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もう、いろいろな雑誌やビデオでこすられ続けた83シーズンだけど、何回観ても、結果を知っていてもワクワクできるのはすごいことだと思う。
やっぱこの時代ですよ!
バイクブーム、HY戦争、汚れた英雄やバリ伝……そんな時代での2人の対決。情報はバイク雑誌とモータースポーツダイジェストぐらい。その時代を10代でリアルに感じれたのは私的に幸せだったと思う。今の若い人が観ても面白いシーズンだと思います^_^
41年前の熱いバトルが昨日の様です。スペンサーとキングケニーの闘いを久しぶりに見ました。
何気に今のマルケスとかよりもこの時代のレースがカッコええ❤
ロバーツ、スペンサー、ローソン、レイニー、シュワンツ80年代~90年代前半までは本当に米国人ライダーが強かったですね。
今だに記憶に残る最高!!のシーズン!ケニーのキングに相応しい美しく速い孤高のライティング!!フレディのダイナミックなスライド走法!そして優勝出来なかったが片山敬済も格好良かったし、輝いていた💪
この年のロバーツは「ライダーとしての力では誰も及ばないほど抜きんでていた存在だったのは間違いない」と後年のローソンがインタビューで語っていました。コーナリングスピードやレイトブレーキングなど勝負の瞬間だけの一発の速さならスペンサーにも分があったかもしれないが、それさえもあのミシュランの16インチとヤマハより10kg近く軽いNSの運動性能の良さというパッケージングがあってこそ出来た事。また、ヤマハにとっては吸気管の長さが致命的で吸気タイミングの正確さだけが取り柄のロータリーディスクバルブと同爆方式のエンジンも始動性の悪化に直結したため、ロバーツはただでさえ熱が入りにくい当時のダンロップ18インチフロントタイヤを酷使してペースアップをしなければスタートの遅れを取り戻せないというレース展開が常態化していた。スペンサーもミシュランが要望に沿って特別なフロントタイヤを作ってきてスペンサーにのみ供給するという特別扱い(この特別扱いはシーズン中からパドック内では公然の秘密でパドックに出入りするほぼ全員が知っていた)をしていたにもかかわらず、アッセンとスパのベネルクス3国の2連戦ではどちらもフロントタイヤの酷使でロバーツに負けている。特にアッセンではスペンサー付きのエンジニアのアーブ金本にも短気を起こして怒っていたスペンサーをたしなめる場面が見られたほど。人格的部分での未熟さは年齢故に周囲に許されていた部分も多かった。一方のロバーツはシーズン序盤のモンツァでガス欠の原因になっていた短いタンクをやめて本来の自分好みの上体の倒し方よりも窮屈な姿勢でライディングせざるを得なかったにも関わらずタイヤの摩耗をコントロールして見せるという「まさにバイクという乗り物を知り尽くした神の領域の御業」を発揮していた。熱が入ればグリップ力は高くなるも、その反面で消耗も早いダンロップ。現にモンツァでは、金曜日のフリープラクティス開始時にいつものようにローソンのコース慣れを手伝うためにローソンを引っ張って3周ほど走ろうとしていた1周目、最終コーナーのパラボリカで転倒している。これはこの年ローソンはGP参戦初年度でほとんどのコースが初走行だったためでもあり、ヤマハ陣営のチーム全体の力を僅かでも底上げするためだった。これはセカンドチームのソノート・ヤマハが耐久ライダーのマーク・フォンタンしかいなかったためである。つまり必然的にどんなに頑張っても自分以外ではローソンがホンダ勢を抑えられるような状況を作っておかなければならなかった。自分が最後シーズンであることを決めて臨んだシーズンでタイトル奪還の可能性が低くなってしまうことは避けなければならなかった。そのためには金曜日のフリープラクティス前半でローソンのラップタイムを詰めるためのライン取りやタイミングの指導も含めて「ローソンがスペンサー以外のホンダ勢と互角に戦える状態に仕上げてしまうこと」が必須だった。自分のラップタイムはそのあとで作るしかないという「味方の玉数が圧倒的に少ない状況」に対して、ホンダ勢はスペンサーに始まり片山、ルッキネリ、ハスラムの4人がファクトリーNSで戦っている上に去年までRGに乗っていた有力プライベーターが大勢RS500Rに切り替えていた。中でもロッシュ、ミドルバーグ(ミドルバーグに至ってはハラマの最終ラップで1コーナー侵入直前にスペンサーとロバーツの間に割って入り、スペンサーの勝ち星を援護射撃している)の2人が上位入賞の可能性が実際にあるライダーであった。(ミドルバーグは82年はスズキRG・XR40でシーズンを戦っており81年にはイギリスGPをロバーツとの死闘の末に制するなど力のあるオランダ人ライダー。)(ロッシュは最終戦イモラの予選で大クラッシュで出場不可能になった片山のNSを与えられたし、翌年84シーズンにマモラと死闘を繰り広げたオランダ・アッセンも印象深いフランス人ライダーで84年はランキング3位を奪取。85年はマールボロヤマハファクトリーに加入)このような「層の厚みがホンダ勢の強み」といっても良いほどだったのだ。それに比べヤマハはロバーツ、ローソン、フォンタンの3人のみで表彰台が狙えるのは実質的にロバーツ、ローソンの2人だけでローソンはまだこの年がGPフル参戦初年度でGPコース攻略の経験値がほぼゼロ。(唯一の例外は当時の西ドイツGPがホッケンハイムで、このコースだけは81年にカワサキKR250で単発参戦していたため走った経験はある。という程度)ということは・・・ロバーツとしてはやるべきことは一つである。「ローソンのタイムを作る(コース習熟度アップ)のが先で自分のタイムアタックはあとで」ということになる。こういったシーズン全体の趨勢を見据えた形の闘い方ができたのもロバーツに経験という武器があったからであり、自身のライディングテクニックには自信がありマシンセッティングについては「ケルとノビーの2人(ケル・キャラザースとノビー・クラーク)で可能な範囲で煮詰めてもらい足りない部分は俺が何とかする」という戦い方をせざるを得なかった。もしスペンサーが同じ立場だったらまだまだ経験不足だった82年シーズンの延長戦上のような勝ち方しか出来なかったのではないだろうか。なにしろ「走行時間の半分は味方の引っ張り役を務めなければならない上に始動性が最悪なYZRで、レース序盤はスタートの遅れを取り戻すために熱の入っていないダンロップ前タイヤでレース後半が厳しくなるのは承知の上でプッシュしなければ勝つことはおろか表彰台すら危うい」という状況なのだ。スペンサーがロバーツと並ぶ天才で「彼の力で83年の大接戦の末のタイトルは取れた」とスペンサーを過大評価する方が多いが、GPレースに詳しい筋からしてみれば「とんでもない的外れ」と言わざるを得ない。この年確かにスペンサーが他のホンダ勢に比べて頭一つ抜きんでた存在で、唯一ロバーツに対等な勝負を挑めるライダーであったことは事実である。しかしながらシーズン通して戦略展開を組み立て、時には引っ張り役を買って出てでも不利な要素は可能な限り排除し、それでも負ったビハインドについては俺が何とかするという戦い方で6勝も挙げることができたのはひとえにロバーツの実力に他ならないのである。
ケニーとエディの関係は翌年の4輪F1でのラウダとプロストに通じるものがありますね、奇しくもマルボロ繋がり。
つくづくこの年のレースはバイクレースの中でも40年経っても語り継がれるそんな2人に唯一迫れたのが片山さんなのは本当、もしNRの開発では無くて最初からNS開発ならNSRの開発も早くなってどう変わっていたか?たらればはどんなに言っても仕方がないがキングも天才も本当に凄いシーズンだったなと…
ケニー師匠のライディングフォームは美しすぎる。鈴鹿8耐で目の当たりにしました。ブレーキング、加速。ミシュランがケニーにも供給していたら…。母国に敬意を払いダンロップを使用していたことも素晴らしいです。
私の愛車は、NSRヘルメットは、ロバーツこの時代に生まれ2人のレースに魅了された私は、幸せです動画ありがとうございました
私の愛車はRZV500タカイのツナギで平仕様ヘルメットは何故か赤ラインのワインガードナー😅
YAMAHAは始動性が悪いイメージありましたね。平選手も火が入らず事故の原因に。当時は『なんでクラッチスタートにしないんだろう?』といつも不思議でした。予選で頑張ってもあっと言う間にその苦労が水泡に帰す可能性がある押しがけには安全性の面からも疑問でした。見栄えは良いかもしれないけど・・・。しかしスペンサー、ロバーツと張り合ってた片山選手はやっぱり今更ながら凄いと思ってしまいます。
スウェーデンGP、最終ラップのノーラカーブでフレディーは曲がれない勢いでインに入りケニーを追い出す格好で抜いて勝った。当時も物議を醸したが、現在なら間違いなくペナルティー。記憶が確かなら、ケニーのコメントが「フレディー相手にわずかでもインを空けた自分のミスなんだ」と。なんとカッコイイ男なんだろうと思った。
懐かしい高校生だったな~部屋にスペンサーがコーナー回ってるポスター張ってた
この時のローソンはまだ新人だったけど、この後から速く安定した走りで長い期間にわたり世界チャンピオンを続けることになるのです。
オラ、クリスチャンサロンが一番好き💦
このシーズンだけは忘れられない。キングは今もグランプリの歴史の中で輝きづ付けていると思う。
このウンチーニの事故映像、昔は「決定的瞬間」なるTV特番があってその常連だったな。その後バイクに興味持つようになって、伝説の'83年だったこと、轢いたライダーがデビュー年のガードナーと知りビックリしたもんだ。ガードナーはこの後ボロ泣きしながら「もうレースやめる」とまで言ってたらしいが、後にチャンピオン獲るんだから偉い人だよ。
これはホントシナリオの在るよーな熱い展開だった
よく、この年のローソンが最終戦で2位に入っていればというけど、GPデビューの新人だった彼にそれは無茶な話だと思う。YZRの始動性が良ければ、それだけでロバーツはチャンプになれた筈。
そうですね。本当にその通りだと思います。ヤマハもホンダもレース1周目からラップチャートを始めとして、両者のタイム差まで計測したデータを持っていますが、それによると1周目終わりでスペンサーがロバーツに付けていた差(つまりスタートで付いた差)をフィニッシュ時点の両者の差から差し引くと全12戦中10対2でホンダとスペンサーの負けだったそうです。ホンダのスペンサー担当エンジニアの金沢賢氏も認めている通り「あの年はYZRの始動性の悪さに助けられたようなもの。もしロバーツのYZRがもう少しスタートで速かったら間違いなくウチがやられていた年でしたね」と後年のインタビューで言っています。
始動性=結果的にヤマハの物言いが通って数年後にクラッチスタートに移行するきっかけになるんですよね。
後半アップロード待ってました!熱い熱いタイトル争いだったんだなあと改めて思います。
個人的ですが、マシンのフォルム、パワー、様々な要素が、一番バランス良かった時代でもあり、役者的にも揃ってた気がします。
プライド・ワンというドキュメンタリー映画を思い出したDVDで出ないかな。。
当時は今のようにSNSがなくてバイク本でしかレースの情報は得られなかった。またレースのビデオは一部でしか入手できなかった。今はスマホで二人のバトルが見れてイイよねえ。
素晴らしい動画をいつもありがとうございます!勝負の世界に「タラレバ」は厳禁であり、結果がすべて。ケニーよりスペンサーが、YAMAHAより、HONDAが強かったということですね!ただ、ここまでドッグファイトを繰り広げたシーズンは、本当に伝説だと思います!
スタートだけ考えれば押し掛けスタートのあの頃はホンダが有利でした。現役当時街乗りバイクの様に簡単に始動できるRS125や250に対しTZ250は始動に神経質でした。始動性の悪さは後の YZR250や500もそうで、全日本では誰もいなくなったグリッドからワークス2台が最後尾から追い上げたり、WGPでは平選手が追突され、押し掛けスタート廃止になりました。
ケニーの赤のagv。カッコいい
そういえば、、、この年の最終戦イモラは一年間味方陣営の手薄な戦力に憤懣やる方なしなロバーツでしたが、チームオーナーのアゴスチーニとヤマハが3人目のライダーを指名して参戦させるというサプライズを用意していました。その時、ヤマハが用意したライダーはすでに250㏄クラスでタイトルを決めていたカルロス・ラバードを連れてきたのですが、ケニーの希望としては平忠彦選手をと言っていたそうですが、その内示を受けた平選手は「光栄なご指名ですが、その期待に応えられる実力が今の私にはありません」と言って断っていたと聞いたことがあります。確かに平選手は当時、全日本選手権のタイトルが狙える位置につけており(GP最終戦を終えたスペンサーが参戦してきた日本GPで木下選手の転倒と平選手の2位フィニッシュで平選手の初の全日本タイトル奪取が決定)まだタイトル経験もなかったので自分は実力不足だと思っていたのでしょう。その後の3年連続日本タイトル獲得の平選手を知っている私たちの目で見れば「惜しいことをした・・・」と思っても内示を受けた時点での平選手からしてみれば「とてもお受けできないオファー」ということになるということかも知れません。
ウェインの事故、このアングルは久しぶりに見た…。当時、フロントとリヤを一緒に滑らせて走っていたのはフレディーだけ。シケインの立ち上がりで車体が前後並行に動いてCP を通過して驚いた。後年、哲也とロリスも同じ事有ったなぁ。
キング・ケニーとファースト・フレディですね。
ウンチーニとガードナーの事故は当時映画で初めて観てよく大事に至らなかったな〜と思いました。この年は実は片山選手が最終戦で転倒リタイアしてしまい年間ランキング3位を逃してしまったのも覚えています。この時の怪我は結構重症で次の年一年走れないほどの怪我でした。
そうですね。あの年のランキング3位はマモラでしたが、彼曰く「83年の本当のランキング3位はタカ(片山選手の名前がタカズミなので愛称がタカだった)だったね」と語っています。確か片山さん自身もあの頃が一番乗れていたと言っていたような気がします。とにかく83年最終戦の事故が悔やまれてなりません。99年に岡田忠之選手がランキング2位になるまで塗り替えられることがなかった記録です。
特性の違う2台のマシン、NSとYZRはよく語られますが、、、実はそれ以上に明暗を分けたのはタイヤメーカー、ミシュランとダンロップの性能差であり、この動画の最後のツーショット写真で、ロバーツがスペンサーのツナギのミシュランロゴを隠しているのはその口惜しさのあらわれなのですと言う記事を見た記憶がありますw
本当にその通りですね。ローソンも後年のインタビュー記事で語っていましたが、あの年にミシュランが持ち込んだ前後16インチの世界初ラジアル構造タイヤはヤマハ勢が履いていたダンロップタイヤに比べて次のような性格を持っていたそうです。1. 高いグリップ力が発揮できる温度帯に温まるまでの早さ2. 耐摩耗性に優れていた3. 深いリーンアングルでもジワジワ滑り始める限界領域での特性の良さこの動画ではスペンサーがオランダ・アッセン以降フロントタイヤの摩耗に苦しめられていた・・・というようなことが説明されていましたが他のホンダ勢ライダーやチームHBスズキのマモラ、ウンチーニの両ライダーも含めて摩耗に関するトラブルは一件も起こっていません。スペンサーのフロントタイヤトラブルは、彼がコーナーの奥深くまでブレーキを薄く引きずる「トレールブレーキング」というコーナリング速度を高めるための特殊なテクニックを使っていたからです。また、もうひとつスペンサー信者の主張としてあるのが3気筒NSに比べて4気筒YZRはパワフルだったという旨の話。これはホッケンハイムやシルバーストンのような平均速度が高くロングストレートがあって最高速の高さが求められるサーキットならばストレート後半でYZRの方がNSよりも有利ということは事実でしょうが、83年当時は安全性の観点からシケイン増設のような考え方はされていなかったとはいえ、それでもアンダーストープのバックストレートのようなごく一部例外を加えても「最高速が有利に働くのはコース全体で5%にも満たない」上に加えて「この年のYZRはロータリーディスクバルブで高回転時の吸気タイミングの正確さだけが取り柄で低速トルクはスカスカ」という有り様で「中・低速コーナー出口で大切な加速に使うトルク特性ではNSの方が圧倒的に有利」というのが実情で、現に最高速の強みが生かせるホッケンハイムとシルバーストンではロバーツがスペンサーに大差をつけるレース内容になっています。つまり、この年の二人の対決を総括すると・・・トルク特性やタイヤなど不利な部分も多いYZRを経験値やテクニックで圧倒的に勝るロバーツが補いNS投入2年目で本気で勝ちに来てるホンダ・ミシュランコンビに助けられたスペンサーはそれを生かしそのうえで初めて互角の勝負になったシーズンだった。というべきでしょうね。
当時、スペンサーのレプリカヘルメットいっぱい見たなぁ~👹👹
ケニーかフレディか?、この年のWGPは凄かった。それに2人に割って入ってくる赤に金のストライプのヘルメット、NO.8片山敬済も凄かった。しかしサンマリノ予選での転倒は残念無念でした。
凄い年だったよなルッキーも片山もNRなんか乗ってなきゃ…とも思う
ルッキネリはスズキからディフェンディングチャンピオン移籍なので公式にはNRに乗ってませんね、テストではあったかも?
ローソンは正しい👍
スペンサーはYZRの始動性の悪さに助けられチャンピオンになれた
まるでバリバリ伝説世界GP編の郡とアンダーソンだね😃✌️
ヒデヨシの霊まで「ガンボーイ」言ってたのは草
この頃スペンサーのフロントタイヤ16インチじゃなかった?
唯一、二人に割って入れた「プリンス片山」。敢えて割って入らなかったC・サロン。そして、追いつけなかったエディ。ドラマチックなシーズンだったなぁ。
83年、もし王様ケニーがHONDAに乗っていたら、フレディは年間チャンプにはなれなかっただろうな。
この時代の2stGPは面白かった!今のバイクの方がパワーもスキルも上で、タイムも当時より短縮されてるけど、何か当時のレースの方が良かった。後、キングはレーススタイルを一変させたライダーで、二輪レース界のレジェンドですね。
アッセンのウンチーニの事故、翌朝のNHKニュースで流れてびっくりした。その時の新人がまさか数年後にチャンピオンとは。ロバーツが引退して2年後だったかな?にフレディの走りについて「彼はいつも(1速ずつではなく)まとめてシフトダウンしてエンジンブレーキを使っていない。」と言ってました。ニュアンス的には乗り方に無駄があるという感じだったので、コーナリングだけでなくブレーキングでもフロント偏重のライディングだったのかもしれません。
ケニー、フレディのフォームの美しさといったら・・・今の足を出すスタイルは嫌いだ。
あれだけ極端なフロント乗りしてたらヤマハ機は相性悪いよなぁ
当時、YAMAHAのバイクより、HONDAの方が始動性良かった。
今となっては、アッセンで片山さんが勝ってしまわなくて本当によかった、と、心から思うよ。
う~ん確かに・・笑
What!??!
もう、いろいろな雑誌やビデオでこすられ続けた83シーズンだけど、何回観ても、結果を知っていてもワクワクできるのはすごいことだと思う。
やっぱこの時代ですよ!
バイクブーム、HY戦争、汚れた英雄やバリ伝……そんな時代での2人の対決。情報はバイク雑誌とモータースポーツダイジェストぐらい。その時代を10代でリアルに感じれたのは私的に幸せだったと思う。今の若い人が観ても面白いシーズンだと思います^_^
41年前の熱いバトルが昨日の様です。
スペンサーとキングケニーの闘いを久しぶりに見ました。
何気に今のマルケスとかよりもこの時代のレースがカッコええ❤
ロバーツ、スペンサー、ローソン、レイニー、シュワンツ
80年代~90年代前半までは本当に米国人ライダーが強かったですね。
今だに記憶に残る最高!!のシーズン!
ケニーのキングに相応しい美しく速い孤高のライティング!!フレディのダイナミックなスライド走法!
そして優勝出来なかったが片山敬済も格好良かったし、輝いていた💪
この年のロバーツは「ライダーとしての力では誰も及ばないほど抜きんでていた存在だったのは間違いない」と後年のローソンがインタビューで語っていました。
コーナリングスピードやレイトブレーキングなど勝負の瞬間だけの一発の速さならスペンサーにも分があったかもしれないが、それさえもあのミシュランの16インチとヤマハより10kg近く軽いNSの運動性能の良さというパッケージングがあってこそ出来た事。
また、ヤマハにとっては吸気管の長さが致命的で吸気タイミングの正確さだけが取り柄のロータリーディスクバルブと同爆方式のエンジンも始動性の悪化に直結したため、ロバーツはただでさえ熱が入りにくい当時のダンロップ18インチフロントタイヤを酷使してペースアップをしなければスタートの遅れを取り戻せないというレース展開が常態化していた。
スペンサーもミシュランが要望に沿って特別なフロントタイヤを作ってきてスペンサーにのみ供給するという特別扱い(この特別扱いはシーズン中からパドック内では公然の秘密でパドックに出入りするほぼ全員が知っていた)をしていたにもかかわらず、アッセンとスパのベネルクス3国の2連戦ではどちらもフロントタイヤの酷使でロバーツに負けている。
特にアッセンではスペンサー付きのエンジニアのアーブ金本にも短気を起こして怒っていたスペンサーをたしなめる場面が見られたほど。
人格的部分での未熟さは年齢故に周囲に許されていた部分も多かった。
一方のロバーツはシーズン序盤のモンツァでガス欠の原因になっていた短いタンクをやめて本来の自分好みの上体の倒し方よりも窮屈な姿勢でライディングせざるを得なかったにも関わらずタイヤの摩耗をコントロールして見せるという「まさにバイクという乗り物を知り尽くした神の領域の御業」を発揮していた。
熱が入ればグリップ力は高くなるも、その反面で消耗も早いダンロップ。現にモンツァでは、金曜日のフリープラクティス開始時にいつものようにローソンのコース慣れを手伝うためにローソンを引っ張って3周ほど走ろうとしていた1周目、最終コーナーのパラボリカで転倒している。
これはこの年ローソンはGP参戦初年度でほとんどのコースが初走行だったためでもあり、ヤマハ陣営のチーム全体の力を僅かでも底上げするためだった。
これはセカンドチームのソノート・ヤマハが耐久ライダーのマーク・フォンタンしかいなかったためである。
つまり必然的にどんなに頑張っても自分以外ではローソンがホンダ勢を抑えられるような状況を作っておかなければならなかった。自分が最後シーズンであることを決めて臨んだシーズンでタイトル奪還の可能性が低くなってしまうことは避けなければならなかった。
そのためには金曜日のフリープラクティス前半でローソンのラップタイムを詰めるためのライン取りやタイミングの指導も含めて「ローソンがスペンサー以外のホンダ勢と互角に戦える状態に仕上げてしまうこと」が必須だった。
自分のラップタイムはそのあとで作るしかないという「味方の玉数が圧倒的に少ない状況」に対して、ホンダ勢はスペンサーに始まり片山、ルッキネリ、ハスラムの4人がファクトリーNSで戦っている上に去年までRGに乗っていた有力プライベーターが大勢RS500Rに切り替えていた。
中でもロッシュ、ミドルバーグ(ミドルバーグに至ってはハラマの最終ラップで1コーナー侵入直前にスペンサーとロバーツの間に割って入り、スペンサーの勝ち星を援護射撃している)の2人が上位入賞の可能性が実際にあるライダーであった。
(ミドルバーグは82年はスズキRG・XR40でシーズンを戦っており81年にはイギリスGPをロバーツとの死闘の末に制するなど力のあるオランダ人ライダー。)
(ロッシュは最終戦イモラの予選で大クラッシュで出場不可能になった片山のNSを与えられたし、翌年84シーズンにマモラと死闘を繰り広げたオランダ・アッセンも印象深いフランス人ライダーで84年はランキング3位を奪取。85年はマールボロヤマハファクトリーに加入)
このような「層の厚みがホンダ勢の強み」といっても良いほどだったのだ。
それに比べヤマハはロバーツ、ローソン、フォンタンの3人のみで表彰台が狙えるのは実質的にロバーツ、ローソンの2人だけでローソンはまだこの年がGPフル参戦初年度でGPコース攻略の経験値がほぼゼロ。
(唯一の例外は当時の西ドイツGPがホッケンハイムで、このコースだけは81年にカワサキKR250で単発参戦していたため走った経験はある。という程度)
ということは・・・ロバーツとしてはやるべきことは一つである。
「ローソンのタイムを作る(コース習熟度アップ)のが先で自分のタイムアタックはあとで」ということになる。
こういったシーズン全体の趨勢を見据えた形の闘い方ができたのもロバーツに経験という武器があったからであり、自身のライディングテクニックには自信がありマシンセッティングについては「ケルとノビーの2人(ケル・キャラザースとノビー・クラーク)で可能な範囲で煮詰めてもらい足りない部分は俺が何とかする」という戦い方をせざるを得なかった。
もしスペンサーが同じ立場だったらまだまだ経験不足だった82年シーズンの延長戦上のような勝ち方しか出来なかったのではないだろうか。
なにしろ「走行時間の半分は味方の引っ張り役を務めなければならない上に始動性が最悪なYZRで、レース序盤はスタートの遅れを取り戻すために熱の入っていないダンロップ前タイヤでレース後半が厳しくなるのは承知の上でプッシュしなければ勝つことはおろか表彰台すら危うい」という状況なのだ。
スペンサーがロバーツと並ぶ天才で「彼の力で83年の大接戦の末のタイトルは取れた」とスペンサーを過大評価する方が多いが、GPレースに詳しい筋からしてみれば「とんでもない的外れ」と言わざるを得ない。
この年確かにスペンサーが他のホンダ勢に比べて頭一つ抜きんでた存在で、唯一ロバーツに対等な勝負を挑めるライダーであったことは事実である。
しかしながらシーズン通して戦略展開を組み立て、時には引っ張り役を買って出てでも不利な要素は可能な限り排除し、それでも負ったビハインドについては俺が何とかするという戦い方で6勝も挙げることができたのはひとえにロバーツの実力に他ならないのである。
ケニーとエディの関係は翌年の4輪F1でのラウダとプロストに通じるものがありますね、奇しくもマルボロ繋がり。
つくづくこの年のレースはバイクレースの中でも40年経っても語り継がれる
そんな2人に唯一迫れたのが片山さんなのは本当、もしNRの開発では無くて最初からNS開発ならNSRの開発も早くなってどう変わっていたか?
たらればはどんなに言っても仕方がないがキングも天才も本当に凄いシーズンだったなと…
ケニー師匠のライディングフォームは美しすぎる。鈴鹿8耐で目の当たりにしました。ブレーキング、加速。ミシュランがケニーにも供給していたら…。母国に敬意を払いダンロップを使用していたことも素晴らしいです。
私の愛車は、NSR
ヘルメットは、ロバーツ
この時代に生まれ2人のレースに魅了された私は、幸せです
動画ありがとうございました
私の愛車はRZV500
タカイのツナギで平仕様
ヘルメットは何故か赤ラインのワインガードナー😅
YAMAHAは始動性が悪いイメージありましたね。平選手も火が入らず事故の原因に。
当時は『なんでクラッチスタートにしないんだろう?』といつも不思議でした。
予選で頑張ってもあっと言う間にその苦労が水泡に帰す可能性がある押しがけには
安全性の面からも疑問でした。見栄えは良いかもしれないけど・・・。
しかしスペンサー、ロバーツと張り合ってた片山選手はやっぱり今更ながら凄い
と思ってしまいます。
スウェーデンGP、最終ラップのノーラカーブでフレディーは曲がれない勢いでインに入りケニーを追い出す格好で抜いて勝った。
当時も物議を醸したが、現在なら間違いなくペナルティー。
記憶が確かなら、ケニーのコメントが
「フレディー相手にわずかでもインを空けた自分のミスなんだ」と。
なんとカッコイイ男なんだろうと思った。
懐かしい
高校生だったな~
部屋にスペンサーがコーナー回ってるポスター張ってた
この時のローソンはまだ新人だったけど、この後から速く安定した走りで長い期間にわたり世界チャンピオンを続けることになるのです。
オラ、クリスチャンサロンが一番好き💦
このシーズンだけは忘れられない。キングは今もグランプリの歴史の中で輝きづ付けていると思う。
このウンチーニの事故映像、昔は「決定的瞬間」なるTV特番があってその常連だったな。
その後バイクに興味持つようになって、伝説の'83年だったこと、轢いたライダーがデビュー年のガードナーと知りビックリしたもんだ。
ガードナーはこの後ボロ泣きしながら「もうレースやめる」とまで言ってたらしいが、後にチャンピオン獲るんだから偉い人だよ。
これはホント
シナリオの在るよーな熱い展開だった
よく、この年のローソンが最終戦で2位に入っていればというけど、GPデビューの新人だった彼にそれは無茶な話だと思う。
YZRの始動性が良ければ、それだけでロバーツはチャンプになれた筈。
そうですね。本当にその通りだと思います。
ヤマハもホンダもレース1周目からラップチャートを始めとして、両者のタイム差まで計測したデータを持っていますが、それによると1周目終わりでスペンサーがロバーツに付けていた差(つまりスタートで付いた差)をフィニッシュ時点の両者の差から差し引くと全12戦中10対2でホンダとスペンサーの負けだったそうです。
ホンダのスペンサー担当エンジニアの金沢賢氏も認めている通り「あの年はYZRの始動性の悪さに助けられたようなもの。もしロバーツのYZRがもう少しスタートで速かったら間違いなくウチがやられていた年でしたね」と後年のインタビューで言っています。
始動性=結果的にヤマハの物言いが通って数年後にクラッチスタートに移行するきっかけになるんですよね。
後半アップロード待ってました!熱い熱いタイトル争いだったんだなあと改めて思います。
個人的ですが、マシンのフォルム、パワー、様々な要素が、一番バランス良かった時代でもあり、役者的にも揃ってた気がします。
プライド・ワンというドキュメンタリー映画を思い出した
DVDで出ないかな。。
当時は今のようにSNSがなくてバイク本でしかレースの情報は得られなかった。またレースのビデオは一部でしか入手できなかった。今はスマホで二人のバトルが見れてイイよねえ。
素晴らしい動画をいつもありがとうございます!勝負の世界に「タラレバ」は厳禁であり、結果がすべて。ケニーよりスペンサーが、YAMAHAより、HONDAが強かったということですね!ただ、ここまでドッグファイトを繰り広げたシーズンは、本当に伝説だと思います!
スタートだけ考えれば押し掛けスタートのあの頃はホンダが有利でした。現役当時街乗りバイクの様に簡単に始動できるRS125や250に対しTZ250は始動に神経質でした。始動性の悪さは後の YZR250や500もそうで、全日本では誰もいなくなったグリッドからワークス2台が最後尾から追い上げたり、WGPでは平選手が追突され、押し掛けスタート廃止になりました。
ケニーの赤のagv。カッコいい
そういえば、、、この年の最終戦イモラは一年間味方陣営の手薄な戦力に憤懣やる方なしなロバーツでしたが、チームオーナーのアゴスチーニとヤマハが3人目のライダーを指名して参戦させるというサプライズを用意していました。
その時、ヤマハが用意したライダーはすでに250㏄クラスでタイトルを決めていたカルロス・ラバードを連れてきたのですが、ケニーの希望としては平忠彦選手をと言っていたそうですが、その内示を受けた平選手は「光栄なご指名ですが、その期待に応えられる実力が今の私にはありません」と言って断っていたと聞いたことがあります。
確かに平選手は当時、全日本選手権のタイトルが狙える位置につけており(GP最終戦を終えたスペンサーが参戦してきた日本GPで木下選手の転倒と平選手の2位フィニッシュで平選手の初の全日本タイトル奪取が決定)まだタイトル経験もなかったので自分は実力不足だと思っていたのでしょう。
その後の3年連続日本タイトル獲得の平選手を知っている私たちの目で見れば「惜しいことをした・・・」と思っても内示を受けた時点での平選手からしてみれば「とてもお受けできないオファー」ということになるということかも知れません。
ウェインの事故、このアングルは久しぶりに見た…。当時、フロントとリヤを一緒に滑らせて走っていたのはフレディーだけ。シケインの立ち上がりで車体が前後並行に動いてCP を通過して驚いた。後年、哲也とロリスも同じ事有ったなぁ。
キング・ケニーとファースト・フレディですね。
ウンチーニとガードナーの事故は当時映画で初めて観てよく大事に至らなかったな〜と思いました。この年は実は片山選手が最終戦で転倒リタイアしてしまい年間ランキング3位を逃してしまったのも覚えています。この時の怪我は結構重症で次の年一年走れないほどの怪我でした。
そうですね。あの年のランキング3位はマモラでしたが、彼曰く「83年の本当のランキング3位はタカ(片山選手の名前がタカズミなので愛称がタカだった)だったね」
と語っています。確か片山さん自身もあの頃が一番乗れていたと言っていたような気がします。とにかく83年最終戦の事故が悔やまれてなりません。99年に岡田忠之選手がランキング2位になるまで塗り替えられることがなかった記録です。
特性の違う2台のマシン、NSとYZRはよく語られますが、、、
実はそれ以上に明暗を分けたのはタイヤメーカー、ミシュランとダンロップの性能差であり、この動画の最後のツーショット写真で、ロバーツがスペンサーのツナギのミシュランロゴを隠しているのはその口惜しさのあらわれなのです
と言う記事を見た記憶がありますw
本当にその通りですね。ローソンも後年のインタビュー記事で語っていましたが、あの年にミシュランが持ち込んだ前後16インチの世界初ラジアル構造タイヤはヤマハ勢が履いていたダンロップタイヤに比べて次のような性格を持っていたそうです。
1. 高いグリップ力が発揮できる温度帯に温まるまでの早さ
2. 耐摩耗性に優れていた
3. 深いリーンアングルでもジワジワ滑り始める限界領域での特性の良さ
この動画ではスペンサーがオランダ・アッセン以降フロントタイヤの摩耗に苦しめられていた・・・というようなことが説明されていましたが他のホンダ勢ライダーやチームHBスズキのマモラ、ウンチーニの両ライダーも含めて摩耗に関するトラブルは一件も起こっていません。スペンサーのフロントタイヤトラブルは、彼がコーナーの奥深くまでブレーキを薄く引きずる「トレールブレーキング」というコーナリング速度を高めるための特殊なテクニックを使っていたからです。
また、もうひとつスペンサー信者の主張としてあるのが3気筒NSに比べて4気筒YZRはパワフルだったという旨の話。
これはホッケンハイムやシルバーストンのような平均速度が高くロングストレートがあって最高速の高さが求められるサーキットならばストレート後半でYZRの方がNSよりも有利ということは事実でしょうが、83年当時は安全性の観点からシケイン増設のような考え方はされていなかったとはいえ、それでもアンダーストープのバックストレートのようなごく一部例外を加えても「最高速が有利に働くのはコース全体で5%にも満たない」上に加えて「この年のYZRはロータリーディスクバルブで高回転時の吸気タイミングの正確さだけが取り柄で低速トルクはスカスカ」という有り様で「中・低速コーナー出口で大切な加速に使うトルク特性ではNSの方が圧倒的に有利」というのが実情で、現に最高速の強みが生かせるホッケンハイムとシルバーストンではロバーツがスペンサーに大差をつけるレース内容になっています。
つまり、この年の二人の対決を総括すると・・・
トルク特性やタイヤなど不利な部分も多いYZRを経験値やテクニックで圧倒的に勝るロバーツが補い
NS投入2年目で本気で勝ちに来てるホンダ・ミシュランコンビに助けられたスペンサーはそれを生かし
そのうえで初めて互角の勝負になったシーズンだった。というべきでしょうね。
当時、スペンサーのレプリカヘルメットいっぱい見たなぁ~👹👹
ケニーかフレディか?、この年のWGPは凄かった。それに2人に割って入ってくる赤に金のストライプのヘルメット、NO.8片山敬済も凄かった。しかしサンマリノ予選での転倒は残念無念でした。
凄い年だったよな
ルッキーも片山もNRなんか乗ってなきゃ…とも思う
ルッキネリはスズキからディフェンディングチャンピオン移籍なので公式にはNRに乗ってませんね、テストではあったかも?
ローソンは正しい👍
スペンサーはYZRの始動性の悪さに助けられチャンピオンになれた
まるでバリバリ伝説世界GP編の郡とアンダーソンだね😃✌️
ヒデヨシの霊まで「ガンボーイ」言ってたのは草
この頃スペンサーのフロントタイヤ16インチじゃなかった?
唯一、二人に割って入れた「プリンス片山」。
敢えて割って入らなかったC・サロン。
そして、追いつけなかったエディ。
ドラマチックなシーズンだったなぁ。
83年、もし王様ケニーがHONDAに乗っていたら、
フレディは年間チャンプにはなれなかっただろうな。
この時代の2stGPは面白かった!
今のバイクの方がパワーもスキルも上で、タイムも当時より短縮されてるけど、何か当時のレースの方が良かった。
後、キングはレーススタイルを一変させたライダーで、二輪レース界のレジェンドですね。
アッセンのウンチーニの事故、翌朝のNHKニュースで流れてびっくりした。
その時の新人がまさか数年後にチャンピオンとは。
ロバーツが引退して2年後だったかな?にフレディの走りについて「彼はいつも(1速ずつではなく)まとめてシフトダウンしてエンジンブレーキを使っていない。」と言ってました。ニュアンス的には乗り方に無駄があるという感じだったので、
コーナリングだけでなくブレーキングでもフロント偏重のライディングだったのかもしれません。
ケニー、フレディのフォームの美しさといったら・・・
今の足を出すスタイルは嫌いだ。
あれだけ極端なフロント乗りしてたらヤマハ機は相性悪いよなぁ
当時、YAMAHAのバイクより、HONDAの方が始動性良かった。
今となっては、アッセンで片山さんが勝ってしまわなくて本当によかった、と、心から思うよ。
う~ん確かに・・笑
What!??!