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今から45年前、就職直前に友達と野上、紀州、有田鉄道に行きました。カメラも父のを借りて、写真の出来もイマイチでしたけど、良い思い出です。動画で撮れなかったので有難いです。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。私が行った時期よりも、更に昔に訪問されたとのことで、列車本数や車輛の連結数も多かったでしょうね。 私が訪問した時期は、動いている車輛が既に一部になっていたようで残念でした。
モハ27は阪神の車両でした。平成に入っても阪神の旧型車が現役だったのが意外でした。日方に止まってるモハ24は5枚窓が特徴で、解体を免れて現在阪神に返還されて尼崎センタープールで保存中です。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。綺麗に塗装し直された上で、厳重に保存されているようですね。
今回の野鉄の動画を見て、改めて現役時代に乗っておけばと言う思いになりました☺️☺️☺️しかし、車輌が鉄道博物館に展示されていてもおかしく無いくらい価値の有る感じで、素敵です。廃止されたのが本当に惜しまれます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。在籍車輛は仰るように博物館級の歴史的価値があったと思います。元阪神の車輛が多かったですが、その一部は里帰りして保存されているようです。
懐かしい映像ありがとうございます。廃止からもう30年の月日が流れましたね。廃止日に乗車して以来、廃線跡を一度訪ねたい。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。廃止日に乗車されたのですね! 廃止が近づいた頃は「いろいろ大変な状況」があったようですが、それも昔の話しでしょう。この路線の廃線跡は、もし痕跡が残っていれば探索のし甲斐がありそうですね。
懐かしいです。野上中駅の近くが実家だったので小さい頃良く乗車していたことを思い出しました。素晴らしい動画をありがとうございました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。(元)地元の方から、懐かしとのお声や想い出をお寄せいただくのは、当方としても大変嬉しいものです。
日方駅左に留まっている10形は元富山地方鉄道ですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。そうです! この車輛は屋根が低いせいか、パンタが台座にのっかっているのが面白かったですが、残念ながら私の訪問時には動いてくれませんでした。
拙者、子供の時、母親と一緒に、美里温泉、かじか荘に、行くとき、海南駅の連絡口から登山口まで、野上電車、乗ったででござる、登山口駅前から美里温泉かじか荘行のバスに乗って、2泊3日で、行ったでござる、懐かしいでござる😊
いつもご視聴、コメントありがとうございます。登山口駅からバスが出ていたのですね。懐かしんでいただけたなら当方としても嬉しいでござる(^^♪
@@昭和電車チャンネル 返信ありとうでござる、その当時の美里温泉、かじか荘も、男女別の内風呂で、部屋も、トイレ無しの和室でござった、久々に、令和2年の冬に、かじか荘、行ったでござる、部屋も、洗面台とトイレ付の和室、内風呂も、新しく、男女露天風呂も、できたでござる、新しいホテルになったでござる、今や、海南駅前-登山口は、大十オレンジバス、登山口-毛原宮-高野山奥の院間、コメニティーバスに、代わったでござる、ホテル前のバス停は廃止され、今は、美里温泉口のバス停になってるでござる
車内灯が吊り下げ裸電球で電車揺れでユラユラ。自動扉が開閉する時に少し暗くなるあの情景が懐かしい 。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。そんな風情があったのですね! 私は昼間にしか乗ったことがなくて知りませんでした。
乗ってみたかった・・・。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。私は廃止前に乗れたのは幸運でしたが、もっと乗って(撮って)おくんだった・・・との後悔の念がありますね。
どの駅も古臭いんだけど、味があるよね銚電みたいにしてくれれば、ここも人気スポットになれたのに
いつもご視聴、コメントありがとうございます。ホント電車も駅も、実に味がありました! もし生き永らえていれば、仰るように銚電のように都会から程よい距離のこの小私鉄も人気が出たかもしれませんね。
お客さん多いですね…この頃は、今は廃止になった鉄道でも、こんなに乗っていたのですね!今に残っていたら、どれくらいの利用者があったでしょうか…踏切や架線柱(可動ブラケット風のものが散見される)など、微妙な所が近代化されていたりして、必ずしも放置されていたのではないんだな、と感じました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。日方駅で下車するお客は、たしかに多かったですね。ただ本数が少なくなって乗客が集中していた面もあったと思います。私の撮影した時期、すでに「朝のラッシュ」と呼べる状況は過去のものだったようです。仰るように近代化に全く手つかずという訳ではありませんでしたね。
野鉄沿線で育ったため、幼少期から乗っていました。高校も雨が強い日は野鉄で通学していて、社会人になってからも2年間、毎日利用していました。今思い出すと、夜の車内はオレンジ色の電球色で綺麗だったな。。。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。(元)地元の方からいただくコメントは、いつも楽しみにしております。幼少期から社会人になるまでという長い間、野鉄に親しまれたのですね・・・。夜の灯は車内で見ても外から眺めても、さぞや奇麗だったと思われますが、残念ながら私は見たことがありません。
和歌山好き&鉄道好きで野上電鉄は凄くロマン感じてます。いつか廃線跡歩きたいなとも思ってますが。しかしこの時代から全面展望をずっと撮影する人っていたんですね。カメラも結構でかかったと思うのに(笑)でもどの駅も駅名版とか凄く寂れてますが改修する費用すらなかったんでしょうねぇ
いつもご視聴、コメントありがとうございます。廃線跡は私も気になっています。ビデオカメラは肩に担いで撮るタイプで、仰るようにデカくて重かったです(笑)。それ用の三脚がまたバカ重くて旅行に持って行くことは困難だった為、手持ちで盛大に揺れる映像となってしまってます。
ちょうど事故による怪我で自宅療養してた頃だなぁ(゜ρ゜)笹津線で使用されていたデ5010系車両が消えたのは寂しい限りですね。半世紀以上前に笹津線に乗ってましたので。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。元笹津線の車輛には、私は残念ながら乗車できませんでした。野上電鉄に何度も足を運べばよかったと後悔しています。
鹿島鉄道といい東武熊谷線といい、野上鉄道?これは歴史的遺産になり得たかも知れない。ん?
いつもご視聴、コメントありがとうございます。野上電鉄の電車たちは、どれも歴史的遺産と呼べたと思います。実際、元阪神の車輛の一部は、里帰りして保存されているようです。
今も沿線に自宅があり、日方駅は父の実家近くだったため、幼少期からずっと車庫も含め、出入りしていました。末期のごたごたのときでさえ、出入り自由でした。(撮影していた人からはいろいろ言われましたが、幼少期から出入りしていたことを知っている社員さんがいたので、最後まで顔パスでした)今では面影も少なくなりましたが、沖野々から、連絡口に入る右カーブ手前まで廃線後、和歌山県と海南市が用地を買収し、歩道として整備しており、名残が残っています。 追伸久しぶりに、原色塗装のモハ24を見たなぁ~阪神に引き取られ、ぶどう色塗装になるまでは、チョコ塗装でしたから(チョコ塗装後、テレビCMで使用されました。)現在、阪神に引き取られた車両は尼崎センタープール前付近の高架下に保管されています。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。地元の方からいただくご当地ならではの情報は有難いものです。廃線の名残りのある遊歩道というのは是非歩いてみたいですね。それにしても、御幼少の頃から車庫を含めて顔パスで出入り自由、というのはなかなか得難いお立場でしたね。末期のゴタゴタのときでさえそれが可能だったということは、野上電鉄の方からは「身内」と見られていた、ということのようですね。私は完全に「余所者」でしたが、訪問がゴタゴタよりも前の時期だったので、登山口駅の構内に降りて自由に撮影することを許可いただけました。
車内放送は放送設備すら無かったのでしょうか
いつもご視聴、コメントありがとうございます。仰る通り、放送設備は無く、車掌さんの肉声での案内も無かったと思いますね。(あったとしても、1両目なので聞こえませんが)
車内放送はありませんでした。おっしゃるように、最後部車両の車掌の声だけでした。
水間の車両が鉄橋の耐久を越えると言う話ですが、これじゃどのガーター橋もダメなような気がします…仮に現代まで残っていても、車両が非冷房非扇風機では酷暑には対応できないでしょうし、車両も末期はボロボロ…琴電志度線みたいになんとか折り合いつけないといけなかったのかも知れないですね。イメージとしては、遠い山間はこまめに止まって客を拾って、市街地まで送り届けるみたいに見えますね。むしろ市街地周辺は競合などで諦めているみたいなふっと、野上って運転席に椅子がないのでみんな座布団を持って歩いてたのを思い出しました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。駅間距離の件ですが、仰る通りかもしれませんね! 市街地には並行道路があったようなので、ここでの細かい集客はバスに譲っていたのでしょうね。昭和後期まで生き残っていた地方の中小私鉄は、その後様々な試練に見舞われましたが、なかでも冷房必須という時代の要請への対応は苦しかったでしょうね。古典電車への冷房搭載は困難だし、冷房付き中古車はあったとしても少数で高価だっただろうし、車両の新造は更にカネが掛かるし・・・ 琴電のように非冷房でねばっていたところもありましたが。
冷房はありませんでした。扇風機と窓からの風でした。暖房は、座席下の足元から暖気が出ていました。
さぁ 行(ゆ)こう光る 未来(みらい)へホラ 夢を連れて
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
今から45年前、就職直前に友達と野上、紀州、有田鉄道に行きました。カメラも父のを借りて、写真の出来もイマイチでしたけど、良い思い出です。動画で撮れなかったので有難いです。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
私が行った時期よりも、更に昔に訪問されたとのことで、列車本数や車輛の連結数も多かったでしょうね。 私が訪問した時期は、動いている車輛が既に一部になっていたようで残念でした。
モハ27は阪神の車両でした。平成に入っても阪神の旧型車が現役だったのが意外でした。日方に止まってるモハ24は5枚窓が特徴で、解体を免れて現在阪神に返還されて尼崎センタープールで保存中です。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
綺麗に塗装し直された上で、厳重に保存されているようですね。
今回の野鉄の動画を見て、改めて現役時代に乗っておけばと言う思いになりました☺️☺️☺️しかし、車輌が鉄道博物館に展示されていてもおかしく無いくらい価値の有る感じで、素敵です。
廃止されたのが本当に惜しまれます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
在籍車輛は仰るように博物館級の歴史的価値があったと思います。元阪神の車輛が多かったですが、その一部は里帰りして保存されているようです。
懐かしい映像ありがとうございます。廃止からもう30年の月日が流れましたね。廃止日に乗車して以来、廃線跡を一度訪ねたい。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
廃止日に乗車されたのですね! 廃止が近づいた頃は「いろいろ大変な状況」があったようですが、それも昔の話しでしょう。この路線の廃線跡は、もし痕跡が残っていれば探索のし甲斐がありそうですね。
懐かしいです。
野上中駅の近くが実家だったので小さい頃良く乗車していたことを思い出しました。
素晴らしい動画をありがとうございました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
(元)地元の方から、懐かしとのお声や想い出をお寄せいただくのは、当方としても大変嬉しいものです。
日方駅左に留まっている10形は元富山地方鉄道ですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
そうです! この車輛は屋根が低いせいか、パンタが台座にのっかっているのが面白かったですが、残念ながら私の訪問時には動いてくれませんでした。
拙者、子供の時、母親と一緒に、美里温泉、かじか荘に、行くとき、海南駅の連絡口から登山口まで、野上電車、乗ったででござる、登山口駅前から美里温泉かじか荘行のバスに乗って、2泊3日で、行ったでござる、懐かしいでござる😊
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
登山口駅からバスが出ていたのですね。懐かしんでいただけたなら当方としても嬉しいでござる(^^♪
@@昭和電車チャンネル 返信ありとうでござる、その当時の美里温泉、かじか荘も、男女別の内風呂で、部屋も、トイレ無しの和室でござった、久々に、令和2年の冬に、かじか荘、行ったでござる、部屋も、洗面台とトイレ付の和室、内風呂も、新しく、男女露天風呂も、できたでござる、新しいホテルになったでござる、今や、海南駅前-登山口は、大十オレンジバス、登山口-毛原宮-高野山奥の院間、コメニティーバスに、代わったでござる、ホテル前のバス停は廃止され、今は、美里温泉口のバス停になってるでござる
車内灯が吊り下げ裸電球で電車揺れでユラユラ。
自動扉が開閉する時に少し暗くなるあの情景が懐かしい 。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
そんな風情があったのですね! 私は昼間にしか乗ったことがなくて知りませんでした。
乗ってみたかった・・・。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
私は廃止前に乗れたのは幸運でしたが、もっと乗って(撮って)おくんだった・・・との後悔の念がありますね。
どの駅も古臭いんだけど、味があるよね
銚電みたいにしてくれれば、ここも人気スポットになれたのに
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
ホント電車も駅も、実に味がありました! もし生き永らえていれば、仰るように銚電のように都会から程よい距離のこの小私鉄も人気が出たかもしれませんね。
お客さん多いですね…この頃は、今は廃止になった鉄道でも、こんなに乗っていたのですね!
今に残っていたら、どれくらいの利用者があったでしょうか…
踏切や架線柱(可動ブラケット風のものが散見される)など、微妙な所が近代化されていたりして、必ずしも放置されていたのではないんだな、と感じました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
日方駅で下車するお客は、たしかに多かったですね。ただ本数が少なくなって乗客が集中していた面もあったと思います。私の撮影した時期、すでに「朝のラッシュ」と呼べる状況は過去のものだったようです。仰るように近代化に全く手つかずという訳ではありませんでしたね。
野鉄沿線で育ったため、幼少期から乗っていました。高校も雨が強い日は野鉄で通学していて、社会人になってからも2年間、毎日利用していました。
今思い出すと、夜の車内はオレンジ色の電球色で綺麗だったな。。。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
(元)地元の方からいただくコメントは、いつも楽しみにしております。幼少期から社会人になるまでという長い間、野鉄に親しまれたのですね・・・。夜の灯は車内で見ても外から眺めても、さぞや奇麗だったと思われますが、残念ながら私は見たことがありません。
和歌山好き&鉄道好きで野上電鉄は凄くロマン感じてます。
いつか廃線跡歩きたいなとも思ってますが。
しかしこの時代から全面展望をずっと撮影する人っていたんですね。カメラも結構でかかったと思うのに(笑)
でもどの駅も駅名版とか凄く寂れてますが改修する費用すらなかったんでしょうねぇ
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
廃線跡は私も気になっています。ビデオカメラは肩に担いで撮るタイプで、仰るようにデカくて重かったです(笑)。それ用の三脚がまたバカ重くて旅行に持って行くことは困難だった為、手持ちで盛大に揺れる映像となってしまってます。
ちょうど事故による怪我で
自宅療養してた頃だなぁ(゜ρ゜)
笹津線で使用されていた
デ5010系車両が消えたのは
寂しい限りですね。
半世紀以上前に笹津線に乗ってましたので。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
元笹津線の車輛には、私は残念ながら乗車できませんでした。野上電鉄に何度も足を運べばよかったと後悔しています。
鹿島鉄道といい東武熊谷線といい、
野上鉄道?これは歴史的遺産になり得たかも知れない。
ん?
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
野上電鉄の電車たちは、どれも歴史的遺産と呼べたと思います。実際、元阪神の車輛の一部は、里帰りして保存されているようです。
今も沿線に自宅があり、日方駅は父の実家近くだったため、幼少期からずっと車庫も含め、出入りしていました。
末期のごたごたのときでさえ、出入り自由でした。
(撮影していた人からはいろいろ言われましたが、幼少期から出入りしていたことを知っている社員さんがいたので、最後まで顔パスでした)
今では面影も少なくなりましたが、沖野々から、連絡口に入る右カーブ手前まで廃線後、和歌山県と海南市が用地を買収し、歩道として整備しており、名残が残っています。
追伸
久しぶりに、原色塗装のモハ24を見たなぁ~
阪神に引き取られ、ぶどう色塗装になるまでは、チョコ塗装でしたから
(チョコ塗装後、テレビCMで使用されました。)
現在、阪神に引き取られた車両は尼崎センタープール前付近の高架下に保管されています。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
地元の方からいただくご当地ならではの情報は有難いものです。廃線の名残りのある遊歩道というのは是非歩いてみたいですね。それにしても、御幼少の頃から車庫を含めて顔パスで出入り自由、というのはなかなか得難いお立場でしたね。末期のゴタゴタのときでさえそれが可能だったということは、野上電鉄の方からは「身内」と見られていた、ということのようですね。私は完全に「余所者」でしたが、訪問がゴタゴタよりも前の時期だったので、登山口駅の構内に降りて自由に撮影することを許可いただけました。
車内放送は放送設備すら無かったのでしょうか
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
仰る通り、放送設備は無く、車掌さんの肉声での案内も無かったと思いますね。(あったとしても、1両目なので聞こえませんが)
車内放送はありませんでした。
おっしゃるように、最後部車両の車掌の声だけでした。
水間の車両が鉄橋の耐久を越えると言う話ですが、これじゃどのガーター橋もダメなような気がします…
仮に現代まで残っていても、車両が非冷房非扇風機では酷暑には対応できないでしょうし、車両も末期はボロボロ…琴電志度線みたいになんとか折り合いつけないといけなかったのかも知れないですね。
イメージとしては、遠い山間はこまめに止まって客を拾って、市街地まで送り届けるみたいに見えますね。むしろ市街地周辺は競合などで諦めているみたいな
ふっと、野上って運転席に椅子がないのでみんな座布団を持って歩いてたのを思い出しました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
駅間距離の件ですが、仰る通りかもしれませんね! 市街地には並行道路があったようなので、ここでの細かい集客はバスに譲っていたのでしょうね。昭和後期まで生き残っていた地方の中小私鉄は、その後様々な試練に見舞われましたが、なかでも冷房必須という時代の要請への対応は苦しかったでしょうね。古典電車への冷房搭載は困難だし、冷房付き中古車はあったとしても少数で高価だっただろうし、車両の新造は更にカネが掛かるし・・・ 琴電のように非冷房でねばっていたところもありましたが。
冷房はありませんでした。扇風機と窓からの風でした。
暖房は、座席下の足元から暖気が出ていました。
さぁ 行(ゆ)こう光る 未来(みらい)へホラ 夢を連れて
いつもご視聴、コメントありがとうございます。