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サヤ420は421系に編入。モハ420-21〜23がそれに当たる。当時は423系に新製車は移行していたので、423系の制御車、クハ421は連番でなく飛び番となっている。
実現しなかったけど、サンライズに電源車付けてED76あたりで牽引し、博多まで、という「サンライズあさかぜ」という構想があったらしいと、サンライズ出雲の中で車掌さんから聞いた。で、東京駅で乗車直前のサンライズの方向幕が一瞬「あさかぜ」になるのを見て感動
その方向幕は西担当だった下関あさかぜ置き換え用かとしかし利用率が低迷した下関あさかぜ自体が消滅してSゆめの利用が芳しくないので岡山以西の定期夜行が消えた下関夜行コースのWE銀河が定着してくれたら山陽夜行復活へ希望が見える
試運転での話になりますが、サンライズも機関車牽引で九州を走った実績があります。
サヤ420を旅客用に改造した時代はまだ415という系列は存在していなかった。421系編入が正しい。その後の151系はMT54に換装して181系に編入、セノハチも超えられるようになった。
本州と九州では電源方式が異なっており481、485系が九州方面に導入されるまでの暫定措置ですね。
鉄道が長距離移動の王者だった時代ならではの珍運用でしたね。
3:40 「ツーショットダイヤル等の利用をしない・させない 見のがさない」🤣🤣🤣
鹿児島本線内での所要時間が妙に長いなと思ったが、なるほどこういう事情か。
151系は181系化改造が行われて山陽本線でも多数が継続使用されていましたよ。その後徐々に運用を減らして山陽本線を去ったのは1968年ではなく山陽新幹線開業後の1973年でした。
1970/昭和45年時点でも181系はクロハ181を1号車に繋ぎ、モロ2両入れて[しおじ]に運用されていました(その年実際に乗りました。徳山~大阪間)
@@SleeperExpressJNR 梅小路蒸気機関車館が1972年10月に開業してますが、その頃なんとか特急しおじの運用を新大阪と下関間の一往復を担当していましたね。この頃梅小路に来たC622を使ってイベント列車を走らせてたから競演シーンが見れたかも?181系の山陽運用のラストは1973年5月25日だったようです。
SL白鷺号ですね。ただし時間帯がズレていたので181系とは共演しませんでした。それに複々線区間ですが同じ線路を共有していました。西明石から姫路までは複線区間ですが!
@@もりわききくお そうでしたね、確か1972年10月オープンでしたが、181系の運用もしおじ一往復は継続したのでしたが、受け持ち列車が変わってました。でも梅小路オープンしてまもなく子供の頃の記憶で、向日町には確かにパーラーカー編成がいて興奮した事覚えてます。今思えば東へ転出への改造待ちだったのでしょうね。
その後クロハは改造によりクハ181型となりその他も合わせて耐寒耐雪改造を受けて新潟運転所上沼垂支所へ転属しました。名目は特急とき増発ですが。実際は485系を向日町運転所に新制配置されています。この新制で特急なはがキハ82系から485系化されました。その他にも特急つばめの増発などにもあてられました。
その後、92年に復活車両は787系で博多から西鹿児島まで運転
手っ取り早く電化させるために交流電化としたのがこの電車にとっては仇となりましたね。下関でEF30とサヤ420を連結、さらには門司で電気機関車を取り替えていたのは意外でした。
このために、わが故郷の駅にも停車してくれたのだから、ありがたい。
下関~門司間には交直流デッドゾーンがあることもあり、そのための電気機関車を付け替える作業は、九州に乗り入れるブルートレイン(寝台特急)でもよく行われていました。
デッドセクションは電車一両分の距離では全然足りなかったのですね。でしたら下関からサヤを連結していたのも理解できます。客車列車での両駅での機関車の連結、解放は何度も見ておりました。
@@TSUYOS185 ただ、デッドセクションは他にもある(例えば、取手、黒磯、米原や永原の先(今は敦賀の先だけど)等)。なのに機関車を2回取り換える運用は、なぜか関門トンネル前後のみなのは、謎。
@@kataakeo7730いや、59-2までは、「きたぐに」だと、大阪~EF58~米原~DE10~田村~EF70だったが😉
無動力運転は横軽のあさまやそよかぜがありましたね。向こうは8両の制限がありましたが。
サヤ420は421系のモハ420型に編入ではないですかね?415系の製造開始はもっと後のはず
つばめという名前は東海道新幹線が開業する前は東京〜大阪・広島 東海道新幹線が開業してからは名古屋・新大阪〜博多 山陽新幹線が全線開業後は博多〜西鹿児島 九州新幹線が開業してからは新幹線の名前になっています。
新大阪から博多は結構時間かかるな!当時は関西九州方面の夜行列車がバリバリあったから、昼行で行くしかないな。
へな?😜
いいですよね〜関門トンネル通過😂哀愁の新下関(なかなかのガランドウ😅)辺りから、下関乗り換えで九州に向かえ〜✊な電車旅はタマりませんな😆🚇️(※経験済みの者です😅)
このノウハウがあって、後年電車特急有明が当時非電化だった豊肥本線に乗り入れることができました、のオチかと。
昭和40年代初頭の国鉄時代には、臨時急行第二天草観光号(小倉~三角)という少し変わった列車がありました。この列車非電化区間を走行するにも関わらず、列車番号は9111M・9112Mとなっており、長らくの間九州に151系のつばめが乗り入れた形式で三角線内を走行していたと思っていました。しかし最近手に入れた時刻表では、熊本で電車から気動車(もしくは気動車から電車)に乗り換えという注意書きがあったので、急行型電車が機関車牽引で三角線内を走行していたという訳ではなかったことが最近分かりました。
歴史は繰り返す⇒ロイヤルエクスプレス
続き 今はもうないと思うが、特急スワローあかぎ は、このなぞなぞの答えに通じる。
調査不足が目立つね昨日今日始めたビギナーではないのだから内容を精査して
つばめは481系化されましたが、151系は181系に改造されて、はと、しおじで新幹線岡山延伸直後まで運用があったとの事。また151系ではうずしおも残った。481系がすぐに投入出来なかったのは、まず北陸本線のしらさぎ、雷鳥の営業運転が遅れ、慣らし運転が必要だったという噂。新大阪〜九州の距離で電車のトラブルは避けたいからという話。余談ですが東日本用483系の開発時にても、一旦151系の交直化改造の上充当という話もあったと他の動画で聞いた。
特急はとはヨンナナサンダイヤ改正まではヨンサントウダイヤ改正以降583系で運用されていましたがこの改正で直流区間だけになったので181系になった。ただしゴールデンウィークには1往復が485系で増発されていて秋までにはすべて485系になった。その特徴を活かして岡山から本来下関だったのを大分まで多客期には延長をしています。なお最後まで181系で残ったしおじ下り1号と上り4号は1973年5月25日を最後に485系化され特急とき増発名目で新潟運転所上沼垂支所へ転属しています。
サヤ420が415系に編入されたと言うけどこの形式の製造初年はたしか1971年だったのでは?
421系の間違いですよね!
@@續賢治 御解答有難うございます それにしても暫定処置とはいえこの珍形式 二度とお目にかかることはないでしょう がこの約22年後 熊本からほんの数km豊肥本線に乗り入れた有明のために 車掌車を改造した電源車が活躍したね 特急車両そのものよりDLと電源車に魅入られたファンが結構多かったそうですよ
@@6128-r3fワイは客車列車好きの為、列車番号的に「客車列車」だったので乗った😁
絵面が碓氷峠
この時の経験が後世の、言い方があれだが九州地区の珍編成の礎となったのだから決して無駄ではない。車両もきちんと減価償却期間全うしたんだし。
151系は上り坂では力不足だったのだね。モーター出力は通勤型の101系と同じ100kw(MT46)で制御器も共通。101系の登場時は全電動車で歯車比も低速向きの1:5.6151系は高速向きで1:3.5でしかもMT比が1:1だから登坂力は不足ですよ。のちに出力を120kwに向上させて181系に改番されました。
近郊型の111系→113系→115系、急行型の153系→165系と似た経緯ですね。
@@eagle404s 113系は111系の出力アップ版で、115系と165系は出力アップ版で抑速ブレーキ&戻しノッチを装備ですね。
ずっと後、153系が晩年に山陽本線で普通列車をやっていた頃。113・115系は2M2Tでセノハチを登れたけれども153系は4M2Tでも登れず、補機がわりにクモニを連結して走っていたと聞いたことがあります。
どっちかっつーと(抑速)ブレーキじゃない?😋
電車がどんなに混んでも決して立たない鳥はなあに? というなぞなぞを考えた。答えは言うまでもない。
サヤ420だな
いちぶで「は」が「wa」読みと「ha」読みが逆になってるところがありましたね。無粋ですみません…
「ゆっくりVoice」には難しいんですよ。
@@By-Gaeshi それはそうですね
当時すでに481系が開発され、年末には特急雷鳥と特急しらさぎで運用が始まっていましたがなぜか特急つばめと特急はとは151系の継続運用になってしまった。わずか1年後には481系になったにも関わらず!クロ151型も利用者は殆どおらず後に改造されクロハ151型になりました。機関車や、電源車を用意するくらいなら最初から481系を使用したほうが良かったのでは?と今も思います。
481系の投入は1964/昭和39年12月の[雷鳥]から。この時点ではまだ481系は登場前。寧ろ車輛の有効活用の意味で151(181)系が継続使用されたもの。電源車として用意されたサヤ420は最初からショートリリーフを前提にし、僅かな手直しでモハ420に復元できるようにしてあった。後のモハ420-21~23。正確には415系ではなく421系。481系が登場するとこれに[選手交代]、181系は専ら山陽本線内の[しおじ]中心に運用されその後161系と統合され中央東線や上越線の特急に転用された。
東海道新幹線からの連絡特急を手っ取り早く走らせるにはこの方法しか無かったのでは?481系の成功、さらには151系の場合はパワー不足で早期の取り替えが行われたのが幸いと言うところです。
単純にリソースが足りなかったんだよ。国鉄は運営が全国区で、当時は日本中で近代化にまい進していて電化も電車製造も各地で順番待ちだった。有りものを何とかして使わないと足りなかった。
確かに481系は正確には12月25日からの運用になっています。でも新幹線新大阪開業時にはすでに新製されていたけれど、試運転とか富山付近の複線化を待っての運転でした。山陽、九州方面へ優先して使うこともできたはずです。そして余った151系は特急しおじや当時のしおかぜで使用ししてその間に151系の181系への改造をすればわざわざ電源車を用意する必要性もなかったのでは?
なんか水前寺有明を思い出すなー機関車に曳かれる特急電車なんてのは。
あー、アレね…なんか、東日本でも「葉っピーきよさと」てのが似たような方式で169系(元·急行「かもしか」用)が小海線に乗り入れてた記憶がある。新宿〜小淵沢間は自走、小海線内はDD16による牽引でサービス電源用に12系客車を追加した。
あれは九州新幹線開業時まで運用されていたのですか?
@@kataakeo7730 さま。「有明」の水前寺乗り入れの件でしたら、豊肥本線の部分電化(熊本〜肥後大津)により、電車車両単独乗り入れと成りました。
151系が撤退したのは1973年5月25日です。それくらいは調べてから動画に上げなさい。常識です。それに特急こだまの151系デビュー当時は6時間50分で、6時間半になったのは特急つばめ電車化時です。この時一時的に特急はとの愛称は消えていますが、サンロクトウダイヤ改正で復活しました。また特急つばめ電車化時に食堂車が連結されるようになりました。ちなみに当時特急こだまのデビュー時はわずか8両編成でビュッフェ車のモハシ150型が唯一の食事できる車両でした。
なぜ命令口調なんですか?
@@inojyou1 動画を上げるということは誰が見ているか?わからないってことです。だからもっと正確に調べるなりしたほうが良いってことです。わからなければ調べるとか、詳しい人に聞くとかすれば良いだけです。知っている人は知っているのです。
@@もりわききくお さまどういう動機でコメントしたのかを聞いているのではありません.なぜ“命令口調で”コメントされたのかを尋ねているだけです.
動画をすれば上げると言うことはそれだけみんなが厳しい目で見ていることでしょう!それならちゃんと調べるくらいしなさいということだ。そういうことに詳しい人はいくらでもでいるということを知ってほしい。間違った動画は絶対あげてはならない。もし間違いに気づいたらその後で訂正するくらいの配慮が必要だ。
なんでそんなに偉そうなの...😅😮💨😔絶対ってそんな肩ひじ張らなくったっていいじゃない。間違いは誰にでもあるし所詮素人が趣味で作ったものなんだから。情報を受け取る側の問題。視聴者側を甘やかしているだけです。
ワタガシってのがサヤ420の動画でED72って書いてあったので、ED73だろって書いたらコメントみんな消してやがった笑笑。
コッペパンさんお久しぶりです!!!!!👏👏👏👏👏神様御降臨なさってファンファーレ&マーチを移植しましょう!ついでに、名前をコッペパンからハンバーバー🍔🍔🍔🍔🍔に改名志麻せんか?爆
九州を直流電化してればこんな問題は一切起きない
九州地区は交流電化が有利とされたため。交直切替の接点は関門トンネルを抜けた門司駅構内とされたのも妥当な判断。
@@SleeperExpressJNR 四国や山陰を直流電化してるのに九州を交流電化する合理的理由などありません
@@okhan 全くもってその通り
@@okhan 交流電化する合理的理由があるのは地磁気観測所周辺・新幹線・北海道の旭川-小樽・室蘭間ぐらいだろうと思う。地方3セクとかは、いずれ直流化しないと車両調達で詰みそう。いざとなったらディーゼルにするのかもしらんが。
この頃の九州の国鉄は首都圏や関西ほど列車本数がなかったのと早期の電化を要請されたことから交流電化としたのでしょう。しかし現在の鹿児島本線は直流区間と変わらないほどの過密ダイヤ。今後100年のことを考えると、鹿児島本線や日豊本線、福北ゆたか線など密度の高いところは直流電化に切り替え、電化されていても本数の少ないところは架線を外してYC1クラスの電気式気動車としても良い気がするのですが、、
サヤ420は421系に編入。モハ420-21〜23がそれに当たる。当時は423系に新製車は移行していたので、423系の制御車、クハ421は連番でなく飛び番となっている。
実現しなかったけど、サンライズに電源車付けてED76あたりで牽引し、博多まで、という「サンライズあさかぜ」という構想があったらしいと、サンライズ出雲の中で車掌さんから聞いた。で、東京駅で乗車直前のサンライズの方向幕が一瞬「あさかぜ」になるのを見て感動
その方向幕は西担当だった下関あさかぜ置き換え用かと
しかし利用率が低迷した下関あさかぜ自体が消滅して
Sゆめの利用が芳しくないので岡山以西の定期夜行が消えた
下関夜行コースのWE銀河が定着してくれたら山陽夜行復活へ希望が見える
試運転での話になりますが、サンライズも機関車牽引で九州を走った実績があります。
サヤ420を旅客用に改造した時代はまだ415という系列は存在していなかった。421系編入が正しい。
その後の151系はMT54に換装して181系に編入、セノハチも超えられるようになった。
本州と九州では電源方式が異なっており481、485系が九州方面に導入されるまでの暫定措置ですね。
鉄道が長距離移動の王者だった時代ならではの珍運用でしたね。
3:40 「ツーショットダイヤル等の利用をしない・させない 見のがさない」🤣🤣🤣
鹿児島本線内での所要時間が妙に長いなと思ったが、なるほどこういう事情か。
151系は181系化改造が行われて山陽本線でも多数が継続使用されていましたよ。その後徐々に運用を減らして山陽本線を去ったのは1968年ではなく山陽新幹線開業後の1973年でした。
1970/昭和45年時点でも181系はクロハ181を1号車に繋ぎ、モロ2両入れて[しおじ]に運用されていました(その年実際に乗りました。徳山~大阪間)
@@SleeperExpressJNR 梅小路蒸気機関車館が1972年10月に開業してますが、その頃なんとか特急しおじの運用を新大阪と下関間の一往復を担当していましたね。この頃梅小路に来たC622を使ってイベント列車を走らせてたから競演シーンが見れたかも?
181系の山陽運用のラストは1973年5月25日だったようです。
SL白鷺号ですね。ただし時間帯がズレていたので181系とは共演しませんでした。それに複々線区間ですが同じ線路を共有していました。西明石から姫路までは複線区間ですが!
@@もりわききくお そうでしたね、確か1972年10月オープンでしたが、181系の運用もしおじ一往復は継続したのでしたが、受け持ち列車が変わってました。
でも梅小路オープンしてまもなく子供の頃の記憶で、向日町には確かにパーラーカー編成がいて興奮した事覚えてます。今思えば東へ転出への改造待ちだったのでしょうね。
その後クロハは改造によりクハ181型となりその他も合わせて耐寒耐雪改造を受けて新潟運転所上沼垂支所へ転属しました。名目は特急とき増発ですが。実際は485系を向日町運転所に新制配置されています。この新制で特急なはがキハ82系から485系化されました。その他にも特急つばめの増発などにもあてられました。
その後、92年に復活
車両は787系で博多から西鹿児島まで運転
手っ取り早く電化させるために交流電化としたのがこの電車にとっては仇となりましたね。
下関でEF30とサヤ420を連結、さらには門司で電気機関車を取り替えていたのは意外でした。
このために、わが故郷の駅にも停車してくれたのだから、ありがたい。
下関~門司間には交直流デッドゾーンがあることもあり、そのための電気機関車を付け替える作業は、九州に乗り入れるブルートレイン(寝台特急)でもよく行われていました。
デッドセクションは電車一両分の距離では全然足りなかったのですね。でしたら下関からサヤを連結していたのも理解できます。
客車列車での両駅での機関車の連結、解放は何度も見ておりました。
@@TSUYOS185 ただ、デッドセクションは他にもある(例えば、取手、黒磯、米原や永原の先(今は敦賀の先だけど)等)。なのに機関車を2回取り換える運用は、なぜか関門トンネル前後のみなのは、謎。
@@kataakeo7730いや、59-2までは、「きたぐに」だと、大阪~EF58~米原~DE10~田村~EF70だったが😉
無動力運転は横軽のあさまやそよかぜがありましたね。向こうは8両の制限がありましたが。
サヤ420は421系のモハ420型に編入ではないですかね?
415系の製造開始はもっと後のはず
つばめという名前は東海道新幹線が開業する前は東京〜大阪・広島 東海道新幹線が開業してからは名古屋・新大阪〜博多 山陽新幹線が全線開業後は博多〜西鹿児島 九州新幹線が開業してからは新幹線の名前になっています。
新大阪から博多は結構時間かかるな!
当時は関西九州方面の夜行列車がバリバリあったから、昼行で行くしかないな。
へな?😜
いいですよね〜関門トンネル通過😂
哀愁の新下関(なかなかのガランドウ😅)辺りから、下関乗り換えで九州に向かえ〜✊な電車旅はタマりませんな😆🚇️
(※経験済みの者です😅)
このノウハウがあって、後年電車特急有明が当時非電化だった豊肥本線に乗り入れることができました、のオチかと。
昭和40年代初頭の国鉄時代には、臨時急行第二天草観光号(小倉~三角)という少し変わった列車がありました。この列車非電化区間を走行するにも関わらず、列車番号は9111M・9112Mとなっており、長らくの間九州に151系のつばめが乗り入れた形式で三角線内を走行していたと思っていました。しかし最近手に入れた時刻表では、熊本で電車から気動車(もしくは気動車から電車)に乗り換えという注意書きがあったので、急行型電車が機関車牽引で三角線内を走行していたという訳ではなかったことが最近分かりました。
歴史は繰り返す⇒ロイヤルエクスプレス
続き 今はもうないと思うが、特急スワローあかぎ は、このなぞなぞの答えに通じる。
調査不足が目立つね
昨日今日始めたビギナーではないのだから内容を精査して
つばめは481系化されましたが、151系は181系に改造されて、はと、しおじで新幹線岡山延伸直後まで運用があったとの事。また151系ではうずしおも残った。481系がすぐに投入出来なかったのは、まず北陸本線のしらさぎ、雷鳥の営業運転が遅れ、慣らし運転が必要だったという噂。新大阪〜九州の距離で電車のトラブルは避けたいからという話。余談ですが東日本用483系の開発時にても、一旦151系の交直化改造の上充当という話もあったと他の動画で聞いた。
特急はとはヨンナナサンダイヤ改正まではヨンサントウダイヤ改正以降583系で運用されていましたがこの改正で直流区間だけになったので181系になった。ただしゴールデンウィークには1往復が485系で増発されていて秋までにはすべて485系になった。その特徴を活かして岡山から本来下関だったのを大分まで多客期には延長をしています。なお最後まで181系で残ったしおじ下り1号と上り4号は1973年5月25日を最後に485系化され特急とき増発名目で新潟運転所上沼垂支所へ転属しています。
サヤ420が415系に編入されたと言うけどこの形式の製造初年はたしか1971年だったのでは?
421系の間違いですよね!
@@續賢治
御解答有難うございます それにしても暫定処置とはいえこの珍形式 二度とお目にかかることはないでしょう がこの約22年後 熊本からほんの数km豊肥本線に乗り入れた有明のために 車掌車を改造した電源車が活躍したね 特急車両そのものよりDLと電源車に魅入られたファンが結構多かったそうですよ
@@6128-r3fワイは客車列車好きの為、列車番号的に「客車列車」だったので乗った😁
絵面が碓氷峠
この時の経験が後世の、言い方があれだが九州地区の
珍編成の礎となったのだから決して無駄ではない。
車両もきちんと減価償却期間全うしたんだし。
151系は上り坂では力不足だったのだね。
モーター出力は通勤型の101系と同じ100kw(MT46)で制御器も共通。
101系の登場時は全電動車で歯車比も低速向きの1:5.6
151系は高速向きで1:3.5でしかもMT比が1:1だから登坂力は不足ですよ。
のちに出力を120kwに向上させて181系に改番されました。
近郊型の111系→113系→115系、急行型の153系→165系と似た経緯ですね。
@@eagle404s
113系は111系の出力アップ版で、115系と165系は出力アップ版で抑速ブレーキ&戻しノッチを装備ですね。
ずっと後、153系が晩年に山陽本線で普通列車をやっていた頃。113・115系は2M2Tでセノハチを登れたけれども153系は4M2Tでも登れず、補機がわりにクモニを連結して走っていたと聞いたことがあります。
どっちかっつーと(抑速)ブレーキじゃない?😋
電車がどんなに混んでも決して立たない鳥はなあに? というなぞなぞを考えた。答えは言うまでもない。
サヤ420だな
いちぶで「は」が「wa」読みと「ha」読みが逆になってるところがありましたね。
無粋ですみません…
「ゆっくりVoice」には難しいんですよ。
@@By-Gaeshi それはそうですね
当時すでに481系が開発され、年末には特急雷鳥と特急しらさぎで運用が始まっていましたがなぜか特急つばめと特急はとは151系の継続運用になってしまった。わずか1年後には481系になったにも関わらず!クロ151型も利用者は殆どおらず後に改造されクロハ151型になりました。機関車や、電源車を用意するくらいなら最初から481系を使用したほうが良かったのでは?と今も思います。
481系の投入は1964/昭和39年12月の[雷鳥]から。この時点ではまだ481系は登場前。寧ろ車輛の有効活用の意味で151(181)系が継続使用されたもの。電源車として用意されたサヤ420は最初からショートリリーフを前提にし、僅かな手直しでモハ420に復元できるようにしてあった。後のモハ420-21~23。正確には415系ではなく421系。481系が登場するとこれに[選手交代]、181系は専ら山陽本線内の[しおじ]中心に運用されその後161系と統合され中央東線や上越線の特急に転用された。
東海道新幹線からの連絡特急を手っ取り早く走らせるにはこの方法しか無かったのでは?
481系の成功、さらには151系の場合はパワー不足で早期の取り替えが行われたのが幸いと言うところです。
単純にリソースが足りなかったんだよ。国鉄は運営が全国区で、当時は日本中で近代化にまい進していて電化も電車製造も各地で順番待ちだった。有りものを何とかして使わないと足りなかった。
確かに481系は正確には12月25日からの運用になっています。でも新幹線新大阪開業時にはすでに新製されていたけれど、試運転とか富山付近の複線化を待っての運転でした。山陽、九州方面へ優先して使うこともできたはずです。そして余った151系は特急しおじや当時のしおかぜで使用ししてその間に151系の181系への改造をすればわざわざ電源車を用意する必要性もなかったのでは?
なんか水前寺有明を思い出すなー
機関車に曳かれる特急電車なんてのは。
あー、アレね…
なんか、東日本でも「葉っピーきよさと」てのが似たような方式で169系(元·急行「かもしか」用)が小海線に乗り入れてた記憶がある。
新宿〜小淵沢間は自走、小海線内はDD16による牽引でサービス電源用に12系客車を追加した。
あれは九州新幹線開業時まで運用されていたのですか?
@@kataakeo7730 さま。
「有明」の水前寺乗り入れの件でしたら、豊肥本線の部分電化(熊本〜肥後大津)により、電車車両単独乗り入れと成りました。
151系が撤退したのは1973年5月25日です。それくらいは調べてから動画に上げなさい。常識です。それに特急こだまの151系デビュー当時は6時間50分で、6時間半になったのは特急つばめ電車化時です。この時一時的に特急はとの愛称は消えていますが、サンロクトウダイヤ改正で復活しました。また特急つばめ電車化時に食堂車が連結されるようになりました。ちなみに当時特急こだまのデビュー時はわずか8両編成でビュッフェ車のモハシ150型が唯一の食事できる車両でした。
なぜ命令口調なんですか?
@@inojyou1 動画を上げるということは誰が見ているか?わからないってことです。だからもっと正確に調べるなりしたほうが良いってことです。わからなければ調べるとか、詳しい人に聞くとかすれば良いだけです。知っている人は知っているのです。
@@もりわききくお さま
どういう動機でコメントしたのかを聞いているのではありません.
なぜ“命令口調で”コメントされたのかを尋ねているだけです.
動画をすれば上げると言うことはそれだけみんなが厳しい目で見ていることでしょう!それならちゃんと調べるくらいしなさいということだ。そういうことに詳しい人はいくらでもでいるということを知ってほしい。間違った動画は絶対あげてはならない。もし間違いに気づいたらその後で訂正するくらいの配慮が必要だ。
なんでそんなに偉そうなの...😅😮💨😔
絶対ってそんな肩ひじ張らなくったっていいじゃない。間違いは誰にでもあるし所詮素人が趣味で作ったものなんだから。
情報を受け取る側の問題。視聴者側を甘やかしているだけです。
ワタガシってのがサヤ420の動画でED72って書いてあったので、ED73だろって書いたらコメントみんな消してやがった笑笑。
コッペパンさんお久しぶりです!!!!!👏👏👏👏👏神様御降臨なさってファンファーレ&マーチを移植しましょう!ついでに、名前をコッペパンからハンバーバー🍔🍔🍔🍔🍔に改名志麻せんか?爆
九州を直流電化してれば
こんな問題は一切起きない
九州地区は交流電化が有利とされたため。交直切替の接点は関門トンネルを抜けた門司駅構内とされたのも妥当な判断。
@@SleeperExpressJNR
四国や山陰を直流電化してるのに
九州を交流電化する合理的理由などありません
@@okhan 全くもってその通り
@@okhan
交流電化する合理的理由があるのは地磁気観測所周辺・新幹線・北海道の旭川-小樽・室蘭間ぐらいだろうと思う。地方3セクとかは、いずれ直流化しないと車両調達で詰みそう。いざとなったらディーゼルにするのかもしらんが。
この頃の九州の国鉄は首都圏や関西ほど列車本数がなかったのと早期の電化を要請されたことから交流電化としたのでしょう。
しかし現在の鹿児島本線は直流区間と変わらないほどの過密ダイヤ。
今後100年のことを考えると、鹿児島本線や日豊本線、福北ゆたか線など密度の高いところは直流電化に切り替え、電化されていても本数の少ないところは架線を外してYC1クラスの電気式気動車としても良い気がするのですが、、