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どうする家康の小早川秀秋の利を見据える武将としてのキャラクター、新鮮でかっこよかったです。市橋先生の言うように、戦の前に東軍に付いてたとするなら、非常に先を見据えて決断力のある武将。裏切り者と長年言われていましたが、今回のドラマでイメージを少しは刷新できたなら幸いです🥲
かくし芸大会❓️❓️❓️大森南生、孤独のグルメの五郎さん、怪物演技のムロツヨシさん→この方役の幅が広く何でもできます。岡田准一さん、名前がすぐには浮かばないですが、つや消ししている、素晴らしい脇役さん達、そして、12才から75才迄演じる松本潤さん、皆さんは自分が輝こうとはしない。相手や周りの人の為に演技をしています。松本さんは年代に合わせて声の高さを替えてます。目が大きいので、目👀の演技も映えます。三成役の中村さんも凄い気迫でした。私は脚本が抜群に素晴らしいこと、二年間準備をして、更に自宅で大森さんが相手役になり、たゆまぬ役作りをして、新しい家康像を作った松本潤さんにあっぱれと言いたいです。
先生 浜崎さん こんにちは👋😃毎週楽しみにしてます❗いつも 韓国より応援してます。寒くなってきましたね。お身体ご自愛なさってください。
まもなく始まる放送が100倍楽しみになりました。
大昔に見た主人公家康の大河ドラマで村越茂助の出てくるシーンが大好きだったので今でもそのシーンだけを見てます。今回の大河ドラマでも見たかったのに残念
葵徳川三代には村越直吉さん出ていましたね。福島正則に詰め寄られてオドオドしてました笑
勝って兜の緒をしめよ、とはこの時の言葉でしたか?松本家康は指を噛む暇もなかった。早い展開でした。
井伊直正が赤色の具足で髭つけて、小学校の学芸会みたいな大河ドラマでした。
史実や書物に基づいた事実の関ケ原ですですね。昔TBSで放送された「関ケ原」加藤剛と森繫久彌、まさにこのままです。司馬遼太郎の情報集めに基づいた作品はやはりすごい。
葵徳川三代の家康は長門裕之の弟津川雅彦ですね。同じジェームス三木脚本の独眼竜政宗でも家康を演じました。
葵・徳川三代の時の家康役は故・津川雅彦さんですよ
先生、南宮山で行厨を使うわけですね(笑)空弁当ではなく缶ビールで。美味しいでしょうねー
いよいよ最大の過渡期ですね😀関ヶ原の戦いは新説が出てますが私は通説が好きですね😀家康公が苦心した姿を忍のが好きですね😀
通説は家康神格化で苦労し努力して天下を取ったことにしたいから、勝った関ケ原の戦を自虐的に創作したのでしょうね。創作が露骨過ぎるから新説を裏付ける資料まで出てきちゃった…
月代を剃っていて禿というのはイメージが湧かなかったのですが、なるほど天頂部分を隠せないくらい後退していると禿なのですね。明智光秀は天頂部分がうまく隠せないほど後退していたのでしょうね。ちょっと古いですが故横山ノックさんくらい後退してると月代剃っても禿にあたるイメージですね。
しかし大垣城の連中は、旗をたたんでいたとは言え、家康がすぐ側を通って岡山に向けて進軍してきたことになぜ気が付かなかったんでしょう?進軍の前に「佐和山攻め」を流布して、移動することに意識を向けさせたと言うことでしょうか?追記:塩気の効いたおにぎりと缶ビール……同感です!
先生こんばんは。いつもありがとうございます。ひとつお話あります。11:09 「南宮神社」とおっしゃっておりますが、ここは「南宮大社」といわれておりますよ。是非お越しください。ご案内します。
現地で買った缶ビールの方がうまいと思います❗ >市橋先生秀吉も織田家の天下を乗っ取ったのですから、秀吉が家康に天下を横取りされても文句は言えませんよね❗🙂
そりゃそうだろう。家康も天界も信長に深い恨みを持っていたからな。それを上手く利用したのが秀吉、そういう男なんだな。取り敢えず順番から行くと秀吉、2番手に家康で談合成立。ところが誰の子か知らんが秀頼可愛さに次息子で宜しくなと家康に言ったもんだから頭に来たのが家康。その後の過程を紐解けば見えてくるだろう。なに言ってんだかわからんだろうが、ま、そいうところだ。 小林 優
「勝って兜の緒を締めよ」の話ですが私が今まで聞いてきたり、調べた限りは後北条氏2代目の北条氏綱が言った言葉だと聞いてきました。勉強不足であれば申し訳ないのですが本当に徳川家康の関ヶ原の際の件がいわれなのでしょうか?お教え願えれば幸いです。
一般で言われているように関ケ原の布陣は東軍が被包囲状態で西軍有利と先生も仰いましたが、私は昔から「囲まれて不利でではなく東軍は西軍を分断している。予備兵力も充分で戦力も集中できる東軍が非常に有利。」と思い不思議に思っていました。西軍の敗因は狭い所に集中したからではなく(守るなら狭いほうが有利)、ほぼすべての信頼できる味方が休みなく戦い続けるしかなかった戦力の無さが原因です。
動かなかった毛利(長州)、動けなかった長宗我部(土佐)、正面突破した島津(薩摩)、突破された井伊(桜田門外の変)、幕末の役者が関が原でもう登場してくるのは恐るべき。260年平和な時代が続いた後、徳川の武士の時代に終焉。それを予感させる関が原なのか?
「どうする家康」のキャスティングは酷過ぎる視聴者を舐めてんのか?史上最低の大河
浜崎友里さんは美人だなあ
小早川以下2万人が徳川方として戦い、毛利、吉川、長曽我部、安国寺は戦闘に参加せず石田豊臣方の実質兵力は3万3千に対して徳川方は9万5千になるこれじゃ石田豊臣方は勝てない 石田豊臣方の一発勝利には豊臣秀頼の参陣が絶対条件秀頼参陣があれば豊臣恩顧の大名は砕けてしまい戦闘にもならなかったと思えますな大阪城の毛利輝元を謀略で騙して秀頼の参陣を阻止した家康が一枚上手三成には毛利輝元を総大将に据えたのが誤算
やはり家康といえば津川さんのイメージ
大河ドラマで合戦後に三成と家康が話すが、もしも同じ事が現実にあったなら、ドラマと同じ会話があったと推理できる。秀吉は織田から天下を奪った、家康は豊臣から天下を奪った、お互い様と家康が三成に話してもよかったのではないか、すると三成どう答えたか・・・三成が余計なことをしなくても何れ合戦は起きていたと思われる。そこで淀君は誰を総大将として家康と戦わせたか・・・・最後に合戦に隠れてしまった功績ある松平忠吉をもっと深く話してほしい。
人生経験の永い人が家康役をやるとまた違うよね。
津川雅彦ですね
日本人は対面者に、恥ずかしい頭の天頂を見せてリスペクトする態度を示す為にお辞儀をする風習が根付いたのかもしれないですね。
さかやきぐらい自分で調べてください
関ヶ原の戦い。真田を抑えるために3万8千。真田はせいぜい4ー5千。そんなに必要なのですか?いくら真田でもこの大軍相手にマトモにやれば、何日保つか。この時期、加賀の前田の動きは。大谷刑部とは何を話し合ったのですか?上杉との関係は。小諸は北国街道との。それとーーー。関白秀次事件で処刑された側室たちの履歴を教えて下さい。どの大名の縁者ですか。この事件に関与したと思われる大名たちは。秀吉に対する謀叛をという説もあるらしいですが。秀頼を廃して秀次を。それが本当ならば、やはり秀頼があとを継ぐと。となると家康を裏切る可能性は低いのでは。最上などは上杉相手に。思い込みです。8月24日秀忠3万8千の軍を率い、宇都宮を出発。9月5日真田昌幸が東軍に対し、抗戦を表明。砥石城から上田城へる。この間、約十日ですか。何をしていたのですか?秀忠は上田にはいつ着いたのですか?普通なら降伏した真田軍を伴い、すぐにでも関ヶ原へ。上田にとどまる理由は?それに真田が仕掛けても。攻める気があるのかないのか。関ヶ原の戦いは9月15日ですか。まあいいか。9月14日,赤坂に着いた家康。大津城が田辺城が落ち2万の西軍が、間もなく加勢に大垣へ。まあこの時期。マトモに西軍と戦っているのはこの方面だけですか?東北では最上も上杉と。伊達は動かず。加賀も。いくら手紙を書けど反応は。各武将たちはどうだったのですか。全国的に見て家康側の兵力は?家康の根拠地の江戸は敵か味方かわからない有力大名に囲まれ。周囲には伊達、上杉。前田もいますか。北は宇都宮あたりまで、東は?西は美濃、大垣の手前までですか?これでは動けませんか。それで一月余りも。その間に伏見城は落ち、伊勢方面や滋賀方面でも落城の知らせが。なにをしているんだ。日和見な戦国武将はこれを見て、どう思ったことか。まあーーー。西軍側はどうだったのですか。似たようなものですか?それにーーーどういう訳か、大垣へ行かず、南宮山へ陣取った毛利の本軍が動き出せば。東軍の福島たちも気が気では。伊勢方面を平定し、9月7日に南宮山まで来ていて、どういう理由で毛利の本軍は大垣へ行かなかったのですか?行けば福島たちの東軍を圧倒できたはず。滋賀方面からの増援を待ってーーー(何をするの?)の可能性は?家康本隊の情報は入っていたのか。この場合。西軍が決戦を挑むなら何処で。まあいいか。それで9月14日に赤坂に到着した家康。赤坂は大垣と南宮山の間ですか?それと関ヶ原の戦い。こういう作戦はどうですか。赤坂に着いた家康。この時の状況は。大垣に石田勢。南宮山に毛利勢。そしてーーー西軍の増援2万が滋賀方面から(それに続いてーーーはいたのですか?)。家康か、西軍が陣取った笹尾山や天満山に先に布陣し。ここに東軍が陣取れば西軍の増援もーーー阻止でき。西軍の増援も伊勢方面から迂回してくるしか。その上で。小諸の秀忠軍3万8千を呼び寄せ。大垣の石田軍と南宮山の毛利軍を挟み撃ち。しかしそれを察知した西軍。家康より先に笹尾山に。霧が晴れて。家康軍。敵に囲まれ、「周囲、声なく」「秀秋に裏切られたか」どういう意味か。まあ秀秋が、天満山、笹尾山への家康の進出を掩護してくれれば。石田勢も家康に先んじて笹尾山等へ布陣することは難しいのでは。大谷刑部が先に出張って来ていたというーーーまあいいか。まあ冗談です。しかしーーーあの状況で。笹尾山の石田勢を攻めても攻めあぐね、逆に押し返される始末。他も似たようなもの。どう考えても敗勢の濃い東軍。松尾山、南宮山と、山の上から見れば、一目瞭然、家康に攻めかかるのを逡巡するような者がはたしているのか。そればかりか、家康に加勢しようとする戦国武将がいたとは。勝ち馬に乗るなら。毛利秀元。小早川秀秋の戦歴を教えて下さい。この2人。全くの素人扱い。毛利秀元は毛利の家督を継ぎ。その戦歴は?吉川広家、毛利輝元もお願いします。 戦いには勝ったものの。「秀忠に合わせる顔がない」と、しばらくはーーー会わずに。まあ冗談です。
光成に勝算があったのでしょうか?実戦経験が乏しい光成に対して、 信長と同盟を組んだり、桶狭間、三方ヶ原など百戦錬磨の家康に挑む光成の神経がどうしても理解できません。勝てなくては信念は貫けません。そのあたりの解説、あまり目にしません。
策士本多正信と徳川本隊を率いる徳川秀忠がここ一発の決戦に遅参するとは考えられないです豊臣秀頼の西軍参陣で東軍が瓦解する事を想定し徳川本隊を温存したと考えたい豊臣秀頼が参陣した場合の最小の防御として和睦しての徳川と徳川親派の温存信州、東海を緩衝地帯として西の豊臣、関東、東北の徳川に2分の画策・・・・妄想が拡がりました
「どうする家康」はどうしても昔フジテレビでやっていた「新春かくし芸大会」に見えて仕方がない
貴方、想像力がありますか?NHK を含むメディアからのバッシング。松本さんはオンエアされないんじゃないかとまで、追い詰められました。周りにとても気を使う方です。プレミアムトーク見てないでしょう?かくし芸大会で関ヶ原のCG(今の言葉知らなくてすみません)できますか?ちっちゃいですよね、貴方。
小早川秀秋がもし、小早川隆景だったとしても同じ動きをしたんじゃないかと思う。羽柴秀吉の中国攻めの時からだけど、毛利と両川が後詰めに居るとハシゴを外されてミゴロシにされた大名、数知れず。 関ヶ原でも総大将が居ないわ、吉川は動かない、小早川秀秋は参戦して、キャスティングボートを握っている。犬山城の白帝資料館?に行った時に知った事だけど、初代犬山藩の藩祖で尾張徳川家の譜代家老の成瀬正成の兄弟の成瀬吉正が小早川秀秋に(軍目付として?偶然?)仕えている辺りからして、小早川秀秋は元々東軍だったんじゃないの?この切り口で小早川秀秋の謎を論じてる人居ないのよね(笑)。結構悪くないアプローチだと思うけど。 平日仕事で大型トラックで犬山城近くに行って、犬山城の駐車場のおじさんが快く観光バスの所に停めさせてくれて、おかげでお城も資料館も観観ることができました。ホントありがとー😭
大津城で京極高次の寝返りによって足止めを食らわされた立花宗茂軍と一緒に行動していたのは小早川秀包軍…なのにこの件は家康神格化で秀忠軍の遅参ばかり着目されスルーされ続けているのが今まで腑に落ちなかったです。早い話、毛利界隈が絡んだ事で西軍の行動が東軍に筒抜けだったのは明らかで、毛利を味方につけた"つもり"の三成の打倒家康計画は最初から破綻していたと言わざるを得ませんね。
どうする家康の小早川秀秋の利を見据える武将としてのキャラクター、新鮮でかっこよかったです。市橋先生の言うように、戦の前に東軍に付いてたとするなら、非常に先を見据えて決断力のある武将。裏切り者と長年言われていましたが、今回のドラマでイメージを少しは刷新できたなら幸いです🥲
かくし芸大会❓️❓️❓️
大森南生、孤独のグルメの五郎さん、怪物演技のムロツヨシさん→この方役の幅が広く何でもできます。岡田准一さん、名前がすぐには浮かばないですが、つや消ししている、素晴らしい脇役さん達、そして、12才から75才迄演じる松本潤さん、皆さんは自分が輝こうとはしない。相手や周りの人の為に演技をしています。松本さんは年代に合わせて声の高さを替えてます。目が大きいので、目👀の演技も映えます。三成役の中村さんも凄い気迫でした。私は脚本が抜群に素晴らしいこと、二年間準備をして、更に自宅で大森さんが相手役になり、たゆまぬ役作りをして、新しい家康像を作った松本潤さんにあっぱれと言いたいです。
先生 浜崎さん こんにちは👋😃
毎週楽しみにしてます❗
いつも 韓国より応援してます。寒くなってきましたね。お身体ご自愛なさってください。
まもなく始まる放送が100倍楽しみになりました。
大昔に見た主人公家康の大河ドラマで村越茂助の出てくるシーンが大好きだったので今でもそのシーンだけを見てます。今回の大河ドラマでも見たかったのに残念
葵徳川三代には村越直吉さん出ていましたね。
福島正則に詰め寄られてオドオドしてました笑
勝って兜の緒をしめよ、とはこの時の言葉でしたか?松本家康は指を噛む暇もなかった。早い展開でした。
井伊直正が赤色の具足で髭つけて、小学校の学芸会みたいな大河ドラマでした。
史実や書物に基づいた事実の関ケ原ですですね。昔TBSで放送された「関ケ原」加藤剛と森繫久彌、まさにこのままです。司馬遼太郎の情報集めに基づいた作品はやはりすごい。
葵徳川三代の家康は長門裕之の弟津川雅彦ですね。
同じジェームス三木脚本の独眼竜政宗でも家康を演じました。
葵・徳川三代の時の家康役は故・津川雅彦さんですよ
先生、南宮山で行厨を使うわけですね(笑)
空弁当ではなく缶ビールで。美味しいでしょうねー
いよいよ最大の過渡期ですね😀
関ヶ原の戦いは新説が出てますが私は通説が好きですね😀
家康公が苦心した姿を忍のが好きですね😀
通説は家康神格化で苦労し努力して天下を取ったことにしたいから、勝った関ケ原の戦を自虐的に創作したのでしょうね。創作が露骨過ぎるから新説を裏付ける資料まで出てきちゃった…
月代を剃っていて禿というのはイメージが湧かなかったのですが、なるほど天頂部分を隠せないくらい後退していると禿なのですね。明智光秀は天頂部分がうまく隠せないほど後退していたのでしょうね。ちょっと古いですが故横山ノックさんくらい後退してると月代剃っても禿にあたるイメージですね。
しかし大垣城の連中は、旗をたたんでいたとは言え、
家康がすぐ側を通って岡山に向けて進軍してきたことになぜ気が付かなかったんでしょう?
進軍の前に「佐和山攻め」を流布して、移動することに意識を向けさせたと言うことでしょうか?
追記:塩気の効いたおにぎりと缶ビール……同感です!
先生こんばんは。いつもありがとうございます。ひとつお話あります。
11:09 「南宮神社」とおっしゃっておりますが、ここは「南宮大社」といわれておりますよ。是非お越しください。ご案内します。
現地で買った缶ビールの方がうまいと思います❗ >市橋先生
秀吉も織田家の天下を乗っ取ったのですから、秀吉が家康に天下を横取りされても文句は言えませんよね❗🙂
そりゃそうだろう。
家康も天界も信長に深い恨みを持っていたからな。
それを上手く利用したのが秀吉、そういう男なんだな。
取り敢えず順番から行くと秀吉、2番手に家康で談合成立。
ところが誰の子か知らんが秀頼可愛さに次息子で宜しくなと家康に言ったもんだから頭に来たのが家康。
その後の過程を紐解けば見えてくるだろう。
なに言ってんだかわからんだろうが、ま、そいうところだ。
小林 優
「勝って兜の緒を締めよ」
の話ですが私が今まで聞いてきたり、調べた限りは後北条氏2代目の北条氏綱が言った言葉だと聞いてきました。
勉強不足であれば申し訳ないのですが本当に徳川家康の関ヶ原の際の件がいわれなのでしょうか?
お教え願えれば幸いです。
一般で言われているように関ケ原の布陣は東軍が被包囲状態で西軍有利と先生も仰いましたが、
私は昔から「囲まれて不利でではなく東軍は西軍を分断している。予備兵力も充分で戦力も集中できる東軍が非常に有利。」
と思い不思議に思っていました。
西軍の敗因は狭い所に集中したからではなく(守るなら狭いほうが有利)、
ほぼすべての信頼できる味方が休みなく戦い続けるしかなかった戦力の無さが原因です。
動かなかった毛利(長州)、動けなかった長宗我部(土佐)、正面突破した島津(薩摩)、突破された井伊(桜田門外の変)、幕末の役者が関が原でもう登場してくるのは恐るべき。
260年平和な時代が続いた後、徳川の武士の時代に終焉。それを予感させる関が原なのか?
「どうする家康」のキャスティングは酷過ぎる
視聴者を舐めてんのか?
史上最低の大河
浜崎友里さんは美人だなあ
小早川以下2万人が徳川方として戦い、毛利、吉川、長曽我部、安国寺は戦闘に参加せず
石田豊臣方の実質兵力は3万3千に対して徳川方は9万5千になる
これじゃ石田豊臣方は勝てない
石田豊臣方の一発勝利には豊臣秀頼の参陣が絶対条件
秀頼参陣があれば豊臣恩顧の大名は砕けてしまい戦闘にもならなかったと思えますな
大阪城の毛利輝元を謀略で騙して秀頼の参陣を阻止した家康が一枚上手
三成には毛利輝元を総大将に据えたのが誤算
やはり家康といえば津川さんのイメージ
大河ドラマで合戦後に三成と家康が話すが、もしも同じ事が現実にあったなら、ドラマと同じ会話があったと推理できる。秀吉は織田から天下を奪った、家康は豊臣から天下を奪った、お互い様と家康が三成に話してもよかったのではないか、すると三成どう答えたか・・・三成が余計なことをしなくても何れ合戦は起きていたと思われる。そこで淀君は誰を総大将として家康と戦わせたか・・・・最後に合戦に隠れてしまった功績ある松平忠吉をもっと深く話してほしい。
人生経験の永い人が家康役をやるとまた違うよね。
津川雅彦ですね
日本人は対面者に、恥ずかしい頭の天頂を見せてリスペクトする態度を示す為に
お辞儀をする風習が根付いたのかもしれないですね。
さかやきぐらい自分で調べてください
関ヶ原の戦い。
真田を抑えるために3万8千。
真田はせいぜい4ー5千。
そんなに必要なのですか?
いくら真田でもこの大軍相手にマトモにやれば、何日保つか。
この時期、加賀の前田の動きは。
大谷刑部とは何を話し合ったのですか?
上杉との関係は。
小諸は北国街道との。
それとーーー。
関白秀次事件で処刑された側室たちの履歴を教えて下さい。
どの大名の縁者ですか。
この事件に関与したと思われる大名たちは。
秀吉に対する謀叛をという説もあるらしいですが。
秀頼を廃して秀次を。
それが本当ならば、やはり秀頼があとを継ぐと。
となると家康を裏切る可能性は低いのでは。
最上などは上杉相手に。
思い込みです。
8月24日秀忠3万8千の軍を率い、宇都宮を出発。
9月5日真田昌幸が東軍に対し、抗戦を表明。砥石城から上田城へる。
この間、約十日ですか。
何をしていたのですか?
秀忠は上田にはいつ着いたのですか?
普通なら降伏した真田軍を伴い、すぐにでも関ヶ原へ。
上田にとどまる理由は?
それに真田が仕掛けても。
攻める気があるのかないのか。
関ヶ原の戦いは9月15日ですか。
まあいいか。
9月14日,
赤坂に着いた家康。
大津城が田辺城が落ち2万の西軍が、間もなく加勢に大垣へ。
まあこの時期。
マトモに西軍と戦っているのはこの方面だけですか?
東北では最上も上杉と。
伊達は動かず。
加賀も。
いくら手紙を書けど反応は。
各武将たちは
どうだったのですか。
全国的に見て家康側の兵力は?
家康の根拠地の江戸は敵か味方かわからない有力大名に囲まれ。
周囲には伊達、上杉。
前田もいますか。
北は宇都宮あたりまで、
東は?
西は美濃、大垣の手前までですか?
これでは動けませんか。
それで一月余りも。
その間に伏見城は落ち、伊勢方面や
滋賀方面でも落城の知らせが。
なにをしているんだ。
日和見な戦国武将はこれを見て、どう思ったことか。
まあーーー。
西軍側はどうだったのですか。
似たようなものですか?
それにーーーどういう訳か、大垣へ行かず、
南宮山へ陣取った毛利の本軍が動き出せば。
東軍の福島たちも気が気では。
伊勢方面を平定し、9月7日に南宮山まで来ていて、どういう理由で毛利の本軍は大垣へ行かなかったのですか?
行けば福島たちの東軍を圧倒できたはず。
滋賀方面からの増援を待ってーーー(何をするの?)の可能性は?
家康本隊の情報は入っていたのか。
この場合。西軍が決戦を挑むなら何処で。
まあいいか。
それで9月14日に赤坂に到着した家康。
赤坂は大垣と南宮山の間ですか?
それと関ヶ原の戦い。
こういう作戦はどうですか。
赤坂に着いた家康。
この時の状況は。
大垣に石田勢。
南宮山に毛利勢。
そしてーーー西軍の増援2万が滋賀方面から(それに続いてーーーはいたのですか?)。
家康か、西軍が陣取った笹尾山や天満山に先に布陣し。
ここに東軍が陣取れば西軍の増援もーーー阻止でき。
西軍の増援も伊勢方面から迂回してくるしか。
その上で。
小諸の秀忠軍3万8千を呼び寄せ。
大垣の石田軍と南宮山の毛利軍を挟み撃ち。
しかしそれを察知した西軍。
家康より先に笹尾山に。
霧が晴れて。
家康軍。
敵に囲まれ、「周囲、声なく」
「秀秋に裏切られたか」
どういう意味か。
まあ秀秋が、天満山、笹尾山への家康の進出を掩護してくれれば。
石田勢も家康に先んじて笹尾山等へ布陣することは難しいのでは。
大谷刑部が先に出張って来ていたというーーーまあいいか。
まあ冗談です。
しかしーーーあの状況で。
笹尾山の石田勢を攻めても攻めあぐね、逆に押し返される始末。
他も似たようなもの。
どう考えても敗勢の濃い東軍。
松尾山、南宮山と、山の上から見れば、一目瞭然、
家康に攻めかかるのを逡巡するような者がはたしているのか。
そればかりか、家康に加勢しようとする戦国武将がいたとは。
勝ち馬に乗るなら。
毛利秀元。
小早川秀秋の戦歴を教えて下さい。
この2人。
全くの素人扱い。
毛利秀元は毛利の家督を継ぎ。
その戦歴は?
吉川広家、毛利輝元もお願いします。
戦いには勝ったものの。
「秀忠に合わせる顔がない」
と、しばらくはーーー会わずに。
まあ冗談です。
光成に勝算があったのでしょうか?実戦経験が乏しい光成に対して、 信長と同盟を組んだり、桶狭間、三方ヶ原など百戦錬磨の家康に挑む光成の神経がどうしても理解できません。勝てなくては信念は貫けません。そのあたりの解説、あまり目にしません。
策士本多正信と徳川本隊を率いる徳川秀忠がここ一発の決戦に遅参するとは考えられないです
豊臣秀頼の西軍参陣で東軍が瓦解する事を想定し徳川本隊を温存したと考えたい
豊臣秀頼が参陣した場合の最小の防御として
和睦しての徳川と徳川親派の温存
信州、東海を緩衝地帯として西の豊臣、関東、東北の徳川に2分の画策・・・・
妄想が拡がりました
「どうする家康」はどうしても昔フジテレビでやっていた「新春かくし芸大会」に見えて仕方がない
貴方、想像力がありますか?NHK を含むメディアからのバッシング。松本さんはオンエアされないんじゃないかとまで、追い詰められました。周りにとても気を使う方です。プレミアムトーク見てないでしょう?かくし芸大会で関ヶ原のCG(今の言葉知らなくてすみません)できますか?ちっちゃいですよね、貴方。
小早川秀秋がもし、小早川隆景だったとしても同じ動きをしたんじゃないかと思う。羽柴秀吉の中国攻めの時からだけど、毛利と両川が後詰めに居るとハシゴを外されてミゴロシにされた大名、数知れず。
関ヶ原でも総大将が居ないわ、吉川は動かない、小早川秀秋は参戦して、キャスティングボートを握っている。
犬山城の白帝資料館?に行った時に知った事だけど、初代犬山藩の藩祖で尾張徳川家の譜代家老の成瀬正成の兄弟の成瀬吉正が小早川秀秋に(軍目付として?偶然?)仕えている辺りからして、小早川秀秋は元々東軍だったんじゃないの?この切り口で小早川秀秋の謎を論じてる人居ないのよね(笑)。結構悪くないアプローチだと思うけど。
平日仕事で大型トラックで犬山城近くに行って、犬山城の駐車場のおじさんが快く観光バスの所に停めさせてくれて、おかげでお城も資料館も観観ることができました。ホントありがとー😭
大津城で京極高次の寝返りによって足止めを食らわされた立花宗茂軍と一緒に行動していたのは小早川秀包軍…なのにこの件は家康神格化で秀忠軍の遅参ばかり着目されスルーされ続けているのが今まで腑に落ちなかったです。早い話、毛利界隈が絡んだ事で西軍の行動が東軍に筒抜けだったのは明らかで、毛利を味方につけた"つもり"の三成の打倒家康計画は最初から破綻していたと言わざるを得ませんね。