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これを無料で視聴していいとかありがたすぎる。今ネットで拾える尼子氏の考察で圧倒的1番の情報源。
尼子滅亡の理由の中に新宮党粛清も入ってるのかも知れないけど、晴久の死が一番の理由だと思う。
難しいですね新宮党を粛清しなければ自分が殺されて当主をすげ替えられるかもしれず、かといって切り捨てた結果の戦力低下。立て直しの最中に晴久が急死したのも痛かったと思います。
私は、戦力低下だとは思ってないなあ。新宮党の粛清後に登用された本城常光は、一度、毛利元就に勝利したので。
出雲西部の独立色が強くて、塩谷興久の反乱と根っこが同じ問題があったのかな。地形的にも平野部が宍道湖で西と東に別れている感のあるところだしね。
出雲国の地形を改めてみると、元々東部の中海エリア勢力と宍道湖西勢力の二つが並立する地理的条件があることに、このコメで気付いた。西には古代から続く出雲大社・日御崎神社・鰐淵寺、近江源氏の末裔である出雲源氏の嫡流である塩治氏…(尼子経久PT2動画を復習)。そのプライドの高そうな地域を、室町時代に京極家の分家である東の尼子家が直接支配するのは、難しかったのだろう。結果として、新宮党経由の間接支配につながったのかもしれない…と色々妄想してます。
初見です!!動画面白かったです!!新宮党事件は前々から詳しい内容や最近の研究がどうなっているのか気になっていたのでとても参考になりました!!あと、私事ですが参考文献に私の学校の歴史教諭の著書があって驚きました笑笑東方も歴史も好きなので、最高の動画でした!!チャンネル登録もしました!!これからも動画投稿頑張って下さい!!
ナンバー2を潰して戦力減の尼子、権力集中に成功した毛利、逆に潰された大内と、主君と最大派閥との関係性は難しいね
新生では晴久の焦りから粛清した流れとなってましたが、ここまで複雑な事情だったとは思いませんでした。
今さらですが、こちらのチャンネルのキャラクターが好き。東方プロジェクトについてはよく分かりませんがかわいいですね😊
晴久にとっての国久が、輝元にとっての元春、隆景になれなかったのが悔やまれますね…。しかし、尼子氏の出雲(特に西部)支配の経緯、さらに父政久の早死によって生じた、忠実に支えてくれたかもしれない弟や義弟の不在を考えれば、そもそも無理ゲー感はありますよね。あと、おそらく粛清の決行にはその前にあった?防芸引分や大内氏との同盟or和睦も関係すると思うのですが、そこはどうなんでしょうか?
この直前に毛利家の大内家離反と(恐らく)尼子家と大内家の和睦があったため、尼子家としてはこの時が(粛正するなら)絶好の機会であったと考えられます。そのため、新宮党粛正にそれらの影響があった可能性は非常に高いと思います。
@@SquareDeerHorn ご返信いただきありがとうございます!本編でも多少なり語られると思うので、楽しみに待ってます!
ただ、その吉川、小早川も豊臣氏や徳川家の調略で毛利の足かせになる存在になったのも事実かと関ケ原の戦いなんてこの両家が裏切らなければ西軍の勝利で毛利が天下を取れる可能性だって有ったのにね。
@@nekosakura393939ないない。輝元が両川を御す器が無かったからああなったんだし、家康とは格が違うよ
そういえば、近年の研究で織田信長の側室の中に明智光秀(の妻:ひろ子)の妹とされる「つまき殿」の死で二人の関係が悪化し”本能寺の変”が起きたとされていますね。戦国時代の女性は他国とをつなぐ道具であり人質である点がよく注目されてしまいますが、今回の件も含め意外と重要性の強いものだったのかもしれませんね。
西国で血生臭い事件が頻発していたのが遠因だったというのは納得しかない晴久が早くに没してしまって大名尼子氏も滅亡してしまったのが痛そう
元就が実力者井上一派を粛清した件も多分に影響を受けているのではないかと大内や大友のようになるか毛利のようになるか
晴久「なんか毛利が井上粛清してうまくいったみたいだしうちもやってみるか」
元就「謀足りて無くない?」
尼子家内で力を持ち過ぎていたからっていう点では、毛利家の井上一族と同じですね。国久さんとしては尼子家の為に関係を広げて毛利家や陶および大内との決戦そして上洛への準備のつもりだったのかもしれませんが、先代:経久の時から色々と功績を残し過ぎたのが年下の当主である晴久さんにはプレッシャーだったのでしょうね。・国久さんとしては晴久さんが直系とはいえ「叔父である自分を差し置いて、、、」と多少は不満があったかもですが。大河ドラマでは国久の娘は事件後も生きている設定になっており、極度のファザコンだったから晴久を石見の銀毒で殺害していましたね。最近の研究では晴久の死因は脳溢血となっていますが(宇喜多直家は大腸か直腸のガンだったとか)、、。・晴久さんの死は国久さんの七年後、この研究が正しいとすると既に晴久さんは何かしらの不調を実感していたのかも?敵国を滅ぼせる力は戦いが続いている時は頼りになるが、一度平和になると「自国を脅かしていた存在を滅した力 = 自国も滅ぼせる力」となり権力者にとって脅威になりますからね。・漢の健国の功労者である韓信が残したとされる『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵められ、敵国破れて謀臣滅ぶ』の実例と言えますね。
塩冶の乱で塩冶に周辺の国人や杵築大社、鰐淵寺も加勢して、鎮圧後に新宮党だけではなく西出雲の寺社や在地の利害関係や既得権益に相当気を使ってて統治機構の構造的問題というのが本質だと思う
この情報量にいつもワクワクします😂個人的に、土佐一条家の成り行きが気になっています。
ほぼほぼ地元民ですが新宮党が滅亡ということもなく、現代まで「新宮」を名乗る姓もあり、商店もあります。子供のころ近隣に「新宮生花店」とかもありましたね。玉造のはずれに(ほかにもありそう)新宮神社があり、年に数回一族が集まるのだそうです。尼子にしても滅亡などなく、関東の歴史好き知人が、宅配の人の名札に「尼子」と書いてあったので、「あの尼子なんですか?」と聞いたら「そうなんです^^」と応えたと聞きおよんでございますでござるにて候にてそうろう。
山中鹿介が担いだ尼子再興の神輿が、このときの新宮党の生き残りだし、単に生きて子孫を残しているってことなら、いくらでもいるかも知れませんね。ただ、庶民として生き残ってもこの時代の価値観では滅亡と言ってもいいでしょう。
余談部分の「粛清後の影響」部分ですが、中央政府があって法治が行き届いている我々現代人は戦国時代の中央集権化の難しさを理解していない部分が多いかなと思いました。自助というか独立独歩というか、領国と自分の立場を確固としたものにしたい一方で、それを誰かの下につくことで保証してもらうか自身が最高権力者になるか(なれるか?)、戦国大名や国衆の「自己矛盾と葛藤」みたいな立場はなってみないと分からない。粛清したら残りのみんなで即結束とか、その辺を現代人は単純化して捉えがちですね。
最後のあたりの新宮党排除で権力基盤が強化されたの件は武田勝頼の長篠敗戦後の流れと似てますね高遠から連れてきた側近中心の政治ができるようになったものの代替わりから続く転戦連戦で国内疲弊、領民は重税に苦しみ家臣や国人衆は度重なる従軍要請に不満蓄積
かわいい。あごの「ぷにっぷに」がツボですね。絵師さんは偉大だなあ~(<= 一つもしかかくさんを褒めていないw)
動画投稿お疲れ様です尼子氏は杵築大社の永正度遷宮を武家として推進しましたが、現在の出雲大社の雰囲気とは異なり、尼子氏の元では杵築大社も三重塔・輪蔵・大日堂の仏教施設や朱塗りの社殿であったようです
ありがとうございます。尼子氏は経久の代から出雲大社で大規模な法華経仏事を執り行なったり、仏閣群が造営されたりと、当時の出雲大社は仏教色が強かったようですね。
@@SquareDeerHorn 此方こそ、いつもありがとうございます寛文度遷宮(将軍・家綱&松江藩主の松平直政)では尼子氏の影響を払拭するように鍔淵寺衆徒の出仕拒否や白木の大社造りに変更され神仏分離が図られたようです
元就が晴久と同じ年齢で亡くなっていたら元就も無能って言われていたのかな…大寧寺も控えており、両川を送り出す直前でもあるし。
投稿お疲れ様です。いわゆる俗説の「全部毛利元就がすごかったんです!」という話はもちろん疑わしいですがそもそも「元就自身が出雲全体に調略を仕掛ける意思があったのか?」というのも疑わしいですよね。もちろん情報収集ぐらいはするでしょうが、調略をしていれば尼子側にも大内家内にもそれに触れた資料がるでしょうし…となると、尼子晴久が戦国大名として当主への権力集中を意図して、部分的には成功したものの結果的に家が残らなったので「新宮党事件」だけが尼子の没落の原因として記憶されたのかな?と思います。
出雲って基盤が最初から脆弱だったから経久が半分を一門に任せたら勢力強くなりすぎちゃいましたっていう感じが強い。興久にしても国久にしても西出雲衆に取り込まれた結果西出雲への求心力が高まっていったという皮肉
経久の時代には都合がよかったが、孫晴久の代になると、晴久側近が邦久を煙たがるのは無理はない。でも、国久よりも晴久の方が若いし、後継者たる義久がいて、国久が祖父に当たるのだから、それ程問題になる事ではない。むしろ、こんな西出雲なんて近い所に置いておくことの方が危険だ。もっと遠国に置くことが大切ですね。
@@伊藤宏憲-f6t 塩冶興久の乱は経久の代では。経久の時代から西出雲に関しては全然うまくいってはなかったように思いますね。
奥さん良くも悪くも外交官を兼ねているというのはよく言われるいる事ですね奥さんの死によって奥さんの実家との関係が悪くなるのは当たり前と言えば当たり前だし
晴久としても情勢をよく観察して決行したんでしょうが陶大内が想像以上に不甲斐ないのが不運だったか、と晴賢が厳島生き延びて史実より1、2年でも長く粘ってくれてれば漁夫の利狙えたかもですが
個人的には中央集権体制の作っている最中に晴久が亡くなったのが最大の誤算だと思いますね。元就より長生きしていれば尼子の未来は間違いなく変わっていたでしょうから
お疲れ様です。歴史読本だったか忘れましたが、尼子の新宮党武田の赤備え雜賀の鉄砲衆が、3大最強部隊と紹介されていたのを覚えています。新宮党カッコいい。
文書中の「紀州様」の呼称については、直接に晴久と揉めていたのが、国久ではなく誠久だったからではないかと想像しています。まあ、何の確証もありませんが。
戦国ソシャゲゲームやってるからとりあえず見てみようと思った。途中からBGMが変わるが東方曲なのかな?聞いたことはある曲だけど、この場面で使うのはなかなかのチョイスそう。やべえ情報量わかんねえ。音楽のことしかコメントできねえ……。許して。
(追記) まさか動画の最後にBGM情報載せてるとは……サンクスそれが当たり前の世の中になればいいのにね。
8:50 ここ見るだけでも血の繋がってる相手を晴久が疑ってしまうのはしょうがない、大友家のこともあるしまず尼子家やし...
投稿お疲れ様です!新宮党事件ということで、『出雲尼子一族』以降の研究でどうなっているのだろうと思っていましたが、まず氏久が孫四郎を名乗っていたことには初耳でした。勝久が名乗っていたのは知っていましたが、やはり氏久も名乗っていたのだなと分かりました。新宮党事件の長編解説はいつか観たいです。また世に言う降露坂でも、結局は長い戦い続きで疲弊していた毛利軍を倒しただけであって、年表でも紹介されていらっしゃる通り、すぐに石見は制圧されているため、ここでも事件の影響が一切無かったといえないのではと思いました。最後に、次回の隠岐編は隠岐氏だけではなく隠岐海賊村上氏も出てくるのでしょうか?楽しみです!(しかかくさんへ:Googleフォームで質問いたしました、そして緊急で伝えなければならないことがありますので、それもGoogleフォームに書いてありますのでご一読いただきますようよろしくお願いします)
晴久と妻はいとこ婚だから現代日本でも認められててセーフ戦国時代だと長宗我部盛親とか伊達実元など叔父と姪の婚姻あるからね
でもこの新宮党の残り、幼少の子供が生き残ってくれてたお陰で、山中鹿之助から担がれて、再興の旗印にされ僅かでも尼子家復興されたという皮肉。
なお本家の立花は…
大内家では陶晴賢が主君:大内義隆と血縁者を/毛利家では毛利元就が井上衆を、と三大勢力が何かしらの粛清劇を行っていますね。
尼子氏は経久の嫡男であった尼子政久が若くして戦死したのが痛かったな。政久が生きていれば塩冶の乱も起きなかった可能性は高いし、新宮党を粛清も無かったのかもしれない。
井上元兼誅殺した元就が褒められて国久誅殺した晴久が無能って言われるのも理不尽ですね晴久が元就と同じくらいまで生きてたら尼子家が生き残れてたのかはかなり気になる。
これに関してはよく比較されるのですが、元就は10年以上前から計画・根回ししていた点と、井上一党はあくまで家臣で一門親類ではない点には注意が必要と思われます。ただ、仰る通り新宮党粛正を以て晴久を無能だったとは決して断じれない(実際には好転する可能性もあった)のは確かだと思います。個人的には防長経略で大内家滅亡まで行ってしまうと、元就は尼子絶対○すマンなので例え晴久が存命でも存続は難しかったと思います。尼子家四方に敵を作りすぎなんですよね・・・唯一の勝ち筋は山名との早期関係解消と大友との密な連携ですが・・・
戦国大名の世代交代では、しばしば血で血を洗う惨劇が起こっているから、この事件も特に珍しいものではないから。むしろ毛利家の世代交代が、特に何事もなく進んだことの方が、奇跡のようなものですよ。三本の矢の逸話は、その奇跡を語っているわけで。
隆元も輝元も器量では元就に全く及ばなかったのに、親族が支え続けたのは元就自身の家族愛が根底にありそうですね
とは言っても備中備後を尼子が失陥した時は新宮党がまだいた時だからな。
大内と毛利が対立してる間に自身の権力強化を図ろうと考えたけどまさかここまであっさり大内が滅ぶとは考えてなかったろうな
令和の時代になっても、まだ軍記物を信じてました。
尼子勝久は、家臣山中鹿之助と共に織田軍の羽柴秀吉の陣にたどり着いて「上月城」を受領したが、信長に「上月城を捨てよ❗」と秀吉に打診し、援軍は送れず、山中鹿之助以外の家臣団は、尼子勝久と共に自害し果て滅亡しました。悲しい事かな。
経久期の婚姻政策の破綻と尼子氏の勃興理由の特異さが全ての元凶、と思っているが、果たしてしかかくさんの考察は如何に。
動画アップロード乙でした。結局晴久としても粛清せざる得ない理由って、経久期の婚姻政策の破綻がキーポイントというか、塩冶興久が乱を起こした事が全ての始まりだったと言うことなんだな、と思いました。むしろ、そうした中で上手く立ち回った方なんじゃないかと思います。
3:40 4:07 7:59 8:41 11:03
晴久近臣層と新宮党の派閥争い
力持ち過ぎて本家と割れた
もし新宮党が粛清されずに残っていたら毛利元就が大内を討伐に影響を及ぼすし尼子も毛利との戦いを有利に進めることができたし尼子家が江戸時代に大名として歴史に名前が残っていた可能性もあるのではないかと
国久の肖像画はないの?
少なくとも私の管見の限りでは無いようです
晴久と国久娘はいとこ(4親等)なので現代の民法でも問題ないですし、割と普通です
西洋だと割と見かける近親婚ですが、日本だとこの尼子氏以外にあったっけ?
晴久と国久娘はいとこなので、そこまで親近婚というわけでも…戦国時代の有名ないとこ婚だと、前田利家・まつ、真田信之・清音院(真田信綱娘)、武田義信・嶺松院(嶺松院殿の母定恵院は武田信玄の姉)、織田信清・犬山殿(織田信長の従兄弟と姉)、足利義輝・大陽院(義輝の母慶寿院は大陽院の父近衛植家の妹)を始めとして、割と多いですね
長宗我部盛親の正室は長宗我部信親の娘、つまり姪。元親が信親の血脈を繋げたいからの方針だったらしい。
@@ぼぬーる-g5v ありがとうございます。顎が伸びる心配はしなくていいんだw
@@ちっちゃいちゃん-g6s いとこ婚より血の濃い姪婚、結構ある。伊達成実も姪婚で生まれた男(なので当主・輝宗からすると甥っ子なのにいとこ)
島津義久が叔母、甥で結婚しててがっつり3親等に収まっていたような
尼子氏滅亡ルート😢
軍記物は論外としても、やはり証拠となる1次資料が少ないので、新宮党事件はよくわかりませんね。晴久妻の死が契機となったのは間違いないのでしょうが…。
要するに毛利家に対する井上党と同様の理由で新宮党が滅ぼされたと考えれば良いだろう。特に国久というより誠久の評判が悪かったのは事実のようで、国久の娘を正室にもらっていた晴久が、その正室を無くしたのが決定打になったのであろう。だがこれが戦力の低下につながり、晴久が急死したのがトドメとなったのです。
大河だと奥様は長生きだけど史実では早死にだったってこと?
神魂神社の史料に「同(天文22年)霜月に御丸御上さま御産めされそうろう時、御たかい(他界)にて候」とあり、この時亡くなったことが明らかとなっております。
そうなんですね。ありがとうございます。
へえー。昭和のおっさん的には、元就の謀略というのが定説だが、あれは否定されてるのね。
元就も各方面に色々調略はしてるだろうけど、大々的にセルフ精鋭壊滅は規模デカすぎて驚いたかもw
井上党を粛正した毛利家と、新宮党を粛正した尼子家、結果が大きく違うのは何故だろう。
元就と晴久の寿命
これもっと根深い問題です。元々出雲は鎌倉から頼朝重臣佐々木系からくる吉田氏と、その別系の塩谷氏が収めていましたが、京極-尼子は後付けで南北朝以降に入ってきた流れがあり、京極から実験を奪った親戚の尼子も、もともと土着してる吉田と塩谷を懐柔しないと生きていけなかった。経久の次男国久は吉田の養子。三男は塩谷の養子。三男がやらかしてそれも継承した国久は、言うなれば土着2勢力の主になっており、こうなるともはや国久と晴久の対立は、鎌倉吉田vs室町京極といってもいい。もともとが吉田塩谷に仕えていた層と京極に仕えていた層に分かれている国衆的にはそういう目で見られていたところが多分にあったと推察できる。
謀略は眉唾として、これ以降の晴久が別に弱体化していると思えない。とはいえ守護家として日が浅い尼子氏が、一門を削るのはリスキーだとも思いますどんな見解なのか楽しみですー
いや完全な弱体化結果的に尼子家没落の原因になってる
新宮党が討たれたことでどれだけ毛利との戦局が変わったかは分かりませんが、最終的には毛利の利益に働いたと考えるならば、やはり何か元就の謀が働いていたのではないかとどうしても考えてしまいます。元就は後世の人に謀神と呼ばれたり、隆元への手紙で「謀多きは勝ち、少なきは負け」と書いたりするあたり、謀略を巡らせて戦乱の世を生き抜いたのだろうなと思うのと同時に、具体的にその謀略の中身がなにをやったかよく分かっていないところが本当に凄いなと思います。
あれ?晴久妻って大河ドラマでは死んでなく、その後晴久を殺してるんで、あれは創作だったんですね。
恐らくですが、そもそもあの頃はまだ晴久妻の死が判る神魂神社の史料が知られていなかったのではないかと思います。論文として紹介されたのも大河ドラマの三年後ですし。そのため、創作としてあのようになったのは割と納得がいきます。
@@SquareDeerHorn 詳しい解説ありがとうございます。やはり20年以上たつと、資料のおかげで分かった事があるんですね。勉強になります。
TH-cam に大河ドラマ「毛利元就」の新宮島事件および晴久さんの死亡シーンの動画がアップされてました。・なんか ネット記事で「NHK の 去年 の 最終収支が 何十年かぶりに赤字だった」と言っていますが、『毛利元就 』 を例えに 出すと、 主翼じゃない敵方の尼子 家 の キャストが、初代:経久/緒形拳さん 2代目:晴久/高嶋(兄)政宏さん 3代目:義久/中村獅童さんだったわけだからね。「葵 徳川三代」の津川さんと西田さんもですが、今の基準で見ると どう見ても豪華な組み合わせが 当時としては当たり前だったんだから 、そりゃ誰も見なくなるわけだよ
ハイドリヒの策略でスターリンが大量の粛清があったから僅かに関わっている可能性はあると思う
ワロタ。
父方の祖父母も母方の祖父母もいとこ同士なのですが…(困惑)
何でもかんでも元就の「計画通り😏」、な訳はないにしても、尼子家家中の争いから生じた粛清劇で結果尼子家弱体化の(決定打とまでは言えなくとも)大きな要因、という大まかな点は通説とそれほどずれはない、ということでしょうか…
大河ドラマ毛利元就では晴久の奥さんずっと生きていた記憶が(元就の謀略だから生かしておいてもOKということか岩崎ひろみがすぐ退場だとつまらないし)
恐らくですが、そもそもあの頃はまだ晴久妻の死が判る神魂神社の史料が知られていなかったのではないかと思います。論文として紹介されたのもつい最近のことですので、創作としてあのようになったのは割と納得がいきますね。
元就が優れてる謀略家ってのをわかっていながら尼子国久を信用しなかったのは晴久の最大のミスと言えるここが尼子没落のキーポイント
これがイマイチ良くわからない。わざわざ自ら戦力減らすとか
元就も当時最大派閥かつ最大戦力の井上衆誅殺して戦力ダウン自体は発生してるけど多分計画性とかタイミングとかが違う結果になったんやないかなぁ
自分に従わない反旗 謀反の疑いある人間毛利元就が井上一族粛清(一部は免除)と同じ構図だと思います
身内に力をつけられると身内に立場を追われる。かと言って血縁のない家臣ばかりだと裏切りも簡単にされる。例えば中国の魏は2代目の時に弟たちを遠ざけたことにより司馬氏に帝位を追われた。次の晋の時代には身内ばかりを厚遇したばかりに身内の後継争いで外憂の侵入を許して滅亡した。バランスが難しいのよ。
一族内の主権確立を優先しないと自分がやられる。また、直属国衆にも新宮党へのやっかみや不満が溜まり、不安定な政権になる。時勢を見て配下に組み込まれている国衆を短期間で強固に統治するのは困難なので、急成長した版図の大きさなんてアテにならない。拡大戦略で褒美を与え続けて強固にしていく過程だから、脆さを孕んでいる。毛利に余力がない時期を見て、統制強化に動いたと見れば無くはない。後の毛利にしても本願寺が降伏すると、対織田家では消極的になるしか無かった。兵の集まりも悪いし、戦意も低いから時間を浪費しますます求心力が低下する。織田政権を秀吉が継いでくれて毛利は助かった。まともに攻められたら国衆の離反が止まらなかったでしょう。今でも役所なら法律の縛りや任命権で上意下達でやれるけど、政党は県連本部を思い通りに支配できずに逆らったりされる。江戸時代に飼い慣らされた主従関係とは違うと知りながら、どこか思考が引っ張られがち。歴史好きが、中世と近世の違いを軽視しがちなのも問題なのかな。
元就の調略を見ていくとあまり表に出ない背中を押すタイプの調略が多いことがわかる。今回の件ももともと晴久と国久の間に火種があることを利用してると感じる。書状を使ったあからさまなものではかえって怪しい、元就は忍者を多用して噂を流布する調略を仕掛けていたのではないかと。つまり理由の1/3程度で自然で目立たない。 厳島の時の江良も同じではないとか。 子供の時に苦労してるだけに人の心理を読むことは天才的だった気がする。
元就の謀略を 全部否定していくと元就は宝くじに何度も当たるぐらい運のいい人間だったということになると思うよ。
そもそも実際の謀略は分かりやすく表に出るものではないだろうし、元就だけではないけど当時の資料や近い年代の資料には何の記述もないのにかなり後世の軍記物で初めて語られたエピソードなんか否定されて当然というかむしろ、それが正しいという根拠を先に出してくれって感じやけどな。
元就が如何に中国地方の覇者となったかについては本編で詳しく解説しているため、そちらをご覧ください。本編でも別に謀略は否定していませんが、逸話として知られている「元就の謀略」は明らかに陰徳太平記や吉田物語といった軍記物が作られた時に形成されたものであり、その殆どは創作と考えられます。一方で、実際の元就は武略をかなり重視しており、調略についてはかなり巧みなのですが、創作とは異なりかなり分かりづらいため、逸話のような「わかりやすい謀略」になったのだと思われます。有名な厳島の戦いを例に挙げると、「桂元澄に偽装投降させた」といった謀略っぽいことはしておらず、順当に調略と武略で大内水軍をかなり寝返らせていたことが勝利に繋がっています。
本編見て思ったのは、領内に国久誠久への悪評はあったみたいだし、全くやってない訳ではないんじゃないかなぁ。ただ、諸葛孔明的な「今です!」みたいに読み切ってピンポイントで謀略を行うんじゃなく、恒常的に諜報を入れてたのでは。元就の思い通りみたいなのは嘘くさいけど、何らかの影響を与えたってのはありそうただし証拠がないと、有ったとは言えないけど
00:25 危険な配合です。やめておきましょう。
個人的には毛利家の井上一派と同じ立ち位置で力を持ち過ぎたのを危惧したからかな?って思ってるけどね。
武闘派の新宮党を晴久が誅殺したってあれか?通説ではこれを画策したのは元就だって話だが、実はそうじゃなかったって話か?
これを無料で視聴していいとかありがたすぎる。今ネットで拾える尼子氏の考察で圧倒的1番の情報源。
尼子滅亡の理由の中に新宮党粛清も入ってるのかも知れないけど、晴久の死が一番の理由だと思う。
難しいですね新宮党を粛清しなければ自分が殺されて当主をすげ替えられるかもしれず、かといって切り捨てた結果の戦力低下。
立て直しの最中に晴久が急死したのも痛かったと思います。
私は、戦力低下だとは思ってないなあ。新宮党の粛清後に登用された本城常光は、一度、毛利元就に勝利したので。
出雲西部の独立色が強くて、塩谷興久の反乱と根っこが同じ問題があったのかな。
地形的にも平野部が宍道湖で西と東に別れている感のあるところだしね。
出雲国の地形を改めてみると、元々東部の中海エリア勢力と宍道湖西勢力の二つが並立する地理的条件があることに、このコメで気付いた。
西には古代から続く出雲大社・日御崎神社・鰐淵寺、近江源氏の末裔である出雲源氏の嫡流である塩治氏…(尼子経久PT2動画を復習)。そのプライドの高そうな地域を、室町時代に京極家の分家である東の尼子家が直接支配するのは、難しかったのだろう。
結果として、新宮党経由の間接支配につながったのかもしれない…と色々妄想してます。
初見です!!動画面白かったです!!
新宮党事件は前々から詳しい内容や最近の研究がどうなっているのか気になっていたのでとても参考になりました!!
あと、私事ですが参考文献に私の学校の歴史教諭の著書があって驚きました笑笑
東方も歴史も好きなので、最高の動画でした!!
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これからも動画投稿頑張って下さい!!
ナンバー2を潰して戦力減の尼子、権力集中に成功した毛利、逆に潰された大内と、主君と最大派閥との関係性は難しいね
新生では晴久の焦りから粛清した流れとなってましたが、ここまで複雑な事情だったとは思いませんでした。
今さらですが、こちらのチャンネルのキャラクターが好き。東方プロジェクトについてはよく分かりませんがかわいいですね😊
晴久にとっての国久が、輝元にとっての元春、隆景になれなかったのが悔やまれますね…。
しかし、尼子氏の出雲(特に西部)支配の経緯、さらに父政久の早死によって生じた、忠実に支えてくれたかもしれない弟や義弟の不在を考えれば、そもそも無理ゲー感はありますよね。
あと、おそらく粛清の決行にはその前にあった?防芸引分や大内氏との同盟or和睦も関係すると思うのですが、そこはどうなんでしょうか?
この直前に毛利家の大内家離反と(恐らく)尼子家と大内家の和睦があったため、尼子家としてはこの時が(粛正するなら)絶好の機会であったと考えられます。そのため、新宮党粛正にそれらの影響があった可能性は非常に高いと思います。
@@SquareDeerHorn
ご返信いただきありがとうございます!
本編でも多少なり語られると思うので、楽しみに待ってます!
ただ、その吉川、小早川も豊臣氏や徳川家の調略で毛利の足かせになる存在になったのも事実かと
関ケ原の戦いなんてこの両家が裏切らなければ西軍の勝利で毛利が天下を取れる可能性だって有ったのにね。
@@nekosakura393939
ないない。輝元が両川を御す器が無かったからああなったんだし、家康とは格が違うよ
そういえば、近年の研究で織田信長の側室の中に明智光秀(の妻:ひろ子)の妹とされる「つまき殿」の死で二人の関係が悪化し”本能寺の変”が起きたとされていますね。
戦国時代の女性は他国とをつなぐ道具であり人質である点がよく注目されてしまいますが、今回の件も含め意外と重要性の強いものだったのかもしれませんね。
西国で血生臭い事件が頻発していたのが遠因だったというのは納得しかない
晴久が早くに没してしまって大名尼子氏も滅亡してしまったのが痛そう
元就が実力者井上一派を粛清した件も多分に影響を受けているのではないかと
大内や大友のようになるか毛利のようになるか
晴久「なんか毛利が井上粛清してうまくいったみたいだしうちもやってみるか」
元就「謀足りて無くない?」
尼子家内で力を持ち過ぎていたからっていう点では、毛利家の井上一族と同じですね。
国久さんとしては尼子家の為に関係を広げて毛利家や陶および大内との決戦そして上洛への準備のつもりだったのかもしれませんが、先代:経久の時から色々と功績を残し過ぎたのが年下の当主である晴久さんにはプレッシャーだったのでしょうね。
・国久さんとしては晴久さんが直系とはいえ「叔父である自分を差し置いて、、、」と多少は不満があったかもですが。
大河ドラマでは国久の娘は事件後も生きている設定になっており、極度のファザコンだったから晴久を石見の銀毒で殺害していましたね。
最近の研究では晴久の死因は脳溢血となっていますが(宇喜多直家は大腸か直腸のガンだったとか)、、。
・晴久さんの死は国久さんの七年後、この研究が正しいとすると既に晴久さんは何かしらの不調を実感していたのかも?
敵国を滅ぼせる力は戦いが続いている時は頼りになるが、一度平和になると「自国を脅かしていた存在を滅した力 = 自国も滅ぼせる力」となり権力者にとって脅威になりますからね。
・漢の健国の功労者である韓信が残したとされる『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵められ、敵国破れて謀臣滅ぶ』の実例と言えますね。
塩冶の乱で塩冶に周辺の国人や杵築大社、鰐淵寺も加勢して、鎮圧後に新宮党だけではなく西出雲の寺社や在地の利害関係や既得権益に相当気を使ってて統治機構の構造的問題というのが本質だと思う
この情報量にいつもワクワクします😂
個人的に、土佐一条家の成り行きが気になっています。
ほぼほぼ地元民ですが新宮党が滅亡ということもなく、現代まで「新宮」を名乗る姓もあり、商店もあります。子供のころ近隣に「新宮生花店」とかもありましたね。玉造のはずれに(ほかにもありそう)新宮神社があり、年に数回一族が集まるのだそうです。
尼子にしても滅亡などなく、関東の歴史好き知人が、宅配の人の名札に「尼子」と書いてあったので、「あの尼子なんですか?」と聞いたら「そうなんです^^」と応えたと聞きおよんでございますでござるにて候にてそうろう。
山中鹿介が担いだ尼子再興の神輿が、このときの新宮党の生き残りだし、単に生きて子孫を残しているってことなら、いくらでもいるかも知れませんね。ただ、庶民として生き残ってもこの時代の価値観では滅亡と言ってもいいでしょう。
余談部分の「粛清後の影響」部分ですが、中央政府があって法治が行き届いている我々現代人は戦国時代の中央集権化の難しさを理解していない部分が多いかなと思いました。自助というか独立独歩というか、領国と自分の立場を確固としたものにしたい一方で、それを誰かの下につくことで保証してもらうか自身が最高権力者になるか(なれるか?)、戦国大名や国衆の「自己矛盾と葛藤」みたいな立場はなってみないと分からない。粛清したら残りのみんなで即結束とか、その辺を現代人は単純化して捉えがちですね。
最後のあたりの新宮党排除で権力基盤が強化されたの件は
武田勝頼の長篠敗戦後の流れと似てますね
高遠から連れてきた側近中心の政治ができるようになったものの
代替わりから続く転戦連戦で国内疲弊、領民は重税に苦しみ
家臣や国人衆は度重なる従軍要請に不満蓄積
かわいい。あごの「ぷにっぷに」がツボですね。絵師さんは偉大だなあ~(<= 一つもしかかくさんを褒めていないw)
動画投稿お疲れ様です
尼子氏は杵築大社の永正度遷宮を武家として推進しましたが、現在の出雲大社の雰囲気とは異なり、尼子氏の元では杵築大社も三重塔・輪蔵・大日堂の仏教施設や朱塗りの社殿であったようです
ありがとうございます。
尼子氏は経久の代から出雲大社で大規模な法華経仏事を執り行なったり、仏閣群が造営されたりと、当時の出雲大社は仏教色が強かったようですね。
@@SquareDeerHorn 此方こそ、いつもありがとうございます
寛文度遷宮(将軍・家綱&松江藩主の松平直政)では尼子氏の影響を払拭するように鍔淵寺衆徒の出仕拒否や白木の大社造りに変更され神仏分離が図られたようです
元就が晴久と同じ年齢で亡くなっていたら元就も無能って言われていたのかな…
大寧寺も控えており、両川を送り出す直前でもあるし。
投稿お疲れ様です。
いわゆる俗説の「全部毛利元就がすごかったんです!」という話はもちろん疑わしいですが
そもそも「元就自身が出雲全体に調略を仕掛ける意思があったのか?」というのも疑わしいですよね。
もちろん情報収集ぐらいはするでしょうが、調略をしていれば尼子側にも大内家内にもそれに触れた資料がるでしょうし…
となると、尼子晴久が戦国大名として当主への権力集中を意図して、部分的には成功したものの結果的に家が残らなったので
「新宮党事件」だけが尼子の没落の原因として記憶されたのかな?と思います。
出雲って基盤が最初から脆弱だったから経久が半分を一門に任せたら勢力強くなりすぎちゃいましたっていう感じが強い。興久にしても国久にしても西出雲衆に取り込まれた結果西出雲への求心力が高まっていったという皮肉
経久の時代には都合がよかったが、孫晴久の代になると、晴久側近が邦久を煙たがるのは無理はない。でも、国久よりも晴久の方が若いし、後継者たる義久がいて、国久が祖父に当たるのだから、それ程問題になる事ではない。むしろ、こんな西出雲なんて近い所に置いておくことの方が危険だ。もっと遠国に置くことが大切ですね。
@@伊藤宏憲-f6t 塩冶興久の乱は経久の代では。経久の時代から西出雲に関しては全然うまくいってはなかったように思いますね。
奥さん良くも悪くも外交官を兼ねているというのはよく言われるいる事ですね
奥さんの死によって奥さんの実家との関係が悪くなるのは当たり前と言えば当たり前だし
晴久としても情勢をよく観察して決行したんでしょうが陶大内が想像以上に不甲斐ないのが不運だったか、と
晴賢が厳島生き延びて史実より1、2年でも長く粘ってくれてれば漁夫の利狙えたかもですが
個人的には中央集権体制の作っている最中に晴久が亡くなったのが最大の誤算だと思いますね。元就より長生きしていれば尼子の未来は間違いなく変わっていたでしょうから
お疲れ様です。
歴史読本だったか忘れましたが、
尼子の新宮党
武田の赤備え
雜賀の鉄砲衆
が、3大最強部隊と紹介されていたのを
覚えています。
新宮党カッコいい。
文書中の「紀州様」の呼称については、直接に晴久と揉めていたのが、国久ではなく誠久だったからではないかと想像しています。
まあ、何の確証もありませんが。
戦国ソシャゲゲームやってるからとりあえず見てみようと思った。途中からBGMが変わるが東方曲なのかな?聞いたことはある曲だけど、この場面で使うのはなかなかのチョイスそう。
やべえ情報量わかんねえ。音楽のことしかコメントできねえ……。許して。
(追記) まさか動画の最後にBGM情報載せてるとは……サンクス
それが当たり前の世の中になればいいのにね。
8:50 ここ見るだけでも血の繋がってる相手を晴久が疑ってしまうのはしょうがない、大友家のこともあるしまず尼子家やし...
投稿お疲れ様です!新宮党事件ということで、『出雲尼子一族』以降の研究でどうなっているのだろうと思っていましたが、まず氏久が孫四郎を名乗っていたことには初耳でした。勝久が名乗っていたのは知っていましたが、やはり氏久も名乗っていたのだなと分かりました。新宮党事件の長編解説はいつか観たいです。
また世に言う降露坂でも、結局は長い戦い続きで疲弊していた毛利軍を倒しただけであって、年表でも紹介されていらっしゃる通り、すぐに石見は制圧されているため、ここでも事件の影響が一切無かったといえないのではと思いました。
最後に、次回の隠岐編は隠岐氏だけではなく隠岐海賊村上氏も出てくるのでしょうか?楽しみです!
(しかかくさんへ:Googleフォームで質問いたしました、そして緊急で伝えなければならないことがありますので、それもGoogleフォームに書いてありますのでご一読いただきますようよろしくお願いします)
晴久と妻はいとこ婚だから現代日本でも認められててセーフ
戦国時代だと長宗我部盛親とか伊達実元など叔父と姪の婚姻あるからね
でもこの新宮党の残り、幼少の子供が生き残ってくれてたお陰で、山中鹿之助から担がれて、再興の旗印にされ僅かでも尼子家復興されたという皮肉。
なお本家の立花は…
大内家では陶晴賢が主君:大内義隆と血縁者を/毛利家では毛利元就が井上衆を、と三大勢力が何かしらの粛清劇を行っていますね。
尼子氏は経久の嫡男であった尼子政久が若くして戦死したのが痛かったな。
政久が生きていれば塩冶の乱も起きなかった可能性は高いし、新宮党を粛清も無かったのかもしれない。
井上元兼誅殺した元就が褒められて国久誅殺した晴久が無能って言われるのも理不尽ですね
晴久が元就と同じくらいまで生きてたら尼子家が生き残れてたのかはかなり気になる。
これに関してはよく比較されるのですが、元就は10年以上前から計画・根回ししていた点と、井上一党はあくまで家臣で一門親類ではない点には注意が必要と思われます。
ただ、仰る通り新宮党粛正を以て晴久を無能だったとは決して断じれない(実際には好転する可能性もあった)のは確かだと思います。
個人的には防長経略で大内家滅亡まで行ってしまうと、元就は尼子絶対○すマンなので例え晴久が存命でも存続は難しかったと思います。尼子家四方に敵を作りすぎなんですよね・・・唯一の勝ち筋は山名との早期関係解消と大友との密な連携ですが・・・
戦国大名の世代交代では、しばしば血で血を洗う惨劇が起こっているから、この事件も特に珍しいものではないから。むしろ毛利家の世代交代が、特に何事もなく進んだことの方が、奇跡のようなものですよ。三本の矢の逸話は、その奇跡を語っているわけで。
隆元も輝元も器量では元就に全く及ばなかったのに、親族が支え続けたのは元就自身の家族愛が根底にありそうですね
とは言っても備中備後を尼子が失陥した時は新宮党がまだいた時だからな。
大内と毛利が対立してる間に
自身の権力強化を図ろうと考えた
けどまさかここまであっさり
大内が滅ぶとは考えてなかったろうな
令和の時代になっても、まだ軍記物を信じてました。
尼子勝久は、家臣山中鹿之助と共に織田軍の羽柴秀吉の陣にたどり着いて「上月城」を受領したが、信長に「上月城を捨てよ❗」と秀吉に打診し、援軍は送れず、山中鹿之助以外の家臣団は、尼子勝久と共に自害し果て滅亡しました。悲しい事かな。
経久期の婚姻政策の破綻と尼子氏の勃興理由の特異さが全ての元凶、と思っているが、果たしてしかかくさんの考察は如何に。
動画アップロード乙でした。結局晴久としても粛清せざる得ない理由って、経久期の婚姻政策の破綻がキーポイントというか、塩冶興久が乱を起こした事が全ての始まりだったと言うことなんだな、と思いました。むしろ、そうした中で上手く立ち回った方なんじゃないかと思います。
3:40 4:07 7:59 8:41 11:03
晴久近臣層と新宮党の派閥争い
力持ち過ぎて本家と割れた
もし新宮党が粛清されずに
残っていたら
毛利元就が大内を
討伐に影響を及ぼすし
尼子も毛利との戦いを有利に進める
ことができたし
尼子家が江戸時代に
大名として
歴史に名前が残っていた
可能性もあるのではないかと
国久の肖像画はないの?
少なくとも私の管見の限りでは無いようです
晴久と国久娘はいとこ(4親等)なので現代の民法でも問題ないですし、割と普通です
西洋だと割と見かける近親婚ですが、日本だとこの尼子氏以外にあったっけ?
晴久と国久娘はいとこなので、そこまで親近婚というわけでも…
戦国時代の有名ないとこ婚だと、前田利家・まつ、真田信之・清音院(真田信綱娘)、武田義信・嶺松院(嶺松院殿の母定恵院は武田信玄の姉)、織田信清・犬山殿(織田信長の従兄弟と姉)、足利義輝・大陽院(義輝の母慶寿院は大陽院の父近衛植家の妹)を始めとして、割と多いですね
長宗我部盛親の正室は長宗我部信親の娘、つまり姪。
元親が信親の血脈を繋げたいからの方針だったらしい。
@@ぼぬーる-g5v ありがとうございます。顎が伸びる心配はしなくていいんだw
@@ちっちゃいちゃん-g6s いとこ婚より血の濃い姪婚、結構ある。伊達成実も姪婚で生まれた男(なので当主・輝宗からすると甥っ子なのにいとこ)
島津義久が叔母、甥で結婚しててがっつり3親等に収まっていたような
尼子氏滅亡ルート😢
軍記物は論外としても、やはり証拠となる1次資料が少ないので、新宮党事件はよくわかりませんね。
晴久妻の死が契機となったのは間違いないのでしょうが…。
要するに毛利家に対する井上党と同様の理由で新宮党が滅ぼされたと考えれば良いだろう。特に国久というより誠久の評判が悪かったのは事実のようで、国久の娘を正室にもらっていた晴久が、その正室を無くしたのが決定打になったのであろう。だがこれが戦力の低下につながり、晴久が急死したのがトドメとなったのです。
大河だと奥様は長生きだけど史実では早死にだったってこと?
神魂神社の史料に「同(天文22年)霜月に御丸御上さま御産めされそうろう時、御たかい(他界)にて候」とあり、この時亡くなったことが明らかとなっております。
そうなんですね。
ありがとうございます。
へえー。昭和のおっさん的には、元就の謀略というのが定説だが、あれは否定されてるのね。
元就も各方面に色々調略はしてるだろうけど、大々的にセルフ精鋭壊滅は規模デカすぎて驚いたかもw
井上党を粛正した毛利家と、新宮党を粛正した尼子家、結果が大きく違うのは何故だろう。
元就と晴久の寿命
これもっと根深い問題です。
元々出雲は鎌倉から頼朝重臣佐々木系からくる吉田氏と、その別系の塩谷氏が収めていましたが、
京極-尼子は後付けで南北朝以降に入ってきた流れがあり、京極から実験を奪った親戚の尼子も、もともと土着してる吉田と塩谷を懐柔しないと生きていけなかった。
経久の次男国久は吉田の養子。三男は塩谷の養子。
三男がやらかしてそれも継承した国久は、言うなれば土着2勢力の主になっており、こうなるともはや国久と晴久の対立は、鎌倉吉田vs室町京極といってもいい。もともとが吉田塩谷に仕えていた層と京極に仕えていた層に分かれている国衆的にはそういう目で見られていたところが多分にあったと推察できる。
謀略は眉唾として、これ以降の晴久が別に弱体化していると思えない。
とはいえ守護家として日が浅い尼子氏が、一門を削るのはリスキーだとも思います
どんな見解なのか楽しみですー
いや完全な弱体化
結果的に尼子家没落の原因になってる
新宮党が討たれたことでどれだけ毛利との戦局が変わったかは分かりませんが、最終的には毛利の利益に働いたと考えるならば、やはり何か元就の謀が働いていたのではないかとどうしても考えてしまいます。
元就は後世の人に謀神と呼ばれたり、隆元への手紙で「謀多きは勝ち、少なきは負け」と書いたりするあたり、謀略を巡らせて戦乱の世を生き抜いたのだろうなと思うのと同時に、具体的にその謀略の中身がなにをやったかよく分かっていないところが本当に凄いなと思います。
あれ?晴久妻って大河ドラマでは死んでなく、その後晴久を殺してるんで、あれは創作だったんですね。
恐らくですが、そもそもあの頃はまだ晴久妻の死が判る神魂神社の史料が知られていなかったのではないかと思います。論文として紹介されたのも大河ドラマの三年後ですし。
そのため、創作としてあのようになったのは割と納得がいきます。
@@SquareDeerHorn 詳しい解説ありがとうございます。
やはり20年以上たつと、資料のおかげで分かった事があるんですね。勉強になります。
TH-cam に大河ドラマ「毛利元就」の新宮島事件および晴久さんの死亡シーンの動画がアップされてました。
・なんか ネット記事で「NHK の 去年 の 最終収支が 何十年かぶりに赤字だった」と言っていますが、『毛利元就 』 を例えに 出すと、 主翼じゃない敵方の尼子 家 の キャストが、
初代:経久/緒形拳さん 2代目:晴久/高嶋(兄)政宏さん 3代目:義久/中村獅童さん
だったわけだからね。
「葵 徳川三代」の津川さんと西田さんもですが、今の基準で見ると どう見ても豪華な組み合わせが 当時としては当たり前だったんだから 、そりゃ誰も見なくなるわけだよ
ハイドリヒの策略でスターリンが大量の粛清があったから僅かに関わっている可能性はあると思う
ワロタ。
父方の祖父母も母方の祖父母もいとこ同士なのですが…(困惑)
何でもかんでも元就の「計画通り😏」、な訳はないにしても、
尼子家家中の争いから生じた粛清劇で結果尼子家弱体化の(決定打とまでは言えなくとも)大きな要因、という
大まかな点は通説とそれほどずれはない、ということでしょうか…
大河ドラマ毛利元就では晴久の奥さんずっと生きていた記憶が(元就の謀略だから生かしておいてもOKということか岩崎ひろみがすぐ退場だとつまらないし)
恐らくですが、そもそもあの頃はまだ晴久妻の死が判る神魂神社の史料が知られていなかったのではないかと思います。
論文として紹介されたのもつい最近のことですので、創作としてあのようになったのは割と納得がいきますね。
元就が優れてる謀略家ってのをわかっていながら尼子国久を信用しなかったのは晴久の最大のミスと言える
ここが尼子没落のキーポイント
これがイマイチ良くわからない。わざわざ自ら戦力減らすとか
元就も当時最大派閥かつ最大戦力の井上衆誅殺して戦力ダウン自体は発生してるけど
多分計画性とかタイミングとかが違う結果になったんやないかなぁ
自分に従わない
反旗 謀反の疑いある人間
毛利元就が井上一族粛清(一部は免除)と同じ構図だと思います
身内に力をつけられると身内に立場を追われる。
かと言って血縁のない家臣ばかりだと裏切りも簡単にされる。
例えば中国の魏は2代目の時に弟たちを遠ざけたことにより司馬氏に帝位を追われた。
次の晋の時代には身内ばかりを厚遇したばかりに身内の後継争いで外憂の侵入を許して滅亡した。
バランスが難しいのよ。
一族内の主権確立を優先しないと自分がやられる。
また、直属国衆にも新宮党へのやっかみや不満が溜まり、不安定な政権になる。
時勢を見て配下に組み込まれている国衆を短期間で強固に統治するのは困難なので、急成長した版図の大きさなんてアテにならない。拡大戦略で褒美を与え続けて強固にしていく過程だから、脆さを孕んでいる。
毛利に余力がない時期を見て、統制強化に動いたと見れば無くはない。
後の毛利にしても本願寺が降伏すると、対織田家では消極的になるしか無かった。
兵の集まりも悪いし、戦意も低いから時間を浪費しますます求心力が低下する。
織田政権を秀吉が継いでくれて毛利は助かった。
まともに攻められたら国衆の離反が止まらなかったでしょう。
今でも役所なら法律の縛りや任命権で上意下達でやれるけど、政党は県連本部を思い通りに支配できずに逆らったりされる。
江戸時代に飼い慣らされた主従関係とは違うと知りながら、どこか思考が引っ張られがち。
歴史好きが、中世と近世の違いを軽視しがちなのも問題なのかな。
元就の調略を見ていくとあまり表に出ない背中を押すタイプの調略が多いことがわかる。今回の件ももともと晴久と国久の間に火種があることを利用してると感じる。書状を使ったあからさまなものではかえって怪しい、元就は忍者を多用して噂を流布する調略を仕掛けていたのではないかと。つまり理由の1/3程度で自然で目立たない。 厳島の時の江良も同じではないとか。 子供の時に苦労してるだけに人の心理を読むことは天才的だった気がする。
元就の謀略を 全部否定していくと元就は宝くじに何度も当たるぐらい運のいい人間だったということになると思うよ。
そもそも実際の謀略は分かりやすく表に出るものではないだろうし、元就だけではないけど当時の資料や近い年代の資料には何の記述もないのにかなり後世の軍記物で初めて語られたエピソードなんか否定されて当然というかむしろ、それが正しいという根拠を先に出してくれって感じやけどな。
元就が如何に中国地方の覇者となったかについては本編で詳しく解説しているため、そちらをご覧ください。
本編でも別に謀略は否定していませんが、逸話として知られている「元就の謀略」は明らかに陰徳太平記や吉田物語といった軍記物が作られた時に形成されたものであり、その殆どは創作と考えられます。一方で、実際の元就は武略をかなり重視しており、調略についてはかなり巧みなのですが、創作とは異なりかなり分かりづらいため、逸話のような「わかりやすい謀略」になったのだと思われます。
有名な厳島の戦いを例に挙げると、「桂元澄に偽装投降させた」といった謀略っぽいことはしておらず、順当に調略と武略で大内水軍をかなり寝返らせていたことが勝利に繋がっています。
本編見て思ったのは、領内に国久誠久への悪評はあったみたいだし、全くやってない訳ではないんじゃないかなぁ。
ただ、諸葛孔明的な「今です!」みたいに読み切ってピンポイントで謀略を行うんじゃなく、恒常的に諜報を入れてたのでは。
元就の思い通りみたいなのは嘘くさいけど、何らかの影響を与えたってのはありそう
ただし証拠がないと、有ったとは言えないけど
00:25 危険な配合です。やめておきましょう。
個人的には毛利家の井上一派と同じ立ち位置で力を持ち過ぎたのを危惧したからかな?って思ってるけどね。
武闘派の新宮党を晴久が誅殺したってあれか?通説ではこれを画策したのは元就だって話だが、実はそうじゃなかったって話か?