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ゲームとかしてても交州が孫権の領土に組み込まれるところ全く描かれないから毎回「いやいつの間に」って思ってたw
兀突骨、忠誠心三/百の故郷。
孫登過労死説新しくて草確かに親父があれじゃ気苦労はありそう。交州と聞くと、ふわふわしちゃう。分かるわ。三国志ⅥのBGM、衆議一決(防衛戦戦闘前に流れるテーマ)。交趾で聞いた時、これだ!と思った。呉、やっぱり交州の富、交易ルートが欲しかったのだろう。上納金だけじゃなく。
交州と南中は、攻めたり攻められたりなど結構交流が盛んですよね。数年前の三国志展にも、「南中で発掘された交州の青銅器」が展示されていましたし。南中の著名人と言えば孟獲なので、孟獲と士燮も交流があってもおかしくないかも?と思います。
孟獲の上司である雍闓は、士燮の援助を受ける形で南中反乱に踏み切っています。また士燮は交チ郡に本拠地を構えており、軍用馬を交易で揃えていたあたり、軍用馬を産出可能な南中地方の雍闓とは西南貿易等で深い繋がりがあったと推察されますね。
@@KOUMEI_NO_WANADA 解説ありがとうございます!交州と南中の交流は興味深いですね。
揚州荊州で精一杯というかお膝元の揚州も別に安全じゃないあたりね…孫呉帝国辺境の交州まで手が回ってない感ある
ここはもう割り切って、士一族への委任統治みたいな形にしておいたほうがまだ、なんとか…なんて(笑)
この時期の孫呉の滅亡は司馬晋による統一を意味するので、重要な戦いではあったが中国大陸の辺境で現在のベトナムを含む範囲と取り上げられることも少ないので知れてありがたい。
間違いなく、交州の動乱が孫呉征伐のヨーイドンになってますしね
@@KOUMEI_NO_WANADA そしてわかりやすい内憂外患で、滅亡に拍車が掛かるのはダイナミックな中国史らしい展開ですね。
ゲームだと農業商業値は最低クラスな上に出てくる人材も皆無で経済的には最低クラスで、それでも公孫一族や南蛮軍の武将とかが出てくる他地域と比較したら戦略的価値皆無、周辺地域を制圧したら不用な文官を送って一応自領にしておしまいですからね。ゲームの思い出はシナリオ1で敗れて放浪していた孫堅が、ゲーム開始からかなりの年月が経過してから急に交州で挙兵して直ぐ降伏勧告に屈した思い出しかないです。
無理に手を出す場所じゃないって感じですよねぇ
孫登が生きていればなぁぐう聖やったみたいよね
名士階層とも仲は良かったよね…ただ歩夫人を皇后するのは認めずって真っ向からやってきちゃうからなぁ…
ひとまずこのレベルの混乱は起きなかっただろうなぁと。
交州からベトナムにかけての話しは、めっちゃ面白かったです!また、この地方の細かな話しを聞きたいです。特にベトナム方面から中華を見た目線でも解説して頂けると嬉しいです。
勉強範囲がどんどん増えていく(笑)
僕は全く読めませんが『ベトナム史略』(ベトナム語です)というのが該当するかもしれませんグーグル翻訳だと「吳朝官員殘暴」「吳朝官吏常貪婪」という単語が見えますvi.wikisource.org/wiki/Việt_Nam_sử_lược/Quyển_I/Phần_II/Chương_III
わかるわーコーエイ三國志の影響で士ショウとか公孫度とかで統一目指したくなるよね
横山三国志だけじゃ伝わり切らないこの動画に感謝...
中央の動乱からは切り離されてる土地ですからね(笑)
横山三国志はプロレスやから。
蜀も諸葛亮の西南夷平定後も反乱は時々起こったようだ(呂凱が戦死している)が、呉はそれどころではなかったようだ。魏や蜀よりも内憂外患だったように見える。
張翼の失策以降は大きく荒れた感じはしないですしね。魏もちゃんと辺境の将軍たちが頑張ってたイメージ。
そもそも孫呉本拠地となる揚州すら山越族の反乱に悩まされてたのに、更に望遠の交洲実行支配とか無理難題だったんだけど、この頃の孫呉は人口不足に悩まされてたから経済面だけでなく人口確保の面でも是が非でも…だったんだろうな。 後の明王朝のように士燮の死後に交洲の各諸部族・諸地域を分割等級分けして相互い相争わせて弱体化させる間接統治をしていたのなら… もしかしたら… のifは尽きないけど、実際は孫登が早逝した時点で孫呉の未来はもう終わってたんだろうなぁ~
孫登&諸葛瑾の急逝のタイミングがあまりにも最悪すぎるんですよねぇ
無理に直接統治せずに、士一族に任せていれば・・・
それはそれで問題はあるんでしょうけど、まぁ、明らかに手が回ってないからそれも一つの手段ですよね。
26:19、そして「伝説の顔芸:陶濬」が誕生することになる・・・w
劉表も交州には目をつけていたようで、200年に頼恭を交州刺史、呉巨を蒼吾太守に任命している。
こういうマニアックな題材、好きよ〜笑
交州の隠れた人気の高さにニコニコしてしまう
地方自治の地道さと重要性が窺われた気がした。しかし、呉末期は何度見ても救えねぇ。。。
孫登ぉ🫠
孫晧も何やかんや仕事はしてたんですねけど情勢はとうに詰みなのでどうしようもない😢
どうあがいても無理なんですよねぇ…
呉、どうあがいても絶望
以前の南蛮征伐の動画で割と存在感の大きなポジションにいた事から何気に気になっていた交州
やっぱり霍弋は蜀の将だから僻地へ左遷されてたんだ。
霍弋は蜀漢時代からこの南中地方の統括者です。恐らく晋の朝廷は、南中地方の統括者を変えるより実績も実力もある霍弋にそのまま任せた方が良いと考えて、蜀漢時代と同じ職務を任せることにしたのだと思われます。左遷というより、お前にしか任せられないみたいなヤツです(笑)
蜀は西、呉は南を経済圏へ取り込む事に注力すれば、魏(晋)に潰される事はなかった…ってのは言い過ぎですかね⁉️従来の小説では見られない解説、とても興味深く拝聴させていただきました
蜀漢はその西域への交易路のために涼州の切り取りを狙っていたみたいな話もありますよね
蜀でも南中の反乱で手を焼いていたし背後に爆弾を抱えたまま魏と戦うのは危険。中央から離れた辺境の地での実効支配はどこまでできていたのか?一説には三国とも実効支配地域が少なく国力差はあまりなかったと言われている。
ただ比較的、蜀漢は上手いこと統治出来てるようにも思いますね。張翼はアレだけど、その他の南中統括責任者はみんな優れた人材でしたし(`・ω・´)
ある意味では、雲南省全土を実効支配していたのは明・清時代のこと。唐宋時代には南詔、大理のような西南強権が中原帝国と並立していた-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------1800年前の世界の気温、人口分布と現代世界の違いは極めて大きい。農耕の適宜帯には数緯度以上の差があった,漢末三国の大乱世も、本質的には世界的に寒冷化し、平均気温が2度下、食糧は75%以上減産しった後の大災難だった。関中は秦漢時代に最も人口密度の高い地域だった。劉邦が項羽に勝つことができた根本的な原因は彼が秦人の民心を勝ち取り、関中を支配したことにあるので、絶えず兵力と兵糧が項羽と覇権を争うことができた。西安市で毎年発見されている古代の墓葬は3000基以上で、古人の墓が多すぎて空港、地下鉄などの各種インフラ建設の進度が非常に遅い。秦漢時代の関中は同時期の南方に対して、このような圧倒的な優勢だった。この優位性は千年以上続いた。南方各省の経済水準が北方を上回ったのは南宋時代のことで、三国時代から700年近く離れている。後漢時代、長江以南では荊州の人口だけが500万人を超えることができ、全帝国の大部分の人口は秦嶺-淮河線以北にあった。孫呉の領土は大きいが、農業時代の国力の基本的な測定基準「人口」は、北方にははるかに及ばない。三国時代になると、曹魏の人口規模は少なくとも943423户、5372881口だった。対照として:蜀漢の人口規模:民户280000户、940000口孫呉の人口規模:民户523000户、230000口この2つの数字はやはり漢末の百万人の北方人口が大規模な戦乱で南方に亡命した後の結果であり、たとえ北方が飢饉、疫病と戦乱で千万人以上の人口を失っても、国力は依然として呉、蜀の1.7倍-3倍以上である。
秘本三國志では 「虞翻が交州に流罪になったのは見せかけで、実は士燮への謀略戦の一環だったんだよ!」 「な、なんだってー!!」 …という話になってました。これはこれでおもろい。
北方三国志でも確かそんな感じでしたね
動画で解説されているように孫呉が交州を直接統治するのはリスクが大きすぎる、かといってじゃあ士一族を信頼できるかと言うと・・。士燮は曹操と通じてますし荊州経由で交州に逃げてくる名士もいたみたいなので、孫権からすると背後に敵を抱えている気分かなと思います。
ですねぇ。士燮も権益保持のためにそういうムーブをしないといけなかったという面はありますが、ここはうまいこと渡り合っていくしかなかったようにも思ったり…
@@KOUMEI_NO_WANADA あと荊州南部を支配していた頃の劉備(というか諸葛亮)が荊州〜交州の公益ルートの収入に注目していてその辺りの異民族を懐柔しようとしたフシもありますし、その後の蜀漢との国境問題を考えてもどのみち孫権は交州の直接統治に乗り出すしかないと思います。
いつも楽しく拝見しています^ ^横山三国志では取り上げられていない内容だったので、新鮮でとても面白かったです(*゚∀゚*)b
交州は不思議とワクワクしますよね
詳細ありがとうございます!
239年に荊州・交州一帯で万単位の叛乱、240年に全国で大飢饉、241年には春に建業で積雪70㎝、そんな中魏へ大遠征、孫登と諸葛瑾死去、飢饉からの疫病。そして二宮並立。もうガッタガタですね
陸胤の存在感の大きさたるや
解説済ならすみません、凌操、凌統親子の解説をお願いしたいです!
でもこれ、士一族に任せ続けても士燮レベルの統治能力なさそうだしダメそう…勝手に内輪もめし続けてボロボロになり続けて、どうあがいても反乱とかの混乱は防ぐことはできなそうたびたび有能な人物がきて、対応したり防衛したりしても結局肝心の中央がボロカスでは…ここに限らず辺境統治の難しさですね、北も西も南も
ゲームだと、勢力所属武将の頭数が有利不利に働くので、人物の伝記が伝わりにくい辺境の群雄は、どうしても不利になった。
趙氏貞はCiv6にベトナムの指導者として出てきますね
交州ってホントに呉が治めていたのかというくらい荒れてて反乱起こしていたイメージですけどね。😮😮しかし大司馬呂岱は一体何歳まで生きたのでしょうか…90歳過ぎてたらしいですが…😅
三国志の長寿と言ったらこの人の一角
陸胤の全裸エピソードも…
あれは伝承の中でも出典があんまよく分からんくて、創作だろうなぁって思っちゃったもんでちょっと省略しました。なんかこう、面白過ぎて解説に盛り込んだら空気感変わっちゃうのよね(笑)
後に中国で最も経済力の高い地域の1つになる 聞いたら士一族の人達は 驚くだろうね
呉はやはり異民族問題に交州が長年の悩みのタネ そして決定的なのが二宮の変でしょう魏や蜀よりも文事が不安定でしたよね
未開拓地域が故か、ずっと国内が荒れてるイメージ
陸胤……、全裸(セクハラ)で勝った人か…
趙子貞(CV花澤香菜)と考えると腹が立ってきた(ぇ
ザックリいうと広州と交州(分割)の境目が今の中国とベトナムの国境ですね。現代では中国有数の経済地域になってますが、当時も東南アジアも含めた交易都市としての価値が大きかったんです。それゆえに呉はなんとしてもこの場所を手に入れないといけなかったんですね。
読みが一緒でゆっくり解説やってると凄くややこしい(笑)
広交二州って言っとけば大丈夫です(笑)
趙氏貞男の裸体を見て、狼狽えるメンタルでよく。一軍を率いたよなまさか女だけの軍隊を率いた訳でもあるまいし
まぁ、面白おかしい後世の創作伝承っぽさはあります(笑)
リクエストというか質問というか。中国とその言葉が伝わった日本において「幕府」や「将軍」という言葉の意味や扱いが随分と違うように感じるんですよね。んで、特に今回聞きたいのは「将軍」という事について。日本では古代はいざ知らず征夷大将軍ってのが同時代に一人だけ?みたいな感じだけど、中国においてはいろんな名前の将軍が多数居たじゃないですか。ではその将軍間での地位の違い(扱い)はどうなっていたのか。そこら辺について教えて欲しい。これって別に三国志の時代に限った話では無いんでしょうけど。
陶工に聞こえますね。
こんなチンピラみたいなやり方したらそりゃ火種も燻るよ(笑)心を攻める、勝たずして勝つが上策
もし時間的背景が元明清時代にあったら、天下統一は必然的に孫権(笑)。しかし残念ながら、三国時代は西暦3世紀にあった。魏に比べて、呉蜀は経済が弱すぎ、財政が貧弱すぎて、税率はずっと高い。呉の領土は蜀より大きいが、経済発達区はほとんどない。孫呉時代の「算賦」は漢王朝より重く、納付期限も漢代の56歳から60歳に延期された。「余力田」の租税は「二年常限田」より少し軽く、1ムー当たり米穀を納めないが、0.66尺の布と37銭の賦税を納めなければならない。奴婢、生口、奴隷などの「不動産」の取引には10%以上の重税「估銭」がかかる。ぜいたく品と一部の特産品の取引は超重税である。庶民の生活水準は前漢にも及ばない。そして、多くの領土の文化レベルは同時期の遼東半島にも及ばない。孫呉の晩年になると、国の政治と経済の中心は荊州南部に移った。荊州南郡の土地は、魏蜀呉三国の頻繁な戦争と防御戦における堅壁清野の需要によって広大な無人区が出現した。荊北の人口は大量に流失し、劉表統治時代の経済水準には達していない。荊州南郡は魏呉軍事対峙の最前線となり、荊南の長沙の経済、軍事、政治的重要性が台頭し始めた。1996年に出土した数万枚の「長沙走馬楼呉簡」は孫呉の荊州政府Fileである。武昌を国都として選び、周辺に兵器工房を大規模に建設し、江防を配置し、長江を利用し、兵糧を調達することは当時非常に現実的な考えだった。孫権がいた三国時代に武昌、武漢という都市が正式に建設されたが、この都市が全国第2位の工業センターになったのは1600年以上後のことだ。両漢時代の広東広西、闽越など場所は人口が極めて少なく、まだ半荒廃の状態だった。海南省は直接神隠しされており、多くの三国志ゲームには漢武帝時代に設立された珠崖郡、儋耳郡がいない。広東が中国第一大省になったのも元清時代に大量の人口が流入した結果だ。両漢時代はまだ百越系民族の分布区だった福建省と泉州港が世界一の国際大港になったのは南宋時代のことだ。福建省全体はまだ会稽郡の一部だった。浙江(上海県を含む)が全国一の財政収入省になったのは元明時代のことだ。両漢時代の交趾の文化と経済建設の程度は実際には同時期の広西、広東よりずっと強く、中原王朝が徹底的に制御を失ったのは唐の南詔が台頭してからのことだ。主に真珠、象牙、貴重な木材などの東南アジア特産品の税が重すぎて、孫呉統治時代には半分を超えることもできた。実物税と商業税が重すぎて、交趾の反乱が頻繁に起こる主な原因の一つだ。
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ゲームとかしてても交州が孫権の領土に組み込まれるところ全く描かれないから毎回「いやいつの間に」って思ってたw
兀突骨、忠誠心三/百の故郷。
孫登過労死説新しくて草
確かに親父があれじゃ気苦労はありそう。
交州と聞くと、ふわふわしちゃう。分かるわ。
三国志ⅥのBGM、衆議一決(防衛戦戦闘前に流れるテーマ)。交趾で聞いた時、これだ!と思った。
呉、やっぱり交州の富、交易ルートが欲しかったのだろう。上納金だけじゃなく。
交州と南中は、攻めたり攻められたりなど結構交流が盛んですよね。
数年前の三国志展にも、「南中で発掘された交州の青銅器」が展示されていましたし。
南中の著名人と言えば孟獲なので、孟獲と士燮も交流があってもおかしくないかも?と思います。
孟獲の上司である雍闓は、士燮の援助を受ける形で南中反乱に踏み切っています。また士燮は交チ郡に本拠地を構えており、軍用馬を交易で揃えていたあたり、軍用馬を産出可能な南中地方の雍闓とは西南貿易等で深い繋がりがあったと推察されますね。
@@KOUMEI_NO_WANADA 解説ありがとうございます!交州と南中の交流は興味深いですね。
揚州荊州で精一杯というかお膝元の揚州も別に安全じゃないあたりね…
孫呉帝国辺境の交州まで手が回ってない感ある
ここはもう割り切って、士一族への委任統治みたいな形にしておいたほうがまだ、なんとか…なんて(笑)
この時期の孫呉の滅亡は司馬晋による統一を意味するので、重要な戦いではあったが中国大陸の辺境で現在のベトナムを含む範囲と取り上げられることも少ないので知れてありがたい。
間違いなく、交州の動乱が孫呉征伐のヨーイドンになってますしね
@@KOUMEI_NO_WANADA そしてわかりやすい内憂外患で、滅亡に拍車が掛かるのはダイナミックな中国史らしい展開ですね。
ゲームだと農業商業値は最低クラスな上に出てくる人材も皆無で経済的には最低クラスで、それでも公孫一族や南蛮軍の武将とかが出てくる他地域と比較したら戦略的価値皆無、周辺地域を制圧したら不用な文官を送って一応自領にしておしまいですからね。
ゲームの思い出はシナリオ1で敗れて放浪していた孫堅が、ゲーム開始からかなりの年月が経過してから急に交州で挙兵して直ぐ降伏勧告に屈した思い出しかないです。
無理に手を出す場所じゃないって感じですよねぇ
孫登が生きていればなぁ
ぐう聖やったみたいよね
名士階層とも仲は良かったよね…
ただ歩夫人を皇后するのは認めずって真っ向からやってきちゃうからなぁ…
ひとまずこのレベルの混乱は起きなかっただろうなぁと。
交州からベトナムにかけての話しは、めっちゃ面白かったです!
また、この地方の細かな話しを聞きたいです。
特にベトナム方面から中華を見た目線でも解説して頂けると嬉しいです。
勉強範囲がどんどん増えていく(笑)
僕は全く読めませんが『ベトナム史略』(ベトナム語です)というのが該当するかもしれません
グーグル翻訳だと「吳朝官員殘暴」「吳朝官吏常貪婪」という単語が見えます
vi.wikisource.org/wiki/Việt_Nam_sử_lược/Quyển_I/Phần_II/Chương_III
わかるわー
コーエイ三國志の影響で士ショウとか公孫度とかで統一目指したくなるよね
横山三国志だけじゃ伝わり切らないこの動画に感謝...
中央の動乱からは切り離されてる土地ですからね(笑)
横山三国志はプロレスやから。
蜀も諸葛亮の西南夷平定後も反乱は時々起こったようだ(呂凱が戦死している)が、呉はそれどころではなかったようだ。魏や蜀よりも内憂外患だったように見える。
張翼の失策以降は大きく荒れた感じはしないですしね。魏もちゃんと辺境の将軍たちが頑張ってたイメージ。
そもそも孫呉本拠地となる揚州すら山越族の反乱に悩まされてたのに、更に望遠の交洲実行支配とか無理難題だったんだけど、この頃の孫呉は人口不足に悩まされてたから経済面だけでなく人口確保の面でも是が非でも…だったんだろうな。 後の明王朝のように士燮の死後に交洲の各諸部族・諸地域を分割等級分けして相互い相争わせて弱体化させる間接統治をしていたのなら… もしかしたら… のifは尽きないけど、実際は孫登が早逝した時点で孫呉の未来はもう終わってたんだろうなぁ~
孫登&諸葛瑾の急逝のタイミングがあまりにも最悪すぎるんですよねぇ
無理に直接統治せずに、士一族に任せていれば・・・
それはそれで問題はあるんでしょうけど、まぁ、明らかに手が回ってないからそれも一つの手段ですよね。
26:19、そして「伝説の顔芸:陶濬」が誕生することになる・・・w
劉表も交州には目をつけていたようで、200年に頼恭を交州刺史、呉巨を蒼吾太守に任命している。
こういうマニアックな題材、好きよ〜笑
交州の隠れた人気の高さにニコニコしてしまう
地方自治の地道さと重要性が窺われた気がした。
しかし、呉末期は何度見ても救えねぇ。。。
孫登ぉ🫠
孫晧も何やかんや仕事はしてたんですね
けど情勢はとうに詰みなのでどうしようもない😢
どうあがいても無理なんですよねぇ…
呉、どうあがいても絶望
以前の南蛮征伐の動画で割と存在感の大きなポジションにいた事から何気に気になっていた交州
やっぱり霍弋は蜀の将だから僻地へ左遷されてたんだ。
霍弋は蜀漢時代からこの南中地方の統括者です。恐らく晋の朝廷は、南中地方の統括者を変えるより実績も実力もある霍弋にそのまま任せた方が良いと考えて、蜀漢時代と同じ職務を任せることにしたのだと思われます。左遷というより、お前にしか任せられないみたいなヤツです(笑)
蜀は西、呉は南を経済圏へ取り込む事に注力すれば、魏(晋)に潰される事はなかった…ってのは言い過ぎですかね⁉️
従来の小説では見られない解説、とても興味深く拝聴させていただきました
蜀漢はその西域への交易路のために涼州の切り取りを狙っていたみたいな話もありますよね
蜀でも南中の反乱で手を焼いていたし背後に爆弾を抱えたまま魏と戦うのは危険。中央から離れた辺境の地での実効支配はどこまでできていたのか?一説には三国とも実効支配地域が少なく国力差はあまりなかったと言われている。
ただ比較的、蜀漢は上手いこと統治出来てるようにも思いますね。張翼はアレだけど、その他の南中統括責任者はみんな優れた人材でしたし(`・ω・´)
ある意味では、雲南省全土を実効支配していたのは明・清時代のこと。
唐宋時代には南詔、大理のような西南強権が中原帝国と並立していた
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1800年前の世界の気温、人口分布と現代世界の違いは極めて大きい。農耕の適宜帯には数緯度以上の差があった,漢末三国の大乱世も、本質的には世界的に寒冷化し、平均気温が2度下、食糧は75%以上減産しった後の大災難だった。
関中は秦漢時代に最も人口密度の高い地域だった。劉邦が項羽に勝つことができた根本的な原因は彼が秦人の民心を勝ち取り、関中を支配したことにあるので、絶えず兵力と兵糧が項羽と覇権を争うことができた。
西安市で毎年発見されている古代の墓葬は3000基以上で、古人の墓が多すぎて空港、地下鉄などの各種インフラ建設の進度が非常に遅い。
秦漢時代の関中は同時期の南方に対して、このような圧倒的な優勢だった。この優位性は千年以上続いた。
南方各省の経済水準が北方を上回ったのは南宋時代のことで、三国時代から700年近く離れている。
後漢時代、長江以南では荊州の人口だけが500万人を超えることができ、全帝国の大部分の人口は秦嶺-淮河線以北にあった。
孫呉の領土は大きいが、農業時代の国力の基本的な測定基準「人口」は、北方にははるかに及ばない。
三国時代になると、曹魏の人口規模は少なくとも943423户、5372881口だった。
対照として:
蜀漢の人口規模:民户280000户、940000口
孫呉の人口規模:民户523000户、230000口
この2つの数字はやはり漢末の百万人の北方人口が大規模な戦乱で南方に亡命した後の結果であり、たとえ北方が飢饉、疫病と戦乱で千万人以上の人口を失っても、国力は依然として呉、蜀の1.7倍-3倍以上である。
秘本三國志では 「虞翻が交州に流罪になったのは見せかけで、実は士燮への謀略戦の一環だったんだよ!」 「な、なんだってー!!」 …という話になってました。これはこれでおもろい。
北方三国志でも確かそんな感じでしたね
動画で解説されているように孫呉が交州を直接統治するのはリスクが大きすぎる、かといってじゃあ士一族を信頼できるかと言うと・・。士燮は曹操と通じてますし荊州経由で交州に逃げてくる名士もいたみたいなので、孫権からすると背後に敵を抱えている気分かなと思います。
ですねぇ。士燮も権益保持のためにそういうムーブをしないといけなかったという面はありますが、ここはうまいこと渡り合っていくしかなかったようにも思ったり…
@@KOUMEI_NO_WANADA あと荊州南部を支配していた頃の劉備(というか諸葛亮)が荊州〜交州の公益ルートの収入に注目していてその辺りの異民族を懐柔しようとしたフシもありますし、その後の蜀漢との国境問題を考えてもどのみち孫権は交州の直接統治に乗り出すしかないと思います。
いつも楽しく拝見しています^ ^
横山三国志では取り上げられていない内容だったので、新鮮でとても面白かったです(*゚∀゚*)b
交州は不思議とワクワクしますよね
詳細ありがとうございます!
239年に荊州・交州一帯で万単位の叛乱、240年に全国で大飢饉、241年には春に建業で積雪70㎝、そんな中魏へ大遠征、孫登と諸葛瑾死去、飢饉からの疫病。そして二宮並立。
もうガッタガタですね
陸胤の存在感の大きさたるや
解説済ならすみません、凌操、凌統親子の解説をお願いしたいです!
でもこれ、士一族に任せ続けても士燮レベルの統治能力なさそうだしダメそう…
勝手に内輪もめし続けてボロボロになり続けて、どうあがいても反乱とかの混乱は防ぐことはできなそう
たびたび有能な人物がきて、対応したり防衛したりしても結局肝心の中央がボロカスでは…
ここに限らず辺境統治の難しさですね、北も西も南も
ゲームだと、勢力所属武将の頭数が有利不利に働くので、人物の伝記が伝わりにくい辺境の群雄は、どうしても不利になった。
趙氏貞はCiv6にベトナムの指導者として出てきますね
交州ってホントに呉が治めていたのかというくらい荒れてて反乱起こしていたイメージですけどね。😮😮
しかし大司馬呂岱は一体何歳まで生きたのでしょうか…90歳過ぎてたらしいですが…😅
三国志の長寿と言ったらこの人の一角
陸胤の全裸エピソードも…
あれは伝承の中でも出典があんまよく分からんくて、創作だろうなぁって思っちゃったもんでちょっと省略しました。なんかこう、面白過ぎて解説に盛り込んだら空気感変わっちゃうのよね(笑)
後に中国で最も経済力の高い地域の1つになる 聞いたら士一族の人達は 驚くだろうね
呉はやはり異民族問題に交州が長年の悩みのタネ そして決定的なのが二宮の変でしょう
魏や蜀よりも文事が不安定でしたよね
未開拓地域が故か、ずっと国内が荒れてるイメージ
陸胤……、全裸(セクハラ)で勝った人か…
趙子貞(CV花澤香菜)と考えると腹が立ってきた(ぇ
ザックリいうと広州と交州(分割)の境目が今の中国とベトナムの国境ですね。
現代では中国有数の経済地域になってますが、当時も東南アジアも含めた交易都市としての価値が大きかったんです。
それゆえに呉はなんとしてもこの場所を手に入れないといけなかったんですね。
読みが一緒でゆっくり解説やってると凄くややこしい(笑)
広交二州って言っとけば大丈夫です(笑)
趙氏貞
男の裸体を見て、狼狽えるメンタルで
よく。一軍を率いたよな
まさか女だけの軍隊を率いた訳でもあるまいし
まぁ、面白おかしい後世の創作伝承っぽさはあります(笑)
リクエストというか質問というか。
中国とその言葉が伝わった日本において「幕府」や「将軍」という言葉の意味や扱いが随分と違うように感じるんですよね。んで、特に今回聞きたいのは
「将軍」という事について。日本では古代はいざ知らず征夷大将軍ってのが同時代に一人だけ?みたいな感じだけど、中国においてはいろんな名前の将軍が
多数居たじゃないですか。ではその将軍間での地位の違い(扱い)はどうなっていたのか。そこら辺について教えて欲しい。これって別に三国志の時代に
限った話では無いんでしょうけど。
陶工に聞こえますね。
こんなチンピラみたいなやり方したらそりゃ火種も燻るよ(笑)
心を攻める、勝たずして勝つが上策
もし時間的背景が元明清時代にあったら、天下統一は必然的に孫権(笑)。しかし残念ながら、三国時代は西暦3世紀にあった。
魏に比べて、呉蜀は経済が弱すぎ、財政が貧弱すぎて、税率はずっと高い。呉の領土は蜀より大きいが、経済発達区はほとんどない。
孫呉時代の「算賦」は漢王朝より重く、納付期限も漢代の56歳から60歳に延期された。「余力田」の租税は「二年常限田」より少し軽く、1ムー当たり米穀を納めないが、0.66尺の布と37銭の賦税を納めなければならない。
奴婢、生口、奴隷などの「不動産」の取引には10%以上の重税「估銭」がかかる。ぜいたく品と一部の特産品の取引は超重税である。庶民の生活水準は前漢にも及ばない。
そして、多くの領土の文化レベルは同時期の遼東半島にも及ばない。
孫呉の晩年になると、国の政治と経済の中心は荊州南部に移った。荊州南郡の土地は、魏蜀呉三国の頻繁な戦争と防御戦における堅壁清野の需要によって広大な無人区が出現した。荊北の人口は大量に流失し、劉表統治時代の経済水準には達していない。
荊州南郡は魏呉軍事対峙の最前線となり、荊南の長沙の経済、軍事、政治的重要性が台頭し始めた。1996年に出土した数万枚の「長沙走馬楼呉簡」は孫呉の荊州政府Fileである。
武昌を国都として選び、周辺に兵器工房を大規模に建設し、江防を配置し、長江を利用し、兵糧を調達することは当時非常に現実的な考えだった。
孫権がいた三国時代に武昌、武漢という都市が正式に建設されたが、この都市が全国第2位の工業センターになったのは1600年以上後のことだ。
両漢時代の広東広西、闽越など場所は人口が極めて少なく、まだ半荒廃の状態だった。海南省は直接神隠しされており、多くの三国志ゲームには漢武帝時代に設立された珠崖郡、儋耳郡がいない。
広東が中国第一大省になったのも元清時代に大量の人口が流入した結果だ。両漢時代はまだ百越系民族の分布区だった
福建省と泉州港が世界一の国際大港になったのは南宋時代のことだ。福建省全体はまだ会稽郡の一部だった。
浙江(上海県を含む)が全国一の財政収入省になったのは元明時代のことだ。
両漢時代の交趾の文化と経済建設の程度は実際には同時期の広西、広東よりずっと強く、中原王朝が徹底的に制御を失ったのは唐の南詔が台頭してからのことだ。主に真珠、象牙、貴重な木材などの東南アジア特産品の税が重すぎて、孫呉統治時代には半分を超えることもできた。
実物税と商業税が重すぎて、交趾の反乱が頻繁に起こる主な原因の一つだ。
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