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雪崩復旧後、1番列車が通過する時に運転士も乗客も作業員たちを労ってるいたのには感動した😊
蒸機が活躍していた時代の尾久の映像も素晴らしいですが、なにより雪崩で足止めを食った乗務員や乗客の、復旧作業員への感謝の気持ちが感動的です。この映画の場面はおそらく撮影用の演出でしょうが、技術の進歩とともに現代人が無くしてしまった人間としての思いやりや忍耐力を感じます。
旅客、貨物、郵便車…。まだまだ鐵道が主役の時代、鐵道マンに対する,人々の信頼感が篤かったと思います。明治や大正世代の戦中派が現役バリバリの頃。専門職に対する敬意が、普通に払われていましたよね。貧しかったけれど、戦後復興に皆さん,日本中が頑張ってました。保線区:従事の、亡父·亡兄を偲ぶ事出来ます。本当に貴重な動画up!!有り難うございます。
昭和48年国鉄に就職しました、懐かしいです
最期の復旧作業員の方々に、乗客までもが窓を開けて手を振っているのが印象的。どんなサービスもあって当然と思いこんで、クレームばかり付ける現代。失ったものの大きさもわかる良い動画でした。
演出だよ
演出でもええじゃありませんか。
演出でも良いねえ
これを観て、演出だとか、つまんない奴がいたもんだ演出に決まってんだろ何にでも難癖つける世代なのか
@@futureohno8830 だろうな…😵
上野駅、今でも同じ建物使ってるけど中は随分変わったなぁ。塗装や壁一枚後ろには面影残ってるのかな。。。?アナログの時代は苦労も多かったのだろうと十分分かります。貴重な映像、ありがとうございます♪
コンピューターもインターネットも存在しない時代、よくこれだけのことを統括できたと思います
ここに映る人達は皆、戦争を経験し、今自分が生きている事がどれほど貴重であることかを知っいるからこそ、生きる事も何事にも一所懸命で他者を思いやることができるのでしょう。良くも悪くも今の時代とは全く違う世界です。
敗戦後7年でこれだけ発展してるの凄いね。満鉄帰りの人も多かったのかな?
当時の駅員さんのアナウンスは、現在のものと比べると、まるで歌っているかのよう。聴き取りやすく、記憶に残りやすい。駅員さんそれぞれに名調子があったのか、こういう話し方をするよう指導されていたのか分かりませんが。電光掲示板など当然無いので、駅員のアナウンスの重要度は、今よりも高かったのではと推察します。
流石に大きい駅だけだと思いますが、この人がアップロードしている乗車券 昭和15年という動画に電光掲示板が写っているシーンがありました
子供の頃よく乗った旧式客車が懐かしい。今は鉄博ぐらいでしかお目にかかれ無くなった!
Ein sehr interessanter Film, vielen Dank. Ich kann kein Wort verstehen und diese fantastische Schrift nicht lesen, sie ist ein Kunstwerk in meinen Augen. Grüße aus Deutschland in der Nähe von Stuttgart.
白黒の動画がSLが一番昭和懐かしい雰囲気が味あえて最高です。
8:58〜上野12:30発の急行 新潟行きは701レ「越路」ですね。推進運転で入線してくる先頭は、戦災復旧車の70系の荷物車。10:35〜C62牽引で出発してゆく列車は、常磐線の上野16:05発の203レ急行「きたかみ」でしょうか。最後尾は電車からの戦災復旧車のスニ73 19[仙セン]。元はモハ31012だった車両ですね。戦災復旧でオハ70 68となったあと、スニ73に再改造されました。尾灯が気持ち悪い場所に設置されてますね。
9:00「ジュウニジ〜サンジュップンハツ〜・・・」の言い方が、カルタの読み人のようでなんか好き(*´∀`*)
駅の場内アナウンスに風情を感じる
昔の人めっちゃ頭が良かったんだね!(今の人もそうやけど)今は重機の餌になってる機関車たちがこの頃はまだこんなに活躍してたんだな。
客車列車全盛時代、スハ43が新車の頃ですね。映像に出てくるスハフ32 146は、小金井公園で保存されてます。
精密機器のない時代でも定時運行を目標に頑張っていたからこそ、今の秒単位の運行の基礎になったと感じました
18:50〜除雪作業員と乗客が声を掛け合う姿を見ると、旧ソビエトのプロパガンダ映画のように見える🤣
手元の時刻表復刻版(1953年3月号)と一緒に見ると、このような映像によって、より雰囲気を感じることができますね。
分業しながら、立派に仕事してますね。
19:00 やらせかもしれないが、こういうのうれしいよな。お互い。
19:00 😉
雪崩発生から復旧まで、この時代には迅速だったと思います、この映画から11年後の「38豪雪」の際も、大幅な遅れが発生したと聞いています。ちなみに、私はその「38豪雪」の年に生まれました。
現在と昭和27年の気温差はとんでもない事になってますね。昔は熱いと言っても日陰に入ったりして涼む事が出来た。今は熱中症でそのまま昇天😂。豪雪は昔の方が多かったのでしょう。
ありがとうございます。見れて嬉しいです。
雪崩で4時間の遅延、今の世の中なら罵声の嵐でしょう。例えやらせで遅延の際は雪崩に対処した鉄道マンを、こういう大きな心で労ってあげて下さい的なプロパガンダ映像だとしても当時の人は笑顔で応じたと思います。貧しくても心は豊かだったから。7:36 左側が運転士で右側の助役さんかな?助役さん敬礼が海軍式ですね。
生まれた年だから懐かしいよ
人海戦術ってすごいですね
雪崩を復旧させた人たちに感謝する乗客。いまなら罵声の嵐だろう。人が優しい時代だったんだな。
ありきたりですが、心と心のふれあいを感じました。いい時代だったんですね。
主語がでかくすることを好む上に妄想癖がある、そういう人たちのことをなんと呼ぶのでしょうか
支障が起きると「なんとかしろよ」って詰め寄って何とかなったらお礼もない人が増えた感じがする。
この頃に比べ日本は経済的には豊かになったが、人々の心は貧しくなってしまった。
反証可能性のない回顧主義的が罷り通る。こんな妄言に違和感を感じないのならば、それこそ教育の敗北。
この頃の戦中世代が頑張って下さったおかげで、今の日本がありますその後の世代は、この方々の頑張りを、食い潰したに過ぎません…
↑食い潰したオッサン😁
鉄道の東京〜大阪間の設営。当初は現在の中央線区間が優先的に建設されていた。東海道区間は当時は海運が盛んなことと外国からの攻撃に脆弱との反対意見が。しかし当時の政府が工事費が膨大になり始めたため東海道区間を優先に途中から切り替えた。
14:52 字上手い!書き順は独特だが。
雪崩に関する処でBGMに使われているのはオネゲルの「パシフィック231」ですね。
当時の座席予約システムは人海戦術でやってたね((((;゜Д゜)))まだマルスができる前
11:11 10年後のゴールデンウイークに気をつけろ!
だが、令和の現代も雪で止まる事実
12時30分上野発新潟行き急行、越路でしょうかね。
保線区の人達はさぞかしやりがいがあっただろう。
定期運行の旅客列車としての蒸気機関車が幕を閉じたのは昭和50年12月、当時13歳だったが一度も乗ることはなかった。両親の話を聞くと窓を開けっ放しにしておくとトンネルに入る時、煙が車内に充満してしまい慌てて窓を閉めたのだそうです。現在観光用として蒸気機関車が復活してところもあるが、大方観光客なのであくまで私見ですが、あまり興味が湧いてこない。かつて通学,通勤に使っていた生活感が漂ってこないからである。もしこの時代に戻れることが出来るならば何食わぬ顔して乗ってみたい気もする。発車時汽笛を3回鳴らしていたのは「さよなら~」「ごきげんよう」と見送りの人達に伝えた合図だそうです。一度も乗ったこともないくせに「ボォー」という汽笛を聞くと、なんとも言えない郷愁感漂う響きが感じられ、とても心地よい。
タイタンパーでバラストを整地していた場所は東海道線大船駅の南側ですね。線路配置で判りました。横須賀線上り線ですね。
保線区だけで4万人とは驚くな、雪崩の復旧作業も人海戦術だし人件費を考えると国鉄はいかに非効率だったか。
ある意味非常時には人海戦術は有りだよ。
蒸気機関車の煤で車体や車内が汚れるのはわかるけど・・・。5:30あたり、当時は車両の床にゴミを投げ散らかしていたんですね・・・
国鉄は仕事してたよ。そりゃJRはやっていないのか?と言う意味では無い。職員が駅でタバコ吸って荷卸し待っているとか、今の時代では完全NGだが「列車を安全に時刻通りに走らせる」という至難の技を職員同士が共有し走らせていた。何かこうJRに変わってから表だけキレイにという感が否めない。大雪降ったら一晩中休みなく釜を走らせて線路を確保したものよ。仕事してたね。晩年、組織は腐りきっていたが、個々はプライドを持っていた。「俺は鉄道マンだ!」と言う。今、その様なプライドが見えない。呆気ないなJRは。
そりゃ、民営化されて公務員から会社員になったようなものですからね。
でも一般客からしたらJRの方がましだろうな…😵
@@psychedelicraspberry517 さん会社を跨ぐときの不便さ。西から東海に乗り換える米原駅に遅延が発生しようなら、改札で乗客の大行列。そりゃそうですわ、在来線車内放送で「詳しくは駅職員にお聞きください」という半ば責任放棄。同じ線路で走っているのだから、行政みたく管轄外は知らん・・はないですよね。
@@scarlet7000 でも一般客は大阪→東京は新幹線🚅やろうな…😉
@@psychedelicraspberry517 さんそうですね。そもそも昼行で東京・大阪間の直通はありませんからね。在来〜新幹線またはその逆のパターンなのですよ。エラー時の対応は遥かに国鉄のが良かったですね。
5:32 もしかして車内に捨てられたゴミ?
今の人より、頭を使っているボケる暇が無い
語りは圓歌師匠でしょうか。
いや吃りで使えなかったから、無理
客の荷物放り投げて草
ヤマトでもやってたよ😁
電話の呼びかけが「もしもー」。最後の「し」は言わないんだ。
マニ71にブヒった
昭和27年はまだ占領されてたのかな
No !
1952年 昭和27年 4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効 奄美大島、沖縄県 小笠原諸島は🇺🇸アメリカ合衆国占領下だが、独立は回復していた。
昭和22年の生まれで、都下M市に住んでいたが、物心付いた頃には、戦災の傷跡のような物は殆ど見た記憶は無い。
客車のゴミに驚きました
私たちが子供の頃、年配の大人の人からは「食べがらはちゃんと座席の下に片付けるのが礼儀だ」と教わりました。当時は車内にいる時間も長いので、ゴミ箱だと入り切らないのかも。
@@稲荷恵比寿 どんな取り組みでゴミを床に捨てなくなったのでしょうかね衛生面で感染症予防からでしょうかゴミ箱を置くようにしたからでしょうか‥
この雰囲気を味わうのには、中国大陸の長距離列車に乗らないとw客がぎゅうぎゅうなのに竹箒でゴミを押しよけて山にしてるよ。
@@nichihon 様 ゴミ箱が車内に設置されるようになったからじゃないかな?ベトナムなんかローカル飲食店でもゴミは床。結構小洒落たカフェで綺麗な女性もポイって捨ててます。
@@sunami808 日本は神社も清潔に皆さんで掃除されてきた精神文化だから、汚れには気を使えるのかな
チッキ
人から預かった荷物投げるんじゃねーよ。
最近までごく普通の光景。丁寧に何て量と重量と時間から見てもできないよ
любопытно, многие надписи переведены на английский, наверно это связано с американской оккупацией
私はあなたを愛していますjc
鉄道のひとたちって鉄オタのことにも読めるね
雪崩復旧後、1番列車が通過する時に運転士も乗客も作業員たちを労ってるいたのには感動した😊
蒸機が活躍していた時代の尾久の映像も素晴らしいですが、なにより雪崩で足止めを食った乗務員や乗客の、復旧作業員への感謝の気持ちが感動的です。この映画の場面はおそらく撮影用の演出でしょうが、技術の進歩とともに現代人が無くしてしまった人間としての思いやりや忍耐力を感じます。
旅客、貨物、郵便車…。まだまだ鐵道が主役の時代、鐵道マンに対する,人々の信頼感が篤かったと思います。明治や大正世代の戦中派が現役バリバリの頃。専門職に対する敬意が、普通に払われていましたよね。貧しかったけれど、戦後復興に皆さん,日本中が頑張ってました。保線区:従事の、亡父·亡兄を偲ぶ事出来ます。本当に貴重な動画up!!有り難うございます。
昭和48年国鉄に就職しました、懐かしいです
最期の復旧作業員の方々に、乗客までもが窓を開けて手を振っているのが印象的。
どんなサービスもあって当然と思いこんで、クレームばかり付ける現代。
失ったものの大きさもわかる良い動画でした。
演出だよ
演出でもええじゃありませんか。
演出でも良いねえ
これを観て、演出だとか、つまんない奴がいたもんだ
演出に決まってんだろ
何にでも難癖つける世代なのか
@@futureohno8830 だろうな…😵
上野駅、今でも同じ建物使ってるけど中は随分変わったなぁ。
塗装や壁一枚後ろには面影残ってるのかな。。。?
アナログの時代は苦労も多かったのだろうと十分分かります。
貴重な映像、ありがとうございます♪
コンピューターもインターネットも存在しない時代、よくこれだけのことを統括できたと思います
ここに映る人達は皆、戦争を経験し、今自分が生きている事がどれほど貴重であることかを知っいるからこそ、生きる事も何事にも一所懸命で他者を思いやることができるのでしょう。
良くも悪くも今の時代とは全く違う世界です。
敗戦後7年でこれだけ発展してるの凄いね。
満鉄帰りの人も多かったのかな?
当時の駅員さんのアナウンスは、現在のものと比べると、まるで歌っているかのよう。
聴き取りやすく、記憶に残りやすい。
駅員さんそれぞれに名調子があったのか、こういう話し方をするよう指導されていたのか分かりませんが。
電光掲示板など当然無いので、駅員のアナウンスの重要度は、今よりも高かったのではと推察します。
流石に大きい駅だけだと思いますが、この人がアップロードしている乗車券 昭和15年という動画に電光掲示板が写っているシーンがありました
子供の頃よく乗った旧式客車が懐かしい。今は鉄博ぐらいでしかお目にかかれ無くなった!
Ein sehr interessanter Film, vielen Dank. Ich kann kein Wort verstehen und diese fantastische Schrift nicht lesen, sie ist ein Kunstwerk in meinen Augen. Grüße aus Deutschland in der Nähe von Stuttgart.
白黒の動画がSLが一番昭和懐かしい雰囲気が味あえて最高です。
8:58〜上野12:30発の急行 新潟行きは701レ「越路」ですね。
推進運転で入線してくる先頭は、戦災復旧車の70系の荷物車。
10:35〜C62牽引で出発してゆく列車は、常磐線の上野16:05発の203レ急行「きたかみ」でしょうか。
最後尾は電車からの戦災復旧車のスニ73 19[仙セン]。
元はモハ31012だった車両ですね。
戦災復旧でオハ70 68となったあと、スニ73に再改造されました。
尾灯が気持ち悪い場所に設置されてますね。
9:00
「ジュウニジ〜サンジュップンハツ〜・・・」の言い方が、カルタの読み人のようでなんか好き(*´∀`*)
駅の場内アナウンスに風情を感じる
昔の人めっちゃ頭が良かったんだね!(今の人もそうやけど)
今は重機の餌になってる機関車たちがこの頃はまだこんなに活躍してたんだな。
客車列車全盛時代、スハ43が新車の頃ですね。映像に出てくるスハフ32 146は、小金井公園で保存されてます。
精密機器のない時代でも定時運行を目標に頑張っていたからこそ、今の秒単位の運行の基礎になったと感じました
18:50〜
除雪作業員と乗客が声を掛け合う姿を見ると、旧ソビエトのプロパガンダ映画のように見える🤣
手元の時刻表復刻版(1953年3月号)と一緒に見ると、このような映像によって、より雰囲気を感じることができますね。
分業しながら、立派に仕事してますね。
19:00 やらせかもしれないが、こういうのうれしいよな。お互い。
19:00 😉
雪崩発生から復旧まで、この時代には迅速だったと思います、この映画から11年後の「38豪雪」の際も、大幅な遅れが発生したと聞いています。
ちなみに、私はその「38豪雪」の年に生まれました。
現在と昭和27年の気温差はとんでもない事になってますね。昔は熱いと言っても日陰に入ったりして涼む事が出来た。今は熱中症でそのまま昇天😂。豪雪は昔の方が多かったのでしょう。
ありがとうございます。見れて嬉しいです。
雪崩で4時間の遅延、今の世の中なら罵声の嵐でしょう。
例えやらせで遅延の際は雪崩に対処した鉄道マンを、こういう大きな心で労ってあげて下さい的なプロパガンダ映像だとしても当時の人は笑顔で応じたと思います。貧しくても心は豊かだったから。
7:36 左側が運転士で右側の助役さんかな?助役さん敬礼が海軍式ですね。
生まれた年だから懐かしいよ
人海戦術ってすごいですね
雪崩を復旧させた人たちに感謝する乗客。いまなら罵声の嵐だろう。人が優しい時代だったんだな。
ありきたりですが、心と心のふれあいを感じました。いい時代だったんですね。
主語がでかくすることを好む上に妄想癖がある、そういう人たちのことをなんと呼ぶのでしょうか
支障が起きると「なんとかしろよ」って詰め寄って何とかなったらお礼もない人が増えた感じがする。
この頃に比べ日本は経済的には豊かになったが、人々の心は貧しくなってしまった。
反証可能性のない回顧主義的が罷り通る。こんな妄言に違和感を感じないのならば、それこそ教育の敗北。
この頃の戦中世代が頑張って下さったおかげで、今の日本があります
その後の世代は、この方々の頑張りを、食い潰したに過ぎません…
↑食い潰したオッサン😁
鉄道の東京〜大阪間の設営。
当初は現在の中央線区間が優先的に建設されていた。
東海道区間は当時は海運が盛んなことと外国からの攻撃に脆弱との反対意見が。
しかし当時の政府が工事費が膨大になり始めたため東海道区間を優先に途中から切り替えた。
14:52
字上手い!書き順は独特だが。
雪崩に関する処でBGMに使われているのはオネゲルの「パシフィック231」ですね。
当時の座席予約システムは人海戦術でやってたね((((;゜Д゜)))
まだマルスができる前
11:11 10年後のゴールデンウイークに気をつけろ!
だが、令和の現代も雪で止まる事実
12時30分上野発新潟行き急行、越路でしょうかね。
保線区の人達はさぞかしやりがいがあっただろう。
定期運行の旅客列車としての蒸気機関車が幕を閉じたのは昭和50年12月、当時13歳だったが一度も乗ることはなかった。両親の話を聞くと窓を開けっ放しにしておくとトンネルに入る時、煙が車内に充満してしまい慌てて窓を閉めたのだそうです。
現在観光用として蒸気機関車が復活してところもあるが、大方観光客なのであくまで私見ですが、あまり興味が湧いてこない。かつて通学,通勤に使っていた生活感が漂ってこないからである。
もしこの時代に戻れることが出来るならば何食わぬ顔して乗ってみたい気もする。
発車時汽笛を3回鳴らしていたのは「さよなら~」「ごきげんよう」と見送りの人達に伝えた合図だそうです。一度も乗ったこともないくせに「ボォー」という汽笛を聞くと、なんとも言えない郷愁感漂う響きが感じられ、とても心地よい。
タイタンパーでバラストを整地していた場所は東海道線大船駅の南側ですね。
線路配置で判りました。
横須賀線上り線ですね。
保線区だけで4万人とは驚くな、雪崩の復旧作業も人海戦術だし人件費を考えると国鉄はいかに非効率だったか。
ある意味非常時には人海戦術は有りだよ。
蒸気機関車の煤で車体や車内が汚れるのはわかるけど・・・。
5:30あたり、当時は車両の床にゴミを投げ散らかしていたんですね・・・
国鉄は仕事してたよ。そりゃJRはやっていないのか?と言う意味では無い。職員が駅でタバコ吸って荷卸し待っているとか、今の時代では完全NGだが「列車を安全に時刻通りに走らせる」という至難の技を職員同士が共有し走らせていた。何かこうJRに変わってから表だけキレイにという感が否めない。大雪降ったら一晩中休みなく釜を走らせて線路を確保したものよ。仕事してたね。晩年、組織は腐りきっていたが、個々はプライドを持っていた。「俺は鉄道マンだ!」と言う。今、その様なプライドが見えない。呆気ないなJRは。
そりゃ、民営化されて公務員から会社員になったようなものですからね。
でも一般客からしたらJRの方がましだろうな…😵
@@psychedelicraspberry517 さん
会社を跨ぐときの不便さ。西から東海に乗り換える米原駅に遅延が発生しようなら、改札で乗客の大行列。そりゃそうですわ、在来線車内放送で「詳しくは駅職員にお聞きください」という半ば責任放棄。同じ線路で走っているのだから、行政みたく管轄外は知らん・・はないですよね。
@@scarlet7000 でも一般客は大阪→東京は新幹線🚅やろうな…😉
@@psychedelicraspberry517 さん
そうですね。そもそも昼行で東京・大阪間の直通はありませんからね。在来〜新幹線またはその逆のパターンなのですよ。エラー時の対応は遥かに国鉄のが良かったですね。
5:32 もしかして車内に捨てられたゴミ?
今の人より、頭を使っている
ボケる暇が無い
語りは圓歌師匠でしょうか。
いや吃りで使えなかったから、無理
客の荷物放り投げて草
ヤマトでもやってたよ😁
電話の呼びかけが「もしもー」。最後の「し」は言わないんだ。
マニ71にブヒった
昭和27年はまだ占領されてたのかな
No !
1952年 昭和27年 4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効 奄美大島、沖縄県 小笠原諸島は🇺🇸アメリカ合衆国占領下だが、独立は回復していた。
昭和22年の生まれで、都下M市に住んでいたが、物心付いた頃には、戦災の傷跡のような物は殆ど見た記憶は無い。
客車のゴミに驚きました
私たちが子供の頃、年配の大人の人からは「食べがらはちゃんと座席の下に片付けるのが礼儀だ」と教わりました。当時は車内にいる時間も長いので、ゴミ箱だと入り切らないのかも。
@@稲荷恵比寿
どんな取り組みで
ゴミを床に捨てなくなったのでしょうかね
衛生面で感染症予防からでしょうか
ゴミ箱を置くようにしたからでしょうか‥
この雰囲気を味わうのには、中国大陸の長距離列車に乗らないとw
客がぎゅうぎゅうなのに竹箒でゴミを押しよけて山にしてるよ。
@@nichihon 様 ゴミ箱が車内に設置されるようになったからじゃないかな?ベトナムなんかローカル飲食店でもゴミは床。結構小洒落たカフェで綺麗な女性もポイって捨ててます。
@@sunami808
日本は神社も清潔に皆さんで掃除されてきた精神文化だから、汚れには気を使えるのかな
チッキ
人から預かった荷物投げるんじゃねーよ。
最近までごく普通の光景。
丁寧に何て量と重量と時間から見てもできないよ
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