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早岐駅(はいきえき)、南風崎駅(はえのさきえき)読めない😫
長距離移動手段が鉄道しかなかった当時の方々の苦労が偲ばれます。
当時の鉄道状況にお詳しい方々のコメントに思いを馳せながら時刻表を眺めています。主様いつも 素晴らしい動画をありがとうございます🙇♂️
当時の東京発列車は横須賀線へ直通列車が多く運転されている。
疎開輸送、大戦末期の空襲による破壊、終戦後の混乱、鉄道員の方々の苦労は計り知れない。諦めず鉄路を残してくれたからこそ、今日の鉄道に繋がってます。往年の寝台特急さくら佐世保行きが当時の早岐行きに通じるのでしょうか
貴重な動画ありがとうごさいます。引揚げ列車の時刻は、やっとの思いで引揚げて来た復員兵の方々の事を思うと単なる数字では、言い表せない気持ちになりました。😢
貴重な動画ですね。ありがとうございます。電力不足と石炭不足により翌年まで列車本数を削減して速度も低下したダイヤでした。9:02発8011レ、12:25発8013レ、22:40発8017レの3本の早岐行きは折り返しで一駅先の南風崎発の東京、上野行きの引き揚げ列車の送り込み運用ですね。列車番号8000番台は特殊列車と呼ばれていました。到着するのは翌々日で2日掛かりで走破してきましたね。23:50発翌日未明2:45に終着駅沼津に着く847レにも注目ですね。日付をまたいで深夜未明に沼津に着く時間帯にどのような需要があったのか?不明ですが、冬期は戦災孤児達が凍死をさけるためにこの列車に無賃乗車して東京ー沼津間を往復して「ヌマカン」と呼ばれていたそうです。この時間帯でも超満員で検札は来なかったそうですが、終着沼津駅に着いてからは改札口を突破するのが大変で線路の上を逃げ回ったらしいです。絶望的とも言えるダイヤですが復興の兆しがわずかに見て取れます。
南風崎以外にも博多、舞鶴などからも外地からの引揚者が内地の土を踏んでいます。引揚者には無料で目的地の駅まで乗車できる引揚者乗車証が交付されました。普通列車なので日数はかかるとは言っても着の身着のままで戻ってきた引揚者にとって内地での移動は外地と比べたら苦ではなかったと思います。
命からがら大陸から引き揚げられた方にとって、祖国の悲惨な現状を目の当たりにすることになりましたが、その方々の頑張りもあって今の我が国が築かれたことを考えると本当に感謝の限りです。
戦争でひどい目にあったのに、富士山が変わらなかったことに、安堵して涙がこぼれたしょうね。
復員列車といえば南風崎発、上野行祖父はスマトラで終戦を迎えたが、家が北九州だったため復員列車には乗らずに帰ってきました。
大連の港からは大陸からの20万人の邦人が引き揚げたとのことです。その多くが南風崎に上陸したようですね。
帰りは南風崎だったんですよね中国戦線、出征は門司から母方の祖母の家がが兵舎の中で唯一の商店(雑貨屋)を営んでおり5,6歳だった母(現在89歳)は出征する兵隊さんたちに可愛がられたそうです祖父が中国に出征する時には、便宜を図って貰い、土砂降りの中、特別にお見送りさせて貰えたそうですあの兵隊さん達、何人帰って来たのかと悲しそうに語っていました。
やはり、早岐行きに目が行きますね。片道40時間弱…こんな列車初めて見ました。でも、復員された方々にとっては時間がかかろうが、寝台車や食堂車や2等車がなかろうが、生きて故郷や家族の元に帰ることができた安堵感が何よりも勝ったのではないかと思います。それともう一つ驚いたのが、最終沼津行きの到着時刻…こんな終電、今ありませんよね?1本前の東海道線が21:10発まで遡るので、これに乗れなかったお客さんの救済列車的な感じかと個人的には思いました。それにしても到着時刻が3時前とは…。
早岐行きの列車は引揚者の列車の送り込み運用ではあったものの、長距離を回送するには下りの需要も多かったことから普通列車として仕立てていたのでしょう。 3等車は肘掛けすら取り外され、ひとつのボックスに6人がけと言う時代でした。後には料金を徴収する準急列車となり、引揚げが一段落した段階で消滅しました。後に出てくる急行の西海号は進駐軍の列車に日本人が乗れるようになり、それが一般の急行となったものですので、引揚げ列車の直系とは違うのでしょうね。
戦争孤児達もウロウロして居場所を探していましたよね
まもなく100歳を迎える祖父がゴビ砂漠付近(もう少し北に行っていればシベリア抑留だったそう)で終戦を迎え佐世保に引き上げてきたそうです。実家が京都であったので南風崎発の列車に乗ったと思われます。途中広島駅に停まった際にはそこから海が見えたと言っていました。
ソ連の侵攻、さらには国民党と共産党の内戦のなか大陸の北方から沿岸(コロ島や大連)までたどり着くまでが大変なことだったかと思います。無事で幸いでしたね。
横須賀線の表記省略はGHQの意向だったのでしょうかね。到着列車の時刻や始発駅で逆バージョンも見たいです
ともやん様の他の動画でもコメントさせて頂きましたが、GHQの意向とは異なり、国電区間ということで東海道線とは別立てで東京駅の出発時刻だけ記載されていたものと思います。本数が多いことから始発や終電を詳細に記載し、データイムの途中駅の時刻を省略するのは戦前からありました。
@@TSUYOS185他の動画でもコメントしましたがってなんでそんなこと言われないといけないんですか?この動画しか見てない人もたくさんいますしいちいちコメント欄気にして見てる人の方が少数です
戦前よりもスピードダウンしてました牧之原や関ヶ原を登る燃料の確保が大変だったのでは?でも米軍はグリーン車みたいな車両で優先通行してたんですね。
漫画家のちばてつや先生の漫画とか、女優の小林千登勢さんの著書で見ましたが、当時、中国大陸や朝鮮半島に住んで居た日本人は大変な思いをして日本本土に引き揚げて来たとの事。若い頃に仕えていた上司も少年時代に満州から命からがら引き揚げて来たと言ってました。ある著名人が、南風崎から東京へ向う列車が広島を通る時、核攻撃で壊滅的被害を受けたの見て、衝撃を受けたとの手記を読んだ事が有ります。鉄道を占領軍が管理していたので、寝台車とかは連結されてませんね。
私の祖父、祖母、父と兄姉がそうでした。父と妹(戦後産まれ)の年齢差が10歳近く違うのは、その間の弟・妹は様々な事で◯んだと聞いてます。それだけ引き上げが壮絶だったんだなあ😢
戦争から焼け残った1等や2等の寝台車は占領軍の列車になり、3等寝台車は昭和16年の時点で廃止され、座席車に改造されたのでこの時代は日本人が使える寝台車はありませんでした。かろうじて2等の座席車が残っていたくらいかと思います。私の母親は大連からこの年の2月に四歳で引き揚げてきましたが、実家が武雄温泉だったので長距離の復員列車は使わなかったとのことでした。詳細は母の兄や姉からお聞きしました。祖母に抱えられて引き揚げ船に。大連に住んでいたからまだ良かったものの、今の吉林省や黒竜江省あたりからの引き揚げは壮絶を極めていたそうですね。上陸した浦頭には博物館があるそうなので一度訪ねたいと考えています。鉄道系TH-camrで有名な西園寺さまのお祖父様も朝鮮半島から引揚げされたとのことです。先祖を訪ねる旅の動画が先日出ていましたね。
昭和22年4月号付録の時刻表見ていると関東各線の運転本数がすさまじいことになっている。相模線1日5往復、伊東線1日12往復、両毛線1日10往復、日光線1日4往復、川越線1日6往復、足尾線1日4往復、五日市線1日8往復、八高線1日6往復、中央東線1日11往復、房総東線1日5往復こりゃ殺人的ラッシュになるわけだ。でもこれで最悪期よりは列車が走っているってのもすさまじい限りである
伊東線は電化前なのにこれだけ本数があったのですね。幹線の復旧や輸送が最優先され、支線はまだ行き届かなかったものと思います。これらの支線も厚木基地や横田基地への米軍輸送が優先され、さらには貨物列車も運転されていたことを考えると旅客列車の本数が少なかったのも理解できます。
@@TSUYOS185 昭和19年5号(1月)時刻表と対比すると相模線16往復→5往復、伊東線は変わらず、両毛線12往復→10往復、日光線12往復→4往復、川越線14往復→6往復、足尾線8往復→4往復、五日市線10往復→8往復、八高線9往復→6往復、中央東線18往復→11往復、房総東線12往復→5往復。 伊東線は変わらなかったが、戦時中より戦後2年目の方が運転できなかったのである。
@@TSUYOS185 伊東線は開業時から電化していますが。
@@HEATEP789さま伊東線は最初から電化されていたのですね。すみませんでした。
横須賀線の本数がやたら多いのは、利用者が多かったと言うよりGHQの命令で運行させられたと言った方が良いのかな?
この当時、旅客用機関車が不足していたのにもかかわらずGHQが許可しなかったため、やむなく貨物用機関車から改造することに。この年にD51から改造されたC61が、翌年にD52から改造されたC62が登場することになりました...
安上がりで高性能になるからかな?
C59からC62高性能だよね?四天王と言って良いくらい。
丁度この頃EF58がデッキ付きで投入開始されてるが、この動画での状況を思うとかなり厳しい状況下の運用開始を思わせます。70系客車や代用車という何とか走れる車両を牽いてその日が精一杯で復興が見えない時期と想像します。
SL牽引、しかも質の悪い石炭で沼津まで3時間、静岡まで4時間弱はなかなかに速くないですか(?_?)あと、新幹線岡山開業時の岡山駅山陽線の時刻表がみたいです
すでにありますよ。【国鉄時刻表】1972年3月 岡山駅山陽本線 JAPAN OKAYAMA station ;SANYO LINE time table 1972th-cam.com/video/Z5bFmdTcOas/w-d-xo.html
@@tatsuohimunful ありがとうございます。行ってみます
13:30の「東海道本線について」に書かれていますが、当時は東京-沼津間は電化されており、電気機関車が牽引していました。
21:35 の急行大阪行、後の急行「銀河」の萌芽を感じます。
スカ線、発時刻+運行番号の列番になってるな
早岐駅(はいきえき)、南風崎駅(はえのさきえき)読めない😫
長距離移動手段が鉄道しかなかった当時の方々の苦労が偲ばれます。
当時の鉄道状況にお詳しい方々のコメントに思いを馳せながら時刻表を眺めています。主様いつも 素晴らしい動画をありがとうございます🙇♂️
当時の東京発列車は横須賀線へ直通列車が多く運転されている。
疎開輸送、大戦末期の空襲による破壊、終戦後の混乱、鉄道員の方々の苦労は計り知れない。諦めず鉄路を残してくれたからこそ、今日の鉄道に繋がってます。往年の寝台特急さくら佐世保行きが当時の早岐行きに通じるのでしょうか
貴重な動画ありがとうごさいます。引揚げ列車の時刻は、やっとの思いで引揚げて来た復員兵の方々の事を思うと単なる数字では、言い表せない気持ちになりました。😢
貴重な動画ですね。ありがとうございます。電力不足と石炭不足により翌年まで列車本数を削減して速度も低下したダイヤでした。
9:02発8011レ、12:25発8013レ、22:40発8017レの3本の早岐行きは折り返しで一駅先の南風崎発の東京、上野行きの引き揚げ列車の送り込み運用ですね。列車番号8000番台は特殊列車と呼ばれていました。到着するのは翌々日で2日掛かりで走破してきましたね。
23:50発翌日未明2:45に終着駅沼津に着く847レにも注目ですね。日付をまたいで深夜未明に沼津に着く時間帯にどのような需要があったのか?不明ですが、冬期は戦災孤児達が凍死をさけるためにこの列車に無賃乗車して東京ー沼津間を往復して「ヌマカン」と呼ばれていたそうです。この時間帯でも超満員で検札は来なかったそうですが、終着沼津駅に着いてからは改札口を突破するのが大変で線路の上を逃げ回ったらしいです。
絶望的とも言えるダイヤですが復興の兆しがわずかに見て取れます。
南風崎以外にも博多、舞鶴などからも外地からの引揚者が内地の土を踏んでいます。
引揚者には無料で目的地の駅まで乗車できる引揚者乗車証が交付されました。普通列車なので日数はかかるとは言っても着の身着のままで戻ってきた引揚者にとって内地での移動は外地と比べたら苦ではなかったと思います。
命からがら大陸から引き揚げられた方にとって、祖国の悲惨な現状を目の当たりにすることになりましたが、その方々の頑張りもあって今の我が国が築かれたことを考えると本当に感謝の限りです。
戦争でひどい目にあったのに、富士山が変わらなかったことに、安堵して涙がこぼれたしょうね。
復員列車といえば
南風崎発、上野行
祖父はスマトラで終戦を迎えたが、家が北九州だったため
復員列車には乗らずに帰ってきました。
大連の港からは大陸からの20万人の邦人が引き揚げたとのことです。その多くが南風崎に上陸したようですね。
帰りは南風崎だったんですよね
中国戦線、出征は門司から
母方の祖母の家がが兵舎の中で唯一の商店(雑貨屋)を営んでおり
5,6歳だった母(現在89歳)は出征する兵隊さんたちに可愛がられたそうです
祖父が中国に出征する時には、便宜を図って貰い、土砂降りの中、特別にお見送りさせて貰えたそうです
あの兵隊さん達、何人帰って来たのかと悲しそうに語っていました。
やはり、早岐行きに目が行きますね。
片道40時間弱…こんな列車初めて見ました。
でも、復員された方々にとっては時間がかかろうが、寝台車や食堂車や2等車がなかろうが、生きて故郷や家族の元に帰ることができた安堵感が何よりも勝ったのではないかと思います。
それともう一つ驚いたのが、最終沼津行きの到着時刻…こんな終電、今ありませんよね?1本前の東海道線が21:10発まで遡るので、これに乗れなかったお客さんの救済列車的な感じかと個人的には思いました。それにしても到着時刻が3時前とは…。
早岐行きの列車は引揚者の列車の送り込み運用ではあったものの、長距離を回送するには下りの需要も多かったことから普通列車として仕立てていたのでしょう。
3等車は肘掛けすら取り外され、ひとつのボックスに6人がけと言う時代でした。
後には料金を徴収する準急列車となり、引揚げが一段落した段階で消滅しました。
後に出てくる急行の西海号は進駐軍の列車に日本人が乗れるようになり、それが一般の急行となったものですので、引揚げ列車の直系とは違うのでしょうね。
戦争孤児達もウロウロして居場所を探していましたよね
まもなく100歳を迎える祖父がゴビ砂漠付近(もう少し北に行っていればシベリア抑留だったそう)で終戦を迎え佐世保に引き上げてきたそうです。
実家が京都であったので南風崎発の列車に乗ったと思われます。途中広島駅に停まった際にはそこから海が見えたと言っていました。
ソ連の侵攻、さらには国民党と共産党の内戦のなか大陸の北方から沿岸(コロ島や大連)までたどり着くまでが大変なことだったかと思います。無事で幸いでしたね。
横須賀線の表記省略はGHQの意向だったのでしょうかね。
到着列車の時刻や始発駅で逆バージョンも見たいです
ともやん様の他の動画でもコメントさせて頂きましたが、GHQの意向とは異なり、国電区間ということで東海道線とは別立てで東京駅の出発時刻だけ記載されていたものと思います。
本数が多いことから始発や終電を詳細に記載し、データイムの途中駅の時刻を省略するのは戦前からありました。
@@TSUYOS185
他の動画でもコメントしましたがってなんでそんなこと言われないといけないんですか?
この動画しか見てない人もたくさんいますしいちいちコメント欄気にして見てる人の方が少数です
戦前よりもスピードダウンしてました
牧之原や関ヶ原を登る燃料の確保が大変
だったのでは?でも米軍はグリーン車
みたいな車両で優先通行してたんですね。
漫画家のちばてつや先生の漫画とか、女優の小林千登勢さんの著書で見ましたが、当時、中国大陸や朝鮮半島に住んで居た日本人は大変な思いをして日本本土に引き揚げて来たとの事。
若い頃に仕えていた上司も少年時代に満州から命からがら引き揚げて来たと言ってました。
ある著名人が、南風崎から東京へ向う列車が広島を通る時、核攻撃で壊滅的被害を受けたの見て、衝撃を受けたとの手記を読んだ事が有ります。
鉄道を占領軍が管理していたので、寝台車とかは連結されてませんね。
私の祖父、祖母、父と兄姉がそうでした。
父と妹(戦後産まれ)の年齢差が10歳近く違うのは、その間の弟・妹は様々な事で◯んだと聞いてます。
それだけ引き上げが壮絶だったんだなあ😢
戦争から焼け残った1等や2等の寝台車は占領軍の列車になり、3等寝台車は昭和16年の時点で廃止され、座席車に改造されたのでこの時代は日本人が使える寝台車はありませんでした。かろうじて2等の座席車が残っていたくらいかと思います。
私の母親は大連からこの年の2月に四歳で引き揚げてきましたが、実家が武雄温泉だったので長距離の復員列車は使わなかったとのことでした。詳細は母の兄や姉からお聞きしました。
祖母に抱えられて引き揚げ船に。
大連に住んでいたからまだ良かったものの、今の吉林省や黒竜江省あたりからの引き揚げは壮絶を極めていたそうですね。
上陸した浦頭には博物館があるそうなので一度訪ねたいと考えています。
鉄道系TH-camrで有名な西園寺さまのお祖父様も朝鮮半島から引揚げされたとのことです。先祖を訪ねる旅の動画が先日出ていましたね。
昭和22年4月号付録の時刻表見ていると関東各線の運転本数がすさまじいことになっている。
相模線1日5往復、伊東線1日12往復、両毛線1日10往復、日光線1日4往復、川越線1日6往復、足尾線1日4往復、五日市線1日8往復、八高線1日6往復、中央東線1日11往復、房総東線1日5往復
こりゃ殺人的ラッシュになるわけだ。でもこれで最悪期よりは列車が走っているってのもすさまじい限りである
伊東線は電化前なのにこれだけ本数があったのですね。
幹線の復旧や輸送が最優先され、支線はまだ行き届かなかったものと思います。これらの支線も厚木基地や横田基地への米軍輸送が優先され、さらには貨物列車も運転されていたことを考えると旅客列車の本数が少なかったのも理解できます。
@@TSUYOS185 昭和19年5号(1月)時刻表と対比すると相模線16往復→5往復、伊東線は変わらず、両毛線12往復→10往復、日光線12往復→4往復、川越線14往復→6往復、足尾線8往復→4往復、五日市線10往復→8往復、八高線9往復→6往復、中央東線18往復→11往復、房総東線12往復→5往復。 伊東線は変わらなかったが、戦時中より戦後2年目の方が運転できなかったのである。
@@TSUYOS185 伊東線は開業時から電化していますが。
@@HEATEP789さま
伊東線は最初から電化されていたのですね。すみませんでした。
横須賀線の本数がやたら多いのは、利用者が多かったと言うよりGHQの命令で運行させられたと言った方が良いのかな?
この当時、旅客用機関車が不足していたのにもかかわらずGHQが許可しなかったため、やむなく貨物用機関車から改造することに。この年にD51から改造されたC61が、翌年にD52から改造されたC62が登場することになりました...
安上がりで高性能になるからかな?
C59からC62高性能だよね?四天王と言って良いくらい。
丁度この頃EF58がデッキ付きで投入開始されてるが、この動画での状況を思うとかなり厳しい状況下の運用開始を思わせます。
70系客車や代用車という何とか走れる車両を牽いてその日が精一杯で復興が見えない時期と想像します。
SL牽引、しかも質の悪い石炭で沼津まで3時間、静岡まで4時間弱はなかなかに速くないですか(?_?)あと、新幹線岡山開業時の岡山駅山陽線の時刻表がみたいです
すでにありますよ。【国鉄時刻表】1972年3月 岡山駅山陽本線 JAPAN OKAYAMA station ;SANYO LINE time table 1972
th-cam.com/video/Z5bFmdTcOas/w-d-xo.html
@@tatsuohimunful ありがとうございます。行ってみます
13:30の「東海道本線について」に書かれていますが、当時は東京-沼津間は電化されており、電気機関車が牽引していました。
21:35 の急行大阪行、後の急行「銀河」の萌芽を感じます。
スカ線、発時刻+運行番号の列番になってるな