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戊辰の時に幕府に殉じたのは家康の息子達の家ではなく、秀忠の息子(保科正之)の家ってことになったのか…。
その割を食いまくった会津藩主の血統が、現徳川宗家当主。
室町殿と鎌倉公方だって上手く行ったのは義詮基氏時代だけやしそりゃそう代が替われば他人よ
そこに直冬をひとつまみっと…
@@joint1114 まぁ結局はある意味決着がついたからモーマンタイやな!()
室町に関しては鎌倉公方以前に京都の中で既に人間関係が崩壊しとるから・・・
水戸家はそもそも光圀の頃から尊皇派ですからね。慶喜が大政奉還したのも、江戸と藩を守る為ですし・・・
名古屋市民なので、尾張藩を冷遇した吉宗公は尊敬できないです🥲一方、現代まで徳川の血筋を残す英断を下した慶勝公は尾張の誇りです❤名古屋市、愛知県の繁栄を現代まで繋いでくださってありがとうございます🙇
水戸の血筋の方ですね
水戸家は御三家で1番格下で石高も少ないんだけど10万石クラスの支藩持ってたり定府で参勤交代免除されたりなんだかんだ優遇されてた
そうなんです。高松藩12万石の他、水戸藩の支藩は計4藩あり、水戸藩と合わせると約50万石にもなるんですね。尾張藩や紀州藩の支藩は2~3万石で御三家の支藩を合わせた総合的な石高は劣っていないんです。
将軍家光と水戸頼房が親しく、参勤交代なし、江戸定府となる
それは結果的にね!しかも、、表高合計してもねwwwww 実高水戸だけ逆に少なくなる貧しい藩だが、尾張紀伊共にゆうに実高100万石越えてるからね☝️あの水戸頼房家ってまず同母兄の紀伊頼宣の分家だから❗松平→徳川姓に変わったのも、駿河徳川忠長が改易になって、徳川家光に媚びてて哀れみで、アラ40になって情けでギリギリ徳川にしてもらっただけだから!初期の御三家は駿河尾張紀伊が御三家!更に前家康が最晩年に、秀忠将軍家と尾張紀伊でみんな兄を盛り立てて頑張れよと言ったと言われる☝️水戸が御三家初めて言われたのは、18世紀代です❗️ 6代将軍家宣の時代から!館林甲府が自然消滅してからようやく!最終的に官位の上でも、甲府館林にぬかれたし!水戸だけ極官権中納言だし、尾張紀伊は大納言!水戸はたまたま結果的にしぶとく家として、残っただけの家!あんまり知られて、ないけど水戸が江戸定府になった期間は、幕末の数年間だけですからね☝️駿河尾張(忠吉の跡継ぎ)紀伊(信吉の跡継ぎ)甲府館林、田安一橋清水は、将軍継承権ありますが、水戸だけ永遠に将軍継承権がなかったですからね!水戸は、格下げ後の越前家や会津家やなんなら前田家(准親藩)と極めて近い扱いでした!!最後の将軍慶喜は、あくまで一橋家当主だったから、中継ぎ将軍にギリギリなれただけですからね☝️水戸は本当気の毒なぐらい格下です☝️☝️☝️
@@ピロちゃま ここまでムキになる意味が分からんがなんか因縁があるんだろうね都合の良い様に勝手にそうとらえとけば良いけど下記はホラ吹きなんで正しとくよむしろ逆で斉昭の時代に定府制をやめて江戸詰めだった藩主や家臣を全て水戸に帰している(惣交代の義)妄想しすぎて勝手に新説は作らないでくださいw>>あんまり知られて、ないけど水戸が江戸定府になった期間は、幕末の数年間だけですからね
紀州 頼宣が紀州藩主になったのは、家康の死後のこと。秀忠の命で1619年駿河から紀州に転封となっている。よって家康の意図が働くことは無い。動画にある「家康の意図は・・・・」は誤りでです。
そうだと理解してます
後の幕末期においての御三家のそれぞれの役割は非常に相反するものがありますが、このパワーバランスを考えると朝廷を武力で抑えてきた徳川幕府の基盤である旗本の力が幕末期には非常に劣化していました。この軍事力劣化で朝廷の権威を利用する幕府政治は既に崩壊寸前だったと言えるわけですが、江戸幕府には室町幕府のように朝廷の権威で生きていくことはもはや不可能となった対外的な事情もありましたが。朝廷の権威の力すなわち天皇陛下の権威を借りて日本国を統治するということは現在にも歴史的に深く継続しております。
@@ryuzowtakatukasa856 黒船がやってきたのがすべてじゃないですか? 封建時代から近代国家に変わる必要があった黒船があと30年早く来たら幕府も30年早く終わったでしょうし30年遅く来たら30年続いたでしょうそもそも15万の幕府軍が数千の長州に負けるとか そんな軍隊だと外国と戦争なんかできないんじゃないですか?
他の列強諸国などによる軍事的圧力も江戸幕府の終焉に近付いた事実は否めませんが、軍事力ですべてのことが解決するわけではありません。いわゆる長州戦争や幕末の戦争に関しては数量よりも質の戦いで局地戦にただ勝利したのが現状です。局地戦を経て錦の御旗がどちらが取るかということで言いますと最初は少数の有力大名連合による朝廷対策が、倒幕の指導者達の軍隊の権威付けをより巧妙に行なわれたのは事実であります。かの徳川慶喜公も幕府には西郷や大久保などの人材がいるか?と側近に問うたように組織における目標達成の為の人材がどれだけ集まっているかにも依ると思います。
尾張徳川家は蝦夷地開拓にも乗り出し、八雲町に入植。新幹線の駅もできる。
水戸家なんか尊皇攘夷のメッカだからな。
一橋家も水戸徳川家の系図だった為慶喜は朝廷と戦う事を拒否多くの家臣を見捨てて自分だけ重臣と共に大阪を脱出するという征夷大将軍としてやってはならない事態を引き起こした
@@レスター-d6tでもそれで多くの有為な人材が生き残ったのではないですか?日本人同士で殺し合いして喜ぶのは外国勢力じゃないですか?
@@レスター-d6t 征夷大将軍としてはアウトですね、確かに。
やはり紀州・和歌山藩は正式名称の紀伊より通称の紀州のほうが聞き慣れるな😇
忠長さんは松平長七郎のパッパだったかな?
吉宗は家重が病弱なため将軍の控えとして宗武を他家には出さなかったが宗尹は越前家の養子に出そうとしたようだその後も一橋家の長男と次男は越前家に養子に出て、ようやく四男の治済が一橋家の当主になっているよって元々は吉宗は控えの家は田安家しか考えていなかったと思う
@@kuo1830様 その田安家の祖である宗武も宗春失脚後の尾張家に養子入りさせるつもりが、当の尾張藩ばかりか周囲の反対に遭い吉宗が翻意したとか
コメント見てるとこの人の動画は数作るの目的であんま調べてないんだな
お正月 テレ東 新春ワイド時代劇でよくやってた。
御三家って江戸時代初期の時には江戸と尾張と紀州で江戸は将軍家やから別格として水戸が入ったって説もあるね水戸藩は幕府と朝廷で争いが起きた時は朝廷側に付くって家康からの使命があったって説もあるし
将軍家、尾張、紀州をもって御三家という解釈もあるけど。
最初はそうでしたが家光の時代に「将軍家と尾張、紀州を同格とするのは不満がある」と言って将軍家を別格として尾張、紀州に水戸を加えて御三家としました
越前松平家涙目
来年の大河は田沼時代、吉宗の晩年に田安、一橋、清水の御三卿が創設されたが、本音は吉宗が紀伊徳川家の出であったため、尾張から将軍を出したくない思惑があった。最終的に尾張からの将軍は出ることなく、明治維新を迎えることに。
7代目で宗家の血が絶え、8代目から血筋は紀州だもんな。
幕末では御三家はすべて幕府を裏切ったのか。それじゃあ会津藩はバカみたいじゃないですかやだぁ
家康はもし朝廷と幕府が戦になれば尾張は朝廷側につけと言ったとか言わなかったとか徳川全滅を防ぐため?結果 徳川宗家 御三家 御三卿他の松平家も全て残ったけどね まあ戦国時代じゃないしね😊
@@yuriel-w3tその話は水戸の事だと思います。
@@yuriel-w3t 水戸藩ですね。家康が対朝廷用に用意した保険の藩が水戸藩です、設立当初より「徳川家は本家であり天皇家こそ我が主君」を家訓にしていたとか。なので「幕末では御三家はすべて幕府を裏切った」という表現は補足が必要かと。水戸藩は設立当初より徳川家と天皇家が対立することがあれば天皇家側に付くことを使命として与えられていたと考えられます。これは家康に限らず数多くの戦場を経験した武将の当然の知恵で、つまり徳川家と天皇家が争った際に天皇家が勝利した時にも徳川家の血統が生き残るための最後の手段です。
その通りです。ちなみに尾張藩主と紀伊藩主は朝廷での位階は同格の大納言で、水戸藩主は一つ下の中納言。中納言は別名黄門と呼ばれ、徳川光圀の隠居後の号となっております。
@@japanbest1 かわいそうだけど会津松平家は将軍家を何があってもお守りする事を義務づけられた藩 京都守護職を引き受けたばかりに長州に目の敵にされてしまった 越前松平家が京都守護職になってたら全然違ったと思いますね 春嶽公「京都守護職」なんて貧乏くじやりたくねー あっそうだ会津に押し付けよー て感じで押し付けた感じ もちろん会津も貧乏くじなのはわかっていたはずだけど断われなかったのが実際のところじゃないですか?
4:09 これは家康の死後の話では?
しかし御三家が幕府を終わらせたことで徳川宗家を滅亡させずにすんだ。
元徳川宗家当主は、会津の系統。
御三家筆頭の尾張藩は別格
将軍は輩出してないけどな
御三卿もお忘れなく
Yellow gateでもUnruly boyでも尾張は悪役にされるが、そのせいで倒幕されるのに、暴れん坊を三河出身のマツケンが演じている皮肉…笑なお、暴れん坊の裏で名古屋では宗春ってトリックスターが幕府の緊縮財政に逆らって大賑わいしていたw
会津藩は御三家に次ぐ家格だった。
高須松平家から尾張家を継いだ德川慶勝の祖父は水戸德川治保。慶勝は高須6兄弟の長兄、松平容保は弟でその玄孫が宗家現当主19代德川家廣。 尾張家初代義直の血統はで9代宗睦で途絶え、その弟附家老竹腰勝紀の次男井上正紀からの男系が続いているよう。 制外の家越前家と呼ばれた家康次男秀康の血統があり、2代忠直は改易され3代光長(秀忠の外孫、家康存命時唯一の曾孫)は越後高田へ叔父松平忠昌(福井松平初代)と入れ替え転封。越後光長は御四家と呼ばれた。秀康の血統は3男出雲松平直政6男明石松平直良の男系が続いている模様。
お家の承継に失敗して滅んだ豊臣家みたいなことにならないように御三家とか大奥を設けたのだが。。
@@DoReMiLight 決定的に違うのはそこですね家康は子供や孫がたくさん対して秀吉は子供は晩年に生まれた秀頼だけ 弟の秀長?は殺してしまった
@@yuriel-w3t弟 秀長は病死。太閤秀吉は、秀頼誕生後に、甥の関白秀次とその一族を滅ぼした。
まあここでのオチはやっぱり尾張藩てか高須藩だよな。二男の慶勝が尾張藩というだけでなく、五男の茂栄が一橋家、七男の容保が会津藩、八男の定敬が桑名藩と、幕末の徳川&松平家の話題の半分ぐらい持ってくからなぁ。
今のところ結局、子孫が徳川宗家を継いでますから尾張の勝ちですかね。
江戸時代初期(家光期)までは将軍家と尾張紀伊で御三家でした将軍家の家族同様の扱い(のちの御三卿と同じ)でした家綱時代の寛文印知で尾張紀伊水戸と甲府館林以外の大名に領地宛行状が一斉に発給されましたこの時尾張紀伊水戸を御三家、甲府館林を御両典と定められました家綱時代になると将軍家と尾張紀伊水戸当主との血縁も薄くなり家臣化していきました家臣でありながら幕政に加われないのは将軍家の血の控えの家が幕政に携わり失政があってはならないとの配慮でした幕末になると尾張水戸の当主隠居が大老井伊直弼を詰問する為に定められていない日に江戸城に登城し処分を受けてしまいますし井伊直弼を殺害した浪士を出した水戸は藩邸を幕府軍に取り囲まれて殲滅寸前まで行きました
違うよ尾張・紀州・駿河で御三家だよ
築城(ついき)は、(ちくじょう)の間違い。
いくら尾張嫌いとはいえ御三卿の創設は吉宗最大の失敗だったのか?
吉宗が創った御三卿があったから15代までは幕府が存続したとも言えるし、御三卿出身の11代家斉の影響で幕府の寿命が縮んでしまったとも言えるし、一概に失敗とも言えないんですよね…
関ヶ原合戦後に生まれた御三家の祖である三人。義直・頼宣の将軍家との確執とか、もはやマトモな合戦を知らないボンボン達が無頼ぶってへそ曲げてるようにしか見えないしょぼさ。
徳川義直、頼宣、頼房と甥の徳川家光と年齢差があんまりなかったのも問題だったね。義直、頼宣、頼房からしたら「俺たちは家康公の息子だ。家光あんたは孫。血の濃さからした俺たちが上だ。将軍ってことを笠にかけて、俺たちを風下にしようってか?あんまりふざけた事してるんじゃないぞ!」って感じかな。
@@正木茂雄様 後の御三家の祖たる3人のうち頼房は家光と1つ違いで実の兄弟のように仲が良かったらしく、水戸家だけが将軍家と良好な関係でしたね。
@@アウトローという者 そうですか。後に徳川綱吉が、兄綱重の息子綱豊(後の家宣)を自分の後継ぎにしないのを見て、水戸光圀が諫言して水戸家を煙たがったのを家光と頼房が見たら落胆するでしょうね。「綱吉は何をやってるんだ?」「光圀‥頑固も大概にしないと‥」って。
@@正木茂雄様 個人的な見解ですが、綱吉と光圀って案外似たもの同士ですね
@@アウトローという者綱吉は家康の曾孫。光圀は孫。家康の曾孫は、越後高田藩主、松平光長。紀州、徳川吉宗。彼らを統率しないといけないので、目障りな、高田藩を改易。更には越前福井藩を領地半減にした。
11:59 東海道?
常陸国は東海道だよ。
『水戸頼房は紀伊頼宜の同母弟。だから明確な差が付けられた』って事を説明しないと水戸サゲの理由が伝わらないよ。あと8代将軍を巡る政治闘争は大河ドラマ【八代将軍吉宗】にて分かり易く学べました。ジェームス三木氏の原作は【葵 徳川三代】もですが政治ドラマの部分が面白く、近年の軽佻浮薄な大河ドラマとは一線を画しますよね。
水戸はむしろ敵に付かせるための分家だからいいとして、後から御三卿が割り込んできて、尾張だけなんか可哀想
家継がなくなった時点で、家宣の弟がいたことの説明がない。問題外
じゃあ見るなよ
戊辰の時に幕府に殉じたのは家康の息子達の家ではなく、秀忠の息子(保科正之)の家ってことになったのか…。
その割を食いまくった会津藩主の血統が、現徳川宗家当主。
室町殿と鎌倉公方だって上手く行ったのは義詮基氏時代だけやしそりゃそう
代が替われば他人よ
そこに直冬をひとつまみっと…
@@joint1114 まぁ結局はある意味決着がついたからモーマンタイやな!()
室町に関しては鎌倉公方以前に京都の中で既に人間関係が崩壊しとるから・・・
水戸家はそもそも光圀の頃から尊皇派ですからね。
慶喜が大政奉還したのも、江戸と藩を守る為ですし・・・
名古屋市民なので、尾張藩を冷遇した吉宗公は尊敬できないです🥲
一方、現代まで徳川の血筋を残す英断を下した慶勝公は尾張の誇りです❤
名古屋市、愛知県の繁栄を現代まで繋いでくださってありがとうございます🙇
水戸の血筋の方ですね
水戸家は御三家で1番格下で石高も少ないんだけど
10万石クラスの支藩持ってたり
定府で参勤交代免除されたり
なんだかんだ優遇されてた
そうなんです。高松藩12万石の他、水戸藩の支藩は計4藩あり、水戸藩と合わせると約50万石にもなるんですね。尾張藩や紀州藩の支藩は2~3万石で御三家の支藩を合わせた総合的な石高は劣っていないんです。
将軍家光と水戸頼房が親しく、参勤交代なし、江戸定府となる
それは結果的にね!しかも、、表高合計してもねwwwww 実高水戸だけ逆に少なくなる貧しい藩だが、尾張紀伊共にゆうに実高100万石越えてるからね☝️あの水戸頼房家ってまず同母兄の紀伊頼宣の分家だから❗松平→徳川姓に変わったのも、駿河徳川忠長が改易になって、徳川家光に媚びてて哀れみで、アラ40になって情けでギリギリ徳川にしてもらっただけだから!初期の御三家は駿河尾張紀伊が御三家!更に前家康が最晩年に、秀忠将軍家と尾張紀伊でみんな兄を盛り立てて頑張れよと言ったと言われる☝️水戸が御三家初めて言われたのは、18世紀代です❗️ 6代将軍家宣の時代から!館林甲府が自然消滅してからようやく!最終的に官位の上でも、甲府館林にぬかれたし!水戸だけ極官権中納言だし、尾張紀伊は大納言!水戸はたまたま結果的にしぶとく家として、残っただけの家!あんまり知られて、ないけど水戸が江戸定府になった期間は、幕末の数年間だけですからね☝️駿河尾張(忠吉の跡継ぎ)紀伊(信吉の跡継ぎ)甲府館林、田安一橋清水は、将軍継承権ありますが、水戸だけ永遠に将軍継承権がなかったですからね!水戸は、格下げ後の越前家や会津家やなんなら前田家(准親藩)と極めて近い扱いでした!!最後の将軍慶喜は、あくまで一橋家当主だったから、中継ぎ将軍にギリギリなれただけですからね☝️水戸は本当気の毒なぐらい格下です☝️☝️☝️
@@ピロちゃま
ここまでムキになる意味が分からんが
なんか因縁があるんだろうね
都合の良い様に勝手にそうとらえとけば良いけど下記はホラ吹きなんで正しとくよ
むしろ逆で斉昭の時代に定府制をやめて江戸詰めだった藩主や家臣を全て水戸に帰している(惣交代の義)
妄想しすぎて勝手に新説は作らないでくださいw
>>あんまり知られて、ないけど水戸が江戸定府になった期間は、幕末の数年間だけですからね
紀州 頼宣が紀州藩主になったのは、家康の死後のこと。秀忠の命で1619年駿河から紀州に転封となっている。よって家康の意図が働くことは無い。
動画にある「家康の意図は・・・・」は誤りでです。
そうだと理解してます
後の幕末期においての御三家のそれぞれの役割は非常に相反するものがありますが、このパワーバランスを考えると朝廷を武力で抑えてきた徳川幕府の基盤である旗本の力が幕末期には非常に劣化していました。
この軍事力劣化で朝廷の権威を利用する幕府政治は既に崩壊寸前だったと言えるわけですが、江戸幕府には室町幕府のように朝廷の権威で生きていくことはもはや不可能となった対外的な事情もありましたが。
朝廷の権威の力すなわち天皇陛下の権威を借りて日本国を統治するということは現在にも歴史的に深く継続しております。
@@ryuzowtakatukasa856
黒船がやってきたのがすべて
じゃないですか? 封建時代から
近代国家に変わる必要があった
黒船があと30年早く来たら
幕府も30年早く終わったでしょうし
30年遅く来たら30年続いたでしょう
そもそも15万の幕府軍が数千の長州
に負けるとか そんな軍隊だと外国と
戦争なんかできないんじゃないですか?
他の列強諸国などによる軍事的圧力も江戸幕府の終焉に近付いた事実は否めませんが、軍事力ですべてのことが解決するわけではありません。いわゆる長州戦争や幕末の戦争に関しては数量よりも質の戦いで局地戦にただ勝利したのが現状です。局地戦を経て錦の御旗がどちらが取るかということで言いますと最初は少数の有力大名連合による朝廷対策が、倒幕の指導者達の軍隊の権威付けをより巧妙に行なわれたのは事実であります。かの徳川慶喜公も幕府には西郷や大久保などの人材がいるか?と側近に問うたように組織における目標達成の為の人材がどれだけ集まっているかにも依ると思います。
尾張徳川家は蝦夷地開拓にも乗り出し、八雲町に入植。新幹線の駅もできる。
水戸家なんか尊皇攘夷のメッカだからな。
一橋家も水戸徳川家の系図だった為慶喜は朝廷と戦う事を拒否多くの家臣を見捨てて自分だけ重臣と共に大阪を脱出するという征夷大将軍としてやってはならない事態を引き起こした
@@レスター-d6t
でもそれで多くの有為な人材が生き残ったのではないですか?
日本人同士で殺し合いして喜ぶ
のは外国勢力じゃないですか?
@@レスター-d6t
征夷大将軍としてはアウトですね、確かに。
やはり紀州・和歌山藩は正式名称の紀伊より通称の紀州のほうが聞き慣れるな😇
忠長さんは松平長七郎のパッパだったかな?
吉宗は家重が病弱なため将軍の控えとして宗武を他家には出さなかったが宗尹は越前家の養子に出そうとしたようだ
その後も一橋家の長男と次男は越前家に養子に出て、ようやく四男の治済が一橋家の当主になっている
よって元々は吉宗は控えの家は田安家しか考えていなかったと思う
@@kuo1830様 その田安家の祖である宗武も宗春失脚後の尾張家に養子入りさせるつもりが、当の尾張藩ばかりか周囲の反対に遭い吉宗が翻意したとか
コメント見てるとこの人の動画は数作るの目的であんま調べてないんだな
お正月 テレ東 新春ワイド時代劇でよくやってた。
御三家って江戸時代初期の時には江戸と尾張と紀州で江戸は将軍家やから別格として水戸が入ったって説もあるね
水戸藩は幕府と朝廷で争いが起きた時は朝廷側に付くって家康からの使命があったって説もあるし
将軍家、尾張、紀州をもって御三家という解釈もあるけど。
最初はそうでしたが
家光の時代に「将軍家と尾張、紀州を同格とするのは不満がある」と言って
将軍家を別格として尾張、紀州に水戸を加えて御三家としました
越前松平家涙目
来年の大河は田沼時代、吉宗の晩年に田安、一橋、清水の御三卿が創設されたが、本音は吉宗が紀伊徳川家の出であったため、尾張から将軍を出したくない思惑があった。最終的に尾張からの将軍は出ることなく、明治維新を迎えることに。
7代目で宗家の血が絶え、8代目から血筋は紀州だもんな。
幕末では御三家はすべて幕府を裏切ったのか。それじゃあ会津藩はバカみたいじゃないですかやだぁ
家康はもし朝廷と幕府が戦になれば尾張は朝廷側につけと言ったとか言わなかったとか
徳川全滅を防ぐため?
結果 徳川宗家 御三家 御三卿
他の松平家も全て残ったけどね
まあ戦国時代じゃないしね😊
@@yuriel-w3tその話は水戸の事だと思います。
@@yuriel-w3t 水戸藩ですね。家康が対朝廷用に用意した保険の藩が水戸藩です、設立当初より「徳川家は本家であり天皇家こそ我が主君」を家訓にしていたとか。なので「幕末では御三家はすべて幕府を裏切った」という表現は補足が必要かと。水戸藩は設立当初より徳川家と天皇家が対立することがあれば天皇家側に付くことを使命として与えられていたと考えられます。これは家康に限らず数多くの戦場を経験した武将の当然の知恵で、つまり徳川家と天皇家が争った際に天皇家が勝利した時にも徳川家の血統が生き残るための最後の手段です。
その通りです。ちなみに尾張藩主と紀伊藩主は朝廷での位階は同格の大納言で、水戸藩主は一つ下の中納言。
中納言は別名黄門と呼ばれ、徳川光圀の隠居後の号となっております。
@@japanbest1
かわいそうだけど会津松平家は
将軍家を何があってもお守りする事を
義務づけられた藩 京都守護職を
引き受けたばかりに長州に目の敵に
されてしまった 越前松平家が
京都守護職になってたら全然違った
と思いますね
春嶽公「京都守護職」なんて貧乏
くじやりたくねー あっそうだ
会津に押し付けよー て感じで
押し付けた感じ もちろん会津も
貧乏くじなのはわかっていたはず
だけど断われなかったのが実際の
ところじゃないですか?
4:09 これは家康の死後の話では?
しかし御三家が幕府を終わらせたことで徳川宗家を滅亡させずにすんだ。
元徳川宗家当主は、会津の系統。
御三家筆頭の尾張藩は別格
将軍は輩出してないけどな
御三卿もお忘れなく
Yellow gateでもUnruly boyでも尾張は悪役にされるが、そのせいで倒幕されるのに、暴れん坊を三河出身のマツケンが演じている皮肉…笑
なお、暴れん坊の裏で名古屋では宗春ってトリックスターが幕府の緊縮財政に逆らって大賑わいしていたw
会津藩は御三家に次ぐ家格だった。
高須松平家から尾張家を継いだ德川慶勝の祖父は水戸德川治保。慶勝は高須6兄弟の長兄、松平容保は弟でその玄孫が宗家現当主19代德川家廣。
尾張家初代義直の血統はで9代宗睦で途絶え、その弟附家老竹腰勝紀の次男井上正紀からの男系が続いているよう。
制外の家越前家と呼ばれた家康次男秀康の血統があり、2代忠直は改易され3代光長(秀忠の外孫、家康存命時唯一の曾孫)は越後高田へ叔父松平忠昌(福井松平初代)と入れ替え転封。越後光長は御四家と呼ばれた。秀康の血統は3男出雲松平直政6男明石松平直良の男系が続いている模様。
お家の承継に失敗して滅んだ豊臣家みたいなことにならないように御三家とか大奥を設けたのだが。。
@@DoReMiLight
決定的に違うのはそこですね
家康は子供や孫がたくさん
対して秀吉は子供は晩年に生まれた
秀頼だけ 弟の秀長?は殺してしまった
@@yuriel-w3t
弟 秀長は病死。
太閤秀吉は、秀頼誕生後に、甥の関白秀次とその一族を滅ぼした。
まあここでのオチはやっぱり尾張藩てか高須藩だよな。
二男の慶勝が尾張藩というだけでなく、五男の茂栄が一橋家、七男の容保が会津藩、八男の定敬が桑名藩と、幕末の徳川&松平家の話題の半分ぐらい持ってくからなぁ。
今のところ結局、子孫が徳川宗家を継いでますから尾張の勝ちですかね。
江戸時代初期(家光期)までは将軍家と尾張紀伊で御三家でした
将軍家の家族同様の扱い(のちの御三卿と同じ)でした
家綱時代の寛文印知で尾張紀伊水戸と甲府館林以外の大名に領地宛行状が一斉に発給されました
この時尾張紀伊水戸を御三家、甲府館林を御両典と定められました
家綱時代になると将軍家と尾張紀伊水戸当主との血縁も薄くなり家臣化していきました
家臣でありながら幕政に加われないのは将軍家の血の控えの家が幕政に携わり失政があってはならないとの配慮でした
幕末になると尾張水戸の当主隠居が大老井伊直弼を詰問する為に定められていない日に江戸城に登城し処分を受けてしまいますし井伊直弼を殺害した浪士を出した水戸は藩邸を幕府軍に取り囲まれて殲滅寸前まで行きました
違うよ尾張・紀州・駿河で御三家だよ
築城(ついき)は、(ちくじょう)の間違い。
いくら尾張嫌いとはいえ御三卿の創設は吉宗最大の失敗だったのか?
吉宗が創った御三卿があったから15代までは幕府が存続したとも言えるし、御三卿出身の11代家斉の影響で幕府の寿命が縮んでしまったとも言えるし、一概に失敗とも言えないんですよね…
関ヶ原合戦後に生まれた御三家の祖である三人。
義直・頼宣の将軍家との確執とか、もはやマトモな合戦を知らないボンボン達が無頼ぶってへそ曲げてるようにしか見えないしょぼさ。
徳川義直、頼宣、頼房と甥の徳川家光と年齢差があんまりなかったのも問題だったね。義直、頼宣、頼房からしたら「俺たちは家康公の息子だ。家光あんたは孫。血の濃さからした俺たちが上だ。将軍ってことを笠にかけて、俺たちを風下にしようってか?あんまりふざけた事してるんじゃないぞ!」って感じかな。
@@正木茂雄様 後の御三家の祖たる3人のうち頼房は家光と1つ違いで実の兄弟のように仲が良かったらしく、水戸家だけが将軍家と良好な関係でしたね。
@@アウトローという者 そうですか。後に徳川綱吉が、兄綱重の息子綱豊(後の家宣)を自分の後継ぎにしないのを見て、水戸光圀が諫言して水戸家を煙たがったのを家光と頼房が見たら落胆するでしょうね。「綱吉は何をやってるんだ?」「光圀‥頑固も大概にしないと‥」って。
@@正木茂雄様 個人的な見解ですが、綱吉と光圀って案外似たもの同士ですね
@@アウトローという者綱吉は家康の曾孫。光圀は孫。家康の曾孫は、越後高田藩主、松平光長。紀州、徳川吉宗。彼らを統率しないといけないので、目障りな、高田藩を改易。更には越前福井藩を領地半減にした。
11:59
東海道?
常陸国は東海道だよ。
『水戸頼房は紀伊頼宜の同母弟。だから明確な差が付けられた』って事を説明しないと水戸サゲの理由が伝わらないよ。
あと8代将軍を巡る政治闘争は大河ドラマ【八代将軍吉宗】にて分かり易く学べました。
ジェームス三木氏の原作は【葵 徳川三代】もですが政治ドラマの部分が面白く、近年の軽佻浮薄な大河ドラマとは一線を画しますよね。
水戸はむしろ敵に付かせるための分家だからいいとして、
後から御三卿が割り込んできて、尾張だけなんか可哀想
家継がなくなった時点で、家宣の弟がいたことの説明がない。
問題外
じゃあ見るなよ