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全面的に同意します。子どもはともかく大人が「王様は裸だ」と言うのは勇気がいるし、誰も言わないことを言うのは、どんな非難を受けるかという恐れもあるわけですが、よく言って下さったという気持ちで一杯です。「ジョンケージという人は大作曲家らしい」→「その人の代表作だから名作なんだろう」という発想で無理矢理感動している人が大半ではないでしょうか。 頭の中に流れている理想の音楽を楽譜に再現しようという作業が作曲で、楽譜にそれを完璧に表すのは不可能だから意味はないと言ったら作曲という作業の放棄だと思います。偶然の音楽と言うのも、恋人の写真を見て恋人を偲んでいるときに、写真は100%現実を写し取るのは無理だから白紙の方がマシだと言われているような違和感を感じます。
今回の話題はとても奥が深いテーマで美学、美とは何かにも通じるものと感じました。和音を気持ちよく感じる。フェラーリの加速するエンジン音を高揚して聞こえる点など、人の感覚は本当に不思議に思います。
車田先生、こんにちは。とても興味深い配信をいつもありがとうございます。今年のダニール・トリフォノフのリサイタル@紀尾井ホールでは、アンコールとしてこの曲が演奏(?)されました。私は、彼が席につく際、小さなもの(おそらく腕時計)をピアノの上に置くところが見えたので始まってすぐ、「おおっ!あの曲だ」と気づきました。私が、演奏が終わるまで考えていたことは、本日の聴衆は全員こういう楽曲の存在を認識しているけど、初演の際ははたしてどういう反応だったのかなと言うことでした。私を含めて、その日のこの演奏(アンコールはこの4分33秒1曲のみでした)に対する反応はとても温かいものでしたが、それは「あの有名な曲をLIVEで聞けた」という一種の感慨だったのではないかと思います(少なくとも私はそうでした)。とはいえ、もう一度聞きたいとは思いませんけどね。
自然の美しい景色に感動することはありますが、それと絵画とは違います。対称そのものと人の知覚と感情・思考を通して作られたものは別物です。それと同じことだと思います。4分33秒は音楽とは言えないでしょう。
「僕は音楽だと思っています」と言われなくて良かったです。( ´•ᴗ•ก; ) ホッ さて、いつも音楽家ならではの濃いお話を聞かせてもらって「さすが」と感心させられていますが、今日のこの動画もいつもと同じ重みがありました。何もない空白の曲(?)を取り上げながら、明確で説得力のあるお話。子供の頃、「芸術」を辞書で引いたら「美を追及する人の活動、またその作品」のように書かれており、妙に納得したのを覚えています。どんなに優れた機械でも、実用品は芸術作品とは違う。どれほど美しい景色でも、自然の物は芸術作品とは違う。今回は特に後者。芸術作品は、偶然できる物とは別なんですよね。「環境音を音楽だと言い換えているだけ」・・・納得の一言でした。
ほんと「僕はこれを音楽だと思っている」と言われなくて良かったです😅 真っ白なキャンバス、空の皿の例えは笑えました。帰宅部が部活動?観客の咳やガサガサ音にお金を出す気は無い 等のコメントにも同感。私も“解釈的な芸術”には入るかな??くらい。 …ただ、よく考えたらなのですが、お金を払わないが起こる事として①人々が行交う雑踏の中で、ふとその雑踏の音が心地よく意識を集中させられる事が時にあり、自ら浸って聴いてる場合がある②観光地で寺に入ったら 静寂の中で鳥のさえずりや 木の葉がかすかな風で鳴る音に自ら心奪われる…③白ご飯しか無いがお腹空いてる時に、隣の家から濃い味のおかずの良い匂い🍃で美味しく 白ご飯のおかずにして食べる。それはそれで幸せ。…等など、自分にとっては価値の有るコンテンポラリーな現象としては、世の中には何かしら存在はしているとは思う。わざわざ、密かにそれらに出会いに行く人も居るかもしれない。この様な時、その人にとって芸術だと思う。その出会いのために交通費というお金をかけて赴くかもしれない。 お題の無音の曲も、その場に赴いた誰か1人でも幸せを感じたり、人生を考えるきっかけになったりする事も有るかもしれない…私は行かないけど。
今回のアンケートはとても頭を悩ませて答えました。かなりの時間を要して答えたと思います。4分33秒のみを考えればやはり音楽ではないと思うのですが、同じケージの龍安寺やHaikuはやはり音楽と呼ぶべき作品だと思います。枯山水の石庭を表現した龍安寺、俳句の持つ最小限の文字数での感情表現を音で再現しようとしたHaikuなどを生み出したケージの作品を、私のような素人が「音楽ではない」と断ずることはできませんでした。また、楽譜が出版されて、コンサートのプログラムに並ぶことがある以上、音楽ビジネスの流通経路に乗っていることから、「音楽ではない」と断定することが憚られたのもあります。ただし、「好き嫌いは別として」という前提ありきですが。私個人としては「4分33秒」は行き過ぎた現代音楽への警鐘だったのではないかと感じています。ラフマニノフは保守的すぎて批判を受け、ケージは前衛的すぎて賛否を生む。これらの作品を保守・前衛の目印としながら、これから先の音楽というものが形作られていくのかもしれませんね。
芸術、音楽について、自分の認識で向き合うという言葉に、とても共感しました。鑑賞者と研究者は違いますよね。鑑賞者として作品に向き合う時は、自分にとってどうなのか、自分のために鑑賞すべきだと思います。芸術は一人ひとり個人のためのものです。そこから広がって何か起こる事もあるかもしれませんが、そうなっても根っこは変わってはいけないと思います。その中には、創作者や演奏者も入っていて、自分の感情や思考を吹き込むように作品に顕すことで生きることと創作が同義なものとなっていく、それが芸術家なのだと思います。私たちは作品を通して、その日常生活では得られない純度の高い感情、感覚、思考に触れ、共感していく行為で、自分も生きる喜びの糧にしています。技術という身体性のお話も、そこに繋がっていくと思うのですが、改めて、アートと呼ばれたりするものへの向き合い方が自分の中でも再認識されて嬉しく拝見しました。ありがとうございました。
こんなの音楽じゃない!と直感しました。でもこうして説明されると本当に深まります。ありがとうございます。
この動画の視聴者含めこれだけ多くの人間の思考や議論を喚起していることで、作品としては十分に成功しているということなのでしょう。私自身、今回のお話がきっかけで「音楽」についてアレコレ考えましたので……それはデュシャンの泉もまた然りということなのでしょうが、それでは何をやっても音楽・芸術なのかというと、それはまた別問題ですね。前衛というのは奇想天外だからこそ前衛であるのだと思いますが、それを一般化しようとすると話がおかしくなる、といった話のようにも思えます。なんだか自分でも何の話をしているのか、分からなくなって参りました……
音楽って何だろう? と考えさせられる話題ですね。面白いお話だったと思います。 ジョン・ケージ? 初めて聞いた名前です。4分33秒?無音? これが音楽だと言う人の話が聞きたいです、何を以って音楽と定義しているのか?その方の話をぜひ聞きたいと思いました。それは、車田さんや私なんかの考え方とまるで違う考えや感性を持っている人なんだと思います。 世の中にはいろんな人が居ますから。
コンサートでこれをやられると音楽とは感じないと思う。個人的な体験での感想ですが冬の北海道の田舎で雪が積もって本当に静寂で音がしない状態で仰向けに寝そべったら外部からの音は皆無だが自分の体内から発せられる音、呼吸の音や血液の流れる音が感じられ非常に不思議な感覚にとらわれた。あれだった音楽と言えるかもしれないと思った。体験しようとしてもくれぐれもそのまま寝て凍死しないようにw
「4分33秒」で言わんとするところは日本人だと禅や神道の自然の中に身をおいて瞑想することなど既に身近にある感覚ではないかと思っています。そのため、あえてコンサート会場で静かに周りの音や自分の心音に耳を傾ける必要性を感じないし同じことをするなら自然の中に身をおいての瞑想のほうが良いと思います(コンサートのチケット代も不要ですしね)。音楽や絵画で前提知識のない一般人が感動できない評論家の解説や美術商やオークションで付けられた金額でしか評価できないような作品の多くは興味が持てません。(絵画だとピカソとかダリとか 成田亨とかは好きですけど)
この曲をNHK交響楽団が演奏したのを会場で観たことがあります。その異様な空気に圧倒されました。同じ4分33秒でもそれは一般人に真似できるものではなく、一流の演奏家が楽器を前に何もしないことによって得られた特別な現象だったと思います。私はそこにお金を払う価値があると感じました。ただ、この一曲だけのコンサートではつまらない。やはりこの静寂というのは、他にも音楽があって成立するものだとは思います。
4分33秒や前衛芸術について大変面白い論考をいただき、ありがとうございました。身内に自閉スペクトラム症(ASD)がいるため、その道の書籍を色々と勉強しているのですが、最近はASD者の社会性の困難さだけでなく、感覚の独特さもクローズアップされていることを知りました。それを知り、ジョン・ケージも独特な感覚(聴覚)を持つASD者で、音に対して独自の感覚を持っていたのかなと、思い至りました。車田先生の仰る音楽の定義は多くの人が納得するものだと思いますが、ケージにはあらゆる音が等しい価値で聴こえていたのかもしれません。ケージの独特な感覚が、行き詰まりつつあった当時の現代音楽界隈にたまたま刺さったのでしょう。ただ、ケージがASDだったとすれば、その感覚は多くの人には共感も理解もできないし、その独特な音感を持つ人もこれから現れないでしょうから、真の意味での後継者は現れず、将来はケージは時代の徒花と見なされるようになるのかなと思っています。
発想としてはマルセル・デュシャンの『泉』と近いですよね。つまるところ「アートとは作品そのものというよりもコンテクストだ」。
素人からすれば単純にホール内での生活音ですよそれに演奏の度に違うのでは作品ではなくただの音だと思います「誰にでもできるものは」のくだり、腑に落ちましたいつもありがとうございます
音と音楽にそれほど違いがないというのは、色と絵画にそれほど違いがないと言っているのと同じように感じます😮偶然性には再現性がほとんどないという点が、演者のコントロール、即ち「演奏」というものと馴染まないのだと思います。
わたしは車田さんと同じく物事の理由を考える方です。今回も同じ見解でした。音楽ではなく一般論ですが、ネット記事に対するコメントで、年々、多くの人が記事の内容や世間の評判に流される傾向が強まっている気がします。はちみつ。スーパーなどでは種類が少ないですが、日本でも生産者の段階では花ごとに分かれています。わたしはミカンなど軽めなのが好きです。
とても考えさせられました。ケージのこの曲は本当に有名ですよね。絵で言えば、モナリザの絵からモナリザの肖像部分を切り取るか黒く塗りつぶして「モナリザ」と発表する感じでしょうか。背景だけしか無くても誰でも「モナリザ」と分かりますから。最後におっしゃっていた、モーツァルトの音楽がなぜ心に訴えかけて来るのか?という問題ですが、それが解けた時=脳と音楽の関係が完全に解明された時、その法則が解明された時、その時が「音楽の命日」となる気がします。つまり人間がアレコレ悩んで音楽を作る必要のなくなる時なのですから。その時、人間の出番は無くなると思います。だから、それが解明される日が来ない事が人類の幸福のような気もします。でも全ての人の心を100%満足させる物を提供できるようになる、と考えると必要かも、ですが。
コミュニティにも書きましたが、形而上学と考えれば「何らかの意味・意図」はあるのかもしれませんが、バークリーの言うところである「存在するということは知覚されることであり、唯一確かな実体とは自らの知覚だけである」という独我論から考えると、この「無」から何かを「知覚」できるかどうかによって評価は変わるのでしょうが、私はそこから「知覚」することはできません。個人的にはやはり「これ」は「ある種の哲学❓」であって、残念ながら「音楽」ではないと思っています。
キノコ研究家でもありました🍄音楽では無いと思いますが、環境音や体内の音を大勢集まって楽しむというのは面白いと思います。便器の話は納得です。便器サインアートは便器を一からハンドメイドしていたら発想の奇抜さ含めて芸術として感銘を受ける部分もあると思います。発展すれば便器の形状自体にも芸術性が生まれそうです。
興味深いお話いつもありがとうございます。4分33秒なんて作品があるのは初めて知りましたが先生の話を聞きながらファーウェイの壁紙作ってる人達が塗料を床にぶちまけてみたり口に含んで吹きかけてみたりして何回も試行したした末に偶然にできたものの中でこれはというものを採用すると言ってる動画を思い出しました。4分33秒それ自体は音楽とは限らないかもしれませんが試行回数を増やせば感動するものが偶然に出来上がる可能性もあるのではないかと思いました。でも音の世界では現実的ではないのかもしれませんね
本命題は、日本語で言えば「静寂」との比較により論争になると思います。静寂の表現には様々あります。例えば、日本の能楽の「雷電」の終止の後の一定の間です。また西洋音楽にては、オペラの蝶々夫人の第二幕の、港の夫の船を待って眺める終止の間の空間です。静寂の表現には、無音と、無音だが心情や空間の風景を音楽で表現する様々な手法があります。能楽、オペラ両者とも、そこには車田さんのおっしゃるとおり、kunstが存在します。また、私が、車田さんに同意する理由は、我々自身が美を感じ得る人間性そのものある人間だからであるからだと思ってます。ジョンケージさんが表現されたものは、音楽と仮定した場合、総合時間のみです。私は、この総演奏時間の意味を考察しましたが捉えられませんでした。しかしながら、敢えて終了時間を設定したところにジョンケージさんの優しい人間性だけは少しだけ垣間見れました。(苦笑)
4分33秒は演劇とかパフォーマンス、もしくは思想の分野になると考えています。音楽ではありません。しかしジョン・ケージの名誉のために付け加えるならピアノ音楽In A Landscapeという幻想的な作品があり愛聴しています。
私も音楽ではないと思います。ただの奇異なパフォーマンスと思います。
興味深い解説をありがとうございます。私が初めてジョン・ケージの「4分33秒」を知ったのは、おそらく小学校の高学年だったと思うのですが、私の直感的な最初の感想は「この作曲家は音楽のセンスがない」でした。それは秒数をタイトルにしていることが原因で、私は「161小節」のようなタイトルをつけるべきだったのでは?と考えていました。その考えが変わったのは、大学に入ってからカラオケに行ったときに「間奏10秒」という表示を見たときでした。例えば、BPMが100の曲の間奏を聞きながら正確に秒数をカウントできる人がどのくらいいるでしょうか?明らかにこれは音楽に携わっていない人に対する表示としか考えられません。そのときにジョン・ケージが「4分33秒」というタイトルをつけた理由は、音楽関係者ではなく、音楽に関心のない人こそがターゲットだったからなのではないか?ということでした。今回の動画の中で「4分33秒は音楽なのか?芸術なのか?」という問いを先生は問いかけてくださいましたが、私の結論は「4分33秒は哲学である」ということです。人間の脳で単語を用いて分類する概念の1つとして存在している「音楽」という存在はどこまで含むのか?ということを人類に問うたのではないでしょうか?そのような問いに対してジョン・ケージは一般的な音楽のイメージとは対極にあるものを投げかけたのではないでしょうか?明らかに音楽として受け入れられないものを音楽として発表したら、人類にとって「音楽とはなにか?」を突きつけられることになりますし、実際にこの動画でも「4分33秒が音楽ではないと考えられる理由」を先生が整理して述べてくださいました。そういう意味では、このような議論の題材としてはうってつけの作品であると言うことができます。これだけでも十分にこの作品には哲学的な存在意義があるのだと私は恥ずかしながら考えています。
全員に、心の奏でる音楽あれば音楽になるかも知れませんが、あの当時世界でも五指で足りる人しか居ませんでしたからね…心の奏でる音楽を持つ人3人に演奏してもらいたい気もします。…増やすか…
1950年代のニューヨークに住んでいたら、我々が感じるよりもずっと静寂の価値が高くなるかも知れないとは思った
先生楽しみにしていた動画をアップしてくださりありがとうございます。4:33が音楽かそうでないかということをきっかけに、聴衆が「耳を澄ます」という大切な点に導いてくださったように思います。私たちが元々持っている自然体の姿、"人間の原点に帰る"という点にあらためて気が付かせていただいたように感じました。"耳を澄ます"ということは、人が何かを感じ取ろうとする無意識でもあり意識的な行為で、そこには好奇心や想像力、知覚力といった能動的な活動が関係しているように思います。そうした人間本来の姿を楽しむことで、小さなことに気がつきますし、あらゆるものを創造してくれた神に感謝の気持ちが湧いて、賛美したい、それを表現したいという気持ちになって、音楽という形に表れるのだと思います。私たちの身の回りには感謝できるものが実にたくさんあって、あまりにも忙しすぎて、あるいは深く考えずに日々を過ごしているので大切なことが見えなくなっている……4:33の作品を体感して、音を聴くことに対するこれまでの自分の姿勢が良くなかったなと反省しています。気がついた今、心から悔い改めることも必要だとさえ感じました。できるなら、静かな場所を探してゆっくりと深く考える時間、豊かな心を育てる時間を積極的に見いだしていきたいものです。人間の本質的な深い部分を探求することは楽しいことですから……豊かな心を持ってたくさんの感動に出会うなら人生は豊かになります。音楽も豊かになっていくでしょう。先生が、いつも大切なことに気がつかせてくださることに感謝しております。ありがとうございました ✨☕️✨
素晴らしいお話!ここだけのものとしておくには勿体ないです。
私は音楽としては認知していませんが、明らかにアートであると思っています。しかし、その表現(演奏)に対価を払いたいかと言えば、断然NOです。断固NOです。そもそも、現代前衛音楽全般を音楽として認められず、忌避してしまいます。
“芸術は技術によって表現されるもの” “芸術は技から生まれた”に賛同したいです「解釈の余地がある」という点も大事なのかなと思っております「この作品はどのようなものなのか?」をちゃんと構築しうるものである、といった意味です4分33秒のように休符だけでは、解釈の余地を見出しにくいと感じてしまいます強いて言えば環境音を聞く音楽ということなので、奏者自ら必死で耳をすますパフォーマンスが必要なのではないでしょうか?作者にはその作品がある程度ふさわしく聴衆に伝わることへの熱意を持って頂きたいと個人的には思っています
「音楽でもなく芸術でもない」説明を受けて 確かにと腑に落ちました
いろんな考え方があるとは思います。ですがこの動画で語られた「音楽・芸術であるか否か」の線引きに関して、私は全面的に賛同します。最後に語られた「なぜそれは人を感動させるのか」という問いに答えようとする努力を現代アートは放棄しているように思えます。ただただ乾いた印象しか受けず、なぜか悲しい気持ちになります。
僕は演奏時の静寂の中に微かに聞こえる息の音や体と椅子が擦れる音などから生命を感じて心を多少なりとも動かされるので音楽だと思っています!いろんな考え方がありますね
観点によるでしょう。作曲家が作品として作ったものだから音楽、そんな誰も絶対に聴きたいとは思わないようなものは音楽ではない。そして音楽として「成りうる」と「成っている」は異なる。ジョン・ケージの面白い作品もあるが、これは音に操作が加えられていないので音楽に成っていない。この動画の解説はとても参考になりました。
車田さん❤正論ありがとう🎉
裸の王様に裸だよと言ってもらえた感じです😀この曲(?)は音楽というより、話題性だと思います。しかし現在はいろんなジャンルの音楽がありますね。Noise Musicなどと呼ばれていますが、雑音も一定の規則で演奏すると、音楽性が感じられるような気分になります。全く無規則な雑音を聞かされるのには、宇宙空間で聞こえてくる音のようと笑って感想を述べることはできるけれども…。「悲しき雨音」の冒頭の雷鳴のように、曲中にアクセサリーのように雑音が入るのはありだと思う。三味線のさわりも一種の雑音だけれど…😅
車田さん。暑中見舞い申し上げます❤
「僕はこの作品を音楽だとは思っていません。そして芸術作品だっていう風にも思っていません」先生、良くぞ断言しました🎊🎈何とも清々しい。良かった、良かった😊これを「音楽」と言ってしまったら、夏休みの絵の宿題を、画用紙が真っ白なまま提出する子供が続出するのではないか(ウチの息子ならやりかねない😅)と心配していたのです。それは冗談だとして🤭 本当に深い内容の解説でした。私も時々「私は何故この音楽に、こんなにも惹かれるのだろう」と考えることがあります。音型なのか、リズムなのか。それより、この感情は何処から来るのだろうか、とか。音楽は楽しいです。「音楽」のことを考えるのも楽しいです。ですから、先生の解説を何よりも楽しみにしています💐💐💐
とても興味深いご意見ありがとうございますこれが音楽かどうか、芸術かどうかに関しては様々な意見があり、議論される事自体が現代芸術の面白さなのではないかと思いました
楽しい お話しありがとうございました。次のお話しも楽しみです
ジョンケージさん、確かに、この曲は、私も音楽だとは思わないですね。これは、いろんな方々に聞いてもらって、どう思うか聞いても、あまり意味がないような気もしますね。ストラビンスキーの春の祭典が、初演された時にも、賛否両論がありましたね。しかも、大騒ぎになり、再演されるまで、時間がかかりましたね。しかし、今では、名曲になってますね。演奏される機会も多いですね。私も難しい事は、よくわからないので、なんともいえないですが。視覚の事を考えると、映像を見ながら聴くという事もいいですね。芸術とはなんであるか、という事を考える必要がありますね。人の心を動かすことが音楽の本質かもしれないですね。蜂蜜の飴、美味しそうですね。蜂蜜レモン味は私も好きです。
今回のお話は音楽とは何か、芸術とは何かということを考えるための見通しのよいガイドラインを示していただいたという点でとても素晴らしかったと思います。どうしてモーツアルトやベートーベンの音楽が人々の心に訴えかけるのかが学問的になかなか解明できないかということの根底には、人間の精神活動への理解がまだ十分な状態に達していないということがあるのではないかと考えています。たとえば自然人類学は全ゲノム解析が可能となって大きく変わりました。このようにいくつかの学問の分野でもデータサイエンスによって新しい次元が見えるようになりました。音楽、あるいは音に関する人間の精神活動をデータサイエンスとして研究することで音楽の本質が深く理解できるようになるのではないでしょうか。
今日はなんだか、すごく濃いお話を聞きました。「4分33秒」と言う作品がどうとか言う次元ではなく、動画の27分40秒以降のお話しが、「グサ!」と刺さりました。音楽には、芸術には、まだまだ未開の秘境があるのですね。
地元の音楽館でJ・ケージの作品だけのコンサート(白石美雪氏の事前レクチャー付)がありまして、当日「4分33秒」はプログラムに入っていませんでしたが、レクチャーの動画の中での演奏(自作自演)では、アメリカ・マンハッタンの公園にピアノを持ちだしていましたので、彼が意図したのは必ずしも「無音」ではないんだな、と何気に思いました。ただ、同日に聴いたプリペイドピアノのための作品や、舞踊付の「フォー・ウォールズ」などを聴いて「個人的に」思ったのは、J・ケージ氏は「音を媒体にした思想家」なんじゃないか?・・・ということですね。
今この瞬間に刻んでいく時間、いまここという感覚をOpen earsで感じるという事 なのかと思います。ケージにとっては音楽かどうかという議論は意味が無かったのではとも思います。
7月もありがとうございました!( オルガンの動画が1番楽しかったです♪ほのぼの気分で何気なくコメントに目を向け…?!まさか?!)いつも僅かで🙏💦
どうもありがとうございます😊
@@kazuhisakurumada様m(_ _)m こちらこそです。
解説ありがとうございます。私は将来、音楽だと思えるようになりたいです。ジョンケージが全ての音を愛したように、その境地には非常に興味があります。
ぶっちゃけただの環境音、最初にやったから評価されてる世紀の一発ネタ作品‼
なんの音も出さないのだから、どう考えても音楽とは思えません。有名な人がするから注目されるけど、素人が舞台でこんな事したら、大変な事になりそうです😅
「音楽」という概念に「バー」をつけた、ということなんですね。
音を発しているのは聴衆であって、演奏者じゃないから音楽とは言えないんじゃないかなと思いました。
確かに4分33秒は話題性も、意図していたのでしょう。僕もベルリンフィルの演奏はあまり興味を惹かれません。しかしある時ドキュメンタリーの中にあった4分33秒を聴いてみたところ、西洋近代音楽を聴く耳から変わるという体験をしました。それは無いことにされていた音、に耳を開く体験でもありました。音楽というものが音への人間の関わり方だとすれば、ジョン・ケージは音との新しい関わり方の可能性を示したと言えるのではないでしょうか。例えば坂本龍一の晩年の美しい諸作品はケージの影響なしにはちょっと考えられません。(でもケージの音楽を楽しもうという人は少数派なんだろうなとは思いますが)ジョン・ケージは音を楽しむことに心を傾けた人と言えるのではないだろうかと思っています。
アンデルセンの裸の王様ですね知ったかぶりしてる人を嘲笑うためにジョンケージは作曲したんじゃないの?ちなみにジョンレノンも似たような作品を作ってたけど
わたしは音楽だと思います。前提として、演奏家がいて楽譜がありホールに二兎が集まり決まった時間を共有することです。くしゃみが音楽とは思いません。その場で発生する音が音楽とは思いません。よって動画や音源でこの作品があっても音楽とは思いません。例えば、コンサートに行って1音目が発せられるすぐ直前までの時間や空間は、何の価値も受けるものもないと思いますか?私はそこまでが結構好きです。そして、コンサートが終ってからからも好きです。そこに音楽がないとは思いません。もちろんその間に素晴らしい演奏があると感動できますし、その前後に与える影響は大きいです。演奏そのものがもつ価値だとだと思います。音楽に限らずオリンピックスポーツもまさにそうでしょうが、その前後から受けるものはあると思います。良い音楽とは全く思いませんし体験したいとも聞きたいとも思いませんが、初めて聞きに行ったお客さんは明らかにその前後の空間を体験し感情の動きを体感したと思います。感情を動かし体感できるものであることは音楽の要素であるとおもいます。規則性やプログラマブルなことも言われていますがそれは音楽でなくても人が関わること自然が変わることにはすべてにおいて存在していると思います。音楽じゃなくてもです。音楽の特徴を、その前後に受けるものと音楽により感情や心が動かされること、それは【休符】も含めた規則的な音によるとすればやはりこれは音楽なのでしょう。
『4分33秒』の10年後に、続編(?)の『0分00秒』も作曲(?)し、初演は本人によって日本で行われたという。(正確には"舞台上で「この曲を書く」という行為を行った"という事らしいが)
音と音楽は違うものだと思います。窓から見える景色が芸術作品でないのと同じです。
ハプニング芸術、コンセプチャル・アート一般の病。Kunst、いい概念ですね。
「音楽」の定義を疑問視させる効果はあっただろうね。4'33"=273"の273が絶対零度の -273 に由来する、というのは面白い謎々だね。私はもうじきあの世行きなので手持ちのディスクを順番に聴いているんだが、聞き残しの無いように一度に2枚ずつ2台のステレオを使って聴いている。このときケージのこの作品だけは有益なことこの上ないんだ。
ケージの「4'33"」(1952)の影響下に書かれたと思しき前衛音楽の一つに、ロバート,モラン(1937-)の「ピアニストを伴うピアノのための作品」(1965)というのがある。楽譜には「ピアニストが舞台に登場し即コンサートピアノに赴く。ピアノに這い上がり弦の上に座り込む。ピアノがピアニストを奏でる。」と書かれている。これはケージに触発された作品としては興味深いと思うが、実演されたかどうか。ウチの猫をピアニストに仕立てたなら可能ではないかな。
今回も分かりやすいのに、とても考えさせられる内容でございました。なんか、このシリーズ動画も、談話は純粋な音楽で、コーヒータイムがめちゃくちゃ偶然性がありそうな感じの音楽か?とか変な妄想をしてしまいました。(笑それはともかくですが、私の意見は割と単純で、この作品はアンチテーゼ的な実験であって、休符も音楽の大事な一部だよ、って教わったわけだから、じゃあ全部休符にしたら、、、やっぱそれは違うよね。それはさすがにね。っていうことなだけなんだと思ってます。(と、思わないと、もう延々に考えちゃうので。。)
ジョン・ケージの『4分33秒』は前から知ってますが車田さんの解説に賛成で、音楽ではないと思います。一種の思想でしょうか?それよりこれをベルリンフィルが「演奏」したって言うのが呆れます。
興味深く拝聴しました。個人的には個々の認識によるというのであれば、おそらく音楽だし、きっと芸術だと認識しています。例えば、100音からなる曲があるとして、作曲家は演奏する度に1音ずつ規則的に消していく指示をしたとします。毎日演奏すると100日後には何の音もない演奏時間だけの曲が残りますが、この曲はどこからが音楽でどこからが音楽じゃなくなるんだろう、そんなことを考えていました。つまるところ、技術論を超えたところに音楽の深みや本質、あるいは芸術の真髄があるとすれば、全休符からなる音楽も芸術足り得るのだろうと考えています。それはおそらく、作者の思想がそこにあり、またそれを受けた私達の心のざわめきが生じ得るからです。誰かの心にざわめきが生じるのであれば、自分が何も感じないからと言って、他人の心のざわめきを否定することもないなぁと今は感じています。
音楽の中に奇をてらってギリギリのところを攻める前衛音楽というジャンルがあってもいいのだけど、現代音楽がイコール前衛音楽になってしまったのが駄目なんだと思います。正統派のクラシック音楽をまっとうに発展させる流れがなくなってしまったのはなぜなのか。聴衆の関心がポピュラー音楽に向かってしまったから、なんでしょうか? そのあたりがいちばん知りたいです。
「奇抜な発想」は人の心を動かす技術(テクニック)ではあっても芸術(アート)ではない、って感じですかね確かになぁ…意表を突いた表現はそれ固有のものでしかなく、体系化はされないですもんね
4分33秒は、考えとしては面白いと思います(興味はあります)が、実際にその場にいたら、音楽とは認められないと思います。他の作曲家が考えた、ラジオを流す偶然性の音楽も、同じです
それもジョン・ケージです。
音楽の規則性、勉強になりました。芸術は技から生まれる、その通りですね!😊
僕はARTだと思いますが、芸術ではないと思います。ベルリンフィルのメンバーがそれを行うのと、同じ数の人を集めて行うのでは効果、感じが違うと思う。それを表現する必然性と確信を持って生み出したのだと感じます。規則性からの逸脱というと、フリージャズ、後期のマイルス・デイヴィス、コルトレーンなどもあります。不規則で不協和な状態から規則性が立ち上がって行くという音楽表現、天地創造のようでもあり面白そうです。気になったので調べると、芸術とARTは違うことが分かりました。アメリカは現代ARTを推進していますね。歴史が短くコンプレックスがあるからだと思う。余談果物、花、お酒(酵母菌)にも音楽が効果があり、モーツァルトが良いと話題になった時期もあります。現代も一部で行われています。
車田さん完全に同意します。単なる売名行為としか思えない聴衆のくしゃみが音楽ですか?メロディー、リズムハーモニーが存在しない馬鹿げた極論。指揮者は不要。試しにオリンピックの式典でしてみたらバッシングものです芸が無いので芸術ではないと思います。🤔
演奏前の一音と演奏後の一音、4分33秒を一拍とした、音楽の礎を拍と観る理解も出来ましょうか?
この動画の頭から流れる背景音楽はなんて曲でしょうか……
音楽の父バッハの『ゴールドベルク変奏曲』BWV988です。このチャンネルで2022.8.24に[名曲解説]として紹介されいます。車田先生ならではの視点と、この曲に対するリスペクトと愛に溢れる珠玉✨の解説‼︎ 絶対お薦めです😊🎵
@@sH-cr5zcありがとうございます!聞き覚えのある素敵な曲だと思っていたので助かりました!解説の動画も見てみようと思います︎😊😊
日本で売られている国産蜂蜜のほとんどが西洋蜜蜂の蜂蜜ですが、日本蜜蜂の蜂蜜は濃厚で美味しいですよ。
帰宅部は部活動かって感じに似てると思います
私はこれを芸術、音楽と認識します。意図を持った表現だから。ただしチケットを買うことはありません。私は楽器、声の響きそのものが好きだから。
努力と緊張感をもって技術を習得していき、心・感情を伝えるべく高みを目指すのが「芸術」だから、♪4分33秒は「芸術」ではないと思います。ベートーベン、シューベルト、ブラームス達が時には命を掛けて時間を費やして作曲し、楽譜に書き起こしたその苦労を慮ると、生み出された音符が1つも無いだなんて何とも楽ちんな楽譜。心も無い。が、休符を表現した異端の「音楽」で、彼はもしかしたら考えに考え、長い年月、悩みに悩んだのかも知れない、決して1日や数日の思い付きのアイデアで出した結果の作品ではないのかもと。音楽の世界から除外されるべく奇抜な作品は他に存在し、まだギリギリ音楽の枠内に入っているという考えを捨て切れません。それに、指揮者、オーケストラの方々が正装してステージに上り、練習時間を費やし、真剣に取り組んでいる姿を目の当たりにすると、( 決して同情とかではなく)、音楽の1つの表現なのかなと、やっぱり思うのです。演目がこの曲だけだったら残念ですが、演奏会で体験してみたいとも思います。車田さんの今迄の動画を全て拝見し、感動し、勉強して来ていたつもり…でも、このような結論に至る私は、まだまだ勉強不足、屁理屈屋なのかしら?と落ち込んでいます(泣)が、今の正直な気持ちです。
規則性と同じ事かもしれませんが、再現性があるかどうかも音楽かどうかの一つかなと思いました。
なぜ、音楽が人の心を動かすのかは、いわゆる認知科学の研究課題であり、少しづつ研究がされています。例えば、オックスフォード大学で音楽などで感情が湧き上がった結果、肉体的変化(鳥肌)があった被験者は、「聴覚野と感情を処理する領域をつなぐ神経線維の密度が、普通より高い」ことが判明した、という研究結果が掲載されました。今後、脳科学や認知科学が人間の精神活動について色々と解明して行くでしょう。
「4分33秒」ですが、当時の流行であるハプニングの一種ですよ。音楽ではないし、ネタに過ぎません。音と音楽の境目はどこにある? に関しては、現在では全ての音を音楽の素材として使う、というコンセプトが確立していると考えますが、実際には99%の現代音楽は、12音を基礎として楽譜に記録できる音楽である点で、以前と変わっていません。あと、微分音の音階は音程が合っていないように聞こえてしまいますし、自然音、電子音などは、非主流の電子音楽に含まれるのではないでしょうか。
今回のテーマは色々考えさせられました。今思うと、落語とか漫才も音楽の一つじゃないかと思う様になりました。特に日本語は抑揚が多く音楽的要素ある気がします
私個人的としては、4分33秒は芸術としては成立しているように思います。彼が人類史上初めて環境音さえも音楽だと世に提示できたのは、彼の中に他の人にはない特別な才能・哲学があったからだと思います。自分でも作ろうと思えば作れますが、そのような思いに至ることができるのは彼の存在があったからこそです。作品を通じて世に議論をもたらした表現者としての才能は認めざるを得ません。無論、これが音楽かと言われたら眉唾ですが😊
もし、ここで言われている「偶然性も音楽」と言うのが、成立するならば… 私は、全く、ヴァイオリンが弾けません。その私が、フルオーケストラに混ざって、ベートーベンの第九に、「その時の、勝手気ままな気分で」、バイオリンの絃を引いたら? おそらく、私の「奏でる音」は? りっぱな音楽? それで言ったら、世界有数のオーケストラの演奏に混ざって、まだドレミくらいしか引けない人が、「誤った音を奏でる」のも、立派な音楽? 音程等が、正規の楽譜と違っていても、それも良い音楽? それは、きっと、多くの、ほとんどすべての人が「期待する音楽」とは、別物では、ないでしょうか。いいえ、この「下手な演奏もまた、素晴らしい音楽です」とするのは、「そう思いたい」「そう感じたい」人 only では? 音楽って、それほど、個人的な感覚が、第一なのでしょうか? ではまた、「4分33秒」よりも、だれかが「全休」の「3分12秒」を作曲したら、ひょっとしたら、その人は、「ジョン・ケージ」よりも、素晴らしい作曲家かも? それを言ったら、「ジョン・ケージ」よりも素晴らしい作曲家は、何万人もいるでしょうねぇ…あまりにも、個人的な「感覚」を尊重しすぎている、わたしは、そう思います。音楽はじめ、人間の感性に影響するのは、作った人だけではなく、みんながみんな、「ある事」「音楽」「絵画」等々から、様々な事を、感じれる事が、あるからだと思います。「4分33秒は、すごく気分が高揚する。君も聞き給え」なんて言われてみても、ねぇ…
ジョン・ケージの著書はすばらしいけど、音楽は、、。一度聴けば十分。プリペアド・ピアノですばらしいのは、アルヴォ・ペルトだね。ペルトは何度でも聴けるよ。
・・で、日本なら、その「蜂蜜飴」には添加物が「これでもか!」という程に加えられて販売されるのです。もういい加減に止めて欲しいです。先生が「音楽です」と仰られなくてホッとしました。
数学的には情報量ゼロですから、全く存在しないのと同じだと思います。偶然性も情報量ゼロだと思います。
ジョン・ケージは無類の厭世者だったようなので、自分の作品に喝采を送る聴衆や追従者を戒め(嘲笑し)ていたのかもしれません。
ご自分の認識から判断するというのはなるほどと思いました(当方はそれほどの認識を持てない、トレーニングも受けていないし)。今回の話としてはせまいと感じました。「4分33秒」を音楽として認めてほしいということでなく、幕末に来日した西洋人は日本の音楽がやかましいと感じた、というようなことを読んだことがあります。たとえば尺八の音楽はたいていざわざわ不純な音に感ぜられそうです。ところが楽器としては、フルートと同様、ただの筒に(いくつか音程用の穴があるものの)発音器なしで息を通すだけという点で同じ原理と思われ、じっさい濁りのない音を出せるのを最近知りました。認識がまったくかわらないといえないとすれば、まだ説明としては何かが必要かも知れません。
ケージにとっては決して良い評価を与えなかったのではないだろうか。
TH-camで視聴できる比較的近年の演奏として、おっしゃるBerliner Philharmoniker のものがありました。これは高いお金を出しても鑑賞してみたかったと思いました。
竹林を通り過ぎる風がたてる音 それに耳を傾けること それを楽しむことができないのは悲しいそういうことの本質をむき出しにして提示したのが “4分33秒” まあ、この動画(コメントを含む)そのもの が “4分33秒” という作品のうちに包含されてしまっているのかもしれない…
んー...そうだなあ。。先ず、作品の生成とライブ性にその立ち顕れが抽象であるか、具象であるかを鑑みそこで反省的であるなら、少なくともその客観性にあって芸術ではあるかもしれませんし、純粋な時間観念の抽出には成功したのかも知れません。ただ、音楽を芸術のフォームとした場合には、ケージのかの作品はそうではない、という判断になるかなあ、と思います。だから、空間の呼び水としてのパフォーマンスアート、というかそんな感じを受けていました。その場合に、インタラクティブな対象をモノであるかも観念であるかも、一切措定してもいない点には好奇心を持ってしまいます。😊
これは論争を起こすための「策」ですから、批判することは彼の術中に嵌まることです。相手にせず無視すべきところですが、コメントしたので、もう手遅れです。
アメリカの作曲家ならルロイ・アンダーソンの方が好きです。 タイプライターをちゃんと楽器として取り入れながら、せかせか働く現代人を上手に音楽で表現していると思います。
ジョン・ケージの『4分33秒』は音楽では無いし、十二音技法〜前衛音楽はもはや『クラッシック音楽』では無いと認識しています。調性が無いモノは、『クラッシック音楽』ではありません。
数学と同じで、音楽も突き進めると抽象化されて難解になる。そしてその難解さは、人それぞれだし、究極は好き嫌いに帰着されるべきもの。
私もこれを音楽だとは思いません。さらに言えば自分にとって「楽」しくないものは音楽ではないとすら思っています。従って12音階技法、無調音楽なども、自分は楽しくないので音楽だとは思いません。自己中心的に聞こえるかもしれませんが、音楽であるかどうかは一人一人が決めればよいものだと思うのです。客観的に、これは音楽、これは芸術、ということ自体に疑問さえ感じます。客観的に見ているようで実は主観を言っているにすぎない気がします。屁理屈詭弁の類のような気がするのです。
全面的に同意します。子どもはともかく大人が「王様は裸だ」と言うのは勇気がいるし、誰も言わないことを言うのは、どんな非難を受けるかという恐れもあるわけですが、よく言って下さったという気持ちで一杯です。「ジョンケージという人は大作曲家らしい」→「その人の代表作だから名作なんだろう」という発想で無理矢理感動している人が大半ではないでしょうか。
頭の中に流れている理想の音楽を楽譜に再現しようという作業が作曲で、楽譜にそれを完璧に表すのは不可能だから意味はないと言ったら作曲という作業の放棄だと思います。偶然の音楽と言うのも、恋人の写真を見て恋人を偲んでいるときに、写真は100%現実を写し取るのは無理だから白紙の方がマシだと言われているような違和感を感じます。
今回の話題はとても奥が深いテーマで美学、美とは何かにも通じるものと感じました。
和音を気持ちよく感じる。フェラーリの加速するエンジン音を高揚して聞こえる点など、人の感覚は本当に不思議に思います。
車田先生、こんにちは。とても興味深い配信をいつもありがとうございます。
今年のダニール・トリフォノフのリサイタル@紀尾井ホールでは、アンコールとしてこの曲が演奏(?)されました。私は、彼が席につく際、小さなもの(おそらく腕時計)をピアノの上に置くところが見えたので始まってすぐ、「おおっ!あの曲だ」と気づきました。
私が、演奏が終わるまで考えていたことは、本日の聴衆は全員こういう楽曲の存在を認識しているけど、初演の際ははたしてどういう反応だったのかなと言うことでした。私を含めて、その日のこの演奏(アンコールはこの4分33秒1曲のみでした)に対する反応はとても温かいものでしたが、それは「あの有名な曲をLIVEで聞けた」という一種の感慨だったのではないかと思います(少なくとも私はそうでした)。
とはいえ、もう一度聞きたいとは思いませんけどね。
自然の美しい景色に感動することはありますが、それと絵画とは違います。
対称そのものと人の知覚と感情・思考を通して作られたものは別物です。
それと同じことだと思います。
4分33秒は音楽とは言えないでしょう。
「僕は音楽だと思っています」と言われなくて良かったです。( ´•ᴗ•ก; ) ホッ
さて、いつも音楽家ならではの濃いお話を聞かせてもらって「さすが」と感心させられていますが、今日のこの動画もいつもと同じ重みがありました。何もない空白の曲(?)を取り上げながら、明確で説得力のあるお話。
子供の頃、「芸術」を辞書で引いたら「美を追及する人の活動、またその作品」のように書かれており、妙に納得したのを覚えています。どんなに優れた機械でも、実用品は芸術作品とは違う。どれほど美しい景色でも、自然の物は芸術作品とは違う。今回は特に後者。芸術作品は、偶然できる物とは別なんですよね。
「環境音を音楽だと言い換えているだけ」・・・納得の一言でした。
ほんと「僕はこれを音楽だと思っている」と言われなくて良かったです😅
真っ白なキャンバス、空の皿の例えは笑えました。帰宅部が部活動?観客の咳やガサガサ音にお金を出す気は無い 等のコメントにも同感。
私も“解釈的な芸術”には入るかな??くらい。
…ただ、よく考えたらなのですが、お金を払わないが起こる事として
①人々が行交う雑踏の中で、ふとその雑踏の音が心地よく意識を集中させられる事が時にあり、自ら浸って聴いてる場合がある
②観光地で寺に入ったら 静寂の中で鳥のさえずりや 木の葉がかすかな風で鳴る音に自ら心奪われる…
③白ご飯しか無いがお腹空いてる時に、隣の家から濃い味のおかずの良い匂い🍃で美味しく 白ご飯のおかずにして食べる。それはそれで幸せ。
…等など、自分にとっては価値の有るコンテンポラリーな現象としては、世の中には何かしら存在はしているとは思う。わざわざ、密かにそれらに出会いに行く人も居るかもしれない。この様な時、その人にとって芸術だと思う。その出会いのために交通費というお金をかけて赴くかもしれない。
お題の無音の曲も、その場に赴いた誰か1人でも幸せを感じたり、人生を考えるきっかけになったりする事も有るかもしれない…私は行かないけど。
今回のアンケートはとても頭を悩ませて答えました。
かなりの時間を要して答えたと思います。
4分33秒のみを考えればやはり音楽ではないと思うのですが、同じケージの龍安寺やHaikuはやはり音楽と呼ぶべき作品だと思います。
枯山水の石庭を表現した龍安寺、俳句の持つ最小限の文字数での感情表現を音で再現しようとしたHaikuなどを生み出したケージの作品を、私のような素人が「音楽ではない」と断ずることはできませんでした。
また、楽譜が出版されて、コンサートのプログラムに並ぶことがある以上、音楽ビジネスの流通経路に乗っていることから、「音楽ではない」と断定することが憚られたのもあります。
ただし、「好き嫌いは別として」という前提ありきですが。
私個人としては「4分33秒」は行き過ぎた現代音楽への警鐘だったのではないかと感じています。
ラフマニノフは保守的すぎて批判を受け、ケージは前衛的すぎて賛否を生む。
これらの作品を保守・前衛の目印としながら、これから先の音楽というものが形作られていくのかもしれませんね。
芸術、音楽について、自分の認識で向き合うという言葉に、とても共感しました。鑑賞者と研究者は違いますよね。鑑賞者として作品に向き合う時は、自分にとってどうなのか、自分のために鑑賞すべきだと思います。芸術は一人ひとり個人のためのものです。そこから広がって何か起こる事もあるかもしれませんが、そうなっても根っこは変わってはいけないと思います。その中には、創作者や演奏者も入っていて、自分の感情や思考を吹き込むように作品に顕すことで生きることと創作が同義なものとなっていく、それが芸術家なのだと思います。私たちは作品を通して、その日常生活では得られない純度の高い感情、感覚、思考に触れ、共感していく行為で、自分も生きる喜びの糧にしています。技術という身体性のお話も、そこに繋がっていくと思うのですが、改めて、アートと呼ばれたりするものへの向き合い方が自分の中でも再認識されて嬉しく拝見しました。ありがとうございました。
こんなの音楽じゃない!
と直感しました。でもこうして説明されると本当に深まります。ありがとうございます。
この動画の視聴者含めこれだけ多くの人間の思考や議論を喚起していることで、作品としては十分に成功しているということなのでしょう。私自身、今回のお話がきっかけで「音楽」についてアレコレ考えましたので……
それはデュシャンの泉もまた然りということなのでしょうが、それでは何をやっても音楽・芸術なのかというと、それはまた別問題ですね。前衛というのは奇想天外だからこそ前衛であるのだと思いますが、それを一般化しようとすると話がおかしくなる、といった話のようにも思えます。
なんだか自分でも何の話をしているのか、分からなくなって参りました……
音楽って何だろう? と考えさせられる話題ですね。面白いお話だったと思います。 ジョン・ケージ? 初めて聞いた名前です。4分33秒?無音? これが音楽だと言う人の話が聞きたいです、何を以って音楽と定義しているのか?その方の話をぜひ聞きたいと思いました。それは、車田さんや私なんかの考え方とまるで違う考えや感性を持っている人なんだと思います。 世の中にはいろんな人が居ますから。
コンサートでこれをやられると音楽とは感じないと思う。個人的な体験での感想ですが冬の北海道の田舎で雪が積もって本当に静寂で音がしない状態で仰向けに寝そべったら外部からの音は皆無だが自分の体内から発せられる音、呼吸の音や血液の流れる音が感じられ非常に不思議な感覚にとらわれた。あれだった音楽と言えるかもしれないと思った。
体験しようとしてもくれぐれもそのまま寝て凍死しないようにw
「4分33秒」で言わんとするところは日本人だと禅や神道の自然の中に身をおいて瞑想することなど既に身近にある感覚ではないかと思っています。
そのため、あえてコンサート会場で静かに周りの音や自分の心音に耳を傾ける必要性を感じないし同じことをするなら自然の中に身をおいての瞑想のほうが良いと思います(コンサートのチケット代も不要ですしね)。
音楽や絵画で前提知識のない一般人が感動できない評論家の解説や美術商やオークションで付けられた金額でしか評価できないような作品の多くは興味が持てません。(絵画だとピカソとかダリとか 成田亨とかは好きですけど)
この曲をNHK交響楽団が演奏したのを会場で観たことがあります。その異様な空気に圧倒されました。
同じ4分33秒でもそれは一般人に真似できるものではなく、一流の演奏家が楽器を前に何もしないことによって得られた特別な現象だったと思います。
私はそこにお金を払う価値があると感じました。
ただ、この一曲だけのコンサートではつまらない。やはりこの静寂というのは、他にも音楽があって成立するものだとは思います。
4分33秒や前衛芸術について大変面白い論考をいただき、ありがとうございました。
身内に自閉スペクトラム症(ASD)がいるため、その道の書籍を色々と勉強しているのですが、最近はASD者の社会性の困難さだけでなく、感覚の独特さもクローズアップされていることを知りました。
それを知り、ジョン・ケージも独特な感覚(聴覚)を持つASD者で、音に対して独自の感覚を持っていたのかなと、思い至りました。
車田先生の仰る音楽の定義は多くの人が納得するものだと思いますが、ケージにはあらゆる音が等しい価値で聴こえていたのかもしれません。
ケージの独特な感覚が、行き詰まりつつあった当時の現代音楽界隈にたまたま刺さったのでしょう。
ただ、ケージがASDだったとすれば、その感覚は多くの人には共感も理解もできないし、その独特な音感を持つ人もこれから現れないでしょうから、真の意味での後継者は現れず、将来はケージは時代の徒花と見なされるようになるのかなと思っています。
発想としてはマルセル・デュシャンの『泉』と近いですよね。つまるところ「アートとは作品そのものというよりもコンテクストだ」。
素人からすれば単純にホール内での生活音ですよ
それに演奏の度に違うのでは作品ではなくただの音だと思います
「誰にでもできるものは」のくだり、腑に落ちました
いつもありがとうございます
音と音楽にそれほど違いがないというのは、色と絵画にそれほど違いがないと言っているのと同じように感じます😮
偶然性には再現性がほとんどないという点が、演者のコントロール、即ち「演奏」というものと馴染まないのだと思います。
わたしは車田さんと同じく物事の理由を考える方です。今回も同じ見解でした。
音楽ではなく一般論ですが、ネット記事に対するコメントで、年々、多くの人が記事の内容や世間の評判に流される傾向が強まっている気がします。
はちみつ。スーパーなどでは種類が少ないですが、日本でも生産者の段階では花ごとに分かれています。わたしはミカンなど軽めなのが好きです。
とても考えさせられました。ケージのこの曲は本当に有名ですよね。絵で言えば、モナリザの絵
からモナリザの肖像部分を切り取るか黒く塗りつぶして「モナリザ」と発表する感じでしょうか。
背景だけしか無くても誰でも「モナリザ」と分かりますから。最後におっしゃっていた、モーツァ
ルトの音楽がなぜ心に訴えかけて来るのか?という問題ですが、それが解けた時=脳と音楽の関係
が完全に解明された時、その法則が解明された時、その時が「音楽の命日」となる気がします。
つまり人間がアレコレ悩んで音楽を作る必要のなくなる時なのですから。その時、人間の出番は
無くなると思います。だから、それが解明される日が来ない事が人類の幸福のような気もします。
でも全ての人の心を100%満足させる物を提供できるようになる、と考えると必要かも、ですが。
コミュニティにも書きましたが、形而上学と考えれば「何らかの意味・意図」はあるのかもしれませんが、バークリーの言うところである「存在するということは知覚されることであり、唯一確かな実体とは自らの知覚だけである」という独我論から考えると、この「無」から何かを「知覚」できるかどうかによって評価は変わるのでしょうが、私はそこから「知覚」することはできません。個人的にはやはり「これ」は「ある種の哲学❓」であって、残念ながら「音楽」ではないと思っています。
キノコ研究家でもありました🍄
音楽では無いと思いますが、環境音や体内の音を大勢集まって楽しむというのは面白いと思います。
便器の話は納得です。便器サインアートは便器を一からハンドメイドしていたら発想の奇抜さ含めて芸術として感銘を受ける部分もあると思います。発展すれば便器の形状自体にも芸術性が生まれそうです。
興味深いお話いつもありがとうございます。
4分33秒なんて作品があるのは初めて知りましたが先生の話を聞きながら
ファーウェイの壁紙作ってる人達が塗料を床にぶちまけてみたり口に含んで吹きかけてみたりして
何回も試行したした末に偶然にできたものの中でこれはというものを採用すると言ってる動画を思い出しました。
4分33秒それ自体は音楽とは限らないかもしれませんが試行回数を増やせば感動するものが偶然に出来上がる可能性もあるのではないかと思いました。
でも音の世界では現実的ではないのかもしれませんね
本命題は、日本語で言えば「静寂」との比較により論争になると思います。静寂の表現には様々あります。例えば、日本の能楽の「雷電」の終止の後の一定の間です。また西洋音楽にては、オペラの蝶々夫人の第二幕の、港の夫の船を待って眺める終止の間の空間です。静寂の表現には、無音と、無音だが心情や空間の風景を音楽で表現する様々な手法があります。能楽、オペラ両者とも、そこには車田さんのおっしゃるとおり、kunstが存在します。また、私が、車田さんに同意する理由は、我々自身が美を感じ得る人間性そのものある人間だからであるからだと思ってます。ジョンケージさんが表現されたものは、音楽と仮定した場合、総合時間のみです。私は、この総演奏時間の意味を考察しましたが捉えられませんでした。しかしながら、敢えて終了時間を設定したところにジョンケージさんの優しい人間性だけは少しだけ垣間見れました。(苦笑)
4分33秒は演劇とかパフォーマンス、もしくは思想の分野になると考えています。音楽ではありません。しかしジョン・ケージの名誉のために付け加えるならピアノ音楽In A Landscapeという幻想的な作品があり愛聴しています。
私も音楽ではないと思います。ただの奇異なパフォーマンスと思います。
興味深い解説をありがとうございます。
私が初めてジョン・ケージの「4分33秒」を知ったのは、おそらく小学校の高学年だったと思うのですが、私の直感的な最初の感想は「この作曲家は音楽のセンスがない」でした。それは秒数をタイトルにしていることが原因で、私は「161小節」のようなタイトルをつけるべきだったのでは?と考えていました。
その考えが変わったのは、大学に入ってからカラオケに行ったときに「間奏10秒」という表示を見たときでした。例えば、BPMが100の曲の間奏を聞きながら正確に秒数をカウントできる人がどのくらいいるでしょうか?明らかにこれは音楽に携わっていない人に対する表示としか考えられません。そのときにジョン・ケージが「4分33秒」というタイトルをつけた理由は、音楽関係者ではなく、音楽に関心のない人こそがターゲットだったからなのではないか?ということでした。
今回の動画の中で「4分33秒は音楽なのか?芸術なのか?」という問いを先生は問いかけてくださいましたが、私の結論は「4分33秒は哲学である」ということです。人間の脳で単語を用いて分類する概念の1つとして存在している「音楽」という存在はどこまで含むのか?ということを人類に問うたのではないでしょうか?そのような問いに対してジョン・ケージは一般的な音楽のイメージとは対極にあるものを投げかけたのではないでしょうか?明らかに音楽として受け入れられないものを音楽として発表したら、人類にとって「音楽とはなにか?」を突きつけられることになりますし、実際にこの動画でも「4分33秒が音楽ではないと考えられる理由」を先生が整理して述べてくださいました。
そういう意味では、このような議論の題材としてはうってつけの作品であると言うことができます。これだけでも十分にこの作品には哲学的な存在意義があるのだと私は恥ずかしながら考えています。
全員に、心の奏でる音楽あれば音楽になるかも知れませんが、あの当時世界でも五指で足りる人しか居ませんでしたからね…
心の奏でる音楽を持つ人3人に演奏してもらいたい気もします。
…増やすか…
1950年代のニューヨークに住んでいたら、我々が感じるよりもずっと静寂の価値が高くなるかも知れないとは思った
先生
楽しみにしていた動画をアップしてくださりありがとうございます。
4:33が音楽かそうでないかということをきっかけに、聴衆が「耳を澄ます」という大切な点に導いてくださったように思います。私たちが元々持っている自然体の姿、"人間の原点に帰る"という点にあらためて気が付かせていただいたように感じました。
"耳を澄ます"ということは、人が何かを感じ取ろうとする無意識でもあり意識的な行為で、そこには好奇心や想像力、知覚力といった能動的な活動が関係しているように思います。そうした人間本来の姿を楽しむことで、小さなことに気がつきますし、あらゆるものを創造してくれた神に感謝の気持ちが湧いて、賛美したい、それを表現したいという気持ちになって、音楽という形に表れるのだと思います。私たちの身の回りには感謝できるものが実にたくさんあって、あまりにも忙しすぎて、あるいは深く考えずに日々を過ごしているので大切なことが見えなくなっている……
4:33の作品を体感して、音を聴くことに対するこれまでの自分の姿勢が良くなかったなと反省しています。気がついた今、心から悔い改めることも必要だとさえ感じました。
できるなら、静かな場所を探してゆっくりと深く考える時間、豊かな心を育てる時間を積極的に見いだしていきたいものです。人間の本質的な深い部分を探求することは楽しいことですから……
豊かな心を持ってたくさんの感動に出会うなら人生は豊かになります。音楽も豊かになっていくでしょう。先生が、いつも大切なことに気がつかせてくださることに感謝しております。
ありがとうございました ✨☕️✨
素晴らしいお話!ここだけのものとしておくには勿体ないです。
私は音楽としては認知していませんが、明らかにアートであると思っています。
しかし、その表現(演奏)に対価を払いたいかと言えば、断然NOです。断固NOです。
そもそも、現代前衛音楽全般を音楽として認められず、忌避してしまいます。
“芸術は技術によって表現されるもの” “芸術は技から生まれた”に賛同したいです
「解釈の余地がある」という点も大事なのかなと思っております
「この作品はどのようなものなのか?」をちゃんと構築しうるものである、といった意味です
4分33秒のように休符だけでは、解釈の余地を見出しにくいと感じてしまいます
強いて言えば環境音を聞く音楽ということなので、奏者自ら必死で耳をすますパフォーマンスが必要なのではないでしょうか?
作者にはその作品がある程度ふさわしく聴衆に伝わることへの熱意を持って頂きたいと個人的には思っています
「音楽でもなく芸術でもない」
説明を受けて 確かにと腑に落ちました
いろんな考え方があるとは思います。ですがこの動画で語られた「音楽・芸術であるか否か」の線引きに関して、私は全面的に賛同します。
最後に語られた「なぜそれは人を感動させるのか」という問いに答えようとする努力を現代アートは放棄しているように思えます。
ただただ乾いた印象しか受けず、なぜか悲しい気持ちになります。
僕は演奏時の静寂の中に微かに聞こえる息の音や体と椅子が擦れる音などから生命を感じて心を多少なりとも動かされるので音楽だと思っています!いろんな考え方がありますね
観点によるでしょう。作曲家が作品として作ったものだから音楽、そんな誰も絶対に聴きたいとは思わないようなものは音楽ではない。そして音楽として「成りうる」と「成っている」は異なる。ジョン・ケージの面白い作品もあるが、これは音に操作が加えられていないので音楽に成っていない。この動画の解説はとても参考になりました。
車田さん❤正論ありがとう🎉
裸の王様に裸だよと言ってもらえた感じです😀
この曲(?)は音楽というより、話題性だと思います。
しかし現在はいろんなジャンルの音楽がありますね。Noise Musicなどと呼ばれていますが、雑音も一定の規則で演奏すると、音楽性が感じられるような気分になります。全く無規則な雑音を聞かされるのには、宇宙空間で聞こえてくる音のようと笑って感想を述べることはできるけれども…。「悲しき雨音」の冒頭の雷鳴のように、曲中にアクセサリーのように雑音が入るのはありだと思う。三味線のさわりも一種の雑音だけれど…😅
車田さん。
暑中見舞い申し上げます❤
「僕はこの作品を音楽だとは思っていません。そして芸術作品だっていう風にも思っていません」
先生、良くぞ断言しました🎊🎈
何とも清々しい。良かった、良かった😊
これを「音楽」と言ってしまったら、夏休みの絵の宿題を、画用紙が真っ白なまま提出する子供が続出するのではないか(ウチの息子ならやりかねない😅)と心配していたのです。
それは冗談だとして🤭 本当に深い内容の解説でした。私も時々「私は何故この音楽に、こんなにも惹かれるのだろう」と考えることがあります。音型なのか、リズムなのか。それより、この感情は何処から来るのだろうか、とか。
音楽は楽しいです。「音楽」のことを考えるのも楽しいです。ですから、先生の解説を何よりも楽しみにしています💐💐💐
とても興味深いご意見ありがとうございます
これが音楽かどうか、芸術かどうかに関しては様々な意見があり、議論される事自体が現代芸術の面白さなのではないかと思いました
楽しい お話しありがとうございました。次のお話しも楽しみです
ジョンケージさん、確かに、この曲は、私も音楽だとは思わないですね。これは、いろんな方々に聞いてもらって、どう思うか聞いても、あまり意味がないような気もしますね。ストラビンスキーの春の祭典が、初演された時にも、賛否両論がありましたね。しかも、大騒ぎになり、再演されるまで、時間がかかりましたね。しかし、今では、名曲になってますね。演奏される機会も多いですね。私も難しい事は、よくわからないので、なんともいえないですが。視覚の事を考えると、映像を見ながら聴くという事もいいですね。芸術とはなんであるか、という事を考える必要がありますね。人の心を動かすことが音楽の本質かもしれないですね。蜂蜜の飴、美味しそうですね。蜂蜜レモン味は私も好きです。
今回のお話は音楽とは何か、芸術とは何かということを考えるための見通しのよいガイドラインを示していただいたという点でとても素晴らしかったと思います。
どうしてモーツアルトやベートーベンの音楽が人々の心に訴えかけるのかが学問的になかなか解明できないかということの根底には、人間の精神活動への理解がまだ十分な状態に達していないということがあるのではないかと考えています。
たとえば自然人類学は全ゲノム解析が可能となって大きく変わりました。このようにいくつかの学問の分野でもデータサイエンスによって新しい次元が見えるようになりました。音楽、あるいは音に関する人間の精神活動をデータサイエンスとして研究することで音楽の本質が深く理解できるようになるのではないでしょうか。
今日はなんだか、すごく濃いお話を聞きました。「4分33秒」と言う作品がどうとか言う次元ではなく、動画の27分40秒以降のお話しが、「グサ!」と刺さりました。音楽には、芸術には、まだまだ未開の秘境があるのですね。
地元の音楽館でJ・ケージの作品だけのコンサート(白石美雪氏の事前レクチャー付)がありまして、当日「4分33秒」はプログラムに入っていませんでしたが、レクチャーの動画の中での演奏(自作自演)では、アメリカ・マンハッタンの公園にピアノを持ちだしていましたので、彼が意図したのは必ずしも「無音」ではないんだな、と何気に思いました。ただ、同日に聴いたプリペイドピアノのための作品や、舞踊付の「フォー・ウォールズ」などを聴いて「個人的に」思ったのは、J・ケージ氏は「音を媒体にした思想家」なんじゃないか?・・・ということですね。
今この瞬間に刻んでいく時間、いまここという感覚をOpen earsで感じるという事 なのかと思います。ケージにとっては音楽かどうかという議論は意味が無かったのではとも思います。
7月もありがとうございました!( オルガンの動画が1番楽しかったです♪ほのぼの気分で何気なくコメントに目を向け…?!まさか?!)
いつも僅かで🙏💦
どうもありがとうございます😊
@@kazuhisakurumada様m(_ _)m こちらこそです。
解説ありがとうございます。
私は将来、音楽だと思えるようになりたいです。
ジョンケージが全ての音を愛したように、その境地には非常に興味があります。
ぶっちゃけただの環境音、最初にやったから評価されてる世紀の一発ネタ作品‼
なんの音も出さないのだから、どう考えても音楽とは思えません。有名な人がするから注目されるけど、素人が舞台でこんな事したら、大変な事になりそうです😅
「音楽」という概念に「バー」をつけた、ということなんですね。
音を発しているのは聴衆であって、
演奏者じゃないから音楽とは言えないんじゃないかなと思いました。
確かに4分33秒は話題性も、意図していたのでしょう。僕もベルリンフィルの演奏はあまり興味を惹かれません。
しかしある時ドキュメンタリーの中にあった4分33秒を聴いてみたところ、西洋近代音楽を聴く耳から変わるという体験をしました。それは無いことにされていた音、に耳を開く体験でもありました。
音楽というものが音への人間の関わり方だとすれば、ジョン・ケージは音との新しい関わり方の可能性を示したと言えるのではないでしょうか。例えば坂本龍一の晩年の美しい諸作品はケージの影響なしにはちょっと考えられません。(でもケージの音楽を楽しもうという人は少数派なんだろうなとは思いますが)
ジョン・ケージは音を楽しむことに心を傾けた人と言えるのではないだろうかと思っています。
アンデルセンの裸の王様ですね
知ったかぶりしてる人を嘲笑うためにジョンケージは作曲したんじゃないの?
ちなみにジョンレノンも似たような作品を作ってたけど
わたしは音楽だと思います。前提として、演奏家がいて楽譜がありホールに二兎が集まり決まった時間を共有することです。
くしゃみが音楽とは思いません。その場で発生する音が音楽とは思いません。よって動画や音源でこの作品があっても音楽とは思いません。
例えば、コンサートに行って1音目が発せられるすぐ直前までの時間や空間は、何の価値も受けるものもないと思いますか?
私はそこまでが結構好きです。そして、コンサートが終ってからからも好きです。そこに音楽がないとは思いません。
もちろんその間に素晴らしい演奏があると感動できますし、その前後に与える影響は大きいです。演奏そのものがもつ価値だとだと思います。
音楽に限らずオリンピックスポーツもまさにそうでしょうが、その前後から受けるものはあると思います。
良い音楽とは全く思いませんし体験したいとも聞きたいとも思いませんが、初めて聞きに行ったお客さんは明らかにその前後の空間を体験し感情の動きを体感したと思います。感情を動かし体感できるものであることは音楽の要素であるとおもいます。規則性やプログラマブルなことも言われていますがそれは音楽でなくても人が関わること自然が変わることにはすべてにおいて存在していると思います。音楽じゃなくてもです。
音楽の特徴を、その前後に受けるものと音楽により感情や心が動かされること、それは【休符】も含めた規則的な音によるとすればやはりこれは音楽なのでしょう。
『4分33秒』の10年後に、続編(?)の『0分00秒』も作曲(?)し、初演は本人によって日本で行われたという。(正確には"舞台上で「この曲を書く」という行為を行った"という事らしいが)
音と音楽は違うものだと思います。窓から見える景色が芸術作品でないのと同じです。
ハプニング芸術、コンセプチャル・アート一般の病。
Kunst、いい概念ですね。
「音楽」の定義を疑問視させる効果はあっただろうね。4'33"=273"の273が絶対零度の -273 に由来する、というのは面白い謎々だね。私はもうじきあの世行きなので手持ちのディスクを順番に聴いているんだが、聞き残しの無いように一度に2枚ずつ2台のステレオを使って聴いている。このときケージのこの作品だけは有益なことこの上ないんだ。
ケージの「4'33"」(1952)の影響下に書かれたと思しき前衛音楽の一つに、
ロバート,モラン(1937-)の「ピアニストを伴うピアノのための作品」(1965)というのがある。楽譜には「ピアニストが舞台に登場し即コンサートピアノに赴く。ピアノに這い上がり弦の上に座り込む。ピアノがピアニストを奏でる。」と書かれている。これはケージに触発された作品としては興味深いと思うが、実演されたかどうか。ウチの猫をピアニストに仕立てたなら可能ではないかな。
今回も分かりやすいのに、とても考えさせられる内容でございました。なんか、このシリーズ動画も、談話は純粋な音楽で、コーヒータイムがめちゃくちゃ偶然性がありそうな感じの音楽か?とか変な妄想をしてしまいました。(笑
それはともかくですが、私の意見は割と単純で、この作品はアンチテーゼ的な実験であって、休符も音楽の大事な一部だよ、って教わったわけだから、じゃあ全部休符にしたら、、、やっぱそれは違うよね。それはさすがにね。っていうことなだけなんだと思ってます。(と、思わないと、もう延々に考えちゃうので。。)
ジョン・ケージの『4分33秒』は前から知ってますが車田さんの解説に賛成で、音楽ではないと思います。一種の思想でしょうか?それよりこれをベルリンフィルが「演奏」したって言うのが呆れます。
興味深く拝聴しました。個人的には個々の認識によるというのであれば、おそらく音楽だし、きっと芸術だと認識しています。例えば、100音からなる曲があるとして、作曲家は演奏する度に1音ずつ規則的に消していく指示をしたとします。毎日演奏すると100日後には何の音もない演奏時間だけの曲が残りますが、この曲はどこからが音楽でどこからが音楽じゃなくなるんだろう、そんなことを考えていました。つまるところ、技術論を超えたところに音楽の深みや本質、あるいは芸術の真髄があるとすれば、全休符からなる音楽も芸術足り得るのだろうと考えています。それはおそらく、作者の思想がそこにあり、またそれを受けた私達の心のざわめきが生じ得るからです。誰かの心にざわめきが生じるのであれば、自分が何も感じないからと言って、他人の心のざわめきを否定することもないなぁと今は感じています。
音楽の中に奇をてらってギリギリのところを攻める前衛音楽というジャンルがあってもいいのだけど、現代音楽がイコール前衛音楽になってしまったのが駄目なんだと思います。正統派のクラシック音楽をまっとうに発展させる流れがなくなってしまったのはなぜなのか。聴衆の関心がポピュラー音楽に向かってしまったから、なんでしょうか? そのあたりがいちばん知りたいです。
「奇抜な発想」は人の心を動かす技術(テクニック)ではあっても芸術(アート)ではない、って感じですかね
確かになぁ…
意表を突いた表現はそれ固有のものでしかなく、体系化はされないですもんね
4分33秒は、考えとしては面白いと思います(興味はあります)が、実際にその場にいたら、音楽とは認められないと思います。他の作曲家が考えた、ラジオを流す偶然性の音楽も、同じです
それもジョン・ケージです。
音楽の規則性、勉強になりました。芸術は技から生まれる、その通りですね!😊
僕はARTだと思いますが、芸術ではないと思います。
ベルリンフィルのメンバーがそれを行うのと、同じ数の人を集めて行うのでは効果、感じが違うと思う。
それを表現する必然性と確信を持って生み出したのだと感じます。
規則性からの逸脱というと、フリージャズ、後期のマイルス・デイヴィス、コルトレーンなどもあります。
不規則で不協和な状態から規則性が立ち上がって行くという音楽表現、
天地創造のようでもあり面白そうです。
気になったので調べると、芸術とARTは違うことが分かりました。
アメリカは現代ARTを推進していますね。
歴史が短くコンプレックスがあるからだと思う。
余談
果物、花、お酒(酵母菌)にも音楽が効果があり、モーツァルトが良いと話題になった時期もあります。
現代も一部で行われています。
車田さん完全に同意します。単なる売名行為としか思えない
聴衆のくしゃみが音楽ですか?
メロディー、リズム
ハーモニーが存在しない馬鹿げた極論。
指揮者は不要。
試しにオリンピックの式典でしてみたら
バッシングものです
芸が無いので芸術ではないと思います。🤔
演奏前の一音と演奏後の一音、4分33秒を一拍とした、音楽の礎を拍と観る理解も出来ましょうか?
この動画の頭から流れる背景音楽はなんて曲でしょうか……
音楽の父バッハの
『ゴールドベルク変奏曲』BWV988です。
このチャンネルで2022.8.24に[名曲解説]として紹介されいます。車田先生ならではの視点と、この曲に対するリスペクトと愛に溢れる珠玉✨の解説‼︎ 絶対お薦めです😊🎵
@@sH-cr5zcありがとうございます!聞き覚えのある素敵な曲だと思っていたので助かりました!解説の動画も見てみようと思います︎😊😊
日本で売られている国産蜂蜜のほとんどが西洋蜜蜂の蜂蜜ですが、日本蜜蜂の蜂蜜は濃厚で美味しいですよ。
帰宅部は部活動かって感じに似てると思います
私はこれを芸術、音楽と認識します。意図を持った表現だから。ただしチケットを買うことはありません。私は楽器、声の響きそのものが好きだから。
努力と緊張感をもって技術を習得していき、心・感情を伝えるべく高みを目指すのが「芸術」だから、♪4分33秒は「芸術」ではないと思います。ベートーベン、シューベルト、ブラームス達が時には命を掛けて時間を費やして作曲し、楽譜に書き起こしたその苦労を慮ると、生み出された音符が1つも無いだなんて何とも楽ちんな楽譜。心も無い。
が、休符を表現した異端の「音楽」で、彼はもしかしたら考えに考え、長い年月、悩みに悩んだのかも知れない、決して1日や数日の思い付きのアイデアで出した結果の作品ではないのかもと。
音楽の世界から除外されるべく奇抜な作品は他に存在し、まだギリギリ音楽の枠内に入っているという考えを捨て切れません。
それに、指揮者、オーケストラの方々が正装してステージに上り、練習時間を費やし、真剣に取り組んでいる姿を目の当たりにすると、( 決して同情とかではなく)、音楽の1つの表現なのかなと、やっぱり思うのです。
演目がこの曲だけだったら残念ですが、演奏会で体験してみたいとも思います。
車田さんの今迄の動画を全て拝見し、感動し、勉強して来ていたつもり…でも、このような結論に至る私は、まだまだ勉強不足、屁理屈屋なのかしら?と落ち込んでいます(泣)
が、今の正直な気持ちです。
規則性と同じ事かもしれませんが、再現性があるかどうかも音楽かどうかの一つかなと思いました。
なぜ、音楽が人の心を動かすのかは、いわゆる認知科学の研究課題であり、少しづつ研究がされています。
例えば、オックスフォード大学で音楽などで感情が湧き上がった結果、肉体的変化(鳥肌)があった被験者は、「聴覚野と感情を処理する領域をつなぐ神経線維の密度が、普通より高い」ことが判明した、という研究結果が掲載されました。
今後、脳科学や認知科学が人間の精神活動について色々と解明して行くでしょう。
「4分33秒」ですが、当時の流行であるハプニングの一種ですよ。
音楽ではないし、ネタに過ぎません。
音と音楽の境目はどこにある? に関しては、現在では全ての音を音楽の素材として使う、
というコンセプトが確立していると考えますが、実際には99%の現代音楽は、
12音を基礎として楽譜に記録できる音楽である点で、以前と変わっていません。
あと、微分音の音階は音程が合っていないように聞こえてしまいますし、
自然音、電子音などは、非主流の電子音楽に含まれるのではないでしょうか。
今回のテーマは色々考えさせられました。
今思うと、落語とか漫才も音楽の一つじゃないかと思う様になりました。特に日本語は抑揚が多く音楽的要素ある気がします
私個人的としては、4分33秒は芸術としては成立しているように思います。彼が人類史上初めて環境音さえも音楽だと世に提示できたのは、彼の中に他の人にはない特別な才能・哲学があったからだと思います。
自分でも作ろうと思えば作れますが、そのような思いに至ることができるのは彼の存在があったからこそです。作品を通じて世に議論をもたらした表現者としての才能は認めざるを得ません。
無論、これが音楽かと言われたら眉唾ですが😊
もし、ここで言われている「偶然性も音楽」と言うのが、成立するならば…
私は、全く、ヴァイオリンが弾けません。その私が、フルオーケストラに混ざって、ベートーベンの第九に、「その時の、勝手気ままな気分で」、バイオリンの絃を引いたら? おそらく、私の「奏でる音」は? りっぱな音楽? それで言ったら、世界有数のオーケストラの演奏に混ざって、まだドレミくらいしか引けない人が、「誤った音を奏でる」のも、立派な音楽? 音程等が、正規の楽譜と違っていても、それも良い音楽? それは、きっと、多くの、ほとんどすべての人が「期待する音楽」とは、別物では、ないでしょうか。
いいえ、この「下手な演奏もまた、素晴らしい音楽です」とするのは、「そう思いたい」「そう感じたい」人 only では? 音楽って、それほど、個人的な感覚が、第一なのでしょうか? ではまた、「4分33秒」よりも、だれかが「全休」の「3分12秒」を作曲したら、ひょっとしたら、その人は、「ジョン・ケージ」よりも、素晴らしい作曲家かも? それを言ったら、「ジョン・ケージ」よりも素晴らしい作曲家は、何万人もいるでしょうねぇ…
あまりにも、個人的な「感覚」を尊重しすぎている、わたしは、そう思います。
音楽はじめ、人間の感性に影響するのは、作った人だけではなく、みんながみんな、「ある事」「音楽」「絵画」等々から、様々な事を、感じれる事が、あるからだと思います。「4分33秒は、すごく気分が高揚する。君も聞き給え」なんて言われてみても、ねぇ…
ジョン・ケージの著書はすばらしいけど、音楽は、、。一度聴けば十分。プリペアド・ピアノですばらしいのは、アルヴォ・ペルトだね。ペルトは何度でも聴けるよ。
・・で、日本なら、その「蜂蜜飴」には添加物が「これでもか!」という程に加えられて
販売されるのです。もういい加減に止めて欲しいです。
先生が「音楽です」と仰られなくてホッとしました。
数学的には情報量ゼロですから、全く存在しないのと同じだと思います。
偶然性も情報量ゼロだと思います。
ジョン・ケージは無類の厭世者だったようなので、自分の作品に喝采を送る聴衆や追従者を
戒め(嘲笑し)ていたのかもしれません。
ご自分の認識から判断するというのはなるほどと思いました(当方はそれほどの認識を持てない、トレーニングも受けていないし)。
今回の話としてはせまいと感じました。
「4分33秒」を音楽として認めてほしいということでなく、幕末に来日した西洋人は日本の音楽がやかましいと感じた、というようなことを読んだことがあります。
たとえば尺八の音楽はたいていざわざわ不純な音に感ぜられそうです。
ところが楽器としては、フルートと同様、ただの筒に(いくつか音程用の穴があるものの)発音器なしで息を通すだけという点で同じ原理と思われ、じっさい濁りのない音を出せるのを最近知りました。
認識がまったくかわらないといえないとすれば、まだ説明としては何かが必要かも知れません。
ケージにとっては決して良い評価を与えなかったのではないだろうか。
TH-camで視聴できる比較的近年の演奏として、おっしゃるBerliner Philharmoniker のものがありました。これは高いお金を出しても鑑賞してみたかったと思いました。
竹林を通り過ぎる風がたてる音 それに耳を傾けること それを楽しむことができないのは悲しい
そういうことの本質をむき出しにして提示したのが “4分33秒”
まあ、この動画(コメントを含む)そのもの が “4分33秒” という作品のうちに包含されてしまっているのかもしれない…
んー...そうだなあ。。先ず、作品の生成とライブ性にその立ち顕れが抽象であるか、具象であるかを鑑みそこで反省的であるなら、少なくともその客観性にあって芸術ではあるかもしれませんし、純粋な時間観念の抽出には成功したのかも知れません。ただ、音楽を芸術のフォームとした場合には、ケージのかの作品はそうではない、という判断になるかなあ、と思います。だから、空間の呼び水と
してのパフォーマンスアート、というかそんな感じを受けていました。その場合に、インタラクティブな対象をモノであるかも観念であるかも、一切措定してもいない点には好奇心を持ってしまいます。😊
これは論争を起こすための「策」ですから、批判することは彼の術中に嵌まることです。相手にせず無視すべきところですが、コメントしたので、もう手遅れです。
アメリカの作曲家ならルロイ・アンダーソンの方が好きです。 タイプライターをちゃんと楽器として取り入れながら、せかせか働く現代人を上手に音楽で表現していると思います。
ジョン・ケージの『4分33秒』は音楽では無いし、十二音技法〜前衛音楽はもはや『クラッシック音楽』では無いと認識しています。調性が無いモノは、『クラッシック音楽』ではありません。
数学と同じで、音楽も突き進めると抽象化されて難解になる。そしてその難解さは、人それぞれだし、究極は好き嫌いに帰着されるべきもの。
私もこれを音楽だとは思いません。さらに言えば自分にとって「楽」しくないものは音楽ではないとすら思っています。従って12音階技法、無調音楽なども、自分は楽しくないので音楽だとは思いません。自己中心的に聞こえるかもしれませんが、音楽であるかどうかは一人一人が決めればよいものだと思うのです。客観的に、これは音楽、これは芸術、ということ自体に疑問さえ感じます。客観的に見ているようで実は主観を言っているにすぎない気がします。屁理屈詭弁の類のような気がするのです。