ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
家康公遺訓の内容で「怒りは敵と思え」の部分で「敵」の文字が抜けていました。申し訳ありません。
『怒りは敵と思え』かあ家康さん俺、アンタ嫌いじゃないんだけど、アンタが一番ブチ切れてると思うんだあ(笑)ブチ切れて何回切腹しようとしんだっけ?問鉄砲も事実ならあれ程のブチ切れヤケクソは無いよ。でも不思議なんだよなあ、この人ブチ切れる度に救いの手が差し伸べられるんだよね。
アメリカンヒストリーXの校長も言ってた🌟怒りに任せるには人生は短すぎる🌟地球人からしたら人生80年なんてたった2秒🌟
@@ハタナカ-g2p まあ、自分の失敗を元にした教訓ですし。信長にお前は短気だから自重しろと言われたのに武田に突っ込んだのは伊達じゃ無いwまあ、流石に問鉄砲を今に信じてる人はいないでしょうが、元々は短気だった人なのは確かでしょうね。耐えることを覚えたのは、文献や遺品等から見て、その三方ヶ原で多くの臣下を失った後からっぽいですね。
家康は、死ぬまで短気だた。関ケ原の際、正行の調略にはまって遅刻した秀忠を短気に任せて切腹しようとした清正が切腹覚悟で阻止。
怒りで失敗ばかりしてきたからの言葉なのでしょうね。あの時、あの怒りを抑えてさえいれば·····、その後悔があるからこそ、この言葉が重みを持つのだと思います。
さすが家康公、忍耐力もさることながら、洞察力もずば抜けて優れている。
市橋先生、お疲れ様ですヨ!豊臣ノ秀吉公と徳川家康公の手紙はとても勉強にまりましたよ!織田信長から、豊臣秀吉に変わりそして徳川家康に変わった事が今の日本が有る、そしてどれがかけても今の日本にはならなかったことが、分かりますよ!とても勉強になりました!
本当、さすがに苦労され、悩み師匠や高僧や家臣に恵まれた家康様の審美眼です。上に立つ人ほど自らを戒めて生きねばならない。私、岡崎を訪ねた時に主人のためにお土産に求めました。有り難うを、家康様や岡崎の皆様、耐えた先人の方々に日本で身近に家康様がいらしたから、お手本に。今日までいろんな事柄からお守り頂けたと感謝しています。老境になり先生方お二人のお話を聞いて、深く感じ入っております。母の実家は大樹寺の近く、小学1年にお参りして通いました。
「思うがままに生きられぬと知ったとき人は大人に成るのかもしれない」家訓です。市橋先生、久しぶりに自宅で拝見しました。癌に負けずに来週も拝見します。
岡崎はすごいですね!自分は小学校の頃、宮沢賢治の雨にも負けず、を暗唱させられました。当時はなんだか偽善くさいな、と子供ながら思っていましたが、今になるとホントに心から感動します。家康公の遺訓も素晴らしいですよね。
リーダーとしての資質。貞観政要で言われていることを家康が説いていますね。前回の信康との関係、今回の内容ともに目を見開く内容でした。先生、貴重で重要な資料のご解説、ありがとうございました。
さすが徳川家康公ですね。とても勉強になりました。300年以上続く平和な時代の基を築いた家康公や、その家康公が評価されている楠木正成公の事を、改めて勉強したくなりました。
ありがとうございます!
浜崎さんの暗唱には脱帽しました。いつも番組を見ていて、正直歴史には詳しくない方なのかなぁと思っていただけに、暗唱されたことへの驚きとどうして暗唱出来たのかがわかり納得です。「幼少期には意味がわからなくても暗唱すると、大人になって為になる」。まさに今の教育に一番欠けている事だと常々痛感しています。今回の暗唱されたのを見て、自分が普段岡崎市とは縁がない場所に住んでいるものですから、岡崎市の雰囲気の一旦がわかるようでした。
今回もありがとうございました。良く時代小説や歴史物語に出て来る信長、秀吉のイメージは家康から見たものだったんですね。歴史は正史などからだけではなくって私文書研究が大事なんですね。また、次回を楽しみにしております。
戦国時代の歴史資料自体が、江戸時代以降に、書かれた2次資料ですから。
家康公遺訓の暗唱、恐れ入りました。 東海地方の小学校、恐るべし。 関東とも関西とも異なる素晴らしい文化遺産だと思います。
いつもありがとうございます。若い頃にこのような授業を受けたかったな~!
いつもこのシリーズ楽しみに見させていただいています、本当に面白く良い動画とおもいます。
海外の啓発古典が流行ってるけど日本の古人に学ぶのも良いですね
今の時代だからこそ、心に響きますね。
生死がかかった真剣勝負の毎日に生きた人の言葉が心に響きます。
今回は非常に大切な回だと思います永久保存版と思います、楠木正成さんは100点なのに何故か天下を取れなかったのですか、
狙ってなかったし、仮に全ての日本人武将を屈服させてところで政権を立てる正当性がないからです。
逆に野心がなかったから100だったのでは?
家康公が遠回しに本能寺の変が起こった原因を言っていてドキっとした
まだ視聴途中ですが。既に、非常な感銘を受けています。日本人のアイデンティティーのもとですか。
浜崎さん👏👏👏👏
市川先生のお話は、他の歴史系の動画と比べ、歴史上の人物の心情まで掘り下げて解説してくれます。単に歴史上の事実の列記ではなく、その時代を生きた人々の生き様が今の私達に伝わってくるようなお話です。家康公、彼を支えた重臣だけでなく、名もない足軽、農民や市井の人々の心意気が伝わってくるようです。毎週水曜日が楽しみです。
ありがとうございます。これからも丁寧にお伝えできるよう頑張ります。
暗唱、お見事でした! 暗唱する価値のある重要な文言でした。
信長についての動画もっとみたいです
私もこの遺訓を噛みしめて堪忍を是として今を生きて来ましたが、出来れば、市橋先生に願わくは家康公が遺したと思われる第一次資料の考証を何処かの動画で追い続けて欲しいものです♪ いつの世も治世者は崇め神格化されるものでございます‼️ 近隣諸国のC国もまた北も同様でしょうが、史実を忠実に繋ぐ事が国の威信を高揚させることになるでしょう❣️
時代が変わり、個を尊重する時代になってしまいましたとさ
同時期に育てていた、徳川頼宣、頼房の若いころのハチャメチャぶりを知り、本当に守れたのですか?とツッコミを入れたくなりました。しかしながら、この二人の系統だけが存続しているところを見ると正解だったのかもしれませんが。
素晴らしい 家康公の遺訓を聞けば 正に天下人になるべくしてなったと思える。
朗読すごい🎉
思い通りにならないのは自分も相手もお互い様って事ですね。
こんばんは。今日の話を聞いて家康のイメージが変わりました。政治家としていいこと言ってますね。浜崎さん、すごいですね!岡崎の方は、家康公遺訓を暗記するのでしょうか?山形の人は上杉鷹山の、なせば成る、、、のくだりを小学校のときに唱和してたと聞きました。地域性あるんですね。
それでも、信長が死ぬまで22年も同盟を維持したり、戦で勝ったのに秀吉の軍門に下ったあたりは、機を見るに敏というか審美眼というか、並外れたものを感じますね。家康から見た他の歴史上の偉人に対する評価があったら是非見てみたいです。
秀吉の軍門に下ったのはむしろ幸運の産物でしょう。天正大地震がなければ、突っ張り続けたのが裏目に出て確実に攻め滅ぼされてましたからね。小牧長久手で勝ったのは単なる局地勝利でしかなく大した影響を及ぼさなかった、ということ。結局その後の外交戦略で完敗して孤立したのだから。
秀吉の像は今も昔も変わらない成金の人なんやね。信長は、いいリーダーやけど、怒りっぽいのが玉に瑕
いつも有難うございます。育児書以上に帝王学としての教育書ですね。
節約節約ではいずれ行き詰まるんですよね吉宗の改革は1度目だったから初代以来の幕府の緩みを締め直す効果があって一定の成果がありましたが、松平定信、水野忠邦の2度目3度目の締め付けは大した効果は出ませんでした。吉宗が締めるべき所は締めちゃったんだから当然ですよね
家康の考えでは、スティーブ・ジョブスのようなリーダーは出ないなあ。でも日本人が好きなリーダー像であるかもしれない。
この家康のお江への手紙ですが全文掲載、口語訳の書籍が桑田忠親著、文芸春秋発行の家康の手紙しか見つかりません。古い書籍でハードカバーのプレミアの物しかないのですがソフトカバーの廉価版をどこかで安く手に入れることは出来ないでしょうか?どなたか教えてくださる方がいましたらお願いします。
思い通りなんてならないのは当たり前変えるにはエネルギーがいる動かすのと維持する力がいるめっちゃ大変なこと
家康さん直筆の一級品の1次資料、ありがたいです。本能寺の変、遺恨説がこれで有力になりますかね?家臣の追放(佐久間氏)や裏切り(浅井氏、荒木氏、明智氏)を見るに、説得力があります。秀吉さんは天下人なのに、身の程をわきまえない大判振る舞いと、家康さんは冷たく評価していたのですね。
24:00~アニメ「銀河英雄伝説」のラストシーンと共通する話題だと思いました。生まれた赤ん坊が夜空の星へ手を伸ばしてつかもうとするシーンでした。
6:11 主人に話しを合わせて機嫌をとるようになる、部下はほんとのことを言わなくなる、これで倒産した会社は計り知れず。
会津も優れた藩主のため悲劇を生む。
家康の江戸の町づくりにおいての夢、苦労を市橋先生のお話を通して考えてみたいです。すみません、恐縮です!!世界一の都市の礎はどうしてなったのでしょうか。
ありがとうございます。一言でいえば、暮らしのためのインフラ整備を御上が率先して行ったことでしょうか。運河水運、町割り、江戸中心の街道整備などです。仕組みづくりと計画性はいつの世も政治の力を表してますね。
@@市橋章男 有りがたいご教示に感激しております!! 御言葉を頂けるなんて嬉し過ぎます!!これからも、楽しみにしております。岡崎とは離れておりますが、私の先祖は、駿河の三島で旅籠を営んでおり、幕末に、よくそこに宿泊していた土佐の大江卓と、当時の主である私の4代前の齋藤半兵衛とが昵懇になり、大江さんが一字を下さり、私の祖父が齋藤卓(北一輝の門下生)となりました。
会津と言えば白虎隊が有名ですが、会津藩は、武士になる少年に軍事の基礎である「物見」(偵察)の重要さを教えていなかったんだろう。白虎隊の戦績を時系列で見ると事実誤認と思い込みばかりで、勝手に戦況を悪くしているようです。特に、山中から煙を見て「城が燃えてる、落城だ自決しよう」など、数名を町に潜入させればわかることをせず、結果全滅に。ほんとイロハがわかっていない情けない武士(の卵)だと感じました。まあ、250年の平安の世がそうさせたのでしょうが・・・。
見ざる聞かざる言わざるって堪忍のことだったのね
26:45 の最後の言葉を見ていると、家康が忠次にかけたと言われる「お主でも息子がかわいいか」は、また別の意味に感じますね。家康にしたら『俺は、家次に分相応の知行を与えている』、『お主ほどのものでも、息子のこととなると甘くなるのだな』と。信康事件のことは全く関係なく、単純に親バカぶりを指摘されて忠次はそそくさと帰ったと
北大路欣也さんのコメントの意味がわかりません。この回ではコメンテイターなのですか?
解説とてもためになりました。後世の私達は徳川政権長期だったから、家康が1番成功者として正しい人物論評のように聞きがちですが、家康より秀吉の方が感動的で幸せな人生だったと思います。子孫繁栄の大きな要素である生殖能力は人物評価とは切り離さないといけませんし、家康に未分不相応の280万石を与えて、ライバルに大盤振る舞いしたのも秀吉の豪胆さです。お陰で政権を取ってから何年も天下人として采配しました。家康は死にかける2年前くらいに政権取ってすぐに隠居して、ろくに天下人も味わわないまま、政権が長続きするかどうかも不安なままこの世を去ったストレスまみれの人生だったので羨ましいとは思えません。
堪忍の教えは政治家にこそ必要な訓戒ですね。政治は徳の最たるものですから。
大変参考になりました。明治以降の価値観は家康史観だと納得しました。其れがいまのグローバルについていけない理由がある。信長、秀吉の世界観を持つべきだ、もう一度そういう観点から歴史を見直す必要がある、家康だつて天下をとれなければ、世界に出て行こうと思っていた。天下を取ったことにより、国家観なく徳川家のみの存続、価値観、道徳、教育をかんがえた、家康は自分の事だけだ、信長、秀吉は世界がみえていた。家康だけの価値観だけではいけない。
暗唱出来るの凄いですね
👍☆✨✨✨
人間、死んじまったらそれで終いやな。。刹那やで....
今のどこぞの党首に聞かせたい。
家康公遺訓の暗唱が出来た、浜崎さんに拍手👏
あれ、後の世の創作ですよ。
マコにも聞かせたいな
織田信長評で言われた内容は、明智光秀から本能寺の変を起こした理由を、手紙で届けられたからかな?
先生お願いです。先祖の池田輝政 恒興特集やってください。 資料がなくて困ります
家康の娘をなぜめとることになったのか、豊橋要塞や姫路要塞について触れてほしいです
戊辰戦争時、会津藩の家老は西郷さんで薩摩藩のリーダーも西郷さん。不思議な感じです。会津に行った時にビックリした事です。
あれは遠い一族なんですね。僕も気になって調べましたが、南北朝の時代に九州から三河にも入ってこられました。15世紀半ばに岡崎城を築城したのは、実は西郷氏なんですよ。
家康の家臣であるからこそ!だよね? 難しくないんだよ! 家臣の反対があったら、十分話を聞いて、決定することだよね。 家康の家臣は、なんと言っても家康第一、お家第一だから、信じて行かなくてはね?
不忠、不孝、不実な輩が増えましたね。天下万民、中共の蛮行に苦しむこと尋常ならず。今こそ義を唱え、大事を成すべし❗
人前で叱責するのは、恨み買いますね。
家康は信長を殿と呼び秀吉を公と呼んでいたのか。両者死後の話だから家康がどう思っていたのかなんとなく気持ちが察する
信長は同盟相手で一応対等、秀吉は家臣になったからでは?
浜崎さん、「めっちゃ無理」なのが、正常な人間の感覚。
儒教の五徳なんて、最低だ。
家康遺訓を暗唱してた大名達は、信長の勇気も秀吉の知恵もなく、只忍耐しか出来なかったろう。
家康の駄目な所。1、堪忍(我が儘をしない堪忍。五感の堪忍=誘惑に負けないで。)、忍耐、我慢。2、儒教徳目🤮の堪忍。
信長は近代の名将。
人を上手に使う。
この「臣下あっての君主」という考えは、中国春秋戦国時代の管仲の「君、君たらざれば、臣、臣たらず」から来ているものと思われますね。さらに言えば、その元は孔子の教えにつながりますが。
家康公は沢山の本を読み学びましたので当然知っていると思います。自分の中に落とし込み経験を通し語っていると思います。
ほとんど日本国内だけで完結していた江戸時代と違って、今は世界を含めて考えないといけない。いくら人の話を聞くといっても、国内の身内の意見だけを聞いている現状では衰退するばかり。外圧がなければ、日本は江戸時代のような状態に戻るといわれている。
家康公遺訓は、明治時代に旧幕臣(池田松之助)が作った創作でしょうが。
いや、語もとうぜんいいけどお姉さんが✨
統治者が堪忍を失くしたからこそ実は戦国乱世となったとか
秀吉の分不相応は明征伐なんかな。もしかしたら、家康への関八州転封も与えすぎだったと言うことかも。
仁義礼智信
島津に暗君なし、、か
故に、信長公、秀吉の天下は長続きせず、家康公の天下は子々孫々264年も続いた。ただ、その後ろ向きなまでの慎重さが日本民族にとって真に幸福と言えるだろうか。
戦国時代を終わらせ平和な時代の礎を作った事は大変な意義の有る事で、それを謗る理由は在るだろうか。
@@supika-virgo 殿その平和な時代(天下泰平)とやらが大いに曲者である。日本の海外進出は大きく遅れ、固有領土である筈の樺太、千島はロシアに掠め取られた。経済大国と言いながら実際は外敵・米国の「属国」である。私はその原因と思われるものを糾弾したまでのこと。
「幼いころから、物事は自分の思い通りになるものではないことを心せよ。」このことをA宮家がちゃんと教育してこなかったから、長女があんなふうになってしまったのですね。
結局、最後まで生き残り天下を手中にした家康にしか言えない事ですね。これが秀吉の方が長生きしていたら家康に天下は転がっては来なかったでしょうし逆に秀吉に同じ様に寸評されていたでしょう。秀吉は文禄・慶長の役の最中に寿命が尽きて死んでしまったので丸で作戦自体が失敗で「身の程知らずな大望を抱いた」と言う評価をされる事が多いですがそれは度量の狭い人間による評価と言えます。当時の日本は世界最強と言えるレベルの軍事力であり、統制率も他国より高かった。時の経過をみれば、文禄・慶長の役の最中に急激に秀吉の体調悪化が見られる。恐らく、役を始めた当初は自分がそんなに早く死んでしまうとは思えないレベルで元気だったのかも知れません。そのせいで秀吉毒殺説まであります。後5年秀吉が生きていれば中国を統治していたかも知れません。そっちの方がアジアをマトモな状態で今の時代に繋げれたかも知れないですね。きっと今の中国共産党も北朝鮮の独裁なんてのも生まれていないでしょうw逆に徳川政権を長期維持する為だけの「鎖国」と言う制度は当時世界一だった軍事力を低下させ、科学、医学を筆頭に様々な分野をガラパゴス化させる結果を生みました。豊臣時代までの日本人は世界中を視野に入れた行動力、度量があったと思われますが鎖国以降、それが封印されてしまいました。その分、平和になったとは言えますが、250年の平和との引き換えが明治維新以後の世界大戦と言う大きなしっぺ返しに繋がったと思います。日本が軍事力を維持しつつ、世界と対等に時代を生きていたらアメリカに統治される様な結果にはならなかったと思います。歴史にたらればは意味が無いと言う人も居るでしょうが徳川時代の鎖国と言う制度の負の部分をもっと日本人は考える必要があると思います。
少し前の、秀吉の外交に関しての論考をご覧ください。国家の歴史は様々な側面から俯瞰し、精査する必要もあります。僕自身はわずかな研究しかできていませんが、漢文資料を少し紐解くだけで勉強武不足を感じてしまいます。またさまざまなご意見をいただければ幸いです。
大賛成です、あなたの見方素晴らしい、友達になりたいです、
文禄の役は戦線が長期間膠着した状況で国内での戦と比べ物にならない厳しい戦だったとの事です。講和で一旦は収まりましたが、秀吉側の自己都合で再度戦を起こす事になりました(慶長の役)どんなに軍事力が高くても、世論や部下が嫌だと思えば、士気は低下します。家康や石田三成らは秀吉の死後に多大な苦労を掛けて、戦の後処理を行っていました。それを考慮すると、秀吉の行ったことは「身の程知らずな待望を抱いた」と思われても仕方ありません。
こういう馬鹿がまだ涌いてるとは
事実、この3人だよね。1人ラッキーなヤツおるけど。
堪忍が難しいとは、ただ経験値が少ないだけだと思います我思うが故に我ありと言う哲学も居たかもしれないですがそもそも我なんて、元々ないと言う思想に至れば何の苦もないのにね
「堪忍」だけなら、奴隷にでも、出来る。
奴隷は堪忍じゃなく耐えてるじゃない。堪忍は自己管理だからやめようと思えばいつでもやめられるもの
「堪忍」に「堪忍」を、重ねた家康も、戦や病で、早死にしかけた。運が悪ければ、呆気なく死んでた。
直政は無口で目立たない人だったのか。若いうちに出世したから、もっと弁舌爽やかで、才走った感じの人かと思ってた。
どこぞの大統領に見てもらいたい動画です。
自分の会社のアホなハゲ社長に見せたい動画です
ということは、今の日本は名ばかりリーダーしかいない。自民党政治は曇りばかりで、鏡は割れているのではないでしょうか。
堪忍今の隣国にも教えたいですね。
今の政治家と官僚は王侯貴族スピリットで堪忍が出来てない
「あいづっこ宣言」一 人をいたわります二 ありがとうごめんなさいを言います三 がまんをします四 卑怯なふるまいをしません五 会津を誇り年上を敬います六 夢に向かってがんばります やってはならぬやらねばならぬ ならぬことはならぬものです「什の掟」一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ三、虚言をいふ事はなりませぬ四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ五、弱い者をいぢめてはなりませぬ六、戸外で物を食べてはなりませぬ七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
家康公の師父武田信玄公「人は城人は石垣人は堀情けは味方仇は敵也」
秀吉公を使ったのは官位的なことなんでしょうか?信長の場合は殿ですね・・・
井伊直政はパワハラで有名だった。それはそうとして家康の言葉は失敗からきているんだろう。ノッブが浜松城から出るなよと言っても挑発に乗って出ちゃうし。武田との関係もすぐ切れて敵対関係を作っちゃうし。ノッブの生きているときに忍耐力のかけらもなかったじゃないか。家康は忍耐力がなさすぎる。信長と秀吉よりもひどいだろう。
人質時代から始まって息子に将軍職を継がせるまで忍耐の連続だったでしょう。信長秀吉以下だとのたまうがどの様な根拠でその様な事を言うか。自分の失敗にも学ぶが、あの二人の浅はかさにも大いに学んだでしょう。
仰る通りですよ。反省から来てること間違いないでしょうね。
@@supika-virgo さん家康の青年期は忍耐どころかエリートコースを爆走しています。今川一門に認められ、そのあとは25才で三河統一と遠江を支配に成功しています。この時期の家康に忍耐は求められていません。この時期に苦労しなかったことが災いして、三河一向一揆の失政と岡崎派と浜松派の派閥をコントロール出来なくて長男を自害に追い込んでしまいました。この辺の管理は信長の方が上手くやっており、彼が本願寺と対立するまでは一向宗とも良好な関係を築いていました。あと遠征能力は秀吉の方が優れていて島津の討伐にも成功していますが、家康は島津征伐を断念しています。これは家康の能力不足というわけではなく、家臣の能力の差だと考えています。家康が武田と北条の家臣団を召し抱えたのは、このことが大きな原因でしょう。私は江戸幕府の安泰は家康の功績よりも秀忠と家光の功績が大きいと考えております。
私も、お互いの若い時期同士を比べたら、意外や意外ですが家康より信長の方がずっと辛抱強かったと思います。短気で失敗したことは家康の方が多く、信長の失敗は逆に他人を信じすぎたことが裏目に出たケースも目立つ。そのぶん、我慢から解放されたときの反動、残忍さが信長は凄かったので、その印象に縛られてる人が多いように思う。
已むを、得ず ですね。
家康推し気持ちはわかりますが・・・もう少し平等に話して欲しいです。結果、家康がすごいって言いたいんでしょ・・・・ってそういう目線で動画見ちゃいます。
こんにちはするが堪忍 せぬが堪忍 勸賞黜陟 弔民伐罪
秀吉との約束を破り、様々な手を使って関ケ原を勝ち、大阪の陣で主君であったはずの秀頼を滅ぼした家康。その家康に義とか礼とかいわれても、当時のことを覚えている人々には驕っていると思われていたのではないでしょうか?
家康は人の欠点ばかりあげつらって、辛気臭い。
秀吉への評価は、自身へ関東250万石を与えたことに対する嫌味ある人物評な風に読める。見栄っ張りは身を滅ぼすから程々にしておけということか。
戦は悪いことと先入観があるようにみえます。最大のことを見落としています。国ありて山河ありであり、山河ありて国ありてでは無い、わかりますか、平和ボケさん。明智光秀さんは皇室に対しての忠義と君に対して忠義の選択に悩んだ事の末だと思っています、信長さんは堪忍の見方で計られるような人ではない。秀吉さんは合っていると思います、
「腹八分」と答えますか!?
家康的人事をしてたら、人から特徴や長所が、無くなる。
家康遺訓は後世の創作です。
家康公遺訓の内容で「怒りは敵と思え」の部分で「敵」の文字が抜けていました。申し訳ありません。
『怒りは敵と思え』かあ家康さん俺、アンタ嫌いじゃないんだけど、
アンタが一番ブチ切れてると思うんだあ(笑)ブチ切れて何回切腹しようとしんだっけ?
問鉄砲も事実ならあれ程のブチ切れヤケクソは無いよ。
でも不思議なんだよなあ、この人ブチ切れる度に救いの手が差し伸べられるんだよね。
アメリカンヒストリーXの校長も言ってた🌟怒りに任せるには人生は短すぎる🌟地球人からしたら人生80年なんてたった2秒🌟
@@ハタナカ-g2p まあ、自分の失敗を元にした教訓ですし。
信長にお前は短気だから自重しろと言われたのに武田に突っ込んだのは伊達じゃ無いw
まあ、流石に問鉄砲を今に信じてる人はいないでしょうが、元々は短気だった人なのは確かでしょうね。
耐えることを覚えたのは、文献や遺品等から見て、その三方ヶ原で多くの臣下を失った後からっぽいですね。
家康は、死ぬまで短気だた。関ケ原の際、正行の調略にはまって遅刻した秀忠を
短気に任せて切腹しようとした清正が切腹覚悟で阻止。
怒りで失敗ばかりしてきたからの言葉なのでしょうね。
あの時、あの怒りを抑えてさえいれば·····、その後悔があるからこそ、この言葉が重みを持つのだと思います。
さすが家康公、忍耐力もさることながら、洞察力もずば抜けて優れている。
市橋先生、お疲れ様ですヨ!豊臣ノ秀吉公と徳川家康公の手紙はとても勉強にまりましたよ!織田信長から、豊臣秀吉に変わりそして徳川家康に変わった事が今の日本が有る、そしてどれがかけても今の日本にはならなかったことが、分かりますよ!とても勉強になりました!
本当、さすがに苦労され、悩み師匠や高僧や家臣に恵まれた家康様の審美眼です。上に立つ人ほど自らを戒めて生きねばならない。
私、岡崎を訪ねた時に主人のためにお土産に求めました。有り難うを、家康様や岡崎の皆様、耐えた先人の方々に日本で身近に家康様がいらしたから、お手本に。今日までいろんな事柄からお守り頂けたと感謝しています。老境になり先生方お二人のお話を聞いて、深く感じ入っております。母の実家は大樹寺の近く、小学1年にお参りして通いました。
「思うがままに生きられぬと知ったとき人は大人に成るのかもしれない」家訓です。市橋先生、久しぶりに自宅で拝見しました。癌に負けずに来週も拝見します。
岡崎はすごいですね!自分は小学校の頃、宮沢賢治の雨にも負けず、を暗唱させられました。当時はなんだか偽善くさいな、と子供ながら思っていましたが、今になるとホントに心から感動します。家康公の遺訓も素晴らしいですよね。
リーダーとしての資質。
貞観政要で言われていることを家康が説いていますね。
前回の信康との関係、今回の内容ともに目を見開く内容でした。
先生、貴重で重要な資料のご解説、ありがとうございました。
さすが徳川家康公ですね。とても勉強になりました。
300年以上続く平和な時代の基を築いた家康公や、その家康公が評価されている楠木正成公の事を、改めて勉強したくなりました。
ありがとうございます!
浜崎さんの暗唱には脱帽しました。いつも番組を見ていて、正直歴史には詳しくない方なのかなぁと思っていただけに、暗唱されたことへの驚きとどうして暗唱出来たのかがわかり納得です。「幼少期には意味がわからなくても暗唱すると、大人になって為になる」。まさに今の教育に一番欠けている事だと常々痛感しています。今回の暗唱されたのを見て、自分が普段岡崎市とは縁がない場所に住んでいるものですから、岡崎市の雰囲気の一旦がわかるようでした。
今回もありがとうございました。良く時代小説や歴史物語に出て来る信長、秀吉のイメージは家康から見たものだったんですね。歴史は正史などからだけではなくって私文書研究が大事なんですね。また、次回を楽しみにしております。
戦国時代の歴史資料自体が、江戸時代以降に、書かれた2次資料ですから。
家康公遺訓の暗唱、恐れ入りました。 東海地方の小学校、恐るべし。 関東とも関西とも異なる素晴らしい文化遺産だと思います。
いつもありがとうございます。
若い頃にこのような授業を受けたかったな~!
いつもこのシリーズ楽しみに見させていただいています、本当に面白く良い動画とおもいます。
海外の啓発古典が流行ってるけど日本の古人に学ぶのも良いですね
今の時代だからこそ、心に響きますね。
生死がかかった真剣勝負の毎日に生きた人の言葉が心に響きます。
今回は非常に大切な回だと思います永久保存版と思います、楠木正成さんは100点なのに何故か天下を取れなかったのですか、
狙ってなかったし、仮に全ての日本人武将を屈服させてところで政権を立てる正当性がないからです。
逆に野心がなかったから100だったのでは?
家康公が遠回しに本能寺の変が起こった原因を言っていて
ドキっとした
まだ視聴途中ですが。既に、非常な感銘を受けています。日本人のアイデンティティーのもとですか。
浜崎さん👏👏👏👏
市川先生のお話は、他の歴史系の動画と比べ、歴史上の人物の心情まで掘り下げて解説してくれます。
単に歴史上の事実の列記ではなく、その時代を生きた人々の生き様が今の私達に伝わってくるようなお話です。
家康公、彼を支えた重臣だけでなく、名もない足軽、農民や市井の人々の心意気が伝わってくるようです。
毎週水曜日が楽しみです。
ありがとうございます。これからも丁寧にお伝えできるよう頑張ります。
暗唱、お見事でした! 暗唱する価値のある重要な文言でした。
信長についての動画もっとみたいです
私もこの遺訓を噛みしめて堪忍を是として今を生きて来ましたが、出来れば、市橋先生に願わくは家康公が遺したと思われる第一次資料の考証を何処かの動画で追い続けて欲しいものです♪
いつの世も治世者は崇め神格化されるものでございます‼️
近隣諸国のC国もまた北も同様でしょうが、史実を忠実に繋ぐ事が国の威信を高揚させることになるでしょう❣️
時代が変わり、個を尊重する時代になってしまいましたとさ
同時期に育てていた、徳川頼宣、頼房の若いころのハチャメチャぶりを知り、本当に守れたのですか?とツッコミを入れたくなりました。
しかしながら、この二人の系統だけが存続しているところを見ると正解だったのかもしれませんが。
素晴らしい 家康公の遺訓を聞けば 正に天下人になるべくしてなったと思える。
朗読すごい🎉
思い通りにならないのは自分も相手もお互い様って事ですね。
こんばんは。
今日の話を聞いて家康のイメージが変わりました。政治家としていいこと言ってますね。
浜崎さん、すごいですね!
岡崎の方は、家康公遺訓を暗記するのでしょうか?
山形の人は上杉鷹山の、なせば成る、、、のくだりを小学校のときに唱和してたと聞きました。
地域性あるんですね。
それでも、信長が死ぬまで22年も同盟を維持したり、戦で勝ったのに秀吉の軍門に下ったあたりは、機を見るに敏というか審美眼というか、並外れたものを感じますね。家康から見た他の歴史上の偉人に対する評価があったら是非見てみたいです。
秀吉の軍門に下ったのはむしろ幸運の産物でしょう。天正大地震がなければ、突っ張り続けたのが裏目に出て確実に攻め滅ぼされてましたからね。小牧長久手で勝ったのは単なる局地勝利でしかなく大した影響を及ぼさなかった、ということ。結局その後の外交戦略で完敗して孤立したのだから。
秀吉の像は今も昔も変わらない成金の人なんやね。
信長は、いいリーダーやけど、怒りっぽいのが玉に瑕
いつも有難うございます。育児書以上に帝王学としての教育書ですね。
節約節約ではいずれ行き詰まるんですよね
吉宗の改革は1度目だったから初代以来の幕府の緩みを締め直す効果があって一定の成果がありましたが、松平定信、水野忠邦の2度目3度目の締め付けは大した効果は出ませんでした。吉宗が締めるべき所は締めちゃったんだから当然ですよね
家康の考えでは、スティーブ・ジョブスのようなリーダーは出ないなあ。でも日本人が好きなリーダー像であるかもしれない。
この家康のお江への手紙ですが全文掲載、口語訳の書籍が桑田忠親著、文芸春秋発行の家康の手紙しか見つかりません。
古い書籍でハードカバーのプレミアの物しかないのですがソフトカバーの廉価版をどこかで安く手に入れることは出来ないでしょうか?
どなたか教えてくださる方がいましたらお願いします。
思い通りなんてならないのは当たり前変えるにはエネルギーがいる動かすのと維持する力がいるめっちゃ大変なこと
家康さん直筆の一級品の1次資料、ありがたいです。
本能寺の変、遺恨説がこれで有力になりますかね?
家臣の追放(佐久間氏)や裏切り(浅井氏、荒木氏、明智氏)を見るに、説得力があります。
秀吉さんは天下人なのに、身の程をわきまえない大判振る舞いと、家康さんは冷たく評価していたのですね。
24:00~
アニメ「銀河英雄伝説」のラストシーンと共通する話題だと思いました。
生まれた赤ん坊が夜空の星へ手を伸ばしてつかもうとするシーンでした。
6:11 主人に話しを合わせて機嫌をとるようになる、部下はほんとのことを言わなくなる、これで倒産した会社は計り知れず。
会津も優れた藩主のため悲劇を生む。
家康の江戸の町づくりにおいての夢、苦労を市橋先生のお話を通して考えてみたいです。すみません、恐縮です!!世界一の都市の礎はどうしてなったのでしょうか。
ありがとうございます。
一言でいえば、暮らしのためのインフラ整備を御上が率先して行ったことでしょうか。運河水運、町割り、江戸中心の街道整備などです。仕組みづくりと計画性はいつの世も政治の力を表してますね。
@@市橋章男 有りがたいご教示に感激しております!! 御言葉を頂けるなんて嬉し過ぎます!!
これからも、楽しみにしております。岡崎とは離れておりますが、私の先祖は、駿河の三島で旅籠を営んでおり、幕末に、よくそこに宿泊していた土佐の大江卓と、当時の主である私の4代前の齋藤半兵衛とが昵懇になり、大江さんが一字を下さり、私の祖父が齋藤卓(北一輝の門下生)となりました。
会津と言えば白虎隊が有名ですが、会津藩は、武士になる少年に軍事の基礎である「物見」(偵察)の重要さを教えていなかったんだろう。
白虎隊の戦績を時系列で見ると事実誤認と思い込みばかりで、勝手に戦況を悪くしているようです。
特に、山中から煙を見て「城が燃えてる、落城だ自決しよう」など、数名を町に潜入させればわかることをせず、結果全滅に。
ほんとイロハがわかっていない情けない武士(の卵)だと感じました。
まあ、250年の平安の世がそうさせたのでしょうが・・・。
見ざる聞かざる言わざるって堪忍のことだったのね
26:45 の最後の言葉を見ていると、家康が忠次にかけたと言われる「お主でも息子がかわいいか」は、また別の意味に感じますね。
家康にしたら『俺は、家次に分相応の知行を与えている』、『お主ほどのものでも、息子のこととなると甘くなるのだな』と。
信康事件のことは全く関係なく、単純に親バカぶりを指摘されて忠次はそそくさと帰ったと
北大路欣也さんのコメントの意味がわかりません。
この回ではコメンテイターなのですか?
解説とてもためになりました。後世の私達は徳川政権長期だったから、家康が1番成功者として正しい人物論評のように聞きがちですが、家康より秀吉の方が感動的で幸せな人生だったと思います。子孫繁栄の大きな要素である生殖能力は人物評価とは切り離さないといけませんし、家康に未分不相応の280万石を与えて、ライバルに大盤振る舞いしたのも秀吉の豪胆さです。お陰で政権を取ってから何年も天下人として采配しました。家康は死にかける2年前くらいに政権取ってすぐに隠居して、ろくに天下人も味わわないまま、政権が長続きするかどうかも不安なままこの世を去ったストレスまみれの人生だったので羨ましいとは思えません。
堪忍の教えは政治家にこそ必要な訓戒ですね。
政治は徳の最たるものですから。
大変参考になりました。明治以降の価値観は家康史観だと納得しました。其れがいまのグローバルについていけない理由がある。信長、秀吉の世界観を持つべきだ、もう一度そういう観点から歴史を見直す必要がある、家康だつて天下をとれなければ、世界に出て行こうと思っていた。天下を取ったことにより、国家観なく徳川家のみの存続、価値観、道徳、教育をかんがえた、家康は自分の事だけだ、信長、秀吉は世界がみえていた。家康だけの価値観だけではいけない。
暗唱出来るの凄いですね
👍☆✨✨✨
人間、死んじまったら
それで終いやな。。
刹那やで....
今のどこぞの党首に聞かせたい。
家康公遺訓の暗唱が出来た、浜崎さんに拍手👏
あれ、後の世の創作ですよ。
マコにも聞かせたいな
織田信長評で言われた内容は、明智光秀から本能寺の変を起こした理由を、手紙で届けられたからかな?
先生お願いです。先祖の池田輝政 恒興特集やってください。 資料がなくて困ります
家康の娘をなぜめとることになったのか、豊橋要塞や姫路要塞について触れてほしいです
戊辰戦争時、会津藩の家老は西郷さんで薩摩藩のリーダーも西郷さん。不思議な感じです。会津に行った時にビックリした事です。
あれは遠い一族なんですね。僕も気になって調べましたが、南北朝の時代に九州から三河にも入ってこられました。15世紀半ばに岡崎城を築城したのは、実は西郷氏なんですよ。
家康の家臣であるからこそ!だよね? 難しくないんだよ! 家臣の反対があったら、十分話を聞いて、決定することだよね。 家康の家臣は、なんと言っても家康第一、お家第一だから、信じて行かなくてはね?
不忠、不孝、不実な輩が増えましたね。
天下万民、中共の蛮行に苦しむこと尋常ならず。今こそ義を唱え、大事を成すべし❗
人前で叱責するのは、恨み買いますね。
家康は信長を殿と呼び秀吉を公と呼んでいたのか。両者死後の話だから家康がどう思っていたのかなんとなく気持ちが察する
信長は同盟相手で一応対等、秀吉は家臣になったからでは?
浜崎さん、「めっちゃ無理」なのが、正常な人間の感覚。
儒教の五徳なんて、最低だ。
家康遺訓を暗唱してた大名達は、信長の勇気も秀吉の知恵もなく、只忍耐しか出来なかったろう。
家康の駄目な所。1、堪忍(我が儘をしない堪忍。五感の堪忍=誘惑に負けないで。)、忍耐、我慢。2、儒教徳目🤮の堪忍。
信長は近代の名将。
人を上手に使う。
この「臣下あっての君主」という考えは、中国春秋戦国時代の管仲の「君、君たらざれば、臣、臣たらず」から来ているものと思われますね。
さらに言えば、その元は孔子の教えにつながりますが。
家康公は沢山の本を読み学びましたので当然知っていると思います。
自分の中に落とし込み経験を通し語っていると思います。
ほとんど日本国内だけで完結していた江戸時代と違って、今は世界を含めて考えないといけない。
いくら人の話を聞くといっても、国内の身内の意見だけを聞いている現状では衰退するばかり。
外圧がなければ、日本は江戸時代のような状態に戻るといわれている。
家康公遺訓は、明治時代に旧幕臣(池田松之助)が作った創作でしょうが。
いや、語もとうぜんいいけどお姉さんが✨
統治者が堪忍を失くしたからこそ実は戦国乱世となったとか
秀吉の分不相応は明征伐なんかな。もしかしたら、家康への関八州転封も与えすぎだったと言うことかも。
仁義礼智信
島津に暗君なし、、か
故に、信長公、秀吉の天下は長続きせず、家康公の天下は子々孫々264年も続いた。
ただ、その後ろ向きなまでの慎重さが日本民族にとって真に幸福と言えるだろうか。
戦国時代を終わらせ平和な時代の礎を作った事は大変な意義の有る事で、それを謗る理由は在るだろうか。
@@supika-virgo 殿
その平和な時代(天下泰平)とやらが大いに曲者である。
日本の海外進出は大きく遅れ、固有領土である筈の樺太、千島はロシアに掠め取られた。
経済大国と言いながら実際は外敵・米国の「属国」である。
私はその原因と思われるものを糾弾したまでのこと。
「幼いころから、物事は自分の思い通りになるものではないことを心せよ。」
このことをA宮家がちゃんと教育してこなかったから、長女があんなふうになってしまったのですね。
結局、最後まで生き残り天下を手中にした家康にしか言えない事ですね。
これが秀吉の方が長生きしていたら家康に天下は転がっては来なかったでしょうし
逆に秀吉に同じ様に寸評されていたでしょう。
秀吉は文禄・慶長の役の最中に寿命が尽きて死んでしまったので
丸で作戦自体が失敗で「身の程知らずな大望を抱いた」と言う評価をされる事が多いですが
それは度量の狭い人間による評価と言えます。
当時の日本は世界最強と言えるレベルの軍事力であり、統制率も他国より高かった。
時の経過をみれば、文禄・慶長の役の最中に急激に秀吉の体調悪化が見られる。
恐らく、役を始めた当初は自分がそんなに早く死んでしまうとは思えないレベルで元気だったのかも知れません。
そのせいで秀吉毒殺説まであります。
後5年秀吉が生きていれば中国を統治していたかも知れません。
そっちの方がアジアをマトモな状態で今の時代に繋げれたかも知れないですね。
きっと今の中国共産党も北朝鮮の独裁なんてのも生まれていないでしょうw
逆に徳川政権を長期維持する為だけの「鎖国」と言う制度は
当時世界一だった軍事力を低下させ、科学、医学を筆頭に様々な分野をガラパゴス化させる結果を生みました。
豊臣時代までの日本人は世界中を視野に入れた行動力、度量があったと思われますが
鎖国以降、それが封印されてしまいました。
その分、平和になったとは言えますが、250年の平和との引き換えが
明治維新以後の世界大戦と言う大きなしっぺ返しに繋がったと思います。
日本が軍事力を維持しつつ、世界と対等に時代を生きていたら
アメリカに統治される様な結果にはならなかったと思います。
歴史にたらればは意味が無いと言う人も居るでしょうが
徳川時代の鎖国と言う制度の負の部分をもっと日本人は考える必要があると思います。
少し前の、秀吉の外交に関しての論考をご覧ください。国家の歴史は様々な側面から俯瞰し、精査する必要もあります。僕自身はわずかな研究しかできていませんが、漢文資料を少し紐解くだけで勉強武不足を感じてしまいます。またさまざまなご意見をいただければ幸いです。
大賛成です、あなたの見方素晴らしい、友達になりたいです、
文禄の役は戦線が長期間膠着した状況で国内での戦と比べ物にならない厳しい戦だったとの事です。講和で一旦は収まりましたが、秀吉側の自己都合で再度戦を起こす事になりました(慶長の役)
どんなに軍事力が高くても、世論や部下が嫌だと思えば、士気は低下します。
家康や石田三成らは秀吉の死後に多大な苦労を掛けて、戦の後処理を行っていました。
それを考慮すると、秀吉の行ったことは「身の程知らずな待望を抱いた」と思われても仕方ありません。
こういう馬鹿がまだ涌いてるとは
事実、この3人だよね。
1人ラッキーなヤツおるけど。
堪忍が難しいとは、ただ経験値が少ないだけだと思います
我思うが故に我ありと言う哲学も居たかもしれないですが
そもそも我なんて、元々ないと言う思想に至れば何の苦もないのにね
「堪忍」だけなら、奴隷にでも、出来る。
奴隷は堪忍じゃなく耐えてるじゃない。
堪忍は自己管理だからやめようと思えばいつでもやめられるもの
「堪忍」に「堪忍」を、重ねた家康も、戦や病で、早死にしかけた。運が悪ければ、呆気なく死んでた。
直政は無口で目立たない人だったのか。
若いうちに出世したから、もっと弁舌爽やかで、才走った感じの人かと思ってた。
どこぞの大統領に見てもらいたい動画です。
自分の会社のアホなハゲ社長に見せたい動画です
ということは、今の日本は名ばかりリーダーしかいない。自民党政治は曇りばかりで、鏡は割れているのではないでしょうか。
堪忍
今の隣国にも教えたいですね。
今の政治家と官僚は王侯貴族スピリットで堪忍が出来てない
「あいづっこ宣言」
一 人をいたわります
二 ありがとうごめんなさいを言います
三 がまんをします
四 卑怯なふるまいをしません
五 会津を誇り年上を敬います
六 夢に向かってがんばります
やってはならぬやらねばならぬ ならぬことはならぬものです
「什の掟」
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
家康公の師父武田信玄公「人は城人は石垣人は堀情けは味方仇は敵也」
秀吉公を使ったのは官位的なことなんでしょうか?信長の場合は殿ですね・・・
井伊直政はパワハラで有名だった。それはそうとして家康の言葉は失敗からきているんだろう。ノッブが浜松城から出るなよと言っても挑発に乗って出ちゃうし。武田との関係もすぐ切れて敵対関係を作っちゃうし。ノッブの生きているときに忍耐力のかけらもなかったじゃないか。家康は忍耐力がなさすぎる。信長と秀吉よりもひどいだろう。
人質時代から始まって息子に将軍職を継がせるまで忍耐の連続だったでしょう。
信長秀吉以下だとのたまうがどの様な根拠でその様な事を言うか。
自分の失敗にも学ぶが、あの二人の浅はかさにも大いに学んだでしょう。
仰る通りですよ。反省から来てること間違いないでしょうね。
@@supika-virgo さん
家康の青年期は忍耐どころかエリートコースを爆走しています。今川一門に認められ、そのあとは25才で三河統一と遠江を支配に成功しています。この時期の家康に忍耐は求められていません。この時期に苦労しなかったことが災いして、三河一向一揆の失政と岡崎派と浜松派の派閥をコントロール出来なくて長男を自害に追い込んでしまいました。この辺の管理は信長の方が上手くやっており、彼が本願寺と対立するまでは一向宗とも良好な関係を築いていました。あと遠征能力は秀吉の方が優れていて島津の討伐にも成功していますが、家康は島津征伐を断念しています。これは家康の能力不足というわけではなく、家臣の能力の差だと考えています。家康が武田と北条の家臣団を召し抱えたのは、このことが大きな原因でしょう。私は江戸幕府の安泰は家康の功績よりも秀忠と家光の功績が大きいと考えております。
私も、お互いの若い時期同士を比べたら、意外や意外ですが家康より信長の方がずっと辛抱強かったと思います。短気で失敗したことは家康の方が多く、信長の失敗は逆に他人を信じすぎたことが裏目に出たケースも目立つ。
そのぶん、我慢から解放されたときの反動、残忍さが信長は凄かったので、その印象に縛られてる人が多いように思う。
已むを、得ず ですね。
家康推し
気持ちはわかりますが・・・
もう少し平等に話して欲しいです。
結果、家康がすごいって言いたいんでしょ・・・・って
そういう目線で動画見ちゃいます。
こんにちは
するが堪忍 せぬが堪忍 勸賞黜陟 弔民伐罪
秀吉との約束を破り、様々な手を使って関ケ原を勝ち、大阪の陣で主君であったはずの秀頼を滅ぼした家康。
その家康に義とか礼とかいわれても、当時のことを覚えている人々には驕っていると思われていたのでは
ないでしょうか?
家康は人の欠点ばかりあげつらって、辛気臭い。
秀吉への評価は、自身へ関東250万石を与えたことに対する嫌味ある人物評な風に読める。見栄っ張りは身を滅ぼすから程々にしておけということか。
戦は悪いことと先入観があるようにみえます。最大のことを見落としています。国ありて山河ありであり、山河ありて国ありてでは無い、わかりますか、平和ボケさん。明智光秀さんは皇室に対しての忠義と君に対して忠義の選択に悩んだ事の末だと思っています、信長さんは堪忍の見方で計られるような人ではない。秀吉さんは合っていると思います、
「腹八分」と答えますか!?
家康的人事をしてたら、人から特徴や長所が、無くなる。
家康遺訓は後世の創作です。