ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
あまり目立たないけど、弱点がなく、なんでもそつなくこなす人が好きなんで、馬良はすごく好きでした
呉の諸葛瑾なんかもそういうタイプですね息子は父よりも(もしかしたら叔父よりも)優れた能力を持っていましたが性格が終わっていて結果的に身を滅ぼすことになったので堅実かつ驕らない人物というのがどれほど貴重か分かります
馬良然り、諸葛瑾然り、誠実な人柄の人物は惹かれる物がありますね。それだけに馬良の早逝は悔やまれます。
@@太田信之-s6p 劉備のこの呉攻めは孫氏の「將、怒りもて帥を起こすべからず。」を地で行ってますね。
馬良好き😃
的盧のお話知らんかった!ありがとうございます😭
諸葛亮の没後にも馬良が存命だったら、蔣琬や費禕と並び後事を託されていたかもしれませんね。
马氏五常,白眉最良😊
馬良が生きていれば軍事面よりも政治面で諸葛亮をよく補佐しただろうしそうなると諸葛亮が細かいことまで全て自分で決裁しなければならないほどの激務に耐える必要もなくなり史実よりも長生きしたことだろう政治では馬良、軍事なら法正がもっと長らえていたら、蜀漢の命運も違うものになったかも知れない
劉備の器は、曹操の器には及ばなかった。部下の言葉を、しっかり参考にして事をなす。それが、不足したから、荊州を奪還できず、馬良を失い、また、多くの武将を犠牲にした。関羽を失い憎しみに負けて感情的な判断をしては、陸遜には勝てない。史実、曹操の器はデカイ。もし、劉備や諸葛亮の采配がもっと正しく行えば、蜀の天下統一が実現できたことでしょう。非常に残念です。趙雲の最期も謎で残念ですね。
すごく面白かったです。そういうことで教養の高さを測るのかぁ…と知らない世界を垣間見た気がしました。
龐統馬良が入ればまた歴史が変わっていたのかなと思う
馬良にもっと大きな権限を与えて、その能力をフル活用させたかった。彼をイチ幕僚とだけ扱うには勿体ない。
荊州閥と益州閥の問題がありますから難しかったかも
自分の能力以上な権限を与えられると、逆に評価を下げることになったかもしれませんよ。馬良の魅力は、常日頃の勉学と持続力。ゆっくりと成長を続ける人物だったのでは?
字(あざな)と生まれ順の関連性について、初めて知った!
白帝城の場所が違いますよー
細かなミスがあるけど、とてもいいチャンネルだからみんなで育てたいです
私もそう思いました・・・あの位置ですと、劉備崩御の際の "孔明・劉備の王子たち" は、どの様にして見舞いに到達したのだろうと、ちょっと悩んでしまいました…(*^▽^*)
北伐の時孔明が、(馬良が生きていれば‥)という雰囲気を悟った馬謖が(兄貴以上の大功を立ててやる!)って焦って街亭の戦いで敗退を招いたかもね。
演義基準ならば帰順した姜維の存在も馬謖に焦りを呼んだ可能性は否定できないだろう。初登場時、孔明の策を見破る、趙雲・魏延と一騎打ちをやってのける・・・焦燥感は凄かっただろう。
向郎さんいい人だな
やはり荊州は人材の宝庫なんですね。いつの時代も「if」はありますが、馬良がもう少し長く存命していれば、蜀という国もまた違った道を歩んだかもしれません。しかしながら、魏呉蜀のどの勢力も天下は取れず、司馬氏の晋が天下を取る・・・歴史はやっぱり面白いものです。
あざなで生まれ順が分かるのは知らなかった。面白い知識でした
龐統、法正、馬良の三人が生き残っていれば本当に漢の歴史は変わったと思う。そもそも馬良が馬謖の補佐に回ることは無いと思うが。
馬良さんも、龐統さんも、早過ぎる戦死が、蜀漢の未来を暗くした感は、ありますね。もちろん、いろんな要因がありますが、魏や、呉に比べて、重要人物の早過ぎる死と、後継人材不足が、蜀漢は、目立ちますね。💦
劉備って伝えられる程の人徳者ではなくて、良くも悪くも人間臭いタイプだったんだろうね
劉備は鬼畜エピばっかりだし部下を全く信用せず全部自分でやらなきゃ気が済まない中小ワンマン社長やで。
@@Hirox-u6u 蜀漢は実際に雰囲気良かったらしいですよ。
いろいろとツッコミどころがあります笑でも面白いです
龐統、法正、馬良、蜀漢は本当に運のない国でしたね。彼らが諸葛亮と同じくらいの寿命があれば、また違った展開があったかもしれません。でもその不運さが人を引き付けるのでしょうね。
郭嘉、周瑜、荀彧だって長生きはしてないでしょ。孫堅、孫策の死に比べたら全然マシ。
孫堅の後には孫策が、孫策の後には孫権が、謀臣も周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜とリレーのように優れた人が絶えなかったのが呉ですよね。魏はそもそも人材の層の厚さが段違いだったしそれに比べると蜀漢は、建国の祖である劉備、そのあとの諸葛亮、あとは?となると魏、呉に比べてスケールの見劣りする人ばかりではなかったかと・・・。まあ、あくまでもイメージのことですから。そもそも人材の層が薄すぎたのでしょうけど。
確かに人材が薄いかもね、個々人を見ると凄いんだけどね😊
逆だと私は思う、運が有るから良い人材、忠義の有る人材が来るんじゃないかな、類は友を呼ぶで。
@@三海繁行 徐庶ですら、魏では地方都市の宰相どまりだったからなあ。儀は人材が豊富過ぎる。
諸葛亮は馬良を評価していた事から弟の馬謖を側に置いて相談役としていたが、馬謖は頭が切れすぎるから劉備と馬良は何れ危機になる原因を作ると警戒し重用しなかったと言われています。しかし諸葛亮は聞き入れなかったため、街亭の戦いで惨敗する事になりました。
諸葛亮「(馬謖に対し)そちは死罪じゃ…」
手紙とか残ってたんですね興味深いな…
さり気なくけなされる馬謖(笑)
ほんとだ‼️
郭嘉とか見たいです
白帝城の場所がおかしい。
馬良兄弟は良い時と悪い時の差が激しい。夷陵の戦いでも劉備の陣立ての欠陥を諸葛亮に指摘されるまで見抜けなかったし。
字のお話ありがとうございます!
成都攻略以前からはすごい……なんで夷陵で死んでしまったんや😭
最も良しとは言うが、具体的に何をしたかはほぼ何も残ってない男
龐統、法正の○去が、かなり痛手で、呉の魯粛の○去について、孔明も惜しんでました。蜀と呉の優秀なかけ橋を失ったのは、蜀に、取っては痛手に尽きすね。
しかも魯粛は龐統を劉備に推挙した人物。(孫権が龐統を登用しなかったから)龐統と魯粛の外交ラインが残っていればね。
演義とは全く違って正史の魯粛はかなり過激な思想のインテリヤ○ザなんよね
蜀における1番の“もしも”はこの人よね
蜀建国後なら法正とかの方が…
蜀で言うなら法正で建国から言うなら龐統じゃない?
@@yt-pt6pv 龐統は建国前に亡くなってた記憶ですが…?
@@garyouandhousuu ごめん、普通に前が消えてただけです。
同じ時期に黄権を失ったのも大きかった(´・ω・`)
黄権は呉に降伏する事が出来ない為にやむを得ず魏に降伏した。劉備はソレを全く咎めず黄権の一族をそのまま大切にした。
白帝城ワロタ
The three kingdoms(中国の三国志演技のドラマ?)では、荊州で関羽が死んだときに馬良も行方不明になった流れになっていたけど、こういう話もあるんですね・・・こっちが史実なのかな
馬良は劉備の夷陵の戦いで没していますね。それが史実です
10:29 大軍だからこそ危険なんだよ
宴会に乗って行った時に、鞍が変わったことに劉備が気づいたかもしれないから、先に言った方が賢明だよね。全く同じ物なんて出来る訳ないんだから。
蜀の問題は法正・黄権の後が出てこなかったことよ。民政には馬良、ショウエン、費偉など出てきたが、軍に関しては結局出てこなかった。
傅彤は フトウ と読み、傅肜は フユウ と読みます。 伝わる名が二通りあるのですがどちらが正しかったのでしょうね
孔明の死後まで馬良が生きていていたら正史の費禕と同じく魏から暗殺の使者が来てたと思う馬良が対策して費禕も無事で蜀の滅亡は長引いたかも
馬良動画(実在するアニメ制作会社)
笑って馬良を切る!
司馬懿のところの説明は間違ってますよ〜wなぜ他の人は字名なのに司馬家だけ字ではなく名で兄弟順を説明したのでしょう
ゲームの絵だと眉がまっ白だったりするが像はそれほど白くないのね
夷陵か……
え?白帝城そこだったんだ!
馬良の死は実にもったいなかった。
毛利隆元、武田信繁みたいに失ってから始めて偉大さが分かるタイプの人だね。
あとは豊臣秀長とかかな?
意固地になった劉備自身が馬良が亡くなった元凶でもあるのに「なんと惜しい人間をなくしたことか」ってのもなんだかなぁ...w西涼も荊州も、馬氏は才能を十分に発揮することはできなかったか...残念。
荊州って劉備が呉へ返さなかったから孫権が攻めたんじゃなかったっけ?
呉主導で魏を打ち払ったのはそうだけど実際に刈りとったの劉備だしどこのものかはなんともいえない呉にしたら火事場泥棒だし劉備にしたら自力でとったとこだから
しかも荊州の旧主は劉備と同族の劉表系だし。
ここはホントに呉蜀の認識の違いで起こった感じただ確か蜀も益州取るまでって荊州に仮住まいさせてもらうって認識だった気もするw
馬良の像の眉が白くなくて草
向朗が、宿屋してたり名工だったりって中々無理のあるエピソードだな。むしろあえて向朗にする必要無かったのでは。単に宿屋の主人が名工だったということだけで。
像の白眉感のなさよ。眉メイクしちゃったか笑
ここで向朗くるのか
白帝城どこにあんねんwちゃんと調べてから動画作ってね
馬謖の件は、孔明のせいじゃん。馬謖が処刑されたのは、亡命計ったからだそうです。それまでは孔明は許すつもりだった様です。
死去した理由って何なんでしょうか?
戦場で失う必然が全くなかった馬良を無駄に死に追いやった劉備は、本当に大莫迦だったとしか言いようがない。尤も、だからこそ孔明に「馬謖はあまり重用するな」と助言を与えたのでしょうね。もっと修行を積ませ、更には下手に前線で勤務をさせてはならないと・・・
いや、尊兄って義兄弟だったとかじゃなくて普通にうやまっただけなのではないか。孔明のほうが年上だよね。
劉玄徳。蜀の人材不足は、彼が原因なのかもしれない
逆に魏延だと劉備に信用され、諸葛亮には叛意ありと見られてしまう。実は諸葛亮と劉備って、けっこう意見合わないなと。
像の眉毛、白くないのがなぁ
大きな事ばかり言ってやたらと目立つことばかりに長けてる政治屋もよくいるよねー そういうのほんと信用できない
石丸信者だなwすぐ分かるよw事を理解出来ずに、教祖の言うことを鵜呑みにし、なんでも政治屋のせいにするところは信者共通の思考力と言えるw
いろいろ調べてわかったところだけど、馬謖の件は彼自身の功名心による命令無視ではなく、曹叡、張郃、司馬懿が孔明の想定する以上の動きを見せたことで戦略を瓦解させてしまったと思ってます。願わくば馬謖自身の失態が全てをダメにしたように切り取って、強調するような構成にしないでもらいたいです。
あくまで一説ではありますが馬謖が山頂に布陣したのは戦況的に相手の動きが早すぎてそこに布陣するしかなく結果的に敗戦、諸葛亮も敗戦の責任を問うつもりは無かったというのがありますね馬謖は軍を放棄して逃げたその敵前逃亡の罪で処刑されたということらしいですもちろん真実は不明ですが「孔明が戦略ミスをした」というのを大っぴらに書くわけにはいかなくて馬謖に責任を押し付けた可能性はなくはなさそうです正史の編者陳寿も元は蜀の文官で劉備や諸葛亮には思い入れがあったでしょうから
@@本多派 その通りで、当初は野戦築城によって敵軍を食い止める戦略だった。もちろん水源もしっかり確保した上で。 ところが孟達が反乱して魏が混乱するタイミングに乗じて進軍してきた馬謖だったが、馬謖が街亭に到着した時には魏の張郃が大軍で目と鼻の先のところまで来ている。 というのも孔明の戦略では孟達の反乱が陽動でしかなく、そのタイミングで曹叡は蜀の本格的な侵攻を洞察し、対応して張郃も呼び寄せていた。(孟達の反乱228年1月、街亭の戦い228年2月)さらに張郃も神速で行軍してきたことで馬謖に戦略的な選択肢を封じ込めてしまった。 張郃は馬謖の数倍の兵であり、まともに野戦で戦っても歴戦の名将が数倍の大軍で攻撃してきたらひとたまりもないことはわかっていた。だからこそあえて山頂に布陣して地の利を得ようとしたが、それさえも張郃には通じなかった。 つまり馬謖が超初歩的な判断ミスをして孔明が何年もかけて構築してきた戦略を破綻させてしまったというのが誤解である。
@@Fahrenheit76 それでは、馬謖ではなく、他の誰か、魏延、張翼、王平・・・などでも同じような結果となったと思いますか?
これね、グーグルアースから見てみると分かるけど、街亭って山地が連なってる地形で、魏軍の進行ルートが何通りもあったから、馬謖は山頂に布陣せざる得ない事態に起こってる結果だけ見ると大敗したけど、別働隊の趙雲も敗退してたし、魏延の暗渡陳倉の策も退けられたし、諸葛亮の戦術ミスを馬謖に押し付けられた結果と見てる
@@まんぷくぷく-v6g 興味深い考察ですね。馬謖は方面指揮官です。方面指揮官というのはある程度状況に合わせて自由に判断できる裁量を与えられています。それだけ孔明に近い存在であればこそ、孔明の戦略意図を理解して、自分で判断していいわけです。となると、当時千人隊長でしかなかった王平、また異民族との小競り合いでの実績が少しあっただけの張翼が馬謖のように方面指揮官に抜擢されること自体があり得ないです。そもそもこの二人が張郃の指揮する大部隊にただ麓で守ってさえいればなんとかできるとも思えないです。自転車で大型トラックを真正面から受け止めようとするようなものですから。さて唯一可能性が感じられるのが魏延です。彼は唯一諸葛亮と同等に近い立場で万単位の軍を動かせる指揮官です。彼だったら張郃の大軍には敵わないでも、最悪の状況に陥らない対応はできると思います。ですが彼は長安侵攻作戦を立案しており、おそらく孔明の作戦意図を理解しておらず、逆に地位が孔明に近い立場だから独自に行動しようとする危険があります。同じ北伐の最終目標は長安を攻め取ると言うものであれど、魏延は一万の兵で長安を一気に急襲して攻めとるリスクの非常に高い作戦だったのに対し、孔明はたとえ長安を占領できてもその後の統治運営までを考えていたので魏延の作戦は孔明が理解し得るものではなかったし、魏延も孔明の作戦に納得していなかったと言われてます。
あまり目立たないけど、
弱点がなく、なんでもそつなくこなす人が好きなんで、
馬良はすごく好きでした
呉の諸葛瑾なんかもそういうタイプですね
息子は父よりも(もしかしたら叔父よりも)優れた能力を持っていましたが
性格が終わっていて結果的に身を滅ぼすことになったので
堅実かつ驕らない人物というのがどれほど貴重か分かります
馬良然り、諸葛瑾然り、誠実な人柄の人物は惹かれる物がありますね。
それだけに馬良の早逝は悔やまれます。
@@太田信之-s6p
劉備のこの呉攻めは孫氏の「將、怒りもて帥を起こすべからず。」を地で行ってますね。
馬良好き😃
的盧のお話知らんかった!
ありがとうございます😭
諸葛亮の没後にも馬良が存命だったら、蔣琬や費禕と並び後事を託されていたかもしれませんね。
马氏五常,白眉最良😊
馬良が生きていれば軍事面よりも政治面で諸葛亮をよく補佐しただろうし
そうなると諸葛亮が細かいことまで全て自分で決裁しなければならないほどの激務に耐える必要もなくなり史実よりも長生きしたことだろう
政治では馬良、軍事なら法正がもっと長らえていたら、蜀漢の命運も違うものになったかも知れない
劉備の器は、曹操の器には及ばなかった。
部下の言葉を、しっかり参考にして事をなす。
それが、不足したから、荊州を奪還できず、馬良を失い、また、多くの武将を犠牲にした。
関羽を失い憎しみに負けて感情的な判断をしては、陸遜には勝てない。
史実、曹操の器はデカイ。
もし、劉備や諸葛亮の采配がもっと正しく行えば、蜀の天下統一が実現できたことでしょう。
非常に残念です。
趙雲の最期も謎で残念ですね。
すごく面白かったです。そういうことで教養の高さを測るのかぁ…と知らない世界を垣間見た気がしました。
龐統
馬良が入ればまた歴史が変わっていたのかなと思う
馬良にもっと大きな権限を与えて、その能力をフル活用させたかった。彼をイチ幕僚とだけ扱うには勿体ない。
荊州閥と益州閥の問題がありますから難しかったかも
自分の能力以上な権限を与えられると、逆に評価を下げることになったかもしれませんよ。
馬良の魅力は、常日頃の勉学と持続力。
ゆっくりと成長を続ける人物だったのでは?
字(あざな)と生まれ順の関連性について、初めて知った!
白帝城の場所が違いますよー
細かなミスがあるけど、とてもいいチャンネルだからみんなで育てたいです
私もそう思いました・・・あの位置ですと、劉備崩御の際の "孔明・劉備の王子たち" は、どの様にして見舞いに到達したのだろうと、ちょっと悩んでしまいました…(*^▽^*)
北伐の時孔明が、(馬良が生きていれば‥)という雰囲気を悟った馬謖が(兄貴以上の大功を立ててやる!)って焦って街亭の戦いで敗退を招いたかもね。
演義基準ならば帰順した姜維の存在も馬謖に焦りを呼んだ可能性は否定できないだろう。
初登場時、孔明の策を見破る、趙雲・魏延と一騎打ちをやってのける・・・焦燥感は凄かっただろう。
向郎さんいい人だな
やはり荊州は人材の宝庫なんですね。いつの時代も「if」はありますが、
馬良がもう少し長く存命していれば、蜀という国もまた違った道を歩んだかもしれません。
しかしながら、魏呉蜀のどの勢力も天下は取れず、司馬氏の晋が天下を取る・・・
歴史はやっぱり面白いものです。
あざなで生まれ順が分かるのは知らなかった。
面白い知識でした
龐統、法正、馬良の三人が生き残っていれば本当に漢の歴史は変わったと思う。
そもそも馬良が馬謖の補佐に回ることは無いと思うが。
馬良さんも、龐統さんも、早過ぎる戦死が、蜀漢の未来を暗くした感は、ありますね。もちろん、いろんな要因がありますが、魏や、呉に比べて、重要人物の早過ぎる死と、後継人材不足が、蜀漢は、目立ちますね。💦
劉備って伝えられる程の人徳者ではなくて、良くも悪くも人間臭いタイプだったんだろうね
劉備は鬼畜エピばっかりだし部下を全く信用せず全部自分でやらなきゃ気が済まない中小ワンマン社長やで。
@@Hirox-u6u
蜀漢は実際に雰囲気良かったらしいですよ。
いろいろとツッコミどころがあります笑
でも面白いです
龐統、法正、馬良、蜀漢は本当に運のない国でしたね。彼らが諸葛亮と同じくらいの寿命があれば、また違った展開があったかもしれません。でもその不運さが人を引き付けるのでしょうね。
郭嘉、周瑜、荀彧だって長生きはしてないでしょ。孫堅、孫策の死に比べたら全然マシ。
孫堅の後には孫策が、孫策の後には孫権が、謀臣も周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜とリレーのように優れた人が絶えなかったのが呉ですよね。魏はそもそも人材の層の厚さが段違いだったしそれに比べると蜀漢は、建国の祖である劉備、そのあとの諸葛亮、あとは?となると魏、呉に比べてスケールの見劣りする人ばかりではなかったかと・・・。まあ、あくまでもイメージのことですから。そもそも人材の層が薄すぎたのでしょうけど。
確かに人材が薄いかもね、個々人を見ると凄いんだけどね😊
逆だと私は思う、運が有るから良い人材、忠義の有る人材が来るんじゃないかな、類は友を呼ぶで。
@@三海繁行 徐庶ですら、魏では地方都市の宰相どまりだったからなあ。儀は人材が豊富過ぎる。
諸葛亮は馬良を評価していた事から弟の馬謖を側に置いて相談役としていたが、馬謖は頭が切れすぎるから劉備と馬良は何れ危機になる原因を作ると警戒し重用しなかったと言われています。しかし諸葛亮は聞き入れなかったため、街亭の戦いで惨敗する事になりました。
諸葛亮「(馬謖に対し)そちは死罪じゃ…」
手紙とか残ってたんですね興味深いな…
さり気なくけなされる馬謖(笑)
ほんとだ‼️
郭嘉とか見たいです
白帝城の場所がおかしい。
馬良兄弟は良い時と悪い時の差が激しい。夷陵の戦いでも劉備の陣立ての欠陥を諸葛亮に指摘されるまで見抜けなかったし。
字のお話
ありがとうございます!
成都攻略以前からはすごい……
なんで夷陵で死んでしまったんや😭
最も良しとは言うが、具体的に何をしたかはほぼ何も残ってない男
龐統、法正の○去が、かなり痛手で、
呉の魯粛の○去について、
孔明も惜しんでました。
蜀と呉の優秀なかけ橋を失ったのは、
蜀に、取っては痛手に尽きすね。
しかも魯粛は龐統を劉備に推挙した人物。
(孫権が龐統を登用しなかったから)
龐統と魯粛の外交ラインが残っていればね。
演義とは全く違って正史の魯粛はかなり過激な思想のインテリヤ○ザなんよね
蜀における1番の“もしも”はこの人よね
蜀建国後なら法正とかの方が…
蜀で言うなら法正で建国から言うなら龐統じゃない?
@@yt-pt6pv
龐統は建国前に亡くなってた記憶ですが…?
@@garyouandhousuu ごめん、普通に前が消えてただけです。
同じ時期に黄権を失ったのも大きかった(´・ω・`)
黄権は呉に降伏する事が出来ない為にやむを得ず魏に降伏した。
劉備はソレを全く咎めず黄権の一族をそのまま大切にした。
白帝城ワロタ
The three kingdoms(中国の三国志演技のドラマ?)では、荊州で関羽が死んだときに馬良も行方不明になった流れになっていたけど、こういう話もあるんですね・・・こっちが史実なのかな
馬良は劉備の夷陵の戦いで没していますね。それが史実です
10:29 大軍だからこそ危険なんだよ
宴会に乗って行った時に、鞍が変わったことに劉備が気づいたかもしれないから、先に言った方が賢明だよね。全く同じ物なんて出来る訳ないんだから。
蜀の問題は法正・黄権の後が出てこなかったことよ。
民政には馬良、ショウエン、費偉など出てきたが、軍に関しては結局出てこなかった。
傅彤は フトウ と読み、傅肜は フユウ と読みます。 伝わる名が二通りあるのですがどちらが正しかったのでしょうね
孔明の死後まで馬良が生きていていたら正史の費禕と同じく魏から暗殺の使者が来てたと思う
馬良が対策して費禕も無事で蜀の滅亡は長引いたかも
馬良動画(実在するアニメ制作会社)
笑って馬良を切る!
司馬懿のところの説明は間違ってますよ〜w
なぜ他の人は字名なのに司馬家だけ字ではなく名で兄弟順を説明したのでしょう
ゲームの絵だと眉がまっ白だったりするが
像はそれほど白くないのね
夷陵か……
え?白帝城そこだったんだ!
馬良の死は実にもったいなかった。
毛利隆元、武田信繁みたいに失ってから始めて偉大さが分かるタイプの人だね。
あとは豊臣秀長とかかな?
意固地になった劉備自身が馬良が亡くなった元凶でもあるのに「なんと惜しい人間をなくしたことか」ってのもなんだかなぁ...w
西涼も荊州も、馬氏は才能を十分に発揮することはできなかったか...残念。
荊州って劉備が呉へ返さなかったから孫権が攻めたんじゃなかったっけ?
呉主導で魏を打ち払ったのはそうだけど実際に刈りとったの劉備だしどこのものかはなんともいえない
呉にしたら火事場泥棒だし劉備にしたら自力でとったとこだから
しかも荊州の旧主は劉備と同族の劉表系だし。
ここはホントに呉蜀の認識の違いで起こった感じ
ただ確か蜀も益州取るまでって荊州に仮住まいさせてもらうって認識だった気もするw
馬良の像の眉が白くなくて草
向朗が、宿屋してたり名工だったりって中々無理のあるエピソードだな。むしろあえて向朗にする必要無かったのでは。単に宿屋の主人が名工だったということだけで。
像の白眉感のなさよ。眉メイクしちゃったか笑
ここで向朗くるのか
白帝城どこにあんねんw
ちゃんと調べてから動画作ってね
馬謖の件は、孔明のせいじゃん。
馬謖が処刑されたのは、亡命計ったからだそうです。
それまでは孔明は許すつもりだった様です。
死去した理由って何なんでしょうか?
戦場で失う必然が全くなかった馬良を無駄に死に追いやった劉備は、本当に大莫迦だったとしか言いようがない。尤も、だからこそ孔明に「馬謖はあまり重用するな」と助言を与えたのでしょうね。もっと修行を積ませ、更には下手に前線で勤務をさせてはならないと・・・
いや、尊兄って義兄弟だったとかじゃなくて普通にうやまっただけなのではないか。孔明のほうが年上だよね。
劉玄徳。
蜀の人材不足は、彼が原因なのかもしれない
逆に魏延だと劉備に信用され、諸葛亮には叛意ありと見られてしまう。実は諸葛亮と劉備って、けっこう意見合わないなと。
像の眉毛、白くないのがなぁ
大きな事ばかり言ってやたらと目立つことばかりに長けてる政治屋もよくいるよねー そういうのほんと信用できない
石丸信者だなw
すぐ分かるよw
事を理解出来ずに、教祖の言うことを鵜呑みにし、なんでも政治屋のせいにするところは信者共通の思考力と言えるw
いろいろ調べてわかったところだけど、馬謖の件は彼自身の功名心による命令無視ではなく、曹叡、張郃、司馬懿が孔明の想定する以上の動きを見せたことで戦略を瓦解させてしまったと思ってます。願わくば馬謖自身の失態が全てをダメにしたように切り取って、強調するような構成にしないでもらいたいです。
あくまで一説ではありますが
馬謖が山頂に布陣したのは戦況的に相手の動きが早すぎて
そこに布陣するしかなく結果的に敗戦、
諸葛亮も敗戦の責任を問うつもりは無かったというのがありますね
馬謖は軍を放棄して逃げた
その敵前逃亡の罪で処刑されたということらしいです
もちろん真実は不明ですが「孔明が戦略ミスをした」というのを
大っぴらに書くわけにはいかなくて馬謖に責任を押し付けた可能性はなくはなさそうです
正史の編者陳寿も元は蜀の文官で劉備や諸葛亮には思い入れがあったでしょうから
@@本多派 その通りで、当初は野戦築城によって敵軍を食い止める戦略だった。もちろん水源もしっかり確保した上で。
ところが孟達が反乱して魏が混乱するタイミングに乗じて進軍してきた馬謖だったが、馬謖が街亭に到着した時には魏の張郃が大軍で目と鼻の先のところまで来ている。
というのも孔明の戦略では孟達の反乱が陽動でしかなく、そのタイミングで曹叡は蜀の本格的な侵攻を洞察し、対応して張郃も呼び寄せていた。(孟達の反乱228年1月、街亭の戦い228年2月)さらに張郃も神速で行軍してきたことで馬謖に戦略的な選択肢を封じ込めてしまった。
張郃は馬謖の数倍の兵であり、まともに野戦で戦っても歴戦の名将が数倍の大軍で攻撃してきたらひとたまりもないことはわかっていた。だからこそあえて山頂に布陣して地の利を得ようとしたが、それさえも張郃には通じなかった。
つまり馬謖が超初歩的な判断ミスをして孔明が何年もかけて構築してきた戦略を破綻させてしまったというのが誤解である。
@@Fahrenheit76
それでは、馬謖ではなく、他の誰か、魏延、張翼、王平・・・などでも同じような結果となったと思いますか?
これね、グーグルアースから見てみると分かるけど、街亭って山地が連なってる地形で、魏軍の進行ルートが何通りもあったから、馬謖は山頂に布陣せざる得ない事態に起こってる
結果だけ見ると大敗したけど、別働隊の趙雲も敗退してたし、魏延の暗渡陳倉の策も退けられたし、諸葛亮の戦術ミスを馬謖に押し付けられた結果と見てる
@@まんぷくぷく-v6g 興味深い考察ですね。馬謖は方面指揮官です。方面指揮官というのはある程度状況に合わせて自由に判断できる裁量を与えられています。それだけ孔明に近い存在であればこそ、孔明の戦略意図を理解して、自分で判断していいわけです。となると、当時千人隊長でしかなかった王平、また異民族との小競り合いでの実績が少しあっただけの張翼が馬謖のように方面指揮官に抜擢されること自体があり得ないです。そもそもこの二人が張郃の指揮する大部隊にただ麓で守ってさえいればなんとかできるとも思えないです。自転車で大型トラックを真正面から受け止めようとするようなものですから。さて唯一可能性が感じられるのが魏延です。彼は唯一諸葛亮と同等に近い立場で万単位の軍を動かせる指揮官です。彼だったら張郃の大軍には敵わないでも、最悪の状況に陥らない対応はできると思います。ですが彼は長安侵攻作戦を立案しており、おそらく孔明の作戦意図を理解しておらず、逆に地位が孔明に近い立場だから独自に行動しようとする危険があります。同じ北伐の最終目標は長安を攻め取ると言うものであれど、魏延は一万の兵で長安を一気に急襲して攻めとるリスクの非常に高い作戦だったのに対し、孔明はたとえ長安を占領できてもその後の統治運営までを考えていたので魏延の作戦は孔明が理解し得るものではなかったし、魏延も孔明の作戦に納得していなかったと言われてます。
手紙とか残ってたんですね興味深いな…
ここで向朗くるのか