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「苦」を「思い通りにならない」に置き換えは、とても腹に落ちました。確かスッタニパータの中で釈迦は「自分の身体でさえ主人の意思に反して勝手に病気になったり死んだりするのに、貴方の子供達や貴方の財産が、貴方の思い通りになる訳はないでしょう」と語ってましたね。一切皆苦は「思い通りになって欲しい」と思うから「苦」が現れるが、初めから「全ては自分の思い通りになるとは限らない」と捉えれば「苦」は和らぐと思います。「苦」を感じた時は自分を振り返り、自分を客観的に観察して「思い通り」に執着していないか観察する事が大事なのではと感じます。
「苦」は思いどおりにならない、サンスクリット語→中国語→日本語という言葉の変換の中で、なんだかミスリードしやすい単語になったんだろうと私も思います。古館さんの説明に一票投じます。
愛する人、愛した人も何時までも存在しないと妻の死をもって実感しました!昨今、若年層の自死について思う事は、仏教哲学は人生に必須だと感じます
私が考える一切皆苦は、人の一生は苦しみに始まり、苦しみに終わる、トータルで苦しいの方が多いのが人生と解釈しています。産道という狭く暗い苦しい道を通り、生まれてくる。そして最期は「老病死」。つねに人生は苦しみから始まり、苦しみを乗りこえた先に楽が待っていますが、すぐに欲(煩悩)がある限り再び苦しみに直面するのでしょう。そのくり返し。多くの人は、人生は楽なもの、楽であるべきだと思っているから、苦しみを感じたとき、なぜ自分だけがこんなに苦しいのかと嘆き、苦しみを避けようとしたり、なかったことにしたり、場合によっては薬に頼ってしまったりするのではないかなと思います。お釈迦様は、出家する前は一国の王子で何不自由なく箱入りで育てられ、また、古館さんが動画内で言われているように、少しネガティブな性格だったものだから、老病死という現実に悩まれ、一切皆苦と思われたのかなと。老病死は努力しても乗り越えていけるものではないですしね。
幸せなことが1つもないのではなく、一切皆苦の世の中に生まれてきたのに幸せがあることがなんという奇跡か、と考えたらいいですね。
プロのお坊さんの説法より、古館さんの語りはわかりやすいです。若かった頃と晩年に入った今と、両方経験している今こそ「一切皆苦」がずっしりと沁みてきます。「諸行無常」「一切皆苦」受け入れるだけで、悲しみ苦しみは消滅はしないけど、和らぐのは確かです。特定の一派の教えでないのが良いです。原始仏教シリーズ次回も楽しみにしています。
現職の末寺の仏僧ですが、お坊さんの説法は、どうしても「我が◯◯宗の教えが一番! どうぞ皆様私たちに温かなご支援を!」という方向に持って行きたがる傾向が大小問わず含まれることが多いですから。😅「それは説法ですはなく宣伝では?🤔」と言われると正におっしゃる通りとなります。古舘さんのように「啓蒙したい」という思いで語って下さる方は、本当にありがたい存在だと思う次第です。
生きる事は生老病死の苦、苦とは苦しさだけで無く不満足も苦の一つです。人生が不満足の連続である事を認めると期待が無くなり、心に落ち着きと安らぎが現れ、本当の心の平安、すなわち幸せが現れると言われています。自分の心に少しづつ苦を教える事が仏教の実践と言われています
涅槃の事ですね。すばらしい事ですね!
人は、一切皆苦は嫌だと言いながら、喜んで苦しみのどツボにはまってしまっているんですよね。過去を悔やんで、未来を心配して、現在を迷って、相対的な価値に振り回されて、右往左往しているのが現実かと思います。しかし、本人は至って幸せを求めているつもりになっているのでしょう。
浄土真宗の僧侶をしている55歳の者です。学生時代から、古舘様のファンでしたが今回初めてコメントさせて頂きます。古舘様の四法印のお話、とてもわかりやすく感銘いたしました。四法印の説明は、非常に難く古舘様ほどわかりやすくお話しくださる方はいないと思います。この動画を繰り返し拝見させていただき、自分も古舘様のようにわかりやすく法話ができるよう研鑽させて頂きます。あと、古舘様が今後も「釈迦の代官」という気概を持ってお釈迦様の説かれた法を一人でも多くの方にお伝えくださる事を心より念じております。🙏小生も「弥陀の代官」という気概を持って精進させて頂きます。😊最後に、古舘様の新刊、必ず読ませていただきます。
阿弥陀は真実でしょうか?😅
信じる人にとっては真実ですよ。ガンジス川の砂の数ほど宇宙が世界があるのです🎉
ミスチルの曲の歌詞に「残念ですが僕が生きている事に意味はない」,「憎めよ生まれてきた悲劇を」と言うのがあります。今回の古舘さんのお話を聞いて身にしみます。苦しみを積極的に受け入れて、刹那の喜びを噛みしめて余生を送って生きたいと思いました。ネガティブ思考な自分にとってとても有難いお話でした。続きも楽しみにしております。
尊いお話有難うございます。さて、ここまで仏教のご理解が深い古舘さんに是非、親鸞聖人の悪人正機をご研鑽頂きたく存じます。大乗至極の法がそこにあります。54才僧侶
本派の僧侶である私も同感です。👍古舘様には、「悪人正機」もわかりやすく伝えて頂きたいですね。
大乗はファンタジーとおっしゃってましたが私も同感しました🎉名言です😊
苦=思い通りにならない諦=諦めではなく「受け入れ」と解釈したらとても理解が深まった気がします😊
諦は、じつは諦らか(明らか)にする。ということが、大切だそうです😊
古舘さん、良いお話しをありがとうございます😊聞き入ってしまいましたこれからもこのような動画をアップして頂けると有り難いです
古舘さんのような著名人がこのような動画をアップして頂けるのはとても有意義ですね。個人的には結局目の前に起きている事象以外は全て夢だと言う事で腑に落ちた還暦男です😊配信ありがとうございます。
素晴らしいお話しを有り難うございます。一切皆苦は私なりに一切不具と読み替えます。
むしろすべて自分の思い通りにいくことのほうがおかしい。
釈迦は漢字で書くとインド人というイメージが薄れるが、インドらしく哲学も論理的。感情と哲学がごっちゃになってしまう日本人からすると難解に思えるが、哲学で悩んで行かないと成長しない。ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった!
古館さんへ。何故、胃ろうが多いのか、私の考えと古館さんの考えが一致したので分かりました。諸行無常、諸法無我。また、真理の勉強させて下さい😊大阪市福島区から
この東洋的な哲学が私にはしっくり来ます。腑に落ちます。西洋の童話はハッピーエンドで終わりがち(自己中心的)だけど、日本の昔話はマイナスでもプラスでも判断できない終わり方をすることがある。これは仏教の影響を受けている気がします。
仏教哲学勉強中です。面白い解釈ありがとうございます。一切皆苦、皆人生は、思い通りにならないから、努力もする。その時の達成した喜びが学び。満たされた世界ほどつまらないですよね。
私は心筋梗塞から心不全と確実にステップアップしています(*^^*)が苦しい痛いが毎日ですがずっと痛いかと言うとそうでも無い つまり痛いから痛くない時を幸せと感じることが出来る 幸も不幸もアザナエル縄の如し全てが混ざって人間生活だ 感謝 合掌🙏
ドーパミンの話のくだりで笑ってしまいました😂伊知郎さんの話し方が面白くてついつい見入ってしまいます😆私は今年44歳になりますが釈迦の教えが沁み入るようになってきました。苦しい事があるから楽しい事があり、事象はバイオリズムなんだなとつくづく感じます。またぜひ釈迦の教えをお話しください。ありがとうございます!
石丸さん関連動画をきっかけにチャンネル登録させてもらいましたが仏教哲学も古舘さんが話すとすんなり頭に入ってきますね
心理の言葉で書いてあったと思うんですが、一切皆苦の苦は、サンスクリット語から中国語、日本語に訳されたとき苦しみと訳されるけど、サンスクリット語から英語、日本語で訳すと、苦とは訳さず、満足できない。不満足となるそうです
本 購入しました❤拝読しています☆古館さんの豊かな言語感覚を味わっている今 この瞬間 安堵感と喜びを感じています。イベント開催、楽しみにしています◎
人生の一切は思い通りにならない連続というのは分かりますね…生きることは苦しみだと知ることができるから、堂々と人生これ以上恐れず生きて行けるし、ブッダのお話は素晴しい。真理を追求していくと、究極のマイナスほど究極のプラスになってくれるから、真理は面白い。ブッダは良い例、悪い例の方法を、一組ずつ教えて下さっているのも楽しい。ずっと聴いていると、ブッダの『年を取るから大仙人ではない』という言葉を思い出しました!古舘さんの経験値や奥の深さを感じ、次が待ち遠しくなります。ありがとうございました。
20年前、母の急死の半年後、精神的にかなり厳しい状況になりました。葬式で読み上げるお経と死者の鎮魂との関係に疑問を持ち、宗派仏教から原始仏教に行きつきました。釈迦(釈尊)の教えは「朝、日が昇れば、夕方には日が沈む、生命が誕生すれば必ず老と死が訪れる」という当たり前のことが出発点となった宗教であり、哲学に近いとも感じました。宗派宗教は江戸初期に葬式仏教に変質しましたが、原始仏教は学びが多々あります。帰依するかどうかは別にして、まずは知識から入り、哲学的な思索を皆さんも試されてはいかがかと思います。
釈迦の教えは捉え方によってはどこまでもネガティブで、どこまでもポジティブでもあります。その本質が中道にあるからで、現状がネガティブな状態にある人からみればポジティブに、ポジティブな状態にある人からみればネガティブに感じてしまうのです。一切皆苦は諸行無常、諸法無我を根底に話さなければならないため、もし今の段階で一切皆苦を受け入れられない、理解できないと思った方は諸法無我と諸法無我を実感として得られるまで無理せずゆっくりと過ごされたほうがいいと思います。
年齢重ねたり、何かをやり抜いたりした時に初めてわかりますよ。若い頃はわからない。
感情のバブルにいたるくだり、素晴らしいです!この回、ヘビリピです!ありがとうございます!方便として必要でも、フツーにいう約束ごとは罪なものだとおもいました。
ゴータマ・ブッダは小国なれど一国の王子として贅沢な暮らしをしていました。しかしゴータマは満足を得ることが出来なかった。人は「もうこれで良い」と満足することが決してありません。ゴータマはこれを「皆苦」と言ったのではないかと思います。
最近ではスタッフさんの意見を、優しく受け入れて見つめる古舘さんの瞳が 仏像のような感じだなと、思います
綺麗な星になりたいと思って、もしなれたとしても真の姿は岩石の塊であり、目の前に広がるのは暗黒の宇宙でしかないし絶世の美人になりたいと思ってもしなれたとしても鏡を見なければその姿を自分で認識することはできないしそうした欲求は死ぬまで消えることがないのだろうなと。結局理想の姿を思い浮かべて行動している自分を褒めてあげることが、幸せに触れる近道なのかなと思いました。
苦さを感じられるということは美味さを感じたことがあるということ人生もコーヒーのように苦さを味わってなんぼ
千数百のグッド評価がついていますね。この動画を見ている多くの人達が原始仏教のお話に理解や共感をしているのを嬉しく思っちゃいますね。仏教が示す、心のあるべき状態はネガティブでも無ければ歓喜するような上がった状態でも無いプレーンな状態が望ましいと言うスタンスですもんね。快不快の快を選んで舞い上がるような喜びを求めてもそれは長いスパンで見ると心に悪影響がでる。心の健康を保つのにプレーンな状態が良いと言うのが理解できます。
スゲーぜ。ここまで深い学び・噛みしめただ、ただ圧倒。頭が下がる。次回、業。楽しみだぜ❕
”三宝印”は諸行無常・諸法無我・涅槃寂静ですね無常・苦・無我は”三相”と呼ばれます四苦と怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦は限定的な苦ですが、五蘊盛苦は無我を我と思い込んでいる故に生じる苦です”心”を自身の所有物だと認識している限り生じてくるのが五蘊盛苦です他七苦の発生源と考えられます世界を認識する心が苦の根源であるから、一切皆苦(世界は苦しみに満ちている)なのでしょうね
思い通りにならない事が順調である。
苦難試練だらけ悩み苦しみ痛み生きるの非常にキツイです しにたい
とても考えさせられる良い動画です✨
古舘伊知郎さん 仏教に 詳しいですね 布教師さんの 資格 お持ちですか聴聞が 好きで 聞いても聞いても これで良いとは 思わないです 奥が深いです
古舘さんは、出家して世の中に仏教を説いて欲しい。❤
中村天風先生は、元気の後から健康が付いて来る。健康や病気でなく。元気を損なわないことが大事みたいです。楽を求めれば動けず、楽しいさを求めたら動くしかない。
若い子には新鮮に聞こえるだろうね
背景の移り変わりの古舘の、心映す鏡かな🌜🌌🌠
仏教の言葉で一水四見、同じものを見ても様々な見方をし、またそれを固定不変であると勘違いして囚われるのが生命というものですね。同じ太陽も、人によって綺麗な夕日、暑苦しい西日、ありがたい朝日、お肌の大敵などとポジショントークします。
「己れこそ 己れの寄る辺己れを措きて 誰に寄る辺ぞ よく調えし己れにこそ まこと得難き 寄る辺をぞ得ん」
古館さん 一切皆苦 般若心経の中で説かれている 重要な一説ですね。これは この世は あの世 天上界とは違い 魂磨きの 修行場なので なんの苦もない 極楽の状態であってはこの世に生まれて来た 目的をかんがえると 具合がわるい訳で 苦しみは魂を磨く 砥石だと思えば それが一番 人間にとっては 幸せな事 有難い事なんだと思います。
健在だなあ・・古館節!
苦=思い通りにならない。=自分は不完全。=真理。ぼやっと分かる。分かる=自我…か…一切皆苦…わきまえることか…?
ありがとう御座いました😊
散る桜 残る桜も散る桜裏を見せ表を見せて 散る紅葉なぜか この2句を思い出しました。
涅槃寂静、楽しみです!
呼吸をしなければ生きていけない、食べなければ生きていけない、その不自由さがそもそも苦ですよね
わかりやすい
工藤さんは現世利益以外の想像に苦労されてるようです。
一切皆苦 悉有仏性悉有仏性についてもお話ししてください。
とある地域では、腹が立つことを『ごうがわく』と言います。自分中心に考えるから腹が立つんだよ、という教えなんだと思いました。あっとりますかね?
一切皆苦、思い通りにならないのは、諸法無我、私はいないんだから、当然で、生きるコントロール権は一切ないという事。コントロール出来ると勘違いしているから苦しい。私の命と思っているから苦しい。「私が命」であり命の側にコントロール権があるのだから、1つなる大元の命に気づいた時それが人生苦しい時の救い、真理を知る事での救いとは、この事かなと思いました
人生はそもそも思いどおりにいかないものだということを受け入れることで苦しみが少し緩和される気がしました。
次もお願いします。❤
人は苦しいと「死んだら楽になる」と考えます。そう思い込んで、自らの命を絶つ人もいます。「一切皆苦」と言うお釈迦様の言葉は「死んだら楽になりますが、生きていることが苦しいのは、貴方だけではないですよ。皆、誰でも大なり小なり、苦しいんですよ。だから、生きなさい」という戒めがあるような気がします。曲解でしょうけど。
色を見て感じるクオリアがあるから人間には苦しみが生じるんですよね。機械は色を見て認識することはできても何も感じるクオリアがないから苦しむこともないわけで…。人が苦しみに対して過敏になりすぎるというのはよく分かります。きっとクオリアのせいで苦悩がその実体以上に我々の重荷になりすぎてしまうんですね。クオリアをもたない哲学的ゾンビになれたらどれほど気楽だろうと思えることもありますが、「ゾンビ」という言われ方をされるように生きている人間にはやっぱり抵抗があります。小さなことに一喜一憂する不完全な人間だからそれも仕方ないんでしょうね。不完全だから面白いと言える部分もありますし。釈迦の様にマクロな視点で、自分自身を俯瞰して映画やドラマの人物のように外から見つめれば、少しは気が楽になるのかな、と思ったりします。
一生懸命頑張り過ぎて、自殺したくなる様な経験を3〜4位味わって、尚且つ生活は悲惨でなくても、生きるのがただ辛い経験をすれば、本当の意味で釈迦の言葉に救われた。一切皆苦は、救いがない理解よりも、苦しみは常にあるから好きなように生きろって言われた気がしました。諸行無常も好きな言葉で周りも変わるし、自分も変わるから周りの目を気にしなくなりました。😊
今年もトーキングブルース期待しています😮
最近まで人は何の為に生きて行くのだろうと思っていました。しかし最近はそのようなことは考えることも必要でもないと思う心境です。 あるがままに生きる、こうしたい、ああしたいと思うことで自分を追い込んで苦しんでいくこともない。 生老病死を受け止めてあるがままの姿でいいと。 そんな心境になっております。これもある程度生きてきた時間があればこそととの心境かもしれません。
権実相対と種脱相対を研究してみて下さい。
古舘さんは頭が良すぎて例え話が次から次へと出てきてしまい、それを全部話してしまうから聞いている方は途中で何度も辟易してしまいます。昭和の説教臭さをなくした方がしゃべりのプロとしてはさらにその上に行くのではないでしょうか?言いたいことを言うのではなく、聞きたいことを話すようにすると良いのでは。
古舘さんの実況イズムが沁みるw
外国人は虫の音が雑音にしか聞こえないといいます。日本の教育が今のまま続くなら、いずれ日本人も同じになり、自然は共存するものではなく、戦うものと言い出す人が出て来そうだと予想しています。もういるかも。
工藤さんの質問と古舘さんへのスタンスがすごくいい感じで聴きやすい
古舘さんの解説が、とてもわかりやすい。ありがたいお話ありがとうございます。仏教シリーズもっと聞きたいです。
生あるものは皆、生まれた瞬間から死に向かって過ごしていくでしよう。罪のない子供がゴミ収集車に轢かれたり、園児バスに置き去りで亡くなったり、神様は悪魔です、正月に初詣に行き、夕方地震で家、家族を無くした能登の人たちの事を考えると残酷です。どんなに素晴らしい世の中になっても、歴史は繰り返すのです。仏教も不完全です。
今回も、素晴らしいお話しで感動しました。大学で聞きたかったと思えます!あと八正道の言わんとする意味がわかりません。本能を抑えて正しい道を歩めということですか?煩悩は良くないということですか?人間は自分の力で本能を抑えていける者でしょうか?もしよろしければ教えてください。
真理を3つの視点から見たものが無常・無我・苦であって、苦とは苦しいという意味だけでなく、生きることに意味や価値がない、虚しいという意味も包含している。だから解脱して涅槃に達しなさいよ〜、と私は教わりました。
東洋思想に着目したショーペンハウアーやニーチェの人生観を調べてみても仏教思想をまた違う視点で考察できると思います また中国の老荘思想や孔子の儒教思想も勉強になりました 私は特に老子の道徳経に魅力を感じました 老子と釈迦の同一人物説という話しがあると聞いて興味深いなとも感じました さらに深掘りして考察してみると 老子と釈迦の教えは違うようで似通っている部分がやっぱりあると思ったからです。釈迦は宗教家なのか?心理学者だという人もいます 老子も宗教家という存在だとはどうにも思えない。
テーラワーダ仏教(初期仏教)のスマナサーラ長老と対談して欲しいですm(__)m
四法印は、諸法実相・一念三千の元になる教えで、一念三千の法が真理であり救いです。
生きていることは仮の姿。生きるとい仮の姿がどうせ苦しいなら欲にまみれて生きて行こう!死んだ時に苦しみから解き放たれて涅槃寂静の世界に行けます。と思っています。
ゴータマ・ブッダが生きた紀元前500年あたりの生活は苦しみが今より遥かに多かっただろうと思う
菊谷先生の、生死の苦海ほとりなし、という格言とも似てますね。人間はほとりのない大海原に放り出されているのと同じで、次から次に小さい波大きい波が押し寄せてきます。一難去ってまた一難。悲しみ苦しみの連続のように思います。100パ−セント苦しみだと自殺しないといけないので、ほんの少しばかり楽しみもあるように神様が創っているような気がします。真面目に他人に害を与えないように生きていくしかないです。
菊谷先生って親鸞会の人でしょうか。
はい、そのように思います
古舘さん💦 ゴゴスマのコメンテーターでは元気無かったですよね🤔 古舘さん☝逃げないで、都知事選の古舘さんのスタンスを改めて仰ってください🙇💦 ご自身の推し活は、正解でしたか❔それとも 反省でしたか❔
釈迦からしたら反出生主義は合理的な判断という事ですね
全てはより良くなりたいという生存本能の仕業?それに振り回されてるのが人間?てことなんでしょうか?お話の趣旨からズレてるかもですが、自分なんていないが腑に落ちた気がします。
「苦」:ダンマパダ(法句経)などにみられる「dukkha(パーリ語)ドゥッカ」が,中国語や日本語に翻訳された際に「苦」と訳されたものです。dukkhaの意味は「思い通りにならない」といった意味であり,「苦しい」という意味ではないようです(お釈迦様の研究に生涯を貫徹なさった中村元先生によりますと・・・)。一切皆苦:諸々のことがらは,(我々の)思い通りにならない,という意味です。 お釈迦様は,「人生は苦しい」ではなく,「人生は,思い通りにならない」と言われています。「思い通りになるといった我々の間違った認識(無明)」が,苦悩の根源であると説かれています。
最愛の肉親を亡くし、仏教にすがろうと思ったこともありましたが、釈迦はいかに生きるかを説いた人。亡くなった人に会いたい、自分も死にたいと、ワラをも掴む思いで宗教にすがる者とは相容れないんですよね。お釈迦様は、亡くなった後のことなど語りませんから。もちろん、天国だの地獄だの、助け舟が救ってくれるだのという、取って付けた怪しい教えで思い込みで救おうと見せかける仏教よりは、お釈迦様の教えの方が素晴らしいのは分かるのですが..
2つ前のコメントの追伸です。自力ではなく他力。そして自分はいない。自由意志はないという言葉を私は、発達障害のせいなのか、一面的にとらえて、前よりも、自分を、怠惰にしたりして苦しんだりしてるような気もするのです。自由意志があるからこそ、八正道なるものがあるのでしょうか?幼稚な質問かも知れませんが、ずっとわからずじまいのことです。
苦 楽 共にある! 下に落ちると(0になると)あとはゼロ以上ですよ^^ノ こうゆう人もいます^^ノ
💖
カルマについての話も聞きたいです!
一切皆苦なんて聞くと、生まれ変わったら一切皆苦でしたみたいな俺の自我が今日も奈落に落とされちゃったよな異世界感があって楽しいですね。釈迦はすでにポストモダン以降の考え方で大好き。じゃあそんな異世界感たっぷりの一切皆苦の奈落で今日をどう生きましょうか?!ゲームのようです。プレイしましょう! ありがとうございます♪。話しがおもしろい!!
一切皆苦。そう思ったら、その通りの人生となるでしょう。釈迦が言いたかったのは、自分次第でどーにかなることも、無くはないよ? でしょ? つーこと。「アイゼンは、辛く苦しい旅がしたいのかい?」 勇者ヒンメルが仲間に問いました。これからの長い旅はそんなんじゃつまんないでしょ。だって自分の人生なんだから。 みたいな
出だしから深い
無気力、無関心、無欲だと真理に辿り着けるのでしょうか?
たどり着けないと思います。
お若い方2人の質問疑問が入るのが、良いですね。
毎回死ぬほど面白い
私も十数年前より仏教の根本的な教えつまり仏陀の教えに触れ救われたものです。古舘さんはキリスト教系の大学を出られていると思いますがそこでは何かキリスト教の教えはあったのでしょうか。
般若心経では「一切皆空」ですが、両者は違う意味ですよね。何故違うんでしょうか。
恨んだり憎んだり苦しんだりってのが虚構、無我だから安心していいっていう感じでいいのかなそれは愛する慈しむ笑い合う、それも虚構だし苦に繋がるものだよという考え方?なんかもう無我なのに皆苦ってなんだよって思った
「苦」を「思い通りにならない」に置き換えは、とても腹に落ちました。確かスッタニパータの中で釈迦は「自分の身体でさえ主人の意思に反して勝手に病気になったり死んだりするのに、貴方の子供達や貴方の財産が、貴方の思い通りになる訳はないでしょう」と語ってましたね。一切皆苦は「思い通りになって欲しい」と思うから「苦」が現れるが、初めから「全ては自分の思い通りになるとは限らない」と捉えれば「苦」は和らぐと思います。「苦」を感じた時は自分を振り返り、自分を客観的に観察して「思い通り」に執着していないか観察する事が大事なのではと感じます。
「苦」は思いどおりにならない、サンスクリット語→中国語→日本語という言葉の変換の中で、なんだかミスリードしやすい単語になったんだろうと私も思います。古館さんの説明に一票投じます。
愛する人、愛した人も何時までも存在しないと妻の死をもって実感しました!昨今、若年層の自死について思う事は、仏教哲学は人生に必須だと感じます
私が考える一切皆苦は、人の一生は苦しみに始まり、苦しみに終わる、トータルで苦しいの方が多いのが人生と解釈しています。産道という狭く暗い苦しい道を通り、生まれてくる。そして最期は「老病死」。
つねに人生は苦しみから始まり、苦しみを乗りこえた先に楽が待っていますが、すぐに欲(煩悩)がある限り再び苦しみに直面するのでしょう。そのくり返し。多くの人は、人生は楽なもの、楽であるべきだと思っているから、苦しみを感じたとき、なぜ自分だけがこんなに苦しいのかと嘆き、苦しみを避けようとしたり、なかったことにしたり、場合によっては薬に頼ってしまったりするのではないかなと思います。
お釈迦様は、出家する前は一国の王子で何不自由なく箱入りで育てられ、また、古館さんが動画内で言われているように、少しネガティブな性格だったものだから、老病死という現実に悩まれ、一切皆苦と思われたのかなと。老病死は努力しても乗り越えていけるものではないですしね。
幸せなことが1つもないのではなく、一切皆苦の世の中に生まれてきたのに幸せがあることがなんという奇跡か、と考えたらいいですね。
プロのお坊さんの説法より、古館さんの語りはわかりやすいです。若かった頃と晩年に入った今と、両方経験している今こそ「一切皆苦」がずっしりと沁みてきます。「諸行無常」「一切皆苦」受け入れるだけで、悲しみ苦しみは消滅はしないけど、和らぐのは確かです。特定の一派の教えでないのが良いです。原始仏教シリーズ次回も楽しみにしています。
現職の末寺の仏僧ですが、お坊さんの説法は、どうしても「我が◯◯宗の教えが一番! どうぞ皆様私たちに温かなご支援を!」という方向に持って行きたがる傾向が大小問わず含まれることが多いですから。😅
「それは説法ですはなく宣伝では?🤔」と言われると正におっしゃる通りとなります。
古舘さんのように「啓蒙したい」という思いで語って下さる方は、本当にありがたい存在だと思う次第です。
生きる事は生老病死の苦、苦とは苦しさだけで無く不満足も苦の一つです。人生が不満足の連続である事を認めると期待が無くなり、心に落ち着きと安らぎが現れ、本当の心の平安、すなわち幸せが現れると言われています。自分の心に少しづつ苦を教える事が仏教の実践と言われています
涅槃の事ですね。
すばらしい事ですね!
人は、一切皆苦は嫌だと言いながら、喜んで苦しみのどツボにはまってしまっているんですよね。過去を悔やんで、未来を心配して、現在を迷って、相対的な価値に振り回されて、右往左往しているのが現実かと思います。
しかし、本人は至って幸せを求めているつもりになっているのでしょう。
浄土真宗の僧侶をしている55歳の者です。
学生時代から、古舘様のファンでしたが今回初めてコメントさせて頂きます。
古舘様の四法印のお話、とてもわかりやすく感銘いたしました。
四法印の説明は、非常に難く古舘様ほどわかりやすくお話しくださる方はいないと思います。
この動画を繰り返し拝見させていただき、自分も古舘様のようにわかりやすく法話ができるよう研鑽させて頂きます。
あと、古舘様が今後も「釈迦の代官」という気概を持ってお釈迦様の説かれた法を一人でも多くの方にお伝えくださる事を心より念じております。🙏
小生も「弥陀の代官」という気概を持って精進させて頂きます。😊
最後に、古舘様の新刊、必ず読ませていただきます。
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信じる人にとっては真実ですよ。ガンジス川の砂の数ほど宇宙が世界があるのです🎉
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尊いお話有難うございます。
さて、ここまで仏教のご理解が深い古舘さんに是非、親鸞聖人の悪人正機をご研鑽頂きたく存じます。大乗至極の法がそこにあります。
54才僧侶
本派の僧侶である私も同感です。👍
古舘様には、「悪人正機」もわかりやすく伝えて頂きたいですね。
大乗はファンタジーとおっしゃってましたが私も同感しました🎉名言です😊
苦=思い通りにならない
諦=諦めではなく「受け入れ」
と解釈したらとても理解が深まった気がします😊
諦は、じつは諦らか(明らか)にする。
ということが、大切だそうです😊
古舘さん、良いお話しをありがとうございます😊
聞き入ってしまいました
これからもこのような動画をアップして頂けると有り難いです
古舘さんのような著名人がこのような動画をアップして頂けるのはとても有意義ですね。
個人的には結局目の前に起きている事象以外は全て夢だと言う事で腑に落ちた還暦男です😊
配信ありがとうございます。
素晴らしいお話しを有り難うございます。一切皆苦は私なりに一切不具と読み替えます。
むしろすべて自分の思い通りにいくことのほうがおかしい。
釈迦は漢字で書くとインド人というイメージが薄れるが、インドらしく哲学も論理的。感情と哲学がごっちゃになってしまう日本人からすると難解に思えるが、哲学で悩んで行かないと成長しない。ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった!
古館さんへ。
何故、胃ろうが多いのか、私の考えと古館さんの考えが一致したので分かりました。諸行無常、諸法無我。
また、真理の勉強させて下さい😊
大阪市福島区から
この東洋的な哲学が私にはしっくり来ます。腑に落ちます。
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仏教哲学勉強中です。面白い解釈ありがとうございます。
一切皆苦、皆人生は、思い通りにならないから、努力もする。
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全てが混ざって人間生活だ 感謝 合掌🙏
ドーパミンの話のくだりで笑ってしまいました😂
伊知郎さんの話し方が面白くてついつい見入ってしまいます😆
私は今年44歳になりますが釈迦の教えが沁み入るようになってきました。苦しい事があるから楽しい事があり、事象はバイオリズムなんだなとつくづく感じます。
またぜひ釈迦の教えをお話しください。ありがとうございます!
石丸さん関連動画をきっかけにチャンネル登録させてもらいましたが
仏教哲学も古舘さんが話すとすんなり頭に入ってきますね
心理の言葉で書いてあったと思うんですが、一切皆苦の苦は、サンスクリット語から中国語、日本語に訳されたとき苦しみと訳されるけど、サンスクリット語から英語、日本語で訳すと、苦とは訳さず、満足できない。不満足となるそうです
本 購入しました❤
拝読しています☆
古館さんの豊かな言語感覚を味わっている今 この瞬間 安堵感と喜びを感じています。
イベント開催、楽しみにしています◎
人生の一切は思い通りにならない連続というのは分かりますね…生きることは苦しみだと知ることができるから、堂々と人生これ以上恐れず生きて行けるし、ブッダのお話は素晴しい。
真理を追求していくと、究極のマイナスほど究極のプラスになってくれるから、真理は面白い。
ブッダは良い例、悪い例の方法を、一組ずつ教えて下さっているのも楽しい。
ずっと聴いていると、ブッダの『年を取るから大仙人ではない』という言葉を思い出しました!古舘さんの経験値や奥の深さを感じ、次が待ち遠しくなります。ありがとうございました。
20年前、母の急死の半年後、精神的にかなり厳しい状況になりました。葬式で読み上げるお経と死者の鎮魂との関係に疑問を持ち、宗派仏教から原始仏教に行きつきました。釈迦(釈尊)の教えは「朝、日が昇れば、夕方には日が沈む、生命が誕生すれば必ず老と死が訪れる」という当たり前のことが出発点となった宗教であり、哲学に近いとも感じました。宗派宗教は江戸初期に葬式仏教に変質しましたが、原始仏教は学びが多々あります。帰依するかどうかは別にして、まずは知識から入り、哲学的な思索を皆さんも試されてはいかがかと思います。
釈迦の教えは捉え方によってはどこまでもネガティブで、どこまでもポジティブでもあります。
その本質が中道にあるからで、現状がネガティブな状態にある人からみればポジティブに、ポジティブな状態にある人からみればネガティブに感じてしまうのです。
一切皆苦は諸行無常、諸法無我を根底に話さなければならないため、もし今の段階で一切皆苦を受け入れられない、理解できないと思った方は諸法無我と諸法無我を実感として得られるまで無理せずゆっくりと過ごされたほうがいいと思います。
年齢重ねたり、何かをやり抜いたりした時に初めてわかりますよ。
若い頃はわからない。
感情のバブルにいたるくだり、素晴らしいです!この回、ヘビリピです!ありがとうございます!方便として必要でも、フツーにいう約束ごとは罪なものだとおもいました。
ゴータマ・ブッダは小国なれど一国の王子として贅沢な暮らしをしていました。
しかしゴータマは満足を得ることが出来なかった。
人は「もうこれで良い」と満足することが決してありません。
ゴータマはこれを「皆苦」と言ったのではないかと思います。
最近ではスタッフさんの意見を、
優しく受け入れて見つめる古舘さんの瞳が 仏像のような感じだなと、思います
綺麗な星になりたいと思って、もしなれたとしても
真の姿は岩石の塊であり、目の前に広がるのは暗黒の宇宙でしかないし
絶世の美人になりたいと思ってもしなれたとしても
鏡を見なければその姿を自分で認識することはできないし
そうした欲求は死ぬまで消えることがないのだろうなと。
結局理想の姿を思い浮かべて行動している自分を褒めてあげることが、幸せに触れる近道なのかなと思いました。
苦さを感じられるということは美味さを感じたことがあるということ
人生もコーヒーのように苦さを味わってなんぼ
千数百のグッド評価がついていますね。
この動画を見ている多くの人達が原始仏教のお話に理解や共感をしているのを嬉しく思っちゃいますね。
仏教が示す、心のあるべき状態はネガティブでも無ければ歓喜するような上がった状態でも無いプレーンな状態が望ましいと言うスタンスですもんね。
快不快の快を選んで舞い上がるような喜びを求めてもそれは長いスパンで見ると心に悪影響がでる。心の健康を保つのにプレーンな状態が良いと言うのが理解できます。
スゲーぜ。ここまで深い学び・噛みしめただ、ただ圧倒。
頭が下がる。
次回、業。楽しみだぜ❕
”三宝印”は諸行無常・諸法無我・涅槃寂静ですね
無常・苦・無我は”三相”と呼ばれます
四苦と怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦は限定的な苦ですが、五蘊盛苦は無我を我と思い込んでいる故に生じる苦です
”心”を自身の所有物だと認識している限り生じてくるのが五蘊盛苦です
他七苦の発生源と考えられます
世界を認識する心が苦の根源であるから、一切皆苦(世界は苦しみに満ちている)なのでしょうね
思い通りにならない事が順調である。
苦難試練だらけ悩み苦しみ痛み
生きるの非常にキツイです しにたい
とても考えさせられる良い動画です✨
古舘伊知郎さん 仏教に 詳しいですね
布教師さんの 資格 お持ちですか
聴聞が 好きで 聞いても聞いても これで良いとは 思わないです 奥が深いです
古舘さんは、出家して世の中に仏教を説いて欲しい。❤
中村天風先生は、元気の後から健康が付いて来る。健康や病気でなく。元気を損なわないことが大事みたいです。楽を求めれば動けず、楽しいさを求めたら動くしかない。
若い子には新鮮に聞こえるだろうね
背景の移り変わりの古舘の、心映す鏡かな🌜🌌🌠
仏教の言葉で一水四見、同じものを見ても様々な見方をし、またそれを固定不変であると勘違いして囚われるのが生命というものですね。
同じ太陽も、人によって綺麗な夕日、暑苦しい西日、ありがたい朝日、お肌の大敵などとポジショントークします。
「己れこそ 己れの寄る辺己れを措きて 誰に寄る辺ぞ よく調えし己れにこそ まこと得難き 寄る辺をぞ得ん」
古館さん 一切皆苦 般若心経の中で説かれている 重要な一説ですね。
これは この世は あの世 天上界とは違い 魂磨きの 修行場なので なんの苦もない 極楽の状態であっては
この世に生まれて来た 目的をかんがえると 具合がわるい訳で 苦しみは魂を磨く 砥石だと思えば それが一番
人間にとっては 幸せな事 有難い事なんだと思います。
健在だなあ・・古館節!
苦=思い通りにならない。=自分は不完全。
=真理。
ぼやっと分かる。分かる=自我…か…
一切皆苦…わきまえることか…?
ありがとう御座いました😊
散る桜 残る桜も散る桜
裏を見せ表を見せて 散る紅葉
なぜか
この2句を思い出しました。
涅槃寂静、楽しみです!
呼吸をしなければ生きていけない、食べなければ生きていけない、その不自由さがそもそも苦ですよね
わかりやすい
工藤さんは現世利益以外の想像に苦労されてるようです。
一切皆苦 悉有仏性
悉有仏性についてもお話ししてください。
とある地域では、腹が立つことを『ごうがわく』と言います。自分中心に考えるから腹が立つんだよ、という教えなんだと思いました。あっとりますかね?
一切皆苦、思い通りにならないのは、諸法無我、私はいないんだから、当然で、生きるコントロール権は一切ないという事。コントロール出来ると勘違いしているから苦しい。私の命と思っているから苦しい。「私が命」であり命の側にコントロール権があるのだから、1つなる大元の命に気づいた時それが人生苦しい時の救い、真理を知る事での救いとは、この事かなと思いました
人生はそもそも思いどおりにいかないものだということを受け入れることで苦しみが少し緩和される気がしました。
次もお願いします。❤
人は苦しいと「死んだら楽になる」と考えます。そう思い込んで、自らの命を絶つ人もいます。「一切皆苦」と言うお釈迦様の言葉は「死んだら楽になりますが、生きていることが苦しいのは、貴方だけではないですよ。皆、誰でも大なり小なり、苦しいんですよ。だから、生きなさい」という戒めがあるような気がします。曲解でしょうけど。
色を見て感じるクオリアがあるから人間には苦しみが生じるんですよね。機械は色を見て認識することはできても何も感じるクオリアがないから苦しむこともないわけで…。
人が苦しみに対して過敏になりすぎるというのはよく分かります。きっとクオリアのせいで苦悩がその実体以上に我々の重荷になりすぎてしまうんですね。
クオリアをもたない哲学的ゾンビになれたらどれほど気楽だろうと思えることもありますが、「ゾンビ」という言われ方をされるように生きている人間にはやっぱり抵抗があります。
小さなことに一喜一憂する不完全な人間だからそれも仕方ないんでしょうね。不完全だから面白いと言える部分もありますし。
釈迦の様にマクロな視点で、自分自身を俯瞰して映画やドラマの人物のように外から見つめれば、少しは気が楽になるのかな、と思ったりします。
一生懸命頑張り過ぎて、自殺したくなる様な経験を3〜4位味わって、尚且つ生活は悲惨でなくても、生きるのがただ辛い経験をすれば、本当の意味で釈迦の言葉に救われた。一切皆苦は、救いがない理解よりも、苦しみは常にあるから好きなように生きろって言われた気がしました。諸行無常も好きな言葉で周りも変わるし、自分も変わるから周りの目を気にしなくなりました。😊
今年もトーキングブルース期待しています😮
最近まで人は何の為に生きて行くのだろうと思っていました。しかし最近はそのような
ことは考えることも必要でもないと思う心境です。 あるがままに生きる、こうしたい、ああしたい
と思うことで自分を追い込んで苦しんでいくこともない。 生老病死を受け止めてあるがままの
姿でいいと。 そんな心境になっております。これもある程度生きてきた時間があればこそと
との心境かもしれません。
権実相対と種脱相対を研究してみて下さい。
古舘さんは頭が良すぎて例え話が次から次へと出てきてしまい、それを全部話してしまうから聞いている方は途中で何度も辟易してしまいます。昭和の説教臭さをなくした方がしゃべりのプロとしてはさらにその上に行くのではないでしょうか?言いたいことを言うのではなく、聞きたいことを話すようにすると良いのでは。
古舘さんの実況イズムが沁みるw
外国人は虫の音が雑音にしか聞こえないといいます。
日本の教育が今のまま続くなら、いずれ日本人も同じになり、自然は共存するものではなく、戦うものと言い出す人が出て来そうだと予想しています。もういるかも。
工藤さんの質問と古舘さんへのスタンスがすごくいい感じで聴きやすい
古舘さんの解説が、とてもわかりやすい。ありがたいお話ありがとうございます。仏教シリーズもっと聞きたいです。
生あるものは皆、生まれた瞬間から死に向かって過ごしていくでしよう。罪のない子供がゴミ収集車に轢かれたり、園児バスに置き去りで亡くなったり、神様は悪魔です、正月に初詣に行き、夕方地震で家、家族を無くした能登の人たちの事を考えると残酷です。どんなに素晴らしい世の中になっても、歴史は繰り返すのです。仏教も不完全です。
今回も、素晴らしいお話しで感動しました。大学で聞きたかったと思えます!あと八正道の言わんとする意味がわかりません。本能を抑えて正しい道を歩めということですか?煩悩は良くないということですか?人間は自分の力で本能を抑えていける者でしょうか?もしよろしければ教えてください。
真理を3つの視点から見たものが無常・無我・苦であって、苦とは苦しいという意味だけでなく、生きることに意味や価値がない、虚しいという意味も包含している。だから解脱して涅槃に達しなさいよ〜、と私は教わりました。
東洋思想に着目したショーペンハウアーやニーチェの人生観を調べてみても仏教思想をまた違う視点で考察できると思います また中国の老荘思想や孔子の儒教思想も勉強になりました 私は特に老子の道徳経に魅力を感じました 老子と釈迦の同一人物説という話しがあると聞いて興味深いなとも感じました さらに深掘りして考察してみると 老子と釈迦の教えは違うようで似通っている部分がやっぱりあると思ったからです。釈迦は宗教家なのか?心理学者だという人もいます 老子も宗教家という存在だとはどうにも思えない。
テーラワーダ仏教(初期仏教)のスマナサーラ長老と対談して欲しいですm(__)m
四法印は、諸法実相・一念三千の元になる教えで、一念三千の法が真理であり救いです。
生きていることは仮の姿。生きるとい仮の姿がどうせ苦しいなら欲にまみれて生きて行こう!死んだ時に苦しみから解き放たれて涅槃寂静の世界に行けます。
と思っています。
ゴータマ・ブッダが生きた紀元前500年あたりの生活は苦しみが今より遥かに多かっただろうと思う
菊谷先生の、生死の苦海ほとりなし、という格言とも似てますね。人間はほとりのない大海原に放り出されているのと同じで、次から次に小さい波大きい波が押し寄せてきます。一難去ってまた一難。悲しみ苦しみの連続のように思います。100パ−セント苦しみだと自殺しないといけないので、ほんの少しばかり楽しみもあるように神様が創っているような気がします。真面目に他人に害を与えないように生きていくしかないです。
菊谷先生って親鸞会の人でしょうか。
はい、そのように思います
古舘さん💦 ゴゴスマのコメンテーターでは元気無かったですよね🤔 古舘さん☝逃げないで、都知事選の古舘さんのスタンスを改めて仰ってください🙇💦 ご自身の推し活は、正解でしたか❔それとも 反省でしたか❔
釈迦からしたら反出生主義は合理的な判断という事ですね
全てはより良くなりたいという生存本能の仕業?それに振り回されてるのが人間?てことなんでしょうか?お話の趣旨からズレてるかもですが、自分なんていないが腑に落ちた気がします。
「苦」:ダンマパダ(法句経)などにみられる「dukkha(パーリ語)ドゥッカ」が,中国語や日本語に翻訳された際に「苦」と訳されたものです。dukkhaの意味は「思い通りにならない」といった意味であり,「苦しい」という意味ではないようです(お釈迦様の研究に生涯を貫徹なさった中村元先生によりますと・・・)。
一切皆苦:諸々のことがらは,(我々の)思い通りにならない,という意味です。
お釈迦様は,「人生は苦しい」ではなく,「人生は,思い通りにならない」と言われています。
「思い通りになるといった我々の間違った認識(無明)」が,苦悩の根源であると説かれています。
最愛の肉親を亡くし、仏教にすがろうと思ったこともありましたが、釈迦はいかに生きるかを説いた人。亡くなった人に会いたい、自分も死にたいと、ワラをも掴む思いで宗教にすがる者とは相容れないんですよね。お釈迦様は、亡くなった後のことなど語りませんから。もちろん、天国だの地獄だの、助け舟が救ってくれるだのという、取って付けた怪しい教えで思い込みで救おうと見せかける仏教よりは、お釈迦様の教えの方が素晴らしいのは分かるのですが..
2つ前のコメントの追伸です。自力ではなく他力。そして自分はいない。自由意志はないという言葉を私は、発達障害のせいなのか、一面的にとらえて、前よりも、自分を、怠惰にしたりして苦しんだりしてるような気もするのです。自由意志があるからこそ、八正道なるものがあるのでしょうか?幼稚な質問かも知れませんが、ずっとわからずじまいのことです。
苦 楽 共にある! 下に落ちると(0になると)あとはゼロ以上ですよ^^ノ こうゆう人もいます^^ノ
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カルマについての話も聞きたいです!
一切皆苦なんて聞くと、生まれ変わったら一切皆苦でしたみたいな俺の自我が今日も奈落に落とされちゃったよな異世界感があって楽しいですね。釈迦はすでにポストモダン以降の考え方で大好き。じゃあそんな異世界感たっぷりの一切皆苦の奈落で今日をどう生きましょうか?!ゲームのようです。プレイしましょう! ありがとうございます♪。話しがおもしろい!!
一切皆苦。そう思ったら、その通りの人生となるでしょう。
釈迦が言いたかったのは、自分次第でどーにかなることも、無くはないよ? でしょ? つーこと。
「アイゼンは、辛く苦しい旅がしたいのかい?」 勇者ヒンメルが仲間に問いました。
これからの長い旅はそんなんじゃつまんないでしょ。だって自分の人生なんだから。 みたいな
出だしから深い
無気力、無関心、無欲だと真理に辿り着けるのでしょうか?
たどり着けないと思います。
お若い方2人の質問疑問が入るのが、良いですね。
毎回死ぬほど面白い
私も十数年前より仏教の根本的な教えつまり仏陀の教えに触れ救われたものです。古舘さんはキリスト教系の大学を出られていると思いますがそこでは何かキリスト教の教えはあったのでしょうか。
般若心経では「一切皆空」ですが、両者は違う意味ですよね。何故違うんでしょうか。
恨んだり憎んだり苦しんだりってのが虚構、無我だから安心していいっていう感じでいいのかな
それは愛する慈しむ笑い合う、それも虚構だし苦に繋がるものだよという考え方?
なんかもう無我なのに皆苦ってなんだよって思った