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名古屋から徳島に行くのに、はやたまに乗って和歌山まで行っていたの思い出しました。懐かしい。
鉄オタにとっては涙ものの動画をありがとうございます。😢主さんとナレーターの霊夢に深く感謝します。
寝台車はしんだいくるまでは誰なくしんだいしゃです。
意外だったのはほとんどが昼行列車で、寝台無しの全席座席の名無し夜行鈍行がなかったこと。ランク外にはあったのかもしれないけど。
この前ラオス遊びいって、ラオスのタナレーンから列車で国境超えてノンカーイからクルンテープアピワットまでの快速列車に乗りました。いわゆる旧客と同様のボックスシートに手動ドアに非冷房の夜行列車。流石に3等で無くリクライニングシートの2等車。コレも非冷房の手動ドア。タイもいつまでこんな車両があるかわかんないですよ。多くが退役して臨時列車でしか乗れませんが、タイ国鉄はレールの上走る最後の元国鉄24系寝台車もあります。
私が乗った最長普通列車(普通切符で乗車可能)は、下関発岡山行き(広島近辺ではシティライナー)の384.7㎞ですので、可愛いものですね😅
昭和58年7月下旬当時高校2年生の夏休みに門司から福知山までの824レ乗り通しました、勿論青春18きっぷ利用でした、夏場ですが当時は旧型客車勿論冷房は無くて窓を全開にして走行中は風を浴びてましたが、牽引機関車のDD51の排気とブレーキが鋳鉄制輪子だった為に鉄粉を浴び更に暑さでの汗の混じった異臭がTシャツに漂ってました、余談ですが当時の長距離客車列車には荷物車の他に郵便車も連結されていました、時には車両工場への入出場の車両が最後部に連結されていた事も有りました、古き良き時代そして青春時代の旅のよったら思い出の長距離旧型客車ありがとう。
いやぁ凄いですね文章で伝わってきます…
急行が贅沢で特急なんて夢物語の時代でしたから。
そういう時代もいいですね…
大きな駅では 10分以上の停車とかもハラが空いたら 駅そば食べて 洗顔してさっぱりしたものです(まだホームに洗面所があった時代)
5:02確か寝台券発行の際、マルス端末に入力する時に列車名が必要だったからと記憶してますマルス端末がなかった時代にも、寝台車を繋いだ普通列車はありましたし現に「はやたま」に寝台車が連結されたのはマルス導入(1974年)前の1968年です
どれも懐かしいですね。あとは敦賀ー直江津、上野ー久ノ浜、深川ー釧路ぐらいでしょう😅
函館発札幌行き鈍行に乗ったことが有ります。発車迄に函館駅で2時間弱停車してて、発車する前に尻がいたくなって、参りました。とても寝れたものではなかった、
寝れないですよね笑
長距離鈍行で乗った旧型客車の音と揺れは、鉄ちゃん人生で最高の子守唄だった。機関車が動き出す度に連結器がガクンと鳴るのも大して苦にならなかった。
あの瞬間いいですよね~
東海道山陽新幹線が全通し特急が全国を走り回る様になった1970年代後半以降に、この様な長距離普通列車に乗る人は居たのでしょうか。
鈍行列車は旅、新幹線はただの移動。
これらの列車が現役だった時期(特に引退年月日)も書いてほしかった。
山陰本線の長距離客車鈍行は憧れたな、乗れなかったけど。
自分もですー!
あれは3年まえ、止めるあなた、駅に残し動き始めた汽車に 一人飛び乗った、なんて光景はもう見られない。
悲しいですよね…
?
@@Ksu.uuhs_喝采ちあきなおみで検索してください
宮脇俊三先生の本に何度も出てくる、山陰本線824列車には、1度乗ってみたかったなあ。現実に乗るとなると、門司に早朝に着く夜行で行くしかないのだけど。
宮脇さん結構乗ってますよね
@@morimori185 自分は大人になってから、宮脇先生の本読んで鉄道好きになったので、この頃は鉄道に興味なかったのですよ。もう少し早く鉄道好きになっていれば、この長距離鈍行や廃止になったローカル線に乗れてたのにと後悔してます。
名古屋から天王寺行の921レは乗車しました。最初は「南紀」号でしたが、「南紀」の名前が特急に使われたので、「はやたま」に代わりました。寝台車を連結した普通列車は、沿線の駅で手作業で寝台券を発売していましたが、MARSによる寝台券発売になり、列車名称をつけたそうです。名古屋市内から大阪市内ゆきの硬券乗車券も売ってました。
懐かしい話題ありがとうございます。わたし、1位で登校して、部活で遅くなると2位で下校という高校生活を送りました。高校へは長門市駅から徒歩。
いい生活ですね…!
私も山陰本線利用、長門市駅で降りてました(40年前)小さい頃の長門市駅の思い出、めっちゃたくさんのヒヨコが貨車から出てきた(積まれてたのかな)
つい最近まで、ムーンライトながらの東京-大垣410kmを体験できたんだよな。
18きっぷシーズン横浜から乗ると日付が変わって1日分で九州まで行けた。駅員がびっくりしてた。
今思えばすごい列車でしたよね
はやたまは小学生の時、朝6時台に名古屋ゆきが通過するので見に行ってました。この当時は普通列車に郵便を運ぶ車両があったのでほぼ二駅ごとに積み下ろしがあったみたいです。
浜田出身なので山陰本線の鈍行が懐かしいです。小学生の頃月に数回米子の病院へ通っていましたが、帰りはいつも門司行きの鈍行に乗っていました。前3〜4両が荷物車で後ろ5両前後が客車で最後尾に乗るのが好きでした。駅によっては最後尾車両がホームからはみ出てることもよくありました。
大垣夜行が10位にも入らないのはそういうことか
この中の新津ー青森の833列車と京都ー浜田835(末期は833)、726列車は実際乗りました。833はTH-camでもUPしています。
旅一郎さんの動画見てます~!やっぱ映像で見るとリアリティあっていいですね!
@@morimori185 ありがとうございます。833は実際に乗った2年後の動画で再現しており、写真だけが本物なのですが、雰囲気を感じていただければありがたいです
天国👼の宮脇さんもびっくりしてるだろうか
でしょうね……
ながら以外だと、比較的最近まであった369M岡山→下関乗り通したのが懐かしい。
岡山下関の普通列車羨ましいです!!
もう、20年近く前になるけど下関→岡山(この間新快速他)大垣(Mながら)→東京 を18きっぷで旅行しました。いまでもいい思い出です。
20年ほど前は岡山↔️下関に山陽シティーライナーという列車名をつけた快速(西条~岩国が快速であとは各駅停車)が上下合わせて10本くらい運行されていた時期があり私も何回か乗ったことがありますが、まだ上があり下関発三石行という、中国地方の端から端まで完走する普通列車がありました。
上野発秋田行きの普通も存在していたと今は亡き祖父から教えてもらった事があります上野から秋田まで普通列車に乗って行く人っていたんでしょうか?鉄道マニアしか全区間乗らなそうだし需要があったのか?と疑問に思います
旧客の思い出といえばドア開けっぱなしトイレ垂れ流しで穴から走行中無数の砂利が見える福島駅で立ち食いそばをテイクアウトして車内で食べたり。高崎線も新幹線が無かった頃は日中30分に1本115系のサボが上野←→長岡が来たり子供ながらずいぶん遠くから来たんだなーなんて思いました。今じゃ高崎と新前橋と水上と小刻みに乗り換えしますからね。
高崎線も昔はかなり本数少なかったですよね…
大阪から新潟まで走っていた普通列車に、大阪から富山まで乗ったことがあります。この数分前を急行きたぐにが大阪をでていたんだけど富山着の時刻が普通列車のほうが有効時間帯だった。この列車は高岡であとからくる急行立山4号に追い越されました。もうかれこれ50年以上前です。また上りは新潟から米原止まりでした。米原には早朝の5時頃着いて京都行に、接続していました。しかしヨンナナサンダイヤ改正で、上りはなくなり下りも、白新線と、羽越本線の電化のダイヤ改正でなくなりました。考えてみればヨンナナサンダイヤ改正のときに数多くの夜行鈍行が消えていきました。
1980年なら駅止めの手荷物輸送がある頃ですね。古い駅舎では切符売り場より一段低い広めの窓口の跡が今でもあります。それが荷物受け取り口。各駅に有りました。今だと宅配業者の営業所まで荷物を取りに行く感覚で使ってました。長距離普通列車は手荷物輸送がメインで乗客は二の次だったのかな。トラック輸送ができない地方に残ったんだと思います。
今は荷物輸送はトラックですもんね…
今では宅配便荷物はコンテナに詰められてコンテナ貨物列車でも輸送されていますよ、佐川急便や福山通運では1列車貸切運用も有ります、又クロネコヤマトや西濃運輸のコンテナもかなり鉄道貨物輸送されています。
天王寺~名古屋には「南紀」もあったと記憶してますが、こどもの頃なので全く自信がないです。
もしゆっくりさんが間違っているならごめんください。わたがし等の国鉄時代の長距離列車は門司から福知山しかも兵庫県ですが福知山は京都府です。私の1964年の時刻表では818レは門司8:41から京都駅翌朝の5:25着なのですが、いつもガバガバで釜わにのですがなぜうぷ主がこんなずさんなのか解らないです。1973年ごろ私は中学生でしたがいつも二条駅から京都駅まで関西本線のSLを写しに行くのにこれを利用していました二条駅は始発でした。DF50にいつも揺られていました。福知山はどこから調べられたのか、不思議です。
思い出に残るのは大垣夜行ですね。この動画の時代の8年後の秋でした。横浜で乗車、平塚までは通勤帰りの人で混雑。小田原で消灯、静岡では駅弁販売。夜明けの名古屋近くの景色が良かったです。ボックス座席でコトコト揺られて夜を徹するのは快適とは言えなかったもののいい旅をしたなという気分になりました。
自分もムーンライトながらで旅情感じました!
山陰本線の824レは、全区間走破しました。今でも忘れられない思い出の列車です。
一度乗ったら忘れられないですよね笑
常磐線沿線民でした。上野→仙台なんてかわいいものですねw
上には上が居ますw
「はやたま」は亀山止めになってから天王寺〜亀山を乗ったな新宮に着くとホームの立ち食いうどんで朝食(笑)
いやぁ羨ましい…笑
@@morimori185 単におっさんなだけですよ(笑)通しで乗ったのは一回だけですが、実家が古座ですので大阪に遊びに行く時はよく乗りましたね
1位の824レは宮脇俊三さんの著書旅の終わりは個室寝台車のなかに著者の乗車記が収録されてますね
そうでしたね~!
同作中には亀山発着になった紀勢線の「はやたま」の乗車記もあって、亀山の乗り継ぎ案内では「紀勢線経由の天王寺行」は「まともに天王寺に行こうとする客が乗れば大変だ」と宮脇さん独特の皮肉が効いてたなw
北陸本線には、過去に大阪発新潟行や上野発長野・金沢経由大阪行、さらには戦後間もない頃には上郡発青森行があったそうです。
上郡から青森!?初耳ですそんな列車もあったんですね
その駅はどこにあるの?と疑問に思うような始発駅や終着駅の長距離鈍行がありましたね。平成に入ってからも備前片上発米原行きとか、下関発三石行きとか、八代発宇部新川行きなるものもありました。
列車番号123の、上野発一ノ関行の普通列車の客車は入っていない。
結構昔の列車ですね~
53-10で黒磯→一ノ関に短縮なのでね😉
@@psychedelicraspberry517 悪評タラタラの701系が途中で列車番号を変えながら黒磯から一ノ関まで直通している便が数年前までありましたね。東北新幹線青森開通前に運行されていた一ノ関発青森行がこれまた701系でした。
@@Yoshin-Sashizume 金💰️もらっても乗りたくない😵
ゆっくりファンですが、、どの動画も824レで門司~福知山というのが私の資料ではわかりません。ほかにも投稿をしていますが門司~京都の818レの事ではないのでしょうか?ゆっくりさんは1度も取り上げていません。ガバガバで構いませんがここだけはおかしいと思います。私は京都の二条駅近くで1973年ごろ中学の頃関西本線にSLを撮影するためいつも早朝にこの818レを利用してますDF54がけん引してました。1964年ごろは充分活躍してたと思いますが、、出雲市から福知山で終わるのは急行「しまね」704レで3:39着です福知山発の4:44は普通列車890レで京都いきしかありません。なぜこのような有名な「山陰」普通列車を取り上げないのか不思議でしょうがないです、、
福知山線には、午前中出発の大阪発→出雲市行、同→米子行、同→鳥取行のDD51の旧型客車列車がありました。大阪↔宝塚の複線電化区間を、中央・総武緩行線と同じカナリアイエローの103系と混じって高速走行する光景は最高でしたよ。
上野発常磐線経由仙台行、は何回も乗ったなあ
凄いです!!
@@morimori185 当時は、凄いことでもなかったんですけどね(^^;乗ったのは平(現・いわき)までだし。常磐線回りだけ、上野から客車鈍行が残ってました。午前と午後と一本ずつ。でも、東北本線も、黒磯以北は客車鈍行残ってました。こっちは一度だけ、黒磯から郡山まで乗りましたねー。四年生だったか五年生だったかの夏休み、初の1人旅。形式は忘れちゃいましたが、ぶどう色2号も混じっていたのは、今でもはっきり覚えてます。ほんと、いい時代でした。
EF80がかっこよかった。
私は上野発仙台行きの客車普通列車は乗車したことはありませんが、水戸駅と土浦駅で見たことはありました。私の記憶ですと上野発午前5時55分と午後0時36分の2本ありました。昭和57年11月14日(上越新幹線開業前日)をもって2本とも廃止になりました。乗ることができず残念でした。
@@鶴見達也-c2c 時刻そのとおりです。最後尾にオユ10が連結されていました。それと、走行距離はそれほど長くないですが、15時13分発の平行きというのがあって、私はこれによく乗って松戸まで行きました。松戸で降りると時刻表上では2分後に上りの普通客車列車が来るので、それに乗って上野まで戻るのです。大体時刻通りに来ないで数分遅れて来るのが常でした。これにはEF80の次位にマニ37とオユ10が連結されていました。
博多~小倉~大分~宮崎~西鹿児島 までの急行・日南宮崎~西鹿児島 が、普通列車になって。本当に旅情を味わった記憶があります♪今じゃ とても考えつかない『暴挙』だわゎ
日南は宮崎からC57がけん引で、そのため博多から青井岳に乗ったことがあります。
すごい列車ですよね~
その昔その日南号が我が地元、臼杵駅で上下が出会うダイヤが存在しました。ただ2:22という時間で子供の時分では見られませんでした。
新津発青森行833レ。50年以上前に乗ったよ!D51が引っ張っていました。本来はC57だったのですが、その日だけD51だったようです。発車後の「新発田、坂町、村上方面、各駅停車の青森行きです」というアナウンスは、いまだに耳に残っています。
山陰本線の824レは当時有名でしたね。残念ながら乗車叶わずでしたが、分割された後の出雲市〜福知山間は体験しました。それでも現在のレベルからすると随分と長距離の鈍行でしたね。上野〜秋田〜青森間の普通列車ってのは昭和40年代の時刻表で見たことがあります。
リスペクトします🙇地道に調べましたね。お疲れ様でした。私は1970年代、大阪→福知山を旧客でトコトコ行ったぐらいです。タイムスリップして京都→下関を山陰本線旧客で…
タイムスリップしたいですねぇ…
門司-福知山とかもうお遊びダイヤに見えるがw1日で山陰本線どこまで上れるかなーーとか言いながら作ってそうそこまでやるなら終点京都まで伸ばしてw
僕もせっかくなら京都までって思いました笑
10位の522レに乗ったことがあります。上越線の115系夜行で長岡の一つ前の宮内で降りてすぐに乗換え。前3両が荷物車、その次が郵便車だったので、EF81の唸りがそばで聴けなかったのが残念でした。
鈍行乗り継ぎ!羨ましいです~
郵便車を追いかけていた私も、そのパターンで上野から、宮内~米原経由で京都まで乗り倒しました。(長岡発が京都行だと思っていたのは、私の記憶違いかも知れません。)で、京都駅 0番線から福知山線の急行「大山」(福知山から鈍行)に乗り、翌朝は米子から岡山へ出て、松山に着くのが 24時過ぎ。その後の記憶が定かではありませんが、宿毛発の夜行列車で帰ってきたような。新津発青森行は、秋田まで乗りました。長距離ではありませんが、札幌発函館行の鈍行夜行列車なんかも。
上越線夜行、長岡到着が4:45だったのは覚えてます。(沿線住民)宮内乗り換えで米原まで行けたのはすごいですね。北陸新幹線平行在来線が軒並み3セク化した今では、絶対できない列車ですね。
旧客車、荷物車付きの時代は長距離夜行鈍行とか多く運行されてたな。1984年、原ノ町ー青森はキツかった。
乗られたんですか!すごい…
昭和37年に大阪→青森を乗り通した事あります。確か36時間位かかったと思います。学生時代は金がなく暇がありましたからね。当時急行「日本海」が24時間位で同区間を走っていましたが、300円の急行券がもったいなかったのです。電化されてませんから真っ黒ですし、青森で青函連絡船の席取りに荷物担いで走ったの覚えてます。函館からまた各停で小樽まで行ったと思います。北海道周遊券と言うのがありました。値段覚えてないですが、当時の国鉄乗り放題で21日間有効だったと思います。炭鉱に繋がっていた盲腸線がいっぱいあったように覚えています。音威子府-浜頓別-稚内なんて素晴らしかったですよ。
当時の300円は今で言うといくらくらいの金額に相当するのでしょうか?
数年前にヤフオクで買った昭和36年の時刻表見たら、普通511レは大阪6時41分発青森翌日13時44分着で31時間3分でした。参考までに、急行日本海は大阪19時10分発青森翌日17時29分着で22時間19分、特別急行白鳥が大阪8時05分発青森23時50分着で15時間45分でした。普通511レは、夜行区間となる北長岡から酒田までは、「主要」駅のみの停車でした。
@@Yoshin-Sashizume 当時の物価は知りませんが、現在の大阪から青森までの距離相当の急行料金は1320円ですね。参考までに、当時2等普通運賃300円(106km~109km)ですが、令和4年時点で、この距離の普通運賃(幹線)は1890円。ちなみに、当時の国鉄バス十和田線「青森駅前~子ノ口」間の運賃300円で、現在は同区間の運賃が2300円ですから、専門家じゃないので分かりませんが、今の価値で10倍位ではないでしょうか。
周遊券…自分も使ってみたかったです!夜行でひたすら行くとか羨ましい…
@@Yoshin-Sashizume バスの運賃が13円でした。今、220円です。仮に15倍だと、4500円位でしょうか。学生には大金でした。
ボックスシート、銀色の灰皿、駅弁は窓から購入。客車だから発着時は揺れが大きくて、冷暖房なし、座席も直角で固かったけど。お金がない学生には助かった。笑
鈍行の思い出…良いですね!
終点まで乗ったら機械の体をもらえそうだな。
そうですね笑
いや機械化母星の部品にされそうになる!
二度と帰らないお客のためにはこういう型の車両でないとダメなの...
高校時代は列車通学で、利用していた列車は門司発浜田行きでした。他にも下関辺りから出雲市まで行く列車も何本かあった記憶がございます。あと印象に残っている長距離列車として、快速しまねライナーって言う列車が何故か長門市から出てました。その列車、ヘッドマークもついてました。
しまねライナーあった気がします!
今は優等列車も含め定期運用する客車列車が無くなり寂しいです。僕が最後に客車鈍行(50系と12系)に乗車したのは久大線の日田駅から由布院駅を往復した1997年です。電車、気動車と違い静かな車内は睡魔に襲われ直ぐに寝入ってしまいます。😊👍かつては東海道線に東京、姫路間を結ぶ鈍行列車が1968年の10月まで走行していました。
久大線乗りたかったです…
こうした国鉄時代のロマン溢れる長距離列車は、何より乗務員さんや保線員さんの過酷な労働と引き換えに実現していたことは忘れてはいけませんね。新型車両や区間分割は、鉄道ファンのロマンの面は薄れてしまったかもしれませんが、乗務員さんの労働環境改善や、地元ユーザーの乗りやすさ、バリアフリーなどの改善となったのは事実です。一方昔は、国営だったのは勿論、荷物や郵便を運ぶために各地に長距離列車が不可欠でもありました。どちらがいいという話よりも、求められる時代に合わせたものだと常に受け止めていくことが必要だと、改めて感じます。
時代は常に変わっていきますもんね…
90年前後の121レなら何度か乗った。確か函館山線経由で札幌まで。9時間ちょっと。長万部で1時間半くらいの大休止やってたっけ。これに乗るために青森からの連絡船は深夜便にして毎回出来立ての紅しゃけ弁当とまだ冷えてないクラシックを買ってた。楽しい思い出しかない。
あーいい思い出ですね…連絡船…いい響きです
この手の動画は絶対に地図がほしい。
すみません!次回からはなるべく出すようにますね
ランキングの内容はもちろん、背景の画像がたまりません
ですよね!!
札幌発網走行きがあったな?年寄りが これに乗ると乗り換えがいらないと言っていたが どこまで行くんだろう?仁木発稚内行き 稚内発小樽行きがあったなあ。旭川ー稚内行きに短縮されたけど 荷物車と郵便車が連結されていたような。1980は千歳空港駅が開業した。ローカル線には乗り潰しファンが沢山いた時代
北海道は規模が大きいですよね!
急行も含めれば、函館↔稚内(急行宗谷)もありましたね。時期により小樽↔稚内だったり札幌↔稚内になったり。(急行天北と混同してるかな?)
乗り鉄ファンです。 学生時代に「山陰」のみ、しかも全区間は無理で一部区間だけ乗ったことあります。山陰はしかし旧型客車ではなく、12系客車になってからの時代で、旧型客車列車の長距離鈍行列車の乗車経験は残念ながらありません。 しかし、短距離なら旧型客車列車の乗車経験はあります。(旧型客車末期の福知山線など) ある意味、良き時代でもありました。 しかし夜行列車自体が今では少なくなってしまい残念です。 私も、もっと当時の学生時代に乗ることができていたなら・・・。 しかし、近年の夜行快速列車なら乗ることも出来てある程度は満足しています。 それでは最後に、ありがちなパターンですが、「懐かしい国鉄時代の長距離鈍行列車よ、永遠なれ!」 以上、コメント終わります。(終わり)
本当に言ってたらキリがないですもんね…自分はムーンライトながらに乗れただけでも幸せかなって思ってます
京都~浜田に乗った。京都駅0番線から発車していました。これに乗る為に京都駅近くに泊まりました。オンボロの鈍行客車でした。冬に乗ったので、暖房があまり利いていなくて寒かった記憶が有ります。牽引するDD51がぐらぐらしながら走る姿を見ていました。記憶は断片的です。遠い記憶です。
いい思い出ですね…DD51羨ましい
未だ高校生の頃、仙台青森間の鈍行に乗ったことあるな。客車タイプで連結部分がそのまま後ろの景色が見えて、行商のおばさんとかと話をしながらの旅だった。もう50年近く前だな、連絡船に乗ったからWW急行だったかな東京から西鹿児島まで「桜島」ってのがあったな。一度乗りたかった。
行商のおばさん…時代を感じますね!
豊岡→長門市間の客レ鈍行の乗車経験と青森→仙台駅間の客レ鈍行の乗車経験アリです。豊岡→長門市間は早朝5時50分発で長門市には深夜22時50分着。島根県内を走行中にラジオで『夏の甲子園』の試合を聴いていたら車掌さんが『今どっちが勝っているの❓』と戦況を訊ねてきたり、結構のんびりしていたな‼️冷房の無い旧型客車やその旧型客車を牽いて本線を駆け抜けた凸型のディーゼル機関車(DD51やDE10)、赤い交流電気機関車(ED75など)の姿が懐かしく思い出されます。
昭和のいいところですね…
勉強になりました。すごい動画作ってますね。121レとか普通にドンコウだったのか😆😆貨物列車と思ってました。
鈍行でもありましたね~
高3の夏休みに撮影旅行(鉄では無い)で「ながさき」乗りましたよ。狭いB寝台で爆睡してしまい、長崎駅に到着していることに気が付かず、車掌さんに叩き起こされました…。帰路は急行雲仙で、豪華?な14系座席車のバッタン簡易リクライニングという油断出来ないシートでした。あの頃はまだまだ日常に夜行列車が有ったんだなぁと感慨深いです。
日常に夜行っていいですね!
私は昔、北海道にいた頃は函館〜旭川の鈍行列車でしたね!🤓途中電化区間と非電化区間の間は機関車入れ替えの為、約20分程停車時間がありましたよね。
たぶん函館本線全線(函館↔旭川、小樽経由)っていうのもありましたよね? それとも函館↔札幌だったかな?80年代、夜に札幌を出て小樽経由で、函館に朝到着するのがあったのはよく覚えています。
羨ましいです~!
「はやたま」は10代の頃何度か乗りましたよ、ほぼ地元だったので。まあある程度気合入れた乗り鉄でないと疲れるよホントw 若かったから夜行でウトウトして過ごし翌朝も動けたんだろうけど、50も半ばのオヤジにはきついです。。
若くないと無理ですよね…
昭和時代の九州エリアだったら大分→西鹿児島の普通列車かなぁ。ブルトレ富士とは重岡~直川の信号所で離合していましたね。
その瞬間を見てみたかったです…!
鹿児島本線では西鹿児島発鳥栖行き客車普通が、客車普通がなくなり平成に入っても西鹿児島発銀水行き、八代発鹿児島経由国分行きとか宮崎行き(こちらは元急行用車両475系)とかがありましたが、国分とか銀水ってどこ?と思う地元の乗客も多かったのでは、と思います。
@@Yoshin-Sashizume 平成時代の九州エリアには50系客車の普通列車も存在していました。久大本線が有名だったけど、筑豊本線経由の小倉~原田もありました(乗ったことがあります)日豊本線の最終列車の小倉~柳ヶ浦の最終列車が50系でした。
@@morimori185 編成は10両で、客車5両、荷物車5両だったみたいです。他の時間帯の普通列車(佐伯~宮崎)には客車1両、荷物車4両の珍編成もあったみたいです。
山陽新幹線開業までは大阪駅9時11分発広島行き旧型客車+EF58による普通列車が定期運行されていて、時々回送用EF58との重連運転もあったとか。また同じ頃、京阪神113系全盛の時代に80系湘南型車両を使っての大阪発糸崎行き快速電車(明石までは今でいう外線快速)も走っていたとか。大阪駅から西、山陽本線方面も山陽新幹線開業前までは特急や急行といった優等列車だけでなく普通や快速の中・長距離列車もそれなりに走っていたようですね。ちなみに門司発福知山行き山陰本線普通列車は蒸気機関車牽引時代、下関と益田か浜田間(ちょっと失念)はD51重連で運転されていました。映像で見たことありましたが乗ってみたかった。
本当にいい時代ですよねEF58が毎日か…笑いいですね
あれ、どこかで東京発神戸行き普通見たような…
すごい昔にあった気がします!
山陰本線が長距離鈍行天国だったということは聞いたことある
本当に凄かったんですよね…
令和の今復活させるべきです。
東日本・東海・西日本・九州「新幹線を使え!」
長距離を走らせるほど、区間ごとの需要の差が大きくなりやすく、どうしても非効率的になりやすいです。あとは、まあはっきり言って乗り通す人なんてほぼ皆無でしょ?ということです。
観光列車としてならいけるかもですね!大井川鉄道がそれっぽいことをやってたような…
この時代に今のような機材とTH-camがあったら面白い動画がいくらでも撮れたんだけどねえ
いくらでも作れる気がします笑
昔は大垣夜行から西へ乗り継ぐと門司でながさき号に接続されていたと記憶しています。青春18きっぷの有り難みが大きかったでしたね。(^^;
すごいダイヤですよね…でも疲れそう笑
↑それやったオッサン😁
画像とまったく同じ時刻表を持っています。大人になったら長距離鈍行に絶対に乗るぞと思った少年時代。それから10年、大垣夜行と岡山発下関行に乗るのが精一杯でした。
僕もそんな感じです…笑
昔、福知山線、山陰線で大阪発下関行の鈍行があったと思うのだが。
そんな列車があったんですね!
長距離鈍行復活求む🙏
復活して欲しいですよね!
これらが国鉄末期にぶつ切りされ電車化気動車化されて急速に消滅していくのね。
いやぁ悲しいです…
茶色の客車が懐かしいです。泣寝台特急「富士」が、西鹿児島駅を12時前に出て,大分駅が16時30分過ぎだったはず。(富士とはやぶさ)どっちの乗車券でも、小倉で「乗り換え」出来たそうだ。W
凄いスケールが大きいですね笑
函館で生まれ育ったので、DD51牽引の普通列車には良く乗りました。荷物車が5両に客車が5両なんて編成もよくありました。機関士によって発車時の衝撃に差が出るので、発車の汽笛が鳴ったら油断できませんでした。ほとんど衝撃無く発車すると、感動しましたね。初めて青森へ渡り、ED75牽引の普通列車に乗った時は、電気機関車の加速力に度肝を抜かれました。
やっぱED75は違うんですね!
終戦直後の特殊な列車を入れたら長崎県の南風崎発東京行普通列車が一番ですかね?ただし一般客が乗れたのかはわかりませんが…
南風崎…初耳でしたそんな列車があったんですね!
上野発常磐線回り仙台行き何て言うのもあったしね トイレの注意書きに 上野~柏の間ではトイレの使用をご遠慮ください なんて書いてあったし
垂れ流しならではですね~
@@morimori185 ユーザーはユーザーで「使用中は停車しないでください」つ言ってたとかw。
普通列車なのに日暮里の次は松戸、その次は柏も通過して我孫子だったと記憶しています。
紀勢線のはやたまの成れの果てが後に京橋発御坊行(今は和歌山行?)の紀州路快速にw。どうしてこうなっただなw。
でも名残があるのは全くないよりはまぁ…
鈍行は、通過駅で止まってる時間が長い気がします。
そんな感じしますね
いい旅チャレンジ2万キロ…で色々と乗ったけれど、一番印象的だったのは函館→旭川の夜行鈍行かなぁ。青函連絡船からの漁火、森でかっこんだイカ飯…今となっては考えられない小6夏休みの旅は、どれもこれも記憶に鮮か。
列車から漁火…一生忘れられないですね!
この動画の頃だと函館⇔札幌だけどね😉
小6で列車旅したとは、うらやましいですよ。
『はやたま』じゃなく『南紀』に1978年に、1980年に824に通して乗りました、はいジジイです。
南紀ですかぁ…古いですね笑
921レ924レ「はやたま」はその前は「南紀」紀勢西線電化により特急「くろしお」の381系に置き換わり名古屋乗り入れがなくなり名古屋紀伊勝浦間の特急が「南紀」と命名されたため、921・924レは「はやたま」に改名。ちなみに天王寺発の週末の列車は釣客と和歌山までの通勤客で満員。客車は旧型車のため10系客車は蛍光灯使用のため明るい過ぎて不人気。白熱灯使用客車に乗客が多く座っていました。普通列車ですが天王寺和歌山間阪和線は快速運転。紀勢線に入ると各駅停車に。
はやたまの雰囲気良さそうですよね乗ってみたかった…
@@morimori185 さん。あの雰囲気は今ではもう味わえ無いですね。和歌山過ぎてからの雰囲気は夜行列車そのものでした。
懐かしい、小学生なので、木曽川橋梁近くで、くろしお、はやたま、眺めるだけでしたW
30年ほど前、姫路→彦根を当時新車の221系新快速に乗って帰宅しましたが、それでも草津くらいでやばかった(尻が)。シートピッチもない雑型客車で500Km以上はエコノミー症候群一直線ですね〜(笑)でもそんな長距離ドン行が大好きでした。
新快速でも十分辛いですよね笑
鉄道趣味的には面白いし風情はあるが、旅客実用性と収益性、管理面を考えたら無駄と言わざるを得ないな。特急列車が並走すらしていない、旅客動線無視。今はコンピューターも発達して運行の最適化も昔よりはやりやすいだろうから、無駄な送り込みとかは無くなったんだろうな。
動画の中でもちらっと触れられているけど、当時の国鉄は小荷物輸送をやっていたから荷物の積替えや車両の繋ぎ変えの手間を考えるとある程度長距離普通列車は必要だったのでしょう。小荷物の積み下ろしにかかる時間のことを考えると優等列車にに荷物車を連結するわけにはいかないし、山陰本線あたりだと専用の荷物列車を走らせるほどの需要はなかっただろうし。
まぁJRになって様々改善されましたね…
ランク外ですが有名な大垣夜行345M/340Mも400kmを超える長足でしたね
あれも長いですよね!
長距離鈍行首位の列車は故・宮脇俊三氏の著書にも出てきていましたね。昔の鉄道ジャーナルでも列車追跡で取り上げられていたような……私が乗った長距離普通列車は、気動車での滝川〜釧路が最長で、普通客車列車もほぼ絶滅寸前の頃から乗りだしましたので、こういう動画に出てくる長距離鈍行列車に憧れる部分もありますね。昔の山陰本線では全線単線非電化で不便だったんだろうとも思いますが……。🚂
やっぱり長距離鈍行は憧れの的ですよね~
私の世代は、長距離鈍行と言えば「大垣夜行」でした。夏休み等のシーズンには、東京駅のホームに乗車待ちの人だかりができていました。あとは、中央本線の上諏訪行夜行も。
いやぁいい時代ですね…旅に出るって感じします
上諏訪行きありましたね。新宿駅のアルプス広場でしたっけ?ホーム下の。並んで待ちましたね。時間が来ると駅員さんがホームへ誘導してくれました。
80年頃から1人で乗り鉄が出来るようになった年です。80年10月1日改正で幾つかの長距離鈍行が消えてたかなと思って、81年8月時刻表を見たらここのトップ10はまだ全部生き残ってますね。愛称付きの寝台車連結夜行鈍行「からまつ(80年9月末)」「ながさき(84年1月末)」「はやたま(84年1月末)」「山陰(85年3月末)」で、唯一「からまつ」が10月改正で終わってますね。乗れたのは「はやたま」と「山陰」だけでした。全区間乗れました。当時の乗り鉄はこれらに乗り通すのが目的という人もかなり居たのではないかと。旧客で乗り通しなんて地獄、疲れるだろと思うでしょうが大丈夫です。朝夕の主要な駅の通勤通学時間帯以外はガラガラですから。好きなところに座って、長時間停車で色々リラックスも出来ました。
80年から乗り鉄出来たなんていやぁ夢です…笑笑
私は「ながさき」も乗りました😉乗ること自体が目的っつー訳ではなく、18きっぷで鉄ヲタ中の宿代わり?でした😉
「ながさき」の乗車羨ましいです。18きっぷで宿代わり分かります😄 北海道へは18きっぷだけでも行きましたが、九州はJR化直前まで乗り潰しに行けませんでした。その時は九州ワイド周遊券利用でしたので、宿は「かいもん」「日南」でした😆
上野発奥羽本線経由青森行きなんてのもありましたね
ありましたねー
夕方には敦賀発小浜線・舞鶴線・山陰本線経由京都行き922列車も実在しました(敦賀16時31分発・京都22時14分着)。しかしながら国鉄(当時は福知山鉄道管理局)側の取り決めで綾部での方向転換中に浜田発東舞鶴行き544列車との間で牽引機関車を交換するルールでした(544列車を牽引してきたDD51が922列車の牽引に、922列車をけん引してきたDE10が544列車の牽引にそれぞれ回る)。
どの列車も乗ってみたかったなぁ!でも高速バスに負けるだろうな!
高速バス強いですもんね…
国鉄時代には採算度外視の長距離鈍行が幾つも走っていたんですね。長大編成の客車とかロマンしか感じないです。乗ってみたかった。自分の場合は「はやたま」後継の新大阪発新宮行の夜行や下関発岡山行あたりに乗る機会が有りました。少々腰は痛かったけどいい時間を過ごせました。今後は各地の鈍行列車も合理化で更なる運転区間の短縮が行われそうですので基本、有るうちに乗っておこうと思います。
荷物車や郵便車を併結していることが多かったので、そっちのニーズもあったのだと思います。
ランキング上位すべて機関車列車であることからも、当時は電車列車がまだ少なくて、機関車は機回しや付け替えに手間と時間がかかる故に、それを省くべく長距離列車を走らせていた側面もありました。ただ、長距離になればなるほど区間により需要に差が出るので、供給過剰になりがちで、非効率的だったのは否めませんでした。
長大編成の客車って本当にかっこいいですよね…
距離が長くなるほど、ほぼ1日乗れますね。
本当に1日中です笑
主要駅では長時間停車も多く、駅そばや駅弁を食べるのもよし。長時間の移動が無駄な時間だと思う人も居る野は仕方ないけど、暑い夏に窓を全開にあけ、自然の風を受けながら走るのは心地よいと思う。ただ、ひとつ、欠陥はトイレが・・・・。
鈍行ならではの楽しみ方がありますよね
風を浴びながら弁当を食べていると、なにやら謎の飛沫が?(ヽ´ω`)
名古屋から徳島に行くのに、はやたまに乗って和歌山まで行っていたの思い出しました。懐かしい。
鉄オタにとっては涙ものの動画をありがとうございます。😢主さんとナレーターの霊夢に深く感謝します。
寝台車はしんだいくるまでは誰なくしんだいしゃです。
意外だったのはほとんどが昼行列車で、寝台無しの全席座席の名無し夜行鈍行がなかったこと。ランク外にはあったのかもしれないけど。
この前ラオス遊びいって、ラオスのタナレーンから列車で国境超えてノンカーイからクルンテープアピワットまでの快速列車に乗りました。いわゆる旧客と同様のボックスシートに手動ドアに非冷房の夜行列車。流石に3等で無くリクライニングシートの2等車。コレも非冷房の手動ドア。タイもいつまでこんな車両があるかわかんないですよ。多くが退役して臨時列車でしか乗れませんが、タイ国鉄はレールの上走る最後の元国鉄24系寝台車もあります。
私が乗った最長普通列車(普通切符で乗車可能)は、下関発岡山行き(広島近辺ではシティライナー)の384.7㎞ですので、可愛いものですね😅
昭和58年7月下旬当時高校2年生の夏休みに門司から福知山までの824レ乗り通しました、勿論青春18きっぷ利用でした、夏場ですが当時は旧型客車勿論冷房は無くて窓を全開にして走行中は風を浴びてましたが、牽引機関車のDD51の排気とブレーキが鋳鉄制輪子だった為に鉄粉を浴び更に暑さでの汗の混じった異臭がTシャツに漂ってました、余談ですが当時の長距離客車列車には荷物車の他に郵便車も連結されていました、時には車両工場への入出場の車両が最後部に連結されていた事も有りました、古き良き時代そして青春時代の旅のよったら思い出の長距離旧型客車ありがとう。
いやぁ凄いですね文章で伝わってきます…
急行が贅沢で特急なんて夢物語の時代でしたから。
そういう時代もいいですね…
大きな駅では 10分以上の停車とかも
ハラが空いたら 駅そば食べて 洗顔してさっぱりしたものです(まだホームに洗面所があった時代)
5:02
確か寝台券発行の際、マルス端末に入力する時に列車名が必要だったからと記憶してます
マルス端末がなかった時代にも、寝台車を繋いだ普通列車はありましたし
現に「はやたま」に寝台車が連結されたのはマルス導入(1974年)前の1968年です
どれも懐かしいですね。あとは敦賀ー直江津、上野ー久ノ浜、深川ー釧路ぐらいでしょう😅
函館発札幌行き鈍行に乗ったことが有ります。発車迄に函館駅で2時間弱停車してて、発車する前に尻がいたくなって、参りました。とても寝れたものではなかった、
寝れないですよね笑
長距離鈍行で乗った旧型客車の音と揺れは、鉄ちゃん人生で最高の子守唄だった。
機関車が動き出す度に連結器がガクンと鳴るのも大して苦にならなかった。
あの瞬間いいですよね~
東海道山陽新幹線が全通し特急が全国を走り回る様になった1970年代後半以降に、この様な長距離普通列車に乗る人は居たのでしょうか。
鈍行列車は旅、新幹線はただの移動。
これらの列車が現役だった時期(特に引退年月日)も書いてほしかった。
山陰本線の長距離客車鈍行は憧れたな、乗れなかったけど。
自分もですー!
あれは3年まえ、止めるあなた、駅に残し動き始めた汽車に 一人飛び乗った、なんて光景はもう見られない。
悲しいですよね…
?
@@Ksu.uuhs_
喝采ちあきなおみで検索してください
宮脇俊三先生の本に何度も出てくる、山陰本線824列車には、1度乗ってみたかったなあ。現実に乗るとなると、門司に早朝に着く夜行で行くしかないのだけど。
宮脇さん結構乗ってますよね
@@morimori185 自分は大人になってから、宮脇先生の本読んで鉄道好きになったので、この頃は鉄道に興味なかったのですよ。もう少し早く鉄道好きになっていれば、この長距離鈍行や廃止になったローカル線に乗れてたのにと後悔してます。
名古屋から天王寺行の921レは乗車しました。最初は「南紀」号でしたが、「南紀」の名前が特急に使われたので、「はやたま」に代わりました。寝台車を連結した普通列車は、沿線の駅で手作業で寝台券を発売していましたが、MARSによる寝台券発売になり、列車名称をつけたそうです。名古屋市内から大阪市内ゆきの硬券乗車券も売ってました。
懐かしい話題ありがとうございます。わたし、1位で登校して、部活で遅くなると2位で下校という高校生活を送りました。高校へは長門市駅から徒歩。
いい生活ですね…!
私も山陰本線利用、長門市駅で降りてました(40年前)
小さい頃の長門市駅の思い出、
めっちゃたくさんのヒヨコが貨車から出てきた(積まれてたのかな)
つい最近まで、ムーンライトながらの東京-大垣410kmを体験できたんだよな。
18きっぷシーズン横浜から乗ると日付が変わって1日分で九州まで行けた。駅員がびっくりしてた。
今思えばすごい列車でしたよね
はやたまは小学生の時、朝6時台に名古屋ゆきが通過するので見に行ってました。この当時は普通列車に郵便を運ぶ車両があったのでほぼ二駅ごとに積み下ろしがあったみたいです。
浜田出身なので山陰本線の鈍行が懐かしいです。
小学生の頃月に数回米子の病院へ通っていましたが、帰りはいつも門司行きの鈍行に乗っていました。
前3〜4両が荷物車で後ろ5両前後が客車で最後尾に乗るのが好きでした。
駅によっては最後尾車両がホームからはみ出てることもよくありました。
大垣夜行が10位にも入らないのはそういうことか
この中の新津ー青森の833列車と京都ー浜田835(末期は833)、726列車は実際乗りました。833はTH-camでもUPしています。
旅一郎さんの動画見てます~!
やっぱ映像で見るとリアリティあっていいですね!
@@morimori185 ありがとうございます。833は実際に乗った2年後の動画で再現しており、写真だけが本物なのですが、雰囲気を感じていただければありがたいです
天国👼の宮脇さんもびっくりしてるだろうか
でしょうね……
ながら以外だと、比較的最近まであった369M岡山→下関乗り通したのが懐かしい。
岡山下関の普通列車羨ましいです!!
もう、20年近く前になるけど下関→岡山(この間新快速他)大垣(Mながら)→東京 を18きっぷで旅行しました。いまでもいい思い出です。
20年ほど前は岡山↔️下関に山陽シティーライナーという列車名をつけた快速(西条~岩国が快速であとは各駅停車)が上下合わせて10本くらい運行されていた時期があり私も何回か乗ったことがありますが、まだ上があり下関発三石行という、中国地方の端から端まで完走する普通列車がありました。
上野発秋田行きの普通も存在していたと今は亡き祖父から教えてもらった事があります上野から秋田まで普通列車に乗って行く人っていたんでしょうか?鉄道マニアしか全区間乗らなそうだし需要があったのか?と疑問に思います
旧客の思い出といえば
ドア開けっぱなし
トイレ垂れ流しで穴から走行中無数の砂利が見える
福島駅で立ち食いそばをテイクアウトして車内で食べたり。
高崎線も新幹線が無かった頃は日中30分に1本
115系のサボが上野←→長岡が来たり
子供ながらずいぶん遠くから来たんだなーなんて思いました。
今じゃ高崎と新前橋と水上と小刻みに乗り換えしますからね。
高崎線も昔はかなり本数少なかったですよね…
大阪から新潟まで走っていた普通列車に、大阪から富山まで乗ったことがあります。この数分前を急行きたぐにが大阪をでていたんだけど富山着の時刻が普通列車のほうが有効時間帯だった。この列車は高岡であとからくる急行立山4号に追い越されました。もうかれこれ50年以上前です。また上りは新潟から米原止まりでした。米原には早朝の5時頃着いて京都行に、接続していました。しかしヨンナナサンダイヤ改正で、上りはなくなり下りも、白新線と、羽越本線の電化のダイヤ改正でなくなりました。考えてみればヨンナナサンダイヤ改正のときに数多くの夜行鈍行が消えていきました。
1980年なら駅止めの手荷物輸送がある頃ですね。古い駅舎では切符売り場より一段低い広めの窓口の跡が今でもあります。それが荷物受け取り口。各駅に有りました。今だと宅配業者の営業所まで荷物を取りに行く感覚で使ってました。
長距離普通列車は手荷物輸送がメインで乗客は二の次だったのかな。トラック輸送ができない地方に残ったんだと思います。
今は荷物輸送はトラックですもんね…
今では宅配便荷物はコンテナに詰められてコンテナ貨物列車でも輸送されていますよ、佐川急便や福山通運では1列車貸切運用も有ります、又クロネコヤマトや西濃運輸のコンテナもかなり鉄道貨物輸送されています。
天王寺~名古屋には「南紀」もあったと記憶してますが、こどもの頃なので全く自信がないです。
もしゆっくりさんが間違っているならごめんください。わたがし等の国鉄時代の長距離列車は門司から福知山しかも兵庫県ですが福知山は京都府です。私の1964年の時刻表では818レは門司8:41から京都駅翌朝の5:25着なのですが、いつもガバガバで釜わにのですがなぜうぷ主がこんなずさんなのか解らないです。1973年ごろ私は中学生でしたがいつも二条駅から京都駅まで関西本線のSLを写しに行くのにこれを利用していました二条駅は始発でした。DF50にいつも揺られていました。福知山はどこから調べられたのか、不思議です。
思い出に残るのは大垣夜行ですね。この動画の時代の8年後の秋でした。
横浜で乗車、平塚までは通勤帰りの人で混雑。小田原で消灯、静岡では駅弁販売。夜明けの名古屋近くの景色が良かったです。
ボックス座席でコトコト揺られて夜を徹するのは快適とは言えなかったもののいい旅をしたなという気分になりました。
自分もムーンライトながらで旅情感じました!
山陰本線の824レは、全区間走破しました。今でも忘れられない思い出の列車です。
一度乗ったら忘れられないですよね笑
常磐線沿線民でした。上野→仙台なんてかわいいものですねw
上には上が居ますw
「はやたま」は亀山止めになってから天王寺〜亀山を乗ったな
新宮に着くとホームの立ち食いうどんで朝食(笑)
いやぁ羨ましい…笑
@@morimori185 単におっさんなだけですよ(笑)
通しで乗ったのは一回だけですが、実家が古座ですので大阪に遊びに行く時はよく乗りましたね
1位の824レは宮脇俊三さんの著書
旅の終わりは個室寝台車のなかに著者の乗車記が収録されてますね
そうでしたね~!
同作中には亀山発着になった紀勢線の「はやたま」の乗車記もあって、亀山の乗り継ぎ案内では「紀勢線経由の天王寺行」は「まともに天王寺に行こうとする客が乗れば大変だ」と宮脇さん独特の皮肉が効いてたなw
北陸本線には、過去に大阪発新潟行や上野発長野・金沢経由大阪行、さらには戦後間もない頃には上郡発青森行があったそうです。
上郡から青森!?初耳です
そんな列車もあったんですね
その駅はどこにあるの?と疑問に思うような始発駅や終着駅の長距離鈍行がありましたね。平成に入ってからも備前片上発米原行きとか、下関発三石行きとか、八代発宇部新川行きなるものもありました。
列車番号123の、上野発一ノ関行の普通列車の客車は入っていない。
結構昔の列車ですね~
53-10で黒磯→一ノ関に短縮なのでね😉
@@psychedelicraspberry517
悪評タラタラの701系が途中で列車番号を変えながら黒磯から一ノ関まで直通している便が数年前までありましたね。東北新幹線青森開通前に運行されていた一ノ関発青森行がこれまた701系でした。
@@Yoshin-Sashizume 金💰️もらっても乗りたくない😵
ゆっくりファンですが、、どの動画も824レで門司~福知山というのが私の資料ではわかりません。ほかにも投稿をしていますが門司~京都の818レの事ではないのでしょうか?ゆっくりさんは1度も取り上げていません。ガバガバで構いませんがここだけはおかしいと思います。私は京都の二条駅近くで1973年ごろ中学の頃関西本線にSLを撮影するためいつも早朝にこの818レを利用してますDF54がけん引してました。1964年ごろは充分活躍してたと思いますが、、
出雲市から福知山で終わるのは急行「しまね」704レで3:39着です福知山発の4:44は普通列車890レで京都いきしかありません。
なぜこのような有名な「山陰」普通列車を取り上げないのか不思議でしょうがないです、、
福知山線には、午前中出発の大阪発→出雲市行、同→米子行、同→鳥取行のDD51の旧型客車列車がありました。
大阪↔宝塚の複線電化区間を、中央・総武緩行線と同じカナリアイエローの103系と混じって高速走行する光景は最高でしたよ。
上野発常磐線経由仙台行、は何回も乗ったなあ
凄いです!!
@@morimori185 当時は、凄いことでもなかったんですけどね(^^;
乗ったのは平(現・いわき)までだし。
常磐線回りだけ、上野から客車鈍行が残ってました。午前と午後と一本ずつ。
でも、東北本線も、黒磯以北は客車鈍行残ってました。
こっちは一度だけ、黒磯から郡山まで乗りましたねー。
四年生だったか五年生だったかの夏休み、
初の1人旅。
形式は忘れちゃいましたが、ぶどう色2号も混じっていたのは、今でもはっきり覚えてます。
ほんと、いい時代でした。
EF80がかっこよかった。
私は上野発仙台行きの客車普通列車は乗車したことはありませんが、水戸駅と土浦駅で見たことはありました。私の記憶ですと上野発午前5時55分と午後0時36分の2本ありました。昭和57年11月14日(上越新幹線開業前日)をもって2本とも廃止になりました。乗ることができず残念でした。
@@鶴見達也-c2c 時刻そのとおりです。最後尾にオユ10が連結されていました。それと、走行距離はそれほど長くないですが、15時13分発の平行きというのがあって、私はこれによく乗って松戸まで行きました。松戸で降りると時刻表上では2分後に上りの普通客車列車が来るので、それに乗って上野まで戻るのです。大体時刻通りに来ないで数分遅れて来るのが常でした。これにはEF80の次位にマニ37とオユ10が連結されていました。
博多~小倉~大分~宮崎~西鹿児島 までの急行・日南
宮崎~西鹿児島 が、普通列車になって。本当に旅情を味わった記憶があります♪
今じゃ とても考えつかない『暴挙』だわゎ
日南は宮崎からC57がけん引で、そのため博多から青井岳に乗ったことがあります。
すごい列車ですよね~
その昔その日南号が我が地元、臼杵駅で上下が出会うダイヤが存在しました。ただ2:22という時間で子供の時分では見られませんでした。
新津発青森行833レ。50年以上前に乗ったよ!D51が引っ張っていました。本来はC57だったのですが、その日だけD51だったようです。発車後の「新発田、坂町、村上方面、各駅停車の青森行きです」というアナウンスは、いまだに耳に残っています。
山陰本線の824レは当時有名でしたね。残念ながら乗車叶わずでしたが、分割された後の出雲市〜福知山間は体験しました。
それでも現在のレベルからすると随分と長距離の鈍行でしたね。
上野〜秋田〜青森間の普通列車ってのは昭和40年代の時刻表で見たことがあります。
リスペクトします🙇
地道に調べましたね。
お疲れ様でした。
私は1970年代、大阪→福知山を旧客でトコトコ行ったぐらいです。
タイムスリップして京都→下関を山陰本線旧客で…
タイムスリップしたいですねぇ…
門司-福知山とかもうお遊びダイヤに見えるがw1日で山陰本線どこまで上れるかなーーとか言いながら作ってそう
そこまでやるなら終点京都まで伸ばしてw
僕もせっかくなら京都までって思いました笑
10位の522レに乗ったことがあります。上越線の115系夜行で長岡の一つ前の宮内で降りてすぐに乗換え。前3両が荷物車、その次が郵便車だったので、EF81の唸りがそばで聴けなかったのが残念でした。
鈍行乗り継ぎ!羨ましいです~
郵便車を追いかけていた私も、そのパターンで上野から、宮内~米原経由で京都まで乗り倒しました。
(長岡発が京都行だと思っていたのは、私の記憶違いかも知れません。)
で、京都駅 0番線から福知山線の急行「大山」(福知山から鈍行)に乗り、翌朝は米子から岡山へ出て、松山に着くのが 24時過ぎ。
その後の記憶が定かではありませんが、宿毛発の夜行列車で帰ってきたような。
新津発青森行は、秋田まで乗りました。
長距離ではありませんが、札幌発函館行の鈍行夜行列車なんかも。
上越線夜行、長岡到着が4:45だったのは覚えてます。(沿線住民)
宮内乗り換えで米原まで行けたのはすごいですね。
北陸新幹線平行在来線が軒並み3セク化した今では、絶対できない列車ですね。
旧客車、荷物車付きの時代は
長距離夜行鈍行とか
多く運行されてたな。
1984年、原ノ町ー青森はキツかった。
乗られたんですか!すごい…
昭和37年に大阪→青森を乗り通した事あります。確か36時間位かかったと思います。学生時代は金がなく暇がありましたからね。
当時急行「日本海」が24時間位で同区間を走っていましたが、300円の急行券がもったいなかったのです。
電化されてませんから真っ黒ですし、青森で青函連絡船の席取りに荷物担いで走ったの覚えてます。函館からまた各停で小樽まで行ったと思います。
北海道周遊券と言うのがありました。値段覚えてないですが、当時の国鉄乗り放題で21日間有効だったと思います。炭鉱に繋がっていた盲腸線がいっぱいあったように覚えています。
音威子府-浜頓別-稚内なんて素晴らしかったですよ。
当時の300円は今で言うといくらくらいの金額に相当するのでしょうか?
数年前にヤフオクで買った昭和36年の時刻表見たら、普通511レは大阪6時41分発青森翌日13時44分着で31時間3分でした。参考までに、急行日本海は大阪19時10分発青森翌日17時29分着で22時間19分、特別急行白鳥が大阪8時05分発青森23時50分着で15時間45分でした。普通511レは、夜行区間となる北長岡から酒田までは、「主要」駅のみの停車でした。
@@Yoshin-Sashizume 当時の物価は知りませんが、現在の大阪から青森までの距離相当の急行料金は1320円ですね。参考までに、当時2等普通運賃300円(106km~109km)ですが、令和4年時点で、この距離の普通運賃(幹線)は1890円。ちなみに、当時の国鉄バス十和田線「青森駅前~子ノ口」間の運賃300円で、現在は同区間の運賃が2300円ですから、専門家じゃないので分かりませんが、今の価値で10倍位ではないでしょうか。
周遊券…自分も使ってみたかったです!
夜行でひたすら行くとか羨ましい…
@@Yoshin-Sashizume バスの運賃が13円でした。今、220円です。仮に15倍だと、4500円位でしょうか。学生には大金でした。
ボックスシート、銀色の灰皿、駅弁は窓から購入。客車だから発着時は揺れが大きくて、冷暖房なし、座席も直角で固かったけど。お金がない学生には助かった。笑
鈍行の思い出…良いですね!
終点まで乗ったら機械の体をもらえそうだな。
そうですね笑
いや機械化母星の部品にされそうになる!
二度と帰らないお客のためにはこういう型の車両でないとダメなの...
高校時代は列車通学で、利用していた列車は門司発浜田行きでした。
他にも下関辺りから出雲市まで行く列車も何本かあった記憶がございます。あと印象に残っている長距離列車として、快速しまねライナーって言う列車が何故か長門市から出てました。その列車、ヘッドマークもついてました。
しまねライナーあった気がします!
今は優等列車も含め定期運用する客車列車が無くなり寂しいです。僕が最後に客車鈍行(50系と12系)に乗車したのは久大線の日田駅から由布院駅を往復した1997年です。電車、気動車と違い静かな車内は睡魔に襲われ直ぐに寝入ってしまいます。😊👍かつては東海道線に東京、姫路間を結ぶ鈍行列車が1968年の10月まで走行していました。
久大線乗りたかったです…
こうした国鉄時代のロマン溢れる長距離列車は、何より乗務員さんや保線員さんの過酷な労働と引き換えに実現していたことは忘れてはいけませんね。
新型車両や区間分割は、鉄道ファンのロマンの面は薄れてしまったかもしれませんが、乗務員さんの労働環境改善や、地元ユーザーの乗りやすさ、バリアフリーなどの改善となったのは事実です。一方昔は、国営だったのは勿論、荷物や郵便を運ぶために各地に長距離列車が不可欠でもありました。
どちらがいいという話よりも、求められる時代に合わせたものだと常に受け止めていくことが必要だと、改めて感じます。
時代は常に変わっていきますもんね…
90年前後の121レなら何度か乗った。確か函館山線経由で札幌まで。9時間ちょっと。
長万部で1時間半くらいの大休止やってたっけ。これに乗るために青森からの連絡船は
深夜便にして毎回出来立ての紅しゃけ弁当とまだ冷えてないクラシックを買ってた。
楽しい思い出しかない。
あーいい思い出ですね…
連絡船…いい響きです
この手の動画は絶対に地図がほしい。
すみません!次回からはなるべく出すようにますね
ランキングの内容はもちろん、背景の画像がたまりません
ですよね!!
札幌発網走行きがあったな?
年寄りが これに乗ると乗り換えがいらないと
言っていたが どこまで行くんだろう?
仁木発稚内行き 稚内発小樽行きがあったなあ。
旭川ー稚内行きに短縮されたけど 荷物車と郵便車が連結されていたような。
1980は千歳空港駅が開業した。
ローカル線には乗り潰しファンが沢山いた
時代
北海道は規模が大きいですよね!
急行も含めれば、函館↔稚内(急行宗谷)もありましたね。
時期により小樽↔稚内だったり札幌↔稚内になったり。(急行天北と混同してるかな?)
乗り鉄ファンです。
学生時代に「山陰」のみ、しかも全区間は無理で一部区間だけ乗ったことあります。山陰はしかし旧型客車ではなく、12系客車になってからの時代で、旧型客車列車の長距離鈍行列車の乗車経験は残念ながらありません。
しかし、短距離なら旧型客車列車の乗車経験はあります。(旧型客車末期の福知山線など)
ある意味、良き時代でもありました。
しかし夜行列車自体が今では少なくなってしまい残念です。
私も、もっと当時の学生時代に乗ることができていたなら・・・。
しかし、近年の夜行快速列車なら乗ることも出来てある程度は満足しています。
それでは最後に、ありがちなパターンですが、
「懐かしい国鉄時代の長距離鈍行列車よ、永遠なれ!」
以上、コメント終わります。(終わり)
本当に言ってたらキリがないですもんね…
自分はムーンライトながらに乗れただけでも幸せかなって思ってます
京都~浜田に乗った。京都駅0番線から発車していました。これに乗る為に京都駅近くに泊まりました。オンボロの鈍行客車でした。冬に乗ったので、暖房があまり利いていなくて寒かった記憶が有ります。牽引するDD51がぐらぐらしながら走る姿を見ていました。
記憶は断片的です。遠い記憶です。
いい思い出ですね…DD51羨ましい
未だ高校生の頃、仙台青森間の鈍行に乗ったことあるな。
客車タイプで連結部分がそのまま後ろの景色が見えて、行商のおばさんとかと話をしながらの旅だった。
もう50年近く前だな、連絡船に乗ったからWW
急行だったかな東京から西鹿児島まで「桜島」ってのがあったな。一度乗りたかった。
行商のおばさん…時代を感じますね!
豊岡→長門市間の客レ鈍行の乗車経験と
青森→仙台駅間の客レ鈍行の乗車経験アリです。豊岡→長門市間は早朝5時50分発で長門市には深夜22時50分着。島根県内を走行中にラジオで『夏の甲子園』の
試合を聴いていたら車掌さんが『今どっちが勝っているの❓』と戦況を訊ねてきたり、結構のんびりしていたな‼️冷房の無い旧型客車やその旧型客車を牽いて
本線を駆け抜けた凸型のディーゼル機関車(DD51やDE10)、赤い交流電気機関車(ED75など)の姿が懐かしく思い出されます。
昭和のいいところですね…
勉強になりました。すごい動画作ってますね。121レとか普通にドンコウだったのか😆😆貨物列車と思ってました。
鈍行でもありましたね~
高3の夏休みに撮影旅行(鉄では無い)で「ながさき」乗りましたよ。
狭いB寝台で爆睡してしまい、長崎駅に到着していることに気が付かず、車掌さんに叩き起こされました…。
帰路は急行雲仙で、豪華?な14系座席車のバッタン簡易リクライニングという油断出来ないシートでした。
あの頃はまだまだ日常に夜行列車が有ったんだなぁと感慨深いです。
日常に夜行っていいですね!
私は昔、北海道にいた頃は函館〜旭川の鈍行列車でしたね!🤓途中電化区間と非電化区間の間は機関車入れ替えの為、約20分程停車時間がありましたよね。
たぶん函館本線全線(函館↔旭川、小樽経由)っていうのもありましたよね? それとも函館↔札幌だったかな?
80年代、夜に札幌を出て小樽経由で、函館に朝到着するのがあったのはよく覚えています。
羨ましいです~!
「はやたま」は10代の頃何度か乗りましたよ、ほぼ地元だったので。まあある程度気合入れた乗り鉄でないと疲れるよホントw 若かったから夜行でウトウトして過ごし翌朝も動けたんだろうけど、50も半ばのオヤジにはきついです。。
若くないと無理ですよね…
昭和時代の九州エリアだったら
大分→西鹿児島の普通列車かなぁ。
ブルトレ富士とは重岡~直川の
信号所で離合していましたね。
その瞬間を見てみたかったです…!
鹿児島本線では西鹿児島発鳥栖行き客車普通が、客車普通がなくなり平成に入っても西鹿児島発銀水行き、八代発鹿児島経由国分行きとか宮崎行き(こちらは元急行用車両475系)とかがありましたが、国分とか銀水ってどこ?と思う地元の乗客も多かったのでは、と思います。
@@Yoshin-Sashizume
平成時代の九州エリアには50系客車の普通列車も存在していました。久大本線が有名だったけど、筑豊本線経由の小倉~原田もありました(乗ったことがあります)日豊本線の最終列車の小倉~柳ヶ浦の最終列車が50系でした。
@@morimori185
編成は10両で、客車5両、荷物車5両だったみたいです。
他の時間帯の普通列車(佐伯~宮崎)には客車1両、荷物車4両の珍編成もあったみたいです。
山陽新幹線開業までは大阪駅9時11分発広島行き旧型客車+EF58による普通列車が定期運行されていて、時々回送用EF58との重連運転もあったとか。また同じ頃、京阪神113系全盛の時代に80系湘南型車両を使っての大阪発糸崎行き快速電車(明石までは今でいう外線快速)も走っていたとか。
大阪駅から西、山陽本線方面も山陽新幹線開業前までは特急や急行といった優等列車だけでなく普通や快速の中・長距離列車もそれなりに走っていたようですね。
ちなみに門司発福知山行き山陰本線普通列車は蒸気機関車牽引時代、下関と益田か浜田間(ちょっと失念)はD51重連で運転されていました。映像で見たことありましたが乗ってみたかった。
本当にいい時代ですよね
EF58が毎日か…笑いいですね
あれ、どこかで東京発神戸行き普通見たような…
すごい昔にあった気がします!
山陰本線が長距離鈍行天国だったということは聞いたことある
本当に凄かったんですよね…
令和の今復活させるべきです。
東日本・東海・西日本・九州「新幹線を使え!」
長距離を走らせるほど、区間ごとの需要の差が大きくなりやすく、どうしても非効率的になりやすいです。
あとは、まあはっきり言って乗り通す人なんてほぼ皆無でしょ?ということです。
観光列車としてならいけるかもですね!
大井川鉄道がそれっぽいことをやってたような…
この時代に今のような機材とTH-camがあったら
面白い動画がいくらでも撮れたんだけどねえ
いくらでも作れる気がします笑
昔は大垣夜行から西へ乗り継ぐと門司でながさき号に接続されていたと記憶しています。
青春18きっぷの有り難みが大きかったでしたね。(^^;
すごいダイヤですよね…
でも疲れそう笑
↑それやったオッサン😁
画像とまったく同じ時刻表を持っています。大人になったら長距離鈍行に絶対に乗るぞと思った少年時代。それから10年、大垣夜行と岡山発下関行に乗るのが精一杯でした。
僕もそんな感じです…笑
昔、福知山線、山陰線で大阪発下関行の鈍行があったと思うのだが。
そんな列車があったんですね!
長距離鈍行復活求む🙏
復活して欲しいですよね!
これらが国鉄末期にぶつ切りされ電車化気動車化されて急速に消滅していくのね。
いやぁ悲しいです…
茶色の客車が懐かしいです。泣
寝台特急「富士」が、西鹿児島駅を12時前に出て,大分駅が16時30分過ぎだったはず。(富士とはやぶさ)どっちの乗車券でも、小倉で「乗り換え」出来たそうだ。W
凄いスケールが大きいですね笑
函館で生まれ育ったので、DD51牽引の普通列車には良く乗りました。
荷物車が5両に客車が5両なんて編成もよくありました。
機関士によって発車時の衝撃に差が出るので、発車の汽笛が鳴ったら油断できませんでした。
ほとんど衝撃無く発車すると、感動しましたね。
初めて青森へ渡り、ED75牽引の普通列車に乗った時は、電気機関車の加速力に度肝を抜かれました。
やっぱED75は違うんですね!
終戦直後の特殊な列車を入れたら長崎県の南風崎発東京行普通列車が一番ですかね?
ただし一般客が乗れたのかはわかりませんが…
南風崎…初耳でした
そんな列車があったんですね!
上野発常磐線回り仙台行き何て言うのもあったしね トイレの注意書きに 上野~柏の間ではトイレの使用をご遠慮ください なんて書いてあったし
垂れ流しならではですね~
@@morimori185 ユーザーはユーザーで「使用中は停車しないでください」つ言ってたとかw。
普通列車なのに日暮里の次は松戸、その次は柏も通過して我孫子だったと記憶しています。
紀勢線のはやたまの成れの果てが後に京橋発御坊行(今は和歌山行?)の紀州路快速にw。どうしてこうなっただなw。
でも名残があるのは全くないよりはまぁ…
鈍行は、通過駅で止まってる時間が長い気がします。
そんな感じしますね
いい旅チャレンジ2万キロ…で色々と乗ったけれど、一番印象的だったのは函館→旭川の夜行鈍行かなぁ。青函連絡船からの漁火、森でかっこんだイカ飯…今となっては考えられない小6夏休みの旅は、どれもこれも記憶に鮮か。
列車から漁火…一生忘れられないですね!
この動画の頃だと函館⇔札幌だけどね😉
小6で列車旅したとは、うらやましいですよ。
『はやたま』じゃなく『南紀』に1978年に、1980年に824に通して乗りました、はいジジイです。
南紀ですかぁ…古いですね笑
921レ924レ「はやたま」はその前は「南紀」紀勢西線電化により特急「くろしお」の381系に置き換わり名古屋乗り入れがなくなり名古屋紀伊勝浦間の特急が「南紀」と命名されたため、921・924レは「はやたま」に改名。ちなみに天王寺発の週末の列車は釣客と和歌山までの通勤客で満員。客車は旧型車のため10系客車は蛍光灯使用のため明るい過ぎて不人気。白熱灯使用客車に乗客が多く座っていました。普通列車ですが天王寺和歌山間阪和線は快速運転。紀勢線に入ると各駅停車に。
はやたまの雰囲気良さそうですよね
乗ってみたかった…
@@morimori185 さん。あの雰囲気は今ではもう味わえ無いですね。和歌山過ぎてからの雰囲気は夜行列車そのものでした。
懐かしい、小学生なので、木曽川橋梁近くで、くろしお、はやたま、眺めるだけでしたW
30年ほど前、姫路→彦根を当時新車の221系新快速に乗って帰宅しましたが、それでも草津くらいでやばかった(尻が)。シートピッチもない雑型客車で500Km以上はエコノミー症候群一直線ですね〜(笑)でもそんな長距離ドン行が大好きでした。
新快速でも十分辛いですよね笑
鉄道趣味的には面白いし風情はあるが、旅客実用性と収益性、管理面を考えたら無駄と言わざるを得ないな。
特急列車が並走すらしていない、旅客動線無視。
今はコンピューターも発達して運行の最適化も昔よりはやりやすいだろうから、無駄な送り込みとかは無くなったんだろうな。
動画の中でもちらっと触れられているけど、
当時の国鉄は小荷物輸送をやっていたから
荷物の積替えや車両の繋ぎ変えの手間を考えると
ある程度長距離普通列車は必要だったのでしょう。
小荷物の積み下ろしにかかる時間のことを考えると
優等列車にに荷物車を連結するわけにはいかないし、
山陰本線あたりだと専用の荷物列車を走らせるほどの需要はなかっただろうし。
まぁJRになって様々改善されましたね…
ランク外ですが有名な大垣夜行345M/340Mも400kmを超える長足でしたね
あれも長いですよね!
長距離鈍行首位の列車は故・宮脇俊三氏の著書にも出てきていましたね。昔の鉄道ジャーナルでも列車追跡で取り上げられていたような……私が乗った長距離普通列車は、気動車での滝川〜釧路が最長で、普通客車列車もほぼ絶滅寸前の頃から乗りだしましたので、こういう動画に出てくる長距離鈍行列車に憧れる部分もありますね。昔の山陰本線では全線単線非電化で不便だったんだろうとも思いますが……。🚂
やっぱり長距離鈍行は憧れの的ですよね~
私の世代は、長距離鈍行と言えば「大垣夜行」でした。夏休み等のシーズンには、東京駅のホームに乗車待ちの人だかりができていました。あとは、中央本線の上諏訪行夜行も。
いやぁいい時代ですね…
旅に出るって感じします
上諏訪行きありましたね。新宿駅のアルプス広場でしたっけ?ホーム下の。並んで待ちましたね。時間が来ると駅員さんがホームへ誘導してくれました。
80年頃から1人で乗り鉄が出来るようになった年です。80年10月1日改正で幾つかの長距離鈍行が消えてたかなと思って、81年8月時刻表を見たらここのトップ10はまだ全部生き残ってますね。愛称付きの寝台車連結夜行鈍行「からまつ(80年9月末)」「ながさき(84年1月末)」「はやたま(84年1月末)」「山陰(85年3月末)」で、唯一「からまつ」が10月改正で終わってますね。乗れたのは「はやたま」と「山陰」だけでした。全区間乗れました。当時の乗り鉄はこれらに乗り通すのが目的という人もかなり居たのではないかと。旧客で乗り通しなんて地獄、疲れるだろと思うでしょうが大丈夫です。朝夕の主要な駅の通勤通学時間帯以外はガラガラですから。好きなところに座って、長時間停車で色々リラックスも出来ました。
80年から乗り鉄出来たなんて
いやぁ夢です…笑笑
私は「ながさき」も乗りました😉乗ること自体が目的っつー訳ではなく、18きっぷで鉄ヲタ中の宿代わり?でした😉
「ながさき」の乗車羨ましいです。18きっぷで宿代わり分かります😄
北海道へは18きっぷだけでも行きましたが、九州はJR化直前まで乗り潰しに行けませんでした。その時は九州ワイド周遊券利用でしたので、宿は「かいもん」「日南」でした😆
上野発奥羽本線経由青森行きなんてのもありましたね
ありましたねー
夕方には敦賀発小浜線・舞鶴線・山陰本線経由京都行き922列車も実在しました(敦賀16時31分発・京都22時14分着)。
しかしながら国鉄(当時は福知山鉄道管理局)側の取り決めで綾部での方向転換中に浜田発東舞鶴行き544列車との間で牽引機関車を交換するルールでした(544列車を牽引してきたDD51が922列車の牽引に、922列車をけん引してきたDE10が544列車の牽引にそれぞれ回る)。
どの列車も乗ってみたかったなぁ!でも高速バスに負けるだろうな!
高速バス強いですもんね…
国鉄時代には採算度外視の長距離鈍行が幾つも走っていたんですね。長大編成の客車とかロマンしか感じないです。乗ってみたかった。
自分の場合は「はやたま」後継の新大阪発新宮行の夜行や下関発岡山行あたりに乗る機会が有りました。少々腰は痛かったけどいい時間を過ごせました。今後は各地の鈍行列車も合理化で更なる運転区間の短縮が行われそうですので基本、有るうちに乗っておこうと思います。
荷物車や郵便車を併結していることが多かったので、そっちのニーズもあったのだと思います。
ランキング上位すべて機関車列車であることからも、当時は電車列車がまだ少なくて、機関車は機回しや付け替えに手間と時間がかかる故に、それを省くべく長距離列車を走らせていた側面もありました。
ただ、長距離になればなるほど区間により需要に差が出るので、供給過剰になりがちで、非効率的だったのは否めませんでした。
長大編成の客車って本当にかっこいいですよね…
距離が長くなるほど、ほぼ1日乗れますね。
本当に1日中です笑
主要駅では長時間停車も多く、駅そばや駅弁を食べるのもよし。
長時間の移動が無駄な時間だと思う人も居る野は仕方ないけど、
暑い夏に窓を全開にあけ、自然の風を受けながら走るのは心地よいと思う。
ただ、ひとつ、欠陥はトイレが・・・・。
鈍行ならではの楽しみ方がありますよね
風を浴びながら弁当を食べていると、なにやら謎の飛沫が?(ヽ´ω`)