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ら抜きじゃなくてar抜きだとすると「話せる」とも整合するの好き
例外的に、「離れる」といった語幹の最後の子音がrである下一段活用ではら抜きである「離れれない」よりも「離れられない」が口語では好まれる気がします。直感的なコメントで恐縮ですが。
すごい、ちょうど今朝布団の中でぬくぬくしながら考えていたことです!
可能と受身は他の方の動画でなるほどと思っていたのですが、母音語幹と子音語幹の説明で更にわかりました。ありがとうございます😊次の動画も楽しみです!
このような「『ら抜き言葉』は間違いではない」という合理的で丁寧な説明は、昔から色々あるのに、それでも、未だに、「『ら抜き言葉』は間違いだ」と思っている人が居るのは、子どもの時「『ら抜き言葉』は間違いではない」と教えられ、『ら抜き言葉』を使うと叱られたという人が、TVでアナウンサーなどが『ら抜き言葉』を使うとTV局にクレームを入れるので、面倒を嫌うTV局では、アナウンサーは『ら抜き言葉』を使わないように注意しているから、「『ら抜き言葉』は間違いだ」という印象を与えているのではないだろうか。クレーマーが言語を作る、という嫌な現象。
私は「ら抜き言葉」を積極的に使っていると言うか「ら抜き言葉」しか使いません。理由は、この動画の2番目の理由に依るものです。1番目の理由はもちろん気づいていましたが、しかし3番目の理由には全く気づきませんでした。「言葉というのは少しずつ変わるものである」「ら抜き言葉を使ったほうが『可能』と『受け身』の区別ができて便利だから、便利なほうを使えばいい」と私も考えています。
金田一先生も、ら抜き言葉に肯定的でしたね。
いやぁ、スッキリしました!前から「ら抜き」の方が、間違いがなくていいのにと思っていたのが、明確に説明していただいて、納得できました!
何十年か前に、国語審議会で「ら抜き言葉を認めよう」としたときがあったんだよね。でも、その時に言語に関するアンケート結果があって、まだ違和感を感じている人が過半数を超えていたために、それは流れてしまった。時代は流れ、去年かな?同様のアンケートが行われた。その時は「ら抜き言葉」を許容する人が過半数を超えていたと記憶している。
主の意見に100%賛同します!「い抜き」と「さ抜き」についても動画にしてほしいですw
て抜きって何ですか?
@@Gengo_No_Heya 「している/ある」→「してる」の類です
「い抜き」でした。失礼w
自分は三河地方出身ですが、可能の場合「ら抜き」に加えて「れ足し」を行うことがあります。流石に社会人になってから三河弁の使用頻度が落ちてるので自信ないですが、確か「行けれる」「書けれる」「読めれる」みたいな感じだったかと。これも可能にのみ使うので同じく 'reru' を足した形に統一したと見なせれますかね…?何と言うか「可能は全部『れる』で言ってたかも知れない」くらいのイメージがあります。流石に例外はあったと思うですが、他の方のコメントにある「離れれる」も何か使ったことある気がするのですよね…
宮沢賢治なんか読んでると、ら抜き言葉はのべつに出てくる。昔の人は案外こだわってなかったのかもしれない。
すばらしい動画です。
ご解説ありがとうございます。最後に述べられている所感にも、バランス感覚が表れていて素晴らしいと思います。既にいくつかコメントあるように、「離れる」「忘れる」等の動詞では、まだ「ら抜き」は使われない(×「離れれない」「忘れれない」)ということや、「こんなもの、私にはとうてい食べれない」のような場合はまだ違和感ある人が多いということなど、まだ完全に覆い尽くせていないところに、いわゆる規範文法化に踏み切れない理由があるように思われます。
この動画、よく考えると、作るの大変そう!凄いな
きっとそのうち腱鞘炎だな。
自分の身内と地元の友達くらいしかわからないけど、京都と大阪の人はら抜き言葉をどの年代のひとでも積極的に使ってるような印象です。逆にけしからんと言われたことがリアルではないので、近畿では比較的言語の変化に寛容なのかもしれませんね。今はテレビやSNSとの普及や、進学就職で他府県に行くのが当たり前にできる時代なので大きい都市ほどそうかもしれませんが😮
いい動画
分かりやすかったです。さ入れ言葉についても解説があればお聞かせいただきたいです。
「語幹がイ段で終わるラ下一動詞」と同じ形になる上一動詞のら抜き、だけは気に食わないよねいる いれるあきる あきれるさびる さびれるまあ、能動的に飽きようとする機会がないから飽きられる(可能)→飽きれる、はまあ使わんwまた、能動的に錆びようとする主体は想像すらできないから、錆びられる(可能)→錆びれる、もいつどこで誰が使うねんって感じではあるけどw
五段動詞の可能動詞でも、貼る→貼れる=腫れる刈る/狩る→かれる=枯れる知る→知れる=痴れる(これは話し言葉「酔いしれる」以外の形で使うことは無いと思うが)みたいなのがありますね
「自発動詞から意味が転じて独立」だったりして?居る…入れる は怪しいけど飽きる→呆れる錆びる→寂れる
ら抜き言葉は普通になんかもう受け入れちゃってますインターネットの時代になって「機能性」で言語が進化する速度も速まった気がしますねぇ
ここにもいるのか
スッキリ腹落ちしました。
食べようTabe yoo 呼ぼうYob (y)oo食べれる Tabe reru呼べる Yob (r)eru
五段活用として体系化への潮流と考えられるのならばサピアのドリフト論としても説明可能な気がしますね。
受け身の形を(られる)、可能の形を(れる)にしたほうがいいというのは どっかで聞いたことがありますね…、。一言一句は覚えてなくてイメージだけで覚えてるけど、イメージだけで十分だね!
とても分かりやすい説明でした。質問なのですが、ら抜き言葉ではなく、-ar-抜き言葉だと聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか?食べられるtaber-ar-eru叩かれるtatak-ar-eru
「ら抜き言葉」の現象を説明するだけでしたら、それでも可能だと思います。しかし、それだと「美しくない」「嬉しくない」ポイントがあるのです。taber- 、 tatak- のように語幹を設定すると、使役 a) taber- + -saseru → tabe-saseru ↑語幹の尾子音 (r) を落としている b) tatak- + -saseru → tatak-aseru ↑助動詞の頭子音 (s) を落としているというふうに、子音が連続したときの操作が不統一になってしまいます。パターン a になるのは、この動画でいう母音語幹動詞、学校文法でいう五段動詞で、b になるのは子音語幹動詞(一段動詞)ですね。このような語幹の設定方法では、常に語幹が子音で終わってしまうので、語幹だけを見てどちらのパターンなのかを判断できないというのが問題になります。語幹の最後が ir, er 以外の場合は必ずパターン b になるので語幹の形で見分けがつきます(例:わかる [ar]、死ぬ [in]、殴る [ur]、稼ぐ [eg]、残る [or] )。しかし、語幹が ir, er で終わっているからといって、パターン a になるとは限りません(反例:切る、走る、要る、蹴る、焦る、減る)。なので、この動画で説明した方法で「居る」は i-ru「要る」は ir-u「経る」は he-ru「減る」は her-uであるというふうに考えた方が、合理的に説明できると思います。
@@Gengo_No_Heya 素晴らしいです。ありがとうございます!!
整っているのはサウナーだけとは限りません。
これ以上無くしっくりくる説明!もう「ら抜き言葉」廃止でいいんちゃうん、と思わせておいて、最後のdisclaimerも完璧!
「熊が鮭を食べられた(taberareta)」は「熊が鮭を食べれた (tabereta)」の他に「熊が鮭を食べ得た (tabeeta)」と言うことはできないでしょうか
標準語を決めるときのミスだと思いますね。西日本は「ら」抜きが多い
しゃべられるたべられる、ミニストップ誰も行かない
2:19 お腹を空かせた熊がいて、と聞いて、見つけたのは人で、熊目線では食べられた(食べることができた)、人目線では食べられた(食べられてしまった)になるのかと思った
ゔぃゔぁヤナシ方言‼️👍
6:39以降の語幹の切り分け方や子音重複をさけるという考え方をすれば、韓国語の文法(語幹末尾のパッチムの有無による区別)と共通の姿が見えてきますね。
ここで話されていることを基本的に肯定する立場だとおもいますが、言語学者の小松英雄は、ら抜き言葉を、「書ける」等の可能動詞を、五段活用以外の一段活用においても作るという役割を持ったものとする説を唱えていたと思います。本当はもっと精緻な論理を展開していたはずですが、私のうろ覚えの記憶のかぎり、そういうことだったと思います。この動画でも説明されていると思いますが、例えば「書く」には「書ける」という可能動詞が対応しますが、一段活用の「流れる」においては、そのまま対応する可能動詞が存在しません。しかし、「流れられる」のような可能の助動詞の付く形から、らを削除することによって「流れれる」という可能動詞のようなものを生み出すことができます。「られる」には、そもそも可能と受け身や尊敬の意味とありますが、ら抜き言葉においては、そのうちの「可能」の意味にのみ使える形となっており、そういう意味で、このら抜き現象は、極めて体系的に起こった言語的変化だと言うことができる、というような論だったと思います。「流れれる」とか「落ちれる」とかで、可能を意味することはあっても、受け身を意味することはないですよね。私はこの考え方にすごく納得しました。理由三の後半については、読んだことも考えたこともなかったので、そしてよく理解できなかったので、新鮮でした。小松氏の考えに従うと、一段動詞について、「仮設」の未然形「ら」を前提として考えることになります。これによって、「れる・られる」は、一つの「れる」という語として成り立つことになります。つぎに、「食べられる」「話される」から、この未然形のaの音を引く。そうすれば、taberreruと、hanasreruという、子音連続を含んだ不自然な音の並びとなりますが、次に、エイヤとrも抜けば、tabereruとhanaseruが成り立つということになるんだな、と理解しました。つまり、「れる」の成分を「える」にまで削ったものとして発想できるわけです。仮設の未然形という考えを採用するなら、一段動詞の語幹というのも、例えばtaberというrの入った形として捉えることができます。もちろんこの場合特殊に用意された限定的な語幹であり、本当の意味で語幹と言えるわけではないのですが。そしてこの語幹(もどき)に、eruをくっつけることで、可能動詞が形成されるというわけです。この擬似語幹は、潜在的に、五段動詞化への野望をほのかに含んでいるように感じられます。もちろんそれは必要のある場合にしか起こらない現象だとは思いますが。食べりて、なんて今後もきっと生まれ得ない語形でしょうし。仮設の未然形という概念を導入することで、例えば、書かれるが、kak-a-reruであるに対し、流れられるが、nagarer-a-reruと発想することができます。他の助動詞はわからないですが、「れる」に関しては、この活用語尾のaが欲しかったのでしょう、日本語は。eruの背後にreruを見るという視点も必要なものですね。同様にareruの背後にrareruを見るということが必要になるのでしょうが、個人的には、reruそのものが本体であって、rareruのraは仮設の未然形として捉えられると思っています。kakrareruと仮に言うとして、rareruの方が原形かと言うと、そうでもなく、つまりrareruからrを省いたものと見ずに、はじめからreruのほうが原形であると考えた方が良いのではないかと思います。 とは考えてみたものの、せる、と、させる、のようにs音で両形がそろっているような例がまたありますので、この場合seruを原形と考えずにsaseruを原形に考えた方がいいのではないかという考えが発想されます。だから、これと同様に、れる、も、られるに原形を持つものと考えた方がよいのではないかと思えてきました。しかし、書かれる、といった語について、書く、の語幹がいくらkakであるとされても、rareruの形に未然形語尾を含ませるという考えは腑に落ちないものです。られる、の中に未然形語尾が含まれるなら、なぜほかの未然形接続の助動詞などが全て語幹にくっついたaを前提にしているのかが説明できないと思われるからです。aは、kakの側にあり、助動詞の側にはないはずです。rによってaが遠隔されるようなことは考えにくいです。他の未然形接続の助動詞がそれぞれ自分のうちにaを持つ、という考え方は腑に落ちません。たまたまそうなのだと言われればそれまでですが。つまり、書く、なら、kakaまでを一塊と捉えて、reruが付く、と考えれば、またここで仮設の未然形という概念が登場することで、流れられる、のreruが説明できると思います。以上、曖昧な思考で間違いを含んでいると思いますが、私なりの感想でした。
「れる」が可能を表す、と解釈していると思われるナウなヤングを見た事がある。つまり「遊べれる」とか、「楽しめれる」とか。これもあり?
江戸時代にはり抜き言葉が生まれまたり が た になった正しい日本語、乱れた日本語、という言い方をしだしたら正しい日本語とはどこまで遡るのか?今更乱れる前の日本語だからと縄文語を話すか?
テレビや動画などで、昨今よく使われている、「ごらん頂き」と言う言葉、私は凄く違和感を感じるのですが、いかがでしょうか?ご覧は尊敬語で視聴者様に対する言葉で、いただくは自分がへりくだった謙譲語、だと認識していました。つまりご覧頂きと言う言葉の主は、相手であり、自分であってどちらが主になっているのかわからない。本当は相手が主の場合は「ご覧くださり」か、自分の場合は「みていただき」かを使うのが本当ではないのでしょうか?もしよろしければ、教えていただければありがたいです。よろしくお願いいたします。。
「みていただき」の「見る」も「教えていただければ」の「教える」も動作主は尊敬の対象ですよね。
外国の日本語学習者ってよくこんなの勉強してるなあ。気が狂うわ。
youとyou guysみたいなノリを感じる
鹿児島では方言と言うか 昔からら抜き言葉 鼻濁音も使わないねそういえば
アンチら抜き言葉の方を多数見てきましたが、そこまで批判するなら音便を使うなと思ってしまいます。私のこの考え方は過激でしょうか?また、ら抜き言葉が音便の一種として肩を並べることはできるのでしょうか?
「アンチ」というのが「私にとっては気持ち悪い」という感覚の話ならそれは批判されるべきではないと思いますし、「日本語として誤りだから皆使ってはいけない」みたいな話ならそれは批判されるべきだと思います。なお、下記AとBの2つのパターンのうち、音便はBのことですが、ら抜き言葉はこの動画で説明したようにAに当たりますので、ら抜き言葉は音便の一種とは言えないと思います。A:「〜します」「〜させる」は「語幹+(i)mas-u」「語幹+(s)ase-ru」と捉えれば十分である母音語幹 借りる→kari-mas-u / kari-sase-ru子音語幹 走る→hasir-imasu/ hasir-ase-ruB:「〜した」「〜して」は、子音語幹に付く場合、面倒なことになる 走る hasir-u →走った hasiQ-ta 歩く aruk-u →歩いた arui-ta 休む yasum-u →休んだ yasuN-da
私がら抜き言葉肯定派の人間なので少し偏っているかもしれませんが、後者の方が多いように感じます。動画視聴前は理由①、理由②のことしか知らなかったのですが、たしかに理由③後半を考えれば音便の1種であるとは言えないですね。大変理解が深まりました。ご回答ありがとうございます。
津軽弁では「られる」と「れる」は意味が違うので、「られる」の代わりに「れる」を使うことには強い抵抗感があります。ある場面では合理的かも知れませんが、一方では混同が起きてしまう訳です。津軽弁の感覚がない人には関係ない話ですが。
誰の説だったか忘れましたが、上下一段活用(古文なら二段活用)の語幹を…rまで、とするという考え方もあったかも?で、子音の重複を避けるために未然形や連用形ではrが脱落している、と。見る: 語幹=mir-未然: mir-nai →r脱落→mi-nai連用: mir-tari → 〃 →mi-tariそうすれば、可能動詞は五段活用動詞と同じで-eruを追加しただけ、となります。同様に、受身などは-areruを追加した形、と。但し、今ぱっと思いつくだけでも「未然形と連用形の語尾やそれらに接続する助動詞は全て子音から始まるか?」↔︎「それ以外の活用形では?」の検証ができていませんが……もしかしたら「活用語尾」と「接続する助詞・助動詞」を混同しているのかも?
rで語幹が終わるとすると、子音語幹動詞(ラ行五段活用動詞)と区別がつかなくなっちゃうんですよね。やっぱりいる(居る)はi-ruいる(要る)はir-uというふうに見てあげた方が上手くいくと思います。
とても分かりやすい動画でした!私はこの分野について明るくないので恐縮なのですが、「理由③ 後半」において説明されている「子音連続の回避」には違和感を感じました。私は日本語の受身の助動詞については、恐らく非過去形に "areru" がついた形だと推測しています(一段: taberu→tabereru, 五段: hanasu→hanasareru)。何か動画内の説明に用いられた参考文献等をお教えいただければ幸いです。
1年前の動画ですし、フォルダを見てみても論文PDFがあるわけもなかったので、具体的にこれを読んだとは申し上げられないのですが、母音/子音幹動詞の考え方で助動詞の接続を説明する方法を、何かしらのオープンアクセスの文献で読んだ記憶があります。taberu→tabereruは、その前の文から察するにtaberu→taberareruの間違いでしょうか。仰るような説明をすると、どのような点で合理的(都合が良い)のでしょうか。areru をつけてtaberareru になるのであれば、taberuはtaber-uというふうに分析されるということなのでしょうが、他の方のコメントへの返信でも書いたように、それはちょっと綺麗ではないと思うのです。
@@Gengo_No_Heya ご返信ありがとうございます! taberu→tabereruに関しては私のミスなのでこのコメントを書いたあとに訂正しておきます。ご指摘ありがとうございます! また、私は当該コメントでは特に合理性の主張をした訳ではなく、あくまで「rareru」の起源に私の持論との違和感を感じたまでです。私も特に参考文献があってご意見させていただいた訳ではないのでお許しください! ら抜き言葉の合理性の高さについては全くその通りだと思います。これからもご投稿頑張って下さい!追記: コメントの編集機能が使えず訂正はできませんでした。
最近受け身でら抜きを使っている例をよく見かけますそのうち「られる」が完全消滅するんじゃなかろうかと思いました
そんな人います?wつべのコメ欄なんかで「さ抜き」はよく目にしますがw
@@miaocatvideos605 いやいるんですよ体系化した文法を習っても口語となると一切考えてないんだなと思いました
@@Inunaki_Doraemon 世の中、バカばっかですからね悲しいかな、それが現実なのです。。。w
@@miaocatvideos605 自分のことを見られた(受け身)ときに、見れた?て言ったシチュエーションを考えてみました。(相手が)(自分のことを)見れた?という使い方をしていて、相手が可能なってるような気がします。俺の感覚では二人称ならギリギリ使うかな。わからん。
@@taki_huuko なるほど疑問文なら確かにそうなりますねただ私の聞いた誤用だと「彼に殴れた」みたいな感じだったので、主語の逆転ではなかったですね
理由③後半が独自なのだが、サ変動詞も統一的に説明することはできないか・・。
サ変動詞は、可能以外→デキル可能→デキルというふうに、補充法を使った役割分担が既にできちゃってますねえ。
@@Gengo_No_Heya 「せられる」から「される」への音節縮約と、五段(四段)動詞に、いわゆる可能動詞が派生した現象とを統一的に処理できないかと考えたが(時期はどちらも近世)、前段は現代では可能の意味でないですね。もう少し整理します。
言語変化を全般に肯定する人がいるけれど、最近は「~です」のことを「~になります」と言うのも「整ってきている」のですか?「娘は10歳になります」は「近く10歳になる」のですか「すでに10歳である」のですか? もともと曖昧さが多い日本語に殴、さらに区別がつかなくなるような、意味や表現の変化は、情報論的に言えばせっかくできた秩序(約束事)に基づく情報伝達を乱す以外の何物でもないでしょう。プログラム言語なら、勝手に表現を曖昧にしたら、まともに動きません。
@@somethingyoulike9153 「続きを読む」をクリックすると全文が読めます。まあ、私は国語学の知識と問題意識がある教養人とやり取りしたいですが。例えば、「僕はウナギだ」は日本語としておかしいでしょ、と思う人とは対話が成立しません。
プログラムって意外と曖昧にしても動くけどな。そもそも会話言語はプログラミング言語じゃないので
助動詞「れる」「られる」とは関係ない。それでは可能の時にだけ「ら」を抜く理由が説明できない。「得る」をつけて可能動詞を作り、母音の連続を避けるため、前の母音を消すか、または子音を挿入したもの(荒磯:arAIso→arIso、春雨:harUAme→harUSAmeと同じ)。話し得る hanasIEru→hanasEru 話せるしゃべり得る syaberIEru→syaberEru しゃべれる飲み得る nomIEru→nomEru 飲める食べ得る tabEEru→tabEREru 食べれる行き得る ikIEru→ikEru 行ける来得る kOEru→kOREru 来れる聞き得る kikIEru→kikEru 聞ける見得る mIEru→mIREru 見れる起き得る okIEru→okIREru 起きれる寝得る nEEru→nEREru 寝れる思い得る omoIEru→omoEru 思える考え得る kangaEEru→kangaEREru 考えれる疑い得る utagaIEru→utagaEru 疑える信じ得る sinjIEru→sinjIREru 信じれる「ら抜き言葉」ではなく「r入り言葉」。「ら抜き」は若者が横着して「ら」の発音をサボっているという印象操作のためにどっかの学者が意図的に起源を捏造したプロパガンダ。
コメントありがとうございます。・「ら抜き言葉」という表現には何ら問題はない・可能の時にだけ「ら」を抜く理由も説明できている・可能動詞やいわゆる「ら抜き言葉」の起源については、仰る説が正しいとは限らないという3点から反論いたします。ーーーーーーーーーーー本動画で述べている内容や世間の「ら抜き言葉」という表現は、可能動詞の起源が何であるかに関わらず成立します。まず、「食べれる」形を持たなかった変種がここ数十年の間でそれを認めるようになった、ということ自体は紛れもない事実です。一部の方言に存在していた「食べれる」形の起源が何であれ、これを持たなかった変種において「食べられる」が「食べれる」に変化しつつあるという事実を鑑みて、この形態を「ら抜き言葉」と呼称することには何ら問題はないでしょう。ーーーーーーーーーーーまた、>それでは可能の時にだけ「ら」を抜く理由が説明できないとのことですが、本動画でも述べている通り、その点は「可能動詞をもつ五段動詞からの類推」の一言で説明ができます。どうして五段動詞にのみ可能動詞が存在するのか、という点まで踏み込めば、仰るような「得る」起源説を持ち出すこともできます(次節参照)。しかし、現代に起きている「ら抜き」現象を説明するには、「五段動詞からの類推」で十分です。ーーーーーーーーーーーそのうえ、可能動詞の起源については、①文法化した「得る」が縮約したという説以外にも、②「四段未然+レル」が変化したという説や、③下二動詞「切るる>知るる」からの類推という説が挙げられており、貴殿の仰る①節のみが正しいとは断言できません。また、「エル」の後接とそれに伴う子音の挿入によって「五段動詞の可能形」と「ら抜き言葉」の両方を説明しよう、という方法は、そこまでたくさん例を挙げていただかずとも、共時的な理論として私がこの動画の中で示しているものなのですが、ご覧になりましたか?語幹の考え方は異なりますし、私の説明は共時的なものであって、動詞「得る」に由来するとする貴殿の説のような通時的なものではないという点も重要な差異ですが。ーーーーーーーーーーーさらに、「食べれる」形は、遅くとも100年前には一部の方言に存在しています。首都圏方言における「ら抜き言葉」は、五段動詞からの類推ばかりでなく、こういった方言形の影響も受けながら近年成立しつつあるものだと考えられます。したがって、「ら抜き言葉」の究極的な起源はA: 五段動詞(古くは四段動詞)のみがもつ可能形の起源とB: 一部の方言に存在していた「食べれる」形の起源の両方を突き止めることによって得られるわけです。しかし、前節で述べたようにAについても諸説あるうえ、Aについての説明がBにも当てはめられるという確証もありません。Aについて、①説が正しく、それがBにも当てはまるのだという論拠・出典があれば、ご教示いただければと存じます。
ら抜きじゃなくてar抜きだとすると「話せる」とも整合するの好き
例外的に、「離れる」といった語幹の最後の子音がrである下一段活用ではら抜きである「離れれない」よりも「離れられない」が口語では好まれる気がします。直感的なコメントで恐縮ですが。
すごい、ちょうど今朝布団の中でぬくぬくしながら考えていたことです!
可能と受身は他の方の動画でなるほどと思っていたのですが、
母音語幹と子音語幹の説明で更にわかりました。ありがとうございます😊
次の動画も楽しみです!
このような「『ら抜き言葉』は間違いではない」という合理的で丁寧な説明は、昔から色々あるのに、それでも、未だに、「『ら抜き言葉』は間違いだ」と思っている人が居るのは、子どもの時「『ら抜き言葉』は間違いではない」と教えられ、『ら抜き言葉』を使うと叱られたという人が、TVでアナウンサーなどが『ら抜き言葉』を使うとTV局にクレームを入れるので、面倒を嫌うTV局では、アナウンサーは『ら抜き言葉』を使わないように注意しているから、「『ら抜き言葉』は間違いだ」という印象を与えているのではないだろうか。
クレーマーが言語を作る、という嫌な現象。
私は「ら抜き言葉」を積極的に使っていると言うか「ら抜き言葉」しか使いません。
理由は、この動画の2番目の理由に依るものです。
1番目の理由はもちろん気づいていましたが、しかし3番目の理由には全く気づきませんでした。
「言葉というのは少しずつ変わるものである」
「ら抜き言葉を使ったほうが『可能』と『受け身』の区別ができて便利だから、便利なほうを使えばいい」
と私も考えています。
金田一先生も、ら抜き言葉に肯定的でしたね。
いやぁ、スッキリしました!前から「ら抜き」の方が、間違いがなくていいのにと思っていたのが、明確に説明していただいて、納得できました!
何十年か前に、国語審議会で「ら抜き言葉を認めよう」としたときがあったんだよね。でも、その時に言語に関するアンケート結果があって、まだ違和感を感じている人が過半数を超えていたために、それは流れてしまった。時代は流れ、去年かな?同様のアンケートが行われた。その時は「ら抜き言葉」を許容する人が過半数を超えていたと記憶している。
主の意見に100%賛同します!
「い抜き」と「さ抜き」についても動画にしてほしいですw
て抜きって何ですか?
@@Gengo_No_Heya
「している/ある」→「してる」の類です
「い抜き」でした。失礼w
自分は三河地方出身ですが、可能の場合「ら抜き」に加えて「れ足し」を行うことがあります。
流石に社会人になってから三河弁の使用頻度が落ちてるので自信ないですが、確か「行けれる」「書けれる」「読めれる」みたいな感じだったかと。
これも可能にのみ使うので同じく 'reru' を足した形に統一したと見なせれますかね…?
何と言うか「可能は全部『れる』で言ってたかも知れない」くらいのイメージがあります。
流石に例外はあったと思うですが、他の方のコメントにある「離れれる」も何か使ったことある気がするのですよね…
宮沢賢治なんか読んでると、ら抜き言葉はのべつに出てくる。昔の人は案外こだわってなかったのかもしれない。
すばらしい動画です。
ご解説ありがとうございます。最後に述べられている所感にも、バランス感覚が表れていて素晴らしいと思います。既にいくつかコメントあるように、「離れる」「忘れる」等の動詞では、まだ「ら抜き」は使われない(×「離れれない」「忘れれない」)ということや、「こんなもの、私にはとうてい食べれない」のような場合はまだ違和感ある人が多いということなど、まだ完全に覆い尽くせていないところに、いわゆる規範文法化に踏み切れない理由があるように思われます。
この動画、よく考えると、作るの大変そう!凄いな
きっとそのうち腱鞘炎だな。
自分の身内と地元の友達くらいしかわからないけど、京都と大阪の人はら抜き言葉をどの年代のひとでも積極的に使ってるような印象です。
逆にけしからんと言われたことがリアルではないので、近畿では比較的言語の変化に寛容なのかもしれませんね。今はテレビやSNSとの普及や、進学就職で他府県に行くのが当たり前にできる時代なので大きい都市ほどそうかもしれませんが😮
いい動画
分かりやすかったです。
さ入れ言葉についても解説があればお聞かせいただきたいです。
「語幹がイ段で終わるラ下一動詞」と同じ形になる上一動詞のら抜き、だけは気に食わないよね
いる いれる
あきる あきれる
さびる さびれる
まあ、能動的に飽きようとする機会がないから飽きられる(可能)→飽きれる、はまあ使わんw
また、能動的に錆びようとする主体は想像すらできないから、錆びられる(可能)→錆びれる、もいつどこで誰が使うねんって感じではあるけどw
五段動詞の可能動詞でも、
貼る→貼れる=腫れる
刈る/狩る→かれる=枯れる
知る→知れる=痴れる(これは話し言葉「酔いしれる」以外の形で使うことは無いと思うが)
みたいなのがありますね
「自発動詞から意味が転じて独立」だったりして?
居る…入れる は怪しいけど
飽きる→呆れる
錆びる→寂れる
ら抜き言葉は普通になんかもう受け入れちゃってます
インターネットの時代になって「機能性」で言語が進化する速度も速まった気がしますねぇ
ここにもいるのか
スッキリ腹落ちしました。
食べようTabe yoo
呼ぼうYob (y)oo
食べれる Tabe reru
呼べる Yob (r)eru
五段活用として体系化への潮流と考えられるのならばサピアのドリフト論としても
説明可能な気がしますね。
受け身の形を(られる)、可能の形を(れる)にしたほうがいいというのは どっかで聞いたことがありますね…、。
一言一句は覚えてなくて
イメージだけで覚えてるけど、イメージだけで十分だね!
とても分かりやすい説明でした。
質問なのですが、
ら抜き言葉ではなく、-ar-抜き言葉だと聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか?
食べられるtaber-ar-eru
叩かれるtatak-ar-eru
「ら抜き言葉」の現象を説明するだけでしたら、それでも可能だと思います。しかし、それだと「美しくない」「嬉しくない」ポイントがあるのです。
taber- 、 tatak- のように語幹を設定すると、
使役
a) taber- + -saseru → tabe-saseru
↑語幹の尾子音 (r) を落としている
b) tatak- + -saseru → tatak-aseru
↑助動詞の頭子音 (s) を落としている
というふうに、子音が連続したときの操作が不統一になってしまいます。パターン a になるのは、この動画でいう母音語幹動詞、学校文法でいう五段動詞で、b になるのは子音語幹動詞(一段動詞)ですね。
このような語幹の設定方法では、常に語幹が子音で終わってしまうので、語幹だけを見てどちらのパターンなのかを判断できないというのが問題になります。語幹の最後が ir, er 以外の場合は必ずパターン b になるので語幹の形で見分けがつきます(例:わかる [ar]、死ぬ [in]、殴る [ur]、稼ぐ [eg]、残る [or] )。しかし、語幹が ir, er で終わっているからといって、パターン a になるとは限りません(反例:切る、走る、要る、蹴る、焦る、減る)。
なので、この動画で説明した方法で
「居る」は i-ru
「要る」は ir-u
「経る」は he-ru
「減る」は her-u
であるというふうに考えた方が、合理的に説明できると思います。
@@Gengo_No_Heya 素晴らしいです。ありがとうございます!!
整っているのはサウナーだけとは限りません。
これ以上無くしっくりくる説明!もう「ら抜き言葉」廃止でいいんちゃうん、と思わせておいて、最後のdisclaimerも完璧!
「熊が鮭を食べられた(taberareta)」は
「熊が鮭を食べれた (tabereta)」の他に
「熊が鮭を食べ得た (tabeeta)」と言うことはできないでしょうか
標準語を決めるときのミスだと思いますね。
西日本は「ら」抜きが多い
しゃべられるたべられる、ミニストップ
誰も行かない
2:19 お腹を空かせた熊がいて、と聞いて、見つけたのは人で、熊目線では食べられた(食べることができた)、人目線では食べられた(食べられてしまった)になるのかと思った
ゔぃゔぁヤナシ方言‼️👍
6:39以降の語幹の切り分け方や子音重複をさけるという考え方をすれば、韓国語の文法(語幹末尾のパッチムの有無による区別)と共通の姿が見えてきますね。
ここで話されていることを基本的に肯定する立場だとおもいますが、言語学者の小松英雄は、ら抜き言葉を、「書ける」等の可能動詞を、五段活用以外の一段活用においても作るという役割を持ったものとする説を唱えていたと思います。本当はもっと精緻な論理を展開していたはずですが、私のうろ覚えの記憶のかぎり、そういうことだったと思います。
この動画でも説明されていると思いますが、例えば「書く」には「書ける」という可能動詞が対応しますが、一段活用の「流れる」においては、そのまま対応する可能動詞が存在しません。しかし、「流れられる」のような可能の助動詞の付く形から、らを削除することによって「流れれる」という可能動詞のようなものを生み出すことができます。「られる」には、そもそも可能と受け身や尊敬の意味とありますが、ら抜き言葉においては、そのうちの「可能」の意味にのみ使える形となっており、そういう意味で、このら抜き現象は、極めて体系的に起こった言語的変化だと言うことができる、というような論だったと思います。「流れれる」とか「落ちれる」とかで、可能を意味することはあっても、受け身を意味することはないですよね。
私はこの考え方にすごく納得しました。
理由三の後半については、読んだことも考えたこともなかったので、そしてよく理解できなかったので、新鮮でした。
小松氏の考えに従うと、一段動詞について、「仮設」の未然形「ら」を前提として考えることになります。これによって、「れる・られる」は、一つの「れる」という語として成り立つことになります。つぎに、「食べられる」「話される」から、この未然形のaの音を引く。そうすれば、taberreruと、hanasreruという、子音連続を含んだ不自然な音の並びとなりますが、次に、エイヤとrも抜けば、tabereruとhanaseruが成り立つということになるんだな、と理解しました。
つまり、「れる」の成分を「える」にまで削ったものとして発想できるわけです。仮設の未然形という考えを採用するなら、一段動詞の語幹というのも、例えばtaberというrの入った形として捉えることができます。もちろんこの場合特殊に用意された限定的な語幹であり、本当の意味で語幹と言えるわけではないのですが。そしてこの語幹(もどき)に、eruをくっつけることで、可能動詞が形成されるというわけです。この擬似語幹は、潜在的に、五段動詞化への野望をほのかに含んでいるように感じられます。もちろんそれは必要のある場合にしか起こらない現象だとは思いますが。食べりて、なんて今後もきっと生まれ得ない語形でしょうし。
仮設の未然形という概念を導入することで、例えば、書かれるが、kak-a-reruであるに対し、流れられるが、nagarer-a-reruと発想することができます。他の助動詞はわからないですが、「れる」に関しては、この活用語尾のaが欲しかったのでしょう、日本語は。
eruの背後にreruを見るという視点も必要なものですね。同様にareruの背後にrareruを見るということが必要になるのでしょうが、個人的には、reruそのものが本体であって、rareruのraは仮設の未然形として捉えられると思っています。kakrareruと仮に言うとして、rareruの方が原形かと言うと、そうでもなく、つまりrareruからrを省いたものと見ずに、はじめからreruのほうが原形であると考えた方が良いのではないかと思います。
とは考えてみたものの、せる、と、させる、のようにs音で両形がそろっているような例がまたありますので、この場合seruを原形と考えずにsaseruを原形に考えた方がいいのではないかという考えが発想されます。だから、これと同様に、れる、も、られるに原形を持つものと考えた方がよいのではないかと思えてきました。
しかし、書かれる、といった語について、書く、の語幹がいくらkakであるとされても、rareruの形に未然形語尾を含ませるという考えは腑に落ちないものです。られる、の中に未然形語尾が含まれるなら、なぜほかの未然形接続の助動詞などが全て語幹にくっついたaを前提にしているのかが説明できないと思われるからです。aは、kakの側にあり、助動詞の側にはないはずです。rによってaが遠隔されるようなことは考えにくいです。他の未然形接続の助動詞がそれぞれ自分のうちにaを持つ、という考え方は腑に落ちません。たまたまそうなのだと言われればそれまでですが。つまり、書く、なら、kakaまでを一塊と捉えて、reruが付く、と考えれば、またここで仮設の未然形という概念が登場することで、流れられる、のreruが説明できると思います。
以上、曖昧な思考で間違いを含んでいると思いますが、私なりの感想でした。
「れる」が可能を表す、と解釈していると思われるナウなヤングを見た事がある。
つまり「遊べれる」とか、「楽しめれる」とか。
これもあり?
江戸時代にはり抜き言葉が生まれま
たり が た になった
正しい日本語、乱れた日本語、という言い方をしだしたら正しい日本語とはどこまで遡るのか?
今更乱れる前の日本語だからと縄文語を話すか?
テレビや動画などで、昨今よく使われている、「ごらん頂き」と言う言葉、私は凄く違和感を感じるのですが、いかがでしょうか?
ご覧は尊敬語で視聴者様に対する言葉で、いただくは自分がへりくだった謙譲語、だと認識していました。
つまりご覧頂きと言う言葉の主は、相手であり、自分であってどちらが主になっているのかわからない。
本当は相手が主の場合は「ご覧くださり」か、自分の場合は「みていただき」かを使うのが本当ではないのでしょうか?
もしよろしければ、教えていただければありがたいです。よろしくお願いいたします。。
「みていただき」の「見る」も「教えていただければ」の「教える」も動作主は尊敬の対象ですよね。
外国の日本語学習者ってよくこんなの勉強してるなあ。
気が狂うわ。
youとyou guysみたいなノリを感じる
鹿児島では方言と言うか 昔からら抜き言葉 鼻濁音も使わないねそういえば
アンチら抜き言葉の方を多数見てきましたが、そこまで批判するなら音便を使うなと思ってしまいます。
私のこの考え方は過激でしょうか?
また、ら抜き言葉が音便の一種として肩を並べることはできるのでしょうか?
「アンチ」というのが「私にとっては気持ち悪い」という感覚の話ならそれは批判されるべきではないと思いますし、「日本語として誤りだから皆使ってはいけない」みたいな話ならそれは批判されるべきだと思います。
なお、下記AとBの2つのパターンのうち、音便はBのことですが、ら抜き言葉はこの動画で説明したようにAに当たりますので、ら抜き言葉は音便の一種とは言えないと思います。
A:「〜します」「〜させる」は「語幹+(i)mas-u」「語幹+(s)ase-ru」と捉えれば十分である
母音語幹
借りる→kari-mas-u / kari-sase-ru
子音語幹
走る→hasir-imasu/ hasir-ase-ru
B:「〜した」「〜して」は、子音語幹に付く場合、面倒なことになる
走る hasir-u →走った hasiQ-ta
歩く aruk-u →歩いた arui-ta
休む yasum-u →休んだ yasuN-da
私がら抜き言葉肯定派の人間なので少し偏っているかもしれませんが、後者の方が多いように感じます。
動画視聴前は理由①、理由②のことしか知らなかったのですが、たしかに理由③後半を考えれば音便の1種であるとは言えないですね。
大変理解が深まりました。ご回答ありがとうございます。
津軽弁では「られる」と「れる」は意味が違うので、「られる」の代わりに「れる」を使うことには強い抵抗感があります。
ある場面では合理的かも知れませんが、一方では混同が起きてしまう訳です。津軽弁の感覚がない人には関係ない話ですが。
誰の説だったか忘れましたが、上下一段活用(古文なら二段活用)の語幹を…rまで、とするという考え方もあったかも?
で、子音の重複を避けるために未然形や連用形ではrが脱落している、と。
見る: 語幹=mir-
未然: mir-nai →r脱落→mi-nai
連用: mir-tari → 〃 →mi-tari
そうすれば、可能動詞は五段活用動詞と同じで-eruを追加しただけ、となります。
同様に、受身などは-areruを追加した形、と。
但し、今ぱっと思いつくだけでも「未然形と連用形の語尾やそれらに接続する助動詞は全て子音から始まるか?」↔︎「それ以外の活用形では?」の検証ができていませんが…
…もしかしたら「活用語尾」と「接続する助詞・助動詞」を混同しているのかも?
rで語幹が終わるとすると、子音語幹動詞(ラ行五段活用動詞)と区別がつかなくなっちゃうんですよね。やっぱり
いる(居る)はi-ru
いる(要る)はir-u
というふうに見てあげた方が上手くいくと思います。
とても分かりやすい動画でした!
私はこの分野について明るくないので恐縮なのですが、「理由③ 後半」において説明されている「子音連続の回避」には違和感を感じました。私は日本語の受身の助動詞については、恐らく非過去形に "areru" がついた形だと推測しています(一段: taberu→tabereru, 五段: hanasu→hanasareru)。何か動画内の説明に用いられた参考文献等をお教えいただければ幸いです。
1年前の動画ですし、フォルダを見てみても論文PDFがあるわけもなかったので、具体的にこれを読んだとは申し上げられないのですが、母音/子音幹動詞の考え方で助動詞の接続を説明する方法を、何かしらのオープンアクセスの文献で読んだ記憶があります。
taberu→tabereru
は、その前の文から察するに
taberu→taberareru
の間違いでしょうか。
仰るような説明をすると、どのような点で合理的(都合が良い)のでしょうか。areru をつけてtaberareru になるのであれば、taberuはtaber-uというふうに分析されるということなのでしょうが、他の方のコメントへの返信でも書いたように、それはちょっと綺麗ではないと思うのです。
@@Gengo_No_Heya
ご返信ありがとうございます!
taberu→tabereruに関しては私のミスなのでこのコメントを書いたあとに訂正しておきます。ご指摘ありがとうございます!
また、私は当該コメントでは特に合理性の主張をした訳ではなく、あくまで「rareru」の起源に私の持論との違和感を感じたまでです。私も特に参考文献があってご意見させていただいた訳ではないのでお許しください!
ら抜き言葉の合理性の高さについては全くその通りだと思います。これからもご投稿頑張って下さい!
追記: コメントの編集機能が使えず訂正はできませんでした。
最近受け身でら抜きを使っている例をよく見かけます
そのうち「られる」が完全消滅するんじゃなかろうかと思いました
そんな人います?w
つべのコメ欄なんかで「さ抜き」はよく目にしますがw
@@miaocatvideos605 いやいるんですよ
体系化した文法を習っても口語となると一切考えてないんだなと思いました
@@Inunaki_Doraemon 世の中、バカばっかですからね
悲しいかな、それが現実なのです。。。w
@@miaocatvideos605 自分のことを見られた(受け身)ときに、見れた?て言ったシチュエーションを考えてみました。
(相手が)(自分のことを)見れた?という使い方をしていて、相手が可能なってるような気がします。俺の感覚では二人称ならギリギリ使うかな。わからん。
@@taki_huuko なるほど疑問文なら確かにそうなりますね
ただ私の聞いた誤用だと「彼に殴れた」みたいな感じだったので、主語の逆転ではなかったですね
理由③後半が独自なのだが、サ変動詞も統一的に説明することはできないか・・。
サ変動詞は、
可能以外→デキル
可能→デキル
というふうに、補充法を使った役割分担が既にできちゃってますねえ。
@@Gengo_No_Heya 「せられる」から「される」への音節縮約と、五段(四段)動詞に、いわゆる可能動詞が派生した現象とを統一的に処理できないかと考えたが(時期はどちらも近世)、前段は現代では可能の意味でないですね。もう少し整理します。
言語変化を全般に肯定する人がいるけれど、最近は「~です」のことを「~になります」と言うのも「整ってきている」のですか?「娘は10歳になります」は「近く10歳になる」のですか「すでに10歳である」のですか? もともと曖昧さが多い日本語に殴、さらに区別がつかなくなるような、意味や表現の変化は、情報論的に言えばせっかくできた秩序(約束事)に基づく情報伝達を乱す以外の何物でもないでしょう。プログラム言語なら、勝手に表現を曖昧にしたら、まともに動きません。
@@somethingyoulike9153 「続きを読む」をクリックすると全文が読めます。まあ、私は国語学の知識と問題意識がある教養人とやり取りしたいですが。例えば、「僕はウナギだ」は日本語としておかしいでしょ、と思う人とは対話が成立しません。
プログラムって意外と曖昧にしても動くけどな。
そもそも会話言語はプログラミング言語じゃないので
助動詞「れる」「られる」とは関係ない。
それでは可能の時にだけ「ら」を抜く理由が説明できない。
「得る」をつけて可能動詞を作り、
母音の連続を避けるため、
前の母音を消すか、または子音を挿入したもの
(荒磯:arAIso→arIso、春雨:harUAme→harUSAmeと同じ)。
話し得る hanasIEru→hanasEru 話せる
しゃべり得る syaberIEru→syaberEru しゃべれる
飲み得る nomIEru→nomEru 飲める
食べ得る tabEEru→tabEREru 食べれる
行き得る ikIEru→ikEru 行ける
来得る kOEru→kOREru 来れる
聞き得る kikIEru→kikEru 聞ける
見得る mIEru→mIREru 見れる
起き得る okIEru→okIREru 起きれる
寝得る nEEru→nEREru 寝れる
思い得る omoIEru→omoEru 思える
考え得る kangaEEru→kangaEREru 考えれる
疑い得る utagaIEru→utagaEru 疑える
信じ得る sinjIEru→sinjIREru 信じれる
「ら抜き言葉」ではなく「r入り言葉」。
「ら抜き」は若者が横着して「ら」の発音をサボっているという印象操作のために
どっかの学者が意図的に起源を捏造したプロパガンダ。
コメントありがとうございます。
・「ら抜き言葉」という表現には何ら問題はない
・可能の時にだけ「ら」を抜く理由も説明できている
・可能動詞やいわゆる「ら抜き言葉」の起源については、仰る説が正しいとは限らない
という3点から反論いたします。
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本動画で述べている内容や世間の「ら抜き言葉」という表現は、可能動詞の起源が何であるかに関わらず成立します。
まず、「食べれる」形を持たなかった変種がここ数十年の間でそれを認めるようになった、ということ自体は紛れもない事実です。
一部の方言に存在していた「食べれる」形の起源が何であれ、
これを持たなかった変種において「食べられる」が「食べれる」に変化しつつあるという事実を鑑みて、
この形態を「ら抜き言葉」と呼称することには何ら問題はないでしょう。
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また、
>それでは可能の時にだけ「ら」を抜く理由が説明できない
とのことですが、
本動画でも述べている通り、その点は「可能動詞をもつ五段動詞からの類推」の一言で説明ができます。
どうして五段動詞にのみ可能動詞が存在するのか、という点まで踏み込めば、仰るような「得る」起源説を持ち出すこともできます(次節参照)。
しかし、現代に起きている「ら抜き」現象を説明するには、「五段動詞からの類推」で十分です。
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そのうえ、可能動詞の起源については、
①文法化した「得る」が縮約した
という説以外にも、
②「四段未然+レル」が変化した
という説や、
③下二動詞「切るる>知るる」からの類推
という説が挙げられており、
貴殿の仰る①節のみが正しいとは断言できません。
また、「エル」の後接とそれに伴う子音の挿入によって「五段動詞の可能形」と「ら抜き言葉」の両方を説明しよう、という方法は、
そこまでたくさん例を挙げていただかずとも、
共時的な理論として私がこの動画の中で示しているものなのですが、ご覧になりましたか?
語幹の考え方は異なりますし、私の説明は共時的なものであって、動詞「得る」に由来するとする貴殿の説のような通時的なものではないという点も重要な差異ですが。
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さらに、「食べれる」形は、遅くとも100年前には一部の方言に存在しています。
首都圏方言における「ら抜き言葉」は、五段動詞からの類推ばかりでなく、
こういった方言形の影響も受けながら近年成立しつつあるものだと考えられます。
したがって、「ら抜き言葉」の究極的な起源は
A: 五段動詞(古くは四段動詞)のみがもつ可能形の起源
と
B: 一部の方言に存在していた「食べれる」形の起源
の両方を突き止めることによって得られるわけです。
しかし、前節で述べたようにAについても諸説あるうえ、
Aについての説明がBにも当てはめられるという確証もありません。
Aについて、①説が正しく、それがBにも当てはまるのだという論拠・出典があれば、ご教示いただければと存じます。