ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
元就「興経さん、大内には引き渡さないから安心してよ(殺さないとは言っていない)」
実際の熊谷さんとこの娘さんはめっちゃ美人さんやったんちゃうかなと思ってる
結局興経は許されなかったか、元春は新庄局以外側室もおかなかったし醜女とは正反対の美人だったのかも。
元就公が隆元公に「武将に必要なのは武略とかで芸は不要」って教えたとされる逸話、元就自身が芸事への造詣が深かったり、ある程度は教養として必要だったのを考えると、それだけ熱中し過ぎてたのでしょうね……
腹立たしさも半分、もう半分は隆元への羨ましさもあったんじゃないかなという気がします
毛利家界隈はものすごくキッチリと文書を残してるので面白いですね。家臣に与える領地が不足していた問題は他家でもあったのでしょうけど、茶器の価値を吊り上げて領地の替わりにした信長は切れ者だったのでしょうね。
楽しみで仕方がない
いつの時代も支配者にとって都合のいいように歴史は作られるんやな。陰徳太平記の魔改造具合が逆に面白かったです。
元春の熊谷信直の娘への求婚は元春が惚れて相談なしに突っ走ったということだったのですかね。熊谷信直は妹が美人で元の主君の武田光和に側室に請われて揉める話もあるから、創作で醜女扱いにされてるけど美人だったのかしらん。
ガンダムのミライさんみたいにぱっと見イモだけど、包容力のある人だったかもなw
5:00 元就「我慢しなくてもいいよね?井上抹殺してもいいよね?💢😡」 義隆「ステイ、ステイ!💦」
でも結局は誅伐しちまう元就公
@@服部充雄-l7m寧ろ誅殺しないと、毛利家が家臣の不満で空中分解して、尼子晴久の安芸における跳躍を許すことになりますからね。大内義隆としてもマズイことですし。
2:40伊勢貞順の出自について「拙者親候者貞久」(『伊勢貞順書札礼』第49条)「道照ハ伊勢下総守貞久之事、始ハ六郎左衛門尉、六郎左衛門尉貞順之親」(『道照愚草』冒頭)「申次衆 伊勢六郎左衛門尉」←貞久のこと(益田家文書『永正七年在京衆交名』)
・「伊勢系図三編」(『諸家系図纂』) および「伊勢系図」(『続群書類従』)貞長├貞種|├貞勝||└貞誠|| ├貞泰|| |├貞倍~~~~~~~|├貞房|├貞数||├貞賴||├貞遠||└貞久 大永七三十三 於清住寺|| | 河原合戦討死|| | 桂川御動座之時討死|| ||| └貞順 貞倍之養子~~ 為上使九州下向之時卒・『寛永諸家系図伝 7』(八木書店,1984)貞長└貞直 ├貞仲 |└貞誠 | └貞泰 | ├貞倍 | ├貞久 ~ └貞種
父上がセッキョー疲れしたら爺やが呼ばれて説教エンドレスループで御座る
ありゃー、こりゃもう新庄局絶対美人じゃんw元春も急がないと別の娘と結婚させられる。ってあえて犬の様に突っ走ったのかもw
毛利、吉川、小早川、宍戸毛利両川ならぬ、毛利四川格好いい!
元就、心労で寿命が縮んだのではなかろうか
日頃のストレスによって長文クソリプおじさんのレシート文書はパワーアップするのだ
吉川家は興経だけでなく息子共々だからなあ……強大勢力に囲まれた国人の性とはいえ辛いものがある。そして次回はもしやあの対談が動画になるのか!?
俎板吉川こと吉川経基が聞いたらどう思うのかな、、、
隆元「教育教育教育教育」興経「私刑私刑私刑私刑」元兼「誅伐誅伐誅伐誅伐」
やはり天才か
70代で子供を作るパワフル親父の長文説教とか怖い
当時の肖像画が写実的だと仮定しての話ですが、吉川元春は丸顔で描かれ、その息子の吉川広家はかなりの馬面です。なので新庄局は相当な面長だったのでは……と、ゲスの勘繰りでごさいました🤔
元春の縁組、むちゃくちゃだけど結果として、邪魔な興経を〇してくれる優しい舅殿ゲットできたし、ナイスでしたね( *´艸`)
もしろお得w邪魔な興経をやったし強い重臣もゲットし妻もゲット良いもの尽くしw
細かいことで恐縮ですが、動画内で引用されている(天文16年)7月10日付熊谷信直宛毛利元就書状(熊谷家文書126号)の追而書の「聊忝」は「聊尒(聊尓)」ではないでしょうか。見識の深いしかかく氏に細かく言う必要もないかと思いますが、「便札聊尒候へとも」、つまり手紙にて申し上げるのも失礼ですが、という意味になるかと思います。
毛利隆元 「父上、こんなオジさん構文は今の流行りじゃないですよw」
それが言える隆元だったら・・・(´;Д;`)
陰徳太平記くんはホンマ…
元春が当主だったら歴史は変わってだろうなってぐらい戦国時代向きの性格してんなあ
毛利の藩校明倫館もスパルタ教育だったのだろうか?宿敵会津の日進館は江戸に留学生を輩出する程のエリート養成機関だったけど。
毛利隆元の山口時代と言えば「毛利隆元山口滞留日記」天文七年二月一十三日、氷上へ御見物、御桟敷之儀者、御屋形様より被仰付候、一十五日、御屋形様より、江口殿御使者にて靍之折一つ御進上候、う~ん人質?いやいや、大内ファミリー(笑)
毛利隆元の手紙資料館で、見た事ありますが、添削されていた。親からあそこまでされると、面目も、何も無い。家督継いでも、当主として何もできない。赤い墨で、添削ありえん。元就やり過ぎ。
もの凄く詳しい解説にビックリして登録させていただきました。ひとまずは通しで見てからストップモーションを使いつつ再度ゆっくり拝見しようと思っています。ただ気になったのが元就の幼名「松寿丸」を、このシリーズ動画では「まつじゅまる」と呼んでいますが「しょうじゅまる」ではないか?と思ったので質問です。この読みも考察されて使われているのか、もしくは合成音声の間違いなのかが気になりましたので。ご回答いただければ幸いです。
コメントありがとうございます。ご質問にあった松寿丸の読みですが、仰る通り「しょうじゅまる」が正しいです。こちらは音声編集ミスというより私が読みを勘違いしており編集の際にスルーしてしまっておりました。もしこういった間違いを発見しましたらコメントの方で言っていただけると幸いです。
投稿お疲れ様です。まさか北就勝が横領をしていたとは…すごく驚きました。江口興郷が出てきた時は、ネット上に出たことはあるけど、細々と出ているので、出てきた時は「とうとう出てきたか。」と思わず言ってしまいました。江口興郷の「興」字は義興からの偏諱であることはわかるのですが、大内氏実録には多々良姓江木氏ないしは江口氏の人物として江木/江口五郎などがいました。江口興郷は、江木/江口五郎の何かなのですか、または五郎とは関係ありませんか。
このウプ主をナメてはいけない。筋金入りの歴史(山陽・山陰)オタクだぞ
江口興郷が名乗った官位は「江口三左衛門尉」「江口美作守」であり、天文17年に活動が確認される江口五郎とは恐らく別人です。但し、東大寺文書によると江口興郷は天文3年前後に仁井令保の代官を務めており、その14年後の代官が江口五郎であること、そもそも仁井令保の代官は代々江口家が任命されていた形跡があることを考えると江口五郎は興郷の子である可能性が高いと思います。
@@SquareDeerHorn 返信遅れて申し訳ございません。やはり、興郷は五郎の親類にあたりますか。大内家家臣団の実態が、しかかくさんをはじめ多くの学者さん及び研究者さんの研究によって、勝屋勝一軒と共に徐々に明らかになってきたのかなと思います。突然なのですが、江木氏一門と思われる小治郎は、興郷・五郎とどのような関係にあたると思いますか。
人生は双六じゃ!
ウプ主は小笠原氏に何か恨みでもあるの?w
元就「興経さん、大内には引き渡さないから安心してよ(殺さないとは言っていない)」
実際の熊谷さんとこの娘さんはめっちゃ美人さんやったんちゃうかなと思ってる
結局興経は許されなかったか、元春は新庄局以外側室もおかなかったし醜女とは正反対の美人だったのかも。
元就公が隆元公に「武将に必要なのは武略とかで芸は不要」って教えたとされる逸話、元就自身が芸事への造詣が深かったり、ある程度は教養として必要だったのを考えると、それだけ熱中し過ぎてたのでしょうね……
腹立たしさも半分、もう半分は隆元への羨ましさもあったんじゃないかなという気がします
毛利家界隈はものすごくキッチリと文書を残してるので面白いですね。家臣に与える領地が不足していた問題は他家でもあったのでしょうけど、茶器の価値を吊り上げて領地の替わりにした信長は切れ者だったのでしょうね。
楽しみで仕方がない
いつの時代も支配者にとって都合のいいように歴史は作られるんやな。陰徳太平記の魔改造具合が逆に面白かったです。
元春の熊谷信直の娘への求婚は元春が惚れて相談なしに突っ走ったということだったのですかね。熊谷信直は妹が美人で元の主君の武田光和に側室に請われて揉める話もあるから、創作で醜女扱いにされてるけど美人だったのかしらん。
ガンダムのミライさんみたいにぱっと見イモだけど、包容力のある人だったかもなw
5:00
元就「我慢しなくてもいいよね?井上抹殺してもいいよね?💢😡」
義隆「ステイ、ステイ!💦」
でも結局は誅伐しちまう元就公
@@服部充雄-l7m
寧ろ誅殺しないと、毛利家が家臣の不満で空中分解して、尼子晴久の安芸における跳躍を許すことになりますからね。大内義隆としてもマズイことですし。
2:40
伊勢貞順の出自について
「拙者親候者貞久」(『伊勢貞順書札礼』第49条)
「道照ハ伊勢下総守貞久之事、始ハ六郎左衛門尉、六郎左衛門尉貞順之親」(『道照愚草』冒頭)
「申次衆 伊勢六郎左衛門尉」←貞久のこと(益田家文書『永正七年在京衆交名』)
・「伊勢系図三編」(『諸家系図纂』)
および「伊勢系図」(『続群書類従』)
貞長
├貞種
|├貞勝
||└貞誠
|| ├貞泰
|| |├貞倍
~~~~~~~
|
├貞房
|├貞数
||├貞賴
||├貞遠
||└貞久 大永七三十三 於清住寺
|| | 河原合戦討死
|| | 桂川御動座之時討死
|| |
|| └貞順 貞倍之養子
~~ 為上使九州下向之時卒
・『寛永諸家系図伝 7』(八木書店,1984)
貞長
└貞直
├貞仲
|└貞誠
| └貞泰
| ├貞倍
| ├貞久
~ └貞種
父上がセッキョー疲れしたら爺やが呼ばれて説教エンドレスループで御座る
ありゃー、こりゃもう新庄局絶対美人じゃんw
元春も急がないと別の娘と結婚させられる。って
あえて犬の様に突っ走ったのかもw
毛利、吉川、小早川、宍戸
毛利両川ならぬ、毛利四川格好いい!
元就、心労で寿命が縮んだのではなかろうか
日頃のストレスによって長文クソリプおじさんのレシート文書はパワーアップするのだ
吉川家は興経だけでなく息子共々だからなあ……強大勢力に囲まれた国人の性とはいえ辛いものがある。そして次回はもしやあの対談が動画になるのか!?
俎板吉川こと吉川経基が聞いたらどう思うのかな、、、
隆元「教育教育教育教育」
興経「私刑私刑私刑私刑」
元兼「誅伐誅伐誅伐誅伐」
やはり天才か
70代で子供を作るパワフル親父の長文説教とか怖い
当時の肖像画が写実的だと仮定しての話ですが、吉川元春は丸顔で描かれ、その息子の吉川広家はかなりの馬面です。なので新庄局は相当な面長だったのでは……と、ゲスの勘繰りでごさいました🤔
元春の縁組、むちゃくちゃだけど
結果として、邪魔な興経を〇してくれる優しい舅殿ゲットできたし、ナイスでしたね( *´艸`)
もしろお得w
邪魔な興経をやったし強い重臣もゲットし妻もゲット
良いもの尽くしw
細かいことで恐縮ですが、動画内で引用されている(天文16年)7月10日付熊谷信直宛毛利元就書状(熊谷家文書126号)の追而書の「聊忝」は「聊尒(聊尓)」ではないでしょうか。
見識の深いしかかく氏に細かく言う必要もないかと思いますが、「便札聊尒候へとも」、つまり手紙にて申し上げるのも失礼ですが、という意味になるかと思います。
毛利隆元 「父上、こんなオジさん構文は今の流行りじゃないですよw」
それが言える隆元だったら・・・(´;Д;`)
陰徳太平記くんはホンマ…
元春が当主だったら歴史は変わってだろうなってぐらい戦国時代向きの性格してんなあ
毛利の藩校明倫館もスパルタ教育だったのだろうか?宿敵会津の日進館は江戸に留学生を輩出する程のエリート養成機関だったけど。
毛利隆元の山口時代と言えば「毛利隆元山口滞留日記」
天文七年二月
一十三日、氷上へ御見物、御桟敷之儀者、御屋形様より被仰付候、
一十五日、御屋形様より、江口殿御使者にて靍之折一つ御進上候、
う~ん人質?いやいや、大内ファミリー(笑)
毛利隆元の手紙資料館で、見た事ありますが、添削されていた。親からあそこまでされると、面目も、何も無い。家督継いでも、当主として何もできない。赤い墨で、添削ありえん。元就やり過ぎ。
もの凄く詳しい解説にビックリして登録させていただきました。ひとまずは通しで見てからストップモーションを使いつつ再度ゆっくり拝見しようと思っています。ただ気になったのが元就の幼名「松寿丸」を、このシリーズ動画では「まつじゅまる」と呼んでいますが「しょうじゅまる」ではないか?と思ったので質問です。この読みも考察されて使われているのか、もしくは合成音声の間違いなのかが気になりましたので。ご回答いただければ幸いです。
コメントありがとうございます。
ご質問にあった松寿丸の読みですが、仰る通り「しょうじゅまる」が正しいです。こちらは音声編集ミスというより私が読みを勘違いしており編集の際にスルーしてしまっておりました。
もしこういった間違いを発見しましたらコメントの方で言っていただけると幸いです。
投稿お疲れ様です。まさか北就勝が横領をしていたとは…すごく驚きました。江口興郷が出てきた時は、ネット上に出たことはあるけど、細々と出ているので、出てきた時は「とうとう出てきたか。」と思わず言ってしまいました。江口興郷の「興」字は義興からの偏諱であることはわかるのですが、大内氏実録には多々良姓江木氏ないしは江口氏の人物として江木/江口五郎などがいました。江口興郷は、江木/江口五郎の何かなのですか、または五郎とは関係ありませんか。
このウプ主をナメてはいけない。筋金入りの歴史(山陽・山陰)オタクだぞ
江口興郷が名乗った官位は「江口三左衛門尉」「江口美作守」であり、天文17年に活動が確認される江口五郎とは恐らく別人です。
但し、東大寺文書によると江口興郷は天文3年前後に仁井令保の代官を務めており、その14年後の代官が江口五郎であること、そもそも仁井令保の代官は代々江口家が任命されていた形跡があることを考えると江口五郎は興郷の子である可能性が高いと思います。
@@SquareDeerHorn 返信遅れて申し訳ございません。やはり、興郷は五郎の親類にあたりますか。大内家家臣団の実態が、しかかくさんをはじめ多くの学者さん及び研究者さんの研究によって、勝屋勝一軒と共に徐々に明らかになってきたのかなと思います。突然なのですが、江木氏一門と思われる小治郎は、興郷・五郎とどのような関係にあたると思いますか。
人生は双六じゃ!
ウプ主は小笠原氏に何か恨みでもあるの?w