あの方言は縄文語の名残だった!?謎多き原日本語の痕跡
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- เผยแพร่เมื่อ 7 ก.ย. 2024
- 世界の言語は、おおまかに同一の起源から派生した語族で分けられると言われています。
日本語はアルタイ語族、ドラヴィダ語族、あるいはオーストロネシア語族などに
分類されるのではないかと言われてきました。
しかし、どれも確信的なものはなく、
日本語はいまだに系統関係が不明な孤立した言語とされています。
「日本語はどこから伝わってきたのか」という研究の一方で、
近年、日本語は伝わってきたのではなく
「日本列島で独自に生まれたのではないか」という可能性が注目され、
縄文時代に話されていたとされる言語「縄文語」を抽出する研究も進められています。
今回は、現在までの研究のお話を交えながら、
原日本語の痕跡について考察していきたいと思います。
・当チャンネルで調べた範囲のことをご紹介しています。
学術的、専門的なものではありません。
・ご紹介する説はあくまで一説です。
特定の説を真実であると主張する意図はありません。
色々な考察をお楽しみいただければ幸いです。
・特定の国家、地域、団体、宗教、歴史について
事実を歪曲したり、批判したりする意図はありません。
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※いつもコメントありがとうございます。
皆さんのコメントやディスカッションを楽しみつつ勉強させていただいております。
ただ、目に余るコメントも多く存在するのも事実の為、誹謗中傷や他の方を不快にする様なコメントは削除対象とさせていただきますのでご了承ください。
ガイドラインに沿って良識の範囲内で、
他の方の考察を楽しむ為にご利用いただけると幸いです。
ナレーション:ぽっこ さん
BGM フリー音楽素材 H/MIX GALLERY 秋山裕和 様
www.hmix.net/
#ハテナ見聞録 #縄文 #方言
縄文人です。この動画を見て日本列島到来の辛い日々を思い出して涙が出ました。
縄文時代の性事情について知りたい
出雲と東北の共通点だけど三内丸山遺跡と古代出雲大社も似ていると言われていますね。
出雲、そして日高見、ヤマトに対抗しうる強大な勢力があったと言われていますね
失われたものを、抽出し、取戻して研究する人たちってすごいわ。ロケットを作るよりも手の届かない、別次元の研究って感じ。
最近福島県で4000年前の物凄い量の人骨や色んな物が出てきたそうだ。
ある意味、壮大なロマンと謎が解けるかもしれないね。
深い考察、謙虚なスタンス
楽しく拝見しています。
とても興味深く、また楽しく拝見させていただきました。非常に分かりやすかったです。
また、楽しみにしていますね。
ありがとうございました✨
本当に浪漫を感じますよね!
割愛された部分をもっと深くやってほしい。(考察で構わないので)とても興味深いです。
縄文人の定義もあやふやな点があるし、地図もズーズー弁の地域がもっと具体的ならよいと思います。
もう日本人は、宇宙から来ましたって白状すると良いと思う
本当にこの混沌とした世界と日本を考えると、日本人は特別なのではないか、まさか宇宙人⁉️
ああ、そうなんだ!もう隠すのはやめたほうがいいかも😁😆😆😆
火星に古墳が👀
@@b.s1505 様 旧事本紀とやらには、日本人は木星人とのハイブリで、日本人以外は火星人とのハイブリとかなんとか💦火星の古墳と日本の古墳、気になります。
実は月からやって来た
沖縄の地名に「南風原(はえばる)」「東風平(こちんだ)」があることを知った時に大変驚いたことを覚えています。東風と書いて「こち」だなんて、高校古文の授業で習った「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ(菅原道真)」以来です。沖縄の言葉では東を「アガリ」西を「イリ」と言うそうで、これは太陽の動きですね。「ひ(日?)がし」「にし」と音感が似ていなくもないのですが、北は「ニシ」(ややこしいのです。波照間島では北側にある浜の地名が「ニシ浜」になっています)南は「フェー」で、こちらは音感的な類似性が無くなってきます。畿内の言葉が周辺に広がっていって沖縄から八重山諸島に残っているのか(方言周圏論)、南方の言葉が琉球弧を伝って本州に伝わりその後の激しい言語の変化に洗われたのか…。
日本語は元々、音(漢音・呉音など漢字に因むものも)も言葉(サンスクリット語に由来するものから現代外国語まで)も柔軟に外来語として取り入れ、節操無く名詞化・動詞化して利用する性質を持っています。縄文語となれば、その時代には日本海は湖程度で、大陸の東端で様々な民族と言語がぶつかり合い混じり合い、変化に寛容な言語(語順が自由であり、更に言語自体の変化にも脆い言語)を作り上げたのかも知れませんね。素人の妄想ですが。
縄文は、一万年続きました。氷河期後、日本は火山が沢山あるので、温暖で人が住みやすかった。
日本語が世界に広まった。と言うのをかつて読んだ記憶があります。
日本語は元々共通語だったと言われてますよね
@@kaitogarcia そーですね。誰が言ってたか、忘れてしまいましたが、そう聞いたことがあります。
最初の文明はウバイド文明から始まり、その後にシュメル文明が日本とグレートブリテン島に伝わった、とされている。しかし日本の縄文文明がシュメルに影響を与えるている要素も考えられている。日本と英国の石器文明にも共通点は多い。
日本耳で良かった。
虫の気持ちが少し分かる。
コチラ端っこの南九州だから「おらぶ(叫ぶ)」「よだけき(面倒な)」「おぢい(怖い)」等々、中央では死語となった源氏物語に出て来そうな言葉がいまだ現役。
わかるぅ〜!
豆腐のことも「おかべ」
豊前国でも、おらぶ、わかる。二人称に「わー」お宅で「わーがたん」と言っていました。
@@RT-qq3jj 様、大学が熊本で九州各地から学友が集っておりましたが、ほぼ問題なく言語コミュニケーションが取れました。地域の偏差を超えた「基盤」の様なものがある様ですね。
@@user-di2sd1tu6n 様、私は豊前ですが筑前福岡の大学でした。博多言葉には敬語が含まれ、豊前弁が恥ずかしかった。1965年当時、行橋の駅では列車乗車時に列ができません、我先です。小倉では列はできるが列車が来ると列が崩れます。博多は最後まで行儀よく乗車しました。豊前のモラルの低さは、江戸期バカ殿で10年に一度くらい餓死者を出していました。モラルや行政への信頼心はゼロです。
たぶん、日本語の原型はズーズー弁と思います。広く日本に広まったが残ったのが東北と出雲と思います。
その他の地域は渡来人とかの影響で、徐々に変わっていった。
出雲は古代の大きな国家でした。
古代を覗き見ることは、ロマンあふれることですね。
日本人で良かったとつくづく思います。
固定概念に縛られず、様々な検証を期待します。
日本のペトログラフは、どうなのかな?物部系の古い神社からはペトログラフが、容易に発見出来ると言われている。
ペトログリフですね。
言語はどれくらいの期間で通訳なしでは通じなくなるのか?ってポイントもありますね
元々は同じ文化圏だった南部と津軽が約300年間断交した事によって、南部弁と津軽弁では会話が成り立たなくなってしまったそうですし。
江戸時代は、スパイ防止のために
方言を推奨していたと聞きました。
その為に より通じなく成ったのではないでしょうか?
人間は立って歩くことが自然にできるように、言語は身体能力のひとつだと強く感じます。
南方のどこの島だったか忘れたが、その言語の最後の二人というドキュメンタリーみたいなのがあった。
その二人以外その言語をわからないとか言っていた。
もしある無人島に言語が失った小集団が取り残されたとしても、言語は数世代のうちに必要に応じてできるのではないかと感じます。
三重県の熊野地方の一部にも縄文時代の言葉が残っているというのを、高校の時の国語の教師から聞いたことがあります。まったく通じないそうです。
沖縄が最も縄文に近いと思うなあ。
そんなことはなかったりします。
オセアニアに近いので。
それは違う。12~5世紀ごろまで本土の人と同じ言葉だっただ、15世紀ごろから変化したと言われてる。つまり新しい言語。
沖縄弁は耳で聞くと何言ってるか分からないけど、文字に起こしてみると平安時代くらいの古い日本語の香りが残っていることがよく分かる
本州の言葉が変化したと思いますね。
@@WearstFaker 沖縄本島出身だけど、学校で琉球語は平安時代の言葉に名詞も動詞の活用形も近いと教わりました。古文の勉強の時、たしかにそうだなぁと思いましたね。
犬とか猫でさえ鳴き声で意思を伝えようとしてるんだから、人類だってかなり昔から言葉を使っているはずだよね
それこそ最初の人類が現れた頃から…
なのに系統が見つからないとかヤバい
日本では 世界一古い磨製石器が発見されています。
人類がアフリカを出発してから、日本人は かなり早く日本列島で暮し始めたと考えられます。
チンパンジーも作れる打製石器から磨くという物作りを意識した磨製石器が作られていたと言うことは、石器としては技術革新だった訳ですね。
それくらい古い時代から 日本人が🗾で暮らしていたという証。
日本語も🗾で長~い時間をかけて、
出来上がったのではないでしょうか🥰
遠く離れた出雲と東北地方北部に言葉の音(おん)の共通性が残っていることについてのもう一つの可能性は、「元々一体だったものが、何らかの理由で間にあったもの(西日本の太平洋側、東海地方、関東地方など)が消されることにより、見かけ上分断された形になった。」というものです。 そして、『何らかの理由』の一つに7300年ほど前の縄文後期に起こった「喜界カルデラの大噴火」があるとも考えられます。
地層調査により「喜界カルデラの大噴火により九州・四国の縄文人はほぼ全滅、噴煙と降灰は関東地方から東北南部にまで及んだ」とされていますが、「ズーズー弁の分布」と地層調査による「降灰被害が比較的軽かったであろう地域」が重なっているように思えませんか?
原語分布みると北陸の中でも富山に残ってるようですが、確かに富山だけ北陸の中じゃちょっと特殊な方言なんですよね
コメントありがとうございます。
富山だけ方言の分類が違うというのは、面白いですよね。
動画内の分布図では省いてしまいましたが、能登弁もズーズー弁に分類されているようです。
@@hatena_discovery 能登や糸魚川は越国が3つに分裂した極初期の頃は越中の一部だった時代もあるようなので元々地域性としては近いのかもしれません
@@hatena_discovery あと、どこかの資料でヤマト政権の支配が北陸にまで及んでいた時代に、未だに言葉が通じない飛騨方面の民と会話する為に通訳する人が今の富山辺りに居た、みたいな記述を目にしたことがあります。この記憶が確かなら富山の辺りには両方の言葉を話す人が居たのではないでしょうか
@@tse1692 なるほど、その仕事での移動の経験値が後の薬売りにつながるのかな?と思いました。
富山では、じいさん(ジジィ)をズーズって言ってますよ。
短絡的かもしれないけど、以前から東北っぽく感じていました。
出雲地方と東北地方の方言については映画「砂の器」の重要ポイントですね
確か、かめだ ですよね。ボクシングではありませんけどw
なんと秘密の多い国なのでしょうね。古代の痕跡、方言を残す事は本当に大切だと思いました。
・・・何故なら、日本は海外の神話と比べて、一定のところまで掘ると特に大事な場面が蓋をされているように感じますので、特にです。
まるで触れてはならないタブーでも存在するかのように、出雲や縄文時代の暮らしぶり、月に対する考え方が古事記や日本書紀(主に後者)から抜け落ちていて、
明確に残っているのは天孫降臨後の、海外と同じく太陽信仰を中心とした輝かしい歴史が現代まで続いている、というようにしか読み取る事が出来ませんでした。
コメントありがとうございます。
日本神話は実際にあったエピソードを神話化して描かれたものとも言われていますね。
あまり触れられていない神様もいたりして、真意が気になってしまいます。
ありがとう御座います
古代文明に関わる情報の欠片を聞く事が出来て、
いつもハッと気付かされる内容が多々有り、助かっております
。確かに触れられていない神様、おられますね
世界中の神話と日本神話は類似点があまりにも多いので、その奥に人類史の在り方の根幹が隠され、秘められている気がします・・・
@@randomword9014 続きが読めない「秘めら…」。
結局古事記、日本書記も勝者の歴史なんでしょうね。神功皇后を卑弥呼と混同させるような記述になっていることや年代も合わせ込んでいるように見えますし勝者の歴史となっていることは間違いないと思います。
@@naminori_jhonnio 違います
東北・山陰・九州などで「母音+S音」の山も縄文由来、恐山、出雲、有珠山、阿蘇、浅間・・・
縄文と薄いとされる奈良県も縄文由来かなと思われる地名がちらほら
出雲は銅製品の輸出国で、北前船の様に日本海を使った交易国だと思っています。
縄文人は、外洋漁業が出来るほど海運が強く、和邇(わに)と呼ばれていたはず。
そう言えば、因幡の白兎の神話は、わにに襲われ大国主命が助けた。何か寓意があるのかな❓
@@user-ml1iv3qp9c
わに🐊に数比べと言って騙し並ばせて、海を渡った(八艘飛びや舟橋見たい)。
ワニやウサギは擬獣化で、見張りや伝令が鳥、山の人達を猿、犬を使う人達を犬と呼んでいたと言う説がある?
日本にはワニ🐊がいないから、鮫🦈だと言ってる人達がいるけど、鮫は並ば無い。
30万年以上前には日本にもワニ🐊やゾウ🐘がいた事が発掘で分かっているけどね。
@@user-zc7nt7jl9x じゃあさ、山陰で鮫のことをワニっていうのはなんなの?
@@kyosyotakasima5881
鰐鮫の事?
海の化物の総称で、凶暴な鮫や鯱も含まれてるそうですね。
「和邇」
滋賀県大津市内にある地名ですね
大変参考になりました
ナレーションの人、声が不思議系でいい。
日本の最古の人は「縄文人」と言われるが、縄文人とは明治期にモースが発見した大森貝塚の縄文土器(3000年前頃)から名付けられた。その後更に古い土器が発見される度に縄文時代の始まりの時期が遡り、現在では16500年前の青森の大平山元遺跡の縄文土器をもって便宜上縄文時代の始まりとされている。
だが土器ではない日本の遺跡群はそれよりもっと遡りおよそ38000年前以降から数多く発見されている。つまり日本最古の人は縄文人ではなく縄文人の祖先の「旧石器人」ということになる。
だとすると①後期旧石器時代の38000年前~16500年前のおよそ20000年間を縄文人の祖先の古モンゴロイドの「D1a2」(旧D1b)が過ごしていたことになる。
そして②縄文時代の16500年前~3000年前の13500年間をその子孫の縄文人が過ごしていた。
その後、③弥生時代と古墳時代の3000年前~約1500年前の1500年間、合計35000年間もの間を日本列島だけで文字はなくとも日本語のベースとなる言葉が話されていたわけだ。
つまりそれだけ長い期間を既に日本列島で暮らしていたので、日本語の語順などが他国の渡来人の影響を受けにくかったのではないだろうか。そして文字がなかった分、擬音語や擬態語のオノマトペが発展したのではないだろうか。
アフリカ~日本列島へ向かうルートの通過点上(60000年前)にドラヴィダ語を使うインダス地帯があり、ヒマラヤの北回りすることでアルタイ山脈(50000年前)を通ることになるからそうした仮説が出たんだと思いますが、そんな昔は語順どころかグループ内にだけ通じる少ない単語だけのやりとりの世界だと思われる。
またオーストロネシア語族というのは台湾先住民などに多い新モンゴロイドの「O1a」タイプの民族で、このタイプは日本ではほとんどおらず、ルートとしては10000年前~5000年前に中国→台湾→インドネシアへと広がったDNAで日本にはあまり関係ない。
そうした結果、日本語はどこにも似ていないということで発展してきたのではないかと思う。
あえて言えば、朝鮮語も擬音語だけのオノマトペの数は日本よりも多く、これが意味することは縄文海進以降に長江文明が滅びそこにいた「O1b2」の稲作民族(江南人)が日本列島と半島南部へ別々に移動した結果、オノマトペ文化を両方に影響を与えたのではないかと推測した。
ただ朝鮮の場合は「O2」の漢民族が中国の戦乱から逃れて移動して来た人数が多いために母音子音などの発音が日本より多くなった。更に近代でも中国の属国で愚民政策をとったために、特に李氏朝鮮時代に96%の国民が文盲で読み書きが発展せず、物事の音を示す「ザーザー」のような擬音語だけ著しく増えたのでないかと推測する。
一方日本の場合は和歌などの歌を作るために表現力が発達し、同じオノマトペでも岩に染み入る蝉の音や「シーン」などのように実際には聞こえない音を表現する擬態語が世界一できたのではないかと推測する。
カタカムナ、ヲシテ文字は縄文・弥生で使われていた古代言語という説があったがな。
たしかに中央の言葉は、円の周辺部に残るは正しくて、和歌山県の南部地方には、出来ないことを「えーせん」=「えせず」と年寄りは言います。
何か、縄文人が日本全土に満遍なく住んでたって前提で語る自称専門家が多すぎると思うんだよな。
交易を最大化する為にはなんらかの文字の存在は必須でしょうね。
コメントありがとうございます。
言葉だけでなく、文字もあったのではないかと思ってしまいますね。
@@hatena_discovery 但しアイヌに対する言及は少し頂けないかな。
元の膨張により逃げて来た人達がアイヌみたいですからね。
少し調べるとものすごく出てきますから調べて見てください。
ポリネシアやペルーなど、文字の代わりに紐の結び目を使っていたのかもしれません。
青森新郷村の『ナニャドラヤ』お祭りの言葉等もそうですよね
出雲の国譲りの伝承(古事記)から考えれば出雲地方を追われた集団が東北地方に移ったと考えるのが自然だと思うけどなぁ…
阿弖流為(アテルイ)に代表される蝦夷が日本🗾固有の民族で渡来系民族に奪われてやがて大和朝廷になってゆくと考えるのが自然だと思うけどなぁ…
天皇家は南九州の隼人系。大和朝廷は列島出身者のみ優遇し、大陸出身者を冷遇した。ちなみに、大陸出身者で最高に出世したのが坂上田村麻呂。
出雲人が東北まで移動した事もあるでしょうけれど、元々は、北海道から津軽海峡を渡って日本海側を南下して出雲に定住した伝承が出雲王朝神門臣家(冨家)に伝わっています。ブリヤート人の道案内でバイカル湖畔からイカダでアムール川を下り大陸から陸路で北海道にたどり着いたのは、何と、南インドの人達なのだそうです。驚きですねw。
縄文時代の人口分布から考えると 東北から出雲へ広がる考え方が 至極自然だと思います
明治時代に近代文化が一挙に入ってきて近代語が急速に形作られた。
古代にも渡来人から大量に大陸文化が伝えられた時期があって同じような事が起こった時期があるんじゃないのかな。
その時に縄文語からの大きな変化が短期間に起こった可能性もありますよね。
大きな意味での地域ごとに言葉、文字を使ってたと言われた方がしっくり来ますよね。
縄文時代には稲作をやっていた証拠が有るので
無言で稲作を集落で出来ると考える方が不自然ですよね。
コメントありがとうございます。
言葉があったと考えたほうが自然ですよね!
各地の環境に合わせて生まれた言葉が、今日の方言と考えることもできますね。
縄文人は書き記す必要を感じなかったのでしょうか。
東京での大学時代、岩手出身の奴は方言で話したら通じない、一方で宮崎の奴でさえ、爺ちゃんたちの言葉は分からないと言ってました
ズーズー弁は寒い地方の人の話し方から生まれた…と聞いた覚えがありますが。
気候は今と昔でかなり違っていたのでしょうか?
個人的には日本は日本独自で世界のどこにもない民族であってほしいなぁ。笑
縄文人すげぇな。
ズーズー弁圏内の東北の人間ですが、蝦夷や隼人が話していた言葉が所謂「縄文語」と呼ばれるもの(或いはその近縁)だと仮定して、古代において通訳が必要だったとされる東北の人間と通訳なしで会話できている現状からすると、だいぶ変容してしまっているんでしょうね
明治時代に意思疎通のために「標準語」を編み出さねばならなかったほど、かつてはまだ言語に地域差があったようなので、方言を研究するというのはわかるのですが、ウチでももう「つぶり」なんて言わないですし、言語って割と簡単に変容してしまうものなので、どこまでが不変なのかを判断するのが難しい。ましてや文字も残っていない状況では特に。
言語学って、本当に地道な作業なんですよねえ…。研究者の方の労力には頭が下がります
八丈方言調べてみたけど、まったく何言ってるかわからなかった…
日本語か始まりという考え方の方がわかりやすいのでは、?
アイヌ民族がロシアへ
の考え方も
松本清張の砂の器と同じだす。
古代の日本人は表記よりも“音”や“響き”に重きを置いていたのかもしれませんね。言霊という思想が脈々と受け継がれていったのでしょう。それは銅鐸という文化物に見られますし、音の持つ無常観をある種のカミとして神聖視したように思えます。故に言葉の全てを文字として残す事を良しとしなかったのではないかと考えます。神代文字のように要所要所で儀式的に表記を使い、一般人は会話オンリーだったのかな…と
コメントありがとうございます。
日本は言挙げせぬ国とも表現されていますね。確かに言霊信仰の観点から考えると、
文字にするということは大きな意味を持つことだったかもしれませんね!
金沢です。能登の奥に行くと全く言葉が通じません💦
…がしかし、金沢以外であれば爺ちゃん婆ちゃんの言葉がわからない事がままあります(笑)
私は瀬戸市で生まれた。訳あって浦和市にも縁があった。この二つの地名に共通点があることに気づいた。二つの地名に共通するのはいずれも1万年以上前海岸線であったことです。古い地名は変化しない。北海道の地名にアイヌ語が多いのはトリカブトの毒で北海道の原住民を殺しまくった結果に過ぎない。
前九年 後三年の役で 朝廷に負けた岩手周辺の安部氏の関係の人々は 大阪 出雲 福岡に移住させられました。また、源義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝の配下の関東の武士が北東北の領地を与えられ移住しました。岩手の南部氏は山梨の出身と聞きます。いろいろ人々は移動してる事は間違いなさそうです。
オホーツク文化と縄文文化は全く違いますよ。
縄文語が日本語のルーツだと思います。
漢字の影響もありますが、中国語でも朝鮮語、モンゴル語、アイヌ語でもないですから!
どこかで見たのですが、両方とも歳を取った鹿児島の人と青森の人が話したら、意外と通じたとか、あった気がします。文脈の1/3ほど理解できれば会話はできるものかも知れませんね。
今はネットで繋がってるので、若い人ほど全国同水準。昔の、今でいう都会の近畿から、当時の最先端流行り言葉が、緩やかに各地へ波及していたのかな?
卑弥呼の時代まで西日本と東日本は分離していたと知るべし。
アイヌ文化も琉球文化も大切に遺さないといけないですね❗
どちらも素敵な文化だもの❗
因みに私北海道人ですが沖縄の人達大好きで‼️
アイヌとは?
琉球とは?
蝦夷とは?
アイヌ文化を知れば知るほど素敵な文化とは思えないなぁ。
まぁ、ひとの勝手だけれど・・・。
氷川神社や諏訪大社など関東甲信の古い神社も出雲系の神様が多いよね。万葉集にも大昔の東国の和歌が残ってるが、中央(畿内)の言葉とは少し異なる。あづま言葉が存在してたのは、大昔は違う言葉が話されたって事の傍証でもあるはず。
諏訪も大分言葉が違うみたい
皆殆ど方言らしい方言使わんけど、本気の諏訪弁は「荒い」らしい。「できなんだ」って方言と最近知って衝撃を受けてる
氷川圏は東京を目指して地方の寄り集めになっちゃった結果、特徴のない標準語になっちゃってるから方言があったかどうかも分からないねぇ
お疲れ様です。
文字も同じで
けして、漢字以前には
文字はなかったと言うのは
あてはまりません。
アヒル草文字でペトログラフを
読むめる。
東北と出雲は同族だったと思います。
沖縄の方言にも色々ヒントが
あると言われてますよね。
東北地方とアイヌと沖縄には
古代を知るヒントが沢山あると
思われます。
益々楽しみな見聞録です。
コメントありがとうございます。
今回はあえて神代文字の話は省きましたが、文字もあったというほうが自然な気がしてしまいます。
今後も東北、出雲、沖縄、アイヌの繋がりを裏付ける発見があると良いですね!
@@hatena_discovery こんにちは。ここ最近になって、伊勢神宮を始め各地の古い神社に奉納された神名等の記された奉納文が発見されています。中には、漢字以前に文字は無かったとの理由で漢字で古事記を書いたとされる太安麻呂が漢字ではなく阿比留文字と阿比留草文字で書いた奉納文や、文盲であったはずの稗田阿禮の物凄く達筆な阿比留文字や阿比留草文字で書かれた奉納文があり、驚いてしまいます。また、源頼朝や義経の直筆と思われる奉納文も見つかっており、それらは、漢字ではなく阿比留草文字で書かれており、神社においては公用語だったことが推定されます。正確な年代測定の結果が気になる所ですが、今までの教科書は、特に古代史は書き替えるべきだと思います。
@@hatena_discovery アイヌと蝦夷は違います。アイヌは鎌倉時代以降に渡って来たはずですが、政治的背景でわざと同じにされています。
アイヌは数年前にアイヌ研究をしている人の動画で部族が5部族だか数部族あってどの部族も同じ言語を使っていなかったと言ってましたし、その中でも今の日本語と同じ文法を使う部族はいなかったみたいなので動画内の仮説の可能性は低いと思います。
樺太の方からロシア系やモンゴルなどの民族も渡ってきてその風習を色濃く残してる部族もあったそうなので今現在のアイヌを一纏めにしてしまってる状態だと正しいルーツは見えてこないと思いますね。
やはり琉球のほうが古代の言葉が残ってる可能性が高いのではないかなと思っています。
松本清張さんの「砂の器」で出雲弁が事件解明の鍵に為って居ました。
縄文人はアイム人との融合して謎が多いです、大和は古代ユダヤですが縄文人は又違い日本民族は難しいです。
アイヌ人が縄文人と樺太系の民族との混血かと思いますけどね、、、。
縄文時代に漆、アスファルトが扱われていたと言われてるんですね。
ありがとうございます。
政治的な意図がある動画とは思いませんが、ウポポイの先住民の件での日本人への逆差別や北海道の中国人土地買収の件で微妙な時、曖昧な内容はやめてほしいです。
東北には青い目の日本人がいる地域がありますよ
動画では曖昧な表現ですが、アイヌはDNA調査ではっきり大陸からやって来たことがわかってます。詳しくは↓
www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1.html
アイヌの言葉と縄文人の言葉が同じ、または似ていると言う人がいますが、恐らくアイヌの方が縄文の言葉の影響を受けたと考えた方が自然ではないかと思います。
縄文土器や土偶には記号(ピクトグラム)がありまして、それが文字代わりだったのでは?と研究してる方もいます。
www.museum-kiyose.jp/image/kenkyu/monyokozo120.pdf
「縄文 土偶 土器 記号」などで検索すると色々な考察や研究などが見えて面白いですよ。
life.drone-k.com/kamunagara-zinndaimozi/
今日本人が話している言葉の大部分に「大和言葉」が残っているという事実があるゆえに、縄文語といわれるものは「大和言葉」に近かったと思われます。まったく別の言葉を話していたとは思えないので、あまり基本的に変わっていないのではないでしょうか。
今あるアイヌ語は地域ごとに別の言葉を話していた可能性があります。語彙やニュアンスがコタンごとに違うからです。つまり日本に定着した時期が違うのでしょう。
アイヌの人口を考えると、アイヌ語が話されていたとしても、大和言葉を話す人が多数の場合、アイヌ語の方が大和言葉に汚染されます。今残っているアイヌ語も、日本語ベースの語彙が入っているはずです。逆にアイヌ語の語彙が新たに大和言葉に入ることもありますが、その場合は日本語と同化しているためわかりません。
まぁ、日本語に似た言語は無いから、もう縄文語=日本語でいいじゃんとの考え方もあります。
具体的な言語についてのご紹介に期待いたします。
天孫降臨の時に、日本語などを持参して来た。
3万6000年以上前に大陸から台湾~南西諸島に渡ってきた旧石器人ら(洞窟生活)がさらに北上し、九州~四国・本州(東北)~北海道まで移り住むようになり、1万年前くらいに洞窟生活→「竪穴式住居」の暮らしに移行した頃から「縄文時代」と言われているみたいです。そして3,000年くらい前に大陸(半島)から渡来人(弥生人)がやって来て、水稲栽培の普及に伴い、豪農(豪族)が誕生し、次第にピラミッド型封建社会が形成されていったと考えられています。1世紀~7世紀頃まで中国の史料によると、百余りの小さな縄張り(各豪族の領土)があり、争いが絶えなかったようです。その後、小さな領土が統括され(吸収合併など)、その中で強い国が支配域を拡大して「大和朝廷」などが誕生したと考えられています。そして1000年前の鎌倉時代の頃にモンゴル軍(元寇)がシベリア北東部まで進攻した際、その地に住んでいたアイヌの人たちとの間で「アイヌ・元寇の戦い」が起こり、そしてアイヌの人たちも徐々に安住の地を求めて樺太→北海道へと移り住むようになり、北海道ですでに定住していた縄文人との交流を通して、徐々に縄文語がアイヌ語の中に取り込まれていったのではないかと考えています。
東北や九州の方言で、「トンボ」のことを「アケズ」とか「アッケ」とか古日本語(縄文語)の単語が残っているようです。さらに琉球列島の方言でもトンボのことを「アケヅ」と言うようです。縄文語の音韻と琉球方言の音韻はどこか似てると言われています。 現在使われている日本語(単語)の中でどう考えてもそのルーツ(由来や起源)に辿り着けない単語は、古日本語(縄文語)である可能性が高いですね。
確かに伊豆方言は出雲と関係がある。出雲と伊豆の間の熊野伊勢との関連性は出雲伊豆より熊野伊勢は薄くなっているのは、都文化が古縄文語と違っていたからだ。と思われますがいかがなものでしょうか。
東北弁、出雲弁は北九州(福岡県、大分県)弁と似ていると聞きましたけれど。
それはまた、古代語(日本書紀などで使われている)とききました。
確か「いいちこ」というのは神武天皇紀にもでてきます。
小生、九州は宮崎の北部、大分弁に近いエリアの出ですが、東北弁全くわかりません。ガチな東北弁を喋られたら意思疎通は不可能とおもわれます。大学は熊本で九州各地から学生が集まっており、福岡の連中とも付き合いがありましたが、多少の方言の偏差はあれど普通に意思疎通も出来ました。
大分の言葉は広島弁に近い。瀬戸内の言葉かと。余談ですが、九州の方言偏差を大まかに区分けすると、バッテン系(福岡・佐賀・長崎・熊本)、ジャケのう系(大分)、ごわす系(薩摩系)に大別できるかと。
考古学から、縄文人は北は樺太、南は沖縄、西は朝鮮半島にまで住んでいたので、地名を縄文語で付けたと思われる。北海道は鎌倉時代にツングース系の民族により蹂躙されアイヌ人が生まれたがそうであっても地名は変わらなかった可能性がある。同様に、朝鮮半島は騎馬民族や中国人によって蹂躙されたが地名は残った可能性がある。その観点から考察した情報があるとうれしいです。
縄文人のDNAが比較的多い沖縄の首里城の拝殿は西向きだそう。
国譲りの舞台となった出雲大社の御神座も西向きだそう。日の出を背に、まるで「私は太陽の使いです」と言っているよう。
壬申の乱で天武天皇側が東の国の人々の力を借りて勝利し、その後国名を「日本」としたそう。
当時東国は日高見の国または日本だったから、壬申の乱で日本はヤマトと融合したのかも。「ヤマトは『大きな和』と書くし、ヤマトのヤはヤハウェのヤかも。」
伊勢神宮を三内丸山の縄文建造物に似た社殿にして斎王を置き式年遷宮を命じた天武天皇は最大限、東国の文化を尊敬し、尊重したのではないかと思います。
頭、かしら、あたま、とう、
ず。父、親父、おとう、等
一つのものにたくさんの
表現があるし、数の数え方
にしても多い。出雲と東北
はズーズー弁。昔は日本海
が表日本。現在の出雲では
イントネーションがハングル
に近い。多くの名残と変化
があるだろう。
色んな言語を話す色んな民族が流れ着いて住み着いていたと思うよ
それがいつ頃同じ言語を話すようになったのか、なぜ統一されたのか
大変興味深い動画ありがとうございました。
唐突ですが縄文人は、意思疎通の一部にテレパシーを
用いていたのではないかというのが私の仮説です。
縄文文明は日本列島のほぼ全域にわたり、
各地域間の交流も盛んで、1万年以上続いたにも
かかわらず、文字を使用しなかった、というのが
論拠の一つです。テレパシーを使えれば情報伝達と
情報記録媒体としての文字は不要です。
縄文人が話し言葉を用いたのは当然ですが、
重要な意思伝達をテレパシーで行えば、話し言葉は
現代のものとはかなり違ってきます。
テレパシーを使える文化ではどのような言語になるかと
想像すれば、自然界の音や物事の状態や動き
などを声で表すオノマトペが発達するのでは
ないでしょうか。
考えます。
ごめんなさい。アイヌも文字は持っていなかった。文字なき文明は太平洋にもありました。
日本は別だと思う。
冒頭の部分を実証するように、本州北部の某地域には、ちや、つや、つよ、ちよ、という複数氏名記載で郵便の届く1高齢女性がいます(した?)。確かに、この4例とも類似音です(表記は違いますが、土地の耳には同様/錯誤で聞こえます)。 動画では「や」と「よ」に触れていませんが、同様です。 「言語」について解く場合、民俗性を伴います。 動画では「~という説が・・・」とされていますが、どれも「一学説」として存在するものであり、面白半分動画・のようなものではありません。 「縄文人」について触れるとき、これまで1度も触れられていない「真最古の住民」の存在があります。 「縄文文化」をもたらした人々は、「真最古の住民」の上に、更に「北から南から移住/渡来」してきた人々であり、更に「弥生文化」をもたらした人々が次第に被さり、以降日本の「歴史時代」へ移行します。 動画では「上方」を中心に考えているように見受けられますが、人々は北から南から移入し、その最後が半島経由(日本の歴史時代)で最終上方居住であろうと考えられます(最終というのは、初め北九州であった可能性)。 ですから、中央から同心円状に広がった「言葉」は、かなり後期(歴史時代)のものであり、それ以前に南方系民族の言語や、北方系民族の言語があった・とし、それに権力を持った中央の言語が被さった・とみる方が適切か?と思います。 実際旧い時代には、日本海を環状に大陸・半島を含めた沿岸地域の交易のあった痕跡があります。その頃には、まだ中央集権というものは存在していません。 中央から琉球へ伝播した言語より先に、琉球経由で大陸南部から列島へ伝播した言語の方が、古典となっている可能性が有力です。 これは北方にも言えることです。この故に、東北地方には「アイヌ語」に起源をもつ(意味がある)地名が点在してる所以でしょう。 平安期以降、上方から「所謂:都落ち」という形等で、東北日本海側へ移住した人々もいます。 「秋田美人(小野小町も説)」といわれる面立ちは「平安美人」の典型です(≠現代美人=東京型)。 このとき、一緒に上方言葉も移入していることは容易に考えられます。 ですから、まず列島の広範囲に「(多種)縄文民族」が居住し(一説では、鹿児島の大噴火で居住不可となったため、一時離散したという)、その後更に変化を持った縄文文化民族が現れ、更に弥生文化(大陸文化等)が、混じるように移入したことで、現日本語の祖となる様式に変化した・と考えることができませう。 「文字‐ひらがな・カタカナ‐」の生成過程には、諸々説がありますが、もし「漢字」であるとしても、「音価」については、別途構成され、作られた文化として「かな・カナ」に「音」を当てた・という考え方もできましょう。 「縄文語」から少し離れますが、「同一漢字」の中国(北京)語「音」と、漢和辞典「読み」に多くの差異があることも、一要素として考えることも好いだろう・と思います。
話は違うかも知れませんが、何時代か忘れましたが、琉球王国から船で漂流した先の現在の岩手県宮古市で助けられ、交流があったと聞きました。
どうして縄文人・弥生人と異なるもののように言うのかわからないな。縄文時代の日本人、弥生時代の日本人ということで、同じく日本列島に住んでいて、時代が異なるだけでしょう。大陸から多くの人がやってきて、元の日本人を追いやって入れ替わった、という大陸人侵攻説を当然の前提にしているようだけど、言語的に見ても文化的に見ても、そんな痕跡は全くない。もちろん、断続的に少しずつ大陸やほかからの流入者はいて、緩やかな混血があったことは否定しないけれど。まずは、縄文人=弥生人という事実を確認した方が良い。
現在アイヌ語とされているものは造語で、実際は部族ごとに異なる言葉だったと言われています。
それをふまえるとアイヌ民族が話していた言葉が縄文語がルーツというのは可能性が低いのではないかと思います。
ルーツとしているのであれば意思の疎通が図れる程度に似ているのではないかと。
出雲、諏訪、平泉。
日本語みたいに女性器の呼称が50以上もある言語って他にもあるんだろうか🤔
どこの中学生がそんな研究をするんだよ・・・
それは知らなかったわ
イグノーベル賞もの!
ベッチョ○
ではそれら50の言い方をすべて書いて下さい。単純に好奇心から知りたいのです。(^_^;)
アイヌに縄文語の名詞が残っているのは、縄文人との融和や文化交流も有り得る。
また、侵略と奴隷化により縄文人は滅びたが、地名などは残った可能性も有る。
つまり、アイヌが縄文人に、ここは何という場所だと聞きそれが残ったということ。
アイヌから聞いた地名を本州人がそのまま使って残っているのと同じ。
縄文時代の物流の範囲や物品を考えるとメモ代わりの文字がないのが不自然でなりません。
やはり、日本は素晴らしいです☆日本は特別です!😄🌸🇯🇵📣🎶
このコメントが、日本の素晴らしさを壊してるぞ。
@@mcanthe ごめんなさい💦
出雲弁はシとスが同じ発音と紹介されてますが、外部の人が聞き分けられないだけで、地元の人間は違う発音をしています。
遅くなって御免なさい!
Very nice lecturer 👍
たぶん政治には関係なく話されてる(紹介し解説する動画)とは思いますが、うポポ〜イは無いです❗
恰も縄文からのように聞こえるので💦
楽しく見させて頂きましたが残念❗
コメントありがとうございます。
仰る通り、政治的な話を入れると全くもってフラットな説明ができません。
あくまで説に基づいて、冒頭の注意文や概要欄にも記載した注意事項に基づいて動画を製作しております。ご理解ください
@@hatena_discovery 様
返信有難う御座います。
ただ勘違いする人達が居ると思うと
(例え1人でも)残念に思いました。ア○ヌの人達を愚弄するような、そして公金で出来た、うポポ〜イはとても国立博物館と言われるような物でも有りません。
時期が時期だけに新法が可決されても、絶対に許せない人達が居ますから💦
イヤ❗国民が立ち上がって北海道を応援しないといけないと思った個人の戯言です。
@@RA-OUKEN こちらこそ、返信およびご意見、お心遣いありがとうございます。
研究内容に則って、いち素人が諸説を紹介するだけのチャンネルなんです。が、正直アイヌという単語が出ただけで差別的な発言が出たり、政治的な思惑などからこちらの趣旨をご理解いただけていないコメントが来ると辟易してしまいます。
配慮は十分にしているつもりですが、事の次第では今後の対応を考えなければいけませんね。
自分は蝦夷の地域(*^^*ゞ
土器にセラミック?剣には宝飾?
同じ縄文時代の出土品は違うみたいですね、、、鬼の扱いも違いがあるかも!
アイヌ語はひとつではなく、五つの言語になっております。
9:33あたりから使われているBGMはなんですか?
縄文時代は日本海は海では無く湖でしたよ、氷河期の末期であり海面が現在よりかなり低く、日本列島も全てつながり大陸の外れが日本ですよ、文明は水側に発達するので日本文明が内陸に広がって行ったと考える方が自然です、氷河期が完全に終わり海に囲まれ列島になった日本はガラパゴスかがされた日本人
仮説ですが、縄文人イコールネアンデルタール人の可能性もありネアンデルタール人は神道の六根清浄の五感プラス一感覚、第六感が有り言語以外のコミュニュケーション能力に優れていたらしいですね、中々日本人研究は奥が深いです縄文時代12,000年ことしが2,020年ですから奥が深いのは当たり前ですね
第六感って、なにを根拠に。第六感自体が明確な定義も確認もされていない、存在の有無さえ分からないものなのに。
書き言葉(古代中国)の影響のない時代の《話し言葉》は、外国人のカタコトのようだったと想像してます。 「ペコペコ」や「舞う」や、「ㇶ(太陽)」や「ワー」とか「アー」とか
俺(出雲)は縄文言葉を喋っていたのか😂
💘
西出雲の「できらん」はもろに古語の「できらむ」だよね
神を「かん」と読むのも、巫=神和(かむなぎ)、神奈備(かむなび)、惟神(かむながら)(これは神の惟(おも)い)にあるように古くから使われてる「かむ」をそのまま使ってる
あらやだ古代って思った
地名は後から来た民族が付け直すので比較的新しいということです。
なるほど
明治になって言ってる事がさっぱりわからなくて苦労したらしいからな(笑)
今でも分からない人もいるが(笑)
1つの見解になりますが・・
出雲と東北
これは故:小西可東氏による著しで、先ず出雲より日本武尊(ヤマトタケル)の親征さらには坂上田村麻呂の討伐により急激に東方開発が進められた・・と、あります。
そしてその後、朝廷景行天皇より勅命を戴いた武内宿禰(スクネ)が東北北上川流域の探検に際し「土地沃壌にして広し、撃って取るべき也」と奏上したとも記されています。
この時、東北に居た豪族の安倍一族は神武天皇の大和侵攻に敗れ、陸奥津軽まで落ち延びた長髄彦(ナガスネヒコ)の長兄安日(アビ)の後裔で、安倍は安日の転訛したものと推測され、或いはまた東奥未開の当初、逸早く蝦夷に於いて崛起した夷徒の巨魁所謂俘囚の長であるとも称されているが、安倍忠頼の子忠良に至り、彼は陸奥の大掾に任ぜられ、胆沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手六郡に威名を振るった。
・・とまでの記載も御座います。
これ等から推察致しますと、出雲の朝廷と東北へ落ち延びた安倍一族、それと藤原ですがこれ等両家との繋がりが深かったと推測されます。
確かに東北地方には安倍の姓を名乗る家庭が多いのも事実ですし、石巻市田代島には今も尚、その名残として歴史的地名が残っているのも事実です。
聴くところによると、日本武尊に敗れた大国主命の子孫が東北にやって来て、その当地の豪族と婚姻関係を結んだという逸話まであるくらいですから・・。
その系図をお持ちの安倍さんが現存しています。
赤ちゃんに蒙古斑が少ない東北
天皇を表す“みかど”の語源は失われたイスラエル十支族の一つ、カド族の首長を表す“ミ・カド”であるとか。
また天皇の古い尊称である“すめらみこと”のすめらはシュメールが訛ったものだとか。すめらぎという言葉もそれでいくとシュメール王と訳せるとか。
京都の鞍馬という地名もヘブライ語で金星を意味し、実際に鞍馬山の祀神は金星神だという。
日ユ同祖論、昔から信じているのですが。
ガド族です