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いつも貴重な動画をありがとうございます。100年前に、もうこんなに鉄道網が張り巡らされていたことに驚きます。そうか、熱海はまだ熱海線、山北は当時の東海道本線の途中駅なんですね。
関東大震災からまだ2年しか経っていないんだが、こんなに頻繁に列車が往復してたんやね。なんかこの頃にタイムトラベルして、乗って旅してみたくなった。
こういう時代にタイムスリップして乗ってみたい
国府津から熱海は当時は熱海線で当時の東海道本線は国府津から山北、御殿場、佐野(今の裾野)、三島(初代今の下土狩)経由沼津でした!
もし今の時代だとしたら、ATOS発車標に「普通 下関」「普通 姫路」「普通 神戸」「普通 糸崎」なんか胸熱だな。
この当時ならC51型蒸気機関車は18900型を、D50型蒸気機関車は9900型を名乗っていた時代ですね...
歴史を感じる1ページ。東京〜国府津間が約2時間…か。
今もそれくらいだったはず…現在のE233系3000番台などは加速遅い&120km/h出せるけどギリギリだから、次世代車では起動加速度3.0km/h/s(中央線E233-0と同等)、設計&営業最高速度130km/hの高性能車に統一すれば一気に早くできそう…地下鉄並みの3.3km/h/sでもいいが非現実的らしいのでこんな感じかな…次世代車の性能前提かつ余裕時分カツカツの「新特快 New Special Rapid」で出したら面白そう
横須賀線は今の湘南鎌倉への観光目的ではなく、その名の通り軍事都市横須賀とをつなぐ軍事戦略線だったんですね。
まだ京急が横須賀まで通じておらず、横須賀線を使うしかありませんでした。この年の秋に横須賀線が電化され、電気機関車牽引の列車が走るようになっています。鎌倉や逗子は別荘地という位置付けもありました。
@@TSUYOS185 その後横須賀↔久里浜が1943年に開業するですが!実はこの線路御殿場線の線路を剥がして開業したですよ😨
18キッパーには垂涎の時刻表に見えますね😊
座れたとしても木造の硬い背もたれは直角の座席なんだから長距離移動は大変。。
この時代は確か御殿場ルートやったから非常に時間かかったはず
やったとは?何をやったのですか?
@@kv6205 たぶん「だったから」の方言(おそらく京都あたりの関西弁だろう)。
2:49を見てください。国府津~沼津間が約2時間半かかっています。
@@kataakeo7730 当時は非電化でしかも急勾配ですから時間がかかるのも仕方がないですね。
丹那トンネルは1934年開通なのでまだ御殿場線に入るのが当たり前でしたね国鉄御殿場線山北駅にE231系近郊型という違和感ww
下関まで普通列車約37時間特別急行ヤクルト24時間は壮大な旅路だった100年前現在は新幹線で約5時間と短縮とスピードアップ100年過ぎると時間短縮も進んでいる
横浜〜戸塚間の清水谷戸トンネルは既にありますね?
大正時代が舞台のドラマで大阪から東京へ移動する事があるけどかなりしんどい旅になりそうですね
特急が特別急行と呼ばれてた時代
所要時間もさることながら12:00発の次が12:50発のように結構本数少ないですね
なんと遂に今から1世紀前の大正時代の時刻表が登場しましたね!普通列車とはいえ長距離列車にもロマンを感じます。うちの祖母は明治末期の生まれで、当時としては珍しく備後の農村を飛び出して柳井津の女学校に通いました(寮生活だったそうです)。1925年というと、祖母が女学校卒業後に広島市に移り、祖父に巡り合った年です。祖母が経験したであろう汽車旅に思いを馳せてしまいます。
もう、20年以上前ですが、日本交通公社から時刻表復刻版シリーズとして、明治・大正時代からピックアップした5冊や、昭和の戦前戦中から5冊、戦後の5冊等が、1セット15000円位で販売されていました。現在でも、ヤフオク等で多数出品されており、入手しようと思えば、簡単に入手できたりします。同じものでも価格はピンキリですが、運が良ければ1セット5000円前後で入手できるかと思います。ちなみに、大正編には1925年(大正14年)の時刻表もセットに含まれているので、この動画のソースも恐らくコレかな・・・
JTBの復刻版は、「戦前・戦中」「戦後」のセットは購入しておりましたが、「明治・大正」もあったのですね!
2:19 釜山~奉天(今の瀋陽(沈阳))間が10時間40分(20:00発翌日6:40着)で到達できたのですか?疑問に思い調べてみましたが、直線距離で862~881kmのようです。東京~下関よりは近いかもしれませんので、もしかしたらその通りかもしれません。ただ、もう一日余分にかかったとしてもおかしくないはずですが(つまり、34時間40分かかり、翌々日6:40着)。
まだ大正の末期は朝鮮や満州の鉄道は目立った高速性は発揮していませんでした。満洲国建国以降はかなりテコ入れされ、内地もビックリ、欧米の当時の高速路線並みの路線事情でした。ただ、1940年ですら釜山~京城(今のソウル駅)は急行のひかり号やのぞみ号ですら7時間半を要していたほどです。それから考えるとこの動画の時代では釜山~瀋陽は2昼夜だったのでしょうね。20年ほど前に旧満鉄だった大連~瀋陽に乗ったことがありますが、その当時でもこの区間が4時間と東北新幹線が出きる前の東北本線の特急と同等のスピードだったことを思い出しました。
当時はガチで東海道本線を全線走破する普通列車も存在したんですね。
そういえば1925年の鉄道省時刻表(復刻版)が以前売ってましたね。それを参考にして作ったのかな。新潟県ではこの3年前(1922年)に蒲原鉄道株式会社が誕生し五泉〜村松間で電車(県内最初の電車)が走り始めました。
今回は昭和では無く、大正時代それも関東大震災後の東海道本線ですね!この時はまだ御殿場線が東海道本線でしたね。因みにこの頃の客車は、木造がメインでしたが山陽本線海田市での脱線事故があって以降、鋼製の客車に変更されました。
1925年ですので大震災のあとです。横浜駅はまだ高島町にありました。この3年後に現在地に移りました。
@@TSUYOS185 さん1925年は関東大震災から2年後でしたね。ご指摘ありがとうございます。
@@vfcfhaさまいえいえ、修正ありがとうございます。丹那トンネルはその大震災を乗り越えこの9年後に貫通。その後戦時中に御殿場線は単線に。撤去されてから80年たった今も一部に橋脚の跡などが残されています。大動脈だったことを偲ばせるモニュメントですね。
木造客車は結局戦後まで廃止できず、戦後木造客車の鋼体化工事をしてしてようやく廃止しました。
震災後なら、茅ヶ崎〜平塚間の馬入川の橋桁跡は既に有りましたね。
このころは普通列車中心ですが、明石行とか三田尻行(今の防府ですか?)などは、結構ビックリですね。それと、山北行、小田原行、熱海行がありますが、この頃はまだ丹那トンネルが開通していないはずなので、小田原・熱海行の方が支線なのでしょうね。
一回、根府川の駅はかの震災の時に列車ごと土砂で海まで流されました。それを考えると2年で熱海線が復旧したのは凄いと思います。
@@埠頭半田さまたまに根府川の駅を通ります。車窓はきれいなところですが、震災の凄まじさを想うと共に早期の復旧に携わった関係者の皆様の尽力に感謝の限りです。今なら長大トンネルで抜けるところでしょうが、当時の技術であのあたりをトンネルで抜けるのは丹那トンネルと同様の難しさがあったものと思います。
@@埠頭半田 なるほど。関東大震災は相模トラフが動いたとされているので、あのあたりの被害は甚大だったのでしょうね。
初っ端から普通下関行きで面食らう
まだ特急や急行は高嶺の花、一般客は長距離でも短距離でも普通列車の時代。主要駅での客の出入りは多くとも乗り通す人も一定数いたのではないでしょうか?鉄道しかなかった時代とはいえ全区間で37時間というのはかなりの長旅ですね。
終電が糸崎行きというのもなかなかのインパクトです。
おそらく、一番の目的は本列車で郵便や荷物を沿線へと輸送することだったのではないかと思います。にしても想像のつかない世界ですね。
下関行きは韓国や中国へ向かう人が利用してたからなのか。
今で言う高速バスの立ち位置だったんですな。
8:16 翌々日?列車で2夜過ごすのですか!
苦行かもしれませんが、当時の交通事情を考えるとこれでも速かったのでしょう。それぞれの方の距離の長短を問わず普通列車はよく利用されていたことと思います。関門トンネルの開業後は鹿児島→東京41時間、昭和31~33年には同じ区間で32時間かける2夜行列車の急行のさつま号が存在しました。
当時は急行はよっぽどのことがないと庶民は使用しません。 特急はエライさん等の利用手段です。また、道路事情は壊滅的に悪かったので、基本高速移動手段として鉄道利用が一般的です。 まあ、もっとも今と違い一般人は移動範囲が今ほど大きくないですが、l
@@SAKUSAKU226さまこの時代の半世紀以上前は参勤交代で薩摩藩の方々は鹿児島から江戸まで2ヶ月かけたとのことです。それに比べれば格段の進歩ですね。
東海道、山陽方面の長距離列車に紛れて、「普通富山行き」の異質感が半端ないです。わざわざ東京から直通列車を走らせる大きな目的があったのでしょうか。(関東と北陸の荷物輸送?)
次は私鉄の昔の時刻表もお願いします。例えば昔の地下鉄線とか副都心線開業前とか
私鉄の全線全駅時刻表は古いのは出版されていないので難しいでしょうね。
まだ丹那トンネルが無くて御殿場まわりの時代、電化されているのは東京から国府津まで、あとは蒸気機関車の時代。快適な新幹線移動になれた我々から見ると、長時間、煙に巻かれて硬い座席での移動は大変だったでしょう。そして、特に勾配の多い現在の御殿場線での蒸気機関車の機関士と助手の労苦も想像を絶するものがあったとおもいます。こうして考えると、昔の方が旅情あった…だけで片付けられないものをかんじますね。
煤煙による機関士の健康被害はかなり深刻だったのではないでしょうか?
硬い座席?昔の国鉄車両は座席柔らかいのが当たり前だったが…相模線を走ってた国鉄205系はE131系と違って昔ながらのフカフカ座席だったの良かったな…
ちなみに当時の入浴・洗髪事情も今とは全然違うので、夏は車内が相当臭かったと思われます。
@@IetatakaRobertさまボイラーの近くで暑く、さらには窓がなかったことから風雨に耐えるというものだったそうです。石炭を投入する助士の方は腰を曲げてずっと石炭を投入していたとのこと。さらに煤煙を浴びていたことも考えると今とは比べ物にならない作業環境だったのでしょう。そんな中でも時間ピッタリに列車を走らせたのはすごいものです。感謝の限りですね。
@@Shochan.G 1965年当時花王が出した広告に書かれていたのは「夏の洗髪は5日に一度」1935年で「一週間に一度」1932年だと「せめて月2回」 今の女性が聞いたら確実に発狂しますね
名古屋行きや大阪行きが無いという不思議
あくまで東海道本線の根拠を示すためでしょうな
そういえば、神戸行が結構ありますね。
昼間の時間帯に急行列車が少ないなぁと思いながら見ていたら、夜に神戸行きや下関行きの急行が連続で設定されていましたねやはり、名古屋や京阪神を午前中に到着するように設定されているのですかね?
下関から九州、更には船舶を使って釜山(当時日本領朝鮮)、釜山から中華民国、さらにはシベリア鉄道を使って、ロシアやヨーロッパに行くことが出来た🤓
中華民国といえどもこの時代は地域ごとに軍閥が割拠していた時代。この数年後に国民党が北伐を開始しています。
山北行き…現御殿場線の山北駅かな?当時は何があったんだろうか。
山北から御殿場で補助機関車を付けた関係から機関庫があり、この時代は急行列車も停車する重要拠点でした。今は小田急から来るふじさん号は通過していますが。D52が保存されています。
まだ113系が現役だった時期までは、山北行きは運行されていましたよ。確か、山北行き単独(多分国府津で基本編成切り離し)と、基本編成は東海道線経由沼津行き・付属編成が御殿場線山北行きという分割もあったんじゃないかと思います
東京から朝鮮、支那、欧州など国際列車の時刻表が分かりましたらお願いしたいです
戦前の時刻表には、巴里や伯林の時刻も掲載されていたと思います。機会があれば、そういう動画もあると面白いかもしれませんね。
我が国から欧州への列車連絡というのもスケールの大きさを感じます。今ならジェット機で10数時間で行けるものの、この当時は10数日かかりましたね。
戦前の時刻表が2度ほどJTBから復刻販売されましたので、当時の時刻は今でも知ることができます。なお1925年の時刻表には東京~満州里、北京、漢口までの連絡時刻表しか出ていません。なお、昭和9年の時刻表には東京~ロンドン、パリ間の連絡時刻表が出ています。東京(特急1)15:00~09;30下関10:30~18:00釜山19:20(翌日)21:00新京09:00~14:40ハルピン08:30(翌日)07:10満州里13:10(7日後)17:00モスクワ22:45(3日後)06:43パリなんてなってます。なお、東京~パリ間は鉄道経由だと三等車使用でも72ドルかかりました。 当時が対ドル3.5円なので、252円かかってます。 船だとマルセイユまでで普通三等で27円だったので、約10倍ですね。なお、当時の超エリート大卒(当時大学進学率は数パーセント)の初任給が35円の時代です。
東京20:10と20:30の急行、同じ下関行きの急行なのに所要時間が約1時間半違うねえ。
横須賀行きが多いね。重要な軍港だからか。
まだ蒸気機関車牽引で110分かけていました
8:25 富山行普通って??まさか、米原廻りですか?
まだ所謂山手線がのの字の頃なんでその通りかと
@@埠頭半田 なるほど。環状化したのは1925年11月1日ですね。
深夜や明け方にも結構停まる駅が多いんだけど、駅からどうやって目的地に行ったのかが毎回気になります。当時はまだ車もそこまで普及してないだろうし、街灯もないから真っ暗闇だったのかなぁ
22:10に出ると翌々日に到着か〜
寝台車や食堂車付きの普通列車というのも今では考えられませんね。
いつもありがとうございます。大戦と大戦の間のつかの間の平和を謳歌していた時代ですね。東京では関東大震災からの復興事業がたけなわの頃だったのでしょう。西方面各地に向けた始発の直通列車が多数設定されていたことから、この時代から東京への人の集中が進んだものと想像します。とは言え特急や急行はまだまだ特別な列車であり、一般の方が利用するにはハードルが高かったことと思います。普通列車に食堂車が連結されていたのも長距離利用を想定したものだったのでしょうね。なお、横須賀行きはこの時から電気機関車牽引の列車になっています。海軍、さらには鎌倉や逗子の別荘地への足となっていました。今の通勤輸送のはしりですね。
無知ですみません。100年前って電車なの?蒸気機関車ですか?
基本は蒸気機関車牽引の「客車列車」
軍港の横須賀行が目立ちますね。当時は軍人の移動が多かったようですね。
当時は横須賀線が系統分離されていないので横須賀線列車は東海道線の線路を走ってました。
@@SAKUSAKU226さま東京を出ると新橋、品川、大森、横浜、保土ケ谷、戸塚、大船、鎌倉、逗子、田浦、横須賀でした。
広島まで乗り換えなしの特急で19時間今なら乗り換え9回、1時間半の待ち時間ありの普通列車で15時間なので車両性能の大幅な向上を感じます
この頃の横浜駅は桜木町ではなく今の横浜駅だったのかな?
特急でも1日弱神戸まで急行で14時間今は18切符で10時間そりゃ早くなりました。
多分、全部蒸機牽引の客車か・・・旅情たっぷりですな
この年の秋に国府津まで電化されております。後の超特急つばめ号は機関車の交換時間を省くために東京駅からSLでした。
鉄道博物館で昔の時刻表売ってたはず
この時期は敦賀・ウラジオストク経由のヨーロッパ連絡は行われていないんですね。
77レに79レて、ミキストですか?いや、まだ列車番号付与規定が決まってなかった頃の話でして
この時代には正確な運行時刻が確立されていたのですね 日本の鉄道の時刻の正確さは世界一といわれています 15秒単位でダイヤが組まれるところを見れば一目瞭然です100年前も15秒単位で組まれていたのでしょうか?調べてみようと思います
東京横浜間40分かあ
最終がまさかの糸崎w
この時代だと、距離はキロメートルじゃなくてマイルを使用していた。関釜連絡船で朝鮮半島に渡り、北京まで連絡しているとは、驚きました。上野、大阪とか主要駅の時刻表が知りたいです。
色々と興味深いな。終着駅に深夜1時に到着してどうしろと?w当時はネカフェも無かっただろうにw
この当時も意外と終電が遅く、山手線も終着が1:17まであったりします。なお、中央線は中野以西はまだ未開発地だったので、中野=国分寺間は30分に1本程度しか有りませんし、国分寺以西は電車運行してません。
最初から下関なのが今ののぞみ1に似てるな
もう10年ほど前ですが、急な転勤になって最初の11日間“のぞみ1号”で千葉~神戸間を通勤していました。当時のように日跨ぎじゃないと移動できない時代だったら、転居が終わるまでの宿代を会社が出してくれたかな…いま思うと、新幹線代含めた交通費よりビジホかウイークリー使わせてくれた方が会社も安上がりだったように思うんですが
当時の人たちは、糸崎ってどこ?とかならなかったのかね今みたいに、ネットで簡単に調べられないし駅員に聞いてたのかな
いや~・・・1番列車の下関所要37時間も然ることながら、優等席&寝台&食堂車もない一般客車での緩行運行Σ( ̄□ ̄|||)まぁ、辻々で駅弁は入手出来るが硬質座席での37時間・・・。ゴールした猛者はいたのだろうか?
江戸時代は徒歩で何十日もかかったことからすれば、37時間で着くのなら乗り通す人もいたでしょうね。
@@kataakeo7730 確かに江戸時代の徒歩道中に比べれば、1日半強で本州の最西端へ行けるワケですから(^^)>完全踏破座布団&半身布団は、必須アイテムだったでしょうなぁ。
今は贅沢になっているので、そう思うのも無理ないが、当時としては座って行けるだけでも充分贅沢なことだ。
ゴールと言うより一般の方は普通列車でごく普通に乗り通していたことと思います。さらに連絡船を介して九州、朝鮮へと行き来していました。この時代から70年遡れば各地の大名が参勤交代で江戸とを往復していた時代。島津藩に至っては鹿児島から江戸まで2ヶ月かけていました。座って2日、3日も乗れば東京と言うのは相当な進歩です。
今や成田羽田からサクっと数時間で北京に行けちゃうというのに、百年ちょっと前には3日かかったんですねぇ((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルまあ、大昔の遣唐使とかは往復で1年はかかったことに比べれば、これでも進歩したんでしょうけどね
たぶんもう1日余分にかかったはず。釜山~奉天間は30時間以上かかり、奉天の時刻は翌々日のはず。
昭和5年の時刻表に外国航路が出てますが、神戸ブエノスアイレス線だと10/19出航11/16着、横浜ロンドン線だと10/6出航11/22着(箱根丸)ですから、この当時から比べると超高速移動が可能となってます。 ちなみに昭和5年、氷川丸(横浜で係留されているアレ)は香港=横浜=シアトル線に就航しており、09/24発10/15着なんてスケジュールでした。
糸崎って当時何があったのだろう
糸崎機関庫(区)です。ブルートレインの寝台特急時代でも、深夜に糸崎に停車するものがありました。
まだ「山田」行が存在していない。
大正ヤバい汽車ダイヤ
サクラ大戦の時代😁
富山行きが異質すぎる。
朝鮮半島の南端から奉天まで半日足らずで行けたのか。
いつも貴重な動画をありがとうございます。
100年前に、もうこんなに鉄道網が張り巡らされていたことに驚きます。
そうか、熱海はまだ熱海線、山北は当時の東海道本線の途中駅なんですね。
関東大震災からまだ2年しか経っていないんだが、こんなに頻繁に列車が往復してたんやね。
なんかこの頃にタイムトラベルして、乗って旅してみたくなった。
こういう時代にタイムスリップして乗ってみたい
国府津から熱海は当時は熱海線で当時の東海道本線は国府津から山北、御殿場、佐野(今の裾野)、三島(初代今の下土狩)経由沼津でした!
もし今の時代だとしたら、ATOS発車標に「普通 下関」「普通 姫路」「普通 神戸」「普通 糸崎」なんか胸熱だな。
この当時ならC51型蒸気機関車は18900型を、D50型蒸気機関車は9900型を名乗っていた時代ですね...
歴史を感じる1ページ。
東京〜国府津間が約2時間…か。
今もそれくらいだったはず…
現在のE233系3000番台などは加速遅い&120km/h出せるけどギリギリだから、次世代車では起動加速度3.0km/h/s(中央線E233-0と同等)、設計&営業最高速度130km/hの高性能車に統一すれば一気に早くできそう…
地下鉄並みの3.3km/h/sでもいいが非現実的らしいのでこんな感じかな…
次世代車の性能前提かつ余裕時分カツカツの「新特快 New Special Rapid」で出したら面白そう
横須賀線は今の湘南鎌倉への観光目的ではなく、その名の通り軍事都市横須賀とをつなぐ軍事戦略線だったんですね。
まだ京急が横須賀まで通じておらず、横須賀線を使うしかありませんでした。この年の秋に横須賀線が電化され、電気機関車牽引の列車が走るようになっています。
鎌倉や逗子は別荘地という位置付けもありました。
@@TSUYOS185 その後横須賀↔久里浜が1943年に開業するですが!実はこの線路御殿場線の線路を剥がして開業したですよ😨
18キッパーには垂涎の時刻表に見えますね😊
座れたとしても木造の硬い背もたれは直角の座席なんだから長距離移動は大変。。
この時代は確か御殿場ルートやったから非常に時間かかったはず
やったとは?
何をやったのですか?
@@kv6205 たぶん「だったから」の方言(おそらく京都あたりの関西弁だろう)。
2:49を見てください。国府津~沼津間が約2時間半かかっています。
@@kataakeo7730
当時は非電化でしかも急勾配ですから時間がかかるのも仕方がないですね。
丹那トンネルは1934年開通なのでまだ御殿場線に入るのが当たり前でしたね
国鉄御殿場線山北駅にE231系近郊型という違和感ww
下関まで普通列車約37時間特別急行ヤクルト24時間は壮大な旅路だった100年前
現在は新幹線で約5時間と短縮とスピードアップ
100年過ぎると時間短縮も進んでいる
横浜〜戸塚間の清水谷戸トンネルは既にありますね?
大正時代が舞台のドラマで大阪から東京へ移動する事があるけどかなりしんどい旅になりそうですね
特急が特別急行と呼ばれてた時代
所要時間もさることながら12:00発の次が12:50発のように結構本数少ないですね
なんと遂に今から1世紀前の大正時代の時刻表が登場しましたね!
普通列車とはいえ長距離列車にもロマンを感じます。
うちの祖母は明治末期の生まれで、当時としては珍しく備後の農村を飛び出して柳井津の女学校に通いました(寮生活だったそうです)。
1925年というと、祖母が女学校卒業後に広島市に移り、祖父に巡り合った年です。
祖母が経験したであろう汽車旅に思いを馳せてしまいます。
もう、20年以上前ですが、日本交通公社から時刻表復刻版シリーズとして、明治・大正時代からピックアップした5冊や、昭和の戦前戦中から5冊、戦後の5冊等が、1セット15000円位で販売されていました。
現在でも、ヤフオク等で多数出品されており、入手しようと思えば、簡単に入手できたりします。同じものでも価格はピンキリですが、運が良ければ1セット5000円前後で入手できるかと思います。ちなみに、大正編には1925年(大正14年)の時刻表もセットに含まれているので、この動画のソースも恐らくコレかな・・・
JTBの復刻版は、「戦前・戦中」「戦後」のセットは購入しておりましたが、「明治・大正」もあったのですね!
2:19 釜山~奉天(今の瀋陽(沈阳))間が10時間40分(20:00発翌日6:40着)で到達できたのですか?
疑問に思い調べてみましたが、直線距離で862~881kmのようです。東京~下関よりは近いかもしれませんので、もしかしたらその通りかもしれません。
ただ、もう一日余分にかかったとしてもおかしくないはずですが(つまり、34時間40分かかり、翌々日6:40着)。
まだ大正の末期は朝鮮や満州の鉄道は目立った高速性は発揮していませんでした。満洲国建国以降はかなりテコ入れされ、内地もビックリ、欧米の当時の高速路線並みの路線事情でした。
ただ、1940年ですら釜山~京城(今のソウル駅)は急行のひかり号やのぞみ号ですら7時間半を要していたほどです。それから考えるとこの動画の時代では釜山~瀋陽は2昼夜だったのでしょうね。
20年ほど前に旧満鉄だった大連~瀋陽に乗ったことがありますが、その当時でもこの区間が4時間と東北新幹線が出きる前の東北本線の特急と同等のスピードだったことを思い出しました。
当時はガチで東海道本線を全線走破する普通列車も存在したんですね。
そういえば1925年の鉄道省時刻表(復刻版)が以前売ってましたね。それを参考にして作ったのかな。
新潟県ではこの3年前(1922年)に蒲原鉄道株式会社が誕生し五泉〜村松間で電車(県内最初の電車)が走り始めました。
今回は昭和では無く、大正時代それも関東大震災後の東海道本線ですね!この時はまだ御殿場線が東海道本線でしたね。因みにこの頃の客車は、木造がメインでしたが山陽本線海田市での脱線事故があって以降、鋼製の客車に変更されました。
1925年ですので大震災のあとです。横浜駅はまだ高島町にありました。この3年後に現在地に移りました。
@@TSUYOS185 さん
1925年は関東大震災から2年後でしたね。ご指摘ありがとうございます。
@@vfcfhaさま
いえいえ、修正ありがとうございます。
丹那トンネルはその大震災を乗り越えこの9年後に貫通。その後戦時中に御殿場線は単線に。撤去されてから80年たった今も一部に橋脚の跡などが残されています。大動脈だったことを偲ばせるモニュメントですね。
木造客車は結局戦後まで廃止できず、戦後木造客車の鋼体化工事をしてしてようやく廃止しました。
震災後なら、茅ヶ崎〜平塚間の馬入川の橋桁跡は既に有りましたね。
このころは普通列車中心ですが、明石行とか三田尻行(今の防府ですか?)などは、結構ビックリですね。
それと、山北行、小田原行、熱海行がありますが、この頃はまだ丹那トンネルが開通していないはずなので、小田原・熱海行の方が支線なのでしょうね。
一回、根府川の駅はかの震災の時に列車ごと土砂で海まで流されました。
それを考えると2年で熱海線が復旧したのは凄いと思います。
@@埠頭半田さま
たまに根府川の駅を通ります。車窓はきれいなところですが、震災の凄まじさを想うと共に早期の復旧に携わった関係者の皆様の尽力に感謝の限りです。
今なら長大トンネルで抜けるところでしょうが、当時の技術であのあたりをトンネルで抜けるのは丹那トンネルと同様の難しさがあったものと思います。
@@埠頭半田 なるほど。関東大震災は相模トラフが動いたとされているので、あのあたりの被害は甚大だったのでしょうね。
初っ端から普通下関行きで面食らう
まだ特急や急行は高嶺の花、一般客は長距離でも短距離でも普通列車の時代。主要駅での客の出入りは多くとも乗り通す人も一定数いたのではないでしょうか?
鉄道しかなかった時代とはいえ全区間で37時間というのはかなりの長旅ですね。
終電が糸崎行きというのもなかなかのインパクトです。
おそらく、一番の目的は本列車で郵便や荷物を沿線へと輸送することだったのではないかと思います。にしても想像のつかない世界ですね。
下関行きは韓国や中国へ向かう人が利用してたからなのか。
今で言う高速バスの立ち位置だったんですな。
8:16 翌々日?列車で2夜過ごすのですか!
苦行かもしれませんが、当時の交通事情を考えるとこれでも速かったのでしょう。それぞれの方の距離の長短を問わず普通列車はよく利用されていたことと思います。
関門トンネルの開業後は鹿児島→東京41時間、昭和31~33年には同じ区間で32時間かける2夜行列車の急行のさつま号が存在しました。
当時は急行はよっぽどのことがないと庶民は使用しません。 特急はエライさん等の利用手段です。
また、道路事情は壊滅的に悪かったので、基本高速移動手段として鉄道利用が一般的です。 まあ、もっとも今と違い一般人は移動範囲が今ほど大きくないですが、l
@@SAKUSAKU226さま
この時代の半世紀以上前は参勤交代で薩摩藩の方々は鹿児島から江戸まで2ヶ月かけたとのことです。それに比べれば格段の進歩ですね。
東海道、山陽方面の長距離列車に紛れて、「普通富山行き」の異質感が半端ないです。
わざわざ東京から直通列車を走らせる大きな目的があったのでしょうか。
(関東と北陸の荷物輸送?)
次は私鉄の昔の時刻表もお願いします。
例えば昔の地下鉄線とか
副都心線開業前とか
私鉄の全線全駅時刻表は古いのは出版されていないので難しいでしょうね。
まだ丹那トンネルが無くて御殿場まわりの時代、電化されているのは東京から国府津まで、あとは蒸気機関車の時代。快適な新幹線移動になれた我々から見ると、長時間、煙に巻かれて硬い座席での移動は大変だったでしょう。そして、特に勾配の多い現在の御殿場線での蒸気機関車の機関士と助手の労苦も想像を絶するものがあったとおもいます。こうして考えると、昔の方が旅情あった…だけで片付けられないものをかんじますね。
煤煙による機関士の健康被害はかなり深刻だったのではないでしょうか?
硬い座席?
昔の国鉄車両は座席柔らかいのが当たり前だったが…
相模線を走ってた国鉄205系はE131系と違って昔ながらのフカフカ座席だったの良かったな…
ちなみに当時の入浴・洗髪事情も今とは全然違うので、夏は車内が相当臭かったと思われます。
@@IetatakaRobertさま
ボイラーの近くで暑く、さらには窓がなかったことから風雨に耐えるというものだったそうです。石炭を投入する助士の方は腰を曲げてずっと石炭を投入していたとのこと。さらに煤煙を浴びていたことも考えると今とは比べ物にならない作業環境だったのでしょう。
そんな中でも時間ピッタリに列車を走らせたのはすごいものです。感謝の限りですね。
@@Shochan.G 1965年当時花王が出した広告に書かれていたのは「夏の洗髪は5日に一度」
1935年で「一週間に一度」1932年だと「せめて月2回」 今の女性が聞いたら確実に発狂しますね
名古屋行きや大阪行きが無いという不思議
あくまで東海道本線の根拠を示すためでしょうな
そういえば、神戸行が結構ありますね。
昼間の時間帯に急行列車が少ないなぁ
と思いながら見ていたら、夜に神戸行きや下関行きの急行が連続で設定されていましたね
やはり、名古屋や京阪神を午前中に到着するように設定されているのですかね?
下関から九州、更には船舶を使って釜山(当時日本領朝鮮)、釜山から中華民国、さらにはシベリア鉄道を使って、ロシアやヨーロッパに行くことが出来た🤓
中華民国といえどもこの時代は地域ごとに軍閥が割拠していた時代。この数年後に国民党が北伐を開始しています。
山北行き…現御殿場線の山北駅かな?当時は何があったんだろうか。
山北から御殿場で補助機関車を付けた関係から機関庫があり、この時代は急行列車も停車する重要拠点でした。
今は小田急から来るふじさん号は通過していますが。
D52が保存されています。
まだ113系が現役だった時期までは、山北行きは運行されていましたよ。確か、山北行き単独(多分国府津で基本編成切り離し)と、基本編成は東海道線経由沼津行き・付属編成が御殿場線山北行きという分割もあったんじゃないかと思います
東京から朝鮮、支那、欧州など国際列車の時刻表が分かりましたらお願いしたいです
戦前の時刻表には、巴里や伯林の時刻も掲載されていたと思います。
機会があれば、そういう動画もあると面白いかもしれませんね。
我が国から欧州への列車連絡というのもスケールの大きさを感じます。
今ならジェット機で10数時間で行けるものの、この当時は10数日かかりましたね。
戦前の時刻表が2度ほどJTBから復刻販売されましたので、当時の時刻は今でも知ることができます。なお1925年の時刻表には東京~満州里、北京、漢口までの連絡時刻表しか出ていません。
なお、昭和9年の時刻表には東京~ロンドン、パリ間の連絡時刻表が出ています。
東京(特急1)15:00~09;30下関10:30~18:00釜山19:20(翌日)21:00新京09:00~14:40ハルピン08:30(翌日)07:10満州里13:10(7日後)17:00モスクワ22:45(3日後)06:43パリなんてなってます。なお、東京~パリ間は鉄道経由だと三等車使用でも72ドルかかりました。 当時が対ドル3.5円なので、252円かかってます。 船だとマルセイユまでで普通三等で27円だったので、約10倍ですね。なお、当時の超エリート大卒(当時大学進学率は数パーセント)の初任給が35円の時代です。
東京20:10と20:30の急行、同じ下関行きの急行なのに所要時間が約1時間半違うねえ。
横須賀行きが多いね。重要な軍港だからか。
まだ蒸気機関車牽引で110分かけていました
8:25 富山行普通って??まさか、米原廻りですか?
まだ所謂山手線がのの字の頃なんでその通りかと
@@埠頭半田 なるほど。環状化したのは1925年11月1日ですね。
深夜や明け方にも結構停まる駅が多いんだけど、駅からどうやって目的地に行ったのかが毎回気になります。
当時はまだ車もそこまで普及してないだろうし、街灯もないから真っ暗闇だったのかなぁ
22:10に出ると翌々日に到着か〜
寝台車や食堂車付きの普通列車というのも今では考えられませんね。
いつもありがとうございます。
大戦と大戦の間のつかの間の平和を謳歌していた時代ですね。東京では関東大震災からの復興事業がたけなわの頃だったのでしょう。
西方面各地に向けた始発の直通列車が多数設定されていたことから、この時代から東京への人の集中が進んだものと想像します。
とは言え特急や急行はまだまだ特別な列車であり、一般の方が利用するにはハードルが高かったことと思います。普通列車に食堂車が連結されていたのも長距離利用を想定したものだったのでしょうね。
なお、横須賀行きはこの時から電気機関車牽引の列車になっています。海軍、さらには鎌倉や逗子の別荘地への足となっていました。今の通勤輸送のはしりですね。
無知ですみません。100年前って電車なの?蒸気機関車ですか?
基本は蒸気機関車牽引の「客車列車」
軍港の横須賀行が目立ちますね。当時は軍人の移動が多かったようですね。
当時は横須賀線が系統分離されていないので横須賀線列車は東海道線の線路を走ってました。
@@SAKUSAKU226さま
東京を出ると新橋、品川、大森、横浜、保土ケ谷、戸塚、大船、鎌倉、逗子、田浦、横須賀でした。
広島まで乗り換えなしの特急で19時間
今なら乗り換え9回、1時間半の待ち時間ありの普通列車で15時間なので車両性能の大幅な向上を感じます
この頃の横浜駅は桜木町ではなく今の横浜駅だったのかな?
特急でも1日弱
神戸まで急行で14時間今は18切符で10時間そりゃ早くなりました。
多分、全部蒸機牽引の客車か・・・旅情たっぷりですな
この年の秋に国府津まで電化されております。
後の超特急つばめ号は機関車の交換時間を省くために東京駅からSLでした。
鉄道博物館で昔の時刻表売ってたはず
この時期は敦賀・ウラジオストク経由のヨーロッパ連絡は行われていないんですね。
77レに79レて、ミキストですか?
いや、まだ列車番号付与規定が決まってなかった頃の話でして
この時代には正確な運行時刻が確立されていたのですね 日本の鉄道の時刻の正確さは世界一といわれています 15秒単位でダイヤが組まれるところを見れば一目瞭然です
100年前も15秒単位で組まれていたのでしょうか?調べてみようと思います
東京横浜間40分かあ
最終がまさかの糸崎w
この時代だと、距離はキロメートルじゃなくてマイルを使用していた。
関釜連絡船で朝鮮半島に渡り、北京まで連絡しているとは、驚きました。
上野、大阪とか主要駅の時刻表が知りたいです。
色々と興味深いな。終着駅に深夜1時に到着してどうしろと?w当時はネカフェも無かっただろうにw
この当時も意外と終電が遅く、山手線も終着が1:17まであったりします。
なお、中央線は中野以西はまだ未開発地だったので、中野=国分寺間は30分に1本程度しか有りませんし、国分寺以西は電車運行してません。
最初から下関なのが今ののぞみ1に似てるな
もう10年ほど前ですが、急な転勤になって最初の11日間“のぞみ1号”で千葉~神戸間を通勤していました。当時のように日跨ぎじゃないと移動できない時代だったら、転居が終わるまでの宿代を会社が出してくれたかな…いま思うと、新幹線代含めた交通費よりビジホかウイークリー使わせてくれた方が会社も安上がりだったように思うんですが
当時の人たちは、糸崎ってどこ?とかならなかったのかね
今みたいに、ネットで簡単に調べられないし
駅員に聞いてたのかな
いや~・・・1番列車の下関
所要37時間も然ることながら、優等席&寝台&食堂車もない一般客車での緩行運行Σ( ̄□ ̄|||)
まぁ、辻々で駅弁は入手出来るが硬質座席での37時間・・・。
ゴールした猛者はいたのだろうか?
江戸時代は徒歩で何十日もかかったことからすれば、37時間で着くのなら乗り通す人もいたでしょうね。
@@kataakeo7730
確かに江戸時代の徒歩道中に比べれば、1日半強で本州の最西端へ行けるワケですから(^^)>完全踏破
座布団&半身布団は、必須アイテムだったでしょうなぁ。
今は贅沢になっているので、そう思うのも無理ないが、当時としては座って行けるだけでも充分贅沢なことだ。
ゴールと言うより一般の方は普通列車でごく普通に乗り通していたことと思います。さらに連絡船を介して九州、朝鮮へと行き来していました。
この時代から70年遡れば各地の大名が参勤交代で江戸とを往復していた時代。島津藩に至っては鹿児島から江戸まで2ヶ月かけていました。
座って2日、3日も乗れば東京と言うのは相当な進歩です。
今や成田羽田からサクっと数時間で北京に行けちゃうというのに、百年ちょっと前には3日かかったんですねぇ((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
まあ、大昔の遣唐使とかは往復で1年はかかったことに比べれば、これでも進歩したんでしょうけどね
たぶんもう1日余分にかかったはず。釜山~奉天間は30時間以上かかり、奉天の時刻は翌々日のはず。
昭和5年の時刻表に外国航路が出てますが、神戸ブエノスアイレス線だと10/19出航11/16着、横浜ロンドン線だと10/6出航11/22着(箱根丸)ですから、この当時から比べると超高速移動が可能となってます。 ちなみに昭和5年、氷川丸(横浜で係留されているアレ)は香港=横浜=シアトル線に就航しており、09/24発10/15着なんてスケジュールでした。
糸崎って当時何があったのだろう
糸崎機関庫(区)です。ブルートレインの寝台特急時代でも、深夜に糸崎に停車するものがありました。
まだ「山田」行が存在していない。
大正ヤバい汽車ダイヤ
サクラ大戦の時代😁
富山行きが異質すぎる。
朝鮮半島の南端から奉天まで半日足らずで行けたのか。