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1940年当時特別急行大阪行き8時間下関行き18時間30分2023年現在新幹線新大阪行き約2時間30分新下関行き約4時間30分~5時間時代の流れが鉄道のスピードアップに繋がっている
1940年は、紀元2600年(神武天皇即位から2600年)ということもあって、当時の政府が伊勢神宮や橿原神宮への参拝を推奨していたので、多くの人が東海道本線を通ってそこへ参拝していたのかもしれませんね。まさか、わずか5年で本土が焼け野原になるとは知らず…
鳥羽行きの夜行列車が寝台車や食堂車を付けていたほどですので、相当力を入れていたのでしょう。
その年に東京オリンピックが開催される予定でしたが、日中戦争の影響により中止となった。
この頃の主要な途中駅って、どこも24時間営業だったんだよね…夜中の2時や3時に、普通に列車が到着。夜行列車がほぼ全廃の現代とは隔世の感。
横須賀市民です。もう亡くなってしまった近所のおばあさんが、この年に横須賀から行きは船で伊勢に行ってそこから鉄路で奈良、京都と周って夜行で帰った修学旅行をしたって笑顔で話をしてたのを思い出しました。そしてこの翌年からはもうそんな旅行も無くなって弟がかわいそうだったなぁとしみじみ語ってました。
東海道本線が東京~神戸間であることを、改めて思い起こさせてくれるダイヤですね。話題は逸れますが、私は呉の出身で、昔の長距離列車に呉線経由があるのを拝見し、改めて軍港の重要性が高かった時代なんだと感じました。私の父(昭和一桁生まれ)は、昭和40年代前半でも呉から東京出張の際は、蒸機が牽引する急行「安芸」に乗車していました。呉から広島に出て特急「はと」に乗って新大阪から新幹線に乗り換えれば同日の深夜に東京まで着けたらしいのですが、急行「安芸」の方が2時間遅く出発して翌朝7時前に東京に着くので楽だった、と生前に話しておりました。
横須賀の合間に大阪や京都、さらに下関行きが出てくる不思議な感じがいいですね。横須賀線が分離されたのは戦後ですね。
この時代は長距離優先ではあれまだ線路に余裕があったことでしょう。貨物は昭和のはじめに山手貨物線→品鶴線ができ、大船辺りまでは分離されてはいましたが旅客は複線での対応でした。上り列車では既にこの頃からは下関などから来る急行と通勤用の客車の普通列車で並行ダイヤを組んでいたほどのようです。横須賀線が分離されたのは戦後35年経ってからですね。それまでの国鉄は長距離輸送優先で首都圏は5方面作戦が展開されていたものの急増する乗客に手が打てず。新鶴見から小田原までの新しい貨物線を作ることで空いた路線の大船より東側を横須賀線として活用しています。2023年現在の朝のラッシュの上りは戸塚から横浜までは東海道線と横須賀線の時間を調整してほぼ同じになるようにしていますが、東戸塚での乗り降りもかなりのものです。
東海道線と横須賀線が分離されたのは1980年10月1日です。
動画ありがとうございます。特急燕では、往時の近鉄ノンストップ特急の中川短絡線での運転士交代も真っ青なことが行われていたんですね。関門連絡船があった頃、また新垂井迂回線がなかった頃という時代背景を想像しながら拝見しておりました。
いつもありがとうございます。この時代は戦前とされることも多いですが、実際には欧州など世界中が戦争状態にあり、我が国も大陸で事変となっていました。そんな中東海道線は東京から西日本各地だけでなく朝鮮、満洲、華北への輸送機関として、さらには大陸の戦地に赴く兵士など多くの方が利用されるものとなっていたことと思います。驚くのはこの時代に横須賀線が高頻度で運転されていた上、東京から横須賀まで70分足らずで結ばれていたことです。現在はこの区間は武蔵小杉回り、さらには停車駅数の増加もあって大半の電車が80分ほどかけております。(京急の快特に乗れば品川から横須賀中央まで40分程度ともっと早いですが)この時代に我が国の鉄道技術がここまで進んでいたことも驚きです。鉄道は兵器とされていた時代、さらには空襲などによる鉄道施設の破壊から立ち直り、ここまで鉄道というインフラを育てた先人の皆様には感謝の限りです。
時代を考えたら横須賀線が多数を占めるのは理解できますが、意外と伊東線直通が多いなあという印象です。戦後少し落ち着いた頃から週末の観光利用が増えていったような印象だったもので。
割と過密やし終電も遅めやし呉経由もある、それだけ横鎮が重要やったことが分かる…
横須賀線、久里浜駅 1944年開業終電今より遅い、現在 23:35発逗子行き
やはり呉線経由下関行き普通列車は強烈だな
当時は貨物列車も多かったせいか本数がかなり少なく感じました。(昼間でも30分近く間隔があいていたりするなど。)それでも繫忙期の輸送力を確保するために、続行運転となっていたところも多くみられます。
大陸への輸送量の増大もあって続行列車が仕立てられていたのでしょう。戦時ということもあり旅客、貨物共に大動脈としての役割を果たしていたことと思います。
丹那トンネルが完成した事で、沼津まで電化完成し電気機関車が使用されるようになったんですね。15年近くまで走行されていたEF55も東海道線で使われていたそうですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。丹那トンネルは難工事で、崩落事故もありました。多くの労力や犠牲とともに発展していったことがわかりますね。
リクエストは1940年の当時重要だった軍港の一つの呉駅のダイヤを。
素敵な機関車の背景をありがとうございます。東海道線では神奈川、静岡より東海、関西、山陽の行き先が目立っているという今では到底あり得ないダイヤである事を見ると鉄道が今の新幹線や飛行機、マイカーでの輸送を含めて一手に引き受けていた実態が垣間見えて面白かったです。
この時代、父方のために祖父は 静岡機関区で SL の指導機関士をしていました おそらく エリア的に 沼津 浜松間の SL の 運転を担当していたはずです 小学生の頃 当時の話を聞きましたが 列車はほとんど 長距離で 朝夕の通勤時間帯に 静岡 ローカルの普通列車が少しあったと話していました
その2年後、関門トンネル開通特別急行と急行は九州まで足が伸びていく事になる戦争で運行できなくなったが、戦後になると普通列車が東京~九州に長時間運行になるその後、特急急行が運行する事になり、徐々に日本は復興する事になる
横須賀線は30分おきにコンスタントに設定されていたんですね
海軍の軍港がありましたからね。2等車も連結されていました。今に続くグリーン車の源流です。
@channelsada3849 さまこの時代は日中戦争の時代であり、そこに友好国としての米軍の存在はなかったものと思います。この時刻表の一年後には対米戦争が始まりましたし。戦後も昭和55年までは昼間も横須賀駅まで11両編成が必ず乗り入れていましたが、その後は昼間は全て逗子乗り換えの時代がありました。今でも直通は昼間は一時間に1本だけです。
@@TSUYOS185 とは言え現在のアメリカ海軍と海上自衛隊横須賀基地は当時の海軍の軍港を転用したものなので、場所的には間違ってはいません。
@@山形祐介-e5lさま確かに場所は間違いはありませんが、、当時の省線は最大7両、さらには2等車が連結され海軍関係の方が多数利用していたのに対して京急の前身会社は1両か2両、急行ですら上大岡から各駅停車という有り様でした。戦後は京急の利便性の著しい向上でJRの地位は横須賀では低くなっています(鎌倉や逗子ではかなりのシェアですが)
@@TSUYOS185 京急の方が距離が短い分所要時間が10分くらい短いからですね。ただ、当時から役割は大きく変わっていますが、現在でも横須賀線の車両にはグリーン車(車両番号に当時の2等車と同じ「ロ」がついている)が併結されています。
やはり、太平洋戦争開戦前夜だから、横須賀行の設定が多いですね海軍省から横須賀鎮守府往来していたんでしょうね
興味深い編集、有難うございます!恥ずかしい質問ですが、当時の横須賀線は電車か電気機関車の客車列車のどちらだったのでしょうか?また東海道本線の急行・普通の客車列車は、オハ35やスハ32系のみで、17mのオハ31はなかったのでしょうか?
すべてかどうかはわかりませんが、当時横須賀線では電車が走っていました。ちなみに、当時の列車番号は電車でも数字だけで、末尾にMやSなどのアルファベットはついていませんでした。今の感覚では、列車番号を見ると客車列車と思いますね。
@@hc-ir2drさま、ご教示誠に有難うございました。
21時25分発神戸行きの第17列車が戦前の最優等列車と言われていましたが、今では全く取り上げられなくなりました。
特別急行の櫻、格好いいです。渋い。
近場までの時間だと今と比べてもそこまで遜色ないのすごいな
横須賀線は現在(2023年)よりも速いほど。この当時は東京から横須賀は68分だったのに現在は80分程度かけています。
@@TSUYOS185なぜそんなに遅くなったのですか?
@@musashi3755昔は東海道線と横須賀線が同じ線路を使用して運行しており、品川-戸塚間で今と走るルートが異なるから 後は、相鉄への直通線(西大井-新鶴見間)や湘南新宿ライン(西大井-戸塚)での遅延の影響を受けやすいため(特に西大井-品川間にある信号所)かな?
@@shiwasu2276 ありがとうございます。
@@musashi3755さまさらには逗子で前の4両を分割→留置線入れ→それから久里浜行きの発車で時間を要していることもあるのでしょう。朝のラッシュの下りは分割の間に後続の電車が逗子駅に到着し、その電車に接続することも。かつては昼間は全て逗子止まり、そこから4両の折り返し電車で横須賀や久里浜に向かっておりましたが、今は昼間は一時間に1本直通しています。東京や横浜からの横須賀線は逗子あたりが限界、その先は事実上京急の快特や特急が担っています。
神戸行きが多いな、当時の神戸は西日本一の巨大港湾都市で貨物の需要も多かったんだろう
戦前、1940年の時刻表は復刻版でも持っていないので貴重でした。横須賀行きがパターンダイヤ化されて夜遅くまでありますね。後は、「特急」じゃなくて「特別急行」、急行には愛称が無いなど、時代背景がうかがえます。長距離の普通列車は何か想定通りに色々出てきて笑ってしまいました。ありがとうございました。
動画お疲れ様です。ついに戦前期の東京駅ですか。正真正銘の超特急と謳われた燕。燕を補完する形で生まれた鴎大衆向け特別急行の先駆けである櫻国際特急であり大戦前は欧州への連絡も担っていた富士とまさに特別急行の中の特別急行という感じです。東京大阪間も夜行で効率よく移動が当然の時代。その中でも名士列車と言われた17列車とこちらも名だたる面子が揃ってます。ただここから戦争突入・戦後の物資不足と暗い時代に入るのが…
軍港があった横須賀行きの頻発、大阪以西に行く列車には特急や急行と合わせて普通も運転されていたことが、当時の時代背景を物語っているように思います。一般庶民は長距離の移動でも普通列車を利用していたんでしょうか。忍耐を要したことでしょうね。
この頃は天下の東海道線と言えども特急や急行、さらには1等や2等車は高級軍人や商務客など限られたものだったのでしょう。お金を出したからおいそれと乗れる存在ではなかったものと思います。今や通勤客が湘南エリアから東京駅まで「特急」に乗車することもある時代。高級空間からプチ贅沢での着席通勤へとなりましたね。
二等車以上や特別急行に乗ることは一般庶民にはまずないですが急行の三等車は、長距離ならば利用していたと思いますよどれぐらい長距離になると、急行を利用するか東京からだと、名古屋新潟仙台以遠あたりが、庶民にとっては基本的な境界です(成金が、熱海ぐらいの距離なのに急行を利用して、話題になった)多くの普通列車が長距離で直通しているのは、郵便や荷物の輸送のためです
@@TSUYOS185 さんそういえば昔の国鉄の優等列車って、本当に長距離移動するときくらいしか利用することがなかったです。関西在住ですが、今は「ラクラクはりま」や「びわこライナー」、「やまとじライナー」といった通勤特急的な中距離列車が増え、大衆化したと感じます。
@@user-nak7etahew さん逆にいえば、名古屋や新潟、仙台までの利用客は普通列車の利用が一般的だったわけですね。時代背景とはいえ、なかなか大変な移動だったことでしょうね。長距離普通列車が多かったのは、郵便や荷物が理由だったんですね。確かに終着駅ごとに荷物などを積み替えるのは人手も手間もかかるでしょうね。とても納得できました。
戦前の時刻表が残っているとは。。。これだと、下関~釜山の戦前と現在の比較も出来そうですね。期待してます。
普通でも意外と早いな、と思うやつは18きっぱー。
話によると旅行の制約は出てきていたそうですが、特例と言うべきか分かりませんが、参拝目的なら遠出は出来たそうです。
20時35分と20時40分の柳井経由下関行き。当時は現在の岩徳線が山陽本線で、柳井経由が柳井線だったからですね。麻里布駅は現在の岩国駅で、当時は現在の西岩国駅が岩国駅でした。
1945年の時刻表見てみたいな
長距離列車が走る中で横須賀行きだけは毎時22分52分のパターンダイヤですね。
当時の23:52発横須賀行きの終電はどんな人が乗ってたんでしょうかね。もし今同じ電車があったなら仕事終わりの酔っ払いばかりだと思いますが、当時も同じ様子だったんでしょうか?
2等車は海軍の関係者や鎌倉や逗子に邸宅を構える名士の方々が多かったのでしょう。
下関行きが多いなぁ。こうなってくると下関港の時刻表が見てみたい
やはり戦前ということもあって横須賀行きが多いように感じます
まだ横須賀線が久里浜駅まで開業していなかったことも大きいです。(2023年現在も久里浜駅行きは多い。)
横須賀駅のホームから改札、さらには駅前広場まで段差が無いのがその名残です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時の情勢を反映しているなと思います。時刻表から見える当時の情景も興味深いですね。
確か士官は横須賀線、下士官・兵は今の京急線で移動を分けていたと昔何かの本で読んだ覚えがあります。京急線が三浦半島の内陸を走っているのも物理的に軍港が見えにくくするため。プラス特に機密保持が必要な区間は日よけの鎧戸を閉めていたそうです。
なるほど・・・京急線が軍港地区から離れた市街地を通ってるのはその為か😳😳😳しかし、それが今の京急線とスカ線の賑わいの明暗を別ける結果になるとは何たる皮肉😢😢😢
この時代、5時台の列車に乗るには前泊必須だったのだろうか
昭和15(1940)年は東京オリンピックが開催される予定でしたが、日本が日中戦争を起こしたことで世界中から非難されたため、この大会は中止になった。その後、昭和39(1964)年、令和3(2021)年に東京オリンピックが開催された。
海軍の基地があったせいか、横須賀行きが多いですね。太平洋戦争開戦前夜の時期ですから、需要もあったのでしょう。
横須賀行きが多いのは、軍港があるからですね。東海道本線と横須賀線が同じレールを走っていたとは言え、これだけの高頻度だったのは知りませんでした。呉線経由というのも、その流れでしょうか。個人的にもう1つ興味深いのは、東海道本線の行き先に静岡西部や愛知県内の行き先がほとんどないこと。戦後になると浜松行きや静岡行きがありますが、これも段々と運行距離を短くしていった結果だったのでしょうね。
戦後の東海道線は静岡、浜松、名古屋と徐々に電化区間が延伸され、その度に80系電車による普通列車が電化区間の端で折り返すようにしたからかもしれませんね。
5:38 呉線経由普通下関行きの紹介についてですが、広島の時刻間違っていませんか?岡山が4:38で広島が5:39だと1時間しかかかっていないので、さすがに新幹線じゃないと無理です…。
多分横須賀行きが多いのは横須賀に海軍基地があったからだと思う
燕・鷗・桜・・・考えてみればこの頃から西の地方と縁があるんですよね。
お疲れ様です。関門トンネル開通前夜のダイヤですね。そして山陽本線が現在の岩徳線経由がメインルートの時代。以前、旅行業取扱管理者試験の講座を担当していたときがあって、運賃計算キロの解説をするとき、岩徳線と山陽本線の関係を話したものです。燕号が大好評で、不定期の燕号を増発、ほとんど毎日運行されていたそうですね。燕は戦前から午前9:00東京発だったのですね。これは知りませんでした。
戦後も電車化されるまで9時発はそのままでした。イギリスのロンドンからエジンバラに向かうフライング・スコッツマンという特急列車もロンドンのキングス・クロス駅の発車は長年10時に固定されていました。どちらも伝統、栄光のある列車と言えますね。
昔、大阪行きの急行銀河と大垣行きの夜行に乗ったけど疲労感半端じゃなくいずれも東京への帰路は新幹線を利用した。椅子だって当時は上等じゃなかったはず。東京から下関まで列車なんて想像も出来ない。
それでも他の交通機関がほとんど存在しなかった時代、ボックスシートでまる1日は当たり前だったようです。大きな駅では長時間停車、ホームの洗面台で煤を浴びた顔を洗ったり体を動かすのがリフレッシュだったのかもしれません。大宮の鉄道博物館で鉄道150年に関する説明を受けたことがありますが、戦局が悪化すると通路側の肘掛けを外して一つのボックスに6人がけということもあったようです。
こんにちは久しぶりです自分こないだ1925年のダイヤ改正の本を買ったんですよ今から約100年まえですねリクエストなんですけど北陸本線のこと話してくださいたくさんの鈍行列車がありますよ東海道本線はヤバいですよ
動画編集お疲れ様でした。戦前編が遂に出ましたね。戦前って事なら、当時日本領だった南樺太の豊原や大泊の時刻表とかお願いできますか?
17:30分発平塚行きはいまもありすね特急に格上げされてですが
19:00の小田原行きも似たような感じです
下関止まりがやたらと多い?そうか関門トンネル開通前か。下関から先の九州・釜山・大連方面へは連絡船の時代でしたね。
ガチの素人質問で申し訳ないんですけど当時の長距離普通って本当に今で言う普通、各駅停車だったんですかね…?
非有効(深夜)時間帯の停車駅は、急行列車と大差ない利用の少ない小駅を終日営業するのは経費の無駄だから
@@user-nak7etahew大垣夜行(普通列車)も深夜帯は主要駅のみの停車でしたね。
@@shinpeikitajima7115 「小田原までは各駅に停まります、小田原までは各駅に停まります。小田原を出ますと、熱海、三島、沼津、富士、静岡、静岡から先は三河塩津を除き終点大垣まで各駅に停まります」
なぜか横須賀行きが多いよね。当時4大軍港だったから、やはり、大陸への出兵や、横須賀の軍需工場へ通勤す る需要が非常に多かったと思う。今の横須賀線分離は昭和55年くらいかな。また呉を経由する下関行きもあるくらいだから、レジャーやビジネスより完全に軍需輸送優先のダイヤ構成になっているのがみえる。
ちゃんとご自分で理由も書いていらっしゃいますねその理由で正しいと思いますよなので「なぜか」というのはおかしいと思います
一見すると、翌年に米国と戦争するとは考えにくい華やかさがありますが、昼間の急行が少ないですね。
特急富士が下関止まりなことから察せられるけど、関門トンネル開通直前の時刻表であるわけですねさくら、富士、つばめと往年の寝台特急の先駆けとなる列車号は戦時中から名前があったんですねぇ下関での渡し船(あるのか?)と接続先の九州の列車の行き先等も載せたらもっと面白いかもですねそして横須賀行きの多いこと。軍港だから重要性はとてもよくわかる。呉港経由も数本ある。しかし舞鶴港行きは流石にありませんね東北、常磐系統で当時の青森港接続と、大湊警備府行きの列車があったかどうかも気になりますね~
下関からは門司(今の門司港駅)への関門連絡船がありました。関門トンネルの開通後も1964年まで門司港との輸送で残っていました。舞鶴港行きの列車がなかったのは意外ですね。京都から乗り継ぐしかなかったのでしょう。
長距離の普通列車が凄い
もし現在でも存在していたらATOS接近放送で「普通 姫路行き」や「普通 下関行き」なんて聞けたら胸熱ですね。18キッパー御用達の列車かな。
横須賀行きが多いな。軍港と関係してるかな
1925年(別動画あり)と比しても、列車の本数が少なくなっている。特に夜行と特急。戦争の影響が出始めた頃。翌1941年、アメリカ🇺🇸が対日石油輸出禁止(太平洋戦争の遠因)した事による燃料事情悪化で、この時刻表も殆ど壊滅状態に😖😣→基本軍用や疎開用の列車で、旅行用の列車は無くなった。
横須賀まで70分弱なら今より早い(笑)
たしかこの後の改正ぐらいから、電車の本数も所要時間も戦況でどんどん悪化したんですよね…
下関まで28時間もかけて普通列車を運行させる意味は何なのだろうか…硬い座席で乗り通した人もいるんだろうな…
運転区間を短距離こまぎれに系統分離して、終着駅に着くたびに毎回、郵便車や荷物車を切り離し次の列車に連結するの、面倒くさいんだけど
初めてコメントします。当時はいかに軍優先、海運優先だったかがわかる時刻構成でしたね。個人的には神戸駅の写真がありましたが、柱の特徴とか今と変わらず重厚でいかに繁栄していたかが垣間見えます。リクエストとすれば小生が学生時代の書物、宮脇俊三先生「時刻表昭和史」に昭和17年急行第1列車で博多へ向かうくだりがあります。当時途中駅でどのような接続があったかわかると幸甚に存じます。
横須賀で始まり、横須賀で終わるw
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時の横須賀の重要性が垣間見える設定ですよね。
岩徳線が山陽本線だった時代か。
5:38 呉線経由で岡山広島間が1時間…?今でもそんなに早くないような
広島09:10著ですね
令和の日本社会の退化が凄まじいですが、現在東京駅からの横須賀方面終電は23時過ぎですので、戦争前に比べて約1時間繰りあがっています。この手の繰上りは夜行列車壊滅によって日本全国でおきていますが(東京札幌間など)対横須賀という近距離かつ今も昔も鉄道一択の地でこれですから。日本はどうなってしまうのか
戦後は常に23時半ごろまで横須賀方面行きがあったものの、近年保守間合いの時間確保のために終電が繰り上げられていますね。東京発の終電が23時4分ですし。京急であればもう少し遅い時間まであるもののこちらも保守間合い時間の確保という観点もあって近年終電が繰り上がりました。逗子行きが23時35分、大船行きが23時50分ということを考えると都心からは鎌倉や逗子あたりまでが横須賀線のテリトリーであるものと考えます。今と違いこの時代は線路の保守は手作業によるものが多かったとは思いますが、それでも現在と変わらない時間で線路や信号の点検や整備がきちんと行われていたことが驚きです。
いきなり普通列車大阪行きというパワーワード
今日は千葉から東京に行って、東海道線に乗るか。今からだと、最終広島行に乗れるな。さぁ、旅は始まった。
当時は総武線の電車で秋葉原、山手線で東京ですね。
83歳の母が生まれた年はこうだったのか...
横須賀線が横須賀支線だった時代ですね。
懐かしい時刻だね
特急が意外と少ない印象
そりゃ「普通」急行ではなく「特別」急行ですからね
青春18切符がこの時代にあったらどれだけのTH-camrが使って動画を取ってうpしていただろつも想像妄想してしまう
横須賀線の本数が多い。
日中戦争の戦局悪化が進み始めた頃で兵役輸送も兼ねた横須賀行きや下関行きが多いのでしょうか。
横須賀行き多い
普通 下関行き😮
横須賀多すぎw
スライドの表示時間が長すぎる。もっと知りたい列車もあるんだ、ちゃっちゃと進行させて欲しい
1940年当時
特別急行
大阪行き8時間
下関行き18時間30分
2023年現在
新幹線
新大阪行き約2時間30分
新下関行き約4時間30分~5時間
時代の流れが鉄道のスピードアップに繋がっている
1940年は、紀元2600年(神武天皇即位から2600年)ということもあって、当時の政府が伊勢神宮や橿原神宮への参拝を推奨していたので、多くの人が東海道本線を通ってそこへ参拝していたのかもしれませんね。まさか、わずか5年で本土が焼け野原になるとは知らず…
鳥羽行きの夜行列車が寝台車や食堂車を付けていたほどですので、相当力を入れていたのでしょう。
その年に東京オリンピックが開催される予定でしたが、日中戦争の影響により中止となった。
この頃の主要な途中駅って、どこも24時間営業だったんだよね…
夜中の2時や3時に、普通に列車が到着。
夜行列車がほぼ全廃の現代とは隔世の感。
横須賀市民です。
もう亡くなってしまった近所のおばあさんが、この年に横須賀から行きは船で伊勢に行ってそこから鉄路で奈良、京都と周って夜行で帰った修学旅行をしたって笑顔で話をしてたのを思い出しました。
そしてこの翌年からはもうそんな旅行も無くなって弟がかわいそうだったなぁとしみじみ語ってました。
東海道本線が東京~神戸間であることを、改めて思い起こさせてくれるダイヤですね。
話題は逸れますが、私は呉の出身で、昔の長距離列車に呉線経由があるのを拝見し、改めて軍港の重要性が高かった時代なんだと感じました。
私の父(昭和一桁生まれ)は、昭和40年代前半でも呉から東京出張の際は、蒸機が牽引する急行「安芸」に乗車していました。呉から広島に出て特急「はと」に乗って新大阪から新幹線に乗り換えれば同日の深夜に東京まで着けたらしいのですが、急行「安芸」の方が2時間遅く出発して翌朝7時前に東京に着くので楽だった、と生前に話しておりました。
横須賀の合間に大阪や京都、さらに下関行きが出てくる不思議な感じがいいですね。横須賀線が分離されたのは戦後ですね。
この時代は長距離優先ではあれまだ線路に余裕があったことでしょう。
貨物は昭和のはじめに山手貨物線→品鶴線ができ、大船辺りまでは分離されてはいましたが旅客は複線での対応でした。
上り列車では既にこの頃からは下関などから来る急行と通勤用の客車の普通列車で並行ダイヤを組んでいたほどのようです。
横須賀線が分離されたのは戦後35年経ってからですね。
それまでの国鉄は長距離輸送優先で首都圏は5方面作戦が展開されていたものの急増する乗客に手が打てず。新鶴見から小田原までの新しい貨物線を作ることで空いた路線の大船より東側を横須賀線として活用しています。
2023年現在の朝のラッシュの上りは戸塚から横浜までは東海道線と横須賀線の時間を調整してほぼ同じになるようにしていますが、東戸塚での乗り降りもかなりのものです。
東海道線と横須賀線が分離されたのは1980年10月1日です。
動画ありがとうございます。
特急燕では、往時の近鉄ノンストップ特急の中川短絡線での運転士交代も真っ青なことが行われていたんですね。
関門連絡船があった頃、また新垂井迂回線がなかった頃という時代背景を想像しながら拝見しておりました。
いつもありがとうございます。
この時代は戦前とされることも多いですが、実際には欧州など世界中が戦争状態にあり、我が国も大陸で事変となっていました。
そんな中東海道線は東京から西日本各地だけでなく朝鮮、満洲、華北への輸送機関として、さらには大陸の戦地に赴く兵士など多くの方が利用されるものとなっていたことと思います。
驚くのはこの時代に横須賀線が高頻度で運転されていた上、東京から横須賀まで70分足らずで結ばれていたことです。現在はこの区間は武蔵小杉回り、さらには停車駅数の増加もあって大半の電車が80分ほどかけております。(京急の快特に乗れば品川から横須賀中央まで40分程度ともっと早いですが)
この時代に我が国の鉄道技術がここまで進んでいたことも驚きです。
鉄道は兵器とされていた時代、さらには空襲などによる鉄道施設の破壊から立ち直り、ここまで鉄道というインフラを育てた先人の皆様には感謝の限りです。
時代を考えたら横須賀線が多数を占めるのは理解できますが、意外と伊東線直通が多いなあという印象です。戦後少し落ち着いた頃から週末の観光利用が増えていったような印象だったもので。
割と過密やし終電も遅めやし呉経由もある、それだけ横鎮が重要やったことが分かる…
横須賀線、久里浜駅 1944年開業
終電今より遅い、
現在 23:35発逗子行き
やはり呉線経由下関行き普通列車は強烈だな
当時は貨物列車も多かったせいか本数がかなり少なく感じました。(昼間でも30分近く間隔があいていたりするなど。)それでも繫忙期の輸送力を確保するために、続行運転となっていたところも多くみられます。
大陸への輸送量の増大もあって続行列車が仕立てられていたのでしょう。
戦時ということもあり旅客、貨物共に大動脈としての役割を果たしていたことと思います。
丹那トンネルが完成した事で、沼津まで電化完成し電気機関車が使用されるようになったんですね。15年近くまで走行されていたEF55も東海道線で使われていたそうですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
丹那トンネルは難工事で、崩落事故もありました。多くの労力や犠牲とともに発展していったことがわかりますね。
リクエストは1940年の当時重要だった軍港の一つの呉駅のダイヤを。
素敵な機関車の背景をありがとうございます。
東海道線では神奈川、静岡より東海、関西、山陽の行き先が目立っているという今では到底あり得ないダイヤである事を見ると鉄道が今の新幹線や飛行機、マイカーでの輸送を含めて一手に引き受けていた実態が垣間見えて面白かったです。
この時代、父方のために祖父は 静岡機関区で SL の指導機関士をしていました おそらく エリア的に 沼津 浜松間の SL の 運転を担当していたはずです 小学生の頃 当時の話を聞きましたが 列車はほとんど 長距離で 朝夕の通勤時間帯に 静岡 ローカルの普通列車が少しあったと話していました
その2年後、関門トンネル開通
特別急行と急行は九州まで足が伸びていく事になる
戦争で運行できなくなったが、戦後になると普通列車が東京~九州に長時間運行になる
その後、特急急行が運行する事になり、徐々に日本は復興する事になる
横須賀線は30分おきにコンスタントに設定されていたんですね
海軍の軍港がありましたからね。2等車も連結されていました。今に続くグリーン車の源流です。
@channelsada3849 さま
この時代は日中戦争の時代であり、そこに友好国としての米軍の存在はなかったものと思います。
この時刻表の一年後には対米戦争が始まりましたし。
戦後も昭和55年までは昼間も横須賀駅まで11両編成が必ず乗り入れていましたが、その後は昼間は全て逗子乗り換えの時代がありました。今でも直通は昼間は一時間に1本だけです。
@@TSUYOS185 とは言え現在のアメリカ海軍と海上自衛隊横須賀基地は当時の海軍の軍港を転用したものなので、場所的には間違ってはいません。
@@山形祐介-e5lさま
確かに場所は間違いはありませんが、、
当時の省線は最大7両、さらには2等車が連結され海軍関係の方が多数利用していたのに対して京急の前身会社は1両か2両、急行ですら上大岡から各駅停車という有り様でした。
戦後は京急の利便性の著しい向上でJRの地位は横須賀では低くなっています(鎌倉や逗子ではかなりのシェアですが)
@@TSUYOS185 京急の方が距離が短い分所要時間が10分くらい短いからですね。ただ、当時から役割は大きく変わっていますが、現在でも横須賀線の車両にはグリーン車(車両番号に当時の2等車と同じ「ロ」がついている)が併結されています。
やはり、太平洋戦争開戦前夜だから、横須賀行の設定が多いですね
海軍省から横須賀鎮守府往来していたんでしょうね
興味深い編集、有難うございます!
恥ずかしい質問ですが、当時の横須賀線は電車か電気機関車の客車列車のどちらだったのでしょうか?
また東海道本線の急行・普通の客車列車は、オハ35やスハ32系のみで、17mのオハ31はなかったのでしょうか?
すべてかどうかはわかりませんが、当時横須賀線では電車が走っていました。
ちなみに、当時の列車番号は電車でも数字だけで、末尾にMやSなどのアルファベットはついていませんでした。
今の感覚では、列車番号を見ると客車列車と思いますね。
@@hc-ir2drさま、ご教示誠に有難うございました。
21時25分発神戸行きの第17列車が戦前の最優等列車と言われていましたが、今では全く取り上げられなくなりました。
特別急行の櫻、格好いいです。渋い。
近場までの時間だと今と比べてもそこまで遜色ないのすごいな
横須賀線は現在(2023年)よりも速いほど。この当時は東京から横須賀は68分だったのに現在は80分程度かけています。
@@TSUYOS185
なぜそんなに遅くなったのですか?
@@musashi3755
昔は東海道線と横須賀線が同じ線路を使用して運行しており、品川-戸塚間で今と走るルートが異なるから
後は、相鉄への直通線(西大井-新鶴見間)や湘南新宿ライン(西大井-戸塚)での遅延の影響を受けやすいため(特に西大井-品川間にある信号所)
かな?
@@shiwasu2276 ありがとうございます。
@@musashi3755さま
さらには逗子で前の4両を分割→留置線入れ→それから久里浜行きの発車で時間を要していることもあるのでしょう。朝のラッシュの下りは分割の間に後続の電車が逗子駅に到着し、その電車に接続することも。
かつては昼間は全て逗子止まり、そこから4両の折り返し電車で横須賀や久里浜に向かっておりましたが、今は昼間は一時間に1本直通しています。
東京や横浜からの横須賀線は逗子あたりが限界、その先は事実上京急の快特や特急が担っています。
神戸行きが多いな、当時の神戸は西日本一の巨大港湾都市で貨物の需要も多かったんだろう
戦前、1940年の時刻表は復刻版でも持っていないので貴重でした。横須賀行きがパターンダイヤ化されて夜遅くまでありますね。
後は、「特急」じゃなくて「特別急行」、急行には愛称が無いなど、時代背景がうかがえます。長距離の普通列車は何か想定通りに色々出てきて
笑ってしまいました。ありがとうございました。
動画お疲れ様です。
ついに戦前期の東京駅ですか。
正真正銘の超特急と謳われた燕。
燕を補完する形で生まれた鴎
大衆向け特別急行の先駆けである櫻
国際特急であり大戦前は欧州への連絡も担っていた富士
とまさに特別急行の中の特別急行という感じです。
東京大阪間も夜行で効率よく移動が当然の時代。
その中でも名士列車と言われた17列車とこちらも名だたる面子が揃ってます。
ただここから戦争突入・戦後の物資不足と暗い時代に入るのが…
軍港があった横須賀行きの頻発、大阪以西に行く列車には特急や急行と合わせて普通も運転されていたことが、当時の時代背景を物語っているように思います。
一般庶民は長距離の移動でも普通列車を利用していたんでしょうか。忍耐を要したことでしょうね。
この頃は天下の東海道線と言えども特急や急行、さらには1等や2等車は高級軍人や商務客など限られたものだったのでしょう。お金を出したからおいそれと乗れる存在ではなかったものと思います。
今や通勤客が湘南エリアから東京駅まで「特急」に乗車することもある時代。高級空間からプチ贅沢での着席通勤へとなりましたね。
二等車以上や特別急行に乗ることは一般庶民にはまずないですが
急行の三等車は、長距離ならば利用していたと思いますよ
どれぐらい長距離になると、急行を利用するか
東京からだと、名古屋新潟仙台以遠あたりが、庶民にとっては基本的な境界です
(成金が、熱海ぐらいの距離なのに急行を利用して、話題になった)
多くの普通列車が長距離で直通しているのは、郵便や荷物の輸送のためです
@@TSUYOS185 さん
そういえば昔の国鉄の優等列車って、本当に長距離移動するときくらいしか利用することがなかったです。
関西在住ですが、今は「ラクラクはりま」や「びわこライナー」、「やまとじライナー」といった通勤特急的な中距離列車が増え、大衆化したと感じます。
@@user-nak7etahew さん
逆にいえば、名古屋や新潟、仙台までの利用客は普通列車の利用が一般的だったわけですね。時代背景とはいえ、なかなか大変な移動だったことでしょうね。
長距離普通列車が多かったのは、郵便や荷物が理由だったんですね。確かに終着駅ごとに荷物などを積み替えるのは人手も手間もかかるでしょうね。とても納得できました。
戦前の時刻表が残っているとは。。。
これだと、下関~釜山の戦前と現在の比較も出来そうですね。期待してます。
普通でも意外と早いな、と思うやつは18きっぱー。
話によると旅行の制約は出てきていたそうですが、特例と言うべきか分かりませんが、参拝目的なら遠出は出来たそうです。
20時35分と20時40分の柳井経由下関行き。
当時は現在の岩徳線が山陽本線で、柳井経由が柳井線だったからですね。
麻里布駅は現在の岩国駅で、当時は現在の西岩国駅が岩国駅でした。
1945年の時刻表見てみたいな
長距離列車が走る中で横須賀行きだけは毎時22分52分のパターンダイヤですね。
当時の23:52発横須賀行きの終電はどんな人が乗ってたんでしょうかね。
もし今同じ電車があったなら仕事終わりの酔っ払いばかりだと思いますが、当時も同じ様子だったんでしょうか?
2等車は海軍の関係者や鎌倉や逗子に邸宅を構える名士の方々が多かったのでしょう。
下関行きが多いなぁ。
こうなってくると下関港の時刻表が見てみたい
やはり戦前ということもあって横須賀行きが多いように感じます
まだ横須賀線が久里浜駅まで開業していなかったことも大きいです。(2023年現在も久里浜駅行きは多い。)
横須賀駅のホームから改札、さらには駅前広場まで段差が無いのがその名残です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の情勢を反映しているなと思います。時刻表から見える当時の情景も興味深いですね。
確か士官は横須賀線、下士官・兵は今の京急線で移動を分けていたと昔何かの本で読んだ覚えがあります。京急線が三浦半島の内陸を走っているのも物理的に軍港が見えにくくするため。プラス特に機密保持が必要な区間は日よけの鎧戸を閉めていたそうです。
なるほど・・・京急線が軍港地区から離れた市街地を通ってるのはその為か😳😳😳
しかし、それが今の京急線とスカ線の賑わいの明暗を別ける結果になるとは何たる皮肉😢😢😢
この時代、5時台の列車に乗るには前泊必須だったのだろうか
昭和15(1940)年は東京オリンピックが開催される予定でしたが、日本が日中戦争を起こしたことで世界中から非難されたため、この大会は中止になった。その後、昭和39(1964)年、令和3(2021)年に東京オリンピックが開催された。
海軍の基地があったせいか、横須賀行きが多いですね。太平洋戦争開戦前夜の時期ですから、需要もあったのでしょう。
横須賀行きが多いのは、軍港があるからですね。東海道本線と横須賀線が同じレールを走っていたとは言え、これだけの高頻度だったのは知りませんでした。呉線経由というのも、その流れでしょうか。
個人的にもう1つ興味深いのは、東海道本線の行き先に静岡西部や愛知県内の行き先がほとんどないこと。戦後になると浜松行きや静岡行きがありますが、これも段々と運行距離を短くしていった結果だったのでしょうね。
戦後の東海道線は静岡、浜松、名古屋と徐々に電化区間が延伸され、その度に80系電車による普通列車が電化区間の端で折り返すようにしたからかもしれませんね。
5:38 呉線経由普通下関行きの紹介についてですが、広島の時刻間違っていませんか?
岡山が4:38で広島が5:39だと1時間しかかかっていないので、さすがに新幹線じゃないと無理です…。
多分横須賀行きが多いのは横須賀に海軍基地があったからだと思う
燕・鷗・桜・・・考えてみればこの頃から西の地方と縁があるんですよね。
お疲れ様です。関門トンネル開通前夜のダイヤですね。そして山陽本線が現在の岩徳線経由が
メインルートの時代。以前、旅行業取扱管理者試験の講座を担当していたときがあって、運賃計算キロの
解説をするとき、岩徳線と山陽本線の関係を話したものです。
燕号が大好評で、不定期の燕号を増発、ほとんど毎日運行されていたそうですね。
燕は戦前から午前9:00東京発だったのですね。これは知りませんでした。
戦後も電車化されるまで9時発はそのままでした。
イギリスのロンドンからエジンバラに向かうフライング・スコッツマンという特急列車もロンドンのキングス・クロス駅の発車は長年10時に固定されていました。どちらも伝統、栄光のある列車と言えますね。
昔、大阪行きの急行銀河と大垣行きの夜行に乗ったけど疲労感半端じゃなくいずれも東京への帰路は新幹線を利用した。
椅子だって当時は上等じゃなかったはず。
東京から下関まで列車なんて想像も出来ない。
それでも他の交通機関がほとんど存在しなかった時代、ボックスシートでまる1日は当たり前だったようです。
大きな駅では長時間停車、ホームの洗面台で煤を浴びた顔を洗ったり体を動かすのがリフレッシュだったのかもしれません。
大宮の鉄道博物館で鉄道150年に関する説明を受けたことがありますが、戦局が悪化すると通路側の肘掛けを外して一つのボックスに6人がけということもあったようです。
こんにちは久しぶりです
自分こないだ1925年のダイヤ改正の本を買ったんですよ今から約100年まえですね
リクエストなんですけど北陸本線のこと話してください
たくさんの鈍行列車がありますよ
東海道本線はヤバいですよ
動画編集お疲れ様でした。
戦前編が遂に出ましたね。
戦前って事なら、当時日本領だった南樺太の豊原や大泊の時刻表とかお願いできますか?
17:30分発平塚行きはいまもありすね
特急に格上げされてですが
19:00の小田原行きも似たような感じです
下関止まりがやたらと多い?そうか関門トンネル開通前か。下関から先の九州・釜山・大連方面へは連絡船の時代でしたね。
ガチの素人質問で申し訳ないんですけど
当時の長距離普通って本当に今で言う普通、各駅停車だったんですかね…?
非有効(深夜)時間帯の停車駅は、急行列車と大差ない
利用の少ない小駅を終日営業するのは経費の無駄だから
@@user-nak7etahew
大垣夜行(普通列車)も深夜帯は主要駅のみの停車でしたね。
@@shinpeikitajima7115
「小田原までは各駅に停まります、小田原までは各駅に停まります。小田原を出ますと、熱海、三島、沼津、富士、静岡、静岡から先は三河塩津を除き終点大垣まで各駅に停まります」
なぜか横須賀行きが多いよね。当時4大軍港だったから、やはり、大陸への出兵や、横須賀の軍需工場へ通勤す る需要が非常に多かったと思う。今の横須賀線分離は昭和55年くらいかな。また呉を経由する下関行きもあるくらいだから、レジャーやビジネスより完全に軍需輸送優先のダイヤ構成になっているのがみえる。
ちゃんとご自分で理由も書いていらっしゃいますね
その理由で正しいと思いますよ
なので「なぜか」というのはおかしいと思います
一見すると、翌年に米国と戦争するとは考えにくい華やかさがありますが、昼間の急行が少ないですね。
特急富士が下関止まりなことから察せられるけど、関門トンネル開通直前の時刻表であるわけですね
さくら、富士、つばめと往年の寝台特急の先駆けとなる列車号は戦時中から名前があったんですねぇ
下関での渡し船(あるのか?)と接続先の九州の列車の行き先等も載せたらもっと面白いかもですね
そして横須賀行きの多いこと。軍港だから重要性はとてもよくわかる。呉港経由も数本ある。しかし舞鶴港行きは流石にありませんね
東北、常磐系統で当時の青森港接続と、大湊警備府行きの列車があったかどうかも気になりますね~
下関からは門司(今の門司港駅)への関門連絡船がありました。関門トンネルの開通後も1964年まで門司港との輸送で残っていました。
舞鶴港行きの列車がなかったのは意外ですね。京都から乗り継ぐしかなかったのでしょう。
長距離の普通列車が凄い
もし現在でも存在していたらATOS接近放送で「普通 姫路行き」や「普通 下関行き」なんて聞けたら胸熱ですね。18キッパー御用達の列車かな。
横須賀行きが多いな。軍港と関係してるかな
1925年(別動画あり)と比しても、列車の本数が少なくなっている。特に夜行と特急。戦争の影響が出始めた頃。
翌1941年、アメリカ🇺🇸が対日石油輸出禁止(太平洋戦争の遠因)した事による燃料事情悪化で、この時刻表も殆ど壊滅状態に😖😣→基本軍用や疎開用の列車で、旅行用の列車は無くなった。
横須賀まで70分弱なら今より早い(笑)
たしかこの後の改正ぐらいから、電車の本数も所要時間も戦況でどんどん悪化したんですよね…
下関まで28時間もかけて普通列車を運行させる意味は何なのだろうか…
硬い座席で乗り通した人もいるんだろうな…
運転区間を短距離こまぎれに系統分離して、終着駅に着くたびに毎回、郵便車や荷物車を切り離し次の列車に連結するの、面倒くさいんだけど
初めてコメントします。
当時はいかに軍優先、海運優先だったかがわかる時刻構成でしたね。
個人的には
神戸駅の写真がありましたが、柱の特徴とか今と変わらず重厚でいかに繁栄していたかが垣間見えます。
リクエストとすれば小生が学生時代の書物、宮脇俊三先生「時刻表昭和史」に昭和17年急行第1列車で博多へ向かうくだりがあります。
当時途中駅でどのような接続があったかわかると幸甚に存じます。
横須賀で始まり、横須賀で終わるw
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の横須賀の重要性が垣間見える設定ですよね。
岩徳線が山陽本線だった時代か。
5:38 呉線経由で岡山広島間が1時間…?
今でもそんなに早くないような
広島09:10著ですね
令和の日本社会の退化が凄まじいですが、現在東京駅からの横須賀方面終電は23時過ぎですので、戦争前に比べて約1時間繰りあがっています。この手の繰上りは夜行列車壊滅によって日本全国でおきていますが(東京札幌間など)対横須賀という近距離かつ今も昔も鉄道一択の地でこれですから。日本はどうなってしまうのか
戦後は常に23時半ごろまで横須賀方面行きがあったものの、近年保守間合いの時間確保のために終電が繰り上げられていますね。
東京発の終電が23時4分ですし。
京急であればもう少し遅い時間まであるもののこちらも保守間合い時間の確保という観点もあって近年終電が繰り上がりました。
逗子行きが23時35分、大船行きが23時50分ということを考えると都心からは鎌倉や逗子あたりまでが横須賀線のテリトリーであるものと考えます。
今と違いこの時代は線路の保守は手作業によるものが多かったとは思いますが、それでも現在と変わらない時間で線路や信号の点検や整備がきちんと行われていたことが驚きです。
いきなり普通列車大阪行きというパワーワード
今日は千葉から東京に行って、東海道線に乗るか。
今からだと、最終広島行に乗れるな。
さぁ、旅は始まった。
当時は総武線の電車で秋葉原、山手線で東京ですね。
83歳の母が生まれた年はこうだったのか...
横須賀線が横須賀支線だった時代ですね。
懐かしい時刻だね
特急が意外と少ない印象
そりゃ
「普通」急行ではなく
「特別」急行ですからね
青春18切符がこの時代にあったら
どれだけのTH-camrが
使って動画を取って
うpしていただろつも
想像妄想してしまう
横須賀線の本数が多い。
日中戦争の戦局悪化が進み始めた頃で兵役輸送も兼ねた横須賀行きや下関行きが多いのでしょうか。
横須賀行き多い
普通 下関行き😮
横須賀多すぎw
スライドの表示時間が長すぎる。もっと知りたい列車もあるんだ、ちゃっちゃと進行させて欲しい