【ゆっくり解説】豊臣秀吉は幕府を開けなかったのではなく開かなかった!
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- เผยแพร่เมื่อ 7 ก.พ. 2025
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
ありがとうございます!
ありがとうございます!引き続き面白い動画作ってまいります
関白を選んだことは後々に響きましたね
当時では関白は公家の持ち回り、征夷大将軍は血筋での継承というのが普通になっていたので
親から子(秀吉から秀頼)への権力の継承問題が、関白だとどうしても出てきてしまうんですよね
継承問題自体はあんまり関係ない。仮に将軍だったとしても実権は奪えるし、追放も出来るし朝廷に働きかけて官位を取り上げる事も出来る。
政権No.2が権力簒奪しようとしていて、身内の実力者がいないんだからそもそも詰んでる。
鎌倉殿の征夷大将軍の継承をよく見てみろ。別に血筋の継承ではない。豊臣家が没落したのは、関ケ原の戦いでの領土分配で、徳川系の大名に多く配分されて、徳川家の直轄領が豊臣家の直轄領を超えてしまったから。
秀吉自身は足利義昭に征夷大将軍の座を自分に譲るよう迫った(おそらく義昭の養子になろうとした)けど義昭に断られたので近衛前久の養子になったんですよね?
家康の場合は松平親氏という数代前の祖先が清和源氏を名乗っていた(捏造?)からすんなんりと征夷大将軍になれた
@@KimuraAtsushi それは鎌倉幕府にも言えることだから、結局権力徳川に移っても徳川は将軍じゃなくて執権とかを世襲していくことになるのかな
幕府の語源、関白と征夷大将軍の地位としての比較、など、日本人なら誰でも知っている単語の意味を紹介していて勉強になりました。
関白=天皇の代理≒今の総理大臣
征夷大将軍=軍のトップ≒防衛大臣、幕僚長
なら地位としては
関白>征夷大将軍
ですよね
名目上の地位としては、天皇>関白>征夷大将軍で、関白の方が偉いかもしれない。
だけど事実上は征夷大将軍>天皇≧関白です。
秀吉は、関白と征夷大将軍を兼任した感じです。
やはり実力(武力)がモノを言うので、関白だから偉いってわけではないです。
征夷大将軍≒防衛大臣、幕僚長というよは違うよね。
防衛大臣も幕僚長も、独自でできることは限られている。例えば、防衛省が独自に税金を徴収したり、国民から徴兵したり、罪人を捕まえて裁判にかけて処罰するような権限は持ってない。
しかし、征夷大将軍にはその権限がある。
軍のトップは今でも総理大臣だし
戦前は天皇
って考えると将軍>関白では?
ただ秀吉が実際に知ってる将軍は従三位近衛中将程度の官位官職の義輝とか義昭だからね
そんなに偉く見えなかったのかもしれない
秀吉が成る前から関白職はあったわけで、それが征夷大将軍よりも偉くて命令できるのなら、戦国時代になっていないよね。
要は実力があるかどうかって事だろう。
足利義明は征夷大将軍だが、実力でかなわないから信長に命令できないし、幕府なんて名ばかりで機能してないよね。
信長は天皇より上を狙ったから役職をいらないと言い、秀吉は武家でないのが明確だから征夷大将軍にはなれなかったから、関白という地位で朝廷を利用して政治を行った。
家康は、朝廷に左右されないで独自の政治をしたいと思い、征夷大将軍になり幕府を開いたという事。
義明も家康も同じ位の征夷大将軍ですが、その権威は雲泥の差です。
効率を重視するのなら、幕府の方が良いわけで、秀吉もできれば征夷大将軍となって幕府を開いた方が良かったんだろうけど、出自が武家でないという事は知れ渡っていたので無理だったというのが、一番合理的な考えでしょうね。
秀吉が望むか望まないかは別として、征夷大将軍にはなれなかったというのが正解だと思いますよ。
関白に就けるのであれば征夷大将軍にも就ける。武家ではないから征夷大将軍になれないということはない。現実に宮将軍や摂家将軍は実在する。
身分か低いから征夷大将軍になれないとしたら、関白にはもっとなれない。
喋るん上手いし、水攻めや一夜城等気さくアイデアまでする頭の回転めっちゃいい武将って感じする
朝廷は前例主義で官位官職を任命する時には基本的に祖先の官位官職までしか
任命されない。勿論これには抜け道として家系図を改ざん(信長家康例)したり、養子縁組により氏を変える(秀吉例)がある。
秀吉は最初足利義昭の養子になることで征夷大将軍になることを考えていたが
義昭より養子を拒否されたことで諦めたのだと思う。
そこで五摂家藤原氏の養子になることで関白になることを考え、
その後豊臣性を与えられることで自家を藤原に取り込まれることを防いだと思われる。
なんで時の最高権力者である秀吉が落ちぶれた足利の征夷大将軍を後任するメリットがあるんだよ?
それこそ右大臣なみに縁起が悪いし箔がつかない
足利が養子を断れば秀吉に殺されるに決まってるのに足利が断るメリットはなんなんだ?
それなら関白になるのが一番妥当
いや、実際に義昭は秀吉を養子にするのを断っているから。
@@就辰川
@@sariel1166 「義昭は秀吉を養子にするのを断っているから。」←これは後世の創作で事実では無いよ。
あと、秀吉は正親町天皇から「征夷大将軍」に任官することを提案されてるけど辞退してる。
秀吉の苦しみって現代人には理解しえないものなんですよね
好き嫌いはあるでしょうが、先人に敬意を
〇〇幕府ってのは、明治に入ってから歴史を体系的に整理するのに便宜的に付けたのであって、頼朝・尊氏・家康が「今日から幕府を開きます」って宣言したわけではない。
故に室町幕府はかなり無理があるで足利幕府にしましょう。
鎖国もですね。
@@マヤ平鎖国は明治じゃなくて家斉の時ちゃうか?志筑忠雄がケンペルの「日本誌」を鎖国論って題名にしたのが初めやろ
そうですね。
単純にうまくいかなかった前政権の役職より別の方が良かったのでは?
家康も豊臣政権を挟んだから征夷大将軍を選んだのだと思う。
同一の役職だと前政権の影響が及ぶ可能性があるから
徳川幕府続いたの、幕府開いたからってより、組織しっかりさせたからだと思う。
二代秀忠の功績だね。これに関しては、家康は早くにお飾りの大御所に引き下がって、将軍に丸投げだったから。一応ハンコ押してたくらいで。
征夷大将軍は家柄がよくないとなれないのに、関白は家柄がよくなくても為れるのか?
征夷大将軍は摂家ほどには家柄がよくない人たちも就任している。
鎌倉時代には摂家の征夷大将軍も存在するんけだから、摂家になった秀吉が家柄がよくないからという理由で征夷大将軍に就けないわけがない。
本当にそれ
バカな学者が征夷大将軍になれなかったとかほざいてるけど頭悪すぎ
秀吉はもともと農民出身なので家柄などもともとなかったと思うのですが?
秀吉は近衛家に養子に入ったので関白になれたのですよ
@@ユムユム-t8z
落ちぶれた足利が最高権力者の秀吉の命令に逆らえるわけないだろ?
征夷大将軍になる意味がないし関白になる方が天皇の権威を利用できるからだろ
「養子」ではなく「猶子」ですね。
秀吉が近衛家の養子に入ったなら近衛家を相続できるが、猶子なので近衛家を相続する資格はない。
もし近衛家の養子に入ることができていたら、近衛秀吉として政権を確立したかもしれない。
猶子だと羽柴秀吉一代限りで近衛家の極位極官である関白に就くことができた。
しかし、猶子のままでは近衛家を相続できない以上、羽柴秀吉の一族で政権を維持することができないため、新たな摂家として「豊臣姓」を天皇から賜った。
歴史調べていくと、身分とか家柄に対して凄くあれこれ言われちゃう社会だったってわかるから、こんな時代によくここまで這い上がったもんだなぁって改めて凄い人だと関心します。大河のムロ殿下のセリフじゃないけど、本当に悪口いっぱい言われてきたんでしょうね。
難癖つけて武力で屈服させてるだけだからね
戦国時代なんて
@help100jp
今も昔もどこも変わらんけど
平和ボケし過ぎ
それだけ策略家だったのでしょう。それに勝者により歴史は作られるので、もしかすると徳川家康が嘘の書き換えをしたのかもしれないし💦
なるほどね😮
秀吉の功績って、ホントに頭いいなぁ…
って思うものが多いんだよなぁ。
六波羅(福原)幕府(平氏政権)・安土幕府(織田政権)など鎌倉・室町・江戸幕府以外の武家政権にも幕府の呼称を提唱する研究者もいるから豊臣政権を幕府とする研究者も出てくるかもしれない
秀次に関白は譲ったが、太政大臣は譲らなかったのも何か意味があると思っていたのかもしれないが、この時期の太政大臣は任命されることに意味がある名誉職化していて、任命されては数年程度で辞めるのが通例化していた。なんというか、関白はそのままで太政大臣を譲るのが筋のような気がするが、逆なのはなぜだろうかと思うが、今となっては永遠の謎です。
太政大臣や内大臣なんかは令外官 適任が居なければ任官されない特例的な官職なので譲る性質のものじゃない
逆に関白は普通の官職だから譲る事が出来る 譲ると言っても朝廷に任官されるものではあるけど。
@@戸次伯耆 関白は令外官ですが?
@@neobasara 令外官のなかでも関白、摂政は平安時代以降には常設されるようになってるので同列に語るのは違うと思う
@@戸次伯耆 常設という意味が理解しかねるが、どういう状況を指すのかしら。それと「思う」というのは単なる感想ないし意見ということでいいのか?
@@neobasara 常設とは文字通り、常に設けられている状態を指す それと意見や私見で間違いない
秀次失脚は秀吉の恣意的な命令ではなく、秀次側にも原因があって行き違いの結果として起きた事件...という説が最近はよく聞くなぁ🤔
三法師は信長の孫ですよ
三法師は関ケ原に参戦してたみたいだねー
それも西軍についていたそうですよ
@@ryousuke7289 その配下がわが県の殿様の撤退に道案内を務めたとか
@@ryousuke7289
もはや西軍につくしかなかったよな
関ヶ原前に落城
秀吉自身は征夷大将軍よりも関白にこだわっていたから幕府を開く事に興味なかったのでは?
幕府とは、のちの歴史でそう呼び始めただけで当時は幕府なんて概念なかったと思う。鎌倉幕府を開いたという現象は完全に後付けである。三國志に登場する関羽の青龍偃月刀は、宋時代に製作されたので当時は実在してない武器なのと一緒である
政権を安定させるには関白よりも将軍の方が遥かに良い気もするけど、あんまり長期政権を想定してなかったのかね
当時の征夷大将軍は足利義昭 京から追われただけで官職が取り上げられた訳じゃないから追放されても将軍は足利
なので幕府を開くのに足利の養子に入ろうとして断られて仕方なく近衛の養子に入り、関白にってのが流れのはず
江戸幕府が上手く行ったから将軍が幕府を開くのが安定的なイメージあるけど、当時的には鎌倉も室町も失敗政権だからね?
@@戸次伯耆 幕府を開くのに足利の養子に入ろうとして断られて仕方なく近衛の養子に入り、関白にってのが流れ←は後世の創作やね。1584年に朝廷から将軍職への任官の提案を秀吉が断ってる。
征夷大将軍なんか、たいした官職じゃないんだよ。
源実朝なんて従五位下で征夷大将軍に任官してるからね。
高い官職なら従五位下で任官するなんてありえない。
秀吉がそんなショボい官職で満足するわけない。
それより、その時、義昭がまだ任官してる状況なら、まずは義昭を解官しなきゃいけないしね😊
家康は新田系源氏を強調する為に完全に没落していた山名豊国を優遇したよね
因みに幕府ゆー言葉が誕生したんは江戸時代中期辺りに誕生したそーな😲
信長は『平氏』でしたよね。
アシカが幕府を開く。
犬や芋が将軍になったり。
秀吉は斎藤道三の由縁によると木樵とされているね まぁ山の民だった つまり農民ではなかった 木の下の苗字もそこからで 端柴拾いキチが羽柴秀吉の名乗りにも繋がった 風水に長け 木材の運搬や水流の扱いの知恵があったと見るのが自然 当時は平野で合戦をして小山に築城が常だったので 信長は重宝したのだろう
源平藤橘と言って、秀吉はこの家柄じゃないから近衛前久の猶子になって無理やり関白になったんだよ
後陽成天皇は秀吉を気に入っていたから厚遇したんだよ
その代わり家康は仲が悪かった
家柄なら関白なんてなおさらなれねぇだろww
アホか!
落ちぶれた足利の征夷大将軍を後任するメリットがないからに決まってるし足利が当時の秀吉の要請を断るほどの権力なんかあるわけねぇだろww
征夷大将軍は天皇が任命する役職です。
方や関白は天皇を補佐する立場の人で言わば天皇=関白と言ってもいいほどの役職。
位人臣を極めてるのです。
それによく言われる源氏の子孫ではないとかなんとかってのも、天皇から豊臣性を下賜されてるので源氏とか農民の出とか関係ないのです。
太政大臣で従一位で位人臣を極めた秀吉がそれよりもずっとしたの位である征夷大将軍なんて必要ないし見向きもしなかったでしょう。
まぁ上杉謙信との戦いの手取川の戦は真っ向から戦う柴田に策略使う秀吉は対立して負けると読んで逃げた秀吉が正しいけどな。信長は真っ向から戦い勝つのが目標(策を使わず勝てば後々他のだいまが臣従しやすいから)だったからだけどな。
秀吉の策に乗っていれば労せず勝てたのにな…
当時は征夷大将軍で足利義昭が存命中だから義昭より高い位を求めただけでは?
幕府は武家のやることですよね。
秀吉さんは関白ですよね。
今も昔も家系図屋がいますからね。 ただ、秀吉の如く一代であそこまで駆け上がるとさすがに、源平藤橘は無理がありますね🐧(笑
戦国期の武家はほとんどが自称末裔だもんな
徳川も源氏なのか藤原なのかはっきりしないし、むしろもっと卑しい身分が始まりだったとまで噂されてる
養子に入れば解決。
ハッキリ言って関白の方がより上位の官職。
小牧長久手の終戦は、家康が戦巧者だったことより天正地震と言うアクシデントの要因の方が大きいだろうね。
あれがなければ、家康も終わっていただろうと思う。
秀吉が「征夷大将軍」になれなかったのは、出自や家柄もさることながら、(事実上、室町幕府は崩壊してはいても)現職で 将軍 足利義昭が存在しており、朝廷から「征夷大将軍」を任命される余地はなかった、よって、義昭の養子縁組みまで試みている、実際…
でもその気になれば将軍を辞任させるくらいは出来るだろうし、朝廷を動かして将軍位を剥奪する事も出来る。それをやらなかったのはそもそも将軍位に前のめりではなかったからだろう。
我々はその後の徳川幕府を知っているから将軍に就任して幕府を開くのが安定の近道というイメージがあるが、秀吉存命時の認識だと鎌倉も足利も早々に将軍は権力を失い家臣の専横祭りの失敗政権だから必ずしも将軍になる必要はないと考えても不思議ではない。
1584年に朝廷から将軍職への任官の提案を秀吉が断ってるから、将軍 足利義昭が存在とか言うのは関係ない罷免するだけ。あと、「義昭の養子縁組みまで試みている」ってのは、根拠のない創作ね。
墨俣一夜城はおそらく作り話だよ。 稲葉山城陥落は小牧城築城による威圧がきいて調略が進んでいった説が今のところ有力。
動機の出発点は秀吉自身の出自に対するコンプレックスだろうか。
同じ武家連中にすれば秀吉なんて何処の馬の骨だってこと。
だったら武家のトップに過ぎない将軍職と幕府よりは
天皇代行者&代理人である
摂関ポストを選ぶ方針になったのかなと。
天皇代理人代行者が日本を統治するのは当然であり
摂関家に逆らうモノは天皇朝廷に逆らう朝敵逆賊であるというロジックが
秀吉と豊臣摂関家の論理であり
天下人としての正当性を担保できることに気付いた!
もちろん絶対的実力武力の裏付けあってのこととは言え
それはあくまでも武家限定の征夷大将軍幕府である必要性がなく
公武共に包摂できる摂関政治のほうが
より優れているという秀吉の判断だったのかと。
それが証拠に具体的には
九州平定も小田原包囲戦も東北平定も
全ては天皇代行者代理人の命令という形で遂行され
諸大名に対する軍事動員令も同様。
島津や北条に対する最後通牒文書にも
天皇朝廷に逆らう逆賊であるから膺懲征伐するといった概要で記されている。
さらには永久世襲制摂関家としての豊臣家の確立をも図るべく
豊臣家長者は藤原家長者をも兼ねるモノとされた。
これにより事実上全ての公家衆は
豊臣家の家礼衆として絶対服従することにもなった。
朝廷公家衆をも支配下に置き
武力実力を以て武家も服従させる…
秀吉と豊臣家の権力支配の源泉と根拠は
まさに天皇代行者&代理人としての
永久世襲制摂関政治にあったのだという見解。
藤原元経ではなく基経です。
木曽義仲公が朝廷より賜った官職は征東大将軍だったと思います。
幕府どのみち倒幕されるからな
250年後になwww
猿政権は短命で草
終わってるからどのみち一緒やぞ
むしろ無駄になったまであるぞ
後世の人が武家政権の歴史を分かりやすくするために命名しただけだもんな。
鎌倉も室町も幕府を名乗っていない。
信長や秀吉は武士の棟梁ではなく、朝廷の上を目指したわけだから将軍に意味を感じてなかったのかもしれない。
足利義昭がまだ将軍のままだしね。
そもそも我々は徳川幕府が安定政権だからその先入観があるけど当時としては鎌倉も室町も将軍の権力など早々に喪失して家臣に乗っ取られてる失敗例。
征夷大将軍は左大臣くらいだもんな。関白太政大臣のほうが位は上だよね。
藤原氏全盛以来言われた、「一の人」は摂政関白太政大臣を指しますもんね。
生きてる人間(臣籍)最高位の従一位相当。
幕府将軍はどんなに上ってとも正二位であり、征夷大将軍は従一位相当ではない。
ゲームでの話なので、実際はどうなのかは少々あやしいですが……
室町幕府12代将軍足利義晴、15代将軍足利義昭は正三位大納言、13代将軍足利義輝は正四位下参議とされていますね。
なので征夷大将軍も官位としては正三位〜正四位下辺りが妥当なのかな?と( ̄▽ ̄;)苦笑
まあ現役征夷大将軍の相当官位インフレが発生するのは
大概は絶対的権力やら長期安定政権下においてですので。
従一位なら家康秀忠の大御所時代の太政大臣。
家光の現役左大臣。
家斉の位人身極めた現役時代の太政大臣か。
不思議なのは義満義教あたりは当然としても
室町期中盤以降の混乱期に
義政義尚が
共に征夷大将軍現役で従一位左大臣になってるけど。
安定政権でもない絶対的権力もない親子二人の雲の上的な待遇…
諸権門への抑えと調停権能者としての認知認識が
高位のポジションと推戴した理由だなあと。
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、奥州征伐の名目だったかもね。奥州藤原氏は蝦夷という認識だったから。任官は奥州征伐に間に合わなかったけどね。という、私の認識。
その通り。将軍と言うのは本来ただの軍司令官で政権トップではない。ただ、将軍には必要に応じて徴税や軍役を嫁したり一々朝廷にお伺いを立てずに判断して実行する権限がある。
この権限を極限まで拡大解釈したのが鎌倉幕府。以後の幕府はこのやり方を踏襲した。
征夷大将軍が征伐したのは東北地方の蝦夷(えみし)であってえぞ(北海道)ではないぞ
征夷大将軍を志向しても関白でも豊臣家支配が長く続かなかったのは変わらなかったんではないかな
何せ後継者を支える血縁者が少なすぎた
征夷大将軍かどうかより秀長がもうちょっと長命だったらのほうが影響は大きいと思う
それでもどこまで続いたか分からんけれど
全盛期の秀吉なんて何でもできた。
将軍も朝廷のひとつの役職だから何とでもなった
と思うが、近衛の養子に入り位人臣を極めた関白
の方が上なんだから、最終的にはそこを狙ったと
思う。従来の武士たちは身の程を知っているから
武家政権を考えて将軍を最終目標にするが、そも
そも秀吉はそういう武士の概念はないのだから、
天皇に次ぐ人臣ナンバーワンを選んだということ。
近衛前久の猶子になったから豊臣朝臣になっても家格は摂関家になり豊臣秀吉は関白太政大臣になれた。徳川家康は格下の清華家。だから征夷大将軍と太政大臣にしかなれなかった。
どこから突っ込んでいいのか判らないが信長の甥?三法師は嫡孫では?
西南の平家討つのに征夷はおかしいな...と思ったが、もう場所じゃないんだ、平安末時点で。
これに関してはフィクション交えて面白い見解があります。
大河ドラマ葵徳川三代で
福島正則加藤清正両人が
家康に対して征夷大将軍の意義とは何ぞや?
まさか豊臣家を滅ぼすための大義名分ではありますまいな?
と詰め寄るシーンがあって…
家康の返答が
今や征夷大将軍の征夷とはそのような国内だけの狭義なモノじゃないのだ!
海の外側にはスペインポルトガルイギリスオランダと
日本を虎視眈々と狙う国々がある。
これに対して備え、日本を安んじることこそ
今の征夷であり征夷大将軍の存在意義だと考えるが。
この儀如何と心得るか!
と鋭く凄んで切り返すワケですが(笑)
津川雅彦の迫力満点と
タジタジでぐうの音も出ない
蟹江敬三&苅谷俊介両人の演技が面白いシーンでしたが(笑)
@@長田清司-z2h さま 津川雅彦御大も蟹江敬三さんも鬼籍に入られた。 昔はいい役者が多かったね。 そういう事を言うこと自体、爺だけどね 🐧(笑
秀吉はピラミッド型の官位の序列に大名たちを組み込むことで、スムーズな支配を目論んだんだと思う。
小牧長久手で苦戦して、大地震で痛手負って、武力一辺倒での全国支配がいかに大変か知ったんだと思う。
農民の出自で天下人まで登り詰めるってのは、常人には出来ることじゃないですよね。
秀吉は良くも悪くもサイコパスだったと思う。
ほんとに百姓の出だったのかな
そのかわり、関白太政大臣だからね
1 源朝臣で無いから 家康も新田源氏の系譜を手に入れたから 足利、新田、佐竹、武田が直 今川は足利支流 里見も新田敬系
室町期を挟んでいるんで足利一門の家職とみなされていたようだね
徳川幕府四代家綱の後継問題が起きた時に
大老・酒井忠清が宮将軍擁立案を
出しているから当時の認識としても
そこまで絶対的に
征夷大将軍は清和源氏でなければ
ならない
という認識では無かったようにも
思えますが…
室町時代は足利家の家職だったとはいえ、南朝には宮将軍が立っていますし、鎌倉時代は摂家将軍、宮将軍が続いている。
そもそも朝廷としても関白職を武家に奪われるくらいなら、征夷大将軍で満足してくれるのであればどんな家系の出であれ征夷大将軍に推任するよ。
@@三川-w6s 一応関白になるために家格ロンダリングしたわけで…これは室町時代というガチガチに家格秩序で縛られた時代を経たので
乱世とはいえ秀吉は既存の権威を利用することになったのだから手順は踏むわけよな
征夷大将軍の方は足利本家に断られたが、近衛家の方はその意図はなんであれ良かったという所ではなかろうかな?
足利義昭に猶子のはなしを断られたからといっても、清和源氏なんてどこにでも転がっているだろ。
徳川家康なんて新田の傍流の世良田氏なんて末枝の家系を名乗る程度で征夷大将軍に推任されたわけだから、世良田氏と同レベルの末端源氏ならいくらでもいただろ。
今川、喜連川、吉良、岩松、山名、里見、畠山、細川、一色などなど、家系図を売ってくれる源氏には困らないだろ。
逆に徳川が足利によって地に落ちた征夷大将軍を再利用
信長:ん、どれか? 三つともくれー 睨
天皇: 考えさせてもらう 汗
信長: 手伝おうか? 刀
歴史に詳しくないんですね
私が開かせなかった👌
家康の素性もそんなに由緒正しくないのか・・・
でも、日本人はほぼ皆神武天皇の子孫ですからね 🐧(笑
義昭は信長によって追放されたのちも、征夷大将軍の地位、および従三位・権大納言の位階・官職を保持しつづけた。『公卿補任』には、天正16年1月13日(1588年2月9日)に義昭が関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり、正式に征夷大将軍を辞するまでその地位にあったと記録されている。200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、そのため、信長も義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めず、朝廷も積極的に義昭の解任の動きを見せなかったともいわれる[328]。
『多聞院日記』によると、天正12年(1584年)10月16日に秀吉は正親町天皇から将軍に任官するようにとの勅定を受けていたが、これを断ったとされる[351]。秀吉は信長と同様に、将軍への任官を望んでいなかったと考えられている[359]。なぜなら、秀吉こそが、将軍・義昭を庇護した毛利輝元や、義昭の調略を受けた諸将を撃破し、義昭の将軍権威を叩き潰した張本人だったからである[359]。
天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭に大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、これを拒絶され、やむなく関白になった、という逸話が伝わる[351](『義昭興廃記』『豊臣秀吉譜』[358])。だが、これは林羅山の説が初出であり、将軍を神聖視する羅山によって捏造されたものであると考えられている[351
…面倒くさかったのかな?😓🚬
将軍は文字通り軍団を率いる武官でしかなく、別に政権トップと言うわけではない。頼朝などは関東の豪族を従えて私有と言っていい軍事力を保有していたので、その実力を背景に臨時の軍政を敷き、その臨時が延々と続く裏技で権力を保持した。
なので軍事力を持たない足利義秋から将軍位を取り上げる必要性を感じなかったのではと思います。
天皇の最側近である関白太政大臣になれるなら幕府みたいな裏技的支配ではなくて正攻法で天下を統治出来る。
中身、見てないけど武家の出でないから将軍になれない
それで公家と縁戚になって関白という名目で権力者の
地位を築いた
おまえを嫁に貰う前に言っておきたい事がある♪
秀吉はもう少し長生きできていればな。あと朝鮮出兵しなければまた違った歴史になっていたのにな。
秀吉の母方の一族はサンカらしい。
(っ´ω`)っ⊂(´ω`⊂ )なにこれ 当時関白職を巡って二つの家が争ってたから、天皇が代わりに秀吉に関白職を与えただけで本人の意向もくそもないだろ
話の流れで関白についただけで、別に征夷大将軍になれなかったわけではない その証拠に天皇から征夷大将軍を推任されてるが、本人がそれを断ってる
関白は地位や役職じゃない。立場だ。
豊臣秀吉が天下人であることは疑わない事実。
天下を統一し支配する偉業を成し遂げた。
しかし天下人であることを認めて役職を与えるのは帝。
武士の世になって久しいのに与えられる存在でしかない
天下の頂点は常に帝。
戦前まで綿々と続いてきた。
他に類を見ない権力継承。
後者が幕府って言ってるだけw
世間体を重要視したからでしょ
この頃は征夷大将軍といえば足利血縁者しか認められない存在だったし
東島誠氏の幕府とは何かを読んでください
このえまえひさではなくさきひさです。
経歴詐称が当たり前の時代に
源氏でないからなれなかったなんて考えられないよなあ
単純に魅力を感じなかったんだろう
征夷大将軍には源氏の子孫しかなれないとか習った気がする🤔
いや、鎌倉時代、4~9代の征夷大将軍は、摂関家や皇族がなっていましたね
@@atoz0x0
源氏=天皇家の血筋だったかと
鎌倉幕府については北条氏が将軍職を求めたが却下され、公家に嫁いだ頼朝の姪?の血筋をつれてきて執権を行ったはずだったかと?
室町時代は言わずもがな🤔
詳しい文献等ご存知でしたご指摘願います🙏
ちなみに武士の棟梁たる役所に農民あがりの秀吉はなりたくてもなれなかっただったと思います(朝廷は三職から将軍職を除いた2職を打診)
征夷大将軍は武家の棟梁である源平藤橘の4家がなれる。
幕府とは将軍の天幕のことだ。
墨俣一夜城については、信憑性が疑問視されています。
あと備中大返しもね。
賤ヶ岳の七本槍は後付やん…
家臣の箔付けに名前を利用したんや…
諸説あるが、家康を討てなかった時点で天下に武威を示せず、武家の棟梁たる根拠が揺らいだためというのがしっくりくる。それに信長が追放し流浪将軍だった足利義昭が結局死ぬ(1588年)まで辞任しなかったのもある。取り上げるのは簡単だっただろうけど。
秀吉、まだ【羽柴】の頃なのにどこから大量の資金を得ていたのか、気になる。
柴田勝家との喧嘩で撤収したってのも作られた話じゃないかといわれていますね😮
たしか三国時代の呉の将軍が幕府を開いてなかったっけ?
天下人な訳だからわざわざ天皇の下について二回も失敗した幕府をやろうなんて思わないよね
従一位関白太政大臣と従一位征夷大将軍太政大臣どっちが偉いんやろね?
関白に決まっとるやろ
しかも秀吉は太政大臣だから位人身わ極めてる。もう上には天皇しかいない
え、清天大帝孫悟空?😂
秀吉が成る前から関白職はあったわけで、それが征夷大将軍よりも偉くて命令できるのなら、戦国時代になっていないよね。
要は実力があるかどうかって事だろう。
足利義明は征夷大将軍だが、実力でかなわないから信長に命令できないし、幕府なんて名ばかりで機能してないよね。
信長は天皇より上を狙ったから役職をいらないと言い、秀吉は武家でないのが明確だから征夷大将軍にはなれなかったから、関白という地位で朝廷を利用して政治を行った。
家康は、朝廷に左右されないで独自の政治をしたいと思い、征夷大将軍になり幕府を開いたという事。
義明も家康も同じ位の征夷大将軍ですが、その権威は雲泥の差です。
効率を重視するのなら、幕府の方が良いわけで、秀吉もできれば征夷大将軍となって幕府を開いた方が良かったんだろうけど、出自が武家でないという事は知れ渡っていたので無理だったというのが、一番合理的な考えでしょうね。
秀吉が望むか望まないかは別として、征夷大将軍にはなれなかったというのが正解だと思いますよ。
その名前だと小弓御所の人物ですよ。
将軍になれなかったわけないだろww
じゃあなんで将軍にはなれないのに天皇に次ぐ関白にはなれたのか説明頼むww
落ちぶれた足利の征夷大将軍の後任になるメリットがないから関白になった方が天皇の権威を利用しやすいし家康を従わせるのに都合がよかったからだろw
信長が天皇を越えようとしていたなんて話は小説の中の話で一切の事実の裏付けはないよ。
歴史的な信長の人物評価は安土桃山時代から戦前まで一貫して「尊皇家」
また、将軍になれなかったから、と言うのも間違い。秀吉が「豊臣姓」を与えられた時点で源平籐橘と家格は同列。
それから官職の序列では将軍より関白の方が上。
将軍になれなかったから関白なんてのは見当違いもいいとこ
@@KimuraAtsushi
>将軍になれなかったから関白なんてのは見当違いもいいとこ
実際なれないでしょう。
自出がはっきりしてないから無理だよね。
義明の養子になろうとして、断られてるでしょう。
だから、公家の養子になった。
なら関白しかないでしょう。
小説の上なんて言い出したら、安土城ですら立ってたのかはっきりしてないよね。
知ったかしてもらっても?だね。
@@nisyas4796 いや、安土城は遺構も残ってるし同時代の文書でも複数確認できる。信長が天皇を越えようとしていた、なんて資料は小説や漫画の中にしかない。根本的に間違えてるよ。
それと将軍になれない根拠はない。ならなかっただけ。
だいたい出自が明らかじゃないから将軍になれないなら何で関白になれたんだよ、と。自分でロジックが破綻してると気付いてほしいな。
普通に考えて同じく源の血筋の家に養子に入れば解決だし、その後豊臣の姓を賜ったのだから源平籐橘と家格は並んでる。
知ったかはどっちだって話。
豊臣幕府を作っても亡くなった後 徳川家康に倒幕されそう😅
織田家は立派な武家ではない。単に天下を治めかけただけだ。
幕府は軍事府の事
関白は政府の役職なので幕府は開きませんよ(笑)
近衛前仁は近衛家のお家騒動収拾の為秀吉を養子にして左大臣にしたんだろで近衛家に左大臣を返すのに関白と豊臣姓を賜ったんだろ
源氏だから、うちはなれるな😊
後付で源氏じゃないと将軍ダメ。
日本の嫌なとこ。
秀吉は、農民てわけじゃないんだよなあ 足軽侍の家だったわけだし…
百姓ってかなり裾野が広い意味らしいし、多少はね
やんごとなき身分の方々からすれば百姓も足軽も同程度にしか見えないからね
信長が貴族になる方向だったので秀吉もそれを踏襲したのでしょう。
足利義昭が征夷大将軍であり、信長はその後釜に付く気はなかった。
基本、秀吉は信長のフォローしかできない男。
織田政権を継承したんだから、信長が志向していたルートが順当なのは当たり前。あえてオリジナリティを加えてハードルを上げるのはバカのやること
足利義昭を口説けなかった…😂
の、退き口・・・
豊臣じゃなくて木下ね!
どうせなら宇宙大将軍をやってほしかったな
もし、平氏や豊臣家が清盛や秀吉の次代以降もしっかり続いてたら彼ら共々征夷大将軍じゃないけど、「福原幕府」とか「大坂幕府」って呼ばれてたのかな。
豊臣家は関白、公家、
幕府は征夷大将軍、武家
松下嘉平にはもう一人の有名人と接点がある。柳生十兵衛の母方のお爺ちゃんなのだw。
ちなみに、「幕府」とは事務所みたいなもので三位以上の貴族なら誰でも開けた。
だから幕府と名乗らなくても、豊臣政権としての「幕府」は存在していたと言える。
征夷大将軍の幕府ではないだけで・・・
余り良く知らない方々ですね。政治を行う府は大将軍でも開けるが、内大臣、左大臣、右大臣でも開ける。元は漢の官僚制からで、この為に徳川内府とか織田右府等と大臣職の呼び名となっていた。近衛府の唐名でもあり、頼朝は右近衛大将から府を運営する大義名分をもったはず、それすら大江広元が漢の衛青も大河匈奴の辺りから捻り出しただけで。鎌倉も室町も安土も大坂も江戸も公儀であって、征夷大将軍になって幕府を開くちいうものではない。
勝家は対立したから葬儀にでなかったのではない。上杉と越中の一揆対応でうごけなかったのだ。
きちんと解説してくれ
確か幕府を開くには源氏の血筋でなければならないから家康は確か家系図を作成していたから将軍になれたのではなかったっけ?
落ちぶれた足利の征夷大将軍を後任するメリットがないからに決まってんだろw
関白の方が天皇の権威を利用しやすいし家康を従わせるのに都合がよかったから😊
三英傑の中で1番信長が保守的で穏やかで優しいと思う
秀吉は冷血な独裁者だと思う
家康が1番バランスがいいと思います。
信長は保守的で優しい時は優しいけど急に厳しくなったりで疲れそう。
@@shangtian-i3c
家康めちゃくちゃ激昂しやすく短気じゃなかったけ?
@@坂田金時-q7f
他の二人はもっと短気じゃない?
@@shangtian-i3c
信長が家康より短気なん?
@@shangtian-i3c
信長が家康より短気って資料とかからみて連想できないんやけどどういう部分がなん?