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ナレーションはこの映画で機関助士を務めた小沼さんが行いました小沼さんは蒸気機関車を降りたあとは電車の運転士や勝田駅の駅長を務めたらしいです2007年にNHK-BSでこの映画の同窓会があり、小沼さんも出席されています
上野駅8番線、当時をまだ残している姿を見て、ここに来てたんだとしみじみ思います。。
この映画、50年近くまえに観ました。中野文化センターで。(現中野ZERO ホール)鉄道記念日に関連したイベントでした。私は小学校5年ぐらいだったと思います。懐かしいです。ありがとうございました。
まだ小さい子供の頃父親とよく外出していた時に、常磐線北千住駅や上野駅でC62を見かけたが、特に北千住駅を通過するC62が来る時、親父が私の両耳を押さえて、汽笛の大騒音と考えていた父親が、私の耳を守るのであった。この記憶は鮮明で、目の前を通過して来るC62は黒い塊の凄い迫力映像は鮮明なのに、音の記憶は雑音になっています。段々と育ち大きくなると、鉄道ファンの鉄分が増えてきて、中学生くらいになると、何で親父はC62の通過音をきちんと聞かせないんだと、悔しい思いも遠い昔の笑い話の想い出になりました。C62は身近にいました。田端駅陸橋の上からも見た記憶があります。北海道のC623を再復活させて、救出してJR東日本やJR西日本と協力して、本州で走らせてもらいたいです。
往時の貴重な情報が詰まって居て大変に興味深く拝見致しました。三河島事故の証拠保全になったD51機、国分寺の鉄道学園、現役の米軍立川基地と米タン車、架線柱敷設直後だったり、取手駅のホームがコンクリート・タイル敷の常磐線、雪駄履きで転轍機テコの操作をする信号手、踏切に常駐する踏切手、何よりもマスコンを操作するだけで不自由無く加速出来て、安全装置の備わった今日の車両とは違った、燃料と水を人の手と加減で供給して熱と動力に変換する蒸気機関車って、凄いですよね。幾ら挙げてもキリがありません。本当に良質な記録映画だと思います。
昭和30年代小学生3年で横浜から水戸駅近くの線路そばに引っ越しました。水戸駅近くの懐かしい風景が映ってました。近くの踏切で、蒸気機関車にひかれたみちのくや特急はつかりの青い客車、そして地響きが伝わる常磐炭田からの石炭を運ぶ長い無蓋車の車列を見ていました。東京に行くときは気動車の準急ときわでしたが。
自分が生まれた2日後の画像!子供の頃蒸気機関車走ってたなぁ。
シロクニ懐かしいですね。私も昔は梅小路機関区でC62に乗務していたけど、昔は本線で当たり前のように走っていた蒸気機関車も、今や静態保存で街中の公園や、博物館で保存され、歴史は深いものですね
運転席の映像から逆転機がC62標準装備の動力式ではなく改造バージョンのネジ式であることが確認できて感動です。
列車防護訓練、線路傍の畑の私もやりました。今でこそ雷管や発炎筒は可搬式特発、軌道短絡器、沿線電話は携帯電話へ変わりませんがやることは変わりません。今も昔も全力ダッシュ、息も絶え絶えになりながら列車運転士役へ事象報告を行ったのもいい思い出です
私まだ1歳自分の先輩達です。私もS56年国鉄に入社昨年車掌乗務を退職しました。これが我が国鉄です。団結力があり機関士、機関助士の仕事です。私達も大宮の鉄道学園にて運転法規列車防護学びました。今のJRは時代ですが列車も駅も綺麗になり女性の社員が増え変わりましたね、国鉄時代は、本当に良かったです。国鉄職員時代の職員が日本全国のJRから退職です。なんか寂しいですね。
昔の団結 先輩に教わる なくなった です
やっぱり何やかんや言うても本物の機関士と本物の機関助士が本物の列車を運転してるんやから見応えあるのは当然やな
かっこいいなあ男の仕事だ!
15:55横を並走する子供たち
無邪気ですねえ
地元の子供達にとっては列車防護訓練も一大イベントだったのでしょうねぇ
@usiusa7991 スーツさんじゃないですか!!
高速走行でのブラスト音はもとより、電車区間でのすれ違いざまに聞こえるツリカケ音にも心が躍らされます。
上野発青森行き急行みちのく懐かしいです昭和38年頃一ノ関まで乗車したことあります、常磐線経由で途中まで電気機関車牽引でどこの駅か忘れましたが蒸気機関車牽引に変わりました
SL時代から常磐線=高速運転だったのか‼︎
あのシロクニも常磐線の歴史を語る上で大切な機関車だったんだ。
電気機関車やディーゼル機関車の補助無く時速90km以上で突っ走る姿は、今の動体保存機によるイベント列車では決して見られない光景ですね。
E657の走る常磐線は昔も速かったんですね。
三河島事故の翌年制作。国鉄のイメージアップも狙っていたんでしょうね。
うちの爺ちゃんも常磐線の運転士でしたが戦争行かなければ孫の私が観れたかな⁉️
35:15 荷物の仕分け風景見てるとこの時代に比べて現代は上品になりすぎた感がする
投炭、火床均し、復唱と身体も気持ちも張りつめた仕事だったのがよく判ります。
最高の鉄道映画。疲れた時、見に来てしまう。日立製作所に、またC62を製造してもらいたい。走らせれば、日本が元気になれる
D51よりもC62の方が速さという面において優れてますからね。私がC62を好きなのは速いからが一番最初の理由にあります。鉄道たるもの速さを求めよって。
JR東日本は蒸気機関車の出力を下げているので、シロクニがたとえ走ってもスピードは出さないんじゃないか?西日本には動態保存車がいますがどうも本線走行をすると軸焼けを起こすみたいです。直せないことはないのでなんとか直して全検を受けてほしいですが莫大な費用がかかるのではないか?クラウドファンディングでも募集すれば資金は集まりそうですが、果たしてどうか?
昭和がいいですね😊
28:25 かっこよすぎる
村山踏切…青梅線の村山街道踏切かな。東中神のすぐそこ。全面展望の風景的に右のフェンスの向こうが旧米軍立川基地跡地。
16:05 西立川駅と連絡を取っているので、青梅線の西立川〜東中神間のようです
いっせきーって、一関(いちのせき)のことかな。
いっせきーは国鉄の業務用語の略語として、一ノ関の事であります。
9:35 四ツ倉の危険な踏切で火薬を積んだ車が踏切内に停車していた。ギリギリのところでで停車。恐らく八茎鉱山か住友セメントで使用する為のダイナマイトかな。
30:07 すごい咥えタバコで運転してる。
35:00昭和37年では波平みたいなハットをかぶった人はいなかったんですね。
12:30 鉄道模型を使った訓練もあったんですね。
今ではプラレールでしょうね
8:37鹿島参宮鉄道(現関東鉄道)の路線バスだ。
国鉄が依頼したらいが途中三河島事故のカマ映った時国鉄側が反対したが映画会社が公開したとか
そうですね、国鉄によってはいろいろ痛い映像でしょう。特に当時の組織のナンバーワンとナンバーツーにとっては悪夢もいいところです。十河氏は洞爺丸事故で失脚した長崎惣之助の後塵を拝し「無事故」を標榜してきただけに「三河島事故」は相当なショックだったようです。そしてこの事故は、2代目加賀山之雄(ゆきお)と共に横浜線の桜木町事故で引責していた島 秀雄にとっても相当の衝撃だったでしょう。島は十河政権下 あまりに有名な初代新幹線車輛(0系)を設計担当した 国鉄きっての技術者です。国鉄を去った後 住友金属工業の取締役に就いていた島は、十河に請われて再度国鉄に招聘され、同組織内の事実上のナンバーツーである「技師長」に返り咲いていましたが、彼は此度も十河と共に引責辞任しています。十河と島は東海道新幹線開業を見送った後 揃って退陣する予定でしたが、大変 皮肉なことに「三河島事故」の勃発が彼らが思い描いていた花道に見事に水を刺しました。これに印象を悪くした政府が新幹線生みの親である十河に昭和38年3月 2期目満了まで僅か1年を残すのみの段階で「新幹線建設ゆえの」政府国鉄予算の「赤字」という非情な印籠を翳すに至ったのです。もっとも この事故さえなければ既に大方の形を見せていた最速200キロ毎時を超える高速度鉄道という世界的にも類例なき前人未到の偉業を前に「少々の赤字など安い」との楽観が 世論はおろか国会の趨勢をも依然として余裕で占有していたことでしょう。それが一瞬でひっくり返るわけですから、犠牲者を出す事故が世間に与える影響の大きさは計り知れません。なんてことはない。寝ぼけた運転士の凡ミス(赤信号無視)が招いたことでしょうが。ところが、十河は被害者(死者160名、重軽傷296名)の家を一軒一軒 廻っては自らの責任をまっとうしました。このような秀でた人格を表すトップは現在 なかなかいないでしょう。映像でも友部駅構内に 先行の貨物列車を退避させて数分後に「みちのく」が高速通過するカットがありましたが、ナレーションで「私たちの動きは各方面に伝わっている」なることを言っています。これぞ「列車無線」で、まさしく常磐線の三河島事故を教訓に いよいよ国鉄が全国の地方線を除く在来線(主要幹線、幹線、亜幹線)、そして主要新幹線(現在では新幹線と略される)に漸化 同システムの導入を急ぐことにつながっていきました。(それまでは信越本線の碓氷峠ぐらいしか導入歴がなかった)中島機関士、小沼機関助士にとって 自分たちと同線区の仲間の同僚の不注意による重大インシデントは、只ならぬ緊張感と責任感を いや増しに増幅させることになったでしょう。そんな心境が実に生々しく伝わってくる不謬のドキュメンタリー映像です。十河信二はこの事故に加えて前述の通り新幹線建設による予算不足と財政の悪化が致命に至り、この映画がリリースされた同じ年(昭和38年5月19日 日曜日)をもって総裁職を辞しています。(ただし、映画の撮影日である昭和37年10月12日の時点では老体鞭打つ十河が職務を懸命にまっとうしていました)実際に彼が丸の内の本社に最後に姿を見せたのは昭和38年5月17日 金曜日。彼は無念な心境を二つの俳句に詠託し、関係者に大いに惜しまれつつ国鉄を去りました。 二万キロ 鉄路伝いに 春の雷 老兵の 消えて跡なき 夏野かな今年は300系デビュー30年の節目。30年前の今頃、営業運転を間近に控えた平成4年3月9日 月曜日、東京駅14番線ホーム。滑り込むピカピカの300系をひと目見ようと公式試乗会に訪れた あまたの招待客や報道陣で賑わう雑踏の中に、杖をついた一人の高齢の男性が背中を丸めて小さく静かに立っていました。島 秀雄氏でした。秀雄の父 安次郎が設計担当したパシナやダブサ(広軌道規格 高速旅客蒸機)によって牽引された伝説の「あじあ」や「ひかり」に比べれば満鉄ではあまり目立たない存在だった「のぞみ」に 久方ぶりに陽の目がさし、しかも最速優等列車名称としての再帰を飾ったあの頃は、新幹線1号線(東京ー名古屋ー大阪)敷設の諸般を語る上で不可欠な生き証人が まだギリギリ存命だったことも 改めて記憶に留め置きたいところです。
25:12 アナゴ星人
訓練に使われたのは中央線の101系かな
既に中央快速線の旧型国電は他線区に転属した後だったので、中央線の101系しか使える車両がありませんでした。
18:26急行はすでに475系電車が投入されていたんだ。
こまかいことで申し訳ないですが、475系は交流60ヘルツ専用電車で正しくは50ヘルツ用の451系もしくは453系ですね!それに475系と455系 は勾配抑速ブレーキがついていて、昭和40年に誕生しています。
やったぜ
水戸まで1時間半ということは今とあまり変わらないな。
681系で1時間です
@@user-pu1ne5wj3d 681は走ってないんだよなあ
@@ton_ZENKY 485系もまだ登場していませんからね。
まあノンストップだしね。因みにE531の普通列車で特急の退避皆無ならば1時間45分で走破するやつもある。
@@user-pu1ne5wj3d651系?
ナレーションは川口浩さんかな
eekitreatment0 seconds agoでも常磐線三河島での二重衝突事故によって多くの乗客が亡くなった。一番の原因が上野発各駅列車が始発から五駅目にもかかわらず、既に三河島駅で十分近くの遅れを出した事だ。定刻通りに乗客を各駅で拾って置けばあんな事になrzなっかた。駅員が悪い。乗り遅れしそうな客など構わずに出発していれば、三河島駅近くに登り坂を上がって来た蒸気機関車に引っ張られていた貨物列車、南せんじゅ行き貨物列車はじかん通りだったが各駅列車が以上に遅れていたんので、可愛そうな貨物列車は信号機が赤。 荷物を引っ張り登り坂途中で留まるのは蒸気機関車にとって無理でした。そして合流地点で衝突。絶対に客車が遅れたのが悪いと思います。悲惨な大事故でした。
気動車化直前くらいの「急行みちのく」ですね。「水戸まで1時間半…」というナレーションがありますが、気動車化後も1時間40分くらい掛かってたはずなので、ちょっと盛っちゃったのかな?
盛ってるでしょうね。まず蒸気機関車牽引列車で動力分散方式の列車に勝つためには、ある程度の条件がそろわないと厳しい面がありますからね。既に蒸気斜陽時代の訪れを感じさせます。
時刻表 昭和30年2月号によると、202レ『みちのく』は水戸17:31発、途中土浦に停車、上野19:25到着。所要時間1時間46分ですね。さして昭和38年12月号によると、12レ『みちのく』は水戸17:20発、やはり途中土浦に停車して、上野19:09到着。所要時間1時間49分となってますね。劇中で現車10両、換算34両との引継ぎで『あまり重くないね』というやり取りがありましたが、撮影された昭和37年10月時点での編成は、仙台〜上野間は現車12両が所定だったので、おそらく閑散期で減車されていたのではないかと思われます。
祖重量が20系の比じゃないので音の迫力が違うな 終盤 常盤路の第2種踏切の通過は怖かっただろう
素晴らしい‼動画ありがとうございます‼これは、昭和何年頃ですか⁉分かったら教えてください⁉
昭和38年、1963年の映画です。
映像そのものは昭和37年10月12日 金曜日です
2:51どうやって撮影したの?並走?
上野ー水戸が1時間半ならかなりの爆走ぶりだと思います。
手元の昭和37年1月号の時刻表では水戸17:24発、土浦18:08分着、上野19:09分着とありました。遅れも考慮すると約1時間40分で表定速度は80キロに迫りますね。その後に誕生する電車急行のときわ号が同区間を平均1時間45分なので、C62牽引のみちのく号の爆走っぷりが際立ちます。
ストーカー止めてごらんと機関士が言った時の釜の中は、真っ白でなく、どす黒だった。完全燃焼できていない証だ。通風を効かせてもっと空気を取り入れた方が良い。
電車、リニア、車を廃止にして、蒸気機関車だけで、一本化して欲しい。
超貴重映像!👀C62急行みちのく、めちゃくちゃ早い!😲上野↔️水戸間ノンストップ。🙄今の時代のバーゲン特急よりも、はるかに優等列車。🤔もっと早く生まれて乗ってみたかった。😅
松戸停車です
485系ひたちに比べると、随分と遅い列車でしたけどね。485系は本気で走ればC62の最高速を大きく上回る性能を有しており、いわゆる新性能電車という分類だったので、あの当時の鉄道車両では画期的であり高性能なマシーンでした。この485系はそれまでの花形客車急行や特急を引きづり落とし、地位を確固たるものにしたという事で、鉄道ファンより大きく嫌われていました。ただ、性能は客レ急行や特急とは比べられない程速いです。
@@asokai2346 C62牽引の旧型客車急行と、485系の特急の絶対的な性能や速度を比較することにどういう意味が有りますか?485系の方が絶対的速度が早いのは当たり前です。
@@user-wb3wg3we8w 私はそれだけ進化したと言いたいだけなのですが。まずそもそもこの時代にもなって客車急行なんて走らせている時点で終わっているんですけどね。首都圏の鉄道各線では、電車でもアメリカから輸入してきたカルダン駆動方式を採用した新型電車が次々登場。最高速度も普通電車ですら100㎞/hで走れるというのに客車急行は条件が合わないと同じ速度で走る事が敵わないという優等列車と謳うのに普通電車に負ける列車とはこれ如何にです。寝台特急みたいな豪華設備もない、おまけに優等列車なのに冷房もない、既に終わった前衛的な列車だった訳ですよ。そーんな列車で高速道路が開通、乗用車との熾烈なシェア合戦に勝てるとお思いですか?この高度経済成長期以降の頃は高性能電車を主体とした動力分散方式の列車こそ、これ以降の列車のあるべき姿なんですよ。
煙草吸いながら運転なんて、今なら大問題だね。
凄いね懐中時計オメガだねセイコーよりも良いね
CSで鉄道開業150年特集で録画して見た。
ナレーションはこの映画で機関助士を務めた小沼さんが行いました
小沼さんは蒸気機関車を降りたあとは電車の運転士や勝田駅の駅長を務めたらしいです
2007年にNHK-BSでこの映画の同窓会があり、小沼さんも出席されています
上野駅8番線、当時をまだ残している姿を見て、ここに来てたんだとしみじみ思います。。
この映画、50年近くまえに観ました。中野文化センターで。(現中野ZERO ホール)鉄道記念日に関連したイベントでした。私は小学校5年ぐらいだったと思います。
懐かしいです。
ありがとうございました。
まだ小さい子供の頃父親とよく外出していた時に、常磐線北千住駅や上野駅でC62を見かけたが、特に北千住駅を通過するC62が来る時、親父が私の両耳を押さえて、汽笛の大騒音と考えていた父親が、私の耳を守るのであった。この記憶は鮮明で、目の前を通過して来るC62は黒い塊の凄い迫力映像は鮮明なのに、音の記憶は雑音になっています。
段々と育ち大きくなると、鉄道ファンの鉄分が増えてきて、中学生くらいになると、何で親父はC62の通過音をきちんと聞かせないんだと、悔しい思いも遠い昔の笑い話の想い出になりました。
C62は身近にいました。田端駅陸橋の上からも見た記憶があります。
北海道のC623を再復活させて、救出してJR東日本やJR西日本と協力して、本州で走らせてもらいたいです。
往時の貴重な情報が詰まって居て大変に興味深く拝見致しました。
三河島事故の証拠保全になったD51機、
国分寺の鉄道学園、
現役の米軍立川基地と米タン車、
架線柱敷設直後だったり、取手駅のホームがコンクリート・タイル敷の常磐線、
雪駄履きで転轍機テコの操作をする信号手、
踏切に常駐する踏切手、
何よりもマスコンを操作するだけで不自由無く加速出来て、安全装置の備わった今日の車両とは違った、燃料と水を人の手と加減で供給して熱と動力に変換する蒸気機関車って、凄いですよね。
幾ら挙げてもキリがありません。
本当に良質な記録映画だと思います。
昭和30年代小学生3年で横浜から水戸駅近くの線路そばに引っ越しました。
水戸駅近くの懐かしい風景が映ってました。
近くの踏切で、蒸気機関車にひかれたみちのくや特急はつかりの青い客車、そして地響きが伝わる常磐炭田からの石炭を運ぶ長い無蓋車の車列を見ていました。東京に行くときは気動車の準急ときわでしたが。
自分が生まれた2日後の画像!
子供の頃蒸気機関車走ってたなぁ。
シロクニ懐かしいですね。私も昔は梅小路機関区でC62に乗務していたけど、
昔は本線で当たり前のように走っていた蒸気機関車も、今や静態保存で街中の公園や、博物館で保存され、歴史は深いものですね
運転席の映像から逆転機がC62標準装備の動力式ではなく改造バージョンのネジ式であることが確認できて感動です。
列車防護訓練、線路傍の畑の私もやりました。
今でこそ雷管や発炎筒は可搬式特発、軌道短絡器、沿線電話は携帯電話へ変わりませんがやることは変わりません。
今も昔も全力ダッシュ、息も絶え絶えになりながら列車運転士役へ事象報告を行ったのもいい思い出です
私まだ1歳自分の先輩達です。私もS56年国鉄に入社昨年車掌乗務を退職しました。これが我が国鉄です。
団結力があり機関士、機関助士の仕事です。私達も大宮の鉄道学園にて運転法規列車防護学びました。今のJRは時代ですが列車も駅も綺麗になり女性の社員が増え変わりましたね、国鉄時代は、本当に良かったです。国鉄職員時代の職員が日本全国のJRから退職です。なんか寂しいですね。
昔の団結 先輩に教わる なくなった です
やっぱり何やかんや言うても
本物の機関士と本物の機関助士が
本物の列車を運転してるんやから
見応えあるのは当然やな
かっこいいなあ
男の仕事だ!
15:55横を並走する子供たち
無邪気ですねえ
地元の子供達にとっては列車防護訓練も一大イベントだったのでしょうねぇ
@usiusa7991 スーツさんじゃないですか!!
高速走行でのブラスト音はもとより、電車区間でのすれ違いざまに聞こえるツリカケ音にも心が躍らされます。
上野発青森行き急行みちのく懐かしいです昭和38年頃一ノ関まで乗車したことあります、常磐線経由で途中まで電気機関車牽引でどこの駅か忘れましたが蒸気機関車牽引に変わりました
SL時代から常磐線=高速運転だったのか‼︎
あのシロクニも常磐線の歴史を語る上で大切な機関車だったんだ。
電気機関車やディーゼル機関車の補助無く時速90km以上で突っ走る姿は、今の動体保存機によるイベント列車では決して見られない光景ですね。
E657の走る常磐線は昔も速かったんですね。
三河島事故の翌年制作。国鉄のイメージアップも狙っていたんでしょうね。
うちの爺ちゃんも常磐線の運転士でしたが戦争行かなければ孫の私が観れたかな⁉️
35:15 荷物の仕分け風景見てるとこの時代に比べて現代は上品になりすぎた感がする
投炭、火床均し、復唱と身体も気持ちも張りつめた仕事だったのがよく判ります。
最高の鉄道映画。疲れた時、見に来てしまう。日立製作所に、またC62を製造してもらいたい。走らせれば、日本が元気になれる
D51よりもC62の方が速さという面において優れてますからね。私がC62を好きなのは速いからが一番最初の理由にあります。鉄道たるもの速さを求めよって。
JR東日本は蒸気機関車の出力を下げているので、シロクニがたとえ走ってもスピードは出さないんじゃないか?西日本には動態保存車がいますがどうも本線走行をすると軸焼けを起こすみたいです。直せないことはないのでなんとか直して全検を受けてほしいですが莫大な費用がかかるのではないか?クラウドファンディングでも募集すれば資金は集まりそうですが、果たしてどうか?
昭和がいいですね😊
28:25 かっこよすぎる
村山踏切…青梅線の村山街道踏切かな。東中神のすぐそこ。全面展望の風景的に右のフェンスの向こうが旧米軍立川基地跡地。
16:05 西立川駅と連絡を取っているので、青梅線の西立川〜東中神間のようです
いっせきーって、一関(いちのせき)のことかな。
いっせきーは国鉄の業務用語の略語として、一ノ関の事であります。
9:35 四ツ倉の危険な踏切で火薬を積んだ車が踏切内に停車していた。ギリギリのところでで停車。恐らく八茎鉱山か住友セメントで使用する為のダイナマイトかな。
30:07 すごい咥えタバコで運転してる。
35:00
昭和37年では波平みたいなハットをかぶった人はいなかったんですね。
12:30 鉄道模型を使った訓練もあったんですね。
今ではプラレールでしょうね
8:37鹿島参宮鉄道(現関東鉄道)の路線バスだ。
国鉄が依頼したらいが途中三河島事故のカマ映った時国鉄側が反対したが映画会社が公開したとか
そうですね、国鉄によってはいろいろ痛い映像でしょう。
特に当時の組織のナンバーワンとナンバーツーにとっては悪夢もいいところです。
十河氏は洞爺丸事故で失脚した長崎惣之助の後塵を拝し「無事故」を標榜してきただけに「三河島事故」は相当なショックだったようです。そしてこの事故は、2代目加賀山之雄(ゆきお)と共に横浜線の桜木町事故で引責していた島 秀雄にとっても相当の衝撃だったでしょう。島は十河政権下 あまりに有名な初代新幹線車輛(0系)を設計担当した 国鉄きっての技術者です。国鉄を去った後 住友金属工業の取締役に就いていた島は、十河に請われて再度国鉄に招聘され、同組織内の事実上のナンバーツーである「技師長」に返り咲いていましたが、彼は此度も十河と共に引責辞任しています。十河と島は東海道新幹線開業を見送った後 揃って退陣する予定でしたが、大変 皮肉なことに「三河島事故」の勃発が彼らが思い描いていた花道に見事に水を刺しました。これに印象を悪くした政府が新幹線生みの親である十河に昭和38年3月 2期目満了まで僅か1年を残すのみの段階で「新幹線建設ゆえの」政府国鉄予算の「赤字」という非情な印籠を翳すに至ったのです。もっとも この事故さえなければ既に大方の形を見せていた最速200キロ毎時を超える高速度鉄道という世界的にも類例なき前人未到の偉業を前に「少々の赤字など安い」との楽観が 世論はおろか国会の趨勢をも依然として余裕で占有していたことでしょう。それが一瞬でひっくり返るわけですから、犠牲者を出す事故が世間に与える影響の大きさは計り知れません。なんてことはない。寝ぼけた運転士の凡ミス(赤信号無視)が招いたことでしょうが。
ところが、十河は被害者(死者160名、重軽傷296名)の家を一軒一軒 廻っては自らの責任をまっとうしました。このような秀でた人格を表すトップは現在 なかなかいないでしょう。
映像でも友部駅構内に 先行の貨物列車を退避させて数分後に「みちのく」が高速通過するカットがありましたが、ナレーションで「私たちの動きは各方面に伝わっている」なることを言っています。これぞ「列車無線」で、まさしく常磐線の三河島事故を教訓に いよいよ国鉄が全国の地方線を除く在来線(主要幹線、幹線、亜幹線)、そして主要新幹線(現在では新幹線と略される)に漸化 同システムの導入を急ぐことにつながっていきました。(それまでは信越本線の碓氷峠ぐらいしか導入歴がなかった)
中島機関士、小沼機関助士にとって 自分たちと同線区の仲間の同僚の不注意による重大インシデントは、只ならぬ緊張感と責任感を いや増しに増幅させることになったでしょう。そんな心境が実に生々しく伝わってくる不謬のドキュメンタリー映像です。
十河信二はこの事故に加えて前述の通り新幹線建設による予算不足と財政の悪化が致命に至り、この映画がリリースされた同じ年(昭和38年5月19日 日曜日)をもって総裁職を辞しています。(ただし、映画の撮影日である昭和37年10月12日の時点では老体鞭打つ十河が職務を懸命にまっとうしていました)
実際に彼が丸の内の本社に最後に姿を見せたのは昭和38年5月17日 金曜日。彼は無念な心境を二つの俳句に詠託し、関係者に大いに惜しまれつつ国鉄を去りました。
二万キロ
鉄路伝いに
春の雷
老兵の
消えて跡なき
夏野かな
今年は300系デビュー30年の節目。
30年前の今頃、営業運転を間近に控えた平成4年3月9日 月曜日、東京駅14番線ホーム。滑り込むピカピカの300系をひと目見ようと公式試乗会に訪れた あまたの招待客や報道陣で賑わう雑踏の中に、杖をついた一人の高齢の男性が背中を丸めて小さく静かに立っていました。島 秀雄氏でした。
秀雄の父 安次郎が設計担当したパシナやダブサ(広軌道規格 高速旅客蒸機)によって牽引された伝説の「あじあ」や「ひかり」に比べれば満鉄ではあまり目立たない存在だった「のぞみ」に 久方ぶりに陽の目がさし、しかも最速優等列車名称としての再帰を飾ったあの頃は、新幹線1号線(東京ー名古屋ー大阪)敷設の諸般を語る上で不可欠な生き証人が まだギリギリ存命だったことも 改めて記憶に留め置きたいところです。
25:12 アナゴ星人
訓練に使われたのは中央線の101系かな
既に中央快速線の旧型国電は他線区に転属した後だったので、中央線の101系しか使える車両がありませんでした。
18:26急行はすでに475系電車が投入されていたんだ。
こまかいことで申し訳ないですが、475系は交流60ヘルツ専用電車で正しくは50ヘルツ用の451系もしくは453系ですね!それに475系と455系 は勾配抑速ブレーキがついていて、昭和40年に誕生しています。
やったぜ
水戸まで1時間半ということは今とあまり変わらないな。
681系で1時間です
@@user-pu1ne5wj3d 681は走ってないんだよなあ
@@ton_ZENKY 485系もまだ登場していませんからね。
まあノンストップだしね。
因みにE531の普通列車で特急の退避皆無ならば1時間45分で走破するやつもある。
@@user-pu1ne5wj3d651系?
ナレーションは川口浩さんかな
eekitreatment
0 seconds ago
でも常磐線三河島での二重衝突事故によって多くの乗客が亡くなった。一番の原因が上野発各駅列車が始発から五駅目にもかかわらず、既に三河島駅で十分近くの遅れを出した事だ。定刻通りに乗客を各駅で拾って置けばあんな事になrzなっかた。駅員が悪い。乗り遅れしそうな客など構わずに出発していれば、三河島駅近くに登り坂を上がって来た蒸気機関車に引っ張られていた貨物列車、南せんじゅ行き貨物列車はじかん通りだったが各駅列車が以上に遅れていたんので、可愛そうな貨物列車は信号機が赤。 荷物を引っ張り登り坂途中で留まるのは蒸気機関車にとって無理でした。そして合流地点で衝突。絶対に客車が遅れたのが悪いと思います。悲惨な大事故でした。
気動車化直前くらいの「急行みちのく」ですね。
「水戸まで1時間半…」というナレーションがありますが、気動車化後も1時間40分くらい掛かってたはずなので、ちょっと盛っちゃったのかな?
盛ってるでしょうね。まず蒸気機関車牽引列車で動力分散方式の列車に勝つためには、ある程度の条件がそろわないと厳しい面がありますからね。既に蒸気斜陽時代の訪れを感じさせます。
時刻表 昭和30年2月号によると、
202レ『みちのく』は水戸17:31発、途中土浦に停車、上野19:25到着。
所要時間1時間46分ですね。
さして昭和38年12月号によると、
12レ『みちのく』は水戸17:20発、やはり途中土浦に停車して、上野19:09到着。
所要時間1時間49分となってますね。
劇中で現車10両、換算34両との引継ぎで『あまり重くないね』というやり取りがありましたが、撮影された昭和37年10月時点での編成は、仙台〜上野間は現車12両が所定だったので、おそらく閑散期で減車されていたのではないかと思われます。
祖重量が20系の比じゃないので音の迫力が違うな 終盤 常盤路の第2種踏切の通過は怖かっただろう
素晴らしい‼動画ありがとうございます‼これは、昭和何年頃ですか⁉分かったら教えてください⁉
昭和38年、1963年の映画です。
映像そのものは昭和37年10月12日 金曜日です
2:51
どうやって撮影したの?並走?
上野ー水戸が1時間半ならかなりの爆走ぶりだと思います。
手元の昭和37年1月号の時刻表では水戸17:24発、土浦18:08分着、上野19:09分着とありました。遅れも考慮すると約1時間40分で表定速度は80キロに迫りますね。その後に誕生する電車急行のときわ号が同区間を平均1時間45分なので、C62牽引のみちのく号の爆走っぷりが際立ちます。
ストーカー止めてごらんと機関士が言った時の釜の中は、真っ白でなく、どす黒だった。完全燃焼できていない証だ。通風を効かせてもっと空気を取り入れた方が良い。
電車、リニア、車を廃止にして、蒸気機関車だけで、一本化して欲しい。
超貴重映像!👀
C62急行みちのく、めちゃくちゃ早い!😲
上野↔️水戸間ノンストップ。🙄
今の時代のバーゲン特急よりも、はるかに優等列車。🤔
もっと早く生まれて乗ってみたかった。😅
松戸停車です
485系ひたちに比べると、随分と遅い列車でしたけどね。485系は本気で走ればC62の最高速を大きく上回る性能を有しており、いわゆる新性能電車という分類だったので、あの当時の鉄道車両では画期的であり高性能なマシーンでした。この485系はそれまでの花形客車急行や特急を引きづり落とし、地位を確固たるものにしたという事で、鉄道ファンより大きく嫌われていました。ただ、性能は客レ急行や特急とは比べられない程速いです。
@@asokai2346
C62牽引の旧型客車急行と、485系の特急の絶対的な性能や速度を比較することにどういう意味が有りますか?
485系の方が絶対的速度が早いのは当たり前です。
@@user-wb3wg3we8w 私はそれだけ進化したと言いたいだけなのですが。まずそもそもこの時代にもなって客車急行なんて走らせている時点で終わっているんですけどね。首都圏の鉄道各線では、電車でもアメリカから輸入してきたカルダン駆動方式を採用した新型電車が次々登場。最高速度も普通電車ですら100㎞/hで走れるというのに客車急行は条件が合わないと同じ速度で走る事が敵わないという優等列車と謳うのに普通電車に負ける列車とはこれ如何にです。寝台特急みたいな豪華設備もない、おまけに優等列車なのに冷房もない、既に終わった前衛的な列車だった訳ですよ。そーんな列車で高速道路が開通、乗用車との熾烈なシェア合戦に勝てるとお思いですか?この高度経済成長期以降の頃は高性能電車を主体とした動力分散方式の列車こそ、これ以降の列車のあるべき姿なんですよ。
煙草吸いながら運転なんて、今なら大問題だね。
凄いね
懐中時計
オメガだね
セイコーよりも
良いね
CSで鉄道開業150年特集で録画して見た。