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2:47 急行「第2雲仙、第2高千穂」終着時刻上に「翌日」を付け加えた方が良いです、さもないと知らない人は「えーっ⁉九州まで2、3時間で着いちゃうの⁉」と勘違いする人がいるかも知れないから。
早朝の普通列車は横須賀線と東海道線が交互に発車するんですね。
いつもありがとうございます。東海道新幹線開通前夜の貴重な時刻表ですね。今で言う新幹線+東海道線の通勤電車+横須賀線でしたから過密ダイヤになるのは仕方の無いことだったと思います。そうした中でも年末の帰省ラッシュに対応するために線路容量一杯まで列車を走らせることの大変さが良くわかります。そんな中、朝の一番電車と終電の発車時刻が今とほとんど変わらないのも不思議なものです。昭和40年の神奈川県の人口が440万人。今の半分以下だったとはいえ勤務先は東京に集中していたことを考えるとこれだけ電車を走らせても大混雑するのは仕方ないですね。神奈川県民である私にとって東海道線が全国の大幹線から東京と神奈川県との通勤路線に変化した歴史を辿るのも興味深いものです。
東海道・山陽本線のビュッフェではお寿司でしたが、東北本線・上越線・北陸本線のビュッフェは「そば・うどん」が販売されていました特に「よど」は時間帯が良くて、急行のビュッフェの中では売り上げがTOPクラスだったそうです14:38の「しらぬい」はこの頃は多客時の臨時列車の常連でしたが、後に岡山~熊本の急行として定期列車になりました。特に「安芸」が岡山到着し「しらぬい」に乗り継いだら「安芸」よりも物凄く早く広島に到着するので、密かに東京地区でも「安芸」→「しらぬい」の乗継は人気でした東海道急行群ですが、「なにわ」「せっつ」「よど」「いこま」「六甲」「やましろ」のほかに不定期「はりま」が運行も、こちらは80系で運行される事が多く人気はあんまりなかったです後、「銀河」が食堂車連結と書かれておりますが、この頃食堂車(ビュッフェのオシ16)連結していたのは「彗星」で御座いますが、この時期だけ彗星から銀河になっていたのでしょうか?一応昭和39年5月・9月時刻表持っておりますが、両方共ビュッフェ連結は「彗星」のみで御座います後、「出雲」は二見浦行きの南紀観光団体専用列車併結、「金星」は日光信越観光団体専用列車併結を通常はしていますが、「金星」は多客時は団体列車の車両分座席車を連結しており、昭和39年5月号の時刻表では「天満」は単独運転でした22:45の「大和・伊勢」は、多分誤植と思いますが「大和」単独運転で御座います。
自室の窓から新子安〜東神奈川を間近に見下ろすことができます。当時に行けたら一日線路を見ていても飽きなかっただろうな、と想像しながら見ています。
そんな中、この時期の1ヶ月前には鶴見で三重衝突事故が発生。160人の方が亡くなりました。總持寺は遺体の安置所となっていたとのこと。急な増発、過密ダイヤに保安設備の容量が追い付かなかった時代でもありました。時々東海道線や横須賀線を利用して東京に向かっておりますが、絶えず安全輸送に携わる皆様には感謝の限りですね。
アップありがとうございます。大阪行の急行6人衆もそうですが、銀河・彗星・月光の寝台急行の姿が見れたのがうれしいです。そういえば、第2こだまから酒匂川鉄橋に身代金を投げ込んだ映画「天国と地獄」の公開がこの年です。実際に車両を動かして撮影したそうですが、過密ダイヤの中、よく撮影できたものだと思います。しかも失敗も許されませんからね。大変だったでしょうね。
貴重な遺物の配信を、ありがとうございます。
最終の逗子行きは今も変わってない・・・
スタートして「あれ?ワスレナグサじゃない」と思っていたら、ブルトレタイムに満を持して流れ始めるのは粋ですね特急はもちろんのこと、後に関西ブルトレに引き継がれる名前が、寝台急行として次々と発車していくのは、見てみたかったなぁ
いつもありがとうございます。16両の新幹線に比べると輸送できる量には限界があった中、色んな列車が走ってますね。長距離ばかり走らせても、日本最大の人口である首都圏の通勤客をむげにする事も出来ず、ダイヤ作成に頭を抱えたと思います。まだ客車普通列車が電化された東海道本線で走ってた時代ですね。夜行の大阪行きとか通勤客も相まみれて凄い混雑になりそう。
旅客列車の合間に大量の貨物列車も走っていましたからね。当時の主流は二軸貨車で、最高速度が65km/hしか出せないですし、加減速性能も悪かったので。
動画お疲れ様です。東海道本線黄金期の中でも特に最繁忙期の一つである年末ダイヤですね。ただでさえ線路容量MAXで運用している中で極限値まで利用しつつ何とか回してたのがひしひしと伝わりますね。
夢の超特急の開業を翌年に控え、工事が着々と進捗していた時代。でも当時特急は高嶺(高値)の花で本数からしてもまだまだ急行や準急が主役だった時代。まだ昼行特急だった「富士」、後に愛称が北海道へ渡る特急「おおとり」、修学旅行電車で運転されていた準急「ながら」。そして各地へ向かっていった夜行急行・準急... やはりこの頃は鉄道が輝いていた時代なのでしょう...BGM7曲の超大作、編集おつかれさまでした...
ともやんさまがここまで纏め上げられるのも凄いものですね。全国の鉄道の歴史を辿る上でも大変参考になる動画です。
此れだけ列車が走っていたら圧巻だよね。1日中駅に居ても鉄道ファンは飽きないね。だから国鉄時代の鉄道誌は絶大な人気を誇って居るよね。旅情と云った面では今とは比べ物に成らなかった昭和の時代ですよ。この時刻表を写真にしたら凄いそれに成りますね。
昭和38年12月。東海道新幹線開業&東京オリンピックの前年の非常に貴重な時刻表ですね😄〈長距離普通列車〉0:22 5時20分発 普通 名古屋行き8:31 9時42分発 普通 豊橋行き11:19 11時30分発 普通 名古屋行き14:36 13時35分発 普通 大垣行き17:08 14時56分発 普通 姫路行き35:20 23時30分発 普通 大阪行き36:11 23時56分発 普通 大垣行き浜松行きまでは結構ありますが、浜松以西行きはガクッと本数が減りますので、存在感が凄まじいです😄😆😊
長距離普通列車は旅客だけでなく様々な荷物や新聞を運ぶ需要も担っていましたからね。特ダネがあった日には遠方と都心での一面記事が差し変わることもありました。プロ野球の結果も途中までしか記載されず次の日の新聞にと言うことも。
これ以外に貨物があったことも考えると、とんでもない過密ダイヤだったんですね‥
60年経った今でも5時20分発の321Mは変わらないだな…行先は違うけど
この年月の時刻表は復刻版でも出ていないので貴重ですね当時の普通列車は80系電車が主体で111系が登場して1年、出力強化の113系も登場直後なので3ドア車が少なく混雑遅延もひどかったのでしょうね
新幹線新大阪開業後急行がある程度残ったのは新幹線がひかりもこだまも全車指定席だった影響があります。翌年こだまに自由席ができると短距離客も新幹線に移っていったので東京と大阪間はなにわ2往復を残して全廃は全廃されています。ヨンサントウ直前には1等車後のグリーン車とビュッフェ各1両減車して6M4Tの10両編成になり、これでセノハチも自力走行が可能になった。それまでは旧型客車改造のオヤ35型を挟んでEF61型が後押しをしていました。なお特急つばめもEF61型が後押ししていた。これは151系の181系への改造まで続いた。余談だがいつもつばめのクロ151型の自連カバーがむき出しになって帰ってくるので田町電車区ででは不思議がられたそうです。
この月は私が生まれた時です。父が私が産まれそうなので東京から大阪に帰るのに第一こだまが取れなくて仕方なくひびきに乗って帰って来た時ずっと言ってました。東海道本線が1番輝いてた時代ですね。ひびきだと食堂車か無いのが嫌だったとも言ってました。この頃の銀河の指定席はスハ44だったと思います。他の列車は10系や旧客だったのにやはり格が違ったのですね
分割民営化しない世界線はどんなんだろう、という思いはあります新幹線はあっても長距離列車は存在していただろうか
平塚、小田原、伊東は昔も変わらないんですね。線路共用していた時は、横須賀線も東海道線と同じ時刻表だったのだろうか?
銀河には食堂車は連結されていません。食堂車(と言ってもオシ16のビュッフェですが)が連結されていたのは、彗星です。
元 急行能登ユーザーです。東海道線の一員だった…ってのは知ってたけど、停車駅を見たら、やっぱ違和感あります。私の時は(寝てる間に)直江津で進行方向が変わって、いよいよ北陸だあって感じでしたが、当時の方は米原だったんでしょうね。
この日の指定席は、まさにプラチナチケットだったはず!
優等列車の編成が凄いです。特急電車が1等車4両(パーラーカー含む)、2等車6両+ビュッフェ車1両と食堂車1両の12両(ひびきを除く)。電車急行が1等車2両(指定車1両、自由席車1両)+2等車8両+ビュッフェ車2両、計12両ですから。普通も大垣行なんてありますから。国鉄時代の最後の輝きの時代でした。新幹線開業後、赤字に転落し経営環境も、労使関係も悪化し多額の赤字に苦しみ、ついに1987年の4月に国鉄は分割民営化されました。東京〜名古屋間運転のおおとり号は後の新幹線の東海ビジネスひかり的列車ですね。当時は、東京〜大船間は東海道本線と横須賀線が線路を共用し、夜間は長距離の夜行列車も沢山走っていて、線路容量がパンクしそうな感じです。
「ひびき」は157系(元々国鉄が東武DRCに対抗して、準急「日光」に導入車両で、後特急「あまぎ」→現在の「サフィール踊り子」のご先祖にも使われた)でした。
この特急おおとりはサンロクトウダイヤ改正までは準急新東海で全車指定席だった。西の準急伊吹と対をなす列車だったが、距離の長い東京名古屋間は特急に格上げされた。
戦前シリーズに頭が慣れてしまって行き先や所要時間にあまり気を払わず眺めていましたが、“第二高千穂”の南延岡だけは目が止まりました。臨時とは言え、西鹿児島でも宮崎でもなかった理由が思いつきません。大分県内や宮崎県北部までの需要が臨時で夜行急行を仕立てるほどに旺盛だったのでしょうか?
まだ航空機もほとんど無く、乗客が国鉄に集中していたことを考えると宮崎へは定期列車、延岡へは臨時など目的地に応じて行き先を分けるという形で設定されていたのではないでしょうか?臨時列車は定期列車と比べて単線区間での交換待ちの時間が長くなるなどのデメリットがあり、定期列車への信仰は根強いものがあったようです。
昔、年末年始に東海道本線の名古屋や浜松を始発として青森へ行く臨時列車がありました。名古屋はトヨタの本社に近く、浜松はヤマハ、スズキなどの本社。延岡と言うと旭化成発祥の地で、グループ最大拠点のため、ひょっとするとそういった側面もあったのかもしれません。
@@spy007ex4 確かに旭化成の企業城下町でしたね、延岡。
@@こちたんぱぱ さま後の時代になると延岡の旭化成の工場から宮崎空港に向けて出張者用のヘリが出ていたものの、そのヘリで死亡事故が発生して延岡~宮崎の特急の高速化と宮崎空港線の開業へと繋がりましたね。
南延岡へは後に急行日南が季節列車や臨時急行として運転されています。宮崎へ延長されるときにはいわゆる盛スジの臨時ダイヤになる。
7時6分発の第2高千穂と第2雲仙の到着時刻には「翌日」が必要ではないでしょうか。
別に無くても翌日だと思うだろ。
数多く発車する準急や急行のダイヤを見るにつけ、当時の特急列車が所要時間や設備においていかに特別な存在だったのかが分かりますね。23:30発の普通大阪行きは、もはや戦中もしくは戦後の頃からのお馴染みの列車という感がありますね。23:56発の大垣行きと合わせて、まさにムーンライトながらのご先祖様だと思います。興味深いのは、大阪行きの急行には様々な名称が付与されていたのに対して、名古屋・大垣行きの準急はほぼ「東海」で統一されている点です。
昼間の急行列車は目的地に近い名所や地名を付けるのが一般的でしたね。名称が増え、あまりに煩雑になりすぎたこと、さらには座席指定システムであるマルスの普及で総称制に移行しました。
@@TSUYOS185 さんなるほど、そのような経緯があったんですね。確かに、同じ行先の列車にいろんな名称があるとオペレーション面でややこしいでしょうね。ご返信ありがとうございました!
@@gingaexpress6539さまこの時刻表の後半に見られる夜行の寝台車の多い急行では天体にちなむ名称が主でした。上野から仙台に行く急行では青葉、まつしま、みやぎのが、新宿から松本へはアルプス、白馬、上高地がありました。さらには指定席を有する列車は第一、第二、全車自由席の列車では1号、2号でした。いずれも後にまつしま○号、アルプス○号の形に統一されています。
統一されたのは、ヨンサントウ白紙ダイヤ改正からですね。宗谷本線も一時は利尻に統一されましたが、礼文島から意見があり急行礼文が2年後に復活している。ただし函館からの直通急行宗谷は別格扱いだった。特急は昼行と夜行列車で愛称をわけた。また急行にも例外があり、寝台急行の北星や新星、天の川は別愛称になっている。
普通列車が日中帯で横須賀線が10分〜15分おきなのに対して東海道線は30分に1本くらいと少なく、優等列車+貨物列車もあるので、大船以西の普通列車を走らせる余裕がなかったかがわかりますね。第2せとと普通沼津行は、実際は普通列車が時刻変更して第2せとのすぐ後ろを走る感じだったでしょうね。
東海道線の朝の初電は大船駅始発で品川からの横須賀線の一番電車に接続するものでした。昭和55年までそのパターンはありました。第2せと号の場合は年末で通勤客がほとんどいなかったことを考えると普通電車を運休させ、そのダイヤを急行に回していたのかもしれませんね。その後の東北本線(今の宇都宮線に相当)や高崎線では逼迫する帰省輸送に対処するために普通電車を大宮で折り返すケースもありました。
今では考えられない、超過密ダイヤだったね。私の兄(故人)は名古屋から東京に行くのに、特急券買うのに大変苦労したと言ってました。だから新幹線は凄いね。1時間にのぞみが12本走ってますから。当時の第一こだま停車駅は、横浜、熱海、静岡、名古屋、京都でした。新幹線のぞみは熱海、静岡は通過してますが。
60年でこんなにも変わってしまうのですね…😢
特急はとの485系化はヨンナナサンダイヤ改正後のゴールデンウィークに1往復だけが使用され始め秋までに全列車485系化されました。1870年はまだ2往復共に583系です。
そうか、当時は東海道新幹線もなければ、四国にも線路がつながってなかったのか。
【こだま】と【ひびき】で「チッチキチ~」の漫才ができると思ってしまった。
そんなわけないやろチッチキチ〜👍😂
143列車と145列車は困窮列車とも言われていて、困窮者の移動手段でもありました。それと急行銀河には食堂車はついておらず、寝台急行彗星にサロンカーのオシ16型ビュッフェがついていました。寝台急行金星ですが、通常は団体専用列車が併結されており金星自体は6両の短い編成でした。たぶん急行天満はおっしゃるとおり全車両自由席の座席車だっのでしょう!ちなみにヨンマルトウダイヤ改正の頃にも臨時急行天満があります。
鉄道黄金時代の東京駅、東海道線ホームの賑わいが伝わってきました。特に東京・大阪間を結ぶ夜行急行の本数の多さは圧巻ですね。ところで今回は内容が大ボリュームだったこともありBGMの構成がいつもと違いましたね。私はこのチャンネルについて、内容も勿論素晴らしいのですがBGMも凄く良いと思っております。もしよろしければ、BGMで使用されている曲の題名を教えて頂けないでしょうか?
東京〜鹿児島に丸一日以上かけていたのが、今や飛行機と高速道路で2時間半くらいで着けるのは、改めて便利だと思いますね。
この頃、京急は、野比駅まで開通していて、旧600形で野比まで行き、そこでバスに乗り換え、両親が海水浴に連れて行ってくれた事が思い出。国鉄(久里浜まで)は不便で高いと父が京急派だったので。
この時代になると京急の輸送力が増強され、一日中特急が走るようになりましたね。野比からバスですと今の三浦海岸(当時は上宮田)あたりでしょうか。昭和40年代になると三浦海岸駅が開設され、海水浴の時期には片道一時間に9本(快特、海水浴特急、特急が3本ずつ)走っていました。広々としたホームは今も残っていますが、横浜横須賀道路の開通やレジャーとして海水浴が選ばれなくなり、夏のシーズンでも駅が閑散としているのが時代の変化ですね。
さすが等巨列車の本数もものすごい量ですね ダイヤを組む人たちも運行する現場の人たちも大変だったと思います 急行関門は初耳でした門司駅は客車特急は機関車交換で停車しますが電車特急やディーゼル特急は通貨でした 新幹線開業前は東海道本線がいっぱいいっぱいだったことが想像されます UPお疲れさまでした
細かいことで恐縮ですが、20:00発新宮行「急行那智」の右側テロップの8:26は紀伊勝浦ではなく新宮と思われるので、訂正を付記なさった方がよいと思います。(それにしても、当時は、その最寄りの場所に到達しない列車名が散見されたのですね。64年10月以降は到達するようになりましたが。)
東海道本線長距離列車の全盛期翌年10月1日東海道新幹線開業で昼行特急は姿を消してブルートレイン時代に到来するそして東京発のブルートレインはスター軍団になり特急界の人気者になる
急行銀河には、食堂車は連結されていません。急行彗星にオシ16型が連結されていた。銀河にオシ16型が連結されるのは、新幹線新大阪開業からですね!
リクエスト。昭和35年年末の博多駅上下の発時刻を。確か、チータの家族が東京に越す時に使った臨時「あさかぜ」(後のみずほの源流となった)があった筈
知る人ぞ知る熊本発着の「あさかぜ」ですな。若い子たちはチータなんていっても分からんでしょう。
いつも楽しみにしてます。お、今回は東京駅ですか。う〜ん。行先もそうですが、普通列車もこの当時で本数が多いですね。いかに中心駅であるかがわかります。
普通電車はこの頃から80系から113系に変わりました。2つドアでボックスシートでの優雅な通勤からラッシュ対策へと変貌する時代を迎えました。
寝台急行すばるはこの年の10月ダイヤ改正から新幹線新大阪開業までのわずか一年間だけの運行だった。
この時代だと東阪間(145レ)はもちろん、東名間にもまだ客レ普通(335レ)があったんですね…14:36、337Mの名古屋着の時間が間違ってないですか?
昨日ダイヤ改正で北陸の特急街道の歴史に終止符が打たれました。リクエストなのですが、京都か大阪発北陸方面か富山発着をやってほしいです。北海道から修学旅行で青森から寝台列車『日本海』に乗り、京都まで行ったのはいい思い出です🚃
第2瀬戸と沼津行きはどういうことなのでしょうかね不思議ですね丹那トンネルの上り線も使ってデッドヒートでもしていたんでしょうか三島あたりで急行が鈍行を退避する下剋上とか。。。
12月30日ともなると御用納めの後なので通勤客も少なく、普通電車のスジを臨時急行に充てて普通を運休させたのかもしれませんね。もうひとつの考え方として横須賀線の定期電車から大船接続の特発電車の可能性も。後の時代の東北本線(今の宇都宮線)や高崎線では臨時急行にスジを充てて普通電車は大宮発着というケースもありました。それほどまでに線路容量が逼迫していた証です。
無理矢理、普通列車側の時間を変えていた可能性もありますね。遅延上等みたいな状態だったのかな。それにしてもなんで途中で抜かされてるんだろうか‥。
九州へ帰省するには二日がかりだったんですね。行き帰りで4日も費やしていた。田舎に滞在できたのは大晦日と元旦の二日間だけか。
SM分離後、東海道線は所要時間短くなった。横須賀線は所要時間長くなった。
特急が少ないですね。昔の特急は特別な列車ですね。
多分今の首都圏の特急はこの時代でいう準急ですね。
日中のスカ線の本数はこの当時とそんな変わらんというね
9:00発の第1つばめ広島行は?
お尻が爆発しちゃいそうな行き先ばかりですね👻面白いです🙌
東京発特急つばめ、はと 大阪行きこだま、ひびき 大阪行き富士 神戸、宇野行きおおとり 名古屋行きさくら 長崎、佐世保行きあさかぜ 博多行きはやぶさ 西鹿児島行きその後つばめ、はと 山陽路に転向こだま 新幹線に昇格ひびき 廃止おおとり 気動車として北海道に転向富士 ブルートレインに転向さくら、あさかぜ、はやぶさは続行
特急つばめ1往復は広島発着です。上りのセノハチ越えにはEF61型が補機として連結されていた。ちなみに急行宮島にも補機は連結されていたが密着連結器なので機関庫とクハ153型の間に旧型客車を改造した確かオヤ35型が連結されていた。
今も昔も東京~大阪間の夜行需要が高いのが伺える。急行能登の米原経由は違和感でしかない。
9時のつばめが・・
深夜2時の熱海には何が有るのだろうか?
乗り過ごした人が一晩(2、3時間ですが)を過ごす場所だったのでしょう。今と違って上りも夜行の普通列車がありましたからね。私の父は東海道線の下りで横浜で降りるはずが起きたら沼津と言うこともありました。友人に至っては大垣夜行で静岡まで。
@@TSUYOS185さん スケールが小さいですが、戸塚に住んでいた頃、私も酔っぱらっていた時に寝てしまい、気づいたら平塚だった事があります。妻に詫び電を入れて車で迎えに来てもらった事があります。。。
横須賀線の本数にビビります
○○○1号じゃなくて第1○○○って表記が多いのはなぜだろうか。
特急はとはヨンナナサンダイヤ改正まで583系でした。485系が再度使用されたのは、昭和47年のゴールデンウィークでヨンナナトウダイヤ改正までに全て485系になりました。それまでのヨンナナサンダイヤ改正からは、181系に変わりました。しかしヨンナナトウダイヤ改正ではせっかく4,往復になっのもつかの間で3往復になり1往復は特急つばめになっています。
お!!久々に戦後に帰って来ましたな!!!……ってあれ?第1つばめがいない……?
本当ですね。確か、東京9:00発の広島行第1つばめがあるはずですね。
東海道線の普通列車が少ない、横須賀線が多い
貴重な情報ありがとうございます。だいたい4分目のダイヤに、貨物列車のスジも加わる訳で、当時のダイヤの逼迫ぶりが感じられます。あと、現在の我が身の振る舞いと対比して言うと、丸の内、大手町や八重洲近辺、あるいは新橋駅を利用するサラリーマンは非常に使いづらいダイヤですね。残業しようとも、新橋近辺でのんだくれようにも、20時以降は西行き夜行列車優先のダイヤになるので、スカ線や中距離電車が極端に減るので、混雑がすごかったのではないでしょうか?
やたらに久里浜行きが多いんだなw
急行霧島号鹿児島行現在は?
国鉄華やかなりし時代。分割民営化で再現不可能、悲しい(´;ω;`)
そりゃ〜MS分離とか考えるようになるわな
2:47
急行「第2雲仙、第2高千穂」終着時刻上に「翌日」を付け加えた方が良いです、さもないと知らない人は「えーっ⁉九州まで2、3時間で着いちゃうの⁉」と勘違いする人がいるかも知れないから。
早朝の普通列車は横須賀線と東海道線が交互に発車するんですね。
いつもありがとうございます。
東海道新幹線開通前夜の貴重な時刻表ですね。
今で言う新幹線+東海道線の通勤電車+横須賀線でしたから過密ダイヤになるのは仕方の無いことだったと思います。そうした中でも年末の帰省ラッシュに対応するために線路容量一杯まで列車を走らせることの大変さが良くわかります。
そんな中、朝の一番電車と終電の発車時刻が今とほとんど変わらないのも不思議なものです。
昭和40年の神奈川県の人口が440万人。今の半分以下だったとはいえ勤務先は東京に集中していたことを考えるとこれだけ電車を走らせても大混雑するのは仕方ないですね。
神奈川県民である私にとって東海道線が全国の大幹線から東京と神奈川県との通勤路線に変化した歴史を辿るのも興味深いものです。
東海道・山陽本線のビュッフェではお寿司でしたが、東北本線・上越線・北陸本線のビュッフェは「そば・うどん」が販売されていました
特に「よど」は時間帯が良くて、急行のビュッフェの中では売り上げがTOPクラスだったそうです
14:38の「しらぬい」はこの頃は多客時の臨時列車の常連でしたが、後に岡山~熊本の急行として定期列車になりました。特に「安芸」が岡山到着し「しらぬい」に乗り継いだら「安芸」よりも物凄く早く広島に到着するので、密かに東京地区でも「安芸」→「しらぬい」の乗継は人気でした
東海道急行群ですが、「なにわ」「せっつ」「よど」「いこま」「六甲」「やましろ」のほかに不定期「はりま」が運行も、こちらは80系で運行される事が多く人気はあんまりなかったです
後、「銀河」が食堂車連結と書かれておりますが、この頃食堂車(ビュッフェのオシ16)連結していたのは「彗星」で御座いますが、この時期だけ彗星から銀河になっていたのでしょうか?
一応昭和39年5月・9月時刻表持っておりますが、両方共ビュッフェ連結は「彗星」のみで御座います
後、「出雲」は二見浦行きの南紀観光団体専用列車併結、「金星」は日光信越観光団体専用列車併結を通常はしていますが、「金星」は多客時は団体列車の車両分座席車を連結しており、昭和39年5月号の時刻表では「天満」は単独運転でした
22:45の「大和・伊勢」は、多分誤植と思いますが「大和」単独運転で御座います。
自室の窓から新子安〜東神奈川を間近に見下ろすことができます。
当時に行けたら一日線路を見ていても飽きなかっただろうな、と想像しながら見ています。
そんな中、この時期の1ヶ月前には鶴見で三重衝突事故が発生。160人の方が亡くなりました。總持寺は遺体の安置所となっていたとのこと。
急な増発、過密ダイヤに保安設備の容量が追い付かなかった時代でもありました。
時々東海道線や横須賀線を利用して東京に向かっておりますが、絶えず安全輸送に携わる皆様には感謝の限りですね。
アップありがとうございます。大阪行の急行6人衆もそうですが、
銀河・彗星・月光の寝台急行の姿が見れたのがうれしいです。
そういえば、第2こだまから酒匂川鉄橋に身代金を投げ込んだ映画「天国と地獄」
の公開がこの年です。実際に車両を動かして撮影したそうですが、過密ダイヤの中、
よく撮影できたものだと思います。しかも失敗も許されませんからね。大変だったでしょうね。
貴重な遺物の配信を、ありがとうございます。
最終の逗子行きは今も変わってない・・・
スタートして「あれ?ワスレナグサじゃない」と思っていたら、ブルトレタイムに満を持して流れ始めるのは粋ですね
特急はもちろんのこと、後に関西ブルトレに引き継がれる名前が、寝台急行として次々と発車していくのは、見てみたかったなぁ
いつもありがとうございます。
16両の新幹線に比べると輸送できる量には限界があった中、色んな列車が走ってますね。長距離ばかり走らせても、日本最大の人口である首都圏の通勤客をむげにする事も出来ず、ダイヤ作成に頭を抱えたと思います。
まだ客車普通列車が電化された東海道本線で走ってた時代ですね。夜行の大阪行きとか通勤客も相まみれて凄い混雑になりそう。
旅客列車の合間に大量の貨物列車も走っていましたからね。当時の主流は二軸貨車で、最高速度が65km/hしか出せないですし、加減速性能も悪かったので。
動画お疲れ様です。
東海道本線黄金期の中でも特に最繁忙期の一つである年末ダイヤですね。
ただでさえ線路容量MAXで運用している中で極限値まで利用しつつ何とか回してたのがひしひしと伝わりますね。
夢の超特急の開業を翌年に控え、工事が着々と進捗していた時代。でも当時特急は高嶺(高値)の花で本数からしてもまだまだ急行や準急が主役だった時代。まだ昼行特急だった「富士」、後に愛称が北海道へ渡る特急「おおとり」、修学旅行電車で運転されていた準急「ながら」。そして各地へ向かっていった夜行急行・準急...
やはりこの頃は鉄道が輝いていた時代なのでしょう...
BGM7曲の超大作、編集おつかれさまでした...
ともやんさまがここまで纏め上げられるのも凄いものですね。
全国の鉄道の歴史を辿る上でも大変参考になる動画です。
此れだけ列車が走っていたら圧巻だよね。1日中駅に居ても鉄道ファンは飽きないね。だから国鉄時代の鉄道誌は絶大な人気を誇って居るよね。旅情と云った面では今とは比べ物に成らなかった昭和の時代ですよ。この時刻表を写真にしたら凄いそれに成りますね。
昭和38年12月。東海道新幹線開業&東京オリンピックの前年の非常に貴重な時刻表ですね😄
〈長距離普通列車〉
0:22 5時20分発 普通 名古屋行き
8:31 9時42分発 普通 豊橋行き
11:19 11時30分発 普通 名古屋行き
14:36 13時35分発 普通 大垣行き
17:08 14時56分発 普通 姫路行き
35:20 23時30分発 普通 大阪行き
36:11 23時56分発 普通 大垣行き
浜松行きまでは結構ありますが、浜松以西行きはガクッと本数が減りますので、存在感が凄まじいです😄😆😊
長距離普通列車は旅客だけでなく様々な荷物や新聞を運ぶ需要も担っていましたからね。
特ダネがあった日には遠方と都心での一面記事が差し変わることもありました。プロ野球の結果も途中までしか記載されず次の日の新聞にと言うことも。
これ以外に貨物があったことも考えると、とんでもない過密ダイヤだったんですね‥
60年経った今でも5時20分発の321Mは変わらないだな…行先は違うけど
この年月の時刻表は復刻版でも出ていないので貴重ですね
当時の普通列車は80系電車が主体で111系が登場して1年、出力強化の113系も登場直後なので3ドア車が少なく混雑遅延もひどかったのでしょうね
新幹線新大阪開業後急行がある程度残ったのは新幹線がひかりもこだまも全車指定席だった影響があります。翌年こだまに自由席ができると短距離客も新幹線に移っていったので東京と大阪間はなにわ2往復を残して全廃は全廃されています。ヨンサントウ直前には1等車後のグリーン車とビュッフェ各1両減車して6M4Tの10両編成になり、これでセノハチも自力走行が可能になった。それまでは旧型客車改造のオヤ35型を挟んでEF61型が後押しをしていました。なお特急つばめもEF61型が後押ししていた。これは151系の181系への改造まで続いた。余談だがいつもつばめのクロ151型の自連カバーがむき出しになって帰ってくるので田町電車区ででは不思議がられたそうです。
この月は私が生まれた時です。父が私が産まれそうなので東京から大阪に帰るのに第一こだまが取れなくて仕方なくひびきに乗って帰って来た時ずっと言ってました。東海道本線が1番輝いてた時代ですね。ひびきだと食堂車か無いのが嫌だったとも言ってました。この頃の銀河の指定席はスハ44だったと思います。他の列車は10系や旧客だったのにやはり格が違ったのですね
分割民営化しない世界線はどんなんだろう、という思いはあります
新幹線はあっても長距離列車は存在していただろうか
平塚、小田原、伊東は昔も変わらないんですね。線路共用していた時は、横須賀線も東海道線と同じ時刻表だったのだろうか?
銀河には食堂車は連結されていません。食堂車(と言ってもオシ16のビュッフェですが)が連結されていたのは、彗星です。
元 急行能登ユーザーです。
東海道線の一員だった…ってのは知ってたけど、
停車駅を見たら、やっぱ違和感あります。
私の時は(寝てる間に)直江津で進行方向が変わって、いよいよ北陸だあって感じでしたが、
当時の方は米原だったんでしょうね。
この日の指定席は、まさにプラチナチケットだったはず!
優等列車の編成が凄いです。
特急電車が1等車4両(パーラーカー含む)、2等車6両+ビュッフェ車1両と食堂車1両の12両(ひびきを除く)。
電車急行が1等車2両(指定車1両、自由席車1両)+2等車8両+ビュッフェ車2両、計12両ですから。
普通も大垣行なんてありますから。
国鉄時代の最後の輝きの時代でした。
新幹線開業後、赤字に転落し経営環境も、労使関係も悪化し多額の赤字に苦しみ、ついに1987年の4月に国鉄は分割民営化されました。
東京〜名古屋間運転のおおとり号は後の新幹線の東海ビジネスひかり的列車ですね。
当時は、東京〜大船間は東海道本線と横須賀線が線路を共用し、夜間は長距離の夜行列車も沢山走っていて、線路容量がパンクしそうな感じです。
「ひびき」は157系(元々国鉄が東武DRCに対抗して、準急「日光」に導入車両で、後特急「あまぎ」→現在の「サフィール踊り子」のご先祖にも使われた)でした。
この特急おおとりはサンロクトウダイヤ改正までは準急新東海で全車指定席だった。西の準急伊吹と対をなす列車だったが、距離の長い東京名古屋間は特急に格上げされた。
戦前シリーズに頭が慣れてしまって行き先や所要時間にあまり気を払わず眺めていましたが、“第二高千穂”の南延岡だけは目が止まりました。臨時とは言え、西鹿児島でも宮崎でもなかった理由が思いつきません。大分県内や宮崎県北部までの需要が臨時で夜行急行を仕立てるほどに旺盛だったのでしょうか?
まだ航空機もほとんど無く、乗客が国鉄に集中していたことを考えると宮崎へは定期列車、延岡へは臨時など目的地に応じて行き先を分けるという形で設定されていたのではないでしょうか?
臨時列車は定期列車と比べて単線区間での交換待ちの時間が長くなるなどのデメリットがあり、定期列車への信仰は根強いものがあったようです。
昔、年末年始に東海道本線の名古屋や浜松を始発として青森へ行く臨時列車がありました。名古屋はトヨタの本社に近く、浜松はヤマハ、スズキなどの本社。延岡と言うと旭化成発祥の地で、グループ最大拠点のため、ひょっとするとそういった側面もあったのかもしれません。
@@spy007ex4
確かに旭化成の企業城下町でしたね、延岡。
@@こちたんぱぱ さま
後の時代になると延岡の旭化成の工場から宮崎空港に向けて出張者用のヘリが出ていたものの、そのヘリで死亡事故が発生して延岡~宮崎の特急の高速化と宮崎空港線の開業へと繋がりましたね。
南延岡へは後に急行日南が季節列車や臨時急行として運転されています。宮崎へ延長されるときにはいわゆる盛スジの臨時ダイヤになる。
7時6分発の第2高千穂と第2雲仙の到着時刻には「翌日」が必要ではないでしょうか。
別に無くても翌日だと思うだろ。
数多く発車する準急や急行のダイヤを見るにつけ、当時の特急列車が所要時間や設備においていかに特別な存在だったのかが分かりますね。
23:30発の普通大阪行きは、もはや戦中もしくは戦後の頃からのお馴染みの列車という感がありますね。23:56発の大垣行きと合わせて、まさにムーンライトながらのご先祖様だと思います。
興味深いのは、大阪行きの急行には様々な名称が付与されていたのに対して、名古屋・大垣行きの準急はほぼ「東海」で統一されている点です。
昼間の急行列車は目的地に近い名所や地名を付けるのが一般的でしたね。
名称が増え、あまりに煩雑になりすぎたこと、さらには座席指定システムであるマルスの普及で総称制に移行しました。
@@TSUYOS185 さん
なるほど、そのような経緯があったんですね。
確かに、同じ行先の列車にいろんな名称があるとオペレーション面でややこしいでしょうね。
ご返信ありがとうございました!
@@gingaexpress6539さま
この時刻表の後半に見られる夜行の寝台車の多い急行では天体にちなむ名称が主でした。
上野から仙台に行く急行では青葉、まつしま、みやぎのが、新宿から松本へはアルプス、白馬、上高地がありました。
さらには指定席を有する列車は第一、第二、全車自由席の列車では1号、2号でした。
いずれも後にまつしま○号、アルプス○号の形に統一されています。
統一されたのは、ヨンサントウ白紙ダイヤ改正からですね。宗谷本線も一時は利尻に統一されましたが、礼文島から意見があり急行礼文が2年後に復活している。ただし函館からの直通急行宗谷は別格扱いだった。特急は昼行と夜行列車で愛称をわけた。また急行にも例外があり、寝台急行の北星や新星、天の川は別愛称になっている。
普通列車が日中帯で横須賀線が10分〜15分おきなのに対して東海道線は30分に1本くらいと少なく、優等列車+貨物列車もあるので、大船以西の普通列車を走らせる余裕がなかったかがわかりますね。
第2せとと普通沼津行は、実際は普通列車が時刻変更して第2せとのすぐ後ろを走る感じだったでしょうね。
東海道線の朝の初電は大船駅始発で品川からの横須賀線の一番電車に接続するものでした。昭和55年までそのパターンはありました。
第2せと号の場合は年末で通勤客がほとんどいなかったことを考えると普通電車を運休させ、そのダイヤを急行に回していたのかもしれませんね。
その後の東北本線(今の宇都宮線に相当)や高崎線では逼迫する帰省輸送に対処するために普通電車を大宮で折り返すケースもありました。
今では考えられない、超過密ダイヤだったね。
私の兄(故人)は名古屋から東京に行くのに、特急券買うのに大変苦労したと言ってました。
だから新幹線は凄いね。
1時間にのぞみが12本走ってますから。
当時の第一こだま停車駅は、横浜、熱海、静岡、名古屋、京都でした。
新幹線のぞみは熱海、静岡は通過してますが。
60年でこんなにも変わってしまうのですね…😢
特急はとの485系化はヨンナナサンダイヤ改正後のゴールデンウィークに1往復だけが使用され始め秋までに全列車485系化されました。1870年はまだ2往復共に583系です。
そうか、当時は東海道新幹線もなければ、四国にも線路がつながってなかったのか。
【こだま】と【ひびき】で「チッチキチ~」の漫才ができると思ってしまった。
そんなわけないやろチッチキチ〜👍😂
143列車と145列車は困窮列車とも言われていて、困窮者の移動手段でもありました。それと急行銀河には食堂車はついておらず、寝台急行彗星にサロンカーのオシ16型ビュッフェがついていました。寝台急行金星ですが、通常は団体専用列車が併結されており金星自体は6両の短い編成でした。たぶん急行天満はおっしゃるとおり全車両自由席の座席車だっのでしょう!ちなみにヨンマルトウダイヤ改正の頃にも臨時急行天満があります。
鉄道黄金時代の東京駅、東海道線ホームの賑わいが伝わってきました。
特に東京・大阪間を結ぶ夜行急行の本数の多さは圧巻ですね。
ところで今回は内容が大ボリュームだったこともありBGMの構成がいつもと違いましたね。
私はこのチャンネルについて、内容も勿論素晴らしいのですがBGMも凄く良いと思っております。
もしよろしければ、BGMで使用されている曲の題名を教えて頂けないでしょうか?
東京〜鹿児島に丸一日以上かけていたのが、今や飛行機と高速道路で2時間半くらいで着けるのは、改めて便利だと思いますね。
この頃、京急は、野比駅まで開通していて、旧600形で野比まで行き、そこでバスに乗り換え、両親が海水浴に連れて行ってくれた事が思い出。国鉄(久里浜まで)は不便で高いと父が京急派だったので。
この時代になると京急の輸送力が増強され、一日中特急が走るようになりましたね。
野比からバスですと今の三浦海岸(当時は上宮田)あたりでしょうか。
昭和40年代になると三浦海岸駅が開設され、海水浴の時期には片道一時間に9本(快特、海水浴特急、特急が3本ずつ)走っていました。
広々としたホームは今も残っていますが、横浜横須賀道路の開通やレジャーとして海水浴が選ばれなくなり、夏のシーズンでも駅が閑散としているのが時代の変化ですね。
さすが等巨列車の本数もものすごい量ですね ダイヤを組む人たちも運行する現場の人たちも大変だったと思います 急行関門は初耳でした門司駅は客車特急は機関車交換で停車しますが電車特急やディーゼル特急は通貨でした 新幹線開業前は東海道本線がいっぱいいっぱいだったことが想像されます UPお疲れさまでした
細かいことで恐縮ですが、20:00発新宮行「急行那智」の右側テロップの8:26は紀伊勝浦ではなく新宮と思われるので、訂正を付記なさった方がよいと思います。(それにしても、当時は、その最寄りの場所に到達しない列車名が散見されたのですね。64年10月以降は到達するようになりましたが。)
東海道本線長距離列車の全盛期
翌年10月1日東海道新幹線開業で昼行特急は姿を消してブルートレイン時代に到来する
そして東京発のブルートレインはスター軍団になり特急界の人気者になる
急行銀河には、食堂車は連結されていません。急行彗星にオシ16型が連結されていた。銀河にオシ16型が連結されるのは、新幹線新大阪開業からですね!
リクエスト。
昭和35年年末の博多駅上下の発時刻を。
確か、チータの家族が東京に越す時に使った臨時「あさかぜ」(後のみずほの源流となった)があった筈
知る人ぞ知る熊本発着の「あさかぜ」ですな。若い子たちはチータなんていっても分からんでしょう。
いつも楽しみにしてます。
お、今回は東京駅ですか。
う〜ん。
行先もそうですが、普通列車もこの当時で本数が多いですね。
いかに中心駅であるかがわかります。
普通電車はこの頃から80系から113系に変わりました。2つドアでボックスシートでの優雅な通勤からラッシュ対策へと変貌する時代を迎えました。
寝台急行すばるはこの年の10月ダイヤ改正から新幹線新大阪開業までのわずか一年間だけの運行だった。
この時代だと東阪間(145レ)はもちろん、東名間にもまだ客レ普通(335レ)があったんですね…
14:36、337Mの名古屋着の時間が間違ってないですか?
昨日ダイヤ改正で北陸の特急街道の歴史に終止符が打たれました。
リクエストなのですが、京都か大阪発北陸方面か富山発着をやってほしいです。
北海道から修学旅行で青森から寝台列車『日本海』に乗り、京都まで行ったのはいい思い出です🚃
第2瀬戸と沼津行きはどういうことなのでしょうかね不思議ですね
丹那トンネルの上り線も使ってデッドヒートでもしていたんでしょうか
三島あたりで急行が鈍行を退避する下剋上とか。。。
12月30日ともなると御用納めの後なので通勤客も少なく、普通電車のスジを臨時急行に充てて普通を運休させたのかもしれませんね。
もうひとつの考え方として横須賀線の定期電車から大船接続の特発電車の可能性も。
後の時代の東北本線(今の宇都宮線)や高崎線では臨時急行にスジを充てて普通電車は大宮発着というケースもありました。それほどまでに線路容量が逼迫していた証です。
無理矢理、普通列車側の時間を変えていた可能性もありますね。遅延上等みたいな状態だったのかな。
それにしてもなんで途中で抜かされてるんだろうか‥。
九州へ帰省するには二日がかりだったんですね。行き帰りで4日も費やしていた。田舎に滞在できたのは大晦日と元旦の二日間だけか。
SM分離後、東海道線は所要時間短くなった。
横須賀線は所要時間長くなった。
特急が少ないですね。昔の特急は特別な列車ですね。
多分今の首都圏の特急はこの時代でいう準急ですね。
日中のスカ線の本数はこの当時とそんな変わらんというね
9:00発の第1つばめ広島行は?
お尻が爆発しちゃいそうな行き先ばかりですね👻面白いです🙌
東京発特急
つばめ、はと 大阪行き
こだま、ひびき 大阪行き
富士 神戸、宇野行き
おおとり 名古屋行き
さくら 長崎、佐世保行き
あさかぜ 博多行き
はやぶさ 西鹿児島行き
その後
つばめ、はと 山陽路に転向
こだま 新幹線に昇格
ひびき 廃止
おおとり 気動車として北海道に転向
富士 ブルートレインに転向
さくら、あさかぜ、はやぶさは続行
特急つばめ1往復は広島発着です。上りのセノハチ越えにはEF61型が補機として連結されていた。ちなみに急行宮島にも補機は連結されていたが密着連結器なので機関庫とクハ153型の間に旧型客車を改造した確かオヤ35型が連結されていた。
今も昔も東京~大阪間の夜行需要が高いのが伺える。
急行能登の米原経由は違和感でしかない。
9時のつばめが・・
深夜2時の熱海には何が有るのだろうか?
乗り過ごした人が一晩(2、3時間ですが)を過ごす場所だったのでしょう。今と違って上りも夜行の普通列車がありましたからね。
私の父は東海道線の下りで横浜で降りるはずが起きたら沼津と言うこともありました。友人に至っては大垣夜行で静岡まで。
@@TSUYOS185さん スケールが小さいですが、戸塚に住んでいた頃、私も酔っぱらっていた時に寝てしまい、気づいたら平塚だった事があります。妻に詫び電を入れて車で迎えに来てもらった事があります。。。
横須賀線の本数にビビります
○○○1号じゃなくて第1○○○って表記が多いのはなぜだろうか。
特急はとはヨンナナサンダイヤ改正まで583系でした。485系が再度使用されたのは、昭和47年のゴールデンウィークでヨンナナトウダイヤ改正までに全て485系になりました。それまでのヨンナナサンダイヤ改正からは、181系に変わりました。しかしヨンナナトウダイヤ改正ではせっかく4,往復になっのもつかの間で3往復になり1往復は特急つばめになっています。
お!!久々に戦後に帰って来ましたな!!!
……ってあれ?第1つばめがいない……?
本当ですね。確か、東京9:00発の広島行第1つばめがあるはずですね。
東海道線の普通列車が少ない、横須賀線が多い
貴重な情報ありがとうございます。
だいたい4分目のダイヤに、貨物列車のスジも加わる訳で、当時のダイヤの逼迫ぶりが感じられます。
あと、現在の我が身の振る舞いと対比して言うと、丸の内、大手町や八重洲近辺、あるいは新橋駅を利用するサラリーマンは非常に使いづらいダイヤですね。残業しようとも、新橋近辺でのんだくれようにも、20時以降は西行き夜行列車優先のダイヤになるので、スカ線や中距離電車が極端に減るので、混雑がすごかったのではないでしょうか?
やたらに久里浜行きが多いんだなw
急行霧島号鹿児島行
現在は?
国鉄華やかなりし時代。分割民営化で再現不可能、悲しい(´;ω;`)
そりゃ〜MS分離とか考えるようになるわな
銀河には食堂車は連結されていません。食堂車(と言ってもオシ16のビュッフェですが)が連結されていたのは、彗星です。