東は台灣、沖繩だ。だから魏志倭人伝はデタラメ、「南は東」と主張しているのです。東冶は本当に迷惑甚だしい話なのです。
魏志倭人伝は正確です。原文通りの会稽東治が正しいのです。
魏志倭人伝の内容は日本書紀神功皇后記の注記に少し書かれてますね。
これは非常に需要な指摘です。日本書紀の編者は当時の史実を知っていながらそれを隠して神功皇后のおとぎ話を創作したという証拠なのです。ですから、魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事と同様に、なぜそのような創作をしなければならなかったのかを追求すると歴史の真相が解明できます。詳しくは「刮目天のブログ」にありますので、是非ご覧ください。卑弥呼の墓も意外な場所で発見していますよ。
@@katumoku10 注釈書いてるんだから隠してないやろ。何言ってんの?ブログのアクセス数稼ぎ?セコいね笑
せっかくここ迄作り込むのであれば、ご自身が述べられた「4冊のテキスト」に関して、書籍名著者発行年を概要欄に入れた方がよろしいのではないかと。
陳寿が書いた文字は草書体。何故かと言うと、明の時代は草稿の書体は草書であったし、楷書は後の宋の時代に普及した書体だからだ。「三国志」の総文字数は約40万字。それを陳寿は4年弱で書き上げている。毛筆で楷書1文字を行間や文字の大きさを整えながら丁寧に書くと、1文字につき平均30秒掛かる。ただひたすら40万文字を書くだけで約3333時間掛かってしまう。恐らく数千はあったと思われる木簡に書き溜めた草稿資料を確認しながら墨を摺り、筆に墨を着け清書するのだから時間は数倍掛かる。しかし、草書ならば1字に約1.5秒。書く以外の作業を加味し1文字10秒として1時間に360文字。高齢で死期が近いと推察される陳寿が1日どの程度の時間を掛けられたか分からないが、草書ならば余裕を持って4年弱で書き上げられる計算になる。従って、現存する「三国志」は原本では無く、陳寿の死後に恐らく宦官らによって楷書で写本されたもの。草書は隷書を崩した文字で、筆使いや個人的な癖によって文字の判別が難しい。例えば、邪馬台国の「邪」と「耶」、「馬」と「海」、「壱」と「臺」は草書ではほとんど見分けが着かない。陳寿の死後なので文字の確認は出来ない状況の中、試行錯誤したであろう写本は誤字を知る由も無く、史書として完成してしまった。
面白い。また一つ謎が解けそう!
この仕事は陳寿ひとりで完成したことではなく、teamworkでしょう。
@@binliu-chinalab-1202 当然、陳寿の弟子や門下の者が手伝ったでしょう。しかし、木簡の資料を間違わず正確に読み、三国志を清書出来たのは木簡の資料を書いた陳寿本人だけだと思う。故に、弟子たちの手伝いは陳寿の食事の世話や資料や原稿の整理程度だったと推察する。また、魏志倭人伝を研究する方々には、その時代に主流だった字体と、現存する魏志倭人伝が綺麗な楷書であることを考えて欲しい。隷書体を崩した読み難い草書体が主流だった陳寿の時代には、楷書自体がまだ未完成で一般的に普及されていない。草書は似た字が多く、また書いた人の癖などで誤読が絶えなかった。以降、画数は増えたが自体が綺麗で、誰が書いた文章でも読み間違いの少ない楷書が発展した。
@@akioh2782 非常に納得です。全面的に支持します。
陳寿は多くの公式文書や歴史書(魏録、呉録など)に基づいて作成したため、作業量はそれほど多くありませんでした。さらに、紙は東漢時代に発明され、三国時代には、作家は竹簡の代わりに紙を使用するのが一般的でした。
31:31 小康 ✗少康 ✓
台湾人です。解説拝見させていただきました。解説していただいた内容は私が理解していた三国志の内容とあっています。いくつの感想を述べたいです。邪馬台国の位置について南だと書いていましたが、実は東の可能性があります。上古時代には日が昇る方位と日が沈む方位しかありません。中国は北半球のため日が南東方向から昇るので、南と東が混同する時代があります。陳寿の時代の東と南の概念ははっきりしてたが、言語疎通できないかつ遠い国のことを聞く時に、太陽の方向などを聞いて方位を判断する場合があり、それによって東と南を混同したと考えられます。陳寿は距離と方向から会稽の東にあると推測したが、あそこは海と狭い島ばっかりなので、陸行一ヵ月などはありえません。明らかに間違っていると思います。中国では少なくとも秦代から、国で官道などを維持し、AからBまでいく時にどこでお昼食べるか、どこで宿を取るのかを国が定めたので、日数で距離を説明することがあります。その場合、高い山や海など険しい地形が存在する場合より多い時間かかったため日数が増えます。もし敵対勢力があり遠回りする必要があったらなおさら。
大丈夫です。倭人伝はほぼ正確です。
古代の地図では日本は南北に縦に書かれているのも有ります
私見ですが、この書では倭人は明白に「海の民・海人族」であると定義されていると思います。つまり倭人という民族の最大の構成要素となるのは儋耳 珠崖一黄海一朝鮮半島一日本列島の沿岸部を移動生活をしていた漁民ということです。それは弥生人を中国・朝鮮半島の内陸部から移住した民族と考えるには矛盾すると思います。
儋耳・珠崖 「民皆服布如単被、穿中央為貫頭。男子耕農種禾稲紵麻、女子桑蚕織績。亡馬與虎,民有五畜、兵則矛盾刀木弓弩、竹矢或骨為鏃」
戸と家は異なります。太田亮博士によりますと支那では「1戸は5家」だそうです。その流れが「5人組」になったそうです。ここで言っている「対馬」は「千余戸」ですが「一支」は「3千許家」「不弥国」は「千余家」その他は「戸」です。
戸は戸籍です 家は住まいです
ここに初めて魏志倭人伝を読む。
「女王が都を置いている所である」と解釈してるけど原文は「女王之所都」「女王の都」としか書かれてない。正直地名はさほど問題ではなく「女王が都を築いた場所」なのか「女王が居た場所」なのかで意味合いが大きく変わる。そんな女王と解釈されてる「卑弥呼」の名前が倭国の風習説明の後に取って付けたように書かれている辺りなかなか「女王」とは名ばかりに扱いは雑の様に感じる。
邪馬台国と卑弥呼はにほんには記録がな
素晴らしい動画、ありがとうございます! 大陸の中華思想の比較的新しく宋や明の時代頃の朱熹思想からではないでしょうか?隋唐の大陸は仏教国で印度を中国と尊称して、自らの大陸を漢辺土と呼称しておりますね🥰
出発地点洛陽から距離・方位誤差が無い説が出現しています。近畿説や九州説とは全く異なり、最終到着地は、関東の鹿島神宮です。魏志倭人伝の読解は、私には大変難しいことなので、ご意見を頂ければと思いまして・・。ミステリー事件簿 さんの動画で、詳しく説明されています。th-cam.com/video/yjFcYekygX4/w-d-xo.html
当時、日本で「丹砂」が採れたのは、阿波(徳島県)の阿南市だけ…だったと記載されています…。この事をどう思いますか?
動画中「栗(クリ)やヒエ」と言ってますが、「粟(アワ)やヒエ」だと思います。
栗で間違いないとおもいます 当時から栗は食料と建築と利用されていました
@@葛葉恨之介-z1x 「何でクリをヒエと対で持ち出すのか?」という、配信者に対する違和感を表明しただけです。別に栗の存在を否定してはいません。文字が似てるので勘違いしてるんじゃないかと思いました。実際、過去に某飲食店で「雛罌粟」を「雛罌栗」と誤記しているのを見かけたことがあります。
魏志倭人伝原文の大半は、伊都国についての記述です。倭【yi】国の首都が伊都国です。書の中に出てくる、『盡』の漢字の主語を見るとそれが、わかります。
そうなんですか?当方は福岡市在住ですが倭国は地域名称と思っています。倭人伝には朝鮮半島の南海岸線から倭国と紹介されています。深く知るのは楽しいですね。
@@永隈ゆうじ伊都国歴史博物館に行かれたら、全て理解できると思います。日本唯一の国宝が、じゃんじゃんあります✨
「魏の時代、伊都国に王が居た。皆この女王国に属していた。」ですね。
後編は?
ただいま編集しておりますので、もうしばらくお待ちください。
持哀って、キリスト教みたい…。と、スケープゴートの必要性は…真理…って認めたくないけど、でもせめて敬われるだけ、マシかも。
つまり蝦”夷”は東方なのか
「くり」ではなく「あわ」なのではないでしょうか
残念ながら日本人は文字を発明出来なかったので記録ない。だから中国の文字を使った。
古代日本受中国影响很大
中国の、三国志の中の一部ですよ~
現在の邪馬台国論争は当時の日本列島(東海~関東地方位まで)で最も栄えていた地区こそが邪馬台国だ!という主張が多いが、もうちょっと客観的に考えるべきではないか?そもそも当時の『倭』そんなに広域だったのか?
核心をついています
邪馬台国は筑紫平野、都は八女。女王国は吉野ヶ里。卑弥呼の墓は久留米御井にある祇園山古墳。
会稽郡には当時東冶県(現在の福建省福州市)が存在しています。後に魏志を引用した中国史書も東「冶」と訂正しています。海南島の風俗を邪馬台国とわざわざ相近いものであると記す文章構成から、邪馬台国を東南(台湾北方海上)に比定していたことがわかります。魏志倭人伝には、邪馬台国の位置が記されていました。当然、魏志倭人伝の行程や距離感が曖昧なものであるという解釈が成り立ちます。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり、第10代崇神天皇を中心に政治及び祭祀が行われていました。 その後、都を京都に遷都するまでの間長く歴代天皇がいらっしゃいました。 又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
「水行十日陸行一月」の謎が解けました。皆さんも諦めずに挑戦してみて下さい。距離も方角も日数もほぼ正確です。答えはありますよ。
為政者の意向にそぐうように公的文書(情報)を書き換えたがる…という点は昔も今も変わらないんだなぁ… と、思いました。
卑弥呼、ごめん
・紹興本では「倭人条」ですが、慶元本では「倭人傳(伝)」です・遠くで言うと、東沃沮も遠いですね・司馬氏を賛美する目的が有る場合、東夷の表音に卑字として「馬」の漢字を多用しないかも・ソウル市は帯方郡の一部に過ぎません・其北岸の「其」は水行の事だと思います※「倭に行くには、倭の北岸に行く」と読むのは不自然21:15実際には「丗丗(代々)有王」ではなく、「丗(30)有王」と書いていますよ「代々王の皆が女王国の統治に屬する」だと意味が重複している※代々か、皆だけで、良い投馬国と邪馬壹国の戸数は「可戸」です可に、「ばかり」と言う意味はない地形・方位・里数が十分に書いて有るので、判らないと言う事はないと思います27:35 卑弥呼は倭国の女王です。邪馬壹國の支配者・王は別に居ます「不属(属さない)」であり「不統属(非服属)」ではないですよ対馬から壱岐が南なのだから、東冶県から九州島が東で合ってますよ稲・麻は文脈上、繊維や養蚕の話です誉めてるのではなく、宮崎県などの花弁住居という部屋が複数の家を挙げただけです冢の如しは、冢(墓穴)に似ている=竪穴の住居を指していますよ盛り土ではなく、封土です。土で穴を塞ぐ意味ですよ
陳寿は同行していないので口伝を書いたとも言われていますねえ
ここで紹介されてる通説の意訳にはあっちこっち誤りがあります誤訳が邪馬台国論争の原因ですね。
魏志倭人伝に耶馬台国なんて書かれていない邪馬壹國(やまとこく)である
文字を発現出来なかった、縄文、弥生人が数万年存在した、事自体、異常である!!
神代文字はあったと思われます。神官等特別な階級の間でしか使われていなかったとは思います。カタカナの元になった字であろうと思われます。
今まで邪馬台国についてかんしんがなかったのですが、歴史倶楽部の縄文時代で、縄文人は入れ墨をしてたとのことでしたので、邪馬台国周辺に、縄文文化を承継した人々がいたことになります。熊本や鹿児島は縄文系の遺伝子が強く、近畿は弥生系が強いらしいです。入れ墨がある埴輪の分布と一致しています。邪馬台国はクマソや薩摩隼人と争いがあったといことでしょうか。初心者ですが九州説を支持します。入れ墨は弥生系の大和朝廷の勢力によっていっそうされたのではないでしょうか。入れ墨は重要な手がかりだと思いますが、皆さんどう思われますでしょうか。今の日本はには入れ墨を嫌いますよね
大変面白く視聴させていただいております。邪馬壹国の比定については、もうさっぱりと古田説でいっちゃいましょう!www長里、短里の話と絡めたら、もうイチコロですから
昔中国人に指摘されたんだけど、✖諸葛亮孔明〇諸葛亮or諸葛孔明日本人はなぜ「諸葛亮孔明」と呼ぶのかなあって言ってましたよ。本多平八郎忠勝みたいなものか?横山光輝の影響か?恐らく知らない日本人は多い。それからは「諸葛亮孔明」というのは避けてます。「倭の北岸のくや韓国に至る」なら邪馬台国は九州かな?邪馬台国が近畿なら北岸?とは言わなくねえ?って思った。
邪馬台国の徳島説の説明を聞いた方が良いかな?と思いますが、この番組はそういう趣旨ではないかとも思う。ただ、現代語の読み方に誤りがいくつかあります。説明されているストーリー上に大きな問題はないけれど、国史を扱う番組だから国語は正しい方が良いですね。
定説では邪馬壹(壱)国は邪馬臺(台)国の写し間違い、ということに触れていますね。同じように、定説では「会稽東冶(や)の東」となっていますが、原文では「会稽東治(ち)の東」になっていることに触れてください。
やまたいと読むのが、そもそも間違い
かつて卑弥呼=天照皇大神宮の学説を唱えた方の本を読んだことがある。あえて著者は伏せますが、相当の属国を要し、海外に使者を送る権力や財力を要している人物が、日本で無名なはずはない。いろいろな文献や記述と照らし合わせ、消去法でいけば、天照皇大神宮しか見当たらないというのが主な根拠ではありますが。
態とわかりにくく書いているものと思う。これは作者が謎をかけているのだと思う。
司馬懿のライバルの将軍が大月氏国を服属させて皇帝が金印を与えている。司馬懿はそれに対抗して、倭国をより遠く、より大きく、より立派な国として倭国を演出したのだとと思います。
岡田英弘先生ですね。
早稲田大学の渡邉義浩先生の説も同じです
これは妄想に近いよな
中国ではなく魏の国と言うところでしょう。邪馬台国、邪馬台国というがこの読み方は後世の日本読みであり、卑弥呼の国のヤマトの使者が魏に行きわが国の名前はヤマトというといった言葉を魏の司書がヤマトの使者の言葉に邪馬台という文字を当て字したとみるのが当たり前ではないか。
なんで誰が邪馬台国にしたんだ?邪馬壹国としか書いて無いなら邪馬壹国で良いのでは?
他の文献は邪馬台国と書いてあるからですよ。何度も筆写されてずっと後の時代に完成した現存最古の三国志に誤字脱字がひとつもないと思う方がどうかしていますちなみに隋書倭国伝では、遣隋使の答礼使が日本を訪問した際の記述があり(そのエピソードは日本書紀にもあり)、そこでは「倭国の都はヤマトといい、これは魏志に記載されている邪馬台の事である」と言い切っています
江戸時代の国学者です 大学の教授がそうだと言えばそうなるのと一緒です
帯方郡から山門国(卑弥呼の居場所)への行き方は、水行なら10日です。狗邪韓国から投馬国(つまこく)現在は久留米市を統治する水沼君にガイドしてもらい南に山門国に着くその山奥に1000人の女性に守られた卑弥呼の居るから、でも会えないから注意してね。陸行なら松浦に着岸して伊都国で入国手続きして奴国で遊んで不弥国を南下して投馬国(つまこく)に行けるけど民間人からの接待があったり雨が降ったりで1ヶ月ぐらいかかるよ。馬がいないとか入れ墨してるとかは、紀元前1,000年ぐらい前としか思えないんだけど卑弥呼の本名は、八女津姫かな?景行天皇の巡行話しに出てくる山奥に姫巫女が居ます。誰も近寄ってはいけません。邪馬台国王朝なんて無いです。もしもあったなら卑弥呼が統治する以前から戦いが無かった事になりませんか?
水行=すいこう な。 すいぎょうは修行だ。
水行(すいこう)を(すいぎょう)と読んだのは、初めて聞いた。行水を思い浮かべてしまった!魏志倭人伝は、近頃あまり信用されていない。想像で書いたものとされているのに、よくまあ研究するよなと思う。
些末なことですが、「著す」は「あらわす」ですね。
関東邪馬台国です
いや〜、横山光輝のマンガ三国志は、中高の図書館には置いて無いでしょ😂
日本は漢字の国なのでこの様な中国の古い書物の解説も容易に理解出来ますね。表音文字だけでは不可能なのでは?
すみません。有意義な動画期待しています。
距離の里、ですが、1万里、となったら地球の直径4万kmとなり、その記述が後漢書東夷伝 魏書 にあったとしたら中国南部から九州、もしくは奈良までが一万里、という記述自体がおかしい、成り立たないので、現在の一里、=4km、自体がおかしいということになるので、1/8 ぐらいになるのだろうか?伊都国から、その近辺から、陸路、海路の距離感覚も、最初は卑弥呼の歓迎を受け、そのあと、海上(水路)、陸路、何日、何里、とする記述も短縮してカウントすると、ちょうど現在地の大和盆地のあたり、大和政権出現の地に到達するのではないか、と思ったりする。その当時の大和やまとはまだ豪族集団支配地であって、卑弥呼の九州からの支配が及ばないところ、という記述にも合致するのではないでしょうか?豪族たちの勢力の微妙なバランスの上に成り立っていた名目上の象徴のトップにたっていた卑弥呼 女王、ということかと思ったりします。
当時も今も一里は日本の1里とは異なり、ずうっと短い距離ですよ。
最も重要な邪馬壹國の文字だけなぜ邪馬臺國の誤記だと言い張るのか理解できません。邪馬のひとつの国と理解した方が素直な気がします。
隋書では「邪靡堆」と記述されるから、邪馬台国説が出来上がりました。あなたの意見も、一つの解釈。ヤマト国説もある。仏国記には、ジャワ島を「耶婆堤国」と記載。そこから、ジャワ説もある。実際に掘って、考古学的に裏付けされたら、確定されるけど、現状そこまで進んでいない。
倭国が偉大だったと、解釈しても良いではないか?
末蘆国から邪馬台国まで2千里末蘆国から邪馬台国まで全行程を足すと2千里にならない末蘆国から邪馬台国まで全行程を足すことが間違っている
陳寿はん、倭国に行ったこともないのに、よう旅程を明記できるものですな。感心しますわ😆 これは、マルコポーロの東方見聞録と同類ですな。九州にあるいろんな国の倭人が、いろんな時代に中国へ渡って話したものを一つに纏めてしまったため、支離滅裂な話になっている。邪馬台国の時代も、奈良時代も、奈良の山猿が初めて海を渡って中国までやって来るのは、そりゃあ命がけ😆💦あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも北九州の荒くれ倭寇なら 荒波の玄界灘を越えたところでこんな想いにはならないでしょう。中国で散々楽しんだところで、「里心がついたから、ちょっと帰ってまた来るわ」って感じじゃないですか。
魏の時代は一里は短里75mだったと記載されてると古田史学の正木祐氏が明らかにしてます。また、道のりについても論文のなかで論理的に説明されてます。もう少し調べてから動画をアップして下さい。
魏志倭人伝を最重要視するのは歴史文献主義だという事です。なるほど、そうすると中国に有利なように書かれてるという事。昔から日本人は変わらない。
惜しい。陳寿の記した魏志には「邪馬臺国」は出てきません。「邪馬壱国」です。とても良いレポートだと思いますが、原文改定は少なくとも私の支持するところではありません。残念です。
俺は10歳の頃の卑弥呼を知ってる
南に水行、更に南に水行とかなりの距離を進んで会稽群の東と言っているのだから素直に「邪馬台国は台湾」と言う結論にすればいいのに無理に「ここは違う」と拒否する理由が分かりません。
邪馬台国は台湾でしたか!
そのまま読めばそのとおりです。そこの部分の記述は入れ墨とか貫頭衣とかいまの日本の位置からは寒さで考えにくい風俗だと思います。でも いと国糸島市とか、末盧松浦とかの記述も別のところに書かれている。2つ異なる出典ではないのでしょうか。三國志魏誌倭人伝と北魏の時代の魏の東夷伝と2つの異なる出典だからごっちやにすると訳がわからなくなるのではと思うのですが。
台湾に行くのに何故わざわざ朝鮮半島、日本(九州)を経由する必要があるのか?陸路を南下し、台湾海峡を渡れば済むことなのにw
出発点が帯方郡だから朝鮮を通って九州を通過していってもおかしくないでしょ。それに当時は三国時代で魏の下には呉がいて自由に往来することなどできるわけがありませんね。
@@hyanaga2512 さん出発点は、洛陽ですね。台湾へ行くのに帯方郡の方角へ向かう必然性がどうも。それと、台湾の出先機関が北九州にあったことになります。さらには、台湾が「倭」になってしまいますwが、そうなんですか?
こういう客観的説明含めた歴史的見解、認識をもっと世界中に広めて、ウリナラ主張のめちゃくちゃな主張を完全論破して、否定して欲しいわ。
それは日本もお互い様ですよ。
こんな曖昧なデータではどうにもならないのでは?AIで解析した回答は?宜保愛子さんに霊視してもらった人は居なかったの?因みにツタンカーメンは叔父に毒殺されたと言われてましたよ。
卑弥呼はムー大陸!ムー帝国があったんではないか!
全文じゃなく、すっ飛ばしです。偽りですよ
ちなみに魏志倭人伝の記述は古墳時代前期に区分されます。その時代の鉄製品の出土量は圧倒的に近畿です。余談ですが、弥生文化が伝来した際に、その本流(弥生土器、多重環濠集落など)は前期末の段階で既に浜松まで到達、一部の文化は同時期までに関東平野南部には浸透しています。つまり弥生時代の中頃に至るまでには九州から関東平野までは共通項の高い文化圏と考えられます。まあ糸魚川の翡翠や久慈の琥珀、ついでにゴホウラカイの分布から考えたら、縄文時代からすでに列島規模で同一文化圏を形成していたのは読み取れます。古い時代から列島規模の交流がなされていたわけです。
司馬懿の功績稼ぎで邪馬台国を過大評価したのを見抜いた陳寿は晋の役人上、忖度して洛陽から遠いところから入貢したことにしてバランスをとろうとして距離をサバ読みしたんよ。
いきなり本の漢字間違えてるやん笑笑
有力な九州説・・関心ある方・・「豊の国古代史研究会・・福永晋三」氏 で検索して見て!
ぼくは、このほんよみましたよ、いけんは、きんきにあったのでは、ないか、りゆうは、ひみこの、こふんや、とうぶがあったと、かんがえた。
大変丁寧な動画ありがとうございます。興味がつきません。
歴史書を紐解く楽しみを堪能しています。分かりやすい解説。聴きやすいお声嬉しいです🎶
丁寧な説明、本当にありがとうございました。興味がどんどん湧いてきます、
歴史を勉強していない自分に取っては、パッと見、淡々とつまらなそうな画の動画だけど、ちゃんと見ると『この主さんが作ってるその内容とその空気感が素晴らしいんだな』と感じました。
他の動画だと、自分はこんなに歴史を興味深く見れないです。
ありがとうございます!
日本史シリーズは動画何本で集結するのか、楽しみです!(笑)
1:07 そもそも魏志倭人伝と言う書物自体が存在しないって事自体が驚きでした。
先程魏志倭人伝(現代語訳)の書籍を図書館で予約したのですが、予習で視聴して良かったと感じました。
魏志倭人伝の意味やその内容全部を訳して頂き人生最高の出会い、まさにこれぞ邂逅、
絶対の保存版、消えないで欲しい、それにしましてもまとめ方が上手すぎて感動感激です
非常によくまとまっているし、分かりやすく面白いです。私は魏志倭人伝が「倭人伝」であり「倭伝」ではないのは、陳寿を始めとした中国人が「倭」は邪馬台国だけではないことをよく理解していた為だと思います。韓条や濊条が国名を使っているのに「倭」だけは「倭人」としているのはそのせいです。なので、出だしに「旧百余国にして、漢の時に朝見するもの有り。今使訳通ずる所三十国なり。」と書かれているのだと思います。つまり「倭≠邪馬台国」だと言うことをちゃんと理解していたので倭人条なのです。そのせいで卑弥呼は「親魏倭王」の印しかもらえませんでした。魏に敵対して公孫氏につながる倭の別の国がおり、その国はこの時点では使訳が通じておらず詳細が不明だったからです。ちなみに狗奴国は邪馬台国には敵対していましたが、その国とは別なので多少の情報が有り、王名や官名が記載されています。日本側の記紀に邪馬台国の名が無いのは大和王権がその国の子孫だからではないでしょうか?(但し後年邪馬台国の一官の子孫である藤原氏が乙巳の変でその国の子孫を滅ぼしたので、日本書紀にはそれらしき記述が載ってしまいます。そのせいで日本書紀はかなりややこしくなっています。)
穏やかな語り口に惹かれて楽しく聴いています。知りたかった部分の歴史を淡々と丁寧に進めて下さる動画ありがとうございます。🎵
色々参考にさせて頂いてます。 原文には「無余」はなさそうですね。このあたりは、他の部分で解説されているように、一番言いたいこと「倭は会稽東冶の東にある」を記述するために、呉の敵である越が知っている歴史の話を持ってきて、それと同じ風習を持つ「倭」が今、お前ら(呉)の東にもあって、我々「魏」に朝貢してきたぞ。 ということなんでしょうね。
とても丁寧に作られていますね。落ち着いた色合いもいいです。有難うございました。
いつか魏志倭人伝を読んでみたいと考えていましたが、解説本を頼りにしても眠くなって頭に入らないと思います。しかし、運良くこの動画にヒットし説明を聞きましたが、物凄く頭に入ってきます。ありがとうございます。登録しましたので、今後しっかり視聴したいと思います。
凄く分かりやすい説明ありがとうございました。
又 よく勉強されて頭が下がります。
また 是非次回の説明を楽しみにしています。
御意! 正しい解釈でした。納得できます。地域の名前を記録に残す事は非常に大切ですね。当に言霊ですね。
こういうのは本当ワクワクする
日本のここら辺の考古学は何故か派閥意識が強いけど
やはり純粋な好奇心に勝る物は無いと思うわ
面白い。続けてみたくなる。
聴きやすく
判りやすい動画でした✨
ありがとうございます🙇
とても分かりやすい解説で良かったです。
大和国の位置と日巫女の存在についての考察は楽しいですね。
先生 この時代に対馬海峡って どうやって渡っていたんですっか?
沢山の返礼品を貰ったり何十人もの生口を贈ったりしていますが
どんな船だったんでしょうか?
三国志が2つあるとは、知りませんでした。また倭人伝の解説本はいくつも出版されていますが、口頭で説明を聞くと納得しやすく研究心が湧いてきます。
魏志倭人伝の最初に100余国とあって女王国が30国くらいあるイメージですね。また敵対する国もあるし、邪馬壹国や卑弥呼が倭人の代表とは言い切れないと思いました。一番大きな国ではあるようです。後編も期待してます。
追伸
倭人の入れ墨をしている説明で海岸や島に住む海洋国集団だと思いました。漁師さんですよね。邪馬壹国も海岸沿いにあると思います。
解説、ありがとうございます。
分かりやすい 12も今から見させていただきます
かあかあくいか聞けばニカアベか佐兵衛金子明け白衣控えあか激いけ喜劇はへああ秋毛かけ秋か紅き赤秋以下明明忌明けきけけひけケアあか秋か赤々秋日ケアがエコかき揚げかあかあアイネかあかえねえか赤々赤々ああ聞け気合いあけ秋へあー把握かあ秋赤々秋あかああかはコカ赤坂世界劇赤々がああ墓秋ね鍵垢エア替えか墓聞けかけ赤きか墓秋はああくる柿かは毛は赤はけけ気はヒアはけえか秋藍系にかい比較は秋聴き取りあか激化か赤い鍵垢明けエアかあ墓赤か秋ケアあかねかいけか赤かはは過去き激帰依はなく気合測っておきああヒイカ機会あああかああか絵描きの買い気配中下は計けけ喜劇気合い墓赤い赤い証が会え秋明けは木秋あかああ姉かはかかあか朝から赤かあけああかけねあああああ気合いはかあいなさめせし
(27:00)郡支国とあるけど、都支国では?原書のコピーではそうなっています。
魏志倭人伝を、抜粋でなく、通して解説してもらったのは初めてです。非常に参考になります。ありがとうございます。
ただ、これまで動画で蓄積した知識から、次の3点ばかり指摘させていただきます。
1点目は、邪馬壹國をヤマタイコクと読むのは非常に怪しいということです。ヤマタイコクと呼んだのは江戸時代新井白石がオランダ通事の今村英成がそう読んだのを採用したのが初めてだそうで、それ以前はヤマトコクと呼んでいたそうです。大体、邪馬壹國の壹の字は、卑弥呼の後継者の壹与と同じ字が使われていると言います。なぜ一方を、タイと読み、他方をトと読むのかと、徳島説の人はいってます。私もオランダ通事の間違いだと思ってます。
2点目は、邪馬壹國の家屋数7万戸についてです。7万戸ともなると人口は30万から35万人にもなります。当時の日本の全人口は60万人程度と推計されてますが、邪馬台国の人口が多すぎます。他の国にも5万戸とかあるので、邪馬壹國に特別なものがあるったとは考えられません。つまり、偏在する理由がないのです。やはり、中国得意の数字の盛りがここにもあると考えた方が良さそうじゃないですか?
3番目に朱丹です。これも徳島説の人は、徳島でしか取れない水銀の一種と言います。刺青の顔料ですから、朱丹=水銀説が良さそうですけど。なお、徳島説の人は朱丹は人体に無害と言ってます。本当のところは分かりませんけど。
追加でもう一つ。会稽というのは中国の会稽山とかですよね。中国戦国時代に呉があったところとか。呉は越に負けましたから、呉の民は海上に逃げ、一部が日本の九州北部にたどり着いたとかいう説です。この難民たちが水田稲作を伝えたという説にも展開しています。年代的にはBC500年(正確ではありません、確認してませんから)とかになりませんか?水田稲作と当時の中国日本の直接航路ということです意味がありそうですが、どうでしょうか?
いつも長いコメントですみません。
「倭国にはショウガやみょうがはあるが・・・」とゆう実際に文から、大陸から実際に倭国に行った人じゃないとわからない内容な気がする
水行は海を行かない。海を水行する時はそう言っている。国の名前を日本語で読むから訳が分からなくなる。
楽しく観ています。「木綿」は(もめん)と読みます。
動画主さんに指摘や難癖をつける方についてちょっと疑問なのですが、何らかの出典や定説を元に解説をしているだけなので、動画主さんに色々言っても仕方ないのではないでしょうか?出典の著者に文句を言うべきです。
動画主さんは一般的な定説から外れ過ぎないように気を付けて解説していると思いますので、それに対して本当はこうだぞと自分の認識(真偽不明)を一方的に押し付けるのは変です。
魏志倭人伝では、
会稽東治(ち)の東ではないでしょうか?
そうです。東治の東ならば南九州が相当します。東冶は後漢書東夷伝の記述です。
そうです。
会稽郡東冶は畿内論者トンデモ説です。
会稽とは会稽山から発した地名。
東治とは越が治めた東と解釈してます。
畿内論者は後漢書の誤訳に引っ張られ、九州説叩きに多用したのでしょう。
@@yoshitome6648 畿内論者トンデモ説は言い過ぎでしょう。吉野ケ里遺跡で配布されている魏志倭人伝の原文・読み下し文・注釈(高島忠平氏監修)でも東冶の東としています。
高島氏は九州説者なのにです。何か訳があるものと思われますが、その理由が記されていないので私には分かりません。このように原文と異なる解説をするのならばその理由を述べて欲しいですね。
@@河上宣道 さん
これは言い過ぎではありません。
書いたことは確かなことです。
例えばこの動画の作者も中立とはいえ、
恐らく九州説寄りでしょう。
それでも東冶です。
完全九州説のジャパンFさんも東冶です。
畿内説の旗頭が会稽郡東冶の東は台灣、沖繩だ。だから魏志倭人伝はデタラメ、
「南は東」と主張しているのです。
東冶は本当に迷惑甚だしい話なのです。
魏志倭人伝は正確です。
原文通りの会稽東治が正しいのです。
魏志倭人伝の内容は日本書紀神功皇后記の注記に少し書かれてますね。
これは非常に需要な指摘です。日本書紀の編者は当時の史実を知っていながらそれを隠して神功皇后のおとぎ話を創作したという証拠なのです。ですから、魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事と同様に、なぜそのような創作をしなければならなかったのかを追求すると歴史の真相が解明できます。詳しくは「刮目天のブログ」にありますので、是非ご覧ください。卑弥呼の墓も意外な場所で発見していますよ。
@@katumoku10
注釈書いてるんだから隠してないやろ。何言ってんの?
ブログのアクセス数稼ぎ?セコいね笑
せっかくここ迄作り込むのであれば、
ご自身が述べられた「4冊のテキスト」に関して、書籍名著者発行年を概要欄に入れた方がよろしいのではないかと。
陳寿が書いた文字は草書体。何故かと言うと、明の時代は草稿の書体は草書であったし、楷書は後の宋の時代に普及した書体だからだ。「三国志」の総文字数は約40万字。それを陳寿は4年弱で書き上げている。毛筆で楷書1文字を行間や文字の大きさを整えながら丁寧に書くと、1文字につき平均30秒掛かる。ただひたすら40万文字を書くだけで約3333時間掛かってしまう。恐らく数千はあったと思われる木簡に書き溜めた草稿資料を確認しながら墨を摺り、筆に墨を着け清書するのだから時間は数倍掛かる。しかし、草書ならば1字に約1.5秒。書く以外の作業を加味し1文字10秒として1時間に360文字。高齢で死期が近いと推察される陳寿が1日どの程度の時間を掛けられたか分からないが、草書ならば余裕を持って4年弱で書き上げられる計算になる。
従って、現存する「三国志」は原本では無く、陳寿の死後に恐らく宦官らによって楷書で写本されたもの。草書は隷書を崩した文字で、筆使いや個人的な癖によって文字の判別が難しい。例えば、邪馬台国の「邪」と「耶」、「馬」と「海」、「壱」と「臺」は草書ではほとんど見分けが着かない。陳寿の死後なので文字の確認は出来ない状況の中、試行錯誤したであろう写本は誤字を知る由も無く、史書として完成してしまった。
面白い。また一つ謎が解けそう!
この仕事は陳寿ひとりで完成したことではなく、teamworkでしょう。
@@binliu-chinalab-1202
当然、陳寿の弟子や門下の者が手伝ったでしょう。しかし、木簡の資料を間違わず正確に読み、三国志を清書出来たのは木簡の資料を書いた陳寿本人だけだと思う。故に、弟子たちの手伝いは陳寿の食事の世話や資料や原稿の整理程度だったと推察する。
また、魏志倭人伝を研究する方々には、その時代に主流だった字体と、現存する魏志倭人伝が綺麗な楷書であることを考えて欲しい。
隷書体を崩した読み難い草書体が主流だった陳寿の時代には、楷書自体がまだ未完成で一般的に普及されていない。草書は似た字が多く、また書いた人の癖などで誤読が絶えなかった。以降、画数は増えたが自体が綺麗で、誰が書いた文章でも読み間違いの少ない楷書が発展した。
@@akioh2782 非常に納得です。全面的に支持します。
陳寿は多くの公式文書や歴史書(魏録、呉録など)に基づいて作成したため、作業量はそれほど多くありませんでした。さらに、紙は東漢時代に発明され、三国時代には、作家は竹簡の代わりに紙を使用するのが一般的でした。
31:31
小康 ✗
少康 ✓
台湾人です。解説拝見させていただきました。解説していただいた内容は私が理解していた三国志の内容とあっています。いくつの感想を述べたいです。
邪馬台国の位置について南だと書いていましたが、実は東の可能性があります。上古時代には日が昇る方位と日が沈む方位しかありません。中国は北半球のため日が南東方向から昇るので、南と東が混同する時代があります。陳寿の時代の東と南の概念ははっきりしてたが、言語疎通できないかつ遠い国のことを聞く時に、太陽の方向などを聞いて方位を判断する場合があり、それによって東と南を混同したと考えられます。
陳寿は距離と方向から会稽の東にあると推測したが、あそこは海と狭い島ばっかりなので、陸行一ヵ月などはありえません。明らかに間違っていると思います。
中国では少なくとも秦代から、国で官道などを維持し、AからBまでいく時にどこでお昼食べるか、どこで宿を取るのかを国が定めたので、日数で距離を説明することがあります。その場合、高い山や海など険しい地形が存在する場合より多い時間かかったため日数が増えます。もし敵対勢力があり遠回りする必要があったらなおさら。
大丈夫です。
倭人伝はほぼ正確です。
古代の地図では日本は南北に縦に書かれているのも有ります
私見ですが、この書では倭人は明白に「海の民・海人族」であると定義されていると思います。つまり倭人という民族の最大の構成要素となるのは儋耳 珠崖一黄海一朝鮮半島一日本列島の沿岸部を移動生活をしていた漁民ということです。それは弥生人を中国・朝鮮半島の内陸部から移住した民族と考えるには矛盾すると思います。
儋耳・珠崖
「民皆服布如単被、穿中央為貫頭。男子耕農種禾稲紵麻、女子桑蚕織績。亡馬與虎,民有五畜、兵則矛盾刀木弓弩、竹矢或骨為鏃」
戸と家は異なります。太田亮博士によりますと支那では「1戸は5家」だそうです。その流れが「5人組」になったそうです。
ここで言っている「対馬」は「千余戸」ですが「一支」は「3千許家」「不弥国」は「千余家」その他は「戸」です。
戸は戸籍です 家は住まいです
ここに初めて魏志倭人伝を読む。
「女王が都を置いている所である」と解釈してるけど原文は「女王之所都」「女王の都」としか書かれてない。
正直地名はさほど問題ではなく「女王が都を築いた場所」なのか「女王が居た場所」なのかで意味合いが大きく変わる。
そんな女王と解釈されてる「卑弥呼」の名前が倭国の風習説明の後に取って付けたように書かれている辺りなかなか「女王」とは名ばかりに扱いは雑の様に感じる。
邪馬台国と卑弥呼は
にほんには記録がな
素晴らしい動画、ありがとうございます!
大陸の中華思想の比較的新しく宋や明の時代頃の朱熹思想からではないでしょうか?
隋唐の大陸は仏教国で印度を中国と尊称して、自らの大陸を漢辺土と呼称しておりますね🥰
出発地点洛陽から距離・方位誤差が無い説が出現しています。
近畿説や九州説とは全く異なり、最終到着地は、関東の鹿島神宮です。
魏志倭人伝の読解は、私には大変難しいことなので、ご意見を頂ければと思いまして・・。
ミステリー事件簿 さんの動画で、詳しく説明されています。th-cam.com/video/yjFcYekygX4/w-d-xo.html
当時、日本で「丹砂」が採れたのは、阿波(徳島県)の阿南市だけ…だったと記載されています…。
この事をどう思いますか?
動画中「栗(クリ)やヒエ」と言ってますが、「粟(アワ)やヒエ」だと思います。
栗で間違いないとおもいます 当時から栗は食料と建築と利用されていました
@@葛葉恨之介-z1x 「何でクリをヒエと対で持ち出すのか?」という、配信者に対する違和感を表明しただけです。別に栗の存在を否定してはいません。文字が似てるので勘違いしてるんじゃないかと思いました。実際、過去に某飲食店で「雛罌粟」を「雛罌栗」と誤記しているのを見かけたことがあります。
魏志倭人伝原文の大半は、伊都国についての記述です。倭【yi】国の首都が伊都国です。書の中に出てくる、『盡』の漢字の主語を見るとそれが、わかります。
そうなんですか?当方は福岡市在住ですが倭国は地域名称と思っています。倭人伝には朝鮮半島の南海岸線から倭国と紹介されています。深く知るのは楽しいですね。
@@永隈ゆうじ伊都国歴史博物館に行かれたら、全て理解できると思います。日本唯一の国宝が、じゃんじゃんあります✨
「魏の時代、伊都国に王が居た。
皆この女王国に属していた。」
ですね。
後編は?
ただいま編集しておりますので、もうしばらくお待ちください。
持哀って、キリスト教みたい…。
と、スケープゴートの必要性は…真理…って認めたくないけど、でもせめて敬われるだけ、マシかも。
つまり蝦”夷”は東方なのか
「くり」ではなく「あわ」なのではないでしょうか
残念ながら日本人は文字を発明出来なかったので記録ない。だから中国の文字を使った。
古代日本受中国影响很大
中国の、三国志の中の一部ですよ~
現在の邪馬台国論争は当時の日本列島(東海~関東地方位まで)で最も栄えていた地区こそが邪馬台国だ!
という主張が多いが、もうちょっと客観的に考えるべきではないか?
そもそも当時の『倭』そんなに広域だったのか?
核心をついています
邪馬台国は筑紫平野、都は八女。女王国は吉野ヶ里。卑弥呼の墓は久留米御井にある祇園山古墳。
会稽郡には当時東冶県(現在の福建省福州市)が存在しています。後に魏志を引用した中国史書も東「冶」と訂正しています。海南島の風俗を邪馬台国とわざわざ相近いものであると記す文章構成から、邪馬台国を東南(台湾北方海上)に比定していたことがわかります。魏志倭人伝には、邪馬台国の位置が記されていました。
当然、魏志倭人伝の行程や距離感が曖昧なものであるという解釈が成り立ちます。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり、第10代崇神天皇を中心に政治及び祭祀が行われていました。
その後、都を京都に遷都するまでの間長く歴代天皇がいらっしゃいました。
又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
「水行十日陸行一月」の謎が解けました。
皆さんも諦めずに挑戦してみて下さい。
距離も方角も日数もほぼ正確です。
答えはありますよ。
為政者の意向にそぐうように公的文書(情報)を書き換えたがる…という点は昔も今も変わらないんだなぁ… と、思いました。
卑弥呼、ごめん
・紹興本では「倭人条」ですが、慶元本では「倭人傳(伝)」です
・遠くで言うと、東沃沮も遠いですね
・司馬氏を賛美する目的が有る場合、東夷の表音に卑字として「馬」の漢字を多用しないかも
・ソウル市は帯方郡の一部に過ぎません
・其北岸の「其」は水行の事だと思います
※「倭に行くには、倭の北岸に行く」と読むのは不自然
21:15
実際には「丗丗(代々)有王」ではなく、「丗(30)有王」と書いていますよ
「代々王の皆が女王国の統治に屬する」だと意味が重複している
※代々か、皆だけで、良い
投馬国と邪馬壹国の戸数は「可戸」です
可に、「ばかり」と言う意味はない
地形・方位・里数が十分に書いて有るので、判らないと言う事はないと思います
27:35 卑弥呼は倭国の女王です。邪馬壹國の支配者・王は別に居ます
「不属(属さない)」であり「不統属(非服属)」ではないですよ
対馬から壱岐が南なのだから、東冶県から九州島が東で合ってますよ
稲・麻は文脈上、繊維や養蚕の話です
誉めてるのではなく、宮崎県などの花弁住居という部屋が複数の家を挙げただけです
冢の如しは、冢(墓穴)に似ている=竪穴の住居を指していますよ
盛り土ではなく、封土です。土で穴を塞ぐ意味ですよ
陳寿は同行していないので口伝を書いたとも言われていますねえ
ここで紹介されてる通説の意訳にはあっちこっち誤りがあります
誤訳が邪馬台国論争の原因ですね。
魏志倭人伝に耶馬台国なんて書かれていない邪馬壹國(やまとこく)である
文字を発現出来なかった、縄文、弥生人が数万年存在した、事自体、異常である!!
神代文字はあったと思われます。
神官等特別な階級の間でしか使われていなかったとは思います。
カタカナの元になった字であろうと思われます。
今まで邪馬台国についてかんしんがなかったのですが、歴史倶楽部の縄文時代で、縄文人は入れ墨をしてたとのことでしたので、邪馬台国周辺に、縄文文化を承継した人々がいたことになります。熊本や鹿児島は縄文系の遺伝子が強く、近畿は弥生系が強いらしいです。入れ墨がある埴輪の分布と一致しています。邪馬台国はクマソや薩摩隼人と争いがあったといことでしょうか。初心者ですが九州説を支持します。入れ墨は弥生系の大和朝廷の勢力によっていっそうされたのではないでしょうか。入れ墨は重要な手がかりだと思いますが、皆さんどう思われますでしょうか。今の日本はには入れ墨を嫌いますよね
大変面白く視聴させていただいております。
邪馬壹国の比定については、もうさっぱりと古田説でいっちゃいましょう!www
長里、短里の話と絡めたら、もうイチコロですから
昔中国人に指摘されたんだけど、
✖諸葛亮孔明
〇諸葛亮or諸葛孔明
日本人はなぜ「諸葛亮孔明」と呼ぶのかなあって言ってましたよ。
本多平八郎忠勝みたいなものか?
横山光輝の影響か?恐らく知らない日本人は多い。
それからは「諸葛亮孔明」というのは避けてます。
「倭の北岸のくや韓国に至る」なら邪馬台国は九州かな?
邪馬台国が近畿なら北岸?とは言わなくねえ?って思った。
邪馬台国の徳島説の説明を聞いた方が良いかな?と思いますが、この番組はそういう趣旨ではないかとも思う。
ただ、現代語の読み方に誤りがいくつかあります。説明されているストーリー上に大きな問題はないけれど、国史を扱う番組だから国語は正しい方が良いですね。
定説では邪馬壹(壱)国は邪馬臺(台)国の写し間違い、ということに触れていますね。
同じように、定説では「会稽東冶(や)の東」となっていますが、原文では「会稽東治(ち)の東」になっていることに触れてください。
やまたいと読むのが、そもそも間違い
かつて卑弥呼=天照皇大神宮の学説を唱えた方の本を読んだことがある。
あえて著者は伏せますが、相当の属国を要し、海外に使者を送る権力や財力を要している人物が、日本で無名なはずはない。いろいろな文献や記述と照らし合わせ、消去法でいけば、天照皇大神宮しか見当たらないというのが主な根拠ではありますが。
態とわかりにくく書いているものと思う。これは作者が謎をかけているのだと思う。
司馬懿のライバルの将軍が大月氏国を服属させて皇帝が金印を与えている。司馬懿はそれに対抗して、倭国をより遠く、より大きく、より立派な国として倭国を演出したのだとと思います。
岡田英弘先生ですね。
早稲田大学の渡邉義浩先生の説も同じです
これは妄想に近いよな
中国ではなく魏の国と言うところでしょう。
邪馬台国、邪馬台国というがこの読み方は後世の日本読みであり、卑弥呼の国のヤマトの使者が魏に行きわが国の名前はヤマトというといった言葉を魏の司書がヤマトの使者の言葉に邪馬台という文字を当て字したとみるのが当たり前ではないか。
なんで誰が邪馬台国にしたんだ?
邪馬壹国としか書いて無いなら邪馬壹国で良いのでは?
他の文献は邪馬台国と書いてあるからですよ。何度も筆写されてずっと後の時代に完成した現存最古の三国志に誤字脱字がひとつもないと思う方がどうかしています
ちなみに隋書倭国伝では、遣隋使の答礼使が日本を訪問した際の記述があり(そのエピソードは日本書紀にもあり)、そこでは「倭国の都はヤマトといい、これは魏志に記載されている邪馬台の事である」と言い切っています
江戸時代の国学者です 大学の教授がそうだと言えばそうなるのと一緒です
帯方郡から山門国(卑弥呼の居場所)への行き方は、水行なら10日です。狗邪韓国から投馬国(つまこく)現在は久留米市を統治する水沼君にガイドしてもらい南に山門国に着くその山奥に1000人の女性に守られた卑弥呼の居るから、でも会えないから注意してね。陸行なら松浦に着岸して伊都国で入国手続きして奴国で遊んで不弥国を南下して投馬国(つまこく)に行けるけど民間人からの接待があったり雨が降ったりで1ヶ月ぐらいかかるよ。
馬がいないとか入れ墨してるとかは、紀元前1,000年ぐらい前としか思えないんだけど
卑弥呼の本名は、八女津姫かな?景行天皇の巡行話しに出てくる山奥に姫巫女が居ます。誰も近寄ってはいけません。邪馬台国王朝なんて無いです。もしもあったなら卑弥呼が統治する以前から戦いが無かった事になりませんか?
水行=すいこう な。 すいぎょうは修行だ。
水行(すいこう)を(すいぎょう)と読んだのは、初めて聞いた。行水を思い浮かべてしまった!魏志倭人伝は、近頃あまり信用されていない。想像で書いたものとされているのに、よくまあ研究するよなと思う。
些末なことですが、「著す」は「あらわす」ですね。
関東邪馬台国です
いや〜、横山光輝のマンガ三国志は、中高の図書館には置いて無いでしょ😂
日本は漢字の国なのでこの様な中国の古い書物の解説も容易に理解出来ますね。表音文字だけでは不可能なのでは?
すみません。有意義な動画期待しています。
距離の里、ですが、1万里、となったら地球の直径4万kmとなり、その記述が後漢書東夷伝 魏書 にあったとしたら中国
南部から九州、もしくは奈良までが一万里、という記述自体がおかしい、成り立たないので、
現在の一里、=4km、自体がおかしいということになるので、
1/8 ぐらいになるのだろうか?
伊都国から、その近辺から、陸路、海路の距離感覚も、最初は
卑弥呼の歓迎を受け、そのあと、海上(水路)、陸路、何日、何里、とする記述も短縮してカウントすると、ちょうど現在地の大和盆地のあたり、大和政権出現の地に到達するのではないか、と思ったりする。
その当時の大和やまとはまだ豪族集団支配地であって、卑弥呼の九州からの支配が及ばないところ、という記述にも合致するのではないでしょうか?
豪族たちの勢力の微妙なバランスの上に成り立っていた名目上の象徴のトップにたっていた卑弥呼 女王、ということかと
思ったりします。
当時も今も一里は日本の1里とは異なり、ずうっと短い距離ですよ。
最も重要な邪馬壹國の文字だけなぜ邪馬臺國の誤記だと言い張るのか理解できません。邪馬のひとつの国と理解した方が素直な気がします。
隋書では「邪靡堆」と記述されるから、邪馬台国説が出来上がりました。
あなたの意見も、一つの解釈。
ヤマト国説もある。
仏国記には、ジャワ島を「耶婆堤国」と記載。そこから、ジャワ説もある。
実際に掘って、考古学的に裏付けされたら、確定されるけど、現状そこまで進んでいない。
倭国が偉大だったと、解釈しても良いではないか?
末蘆国から邪馬台国まで2千里
末蘆国から邪馬台国まで全行程を足すと2千里にならない
末蘆国から邪馬台国まで全行程を足すことが間違っている
陳寿はん、倭国に行ったこともないのに、よう旅程を明記できるものですな。感心しますわ😆
これは、マルコポーロの東方見聞録と同類ですな。
九州にあるいろんな国の倭人が、いろんな時代に中国へ渡って話したものを一つに纏めてしまったため、支離滅裂な話になっている。
邪馬台国の時代も、奈良時代も、奈良の山猿が初めて海を渡って中国までやって来るのは、そりゃあ命がけ😆💦
あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも
北九州の荒くれ倭寇なら 荒波の玄界灘を越えたところでこんな想いにはならないでしょう。中国で散々楽しんだところで、「里心がついたから、ちょっと帰ってまた来るわ」って感じじゃないですか。
魏の時代は一里は短里75mだったと記載されてると古田史学の正木祐氏が明らかにしてます。また、道のりについても論文のなかで論理的に説明されてます。もう少し調べてから動画をアップして下さい。
魏志倭人伝を最重要視するのは歴史文献主義だという事です。なるほど、そうすると中国に有利なように書かれてるという事。昔から日本人は変わらない。
惜しい。
陳寿の記した魏志には「邪馬臺国」は出てきません。
「邪馬壱国」です。
とても良いレポートだと思いますが、原文改定は少なくとも私の支持するところではありません。
残念です。
俺は10歳の頃の卑弥呼を知ってる
南に水行、更に南に水行とかなりの距離を進んで会稽群の東と言っているのだから素直に「邪馬台国は台湾」と言う結論にすればいいのに無理に「ここは違う」と拒否する理由が分かりません。
邪馬台国は台湾でしたか!
そのまま読めばそのとおりです。そこの部分の記述は入れ墨とか貫頭衣とかいまの日本の位置からは寒さで考えにくい風俗だと思います。
でも いと国糸島市とか、末盧
松浦とかの記述も別のところに書かれている。
2つ異なる出典ではないのでしょうか。
三國志魏誌倭人伝と北魏の時代の魏の東夷伝と2つの異なる出典だからごっちやにすると
訳がわからなくなるのではと思うのですが。
台湾に行くのに何故わざわざ朝鮮半島、日本(九州)を経由する必要があるのか?
陸路を南下し、台湾海峡を渡れば済むことなのにw
出発点が帯方郡だから朝鮮を通って九州を通過していってもおかしくないでしょ。
それに当時は三国時代で魏の下には呉がいて自由に往来することなどできるわけがありませんね。
@@hyanaga2512 さん
出発点は、洛陽ですね。
台湾へ行くのに帯方郡の方角へ向かう必然性がどうも。
それと、台湾の出先機関が北九州にあったことになります。
さらには、台湾が「倭」になってしまいますwが、そうなんですか?
こういう客観的説明含めた歴史的見解、認識をもっと世界中に広めて、ウリナラ主張のめちゃくちゃな主張を完全論破して、否定して欲しいわ。
それは日本もお互い様ですよ。
こんな曖昧なデータでは
どうにもならないのでは?AIで解析した回答は?宜保愛子さんに霊視してもらった人は居なかったの?因みにツタンカーメンは叔父に毒殺されたと言われてましたよ。
卑弥呼はムー大陸!ムー帝国があったんではないか!
全文じゃなく、すっ飛ばしです。偽りですよ
ちなみに魏志倭人伝の記述は古墳時代前期に区分されます。その時代の鉄製品の出土量は圧倒的に近畿です。
余談ですが、弥生文化が伝来した際に、その本流(弥生土器、多重環濠集落など)は前期末の段階で既に浜松まで到達、一部の文化は同時期までに関東平野南部には浸透しています。つまり弥生時代の中頃に至るまでには九州から関東平野までは共通項の高い文化圏と考えられます。まあ糸魚川の翡翠や久慈の琥珀、ついでにゴホウラカイの分布から考えたら、縄文時代からすでに列島規模で同一文化圏を形成していたのは読み取れます。古い時代から列島規模の交流がなされていたわけです。
司馬懿の功績稼ぎで邪馬台国を過大評価したのを見抜いた陳寿は晋の役人上、忖度して洛陽から遠いところから入貢したことにしてバランスをとろうとして距離をサバ読みしたんよ。
いきなり本の漢字間違えてるやん笑笑
有力な九州説・・関心ある方・・「豊の国古代史研究会・・福永晋三」氏 で検索して見て!
ぼくは、このほんよみましたよ、いけんは、きんきにあったのでは、ないか、りゆうは、ひみこの、こふんや、とうぶがあったと、かんがえた。