ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
定期寝台特急がサンライズのみの現在、ブルーの車体で誇らしげに走るブルートレインが懐かしいです。今の車両達も良いですが、この時代の旅情は皆無となってしまった気がします。時代の流れなので仕方ない事かもしれませんが、出来る事ならもう一度ゆっくりと寝台特急の旅をしてみたい……あの頃を彷彿させる貴重な映像の数々、感謝致します🙇
やはり、時代は速く速くになっているのでしょうね。もともと、鉄道がなかった時代に、鉄道を敷いたのは、速く移動するため。しかし、今は、道路も発達し、車でも速く移動できる時代。新幹線がだんだん伸びて、ゆっくり旅の列車たちがなくなってしまったのでしょうね。
30年ぐらい前までは、頻繁に日本海で関西から秋田へ帰省してました。雰囲気が懐かしい。この時代の鉄道車両の雰囲気や列車が好きです。
へぇ~!そんなに日本海によく乗られてたのですね。これまたうらやましいです。私だったら、せいぜい白鳥か、きたぐに かも。
@@HobbyVideos 白鳥も何度か使いましたが、さすがに退屈になりました。
なるほど、何度も乗っていると飽きてしまい退屈になるかもしれませんね。その点、寝台列車は寝る事が出来るんだから、体を休める人には良いですね。
深夜の乗降客のない駅に到着し、発車するシーンには沁みる思いがありました。EF-81やEF-58の発車の汽笛が静寂に響きわたる様は本当に眠るのが勿体ないくらいに貴重に思い出でした。多感な子供心にも素敵な存在でした🎵
そうなんです。夜行列車って眠るのがもったいないと言う感じですね。ただ、仕事などで移動目的だけで乗る人は別でしょうけどね。
大鰐温泉駅に着いた時の駅員さんの放送がいいですねぇ~。「おおわにぃ~」「おおわにぃ~」独特の「節回し」に、懐かしさを感じます。今は「節回し」の肉声放送を聞かなくなりました。味気ない自動放送が多くなりましたからねぇ。国鉄時代の鉄道ファン様の色々な動画の中に、私はいつも車掌さんや、駅員さんの肉声放送を探しています。この日本海が終着、青森駅に滑りこんだ時の駅員さんの「あおもりぃ~」「あおもりぃ~」旅情が掻き立てる放送はホント、いいですね。主様の数々の動画に出てくる肉声放送で、この日本海の大鰐の駅員さんの到着放送「おおわにぃ~」と、北海道の特急「おおとり」に出てくる長万部駅での「おしゃまんべぃ~」「おしゃまんべぃ~」なんか大好きです。いつも貴重な動画をありがとうございます
そか!肉声放送これも、合理化で人件費節約で自動放送になったのかな?でも、1つ思うのですが、この自動放送で、肉声放送のような声や、節回しを出来ないものでしょうか?今の時代なら、可能だと思うのですがね。まあ、鉄道会社としては、旅情なんて眼中にないのかもしれませんね。
日本海1号で函館まで行けたのが懐かしいよ
もう乗れないですね。本当に懐かしい。
日本海に乗ったら駅弁食べるものいいね、まずは大阪の八角弁当、夜食には金沢のオニエ寿司、終点の青森はホタテ弁当で終点を迎えるそして、函館に着いたら雪が積もっていました、いや日本海って本当に楽しいもんですね
メッセージありがとうございます。そう言えば、日本海は、もともと食堂車が無かったのかな?でも、駅弁を買うのに、窓の開く列車と違ってホームに出ないといけないし、寝間着では、出れないし、なんかコンビニエンスカーみたいな車両が食堂車の代わりに連結されていて、そこで駅弁を買ったり、ちょっとした食事ができるテーブルと椅子があったりする車両があれば良かったですね。
ED79の日本海ヘッドマークは新鮮だな函館行き日本海の存在は知ってたけど、釜は初めて見た
あ~ん!来れ、青函トンネル開通した無かったころなので、ED75なんです。ここから、北海道へは船でした。
たびたび聞こえるホイッスル、ハイケンスのオルゴール、国鉄型車両たち。そして、「日本海」も増結車がつく盛況ぶり。なつかしく拝見させていただきました。
メッセージありがとうございます青函連絡船の時代の国鉄。今ではみんなこの時代が終わってしまったみたいですね。
いつも楽しく拝見させていただいております。夜行列車,素晴らしいですね。今後も,懐かしい映像楽しみにしております。
+西口宏美 さん メッセージありがとうございます。夜行列車っていつしか昔の産物になってしまいましたね。なぜか、夜行バスは一杯走っているのに。
+国鉄時代の鉄道ファンさん,返信ありがとうございます。日本海には乗車したことはありませんが,数年前出張帰りに何度か鶴岡から上野まであけぼのに乗って帰ってきたことがあります。今になって思うと,夜中時間をかけて旅をすることはとても贅沢なことでした。
+西口宏美 さん メッセージありがとうございます。そうですね。今は新幹線が発達して、1泊旅行の場所が日帰りの場所なんかになってしまって、夜中時間をかけての旅って贅沢になってしまいましたね。
夜中に目が覚めてどこら辺走っているか?駅の電気が消えていて完全に寝ている。あの感覚が旅情を誘う。良い経験しました。
メッセージありがとうございます。もうこんな夜行列車って、今はサンライズ出雲くらいになってしまったのかな?
旅情溢れる日本海、素晴らしい、浴衣や下着でホーム降りませぬよう(笑)
でも、ホームに出て来てた人居ました。浴衣で。
@@HobbyVideos やっぱり さすが日本海 なくなって寂しい
地上時代の金沢駅ですね。列車到着時の自動女性アナウンス「かなざわーかなざわー」の音源をずっと探していましたが、ようやく辿りつくことができ、大変感謝しております。各ホーム毎にあったホーム外れの白山そば。七尾線の0A0B番線。ちょっとだけ昔を思い出すことができました。貴重なフィルムをアップ頂き、ありがとうございました。
+m Shinkuro さん メッセージありがとうございます。金沢の自動女性アナウンス探しておられたのですか?でも、探すと言っても大変でしょう?私は、青森のアナウンスが印象的です。「あおも~り! あおも~り! あおも~り! 」って言うやつです。そばの話になるのですが、関東のそばのだしは、醤油が濃くて黒いだしですが、関西のそばのだしは、薄い色をしたカツオのだしですね。北陸では、金沢の白山そばは、関西風のだしで、富山の立山そばは関東風のだしだったと思います。
青函トンネル開通の翌年、修学旅行で日本海1号に乗りました。京都→函館間の乗車でした。今思うと、高校の同期全員がブルートレインに乗ったということですもんね。職場にはブルートレインに乗ったこと無いという人がたくさんいるので、貴重な経験だったと思います。
メッセージありがとうございます。修学旅行も色々ですね。私は、中学校の時は、0系新幹線とバス。高校は、フェリーとバス。あまり、在来線の鉄道には縁のない修学旅行でした。ブルートレインに乗っての修学旅行なんてどんな感じだったのかな?ちゃんと眠れました?貴重な経験、しかも今もう一度乗ろうと思っても乗れないのですね。
5泊6日の最終日だったので、さすがにみんな疲れていて寝ましたね。富山に停車した後の記憶が無いので、その辺りで寝たのでしょう。翌朝、ガタンッという衝撃で目が覚めたら弘前を出たところでした。あとは函館までみんなとワイワイやっていましたね。函館から乗り換えた専用列車がデータと座席数が違い、我がクラスは定員オーバーに。仕方なく担任教師とデッキでず~っと立ち話をしていました。たぶん183系の先頭車両だったんでしょうね。急にいろいろなことを思い出しました。
メッセージありがとうございます。なるほど。北海道へ帰る所だったのですね。みんな疲れてたと言う事は、これまで一杯楽しんだようですね。まあ、夜は起きていても景色も見えないし寝るのが一番ですね。
凄く懐かしいです。子供の頃夏休みや冬休みを利用して祖父母の家に行くため大阪→大館を兄弟だけで冒険気分で利用してました(^^)
メッセージありがとうございます冒険気分で・・・・子どもの頃・・・・うらやましいかぎりです。親がいないと、とかく自由な気分になって、半分冒険気分、でもとっても楽しかったのではないでしょうか?
国鉄時代の鉄道ファン 乗り込む時に親が車掌さんに下車駅を伝え、駅が近くなると声をかけてくれました。又向かいの人がおやつをくれる…今じゃ考えられないですよね‼アナログなコミュニケーションできた頃に戻りたいです(笑)
国鉄時代の鉄道ファン 因みに、私の子供達も13年前に冒険させました!あの時の親の気持ちがよくわかりましたが、冒険は子供達を成長させてくれました!復活して欲しいですね‼日本海号最高‼
私も、この列車で向かい合わせになった弘前の人と話をしたりしていました。夜行の座席の列車と違って、寝台車は、また違った趣がありますね。私が、子どもの頃はさほどクルマ社会ではなかったので、基本的に鉄道を利用する生活でした。ですから、子どもの時、一人で本竜野から、姫路まで行った事があります。でも、今の時代は、とくに田舎はクルマ社会なので、子どもと一緒に鉄道を使う機械も少なく、高校くらいになって初めて一人で列車に乗って通学するって言う感じでしたね。
まってましたーーおぉ〜という気持ち(笑)私は、愛知在住で、東海道本線メインの鉄でしたが、(あぁ、高校時代は飯田線だったけど)寝台特別急行列車が通過する匂い好きでした。夜行列車は、それなりに乗車しておりますが…寝台車で寝たのは1980年頃「あさかぜ」のA寝台個室で博多までの乗車のみしかありません(笑)父の実家が氷見なのですが…高岡駅も、かれこれ10年数年行ってないですね…JNR時代メインの貴重な映像UP感謝します。
+JUNEARTOFFICE さん メッセージありがとうございます。あさかぜのA寝台に乗られたって良いじゃないですか!寝台列車ってそうしょっちゅう乗るような旅行をするわけでもないし、A寝台個室は、貴重な思い出になっていると思います。高岡駅は、今は特急が走らなくなってずいぶんさびれてしまったそうですよ。駅は、とっても綺麗なのにね。私は、生まれたのは飯田だったようで、全然記憶がありません。今度、行ってみたいですね。
寝台のモケットやカーテンが青色の原型。小学生の頃、初めて乗った銀河号が日本海号と同じ宮原車で同じタイプでした。オハネ25 61が写ってますね。
メッセージありがとうございますいや~~~~オハネ25 61って全然分からないです。とにかく、この当時は、トワイライトエクスプレスも走って無くて、北陸本線を走るブルートレインは、この日本海と深夜に来るつるぎだけでした。急行では、きたぐにが12系と10系寝台で立山が電車の475系で走っていましたが、みな爆睡している深夜なので、この日本海だけがまだ起きている時間に撮影する事が出来たのです。ところで、銀河号って私の知っている時代は10系寝台でした。
貴重な映像、ありがとうございます。日本海号はよく利用しましたが京都~秋田間ばかり。定期廃止直前に漸く青森→大阪の全区間を乗り通す事が出来ました。国鉄時代とたいして設備は変わらなかった日本海号でしたが、昔のB寝台と言えば青いモケットに青カーテンでしたね。あの関西弁と東北弁の入り混じる車内が懐かしい。石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』の詩中で、♪北へ帰る人の群れは誰も無口で…とあるのは、みんな連絡船に向かって急ぎ足で黙々と桟橋を進むからだ…という話を聞いた事がありましたが、急行八甲田の女性客、連絡船に向かっているのかどうかは分かりませんが駆け出していましたねw
+yumeno ukihashi さん メッセージありがとうございます。秋田で下車となると、この映像では、まだ暗い時間ですね。でも夏だったらもう明るくなっているのかな。関西弁と東北弁・・・・ぜんぜん言葉が通じないじゃん(笑)私も、完全に東北の人同士が喋っているのを聞いたけど、全く分かりませんでした。ただ1つだけ、喋っている言葉の中に分かる単語が1つだけ有っただけです。 『津軽海峡・冬景色』の詩中の♪北へ帰る人の群れは誰も無口で…ってそんな場面の歌詞だったのですね。たしかにそうかもしれませんね。連絡船の中は、またわいわいがやがやとにぎやかだったのかも知れませんね。「ごらん あれが竜飛岬 北のはずれ」「船の反対側さいげば、すもぎたはんどうさ見えるべ」って会話が弾んでいたのかもしれませんね。急行八甲田の女性客は、どうなんでしょうね。連絡船とは反対方向へ走って行ったから。
+国鉄時代の鉄道ファンさん 貴重な映像をありがとうございます。懐かしく拝見しました。日本海は20系時代から乗りました。臨時列車の日本海は583系の時もありました。車内アナウンスもハイネケンスのセレナーデが綺麗な音で入っていますね。急行列車も14系になっていますね。きたぐにもこの頃は寝台車も座席車も14系でした。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。うわ~20系時代の日本海。私が高校時代ですね。当時は大阪駅でEF58牽引で米原周りで朝到着したのを覚えています。一番青森よりは、ナハだったような記憶があります。青森から秋田までは、DD51牽引だったのかな?
24系25型モノクラス編成の時期ですよね?日本海は1・4号が宮原、2・3号が青森所属だったんです。青森所属は24系で、しかも開放式のA寝台が連結されていました。私は両方乗りましたけど、懐かしい映像ありがとうございます。夜行列車がなくなるのは非常に残念ですよね?
+ケロケロ鎮守府(ケロちゃん) さん メッセージありがとうございます。私は、もっぱら急行派だったので、日本海に乗ったのは、これが最初で最後です。夜だったし、あまりビデオ撮影出来ませんでした。でも、トワイライトエクスプレスなら、まだ真っ暗の所が、明るくなってきて良かったかも。もうすぐ、青函トンネルは、新幹線で通る時代になりますよね。時代は、どんどん進みますが、私たちは、「今」を動画で残すのが重要な役目みたいに思います。
始めまして。寝台列車いいですね。日本海も廃止になり四年になりますね。淋しいです。急行はまなすも廃止で時代の流れ感じますね。上手く映像編集しておられるので凄いですね。青函連絡船も本当懐かしいです。これからも懐かしい映像楽しみにしています。
+飯田寛光 さん メッセージありがとうございます。編集は、昔はビデオとビデオを繋いでダビングと言う形での編集でしたが、今はパソコンで楽に編集でき、また特殊効果なども楽に使えるようになって本当に便利な時代になりました。なにしろスマホでハイビジョン動画が撮影できる時代ですからね。それと引き換えに失われたのが、特急日本海、はまなす、カシオペア、北斗星などの夜行列車かもしれませんね。この時代は、画質も悪いですが、この時代にしか残せなかった方法で記録したのが、この映像でした。
懐かしい映像有り難うございます。私は羽越本線沿線の秋田県金浦町(現にかほ市)で生まれたので寝台特急日本海は地元の誇りでした。3号はヒルネ区間利用で象潟〜弘前間乗車しました。1・4号は金浦付近通過は早朝深夜なので見づらかったです。母の実家が羽越本線羽後本荘駅付近にあったので宿泊した際に日本海1号が羽後本荘駅に到着する午前4時50分頃にこっそり起きて眺めた記憶があります。因みに私は今は東京都在住です。実家も秋田市に引っ越しました。
メッセージありがとうございます。秋田県は、旅で行った事と、仕事の出張で行ったくらいであまり行った事がないのですが、海沿いを走る羽越本線の普通列車には、何度か乗りました。日本海は、夜行列車なので、お互いに夜か早朝しか見る事が出来ないのですが、みなさん、それなりに地元の誇りだったのですね。でも、夜行列車がどんどん廃止され、残念と言えば残念ですが、やはり親方日の丸の国鉄時代から民営化になったら、儲からない事は、どんどん切り捨てられて今日になっているのでしょうね。鉄ちゃんは、好きな事を言ってればいいけど、経営する側となるとそうも言ってられないのでしょうね。
寝台の中での会話や交流、夜中を駆ける青い客車、寝台特急こそ旅の風物詩ですね。
+快特三崎口行 さん メッセージありがとうございます。おっしゃる通り、同じボックスに乗り合わせた人と会話をしたり、個室寝台では、味わえない旅の楽しさですね。
夜汽車はやはり良いですね 二回だけ乗ったことがあります 寝台急行十和田 と 寝台特急あけぼの 十和田は水戸~上野の短区間でしたが水戸でED75からEF81へ付け替えがありそれを見ながら駅そば食べてたの覚えています あけぼのは高校の部活遠征で利用しました
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。私は、寝台特急は、あまり乗ったことが無く、日本海もこれが最初で最後でした。でも、急行は、学生時代に周遊券で東北を旅行していた時に宿代わりにさんざん利用しました。乗った列車は、津軽 八甲田 が主な列車です。上野から青森まで十和田に乗ったこともありました。あの時はEF80を連結してましたね。
EF81が20系を引いて居ました 末期近かったから今にして思えば貴重な体験でした
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。EF80は、EF81に置き換わってしまったのかな?
そうです 今水戸運転所常駐機はEF 81の81号機ですね 後はEF 510が居ます
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。北陸本線と似ていますね。ちょうど、北陸本線のEF70がEF81に置き換わったように。同じくEF510もありますから。
廃止されて久しいですが比較的乗車率が高かったこの寝台特急が無くなったのは残念・・・。
今は、寝台特急は、ほとんど無くなりましたね。あの北斗星や、トワイライトエクスプレス、豪華な列車は、もう観光列車のお金持ちしか乗れない時代なのかな。
東日本の関東地区では主力のDC ですキハ110の後継型気動車でエンジンはカミンズです
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。最近DCって全然縁がなく、ほとんど乗ったことが無いのです。キハ110とか、さっぱり分からないのですが、今では何かハイブリッドのDCもあるみたいで、全然時代について行けない私です。でも、何かワンマンのバスみたいなDCは、あまり好きになれないのです。
特急とか急行はDCかあったみたいです はつかりが常磐線経由でしたし 初代ひたちも81系でしたからね 初代ひたちは 確かいなほと共用だったみたいで最初は不定期特急だったみたいです
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。はつかりは、常磐線経由だったのですか?私は、幼稚園の頃、絵本でしか見た事がなく、どこを走っている事すら知りませんでした。ただ、キハ81型は、はつかり型なんて、言っていました。
こないだ、急行はまなすの乗り納めをしてきました。真冬の東北・北海道にもかかわらず、暖房が利きすぎていて暑かった…セーター・開襟シャツ・ヒートテックの長そで下着を脱いで、半そでTシャツ1枚で寝ました。上野発の夜行列車と青函連絡船がなくなった青森には、もう凍えそうなカモメと竜飛岬しか残っていませんでした。
+Mack Rick さん メッセージありがとうございます。そか、いよいよですね。急行はまなすもお別れなんですね。北海道って暖房がすごく効いているのです。網走駅のトイレなんか、とっても暑いです。普通列車に乗った時も、暑くて半袖のTしゃつ1枚になっていました。車両も2重まどですしね。それでは、今度冬に青森に行った時は、凍えそうなカモメを撮影出来たらいいかな!まるで、演歌の世界だ!「どこへ かえるの 海鳥たちよ シベリア下しの北の海・・・・」なんて。
昭和50年ころ、秋田の大館から青森、青函連絡船に乗って北海道へ帰省するのによく乗車しました。高速バスもない時代でL特急は不便な時間帯に来るので、ほとんど日本海に乗車しました。夕方青森を出て1時間半位で到着しました。大館からは7時過ぎに乗り9時過ぎの連絡船に乗りました。B寝台に座りましたが、どうしても他の乗客と一緒になり寛げるものではありませんでした。各駅停車だと旧型客車で3時間弱掛かり、連絡船も繁忙期は優先乗船にされないのでやめました。勝手に寝台にしてさすがに車掌に怒られた若者グループがいました。
メッセージありがとうございます。昭和50年と言うとまだ、寝台のまま青森まで行く車両ではなかったのかな?私が乗った時は、青森まで寝台のままでした。でも、大舘から青森まで寝台券を買わないと乗れないのですね。少々もったいない気がします。それにしても、各駅停車は、青函連絡船に優先して乗せてもらえないなんて、おかしいですよね。地元、青森から駅に入って乗る人はどうなるのでしょうか。特急券どころか、乗車券すら持っていないのだから。
いえ、寝台は片付いていて特急券のみで乗れました。途中で出来た空席を当てたみたいです。行きも大館までは寝台はまだ出されていませんでした。連絡船はどちらかに優等列車の乗車券があれば優先乗船出来るのと連絡船や列車が遅延しても待ってくれるので繁忙期は必須アイテムでした。民間フェリーはいつも連絡船に追い抜かれて大きさも半分。車両甲板は冷凍大型トラックが冷凍機を動かすのにエンジン切らないでいるので、排ガス地獄で夏の繁忙期は満員で客室に入れずデッキで横になった事もあり連絡船が一番まともでした。
では、青森から函館にしか行かない人はどちらの特急券も持っていないので、困ったものですね。函館からの特急券を買って、函館で払い戻しですね。私は、1985年頃、加賀温泉から特急日本海にのって大阪に行こうと思ったら、寝台権が必要と言われ、乗れませんでした。そのため、急行ゆのくにでの移動になってしまったのです。 私は、特急おおとりの撮影のためにマイカーで北海道へ行きました。その時は、帰省ラッシュの時で、車の中で寝てくださいと言われ、車の中にずっと居ました。まあ、車が有ればできる事ですね。
この日本海みたことがありませんなにせ 青函連絡船があったころ幼稚園生でしたので
メッセージありがとうございます。そうですか。でも、つい3年ほど前まで走っていたのですよ。
小海線とか走ってるのがハイブリッドですね
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。そうですね。エンジンが止まったり動いたりするようですね。去年まで私の家にもハイブリッドの車が有ったのですが、メインバッテリーがダメになって、もうハイブリッドはやめました。
EF 81もEF 70も交流50ヘルツか交流60ヘルツかの差で兄弟みたいなものですからね EF 80の前は水戸運転所はC 62とか 今山口線走ってるC57 1は新製配置は水戸でした
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。そうなんですか?電化前はSLだったのですね。意外と、DLを飛び越えて、SLからELと言うのが多いですね。
日本海とは無関係で申し訳ございません上野ー青森間は1995年3月のこと。世間では、あの阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件で騒がれたあの頃。上越・羽越・奥羽線経由の「鳥海」で、しかもEF81ヒサシ付スルー牽引化された直後でした。往復ともA寝台車(オロネ24形)利用でした。そのオロネ24形も全く日本海とは関係無くもございません。そう、鳥海・日本海と共通運用されていました。カヤ24形も同様でした。今考えたら、青森車の24系は上野と大阪を行ったり来たりでしたね。東日本車は青函越え出来なくて、函館乗り入れを西日本車が担当していました。自分が初めて青森へ行ったとき、駅構内の側線には3両ばかりの24系が止まっていたのを見て、何かなと思ったら日本海の青森転回車。そう、函館行き日本海の青森止まりだったのです。私は、首都圏在住なので日本海を利用することが出来ませんでした。大阪ー青森間を利用ともなれば、東京発着九州ブルトレに匹敵するのではと思いました。親父の実家「余目駅」も日本海・白鳥は通過でした。いなほ・鳥海・あけぼのは停車でした。
メッセージありがとうございます関東在住なんですね。私も少しの間だけ、関東に住んでいたことがあり、仕事の後上野駅によく夜行列車を見に行ったものでした。学生時代は、上野から急行十和田に乗ったことがあります。当然A寝台でもなく、B寝台でもなく、直角の椅子の旧型客車でした。日本海も、この時が最初で最後でした。地元北陸では、早朝に青森からやってくるのです。良く撮影はしたものの、乗るのはこれっきりなのです。 余目は、学生時代に写真を撮影しに行きました。あの当時は、日本海、白鳥、ED75牽引の普通列車(旧型客車)、EF81牽引の普通列車(旧型客車)など、色々と走っていました。日本海は、昔は20系で大阪駅で良く見たのですが、その当時は、私は高校生で、湖西線もなかった時代で、米原からEF58が牽引していました。本当に、懐かしいですね。
キハE130系系列は
定期寝台特急がサンライズのみの現在、ブルーの車体で誇らしげに走るブルートレインが懐かしいです。
今の車両達も良いですが、この時代の旅情は皆無となってしまった気がします。
時代の流れなので仕方ない事かもしれませんが、出来る事ならもう一度ゆっくりと寝台特急の旅をしてみたい……
あの頃を彷彿させる貴重な映像の数々、感謝致します🙇
やはり、時代は速く速くになっているのでしょうね。
もともと、鉄道がなかった時代に、鉄道を敷いたのは、速く移動するため。
しかし、今は、道路も発達し、車でも速く移動できる時代。
新幹線がだんだん伸びて、ゆっくり旅の列車たちがなくなってしまったのでしょうね。
30年ぐらい前までは、頻繁に日本海で関西から秋田へ帰省してました。
雰囲気が懐かしい。
この時代の鉄道車両の雰囲気や列車が好きです。
へぇ~!そんなに日本海によく乗られてたのですね。
これまたうらやましいです。
私だったら、せいぜい白鳥か、きたぐに かも。
@@HobbyVideos 白鳥も何度か使いましたが、さすがに退屈になりました。
なるほど、何度も乗っていると飽きてしまい退屈になるかもしれませんね。
その点、寝台列車は寝る事が出来るんだから、体を休める人には良いですね。
深夜の乗降客のない駅に到着し、発車するシーンには沁みる思いがありました。
EF-81やEF-58の発車の汽笛が静寂に響きわたる様は本当に眠るのが勿体ないくらいに貴重に思い出でした。
多感な子供心にも素敵な存在でした🎵
そうなんです。夜行列車って眠るのがもったいないと言う感じですね。
ただ、仕事などで移動目的だけで乗る人は別でしょうけどね。
大鰐温泉駅に着いた時の駅員さんの放送がいいですねぇ~。
「おおわにぃ~」
「おおわにぃ~」
独特の「節回し」に、懐かしさを感じます。
今は「節回し」の肉声放送を聞かなくなりました。
味気ない自動放送が多くなりましたからねぇ。
国鉄時代の鉄道ファン様の色々な動画の中に、私はいつも車掌さんや、駅員さんの肉声放送を探しています。
この日本海が終着、青森駅に滑りこんだ時の駅員さんの「あおもりぃ~」
「あおもりぃ~」
旅情が掻き立てる放送はホント、いいですね。
主様の数々の動画に出てくる肉声放送で、この日本海の大鰐の駅員さんの到着放送「おおわにぃ~」
と、北海道の特急「おおとり」に出てくる長万部駅での「おしゃまんべぃ~」
「おしゃまんべぃ~」
なんか大好きです。
いつも貴重な動画をありがとうございます
そか!肉声放送これも、合理化で人件費節約で自動放送になったのかな?
でも、1つ思うのですが、この自動放送で、肉声放送のような声や、節回しを出来ないものでしょうか?
今の時代なら、可能だと思うのですがね。
まあ、鉄道会社としては、旅情なんて眼中にないのかもしれませんね。
日本海1号で函館まで行けたのが懐かしいよ
もう乗れないですね。本当に懐かしい。
日本海に乗ったら駅弁食べるものいいね、まずは大阪の八角弁当、夜食には金沢のオニエ寿司、終点の青森はホタテ弁当で終点を迎えるそして、函館に着いたら雪が積もっていました、いや日本海って本当に楽しいもんですね
メッセージありがとうございます。
そう言えば、日本海は、もともと食堂車が無かったのかな?
でも、駅弁を買うのに、窓の開く列車と違ってホームに出ないといけないし、寝間着では、出れないし、なんかコンビニエンスカーみたいな車両が食堂車の代わりに連結されていて、そこで駅弁を買ったり、ちょっとした食事ができるテーブルと椅子があったりする車両があれば良かったですね。
ED79の日本海ヘッドマークは新鮮だな
函館行き日本海の存在は知ってたけど、釜は初めて見た
あ~ん!
来れ、青函トンネル開通した無かったころなので、ED75なんです。
ここから、北海道へは船でした。
たびたび聞こえるホイッスル、ハイケンスのオルゴール、国鉄型車両たち。そして、「日本海」も増結車がつく盛況ぶり。なつかしく拝見させていただきました。
メッセージありがとうございます
青函連絡船の時代の国鉄。
今ではみんなこの時代が終わってしまったみたいですね。
いつも楽しく拝見させていただいております。夜行列車,素晴らしいですね。今後も,懐かしい映像楽しみにしております。
+西口宏美 さん メッセージありがとうございます。
夜行列車っていつしか昔の産物になってしまいましたね。
なぜか、夜行バスは一杯走っているのに。
+国鉄時代の鉄道ファンさん,返信ありがとうございます。
日本海には乗車したことはありませんが,数年前出張帰りに何度か鶴岡から上野まであけぼのに乗って帰ってきたことがあります。今になって思うと,夜中時間をかけて旅をすることはとても贅沢なことでした。
+西口宏美 さん メッセージありがとうございます。
そうですね。今は新幹線が発達して、1泊旅行の場所が日帰りの場所なんかになってしまって、夜中時間をかけての旅って贅沢になってしまいましたね。
夜中に目が覚めてどこら辺走っているか?
駅の電気が消えていて完全に寝ている。
あの感覚が旅情を誘う。
良い経験しました。
メッセージありがとうございます。
もうこんな夜行列車って、今はサンライズ出雲くらいになってしまったのかな?
旅情溢れる日本海、素晴らしい、浴衣や下着でホーム降りませぬよう(笑)
でも、ホームに出て来てた人居ました。浴衣で。
@@HobbyVideos やっぱり さすが日本海 なくなって寂しい
地上時代の金沢駅ですね。列車到着時の自動女性アナウンス「かなざわーかなざわー」の音源をずっと探していましたが、ようやく辿りつくことができ、大変感謝しております。
各ホーム毎にあったホーム外れの白山そば。七尾線の0A0B番線。ちょっとだけ昔を思い出すことができました。
貴重なフィルムをアップ頂き、ありがとうございました。
+m Shinkuro さん メッセージありがとうございます。
金沢の自動女性アナウンス探しておられたのですか?
でも、探すと言っても大変でしょう?
私は、青森のアナウンスが印象的です。
「あおも~り! あおも~り! あおも~り! 」って言うやつです。
そばの話になるのですが、関東のそばのだしは、醤油が濃くて黒いだしですが、関西のそばのだしは、薄い色をしたカツオのだしですね。
北陸では、金沢の白山そばは、関西風のだしで、富山の立山そばは関東風のだしだったと思います。
青函トンネル開通の翌年、修学旅行で日本海1号に乗りました。京都→函館間の乗車でした。
今思うと、高校の同期全員がブルートレインに乗ったということですもんね。職場にはブルートレインに乗ったこと無いという人がたくさんいるので、貴重な経験だったと思います。
メッセージありがとうございます。
修学旅行も色々ですね。
私は、中学校の時は、0系新幹線とバス。
高校は、フェリーとバス。
あまり、在来線の鉄道には縁のない修学旅行でした。
ブルートレインに乗っての修学旅行なんてどんな感じだったのかな?
ちゃんと眠れました?
貴重な経験、しかも今もう一度乗ろうと思っても乗れないのですね。
5泊6日の最終日だったので、さすがにみんな疲れていて寝ましたね。
富山に停車した後の記憶が無いので、その辺りで寝たのでしょう。
翌朝、ガタンッという衝撃で目が覚めたら弘前を出たところでした。あとは函館までみんなとワイワイやっていましたね。
函館から乗り換えた専用列車がデータと座席数が違い、我がクラスは定員オーバーに。仕方なく担任教師とデッキでず~っと立ち話をしていました。たぶん183系の先頭車両だったんでしょうね。
急にいろいろなことを思い出しました。
メッセージありがとうございます。
なるほど。北海道へ帰る所だったのですね。
みんな疲れてたと言う事は、これまで一杯楽しんだようですね。
まあ、夜は起きていても景色も見えないし寝るのが一番ですね。
凄く懐かしいです。子供の頃夏休みや冬休みを利用して祖父母の家に行くため大阪→大館を兄弟だけで冒険気分で利用してました(^^)
メッセージありがとうございます
冒険気分で・・・・子どもの頃・・・・
うらやましいかぎりです。
親がいないと、とかく自由な気分になって、半分冒険気分、でもとっても楽しかったのではないでしょうか?
国鉄時代の鉄道ファン
乗り込む時に親が車掌さんに下車駅を伝え、駅が近くなると声をかけてくれました。又向かいの人がおやつをくれる…今じゃ考えられないですよね‼アナログなコミュニケーションできた頃に戻りたいです(笑)
国鉄時代の鉄道ファン
因みに、私の子供達も13年前に冒険させました!あの時の親の気持ちがよくわかりましたが、冒険は子供達を成長させてくれました!復活して欲しいですね‼日本海号最高‼
私も、この列車で向かい合わせになった弘前の人と話をしたりしていました。
夜行の座席の列車と違って、寝台車は、また違った趣がありますね。
私が、子どもの頃はさほどクルマ社会ではなかったので、基本的に鉄道を利用する生活でした。
ですから、子どもの時、一人で本竜野から、姫路まで行った事があります。
でも、今の時代は、とくに田舎はクルマ社会なので、子どもと一緒に鉄道を使う機械も少なく、高校くらいになって初めて一人で列車に乗って通学するって言う感じでしたね。
まってましたーーおぉ〜という気持ち(笑)
私は、愛知在住で、東海道本線メインの鉄でしたが、
(あぁ、高校時代は飯田線だったけど)
寝台特別急行列車が通過する匂い好きでした。
夜行列車は、それなりに乗車しておりますが…寝台車で寝たのは
1980年頃「あさかぜ」のA寝台個室で博多までの乗車のみしかありません(笑)
父の実家が氷見なのですが…高岡駅も、かれこれ10年数年行ってないですね…
JNR時代メインの貴重な映像UP感謝します。
+JUNEARTOFFICE さん メッセージありがとうございます。
あさかぜのA寝台に乗られたって良いじゃないですか!
寝台列車ってそうしょっちゅう乗るような旅行をするわけでもないし、A寝台個室は、貴重な思い出になっていると思います。
高岡駅は、今は特急が走らなくなってずいぶんさびれてしまったそうですよ。
駅は、とっても綺麗なのにね。
私は、生まれたのは飯田だったようで、全然記憶がありません。
今度、行ってみたいですね。
寝台のモケットやカーテンが青色の原型。小学生の頃、初めて乗った銀河号が日本海号と同じ宮原車で同じタイプでした。オハネ25 61が写ってますね。
メッセージありがとうございます
いや~~~~オハネ25 61って全然分からないです。
とにかく、この当時は、トワイライトエクスプレスも走って無くて、北陸本線を走るブルートレインは、この日本海と深夜に来るつるぎだけでした。
急行では、きたぐにが12系と10系寝台で立山が電車の475系で走っていましたが、みな爆睡している深夜なので、この日本海だけがまだ起きている時間に撮影する事が出来たのです。
ところで、銀河号って私の知っている時代は10系寝台でした。
貴重な映像、ありがとうございます。日本海号はよく利用しましたが京都~秋田間ばかり。定期廃止直前に漸く青森→大阪の全区間を乗り通す事が出来ました。国鉄時代とたいして設備は変わらなかった日本海号でしたが、昔のB寝台と言えば青いモケットに青カーテンでしたね。あの関西弁と東北弁の入り混じる車内が懐かしい。石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』の詩中で、♪北へ帰る人の群れは誰も無口で…とあるのは、みんな連絡船に向かって急ぎ足で黙々と桟橋を進むからだ…という話を聞いた事がありましたが、急行八甲田の女性客、連絡船に向かっているのかどうかは分かりませんが駆け出していましたねw
+yumeno ukihashi さん メッセージありがとうございます。
秋田で下車となると、この映像では、まだ暗い時間ですね。
でも夏だったらもう明るくなっているのかな。
関西弁と東北弁・・・・ぜんぜん言葉が通じないじゃん(笑)
私も、完全に東北の人同士が喋っているのを聞いたけど、全く分かりませんでした。ただ1つだけ、喋っている言葉の中に分かる単語が1つだけ有っただけです。
『津軽海峡・冬景色』の詩中の♪北へ帰る人の群れは誰も無口で…ってそんな場面の歌詞だったのですね。たしかにそうかもしれませんね。
連絡船の中は、またわいわいがやがやとにぎやかだったのかも知れませんね。
「ごらん あれが竜飛岬 北のはずれ」
「船の反対側さいげば、すもぎたはんどうさ見えるべ」
って会話が弾んでいたのかもしれませんね。
急行八甲田の女性客は、どうなんでしょうね。連絡船とは反対方向へ走って行ったから。
+国鉄時代の鉄道ファンさん 貴重な映像をありがとうございます。懐かしく拝見しました。日本海は20系時代から乗りました。臨時列車の日本海は583系の時もありました。車内アナウンスもハイネケンスのセレナーデが綺麗な音で入っていますね。急行列車も14系になっていますね。きたぐにもこの頃は寝台車も座席車も14系でした。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。
うわ~20系時代の日本海。私が高校時代ですね。
当時は大阪駅でEF58牽引で米原周りで朝到着したのを覚えています。
一番青森よりは、ナハだったような記憶があります。
青森から秋田までは、DD51牽引だったのかな?
24系25型モノクラス編成の時期ですよね?
日本海は1・4号が宮原、2・3号が青森所属だったんです。
青森所属は24系で、しかも開放式のA寝台が連結されていました。
私は両方乗りましたけど、懐かしい映像ありがとうございます。夜行列車がなくなるのは非常に残念ですよね?
+ケロケロ鎮守府(ケロちゃん) さん メッセージありがとうございます。
私は、もっぱら急行派だったので、日本海に乗ったのは、これが最初で最後です。夜だったし、あまりビデオ撮影出来ませんでした。
でも、トワイライトエクスプレスなら、まだ真っ暗の所が、明るくなってきて良かったかも。
もうすぐ、青函トンネルは、新幹線で通る時代になりますよね。
時代は、どんどん進みますが、私たちは、「今」を動画で残すのが重要な役目みたいに思います。
始めまして。寝台列車いいですね。日本海も廃止になり四年になりますね。淋しいです。急行はまなすも廃止で時代の流れ感じますね。上手く映像編集しておられるので凄いですね。青函連絡船も本当懐かしいです。これからも懐かしい映像楽しみにしています。
+飯田寛光 さん メッセージありがとうございます。
編集は、昔はビデオとビデオを繋いでダビングと言う形での編集でしたが、今はパソコンで楽に編集でき、また特殊効果なども楽に使えるようになって本当に便利な時代になりました。なにしろスマホでハイビジョン動画が撮影できる時代ですからね。
それと引き換えに失われたのが、特急日本海、はまなす、カシオペア、北斗星などの夜行列車かもしれませんね。この時代は、画質も悪いですが、この時代にしか残せなかった方法で記録したのが、この映像でした。
懐かしい映像有り難うございます。私は羽越本線沿線の秋田県金浦町(現にかほ市)で生まれたので寝台特急日本海は地元の誇りでした。3号はヒルネ区間利用で象潟〜弘前間乗車しました。1・4号は金浦付近通過は早朝深夜なので見づらかったです。母の実家が羽越本線羽後本荘駅付近にあったので宿泊した際に日本海1号が羽後本荘駅に到着する午前4時50分頃にこっそり起きて眺めた記憶があります。
因みに私は今は東京都在住です。実家も秋田市に引っ越しました。
メッセージありがとうございます。
秋田県は、旅で行った事と、仕事の出張で行ったくらいであまり行った事がないのですが、海沿いを走る羽越本線の普通列車には、何度か乗りました。日本海は、夜行列車なので、お互いに夜か早朝しか見る事が出来ないのですが、みなさん、それなりに地元の誇りだったのですね。でも、夜行列車がどんどん廃止され、残念と言えば残念ですが、やはり親方日の丸の国鉄時代から民営化になったら、儲からない事は、どんどん切り捨てられて今日になっているのでしょうね。鉄ちゃんは、好きな事を言ってればいいけど、経営する側となるとそうも言ってられないのでしょうね。
寝台の中での会話や交流、夜中を駆ける青い客車、
寝台特急こそ旅の風物詩ですね。
+快特三崎口行 さん メッセージありがとうございます。
おっしゃる通り、同じボックスに乗り合わせた人と会話をしたり、個室寝台では、味わえない旅の楽しさですね。
夜汽車はやはり良いですね 二回だけ乗ったことがあります 寝台急行十和田 と 寝台特急あけぼの 十和田は水戸~上野の短区間でしたが水戸でED75からEF81へ付け替えがありそれを見ながら駅そば食べてたの覚えています あけぼのは高校の部活遠征で利用しました
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。
私は、寝台特急は、あまり乗ったことが無く、日本海もこれが最初で最後でした。
でも、急行は、学生時代に周遊券で東北を旅行していた時に宿代わりにさんざん利用しました。
乗った列車は、津軽 八甲田 が主な列車です。
上野から青森まで十和田に乗ったこともありました。あの時はEF80を連結してましたね。
EF81が20系を引いて居ました 末期近かったから今にして思えば貴重な体験でした
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。
EF80は、EF81に置き換わってしまったのかな?
そうです 今水戸運転所常駐機はEF 81の81号機ですね 後はEF 510が居ます
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。
北陸本線と似ていますね。
ちょうど、北陸本線のEF70がEF81に置き換わったように。
同じくEF510もありますから。
廃止されて久しいですが比較的乗車率が高かったこの寝台特急が無くなったのは残念・・・。
今は、寝台特急は、ほとんど無くなりましたね。
あの北斗星や、トワイライトエクスプレス、豪華な列車は、もう観光列車のお金持ちしか乗れない時代なのかな。
東日本の関東地区では主力のDC ですキハ110の後継型気動車でエンジンはカミンズです
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。
最近DCって全然縁がなく、ほとんど乗ったことが無いのです。
キハ110とか、さっぱり分からないのですが、今では何かハイブリッドのDCもあるみたいで、全然時代について行けない私です。
でも、何かワンマンのバスみたいなDCは、あまり好きになれないのです。
特急とか急行はDCかあったみたいです はつかりが常磐線経由でしたし 初代ひたちも81系でしたからね 初代ひたちは 確かいなほと共用だったみたいで最初は不定期特急だったみたいです
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。
はつかりは、常磐線経由だったのですか?
私は、幼稚園の頃、絵本でしか見た事がなく、どこを走っている事すら知りませんでした。ただ、キハ81型は、はつかり型なんて、言っていました。
こないだ、急行はまなすの乗り納めをしてきました。
真冬の東北・北海道にもかかわらず、暖房が利きすぎていて暑かった…
セーター・開襟シャツ・ヒートテックの長そで下着を脱いで、半そでTシャツ1枚で寝ました。
上野発の夜行列車と青函連絡船がなくなった青森には、もう凍えそうなカモメと竜飛岬しか残っていませんでした。
+Mack Rick さん メッセージありがとうございます。
そか、いよいよですね。急行はまなすもお別れなんですね。
北海道って暖房がすごく効いているのです。
網走駅のトイレなんか、とっても暑いです。普通列車に乗った時も、暑くて半袖のTしゃつ1枚になっていました。車両も2重まどですしね。
それでは、今度冬に青森に行った時は、凍えそうなカモメを撮影出来たらいいかな!
まるで、演歌の世界だ!
「どこへ かえるの 海鳥たちよ シベリア下しの北の海・・・・」なんて。
昭和50年ころ、秋田の大館から青森、青函連絡船に乗って北海道へ帰省するのによく乗車しました。高速バスもない時代でL特急は不便な時間帯に来るので、ほとんど日本海に乗車しました。夕方青森を出て1時間半位で到着しました。大館からは7時過ぎに乗り9時過ぎの連絡船に乗りました。B寝台に座りましたが、どうしても他の乗客と一緒になり寛げるものではありませんでした。各駅停車だと旧型客車で3時間弱掛かり、連絡船も繁忙期は優先乗船にされないのでやめました。勝手に寝台にしてさすがに車掌に怒られた若者グループがいました。
メッセージありがとうございます。
昭和50年と言うとまだ、寝台のまま青森まで行く車両ではなかったのかな?
私が乗った時は、青森まで寝台のままでした。
でも、大舘から青森まで寝台券を買わないと乗れないのですね。少々もったいない気がします。
それにしても、各駅停車は、青函連絡船に優先して乗せてもらえないなんて、おかしいですよね。
地元、青森から駅に入って乗る人はどうなるのでしょうか。
特急券どころか、乗車券すら持っていないのだから。
いえ、寝台は片付いていて特急券のみで乗れました。途中で出来た空席を当てたみたいです。行きも大館までは寝台はまだ出されていませんでした。連絡船はどちらかに優等列車の乗車券があれば優先乗船出来るのと連絡船や列車が遅延しても待ってくれるので繁忙期は必須アイテムでした。民間フェリーはいつも連絡船に追い抜かれて大きさも半分。車両甲板は冷凍大型トラックが冷凍機を動かすのにエンジン切らないでいるので、排ガス地獄で夏の繁忙期は満員で客室に入れずデッキで横になった事もあり連絡船が一番まともでした。
では、青森から函館にしか行かない人はどちらの特急券も持っていないので、困ったものですね。
函館からの特急券を買って、函館で払い戻しですね。
私は、1985年頃、加賀温泉から特急日本海にのって大阪に行こうと思ったら、寝台権が必要と言われ、乗れませんでした。
そのため、急行ゆのくにでの移動になってしまったのです。
私は、特急おおとりの撮影のためにマイカーで北海道へ行きました。その時は、帰省ラッシュの時で、車の中で寝てくださいと言われ、車の中にずっと居ました。まあ、車が有ればできる事ですね。
この日本海みたことがありません
なにせ 青函連絡船があったころ幼稚園生でしたので
メッセージありがとうございます。
そうですか。
でも、つい3年ほど前まで走っていたのですよ。
小海線とか走ってるのがハイブリッドですね
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。
そうですね。エンジンが止まったり動いたりするようですね。
去年まで私の家にもハイブリッドの車が有ったのですが、メインバッテリーがダメになって、もうハイブリッドはやめました。
EF 81もEF 70も交流50ヘルツか交流60ヘルツかの差で兄弟みたいなものですからね EF 80の前は水戸運転所はC 62とか 今山口線走ってるC57 1は新製配置は水戸でした
+ほばらたかし さん メッセージありがとうございます。
そうなんですか?電化前はSLだったのですね。
意外と、DLを飛び越えて、SLからELと言うのが多いですね。
日本海とは無関係で申し訳ございません
上野ー青森間は1995年3月のこと。
世間では、あの阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件で騒がれたあの頃。
上越・羽越・奥羽線経由の「鳥海」で、しかもEF81ヒサシ付スルー牽引化された直後でした。往復ともA寝台車(オロネ24形)利用でした。そのオロネ24形も全く日本海とは関係無くもございません。そう、鳥海・日本海と共通運用されていました。カヤ24形も同様でした。今考えたら、青森車の24系は上野と大阪を行ったり来たりでしたね。東日本車は青函越え出来なくて、函館乗り入れを西日本車が担当していました。自分が初めて青森へ行ったとき、駅構内の側線には3両ばかりの24系が止まっていたのを見て、何かなと思ったら日本海の青森転回車。そう、函館行き日本海の青森止まりだったのです。私は、首都圏在住なので日本海を利用することが出来ませんでした。大阪ー青森間を利用ともなれば、東京発着九州ブルトレに匹敵するのではと思いました。親父の実家「余目駅」も日本海・白鳥は通過でした。いなほ・鳥海・あけぼのは停車でした。
メッセージありがとうございます
関東在住なんですね。
私も少しの間だけ、関東に住んでいたことがあり、仕事の後上野駅によく夜行列車を見に行ったものでした。
学生時代は、上野から急行十和田に乗ったことがあります。当然A寝台でもなく、B寝台でもなく、直角の椅子の旧型客車でした。
日本海も、この時が最初で最後でした。
地元北陸では、早朝に青森からやってくるのです。
良く撮影はしたものの、乗るのはこれっきりなのです。
余目は、学生時代に写真を撮影しに行きました。あの当時は、日本海、白鳥、ED75牽引の普通列車(旧型客車)、EF81牽引の普通列車(旧型客車)など、色々と走っていました。
日本海は、昔は20系で大阪駅で良く見たのですが、その当時は、私は高校生で、湖西線もなかった時代で、米原からEF58が牽引していました。
本当に、懐かしいですね。
キハE130系系列は