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中国史との出会いが高校受験でムシャクシャしたときに逃げた先の市営図書館でしたそこで吉川英治の宮本武蔵を読み感動し流れで三國志を読んでまた感動もうなんかたかが入試でなに悩んでんだろう、勉強しよってなってそれから逃げずに受験に挑むことができましたなので、若い頃は劉備玄徳・諸葛亮孔明大好き、魏嫌いな人間でしただから今回の動画はとても嬉しいですありがとうございますちなみに、今は国を興す前の朱元璋が大好きです
「隴を得て蜀を望む」という故事成語が生まれるように、ここは古今変わらず重要な地域だったんですね。
成漢の建国者・李雄が入蜀した時、「こんな峻険な地で王朝を構えたのに滅ぼされた劉禅というのはよっぽど馬鹿だったんだなw」と呆れたというエピソードがあります。蜀はそれくらい防衛に適した土地で、戦乱時は相対的に人口が多くなる…という。まあその成漢はすぐに滅びましたがw
Thanks!
ありがたや……ありがたや……いつも大変励みになっております!!!
この動画を見て、各地域の人々の特色(日本だと東北人は我慢強く粘り強い等)と輩出した有名人の性格の比較とか面白いんじゃないかと思った。項羽とかは、激情家で諦めも早い印象だけど楚人の特徴そのものって感じがするし出身·ルーツの影響を色濃く受けてるな~とかの考察も面白い。
諸葛亮は当時の資料でも「法律を作り制度を敷き、軍隊を整備し、機械や技術は全て最高を極めた。」「三国統一後も諸葛亮を賛える民がいた」「領土内の人々は諸葛亮を敬愛した。怨むものはいなかった」(陳寿の談)「諸葛亮は役所、宿場、橋梁、道路の修築が好きだった。田畑は開墾され、米倉は満ち溢れ、武器の性能は良くなり、蓄積は豊富になり、早朝の会議は浮わついたものにならなかった。路上には酔っ払いが消えた」(袁氏の談)また、習鑿歯の『襄陽記』では「諸葛亮死後もその治世を民衆が慕い、諸葛亮を祀る廟を建てさせてくれって意見が多くなって特別に国が許可した」という話もあり、諸葛亮の蜀での治世や人々からの凄まじい人気ぶりが伺えますね
@@岡嶋慎 北伐がなければ魏の成長と国力の差はさらに大きかった。人口1の国と人口9の国に同じ時間を与えたら、間違いなく後者の方が強いでしょう。
陳寿は正史の三国志の作者で、父親を諸葛亮に処刑されているそうです。諸葛亮のことを恨んでボロクソに書いてもよさそうなものですが、そういったことは一切しなかった。もちろん陳寿が公平な歴史書を書く人だったというのもあるでしょうけど、それだけ諸葛亮の政治がしっかりしていたのでしょうね。
興味深い内容でした。三国志では魏と蜀の国力差について語られることが多く、蜀の地はあまり豊かでない印象があったのですが、実際は華北に並ぶぐらいの人口を抱えていたんですね。物産も豊かで天険に守られている、という意味では、まさに天府の国だったと。しかし、小説等では「諸葛家は絶対に簒奪などいたしません」と言い張っていた諸葛亮が、劉備の廟を"簒奪"してしまったのは、ちょっと皮肉が効いてて面白いですね。
蜀漢と麻婆豆腐と担々麺のイメージしかなかったが、それこそ栄えた地帯だったんだなぁ。杜甫の名詩もここで生み出されたと思えば、なるほど産物文芸豊かな国と納得する。古蜀と宋代も楽しみにしてます。
飛行機だと日本から北京と同じ距離だけ北京から内陸に行くんですが、よくもこんな内陸にこんだけの街を作ったなと感動します。緑豊かでぶっちゃけ中国で一番好きな場所かも。
西暦年間としても唐辛子の伝来は割かし近年という。
こういう一地方の歴史を重点的にやる動画も面白いね。
立場が変われば歴史の真実も変わるように、新しい見方ができますよね個人的には、中国王朝との関わりを中心にインドシナ半島の略史を特集して欲しいですね😊
Youは蜀!愛で空が落ちてくる~!You は蜀!俺の胸に落ちてくる~!
ナイスギャグ!!
暖かく(熱い)湿気の多い土地とされます。北から逃げ込んで来た人たちは風土病に悩んだり、食べるものが米中心になって困ったりしなかったのでしょうか。もうすぐ10万人ですね。
三国志で蜀というと貧しい地域のイメージが有りますが、かなり豊かなんですね
張献忠「勉強になった」
先越された 笑 誇張されている説はあるがどうしてもヤツの名がチラつく…
するな
鳥人間では、張君テストしてみよっか😊「問題 蜀を発展させよ。」張献忠(うぉぉぉぁぉ!!!)清軍(俺達も手伝うぜ!おりゃあぁぁぁ!!!)成績 人口-210万人…鳥人間 アビゃぁぁぁ…!!せっかく教えたのに!!(爆散)
@@茶聖張さんあんたが何もしないのが 一番の解決法だよ
蜀史に張献忠は外せないよね〜
15年ほど前に勤務先の旅行で行ったことがある。田舎に行けば普通に牛ではなくヤクが飼われていたのにビックリ。ホテルの従業員は漢人だが、清掃とかはチベット人。料理は山椒が超絶効いていて、舌が痺れる辛さ。海の魚を食うのが地元ではステータス。21世紀でも中原のボーダー的雰囲気あり。
劉邦が蜀に入る時、ど田舎すぎて、みんな逃げ出したって聞いてたから、未開のジャングル的なイメージあったんだけど、意外と整備されてたんだ。
蜀そのものとは別の観点の話題になってしまうが、各主要都市の、城郭や場所の移り変わりなんかもシリーズ化して貰えると嬉しいです。自分も仕事で中国駐在が長いので、中国各地の古城や当地の博物館等を巡り、その土地・人物の他に、都市の歴史を知ることに興味を持っています。今回の蜀・成都だと、古代の成都の中心線が、何故北東に傾いていたのか?(明王朝で王城が今の天府広場に築かれてからは、南北方向がびしっと決まった様だが)ということや、唐以前の城郭からかなり変化していったのは何故?等々、当時の事情や人々の生活、歴史の奥深さを痛感します。
現代でも栄えてる大都市なので動画一本じゃ終わりませんね
理由はないけどなぜか蜀大好き
山岳地帯にある巨大古代湖の水が引いた地形だけあって肥沃さと資源と防御がつよつよ。山々(西側)を背に東へ下るので打って出やすい。まさに覇道のスタートにふさわしいと思います。奈良盆地近江盆地が超巨大化したような地形。地勢の通りに歴史が刻まれるなんてまさにロマンですね
オモロイ!オモロイ!なかなかに魅力的な回でした。
西域の話が出てきたので、ちょっと動画と関係ない話をしてしまいますが、今日から開催されている、東京富士美術館の大シルクロード展にいってきました。鳥人間陛下の動画を見ていることもあって、より貴重な展示物達を楽しく鑑賞できました。いつも動画投稿ありがとうございます。
お疲れ様です。今回も素晴らしい動画をありがとうございました。是非とも続編の製作をお願いしますが、張献忠が登場することを考えると気が重いですよね。😣 あと、「蜀犬日に吠ゆ」という言葉がありますが、この地方の気候はどうなのでしょうか?
30年以上前の話だが、成都に行った。武侯祠や都江堰が懐かしい。「蜀犬日に吠ゆ」とは良く言ったもので、滞在中も曇っていた。ただ、玄宗が戦乱から逃れたり劉邦が移転させられたり(”左遷”の単語はこれに由来する)するなど、失礼ながら辺境の地のイメージは当時の方が強かったようだ。今の成都を含んだ四川の有様は、劉備や諸葛亮たちに目にどのように映っているのだろう。
劉邦や国府軍のように一時的に引き篭り耐え難きを耐えてやがて反攻に打って出る…そんなイメージが強い険しい山岳地帯と渓谷に阻まれているイメージが有るけど攻め込まれてアッサリ陥落している
三星堆遺跡!超好き!オルドスもやって欲しい❤
諸葛孔明が南蛮を経由したインドの存在を知っていたのだろうか?玄奘三蔵が西域経由でインド旅行するより距離は近く道中の安全性も高かったはず…
前漢や三国志の時代だけ見ると単なる片田舎と思っていたのですが、想像以上に発展していた都市だったんですねそう考えると、三国志の蜀漢が実質益州1つだけで構成されていたのも納得ですね後編は、あの人とあの国がハッスルして文化破壊しそう(白目)
蜀は益州のみと言われつつも、西晋時代は梁州・益州・寧州と3つに分割されたくらいですし。やはり結構広大ですよね。涼州南部迄版図に入れてたわけですし。
このチャンネルの戦いのBGMが大好きです。オリジナルでしょうか?可能ならスマホでテンション上げるときに使いたいので。
近代でも日中戦争で蒋介石が逃げ込み、中華人民共和国でも四川を軍事拠点とした経緯がありますね(沿岸や満州は米ソに近すぎる
本格的に発掘調査される前の三星堆遺跡は地元の人たちに諸葛亮が築いた古城だと思われてたみたいで、四川の人々にとって孔明はとても身近な存在だったのでしょうね。巴蜀の地を戦略的に考えると、長江の上流に位置するので江南勢力にとっては目の上のたんこぶみたいなもので、歴史的に関中の勢力と巴蜀が一体化すると江南勢力は太刀打ちできなくなってる。戦国時代に秦より先に楚が巴蜀を併呑していれば秦による統一もどうなったかわからないと思うし、諸葛亮の北伐も致し方無い面もあると思う。巴蜀だけの勢力が長江を下って江南を併呑するって例が無いのが不思議。劉備みたいに失敗した例や逆に江南勢力に併呑された例はあるが。
蜀で漢中方面から川を下って魏の方面を攻撃する策はしばしば検討されてましたが、行きは良いが帰りの保証がないということで断念してますねぇ。陸上で永安から進むルートは道が長い上に細長くなって伸び切るから隙が多く、劉備や、陸抗にやられた西晋のようになりがちということで、結構難しい部分はあるようです。
@@nnsansaさま 曹真の子・曹爽もこれで失敗し声望落として司馬懿にやられた。
面白かったです…海のリハク
劉璋「やっと出番が来たな!」
巴蜀の地を語ってここまで劉邦や蜀漢をあっさり流すあたり、地理志といえどこの動画らしいというかなんというか公孫述の来キュウ暗殺は本当に光武帝にとっての誤算だったんだろうなあ、と思わせるエピソードで。いつか、光武帝の部下たちで動画作ってほしいですね。
おはようございます。レモンドリズルケーキいいなあ。私ケーキ好きなんで朝からよだれが。でも今は医者から甘いもの禁止されてるんで食べられない。グスン。今日は四川といか益州というか蜀特集ですか。こういう1地区を特集するのも面白いですね。ホウホウ、別部族の名前だったのねえ。巴蜀。謎とロマンに包まれてるならフィクションやり放題だなあwwまあ武帝は武帝だから仕方ないねwwで、待ってましたの諸葛亮颯爽登場。劉備が嫉妬してそうww桓温来たら仕方ない。残念~!w宋代の後も是非やってほしいなあ。覚悟はできています!(何故覚悟?ww)。
19:49 蜀漢後主劉禅の孫・劉玄もその中にいた。
三国時代だと劉備があまりに有名だが、劉璋の親父で蜀入りした劉焉も結構な辣腕で乱れまくっていた蜀を平定してその後は天下を狙ってたという話がある。(寿命で中原に出るには至らなかったが)
でも蜀って劉邦以後に天下を取った勢力は存在しなかった
三国志の中でも最弱の国の初代皇帝と宰相を物語の主人公に押し上げた陳寿をはじめとする蜀の旧臣の凄さよ
もうちょっとで10万人だああ
蜀がどういう土地か、googleマップの起伏が見えるバージョンで見ると分かりやすい。ぐるっと山岳に囲まれてドーンと真ん中に大きな平地がある。隔絶してこもりやすく、内部は豊かなだけに、あれを見ると天下が乱れるたびにここに独立国が出来る理由がよくわかる。三国志で呉と蜀が同盟結んだ際、蜀は使者と共に馬200頭(+その他絹などの名産品)を送ったという。山岳地だし、北西の方の武都は良い馬を産む場所だったと華陽国志にもありますし、馬の名産地でもあったのかな?諸葛亮の廟は没後すぐに民間で作りたいとあちこちで声が上がったものの許可が下りず、末年になってようやく許可が出たという事なので、廟が後付けになってしまったのでしょうねぇ。
張献忠『よっしゃ❗いよいよワイの出番やな』
蜀の地はいつも曇り空で、「蜀の犬は太陽が出ると怪しんで吠えかける」なんて言葉もあったな。
蜀。場所が四川、四川の料理は辛そう。蜀漢の武官と文官さん達は3食激辛というイメージが。孔明さんも毎日唐辛子食べてそう。
唐辛子はメキシコ原産で、欧州で調味料として広まったのは17世紀以降とされていますね。中国に広まったのは清代のようです。
古代的四川人是吃甜的,现代四川人尤其是四川汉人基本上都不是原住民。我们基本上是湖广各地迁移来的,湖南江西等地就爱吃辣,元朝之前的真正四川人极少。
蜀の地って豊かだったんだな🤔四川料理だけじゃないんだな
諸葛亮の存在は巴蜀の奇跡だよな。荊州失陥→夷陵の戦いでガタガタになった蜀漢を立て直し、内政を充実させ、国論を統一して魏打倒へ官民ともに立ち上がらせた。諸葛亮死後の蜀漢は、おまけあっ、おかげさまで王位に就けました。楚王や周王に並びましたね
続きが来たら某殺殺殺の人が出そう…。そして遂に念願の王号を手に入れたぞ!
三国時代で蜀の住人が少ない理由ですが、単純に戦乱や疫病だけが理由でも無い部分があります。曹操が漢中を下した時、その住人を北方に移住させているし、張郃が巴東・巴西を一時的に制圧した時、その住人を漢中方面に移動させてるんですよね。だから巴と漢中の住民が北方に移住させられたのも大きな理由かと考えます。南中は戸籍管理が難しかったでしょうし、住人が多い上に戸籍が管理されている場所となると、蜀方面くらいしかなかったのかもしれません。
「これ大事なり、倉卒にすべからず。此大事也、不可倉卒。」(蜀書 先主伝)なんて話しがあった事を思い出しました。劉備が蜀の地に入った際に、当時の主だった劉璋は歓迎し、宴の席を設けて歓待したが、劉璋の凡庸さにへきえきしていた蜀の人々は、劉備に劉璋を討って欲しいと言ったとされるエピソードの様ですね。劉備は蜀の人々の人心を掴むまでは、早計な事はしないと言い、実際に行わなかった様ですね。ちょっとお人好しな面はあるものの、諸葛亮とのコンビはバランス的に良かったのかと、感じますね。巴蜀の地の歴史が分かり、面白かったです。
まってた
張献忠「人口が六分の一とか三国時代はマジでひくわ…」
秦の蜀に対する措置前316年に秦に征服された後、蜀侯国として封建され存置します。秦からは、お目付け役の相国として陳庄が派遣されますが、前311年に陳庄が蜀侯を殺害、翌前310年に甘茂により陳庄は誅殺されます。蜀侯が絶えた後、前301年、昭襄王は、公子惲を蜀に派遣し、「3年間は帰ってくるな」と厳命しました。が、公子惲はその年の内に反乱を起こし、司馬錯により鎮圧されました。これによって蜀侯国は廃止され、蜀郡として郡県制が施行されます。
リヒョウと、二郎がなぜ繋がるんだろう……スミマセン、知識不足なんで分からない……💦
夏よりも前とされるシーマオ遺跡についても取り上げてほしい
公孫述「巴蜀の地に、成家を樹立した私だが…ある時こんな夢を見た…『八ム子系は、12年の天命が有る』と、私は妻にこう言った」公孫述「12年とは、短すぎる」妻「朝に道を聞けば、夕に死んでも良い。12年も有れば、十分ではありませんか」公孫述「妻の言葉に後押しされたのもあって、遂に皇帝となり蜀郡を司隷校尉として国家の体裁を整えた。そして、漢の皇帝と雌雄を決する戦いが始まった」…呉漢「天下統一へ向けて巴蜀を攻略していた我が軍だったが、敵は卑怯な手段で来歙・岑彭両将軍を刺殺した。俺は怒りに震え、公孫述の一族と延岑を残党もろとも皆殺しにして、更に成都まで焼き払った。その事で、俺は陛下からきつく叱責されたのだが…」…延岑「最後まで戦い続けた儂、漢軍に追い詰められた成家の皇帝に述べた言葉は今も残っているようだ。『男児死中に生を求むべし』 我が身は敗れたと雖も、名言は不滅と言う事だな」
似たワードが出るたびにダイゴやら一瞬著名人達の顔出てきて草
四川って国土地理院の中国標高図を見ても、明らかに山脈に囲まれた盆地なんだよね。蜀漢が魏の侵略を防御できなかったのが悔やまれるくらい守りやすい土地
後編、明末・・・あっ()
劉備が奇しくも劉邦が拠点とした蜀から漢王朝再興を目指したのは興味深いですね。そんな蜀(四川省)の人口を激減させた明末清初の異常さも……
0:33 とりたそ〜
蜀は動乱の時代になると注目されるイメージがあります。日本だと九州地方のような。あくまで個人的なイメージですけれど。ついでに勝手なリクエストですが、地方だと荊州、都市だと鄴を希望しております。できればで結構ですので、よろしくお願いします。
忠義忠節臣下の鑑される諸葛亮が死後に君主より偉くなるとこがチグハグで面白いね😂諸葛亮もあの世でさぞ居心地悪いんじゃないかな😂
簒奪など許せない! 我が君は蜀帝です。 🐻
パンダ🐼は出てこないのですか??
何らかのきっかけで統一王朝が崩壊した時は誰かしら独立勢力を築くイメージが
本編で流れているbgmはなんという曲ですか?
月明かりの灯台って曲
@@Myname12345 あざす!
「私気になります」は、草っwww
私が王朝開く時は「しん」にはしないでおこう。「ふーん」好き(笑)
劉備「余の廟が!余の廟が~っ!」関聖帝君「まぁまぁ、廟のひとつやふたつ忠臣に譲ってやってもよいではありませんか、義兄上」
現在は成都が2600万人と大繁盛してるんですよね
張献忠「俺の出番まだ?」
みんな大好き闇中華史…
国民党も重慶まで引っ込んだな。
宋は問屋が卸さない(´・ω・`)チゲェ
三国時代から四川料理といえば辛かったんかなぁ
ヤバいことしか知らない屠蜀について解説してくれるの楽しみ
おおー中身こうなってたんか、蜀と言えば三星堆遺跡やな😊鄧艾が転げ落ちて進んだという剣岳の見学
遥かな後代になりますが蔣介石が重慶に居を構えたのは この時代を見習ったのでしょうか?
巴蜀は天府の国と称されるほどの豊かな土地で、なおかつ守りも高いので、中央で何か戦乱などがあった際に人々が逃げ込む避難先みたいな感じになっていますね。(でも、その地から出て攻勢に出るのには向いていなさそう。成功例が劉邦くらいしか思いつかない…。)そういえば、日中戦争時も蒋介石率いる国民政府は重慶に逃げていましたが、重慶って巴蜀(四川)にあった土地だったんですね。知りませんでした…。だから、当時の日本軍は重慶に逃げられてしまった蒋介石の国民政府を攻めきれなかったのか…。(最終的に日本がアメリカに負けて大陸から引き揚げたため、助かったが、よく考えたら、巴蜀に籠り切ってろくな攻勢には出れていなかった気がする。やはり巴蜀の地は守りには適しているが、攻めには適していないのか…。)
四川と聞くと泡菜と茶を浮かべます。
廟すら部下の諸葛亮をヨイショしちゃう劉備玄徳、何だからしい感凄い。(笑)
だからみなとみらいの四川料理店は「天府城」なんだな
四川李白?
身毒ってサンスクリット語で大河(インダス川)を意味するシンドゥから来てるそうな
蜀の食(人)まで遠いなあ劉焉が悪だくみ出来そうな程度には、豊かな場所だったんですね
なんかのレポートで300年位前は四川料理は辛くなかったって書いてあったけど何があって今の辛い料理になったのかちょっと気になりました
「蜀」と「益州」と「四川」呼び方によってどう違うのか⁉️
諸葛亮「『北伐は遂行する』『国内も守る』 「両方」やらなくっちゃあならないってのが「丞相」のつらいところだな 覚悟はいいか?オレはできてる」蒋琬「『北伐』だけは… 絶対に… 譲れねえ…『大義』と『遺命』にかけて… この『北伐』だけは…」費禕「僕は、こんな馬鹿げた戦争には乗れない……正しい馬鹿にはなれない!」
蜀為西境,古號益州,路有錦江之險,地連劍閣之雄,回還二百八程,縱橫三萬餘里,雞鳴犬吠相聞,市井延綿不斷,田肥地茂,歲無水旱之憂,國富民豐,時有管弦之樂,所產之物,阜如山積,天下莫可及也!
立地条件は良いのに政権は長続きしない場所
毎回、昭襄王が少女王に聞こえてしまうww
麻婆豆腐食べたい。
蜀ってジョウト御三家のメガニウム並みに育てにくい土地だよな島流しに使われたくらいだし
続きがあるとしても、明末清初の屠蜀があるので、大筋の展開が……orz
屠蜀のイメージが強すぎて…。😢
どれだけの庶民が権力争いで犠牲になったのかよく分かる
この後大虐殺されたんだよね…
南詔国もいずれやってくださいな🎉
霊夢朝・・・
南北朝北周の領域がきっと本当の諸葛亮のプラン
いつもご支援いただき、ありかたき幸せェ!励みになりまくりです!!!
ノラ
ありがとうございます!
いつもご支援いただき、恐悦至極に存じますッ!!
大変励みになりまくりでございます~!!
中国史との出会いが高校受験でムシャクシャしたときに逃げた先の市営図書館でした
そこで吉川英治の宮本武蔵を読み感動し流れで三國志を読んでまた感動
もうなんかたかが入試でなに悩んでんだろう、勉強しよってなってそれから逃げずに受験に挑むことができました
なので、若い頃は劉備玄徳・諸葛亮孔明大好き、魏嫌いな人間でした
だから今回の動画はとても嬉しいです
ありがとうございます
ちなみに、今は国を興す前の朱元璋が大好きです
「隴を得て蜀を望む」という故事成語が生まれるように、ここは古今変わらず重要な地域だったんですね。
成漢の建国者・李雄が入蜀した時、「こんな峻険な地で王朝を構えたのに滅ぼされた劉禅というのはよっぽど馬鹿だったんだなw」と呆れたというエピソードがあります。
蜀はそれくらい防衛に適した土地で、戦乱時は相対的に人口が多くなる…という。
まあその成漢はすぐに滅びましたがw
Thanks!
ありがたや……ありがたや……
いつも大変励みになっております!!!
この動画を見て、各地域の人々の特色(日本だと東北人は我慢強く粘り強い等)と輩出した有名人の性格の比較とか面白いんじゃないかと思った。
項羽とかは、激情家で諦めも早い印象だけど楚人の特徴そのものって感じがするし出身·ルーツの影響を色濃く受けてるな~とかの考察も面白い。
諸葛亮は当時の資料でも
「法律を作り制度を敷き、軍隊を整備し、機械や技術は全て最高を極めた。」
「三国統一後も諸葛亮を賛える民がいた」
「領土内の人々は諸葛亮を敬愛した。怨むものはいなかった」(陳寿の談)
「諸葛亮は役所、宿場、橋梁、道路の修築が好きだった。田畑は開墾され、米倉は満ち溢れ、武器の性能は良くなり、蓄積は豊富になり、早朝の会議は浮わついたものにならなかった。路上には酔っ払いが消えた」(袁氏の談)
また、習鑿歯の『襄陽記』では「諸葛亮死後もその治世を民衆が慕い、諸葛亮を祀る廟を建てさせてくれって意見が多くなって特別に国が許可した」という話もあり、諸葛亮の蜀での治世や人々からの凄まじい人気ぶりが伺えますね
@@岡嶋慎 北伐がなければ魏の成長と国力の差はさらに大きかった。
人口1の国と人口9の国に同じ時間を与えたら、間違いなく後者の方が強いでしょう。
陳寿は正史の三国志の作者で、父親を諸葛亮に処刑されているそうです。
諸葛亮のことを恨んでボロクソに書いてもよさそうなものですが、そういったことは一切しなかった。
もちろん陳寿が公平な歴史書を書く人だったというのもあるでしょうけど、それだけ諸葛亮の政治がしっかりしていたのでしょうね。
興味深い内容でした。
三国志では魏と蜀の国力差について語られることが多く、蜀の地はあまり豊かでない印象があったのですが、実際は華北に並ぶぐらいの人口を抱えていたんですね。
物産も豊かで天険に守られている、という意味では、まさに天府の国だったと。
しかし、小説等では「諸葛家は絶対に簒奪などいたしません」と言い張っていた諸葛亮が、劉備の廟を"簒奪"してしまったのは、ちょっと皮肉が効いてて面白いですね。
蜀漢と麻婆豆腐と担々麺のイメージしかなかったが、それこそ栄えた地帯だったんだなぁ。杜甫の名詩もここで生み出されたと思えば、なるほど産物文芸豊かな国と納得する。古蜀と宋代も楽しみにしてます。
飛行機だと日本から北京と同じ距離だけ北京から内陸に行くんですが、よくもこんな内陸にこんだけの街を作ったなと感動します。緑豊かでぶっちゃけ中国で一番好きな場所かも。
西暦年間としても唐辛子の伝来は割かし近年という。
こういう一地方の歴史を重点的にやる動画も面白いね。
立場が変われば歴史の真実も変わるように、新しい見方ができますよね
個人的には、中国王朝との関わりを中心にインドシナ半島の略史を特集して欲しいですね😊
Youは蜀!愛で空が落ちてくる~!You は蜀!俺の胸に落ちてくる~!
ナイスギャグ!!
暖かく(熱い)湿気の多い土地とされます。北から逃げ込んで来た人たちは風土病に悩んだり、食べるものが米中心になって困ったりしなかったのでしょうか。
もうすぐ10万人ですね。
三国志で蜀というと貧しい地域のイメージが有りますが、かなり豊かなんですね
張献忠「勉強になった」
先越された 笑 誇張されている説はあるがどうしてもヤツの名がチラつく…
するな
鳥人間
では、張君テストしてみよっか😊
「問題 蜀を発展させよ。」
張献忠(うぉぉぉぁぉ!!!)
清軍
(俺達も手伝うぜ!おりゃあぁぁぁ!!!)
成績 人口-210万人…
鳥人間 アビゃぁぁぁ…!!せっかく教えたのに!!(爆散)
@@茶聖張さんあんたが何もしないのが 一番の解決法だよ
蜀史に張献忠は外せないよね〜
15年ほど前に勤務先の旅行で行ったことがある。
田舎に行けば普通に牛ではなくヤクが飼われていたのにビックリ。
ホテルの従業員は漢人だが、清掃とかはチベット人。
料理は山椒が超絶効いていて、舌が痺れる辛さ。海の魚を食うのが地元ではステータス。
21世紀でも中原のボーダー的雰囲気あり。
劉邦が蜀に入る時、ど田舎すぎて、みんな逃げ出したって聞いてたから、未開のジャングル的なイメージあったんだけど、意外と整備されてたんだ。
蜀そのものとは別の観点の話題になってしまうが、各主要都市の、城郭や場所の移り変わりなんかもシリーズ化して貰えると嬉しいです。自分も仕事で中国駐在が長いので、中国各地の古城や当地の博物館等を巡り、その土地・人物の他に、都市の歴史を知ることに興味を持っています。
今回の蜀・成都だと、古代の成都の中心線が、何故北東に傾いていたのか?(明王朝で王城が今の天府広場に築かれてからは、南北方向がびしっと決まった様だが)ということや、唐以前の城郭からかなり変化していったのは何故?等々、当時の事情や人々の生活、歴史の奥深さを痛感します。
現代でも栄えてる大都市なので動画一本じゃ終わりませんね
理由はないけどなぜか蜀大好き
山岳地帯にある巨大古代湖の水が引いた地形だけあって肥沃さと資源と防御がつよつよ。山々(西側)を背に東へ下るので打って出やすい。まさに覇道のスタートにふさわしいと思います。奈良盆地近江盆地が超巨大化したような地形。
地勢の通りに歴史が刻まれるなんてまさにロマンですね
オモロイ!オモロイ!
なかなかに魅力的な回でした。
西域の話が出てきたので、ちょっと動画と関係ない話をしてしまいますが、
今日から開催されている、東京富士美術館の大シルクロード展にいってきました。
鳥人間陛下の動画を見ていることもあって、より貴重な展示物達を楽しく鑑賞できました。
いつも動画投稿ありがとうございます。
お疲れ様です。今回も素晴らしい動画をありがとうございました。是非とも続編の製作をお願いしますが、張献忠が登場することを考えると気が重いですよね。😣 あと、「蜀犬日に吠ゆ」という言葉がありますが、この地方の気候はどうなのでしょうか?
30年以上前の話だが、成都に行った。武侯祠や都江堰が懐かしい。「蜀犬日に吠ゆ」とは良く言ったもので、滞在中も曇っていた。ただ、玄宗が戦乱から逃れたり劉邦が移転させられたり(”左遷”の単語はこれに由来する)するなど、失礼ながら辺境の地のイメージは当時の方が強かったようだ。今の成都を含んだ四川の有様は、劉備や諸葛亮たちに目にどのように映っているのだろう。
劉邦や国府軍のように一時的に引き篭り耐え難きを耐えてやがて反攻に打って出る…
そんなイメージが強い
険しい山岳地帯と渓谷に阻まれているイメージが有るけど
攻め込まれてアッサリ陥落している
三星堆遺跡!超好き!オルドスもやって欲しい❤
諸葛孔明が南蛮を経由したインドの存在を知っていたのだろうか?
玄奘三蔵が西域経由でインド旅行するより距離は近く道中の安全性も高かったはず…
前漢や三国志の時代だけ見ると単なる片田舎と思っていたのですが、想像以上に発展していた都市だったんですね
そう考えると、三国志の蜀漢が実質益州1つだけで構成されていたのも納得ですね
後編は、あの人とあの国がハッスルして文化破壊しそう(白目)
蜀は益州のみと言われつつも、西晋時代は梁州・益州・寧州と3つに分割されたくらいですし。やはり結構広大ですよね。
涼州南部迄版図に入れてたわけですし。
このチャンネルの戦いのBGMが大好きです。
オリジナルでしょうか?
可能ならスマホでテンション上げるときに使いたいので。
近代でも日中戦争で蒋介石が逃げ込み、中華人民共和国でも四川を軍事拠点とした経緯がありますね(沿岸や満州は米ソに近すぎる
本格的に発掘調査される前の三星堆遺跡は地元の人たちに諸葛亮が築いた古城だと思われてたみたいで、四川の人々にとって孔明はとても身近な存在だったのでしょうね。
巴蜀の地を戦略的に考えると、長江の上流に位置するので江南勢力にとっては目の上のたんこぶみたいなもので、歴史的に関中の勢力と巴蜀が一体化すると江南勢力は太刀打ちできなくなってる。
戦国時代に秦より先に楚が巴蜀を併呑していれば秦による統一もどうなったかわからないと思うし、諸葛亮の北伐も致し方無い面もあると思う。
巴蜀だけの勢力が長江を下って江南を併呑するって例が無いのが不思議。劉備みたいに失敗した例や逆に江南勢力に併呑された例はあるが。
蜀で漢中方面から川を下って魏の方面を攻撃する策はしばしば検討されてましたが、行きは良いが帰りの保証がないということで断念してますねぇ。
陸上で永安から進むルートは道が長い上に細長くなって伸び切るから隙が多く、劉備や、陸抗にやられた西晋のようになりがちということで、結構難しい部分はあるようです。
@@nnsansaさま 曹真の子・曹爽もこれで失敗し声望落として司馬懿にやられた。
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劉璋「やっと出番が来たな!」
巴蜀の地を語ってここまで劉邦や蜀漢をあっさり流すあたり、地理志といえどこの動画らしいというかなんというか
公孫述の来キュウ暗殺は本当に光武帝にとっての誤算だったんだろうなあ、と思わせるエピソードで。
いつか、光武帝の部下たちで動画作ってほしいですね。
おはようございます。レモンドリズルケーキいいなあ。私ケーキ好きなんで朝からよだれが。でも今は医者から甘いもの禁止されてるんで食べられない。グスン。
今日は四川といか益州というか蜀特集ですか。こういう1地区を特集するのも面白いですね。ホウホウ、別部族の名前だったのねえ。巴蜀。
謎とロマンに包まれてるならフィクションやり放題だなあwwまあ武帝は武帝だから仕方ないねwwで、待ってましたの諸葛亮颯爽登場。劉備が嫉妬してそうww
桓温来たら仕方ない。残念~!w宋代の後も是非やってほしいなあ。覚悟はできています!(何故覚悟?ww)。
19:49 蜀漢後主劉禅の孫・劉玄もその中にいた。
三国時代だと劉備があまりに有名だが、劉璋の親父で蜀入りした劉焉も結構な辣腕で乱れまくっていた蜀を平定してその後は天下を狙ってたという話がある。(寿命で中原に出るには至らなかったが)
でも蜀って劉邦以後に天下を取った勢力は存在しなかった
三国志の中でも最弱の国の初代皇帝と宰相を物語の主人公に押し上げた陳寿をはじめとする蜀の旧臣の凄さよ
もうちょっとで10万人だああ
蜀がどういう土地か、googleマップの起伏が見えるバージョンで見ると分かりやすい。ぐるっと山岳に囲まれてドーンと真ん中に大きな平地がある。
隔絶してこもりやすく、内部は豊かなだけに、あれを見ると天下が乱れるたびにここに独立国が出来る理由がよくわかる。
三国志で呉と蜀が同盟結んだ際、蜀は使者と共に馬200頭(+その他絹などの名産品)を送ったという。
山岳地だし、北西の方の武都は良い馬を産む場所だったと華陽国志にもありますし、馬の名産地でもあったのかな?
諸葛亮の廟は没後すぐに民間で作りたいとあちこちで声が上がったものの許可が下りず、末年になってようやく許可が出たという事なので、廟が後付けになってしまったのでしょうねぇ。
張献忠『よっしゃ❗いよいよワイの出番やな』
蜀の地はいつも曇り空で、「蜀の犬は太陽が出ると怪しんで吠えかける」なんて言葉もあったな。
蜀。場所が四川、四川の料理は辛そう。
蜀漢の武官と文官さん達は3食激辛というイメージが。孔明さんも毎日唐辛子食べてそう。
唐辛子はメキシコ原産で、欧州で調味料として広まったのは17世紀以降とされていますね。
中国に広まったのは清代のようです。
古代的四川人是吃甜的,现代四川人尤其是四川汉人基本上都不是原住民。我们基本上是湖广各地迁移来的,湖南江西等地就爱吃辣,元朝之前的真正四川人极少。
蜀の地って豊かだったんだな🤔
四川料理だけじゃないんだな
諸葛亮の存在は巴蜀の奇跡だよな。荊州失陥→夷陵の戦いでガタガタになった蜀漢を立て直し、内政を充実させ、国論を統一して魏打倒へ官民ともに立ち上がらせた。諸葛亮死後の蜀漢は、おまけ
あっ、おかげさまで王位に就けました。楚王や周王に並びましたね
続きが来たら某殺殺殺の人が出そう…。そして遂に念願の王号を手に入れたぞ!
三国時代で蜀の住人が少ない理由ですが、単純に戦乱や疫病だけが理由でも無い部分があります。
曹操が漢中を下した時、その住人を北方に移住させているし、張郃が巴東・巴西を一時的に制圧した時、その住人を漢中方面に移動させてるんですよね。
だから巴と漢中の住民が北方に移住させられたのも大きな理由かと考えます。
南中は戸籍管理が難しかったでしょうし、住人が多い上に戸籍が管理されている場所となると、蜀方面くらいしかなかったのかもしれません。
「これ大事なり、倉卒にすべからず。此大事也、不可倉卒。」(蜀書 先主伝)なんて話しがあった事を思い出しました。劉備が蜀の地に入った際に、当時の主だった劉璋は歓迎し、宴の席を設けて歓待したが、劉璋の凡庸さにへきえきしていた蜀の人々は、劉備に劉璋を討って欲しいと言ったとされるエピソードの様ですね。劉備は蜀の人々の人心を掴むまでは、早計な事はしないと言い、実際に行わなかった様ですね。ちょっとお人好しな面はあるものの、諸葛亮とのコンビはバランス的に良かったのかと、感じますね。巴蜀の地の歴史が分かり、面白かったです。
まってた
張献忠「人口が六分の一とか三国時代はマジでひくわ…」
秦の蜀に対する措置
前316年に秦に征服された後、蜀侯国として封建され存置します。秦からは、お目付け役の相国として陳庄が派遣されますが、前311年に陳庄が蜀侯を殺害、翌前310年に甘茂により陳庄は誅殺されます。
蜀侯が絶えた後、前301年、昭襄王は、公子惲を蜀に派遣し、「3年間は帰ってくるな」と厳命しました。が、公子惲はその年の内に反乱を起こし、司馬錯により鎮圧されました。これによって蜀侯国は廃止され、蜀郡として郡県制が施行されます。
リヒョウと、二郎がなぜ繋がるんだろう……スミマセン、知識不足なんで分からない……💦
夏よりも前とされるシーマオ遺跡についても取り上げてほしい
公孫述「巴蜀の地に、成家を樹立した私だが…ある時こんな夢を見た…
『八ム子系は、12年の天命が有る』と、私は妻にこう言った」
公孫述「12年とは、短すぎる」
妻「朝に道を聞けば、夕に死んでも良い。
12年も有れば、十分ではありませんか」
公孫述「妻の言葉に後押しされたのもあって、遂に皇帝となり蜀郡を司隷校尉として国家の体裁を整えた。
そして、漢の皇帝と雌雄を決する戦いが始まった」
…
呉漢「天下統一へ向けて巴蜀を攻略していた我が軍だったが、敵は卑怯な手段で来歙・岑彭両将軍を刺殺した。
俺は怒りに震え、公孫述の一族と延岑を残党もろとも皆殺しにして、更に成都まで焼き払った。
その事で、俺は陛下からきつく叱責されたのだが…」
…
延岑「最後まで戦い続けた儂、漢軍に追い詰められた成家の皇帝に述べた言葉は今も残っているようだ。
『男児死中に生を求むべし』 我が身は敗れたと雖も、名言は不滅と言う事だな」
似たワードが出るたびにダイゴやら一瞬著名人達の顔出てきて草
四川って国土地理院の中国標高図を見ても、明らかに山脈に囲まれた盆地なんだよね。蜀漢が魏の侵略を防御できなかったのが悔やまれるくらい守りやすい土地
後編、明末・・・
あっ()
劉備が奇しくも劉邦が拠点とした蜀から漢王朝再興を目指したのは興味深いですね。
そんな蜀(四川省)の人口を激減させた明末清初の異常さも……
0:33 とりたそ〜
蜀は動乱の時代になると注目されるイメージがあります。
日本だと九州地方のような。
あくまで個人的なイメージですけれど。
ついでに勝手なリクエストですが、地方だと荊州、都市だと鄴を希望しております。
できればで結構ですので、よろしくお願いします。
忠義忠節臣下の鑑される諸葛亮が死後に君主より偉くなるとこがチグハグで面白いね😂
諸葛亮もあの世でさぞ居心地悪いんじゃないかな😂
簒奪など許せない! 我が君は蜀帝です。 🐻
パンダ🐼は出てこないのですか??
何らかのきっかけで統一王朝が崩壊した時は誰かしら独立勢力を築くイメージが
本編で流れているbgmはなんという曲ですか?
月明かりの灯台って曲
@@Myname12345 あざす!
「私気になります」は、草っwww
私が王朝開く時は「しん」にはしないでおこう。
「ふーん」
好き(笑)
劉備「余の廟が!余の廟が~っ!」
関聖帝君「まぁまぁ、廟のひとつやふたつ忠臣に譲ってやってもよいではありませんか、義兄上」
現在は成都が2600万人と大繁盛してるんですよね
張献忠「俺の出番まだ?」
みんな大好き闇中華史…
国民党も重慶まで引っ込んだな。
宋は問屋が卸さない(´・ω・`)チゲェ
三国時代から四川料理といえば辛かったんかなぁ
ヤバいことしか知らない屠蜀について解説してくれるの楽しみ
おおー中身こうなってたんか、蜀と言えば三星堆遺跡やな😊鄧艾が転げ落ちて進んだという剣岳の見学
遥かな後代になりますが蔣介石が重慶に居を構えたのは この時代を見習ったのでしょうか?
巴蜀は天府の国と称されるほどの豊かな土地で、なおかつ守りも高いので、中央で何か戦乱などがあった際に人々が逃げ込む避難先みたいな感じになっていますね。(でも、その地から出て攻勢に出るのには向いていなさそう。成功例が劉邦くらいしか思いつかない…。)そういえば、日中戦争時も蒋介石率いる国民政府は重慶に逃げていましたが、重慶って巴蜀(四川)にあった土地だったんですね。知りませんでした…。だから、当時の日本軍は重慶に逃げられてしまった蒋介石の国民政府を攻めきれなかったのか…。(最終的に日本がアメリカに負けて大陸から引き揚げたため、助かったが、よく考えたら、巴蜀に籠り切ってろくな攻勢には出れていなかった気がする。やはり巴蜀の地は守りには適しているが、攻めには適していないのか…。)
四川と聞くと泡菜と茶を浮かべます。
廟すら部下の諸葛亮をヨイショしちゃう劉備玄徳、何だからしい感凄い。(笑)
だからみなとみらいの四川料理店は「天府城」なんだな
四川李白?
身毒ってサンスクリット語で大河(インダス川)を意味するシンドゥから来てるそうな
蜀の食(人)まで遠いなあ
劉焉が悪だくみ出来そうな程度には、豊かな場所だったんですね
なんかのレポートで300年位前は四川料理は辛くなかったって書いてあったけど
何があって今の辛い料理になったのかちょっと気になりました
「蜀」と「益州」と「四川」呼び方によってどう違うのか⁉️
諸葛亮「『北伐は遂行する』『国内も守る』 「両方」やらなくっちゃあならないってのが「丞相」のつらいところだな
覚悟はいいか?オレはできてる」
蒋琬「『北伐』だけは… 絶対に… 譲れねえ…『大義』と『遺命』にかけて… この『北伐』だけは…」
費禕「僕は、こんな馬鹿げた戦争には乗れない……正しい馬鹿にはなれない!」
蜀為西境,古號益州,路有錦江之險,地連劍閣之雄,回還二百八程,縱橫三萬餘里,雞鳴犬吠相聞,市井延綿不斷,田肥地茂,歲無水旱之憂,國富民豐,時有管弦之樂,所產之物,阜如山積,天下莫可及也!
立地条件は良いのに政権は長続きしない場所
毎回、昭襄王が少女王に聞こえてしまうww
麻婆豆腐食べたい。
蜀ってジョウト御三家のメガニウム並みに育てにくい土地だよな
島流しに使われたくらいだし
続きがあるとしても、明末清初の屠蜀があるので、大筋の展開が……orz
屠蜀のイメージが強すぎて…。😢
どれだけの庶民が権力争いで犠牲になったのかよく分かる
この後大虐殺されたんだよね…
南詔国もいずれやってくださいな🎉
霊夢朝・・・
南北朝北周の領域がきっと本当の諸葛亮のプラン
ありがとうございます!
いつもご支援いただき、ありかたき幸せェ!
励みになりまくりです!!!
ノラ