ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
戦自体の勝敗よりも、この戦いで国力と兵力で大きく勝る秀吉に善戦して見せたことが、後の天下人家康を大きく引き寄せた。 そんな印象がある戦いです。小牧長久手の戦いというけど、それ以外のところで行われていた全国規模の攻防も見どころがある戦いですね。
歴史系のTH-camは数多くあれど、戦国BANAHSIチャンネルが一番面白くて楽しいので、いつもお世話になりありがとうございます。
ある意味、関ヶ原以上に「天下分け目の合戦」と言えるかも知れません。織田・羽柴・徳川の三英傑家が敵味方に分かれ直接対決したこと、池田恒興ら大物が討ち取られたこと、戦が半年以上に及んだこと、本件に関連する戦いが伊勢・美濃・能登・紀州・下野など全国各地で起きたこと等を考えると、まさに日本を二分する一大戦役の一部が小牧長久手であったと見ることもできます。
教科書では2.、3行の小牧長久手の戦い、武士道さんの解説でとても分かりやすいです。最近は大河解説より歴史としての話に、とても勉強になり有意義!
(゜やよ😅そふやえな😅😅😊😊😊😅😊
今夜の“どうする家康”この動画を観てたから、めっちゃ分かりやすかった!ありがとうございました😊
戦術的な勝利は戦略的な失敗を覆せない。って感じですね。
局地戦よりも大局観が重要ということは、大河ドラマでも石川数正が指摘していましたね。このことが彼を秀吉の元に走らす理由とされていたところは良く考えられているドラマだと思いました。
電話もインターネットもない戦国時代に、戦略と調略を駆使して戦った家康と秀吉はすごいな!
長久手の局地戦をクローズアップして徳川勝利を主張する解釈もありますが、本来の総大将は信雄であり、総大将が降伏している以上、秀吉勝利は動きませんね。伊賀と伊勢の領土を取られても和睦したいということは、信雄が生き残るには、秀吉への降伏しかなかったんでしょうね。
負け戦ではあったけれど、ここで天下人秀吉相手に善戦してみせたことが家康を諸大名に一目置かれる存在にし、秀吉没後に多くの大名に「次の天下人は家康」と思わせることに繋がった様に思います。三方ヶ原でもボロ負けながら信玄相手に果敢に討って出たことで評価を上げたなんて話もありますし、家康って人は敗北してもただでは負けないみたいなところが面白いですね。
局所戦は家康の勝利だが、家康の戦略目標が秀吉を打倒して信雄を封じて上洛するということだったとすると、単に防衛戦に勝ったというだけでは大局には影響せず、「家康が実質的に勝っていた」とまでは言えないってところ?
1戦場のみの出来事かと思っていたけど長期間かつ広範に及んでいたのは驚いた。
織田信雄👍👍😍徳川家康👍
信雄、頑張っていたんですね!家康と手を組んだのは、すごい良い人選だったと思います!
この戦い、秀吉が戦略的な実利を得て家康が戦術的な名声を得たという認識です。天正の大地震が無ければ、実利も名声も秀吉が得ていたのではないかと、今は思っています。
安土城残してくれていたらなぁ
秀吉の戦い方は、経済力を背景としたアメリカ的な戦い方。大東亜戦争時の日本軍は非常に強く、局地線では何度も勝利した。しかし、物量で押してくるアメリカに最後は惨敗。それと同様な状態が、この時点の秀吉と家康であった。小牧長久手後の地震がなければ徳川家は滅んでいたと思う。秀吉の九州遠征時、延々と火縄銃を撃つ豊臣軍に、屈強な島津も惨敗している。
戦いの後、秀吉はリベンジする気マンマンで大垣城に大量の兵糧を運び込んでいたようですが、折悪しく天正地震が発生し大垣城は倒壊。大坂を含め近畿圏では多大な被害が出たため(長浜の山内一豊はこの地震で長女を亡くしたとか)、さすがの秀吉も再戦を断念した…なんて後日談もあるそうですね。小和田先生は、天正地震が無ければ秀吉も総力戦に及んでいたはずなので、ある意味、地震のお蔭で家康も命拾いしたと仰っていました。
笑える😂そもそも小牧長久手の戦いは、局地戦であり長島方面と尾張方面の織田家の内紛ですし秀吉的に無理して家康の首を取る必要性もなかったそれが証拠に戦いの後の結果が物語るとうり戦略的勝利秀吉戦術的勝利家康信玄と謙信と同じ
その通り
鳴くまでまとう不如帰! 賢きは 時を待ちて いづる世に 家康公🙌
負け戦から学ぶことは多い。BUSHIDOさんの名言ですね。因みに森長可は森蘭丸の兄なのですか?
小牧長久手の戦いで、のちに関ヶ原の戦いでの教訓になるとは…ね🤔
この戦いが家康にとっていずれの関ヶ原への布石となったのかも、と感じました。
7:36 三家老を斬殺したことで、織田信雄が秀吉との絶交と宣言したことが、小牧・長久手の戦いの始まりになったことはのちに徳川家との外交の窓口になっていた片桐且元が出奔したことで、豊臣家が徳川家と絶交したことを意味することになって、徳川家康が豊臣家を攻撃する口実をもらったことに繋がってきそうですね
家康は局所的には勝利が多かったものの、国力差がなぁ…やはり毛利に長宗我部をぶつけさせている時点でなかなか羽柴に勝ち切ることは厳しかったんじゃないかな…関白内定が決まっていたみたいだし家康は時期的にも結果的にもいい落とし所だと思う
形式的にも織田家への忠義も表すことが出来たし、秀吉をはじめ全国の諸将に「家康すげぇヤツ」って存在感示せたから、ホント結果的には「得」になった戦いと言えるかもしれませんね。
昭和の歴史本や漫画でも「織田信雄がバカ殿だったから勝手に手打ちにした」「家康がバカを見た」的なテンプレ構図だけではなく、家康視点で「戦で勝ててもサルの財力(国力)には敵わん」事と秀吉視点で「続けても益なし」という事を描いてた作品はありましたし、確かに良い落とし所ではあったんでしょうね
短期的には戦略的勝利を収めた様で、家康に止めを刺せなかった秀吉の戦略的敗北だと思います。
小牧長久手の戦いは、歴史で、習ったよ、すなわち、家康さんと、秀吉さんの、戦いだね、さあどうする家康版は、どんな小牧長久手の戦いかな、ワクワク😃💕
秀吉は武家の生まれではないから代を跨いてその家に仕えるという価値観が希薄だったんじゃないかと
豊臣家の城は黒色。徳川家の城🏯は白色。大坂城も同じ。豊臣時代の城を見たければ松本城へ。
冒頭で「秀吉包囲網を形成した一環での、小牧長久手はその局地戦の一つ」と仰られるのを聞いて、へー実は秀吉にとっては関ヶ原みたいなものだったのか、下手すりゃ関ヶ原もこうなっていたのかも…と思っていたら、〆に関ヶ原へ繋がる話も出てきた。決め手の伊勢攻略に筒井蒲生秀長って秀吉オールスターじゃん。勝負の分かれ目は信雄を孤立させることと見切っていたんだね。
威加海内 は劉邦の詩に出てくる言葉ですね。
秀吉が織田家簒奪の目立った動きをしたこのタイミングで丹羽長秀、滝川一益あたりの旧織田重臣が反秀吉で結託したら面白かったんだけどなぁと思ってしまいます。秀吉は周囲から見て天下を平らげる器の人物と見られていたのか、信雄のカリスマ性の無さゆえか味方したのが、本能寺直前に織田の被官化した実質ほぼ外様の徳川だけだなんて
自分がやったことを、自分が亡き後、家康にやられてしまうんですよね。
秀吉との取次に危害を加えたことが戦争の始まりってのが皮肉にも豊臣も同じ事をやらかしてしまうのよね。片桐…関東でも北条(徳川)対佐竹・宇都宮(秀吉)で代理戦争に近い戦(沼尻)が起きてるし遠い地方の戦も中央の政局が大きく絡む戦になりだしてきてるなぁって実感秀吉から「和睦」+「秀長以上の官位という好待遇」と妥協を引き出したという見方で見ると、信雄も家康もよくやったと言えるかもしれない
これがみたかった!
話は違いますが、思えば日露戦争・日中・太平洋戦争の時も同じような構図でしたね。ただし徳川家や明治日本には勝ち時のタイミングで大局を見据えて講和に持ち込んだ見識ある人材がちゃんといたけど、昭和日本にはいなかったのが嘆かわしい限り。
地震が起きて戦うどころではなかったという説もありましたが、そちらとの関連性はいかがでしょうか?
三家老かわいちょ…😢
小牧・長久手の戦い前の海老すくいが楽しみ〜😂
エビスクイ楽しみ🐯🐰
戦術的(局地戦)では家康が勝ったけど、戦略的(大局)では秀吉が勝ったってことかな。ただいずれにしろ局地戦でも家康が秀吉に土をつけたことが大きい。このことが後々響いてきて秀吉も家康を無下に扱うことができなくなった。この時秀吉が戦闘でも勝って家康から領地の割譲でも出来ていれば後の歴史も変わったかもしれない。あと話は変わるが毛利との交渉のためこの戦いは黒田官兵衛と蜂須賀小六はたしか参加してないんだよね。彼らがいれば三河への中入りもどうなったか。
信雄、悔しよ反旗を翻るすっで、、総大将は信雄だよ、ほんとに優柔不断なオトコ、信長の息子かな?、家康殿が力になってなかったらとっくに死んでたよ、なんて人なんだ…、😤😣😨
小牧・長久手の戦いって、名目上は織田vs織田?
豊臣は織田より上位になりましたが、北条はあくまでも将軍の臣下です。
織田対羽柴ですね☺️徳川は織田を助ける立場ですね☺️
@@靖昭田原 でも、この時点では秀吉はあくまでも織田家重臣でしょ?織田家家督代行者同士の衝突じゃないの?
@@炊き込み越智松平家 安土城から三法師と信雄を追い出してるからもう織田家重臣じゃないと思います
織田家内の権力闘争は賤ヶ岳で決着した感じですね
今さらですが光秀は大義名分をはっきり示せなかったのが致命的でしたね。だから細川家でさえ味方しなかった。
織田信雄をたぶらかす佞臣家康を討つと言いたい所だけど家康は織田の同盟相手ですもんね
織田政権から豊臣政権への以降は鎌倉幕府の将軍から執権への移行に似てる気がする
豊臣は官位でも織田の上位になりましたが、北条はあくまでも将軍の臣下です。
@@靖昭田原最終的な政権のカタチじゃなくて、権力を奪取していく過程が似てるって話でしょ。
@@clai47tere1sar 豊臣家は織田家を必要としないのに対し北条家は将軍家を必要としていました。つまり豊臣政権は織田政権とまったく違う政権なのに対し北条政権は鎌倉幕府の継承なのです。
陰謀のつるべ打ちじゃないか!
「細川忠興(ガラシャの旦那)」と「池田常興」を勘違いしてしまいます。共通するのは名前の最後の「興」の字だけですが。
織田信雄さん泥臭いけど部下暗殺😅😅😊👍(^^)考えが、佐竹に😊
ちょっと質問ですが、この時の朝廷は、正親町天皇じゃなく、後陽成天皇では?ないですか?😅
正親町天皇が譲位したのが1586年なので小牧長久手の戦いの時はまだ正親町天皇です。
そうそう!今上天皇が、皇太子にそのみ位を、お譲りになられて太上天皇に成られるのは、譲位であって、生前退位なんて、新たな報道用語創らんで欲しい!
この頃の秀吉は何者にも属してない独立勢力である一方関白就任はまだの中央集権の存在でもない。戦国大名と見てもいいと思うのだけどその考えにも是非がある、まさに微妙な面白い時期。
羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興前田利家滝川一益森長可堀秀政vs織田信雄佐々成政
この時期にあって争いを終わらせた?っていう、大地震の話は出て来ないのでね。
天正地震が起きなければ秀吉は徳川をまた攻めて滅ぼす予定だったみたいな説ありますがどうなんでしょうね 仕事辞めて内ヶ島氏の埋蔵金見つけに行きたいです
丹羽長秀と丹羽長重は参加してないの?
淀殿は井上真央
😢なやんなあやら
柴田勝家と共闘すれば、秀吉に勝てたのにと考えるのですが、そこに至らなかったのは何故でしょうか?
小牧長久手の戦いが秀吉の勝利であるならなら上田合戦(関ヶ原)の勝利が真田である理由を説明して欲しい。意味わかるかな?
第2次上田合戦で昌幸側の勝利って誰が言ってるの?フィクションの歴代大河でも真田勝利なんて結果にしてるの見たことない
第2次上田合戦は、関ヶ原の戦いの1部であり真田の勝利でわない関ヶ原の戦いを西軍に勝たせる為の要動作戦に過ぎないが、只の徳川のボンがまんまと挑発にのり主戦場に遅れてオヤジに殺されそうになっただけ
なんでだろう…「のぶかつ」と言われると誰となってしまい「のぶお」の方がしっくりしてしまうのか
戦自体の勝敗よりも、この戦いで国力と兵力で大きく勝る秀吉に善戦して見せたことが、後の天下人家康を大きく引き寄せた。
そんな印象がある戦いです。
小牧長久手の戦いというけど、それ以外のところで行われていた全国規模の攻防も見どころがある戦いですね。
歴史系のTH-camは数多くあれど、戦国BANAHSIチャンネルが一番面白くて楽しいので、いつもお世話になりありがとうございます。
ある意味、関ヶ原以上に「天下分け目の合戦」と言えるかも知れません。織田・羽柴・徳川の三英傑家が敵味方に分かれ直接対決したこと、池田恒興ら大物が討ち取られたこと、戦が半年以上に及んだこと、本件に関連する戦いが伊勢・美濃・能登・紀州・下野など全国各地で起きたこと等を考えると、まさに日本を二分する一大戦役の一部が小牧長久手であったと見ることもできます。
教科書では2.、3行の小牧長久手の戦い、武士道さんの解説でとても分かりやすいです。最近は大河解説より歴史としての話に、とても勉強になり有意義!
(゜やよ😅そふやえな😅😅😊😊😊😅😊
今夜の“どうする家康”
この動画を観てたから、めっちゃ分かりやすかった!
ありがとうございました😊
戦術的な勝利は戦略的な失敗を覆せない。って感じですね。
局地戦よりも大局観が重要ということは、大河ドラマでも石川数正が指摘していましたね。このことが彼を秀吉の元に走らす理由とされていたところは良く考えられているドラマだと思いました。
電話もインターネットもない戦国時代に、戦略と調略を駆使して戦った家康と秀吉はすごいな!
長久手の局地戦をクローズアップして徳川勝利を主張する解釈もありますが、本来の総大将は信雄であり、総大将が降伏している以上、秀吉勝利は動きませんね。伊賀と伊勢の領土を取られても和睦したいということは、信雄が生き残るには、秀吉への降伏しかなかったんでしょうね。
負け戦ではあったけれど、ここで天下人秀吉相手に善戦してみせたことが家康を諸大名に一目置かれる存在にし、秀吉没後に多くの大名に「次の天下人は家康」と思わせることに繋がった様に思います。
三方ヶ原でもボロ負けながら信玄相手に果敢に討って出たことで評価を上げたなんて話もありますし、家康って人は敗北してもただでは負けないみたいなところが面白いですね。
局所戦は家康の勝利だが、家康の戦略目標が秀吉を打倒して信雄を封じて上洛するということだったとすると、単に防衛戦に勝ったというだけでは大局には影響せず、「家康が実質的に勝っていた」とまでは言えないってところ?
1戦場のみの出来事かと思っていたけど長期間かつ広範に及んでいたのは驚いた。
織田信雄👍👍😍徳川家康👍
信雄、
頑張っていたんですね!
家康と手を組んだのは、
すごい良い人選だったと思います!
この戦い、秀吉が戦略的な実利を得て家康が戦術的な名声を得たという認識です。
天正の大地震が無ければ、実利も名声も秀吉が得ていたのではないかと、今は思っています。
安土城残してくれていたらなぁ
秀吉の戦い方は、経済力を背景としたアメリカ的な戦い方。大東亜戦争時の日本軍は非常に強く、局地線では何度も勝利した。しかし、物量で押してくるアメリカに最後は惨敗。それと同様な状態が、この時点の秀吉と家康であった。小牧長久手後の地震がなければ徳川家は滅んでいたと思う。秀吉の九州遠征時、延々と火縄銃を撃つ豊臣軍に、屈強な島津も惨敗している。
戦いの後、秀吉はリベンジする気マンマンで大垣城に大量の兵糧を運び込んでいたようですが、折悪しく天正地震が発生し大垣城は倒壊。大坂を含め近畿圏では多大な被害が出たため(長浜の山内一豊はこの地震で長女を亡くしたとか)、さすがの秀吉も再戦を断念した…なんて後日談もあるそうですね。
小和田先生は、天正地震が無ければ秀吉も総力戦に及んでいたはずなので、ある意味、地震のお蔭で家康も命拾いしたと仰っていました。
笑える😂
そもそも小牧長久手の戦いは、局地戦であり長島方面と尾張方面の織田家の内紛ですし
秀吉的に無理して家康の首を取る必要性もなかった
それが証拠に戦いの後の結果が物語るとうり
戦略的勝利秀吉
戦術的勝利家康
信玄と謙信と同じ
その通り
鳴くまでまとう不如帰!
賢きは 時を待ちて いづる世に
家康公🙌
負け戦から学ぶことは多い。
BUSHIDOさんの名言ですね。因みに森長可は森蘭丸の兄なのですか?
小牧長久手の戦いで、のちに関ヶ原の戦いでの教訓になるとは…ね🤔
この戦いが家康にとっていずれの関ヶ原への布石となったのかも、と感じました。
7:36 三家老を斬殺したことで、織田信雄が秀吉との絶交と宣言したことが、小牧・長久手の戦いの始まりになったことは
のちに徳川家との外交の窓口になっていた片桐且元が出奔したことで、豊臣家が徳川家と絶交したことを意味することになって、徳川家康が豊臣家を攻撃する口実をもらったことに繋がってきそうですね
家康は局所的には勝利が多かったものの、国力差がなぁ…
やはり毛利に長宗我部をぶつけさせている時点でなかなか羽柴に勝ち切ることは厳しかったんじゃないかな…
関白内定が決まっていたみたいだし家康は時期的にも結果的にもいい落とし所だと思う
形式的にも織田家への忠義も表すことが出来たし、秀吉をはじめ全国の諸将に「家康すげぇヤツ」って存在感示せたから、ホント結果的には「得」になった戦いと言えるかもしれませんね。
昭和の歴史本や漫画でも「織田信雄がバカ殿だったから勝手に手打ちにした」「家康がバカを見た」
的なテンプレ構図だけではなく、家康視点で「戦で勝ててもサルの財力(国力)には敵わん」事と
秀吉視点で「続けても益なし」という事を描いてた作品はありましたし、確かに良い落とし所では
あったんでしょうね
短期的には戦略的勝利を収めた様で、家康に止めを刺せなかった秀吉の戦略的敗北だと思います。
小牧長久手の戦いは、歴史で、習ったよ、すなわち、家康さんと、秀吉さんの、戦いだね、さあどうする家康版は、どんな小牧長久手の戦いかな、ワクワク😃💕
秀吉は武家の生まれではないから代を跨いてその家に仕えるという価値観が希薄だったんじゃないかと
豊臣家の城は黒色。徳川家の城🏯は白色。大坂城も同じ。豊臣時代の城を見たければ松本城へ。
冒頭で「秀吉包囲網を形成した一環での、小牧長久手はその局地戦の一つ」と仰られるのを聞いて、へー実は秀吉にとっては関ヶ原みたいなものだったのか、下手すりゃ関ヶ原もこうなっていたのかも…と思っていたら、〆に関ヶ原へ繋がる話も出てきた。決め手の伊勢攻略に筒井蒲生秀長って秀吉オールスターじゃん。勝負の分かれ目は信雄を孤立させることと見切っていたんだね。
威加海内 は劉邦の詩に出てくる言葉ですね。
秀吉が織田家簒奪の目立った動きをしたこのタイミングで丹羽長秀、滝川一益あたりの旧織田重臣が反秀吉で結託したら面白かったんだけどなぁ
と思ってしまいます。
秀吉は周囲から見て天下を平らげる器の人物と見られていたのか、信雄のカリスマ性の無さゆえか
味方したのが、本能寺直前に織田の被官化した実質ほぼ外様の徳川だけだなんて
自分がやったことを、
自分が亡き後、
家康にやられてしまうんですよね。
秀吉との取次に危害を加えたことが戦争の始まりってのが皮肉にも豊臣も同じ事をやらかしてしまうのよね。片桐…
関東でも北条(徳川)対佐竹・宇都宮(秀吉)で代理戦争に近い戦(沼尻)が起きてるし遠い地方の戦も中央の政局が大きく絡む戦になりだしてきてるなぁって実感
秀吉から「和睦」+「秀長以上の官位という好待遇」と妥協を引き出したという見方で見ると、信雄も家康もよくやったと言えるかもしれない
これがみたかった!
話は違いますが、思えば日露戦争・日中・太平洋戦争の時も同じような構図でしたね。ただし徳川家や明治日本には勝ち時のタイミングで大局を見据えて講和に持ち込んだ見識ある人材がちゃんといたけど、昭和日本にはいなかったのが嘆かわしい限り。
地震が起きて戦うどころではなかったという説もありましたが、そちらとの関連性はいかがでしょうか?
三家老かわいちょ…😢
小牧・長久手の戦い前の海老すくいが楽しみ〜😂
エビスクイ楽しみ🐯🐰
戦術的(局地戦)では家康が勝ったけど、戦略的(大局)では秀吉が勝ったってことかな。ただいずれにしろ局地戦でも家康が秀吉に土をつけたことが大きい。このことが後々響いてきて秀吉も家康を無下に扱うことができなくなった。この時秀吉が戦闘でも勝って家康から領地の割譲でも出来ていれば後の歴史も変わったかもしれない。
あと話は変わるが毛利との交渉のためこの戦いは黒田官兵衛と蜂須賀小六はたしか参加してないんだよね。彼らがいれば三河への中入りもどうなったか。
信雄、悔しよ
反旗を翻るすっで、、総大将は信雄だよ、ほんとに優柔不断なオトコ、信長の息子かな?、家康殿が力になってなかったらとっくに死んでたよ、なんて人なんだ…、😤😣😨
小牧・長久手の戦いって、名目上は織田vs織田?
豊臣は織田より上位になりましたが、北条はあくまでも将軍の臣下です。
織田対羽柴ですね☺️
徳川は織田を助ける立場ですね☺️
@@靖昭田原 でも、この時点では秀吉はあくまでも織田家重臣でしょ?織田家家督代行者同士の衝突じゃないの?
@@炊き込み越智松平家 安土城から三法師と信雄を追い出してるからもう織田家重臣じゃないと思います
織田家内の権力闘争は賤ヶ岳で決着した感じですね
今さらですが
光秀は大義名分をはっきり示せなかったのが致命的でしたね。
だから細川家でさえ味方しなかった。
織田信雄をたぶらかす佞臣家康を討つと言いたい所だけど家康は織田の同盟相手ですもんね
織田政権から豊臣政権への以降は鎌倉幕府の将軍から執権への移行に似てる気がする
豊臣は官位でも織田の上位になりましたが、北条はあくまでも将軍の臣下です。
@@靖昭田原
最終的な政権のカタチじゃなくて、権力を奪取していく過程が似てるって話でしょ。
@@clai47tere1sar
豊臣家は織田家を必要としないのに対し北条家は将軍家を必要としていました。つまり豊臣政権は織田政権とまったく違う政権なのに対し北条政権は鎌倉幕府の継承なのです。
陰謀のつるべ打ちじゃないか!
「細川忠興(ガラシャの旦那)」と
「池田常興」を勘違いしてしまいます。
共通するのは名前の最後の「興」の字だけですが。
織田信雄さん泥臭いけど部下暗殺😅😅😊👍(^^)考えが、佐竹に😊
ちょっと質問ですが、この時の朝廷は、正親町天皇じゃなく、後陽成天皇では?
ないですか?😅
正親町天皇が譲位したのが1586年なので小牧長久手の戦いの時はまだ正親町天皇です。
そうそう!
今上天皇が、皇太子に
そのみ位を、お譲りになられて
太上天皇に成られるのは、
譲位
であって、
生前退位
なんて、新たな報道用語創らんで欲しい!
この頃の秀吉は何者にも属してない独立勢力である一方関白就任はまだの中央集権の存在でもない。戦国大名と見てもいいと思うのだけどその考えにも是非がある、まさに微妙な面白い時期。
羽柴秀吉
丹羽長秀
池田恒興
前田利家
滝川一益
森長可
堀秀政
vs
織田信雄
佐々成政
この時期にあって争いを終わらせた?っていう、大地震の話は出て来ないのでね。
天正地震が起きなければ秀吉は徳川をまた攻めて滅ぼす予定だったみたいな説ありますがどうなんでしょうね 仕事辞めて内ヶ島氏の埋蔵金見つけに行きたいです
丹羽長秀と丹羽長重は参加してないの?
淀殿は井上真央
😢なやんなあやら
柴田勝家と共闘すれば、秀吉に勝てたのにと考えるのですが、そこに至らなかったのは何故でしょうか?
小牧長久手の戦いが秀吉の勝利であるならなら上田合戦(関ヶ原)の勝利が真田である理由を説明して欲しい。意味わかるかな?
第2次上田合戦で昌幸側の勝利って誰が言ってるの?フィクションの歴代大河でも真田勝利なんて結果にしてるの見たことない
第2次上田合戦は、関ヶ原の戦いの1部であり真田の勝利でわない
関ヶ原の戦いを西軍に勝たせる為の要動作戦に過ぎないが、只の徳川のボンがまんまと挑発にのり主戦場に遅れてオヤジに殺されそうになっただけ
なんでだろう…「のぶかつ」と言われると誰となってしまい「のぶお」の方がしっくりしてしまうのか