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軍師筆頭でありますが影となり曹操陣営を支援するしかし、後世では郭嘉の策や関羽の武功が強すぎて影が濃くなり更に諸葛亮の活躍で軍師のイメージが覆される事になって印象が変わることに戦術家である以上、機密事項を扱うので表に出る事をしなかったのも原因ですかね
荀攸は曹操の理解者であり頭脳、曹操の影とも言える存在ですね〜軍師の層が厚いのも曹操陣営の強みですね〜
【潁川名士の繋がりを見て見るよ】荀淑→荀彧の祖父。甥の荀昱は三君八俊の一人。なお荀昱は荀曇の兄なので荀攸の従祖父となる。陳寔→陳羣の祖父。家格は低いが鍾皓に認められ対等の付き合いをする。李膺の友。孫の陳羣は荀彧の娘を妻とした。その子が陳泰。鍾皓→鍾繇の曽祖父・祖父と諸説あり。刑法に詳しい人。17歳年下の陳寔を敬意した。なお孫の鍾繇は荀攸と友。李膺→鐘氏と通婚。荀淑を師とし、陳寔を友とした。三君八俊の一人。袁紹は婚族。余談ですが、李膺は登竜門の故事の人。幼い頃の孔融の名声を爆上げさせた人でもある。【ついでに郭氏も見てみる】郭援は鍾繇の姉の子です。鍾氏は潁川の名士を婚族としている。例を上げると鍾皓の兄の妻は李膺の岳母であり、鍾皓の子の鍾覲の妻は李膺の妹である。そして鍾繇の妻の賈氏と孫氏も潁川出身とされる。おそらくこの賈氏は賈彪の一族と思われる。鍾繇の姉は郭氏に嫁いで郭援を生んだ。先程の例を踏まえるとこの郭氏は十中八九『潁川郭氏』になります。潁川郭氏で有名なのは後漢明帝時代の郭躬とその子孫です。郭躬は潁川郡陽翟県の人。かの郭嘉も郭躬と同じ出身地なので、郭嘉は郭躬一族の疎族になります。そして郭図は潁川の人とあるので郭嘉とは同族とされてます。その郭図と郭援(母は潁川鍾氏)は同じ袁紹軍に身を置いている事から郭援は郭図に近い血族と目されてます。李膺→潁川郡襄城県の人鍾皓→潁川郡長社県の人郭躬→潁川郡陽翟県の人賈彪→潁川郡定陵県の人鍾繇→潁川郡長社県の人郭嘉→潁川郡陽翟県の人郭図→潁川の人(郭嘉と同族?)郭援→?まぁこんな感じで潁川名士は繋がってます。
まともな性格してるのに、策謀キレキレとかいうなかなか珍しい存在。
でも大事なものを平気な顔で囮に使おうともする。こりゃ恐ろしい策士だわ…
曹操自体が軍師・参謀が必要だったかくらいに兵法に明るかったが、そこに荀攸・荀彧・郭嘉・賈詡・程昱などのブレーンが加わったのだから軍事・政務に関しても「鬼に金棒」どころでは済まされない。過酷な面だけが強調されることも多い曹操だが、人材コレクターと評されるだけはあり清濁併せ呑める器量がそこにはあったのだろう(本人はどちらかといえば濁流派の家系でもあるしコンプレックスになっていたのか)。
兵法に明るいからこそ周りからの献策の意図を十分に読み取り取捨選択できるという面もあるかも
直接の血縁でないとはいえ、この人や荀彧の一族から荀勗と言う佞臣が出るのを知った時は悲しかったですね…。
【4:26〜】『こうもんじろう』と打って一発で『黄門侍郎』に変換されたら三国志中級者🙂
後漢の黄門侍郎は外戚の子弟が多く、宦官の少黄門及び中常侍と対立するポストです。魏晋以降は散騎常侍とともに宗室や一流貴族の子弟の起官、いわゆる清官の頂点となります。
@@shou-sho 魏の散騎常侍で有名人No.1は晋の景帝こと司馬師なんですが(※私の中で)、晋書の記述にちょっと個人的に疑問があるんですよね🙃散騎常侍って三品官でそれなりに高位なんですが後に司馬師は中護軍を拝命してますこれは司馬懿の例のクーデターにも中軍を抑えることが必要だった点からわかる話ではあるんですが中護軍は四品官で平たく言って降格なんですよねまた魏の九品制では起家官は本来の評価から四品下がったものを拝命する、つまり司馬師が一品評価なら起家官は五品官なわけです(散騎常侍拝命以前に何らかの五品官職を拝命していたが記録に無い(もしくは私が知らない笑)だけかもしれませんが)何が言いたいかといいますとこの"散騎常侍"という晋書の記載は"散騎侍郎(五品官)"の誤りではないかと愚考するわけです🙂
@@kappanouen 宣帝紀によると司馬師が散騎常侍になるのは公孫淵滅ぼした後ですから、そのくらいないと逆に不自然だと思います。まあ32歳だし起家官ではないでしょう。中護軍って見た目には降格だけど、武官における尚書僕射みたいなものなので、職務のない散騎常侍からすれば栄典でしょう。賈充は中護軍から衛将軍(二品官)に遷ってるので、実質は三品官相当ですね。
@@shou-sho なるほど~!🙂✨多分ご存知だとは思いますが一応私が怪しんだポイントを述べておくと司馬師は別に散騎常侍から直接に中護軍になったわけでなく「(散騎常侍任命の後)いろいろキャリアを積んで後中護軍になった」という記載ですね(^_^;)
@@kappanouen 読み直してみましたが、〇〇兼散騎常侍→△△兼散騎常侍→中護軍兼散騎常侍という気がしてきました。(つまりずっと三品官)Wikipediaは出典さえ載せててくれれば便利なんですけどね。
昔の光栄三国志だと専用グラも無く、知力も90未満で、二軍扱いだった。今じゃ評価が変わって、すごく優秀になってるわ。
あえて例えるとするなら、蕭何→荀彧 張良→荀攸 韓信は… 曹操本人。そりゃ強いわ。
実際三国志平和(三国志演義の大元の一つ)では曹操は韓信が転生した姿…と設定されていますね😘
いつも楽しく拝見しています^ ^他の軍師に比べて、地味な印象でしたが、曹操の覇道の道筋を作った人物と知り、聴いていてめちゃくちゃテンション上がりました(*゚∀゚*)b
官渡の采配がバッチリ過ぎるんですよね✨
黄門侍郎って言葉が出てくるといつもどこかがむず痒くなる気が致します
後漢において、潁川郡の代表格というのは他の郡とは全く意味が違います。雲台二十八将1位:南陽 11名2位:潁川 7名 3位:漁陽、扶風、鉅鹿 2名後漢の三公1位:南陽(劉秀の本貫)2位:汝南(袁紹の本貫)3位:沛(劉邦の本貫)4位:河南(洛陽)5位:京兆(長安)、潁川(荀彧の本貫)、弘農(楊修の本貫)
どうしても三国志=演技って捉えてしまいがちで地味な記録しかない軍師・将軍でも掘り下げると、とてつもない大功を治めているパターンってありがちですねどちらかというと後世に残る大失敗をしてしまった人が記録に残ってしまうパターンは多いけど特に徐庶レベルの人でも埋もれてしまう(自ら埋もれさせてたのかも)レベルの、魏の人材の豊富さには毎回脱帽してしまう
董卓に処刑されず生き延びたのは、曹操の参謀となる運命だったからだろうか…………もし、董卓に処刑されていたら、どうなっていただろうか?
文字通り愚考やけど、どこかでわかっているけれど上手に意識しづらいことを、ふつうに意識して言語化、行動に移せる。しかも、だいたい言われてみれば至極真っ当なこと。要するに天才。ゲームで戦略型か内政型かよくわからん人やったけど、戦略型っぽいことを理解できた。24:24 郭嘉。。。
孫権との戦いや合肥を守っていた将に病死が多いのって、長江流域は疫病が多いんだろうなって近年思うようになってきました。
マラリアとか南方特有の感染症かもしれませんね。
そうか風土病か‼️ありそう
荀攸の登用は『徴(徴召)』となっていますから曹操はいきなり抱え込んだばかりの皇帝パワーを使ったわけです(曹操は当時司空ですので自身の名目で召す場合は『辟(辟召)』となる)😗
董卓暗殺計画の胆力を見るに、誰が見ても最高の人材に映る('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA ここビリヤード式玉突き人事なんですよね(^_^;)荀彧「献帝を保護しましょう」→曹操「保護したけど言い出しっぺのお前が面倒みろよ?」→荀彧尚書令代行に就任(鎮東将軍司馬を辞職)→曹操「荀彧朝廷にいるから代わりのやついるわ」→荀彧「私の甥に智謀の士がおります」→曹操「じゃあせっかく手に入れた皇帝パワーで召喚するか」→荀攸曹操陣営に参画→曹操(荀彧"甥"って言ってたけどえらい老けたおっさんが来たな?🤔)という流れ(個人の想像です)
何顒を知ると袁紹と曹操と荀彧と荀攸が繋がります。この何顒は袁紹の奔走の友の一人で党人救済に動いていた人です。何顒は陳蕃や李膺との面識もあり、そして若い頃の曹操をいち早く評価したの事でも知られてます。(武帝紀の最初に語られます)曹操だけではなく荀彧を王佐の器(才)と評したのも何顒なんですよ。荀爽と荀攸と王允等を抱き込んで始めた董卓暗殺計画も何顒に因るところで動画内の『董卓の暗殺』で語られる自殺した仲間(6:44)と言うのが当にその何顒だったりします。そして何顒の死後に荀彧が遺体を回収して荀爽の墓の近くに埋葬しました。『及陳蕃、李膺之敗,顒以與蕃、膺善,遂為宦官所陷,乃變姓名,亡匿汝南閒。所至皆親其豪桀,有聲荊豫之域。袁紹慕之,私與往來,結為奔走之友。』(後漢書何顒伝)『及董卓秉政,逼顒以為長史,託疾不就,乃與司空荀爽、司徒王允等共謀卓。會爽薨,顒以它事為卓所繫,憂憤而卒。』(後漢書何顒伝)『初,顒見曹操,歎曰:「漢家將亡,安天下者必此人也。」操以是嘉之。嘗稱「潁川荀彧,王佐之器」。及彧為尚書令,遣人西迎叔父爽,并致顒屍,而葬之爽之冢傍。』(後漢書何顒伝)そんなわけで生き残った王允が董卓暗殺計画を引き継いで実行したと言う事になりますね。
めちゃくちゃ助かる補足😭
荀攸に限らずですが蒼天航路での曹操幕下の軍師たちは、曹操の引き立て役兼解説役になってる感じなのがちょっと残念でした。
曹操の物語が故に仕方なくはあるが、もう少し荀攸には底知れない策士っぽさがあっても…なんて
荀攸来た!曹操陣営、ひいては魏国の人材の層の厚さを物語る上で欠かせないキャラだと個人的に思います郭嘉や典イ、荀彧など、曹操は多くの有能な部下を亡くしながらも三国の中で一番強い国を創れたのは荀攸の存在が一役買ってたと感じます
後漢末期から三国、魏晋、南北朝にかけて、中国の史書には数百人の颍川荀氏の有名な人物が現れ、荀氏は魏晋時代には「帝王の家に勝似する」大士族だった。300年以上経っても、南朝と隋朝には荀法尚のような州刺史級の軍政の大物が現れたことがある。その後、荀姓の有名人は歴史上極めて珍しい。魏晋時代の荀氏正一品は計5人、三品以上は13人だった。しかし、荀攸一支だけは3代で子嗣途絶え、大部分の颍川荀氏の魏晋名人は荀彧と荀爽の末裔だった。
鍾繇さんは編纂よりやらなきゃいけない事があったんでしょうねぇ。張昌蒲さんが何か知ってるかも??
荀攸が就いていた中軍師はどういった職だったんだろう…?孫権征伐時に陣没してるのは司馬朗らと同じ江東特有の風土病かしら
曹操陣営の軍師職は、ちゃんと参謀やってる感じがする。
わかりやすく言うと魏の参謀総長ですよね本物のトップなんで周りに作戦について語る訳にはいかんかったので後世に功績が残ってないというそれもこれも人格者荀攸本人の望むところだったんでしょうが
荀攸の先祖が性悪説を説いた荀子です。😊
曹操と袁紹の違いは曹操の決断の早さだなって思う。
当代最高の天才である曹操に献策した。どれだけ優れた人物がわかりますね。
一番乗り。曹操がその死を深く嘆き悲しんだくらいだから、郭嘉とともにそれだけ馬が合ったのだろう。それだけに功の大きかったおじ荀彧との差が際立つ。
甘寧将軍ですね。
鉄球をぶんぶん回す一番乗りおじさんかあ
甘寧おつ
荀攸の演義との最大の違いは、曹操の魏公就任に反対しなかったことでしょうね。詔勅でも荀攸が家臣団筆頭になってますね。ちなみに荀攸の著書で名前が残ってるのは『荀攸魏官儀』だけだと思います。内容は不明ですが、禅譲前のまだ魏が後漢の中にあった時代(213年)の官職一覧ですね。
中国の春秋。にありますよね。
曹操の魏の人材宝庫に嫉妬するね…😓劉備💧😢😭🥺……😔
演義でも充分有能なんだけど、曹操のメイン軍師達の中では何故か地味になりがち他は派手な見せ場ちゃんとあるのに何故だろう
それでも程昱なんだよな〜
ジュンイクだよ…ジュン氐の名声、人望で曹操は人材あつめたんで…ジュンイクが曹操のスポンサーでジュンユウにしてもジュン氐派閥筆頭ジュンイクの後ろ楯なければ名は残ってません…
軍師筆頭でありますが影となり曹操陣営を支援する
しかし、後世では郭嘉の策や関羽の武功が強すぎて影が濃くなり
更に諸葛亮の活躍で軍師のイメージが覆される事になって印象が変わることに
戦術家である以上、機密事項を扱うので表に出る事をしなかったのも原因ですかね
荀攸は曹操の理解者であり頭脳、曹操の影とも言える存在ですね〜
軍師の層が厚いのも曹操陣営の強みですね〜
【潁川名士の繋がりを見て見るよ】
荀淑→荀彧の祖父。甥の荀昱は三君八俊の一人。なお荀昱は荀曇の兄なので荀攸の従祖父となる。
陳寔→陳羣の祖父。家格は低いが鍾皓に認められ対等の付き合いをする。李膺の友。孫の陳羣は荀彧の娘を妻とした。その子が陳泰。
鍾皓→鍾繇の曽祖父・祖父と諸説あり。刑法に詳しい人。17歳年下の陳寔を敬意した。なお孫の鍾繇は荀攸と友。
李膺→鐘氏と通婚。荀淑を師とし、陳寔を友とした。三君八俊の一人。袁紹は婚族。
余談ですが、李膺は登竜門の故事の人。幼い頃の孔融の名声を爆上げさせた人でもある。
【ついでに郭氏も見てみる】
郭援は鍾繇の姉の子です。鍾氏は潁川の名士を婚族としている。
例を上げると鍾皓の兄の妻は李膺の岳母であり、鍾皓の子の鍾覲の妻は李膺の妹である。そして鍾繇の妻の賈氏と孫氏も潁川出身とされる。おそらくこの賈氏は賈彪の一族と思われる。
鍾繇の姉は郭氏に嫁いで郭援を生んだ。先程の例を踏まえるとこの郭氏は十中八九『潁川郭氏』になります。
潁川郭氏で有名なのは後漢明帝時代の郭躬とその子孫です。
郭躬は潁川郡陽翟県の人。かの郭嘉も郭躬と同じ出身地なので、郭嘉は郭躬一族の疎族になります。
そして郭図は潁川の人とあるので郭嘉とは同族とされてます。その郭図と郭援(母は潁川鍾氏)は同じ袁紹軍に身を置いている事から郭援は郭図に近い血族と目されてます。
李膺→潁川郡襄城県の人
鍾皓→潁川郡長社県の人
郭躬→潁川郡陽翟県の人
賈彪→潁川郡定陵県の人
鍾繇→潁川郡長社県の人
郭嘉→潁川郡陽翟県の人
郭図→潁川の人(郭嘉と同族?)
郭援→?
まぁこんな感じで潁川名士は繋がってます。
まともな性格してるのに、策謀キレキレとかいうなかなか珍しい存在。
でも大事なものを平気な顔で囮に使おうともする。こりゃ恐ろしい策士だわ…
曹操自体が軍師・参謀が必要だったかくらいに兵法に明るかったが、そこに荀攸・荀彧・郭嘉・賈詡・程昱などのブレーンが加わったのだから軍事・政務に関しても「鬼に金棒」どころでは済まされない。
過酷な面だけが強調されることも多い曹操だが、人材コレクターと評されるだけはあり清濁併せ呑める器量がそこにはあったのだろう(本人はどちらかといえば濁流派の家系でもあるしコンプレックスになっていたのか)。
兵法に明るいからこそ周りからの献策の意図を十分に読み取り取捨選択できるという面もあるかも
直接の血縁でないとはいえ、この人や荀彧の一族から荀勗と言う佞臣が出るのを知った時は悲しかったですね…。
【4:26〜】『こうもんじろう』と打って一発で『黄門侍郎』に変換されたら三国志中級者🙂
後漢の黄門侍郎は外戚の子弟が多く、宦官の少黄門及び中常侍と対立するポストです。
魏晋以降は散騎常侍とともに宗室や一流貴族の子弟の起官、いわゆる清官の頂点となります。
@@shou-sho 魏の散騎常侍で有名人No.1は晋の景帝こと司馬師なんですが(※私の中で)、晋書の記述にちょっと個人的に疑問があるんですよね🙃
散騎常侍って三品官でそれなりに高位なんですが後に司馬師は中護軍を拝命してます
これは司馬懿の例のクーデターにも中軍を抑えることが必要だった点からわかる話ではあるんですが中護軍は四品官で平たく言って降格なんですよね
また魏の九品制では起家官は本来の評価から四品下がったものを拝命する、つまり司馬師が一品評価なら起家官は五品官なわけです(散騎常侍拝命以前に何らかの五品官職を拝命していたが記録に無い(もしくは私が知らない笑)だけかもしれませんが)
何が言いたいかといいますと
この"散騎常侍"という晋書の記載は"散騎侍郎(五品官)"の誤りではないかと愚考するわけです🙂
@@kappanouen
宣帝紀によると司馬師が散騎常侍になるのは公孫淵滅ぼした後ですから、そのくらいないと逆に不自然だと思います。まあ32歳だし起家官ではないでしょう。
中護軍って見た目には降格だけど、武官における尚書僕射みたいなものなので、職務のない散騎常侍からすれば栄典でしょう。
賈充は中護軍から衛将軍(二品官)に遷ってるので、実質は三品官相当ですね。
@@shou-sho なるほど~!🙂✨
多分ご存知だとは思いますが一応私が怪しんだポイントを述べておくと
司馬師は別に散騎常侍から直接に中護軍になったわけでなく
「(散騎常侍任命の後)いろいろキャリアを積んで後中護軍になった」という記載ですね(^_^;)
@@kappanouen
読み直してみましたが、〇〇兼散騎常侍→△△兼散騎常侍→中護軍兼散騎常侍という気がしてきました。(つまりずっと三品官)
Wikipediaは出典さえ載せててくれれば便利なんですけどね。
昔の光栄三国志だと専用グラも無く、知力も90未満で、二軍扱いだった。
今じゃ評価が変わって、すごく優秀になってるわ。
あえて例えるとするなら、蕭何→荀彧 張良→荀攸 韓信は… 曹操本人。そりゃ強いわ。
実際三国志平和(三国志演義の大元の一つ)では
曹操は韓信が転生した姿…と設定されていますね😘
いつも楽しく拝見しています^ ^
他の軍師に比べて、地味な印象でしたが、曹操の覇道の道筋を作った人物と知り、聴いていてめちゃくちゃテンション上がりました(*゚∀゚*)b
官渡の采配がバッチリ過ぎるんですよね✨
黄門侍郎って言葉が出てくるといつもどこかがむず痒くなる気が致します
後漢において、潁川郡の代表格というのは他の郡とは全く意味が違います。
雲台二十八将
1位:南陽 11名
2位:潁川 7名
3位:漁陽、扶風、鉅鹿 2名
後漢の三公
1位:南陽(劉秀の本貫)
2位:汝南(袁紹の本貫)
3位:沛(劉邦の本貫)
4位:河南(洛陽)
5位:京兆(長安)、潁川(荀彧の本貫)、弘農(楊修の本貫)
どうしても三国志=演技って捉えてしまいがちで
地味な記録しかない軍師・将軍でも掘り下げると、とてつもない大功を治めているパターンってありがちですね
どちらかというと後世に残る大失敗をしてしまった人が記録に残ってしまうパターンは多いけど
特に徐庶レベルの人でも埋もれてしまう(自ら埋もれさせてたのかも)レベルの、魏の人材の豊富さには毎回脱帽してしまう
董卓に処刑されず生き延びたのは、曹操の参謀となる運命だったからだろうか…………もし、董卓に処刑されていたら、どうなっていただろうか?
文字通り愚考やけど、どこかでわかっているけれど上手に意識しづらいことを、ふつうに意識して言語化、行動に移せる。
しかも、だいたい言われてみれば至極真っ当なこと。要するに天才。
ゲームで戦略型か内政型かよくわからん人やったけど、戦略型っぽいことを理解できた。
24:24 郭嘉。。。
孫権との戦いや合肥を守っていた将に病死が多いのって、長江流域は疫病が多いんだろうなって近年思うようになってきました。
マラリアとか南方特有の感染症かもしれませんね。
そうか風土病か‼️ありそう
荀攸の登用は『徴(徴召)』となっていますから曹操はいきなり抱え込んだばかりの皇帝パワーを使ったわけです(曹操は当時司空ですので自身の名目で召す場合は『辟(辟召)』となる)😗
董卓暗殺計画の胆力を見るに、誰が見ても最高の人材に映る('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA ここビリヤード式玉突き人事なんですよね(^_^;)
荀彧「献帝を保護しましょう」→曹操「保護したけど言い出しっぺのお前が面倒みろよ?」→荀彧尚書令代行に就任(鎮東将軍司馬を辞職)→曹操「荀彧朝廷にいるから代わりのやついるわ」→荀彧「私の甥に智謀の士がおります」→曹操「じゃあせっかく手に入れた皇帝パワーで召喚するか」→荀攸曹操陣営に参画→曹操(荀彧"甥"って言ってたけどえらい老けたおっさんが来たな?🤔)
という流れ(個人の想像です)
何顒を知ると袁紹と曹操と荀彧と荀攸が繋がります。
この何顒は袁紹の奔走の友の一人で党人救済に動いていた人です。
何顒は陳蕃や李膺との面識もあり、そして若い頃の曹操をいち早く評価したの事でも知られてます。(武帝紀の最初に語られます)
曹操だけではなく荀彧を王佐の器(才)と評したのも何顒なんですよ。
荀爽と荀攸と王允等を抱き込んで始めた董卓暗殺計画も何顒に因るところで動画内の『董卓の暗殺』で語られる自殺した仲間(6:44)と言うのが当にその何顒だったりします。
そして何顒の死後に荀彧が遺体を回収して荀爽の墓の近くに埋葬しました。
『及陳蕃、李膺之敗,顒以與蕃、膺善,遂為宦官所陷,乃變姓名,亡匿汝南閒。所至皆親其豪桀,有聲荊豫之域。袁紹慕之,私與往來,結為奔走之友。』(後漢書何顒伝)
『及董卓秉政,逼顒以為長史,託疾不就,乃與司空荀爽、司徒王允等共謀卓。會爽薨,顒以它事為卓所繫,憂憤而卒。』(後漢書何顒伝)
『初,顒見曹操,歎曰:「漢家將亡,安天下者必此人也。」操以是嘉之。嘗稱「潁川荀彧,王佐之器」。及彧為尚書令,遣人西迎叔父爽,并致顒屍,而葬之爽之冢傍。』(後漢書何顒伝)
そんなわけで生き残った王允が董卓暗殺計画を引き継いで実行したと言う事になりますね。
めちゃくちゃ助かる補足😭
荀攸に限らずですが蒼天航路での曹操幕下の軍師たちは、曹操の引き立て役兼解説役になってる感じなのがちょっと残念でした。
曹操の物語が故に仕方なくはあるが、もう少し荀攸には底知れない策士っぽさがあっても…なんて
荀攸来た!
曹操陣営、ひいては魏国の人材の層の厚さを物語る上で欠かせないキャラだと個人的に思います
郭嘉や典イ、荀彧など、曹操は多くの有能な部下を亡くしながらも三国の中で一番強い国を創れたのは荀攸の存在が一役買ってたと感じます
後漢末期から三国、魏晋、南北朝にかけて、中国の史書には数百人の颍川荀氏の有名な人物が現れ、荀氏は魏晋時代には「帝王の家に勝似する」大士族だった。300年以上経っても、南朝と隋朝には荀法尚のような州刺史級の軍政の大物が現れたことがある。その後、荀姓の有名人は歴史上極めて珍しい。魏晋時代の荀氏正一品は計5人、三品以上は13人だった。しかし、荀攸一支だけは3代で子嗣途絶え、大部分の颍川荀氏の魏晋名人は荀彧と荀爽の末裔だった。
鍾繇さんは編纂よりやらなきゃいけない事があったんでしょうねぇ。張昌蒲さんが何か知ってるかも??
荀攸が就いていた中軍師はどういった職だったんだろう…?
孫権征伐時に陣没してるのは司馬朗らと同じ江東特有の風土病かしら
曹操陣営の軍師職は、ちゃんと参謀やってる感じがする。
わかりやすく言うと魏の参謀総長ですよね
本物のトップなんで周りに作戦について語る訳にはいかんかったので
後世に功績が残ってないという
それもこれも人格者荀攸本人の望むところだったんでしょうが
荀攸の先祖が性悪説を説いた荀子です。😊
曹操と袁紹の違いは曹操の決断の早さだなって思う。
当代最高の天才である曹操に献策した。
どれだけ優れた人物がわかりますね。
一番乗り。曹操がその死を深く嘆き悲しんだくらいだから、郭嘉とともにそれだけ馬が合ったのだろう。それだけに功の大きかったおじ荀彧との差が際立つ。
甘寧将軍ですね。
鉄球をぶんぶん回す一番乗りおじさんかあ
甘寧おつ
荀攸の演義との最大の違いは、曹操の魏公就任に反対しなかったことでしょうね。
詔勅でも荀攸が家臣団筆頭になってますね。
ちなみに荀攸の著書で名前が残ってるのは『荀攸魏官儀』だけだと思います。
内容は不明ですが、禅譲前のまだ魏が後漢の中にあった時代(213年)の官職一覧ですね。
中国の春秋。にありますよね。
曹操の魏の人材宝庫に嫉妬するね…😓劉備💧😢😭🥺……😔
演義でも充分有能なんだけど、曹操のメイン軍師達の中では何故か地味になりがち
他は派手な見せ場ちゃんとあるのに何故だろう
それでも程昱なんだよな〜
ジュンイクだよ…ジュン氐の名声、人望で曹操は人材あつめたんで…ジュンイクが曹操のスポンサーでジュンユウにしてもジュン氐派閥筆頭ジュンイクの後ろ楯なければ名は残ってません…