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大学生の時、東京から高千穂で日豊本線回りで西鹿児島へ、12分の乗換時間で鹿児島本線回りの桜島に乗り、52時間余りかけて東京に戻るという、無謀な旅行をしたことを思い出しました。
今日からあなたを尊敬します。以上!
Tanaka Katsunori 凄い貴重な体験!羨ましい!
素晴らしい!私もしてみたかった!
あの高千穂を乗り通すだけでも十分凄いですが、更に帰りにあの桜島を選び、東海道・山陽・九州ほぼ一周の旅を完遂されるとは…貴公こそ、鉄道旅行者の英雄です!
お尻痛くなかったですか?
高校卒業して延岡市の会社に就職した。入社して3カ月くらい経過したころ、同期入社した新人と二人、総務課長に呼ばれた。何事かと思っていると「明日、社長と部長が東京に出張する。そこで、君たち二人は午前中に宮崎まで行って高千穂の座席を確保して延岡まで帰ってこい。南延岡駅で社長と部長が乗り込むので、そこで座席を交代して君たちは延岡駅で降りるように」とのこと。宮崎駅ではすでに満員近かったがなんとか座席を確保。二人とも会社命令で仕事さぼって楽しい遠足気分だった。小遣いを500円くらいもらった気がする。あの頃の高千穂はそうでもしなければすでに延岡駅でも座れなかった。57年前のできごと。なつかしい。
社長と部長なのに1等に乗らないなんてなんていい会社!
皆さんこんばんは。UPした当初はこんなに多くの方に聞いていただけるとは思ってもみませんでした。「東京駅を10時ちょうど、時間通りに発車をいたしました西鹿児島行きの急行桜島・高千穂・・・」というフレーズはいつ聞いても”ぞくっ”とします。嫁さん曰く、「この車掌さんとってもいい感じ!」 と言うのもどうやら間違いなさそうです。
名古屋から東京まで桜島のグリーン車に乗ったら、国鉄の車掌さんから『新幹線の方が速くて安いことは知ってますか?』と説教されたことがある。至極ごもっともなんですが…
N700A「こけー」急行桜島高千穂「あ、新幹線がこけてる」
私も一回だけ桜島のグリーン車に乗ったことあります。沼津から横浜まで。ある意味新幹線よりずっと贅沢な小旅行でした。
一昨年亡くなった父が、中卒15歳で大隅大川原からこの列車に乗って上京してきたと話していました。鹿児島の片田舎から東京直行の電車なんて作り話と思っていましたが、本当にあったのですね。
ken1384様ご覧いただきありがとうございます。そうですね、この急行高千穂、1975年、昭和50年まで走っていました。ちなみに当時の急行料金は、100キロまで200円、200キロまで300円、201キロ以上400円でした。
のんびりした時間感覚‥この頃がある意味日本の一番幸せな時代だったのかも。
世界的にも、極端な戦乱は収まっていたし、文化的にも落ち着いていましたね。
乗ってみたかったです。まつかぜ博多から大阪、白鳥大阪から青森、おおとり函館から網走、くろしお天王寺から名古屋、つばさ上野から秋田など長距離特急も乗ってみたかったです。
投稿ありがとうございます!!いつも眺めているだけの列車だったのですが、感激です!!
もっと早く生まれていれば、乗りたかった…自分が生まれた時も走っていたけど、この録音時では幼稚園すら行ってない…残念だ…
貴重ですね!録音して頂きありがとうございます!
いやー、懐かしいですね。当時中学生、グリーン車なんて全く縁がありませんでしたが、ちょっと無理をしてもオロ11に乗っておきたかったです。
貴重な音源をアップしていただき、ありがとうございます。74年8月に品川〜下関間を、お尻の痛みも忘れて乗り通した桜島・高千穂の思い出が蘇ります。当日は東京駅で工事があり、品川駅始発に変更されていました。廃止直前の75年2月に有楽町駅で撮影した下り桜島・高千穂の写真を見ると1号車スハフ42の次にスロ54が2両連結されていました。ダイヤ改正を控えて車両の転属や廃車が発生し、この時期は変則的な運用となっていたのかも知れません。
王貞治さんも新人のころは遠征で急行「高千穂」を利用していたそうですね。当時はプロ選手と言えど 「新人が特急なんて10年はやいわ!」なんてな時代だったそうで…
そう。古い小津映画なんかの時代の設定見ると、特急というのがアッパークラスの象徴で描かれていますね。
天下の巨人軍の王さんが新人時代とは言えこんな扱いなら、当時の貧しいパリーグやカープの選手たちは東京・横浜と大阪・広島・福岡を「高千穂」や「桜島」に揺られて行き来していたことになります。そう考えると、大昔のプロ野球選手(特に連投完投酷使上等だった投手)は異常なタフガイ揃いであることが伺えます。
@@yukiyes4660 広島カープ初優勝が1975年、山陽新幹線博多(広島)開業の年であるのが興味深いですね。
野武士軍団たる西鉄ライオンズのメンツが食堂車のビールを全部飲んだってウソみたいな話がある
@@dai2asakazeカッコいい
これ好きだわ。
銀河鉄道999のモデルになった!松本零士さんが大志を抱いてこれに乗って、その思いを銀河鉄道999にしました。
昭和38年から昭和42年まで学生時代に利用、当時は学割を使い上京。通路、デッキにも一杯で新聞紙を敷いて寝たりもした。当時は他の交通手段も考える余裕(金銭的)もなくこの思い出の列車のアップ懐かしく当時が走馬灯のようにおもいだす。
霧島、高千穂が併結運転してなかった頃は寝台車が連結されていましたが、ヨンサントオで寝台車が連結しなくなりました。
いやぁ…いいなぁ…この時代に行ってみたい…
せやかて様 ご覧いただきありがとうございます。当時私は中学生でしたが、見て、乗れただけでも幸せという感じですね。EF58が吹き上げるSGの蒸気、あれはホームのうどん屋やさんから出てるとファン同士でふざけて言っていたのを今でも思い出します。
鉄道に初めて興味を持ったのが昭和53年(1978年)、国鉄の特急が一斉にイラスト入りヘッドマークを発表したのがきっかけでした。当時小学4年生、そのわずか3年前までこの列車が走っていたのは意外でした。もっと昔に消えた列車とばかりに思ってました。その気配くらは感じたかな?と思い返してみてもなんせ子供、一ミリも鉄道に興味なかったので全く記憶にないですね。それにしてもその頃までこんな旧客の大遠征急行があったとは考えるだけでも胸がワクワクします。車内の画像も見てみたいものです。
Taka様 こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。車内の写真、探してみたのですがありませんでした・・・。1枚でも撮っておけば良かったです。
車掌アナウンスが如何にも国鉄(職員)って雰囲気満点ですね、多数あった長距離普通、急行の運行していた最末期ですかね、東北方面も新幹線の橋脚がボチボチ見えてきた頃。終点の西鹿児島駅にはまだ荷扱いの人が居たり(赤帽さん)荷物預かり所も現役でしたね。
確か、何組か編成があって、それでこの2本の急行を回していたと思います。1970年代は、このような特色ある特急、急行が沢山走っていました。
廃止目前だったので、高千穂号にはグリーン車が無くなっていたのですね。
生まれる前の年代ですがこの時代にタイムスリップしてみたいです♪
りたろう様 お越しいただきありがとうございます。当時は客車のドアも最後部も開けっ放し。ドアの手すりにつかまり身を乗り出して風を感じたものです。落ちたら終わりのスリルと対向列車とのすれ違いはドキドキでした。タイムスリップ出来たらぜひやってみてください。
急行桜島は高千穂と併設で走っていたが、単独で桜島も高千穂も走っていた時代があった。その単独桜島には臨時列車時代、何回か乗車した。尤も、東京から名古屋までの区間5時間程度の旅程でしたが、なんとも懐かしい。東京、品川、横浜、大船、小田原、熱海、沼津、富士、静岡、浜松、豊橋、名古屋の順で停車した記憶がある。
いやー 懐かしい 東京からのって鹿児島までいったっけ 途中 岡山辺りで夜中になり ボックスなんで きつく 気が狂いそうになったの覚えてるわ あの頃 九州周遊券が6000円くらいで 急行の自由席は ただで乗れたんで もう47年前の話です ありがとうございます
うちの両親が新婚の頃、東京から九州のテント旅行をするために、この列車乗車したと聞いた。20時間以上、ガチガチのシート。ハンパねぇ。と思う。今は両親ヨボヨボだから無理やろうな(苦笑)
ブルトレのようなヘッドマークも付いていなかったので、愛称や行き先も判らず、「そういえば走っていたかな?」という記憶しかありません。EF58が牽く列車は荷専がほとんどで、この急行は影が薄かったです。当時住んでいた湘南は停車しなかったので、乗る対象の列車ではありませんでした。こんな前時代的な列車が、幹線を昭和50年まで走っていたとは、全く驚きですね。
72年だったとおもうけと、小倉駅のホームにいると、この列車が入ってきました。その機関車の全面に白いペンキでベトナム反戦号と書かれていました。客車の側面には動労は戦うゾ!というスローガンが最後尾まで書かれていました。珍しいので写真をとっとけぱよかった。
こんな急行があったんなんて意外ですやっぱり旅はゆっくり行きたいものですな
私は逆に旅や仕事や友人・知人の用などは早く行きたいですね。但し、家族や親戚(特に家族)の不幸の場合はゆっくり行きたいですね。
国内最長距離の急行高千穂だが、ヲール座席💺の自由席でかなり混雑があってもいまにないロマンがあったからいい✋☺🚃
75kanさん、ありがとうございます❗
当時は座席はもちろん満席で通路に新聞紙引いて寝ていましたね。
かつて祖父母も思い出していた。
デッキは当時開放式トイレだったからアンモニア臭がひどかったのでは?
70年代前半の西鹿児島の到着時刻をざっくり調べてみましたが、高千穂と全く同じ車両による大阪からの急行屋久島が6時56分着、新大阪からの特急あかつきが9時11分着、高千穂併結相手の桜島が11時43分着、桜島と同じルートの特急はやぶさが14時19分着、高千穂が14時20分着、高千穂と同じルートの特急富士が18時32分着、ブルトレより速いはずの大阪発昼行DC特急なはが21時9分着、岡山からの昼行EC特急つばめが22時48分到着でした。出発時刻が原因なのですが、全体的に同じルート・発着駅でも到着時刻「だけ」は特急
昭和39年西都城から豊橋に就職した。夜学を出て帰省した、その時から使った列車だね❗🉐
高千穂か 経験無い 自分は20系の富士で東京に連れて行ってもらったな 興奮して寝られず一晩中寝台の小さな窓から夜景を眺めていた
乗りたかった列車です、upありがとう😊
1974年10月に赤石岳登って和田に降りました、一緒になった人は「桜島に乗って帰るのだ」豊橋へ向かいました、私も時刻表で桜島お馴染みでしたが、やむなく中央線に向かいました。「桜島」「高千穂」だれかアップしていないかと見ました、有難うございます。
当時は東京~西鹿児島のグリーン料金は、2000円でしたね。
連結直前でSGの安全弁が吹いてる。電気機関車にボイラーが積まれなくなって久しく、この写真の意味がわからない人もいるんだろうな。
寝台車の無いこんな長距離で、しかも急行だから、値段こそ特急より安いけど、停車駅が特急より多いからやたら時間がかかる汽車でした。たまたま隣の席が空いてればその分横ににはなれるけど、変な体制で寝るから、身体のあちこちが痛くなるのは覚悟しとかないといけない。ただ、金の無い学生にとって、東京と九州を行き来する唯一の手段でしたよ。
貴重な音声ですね。長時間運転 運転士車掌は、途中交代はあるだろうけど今じゃ考えられないですね。
中学生の頃乗車しておいて良かった。
寝台ではなく、座席というのが驚きです。西鹿児島に着いた時には、お尻が大変なことになっていそう。
某バラエティー番組みたいに「尻の肉が取れる夢を見た」って事になってそうww
エコノミークラス症候群にでもなりかねなかったでしょうね。
私が はじめて 東京駅に行った昭和60年には 機関車まわし用の中線はありませんでした
昭和60年は11番線まだあったような気がしますが。別の方の動画で昭和61年に10番線から発車する踊り子があり、横に機回し線の11番線ありました。
今では考えられない所要時間で、案内放送する車掌さんも大変そうですね。
個人的にはこの列車と上野発 郡山行の普通客車121列車の思い出が多いです。急行高千穂・桜島はイベントで復活してくれれば10万円でも乗ってしまいそうですが、JR東日本、東海、西日本、九州と4社に跨るので流石に無理ですね・・・。
東京から姫路まで良くのんびり乗って帰ったよ
中学生の頃乗ったなぁ...東京駅を10:00に発車して、しばし新幹線と併走してたのを思い出す
子どもの頃知り合いのおばさんたちが「高千穂はきれいだけど、桜島は汚いよ」と話していました。きれい汚いって、何のことなのかわかりませんでした。社会人になって鹿児島出身の先輩に聞くと、桜島は福岡・熊本・鹿児島人が乗るので賑やかで、列車に乗るとすぐ酒盛りが始まる。高千穂は比較的おとなしい大分人や宮崎人が乗るので、比較的酒盛りも穏やかなんだ、と笑いながら言ってました。今でも乗ったこともないくせに、「桜島は汚い、高千穂はきれい」というイメージが頭に浮かびます(笑)。
旅情を誘う貴重な録音ですね!横浜発車後(?)の停車駅と到着時刻のアナウンスが聴きたくてたまらないのですが、そのあたりの録音はお持ちでないですか?
djunkoreinhardt さんこんばんは。録音当日は横浜で下車したので、残念ながらそこから先の録音がありません。停車駅と到着時刻の案内があれば最高だったんですが・・・。当時中学生でおこずかいが少なく横浜下車やむを得ずという感じでした。
返信ありがとうございます! そうやったんですね。 それにしても中学生でよく録音されていますね。西鹿児島までの到着案内は他の誰かがアップしてくれるといいなあ。停車駅と到着時刻の案内を聞いたら涙しそうです。乗ったことないですけど。
空想急行高千穂(桜島は廃止)車両:12系座席車14系寝台車1号車-3号車自由席、4号車グリーン車(オロ12)、5号車-7号車寝台車
グリーン車の前か後にオシ14連結お願い出来ますか、もしくは短期間でなくなりましたがオシ16でも良いです。
丸一日以上かかるのが逆にうれしいぢやないか。
夜行列車・・・気軽に乗れる列車が減ってしまったのは残念な限りですが、世間一般の流れでもあるんですよね(´・ω・`)横浜発車後の停車駅案内の放送も聞いてみたいです・・・。録音が残っているのであれば、長丁場の案内がどうなっているのかが気になります。
せめて、多客期だけでも、夜行を復活して欲しいものですね。
新幹線にもいいとこあるし特急富士はやぶさとか急行桜島高千穂にもいいとこがあるってことだな。
日本って意外と広いよな
そうかあ、廃止時点で中3だった。勿論よく覚えているが鹿児島まで行くには少しだけ幼過ぎた。新幹線開業とかSL3重連とかいろいろ間に合わなかった。
らららライオンズ様 お聞きいただきありがとうございます。当時私は中学2年生でしたのでほぼ同級生ですね。1975年は室蘭本線のSLが無くなった年で、所謂ブルトレブームの始まりの時期だったような気がします。伯備線のD513重連は1972年に無くなったようなので、もう少し早く生まれていればとよく思いましたが、”国鉄時代” を満喫できたので楽しかったです。
桜島号で博多までよく利用しました
この頃は米原、宮原、広島、下関のゴハチが総動員でブルトレや急行の仕業に入ってたから浜松のゴハチは荷物列車ばっかり数少ない優等列車仕業が桜島・高千穂やった
Masaru Kawabata様ご覧いただきありがとうございます。 急行高千穂・桜島は浜松機関区のEF58が東京~下関までロングランしていましたが、その他は荷物列車の運用が多く、同区の花形運用だったとは知りませんでした。
@@75kan さま この時期の各機関区のゴハチの運用が大昔の鉄道ファンに出てたのですが浜松区は優等列車が2本あった銀河の片割れと桜島・高千穂だけでした配置が少ない米原区にブルトレに日南3・1号、きたぐにと優等列車がたくさんあるのが不思議な感じがしますね蛇足ですが関西ブルトレはゴハチですら不足してたようで、あかつきか彗星か忘れたけど一往復が広島区のEF65の定期仕業になってました東京区の65は東京発着のブルトレで手一杯だし機関車不足って今では全く想像できん状態やと思います
たしかこのころ急行券が有効6日。貧乏学生は鹿児島についたら、急行券を東京の後輩に速達でおくり、後輩はそれを使って帰っていたとか。
切符に挟みが入るからそんな嘘っぱちは信じない。
修学旅行で利用しました。桜島を、
古きよき時代の急行もう2度と走らない淋しい限りだ新幹線では、絶対味わえない旅(移動)豪華列車の旅より、高千穂だね!
999に似たような台詞がありましたね。
今もあったら24系寝台車・食堂車、12系座席車だったかもしれません?
24系でなく、14系寝台車・座席車・食堂車でいいのでは?24系と12系という意味が分からない🤔
国鉄アナウンスで切符お買い求めてナイカタ車掌回っておりますは今ないですね
懐かしい❗
いいなあ、SF58格好良い。じぶん幼児の頃ブルートレインで母親に連れられ佐賀まで行っていたらしい。知らないけど。
蒸気暖房が懐かしいですね。
東京―九州各地間のブルートレインも全て航空機や新幹線等に取って代わられた今日ではあり得ない、歴史的客車による長距離急行の貴重な音声記録ですね! UPに心から感謝します。オルゴールは東海道本線だから、個人的には「♪鉄道唱歌」でも良かったのにという気もしますが、やはり「♪ハイケンスのセレナーデ」の一曲に始まり一曲に終わる方が、こういう歴史的客車の旅には相応しいと言えるでしょう。
反対向きの客車が混じっていたことがありました。九州で路線が涙型なのでそういうことがあったようで宇。
時は昭和40年代。かつては飛行機が高価で高嶺の花といわれた時代。
この時代も現代も田園都市線の主役は8500系
つーかサムネ画像のEF58がまるで火災のようだ!
あれは駅のホームのうどん屋だよと騙されたことがありました(笑)。連結直前だとSGの蒸気があんなに出ていたんですね。
@@75kan 出発前に腹ごしらえ、懐かしや。特に年末、20系寝台列車を待つ時に。ww
当時のJ誌に『運賃+300円の旅』て特集記事があったような、、
津田右左吉様 お聞きいただきありがとうございます。記事は鉄道ジャーナル 1974年5月号(No.85)か列車追跡№2に日本最長急行<高千穂・桜島>で載っています。当時の急行券は300円でしたから信じられませんね!
令和の時代でも 日豊本線はなんしようと~みたいな過酷な鉄路👅昭和は さぞかし 過酷な鉄路だつた労。😜
この列車にも乗りたかったんだけど、当時は高知に住む小学生だったから乗車は夢のまた夢・・・
寝台車がないのが物足りなかった。
Kineosporiaさんこの頃は、「桜島・高千穂」は、寝台車の連結を辞めていて、「ナハ11」「ナハフ11」だけの編成だったようですね。
朝遅くに出てお昼すぎにつくのか
乗ってみたい興味はあるが、小田原くらいで飽きちゃうんだろうな
かしみん様 ご覧いただきありがとうございます。私は米原まで何回か往復しましたが、旧型客車の旅は意外と飽きないんですよ。まず、客車のドアがあるデッキは解放されているので、ドアの手すりにつかまって風をビュービュー浴びながら景色を楽しめます。一度、腕を全部伸ばして危うく架線柱にかすりそうになって真っ青になったのを覚えています。そして最後部の客車です、最後部も車掌室がない時は開けっ放しで鎖が1本かけてあるだけなので去り行く景色を堪能できます。丹那トンネルなんかは寒くて、不気味でかなり怖いです。もちろん窓を開けて駅弁を食べる楽しみは最高ですね。
昭和50年で東京から西鹿児島へ行く長距離急行が走っていたとは、驚きです。確かこの年だったと思いますが初の2段式B寝台25系が導入された時期だったかと記憶しています
この約2ヶ月後の3月9日をもって、この列車は廃止されました。2段式B寝台の24系25型は、前年の昭和49年から走り始めてます。
現実の高千穂座席車、グリーン車のみ💦RAILWARS座席車、食堂車?、寝台車付き!!
今から45年前お母さんが27歳の時僕の母親現在年齢72歳僕の母ちゃん良い年になったしかも僕が生まれたのが1972年だから丁度3年後
減速するのは品川手前のカーブかな?
「桜島」「高千穂」であるが、東京~横浜を乗車された作者みたいに、東京~熱海などの短距離利用もそれなりにいたんだろうか。当時は既に自由席ばかりで寝台車も食堂車もなく、グリーン車1両ずつが編成を飾るだけの侘しい状況だったと思われる。急行料金は電車であろうと客車であろうと、自由席なら変わりなかったと思うが……
asakazefuji 鹿児島まで乗り通す乗客なんて皆無に等しかったな。余程の汽車好きでないと……東京から熱海や静岡までが限界だったと思うし、新幹線の特急料金が高かったせいもある。途中の主要駅で乗客も入れ替わったと思う。
熱海で結構な人数が降りたというシーンを見たことがある。
汽車好きでも静岡辺りが限界ですね。
「東海」が静岡辺りまで、「伊豆」が熱海まで1往復増発されていたと言っても過言ではなかったでしょうな(停車駅少ないけど加減速が悪いから所要時間は電車急行と変わりなかっただろう)名古屋までは所要が5時間14分、今の高速バスと大差ないから、非冷房であることを堪えられた客は使っていたかも知れないとは思ったりも…
懐かしい。供食体制は?
ご覧いただきありがとうございます。食堂車や車内販売は無かったと思いますので短い停車時間にダッシュで駅弁ですね。当時の時刻表を見ると1分停車が多いので駅弁を買うのも大変だったのではないでしょうか。まぁ走り出しても旧客は飛び乗れましたからギリギリまで粘れたと思いますが・・・。そんなことも懐かしいです。
ソニック「ん?」
9号車って食堂車なのか?
coziyftv78 さんこんにちは。9号車は高千穂のグリーン車です。詳細は不明ですが1975年3月の時刻表の編成表を見ても9号車は連結されていなかったようです。
車両の転配の都合か、廃止の少し前から9号車のグリーン車、スロ62は欠車扱いとなっていたようですね。それにしても廃止の2ヶ月も前から既に外されていたのは驚きです。
食堂車は確か昭和47年に廃止されてしまいました。確か北陸本線のトンネル火災の影響だったような。
はあっ⤵・・・・この車掌さんも、わがふるさとの駅を「文字」と同じイントネーションで言っているわがっかりなんちゃね
大学生の時、東京から高千穂で日豊本線回りで西鹿児島へ、12分の乗換時間で鹿児島本線回りの桜島に乗り、52時間余りかけて東京に戻るという、無謀な旅行をしたことを思い出しました。
今日からあなたを尊敬します。以上!
Tanaka Katsunori 凄い貴重な体験!
羨ましい!
素晴らしい!私もしてみたかった!
あの高千穂を乗り通すだけでも十分凄いですが、更に帰りにあの桜島を選び、東海道・山陽・九州ほぼ一周の旅を完遂されるとは…貴公こそ、鉄道旅行者の英雄です!
お尻痛くなかったですか?
高校卒業して延岡市の会社に就職した。入社して3カ月くらい経過したころ、同期入社した新人と二人、総務課長に呼ばれた。
何事かと思っていると「明日、社長と部長が東京に出張する。そこで、君たち二人は午前中に宮崎まで行って高千穂の座席を確保して延岡まで帰ってこい。南延岡駅で社長と部長が乗り込むので、そこで座席を交代して君たちは延岡駅で降りるように」とのこと。宮崎駅ではすでに満員近かったがなんとか座席を確保。二人とも会社命令で仕事さぼって楽しい遠足気分だった。小遣いを500円くらいもらった気がする。あの頃の高千穂はそうでもしなければすでに延岡駅でも座れなかった。57年前のできごと。なつかしい。
社長と部長なのに1等に乗らないなんてなんていい会社!
皆さんこんばんは。UPした当初はこんなに多くの方に聞いていただけるとは思ってもみませんでした。
「東京駅を10時ちょうど、時間通りに発車をいたしました西鹿児島行きの急行桜島・高千穂・・・」というフレーズはいつ聞いても”ぞくっ”とします。嫁さん曰く、「この車掌さんとってもいい感じ!」 と言うのもどうやら間違いなさそうです。
名古屋から東京まで桜島のグリーン車に乗ったら、国鉄の車掌さんから『新幹線の方が速くて安いことは知ってますか?』と説教されたことがある。至極ごもっともなんですが…
N700A「こけー」
急行桜島高千穂「あ、新幹線がこけてる」
私も一回だけ桜島のグリーン車に乗ったことあります。沼津から横浜まで。
ある意味新幹線よりずっと贅沢な小旅行でした。
一昨年亡くなった父が、中卒15歳で大隅大川原からこの列車に乗って上京してきたと話していました。鹿児島の片田舎から東京直行の電車なんて作り話と思っていましたが、本当にあったのですね。
ken1384様ご覧いただきありがとうございます。
そうですね、この急行高千穂、1975年、昭和50年まで走っていました。
ちなみに当時の急行料金は、100キロまで200円、200キロまで300円、201キロ以上400円でした。
のんびりした時間感覚‥この頃がある意味日本の一番幸せな時代だったのかも。
世界的にも、極端な戦乱は収まっていたし、文化的にも落ち着いていましたね。
乗ってみたかったです。まつかぜ博多から大阪、白鳥大阪から青森、おおとり函館から網走、くろしお天王寺から名古屋、つばさ上野から秋田など長距離特急も乗ってみたかったです。
投稿ありがとうございます!!いつも眺めているだけの列車だったのですが、感激です!!
もっと早く生まれていれば、乗りたかった…
自分が生まれた時も走っていたけど、この録音時では幼稚園すら行ってない…
残念だ…
貴重ですね!録音して頂きありがとうございます!
いやー、懐かしいですね。当時中学生、グリーン車なんて全く縁がありませんでしたが、ちょっと無理をしてもオロ11に乗っておきたかったです。
貴重な音源をアップしていただき、ありがとうございます。
74年8月に品川〜下関間を、お尻の痛みも忘れて乗り通した桜島・高千穂の思い出が
蘇ります。当日は東京駅で工事があり、品川駅始発に変更されていました。
廃止直前の75年2月に有楽町駅で撮影した下り桜島・高千穂の写真を見ると1号車スハ
フ42の次にスロ54が2両連結されていました。ダイヤ改正を控えて車両の転属や廃車が
発生し、この時期は変則的な運用となっていたのかも知れません。
王貞治さんも新人のころは遠征で急行「高千穂」を利用していたそうですね。当時はプロ選手と言えど 「新人が特急なんて10年はやいわ!」なんてな時代だったそうで…
そう。古い小津映画なんかの時代の設定見ると、特急というのがアッパークラスの象徴で描かれていますね。
天下の巨人軍の王さんが新人時代とは言えこんな扱いなら、当時の貧しいパリーグやカープの選手たちは東京・横浜と大阪・広島・福岡を「高千穂」や「桜島」に揺られて行き来していたことになります。
そう考えると、大昔のプロ野球選手(特に連投完投酷使上等だった投手)は異常なタフガイ揃いであることが伺えます。
@@yukiyes4660 広島カープ初優勝が1975年、山陽新幹線博多(広島)開業の年であるのが興味深いですね。
野武士軍団たる西鉄ライオンズのメンツが食堂車のビールを全部飲んだってウソみたいな話がある
@@dai2asakazeカッコいい
これ好きだわ。
銀河鉄道999のモデルになった!松本零士さんが大志を抱いてこれに乗って、その思いを銀河鉄道999にしました。
昭和38年から昭和42年まで学生時代に利用、当時は学割を使い上京。通路、デッキにも一杯で新聞紙を敷いて寝たりもした。当時は他の交通手段も考える余裕(金銭的)もなくこの思い出の列車のアップ懐かしく当時が走馬灯のようにおもいだす。
霧島、高千穂が併結運転してなかった頃は寝台車が連結されていましたが、ヨンサントオで寝台車が連結しなくなりました。
いやぁ…いいなぁ…この時代に行ってみたい…
せやかて様 ご覧いただきありがとうございます。
当時私は中学生でしたが、見て、乗れただけでも幸せという感じですね。
EF58が吹き上げるSGの蒸気、あれはホームのうどん屋やさんから出てるとファン同士でふざけて言っていたのを
今でも思い出します。
鉄道に初めて興味を持ったのが昭和53年(1978年)、国鉄の特急が一斉にイラスト入りヘッドマークを発表したのがきっかけでした。当時小学4年生、そのわずか3年前までこの列車が走っていたのは意外でした。もっと昔に消えた列車とばかりに思ってました。その気配くらは感じたかな?と思い返してみてもなんせ子供、一ミリも鉄道に興味なかったので全く記憶にないですね。それにしてもその頃までこんな旧客の大遠征急行があったとは考えるだけでも胸がワクワクします。車内の画像も見てみたいものです。
Taka様 こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。
車内の写真、探してみたのですがありませんでした・・・。
1枚でも撮っておけば良かったです。
車掌アナウンスが如何にも国鉄(職員)って雰囲気満点ですね、
多数あった長距離普通、急行の運行していた最末期ですかね、東北方面も新幹線の橋脚がボチボチ見えてきた頃。
終点の西鹿児島駅にはまだ荷扱いの人が居たり(赤帽さん)荷物預かり所も現役でしたね。
確か、何組か編成があって、それでこの2本の急行を回していたと思います。1970年代は、このような特色ある特急、急行が沢山走っていました。
廃止目前だったので、高千穂号にはグリーン車が無くなっていたのですね。
生まれる前の年代ですがこの時代にタイムスリップしてみたいです♪
りたろう様 お越しいただきありがとうございます。
当時は客車のドアも最後部も開けっ放し。ドアの手すりにつかまり身を乗り出して風を感じたものです。
落ちたら終わりのスリルと対向列車とのすれ違いはドキドキでした。
タイムスリップ出来たらぜひやってみてください。
急行桜島は高千穂と併設で走っていたが、単独で桜島も高千穂も走っていた時代があった。
その単独桜島には臨時列車時代、何回か乗車した。
尤も、東京から名古屋までの区間5時間程度の旅程でしたが、なんとも懐かしい。
東京、品川、横浜、大船、小田原、熱海、沼津、富士、静岡、浜松、豊橋、名古屋の順で停車した記憶がある。
いやー 懐かしい 東京からのって鹿児島までいったっけ 途中 岡山辺りで夜中になり ボックスなんで きつく 気が狂いそうになったの覚えてるわ あの頃 九州周遊券が6000円くらいで 急行の自由席は ただで乗れたんで もう47年前の話です ありがとうございます
うちの両親が新婚の頃、東京から九州のテント旅行をするために、この列車乗車したと聞いた。
20時間以上、ガチガチのシート。ハンパねぇ。と思う。
今は両親ヨボヨボだから無理やろうな(苦笑)
ブルトレのようなヘッドマークも付いていなかったので、愛称や行き先も判らず、「そういえば走っていたかな?」という記憶しかありません。EF58が牽く列車は荷専がほとんどで、この急行は影が薄かったです。当時住んでいた湘南は停車しなかったので、乗る対象の列車ではありませんでした。こんな前時代的な列車が、幹線を昭和50年まで走っていたとは、全く驚きですね。
72年だったとおもうけと、小倉駅のホームにいると、この列車が入ってきました。その機関車の全面に白いペンキでベトナム反戦号と書かれていました。客車の側面には動労は戦うゾ!というスローガンが最後尾まで書かれていました。珍しいので写真をとっとけぱよかった。
こんな急行があったんなんて意外です
やっぱり旅はゆっくり行きたいものですな
私は逆に旅や仕事や友人・知人の用などは早く行きたいですね。但し、家族や親戚(特に家族)の不幸の場合はゆっくり行きたいですね。
国内最長距離の急行高千穂だが、ヲール座席💺の自由席でかなり混雑があってもいまにないロマンがあったからいい✋☺🚃
75kanさん、ありがとうございます❗
当時は座席はもちろん満席で通路に新聞紙引いて寝ていましたね。
かつて祖父母も思い出していた。
デッキは当時開放式トイレだったからアンモニア臭がひどかったのでは?
70年代前半の西鹿児島の到着時刻をざっくり調べてみましたが、高千穂と全く同じ車両による大阪からの急行屋久島が6時56分着、新大阪からの特急あかつきが9時11分着、高千穂併結相手の桜島が11時43分着、桜島と同じルートの特急はやぶさが14時19分着、高千穂が14時20分着、高千穂と同じルートの特急富士が18時32分着、ブルトレより速いはずの大阪発昼行DC特急なはが21時9分着、岡山からの昼行EC特急つばめが22時48分到着でした。
出発時刻が原因なのですが、全体的に同じルート・発着駅でも到着時刻「だけ」は特急
昭和39年西都城から豊橋に就職した。
夜学を出て帰省した、その時から使った列車だね❗🉐
高千穂か 経験無い 自分は20系の富士で東京に連れて行ってもらったな 興奮して寝られず一晩中寝台の小さな窓から夜景を眺めていた
乗りたかった列車です、upありがとう😊
1974年10月に赤石岳登って和田に降りました、一緒になった人は「桜島に乗って帰るのだ」豊橋へ向かいました、私も時刻表で桜島お馴染みでしたが、やむなく中央線に向かいました。「桜島」「高千穂」だれかアップしていないかと見ました、有難うございます。
当時は東京~西鹿児島のグリーン料金は、2000円でしたね。
連結直前でSGの安全弁が吹いてる。電気機関車にボイラーが積まれなくなって久しく、この写真の意味がわからない人もいるんだろうな。
寝台車の無いこんな長距離で、しかも急行だから、値段こそ特急より安いけど、停車駅が特急より多いからやたら時間がかかる汽車でした。たまたま隣の席が空いてればその分横ににはなれるけど、変な体制で寝るから、身体のあちこちが痛くなるのは覚悟しとかないといけない。
ただ、金の無い学生にとって、東京と九州を行き来する唯一の手段でしたよ。
貴重な音声ですね。長時間運転 運転士車掌は、途中交代はあるだろうけど
今じゃ考えられないですね。
中学生の頃乗車しておいて良かった。
寝台ではなく、座席というのが驚きです。西鹿児島に着いた時には、お尻が大変なことになっていそう。
某バラエティー番組みたいに「尻の肉が取れる夢を見た」って事になってそうww
エコノミークラス症候群にでもなりかねなかったでしょうね。
私が はじめて 東京駅に行った昭和60年には 機関車まわし用の中線はありませんでした
昭和60年は11番線まだあったような気がしますが。別の方の動画で昭和61年に10番線から発車する踊り子があり、横に機回し線の11番線ありました。
今では考えられない所要時間で、案内放送する車掌さんも大変そうですね。
個人的にはこの列車と上野発 郡山行の普通客車121列車の思い出が多いです。
急行高千穂・桜島はイベントで復活してくれれば10万円でも乗ってしまいそうですが、
JR東日本、東海、西日本、九州と4社に跨るので流石に無理ですね・・・。
東京から姫路まで良くのんびり乗って帰ったよ
中学生の頃乗ったなぁ...東京駅を10:00に発車して、しばし新幹線と併走してたのを思い出す
子どもの頃知り合いのおばさんたちが「高千穂はきれいだけど、桜島は汚いよ」
と話していました。きれい汚いって、何のことなのかわかりませんでした。
社会人になって鹿児島出身の先輩に聞くと、桜島は福岡・熊本・鹿児島人が乗るので
賑やかで、列車に乗るとすぐ酒盛りが始まる。高千穂は比較的おとなしい大分人や宮崎人が
乗るので、比較的酒盛りも穏やかなんだ、と笑いながら言ってました。今でも乗ったことも
ないくせに、「桜島は汚い、高千穂はきれい」というイメージが頭に浮かびます(笑)。
旅情を誘う貴重な録音ですね!
横浜発車後(?)の停車駅と到着時刻のアナウンスが聴きたくてたまらないのですが、そのあたりの録音はお持ちでないですか?
djunkoreinhardt さんこんばんは。
録音当日は横浜で下車したので、残念ながらそこから先の録音がありません。停車駅と到着時刻の案内があれば最高だったんですが・・・。当時中学生でおこずかいが少なく横浜下車やむを得ずという感じでした。
返信ありがとうございます! そうやったんですね。 それにしても中学生でよく録音されていますね。西鹿児島までの到着案内は他の誰かがアップしてくれるといいなあ。
停車駅と到着時刻の案内を聞いたら涙しそうです。乗ったことないですけど。
空想急行高千穂(桜島は廃止)
車両:12系座席車14系寝台車
1号車-3号車自由席、4号車グリーン車(オロ12)、5号車-7号車寝台車
グリーン車の前か後にオシ14連結お願い出来ますか、もしくは短期間でなくなりましたがオシ16でも良いです。
丸一日以上かかるのが逆にうれしいぢやないか。
夜行列車・・・気軽に乗れる列車が減ってしまったのは残念な限りですが、
世間一般の流れでもあるんですよね(´・ω・`)
横浜発車後の停車駅案内の放送も聞いてみたいです・・・。
録音が残っているのであれば、長丁場の案内がどうなっているのかが気になります。
せめて、多客期だけでも、夜行を復活して欲しいものですね。
新幹線にもいいとこあるし特急富士はやぶさとか急行桜島高千穂にもいいとこがあるってことだな。
日本って意外と広いよな
そうかあ、廃止時点で中3だった。勿論よく覚えているが鹿児島まで行くには少しだけ幼過ぎた。新幹線開業とかSL3重連とかいろいろ間に合わなかった。
らららライオンズ様 お聞きいただきありがとうございます。
当時私は中学2年生でしたのでほぼ同級生ですね。1975年は室蘭本線のSLが無くなった年で、所謂ブルトレブーム
の始まりの時期だったような気がします。伯備線のD513重連は1972年に無くなったようなので、もう少し早く生
まれていればとよく思いましたが、”国鉄時代” を満喫できたので楽しかったです。
桜島号で博多までよく利用しました
この頃は
米原、宮原、広島、下関のゴハチが総動員でブルトレや急行の仕業に入ってたから
浜松のゴハチは荷物列車ばっかり
数少ない優等列車仕業が桜島・高千穂やった
Masaru Kawabata様ご覧いただきありがとうございます。
急行高千穂・桜島は浜松機関区のEF58が東京~下関までロングランしていましたが、
その他は荷物列車の運用が多く、同区の花形運用だったとは知りませんでした。
@@75kan さま この時期の各機関区のゴハチの運用が大昔の鉄道ファンに出てたのですが
浜松区は優等列車が2本あった銀河の片割れと桜島・高千穂だけでした
配置が少ない米原区にブルトレに日南3・1号、きたぐにと優等列車がたくさんあるのが不思議な感じがしますね
蛇足ですが関西ブルトレはゴハチですら不足してたようで、あかつきか彗星か忘れたけど一往復が広島区のEF65の定期仕業になってました
東京区の65は東京発着のブルトレで手一杯だし機関車不足って今では全く想像できん状態やと思います
たしかこのころ急行券が有効6日。貧乏学生は鹿児島についたら、急行券を
東京の後輩に速達でおくり、後輩はそれを使って帰っていたとか。
切符に挟みが入るからそんな嘘っぱちは信じない。
修学旅行で利用しました。桜島を、
古きよき時代の急行
もう2度と走らない淋しい限りだ新幹線では、絶対味わえない旅(移動)豪華列車の旅より、高千穂だね!
999に似たような台詞がありましたね。
今もあったら24系寝台車・食堂車、12系座席車だったかもしれません?
24系でなく、14系寝台車・座席車・食堂車でいいのでは?
24系と12系という意味が分からない🤔
国鉄アナウンスで切符お買い求めてナイカタ車掌回っておりますは今ないですね
懐かしい❗
いいなあ、SF58格好良い。じぶん幼児の頃ブルートレインで母親に連れられ佐賀まで行っていたらしい。知らないけど。
蒸気暖房が懐かしいですね。
東京―九州各地間のブルートレインも全て航空機や新幹線等に取って代わられた今日ではあり得ない、歴史的客車による長距離急行の貴重な音声記録ですね! UPに心から感謝します。
オルゴールは東海道本線だから、個人的には「♪鉄道唱歌」でも良かったのにという気もしますが、やはり「♪ハイケンスのセレナーデ」の一曲に始まり一曲に終わる方が、こういう歴史的客車の旅には相応しいと言えるでしょう。
反対向きの客車が混じっていたことがありました。九州で路線が涙型なのでそういうことがあったようで宇。
時は昭和40年代。かつては飛行機が高価で高嶺の花といわれた時代。
この時代も現代も田園都市線の主役は8500系
つーかサムネ画像のEF58がまるで火災のようだ!
あれは駅のホームのうどん屋だよと騙されたことがありました(笑)。
連結直前だとSGの蒸気があんなに出ていたんですね。
@@75kan
出発前に腹ごしらえ、懐かしや。
特に年末、20系寝台列車を待つ時に。ww
当時のJ誌に『運賃+300円の旅』て特集記事があったような、、
津田右左吉様 お聞きいただきありがとうございます。
記事は鉄道ジャーナル 1974年5月号(No.85)か列車追跡№2に日本最長急行<高千穂・桜島>で載っています。
当時の急行券は300円でしたから信じられませんね!
令和の時代でも
日豊本線はなんしようと~みたいな過酷な鉄路👅
昭和は さぞかし 過酷な鉄路だつた労。😜
この列車にも乗りたかったんだけど、当時は高知に住む小学生だったから乗車は夢のまた夢・・・
寝台車がないのが物足りなかった。
Kineosporiaさん
この頃は、「桜島・高千穂」は、寝台車の連結を辞めていて、「ナハ11」「ナハフ11」だけの編成だったようですね。
朝遅くに出てお昼すぎにつくのか
乗ってみたい興味はあるが、小田原くらいで飽きちゃうんだろうな
かしみん様 ご覧いただきありがとうございます。
私は米原まで何回か往復しましたが、旧型客車の旅は意外と飽きないんですよ。
まず、客車のドアがあるデッキは解放されているので、ドアの手すりにつかまって風をビュービュー浴びながら景色を楽しめます。一度、腕を全部伸ばして危うく架線柱にかすりそうになって真っ青になったのを覚えています。そして最後部の客車です、最後部も車掌室がない時は開けっ放しで鎖が1本かけてあるだけなので去り行く景色を堪能できます。丹那トンネルなんかは寒くて、不気味でかなり怖いです。もちろん窓を開けて駅弁を食べる楽しみは最高ですね。
昭和50年で東京から西鹿児島へ行く長距離急行が走っていたとは、驚きです。確かこの年だったと思いますが初の2段式B寝台25系が導入された時期だったかと記憶しています
この約2ヶ月後の3月9日をもって、この列車は廃止されました。
2段式B寝台の24系25型は、前年の昭和49年から走り始めてます。
現実の高千穂
座席車、グリーン車のみ💦
RAILWARS
座席車、食堂車?、寝台車付き!!
今から45年前お母さんが27歳の時僕の母親現在年齢72歳僕の母ちゃん良い年になったしかも僕が生まれたのが1972年だから丁度3年後
減速するのは品川手前のカーブかな?
「桜島」「高千穂」であるが、東京~横浜を乗車された作者みたいに、東京~熱海などの短距離利用もそれなりにいたんだろうか。当時は既に自由席ばかりで寝台車も食堂車もなく、グリーン車1両ずつが編成を飾るだけの侘しい状況だったと思われる。
急行料金は電車であろうと客車であろうと、自由席なら変わりなかったと思うが……
asakazefuji 鹿児島まで乗り通す乗客なんて皆無に等しかったな。余程の汽車好きでないと……東京から熱海や静岡までが限界だったと思うし、新幹線の特急料金が高かったせいもある。途中の主要駅で乗客も入れ替わったと思う。
熱海で結構な人数が降りたというシーンを見たことがある。
汽車好きでも静岡辺りが限界ですね。
「東海」が静岡辺りまで、「伊豆」が熱海まで1往復増発されていたと言っても過言ではなかったでしょうな
(停車駅少ないけど加減速が悪いから所要時間は電車急行と変わりなかっただろう)
名古屋までは所要が5時間14分、今の高速バスと大差ないから、
非冷房であることを堪えられた客は使っていたかも知れないとは思ったりも…
懐かしい。
供食体制は?
ご覧いただきありがとうございます。
食堂車や車内販売は無かったと思いますので短い停車時間にダッシュで駅弁ですね。
当時の時刻表を見ると1分停車が多いので駅弁を買うのも大変だったのではないでしょうか。
まぁ走り出しても旧客は飛び乗れましたからギリギリまで粘れたと思いますが・・・。
そんなことも懐かしいです。
ソニック「ん?」
9号車って食堂車なのか?
coziyftv78 さんこんにちは。
9号車は高千穂のグリーン車です。詳細は不明ですが1975年3月の時刻表の編成表を見ても9号車は連結されていなかったようです。
車両の転配の都合か、廃止の少し前から9号車のグリーン車、スロ62は欠車扱いとなっていたようですね。
それにしても廃止の2ヶ月も前から既に外されていたのは驚きです。
食堂車は確か昭和47年に廃止されてしまいました。確か北陸本線のトンネル火災の影響だったような。
はあっ⤵・・・・
この車掌さんも、わがふるさとの駅を「文字」と同じイントネーションで言っているわ
がっかりなんちゃね