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運行最終日当時は広島に住んでいたのに見届けられなかったので貴重な映像が見られて嬉しく思います
廃止される年は線路沿線の旭町で新聞配達してて、宇品線を走る貨物列車をちょくちょく見る事が出来ました、懐かしいです。廃止後には出汐〜的場へ道路抜けたり段原が再開発されたりと町が凄い変わったな😅
宇品のヤードで遊んだことがあります。当時は幟町小学校に通っていて 祖父の親戚が宇品3丁目にありました。
国道2号線に踏み切りがあったんですね
@@ropisukeropisuke1839 信号だけだったと記憶してます。
自宅で静かにしていると、宇品線を走る列車の音が聞こえていました。小学生の頃は旅客列車が走っていましたし、貨物列車だけの運行になってからは汽笛が聞こえていました。
小学校時代猿猴川のそばの地域に住んでいました。当時は蒸気機関車が重連で走った事も有ったりして鉄橋を渡るシーンが脳裏に浮かびます。釣りするのにごかいを掘りに行った時など汽車が来るとしっこ(排水するのか?)掛けられるぞ~って鉄橋の下から良く非難してたもんです。本数が減ったときは線路を歩いて比治山に遊びに行くときは線路に耳を当てて汽車が来ないか良く確認したものでした。折角の映像でしたが蒸気機関車が走っていた映像で無かったことが残念でした。傍の昭和橋では映画ロケで吉永小百合さんが雨に日に合わせた撮影なのか沢山の雨に見せかけた放水をしながら撮影をしてて人でごったがえしたりもしました。今では懐かしい思い出です。
平和橋ですね。歩道橋でしたが今は立派な橋になってます。吉永小百合さんと渡哲也さんの「愛と死の記録」のロケがあることを知らず帰宅してから母に聞いて残念だった記憶があります。
幼少のころ、皆実町に住んでて遠く聴こえた宇品線の汽笛音。あれは貨物列車だったんですね。
宇品線には乗れませんでしたが、県立工業高に通うのにこれの広電代替急行バスで3年間通学しました。(広島駅〜出汐、大学病院直通)ただ当時としては県工は規制が緩かった自転車通学が主流だったので、バス使う人は少数派だったかな?当時の出汐交差点はちょっとした上海状態でした。急行バスは普通は的場町経由なのが今路電の新線が敷かれてる松川町の通りを経由したあと、比治山橋から産業会館の裏を通って2号線に出る当時のバス5号線の路線でした。(平成になってから段原経由になったから今判らないか)帰りは普通の牛田/へさか行きに乗って帰ったもんです。学校の南に(上大河かな)廃駅があったので運行してたら宇品線乗ってたんだけどなといつも思ってました。
全線の車載映像とかあればTH-camに上げて欲しい。
僕のひいおばあさんが宇品線の沿線に住んでいて小さい時に廃止になった後の線路で遊んだ記憶があります😊
86年の廃線の後は線路が当分そのまま残っていたので、当時住んでいた宇品東から段原の実家まで子ども二人と歩いて往復した懐かしい記憶が。
ズムスタの外周路が一番分かり易い痕跡ですかね。ズムスタなんか機関区のターンテーブルと扇形車庫の形そのまんまですし。段原の公園は行った事あります。
廃止になったの小学生くらい!?めっちゃ近所に住んでたのに線路があった記憶がないです・・😂まあよく考えたら2号線に遮断器もないので小学生低学年の行動範囲で考えたら少し遠いし、実際に乗れないんじゃ仕方ないか・・でも思い起こせばよなかに聞こえてた汽笛。あれは宇品線だったのね🥲
今も廃線になってなければ、通勤路線として整備されて段原や比治山、皆実町などの住民、広島大の学生にとってさらに便利な足となっていただろう。さらに、広電のように広島の海の玄関でもある宇品の港の旅客ターミナルの目の前まで延伸されて、港と広島駅への移動が速く楽になっただろう。廃線が惜しまれる路線の一つだ。
3:50からの最終日には川崎からの味の素タム5000が
小学校就学前の小さい頃は家族で大洲口からSLに乗って宇品駅で降りて元宇品に海水浴に行ったものです。丹那駅から宇品駅までの線路の東側はまだ埋立てされてなくて海沿いの石垣の上を走っていました。宇品駅周辺はもと軍用地だったからかだだっ広く殺風景だったかすかな記憶があります。
そうそう、大洲口駅で機関士が駅員にタブレット(ずっと後になって知った)を渡すのをいつも興味深く見たものです。
DE10ガチかっけぇ‼️
わたしの時代ありました😊
TH-cam版のてつたま、もう少し配信の画質を良くして欲しいです…
広電は広島港を宇品に戻してもらいたい。
DE10に重連総括運転のジャンパホースが付いてる
おじさんも小学校5年生でした
宇品から広島駅、広島駅から宇品へは一体何を運んでいたのですか?そう言った背景や歴史がわかるとニュースが深くなると思います。それがないと単に汽車オタクの興味でしかないように思います。
映像から見るに船舶用の油槽運輸が主だったようですね。ただ戦前はソレこそ軍の物資運輸に大回転でソレで『日本一長いホーム』があったようです。ただ兵は乗らず基町の駐屯地から徒歩で行軍らしかったですが。どうも基本は貨物線で、輸送会社からも伺えるように旅客は相当なニーズに応えて片手間でやっていた路線みたいです。
鉄道オタクではありませんが、実は現在広島駅再開発前の在来線南東の名店街からフタバ図書(旧イズミ)あたりには、かつて蒸気機関専用ホームが当初は3ホームあり、後に1ホーム拡張して計4ホームあったそうです。現マツダスタジアムがある東広島駅少し先の大洲別れの手旗信号で、芸備線は庄原方面と宇品駅間の直通汽車があったと、郷土資料にありました。宇品駅手前には南へそれた分岐があり、宇品駅南の芸備倉庫で折り返して1万トンバースへ引き込み線もあったと、その周辺地元のご近所さんの複数聞き込みと郷土資料の出典根拠が一致しています。現在広島駅北西にある鉄道管理局も宇品駅西にあり、宇品郵便局も火災で現在地へ移転する前は、このあたり(DCM宇品店駐車場南)にあったそうです。郵便など様々な物資と旅客の交通物流手段として利用されたようです。故に戦中戦後、愛宕踏切南北は貿易を含めて闇市由来の市場が発展した名残が現在もありますよね。
廃線前あたりの時期は1日1往復でマツダの部品を運んでいたと聞いています。元々は県営桟橋でやりとりする貨物輸送用
途中で交差する国道、道路中央を工事してたけど、路電の軌道敷設工事っぽいんだけど?
確か廃止される当時は国道で集中地下坑道作ってましたね。あの頃あちこちで国道掘り返して電柱埋めたり排水溝整備してました。
@BATLLASH 当時で既に電線地中化?広電すすんでるぅ〜
ごめんなさい、広電ではなく、普通の道路周辺にある電柱や電話線、上下水道を一括して大きなトンネルの中に押し込んで保守や修理をしやすくする道路したの工事です。コレによって道路事故や新規工事による線や管の断裂を避け、異常時の修理も人が機材抱えて入れるなどの利便が図れます。
旅客輸送を廃止の前に既にやめてたってことは宇品線も特定地方交通線認定を食らったってことですか?
宇品線は赤字83線の一つとして1972年に旅客・貨物ともに廃止されてます旅客については1962年に上大河ー宇品が廃止されており、広島ー上大河が大学病院への需要の為に1972年まで運行されてました。貨物については1972年から1986年まで東広島(貨物駅。現・広島貨物ターミナル)ー宇品の間で専用線に近い扱いで運行されてました。
アナウンサーの人喋りは上手いんだけどえ?、アナウンサーでその言葉知らないの?と感じる事が時々ありますね
この宇品線を使って何十万もの兵隊さん達が戦地に向かったんだなと・・・
他のレスに返しましたが、基本は日本陸軍は行軍移動が基本なので、市内は歩きでした。専ら荷物を運ぶための路線みたいです。なので出征は市中行軍で勇ましく、帰還は中に白木の棺が加わるなどソレも広島の風景だったようです。
@@BATLLASH 広島の第五師団なら判らなくもないですが、他県から来た兵隊さんがわざわざ広島駅で降りて宇品港に徒歩行軍するのですか?私の亡き祖父は中国戦線に出征しましたが、宇品まで汽車に乗って船に乗り換えたと言ってました。
乗られたと言う証言があればソレは正しいと思います。ただ部隊派遣などでは人数もけっこうなものですし屯所で点呼や支度を済ませるのでやはり師団本部からの行軍だったと思います。
モニュメントには、被爆翌日の1945年8月7日に運行を再開したとあったはずで、広島の報道機関としては、そこをしっかり伝えなければだめだろう。
路面電車レベルの駅間の短さ。これではスピードも出ないし、好んで使われないよね。途中駅を2、3程度に絞ってスピードアップさせれば、全く使われない路線ではなくなっただろうに。
元々旅客輸送は考慮されていない路線でしたから。あと結局広電宇品線沿道が栄えたので宇品線は国道筋までしか客層がいなかったんですよね。ソレも被爆で疎開した役所が基町の県庁が整備されて居なくなったので、今芸備線で騒がれてる以上に『日本一の赤字路線』って言われてましたから。〜そいや何かと広島の国鉄JR線はこう言う不名誉な称号を度々託つのだが(`_´)ゞ
運行最終日当時は広島に住んでいたのに見届けられなかったので貴重な映像が見られて嬉しく思います
廃止される年は線路沿線の旭町で新聞配達してて、宇品線を走る貨物列車をちょくちょく見る事が出来ました、懐かしいです。廃止後には出汐〜的場へ道路抜けたり段原が再開発されたりと町が凄い変わったな😅
宇品のヤードで遊んだことがあります。
当時は幟町小学校に通っていて 祖父の親戚が宇品3丁目にありました。
国道2号線に踏み切りがあったんですね
@@ropisukeropisuke1839 信号だけだったと記憶してます。
自宅で静かにしていると、宇品線を走る列車の音が聞こえていました。
小学生の頃は旅客列車が走っていましたし、貨物列車だけの運行になってからは汽笛が聞こえていました。
小学校時代猿猴川のそばの地域に住んでいました。当時は蒸気機関車が重連で走った事も有ったりして鉄橋を渡るシーンが脳裏に浮かびます。釣りするのにごかいを掘りに行った時など汽車が来るとしっこ(排水するのか?)掛けられるぞ~って鉄橋の下から良く非難してたもんです。本数が減ったときは線路を歩いて比治山に遊びに行くときは線路に耳を当てて汽車が来ないか良く確認したものでした。折角の映像でしたが蒸気機関車が走っていた映像で無かったことが残念でした。傍の昭和橋では映画ロケで吉永小百合さんが雨に日に合わせた撮影なのか沢山の雨に見せかけた放水をしながら撮影をしてて人でごったがえしたりもしました。今では懐かしい思い出です。
平和橋ですね。歩道橋でしたが今は立派な橋になってます。
吉永小百合さんと渡哲也さんの「愛と死の記録」のロケがあることを知らず帰宅してから母に聞いて残念だった記憶があります。
幼少のころ、皆実町に住んでて遠く聴こえた宇品線の汽笛音。あれは貨物列車だったんですね。
宇品線には乗れませんでしたが、県立工業高に通うのにこれの広電代替急行バスで3年間通学しました。
(広島駅〜出汐、大学病院直通)
ただ当時としては県工は規制が緩かった自転車通学が主流だったので、バス使う人は少数派だったかな?
当時の出汐交差点はちょっとした上海状態でした。
急行バスは普通は的場町経由なのが今路電の新線が敷かれてる松川町の通りを経由したあと、比治山橋から産業会館の裏を通って2号線に出る当時のバス5号線の路線でした。
(平成になってから段原経由になったから今判らないか)
帰りは普通の牛田/へさか行きに乗って帰ったもんです。
学校の南に(上大河かな)廃駅があったので運行してたら宇品線乗ってたんだけどなといつも思ってました。
全線の車載映像とかあればTH-camに上げて欲しい。
僕のひいおばあさんが宇品線の沿線に住んでいて小さい時に廃止になった後の線路で遊んだ記憶があります😊
86年の廃線の後は線路が当分そのまま残っていたので、当時住んでいた宇品東から段原の実家まで子ども二人と歩いて往復した懐かしい記憶が。
ズムスタの外周路が一番分かり易い痕跡ですかね。
ズムスタなんか機関区のターンテーブルと扇形車庫の形そのまんまですし。
段原の公園は行った事あります。
廃止になったの小学生くらい!?
めっちゃ近所に住んでたのに線路があった記憶がないです・・😂
まあよく考えたら
2号線に遮断器もないので小学生低学年の行動範囲で考えたら少し遠いし、実際に乗れないんじゃ仕方ないか・・
でも思い起こせばよなかに聞こえてた汽笛。あれは宇品線だったのね🥲
今も廃線になってなければ、通勤路線として整備されて段原や比治山、皆実町などの住民、広島大の学生にとってさらに便利な足となっていただろう。さらに、広電のように広島の海の玄関でもある宇品の港の旅客ターミナルの目の前まで延伸されて、港と広島駅への移動が速く楽になっただろう。廃線が惜しまれる路線の一つだ。
3:50からの最終日には川崎からの味の素タム5000が
小学校就学前の小さい頃は家族で大洲口からSLに乗って宇品駅で降りて元宇品に海水浴に行ったものです。丹那駅から宇品駅までの線路の東側はまだ埋立てされてなくて海沿いの石垣の上を走っていました。
宇品駅周辺はもと軍用地だったからかだだっ広く殺風景だったかすかな記憶があります。
そうそう、大洲口駅で機関士が駅員にタブレット(ずっと後になって知った)を渡すのをいつも興味深く見たものです。
DE10ガチかっけぇ‼️
わたしの時代ありました😊
TH-cam版のてつたま、もう少し配信の画質を良くして欲しいです…
広電は広島港を宇品に戻してもらいたい。
DE10に重連総括運転のジャンパホースが付いてる
おじさんも小学校5年生でした
宇品から広島駅、広島駅から宇品へは一体何を運んでいたのですか?そう言った背景や歴史がわかるとニュースが深くなると思います。それがないと単に汽車オタクの興味でしかないように思います。
映像から見るに船舶用の油槽運輸が主だったようですね。
ただ戦前はソレこそ軍の物資運輸に大回転でソレで『日本一長いホーム』があったようです。
ただ兵は乗らず基町の駐屯地から徒歩で行軍らしかったですが。
どうも基本は貨物線で、輸送会社からも伺えるように旅客は相当なニーズに応えて片手間でやっていた路線みたいです。
鉄道オタクではありませんが、実は現在広島駅再開発前の在来線南東の名店街からフタバ図書(旧イズミ)あたりには、かつて蒸気機関専用ホームが当初は3ホームあり、後に1ホーム拡張して計4ホームあったそうです。現マツダスタジアムがある東広島駅少し先の大洲別れの手旗信号で、芸備線は庄原方面と宇品駅間の直通汽車があったと、郷土資料にありました。
宇品駅手前には南へそれた分岐があり、宇品駅南の芸備倉庫で折り返して1万トンバースへ引き込み線もあったと、その周辺地元のご近所さんの複数聞き込みと郷土資料の出典根拠が一致しています。
現在広島駅北西にある鉄道管理局も宇品駅西にあり、宇品郵便局も火災で現在地へ移転する前は、このあたり(DCM宇品店駐車場南)にあったそうです。
郵便など様々な物資と旅客の交通物流手段として利用されたようです。
故に戦中戦後、愛宕踏切南北は貿易を含めて闇市由来の市場が発展した名残が現在もありますよね。
廃線前あたりの時期は1日1往復でマツダの部品を運んでいたと聞いています。元々は県営桟橋でやりとりする貨物輸送用
途中で交差する国道、道路中央を工事してたけど、路電の軌道敷設工事っぽいんだけど?
確か廃止される当時は国道で集中地下坑道作ってましたね。
あの頃あちこちで国道掘り返して電柱埋めたり排水溝整備してました。
@BATLLASH 当時で既に電線地中化?広電すすんでるぅ〜
ごめんなさい、
広電ではなく、普通の道路周辺にある電柱や電話線、上下水道を一括して大きなトンネルの中に押し込んで保守や修理をしやすくする道路したの工事です。
コレによって道路事故や新規工事による線や管の断裂を避け、異常時の修理も人が機材抱えて入れるなどの利便が図れます。
旅客輸送を廃止の前に既にやめてたってことは宇品線も特定地方交通線認定を食らったってことですか?
宇品線は赤字83線の一つとして1972年に旅客・貨物ともに廃止されてます
旅客については1962年に上大河ー宇品が廃止されており、
広島ー上大河が大学病院への需要の為に1972年まで運行されてました。
貨物については1972年から1986年まで東広島(貨物駅。現・広島貨物ターミナル)ー宇品の間で
専用線に近い扱いで運行されてました。
アナウンサーの人
喋りは上手いんだけど
え?、アナウンサーでその言葉知らないの?と感じる事が時々ありますね
この宇品線を使って何十万もの兵隊さん達が戦地に向かったんだなと・・・
他のレスに返しましたが、
基本は日本陸軍は行軍移動が基本なので、市内は歩きでした。
専ら荷物を運ぶための路線みたいです。
なので出征は市中行軍で勇ましく、帰還は中に白木の棺が加わるなどソレも広島の風景だったようです。
@@BATLLASH
広島の第五師団なら判らなくもないですが、他県から来た兵隊さんがわざわざ広島駅で降りて宇品港に徒歩行軍するのですか?
私の亡き祖父は中国戦線に出征しましたが、宇品まで汽車に乗って船に乗り換えたと言ってました。
乗られたと言う証言があればソレは正しいと思います。
ただ部隊派遣などでは人数もけっこうなものですし屯所で点呼や支度を済ませるのでやはり師団本部からの行軍だったと思います。
モニュメントには、被爆翌日の1945年8月7日に運行を再開したとあったはずで、
広島の報道機関としては、そこをしっかり伝えなければだめだろう。
路面電車レベルの駅間の短さ。これではスピードも出ないし、好んで使われないよね。途中駅を2、3程度に絞ってスピードアップさせれば、全く使われない路線ではなくなっただろうに。
元々旅客輸送は考慮されていない路線でしたから。
あと結局広電宇品線沿道が栄えたので宇品線は国道筋までしか客層がいなかったんですよね。
ソレも被爆で疎開した役所が基町の県庁が整備されて居なくなったので、今芸備線で騒がれてる以上に『日本一の赤字路線』って言われてましたから。
〜そいや何かと広島の国鉄JR線はこう言う不名誉な称号を度々託つのだが(`_´)ゞ