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ヤマト(山の入り口)という地名は当時あちこちにあったから混乱するのでしょうね。動画をアップしていただきましてありがとうございます。
山ばっかの国ですからね
山の津 陸路の市場の事だと思う。
唐古から大和川、巻向までよく歩いていますが、とても大乱があったとは思えません。のどかで大好きです
邪馬台国の位置特定されると困る自治体多そう
全てに言えることだけど、運搬可能な品々の最終的な出土地点=日本列島へ持ち込まれた最初の場所とは限らんよね攻め滅ぼした国の宝物を奪い取ってきたり、遷都(というか国ごと大移動)の際に新天地に持ち運んだり、(完璧の故事のような)交渉によって譲渡されたりした可能性は考慮されてんのかな?
邪馬台国の文化の特徴は簡単に言えばちょっとウホッってる海人族であるのに対し大和側は完全に陸で生活する専用地域だから付け加えるなら「常に伊都国で政務を執っている」と書いてあるから、倭人伝に従うなら確実に大和畿内ではないんだよなぁ
鉄鏃や鉄鉾の発掘があればねぇ
邪馬台国について考えるのは楽しいですよね……。少し前まで私もそう思っていました。この間見たNHKの邪馬台国番組には引っかかる部分が多かったです。前方後方墳を狗奴国勢力の象徴としていましたが、それは根拠のないことでしょう。いかにして邪馬台国近畿説という結論を出すかの過程ではなく、邪馬台国を近畿と仮定したうえで、卑弥呼はグローバル化を重視し、海外から最新のテクノロジーを取り入れ、ローカル勢力の狗奴国(東日本を支配していたと番組内で言っていました。)を圧倒し、日本を統一して、それが大和王権につながったとか、理論展開と結論を急ぎすぎた番組でした。番組の尺の中で大胆で野心的な説を紹介しようとしたのでしょうが、私の目には無理がある内容だと感じました。前方後円墳を邪馬台国の墳墓とも紹介していました。しかも、その建造には魏国の土木技師が関わっているとか……。情報源が気になる内容でした。私が確実だと思うのは、邪馬台国連合の構成国が九州北部に存在し、魏への連絡線があったということです。
NHKは適当なこと言わないでほしいと思ったけど時間的に急ぐしかなかったのかな?
NHKには膨大な量の、お蔵入りがあるようです。吟味に吟味を重ねると、結果として、中途半端な玉虫色の内容になるようです。やはり、税金💰️?💧の無駄遣いであると思われます。😅
わかったのだーw物分かりが良すぎなのだ
「お前を処刑する」に対しても、botのように受け入れてましたからね…。
日本人が邪馬台国の存在を知ったのは、魏志倭人伝の記述からで唯一の資料といっても良い。その中で伊都国(現在の福岡県糸島市)までの道程は、九州・畿内の両説とも認めています。さらにこの後、邪馬台国の北に伊都国があるとはっきり書かれています。道程記述でも最後に南へ進む記述もあり、報告書を2か所も間違えるとは考えられません。 これで邪馬台国の位置関係がはっきりし、畿内など論理的にありえません。なぜか畿内説論者はこの話には無視を決め込んでいます。初めから九州もしくはそれ以南と決まっています。考古学の発掘でも、倭人伝記述にそっくりな住居跡(楼観含む環濠集落)を発見したのは、今もって九州のみという事実。鉄製矢じりの記述に対しても圧倒的な差(鉄器の発見が福岡県720個以上、奈良は弥生時代全般でもわずか4個)。時代がさかのぼる年輪測定法でやっても、この割合は変化なし、または広がるかもしれません。 このように確実な具体的根拠があるのが九州説。ゆえにTH-camの多くが九州説支持です。畿内説が言ってきた根拠らしきものは全て論破されています。三角縁神獣鏡は送ったとされる中国では1枚も発見されておらず、桃の種に至っては倭人伝に「邪馬台国の人々は甲羅や骨を焼き、はいったヒビを見て占っている」との記述があります。いかに畿内説の学者は倭人伝記述を読まず、権威者にヨイショするかだけを考えているようです。日本の考古学者も論理や発掘結果を認めないようでは嘆かわしい。権力の犬にならず、学者として誇りを持ってほしいものです。
同感です。ではなぜ纏向説に固執するのかは、現状の九州説が考古学的に十分ではないから対抗できるという姿勢だと思います。でもこれもおかしな話です。これだけ暗礁に乗り上げている状態では、何か考えないと解決は望めませんね。邪馬台国への行程記事が、北部九州から水行三十日・陸行一月などという、普通の里数表現しない理由は何でしょうか?これが邪馬台国へ到達できない理由なのです。それを、多くの皆さんは魏志倭人伝は正しく書かれているはずだから、正しく解釈すれば正しい答えが得られると考えているようなのです。短里とかいろいろ発明しますが、解決できません。でも、これっておかしくないですか?魏志倭人伝が何故、書かれたのか、どんな資料をもとに陳寿が書いたのか?目的と内容の信ぴょう性をもっと議論しないから解決しないのだと思いますよ。実際に検討してみると、人前に出ないとされた、途轍もなく遠い南の海上に居る卑弥呼が、倭国の統治者である女王というのも怪しいです。政治を補佐する男弟が実質的な倭国王で、伊都国が外交・政治の中心地ですから伊都国男王が本当の倭国王だと直ぐに分かります。2度目の魏使張政は魏の正規軍の旗「黄憧」を大夫難升米に渡しているので、彼が倭国軍を動かせる本当の倭国王なんですよ。魏使は邪馬台国まで行く必要もないのです。ですから、卑弥呼は倭王でも女王でもない媛巫女ですから邪馬台国が大集落だというのも嘘でしょう。倭国をエキゾチックな東夷の女王に統治された大国に見せるための潤色と見るべきです。そうすると、邪馬台国はどこなのかという話ですが、卑弥呼が存在するのはいいとして、政治的にはほとんど意味がない話になります。ですから、後は、持ち運べるような遺物ではなく、径百余歩(直径約150m)の巨大な塚(円墳)が見つかればそこを卑弥呼の墓の候補となります。そして卑弥呼が兵士に厳重に護られた場所ですから、城柵のある環濠集落ですね。しかも、北部九州かその周辺にあるはずです。そのような候補地が見つからないなら卑弥呼は架空の人物としてよいと思います。しかし、その候補地をすでに発見しました。そして、なぜそこに卑弥呼が居たのか、卑弥呼の正体は誰かも考古学や民俗学の成果に基づいて推理しています。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。ご意見など頂けると嬉しいです(;^ω^)
距離も方角も合わない糸島を伊都国としている時点でどちらも恣意的な解釈だと感じる
@@zennin375 さん違和感は纏向が邪馬台国であるはずという思い込みからではないですか?壱岐から九州の松浦市と思われる末羅国に上陸するのは自然です。そして次の伊都国が糸島市というのは距離と方角が違うと言っても、魏志倭人伝に男王が居ると書かれており、糸島市の三雲遺跡に王墓がありますから伊都国は糸島市と見るのは考古学的に妥当ですよ。何故距離と方角が違うのかは上で説明したとおり、邪馬台国への行程記事が政治的な理由で改ざんされているからと考えるのが妥当な推論ですよ。恣意的な解釈とは少し異なるのですよ。理解できますか?理解できないというのであれば、なぜ糸島市の考古学成果を無視するのか説明できますか?男王が居た伊都国はどこですか?(;^ω^)
@@katumoku10 あなたこそ反論する相手は畿内説であるはずだという思い込みがあるように見受けられます。
@@zennin375 それは一部当たっています。なぜならば、絶対にあり得ない畿内説をメディアを使って大衆に認めさせようとする姿勢は学問の冒涜でしかないからですよ。でも、そういう感情的な話は正解に到達するための邪魔になります。あなたはもっと根本的な思い込みに気付く必要があるのです。古代史に謎があるということは文献と事実、つまり考古学や民俗学のなどの学術的な成果と一致しないことから起こっていることに気付いてください。事実を無視して想像するのは空想ですし、それに固執すると妄想です。事実で物事の真偽を確認するやり方が学問の正しい姿勢ですよ。あなたは学術問題と感情の問題の区別がつかないようなので、これ以上議論しても無意味です。もしもまだ続けたいのであれば、拙ブログにコメントしてください。答える価値があるのなら回答しますよ。よろしくお願いします(;^ω^)
当時、日本のいろんな場所に発展していた地域があったのは確かでしょう。色々人が行き来すれば発掘されるものもあり、時代の流れが解明されていくわけです。これは、邪馬台国がどこであるかを示すものではありません。魏志倭人伝に登場する邪馬台国とやらを明らかにするのであれば、魏志倭人伝の記述から離れるのは良くない。魏志倭人伝を読み解き、その結果導き出される場所を考古学的に調べつくし、そこからなるほどと思えるものが出土したら、そこが邪馬台国でしょう。と勝手に思っております。
今回の本の筆者の方の講演会の動画がありました。非常に面白かったです。th-cam.com/video/dA3e14517Ek/w-d-xo.htmlsi=cgP-dAmC6czYHueC
東松浦半島のすぐ北に、加部島と加唐島がある。このような処で生まれたカラの王子様がいたそうだ。加々良から真東に姫島―玄界島のラインが浮かびます。これが志摩国です!💧魏の使節団体の寄港は、加布里湾であり、ここから東南五百里を陸行すると、日向峠―セブリ山―基山🗻のライン上が、イト倭国の領域であることが分かります🎵😊
この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。邪馬台国は、ズバリ個々にありました。関川氏の説と一致します
大福銅鐸は「おおふく」ではなく「だいふく」ではないですか?近鉄大阪線の駅名は「だいふく」です。巻向の2~3キロ南に当たる所ですから、多分ここから出土したんでしょう?
ゆっくりの読み間違いでは?
関川先生の意見がよくまとまっている動画です。th-cam.com/video/dA3e14517Ek/w-d-xo.htmlsi=yZ-YLOOrnvENYMl2やはり時代区分の問題が大きいですね。時代区分をずらして、移動説を取れば、畿内説は充分成り立つ。
邪馬台国の場所は考古学的に証明されないと何とも言えないけど、1つ思うのは「一大卒」は後の「大宰府」に発展継承されたのではと思ったり😅
太宰府は一大率みたいな警察機関じゃなくて完全に軍事基地だから全然違う
それは至極「道理」にかなってると思う。
大卒は、大帥の誤りであると思われます。😊
@@AKIHIKO-uz7wf 卒でなくて率ね。あと誤りでないことは漢和辞典を引けばわかる
@@AKIHIKO-uz7wf 卒ではなく率。漢和辞典で調べれば誤りではないとわかるよ
畿内説の根拠としては大型古墳や銅鏡の数が多いことらしいですが、邪馬台国が日本最大勢力だったとは限りませんし貢物をしていた可能性もあるはずです。どちらの説も解釈次第で論破されてしまうので確定的な証拠が欲しいですね。
奈良だと戦乱の後が無いので説明が付かないのです。
動画ありがとうございます。れーしさんがおっしゃった、当時先進地域であった大陸との交流、関係の視点が大切だという点は鋭いと思いました。そこからすれば、距離的な問題から九州のほうが近畿よりも先進的であったのではないか、という主張はそれなりに根拠があるとも思いました。そうした観点が歴史学、考古学における物証をどう考えるのかということが、九州説主張が補強される背景にあるのではないかと思いました。
面白いです、文献から想像するのは自由で面白いです。真実はタイムマシンで2700年過去に戻らないとわかりません。合理的に考えると金印が出てきた場所付近でしょ。アメリカの友人でこの邪馬台国を研究している研究者がいました。話を聞いてあげると「The land of Hyuga facing the Pacific Ocean coordinate:32°07'13.1"N 131°23'04.3"E」と解説していました。
出土品の取り扱いには、注意が必要でしょう。量の多少や質だけで首都が決まるなら、アメリカの首都はニューヨーク、トルコの首都は、イスタンブール、オーストラリアの首都は、シドニーになってしまいますよ。首都を決める要因には、もっと別の理由が有る場合も多いですよ。
ハッキリした遺物が出たわけでもないのに学会が近畿説一辺倒だというのがどうにも気がかりですね。一部の権威者に逆らえずに自由な意見を言えない状況なのではと思ってます。
皇室の祖先が中華皇帝に朝貢してたことにしたいんじゃないのかな。大和であれば自ずとそうなるから。
おっしゃるとおりです。纏向遺跡と決めつける根拠が教祖の好みや希望以外にないです。考古学的にも文献的にも畿内説はアウトです。権威主義はもはや学問でも科学でもないカルト教団と同じですね( `ー´)ノ
邪馬台国までの距離は1200里と書かれてるし伊都国の南に邪馬台国がある、と書かれてるから、佐賀平野辺りだろ。邪馬台国の年代に鉄器が出てるのも北九州だし、邪馬台国には絹があると記されてるが絹は北九州しか出てない。近畿には絹は出てない。
同感です。その佐賀平野を一望できる日田市 川を下れば大分にも行けます。卑弥呼がいた場所かも知れませんね😊
朝倉市の山田国説を推したい。山田SAあたりに大きい円墳が出ていて、卑弥呼の墓説がある。
@@shinzaemongolf6753さん その墓ですが、検討しましたが残念ながら卑弥呼の墓ではないです。朝倉市は場所的にはいいのですが、4世紀以降の築造で、時代が合いませんし、三段築工法ですので、急造りのはずの卑弥呼の墓ではないです。また、古墳上に祠がありますが、カグツチを祀る秋葉神社ですから卑弥呼と関係ありません。麻氐良山に卑弥呼=アマテラス女神が祀られているという説ですが、日本神話は8世紀の創作です(詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?」参照)。卑弥呼の墓は、日本最大の直径約150mの円墳「三柱山古墳」です。詳細は「刮目天の古代史 【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」を参照してください(;^ω^)
@@katumoku10 まさか佐賀市大和町の東山田ですかね。大和の川上に熊襲タケルがそこの有力者を頼って逃げ込んできたという伝承があります。そこでヤマトタケルに討たれました。熊襲討伐の当時、それなりの有力国があったという事でしょまあ。
@@shinzaemongolf6753 さん 残念ですが、違います。朝倉市の長田大塚古墳ですよ(;^ω^)
今回の動画は伊都国が北部九州にあり、邪馬台国が伊都国より遠く離れた畿内大和にあったとは考えられないというものであり、極めて納得のいくものです。箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説も間違いで箸墓古墳は4世紀のものである。動画のすべてが全く抵抗なくみることができた。(『倭人伝の新解釈 新邪馬台国論』著者坂本光久)
考古学により邪馬台国の場所を考えるなら、ベイズ統計学による分析があります。それによると、邪馬台国が福岡県にあった可能性は99.9%、佐賀県は0.1%、奈良県を含むその他の県は0%ということです。
参考資料です。www.mueki.sakura.ne.jp/zui462-yamataikoku-bayes.htm
邪馬台国が大和でも九州でもそんなたいした問題ではないと最近思い始めました😅列島のパワーバランスが九州から大和に移るちょうど過渡期に邪馬台国の時代が被るので、それで各人大和説、九州説、間をとり阿波説と意見が割れるだけで😂魏志倭人伝の時間軸も初期段階は九州のことで、陳寿の時代の3世紀後半は大和のことを書いた可能性もあるわけで、つまり九州説も大和説もどちらも正解なのでここまで意見が割れて喧嘩になると考えられるのではないでしょうか?😅
一大卒と伊都国、、、伊都国の官、爾支(ニキ・ニギ)とはニニギあるいはニギハヤヒでは?つまり物部氏との関連があると考えています。物部氏の、古代における九州での拠点が有った所は、遠賀川流域、壱岐の島、筑後川河口デルタ並びに、筑紫コリドーと筑紫平野、怡土郡、松浦半島などがあります。そして、魏志倭人伝の邪馬台国への行程は甕棺墓文化圏で、説明するより、物部氏の影響力が有った所に沿った行程であると見たほうが、よりピンポイントに通過したところが判かると考えます。し、なぜ、そのルートをとったのか、或いは、そのルートを取らざるを得なかったのか、類推できると思います。そして、物部氏と伊都国に関しては、伊都国の一大率や持衰という、警察権や検察権と宗教的なマージが、後の大和政権での物部氏の役割そのものに思えてなりません。邪馬台国時代、既に、そのプロトタイプがあったと示唆しています。
当時の鉄・青銅器の出土状況から、北九州・丹後半島・福井平野は鉄器文明。出雲は青銅器文明。それに比べ近畿の特に纒向は鉄器も青銅器の出土の個数も桁が少ない。同時代の日本の地域において比較的に言えば、纒向は金石文明か、悪く言えば石器文明といえよう。金石文明なり石器文明が鉄器文明を凌駕した事はこれまで世界でも一例も確認されていない。つまり、纒向が北九州、越、丹後など日本海側の先進地域を抑え、魏と倭国の代表として外交するなどあり得ないといえる。鉄や稲作や疫病という文明にとってグローバルで普遍的であるモノに対応なり、順応するほうが先であり、その競争でもある。奈良はその時代まだ準備が出来ていないといえる。グローバル化に対応してから初めて、近畿の人口の多さという強みで主導権を得ることができる。
纏向は平和な商業都市ですから鉄はそれほど必要性は少ないのでしょう。
@@かかしやまだのそうですね商売に勤しんて下さい。邪馬台国時代の纒向の様な後進国に、倭の外交とか、宗主国とかは務まりません。軍事力も弱小で武装解除されているような状況です。それより纒向は九州方面の土器が全体の1%もないですが、所払いなり、通行をコントロールしてますね。疫病の流行のせいですね。しかし、それだけでは疫病の蔓延による人口の減少は防げなかったようですね。商業都市で平和でも影響は避けられず、不安定化している様ですね青谷上寺地遺跡のように脊椎カリエス・結核の人骨が、纒向で大量に出て来ないことを祈っています。
事実誤認も甚だしい、そもそも纏向遺跡のすぐ近所には鍵唐古遺跡がありますよ。ここは邪馬台国の時代よりはるか以前から銅鐸造っています。更に言うなら邪馬台国は7万戸ですから奈良=邪馬台国ではありません。あくまで最低でめや畿内一帯が邪馬台国と考えるべき話ですから。
@@トミヤマサキオだから何?とうこかぎ遺跡など知ってます。他の地域でも出てますね邪馬台国時代の鉄器・青銅器の出土の質・量はどうですか?纒向から奈良、更に畿内まで広げても日本海側の先進地域とは比べると歴然とした後進性ですね。戸数にしても九州は駄目で畿内ならOKというのも意味不明である。人口なら関東・東海のほうが断然多いよ?それに対する反例を上げてください。それが全てです。あなたの様にただ罵倒するだけの全く意味がない、下らないコメントにはウンザリです。纒向→畿内説→九州を始めとした連合説とは中々華麗に転進してますね?纒向や畿内説こそ自生説はもう古い、連合説だとか言って旧帝国陸海軍のように「転進」を正当化するは大概にしてください。尤もらしそうな事を言っているが、纒向は邪馬台国時代の発掘で最も資金やリソースを他に比べ桁違いに費やしています。考古学的情報は積み上げていくものだとか嘯いているが、尤もらしさの情報量も知らないの?これだけ費やしても、その程度なのは自生説であろうが無かろうが、邪馬台国に関する纒向なり奈良の情報の価値は、他の九州や丹後・高志の邪馬台国時代の情報に比べ著しく情報の価値が低いのである。解る?
@@かかしやまだの さん 倭国大乱を忘れたらいけません。弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると戦場は北部九州と熊本北部の菊池川流域だったと分かりますよ。詳しくは「刮目天の古代史 鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください(;^ω^)
大陸と交流あったんだから九州説だと普通に思ってたんですけど畿内説の方が有力なんですかね何か意外。邪馬台国がヤマトと読めちゃうのが誤解の元である気がしてならない。そもそも卑弥呼さんが銅鏡だけでなく漢字も輸入して自分たちの歴史書でも書いてくれりゃ良かったのにな
日本書紀と古事記を編纂した頃に大和政権が焚書しているのであったとしても残ってないかも。
@@NK-pl6noそこまで古いのは手を出さないじゃないですか藤原って
古代は楽しい〜😀先日、「邪馬台国は常陸にあった」と云う面白い解釈に出会って、更なる古代カオスに捕らわれてしまった〜
近畿よりはよほどマシですね。少なくとも万二千里を長里としたら、近畿は飛び越えてしまいますから。
@@松の葉-q2x 狗奴国=毛野国(群馬栃木辺り)だとすると面白い😅 そういや関東も結構古墳有るので当時邪馬台国の勢力範囲だったとしてもそんなにおかしくない😅
阿波=呼巴(a pa)魏志には周辺国として登場しますので、阿波説は無理筋です
ヤマトなんて古文に詳しければ山の入口くらいの意味にしかならないって知ってるはずだから、ヤマトなんて今でもあちこちにあるしいくらでもあったんやで?イズモなんて藻がたくさん取れる海くらいの意味だし、マツウラなんて舟を待つ浦くらいの意味でいくらでもあった。ナ国?菜か魚がよく取れる地域ですか?くらいの意味。ただ単に後の世で大きくて有名な地方がそれを名乗り続けただけの話。古典や地理に詳しければいくらでも解釈できるのに、日本史だけの人はそんな事考えもしないよな。
邪馬台国に変わって、統治した政権は、それなりに大きいとされているから、九州?とするには難しいが、金印が出土されたから、どこなのでしょうね。
旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」があるので、邪馬台国と畿内大和王権は別の国(王朝)でしょうね。新唐書には日本国は倭国の別種なりとあります。白村江で大敗した倭国は衰退し、大和王権が倭国に取って代わって倭王として統一したのです。新唐書には、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されているので、元々は倭と後の日本は同じ一族だと思います。
おっしゃるとおりです。新唐書にあるとおり「日本は古の倭の奴国」だったのです。つまり、元々、「王年代紀」にある初代王天御中主の子孫の歴代奴国王が支配していた倭国を別の勢力、つまり伊都国王師升(奴国宮廷楽師)に倭国が奪われたのですが、倭国大乱があり、卑弥呼が登場して、最終的に狗奴国(旧奴国)が倭国を取り戻してヤマト王権が成立したということなんですよ。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください(;^ω^)
九州説の方は、太宰府羅城が邪馬台国時代のA.D.240年に、版筑によって出来た。との確定作業なり新たな発見に考古学的リソースを集中投入したほうが良いと思いませんか?A.D.240年が確実であれば、魏国の使者、特に張政は軍事顧問団として、倭に来たことは確実と目されるので、彼ら魏の軍事顧問団が版築での羅城という大要塞の建設に関与している可能性は非常に高まる。そうなれば、羅城は対クナ国での、邪馬台国連合の台与ら首脳部と、張政ら軍事顧問団の大本営と考える事が自然であると思う。クナ国が熊本平野以南としたら、戦闘の最前線からある程度離れ、攻勢限界点近くで、基山という監視するにはもってこいの地点があり、筑紫コリドー自体が、要害の地である、太宰府羅城のエリアは、大本営の設置ポジションとして理想的であろう。そして、魏国から軍団の派遣は望めない中、張政ら軍事顧問団のミッションのレッドラインは、同盟国、並びに最高為政者(祭祀王)の台与の防衛である。から、邪馬台国連合と狗奴国(1國?)が、がっぷり四つで戦争するなら、また、軍事顧問団が倭の地勢や軍の運用なりに不案内ならば、より、積極攻勢的な戦略アドバイスなりコンサルティングしづらい。そうなると、支那の防衛施設としてはオーソドックスであり普遍的でもある版築による防衛ラインである、羅城を含めたディフェンシブな戦略を提案し、それが採用される事も十分有りうる。羅城が邪馬台国時代の物であれば、個人的には不弥國の勢力圏辺りか、伊都国の可能性が高いと思う。邪馬台国連合での太宰府羅城の働きが判れば、邪馬台国が何処に有るかとかは自然と分かって来ると思う。纒向論者などは箸墓古墳の造営に、張政が関与しているなどという戯言を主張している体たらくぶりです。が、だが、九州説がある程度纏まらなければ、そのようなフェイクニュースをばら撒き徐々に影響力を付け、邪馬台国は纒向であると押し通す戦略で有り(ロシアや支那と同じやり方でありプロパガンダである)、また危険性も非常に高まっている。ここは、危機感を持って対処しなければならないのではないでしょうか。纒向の内輪の、なあなあの鑑定なりを咎めたり、反例を挙げる事も価値はあるが、九州説みずから、太宰府羅城の築年などの鑑定の確定なり、新たなる発見を、利害関係が全く無い第三者機関を交え行うことを提案します。統制国家の支那でさえ、第三者機関であるマックス・プランク進化人類学研究所などを入れ、進めている案件もある。そのような第三者機関を入れての検証のほうが信頼を寄せられるのは、もちろんの事、内輪の、なあなあでやっている所に、より、反論として正当性も出るし、プレッシャーとなろう。そして、太宰府羅城が邪馬台国時代の対クナ国での、大本営なり、詰の城の大要塞であると確実視されれば、実質、九州以外の邪馬台国説は終焉を迎えるのです。もし九州以外が邪馬台国であると仮定するならば、勢力圏から外れた九州に有り、しかも九州の内陸側に大本営なり、日本古代史上例がない程の規模の詰の城の大要塞を築くというのは、合理的な考察なり根拠から全く有り得ないからだ。私も羅城の考古学的な位置づけを知りたいのも有るが、九州説の皆さんも、何処が邪馬台国か取り敢えずは置き、羅城の邪馬台国時代の働きの解明に、城郭考古学や考古学的リソースの集中投入、並びに、利害関係の無い第三者機関を入れて行う事に賛同しませんか?関係各所には、太宰府羅城の考古学的重要性に鑑み、尽力頂ければと思う所存です
情報公開請求の一環として宮内庁管理の墳墓も調査の対象になるかどうか
言語学の分野だとふつうに九州説なんですよねw
吉野ヶ里は、邪馬台国と密接な関係があったとされていますが、4世紀に滅んだ直後、近くに櫛田宮が創建されており景行天皇、ヤマトタケル父子が祀られております。おそらく九州の熊襲、土蜘蛛退治で吉野ヶ里を滅ぼしたのでしょう。佐賀市大和町大願寺地区には大和の川上に熊襲健が逃げ込んできて川上健と改め、そこでヤマトタケルに討たれたと伝わってますよ。私は大和町の東山田という地名が古くからあり、そこが邪馬台国ではないかと思っています。邪馬台国(山田国)
山田国が邪馬台国なのですか?卑弥呼の墓はどこにありますか?3世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、九州は景行天皇の遠征ルート上に矢戦さの痕跡が見つかっていますので、史実のようです(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。だだし、同時期に、崇神天皇紀の四道将軍のルートにも同様の戦闘の痕跡が見られます。そして景行天皇の孫仲哀天皇は成務天皇40年に30歳で皇太子になっていますので、仲哀天皇の父ヤマトタケルが死んで38年後に生まれた勘定になります。つまり、崇神天皇から応神天皇が即位するまでの約350年の天皇の話が3世紀後半の史実を引き延ばして創作したものなのです。それでは史実はどうなっているのかを考古学の成果で調べると纏向遺跡の外来土器に東海のものが約半数あります。先代旧事本紀から東海を支配する尾張王は、物部氏と同様にニギハヤヒの子孫です。ですから、景行天皇の九州遠征とされた話は実際には尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)の史実でなのす。九州遠征後にヤマトタケルの副将軍として東海道を遠征し、駿河湾で水死したという伝承がありますので、建稲種命はヤマトタケルのモデルでもあります。墓も推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。ということで、卑弥呼の死後の話だったのです。卑弥呼が居たと推理した宇佐市で、径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳{三柱山古墳)を発見しています。詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」ご参照ください。よろしければ拙ブログにご意見ください(;^ω^)
弥生時代の重要な貢物の絹は福岡と佐賀、長崎でしか発掘されてない。畿内には中国との密接な関係性を証明出来る発掘品が全くない。神獣鏡は国産で桃の種は卑弥呼には全く無関係で動物の骨を焼いて占うと書いてある。
畿内説は、九州までもの地域が畿内に含まれると言い出しそう。畿内説を唱える人の年齢層は60代以上が多いですね。
既に、畿内自生説はもう古い!北部九州勢力をはじめとする、各地の勢力により、畿内で共立された!などと、旧帝国陸海軍のように「転進」して、畿内連合説とか畿内共立説などと言ってますよ考古学という積み上げたモノは間違わない!などと宣い、官僚的無謬病に罹患し、かつ、パーキンソンの法則の行動パターンそのものなのです
原付で纏向遺跡行ったらただの空き地だた。
「考古学から」とあるのにこんな事言うのはあれだが、記紀にこれといった内容が無いのはやっぱり気になる当時の人にとっては取るに足らないことだったのか、それとも大和王権勢力じゃなかったのかな?
『張政なんて倭国の国同士の争いの調停までしてくれたわけですから』< してねーよw日本の考古学の最大の問題点は、科学的な正しさより人間関係を重視して曲解ばかりしているという点にありますからね。今回紹介の本の著者も、考古学界にどっぷり浸かっているというより、1歩離れたような立ち位置の方だから言えたようなところもあると思います。日本の考古学も、早くまともな学問になってもらいたいものです。
この本に関しては本職の考古学者が久方ぶりに九州説の本を出すということでちょっと話題になりましたね。弱点もあって、例えば恐らくですが著者は箸墓古墳の年代をかなり遅く(3世紀末?)見ているらしく、そう考えている研究者はほぼいないのではないかな?
畿内説の第一人者である寺澤薫先生も箸墓の築造年代は280年から300年頃とおっしゃってますが・・。
どっちも「異端」を自認してる方たちじゃないですかw
関川先生は最初の学術論文「纏向」を石野先生と共著された方、寺澤先生は現纏向研所長。現場の知見が深いこの二人の見解を軽んじてはいけないと思います。
心配しなくても関川先生も寺澤先生も軽んじてる人なんかいませんよ。ここ20年くらいで放射性炭素年代測定法や年輪年代測定法は考古学の前提となってて、石野先生らの纒向・箸墓3世紀説を支持する側が圧倒的だよねって話です。それより関川先生と寺澤先生のどちらもいい本なのでみんな買ってください! それを読んで判断しよう!
@@shou-sho さん 両方読んでいますが、関川先生の纏向遺跡は邪馬台国ではないという御意見の方が説得力がありますよ(^_-)-☆加えて、倭国の玄関口の北部九州の卑弥呼の時代の土器が纏向遺跡で出土していません。この事実は重要です。纏向の前方後円墳で行われた祭祀に倭国の人間が参加していないのですよ。そして3世紀の終わりごろに纏向遺跡でヤマト王権が成立していますので、九州の邪馬台国を滅ぼした狗奴国と考えるのが妥当です。前方後円墳の属性は北部九州・吉備・山陰などですから、日本は古の倭の奴国だったのです。纏向遺跡は旧奴国=狗奴国なのです。范曄後漢書からも九州東部にあった女王国から東へ渡海千里で狗奴国に至るとあります。范曄は倭の五王の遣使から情報を得て書いたと分かります。女王国=邪馬台国は宇佐です。卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の巨大円墳「三柱山古墳」がありました。卑弥呼に関わる遺構・遺物や伝承も数多くありますよ。詳細は「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」をご参照ください(;^ω^)
そもそも卑弥呼の鏡は魏の皇帝が「邪馬台国と魏の関係を他国に知らしめる為に配れ」と言ってくれたのだから、鏡が見つかるのは「邪馬台国以外のもらった国」の方のはず。だから、むしろ鏡が見つからない場所の方が邪馬台国なんだと思います。卑弥呼自身が使うのならば(他の鏡との区別から)100枚なんてたくさんの低品質の鏡ではなく1枚の高品質の鏡をもらったはず。なので鏡は何の考古学的な証拠にはなりえません。
橿原考古学研究所の坂靖さんも九州説だし、一部の人が言うように考古学者が全て畿内説なわけはないんですよね。それは健全なことだと思います。
95%以上は畿内説ですよ。九州説を言う人は極一部。まあ、そこは言論の自由なので、少数派の意見も尊重しないといけないです。
@@Mr.Nobody-rk3eo いやいや、魏志倭人伝はふつーに読めばふつーに邪馬台国が阿波(徳島)にあったと解釈できます。陳寿がウソを書いたりややこしく書いたりする理由がまったくない。★まず水行とは陸地に沿って舟でいくということです。河に限りません。それは魏志倭人伝の最初の部分「帯方郡から倭に到達するには海岸に従って水行」という表現で理解できます。★また魏志倭人伝の時代の古代中国では、渾天儀、周髀算経の一寸千里法といった測量技術がすごく発達していて、ピタゴラスの定理も編み出されており、地球上の一点から一点の直線距離をほぼ誤差なく計測できていました。魏志倭人伝の計測において、帯方郡ー釜山(7000里)、釜山ー対馬(1000里)、対馬ー壱岐(1000里)などは、現在のGoogleアースを用いた計測値とほぼ誤差が無く正確だった事が証明されています。1里=約75m阿波(徳島)を邪馬台国とした場合の、帯方郡ー邪馬台国(12000里)は、現在の計測でも正確だったと証明されています。また後漢書(東夷列伝・倭条)において、阿波(徳島)を邪馬台国とした場合、狗邪韓国ー邪馬台国(7000里)、楽浪郡ー邪馬台国(12000里)も、現在の計測でも正確だったと証明されています。つまり魏志倭人伝の頃の測量技術は現在と遜色なく正確だったとすでに証明されているわけです。畿内説・九州説派は、この計測の正確さを無視して、距離方角の記述を何ヵ所も恣意的に改ざんしているので話になりません。★これらより邪馬台国は阿波(徳島)にあったと考えるのが一番、整合性が取れます。畿内説九州説では、魏志倭人伝の距離方角の記述に何ヵ所も恣意的な訂正を加えてむりやりに場所を導き出しています。しかし阿波説(徳島)では【投馬国】の記述の一カ所だけを変えるだけですべてに整合性が取れます。距離方角をイジる必要が一切ない。投馬国の記述にせよ魏志倭人伝の元ネタとなった「大平御覧」を参考にして【又南至投馬国】を【又南至(於)投馬国】に変えるだけ。阿波説は(於)を加えるだけですべてに整合性が取れるのです。★あと日本神話に出てくる有名神単体の延喜式神社(大元中の大元の元宮)のほとんどが阿波に集中しているのも見逃せません。つまり神話の神々が活躍した舞台は阿波という事になります。★さらに天照大神が降臨され憑依される大嘗祭の麁服(アラタエ)の儀式。麁服(アラタエ)とは阿波の剣山の麓の忌部の畑で取れた麻で織った織物を指します。この織物でしか天照大神は憑依されない。つまり高天原の神々から繋がる天照大神は阿波の剣山におられそこからしか今上天皇のもとに行かれないということです。★延喜式神社の状況証拠と魏志倭人伝の記述から推定する邪馬台国の場所は、阿波に一番、整合性があります。
@@ラッキー純-h2x阿波説では方角はいじる必要がないんですね。阿波説では伊都国をどこに否定しているんでしょうか?伊都国は邪馬台国の北にある国で徳島よりも北にある場所ですよね?
@@ラッキー純-h2x 阿波には七万戸もの国は収まらないし、神仙思想の痕跡も少ないから候補地としてはあまりにも弱いですよ。重要な場所ではあってもあくまでも倭の一国にしか過ぎないでしょう。
@@NK-pl6no 伊都国は行橋ですね。
単純に歴史学的にも畿内説だと東征やら書いた意味がよく分からんし、地理的にも国同士の関わりがもっと希薄になるわで現在のような日本に辿り着く歴史にならないと思う
面白い!!同時代の九州と比べる。なるほど(´・ω・`)阿波説はもっと考古学的証拠が無いですけど、どんな風にこの動画を観るのかな?あ!アワセツの人は興味無いか(笑)
あんだけ出土している三角縁神獣鏡に魏の暦が書いてあるのに、魏との関りが薄いってのは流石に難癖にしか感じないんだけど・・・魏志倭人伝を信じるなら超高確率で九州に邪馬台国があるとは思いますけどそもそも中国の史書の人物情報や地域情報は高確率で誤りがあるのが通説なので逆に文献上は九州にしか考えられないって事は逆張りで九州ではあり得ない(記事に間違いが必ずあるので間違いの情報をもとにすれば九州になるならば正しい情報では九州はありえない)って事になりそう個人的には熊本北部4割、大和4割、その他2割くらいで考えてます
歴史の検証に忖度、空気など全く関係なく、むしろ邪魔。そのような仲良し・保身・利権・排除の土台こそがプロとは言えない日本の特に学者、学会のくだらないと思われる大きな要因。
世界中それ!!何で「ニュートラルな、真摯な、考察」が出来ないのか? むしろ、「邪魔する」のが目的、と言える。
ヤマトの発音は九州地方の古語で故郷という意味だろう。神武帝は近畿に入植してここを故郷「ヤマト」にすると宣言。魏の帯方郡に入朝したナシメらが帯方郡の役人に国名を尋ねられてまだ部族社会で国名の概念がわからず、青い海、空、山がわが故郷「ヤマト」ですたぃと答えて~どうやらヤマドゥ?が主語らしいと邪馬台国と当て字にされた魏志倭人伝著者の陳寿はその辺が曖昧と気づき文字の簡略化もあるが大半を女王国と記した。
大先生には逆らえない、近畿学閥の奈良ありき論。
埼玉県ってことにならないかな?何もないんだよね😅
天皇や天皇の家族、豪族が亡くなった時は各地から大量の供物が捧げられて一旦は一箇所に集まるんだろうけど、古墳を作りに各地からたくさんの人々が訪れ、帰る際に古墳の周りに埋めた供物を盗んで持って帰ってまた各地に散らばるんだろうと、中学の社会の先生が笑いながら冗談で言ってたのを思い出した
農業生産力の点から、天然稲作の最適地で(魏志倭人伝の)7万余戸を養えるのは古代では北陸古代越國(越後の上越頸城糸魚川~越前)の中心だった越前(福井平野、加賀能登は越前から分国)だとの説が興味深いです。(TH-camr ヤマタノオロチさん説) 嶺南敦賀は大陸への窓口でツヌガラアラシトや神功皇后。若狭湾を挟むと、古代大丹波こと三丹(丹波、但馬、丹後)の2世紀の鉄器出土数は日本一。近江(琵琶湖)、丹波の川の流れ(水系)で日本海側から畿内、瀬戸内への流通伝播があったかとおもわれます。 のちに継体天皇を輩出する越前や、近江丹波の水系を支配した息長氏は神功皇后の出自。 現代人の感覚からすると、福井県(越前、若狭)、滋賀県(近江)、京都府(丹後、丹波半分、山城)、兵庫県(但馬、丹波半分、播磨、摂津半分)となりますが、古代の大まかでも文化圏や行政区分は現在の都道府県単位とは殆ど別物だという地域として、北近畿(東山陰~西北陸)がその好例であるということを常に意識していないと、何か重要な事を見落としてしまう氣がします。
邪馬台国や倭国は海南島に近い風俗で、温暖ではだしで生活でき、年中生野菜も食べられるとありますが、当時の越前は暖かかったのですか?(@_@)それから日本書紀ですが、神話も含めて8世紀に創作したものです。勝者の歴史書なので、すべて事実ではないのです。物証が見つかればその部分は事実と考えられるということです。詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?」ご参照ください。
奈良県の黒塚古墳からは大量の鉄製品、武具が出土しています。鉄剣3本、鉄槍14本、鉄鏃280点。そして中空のパイプ構造で、明らかに大陸製の「U字型鉄製品」も出土しています。用途不明となっていますが、これは魏志倭人伝で魏が贈った「黄幢」ではないかという人もいます。少なくとも当時の日本では作れない非常に精巧なものです。
関東人なのでどちらでも良いのだけど、見つかったからそこがもらったクニだと言う考えも、見つかったからと言ってそこがもらったクニだとは限らないという考えも同意出来る。
鉄槍や甲冑は魏志倭人伝に記載がないので、むしろ邪馬台国ではないという裏付けになりそうですが
北部九州、丹後、福井平野のほうが邪馬台国時代の鉄器多いのではないですか?
たとえ卑弥呼の金印が出土したとしても、人が容易に持ち運べるものは決定的な証拠になりません。決定的な証拠は径百余歩(直径約150m)の日本一の巨大円墳でしょう。そして、卑弥呼の墓だと裏付ける城柵のある環濠集落の遺構や卑弥呼に関する遺物、民間の伝承も証拠に数えることができるでしょう。箸墓の伝承は卑弥呼のものではないですね。すでに宇佐市で卑弥呼の墓の有力候補「三柱山古墳」を発見しています。卑弥呼に纏わる話もたくさんありますよ。よろしければ「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」をご参照ください(;^ω^)
13:50 九州にある近畿系の土器、纏向の様子や遺伝学言語学あたりから考えると近畿からの移民って感じがする。寒期と倭国大乱で人口が減った九州に寒期の影響を受けず人口が増えた奈良人が入植したのかな。言語学クラスタが魏志倭人伝は近畿系の言語って言ってたし卑弥呼の倭国は近畿系主体の九州国家っていうのが自分的には腑におちる。
倭国大乱の頃に北半球ほぼ全域で、極端な気候の寒冷化が始まり世紀単位で続き(水月湖などデータ)ますが、より南方の温暖な九州より、比較したら北方の奈良ほうがより、極端な寒冷化の影響が深刻だと思いますが?どのような、合理的な主張なのでしょうか?良ければ、教えて下さい。
多分、古墳を発掘できても大したものは出てこないんじゃないかなあ。1000年以上も前のものなんて盗掘されまくってるだろうし。
墓誌文化も無いし、何が出たら決定的な証拠になるんだろうか 金印とか?
考古学者の食い扶持は出てくる
@@yskztkhs7986 座布団一枚
1200里×10=12000里。ですね🎵😊
奈良であれほどの遺物が出た時点で、もう邪馬台国がどこだろうが、どーでもよくなってる気がするけどな。
邪馬台国じゃなくても、巨大王国があったのは確か
文献だけで、あーだこーだ言うのは、不毛でしかないよね。江戸時代からやってるからね。なので、頑張って「発掘調査」して欲しいところです。出土した事実から考察してほしいんだよね。
古墳掘っても何の意味もないというのは最近話題になった古墳で明らか
おっしゃるとおりです。文献は人間が書いたものですから、いろいろな事情で嘘がある可能性もあります。物証が見つかればその部分は事実と考えられますね(;^ω^)ほとんどの皆さんは魏志倭人伝を信じて、ただしく解釈すれば正しい結果がえられると思い込んでいますが、科学的ではないですね(^_-)-☆卑弥呼の墓は宇佐市で発見しています。卑弥呼に関する物証や伝承など数多くありますよ。なぜ宇佐に邪馬台国があったのかも考古学の成果などから検証しています。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(;^ω^)
@@yskztkhs7986 富雄丸山古墳は空白の4世紀を考察出来る大きな意味がありました。畿内の矢田丘陵周辺にはあれ程の物を作れる技術があったと判ったのは極めて大きい。
間を取って四国説および阿波説。
唐古鍵遺跡人口検索・・・おおよそ900人・・・7万戸になるのは江戸時代???加筆くせーーー邪馬臺は、琅琊郡の南の島の意味だから・・・後漢書の九州島の錯乱邪馬壱国は、応神朝の糸島の志摩と伊勢志摩の・・・壱は2つある意味・・・でも、母丘検伝は見てるようなので、248年に帯方郡から返礼の使者は来たのかも?しれませんけど。もっとも・・・徐福を呉志から倭に移動させたので馬韓の卑彌國も倭に移動したんでしょうね。正史三国志の記述には、文身(加筆の意味)が、多く、日食の無い年に日食の記述が多く存在するので、魏志4巻の247年の遣使の記述が、正解かも?神功記39年にもその年は247年と指摘しているので・・・何をするにしても、文献がいい加減だと考察のしようもない。w
古代史よくわからないが、日本書紀や古事記と朝鮮の記録、遺物繋ぎ合わせると何となく弥生時代以降の大和政権の成長が掴めるような気がする。神武東征がどこまで真実かわからないが、葛城や磯城氏などの初期大和政権の系図や外戚研究も説得力あるので欠史八代も捨てがたい。吉備や出雲地方の伝承には、孝霊天皇あたりが出てくるのと、墳墓や円筒埴輪?ルーツが吉備あたりとの話も聞いたので、孝霊天皇ぐらいから後進的だった大和が急速に力つけ、箸墓や纏向遺跡に繋がっていったのか?ただ、欠史八代の天皇陵がそれにふさわしいのが見当たらないのが不思議。時代的には箸墓周辺の初期古墳あたりになるのならわかるがそのように記録されていない。まともな墳丘墓がない後進地域との大和が邪馬台国とは到底思えないが、それでも突然強国化したのは何故か。考古学者は邪馬台国論争だけでなく、初期大和政権の成立に応える説明、研究をしてほしいと思います。もっとも、織田信長でも短期間で一領主から天下統一寸前までいったのだから、大和政権も文化性よりも、軍事、政治外交力でタイミングがうまくあっただけかも?(個人的には、神武東遷2世紀初め→兄弟継承含む→孝霊天皇?大阪や吉備方面連携、進出→崇神天皇 くらいかな?
茨城県よー
青森県の間違いなのでは?
関川先生の箸墓4世紀との時代区分と九州説という結論2点を除いて仰る事は大枠その通りと感じます。しかし、1)伊都国の一族、多分王女の姫巫女が、祭祀王として共立され、斎王の様に、大和に移動し、大和在地勢力と友好的に融合し、2)3世紀中盤の纏向や箸墓に繋がっているという考えを取れば、畿内説は充分成り立つ。結局、1)卑弥呼の移動2)箸墓、巻向の時代区分の2点がポイントと思います。なんせ、中国文献は畿内説。遣隋使について記載された隋書には、実際に、隋から大和に来た記録に、邪馬台国は大和であったと記載。「倭国は、(中略)邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。昔は、楽浪郡境及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」
邪靡堆は魏志倭人伝の邪馬臺の事だと書いてあるだけで邪靡堆=大和とは限らないですよ。旧唐書には倭国と日本は別の国で倭国は日本に併合されたと書いてありますし、新唐書には倭王は代々筑紫城に住んでいて、神武の頃に大和に移り住み天皇を名乗ったともあります。隋書の頃は天皇ではなく倭王と名乗っていて国も倭国なので筑紫城に住んでいたとも考えられますし。
そもそも、三国志に一瞬だけ書いてある国が本当の意味で存在したのだろうか…?
自分で「邪馬台国」と名乗っていたのかはわからないし、どの程度の勢力があったのかもわからないし、どんな形の政権であったのかもわからないけど、少なくとも交流(朝貢)できるくらいの「クニ」と呼ばれる勢力は古代日本にはあったと考えられるって感じなんじゃないかと
范曄後漢書にもあります。書かれたものの物証が見つかれば、すべては事実かどうかは分かりませんが、卑弥呼が居たのはウソではないと分かります。范曄は5世紀の人で倭の五王の遣使から正確な情報を得ていたと推理できますよ。詳しくは「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」をご参照ください
邪馬台国って魏志倭人伝に出てくる中国と国交があっただけの国ですよね。なんで遺跡や遺構について考察してるのか謎すぎる。当時の中国の人が北九州に来て、この国の王は?と問われて地元の権力者が自分だと言っただけの話でしょ。
戦時広報十倍説❕郡から邪馬台国までは1200里。およそ600キロメートルです。??💧😊
今、邪馬台国は阿波推し勢が熱いですよね
と言いますか気持ち悪い。
徳島県北部=粟の国。徳島県南部=長の国。淡路島=淡の国=国産みの島。反正天皇の出生の島。明石海峡から淡路島の東岸を南下して由良に至る。友ケ島水道を渡ると、加太の淡島神社。紀の川の上流に吉野山🗻
邪馬台国は神武東征前の大和王国のことで、女王国は北部九州。魏志倭人伝の「邪馬台国は女王国の都」と解釈しているが、「邪馬台国は女王国の都から水行10日、陸行1月」と解釈したほうが納得できる。
勉強になります。やはり文献解釈より出土物ですよね。でも、出ていないのは地中に眠っているだけといわれると前に進まないね。DNAの研究にも進歩を感じます。工学博士お笑い芸人 遼子規キンジロウ
邪馬台国とは、翻訳された名称である。亜米利加という名前の国が存在しないように、邪馬台国❔という名前の国は存在しない。存在したのは、大和郷と呼ばれたクニであると思われる。😊
そのとうりです
あ~、関川氏ですか。この本読みましたけどメルカリで売りました笑
どっちかに確定してしまったら、本が売れなくなるみたいなことを聞いたことがあります こんなのにも利権があるんだなぁって
そういうのを陰謀論と言います。早く卒業してください。
何とも・・・・・・みみっちい世界・・・・。
九州説でなければ、出版会社がOKしないという話もありましたが、最早、過去の伝来事ですね🎵
@@AKIHIKO-uz7wf 「腐った世の中」の縮図そのものですね・・・・。
畿内でないと日本の出立ちを説明できませんからね😅国策ですね。国立大学の教授に言わしてるのでしょう、纏向の炭素年代測定法を曲げてでもね。金銀さくがんしゅ龍文鉄鏡が出た日田市あたりに卑弥呼がいた様な気がします😊高台で攻められ難いし合図を知らせやすいです。ダンワラ古墳の東側、住居ありますが古墳だった様に見えます。
炭素年代測定法って基礎データが非公開で検証できない年輪年代法の研究を元に校正されていて、根本的な部分があてにならないので日本のは科学的に見せかけているだけですしね。
そうかー私は畿内説派なんですけどね〜。もう「邪馬台国見つけましたはい論争終了!!!!」ってくらいのインパクトを持ってねじ伏せられたい。
式内社みんな無視してる人々どうなんだろう。疑問に思わない所が不思議
延喜式人名帳に書かれた神社、式内社は全国に2861社あるので根拠にならないからです。
@@NK-pl6no さん そうです、そです。神社伝承はほとんど根拠にはなりません。なぜなら、日本神話は8世紀に作られたものだからです。それに従って神社伝承が創られています。詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?」をご参照ください(;^ω^)
唐津とは、カラの津である。同じく、奈良盆地の唐古は、唐子、唐来、カラからの渡来の、倭人である。??💧😊
あいにく知識がないもので結局何が言いたいのかよく分からなかったんですが…邪馬台国畿内説にも結構考古学的な根拠があるってことなのかな…σ(^_^;)
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来都を京都に遷都するまでの長い間歴代天皇がいらっしゃいました。 又邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
卑弥呼のいた邪馬台国は、北九州だと考えます。魏の使者が伊都国で船から降りて、奈良大和に行くとは考え難い。そのまま船で行くのが合理的。また、邪馬台国では黥面文身の風習ありましたが、奈良大和周辺にはその風習はありません。黥面の土偶も宮崎、奈良大和からは見つかっていません。別の国と考えるのが合理的だとおもいますが。
邪馬台=大和 邪馬台国が九州だとしても
九州の方が先進地域だから、九州の方が上というのはナンセンスだ。それは、朝鮮半島は中国に近く、倭より先進国で上というようなもの。それなら、なんで朝鮮南部に前方後円墳があるのか?という話。それと、湿地帯では、鉄器は残りにくいとも聞く。
天皇のお墓偉すぎて逆に掘って大丈夫ってことにならないかしら逆にね
ど、どういうこと
宗教的な問題で難しいと思われる。一応神道の総主だし
仁徳天皇陵墓とかは既に堤の一部は発掘調査されていますよ。
「大丈夫」のあとに「?」を入れないと、読む側に意味がスッと伝わらない。 余計な時間使わせる。
卑弥呼(邪馬台国)は、有明海周辺に在りました。当時は“天皇”という名称は無く、カムヤマトイワレビコ命は祭祀(権威)と大王(権力)を併せ持っていました。第五代孝昭大王から第八代孝元大王の時に倭国大乱が起こり、大王の姉/卑弥呼(娘/台与)が祭祀王に選ばれました。(第二代綏靖大王〜第九代開化大王が欠史八代)聖徳太子は十七条憲法第十七条で「独裁は良く無い」と、初めて大王の上に(推古)天皇という祭祀王の称号(権威)を創り、自分は大王(摂政)として政務/外交を司りました。以来日本は権威/権力を分離しています。推古天皇以前の大王を天皇としたのは記紀です。天皇は男系なので神武天皇/孝昭天皇/孝元天皇、としたのです。私が解っているのはここまでです。
わたしも有明海凄く引っ掛かります、今も昔も現在の道はいにしえより整備されてほぼほぼ古代より変わらないと思います、さてその有明海は佐賀の某町から一直線で福岡は藤崎界隈まで道が続いてますがこの道筋には吉野ヶ里や轟やメタバルや能古島 小呂島や 天皇家の代替わりに必要な食物の最北端地にもなります😂ザックリですが古代史を勉強されてる方はピンとくるはずです🎉
文献は人間が書いたものですから様々な事情から嘘もあります。ですから、考古学や民俗学の成果などの事実で検証すれば、その部分は事実だと推定できるということなんですよ(^_-)-☆邪馬台国問題が解決しないのはこういう科学的な手法を無視して、自分の思う場所が邪馬台国とするだけで、事実による検証など一切興味ないからなのです。非科学的なので、もう学問にはなりません(^_-)-☆科学的な手法を提案していますのでご興味があれば「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください(;^ω^)
邪馬台国なんて魏志倭人伝にないんですよな、なんだってーからはじまる古代史探求
考古学的にみれば三世紀邪馬台国の位置なら既に畿内辺りしかあり得ないで確定してますよ。きちんと資料見ればわかりますが、邪馬台国は七万戸を誇る、卑弥呼が鬼道を支配的に用いていた場所です。当然これは神仙思想、神獣鏡の分布が重要なんですよ。また紀伊半島は丹生の使用痕跡も最大です。また畿内説でも巻向遺跡が邪馬台国という訳ではありませんからね、七万戸とは馬韓国の規模より少し狭い位、つまり紀伊半島が全てでも足りない位なんです。九州その他の説の狭いエリアに拘るのは根本的に間違いです。
コピーのしんじゅう鏡や、無理矢理の神仙思想など関係ないそんなことはとうの昔に無理筋の無理やりだと咎められているでしょう
人が持ち運べるものは決定的な証拠にはならないと思います。遺構や墓なら持ち運びできませんよ。伝承も重要です。箸墓は卑弥呼の伝承ではありません。日本一の直径約150mの巨大円墳は私の知る限り「三柱山古墳」しかありませんよ。詳細は「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」参照してください(;^ω^)
もうひとつ追加します。魏志倭人伝に書かれていることが事実だけならば、とっくに邪馬台国は見つかってますよ。人間の書いたものにはウソがあるかも知れません。ウソかどうかは事実、つまり、考古学や民俗学などの成果と比べれば分かります。倭国が合計約15万戸とありますが、洛陽で10万戸なのですよ。当時日本最大の集落比恵・那珂遺跡群があった奴国が2万戸なのですから、これを超える大集落は日本列島にはないと思いますよ。倭国を大国に見せかけるための潤色と見るべきでしょう(;^ω^)
基本的に考古学的には、ヤマト国は畿内。歴史学的にはヤマト国は北九州。考古学的にヤマトの場所は畿内しかあり得ません。しかし、出雲大社の上官家のトミ家も、「魏書のヤマト国は九州」となっています。つまり、東征による乗っ取りが起きたのが卑弥呼の時代。記紀と万葉集から言って「ヤマタイ」という発音は我が国では使われたことがありません。これも歴史学です。九州卑弥呼勢は、自分たちの国を「ヤマト国である」と嘘をついたそうです。故に大陸から見た卑弥呼勢はヤマトになってしまいました。万世一系などペテンです。これから離れない限り実態に迫ることは難しいでしょう。
それは誤解ですよ!奈良盆地をヤマトと呼ぶのは、纏向遺跡の勢力が倭国を滅ぼした後です。280年に呉が西晋に滅ぼされたので、西晋に朝貢していた女王台与の倭国を滅ぼしたので、邪馬台国の卑弥呼の宗女台与の子供を探して祭祀王にして、後継者にしたので邪馬台(ヤマト)と呼んだと推理できます。紀年銘三角縁神獣鏡がこの仮説の物証のひとつですよ(詳細は「刮目天の古代史」参照)(^_-)-☆
邪馬台国九州説は考古学の総本山奈良が仕掛けたらしいですよ(ソースはnhkの邪馬台国特番)その時九州説論者になれと指名されたのが高島忠平本職からすれば、話題になって予算さえ増えればどこにあるかなんてどうでもいいのでしょう
江戸時代から続く論争なので、そういう方もいるってだけですね。
そういう電波なことを言えばいうほど信頼性は下がります
畿内でないから九州だとは限らない。辰砂採掘遺跡が最大の根拠になるが総合的に見る限り邪馬台国は阿波だったと思う。行程も九州説や畿内説には無理がある。ただし邪馬台国阿波説は古事記の舞台が阿波だったことの理解が先にないと分かりにくいだろう。
阿波説否定では、全くないんだけど、拠点とするには アクセスが悪すぎるし、海難リスク、タイムラグ、が現実的に考えて大きすぎる。 ただでさえ、大陸とのやり取りに海を越えなければならないのに。コントロールセンターがそれでは機能的では無い。逆に もしかしたら、元は阿波だったのがこれらの理由で移転した、というのは考えられると感じる。要は この「論争」が、どこに「着地点」(いつ成立したのか、いつまで続いたのかetc・・・)を求めてるのか、で話が変わってくると感じる。
徳島県=阿波の国=邪馬台国。という等式は、どこか怪しい。奇異なものを感じる。淡路島=阿波の国だったのではないか??💧😊
@@AKIHIKO-uz7wf淡路=阿波路じゃん、淡路は阿波への道に過ぎないよ
大和路。木曽路。大和の中の路です。木曽の中の路です。淡路は、どうでしょうか?淡の中の路です。淡路島そのものであると思われます。
日本扶桑国之圖では九州を上。つまり北に描かれているから古代日本人に取って南だが現代日本人から見れば東である。つまり邪馬台国は近畿にあると思う。
阿波でしょ。阿波風土記が禁書になってるから。古来からわざと九州と近畿で論争させて四国を隠してませんか?
阿波に直径約150mの急造りの卑弥呼の円墳はあるのでしょうか?3世紀前半の北部九州の倭国の人が阿波に来ていますか?
ヤマト(山の入り口)という地名は当時あちこちにあったから混乱するのでしょうね。
動画をアップしていただきましてありがとうございます。
山ばっかの国ですからね
山の津 陸路の市場の事だと思う。
唐古から大和川、巻向までよく歩いていますが、とても大乱があったとは思えません。のどかで大好きです
邪馬台国の位置特定されると困る自治体多そう
全てに言えることだけど、運搬可能な品々の最終的な出土地点=日本列島へ持ち込まれた最初の場所とは限らんよね
攻め滅ぼした国の宝物を奪い取ってきたり、遷都(というか国ごと大移動)の際に新天地に持ち運んだり、(完璧の故事のような)交渉によって譲渡されたりした可能性は考慮されてんのかな?
邪馬台国の文化の特徴は簡単に言えばちょっとウホッってる海人族であるのに対し大和側は完全に陸で生活する専用地域だから
付け加えるなら「常に伊都国で政務を執っている」と書いてあるから、倭人伝に従うなら確実に大和畿内ではないんだよなぁ
鉄鏃や鉄鉾の発掘があればねぇ
邪馬台国について考えるのは楽しいですよね……。少し前まで私もそう思っていました。
この間見たNHKの邪馬台国番組には引っかかる部分が多かったです。前方後方墳を狗奴国勢力の象徴としていましたが、それは根拠のないことでしょう。いかにして邪馬台国近畿説という結論を出すかの過程ではなく、邪馬台国を近畿と仮定したうえで、卑弥呼はグローバル化を重視し、海外から最新のテクノロジーを取り入れ、ローカル勢力の狗奴国(東日本を支配していたと番組内で言っていました。)を圧倒し、日本を統一して、それが大和王権につながったとか、理論展開と結論を急ぎすぎた番組でした。番組の尺の中で大胆で野心的な説を紹介しようとしたのでしょうが、私の目には無理がある内容だと感じました。前方後円墳を邪馬台国の墳墓とも紹介していました。しかも、その建造には魏国の土木技師が関わっているとか……。情報源が気になる内容でした。
私が確実だと思うのは、邪馬台国連合の構成国が九州北部に存在し、魏への連絡線があったということです。
NHKは適当なこと言わないでほしいと思ったけど時間的に急ぐしかなかったのかな?
NHKには膨大な量の、お蔵入りがあるようです。吟味に吟味を重ねると、結果として、中途半端な玉虫色の内容になるようです。やはり、税金💰️?💧の無駄遣いであると思われます。😅
わかったのだーw物分かりが良すぎなのだ
「お前を処刑する」に対しても、botのように受け入れてましたからね…。
日本人が邪馬台国の存在を知ったのは、魏志倭人伝の記述からで唯一の資料といっても良い。その中で伊都国(現在の福岡県糸島市)までの道程は、九州・畿内の両説とも認めています。
さらにこの後、邪馬台国の北に伊都国があるとはっきり書かれています。道程記述でも最後に南へ進む記述もあり、報告書を2か所も間違えるとは考えられません。
これで邪馬台国の位置関係がはっきりし、畿内など論理的にありえません。なぜか畿内説論者はこの話には無視を決め込んでいます。初めから九州もしくはそれ以南と決まっています。
考古学の発掘でも、倭人伝記述にそっくりな住居跡(楼観含む環濠集落)を発見したのは、今もって九州のみという事実。鉄製矢じりの記述に対しても圧倒的な差(鉄器の発見が福岡県720個以上、奈良は弥生時代全般でもわずか4個)。時代がさかのぼる年輪測定法でやっても、この割合は変化なし、または広がるかもしれません。
このように確実な具体的根拠があるのが九州説。ゆえにTH-camの多くが九州説支持です。畿内説が言ってきた根拠らしきものは全て論破されています。三角縁神獣鏡は送ったとされる中国では1枚も発見されておらず、桃の種に至っては倭人伝に「邪馬台国の人々は甲羅や骨を焼き、はいったヒビを見て占っている」との記述があります。いかに畿内説の学者は倭人伝記述を読まず、権威者にヨイショするかだけを考えているようです。日本の考古学者も論理や発掘結果を認めないようでは嘆かわしい。権力の犬にならず、学者として誇りを持ってほしいものです。
同感です。ではなぜ纏向説に固執するのかは、現状の九州説が考古学的に十分ではないから対抗できるという姿勢だと思います。でもこれもおかしな話です。
これだけ暗礁に乗り上げている状態では、何か考えないと解決は望めませんね。
邪馬台国への行程記事が、北部九州から水行三十日・陸行一月などという、普通の里数表現しない理由は何でしょうか?これが邪馬台国へ到達できない理由なのです。
それを、多くの皆さんは魏志倭人伝は正しく書かれているはずだから、正しく解釈すれば正しい答えが得られると考えているようなのです。短里とかいろいろ発明しますが、解決できません。でも、これっておかしくないですか?
魏志倭人伝が何故、書かれたのか、どんな資料をもとに陳寿が書いたのか?目的と内容の信ぴょう性をもっと議論しないから解決しないのだと思いますよ。
実際に検討してみると、人前に出ないとされた、途轍もなく遠い南の海上に居る卑弥呼が、倭国の統治者である女王というのも怪しいです。政治を補佐する男弟が実質的な倭国王で、伊都国が外交・政治の中心地ですから伊都国男王が本当の倭国王だと直ぐに分かります。2度目の魏使張政は魏の正規軍の旗「黄憧」を大夫難升米に渡しているので、彼が倭国軍を動かせる本当の倭国王なんですよ。魏使は邪馬台国まで行く必要もないのです。
ですから、卑弥呼は倭王でも女王でもない媛巫女ですから邪馬台国が大集落だというのも嘘でしょう。倭国をエキゾチックな東夷の女王に統治された大国に見せるための潤色と見るべきです。
そうすると、邪馬台国はどこなのかという話ですが、卑弥呼が存在するのはいいとして、政治的にはほとんど意味がない話になります。
ですから、後は、持ち運べるような遺物ではなく、径百余歩(直径約150m)の巨大な塚(円墳)が見つかればそこを卑弥呼の墓の候補となります。そして卑弥呼が兵士に厳重に護られた場所ですから、城柵のある環濠集落ですね。しかも、北部九州かその周辺にあるはずです。そのような候補地が見つからないなら卑弥呼は架空の人物としてよいと思います。
しかし、その候補地をすでに発見しました。そして、なぜそこに卑弥呼が居たのか、卑弥呼の正体は誰かも考古学や民俗学の成果に基づいて推理しています。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。ご意見など頂けると嬉しいです(;^ω^)
距離も方角も合わない糸島を伊都国としている時点でどちらも恣意的な解釈だと感じる
@@zennin375 さん
違和感は纏向が邪馬台国であるはずという思い込みからではないですか?
壱岐から九州の松浦市と思われる末羅国に上陸するのは自然です。そして次の伊都国が糸島市というのは距離と方角が違うと言っても、魏志倭人伝に男王が居ると書かれており、糸島市の三雲遺跡に王墓がありますから伊都国は糸島市と見るのは考古学的に妥当ですよ。何故距離と方角が違うのかは上で説明したとおり、邪馬台国への行程記事が政治的な理由で改ざんされているからと考えるのが妥当な推論ですよ。恣意的な解釈とは少し異なるのですよ。理解できますか?
理解できないというのであれば、なぜ糸島市の考古学成果を無視するのか説明できますか?男王が居た伊都国はどこですか?(;^ω^)
@@katumoku10 あなたこそ反論する相手は畿内説であるはずだという思い込みがあるように見受けられます。
@@zennin375 それは一部当たっています。なぜならば、絶対にあり得ない畿内説をメディアを使って大衆に認めさせようとする姿勢は学問の冒涜でしかないからですよ。
でも、そういう感情的な話は正解に到達するための邪魔になります。
あなたはもっと根本的な思い込みに気付く必要があるのです。
古代史に謎があるということは文献と事実、つまり考古学や民俗学のなどの学術的な成果と一致しないことから起こっていることに気付いてください。事実を無視して想像するのは空想ですし、それに固執すると妄想です。事実で物事の真偽を確認するやり方が学問の正しい姿勢ですよ。あなたは学術問題と感情の問題の区別がつかないようなので、これ以上議論しても無意味です。もしもまだ続けたいのであれば、拙ブログにコメントしてください。答える価値があるのなら回答しますよ。よろしくお願いします(;^ω^)
当時、日本のいろんな場所に発展していた地域があったのは確かでしょう。
色々人が行き来すれば発掘されるものもあり、時代の流れが解明されていくわけです。
これは、邪馬台国がどこであるかを示すものではありません。
魏志倭人伝に登場する邪馬台国とやらを明らかにするのであれば、魏志倭人伝の記述から離れるのは良くない。
魏志倭人伝を読み解き、その結果導き出される場所を考古学的に調べつくし、そこからなるほどと思えるものが出土したら、そこが邪馬台国でしょう。
と勝手に思っております。
今回の本の筆者の方の講演会の動画がありました。非常に面白かったです。
th-cam.com/video/dA3e14517Ek/w-d-xo.htmlsi=cgP-dAmC6czYHueC
東松浦半島のすぐ北に、加部島と加唐島がある。このような処で生まれたカラの王子様がいたそうだ。加々良から真東に姫島―玄界島のラインが浮かびます。これが志摩国です!💧魏の使節団体の寄港は、加布里湾であり、ここから東南五百里を陸行すると、日向峠―セブリ山―基山🗻のライン上が、イト倭国の領域であることが分かります🎵😊
この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。邪馬台国は、ズバリ個々にありました。関川氏の説と一致します
大福銅鐸は「おおふく」ではなく「だいふく」ではないですか?近鉄大阪線の駅名は「だいふく」です。巻向の2~3キロ南に当たる所ですから、多分ここから出土したんでしょう?
ゆっくりの読み間違いでは?
関川先生の意見がよくまとまっている動画です。
th-cam.com/video/dA3e14517Ek/w-d-xo.htmlsi=yZ-YLOOrnvENYMl2
やはり時代区分の問題が大きいですね。
時代区分をずらして、移動説を取れば、畿内説は充分成り立つ。
邪馬台国の場所は考古学的に証明されないと何とも言えないけど、1つ思うのは「一大卒」は後の「大宰府」に発展継承されたのではと思ったり😅
太宰府は一大率みたいな警察機関じゃなくて完全に軍事基地だから全然違う
それは至極「道理」にかなってると思う。
大卒は、大帥の誤りであると思われます。😊
@@AKIHIKO-uz7wf 卒でなくて率ね。あと誤りでないことは漢和辞典を引けばわかる
@@AKIHIKO-uz7wf 卒ではなく率。漢和辞典で調べれば誤りではないとわかるよ
畿内説の根拠としては大型古墳や銅鏡の数が多いことらしいですが、邪馬台国が日本最大勢力だったとは限りませんし貢物をしていた可能性もあるはずです。どちらの説も解釈次第で論破されてしまうので確定的な証拠が欲しいですね。
奈良だと戦乱の後が無いので説明が付かないのです。
動画ありがとうございます。
れーしさんがおっしゃった、当時先進地域であった大陸との交流、関係の視点が大切だという点は鋭いと思いました。そこからすれば、距離的な問題から九州のほうが近畿よりも先進的であったのではないか、という主張はそれなりに根拠があるとも思いました。そうした観点が歴史学、考古学における物証をどう考えるのかということが、九州説主張が補強される背景にあるのではないかと思いました。
面白いです、文献から想像するのは自由で面白いです。真実はタイムマシンで2700年過去に戻らないとわかりません。合理的に考えると金印が出てきた場所付近でしょ。アメリカの友人でこの邪馬台国を研究している研究者がいました。話を聞いてあげると「The land of Hyuga facing the Pacific Ocean coordinate:32°07'13.1"N 131°23'04.3"E」と解説していました。
出土品の取り扱いには、注意が必要でしょう。量の多少や質だけで首都が決まるなら、アメリカの首都はニューヨーク、トルコの首都は、イスタンブール、オーストラリアの首都は、シドニーになってしまいますよ。首都を決める要因には、もっと別の理由が有る場合も多いですよ。
ハッキリした遺物が出たわけでもないのに学会が近畿説一辺倒だというのがどうにも気がかりですね。
一部の権威者に逆らえずに自由な意見を言えない状況なのではと思ってます。
皇室の祖先が中華皇帝に朝貢してたことにしたいんじゃないのかな。
大和であれば自ずとそうなるから。
おっしゃるとおりです。纏向遺跡と決めつける根拠が教祖の好みや希望以外にないです。考古学的にも文献的にも畿内説はアウトです。権威主義はもはや学問でも科学でもないカルト教団と同じですね( `ー´)ノ
邪馬台国までの距離は1200里と書かれてるし伊都国の南に邪馬台国がある、と書かれてるから、佐賀平野辺りだろ。邪馬台国の年代に鉄器が出てるのも北九州だし、邪馬台国には絹があると記されてるが絹は北九州しか出てない。近畿には絹は出てない。
同感です。その佐賀平野を一望できる日田市 川を下れば大分にも行けます。卑弥呼がいた場所かも知れませんね😊
朝倉市の山田国説を推したい。
山田SAあたりに大きい円墳が出ていて、卑弥呼の墓説がある。
@@shinzaemongolf6753さん その墓ですが、検討しましたが残念ながら卑弥呼の墓ではないです。朝倉市は場所的にはいいのですが、4世紀以降の築造で、時代が合いませんし、三段築工法ですので、急造りのはずの卑弥呼の墓ではないです。また、古墳上に祠がありますが、カグツチを祀る秋葉神社ですから卑弥呼と関係ありません。麻氐良山に卑弥呼=アマテラス女神が祀られているという説ですが、日本神話は8世紀の創作です(詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?」参照)。
卑弥呼の墓は、日本最大の直径約150mの円墳「三柱山古墳」です。詳細は「刮目天の古代史 【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」を参照してください(;^ω^)
@@katumoku10 まさか佐賀市大和町の東山田ですかね。大和の川上に熊襲タケルがそこの有力者を頼って逃げ込んできたという伝承があります。そこでヤマトタケルに討たれました。熊襲討伐の当時、それなりの有力国があったという事でしょまあ。
@@shinzaemongolf6753 さん 残念ですが、違います。朝倉市の長田大塚古墳ですよ(;^ω^)
今回の動画は伊都国が北部九州にあり、邪馬台国が伊都国より遠く離れた畿内大和にあったとは考えられないというものであり、極めて納得のいくものです。箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説も間違いで箸墓古墳は4世紀のものである。動画のすべてが全く抵抗なくみることができた。(『倭人伝の新解釈 新邪馬台国論』著者坂本光久)
考古学により邪馬台国の場所を考えるなら、ベイズ統計学による分析があります。それによると、邪馬台国が福岡県にあった可能性は99.9%、佐賀県は0.1%、奈良県を含むその他の県は0%ということです。
参考資料です。
www.mueki.sakura.ne.jp/zui462-yamataikoku-bayes.htm
邪馬台国が大和でも九州でもそんなたいした問題ではないと最近思い始めました😅
列島のパワーバランスが九州から大和に移るちょうど過渡期に邪馬台国の時代が被るので、それで各人大和説、九州説、間をとり阿波説と意見が割れるだけで😂
魏志倭人伝の時間軸も初期段階は九州のことで、陳寿の時代の3世紀後半は大和のことを書いた可能性もあるわけで、
つまり九州説も大和説もどちらも正解なのでここまで意見が割れて喧嘩になると考えられるのではないでしょうか?😅
一大卒と伊都国、、、
伊都国の官、
爾支(ニキ・ニギ)
とは
ニニギあるいはニギハヤヒでは?
つまり物部氏との関連があると考えています。
物部氏の、古代における九州での拠点が有った所は、
遠賀川流域、壱岐の島、筑後川河口デルタ並びに、筑紫コリドーと筑紫平野、怡土郡、松浦半島などがあります。
そして、魏志倭人伝の邪馬台国への行程は甕棺墓文化圏で、説明するより、
物部氏の影響力が有った所に沿った行程であると見たほうが、
よりピンポイントに通過したところが判かると考えます。
し、
なぜ、そのルートをとったのか、
或いは、そのルートを取らざるを得なかったのか、
類推できると思います。
そして、物部氏と伊都国に関しては、
伊都国の一大率や持衰という、
警察権や検察権と宗教的なマージが、
後の大和政権での物部氏の役割そのものに思えてなりません。
邪馬台国時代、既に、そのプロトタイプがあったと示唆しています。
当時の鉄・青銅器の出土状況から、北九州・丹後半島・福井平野は鉄器文明。
出雲は青銅器文明。
それに比べ近畿の特に纒向は鉄器も青銅器の出土の個数も桁が少ない。
同時代の日本の地域において比較的に言えば、纒向は金石文明か、悪く言えば石器文明といえよう。
金石文明なり石器文明が鉄器文明を凌駕した事はこれまで世界でも一例も確認されていない。
つまり、纒向が北九州、越、丹後など日本海側の先進地域を抑え、魏と倭国の代表として外交するなどあり得ないといえる。
鉄や稲作や疫病という文明にとってグローバルで普遍的であるモノに対応なり、順応するほうが先であり、その競争でもある。
奈良はその時代まだ準備が出来ていないといえる。
グローバル化に対応してから初めて、近畿の人口の多さという強みで主導権を得ることができる。
纏向は平和な商業都市ですから鉄はそれほど必要性は少ないのでしょう。
@@かかしやまだの
そうですね
商売に勤しんて下さい。
邪馬台国時代の纒向の様な後進国に、
倭の外交とか、宗主国とかは務まりません。
軍事力も弱小で
武装解除されているような状況です。
それより纒向は九州方面の土器が全体の1%もないですが、
所払いなり、通行をコントロールしてますね。
疫病の流行のせいですね。
しかし、それだけでは疫病の蔓延による人口の減少は防げなかったようですね。
商業都市で平和でも影響は避けられず、不安定化している様ですね
青谷上寺地遺跡のように脊椎カリエス・結核の人骨が、
纒向で大量に出て来ないことを祈っています。
事実誤認も甚だしい、そもそも纏向遺跡のすぐ近所には鍵唐古遺跡がありますよ。ここは邪馬台国の時代よりはるか以前から銅鐸造っています。
更に言うなら邪馬台国は7万戸ですから奈良=邪馬台国ではありません。あくまで最低でめや畿内一帯が邪馬台国と考えるべき話ですから。
@@トミヤマサキオ
だから何?
とうこかぎ遺跡など知ってます。
他の地域でも出てますね
邪馬台国時代の鉄器・青銅器の出土の質・量はどうですか?
纒向から奈良、更に畿内まで広げても日本海側の先進地域とは比べると歴然とした後進性ですね。
戸数にしても九州は駄目で畿内ならOKというのも意味不明である。
人口なら関東・東海のほうが断然多いよ?
それに対する反例を上げてください。それが全てです。
あなたの様にただ罵倒するだけの全く意味がない、下らないコメントにはウンザリです。
纒向→畿内説→九州を始めとした連合説とは中々華麗に転進してますね?
纒向や畿内説こそ
自生説はもう古い、連合説だとか言って旧帝国陸海軍のように「転進」を正当化するは大概にしてください。
尤もらしそうな事を言っているが、纒向は邪馬台国時代の発掘で最も資金やリソースを他に比べ桁違いに費やしています。
考古学的情報は積み上げていくものだとか嘯いているが、
尤もらしさの情報量も知らないの?
これだけ費やしても、その程度なのは
自生説であろうが無かろうが、
邪馬台国に関する纒向なり奈良の情報の価値は、
他の九州や丹後・高志の邪馬台国時代の情報に比べ著しく情報の価値が低いのである。
解る?
@@かかしやまだの さん 倭国大乱を忘れたらいけません。弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると戦場は北部九州と熊本北部の菊池川流域だったと分かりますよ。詳しくは「刮目天の古代史 鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください(;^ω^)
大陸と交流あったんだから九州説だと普通に思ってたんですけど畿内説の方が有力なんですかね何か意外。邪馬台国がヤマトと読めちゃうのが誤解の元である気がしてならない。そもそも卑弥呼さんが銅鏡だけでなく漢字も輸入して自分たちの歴史書でも書いてくれりゃ良かったのにな
日本書紀と古事記を編纂した頃に大和政権が焚書しているのであったとしても残ってないかも。
@@NK-pl6noそこまで古いのは手を出さないじゃないですか藤原って
古代は楽しい〜😀
先日、「邪馬台国は常陸にあった」と云う面白い解釈に出会って、更なる古代カオスに捕らわれてしまった〜
近畿よりはよほどマシですね。
少なくとも万二千里を長里としたら、近畿は飛び越えてしまいますから。
@@松の葉-q2x 狗奴国=毛野国(群馬栃木辺り)
だとすると面白い😅 そういや関東も結構古墳有るので当時邪馬台国の勢力範囲だったとしてもそんなにおかしくない😅
阿波=呼巴(a pa)
魏志には周辺国として登場しますので、阿波説は無理筋です
ヤマトなんて古文に詳しければ山の入口くらいの意味にしかならないって知ってるはずだから、ヤマトなんて今でもあちこちにあるしいくらでもあったんやで?イズモなんて藻がたくさん取れる海くらいの意味だし、マツウラなんて舟を待つ浦くらいの意味でいくらでもあった。
ナ国?菜か魚がよく取れる地域ですか?くらいの意味。ただ単に後の世で大きくて有名な地方がそれを名乗り続けただけの話。古典や地理に詳しければいくらでも解釈できるのに、日本史だけの人はそんな事考えもしないよな。
邪馬台国に変わって、統治した政権は、それなりに大きいとされているから、九州?とするには難しいが、金印が出土されたから、どこなのでしょうね。
旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」があるので、邪馬台国と畿内大和王権は別の国(王朝)でしょうね。新唐書には日本国は倭国の別種なりとあります。白村江で大敗した倭国は衰退し、大和王権が倭国に取って代わって倭王として統一したのです。新唐書には、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されているので、元々は倭と後の日本は同じ一族だと思います。
おっしゃるとおりです。新唐書にあるとおり「日本は古の倭の奴国」だったのです。つまり、元々、「王年代紀」にある初代王天御中主の子孫の歴代奴国王が支配していた倭国を別の勢力、つまり伊都国王師升(奴国宮廷楽師)に倭国が奪われたのですが、倭国大乱があり、卑弥呼が登場して、最終的に狗奴国(旧奴国)が倭国を取り戻してヤマト王権が成立したということなんですよ。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください(;^ω^)
九州説の方は、
太宰府羅城が邪馬台国時代のA.D.240年に、版筑によって出来た。
との確定作業なり新たな発見に考古学的リソースを集中投入したほうが良いと思いませんか?
A.D.240年が確実であれば、魏国の使者、特に張政は軍事顧問団として、倭に来たことは確実と目されるので、
彼ら魏の軍事顧問団が版築での羅城という大要塞の建設に関与している可能性は非常に高まる。
そうなれば、羅城は対クナ国での、邪馬台国連合の台与ら首脳部と、張政ら軍事顧問団の大本営と考える事が自然であると思う。
クナ国が熊本平野以南としたら、戦闘の最前線からある程度離れ、攻勢限界点近くで、基山という監視するにはもってこいの地点があり、
筑紫コリドー自体が、要害の地である、
太宰府羅城のエリアは、
大本営の設置ポジションとして理想的であろう。
そして、魏国から軍団の派遣は望めない中、
張政ら軍事顧問団のミッションのレッドラインは、
同盟国、並びに最高為政者(祭祀王)の台与の防衛である。
から、邪馬台国連合と狗奴国(1國?)が、がっぷり四つで戦争するなら、
また、軍事顧問団が倭の地勢や軍の運用なりに不案内ならば、
より、積極攻勢的な戦略アドバイスなりコンサルティングしづらい。
そうなると、支那の防衛施設としてはオーソドックスであり普遍的でもある版築による防衛ラインである、
羅城を含めたディフェンシブな戦略を提案し、それが採用される事も十分有りうる。
羅城が邪馬台国時代の物であれば、
個人的には不弥國の勢力圏辺りか、伊都国の可能性が高いと思う。
邪馬台国連合での太宰府羅城の働きが判れば、邪馬台国が何処に有るかとかは自然と分かって来ると思う。
纒向論者などは箸墓古墳の造営に、張政が関与しているなどという戯言を主張している体たらくぶりです。
が、
だが、九州説がある程度纏まらなければ、そのようなフェイクニュースをばら撒き徐々に影響力を付け、邪馬台国は纒向であると押し通す戦略で有り(ロシアや支那と同じやり方でありプロパガンダである)、また危険性も非常に高まっている。
ここは、危機感を持って対処しなければならないのではないでしょうか。
纒向の内輪の、なあなあの鑑定なりを咎めたり、反例を挙げる事も価値はあるが、
九州説みずから、太宰府羅城の築年などの鑑定の確定なり、新たなる発見を、利害関係が全く無い第三者機関を交え行うことを提案します。
統制国家の支那でさえ、第三者機関であるマックス・プランク進化人類学研究所などを入れ、進めている案件もある。
そのような第三者機関を入れての検証のほうが信頼を寄せられるのは、もちろんの事、
内輪の、なあなあでやっている所に、より、反論として正当性も出るし、プレッシャーとなろう。
そして、太宰府羅城が邪馬台国時代の対クナ国での、大本営なり、詰の城の大要塞であると確実視されれば、
実質、九州以外の邪馬台国説は終焉を迎えるのです。
もし九州以外が邪馬台国であると仮定するならば、
勢力圏から外れた九州に有り、
しかも九州の内陸側に大本営なり、
日本古代史上例がない程の規模の詰の城の大要塞を築くというのは、
合理的な考察なり根拠から全く有り得ないからだ。
私も羅城の考古学的な位置づけを知りたいのも有るが、
九州説の皆さんも、何処が邪馬台国か取り敢えずは置き、
羅城の邪馬台国時代の働きの解明に、
城郭考古学や考古学的リソースの集中投入、
並びに、利害関係の無い第三者機関を入れて行う事に賛同しませんか?
関係各所には、太宰府羅城の考古学的重要性に鑑み、尽力頂ければと思う所存です
情報公開請求の一環として宮内庁管理の墳墓も調査の対象になるかどうか
言語学の分野だとふつうに九州説なんですよねw
吉野ヶ里は、邪馬台国と密接な関係があったとされていますが、4世紀に滅んだ直後、近くに櫛田宮が創建されており景行天皇、ヤマトタケル父子が祀られております。おそらく九州の熊襲、土蜘蛛退治で吉野ヶ里を滅ぼしたのでしょう。佐賀市大和町大願寺地区には大和の川上に熊襲健が逃げ込んできて川上健と改め、そこでヤマトタケルに討たれたと伝わってますよ。
私は大和町の東山田という地名が古くからあり、そこが邪馬台国ではないかと思っています。邪馬台国(山田国)
山田国が邪馬台国なのですか?卑弥呼の墓はどこにありますか?
3世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、九州は景行天皇の遠征ルート上に矢戦さの痕跡が見つかっていますので、史実のようです(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。だだし、同時期に、崇神天皇紀の四道将軍のルートにも同様の戦闘の痕跡が見られます。そして景行天皇の孫仲哀天皇は成務天皇40年に30歳で皇太子になっていますので、仲哀天皇の父ヤマトタケルが死んで38年後に生まれた勘定になります。
つまり、崇神天皇から応神天皇が即位するまでの約350年の天皇の話が3世紀後半の史実を引き延ばして創作したものなのです。それでは史実はどうなっているのかを考古学の成果で調べると纏向遺跡の外来土器に東海のものが約半数あります。先代旧事本紀から東海を支配する尾張王は、物部氏と同様にニギハヤヒの子孫です。ですから、景行天皇の九州遠征とされた話は実際には尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)の史実でなのす。九州遠征後にヤマトタケルの副将軍として東海道を遠征し、駿河湾で水死したという伝承がありますので、建稲種命はヤマトタケルのモデルでもあります。墓も推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。
ということで、卑弥呼の死後の話だったのです。卑弥呼が居たと推理した宇佐市で、径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳{三柱山古墳)を発見しています。詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」ご参照ください。よろしければ拙ブログにご意見ください(;^ω^)
弥生時代の重要な貢物の絹は福岡と佐賀、長崎でしか発掘されてない。
畿内には中国との密接な関係性を証明出来る発掘品が全くない。神獣鏡は国産で桃の種は卑弥呼には全く無関係で動物の骨を焼いて占うと書いてある。
畿内説は、九州までもの地域が畿内に含まれると言い出しそう。畿内説を唱える人の年齢層は60代以上が多いですね。
既に、
畿内自生説はもう古い!
北部九州勢力をはじめとする、各地の勢力により、畿内で共立された!
などと、
旧帝国陸海軍のように
「転進」して、
畿内連合説とか
畿内共立説などと言ってますよ
考古学という積み上げたモノは間違わない!
などと宣い、
官僚的無謬病に罹患し、
かつ、
パーキンソンの法則の
行動パターンそのものなのです
原付で纏向遺跡行ったらただの空き地だた。
「考古学から」とあるのにこんな事言うのはあれだが、記紀にこれといった内容が無いのはやっぱり気になる
当時の人にとっては取るに足らないことだったのか、それとも大和王権勢力じゃなかったのかな?
『張政なんて倭国の国同士の争いの調停までしてくれたわけですから』< してねーよw
日本の考古学の最大の問題点は、科学的な正しさより人間関係を重視して曲解ばかりしているという点にありますからね。今回紹介の本の著者も、考古学界にどっぷり浸かっているというより、1歩離れたような立ち位置の方だから言えたようなところもあると思います。
日本の考古学も、早くまともな学問になってもらいたいものです。
この本に関しては本職の考古学者が久方ぶりに九州説の本を出すということでちょっと話題になりましたね。
弱点もあって、例えば恐らくですが著者は箸墓古墳の年代をかなり遅く(3世紀末?)見ているらしく、そう考えている研究者はほぼいないのではないかな?
畿内説の第一人者である寺澤薫先生も箸墓の築造年代は280年から300年頃とおっしゃってますが・・。
どっちも「異端」を自認してる方たちじゃないですかw
関川先生は最初の学術論文「纏向」を石野先生と共著された方、寺澤先生は現纏向研所長。現場の知見が深いこの二人の見解を軽んじてはいけないと思います。
心配しなくても関川先生も寺澤先生も軽んじてる人なんかいませんよ。
ここ20年くらいで放射性炭素年代測定法や年輪年代測定法は考古学の前提となってて、石野先生らの纒向・箸墓3世紀説を支持する側が圧倒的だよねって話です。
それより関川先生と寺澤先生のどちらもいい本なのでみんな買ってください! それを読んで判断しよう!
@@shou-sho さん 両方読んでいますが、関川先生の纏向遺跡は邪馬台国ではないという御意見の方が説得力がありますよ(^_-)-☆
加えて、倭国の玄関口の北部九州の卑弥呼の時代の土器が纏向遺跡で出土していません。この事実は重要です。纏向の前方後円墳で行われた祭祀に倭国の人間が参加していないのですよ。そして3世紀の終わりごろに纏向遺跡でヤマト王権が成立していますので、九州の邪馬台国を滅ぼした狗奴国と考えるのが妥当です。前方後円墳の属性は北部九州・吉備・山陰などですから、日本は古の倭の奴国だったのです。纏向遺跡は旧奴国=狗奴国なのです。范曄後漢書からも九州東部にあった女王国から東へ渡海千里で狗奴国に至るとあります。范曄は倭の五王の遣使から情報を得て書いたと分かります。女王国=邪馬台国は宇佐です。卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の巨大円墳「三柱山古墳」がありました。卑弥呼に関わる遺構・遺物や伝承も数多くありますよ。詳細は「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」をご参照ください(;^ω^)
そもそも卑弥呼の鏡は魏の皇帝が「邪馬台国と魏の関係を他国に知らしめる為に配れ」と言ってくれたのだから、鏡が見つかるのは「邪馬台国以外のもらった国」の方のはず。だから、むしろ鏡が見つからない場所の方が邪馬台国なんだと思います。卑弥呼自身が使うのならば(他の鏡との区別から)100枚なんてたくさんの低品質の鏡ではなく1枚の高品質の鏡をもらったはず。なので鏡は何の考古学的な証拠にはなりえません。
橿原考古学研究所の坂靖さんも九州説だし、一部の人が言うように考古学者が全て畿内説なわけはないんですよね。
それは健全なことだと思います。
95%以上は畿内説ですよ。九州説を言う人は極一部。まあ、そこは言論の自由なので、少数派の意見も尊重しないといけないです。
@@Mr.Nobody-rk3eo
いやいや、魏志倭人伝はふつーに読めばふつーに邪馬台国が阿波(徳島)にあったと解釈できます。
陳寿がウソを書いたりややこしく書いたりする理由がまったくない。
★まず水行とは陸地に沿って舟でいくということです。河に限りません。それは魏志倭人伝の最初の部分「帯方郡から倭に到達するには海岸に従って水行」という表現で理解できます。
★また魏志倭人伝の時代の古代中国では、渾天儀、周髀算経の一寸千里法といった測量技術がすごく発達していて、ピタゴラスの定理も編み出されており、地球上の一点から一点の直線距離をほぼ誤差なく計測できていました。
魏志倭人伝の計測において、帯方郡ー釜山(7000里)、釜山ー対馬(1000里)、対馬ー壱岐(1000里)などは、現在のGoogleアースを用いた計測値とほぼ誤差が無く正確だった事が証明されています。
1里=約75m
阿波(徳島)を邪馬台国とした場合の、帯方郡ー邪馬台国(12000里)は、現在の計測でも正確だったと証明されています。
また後漢書(東夷列伝・倭条)において、阿波(徳島)を邪馬台国とした場合、狗邪韓国ー邪馬台国(7000里)、楽浪郡ー邪馬台国(12000里)も、現在の計測でも正確だったと証明されています。
つまり魏志倭人伝の頃の測量技術は現在と遜色なく正確だったとすでに証明されているわけです。
畿内説・九州説派は、この計測の正確さを無視して、距離方角の記述を何ヵ所も恣意的に改ざんしているので話になりません。
★これらより邪馬台国は阿波(徳島)にあったと考えるのが一番、整合性が取れます。
畿内説九州説では、魏志倭人伝の距離方角の記述に何ヵ所も恣意的な訂正を加えてむりやりに場所を導き出しています。
しかし阿波説(徳島)では【投馬国】の記述の一カ所だけを変えるだけですべてに整合性が取れます。
距離方角をイジる必要が一切ない。
投馬国の記述にせよ魏志倭人伝の元ネタとなった「大平御覧」を参考にして【又南至投馬国】を【又南至(於)投馬国】に変えるだけ。
阿波説は(於)を加えるだけですべてに整合性が取れるのです。
★あと日本神話に出てくる有名神単体の延喜式神社(大元中の大元の元宮)のほとんどが阿波に集中しているのも見逃せません。
つまり神話の神々が活躍した舞台は阿波という事になります。
★さらに天照大神が降臨され憑依される大嘗祭の麁服(アラタエ)の儀式。
麁服(アラタエ)とは阿波の剣山の麓の忌部の畑で取れた麻で織った織物を指します。
この織物でしか天照大神は憑依されない。
つまり高天原の神々から繋がる天照大神は阿波の剣山におられそこからしか今上天皇のもとに行かれないということです。
★延喜式神社の状況証拠と魏志倭人伝の記述から推定する邪馬台国の場所は、阿波に一番、整合性があります。
@@ラッキー純-h2x阿波説では方角はいじる必要がないんですね。阿波説では伊都国をどこに否定しているんでしょうか?伊都国は邪馬台国の北にある国で徳島よりも北にある場所ですよね?
@@ラッキー純-h2x 阿波には七万戸もの国は収まらないし、神仙思想の痕跡も少ないから候補地としてはあまりにも弱いですよ。重要な場所ではあってもあくまでも倭の一国にしか過ぎないでしょう。
@@NK-pl6no
伊都国は行橋ですね。
単純に歴史学的にも畿内説だと東征やら書いた意味がよく分からんし、地理的にも国同士の関わりがもっと希薄になるわで現在のような日本に辿り着く歴史にならないと思う
面白い!!
同時代の九州と比べる。なるほど(´・ω・`)
阿波説はもっと考古学的証拠が無いですけど、どんな風にこの動画を観るのかな?
あ!アワセツの人は興味無いか(笑)
あんだけ出土している三角縁神獣鏡に魏の暦が書いてあるのに、魏との関りが薄いってのは流石に難癖にしか感じないんだけど・・・
魏志倭人伝を信じるなら超高確率で九州に邪馬台国があるとは思いますけど
そもそも中国の史書の人物情報や地域情報は高確率で誤りがあるのが通説なので
逆に文献上は九州にしか考えられないって事は逆張りで九州ではあり得ない(記事に間違いが必ずあるので間違いの情報をもとにすれば九州になるならば正しい情報では九州はありえない)って事になりそう
個人的には熊本北部4割、大和4割、その他2割くらいで考えてます
歴史の検証に忖度、空気など全く関係なく、むしろ邪魔。
そのような仲良し・保身・利権・排除の土台こそがプロとは言えない日本の特に学者、学会のくだらないと思われる大きな要因。
世界中それ!!
何で「ニュートラルな、真摯な、考察」が出来ないのか? むしろ、「邪魔する」のが目的、と言える。
ヤマトの発音は九州地方の古語で故郷という意味だろう。神武帝は近畿に入植してここを故郷「ヤマト」にすると宣言。魏の帯方郡に入朝したナシメらが帯方郡の役人に国名を尋ねられてまだ部族社会で国名の概念がわからず、青い海、空、山がわが故郷「ヤマト」ですたぃと答えて~どうやらヤマドゥ?が主語らしいと邪馬台国と当て字にされた魏志倭人伝著者の陳寿はその辺が曖昧と気づき文字の簡略化もあるが大半を女王国と記した。
大先生には逆らえない、近畿学閥の奈良ありき論。
埼玉県ってことにならないかな?何もないんだよね😅
天皇や天皇の家族、豪族が亡くなった時は各地から大量の供物が捧げられて一旦は一箇所に集まるんだろうけど、
古墳を作りに各地からたくさんの人々が訪れ、帰る際に古墳の周りに埋めた供物を盗んで持って帰ってまた各地に散らばるんだろうと、中学の社会の先生が笑いながら冗談で言ってたのを思い出した
農業生産力の点から、天然稲作の最適地で(魏志倭人伝の)7万余戸を養えるのは古代では北陸古代越國(越後の上越頸城糸魚川~越前)の中心だった越前(福井平野、加賀能登は越前から分国)だとの説が興味深いです。(TH-camr ヤマタノオロチさん説)
嶺南敦賀は大陸への窓口でツヌガラアラシトや神功皇后。若狭湾を挟むと、古代大丹波こと三丹(丹波、但馬、丹後)の2世紀の鉄器出土数は日本一。近江(琵琶湖)、丹波の川の流れ(水系)で日本海側から畿内、瀬戸内への流通伝播があったかとおもわれます。
のちに継体天皇を輩出する越前や、近江丹波の水系を支配した息長氏は神功皇后の出自。
現代人の感覚からすると、福井県(越前、若狭)、滋賀県(近江)、京都府(丹後、丹波半分、山城)、兵庫県(但馬、丹波半分、播磨、摂津半分)となりますが、古代の大まかでも文化圏や行政区分は現在の都道府県単位とは殆ど別物だという地域として、北近畿(東山陰~西北陸)がその好例であるということを常に意識していないと、何か重要な事を見落としてしまう氣がします。
邪馬台国や倭国は海南島に近い風俗で、温暖ではだしで生活でき、年中生野菜も食べられるとありますが、当時の越前は暖かかったのですか?(@_@)
それから日本書紀ですが、神話も含めて8世紀に創作したものです。勝者の歴史書なので、すべて事実ではないのです。物証が見つかればその部分は事実と考えられるということです。詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?」ご参照ください。
奈良県の黒塚古墳からは大量の鉄製品、武具が出土しています。鉄剣3本、鉄槍14本、鉄鏃280点。
そして中空のパイプ構造で、明らかに大陸製の「U字型鉄製品」も出土しています。
用途不明となっていますが、これは魏志倭人伝で魏が贈った「黄幢」ではないかという人もいます。少なくとも当時の日本では作れない非常に精巧なものです。
関東人なのでどちらでも良いのだけど、見つかったからそこがもらったクニだと言う考えも、見つかったからと言ってそこがもらったクニだとは限らないという考えも同意出来る。
鉄槍や甲冑は魏志倭人伝に記載がないので、むしろ邪馬台国ではないという裏付けになりそうですが
北部九州、丹後、福井平野のほうが邪馬台国時代の鉄器多いのではないですか?
たとえ卑弥呼の金印が出土したとしても、人が容易に持ち運べるものは決定的な証拠になりません。決定的な証拠は径百余歩(直径約150m)の日本一の巨大円墳でしょう。そして、卑弥呼の墓だと裏付ける城柵のある環濠集落の遺構や卑弥呼に関する遺物、民間の伝承も証拠に数えることができるでしょう。箸墓の伝承は卑弥呼のものではないですね。すでに宇佐市で卑弥呼の墓の有力候補「三柱山古墳」を発見しています。卑弥呼に纏わる話もたくさんありますよ。よろしければ「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」をご参照ください(;^ω^)
13:50 九州にある近畿系の土器、纏向の様子や遺伝学言語学あたりから考えると近畿からの移民って感じがする。寒期と倭国大乱で人口が減った九州に寒期の影響を受けず人口が増えた奈良人が入植したのかな。言語学クラスタが魏志倭人伝は近畿系の言語って言ってたし卑弥呼の倭国は近畿系主体の九州国家っていうのが自分的には腑におちる。
倭国大乱の頃に北半球ほぼ全域で、極端な気候の寒冷化が始まり世紀単位で続き(水月湖などデータ)ますが、
より南方の温暖な九州より、比較したら北方の奈良ほうがより、極端な寒冷化の影響が深刻だと思いますが?
どのような、合理的な主張なのでしょうか?
良ければ、教えて下さい。
多分、古墳を発掘できても大したものは出てこないんじゃないかなあ。
1000年以上も前のものなんて盗掘されまくってるだろうし。
墓誌文化も無いし、何が出たら決定的な証拠になるんだろうか 金印とか?
考古学者の食い扶持は出てくる
@@yskztkhs7986 座布団一枚
1200里×10=12000里。ですね🎵😊
奈良であれほどの遺物が出た時点で、もう邪馬台国がどこだろうが、どーでもよくなってる気がするけどな。
邪馬台国じゃなくても、巨大王国があったのは確か
文献だけで、あーだこーだ言うのは、不毛でしかないよね。江戸時代からやってるからね。
なので、頑張って「発掘調査」して欲しいところです。
出土した事実から考察してほしいんだよね。
古墳掘っても何の意味もないというのは最近話題になった古墳で明らか
おっしゃるとおりです。文献は人間が書いたものですから、いろいろな事情で嘘がある可能性もあります。物証が見つかればその部分は事実と考えられますね(;^ω^)
ほとんどの皆さんは魏志倭人伝を信じて、ただしく解釈すれば正しい結果がえられると思い込んでいますが、科学的ではないですね(^_-)-☆
卑弥呼の墓は宇佐市で発見しています。卑弥呼に関する物証や伝承など数多くありますよ。なぜ宇佐に邪馬台国があったのかも考古学の成果などから検証しています。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(;^ω^)
@@yskztkhs7986 富雄丸山古墳は空白の4世紀を考察出来る大きな意味がありました。畿内の矢田丘陵周辺にはあれ程の物を作れる技術があったと判ったのは極めて大きい。
間を取って四国説および阿波説。
唐古鍵遺跡人口検索・・・おおよそ900人・・・7万戸になるのは江戸時代???加筆くせーーー
邪馬臺は、琅琊郡の南の島の意味だから・・・後漢書の九州島の錯乱
邪馬壱国は、応神朝の糸島の志摩と伊勢志摩の・・・壱は2つある意味・・・
でも、母丘検伝は見てるようなので、248年に帯方郡から返礼の使者は来たのかも?しれませんけど。
もっとも・・・徐福を呉志から倭に移動させたので馬韓の卑彌國も倭に移動したんでしょうね。
正史三国志の記述には、文身(加筆の意味)が、多く、日食の無い年に日食の記述が多く存在するので、魏志4巻の247年の遣使の記述が、正解かも?神功記39年にもその年は247年と指摘しているので・・・何をするにしても、文献がいい加減だと考察のしようもない。w
古代史よくわからないが、日本書紀や古事記と朝鮮の記録、遺物繋ぎ合わせると何となく弥生時代以降の大和政権の成長が掴めるような気がする。神武東征がどこまで真実かわからないが、葛城や磯城氏などの初期大和政権の系図や外戚研究も説得力あるので欠史八代も捨てがたい。吉備や出雲地方の伝承には、孝霊天皇あたりが出てくるのと、墳墓や円筒埴輪?ルーツが吉備あたりとの話も聞いたので、孝霊天皇ぐらいから後進的だった大和が急速に力つけ、箸墓や纏向遺跡に繋がっていったのか?ただ、欠史八代の天皇陵がそれにふさわしいのが見当たらないのが不思議。時代的には箸墓周辺の初期古墳あたりになるのならわかるがそのように記録されていない。まともな墳丘墓がない後進地域との大和が邪馬台国とは到底思えないが、それでも突然強国化したのは何故か。考古学者は邪馬台国論争だけでなく、初期大和政権の成立に応える説明、研究をしてほしいと思います。もっとも、織田信長でも短期間で一領主から天下統一寸前までいったのだから、大和政権も文化性よりも、軍事、政治外交力でタイミングがうまくあっただけかも?(個人的には、神武東遷2世紀初め→兄弟継承含む→孝霊天皇?大阪や吉備方面連携、進出→崇神天皇 くらいかな?
茨城県よー
青森県の間違いなのでは?
関川先生の箸墓4世紀との時代区分と九州説という結論2点を除いて
仰る事は大枠その通りと感じます。
しかし、
1)伊都国の一族、多分王女の姫巫女が、祭祀王として共立され、斎王の様に、大和に移動し、大和在地勢力と友好的に融合し、
2)3世紀中盤の纏向や箸墓に繋がっているという考えを取れば、
畿内説は充分成り立つ。
結局、1)卑弥呼の移動2)箸墓、巻向の時代区分の2点がポイントと思います。
なんせ、中国文献は畿内説。
遣隋使について記載された隋書には、実際に、隋から大和に来た記録に、邪馬台国は大和であったと記載。
「倭国は、(中略)邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。昔は、楽浪郡境及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」
邪靡堆は魏志倭人伝の邪馬臺の事だと書いてあるだけで邪靡堆=大和とは限らないですよ。
旧唐書には倭国と日本は別の国で倭国は日本に併合されたと書いてありますし、新唐書には倭王は代々筑紫城に住んでいて、神武の頃に大和に移り住み天皇を名乗ったともあります。隋書の頃は天皇ではなく倭王と名乗っていて国も倭国なので筑紫城に住んでいたとも考えられますし。
そもそも、三国志に一瞬だけ書いてある国が本当の意味で存在したのだろうか…?
自分で「邪馬台国」と名乗っていたのかはわからないし、どの程度の勢力があったのかもわからないし、どんな形の政権であったのかもわからないけど、少なくとも交流(朝貢)できるくらいの「クニ」と呼ばれる勢力は古代日本にはあったと考えられるって感じなんじゃないかと
范曄後漢書にもあります。書かれたものの物証が見つかれば、すべては事実かどうかは分かりませんが、卑弥呼が居たのはウソではないと分かります。范曄は5世紀の人で倭の五王の遣使から正確な情報を得ていたと推理できますよ。詳しくは「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」をご参照ください
邪馬台国って魏志倭人伝に出てくる中国と国交があっただけの国ですよね。
なんで遺跡や遺構について考察してるのか謎すぎる。
当時の中国の人が北九州に来て、この国の王は?と問われて地元の権力者が自分だと言っただけの話でしょ。
戦時広報十倍説❕郡から邪馬台国までは1200里。およそ600キロメートルです。??💧😊
今、邪馬台国は阿波推し勢が熱いですよね
と言いますか気持ち悪い。
徳島県北部=粟の国。徳島県南部=長の国。淡路島=淡の国=国産みの島。反正天皇の出生の島。明石海峡から淡路島の東岸を南下して由良に至る。友ケ島水道を渡ると、加太の淡島神社。紀の川の上流に吉野山🗻
邪馬台国は神武東征前の大和王国のことで、女王国は北部九州。魏志倭人伝の「邪馬台国は女王国の都」と解釈しているが、「邪馬台国は女王国の都から水行10日、陸行1月」と解釈したほうが納得できる。
勉強になります。やはり文献解釈より出土物ですよね。でも、出ていないのは地中に眠っているだけといわれると前に進まないね。DNAの研究にも進歩を感じます。工学博士お笑い芸人 遼子規キンジロウ
邪馬台国とは、翻訳された名称である。亜米利加という名前の国が存在しないように、邪馬台国❔という名前の国は存在しない。存在したのは、大和郷と呼ばれたクニであると思われる。😊
そのとうりです
あ~、関川氏ですか。
この本読みましたけどメルカリで売りました笑
どっちかに確定してしまったら、本が売れなくなるみたいなことを聞いたことがあります こんなのにも利権があるんだなぁって
そういうのを陰謀論と言います。早く卒業してください。
何とも・・・・・・みみっちい世界・・・・。
九州説でなければ、出版会社がOKしないという話もありましたが、最早、過去の伝来事ですね🎵
@@AKIHIKO-uz7wf 「腐った世の中」の縮図そのものですね・・・・。
畿内でないと日本の出立ちを説明できませんからね😅国策ですね。国立大学の教授に言わしてるのでしょう、纏向の炭素年代測定法を曲げてでもね。金銀さくがんしゅ龍文鉄鏡が出た日田市あたりに卑弥呼がいた様な気がします😊高台で攻められ難いし合図を知らせやすいです。ダンワラ古墳の東側、住居ありますが古墳だった様に見えます。
炭素年代測定法って基礎データが非公開で検証できない年輪年代法の研究を元に校正されていて、根本的な部分があてにならないので日本のは科学的に見せかけているだけですしね。
そうかー
私は畿内説派なんですけどね〜。もう「邪馬台国見つけましたはい論争終了!!!!」ってくらいのインパクトを持ってねじ伏せられたい。
式内社みんな無視してる人々
どうなんだろう。
疑問に思わない所が不思議
延喜式人名帳に書かれた神社、式内社は全国に2861社あるので根拠にならないからです。
@@NK-pl6no さん そうです、そです。神社伝承はほとんど根拠にはなりません。なぜなら、日本神話は8世紀に作られたものだからです。それに従って神社伝承が創られています。詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?」をご参照ください(;^ω^)
唐津とは、カラの津である。同じく、奈良盆地の唐古は、唐子、唐来、カラからの渡来の、倭人である。??💧😊
あいにく知識がないもので結局何が言いたいのかよく分からなかったんですが…邪馬台国畿内説にも結構考古学的な根拠があるってことなのかな…σ(^_^;)
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来都を京都に遷都するまでの長い間歴代天皇がいらっしゃいました。
又邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
卑弥呼のいた邪馬台国は、北九州だと考えます。魏の使者が伊都国で船から降りて、奈良大和に行くとは考え難い。そのまま船で行くのが合理的。
また、邪馬台国では黥面文身の風習ありましたが、奈良大和周辺にはその風習はありません。黥面の土偶も宮崎、奈良大和からは見つかっていません。
別の国と考えるのが合理的だとおもいますが。
邪馬台=大和 邪馬台国が九州だとしても
九州の方が先進地域だから、九州の方が上というのはナンセンスだ。それは、朝鮮半島は中国に近く、倭より先進国で上というようなもの。それなら、なんで朝鮮南部に前方後円墳があるのか?という話。それと、湿地帯では、鉄器は残りにくいとも聞く。
天皇のお墓
偉すぎて逆に掘って大丈夫ってことにならないかしら
逆にね
ど、どういうこと
宗教的な問題で難しいと思われる。一応神道の総主だし
仁徳天皇陵墓とかは既に堤の一部は発掘調査されていますよ。
「大丈夫」のあとに「?」を入れないと、読む側に意味がスッと伝わらない。 余計な時間使わせる。
卑弥呼(邪馬台国)は、有明海周辺に在りました。
当時は“天皇”という名称は無く、カムヤマトイワレビコ命は祭祀(権威)と大王(権力)を併せ持っていました。
第五代孝昭大王から第八代孝元大王の時に倭国大乱が起こり、大王の姉/卑弥呼(娘/台与)が祭祀王に選ばれました。
(第二代綏靖大王〜第九代開化大王が欠史八代)
聖徳太子は十七条憲法第十七条で「独裁は良く無い」と、初めて大王の上に(推古)天皇という祭祀王の称号(権威)を創り、自分は大王(摂政)として政務/外交を司りました。
以来日本は権威/権力を分離しています。推古天皇以前の大王を天皇としたのは記紀です。天皇は男系なので神武天皇/孝昭天皇/孝元天皇、としたのです。
私が解っているのはここまでです。
わたしも有明海凄く引っ掛かります、今も昔も現在の道はいにしえより整備されてほぼほぼ古代より変わらないと思います、さてその有明海は佐賀の某町から一直線で福岡は藤崎界隈まで道が続いてますがこの道筋には
吉野ヶ里や轟やメタバルや能古島 小呂島や 天皇家の代替わりに必要な食物の最北端地にもなります😂ザックリですが古代史を勉強されてる方はピンとくるはずです🎉
文献は人間が書いたものですから様々な事情から嘘もあります。ですから、考古学や民俗学の成果などの事実で検証すれば、その部分は事実だと推定できるということなんですよ(^_-)-☆
邪馬台国問題が解決しないのはこういう科学的な手法を無視して、自分の思う場所が邪馬台国とするだけで、事実による検証など一切興味ないからなのです。非科学的なので、もう学問にはなりません(^_-)-☆
科学的な手法を提案していますのでご興味があれば「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください(;^ω^)
邪馬台国なんて魏志倭人伝にないんですよ
な、なんだってー
からはじまる古代史探求
考古学的にみれば三世紀邪馬台国の位置なら既に畿内辺りしかあり得ないで確定してますよ。
きちんと資料見ればわかりますが、邪馬台国は七万戸を誇る、卑弥呼が鬼道を支配的に用いていた場所です。
当然これは神仙思想、神獣鏡の分布が重要なんですよ。
また紀伊半島は丹生の使用痕跡も最大です。また畿内説でも巻向遺跡が邪馬台国という訳ではありませんからね、七万戸とは馬韓国の規模より少し狭い位、つまり紀伊半島が全てでも足りない位なんです。
九州その他の説の狭いエリアに拘るのは根本的に間違いです。
コピーのしんじゅう鏡や、無理矢理の神仙思想など関係ない
そんなことはとうの昔に無理筋の無理やりだと咎められているでしょう
人が持ち運べるものは決定的な証拠にはならないと思います。遺構や墓なら持ち運びできませんよ。伝承も重要です。箸墓は卑弥呼の伝承ではありません。日本一の直径約150mの巨大円墳は私の知る限り「三柱山古墳」しかありませんよ。詳細は「【都市伝説?】みんな知ってる卑弥呼の墓( ^)o(^ )」参照してください(;^ω^)
もうひとつ追加します。魏志倭人伝に書かれていることが事実だけならば、とっくに邪馬台国は見つかってますよ。人間の書いたものにはウソがあるかも知れません。ウソかどうかは事実、つまり、考古学や民俗学などの成果と比べれば分かります。倭国が合計約15万戸とありますが、洛陽で10万戸なのですよ。当時日本最大の集落比恵・那珂遺跡群があった奴国が2万戸なのですから、これを超える大集落は日本列島にはないと思いますよ。倭国を大国に見せかけるための潤色と見るべきでしょう(;^ω^)
基本的に
考古学的には、ヤマト国は畿内。
歴史学的にはヤマト国は北九州。
考古学的にヤマトの場所は畿内しかあり得ません。しかし、出雲大社の上官家のトミ家も、「魏書のヤマト国は九州」となっています。
つまり、東征による乗っ取りが起きたのが卑弥呼の時代。
記紀と万葉集から言って「ヤマタイ」という発音は我が国では使われたことがありません。これも歴史学です。
九州卑弥呼勢は、自分たちの国を「ヤマト国である」と嘘をついたそうです。故に大陸から見た卑弥呼勢はヤマトになってしまいました。
万世一系などペテンです。これから離れない限り実態に迫ることは難しいでしょう。
それは誤解ですよ!
奈良盆地をヤマトと呼ぶのは、纏向遺跡の勢力が倭国を滅ぼした後です。280年に呉が西晋に滅ぼされたので、西晋に朝貢していた女王台与の倭国を滅ぼしたので、邪馬台国の卑弥呼の宗女台与の子供を探して祭祀王にして、後継者にしたので邪馬台(ヤマト)と呼んだと推理できます。紀年銘三角縁神獣鏡がこの仮説の物証のひとつですよ(詳細は「刮目天の古代史」参照)(^_-)-☆
邪馬台国九州説は考古学の総本山奈良が仕掛けたらしいですよ(ソースはnhkの邪馬台国特番)
その時九州説論者になれと指名されたのが高島忠平
本職からすれば、話題になって予算さえ増えればどこにあるかなんてどうでもいいのでしょう
江戸時代から続く論争なので、そういう方もいるってだけですね。
そういう電波なことを言えばいうほど信頼性は下がります
畿内でないから九州だとは限らない。
辰砂採掘遺跡が最大の根拠になるが総合的に見る限り邪馬台国は阿波だったと思う。
行程も九州説や畿内説には無理がある。
ただし邪馬台国阿波説は古事記の舞台が阿波だったことの理解が先にないと分かりにくいだろう。
阿波説否定では、全くないんだけど、拠点とするには アクセスが悪すぎるし、海難リスク、タイムラグ、が現実的に考えて大きすぎる。 ただでさえ、大陸とのやり取りに海を越えなければならないのに。
コントロールセンターがそれでは機能的では無い。
逆に もしかしたら、元は阿波だったのがこれらの理由で移転した、というのは考えられると感じる。
要は この「論争」が、どこに「着地点」(いつ成立したのか、いつまで続いたのかetc・・・)を求めてるのか、で話が変わってくると感じる。
徳島県=阿波の国=邪馬台国。という等式は、どこか怪しい。奇異なものを感じる。淡路島=阿波の国だったのではないか??💧😊
@@AKIHIKO-uz7wf淡路=阿波路じゃん、淡路は阿波への道に過ぎないよ
大和路。木曽路。大和の中の路です。木曽の中の路です。淡路は、どうでしょうか?淡の中の路です。淡路島そのものであると思われます。
日本扶桑国之圖では九州を上。つまり北に描かれているから古代日本人に取って南だが現代日本人から見れば東である。つまり邪馬台国は近畿にあると思う。
阿波でしょ。阿波風土記が禁書になってるから。
古来からわざと九州と近畿で論争させて四国を隠してませんか?
阿波に直径約150mの急造りの卑弥呼の円墳はあるのでしょうか?
3世紀前半の北部九州の倭国の人が阿波に来ていますか?