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最大の裏切り者は、大将でありながら逃げまくった毛利輝元
戦後改易された小川祐忠や赤座直保の方が裏切りといえると思います。
小早川は二条城攻めにキッチリ参戦してるから裏切り者でしょ
三成は、嫌われすぎですね。状況で仕方なく西軍につく大名も多かったと思われます。島津も、東軍につきたかったみたいですし、実際は、表面だけ西軍がおおかったのでしょう。
市橋先生は旧説を否定するのでなく、逸話を無意味とするのでなく、新しいものや古いもの、観客の知識と新しい知識を衝突させず、白黒つけるになくお話されるのが凄いと思います。生半可な知識の人間に限って白黒をつけて話したがるのかも知れません。歴史は事実や証拠以外にも、解釈も重要にもなります。新説があるから、旧説は無意味なのではなく、それを解釈している人々に新しい知識を紹介する、という立場に徹していらっしゃるのかもしれませんね。勉強になりました。
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なんでこんなに三成だけが嫌われてると思ってる人多いんだろ
やっぱり!西軍は山を利用した城塞陣地を作っているに違いない!と思っていました。石田三成の想定では、大軍で陣地を守って東軍と対峙している処に、秀頼を連れた毛利輝元が現れて、秀吉ゆかりの千成り瓢箪の馬印が上がり、豊臣の桐紋の旗が林立する···という筋書きだったと思います。想定外だったのは、小早川が言うことを聞かないで早くから要所の松尾山に陣取ってしまったこと。西軍の諸将は、それまで西軍の一員だった小早川が東軍として動いた時点で勝ち目がないと内心思っていたのでしょう。東軍の功労第一は小早川で私は納得します。徳川家康にしてみれば、秀秋はもともと秀吉の養子だったから豊臣一門と言っていい。それが味方に着いたのだから、形勢は一気に東軍有利に。大満足だったでしょう!
小早川秀秋が裏切り者でない、のならば初めから東軍に加わっているべきでしょう。西軍のふりをしていながら、家康と内通していたというのは、裏切り者そのものだと思いますが、、。
どうも。最近楽しく観させて頂いております。一点疑問を言いますと、秀秋が裏切りでは無いと言いますが、「内通」していた以上、三成サイドから見れば「裏切り」なんじゃないでしょうか。それとも最初から家康サイドに就いていたのでしょうか。ただ諸々の情報だと三成サイドで参陣したとあります。その上で「内通」してたのだとしたら、それは「裏切り」かなと。辞書をみても「内通」は「裏切り」とあります。ですので本仮説には疑問を感じます。大事な論点ですので、ご見解ありましたらお願いします。
小早川秀秋は三成の家臣でも、吉継の部下でも無かったですから、東西どちらに付こうが勝手というか自由、それに彼が大阪に辿り着いた時には、既に西軍に抑えられてたら、取り敢えず付くしかないでしょう、それか「東軍に付くために遥々来た」と、馬鹿正直に言って皆殺しにされるか?
西軍の敗戦原因とは何なんでしょうか? 広家や秀秋の性格・動きを三成が以前から察知出来なかったということでしょうか? 三成が生真面目過ぎたのかな? 多くの自軍を長年持ち百選錬磨の家康と少し前まで官僚に過ぎなかった(家康側についた元秀吉配下の武将はすべて現場組)三成との器の差ですか?
日比野家一族も関ヶ原の合戦に関係あります日比野家一族の本が愛知県一宮市の図書館にあります
実際、上杉討伐から家康に従ってきた東軍諸将からしたら、(不本意だったのかもしれないが)伏見城攻めに参加して家康の幼馴染み部下を自害に追い込んだ小早川はそれだけで裏切り者感覚でしょ。いかに開戦から東軍化してても。
浅野幸長は、「ゆきなが」じゃなくて「よしなが」だよね?
その通りです。ご指摘きありがとうございました。人名、難しいですね。
え?。人それぞれ裏切りの解釈は違いますが、参戦時は石田方として参戦してるので立派な裏切りでしょう。
面白かったです。小早川の話は以前から見聞きしてはいたのですが、大谷隊の様子を上から見ていたわけですね。加藤剛が主演したTBSの「関ヶ原」では、金吾が「これから裏切る!」と言うわけですが、武将があんな風に自分で「裏切る」などと言わないだろうと思っていました。
民法がやるとどうしてもエンタメよりになりますよねw
徳川方から見れば小早川は内通していたから「裏切りではない」が負けた西軍から見れば「裏切りだ」ということでしょうか。日本人は判官贔屓だから仕方ありません。後世の講談や軍記物の影響が強いのではないでしょうか。
小早川は未来永劫裏切り者と呼ばれるべき
内通してたら裏切りではないのですか?裏切りの定義の仕方がおかしいのでは?
そこが難しいところで、三成が秀秋の意に反して、秀吉の血縁者だからと勝手に西軍に組み込んでいたとしたら、裏切りにはならないんじゃないのかなと。
脇坂安治は藤堂高虎の仲介で徳川方に寝返る事前通告をしているのでセーフ残りの三隊は完全に裏切り者
私は滋賀県在住者ですが朽木も存続して小藩ながら大名してましたよ。
いつも楽しく拝聴させていただき、また多くまなばさせていただいております。ありがとうございます。今年は大河のこともあり、関ヶ原4回行ってます。多分あと2回は行くと思います。笹尾山も松尾山ものぼりましたが、関ヶ原で戦があった場合、松尾山押さえたほうが勝ちと思いました。西軍の布陣決めたのは三成なんでしょうか。同行が微妙とは三成も感じていたでしょうから、小早川を松尾山に布陣させたこと不思議に感じてます。
関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとのことですが。関ヶ原の戦い後の東西両軍の勢力を教えて下さい。特に大坂城にはどのくらいの兵力が残っていたのですか?それらをまとめてーーーもう一戦。は可能ですか?たまたま関ヶ原の戦いのあと、西軍が手をあげたから、関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとなっただけで。という考え方はーーー。どうですか?それと石田三成が首謀者のように扱われますが。実際はどうなのですか?豊臣家(もしくは三成、五奉行ですか)主導でやりたかったーーーのであのような形に。という考え方はーーーどうですか?毛利輝元が実質的な総大将ならば、どうして関ヶ原に来なかったのか?西軍は、毛利は実際、どこで東軍に決戦を挑むつもりだったのか? 輝元の出陣は大津城、田辺城が片付いてから。その兵をまとめて。ということですか。大津城、田辺城が、(他には何処が)落ちなければ。輝元は大坂から動けませんか?となると決戦はーーー何処になりますか?大垣の東か。まあいいか。その前に関ヶ原の戦いが。大軍が戦えそうな場所は京都から江戸までの東海道沿いにーーー何ヶ所くらいあるのですか?当時の武将ならばーーー即座に何ヶ所かは。まあ家康は美濃に福島たちを前衛として送っていますし。それ以西ですか?たまたま家康が関ヶ原に。たまたまそこに居た石田三成たちが戦い、敗れた。という考え方はーーー。関ヶ原の戦い自体が前哨戦だったーーーということは?しかし。その後、戦いを続けようにも。毛利輝元が逃げては。南宮山の毛利軍。関ヶ原の戦い後、どうなったのですか?大坂へ無事、帰れたのですか?何らかの事情て。兵力不足か。戦意喪失か。どちらですか?関ヶ原の戦い前に実際、大坂にどのくらいの兵力が。それに比べて家康のもとには?圧倒的に西軍が多かったということはーーーないですか。そのあたりを書いたモノはーーー。あまり。まあいいか。
新説だと、かねてより西軍の命令を無視して不穏な動きをしていた小早川秀秋が西軍の武将を追い出して松尾山城を占拠、西軍側はそちらを警戒しながら取り囲むように陣を構えていた。(発掘調査で松尾山方面を警戒する陣跡あり)石田三成は裏切り発生で後方が脅かされ、大垣城も包囲される可能性があった為、大垣から関ヶ原方面に強行軍で移動、そんな中、大垣方面から東軍先鋒部隊が予想以上の速さで進軍してきて総崩れとなり、勝負がついたという感じだったと思う。
小早川秀秋は酒の飲み過ぎでしょう。十代で黄疸症状出てる記述あるし
まあ、時代的に10代で酒を飲んでた人は他にもいたでしょうが。体、壊すほど飲んだ人ってあんまいなかったようで。
@@ソヨモルゲッ-c3c 逆ね、かなりの人が酒におぼれて体を壊して亡くなってる。特に室町時代から酒造量も増えていく。その代表者が、上杉謙信だったりするし戦国武将の多くは酒で体壊す傾向にありだからこそ、織田信長なんかも「酒はたしなむ程度」とと慎み藤堂高虎・本田忠勝なども「酒は害だから酔うほどには飲むな」と説いている。
@@船木祥啓 いや、秀秋みたいに若く死んだのは、という意味で。大抵はもっと歳をとってから死ぬのが多かったですが。
@@ソヨモルゲッ-c3c それが結構いるんだなこの時代はwまぁ江戸時代もだが
裏切り者と言われたのを気にして酒に逃げたんでしょうね
本筋とは違うけど、吉川広家の弁当食べてから❗の話好きです
葵徳川三代でも、この描写はありました。なべおさみさんが吉川広家役でしたね。
かの黒田官兵衛でさえ、関ケ原の合戦が1日以内で終わるとはまったく想像しなかったそうですね。現場の当事者だった武将たちは、ここまで早い決着をあらかじめ、ある程度想定していたのでしょうか。孫子兵法の地形篇には最初の方で「可以往,難以返,曰挂;挂形者,敵無備,出而勝之,敵若有備,出而不勝,難以返,不利」と書かれており、これがまさにあてはまるようなことがあったのかな? 歴史に if はないが、武田信玄ならば、どう戦うのだろうかとか、いろいろ想像します。
当然先祖代々からの日比野家一族は僕もその本を持ってます見せましょうか?!😅
アルコール依存症です。 一時は豊臣家の跡継ぎと持て囃され、十代から酒に溺れて体を壊していたらしい。 裏切り者の濡れ衣を着せられさらに酒浸りになったのかもしれません🍶。
関ケ原の戦いの実相がパニック的退却戦だったというのは興味深かったです。戦いの時間が4時間ぐらいで決着が付いたということでしたっけ?これはあれだけの大人数が移動する場合、戦ったというより撤退するのにかかった時間と考えれば納得できます。小早川は裏切りであることには変わらないと思うのですが、それが分かった時点で前線が雪崩を打って崩れたのが本当のところだったと思います。イメージとしては長篠の戦いの武田軍が戦わずに撤退した場合を考えれば近い感じでしょうか?徳川が前進したというのは追撃戦に入ったということであり、毛利は前線に取り残され動けず、島津はその流れに逆らって前に突入した。(毛利も最初から中立の立ち位置だったでしょう)こう考えるとたしかに時系列が腑に落ちる気がします。
最終的には守ったけど、三分の一にされて家を守ると言う表現はなんかピンとこない。
その恨みを忘れず、代々それを伝え続けたから、維新では長州が最終勝利者になったのだけれど。三成の子孫は維新に関われてないのだから、家を残すことは重要だよ。
西軍の武将として西軍側に陣をはっていたからには西軍として東軍と戦うのが筋だと思いますが裏切り出ないなら東軍に陣を張るべきです、事前に内通することがすでに裏切り行為じゃないですか?
徳川家康は三成を内心リスペクトしてますよね。三成の子女は高僧になったり、逃亡を黙認されたり、然るべき家に嫁がせたり、召し抱えにさせるなど厚遇されてますね。
実際に3女は津軽藩主に嫁いで次男が津軽の重臣になった。結局家康の養女が津軽に嫁いだから3女は側室に格下げされたけど、3女の息子が三代目になった。家康の養女が生んだ息子も分家して旗本になった。だから、関ヶ原で敵対していた中心人物の孫が異母兄弟というカオスな状況。しかも、三成の子孫が三代将軍の側室になって生まれた娘が尾張に嫁いだ。結局尾張が将軍になれず紀州が将軍になれたのはそれが原因かな?
家康は三成を高評価してたみたいです。家康は三成を、うまく誘導して西軍を蜂起させたようです。豊臣家を分裂させて力を削ぐために。愛知県稲沢市・尾張北西部に石田三成家代々の碑があります。三成の兄が尾張藩にでも仕えて居たのでしょうか。
私の大学時代のクラスメートの嫁ぎ先である観世流能楽師の芸名が小早川。これは小早川秀秋の子孫と関係があるのかなぁ? と思いながら、まだ訊く機会がありません。彼女の旦那様自身は、小早川は能楽師としての芸名で、本名は別にあるので小早川秀秋の直系の子孫ではないとは思いますが、能楽師の家系ではあるようだから、どこかで繋がりがあるのかもしれませんね。いずれにしろ、いわゆる裏切り者ではないにせよ、あらかじめ東軍と内通しておきながら西軍のふりをして参陣していた小早川秀秋のやり方はあまり良いとは思えないので、もしその子孫が、武家の式楽である能楽の世界できちんと一派を成していたのだとしたら、喜ばしいことだと思います。
勝って兜の緒を締めよは北条氏綱じゃなかったのか
三成は戦う武士とは違う官僚上がりとはいうものの、最後を見ているとそれなりの美学はもってますね。秀吉からすればかわいい部下だったでしょう。彼への忠義は充分に感じます。秀吉のもとで安らかに眠ってくださいね。
戦とは、勝者にも敗者にも、それぞれに思いがあるのですね。当時の本物の武士の真髄を教えてもらいました。
400年前に必死で生きた人たちのリアリティあふれる会話がよくぞ現代まで残っていたな、と関心します。歴史から学べることはまだまだたくさんありますね。
『関ヶ原の決戦はあと二か月下さい』に、ついゆっくり聴いてます。とても面白いお話しですが、私の中に違和感?疑問?何か胸に詰まる様な気持ちがあります。お話しを否定する事ではありません。秀吉様の子孫が続かなかった事です。家が滅びた事です。私の母は、死んでからの事〜子供達の事をとても心配していました。親がいなくなり世間はどうなのかをです。日本には身分の差別はあまりない?と思いますが、低い身分からトップになった秀吉様。でも亡くなってしまい〜その子供を中心に世の中はついて行くでしょうか?毛利様他、やる気も無い感じが〜石田三成様〜三成様もトップになりたかった?考える時間も無かった?豊臣家、そして石田家の存続を考えたらよかったですね。『たられば』での思いではないです。『身分』かなぁ〜と、豊臣家にもっと歴史?があったならなとか。徳川慶喜様は徳川家を存続しました。三成様も出来たかもしれんないですね。イヤ、やはりなる様になってしまった関ヶ原の決戦ですね。歴史初心者です。関ヶ原の事も知りませんでした。いつも稚拙なコメント、申し訳ないでゴザル…╰(*´︶`*)╯
黄緑似合う。すてきですね。関ヶ原
今日のお話もとても面白く拝聴致しました。各所に面白いエピソードがあり、関ヶ原のも時代も私達のような晩年サラリーマンのような哀愁があったのですね。(私の場合、お家を守るという訳ではなくて背負ったローンと家族のためですが😅😭)水曜日のこの時間が楽しみです❗
浅野幸長は、あさのゆきなが→よしなが、朽木は、くちき→くつき、ですね。
確実に家康贔❗色々な書物研究して欲しい。
小早川秀秋は、いろんな小説や書籍で裏切りが描かれているので先入観で裏切りと捉えてましたが、市橋先生のお話を聞いて、そういう考えもあるのだと改めさせて頂きました。みんな必死で生きているわけだから、勝者も敗者も称えたいですね。「勝って兜の緒を締めよ」は、北条氏綱の言葉だと思ってましたが関ケ原のときの言葉なのかな…
勝って兜は島津の豊久か家久かなんかの初陣じゃなかったっけ?
北条氏綱では?
北条氏綱の五ヶ条の何とかでしたよね、確か。
秀秋は隆景の教えも受けてるだろうし朝鮮も行ってるし歴戦の猛将と共に戦って結構もまれてると思うんだよなぁ酒の話もうつけを装う演技かもしれないし何より関ヶ原の動きは気弱で優柔不断な武将には見えない趨勢を見極めて養子先の小早川家第一に動いてるんじゃないかな
確かに柳川で殿様と言えば立花の殿様ですね。立花氏の治世が長いことや宗茂公や道雪公が祭神として祀られる三柱神社があることなどが、身近な理由でしょうか。世代によっては末裔の方々と同級で名前で呼び合う仲である人も それなりにいる(私の父母が そうですが)ことも、より一層 身近に感じさせるのでしょう。
内通してるのに西軍に参加してるから裏切り者でしょう
早朝に大谷吉継を小早川隊が壊滅させたという新説の根拠元は何でしょうか?
1600年度日本年報補遺ですよ
@@まかいチャンネル ありがとうございます。調べてみます
小早川君良かったですね。個人的に小早川秀秋好きなので、裏切り者じゃないと言って貰えて嬉しいです。動画もですが、みなさんのコメントも見ていて、色んな考え方があって面白かったです。
小早川秀秋は裏切り者ではない、ということは石田三成や大谷からも徳川側と認識されていたということでしょうか?そうでないなら、やはり西軍から見れば裏切ったとなると思います。それとも、どちら側と告げていなかった?
小早川家は断絶してるんですよね。毛利家によって再興された。実質的な血縁者ではないはずだ。
確か家名を継いだ方は直系ではないらしいです。自分なら恥を晒すようなもので嫌です。
当たり前の話だけど、そもそも秀秋は隆景の血を引いてないしね。その隆景もそもそもが毛利家の出。もともとの小早川家の血は引いてないし。松代真田家も8代目からは松平からの養子だし、家名を残すことに血は関係ないということなんだよね。
罪悪人 金吾‼️🥵これが西軍の敗ですよね。
関ヶ原合戦絵巻は従来の布陣で江戸時代に書かれてるが··華々しくしたかったって事?すぐに壊滅なら壊滅した戦いで伝承してもいいと思うが徳川が布陣してないと不味いからってことなんかな?
関ヶ原の戦い。岐阜城はどの程度、堅固だったのですか?岐阜城を囲む曲輪の状況は?(他の城はどうですか?)太閤記では裏山からなら。そのように書かれたモノもあるようですし。今ならレーザーを使えば?おねがいします。それと秀頼が天下人になっては都合がーーーという者は東軍諸将、及び秀吉恩顧の者の中に、どのくらいいたのですか。それと関白秀次の家臣だった者や、親交があった者ーーーを教えて下さい。
小早川は間違いなく裏切りだと思うよ まあ、裏切りは 沢山合ったとも思う
いや裏切りだらけで、だからこそ信頼が美談となるのかな。金打(きんちょう)はご存じだと思いますが、現代でも同じこと。浮気や不倫を研究するとよく感じます。潔い連中は少なそうですよ。
大変楽しく考える事の出来る動画有難う御座います。今回の動画ですが内通する事事態が裏切りだと思います。小早川秀秋殿の関ケ原戦後をこの動画で取り上げて頂ければ有難く存じます。
小早川は家康に恩もあるし仕方ないよな。
関ケ原での真の裏切り者は吉川広家だよ小早川秀秋の伏見城攻めは、家族が西軍の人質になっていたから仕方なくって話もあります
吉川広家は黒田長政と内通して、毛利の領土安堵を願ってるし、はなから東軍側です。真の裏切り者ってのは違う気がするね。
徳川本陣の後方に毛利軍がいました。徳川本陣は常に背後を脅かされながら戦わなければならない状況、しかし、吉川が毛利軍の動きを抑えていた為に家康は本陣を自由に動かせることができたので、家康は本陣を前進させた。その結果、小早川秀秋は東軍有利と見て、大谷吉継と戦うことを決意した吉川広家が毛利軍を抑えなければ小早川秀秋は西軍有利と見てたと思う
毎週毎週楽しみにしています!関ヶ原の戦い、もっともっと話が聞きたいです😊 歴史はロマンがあるし、いろいろな説にも歴史があるんですね🤔ますます歴史が好きになりました。
三成の失敗は逃走用の馬を用意してなかった事。
徳川からすれば、赤座・小川・朽木は裏切りでも小早川は裏切りではない としても、石田三成などからすれば小早川は裏切りでしょう。 特に秀吉の甥であるのに反豊臣の側につくというのは裏切り と感じられたのではないか。自分はあんたら豊臣一族の為に戦っているのに、豊臣の一員の小早川秀秋が反豊臣の側につくとは、裏切り以外の何でもない となるのではないか。
関ヶ原の戦いでは、淀殿はどっちを応援していたんだろ?昔の小説では淀殿と三成が懇意の間柄で、一方高台院は淀殿を嫌って、甥の秀秋には徳川方に付くように示唆してたとかってのが多かったけど。
三成じゃない?淀は秀吉亡き後の家康の増長を嫌ってたから
@@もふもふ-x4p 2代将軍の正室はお江で淀殿の妹だし、秀頼の正室はお江の長女だから、家康に付いてても可笑しくないんだよね。
教科書とかだと三成が豊臣家の代理として家康と戦ったイメージがありますけど、あの時点では家康も三成も豊臣家の家臣であって、関が原など一連の武力衝突も、あくまでも豊臣家内の主導権争いに過ぎないから、あくまでも中立だったんじゃないですかね?強いて言うなら、家康主導の五大老・五奉行による統治体制の維持がベスト、それが崩れても、勝った方が主導して秀頼を後見してくれる程度の認識だったかと。少なくとも、秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣に関しては最後まで頑として認めたなかった点から、三成が豊臣を代表して家康を討ってくれるみたいな考えは皆無だったと思います。※豊臣家と家康が本格的に対立するのは、家康が秀忠に将軍職を譲った時点から
@@酔狂-i9o 会津征伐の時点では、家康は豊臣の命を受け、豊臣の家臣を引き連れ、豊臣の敵である上杉を討ちに行ったと表向きはなっている。それに対して、三成は敵である上杉と結託してガラ空きとなった大坂を占拠し、挙兵中の妻子を人質に取りガラシャを自害に追い込んだ反逆者的立場。主犯が誰かは判らないけど、家康及び豊臣家臣が居なくなった隙を突いたクーデターの可能性も捨てきれない。この時点では、淀殿からしたら家康は有力な協力者であり、妹の義父であり、息子の嫁のおじいちゃんでしかない。淀殿も家康が豊臣家を裏切ったと確信が持ててたわけではないと思う。(追記:千姫が秀頼と結婚するのは1603年だった。この時点では許嫁。)
@@たまてばこ-y8t つまりは酔狂酔狂さんの意見でいいってことです?
いやいやどう見ても裏切りですよ
歴史に諸説あり!先生の解説は楽しく、本当にありがたい。歴史にロマンあり!
難しい事は解りませんが、死の間際まで生きて犬死を避け、責任を果たす。それがリーダーですかね。今も昔も。
…
😮😮
1:00 今は弁当の時間だ。食事の時間だ。朝飯の時間だからゆっくりと朝飯を食べてからだ
調略に乗ったとか最初から裏切ってたとか色々あるかもしれないけど秀秋って他と比べてもめっちゃ豊臣側の大名だからやっぱ裏切り者だと思う。そういう姿勢を明確にしてなかった時点で尚更あと確か死因は若い時から接待受けすぎてて酒の飲みすぎとかだったんではって言われてましたね
西軍主力は岡山の宇喜多秀家秀吉の大返しも岡山から神武天皇の東征も吉備で3年間軍備を整えて畿内ヘ日本史のキーポイントは岡山
小早川が早逝したのは気を病んでじゃなく若くして周りに酒ばっかり飲まされてたから体壊してだよ。陰口言われて病んで亡くなったわけじゃない
小早川秀秋は秀吉の甥で一時は養子にまでなっていますものね。秀頼が生まれたので他家に追いやられたんだもの、家康側に付きたくなりますよ。途中で裏切るなんておかしな話だなと思っていました。叔母さんの高台院も三成より家康の方を信頼していたとか。家か血縁かで言えばやっぱり血縁ですよね。 今回も腑に落ちるお話が聞けました。ありがとうございます。また、来週を楽しみにしております。
でも秀秋は秀頼に万一の事有ったら豊臣を相続できる権利持ってたのよ
@@もふもふ-x4p さんへ あらら、知りませんでしたぁ。「秀吉は晩年、秀秋を、筑前・筑後33万石から越前12万石へと転封しました。」とのことで、もう、アウトなのかと思っていました。秀次一族のこともありますし、秀秋は豊臣政権下では安心して過ごせなかったのかと愚考しました。
明智とか小早川は後世まで言われるよなぁ
浅野幸長をあさのゆきながとずっと言っていますが、あさのよしながではないですか?
まあいろんな説が出ますわな・・・・。まあ結局遭遇戦であたふたとはじまって東軍が突撃かますとものすごい鉄砲火力と陣城攻略にてこずって、下手すれば敗走しかねなかったという状況のみが正しいのでしょうね。毛利側は資料の隠蔽に走ったから西軍側の資料が出てこないですけども・・。それが幕末のすごいエネルギーの原動力になったのかもしれないね
輝元がお父さん……まぁ元養子だからお父さんで合ってるのか
そもそも秀秋を養子に押し付けられたから、小早川隆景が自分の養子にして、毛利に他家から養子を押し付けられない様に毛利家臣になっていた弟の息子秀元を輝元の養子にした後に実子が生まれたから分家させた。結局は後に秀元の子孫が輝元の血筋を差し置いて毛利本家を継いだ。
@@yh6146 秀元は輝元の弟の息子ではなく従兄弟(秀元は元就の四男の次男)輝元には弟はいたが成人前に亡くなったよう
@@コンノマコト-i8f 小早川隆景の弟の息子という意味です
豊臣全体の流れから見たら金吾は裏切りもの。結果徳川の天下をもたらしたわけだからね。
その通りです!
ただ金吾も色々なところをたらい回しにされたり、領土を没収されかかったりと結構ひどい目にあってるからなんとも。
秀元は輝元の息子でわない
養子になってるから息子よ
勝って兜の緒を締めよってもう少し古い言葉じゃないですか?この時にはよく知られた言葉だったのでは?
諦めたら試合終了
三法師の織田秀信がいつも話題にならないのが淋しい。
三成さんのプロデュースの才能はスゴい‼️としか言えない👍たかが秘書室長が副社長にケンカ売って👊土俵に立っただけでもスゴい👏それで⬆️ほんとにあとひと押しあれば勝てた戦🔪に持ち込んだ👏まさに⬆️漢の中の漢🔥
プロデュース能力はすごいかもしれないが、いかんせ人望がなさすぎた…
大谷「伏見城を攻めましょう」小早川「ワイは東軍や」大谷「まあまあご冗談をwさっさと攻め落としましょう」石田「関ヶ原についたぞ」小早川「ワイは東軍や」石田「そういうつまらんネタはいいんで、小早川殿にはこの松尾山を任せましょう。秀頼様の身内だから信用できる。」石田「クソッ、小早川が動けば勝てるのに、なぜ動かん!」小早川「ワイは東軍や」大谷「うわー、小早川が攻めてくるぞ!この裏切り者がぁ!」多分こんな感じやぞ
待ってました! 後追いで見始めて全部見ました。新しいの楽しみです。
内通 = 裏切り でしょう。
小早川家は、無嗣断絶だったはず・・・その中学生の家系は庶子から家系図でも書いて語り継いできたんでしょうかね?
でも隆景は秀秋を養子にする前に異母弟を養子にしていて小早川秀包を名乗らせていた。秀包の母親は小早川の分家の出身だから隆景と違い小早川の血筋。秀秋を養子にしたから廃嫡していたけど13万石の大名になっていた。結局関ヶ原で西軍だったから改易になって毛利の家臣になり毛利に復姓した。そして明治に毛利本家の三男が小早川を再興した。
@@yh6146 様仰有られた通りです。秀秋は、幼少よりアル中の気有り、子無しにより家名断絶。他に小早川を名乗る者は、広島県竹原や沼田の小早川家傍流で、秀秋とは関係無いです❗️小早川家の家士は、隆景隠居に際し三原に引き揚げ、秀秋の下には豊臣秀吉からの付け家老や新参で大半が編成された。中学生の身内に嘘つきがいるって事でしょう‼️
鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した徳川慶喜。攘夷と言って英国に長州ファイブを派遣して日本を属国にした毛利敬親と毛利元徳。
敗者の悲哀今は選挙
大変ためになる推理で興味がわきました。 三成のお墓と言われているものが新潟県にあります。 墓石の表面には本姓石田、志田氏墓と記されています。右側面には桑名家中志田昌敏、志田昌大、左側面には志田昌方、志田昌文、裏面には享保18年創建、天保9年再建と記されています。お寺の境内に本姓石田とした志田氏の墓一基あり、それが青史にその名を唄われたる「石田治部大輔三成の墓」との口伝えあり、京は四条河原の朝露消えし筈の三成が、如何にして雪ぶかき越路に彷徨い来れるか、伝え聞く三成は表面上斬首の刑に処せられたるも、当時家康の老臣なれば密かに四天王たる榊原家に隠居せしめて余生を送らしめ替え玉を使える。大正9年ころ、江州は桑名の藩士志田なる人が寺を訪ね、自宅の仏壇から発見したという先祖墓地の写本を携えてきて、同寺の境内にて実在を知り狂喜厚く供養して去れりと、その後絶えず志納を送り祖先の冥福を祈った。当地の市史にも「石田三成の墓と称するものがある」と記されていて、さらに高田藩と桑名藩の関係を見ると宝永七年(1710年)、桑名藩第三代藩主・松平越中守定重が高田藩第七代藩主に命ぜられ、以来五代31年間続いたことから、三成一族が関が原没後桑名藩名藩に身を寄せ性を志田に変え、その末裔が桑名藩士として高田へ随伴したとも考えられ、この墓碑建立は、松平定重が高田藩主就任から23年後のことを思えば史的に適う物語であるかもしれない。 (岡田氏記述引用)このようなロマンが当地にあることが、とてもうれしい・・・
東北、九州での戦いも是非解説して欲しいです!
官兵衛の関ヶ原もききたいですよねー
関ヶ原は東軍の小早川秀秋の大殊勲ですね。
待ってました!そして、次が待ちきれません。
おのれ金吾!!!
金吾は西軍1の豊臣近親者。調略に応じること自体が「裏切り者」です!
私が気になるのはたった半日で終わった点、長篠の合戦は8時間前後に比べると?です。要は家康が内輪もめを起こさせて、家康固めを進めたというか、お家騒動の拡大版として結果本家を乗っ取った感ありです。相手を叩き潰す気はないな。天下分け目の合戦とは、後代の作り事の気がします。にしても、先生も絶好調ですね❣ホスト様との息もびったり。さらなるご活躍を切望します。
三河武士の行政能力は日本各地に恩恵をもたらしてますね。勉強になります
古文書から学べるのは他のチャンネルにはない良い点ですね!「勝って兜の緒を締めよ」を北条氏綱公のお言葉と思っていました。家康公は引用したとかではないでしょうか。
中学生の小早川君、先生の言葉を聞いて安心したでしょうね。関ヶ原後の毛利家の藩経営は大変だったと聞きます。江戸時代になって、長州と徳川幕府との関係についても話が聞きたいです。
新説での西軍の混雑した陣形は、山中のすぐ西にある城、玉城に三成達は籠城する前に襲われた感じがする。
内通の時点で裏切り
なんと言おうと小早川秀秋は裏切り者です
内通してたのだから裏切りだよ小早川は。毛利も裏切りだよ。
最大の裏切り者は、大将でありながら逃げまくった毛利輝元
戦後改易された小川祐忠や赤座直保の方が裏切りといえると思います。
小早川は二条城攻めにキッチリ参戦してるから裏切り者でしょ
三成は、嫌われすぎですね。状況で仕方なく西軍につく大名も多かったと思われます。島津も、東軍につきたかったみたいですし、実際は、表面だけ西軍がおおかったのでしょう。
市橋先生は旧説を否定するのでなく、逸話を無意味とするのでなく、新しいものや古いもの、観客の知識と新しい知識を衝突させず、白黒つけるになくお話されるのが凄いと思います。
生半可な知識の人間に限って白黒をつけて話したがるのかも知れません。
歴史は事実や証拠以外にも、解釈も重要にもなります。
新説があるから、旧説は無意味なのではなく、それを解釈している人々に新しい知識を紹介する、という立場に徹していらっしゃるのかもしれませんね。
勉強になりました。
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なんでこんなに三成だけが嫌われてると思ってる人多いんだろ
やっぱり!
西軍は山を利用した城塞陣地を作っているに違いない!と思っていました。
石田三成の想定では、大軍で陣地を守って東軍と対峙している処に、秀頼を連れた毛利輝元が現れて、秀吉ゆかりの千成り瓢箪の馬印が上がり、豊臣の桐紋の旗が林立する···という筋書きだったと思います。
想定外だったのは、小早川が言うことを聞かないで早くから要所の松尾山に陣取ってしまったこと。
西軍の諸将は、それまで西軍の一員だった小早川が東軍として動いた時点で勝ち目がないと内心思っていたのでしょう。
東軍の功労第一は小早川で私は納得します。
徳川家康にしてみれば、秀秋はもともと秀吉の養子だったから豊臣一門と言っていい。それが味方に着いたのだから、形勢は一気に東軍有利に。大満足だったでしょう!
小早川秀秋が裏切り者でない、のならば
初めから東軍に加わっているべきでしょう。
西軍のふりをしていながら、家康と内通していた
というのは、裏切り者そのものだと思いますが、、。
どうも。最近楽しく観させて頂いております。一点疑問を言いますと、秀秋が裏切りでは無いと言いますが、「内通」していた以上、三成サイドから見れば「裏切り」なんじゃないでしょうか。それとも最初から家康サイドに就いていたのでしょうか。ただ諸々の情報だと三成サイドで参陣したとあります。その上で「内通」してたのだとしたら、それは「裏切り」かなと。辞書をみても「内通」は「裏切り」とあります。ですので本仮説には疑問を感じます。大事な論点ですので、ご見解ありましたらお願いします。
小早川秀秋は三成の家臣でも、吉継の部下でも無かったですから、東西どちらに付こうが勝手というか自由、それに彼が大阪に辿り着いた時には、既に西軍に抑えられてたら、取り敢えず付くしかないでしょう、それか「東軍に付くために遥々来た」と、馬鹿正直に言って皆殺しにされるか?
西軍の敗戦原因とは何なんでしょうか? 広家や秀秋の性格・動きを三成が以前から察知出来なかったということでしょうか? 三成が生真面目過ぎたのかな? 多くの自軍を長年持ち百選錬磨の家康と少し前まで官僚に過ぎなかった(家康側についた元秀吉配下の武将はすべて現場組)三成との器の差ですか?
日比野家一族も関ヶ原の合戦に関係あります日比野家一族の本が愛知県一宮市の図書館にあります
実際、上杉討伐から家康に従ってきた東軍諸将からしたら、(不本意だったのかもしれないが)伏見城攻めに参加して家康の幼馴染み部下を自害に追い込んだ小早川はそれだけで裏切り者感覚でしょ。いかに開戦から東軍化してても。
浅野幸長は、「ゆきなが」じゃなくて「よしなが」だよね?
その通りです。ご指摘きありがとうございました。人名、難しいですね。
え?。人それぞれ裏切りの解釈は違いますが、参戦時は石田方として参戦してるので立派な裏切りでしょう。
面白かったです。小早川の話は以前から見聞きしてはいたのですが、大谷隊の様子を上から見ていたわけですね。
加藤剛が主演したTBSの「関ヶ原」では、金吾が「これから裏切る!」と言うわけですが、武将があんな風に自分で「裏切る」などと言わないだろうと思っていました。
民法がやるとどうしてもエンタメよりになりますよねw
徳川方から見れば小早川は内通していたから「裏切りではない」が負けた西軍から見れば「裏切りだ」ということでしょうか。日本人は判官贔屓だから仕方ありません。
後世の講談や軍記物の影響が強いのではないでしょうか。
小早川は未来永劫裏切り者と呼ばれるべき
内通してたら裏切りではないのですか?
裏切りの定義の仕方がおかしいのでは?
そこが難しいところで、三成が秀秋の意に反して、秀吉の血縁者だからと勝手に西軍に組み込んでいたとしたら、裏切りにはならないんじゃないのかなと。
日比野家一族も関ヶ原の合戦に関係あります日比野家一族の本が愛知県一宮市の図書館にあります
脇坂安治は藤堂高虎の仲介で徳川方に寝返る事前通告をしているのでセーフ残りの三隊は完全に裏切り者
私は滋賀県在住者ですが朽木も
存続して小藩ながら大名して
ましたよ。
いつも楽しく拝聴させていただき、また多くまなばさせていただいております。ありがとうございます。今年は大河のこともあり、関ヶ原4回行ってます。多分あと2回は行くと思います。笹尾山も松尾山ものぼりましたが、関ヶ原で戦があった場合、松尾山押さえたほうが勝ちと思いました。西軍の布陣決めたのは三成なんでしょうか。同行が微妙とは三成も感じていたでしょうから、小早川を松尾山に布陣させたこと不思議に感じてます。
関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとのことですが。
関ヶ原の戦い後の東西両軍の勢力を教えて下さい。
特に
大坂城にはどのくらいの兵力が残っていたのですか?
それらをまとめてーーーもう一戦。
は可能ですか?
たまたま関ヶ原の戦いのあと、
西軍が手をあげたから、関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとなっただけで。
という考え方はーーー。
どうですか?
それと石田三成が首謀者のように扱われますが。
実際はどうなのですか?
豊臣家(もしくは三成、五奉行ですか)主導でやりたかったーーーのであのような形に。
という考え方はーーーどうですか?
毛利輝元が実質的な総大将ならば、どうして関ヶ原に来なかったのか?
西軍は、毛利は実際、どこで東軍に決戦を挑むつもりだったのか?
輝元の出陣は大津城、田辺城が片付いてから。
その兵をまとめて。
ということですか。
大津城、田辺城が、(他には何処が)落ちなければ。
輝元は大坂から動けませんか?
となると決戦はーーー
何処になりますか?
大垣の東か。
まあいいか。
その前に関ヶ原の戦いが。
大軍が戦えそうな場所は京都から江戸までの東海道沿いにーーー何ヶ所くらいあるのですか?
当時の武将ならばーーー即座に何ヶ所かは。
まあ家康は美濃に福島たちを前衛として送っていますし。
それ以西ですか?
たまたま家康が関ヶ原に。
たまたまそこに居た石田三成たちが戦い、敗れた。
という考え方はーーー。
関ヶ原の戦い自体が前哨戦だったーーーということは?
しかし。
その後、戦いを続けようにも。
毛利輝元が逃げては。
南宮山の毛利軍。
関ヶ原の戦い後、どうなったのですか?
大坂へ無事、帰れたのですか?
何らかの事情て。
兵力不足か。
戦意喪失か。
どちらですか?
関ヶ原の戦い前に実際、大坂にどのくらいの兵力が。
それに比べて家康のもとには?
圧倒的に西軍が多かったということはーーーないですか。
そのあたりを書いたモノはーーー。
あまり。
まあいいか。
新説だと、かねてより西軍の命令を無視して不穏な動きをしていた小早川秀秋が西軍の武将を追い出して松尾山城を占拠、西軍側はそちらを警戒しながら取り囲むように陣を構えていた。(発掘調査で松尾山方面を警戒する陣跡あり)
石田三成は裏切り発生で後方が脅かされ、大垣城も包囲される可能性があった為、大垣から関ヶ原方面に強行軍で移動、そんな中、大垣方面から東軍先鋒部隊が予想以上の速さで進軍してきて総崩れとなり、勝負がついたという感じだったと思う。
小早川秀秋は酒の飲み過ぎでしょう。十代で黄疸症状出てる記述あるし
まあ、時代的に10代で酒を飲んでた人は他にもいたでしょうが。体、壊すほど飲んだ人ってあんまいなかったようで。
@@ソヨモルゲッ-c3c
逆ね、かなりの人が酒におぼれて体を壊して亡くなってる。特に室町時代から酒造量も増えていく。
その代表者が、上杉謙信だったりするし
戦国武将の多くは酒で体壊す傾向にあり
だからこそ、織田信長なんかも「酒はたしなむ程度」とと慎み
藤堂高虎・本田忠勝なども「酒は害だから酔うほどには飲むな」と説いている。
@@船木祥啓 いや、秀秋みたいに若く死んだのは、という意味で。
大抵はもっと歳をとってから死ぬのが多かったですが。
@@ソヨモルゲッ-c3c それが結構いるんだなこの時代はw
まぁ江戸時代もだが
裏切り者と言われたのを気にして酒に逃げたんでしょうね
本筋とは違うけど、吉川広家の
弁当食べてから❗の話好きです
葵徳川三代でも、この描写はありました。なべおさみさんが吉川広家役でしたね。
かの黒田官兵衛でさえ、関ケ原の合戦が1日以内で終わるとはまったく想像しなかったそうですね。現場の当事者だった武将たちは、ここまで早い決着をあらかじめ、ある程度想定していたのでしょうか。孫子兵法の地形篇には最初の方で「可以往,難以返,曰挂;挂形者,敵無備,出而勝之,敵若有備,出而不勝,難以返,不利」と書かれており、これがまさにあてはまるようなことがあったのかな? 歴史に if はないが、武田信玄ならば、どう戦うのだろうかとか、いろいろ想像します。
当然先祖代々からの日比野家一族は僕もその本を持ってます見せましょうか?!😅
アルコール依存症です。
一時は豊臣家の跡継ぎと持て囃され、十代から酒に溺れて体を壊していたらしい。
裏切り者の濡れ衣を着せられさらに酒浸りになったのかもしれません🍶。
関ケ原の戦いの実相がパニック的退却戦だったというのは興味深かったです。
戦いの時間が4時間ぐらいで決着が付いたということでしたっけ?
これはあれだけの大人数が移動する場合、戦ったというより撤退するのにかかった時間と考えれば納得できます。
小早川は裏切りであることには変わらないと思うのですが、それが分かった時点で前線が雪崩を打って崩れたのが本当のところだったと思います。
イメージとしては長篠の戦いの武田軍が戦わずに撤退した場合を考えれば近い感じでしょうか?
徳川が前進したというのは追撃戦に入ったということであり、毛利は前線に取り残され動けず、島津はその流れに逆らって前に突入した。(毛利も最初から中立の立ち位置だったでしょう)
こう考えるとたしかに時系列が腑に落ちる気がします。
最終的には守ったけど、三分の一にされて家を守ると言う表現はなんかピンとこない。
その恨みを忘れず、代々それを伝え続けたから、維新では長州が最終勝利者になったのだけれど。
三成の子孫は維新に関われてないのだから、家を残すことは重要だよ。
西軍の武将として西軍側に陣をはっていたからには西軍として東軍と戦うのが筋だと思いますが
裏切り出ないなら東軍に陣を張るべきです、事前に内通することがすでに裏切り行為じゃないですか?
徳川家康は三成を内心リスペクトしてますよね。三成の子女は高僧になったり、逃亡を黙認されたり、然るべき家に嫁がせたり、召し抱えにさせるなど厚遇されてますね。
実際に3女は津軽藩主に嫁いで次男が津軽の重臣になった。結局家康の養女が津軽に嫁いだから3女は側室に格下げされたけど、3女の息子が三代目になった。家康の養女が生んだ息子も分家して旗本になった。だから、関ヶ原で敵対していた中心人物の孫が異母兄弟というカオスな状況。しかも、三成の子孫が三代将軍の側室になって生まれた娘が尾張に嫁いだ。結局尾張が将軍になれず紀州が将軍になれたのはそれが原因かな?
家康は三成を高評価してたみたいです。
家康は三成を、うまく誘導して西軍を蜂起させたようです。豊臣家を分裂させて力を削ぐために。
愛知県稲沢市・尾張北西部に石田三成家代々の碑があります。三成の兄が尾張藩にでも仕えて居たのでしょうか。
私の大学時代のクラスメートの嫁ぎ先である観世流能楽師の芸名が小早川。
これは小早川秀秋の子孫と関係があるのかなぁ? と思いながら、まだ訊く機会がありません。
彼女の旦那様自身は、小早川は能楽師としての芸名で、本名は別にあるので小早川秀秋の直系の子孫ではないとは思いますが、能楽師の家系ではあるようだから、どこかで繋がりがあるのかもしれませんね。
いずれにしろ、いわゆる裏切り者ではないにせよ、あらかじめ東軍と内通しておきながら西軍のふりをして参陣していた小早川秀秋のやり方はあまり良いとは思えないので、もしその子孫が、武家の式楽である能楽の世界できちんと一派を成していたのだとしたら、喜ばしいことだと思います。
勝って兜の緒を締めよは北条氏綱じゃなかったのか
三成は戦う武士とは違う官僚上がりとはいうものの、最後を見ているとそれなりの美学はもってますね。秀吉からすればかわいい部下だったでしょう。彼への忠義は充分に感じます。秀吉のもとで安らかに眠ってくださいね。
戦とは、勝者にも敗者にも、それぞれに思いがあるのですね。当時の本物の武士の真髄を教えてもらいました。
400年前に必死で生きた人たちのリアリティあふれる会話がよくぞ現代まで残っていたな、と関心します。
歴史から学べることはまだまだたくさんありますね。
『関ヶ原の決戦はあと二か月下さい』に、ついゆっくり聴いてます。とても面白いお話しですが、私の中に違和感?疑問?何か胸に詰まる様な気持ちがあります。お話しを否定する事ではありません。
秀吉様の子孫が続かなかった事です。家が滅びた事です。
私の母は、死んでからの事〜子供達の事をとても心配していました。親がいなくなり世間はどうなのかをです。日本には身分の差別はあまりない?と思いますが、低い身分からトップになった秀吉様。でも亡くなってしまい〜その子供を中心に世の中はついて行くでしょうか?
毛利様他、やる気も無い感じが〜
石田三成様〜三成様もトップになりたかった?考える時間も無かった?
豊臣家、そして石田家の存続を考えたらよかったですね。
『たられば』での思いではないです。『身分』かなぁ〜と、豊臣家にもっと歴史?があったならなとか。
徳川慶喜様は徳川家を存続しました。
三成様も出来たかもしれんないですね。イヤ、やはりなる様になってしまった関ヶ原の決戦ですね。
歴史初心者です。関ヶ原の事も知りませんでした。いつも稚拙なコメント、申し訳ないでゴザル…
╰(*´︶`*)╯
黄緑似合う。すてきですね。関ヶ原
今日のお話もとても面白く拝聴致しました。各所に面白いエピソードがあり、関ヶ原のも時代も私達のような晩年サラリーマンのような哀愁があったのですね。
(私の場合、お家を守るという訳ではなくて背負ったローンと家族のためですが😅😭)
水曜日のこの時間が楽しみです❗
浅野幸長は、あさのゆきなが→よしなが、朽木は、くちき→くつき、ですね。
確実に家康贔❗
色々な書物研究して欲しい。
小早川秀秋は、いろんな小説や書籍で裏切りが描かれているので先入観で裏切りと捉えてましたが、市橋先生のお話を聞いて、そういう考えもあるのだと改めさせて頂きました。みんな必死で生きているわけだから、勝者も敗者も称えたいですね。
「勝って兜の緒を締めよ」は、北条氏綱の言葉だと思ってましたが関ケ原のときの言葉なのかな…
勝って兜は島津の豊久か家久かなんかの初陣じゃなかったっけ?
北条氏綱では?
北条氏綱の五ヶ条の何とかでしたよね、確か。
秀秋は隆景の教えも受けてるだろうし朝鮮も行ってるし歴戦の猛将と共に戦って結構もまれてると思うんだよなぁ
酒の話もうつけを装う演技かもしれないし
何より関ヶ原の動きは気弱で優柔不断な武将には見えない
趨勢を見極めて養子先の小早川家第一に動いてるんじゃないかな
確かに柳川で殿様と言えば立花の殿様ですね。立花氏の治世が長いことや宗茂公や道雪公が祭神として祀られる三柱神社があることなどが、身近な理由でしょうか。
世代によっては末裔の方々と同級で名前で呼び合う仲である人も それなりにいる(私の父母が そうですが)ことも、より一層 身近に感じさせるのでしょう。
内通してるのに
西軍に参加してるから
裏切り者でしょう
早朝に大谷吉継を小早川隊が壊滅させたという新説の根拠元は何でしょうか?
1600年度日本年報補遺ですよ
@@まかいチャンネル
ありがとうございます。調べてみます
小早川君良かったですね。
個人的に小早川秀秋好きなので、裏切り者じゃないと言って貰えて嬉しいです。
動画もですが、みなさんのコメントも見ていて、色んな考え方があって面白かったです。
小早川秀秋は裏切り者ではない、ということは石田三成や大谷からも徳川側と認識されていたということでしょうか?
そうでないなら、やはり西軍から見れば裏切ったとなると思います。
それとも、どちら側と告げていなかった?
小早川家は断絶してるんですよね。
毛利家によって再興された。
実質的な血縁者ではないはずだ。
確か家名を継いだ方は直系ではないらしいです。自分なら恥を晒すようなもので嫌です。
当たり前の話だけど、そもそも秀秋は隆景の血を引いてないしね。その隆景もそもそもが毛利家の出。もともとの小早川家の血は引いてないし。
松代真田家も8代目からは松平からの養子だし、家名を残すことに血は関係ないということなんだよね。
罪悪人 金吾‼️🥵
これが西軍の敗ですよね。
関ヶ原合戦絵巻は従来の布陣で江戸時代に書かれてるが··
華々しくしたかったって事?
すぐに壊滅なら壊滅した戦いで伝承してもいいと思うが
徳川が布陣してないと不味いからってことなんかな?
関ヶ原の戦い。
岐阜城はどの程度、堅固だったのですか?
岐阜城を囲む曲輪の状況は?
(他の城はどうですか?)
太閤記では裏山からなら。
そのように書かれたモノもあるようですし。
今ならレーザーを使えば?
おねがいします。
それと秀頼が天下人になっては都合がーーーという者は東軍諸将、及び秀吉恩顧の者の中に、どのくらいいたのですか。
それと
関白秀次の家臣だった者や、親交があった者ーーーを教えて下さい。
小早川は間違いなく裏切りだと思うよ まあ、裏切りは 沢山合ったとも思う
いや裏切りだらけで、だからこそ信頼が美談となるのかな。金打(きんちょう)はご存じだと思いますが、現代でも同じこと。浮気や不倫を研究するとよく感じます。潔い連中は少なそうですよ。
大変楽しく考える事の出来る動画有難う御座います。今回の動画ですが内通する事事態が裏切りだと思います。小早川秀秋殿の関ケ原戦後をこの動画で取り上げて頂ければ有難く存じます。
小早川は家康に恩もあるし仕方ないよな。
関ケ原での真の裏切り者は吉川広家だよ
小早川秀秋の伏見城攻めは、家族が西軍の人質になっていたから仕方なくって話もあります
吉川広家は黒田長政と内通して、毛利の領土安堵を願ってるし、はなから東軍側です。
真の裏切り者ってのは違う気がするね。
徳川本陣の後方に毛利軍がいました。徳川本陣は常に背後を脅かされながら戦わなければならない状況、
しかし、吉川が毛利軍の動きを抑えていた為に家康は本陣を自由に動かせることができたので、家康は本陣を前進させた。その結果、小早川秀秋は東軍有利と見て、大谷吉継と戦うことを決意した
吉川広家が毛利軍を抑えなければ小早川秀秋は西軍有利と見てたと思う
毎週毎週楽しみにしています!関ヶ原の戦い、もっともっと話が聞きたいです😊
歴史はロマンがあるし、いろいろな説にも歴史があるんですね🤔ますます歴史が好きになりました。
三成の失敗は逃走用の馬を用意してなかった事。
徳川からすれば、赤座・小川・朽木は裏切りでも小早川は裏切りではない としても、石田三成などからすれば小早川は裏切りでしょう。
特に秀吉の甥であるのに反豊臣の側につくというのは裏切り と感じられたのではないか。自分はあんたら豊臣一族の為に戦っているのに、豊臣の一員の小早川秀秋が反豊臣の側につくとは、裏切り以外の何でもない となるのではないか。
関ヶ原の戦いでは、淀殿はどっちを応援していたんだろ?
昔の小説では淀殿と三成が懇意の間柄で、一方高台院は淀殿を嫌って、甥の秀秋には徳川方に付くように示唆してたとかってのが多かったけど。
三成じゃない?
淀は秀吉亡き後の家康の増長を嫌ってたから
@@もふもふ-x4p 2代将軍の正室はお江で淀殿の妹だし、秀頼の正室はお江の長女だから、家康に付いてても可笑しくないんだよね。
教科書とかだと三成が豊臣家の代理として家康と戦ったイメージがありますけど、あの時点では家康も三成も豊臣家の家臣であって、関が原など一連の武力衝突も、あくまでも豊臣家内の主導権争いに過ぎないから、あくまでも中立だったんじゃないですかね?
強いて言うなら、家康主導の五大老・五奉行による統治体制の維持がベスト、それが崩れても、勝った方が主導して秀頼を後見してくれる程度の認識だったかと。
少なくとも、秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣に関しては最後まで頑として認めたなかった点から、三成が豊臣を代表して家康を討ってくれるみたいな考えは皆無だったと思います。
※豊臣家と家康が本格的に対立するのは、家康が秀忠に将軍職を譲った時点から
@@酔狂-i9o 会津征伐の時点では、家康は豊臣の命を受け、豊臣の家臣を引き連れ、豊臣の敵である上杉を討ちに行ったと表向きはなっている。
それに対して、三成は敵である上杉と結託してガラ空きとなった大坂を占拠し、挙兵中の妻子を人質に取りガラシャを自害に追い込んだ反逆者的立場。
主犯が誰かは判らないけど、家康及び豊臣家臣が居なくなった隙を突いたクーデターの可能性も捨てきれない。
この時点では、淀殿からしたら家康は有力な協力者であり、妹の義父であり、息子の嫁のおじいちゃんでしかない。淀殿も家康が豊臣家を裏切ったと確信が持ててたわけではないと思う。(追記:千姫が秀頼と結婚するのは1603年だった。この時点では許嫁。)
@@たまてばこ-y8t つまりは酔狂酔狂さんの意見でいいってことです?
いやいやどう見ても裏切りですよ
歴史に諸説あり!
先生の解説は楽しく、本当にありがたい。
歴史にロマンあり!
難しい事は解りませんが、死の間際まで生きて犬死を避け、責任を果たす。
それがリーダーですかね。今も昔も。
…
😮😮
1:00 今は弁当の時間だ。食事の時間だ。朝飯の時間だからゆっくりと朝飯を食べてからだ
調略に乗ったとか最初から裏切ってたとか色々あるかもしれないけど秀秋って他と比べてもめっちゃ豊臣側の大名だからやっぱ裏切り者だと思う。そういう姿勢を明確にしてなかった時点で尚更
あと確か死因は若い時から接待受けすぎてて酒の飲みすぎとかだったんではって言われてましたね
西軍主力は岡山の宇喜多秀家
秀吉の大返しも岡山から
神武天皇の東征も吉備で3年間軍備を整えて畿内ヘ
日本史のキーポイントは岡山
小早川が早逝したのは気を病んでじゃなく若くして周りに酒ばっかり飲まされてたから体壊してだよ。
陰口言われて病んで亡くなったわけじゃない
小早川秀秋は秀吉の甥で一時は養子にまでなっていますものね。秀頼が生まれたので他家に追いやられたんだもの、家康側に付きたくなりますよ。途中で裏切るなんておかしな話だなと思っていました。叔母さんの高台院も三成より家康の方を信頼していたとか。家か血縁かで言えばやっぱり血縁ですよね。
今回も腑に落ちるお話が聞けました。ありがとうございます。
また、来週を楽しみにしております。
でも秀秋は秀頼に万一の事有ったら
豊臣を相続できる権利持ってたのよ
@@もふもふ-x4p さんへ
あらら、知りませんでしたぁ。
「秀吉は晩年、秀秋を、筑前・筑後33万石から越前12万石へと転封しました。」とのことで、もう、アウトなのかと思っていました。秀次一族のこともありますし、秀秋は豊臣政権下では安心して過ごせなかったのかと愚考しました。
明智とか小早川は後世まで言われるよなぁ
浅野幸長をあさのゆきながとずっと言っていますが、あさのよしながではないですか?
まあいろんな説が出ますわな・・・・。まあ結局遭遇戦であたふたとはじまって東軍が突撃かますとものすごい鉄砲火力と陣城攻略にてこずって、下手すれば敗走しかねなかったという状況のみが正しいのでしょうね。毛利側は資料の隠蔽に走ったから西軍側の資料が出てこないですけども・・。それが幕末のすごいエネルギーの原動力になったのかもしれないね
輝元がお父さん……まぁ元養子だからお父さんで合ってるのか
そもそも秀秋を養子に押し付けられたから、小早川隆景が自分の養子にして、毛利に他家から養子を押し付けられない様に毛利家臣になっていた弟の息子秀元を輝元の養子にした後に実子が生まれたから分家させた。結局は後に秀元の子孫が輝元の血筋を差し置いて毛利本家を継いだ。
@@yh6146 秀元は輝元の弟の息子ではなく従兄弟(秀元は元就の四男の次男)輝元には弟はいたが成人前に亡くなったよう
@@コンノマコト-i8f 小早川隆景の弟の息子という意味です
豊臣全体の流れから見たら金吾は裏切りもの。
結果徳川の天下をもたらしたわけだからね。
その通りです!
ただ金吾も色々なところをたらい回しにされたり、領土を没収されかかったりと結構ひどい目にあってるからなんとも。
秀元は輝元の息子でわない
養子になってるから息子よ
勝って兜の緒を締めよって
もう少し古い言葉じゃないですか?
この時にはよく知られた言葉だったのでは?
諦めたら試合終了
三法師の織田秀信がいつも話題にならないのが淋しい。
三成さんのプロデュースの才能はスゴい‼️としか言えない👍
たかが秘書室長が副社長にケンカ売って👊土俵に立っただけでもスゴい👏
それで⬆️ほんとにあとひと押しあれば勝てた戦🔪に持ち込んだ👏
まさに⬆️漢の中の漢🔥
プロデュース能力はすごいかもしれないが、いかんせ人望がなさすぎた…
大谷「伏見城を攻めましょう」
小早川「ワイは東軍や」
大谷「まあまあご冗談をwさっさと攻め落としましょう」
石田「関ヶ原についたぞ」
小早川「ワイは東軍や」
石田「そういうつまらんネタはいいんで、小早川殿にはこの松尾山を任せましょう。秀頼様の身内だから信用できる。」
石田「クソッ、小早川が動けば勝てるのに、なぜ動かん!」
小早川「ワイは東軍や」
大谷「うわー、小早川が攻めてくるぞ!この裏切り者がぁ!」
多分こんな感じやぞ
待ってました! 後追いで見始めて全部見ました。新しいの楽しみです。
内通 = 裏切り でしょう。
小早川家は、無嗣断絶だったはず・・・
その中学生の家系は庶子から家系図でも書いて語り継いできたんでしょうかね?
でも隆景は秀秋を養子にする前に異母弟を養子にしていて小早川秀包を名乗らせていた。秀包の母親は小早川の分家の出身だから隆景と違い小早川の血筋。秀秋を養子にしたから廃嫡していたけど13万石の大名になっていた。結局関ヶ原で西軍だったから改易になって毛利の家臣になり毛利に復姓した。そして明治に毛利本家の三男が小早川を再興した。
@@yh6146 様
仰有られた通りです。
秀秋は、幼少よりアル中の気有り、子無しにより家名断絶。
他に小早川を名乗る者は、広島県竹原や沼田の小早川家傍流で、秀秋とは関係無いです❗️
小早川家の家士は、隆景隠居に際し三原に引き揚げ、秀秋の下には豊臣秀吉からの付け家老や新参で大半が編成された。
中学生の身内に嘘つきがいるって事でしょう‼️
鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した徳川慶喜。攘夷と言って英国に長州ファイブを派遣して日本を属国にした毛利敬親と毛利元徳。
敗者の悲哀今は選挙
大変ためになる推理で興味がわきました。
三成のお墓と言われているものが新潟県にあります。 墓石の表面には本姓石田、志田氏墓と記されています。右側面には桑名家中志田昌敏、志田昌大、左側面には志田昌方、志田昌文、裏面には享保18年創建、天保9年再建と記されています。
お寺の境内に本姓石田とした志田氏の墓一基あり、それが青史にその名を唄われたる「石田治部大輔三成の墓」との口伝えあり、京は四条河原の朝露消えし筈の三成が、如何にして雪ぶかき越路に彷徨い来れるか、伝え聞く三成は表面上斬首の刑に処せられたるも、当時家康の老臣なれば密かに四天王たる榊原家に隠居せしめて余生を送らしめ替え玉を使える。
大正9年ころ、江州は桑名の藩士志田なる人が寺を訪ね、自宅の仏壇から発見したという先祖墓地の写本を携えてきて、同寺の境内にて実在を知り狂喜厚く供養して去れりと、その後絶えず志納を送り祖先の冥福を祈った。当地の市史にも「石田三成の墓と称するものがある」と記されていて、さらに高田藩と桑名藩の関係を見ると宝永七年(1710年)、桑名藩第三代藩主・松平越中守定重が高田藩第七代藩主に命ぜられ、以来五代31年間続いたことから、三成一族が関が原没後桑名藩名藩に身を寄せ性を志田に変え、その末裔が桑名藩士として高田へ随伴したとも考えられ、この墓碑建立は、松平定重が高田藩主就任から23年後のことを思えば史的に適う物語であるかもしれない。 (岡田氏記述引用)
このようなロマンが当地にあることが、とてもうれしい・・・
東北、九州での戦いも是非解説して欲しいです!
官兵衛の関ヶ原もききたいですよねー
関ヶ原は東軍の小早川秀秋の大殊勲ですね。
待ってました!
そして、次が待ちきれません。
おのれ金吾!!!
金吾は西軍1の豊臣近親者。
調略に応じること自体が
「裏切り者」です!
私が気になるのはたった半日で終わった点、長篠の合戦は8時間前後に比べると?です。要は家康が内輪もめを起こさせて、家康固めを進めたというか、お家騒動の拡大版として結果本家を乗っ取った感ありです。相手を叩き潰す気はないな。天下分け目の合戦とは、後代の作り事の気がします。にしても、先生も絶好調ですね❣ホスト様との息もびったり。さらなるご活躍を切望します。
三河武士の行政能力は日本各地に恩恵をもたらしてますね。
勉強になります
古文書から学べるのは他のチャンネルにはない良い点ですね!
「勝って兜の緒を締めよ」を北条氏綱公のお言葉と思っていました。家康公は引用したとかではないでしょうか。
中学生の小早川君、先生の言葉を聞いて安心したでしょうね。
関ヶ原後の毛利家の藩経営は大変だったと聞きます。江戸時代になって、長州と徳川幕府との関係についても
話が聞きたいです。
新説での西軍の混雑した陣形は、山中のすぐ西にある城、玉城に三成達は籠城する前に襲われた感じがする。
内通の時点で裏切り
なんと言おうと小早川秀秋は裏切り者です
内通してたのだから裏切りだよ小早川は。毛利も裏切りだよ。